架 橋 22 2002 夏 目 次 ○ 小 説 シジフォスの夢 白い花 …………………… 磯貝治良 ……………………………… 劉 竜子 …………………………… 宋 基淑(加藤建二 訳) 朴 燦鎬 道の下で ○ エッセイ 宋建鎬先生を悼む ………………… ○ 紀行ルポ 三千里鐵道の旅 …………………… ○ コラム「戦争したい法制」三法案 ○ 会 録 ○ あとがき 磯貝治良 シジフォスの夢 いそ かい じ ろう 磯 貝 治 良 Ⅰ 大学のキャンパスというにはあまりに狭隘な土地に一本の櫟(いちい)の木が空を突き抜 くように立っていて、異質な感じをあたえる。三方を二階建て校舎とプレハブ造りの部室 (クラブハウス)に囲まれたそこは、広めの中庭というにも質素すぎて、芝地はなく赫土を 剥き出した空間にすぎない。本校が東海道線の地方都市・豊橋にあって、旧陸軍の広大な 連隊跡地を占めているのに比べ、名古屋とその周辺の学生たちが二年生までの一般教養課 程を過ごすここは、都会の一隅にある“仮の宿”といった趣。全校学生の屋外集会でも開 かれれば、キャンパスは立錐の余地なく埋まってしまう。 〈愛智大学名古屋校舎〉と粗末な門標のある校門をはいって右手すぐのところに、櫟の木 は鋭い先端の葉を枝に張ってすっくと立っている。その木の下で、きょうもアコーデオン を鳴らす学生を囲んで男女数人が歌っている。コーラスの練習というのではなく政治サー クルか何かの仲間が示威のつもりで、ロシア民謡とか、インターナショナルとか歌ってい るらしい。 午後一時限目のフランス語授業を受けるため校舎へ向かって歩きながら、馬瀬(ませ)一 郎は歌声に嫌悪感を覚えなくなっている自分に気づく。入学当初は、どうにも馴染めなく て反撥を覚えたものだ。厳密には、歌声にではなく、取り澄ました表情で口を揃えて歌っ ている学生たちの雰囲気が気に入らなかった。けものの学校で高校生活を送ってきた彼に は、コーラス学生たちの気障っぽい雰囲気が唾でもひっかけてやりたいほどだった。一か 月ほど経ったいま、その気持ちが消えているのは、彼が大学生らしい気分を味わいはじめ ているということか。 櫟の木とは反対の西側に建つA校舎に沿ってキャンパスを抜けると、学生課などのある 事務棟脇にB校舎があって、フランス語の教室はその一階にある。馬瀬一郎がバンカラ下 駄の音を立てて、そこの廊下をはいったときだった。数人の学生が屯している教室を横目 に行き過ぎようとすると、中の一人が目敏く飛び出してきて、彼を呼びとめた。 不意のことで一郎が怪訝に思っているうちにも、教室の学生たちがぞろぞろと廊下へ出 てきて、ちょっと顔を貸せという意味のことを言う。五、六人のどれも幾分、崩れた雰囲 気を醸しだしていて、学生服の着こなしからして空手部か応援団員といった感じ。 言われるままに大講義室のある二階へ通じる階段を従(つ)いていく。学生たちは踊り場 で一郎を取り囲んだ。スポーツ刈りの短髪学生を代表格に、面面が口をとがらせる。上級 生にたいする彼の態度が生意気だということらしい。一郎自身それと意識してはいなかっ たけれど、校内で擦れ違ったり、教室で屯している彼らを眺めるときの視線が、どこか眼(が ん)を切るふうらしい。かつてけものをやっていたころの習性がいまだに残っているのだろ う。 「あんたらの目の錯覚だろ」 一郎がそう応えると、斜め右手から腕が伸び、彼の学生服の胸ぐらあたりを掴んだ。そ れを払おうとするより早く、伸びた腕は引っ込む。スポーツ刈りが諫(いさ)めたのだ。 一郎はそれきり口をきかないことにした。チンピラ学生ふうの上級生に囲まれて、怯え る気持ちはほとんどなかった。こんど手を出してきたら刃向かっていこう、と腹のうちで 構えていた。