2016_1022_キリスト教講座 第6回受講者

「今さら聞けない!?キリスト教講座」第6回配布資料(2016.10.22)
キリスト教の歩み(5)
―近現代のキリスト教―
はじめに―前回の振り返りと補足
前回は、近世・近代・現代のキリスト教の歩み、時代的に申しますと、1500 年くらいから現在
に至るまでの時代のなかで、とくに、宗教改革の時代を中心にお話をいたしました。
前回も申したことですが、1501 年から始まる 16 世紀という世紀は、キリスト教にとっては非
常に大きな変化があった世紀でありました。この世紀は、宗教改革の世紀とも言われますが、プロ
テスタントが登場したのもこの世紀でしたし、そのようななかで、わたしたちの聖公会のルーツで
あります英国国教会が誕生するのもこの世紀でした。また、日本との関係では、最初に日本にキリ
スト教が伝えられたのもこの世紀でした。
今回は、宗教改革の後の時代について、おおよそ、17 世紀から現代に至るまでの時代を、副題
を、近現代のキリスト教として、話を進めていくことにしたいと思います。
ただ、日本とキリスト教の最初の出会いの一断面については、たとえ、その後、日本が鎖国をす
ることによって、キリスト教との関係が途絶えてしまうことがあるにしても、やはり、特筆すべき
こととして、少し触れておいた方がよろしいかと思います。
日本に最初にキリスト教が伝えられた年はよく知られています。1549 年です。当時の日本は室
町時代(戦国時代という言い方もなされますが)であり天文年間でした。伝えた人はフランシスコ・
ザビエルというスペイン人のイエズス会士であります。新しく誕生したイエズス会という修道会の
宣教師でありました。パリのモンマルトルで、イグナティウス・ロヨラらとともに誓いを立て、承
認された後、イタリアで宣教活動をしていましたが、ほどなくポルトガル王の要請を受けて、イン
ドに向かって、リスボンを出発しました。ゴアを中心に活躍、そこで伝道神学校を設立、その後、
マラッカとモルック諸島にも伝道、そのマラッカで鹿児島出身のヤジロウと出会い、それが日本に
来るきっかけとなり、ヤジロウにはゴアで神学を学ばせ、1549 年 8 月 15 日に、二人の会士とと
もに鹿児島に上陸しました。ザビエルは上陸すると、島津家の当主である島津貴久と会見し、布教
を開始しました。日本での滞在は、1551 年 11 月までの2年3カ月という短い期間でしたが、そ
の間に、平戸、博多、山口、京都、大分等にて活動しました。ゴアにいる友人に宛てた手紙に、当
時の日本人の様子が記されています。
ただ、日本人に本格的に宣教するためには、日本に精神的に影響を与えている中国について知る
必要があり、まずもって、そこで布教しなくてはならないことを痛感したザビエルは、一度ゴアに
戻り、ふたたび中国に向かいますが、その途中で熱病に倒れて逝去してしまいました。1552 年 12
月3日、47 歳のことでありました。ザビエルが蒔いた種は、その後、日本の地において開花する
ことになり、それから80年近くの間、日本が鎖国するまで、キリスト教が日本で布教されること
になることは周知のことです。ここでは、その後の詳細については省略しますが、キリスト教の歴
史に日本が顔を出したのは、明治時代が始めてでなかったことを、また、この時代は、キリスト教
の歴史にとっても実に大きな変革の時代であったことを、改めて確認しておきたいと思います。
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「今さら聞けない!?キリスト教講座」第6回配布資料(2016.10.22)
宗教改革後のキリスト教について
さて、宗教改革後の時代については、前回の講座の最後のところで、ドイツの教会史家でありま
すカール・ホイシの次の言葉の引用をしました。もう一度引用させていただきます。
16 世紀の教会を分裂させた対立がいかに深刻なものであったにせよ、……キリスト教そのものが真
理であるという点に関しては一致していた。……18 世紀、さらに進んで 19、20 世紀においてこの
前提は動揺するに至り、西欧的世界観の統一は解消してしまった。もはやキリスト教の真理は神学的
問題提起の前提ではなく、かえって神学的問題の対象となったのである。……313 年(キリスト教寛
容令)ないしは 380 年(キリスト教国教化)以来 18 世紀に至るまで、地中海世界・西欧世界の文化
