J. R. R. Tolkien における「悪」の根元とその超克 A Victory over the

人間環境学会『紀要』第1
6号 Sept. 2011
<論文>
J. R. R. Tolkien における「悪」の根元とその超克
―妖精物語と道徳律を通して―
栄 本
和 子*1
A Victory over the Origin of Evil in J. R. R. Tolkien
―through Fairy-Stories and Moral Code―
Kazuko Eimoto*1
In The Hobbit(1937) and The Lord of the Rings(1954―55), J. R. R. Tolkien(1892–1973)
uses his Hobbit characters1, Bilbo Baggins and Frodo Baggins, to explore the ‘evil’ hidden in
the innermost recesses of the soul. This ‘evil’ can manifest itself as urges for power and fortune. Tolkien proposes a way to victory over this inherent evil. In this paper, I will identify the
‘evil’ which Tolkien thinks leads human psyche to ruin and examine his original point of view
concerning how we can overcome the temptations of our ‘evil’ spirits.
*1
Kanto Gakuin University; 1―50―1, Mutsuurahigashi, Kanazawa-Ku, Yokohama 236―8503, Japan.
key words:妖精物語(Fairy Stories)
、第一の世界(The Primary World)
、
第二の世界(The Secondary World)
、道徳律(Moral Code)
1. 序
論
言語学、文献学、中世文学の研究者であり、特に、Beowulf2や北欧伝説の権威である John Ronald
Reuel Tolkien は、言語学と古い時代への興味から、北欧神話や伝説に材料を借りて妖精物語を書い
た。彼はそれらを「神話の現代化」と呼んでいる。The Hobbit と The Lord of the Rings は、彼の
想像力が創り出した、現実とは別の世界における冒険・闘いの物語であり、
“Epic Fantasy”
、また
は、
“Heroic Fantasy”と呼ばれている。
2
0歳代前半で従軍した第一次世界大戦での体験と現代科学技術文明の価値観に対する反発と批判
精神が、彼を中世趣味と空想物語へと向かわせ、現実から逃避できる架空の世界、
「中の国」
(“middle earth”
)を生み出した3。イギリスの田園や北欧の伝承に対する憧れが結晶した“middle earth”
*1
関東学院大学人間環境学部現代コミュニケーション学科;〒2
36―8
50
3 横浜市金沢区六浦東1―5
0―1
― 75 ―
には、妖精、小人、竜、巨人、魔法使い、木の鬚や人間など、不思議な生き物が登場する。生き物
たちは、高潔な者から欲深く利己的な者まで、その性格はきわめて人間的である。その不思議の国
の住民が繰広げる「指輪」をめぐる闘いを通して、Tolkien が描くさまざまな人間像と、彼が思い
描く人間の理想像を探っていく。
2. 第 二 の 世 界
創造主である神が創ったわれわれの日常的現実世界を Tolkien は、
「第一世界」
(“The Primary
World”
)と呼ぶ。神が創った「第一世界」に真理が存在するはずであるが、堕落した人間の曇っ
た目には直接その姿を現さない。そこで Tolkien は、真理の源泉は精神や純粋思考(理性)にある
とするプラトン(Plato, 427―347 BC)と同様に、真理は頭の中で創造するしかないと考える。
Plato によれば、肉体の道具(感官)で感覚されるこの世界の個物は、絶えず生成変化している
ため、われわれの眼は物事をいつも別様に見るし、また、同じ感覚的所与が、他者にはいつも別様
に見える。即ち、感覚的経験には常に同一の認識がなく真理がない。したがって、真理の源泉は感
覚ではなく、精神や純粋思考(理性)に求められなければならない。しかし、精神は、そのとき初
めて真理についての知識を得るのではなく、初めから知識を自己の本性によって所有している。そ
れは、それ自体、
「等しいもの」
、
「大きなもの」
、
「小さなもの」
、
「善いもの」
、
「正しいもの」
、
「聖
なるもの」など、総じていかなるものでも、
「実体そのもの」の知識である。それを Plato は、
「概
念」
、
「思想」
、あるいは、
「イデア」と呼ぶ。以前、われわれは、この純粋の思想を魂として精神と
共にいるときに眺めた。そして今、空間と時間の中で感官知に促されて思い出す。肉体という牢獄
に閉じ込められ、この世界の不完全な現実を経験するたびに、
「イデアの世界(魂の故郷)
」で見た
完全な「イデア」を思い出す。そして、
「イデア」に憧れ、そこへ帰ろうとする切ない郷愁に促さ
れて、地上的感覚的な快楽から魂を清め、自己の意志の行為のすべてを「イデアの世界」へ向ける
ようになる。
これに反して、現代的思考は物理的現実を真の現実と考えるのに慣れている。しかし、Plato に
とって、観念的現実は現実を薄めたものではなく、充実した純粋の現実であり、この二つの現実は
全面的に分離しているわけではない。存在は一なるものである。ただし、この一なる存在は、
「原
型的存在」
、
「自然的存在」
、
「人為的存在(芸術品的)
」
、
「イデア的存在」という様相に区別され
る。
「イデア的存在」とは、より強い現実であり真の存在であり、その現存によって他の存在者も
存在を持ち存在に関与する。超越的なものが内在しているのである。このような精神によって、人
間は、あらゆる時間、空間的経験を超え、無時間的世界に入る。しかし、それは決してわれわれの
感覚的世界を見失うことではなく、また理解できない別の世界に逃避することでもない。逆に、精
― 76 ―
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神は感覚的世界を根底において捉える4。
Tolkien にとって、原罪を負い堕落した人間の住む現実世界に真の救いはない。しかし、救いの
道は一つある。芸術である。Plato のいう「人為的(芸術)的存在」である。日常的現実に慣れきっ
ていると、現実に目を奪われ、目に見えるものだけを真実と考えがちである。文学の分野でも、1
7・