口を閉ざしたのは、この場を早く切り上げたかったからだ。授業に遅刻した くない。諦めていた大学へせっかくはいったのだから、高校時代の延長みたいな間抜けは したくない。 さらにつづいた上級生たちの説教とも脅迫ともつかない攻勢は、五、六分で終止符を打 った。一郎が俯向きかげんに黙りつづけているのを反省の態度と受けとって、満足したら しい。 「先輩は立てなくてはいかん」 一郎はその言葉を背に階段を降りた。大学というところにも結構、幼稚な連中がいるも んだ、そう思うと苦笑が浮んだ。彼は廊下を急いだ。 教室にはいって席をとると間を置かず、フランス語の教授があらわれた。 「馬瀬君、大丈夫だったかやー」 席を隣り合せた芝山富吉が、一郎の耳もとに口をよせて囁く。愛知県と長野県との県境 にある山間の高校を卒業して名古屋に出てきた芝山は、浅黒く朴訥な風貌に不安げな表情 を浮べている。一郎が好ましからぬ風体の上級生たちに「連行」される場面を、通りがか りに廊下で目撃したらしい。 一郎は、全然、大丈夫、といったふうに目顔で応えて、フランス語の教科書を開く。 一郎が選択必修の第二外国語にフランス語を選んだのは、フランス現代文学(なかでも アルベール・カミュ、ジャン・ポール・サルトル、アンドレ・マルローといった実存主義 のそれ)に魅かれはじめているからである。高校を卒業する頃、中学時代に国語を教えら れた九米仙七と会って、大学に進んだら文学をしたいと言うと、フランス実存主義を勉強 するよう勧められたのがきっかけだった。高校時代に世話を受けた教師や父の方針と、文 学部を希望する彼とのあいだにすったもんだがあって、結局、父たちの要望を受け入れ、 法経学部経済学科に入学したのだったが、文学をしたい欲求はいよいよ募っている。いま は翻訳によってカミュの『シジフォスの神話』『異邦人』、サルトルの『実存主義とは何 か』『水いらず』『嘔吐』、マルローの『王道』『侮蔑の時代』などを読みはじめた段階 にすぎないけれど、いずれは原語に挑戦したい。おのれの才能もわきまえない、雲を掴む ような夢であると自覚しながら、それでもフランス語を選択するのに躊躇はなかった。 入学して一か月余を経て得た三人の友人が唯一、フランス語の教室の級友であるのも、 一郎の意思を示している。芝山富吉のほかに岐阜の高校を卒業した大林美身と名古屋の「駅 裏」生まれの喜多弘次。大林は小学校の頃から謡曲を習っているという、一郎からみれば 「変なやつ」。喜多は中学を卒業すると郵便局に勤めて配達の仕事をしながら夜間高校に 通い、大学も二部(夜間部)へ入学したのだが、二年目に一部へ編入してきた。したがっ て年齢は一郎より年上なうえ、労働体験の雰囲気を身につけていて、マルクス経済学の学 習会である「経済学研究会(経研)」の教養部におけるキャップをしている。 フランス語の授業が終って一郎が彼ら三人と教室を出たときだった。見憶えのある顔が 待ち受けていたように廊下に立っていて、一郎に笑いかけた。高校時代一年先輩で、図体 はやたらでかいのに兎のように小心な性格で「東方のイチロー」の尻にくっついて歩いて いたこともある新川だ。彼が愛智大学へ進むと俄然、変貌して、空手部を創設して主将に なり、応援団でも幅をきかせているという噂を、一郎は耳にしたことがある。 「イチローさん、さっきはうちの部員が失礼をしたそうで。あんたのこと、みんな知れせ んもんで・・・・・・。堪えてやってください」 新川は薄く笑いかけながらそう言うと、軽く頭を下げた。一郎は故意に視線を外して、 取り合わない態度を示す。 新川がさらに空手部だか応援団だかへ勧誘したい意味の言葉をついだとき、一郎は素っ 気なく応じた。 