はまったくキリスト教的であったのに、18 世紀以降、……多くの点でコンスタンティヌス大帝以前
の時代を想起させる状況となり、この傾向は、19 世紀にはさらに進んで、20 世紀に極まるのである」
(『教会史概説』119~120 頁)
キリスト教が布教され、信奉されている地域に関して言うならば、その地域において、宗教と言
えば、キリスト教であり、そこに生きる人びとにとっても大前提であったと言うことができるのは、
ローマ帝国がキリスト教を公認した辺りから、この宗教改革の時代くらいまでであった、というこ
とになるようです。宗教改革後の時代になると、キリスト教を、そこに住む人びとにとっての暗黙
の前提として扱うことは次第に難しくなっていくということがあります。みんなが神様、キリスト
様を信じているという前提で扱うのは危険であるということであります。それが、時代区分で言わ
れるところの、近代であり、現代なのであります。もちろん、わたしたちが属しているのは、その
ような現代という時代なのであります。
ただ、このホイシという人は、ドイツで活躍した教会史家でありますから、かなりヨーロッパ大
陸のことを中心に語っているようにも思います。たしかに、ヨーロッパでは、近代になると、キリ
スト教の勢力が必ずしも伸張せずに、キリスト教を前提としないような思想も登場してきますし、
場合によっては、キリスト教や宗教を否定するような思想も登場してまいります。
しかし、世界のキリスト教に目を向けるならば、それは、キリスト教がヨーロッパから次第にほ
かの大陸へ、たとえば、北アメリカへ、あるいは南アメリカへ、あるいはアフリカへと広がってい
ったということでもあります。
さて、近現代のキリスト教に関連する質問ということですが、じつは正直なところ、ほとんどあ
りませんでした。無理に絞り出すのもどうかと思いますので、今回は、近現代のキリスト教の概要
を中心に述べるという形で、話を進めていくことにします。
近代のキリスト教
改めて確認しておきますと、近代については、おおよそ、17 世紀半ばから 19 世紀までの時代と
いうことで捉えておきたいと思います。さらに、近代のキリスト教については、ヨーロッパのキリ
スト教とアメリカのキリスト教の二つに分けて、話を進めることにいたします。
そこでまずは、ヨーロッパのキリスト教についてですが、ヨーロッパでは、近代に入り、いわゆる自
然科学の発達が見られるようになってきます。一つの例をあげますと、それまで長いこと支配的であっ
たのが、2世紀のギリシアの天文学者であるプトレマイオスの唱えた天動説ですが、16 世紀に入ると、
ポーランドの天文学者であるコペルニクスが地動説を唱えるようになります。当初は多くの人びとの反
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対に遭いますが、イタリアのガリレイやドイツのケプラーの実験、そしてギリスのニュートン(1642~
1727)の万有引力の法則の確立によって、地動説は実証されるようになっていきます。このような実証
的な態度こそが、今日にまで至る自然科学の精神に源となっていると言ってよいでしょう。
また、このような自然科学を支える考え方として、人間の有する理性を重視する合理主義という
考え方が登場してきます。もちろん、それまでも人間の理性を重視するという考えは存在しており、
それこそ、キリスト教よりも古い西洋哲学の歴史を形成してきたわけですが、近代に先立つ中世の
時代には、人間の理性は、あくまでも神との関係において考えられる傾向が強かったのですが(基
本的な理解としては、人間の精神は、「神の像」として造られた、という旧約聖書の理解が根底に
働いていました)、この近代という時代になりますと、神を信仰するかどうかという、いわゆる宗
教の問題を外において、人間の理性をそれ自体として考えていく傾向が強くなってまいります。フ
ランスの哲学者であるルネ・デカルトはその代表的な人物であると言ってよいでしょう。そのデカ
ルトの有名な言葉に、「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」というものがあります。
かれは、自らの感覚をはじめ、さまざまな認識の在り方を疑っていきますが、その中で、疑ってい
る自分だけは疑うことができないという立場から、このような言葉を語るようになったとも言われ
ますが、こうしてかれは、考える主体としての「我=自己」を非常に重視します。そしてそのこと