1
8世紀にはリアリズムが主流を占めたが、その根には現実主義が横たわり、科学的信仰、現世的利
益追求の風潮があった。Colin Wilson は真理と芸術の関係について次のように述べ、Tolkien の作
品は多数の人々に対して芸術としての任を果たしているとしている。
すべての偉大な芸術は幻想と現実の相違、私たちの目に見える日常世界と、その下にある
真実との相違にかかわる。哲学者が出発点とする認識は、この現実世界には多くの幻想が
あるということ、そして、自分の仕事は真実を突きとめることだという認識である。私た
ちを欺き続けているのは、闘牛士のコートのようなものである。より深い真実、現在とい
うマントの奥にひそむもの、普通の私たちのせまい意識をこえたところにあるものをかい
5
ま見た、という感じを、何らかの仕方で生み出すのが偉大な芸術である。
Tolkien の場合、真理の追究は妖精物語の中でなされる。彼によれば、妖精物語とは、ふつう考
えられているような妖精についての物語ではなく、妖精の国について語る物語である。妖精の国
は、人間の願望を実現するために人間によって創り出される別の世界、つまり、
「第二の世界」
(“the Secondary World”
)である。人間は「第二の世界」を想像力、空想力を駆使して創り出すこ
とができる。このような世界を創り出す行為を、Tolkien は「準創造」
(“Sub-Creation”
)と呼び、
神の創造に準じるものであり、創造主である神に似せて創られた人間に神が与えた権利であるとす
る。Tolkien によれば、人間の精神は現実に存在しないものについての心象を形成することができ
る。この心象を創り出す能力は「想像力」
(“Imagination”
)である。
「真実の内部の調和を創り出
し、理想的な創造を生み出す力」が「技」
(“Art”
)である。それが「想像力」と最終的効果である
「準創造」との間をつなぐ鎖となる。
「想像力」と「技」は、心象から生まれる表現に奇妙さと不
思議さを与える性質を持つ。これを「空想」
(“Fantasy”
)と呼ぶ。
「空想」とは、
「非現実性」
(“unreality”
)
、つまり、
「第一の世界とは似ていないということ」の概念であり、目で見ることのでき
る「事実」
(“fact”
)に執着しない自由の概念であり、高等な芸術形式であって最も純粋に近い。
「第一世界」は有限であり諸々の制約がある。その制約をのり越えたいという願望こそ、
「空想」
を生む原動力となる。
「第二の世界」を準創造することで、この願望を満たすことができる。しか
し、その願望は恣意的なものではなく豊かさを分かち合い創造と喜びを共にすることであると
Tolkien は言う6。
― 77 ―
たとえば、魚のように自由に深海を泳ぎ回りたいとか、鳥のように優雅に空を飛びまわりたいと
か、他の動物の言葉を理解したいとか、時間・空間の深みを探りたいというような憧れや願望は人
間に許される好奇心であり欲求であり、そのような欲求が叶う妖精の国そのものが魔法である7。
妖精の国の魔法はそれ自体が目的ではなく、その働きが人間の持つ根元的な願望の幾つかを満足さ
せることにある。したがって、魔法そのものは決して風刺してはならないし、嘲笑されたり歪めら
れたりすることなく真面目に取り扱われなくてはならない。しかし、妖精の国に「善」や「美」の
みが存在するとは限らない。願望には普遍的なものもあれば、一時代や、ある種の人間だけに特有
のものもある。したがって、出来の悪い「空想」になることも、邪な目的のために用いられること
もある。それを創り出した精神を騙すこともある。堕落した不完全な人間が抱く「空想」だからで
ある。しかし、この「空想」を、技や抑制力のない夢や妄想や幻覚と混同してはならないと Tolkien
は言う8。
3. 空想がもたらす回復・逃避・慰め
トールキンによれば、妖精物語は、
「回復」
(“Recovery”
)
、
「逃避」
(“Escape”
)
、
「慰め」
(“Consolation”
)をもたらしてくれる。
「回復」とは、曇りのない視野を取り戻すことである。私たちの
視野は慣れのせいで曇り、固定観念が出来上がってしまっている。鮮明な視野を取り戻すには、素
直に物事を見る必要がある。それを可能にしてくれるのは、
「創造的空想」
(“Creative fantasy”
)で
あり、それによって、われわれは宝箱に仕舞い込まれていたものを籠の鳥のように解き放ち、曇り
「逃避」とは、目に見える物の世界を超えた世界、即ち、本
のない視野を取り戻すことができる9。
来的なものへと逃避させてくれることである。ここで、
「逃避」という言葉を誤用してはならない。
「第一世界」には、飢え・渇き・貧困・不正・病気・死といったわれわれが根本的に逃れたいもの
や、生き方や労働の仕方を驚くべき速度で変えてしまった文明の利器がもたらす弊害が存在する。
しかし、そのような現実の醜さや苦しみばかりを強調することは、結局は、実生活の背後にある真
理から遠ざかることになる。目に見える現実のみを真理と思い込み、その醜悪さに慣れてしまった
り、ただ嘆き悲しんだりすることこそ、本来的なもの、即ち、神から「逃避」していることになる。
そこで、妖精物語こそ、本来的なもの、真理へと「逃避」すること(近づくこと)を可能にしてく
れるのだと Tolkien は言う10。Peter Milward も、現実のみを強調することなく、目に見える物の世
界を超えた視点を持つことの重要性を次のように書いている。
純然たる文学の見地から見ても、人生を究極的な天国・地獄のコンテキストで捉えること
は、文学に人の心の深さに照応する意味の深さを与える。それは、云わば、物質の世界に、
― 78 ―
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もっと広大な宇宙の方に向かう窓を開け、新鮮な永遠の空気を中に入れるのに役立つので
ある。ところが、現代には、手に触れ、目に見える物の世界を踏み越えるのを妙に拒むと
ころがあって、地獄は悪夢、天国は白昼夢に過ぎないと思いたがる。ただ肉体だけが人間
の実在だとされる。しかし、エリオットが示しているごとく、このように肉のみを強調す
11
ることは、一つの現実逃避―「荒地のうつろなる人間」に典型的な逃避である。
もう一つ、妖精物語が与えてくれるものに「慰め」
(“Consolation”
)がある。それは、
「幸せな
大詰め」
(“Eucatastrophe”
)である。物事の解決に至る大詰めの喜び、不意の好転は、突然の奇蹟
的な恩恵として妖精物語の背景の中に現れる。ただし、初めからそれを期待するのではなく、さま
ざまな悲しみや苦しみの局面を経て初めて「幸せな大詰め」を迎える。その意味で、それは「福音」
であり、根元にある真理を見せてくれるものである12。このような“happy ending”を批判する人
は多い。なぜなら、実生活では究極的に善が敗北し、悪の勝利に終わるという矛盾に数知れず遭遇
