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カタカナのお題目には気を付けて下さい
理事
松村秀一
日本からの「ビッグ・ストーリー」は期待していません
仕事柄、専門書の類は色々と書き散らかしてきましたが、
この秋、恥ずかしながら一般の方にも読んで頂ける新書を
出版しました。
「ひらかれる建築-『民主化』の作法」(ち
くま新書、2016 年 10 月刊)という本です。
一般の方にも伝わりやすいようにと、20 世紀以降の建築
に関わる歴史について自分自身の理解を整理した上で、今
起こりつつある新しい事柄について考えるという内容にし
ました。少し俯瞰的な書きぶりのこの本の目次を英訳して
アメリカ人の友人に送ったところ、是非中身を読んでみた
いので英訳したものをアメリカで出版してはどうかと誘われました。そこで、全体の概要
を英訳して彼に送り、彼がそれをアメリカやイギリスの出版関係者に見せて相談してみる
ということになりました。すぐに、最初に彼が相談したというアメリカの出版関係者から
のいささか否定的な反応が伝えられてきました。曰く「アメリカの読者は、日本からこう
いう『ビッグ・ストーリー』が出てくることを期待していません。」
なるほどなと思いました。日本から発信されるものには、先端的で細やかな技術の詳細
やエキゾチックな独自文化の味わいに関する情報は求めているものの、現代社会を考える
上での歴史観や新しい枠組みについての発信は期待していないというのです。そう言われ
てみると、これまでもそうだったなあと妙に納得させられました。
借り物のお題目の効用?
実際のところ、日本でも時代認識や未来に向けての方向性、つまりある種のビッグ・ス
トーリーを語るのに、外国で考え出された抽象的な概念をそのまま借りてくるやり方がよ
く見られます。ビッグ・ストーリーを丸ごと借りてくるということです。しかも、厄介な
ことに外国語を簡単に日本語化できるカタカナがあるため、抽象的な概念そのものの深い
意味についての考察や、背後にあるビッグ・ストーリーについての理解がなくても、誰で
も気楽に使えるものに変えられます。多くの人が、日本語ならもう少し吟味するだろうと
ころを、カタカナ語だとスキップしてわかったような気になりがちです。
この 10 年程の間、私たちの仕事関係でもよく目にしてきたもので、背後にある思想やビ
ッグ・ストーリーについての吟味や熟考をスキップさせがちな言葉に限ってみても、
「サス
テナビリティ」、「イノベーション」、
「グローバル」などがあります。これらの言葉は、否
定はおろか吟味の対象にもなかなかなりません。政府の方針においても、大学の研究体制
においても、お題目として無批判に使われているケースが散見されます。かくいう私も、
気楽に使ってしまっているケースがままあります。
「サステナビリヒティ」っていうけれど、何を「サステナブル」つまり持続可能にすれ
ば良いと思ってこの言葉を使っているのですか?「イノベーション」っていうけれど、私
にとってどうして「イノベーション」が必要なのでしょうか、私の人生の豊かさとどうい
う関係にあるのかよくわからないのですが?「グローバル」っていうけれど、お金や物資
が国境を越えて動いている現実はわかるにしても、それをもっと進めればどういう良きこ
とがあるのかしら?
こんな質問をしていると話が前に進まないので、ともかくも話を前に進めたがる大勢の
人たちからは「理屈っぽい」と疎んじられます。だから、多くの人が「教科書にそう書い
てありましたから」という乗りで、無批判にカタカナのお題目を受け入れ、更にはそれを
自分の活動に基盤を与えてくれるものという理解までして、とにかく前に進んでいこうと
するのです。何とも不安な状況です。自分一人でちゃんとこいでいるつもりの自転車を、
実は誰かが後ろで支えてくれていて、その手が離れるとたちまち転んでしまうのではない
か。日本社会全体に対するそういう不安です。
生身の人間として疑ってみること
私も学生の頃はそうだったとは思いますが、学生のレポートや口頭発表などを見ている
と、カタカナのお題目のいわば「鵜呑み」的なものが多くて、少しがっかりさせられます。
企業の若手の方が発表する場面に立ち会うこともありますが、そこでも同じような光景を
目にします。発表者の方の考えではなく、新聞に書いているようなこと、政府が発表して
いるようなこと、報道番組が取り上げているようなことが、まるで誰もが納得したことの
ように素直にそのままお題目になっているのです。
「これなら、新聞を読んでいれば、或い
はテレビの報道番組を観ていれば良いわけで、わざわざあなたの発表を聞く意味はありま
せん」と、いささか辛口のコメントを言いたくもなるというものです。
ビッグ・ストーリー或いはカタカナのお題目は社会全体についてのものなので、自分に
は云々する能力はありませんというような答えも予想されますが、それらも生身の自分と
どう関係があるかという点に立ち返って考えてみれば、何か疑問に思う点が出てくるはず
です。素朴に疑ってみること、そこから新しい未来への自分なりの思考が始まる筈です。
若い方々には、そうやって自分の芯のようなものを作っていってほしいものです。そして、
日本からだって期待されるべきビッグ・ストーリーが生まれるのだよというところを、世
界に見せてあげられればなあと思います。
カタカナのお題目に出会ったら、先ず生身の人間として疑ってみてください。
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻 教授