により、この世界には、三次元を占める物体という存在と、考える主体のように三次元を占めるこ
とはないけれども、思惟する存在の、二種類の存在を考えます。こうして、人間が固有に有してい
る「考える・意識する」という在り方が、その後の思想の中で大きな影響を与えることになります
が、他方で、この世界に存在する三次元を占める物体については、それとは別の原理で存在してい
ることになり、このような考えが、自然科学の発達を支えていくことにもなるのです。
さて、このような徹底的に疑っていく中で、より明晰なものを高く評価しようとする態度は、キ
リスト教のうちにも押し寄せてまいります。
*
たとえば、イギリスでは、神学の分野で、理神論という考え方が現われます。それは、17 世紀の
終わりから 18 世紀にかけて現れてくるものであり、非常に簡単に言うと、理性によって明らかにな
る限りでの信仰のみを重視し、これを信ずるという考え方であります。代表的な人物のなかに、ジョ
ン・トーランドやマシュ・ティンダルという人がいます。トーランドの『神秘的でないキリスト教』
(1696)という作品は、その題名からして、キリスト教の中から、その神秘的な要素、つまり、一
見すると、理性で説明することが難しそうなものを排除しようとする態度が垣間見られるでしょう。
もちろん、自然科学や合理主義等の影響によって、ただちに、キリスト教が衰退してしまったと
するのはあたらないでしょう。むしろ、そのような考え方の反動として、新たなキリスト教の動き
が生まれてくることも確かなのであります。たとえば、ジョン・ウエスレーは、そのような中で生
まれてきたとも言えるでしょう。ウエスレーと言えば、メソジスト派の祖として有名でありますが、
かれが若い時に影響を受けたのが、理神論の考え方に異議を唱えたウイリアム・ローの『敬虔で聖
なる生活への招き』(1728)という作品であると言われています。かれは、オクスフォード大学
で学ぶ中で、弟のチャールズと共に、神聖クラブの指導者となりますが、ある一定の方法で、規則
正しく生活・学習することからメソジストと言われるようになります。その後、米国宣教に際して、
モラヴィア派(フス派の一派)との交流からも影響を受け、キリストの救済、聖霊の感化を、自己
の魂の回心、再生という体験的な方法で理解し、福音に生きる喜び・救いにあずかった者がそれに
相応しい敬虔な生活を送ることを重要視します。1739 年には野外説教を開始します。日に3~4
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回の説教をしながら、イギリス全土を巡り、これを 52 年間続けて、その間に 36 万キロを踏破し、
4万回の説教を行ったと言われています。また、かれは集会(society)、班(band)などを組織
したり、会員証の発行を徹底したりしていき、かれ固有の活動を展開したとも言えるでしょう。最
後まで、かれ自身は聖公会に留まっていたのですが、その死後は、その共鳴者たちは、メソジスト
派として国教会から分離することになります。
この時代には、ウエスレーの働きだけではなく、これと前後して、イギリスにおいて宣教団体が
登場していることも記憶に留めておきたいと思います。すなわち、わたしたちの日本聖公会にとっ
ても、その原点となる、海外福音宣教協会(SPG=Society for the Propagation of the Gospel in
Foreign Parts
1701 設立)と英国教会宣教協会(CMS=Church Missionary Society
1799 設立)
が誕生することになります。
ところで、聖公会の内部には、低教会派、高教会派という傾向が存在していました(この関連で、
本来ならば、広教会派を加えた方がよいとは思いますが、ここでは説明の関係上、横に置いておく
ことにします)。低教会派というのは、福音派とも言われ、個人の回心や聖化を重んじ、実践的、
伝道的活動に熱心であり、礼拝においても、簡素な祭服や所作を特徴としました。かれらの動きは、
ウエスレーの活動と共鳴しあうところも少なからずありましたが、他方で、高教会派というのは、
教会の権威、歴史的主教制、礼拝の儀式等に高い評価を与えるものでした。次の世紀の 19 世紀に
なりますと、イギリスの聖公会の内部において、このカトリック的な要素を見直そうとする動きが