するからである。しかし、それにもかかわらず、
“happy ending”で終わる妖精物語は、真実は必
ず存在するのだという希望を与えてくれる。
4. 道徳律―理性と想像力
ルネッサンスからフランス大革命(1
7
8
9年)に至るまで、ほぼ3世紀にわたって、感情や想像力
を抑制すべきだとする理性を中心とした古典主義が主流を占めた。そして、1
8世紀後半から1
9世紀
初頭にかけて、空想的・情感的な傾向、感性の開放、無限への憧れ、秩序と論理への反逆などを特
徴とするロマン主義が花開いた。片や、理性中心、片や、想像力に重きを置く文学の傾向である。
13
9
3
6)
と同様に、理性と想像力は
Tolkien は、自身が強く影響を受けた G. K. Chesterton(1
8
7
4―1
決して対立するものではなく協調し合うものとして捉えている。想像力は人間の自然な活動であっ
て、それは理性を破壊するものでも、軽侮されるものでもなく、科学的真実への渇望を鈍らせるよ
うなものでもない。逆に、理性が明快であればあるほど良い空想が生まれる。もし、人が真理(事
実・あるいは実証)を知りたいと思わず、認識できないなら、空想も衰え消滅していくか、あるい
はまた、
「病的な妄想」と成り果てる。即ち、創造的空想は事実に隷属することなく、あるがまま
の物事をはっきりと認識する理性を基礎とする14。
Tolkien が妖精物語の中で追い求めたものは、神から与えられた理性がわれわれにどのように働
くのか、また、それをわれわれがどのように行使すべきかという点であって科学的真実の追究では
ない。そのことについて Tolkien は、
“Nature is no doubt a life study, or a study for eternity (for
those so gifted); but there is a part of a man which is not ‘Nature’, and which therefore is not obliged to
― 79 ―
1
5
study it, and is, in fact, wholly unsatisfied by it.”
と述べている。つまり、自然は永遠の研究課題で
あるが、人間における「自然」でない部分は、
「自然」によっては満たされない部分であるという
のである。これは、超経験的な世界についての認識は論理理性には不可能であるとするカント
(Kant, 1724―1804)の説に近似している。
Kant は、科学的(数学的・物理学的)認識の範囲を、超個人的主観(認識一般)としての時間・
空間・カテゴリーによって形成される経験の世界に限定した。即ち、外界からの刺激なしには、わ
れわれは対象を認識することができない。したがって、われわれの認識の及ぶ範囲は現象界に限ら
れる。この点で、
「物自体」の世界の認識としての形而上学は論理学としては成立しない。但し、
Kant は、自然科学の対象としての形而上学は否定したが、形而上学そのものを否定したわけでは
ない。
「物自体」の世界への願望を信仰や人間の道徳の領域において確立させた。そして、
「物自
体」の世界への展望を許す「実践理性」は「理論理性」に対して優位に立つとしている。
Kant は「実践理性」の根本法則として、
「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理
16
という命法を立てる。自己の命令に自己が従うという良心の命
として妥当するように行為せよ」
令である。この自分で自分を律するという行為の中にこそ真の自由がある。この自由は、いかなる
政治権力、物理的圧力にも屈しない自由であるが、自己の欲望の奴隷に成り下がるような恣意的で
独断的なものであってはならない。つまり、人間の本質と一体化している倫理の根本的事実である
「自由」と「当為」が共存されなければならない。この命令は、幸福(快楽)を増進し、不幸(苦
痛)を減少させるのが善であり、その反対を悪とするイギリスの幸福主義のようなものではなく、
無条件に純然たる法則そのもののための行為であって、ただ、ひたすらに義務のために善を行う意
志のうちにある。
最高の徳と最高の幸福が結びついたものを、Kant は、「最高善」とする。但し、現実においては、
道徳と幸福とは必ずしも原因、結果の関係にはない。しかし、われわれは、生を通じて「最高善」
を追求すべきであり、また、その幸福に値するものとなることができる。つまり、永遠の彼方にお
いて「最高善」を実現するのである。そこで、Kant は、
「最高善」を実現するために、
「神の存在」
と「魂の不死」とを欠くことのできない前提として要請する17。
Rings の主人公、Frodo は、道徳的な精神を潜在的に持ち合わせている若者である。Frodo は、
指輪を「モルドール」
(“Mordor”
)の「オルドルイン」
(“Orodruin”
)
、別名、
「滅びの山」
(“Doom
Mountain”
)まで運び、それを破壊するという任務を課せられることになるが、いかなることが
あってもその指輪を指にはめてはならないと、Gandalf18から固く禁じられていた。しかし、指輪の
誘惑に抗うことは至難の業であり、Frodo の手はときおりポケットに入れた指輪に伸びる。Frodo
にとって、今、危機から逃れ、欲求を満たすことは善(幸福)である。そのためには指輪を使用し
さえすればよい。しかし、それでは、悪が永遠に存続することになる。Rings における指輪は、
― 80 ―
J. R. R. Tolkien における「悪」の根元とその超克
「悪」そのものの象徴である。したがって、
「悪」そのものを破壊するためには、現在の善(幸福)
を諦めなければならない。ここで指輪の使用を選ぶことは、Kant のいう条件付きの行為である。
つまり、
「もし、今、幸福なら、・・・せよ」という「仮言命法」に従うことになる。指輪を使用
しない行為こそ、真に望ましい「定言命法」にしたがった無条件の道徳的行為と言える。Michael
Straight が、
「堕落し易い人間が条件付きの善に直面したとき、指輪保有者の義務とは何か。現在
の善のために、現在の悪を行使し、それによって悪の永続を確実にすることか。あるいは、悪その
ものを破壊しようとして現在の利得(幸福)を否定することか」と述べているように19、Rings の
テーマは本質的にモラルであり、Frodo と指輪との関係によって象徴される個人の「義務」であ
る。Rings における Frodo の「義務」は、まさしく Kant の「定言命法」に従うことであり、この
点において Kant と Tolkien の「義務」に関する見解は一致している。
しかし、歴史に関する見解は Tolkien と Kant の間では大きく異なっている。Kant にとって宗教
は道徳に還元され、義務は神の掟と見なすべきであり、宗教は「道徳律」を強化するように努める