生じてきます。オクスフォード大学を舞台としたことから、オクスフォード運動と呼ばれるもので、
トラクト(時局論集)を中心に展開したことから、「トラクト」運動とも呼ばれたりします。1833
年キーブルが、政府がアイルランドの十教区を財政的理由から削減したことを「国家的背教」とい
う説教により非難します。イギリスの国教会は、使徒継承によるカトリック教会であり、国家の法
令により変えられるような人間的制度ではないことを強調します。ピュージー、ニューマンも協調
しますが、途中で、ヘンリー・ニューマンがカトリックに移ることになりますが、この一連の運動
が聖公会に与えた影響は小さくないものがありました。
*
また、カトリック教会の大きな勢力であったフランスでは、宗教改革以降、しばらくはその勢力
を保ちますが、合理主義、啓蒙主義の影響で、やがてその力にも陰りが見えるようになってきます。
18世紀後半になるとカトリック教会はますます衰退していきます。とくに、フランス革命の折に
は、カトリック教会は、アンシャン・レジーム(旧体制)の権化とみなされ、そのことにより、カ
トリック教会は大打撃を受けることになります。イエズス会の弾圧、教会財産の没収等が起こるの
も大体この時期であります。
この時期、カトリック教会は完全に力を失ったかに見えましたが、その回復の兆しが見えるのが、
次世紀前半、フランス革命以降のいわゆるウィーン体制の時代であり、前時代の反動から、中世、空
想、神秘的なものへの関心が強まり、それまで大打撃を受けたカトリック教会が復興するとともに、
それまでに見られなかったほどに、ローマ教皇が力を持ち始めます。いわゆる、教皇至上権主義(ウ
ルトラモンタニスム)の時代であります。1814 年にはイエズス会が復興されます。1854 年には、
マリア無原罪の御宿りの教説が認められます。また、1862 年には、謬説表(シラブス)というもの
が公けにされ、そこには、合理主義、近代思想、聖書協会、政教分離などを批判の的となっていきま
す。そして、1869 年には、第一ヴァチカン公会議が開催され、そこでは、教皇無謬説(ex cathedra)
が認められていきます。その後、教皇レオ 13 世のときには、トマス・アクィナスの権威をカトリッ
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ク神学の基盤に置かれることになり、かれの下に、『神学大全』は新たに校訂されていきます。
*
じつは、近現代に関する質問はあまりなかったと最初に申しましたが、この時代に関することと
して、ひとつの質問がありました。
それは、「小さき花のテレジア」について教えてほしいというものでした。19 世紀の後半に、
フランスに生きた修道女である、リジューのテレーズと言われている人であります。カルメル修道
会の人であり、聖人、教会博士ともなっている人であります。
テレーズは、父は時計宝石商であり、9 人目の子どもとして、非常に敬虔なキリスト教の家庭で
育ちました。もともと繊細な心の持ち主であったようですが、4 歳のときに、母親を亡くしたこと
により、極度に内向的になったと言われています。その後、家族はリジューに引っ越しますが、学
校生活では、いわゆる内向的な優秀な生徒としていじめを受けていたようです。姉の影響もあり、
カルメル会という修道会に入ります。そのなかで、数々の神秘的な体験をするようになり、「神様
がご覧になるのは行為の大きさ、難しさではなく、どんな愛をもってこれをしたかだけ」であるこ
とを確信し、いわゆる「小さい道」を説き示すことになります。彼女が逝去するのは、わずか 24
歳でありますが、1925 年には(逝去して 28 年後)列聖され、ヨハネ・パウロ2世によって、1997
1
年には、アビラのテレサ、シエナのカテリナに次ぐ3人目の女性教会博士となりました 。
彼女は、その特性から、周囲の人からなかなか理解されないようなところが多々あったように思
われますが、このような彼女が、評価されていくその背景には、カトリック教会が再び力を回復し
ていくことと重なっていたということを知っておいてよいかと思われます。
*
ドイツの神学的傾向について、一言だけ言及しておきます。1840 年ごろ、自由神学(教団に必
ずしもとらわれない)の影響を受けた D.F.シュトラウスによって、『イエスの生涯』が執筆され
ました。それは、「ヨハネ福音書」の史的価値、共観福音書の奇跡物語の史実性を否定したもので、
新約聖書のキリストは、本質的に教団の創作した神話であるとした、かなり挑発的な著作でありま
す。その後、その過激性を批判されたために、『信仰のキリストと歴史のイエス』を執筆して改め
ますが、このような動きは、現代のドイツ神学のはしりとなります。その後、19 世紀後半には宗
教史学派が登場し、今日の聖書学にも大きな影響を与えていくことになるのです。
*
続いて、アメリカのキリスト教についてです。アメリカが、キリスト教の歴史に登場するのは、17
世紀以降と考えてよいかと思います。ヨーロッパでは、1555 年のアウグスブルク宗教和議において
カトリック教会とルター派のあいだに信教の自由が認められ、それからおよそ 100 年近く経った
1648 年のウエストファリア条約において、カトリック、ルター派に加えて、カルヴァン派に対する
信教の自由が認められていくようになりますが、その歩みはけっして速いとは言えなかったでしょう。
この同じ世紀には、たとえば、イングランドではバプテスト派や会衆派やクエーカー派が生まれます。
もっとも早い時期に、アメリカ大陸に渡ったのは、ピルグリムファーザーズと呼ばれるピューリタン
たちのグループでありましたが、ほかの教派も加わり、アメリカ大陸におけるキリスト教熱は広がっ
ていくようになります。18 世紀半ばになると、信仰復興運動(大覚醒)と呼ばれるような運動も起
こり、ニューイングランドなどを中心に、異教徒を回心へと導く(原住民への伝道、聖書の普及、教
1
テレーズの叙述については、『新カトリック大事典』第Ⅲ巻(研究社、2002 年)を参照した。
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育、社会事業)ということを自らの使命とする者も現れますが、なかでも、有名なのが、ジョナサン・
エドワードです。かれは、神の絶対的主権と予定説を主張するカルヴァン主義に立ち、真に選ばれた
聖徒だけが正規の教会員であると確信し、のちにニュージャージ大学(今日のプリンストン大学)長
となるような人でした。やがて、アメリカは本国から独立するようになります。ちなみに、1785 年
には、イングランド教会はプロテスタント主教制教会(アメリカ聖公会)と言われるようになります。
19 世紀の初頭にも、アメリカでは再び、宣教熱が広がってきますが、この時期の特徴は、次第
に、アメリカの国内から、海外へと目が向かい始めるということでした。いわゆる、第2次大覚醒
とも言われるのですが、たとえば、1810 年には、アメリカンボード(会衆派)が、1814 年には、
バプテスト派が、1817 年には、長老派が、1818 年には、メソジスト派が、1820 年には、聖公会
が次々と伝道組織を形成することになります。こうした伝道組織がアジアに、そして日本にキリス
ト教を伝えるまでには、あともう少しの時間が必要です。
現代のキリスト教
ここでは、現代のキリスト教というのを、20 世紀以降のキリスト教ということで考えてみたい
と思いますが、とくに、現代のキリスト教については、第二次大戦以前と、第二次大戦以降とに、
分けるのがよろしいかと思います。さらに、それをそれぞれプロテスタンティズムとカトリックに
分けることにします。そこで、最初は、第二次大戦以前の時代の、欧米プロテスタンティズムの動
向について、なかでも、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国を取り上げて見ていくことにします。
*
第二次大戦以前の欧米プロテスタンティズム
イングランドについては、まずは、ヴィクトリア女王の閉幕とともに 20 世紀が始まります。聖
公会は、世界規模の教会へと飛躍し、とくに、宣教師の活躍が顕著であり、北アメリカでの発展も
目が見張るものがあります。このことから、世界の聖公会の主教が集うランベス会議が次第に重要
な意味を持っていきます。とくに 1908 年第5回ランベス会議と同年に開かれた全聖公会会議はよ
く指摘されます。ただ、ほどなくヨーロッパを席巻する第一次世界大戦とその戦後の荒廃は大きな
ものがありました。後にカンタベリーの大主教となるウイリアム・テンプル(1881~1944:在位
1942~44)もその中で尽力していきます。
ドイツについては、1918 年にドイツ第二帝国が崩壊し、1919 年にワイマール憲法が発布され、
新しい道を歩み始めるのですが、何と言っても、ヒトラーの登場により、キリスト教は複雑な様相