べきものとして捉えられている。宗教の発達の目標は、歴史的信仰を純粋な理性の信仰に解消する
ことであり、神の子としてのキリストは歴史的人物ではなく単に倫理的原理の擬人化された理念に
すぎない。キリストによる啓示、恩寵、奇跡も言葉どおりに理解することはできないとしている20。
対照的に、Tolkien は歴史を重視し、キリストの「福音書」は、あらゆる妖精物語の真髄を包含す
るような偉大な物語を含み、救われたいという人間に絶大な喜びを与えるものであるとして、次の
ように書いている。
But this story has entered History and the primary world; the desire and aspiration of subcreation has been raised to the fulfilment of Creation. The Birth of Christ is the eucatastrophe of Man’s history. The Resurrection is the eucatastrophe of the story of the Incarnation.
This story begins and ends in joy. It has pre-eminently the ‘inner consistency of reality’.21
「自由」
、
「神の存在」
、
「魂の不死」の土台の上に立った「実践理性」を提唱しながら、理性信仰
に走りすぎ、心情から発する信仰を否定し、終局的に合理的啓蒙主義にはまり込んでしまった Kant
とは対照的に、Tolkien は、宗教にとっても道徳は必要であるがそれ以上のものであるとする。要
するに、キリストの福音書というは、準創造への願望や憧れが「創造」の実現にまで引き上げられ、
「歴史」
、即ち、
「第一の世界」に入ったというのである。
「キリストの誕生」は、
「人間」の歴史の
幸せな大詰めであり、
「復活」は「神のキリストにおける顕現」の物語の幸せな大詰めであり、そ
の「真実の内部の調和」は卓越しているとする。
― 81 ―
5. 指輪の持つ「悪」の力
Hobbit の続編ともいうべき Rings は、Hobbit の主人公、Bilbo Baggins が宝探しの旅の途中で、
ふとしたことから手に入れた一つの指輪をめぐって織り成される物語である。その指輪を Frodo
が伯父の Bilbo から譲り受けるところから物語は始まる。Frodo は友人の Sam、Pippin、Merry と
2
2
の“Orodruin”へと旅立つ。指輪を“Ordruin”の“Mount Doom”に捨てて破壊
共に、
“Mordor”
するという任務を果たすためである。破壊しなければならないほどの威力を秘めた指輪とは何なの
か。Hobbit は、
“He [Smëagol] wanted it because it was a ring of power, and if you slipped on your finger, you were invisible; only in the full sunlight could be seen, and then only by your shadow, and that
would be shaky and faint”
.と説明している23。Hobbit では、指輪はまだ、はめると姿が見えなくな
る魔法の指輪として機能しているに過ぎない。しかし、Rings では、それは思いもよらないほどの
威力あるものとして登場人物たちの上に働き始める。この指輪は、遠い昔、エルフ(Elf)たちに
よって教えられた技術を駆使してサウロン(Sauron)が作ったものである。したがって、この指
輪は Sauron そのものであり、
「悪」そのものである。この指輪を使用すれば完全に姿を消すこと
ができる。つまり、他者の理性を惑わし支配することができることを意味している。しかし、同時
に、よほどの器量を持つ者でないかぎり、自分自身がその意志と理性を弱められ、指輪の魔の力に
抗うことができなくなり、Rose A. Zimbardo が言うように、指輪の力を使用する一なる者は、存在
者全体から除去される24。生存者はすべて現実世界において時間の cycle に従属している。全体の
永続性は変化にあるからである。しかし、この指輪は時間をも捉えるため、指輪の所有者は、この
時間の cycle からも除去されてしまう。つまり、指輪の所有者は、精神において、生きる者はすべ
て同列にあるという正常な理性が働かず、神からも見放され生きる屍となる。そのことを Gandalf
は Frodo に警告する。
A mortal, Frodo, who keeps one of the Great Rings, does not die, but he does not grow or obtain more life, he merely continues, until at last every minute is a weariness. And if he often
uses the Ring to make himself invisible, he fades: he becomes in the end invisible permanently, and walks in the twilight under the eye of the dark power that rules the Rings.25
偉大な指輪の一つを持つ者は、死ぬはずの者も死なず、年も取らず活力もなくただ生き続け、一
刻、一刻が、倦怠となり、もし、頻繁に指輪を使用して姿を隠せば、次第に薄れていき、最後には、
永遠に姿が見えなくなり、指輪を支配する暗黒の目に見張られながら薄明かりの中をさ迷い歩くこ
― 82 ―
J. R. R. Tolkien における「悪」の根元とその超克
とになるというのである。そして、この指輪には、古代文字である火文字で、Elf の伝承詩の最後
の2行が刻み込まれている。
One Ring to rule them all, One Ring to find them,
One Ring to bring them all and in the darkness bind them26
この指輪の威力は、
“It[The ring] is far more powerful than I [Gandalf] ever dared to think at first, so
powerful that in the end it would utterly overcome anyone of mortal race who possessed it. It would
2
7
だと Gandalf から聞かされた Frodo は、それほど恐ろしい力を持つ指輪なら預かっ
possess him.”