を呈していきます。すなわち、ナチ政権、ユダヤ人排斥を支持するグループと、それに反対するグ
ループとに分かれていきます。いわゆる、ドイツ・キリスト者と告白教会との対立でありますが、
後者には、バルトなどの神学者も現れ、それに反対するバルメン宣言が出されます。ただ、この闘
争によって、バルトやティリッヒは国外追放、ボンヘッファーは獄死してしまいます。
アメリカ合衆国のキリスト教についてですが、20 世紀初頭の段階で、その人口の約 95%がキリス
ト教であり、そのうち 65%がプロテスタントであります。メソジスト系とバプテスト系がその半分
以上を占め、ほかにアメリカ聖公会、長老派、ルター派などが存在しています。
アメリカのキリスト教については、宗派の如何によらず、その傾向として、自由主義、進歩主義、
世俗主義的傾向を持った人びとと、ファンダメンタリズム、福音主義、保守主義的傾向を持った人び
とが存在していました。前者が公共志向的、社会的責任、社会的救済を重視する一方で、後者は個人
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「今さら聞けない!?キリスト教講座」第6回配布資料(2016.10.22)
志向的、個人の信仰、救済重視の傾向が強いと言えるでしょう。また、前者では、新たな科学的学問
の成果を踏まえた聖書批評が盛んになり、進化論受容など自由主義的傾向が強くなっていきますが、
後者の方は、自由主義者たちはキリスト教の根本的教理から逸脱しているとし、1895 年にナイアガ
ラ協議会により「ファンダメンタリズム5条項」声明の発表をし、そのなかで、聖書の逐語的無謬性、
イエスの神性、処女降誕、代償的贖罪論、キリストの肉体的復活と身体的再臨を主張しました。
*
ついで、ヨーロッパのカトリックの動きについては、教皇ピウス 10 世(在位 1903~14)のと
きには、1905 年にフランスが政教分離政策をとり、その背後で、聖書学者ロワジなどの近代主義
的主張がなされ、カトリックの教義を近代の聖書学、歴史批評学などによって再解釈を試みました
が、教皇は、1907 年に教令『ラメンタビリ』と回勅『パッシェンディ』により近代主義を断罪、
ロワジを破門にする出来事がありました。
*
さて、ついで、第二次世界大戦以後の時代の欧米のプロテスタンティズムについて見ることにし
ましょう。
イギリスでは、終戦の年にカンタベリー大主教になったフィッシャー(在位 1945~61)のもとで、
二回のランベス会議(1948&58)と第二回全聖公会会議(1954)が開催されています。
続く、ラムゼイ大主教(在位 1961~74)のときには、ランベス会議(1968)及び第三回全聖公
会会議(1963)が開催されるとともに、全聖公会中央協議会(ACC)が設立され、併せて、聖公
会―ローマ・カトリック国際委員会も発足されました(1970)。これは、聖公会とカトリック教会
との関係を構築しく上で、きわめて重要な意味をもっており、その後、1982 年には、両教派による
ユーカリストの教理、奉仕職と聖職叙任、教会における権威についての合意声明が『最終報告』とし
て刊行されました。さらには、1990 年代には、英国教会と福音ルーテル教会間にて『ポルヴォー共
同声明』(1993)と調印式(1996)が行われ、さらに、1988~93 年には、「イームズ・レポート」
すなわち、女性の歴史的主教職の可能性を検討する委員会による報告書が出されるに至っています。
じつは、近現代のキリスト教に関しては、ほとんど質問がないと申しましたが、もうひとつ、「ル
ター派と聖公会との関係について教えてほしい」というものがありました。その質問の背景には、
両者の祈りが似ているように思う、という感想が書かれてありましたが、たしかに、たとえば、主
の祈りに関しても、2000 年以降には、日本のルーテル教会でも、現在、聖公会で用いられている
カトリックとの共通の祈りを使用している、ということを聞いておりますので、そのようなことか
らそのような印象も出てくるのではないか、と思われますし、このような試みの背景には、さまざ
まな教派がお互いに歩み寄ろうとする動きがあることは確かであろうと思われます。
ドイツの場合は、1945 年に、新生・ドイツ福音主義教会が誕生しますが、敗戦国ということで、
1949 年から 90 年まで、東西ドイツに分裂するということが大きな出来事があります。東西ドイ
ツに分かれる中で、しかしながら、プロテスタント、カトリックがそれぞれに教会の日を設定し、
集会をもつようになっていきます。
アメリカ合衆国の場合は、約二千の教会へと分裂、他方で再合同の動きもでてきたりします。バ
プテスト系は、大きく南部バプテスト連盟とアメリカ・バプテスト連盟に分かれ、メソジスト系も、
合同メソジスト教会ほかにホーリネス教会なども現れます。長老派・改革派は、いずれもカルヴァ
ン主義ですが、前者はイギリス、後者は大陸の流れを汲むもので、ともに存在し、それぞれアメリ
カ合同長老派教会、アメリカ改革派教会となります。それ以外にも、ルター派、ペンテコステ派教
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会などがあります。アメリカ固有の問題としては、黒人解放運動の問題を無視することはできませ
んし、ファンダメンタリズムについても今日に至るまであります。
ところで、ある本に、「アメリカ人はなぜ西欧人よりも信心深いのですか」という問いが書かれ
2
ていました 。たしかに、アメリカもヨーロッパもそのキリスト教の担い手については、共通して
いるところが多いのに、なぜ、キリスト教の伝わり方に違いが見られるのか、ということについて
考察されていましたが、その中で、アメリカに渡ったキリスト教徒は、西欧では、宗教的少数者と
いう立場の人が多く、それだけにキリスト教を守ろうとする思いが強かったのではないか、という
主旨のことが書かれていて、非常に興味深く思いました。
*
第二次大戦後の、ヨーロッパのカトリック教会と第二ヴァチカン公会議について記すことにしま
しょう。教皇ヨハネス 23 世(1958~63)在位のとき、1962 年 10 月 11 日に、第二ヴァチカン
公会議は開催されます。第二ヴァチカン公会議は、投票権を有する 2,540 名の司教、数百人の顧問
神学者(カール・ラーナーなど)、オブザーバーたちから成り、
「アジョルナメント(aggiornamento)」
という標語のもとに行われました。イタリア語ですが、日本語にすると、今日化、ということにな
るでしょうか。四つの会期に分かれ、第1会期(1962)、第2会期(1963)、第3会期(1964)、
第4会期(1965)となっています。
この会議では、全部で十六の文書を採択されました。すなわち、『教会憲章』『啓示憲章』『典
礼憲章』『現代世界憲章』の四つの憲章であり、『司教司牧教令』『広報機関教令』をはじめとす
る九つの教令であり、『信教自由宣言』『諸宗教宣言』等の三つの宣言であります。
公会議の諸改革としては、①典礼の現代語化ということ
平等であること
②神の民であることにおいて教会員は
③プロテスタントの復帰よりも分裂した兄弟との再一致を目指すこと
④教会
は信徒間の対話だけでなく現代世界との対話が不可欠であること、が挙げられています。
また、公会議の会期中である 1964 年には、コンスタンティノポリス総主教アテナゴラスとの歴
史的会見が行われました。
宗教改革の時代に誕生したイエズス会にしても、「教会の外に救いなし」の精神の下に、全世界
への宣教を行いましたが、そのことが考えると非常に大きな転換であります。キリスト教の絶対性
ということも、時代と共に緩和されてきています。ラーナーが唱えた「無名のキリスト者」という
考えもその線上にあると言ってよいのかもしれません。
おわりに
今回は、キリスト教の歩みについて、ことに、近現代のキリスト教を中心に述べてまいりました。
そしてその中で、関連する質問は多くはありませんでしたが、いっしょに考えてまいりました。皆
さまから寄せられた質問は、じつはまだ多く残っております。たとえば、キリスト教と平和に関す
る質問、キリスト教と差別に関する質問、キリスト教と自然災害に関する質問、キリスト教と救い
に関する質問、聖書の読み方・解釈に関する質問、キリスト教のこれからに関する質問、こうした
質問については、キリスト教の歩みを現代まで述べた後に、答えることが相応しいと判断していた
ものでありましたので、次回以降、現代のキリスト教についてもう少し補足をした後に、いっしょ
に考えていくことにしたいと思います。
2
J.H.クラウセン『キリスト教のとても大切な101の質問』(高島市子訳、創元社、2010 年)pp.154-157。
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