てほしいと頼むがきっぱりと断わられる。なぜなら、その指輪は、偉大な力を持つ者には、さらに
恐ろしい危険をもたらすからである。それを手に入れたいと望むだけで心は堕落させられる。たと
え、弱者を憐れみ、善をなそうとする意図から指輪を行使して Sauron を倒したとしても、その者
は、必ず自らを Sauron の座に据えようとする。同じことが繰り返されるだけである。したがって、
その指輪は、永遠に破壊してしまわなければならないのである。
人間の理性を惑わし、支配欲をかりたてる力について、Patricia Meyer Spacks は、
「悪」の根元
「高慢」や「我意」
は、
「高慢」
(‘pride’
)や「我意」
(‘self-will’
)であると述べている28。では、
はどこから生じるのか。それは自我と他我の分離に起因する。アダムとエバがこの世の初めに「エ
デンの園」にいたとき、彼らの自我と他我はまだ分離していなかった。しかし、われわれの自我と
他我の間には歴然とした壁が横たわり、自ずと、われわれの意志は自我の上に集中する。自我の利
益、他我に対する優越意識(高慢)
、他我を自我に従属させようとする欲求など、諸々の「悪」は
すべて自我と他我の分離から生じるのである。このようなことが個々の間だけではなく、一なる自
我と全体としての他我の間に生じるとき、事態は最も悲惨となる。Rings は、一なる自我が、世界
の中心に座り、他我全体を支配しようとすることの恐ろしさを告げ知らせている。
Gandalf が Frodo に向かって、
“As long as it[Ring]is in the world, it will be a danger even to the
29
と言うように、Sauron でさえ元来
wise. For nothing is evil in the beginning. Even Sauron was so”
「悪」なるものではなかったし、また逆に、善良な Elf でさえ、労せずして金銀財宝を手に入れよ
「善」と「悪」の間に明確な境界はない。自分
うとしたこともあったのである30。つまり、元来、
の意志を内にのみ向けるのではなく、外に、即ち、他我にも向け、意志を正しく働かせるとき、他
者を支配したいという誘惑から逃れられる。それには、
「定言命法」によって自己を厳しく律する
ことだというのが Tolkien の主張である。
Tolkien は、意志を善用する者と悪用する者を、それぞれの登場人物を対応させて提示する。Gandalf と Saruman、Elf と Orc、Garadriel と Shelbo、Theoden と Denethor、Frodo と Sméagol は、そ
― 83 ―
れぞれ、互いに、鏡に映るもう一つの自分の姿である。前者は、いずれも、意志と理性を正しく働
かせることによって意志を善用しようと努める者たちであり、後者はいずれも、意志を悪用し堕落
する者たちである。既に意志と理性を正しく働かせていない後者は、さらに理性を鈍らせる支配の
指輪を渇望する。Sméagol も Saruman も、Boromir も、そして Denethor もすべて、高慢と支配力
に対する欲望のために堕落してしまう。Saruman は Sauron に取って代わろうとしたし、Boromir
も自分の種族のために指輪の力を欲したが、結局、Saruman と同じように Sauron に取って代わろ
うとしたにすぎない。Boromir の父、Denethor も自分と自分の種族のことのみを考え指輪を欲し
た。そして、息子の死を嘆くよりも前に、指輪を獲得し損なったことへの落胆と絶望のために自殺
する。高慢も絶望も、キリスト教では大きな罪である。Theoden は、Wormtongue の誘惑に乗せら
れて意志を麻痺させられていたが、Gandalf の助けを借りて理性を取り戻すことができた。
Tolkien は、
「善」と「悪」を、
「自然」と「文明」に対比させている。Sauron が支配する暗黒の
国、
“Mordor”では、Orc たちや奴隷たちが数々の武器や多くの者を皆殺しにする発明道具を作り、
歯車、機械仕掛け、火薬など、手を使わずに済むものを喜んで使用している。機械がすべての作業
をするため、仲間同士の協力がなくても済むからである。Tolkien にとっては、文明の利器はます
ます自我と他我を分離させるものであり、文明の道具の使用は自然を損ない、心を貧しくさせるも
のであり、文明と精神の向上は一致しないものである。
文明の国、
“Mordor”と対照的に描かれるのが、Hobbit たちが住む「庄」
(“Shire”
)である。平
和を愛する者たちが住み田園はよく耕されている。彼らは、昔ながらの道具を用い、武器や複雑な
道具の扱い方は知っているが普段は敢えて使おうとしない。自分の手を行使するため、そこには協
力の心が生まれ、自我と他我の分離が、文明の道具を使用する者たちほど明白なではない。ルソー
31
が提言するような自然に近い環境で暮らす小人の Hobbit たち
(Jean−Jacques Rousseau, 1712―78)
は、個人の欲求をコントロールできる種族であり、Tolkien の理想像である。しかし、彼は安穏な
生活がよいと言っているわけではない。Wilson が、
「進化をうながすこの衝動[真実に対する渇
望]は、すべての作中人物が経験している衝動―冒険を求めよう、旅に出ようという衝動―にきわ
32
と言うように、人間の成長を Tolkien は、外的進化では
めてはっきり象徴されているではないか」
なく、精神的な内的進化に求め、それを奨励している。
6. 想像力の勝利
指輪を作った張本人の Sauron の心を占めているのは欲望と権力への渇望である。それが物事を
判断する基準である。その点にこそ彼の弱点がある。たった一つの方法でしか物事を判断すること
ができない以上、自分とは違った考え方があるとは考えられない。権力を一手に引き受ける指輪を
― 84 ―
J. R. R. Tolkien における「悪」の根元とその超克
持ちながら、それを破壊しようとする者がいるなどとは思いもよらない。Auden が言うように、
Sauron に想像力があれば、つまり、自分自身を破滅させる指輪の力を知る者なら、指輪を破壊し
ようとするだろうということを想像できていれば、
“Mordor”に座って指輪の持ち主が到着するの
(“Gondor”
)
を待っていればよかったのである33。しかし、想像力に欠ける Sauron は「ゴンドール」
を攻撃し、戦いに敗れ倒れる。
Frodo が指輪を“Mordor”まで運び破壊することができたのは、指輪を自分のものにすることが
いかに危険で恐ろしいことであるかを想像することができたからである。堕落した人間に生得的に
存在する自我と他我の壁を取り除いてくれるのは、他我への愛であり、同情であり、慈悲であり、
謙虚さであり、協力心であり、義務の「道徳法則」である。Bilbo、Fodo、Aragorn、Farmir のよ
うに、元々、
「正しい理性と意志を具えた者」は自己の利益にのみ基づいて物事を判断したりせず、
たとえ、犠牲を払ってでも、他我の利益となるべく普遍的に正しい行為をしようと努める。
Hobbit でも Rings でも、大事な局面での「協力」が重要なキーワードとなる。Hobbit では、終
盤、
「はなれ山」
(“Erebor”
=“single-mountain”
)に住む亀の Smaug が、Bard という男によって倒
されるが、このことを Collin Wilson は、
“Erebor”での待機場面は、普通の妖精物語ならば、Bilbo
が巧妙な計略により竜を殺すだろう。しかし、Hobbit では、竜は湖の人々の一人、Bilbo によって
ほとんど独断的に舞台裏で殺されてしまうと、批判している34。伝統的叙事詩に則れば、Wilson の
主張はもっともである。しかし、この場面では、Bard の登場が不可欠である。Bilbo 一人に武勲を
立てさせるには、彼は小さい人であり、協力者が必要である。一方、Bard も彼一人の力で竜を倒
したわけではない。Bilbo が勇気を奮って竜の弱みを発見したことが、ツグミによって Bard に伝え
られたからである。ひとりで完遂することができなくても、何らかの形で協力があれば物事を成就
できる。Rings でも、Aragorn たちの西方の将軍たちが、
“Mordor”の正門である「黒門」周辺で
敵を引きつけて戦ってくれていなかったら、Frodo と Sam は目的地にたどり着くことができなかっ
たであろう。最終的な目的がどうであれ、
“Mount Doom”への道案内をしてくれた Sméagol の協
力も見逃すことはできない。ここには普通の英雄叙事詩ではない、キリスト教の「協力」のテーマ
が潜んでいる。
7. 誘 惑 と 理 性
Frodo と Sam は、途中で Shelbo や Orcs の妨害を受けたり、食料や飲料水の不足に苦しんだり
しながらも、強い精神力で、目的地である“Ordruin”の火口の底にある「滅びの裂け穴」
(“Crack
of Doom”)へ歩を進める。しかし、その間、Frodo の理性を指輪が誘惑し続ける。幾度となく Frodo
の手は指輪に伸びるが、疲労と不眠と空腹に喘ぎながらも、わずかに残された理性と Sam の献身
― 85 ―
的な行為によって指輪の誘惑を振り払いながら、Frodo は“Ordruin”にたどり着く。Sam の場合
は、完全に自我意志を打ち負かす他我への愛と自己の限界を悟る謙虚さによって指輪の誘惑に打ち
勝つ。しかし、Frodo は目的完遂の一歩手前で、とうとう、指輪の誘惑に抗しきれず、
“The Ring is
3
5
と叫んでしまう。そのとき、横合いから Sméagol が飛び出てきて、指輪をはめた Frodo の
mine!”
指もろとも火の中に落ちて行く。指輪を“Mount Doom”まで運び、破壊してしまうという重大な
責務を、自分の意志によって選択し、さまざまな妨害と誘惑に耐え目的地にたどり着き、
“Crack of
Doom”を目の前にしながら、力尽きた Frodo は、精神の内なる分身とも言える Sméagol を自分の
中から追い出すことができず、指輪の力に負けてしまう。指輪は Frodo 自身が破壊する前に、
Sméagol によって破壊されることになってしまったのである。
しかし、
「悪」と闘うことを自らの責任として引き受けた行為と、Sméagol に対する慈悲の行為
がフロドの運命を決定した。正しい行為に向けて自己を律する意志と理性、つまり、
「道徳的自由」
を行使した Frodo は、神の恩寵によって善い運命に導かれた。その意味で、Rings の宇宙は、S. T.
8
3
4)の The Rime of the Ancient Mariner(1
8
1
7)と同様に、慈悲深い宇宙であ
Coleridge(1
7
7
2―1
る36。そこでは、すべてを支配する運命は恣意的ではなく、調和と秩序のある力の存在が働いてい
る。もしも、Frodo が“Mount Doom”で何のためらいもなく指輪を“Crack of Doom”に投げ捨て
ていたら、Auden が言うように、それは、堕落している人間が救われ永遠となり終末を迎えるこ
とを意味する37。だが、目に見えない恩寵の力を借りて、ようやく、指輪は破壊された。
Sauron が倒れ、
“Mordor”の崩壊とともに、
“Middle earth”の第三期が終わり Aragorn たち人
間の国の復活とともに第四期が始まる。そのとき結婚が相次ぐ。Faramir と Ëowyn、Aragorn と Arwen、Sam と Rose が結婚する。これらの結婚は、かつて一体であったアダムとエバが不服従の罪
によって分離して以来、人間の上に重くのしかかってきた自我と他我の分離の罪が、指輪の破壊と
ともに解消され、結婚によって再び一体化されるという可能性を示唆している。Aragorn たち人間
が築く国、
“Gondor”の都市、
“Minas Tirith”は、
「エデンの国」となる希望の可能性を暗示した都
市である。
指輪の旅を終えて、
“Shire”に戻った Frodo は、
“middle-earth”を去る Elf と共に灰色の港から
出発して行く。それは、Frodo の罪は死をもって贖われることを意味している。Frodo が故郷の
“Shire”で余生を幸せに暮らすという展開にはならない。それは Tolkien の世界観とは違う。
Tolkien は、あくまでも、この世を堕落した世界として見、人間は原罪を持った者として見る。そ
して、彼岸こそ、その堕落した人間が永遠に救われる場所だと考える。
Sam は、去り行く Elf の Galadriel から、一つの季節で苗を若木にさせてしまう‘magic dust’を
託され、Saluman たちによって荒廃させられた“Shire”の木々を元に戻す。その Sam に子どもが
誕生する。このことは、種族保存の危機からの脱却と、
‘middle-earth’における生と歴史が未来
― 86 ―
J. R. R. Tolkien における「悪」の根元とその超克
へと続くことを予感させる。
結
論
Tolkien の関心は人間の心の奥に潜む「悪」の根元を探り、それを克服する道を探求することで
ある。しかし、
「悪」の存在を完全に抹消することは難しい。人間において「悪」は外からやって
くるものではなく精神の内にあり、精神のうちに自らを破滅に追い込む原因を潜ませているからで
38
である Hobbit 族の Frodo を通して、Tolkien は、
「善」を
ある。しかし、
「小さい人」
(“halfling”
)
完遂することの可能性を示唆する。つまり、堕落した人間を救ってくれる道を、理性と想像力で編
んだ妖精物語に、そして、
「実践理性」によって普遍的な善行為に導いてくれる道徳法則に見出す。
さらに、彼の心を捉えたのは「時間」
、つまり、
「終末」についてである。Gandalf が、
“Yet it is not
39
と言うように、それを知ることはわれわれの能力を超
our part to master all the tides of the world.”
えている。われわれにできることは、
「終末」を、ただ待ち望むのではなく、ひたすら、
「善」に生
きることである。そこにこそ、真の救いに至る道があるとトールキンは告げる。
「善」と「悪」を対比させて描く Rings は、キリスト教の思想が中心をなし、
“middle-earth”
における倫理構造は複雑な近代小説のそれに比べて単純である。そのためか、Rings はアレゴリー
だとの批判を受けることがある。しかし、その背後には、本稿では言及しなかったが、政治、経済、
女性の生き方の問題等も提起されているし、貴族社会への批判と取れる Elf の行為も描かれている
くだり
し、近代文明を率いる資本家に対する批判と取れる件もある40。ただし、それらは決して押し付け
9
6
3)たちと作っていた文学的集まりの名
がましい主張ではなく、Tolkien が C. S. Lewis(1
8
9
8―1
前、
‘The Inklings’
(語源は「うすうす感じる」
)のように、それと気づく読者には感じ取ることが
できるものである。
Sauron の指輪に対する執着は、全体主義の恐怖を感じさせ、現代の世界にも警鐘を鳴らすもの
41
という Gandalf の言葉は Tolkien
である。それにもかかわらず、
“While there’s a life there’s hope!”
の世界観であり、我々人間に希望を抱かせてくれるものである。
【注】
1. The Hobbit, The Lord of the Rings の物語が展開される“middle earth”に登場するホビット族で小人である。茶
色の毛が頭にも足にもふさふさと生えていて忍び足の名手で平和で臆病で、地中に掘りぬいたトンネルのよう
な穴に住んでいる。
2. ゲルマン諸語の叙事詩の中では最古の部類に属する作品で、8世紀から9世紀に成立したとされており、英雄
ベオウルフの冒険を語る叙事詩である。J. R. R. Tolkien の研究がその後のベオウルフ研究に与えた影響は大き
い。ファンタジーの源流とも言える内容を持ち、The Hobbit, The Lord of the Rings への影響も大きいことは
よく指摘されている。
― 87 ―
3. Lin Carter, Tolkien: A Look Behind the Lord of the Rings(New York: Wildside Press, 2008)によれば、Tolkien
は、“middle earth”
(
「中の国」
)という言葉を、
“人間の土地”を表すために使っている。
2。
4. ヨハネス・ヒルシュベルがー著、高橋健一訳『西洋哲学史』
、古代第一巻(東京、理想者、1
98
0年)
、pp.
1
15―8
5. コリン・ウイルソン、吉田信一訳「トールキンの樹」
、
『子どもの館』2
1(1
97
5年2月)
、2
4。
6. J. R. R. Tolkien, “On Fairy-Stories,” in Poems and Stories (London: George Allen and Unwin, Ltd., 1980), pp.155―
56.
7. Tolkien, “On Fairy-Stories”, p.173.
8. Tolkien, “On Fairy-Stories”, pp.122―28.
9. Tolkien, “On Fairy-Stories”, p.166.
10. Tolkien, “On Fairy-Stories”, p.167―75.
1
1. ピーター・ミルワード著、別宮貞徳訳『キリスト教と英文学』
(東京、中央出版、1
9
8
0年)
、p.
1
2
3。
1
2. Tolkien, “On Fairy-Stories”, p.175.
10。
1
3. G・K・チェスタトン著、福田恒存・安西徹雄訳『正統とは何か』
(東京、春秋社、1
97
3年)
、pp.
7
1―1
14. Tolkien, “On Fairy-Stories”, p.162.
15. Tolkien, “On Fairy-Stories”, p.184.
16. イマニュエル・カント著、波多野精一、宮本和吉、篠田秀雄訳『実践理性批判』
(東京、岩波書店、1
97
9年)
、
p.
72。
0。
17. ヒルシュベルガー『西洋哲学史』近代第三巻、pp.
41
6―3
18. 人間の姿をしたエルフで、サウロンの力に対抗するべく使わされた使者であり、2
0
0
0年くらい「中の国」で暮
らしている(The Lord of the Rings III, Appendix A, B を参照)
。
19. Michael Straight, “Fantastic World of Professor Tolkien,” New Republic, CXXXIV(January16,1956):24−26.quoted in
R.J.Reilly, “Tolkien and the Fairy Story,” in Tolkien and the Critics; Essays on J. R. R. Tolkien’s the Lord of the
Rings, ed.Neil D. Isaacs and Rose A. Zimbardo(London:Univ.of Notre Dame Press, 1969), p.134.
20. ヒルシュベルガー『西洋哲学史』近代第三巻、pp.
4
31―3
3。
21. Tolkien, “On Fairy-Stories”, p.179.
22. Lin Carter, Tolkien: A Look Behind the Lord of the Rings(New York: Wildside Press, 2008)によれば、暗黒の
王国モルドールはアングロ・サクソン語でモーソー(mor∂or)と言い、
『ベオウルフ』では、
「殺人」を示し、
他に、「罰、苦悶、悲惨」の意味を持つ単語を母胎としている。
23. J. R. R. Tolkien, The Hobbit (London: George Allen & Unwin, Ltd., 1976), p.85.
24. Rose A. Zimbardo, “Moral Vision in The Lord of the Rings,” in Tolkien and the Critics; Essays on J. R. R.
Tolkien’s the Lord of the Rings, p.106.
25. Tolkien, The Lord of the Rings, I, (Boston: Houghton Mifflin Company, 1965), p.56.
26. Tolkien, The Lord of the Rings, I, p.59.
27. Tolkien, The Lord of the Rings, I, p.56.
28. Patricia Meyer Spacks, “Power and Meaning in The Lord of the Rings,” in Tolkien and the Critics; Essays on J.
R. R. Tolkien’s the Lord of the Rings, p.92.
29. Tolkien, The Lord of the Rings, I, p. 281.
30. Tolkien, The Hobbit, p.164.
31. ジャン・ジャック・ルソー著、本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起源論』
(東京、岩波文庫、1
972年)
。ルソー
は、あらゆる文明と、それに伴う社会の人為性が自然的な人間生活を歪め社会不平等を助長し今日の社会悪を
もたらしたとして自然状態を提唱する。
3
2. コリン・ウイルソン、
『トールキンの樹』
、p.
2
2。
3
3. W. H. Auden, “The Quest Hero” in Tolkien and the Critics,” in Tolkien and the Critics; Essays on J. R. R.
Tolkien’s the Lord of the Rings, p. 57.
3
4. コリン・ウイルソン、
『トールキンの樹』
、p.
2
1。
3
5. Tolkien, The Lord of the Rings, III, p.223.
― 88 ―
J. R. R. Tolkien における「悪」の根元とその超克
36. Samuel Taylor Coleridge, “The Rime of the Ancient Mariner,” in Coleridge Poetical Works (Oxford: Oxford University Press, 1980).
37. W. H. Auden, “The quest hero,” in Tolkien and the Critics, p.60.
38. Tolkien, The Lord of the Rings, III, 155.
39. Tolkien, The Hobbit, p.268.
40. Tolkien, The Hobbit, p.310, p.344.
41. Tolkien, The Hobbit, p.223.
要
約
5)において、J.R.R.Tolkien(1
8
9
2―1
9
7
3)
The Hobbit(1
9
3
7)、The Lord of the Rings(1
9
5
4―5
は、富や力を渇望して止まない人間の心の奥に潜む「悪」の存在とその克服について、Hobbit 族
の Bilbo Baggins と Frodo Baggins の姿を通して描いている。本稿では、人間の精神のうちに自らを
破滅に追い込む「悪」の正体と、いかにそれをのり越えていくべきかという Tolkien の視点を考察
した。
― 89 ―