「おれは、東方のイチローとは違う」 そう言うなり一郎は踵(きびす)を返し、廊下の一隅で心配げにこちらを見ている友人三 人の方へ早足に向かった。 「経研の件、決めてくれたかね」 校門から電車通りへ向かう商店街で音楽喫茶エーデルワイスにはいって、しばらく雑談 を交わすうち、喜多弘次が馬瀬一郎に声を掛けた。 一郎は何のためらいもなくOKの返事をする。迷ったのは数日間だった。文学方面の本 を集中的に読みたい、小説も書きたい、そう思うと経済学研究会にはいってマル経の学習 についていけるか不安はある。それでも自分なりにめざしたい文学にとって、下部構造の 勉強は無駄にはなるまい、重荷になったら辞めればいい、と腹を決めたのだ。一郎には行 き当たりばったりに決断するところがある。 喜多が一郎の返事に満足して、勢いよく空(から)のコーヒーカップを啜ると、彼と隣合 せた大林美身が遅れをとるまいというふうに口を開く。 「ぼくのほうはどうなの?」 大林からは謡曲クラブに誘われている。能狂言や謡(うたい)とマルクス経済学とではあ まりにも径庭はなはだしい。それに能や謡曲を見聞したことはないけれど、想像しただけ でも肌に合いそうにない。 「金がないよ」 一郎がそれを口実に断ると、大林は即座に、 「月謝は要らない。クラブの先輩の大前田さんの父上が先生だから」 と答える。小学校五年生相手に家庭教師のアルバイトが決まったばかりなのでそれも口 実にするが、大林は稽古は週一回一時間ほどだから負担にはならない、と後にひかない。 大林の粘着質で世俗に長(た)けた生活人の雰囲気が、一郎には苦手だ。 結局、経済学研究会と謡曲クラブの両方に顔を出すことに決めた。せっかく大学にはい ったのだから、未知の経験を積むのも悪くはない、そう考えることにする。 一郎は大学の講義には欠かさず出席することに決めた。授業と、週一回の経研の学習と 謡曲クラブの稽古、週二日夕方からの家庭教師のアルバイト、それ以外の時間を文学の勉 強に当てるという、几帳面な日日が始まった。高校生の頃の彼には想像さえできなかった ことだ。 家庭教師の口を一郎に紹介したのは、高校時代の教師CC(チェーチェー)こと岩井厳雄 で、私立小学校に通う五年生男子の生徒は彼の甥に当る。小学校五年生とはいえ、エリー ト養成まがいの教育をする私立校の授業レベルは高く、英語と数学などは中学一年生並み の内容。義務教育の時代をほとんど素通りしてきて基礎学力の覚束ない一郎には荷の重い 役割だったけれど、家からは金銭一切を出させず奨学金とアルバイトの収入で四年間を凌 ごうと決心した彼に、背に腹はかえられない。月三千円の月謝のために冷汗覚悟で引き受 けたのだった。 小学五年生あつし君は、CCの戦死した兄の息子で、未亡人である母親・絹よさんと共 に暮らしている。大学から徒歩で十分ほどのその家は、大蔵省関係の宿泊施設であって、 祖母、祖父のほか仲居さんがいる。CCの実家なのだ。「大和荘」と標札のある料亭ふう の家へ週二回、通いはじめて間もなく、一郎はあつし君の身の上を知った。 あつし君の母親・絹よさんは、中学を卒業すると淡路島から名古屋へ出てカフェで働い ていた。その折、彼女の美貌に魅せられた祖母(CCの母)が養女にした。そして長男(C Cの兄)が出征するとき婚姻させた。長男は出征したまま帰らず、絹よさんは未亡人とな った。戦後、彼女は上場企業O鉄工の後継者Kと恋愛し、Kには妻があるまま絹よさんは あつし君を生んだ。あつし君は非嫡出子ではあるが、戸籍上の長女である絹よさんの子と して「大和荘」の跡目ということであるらしい。 あつし君には利発で早熟なところがある。一郎の基礎学力が粗末なのをいちはやく見透 かしたらしく、小学生とも思えぬ質問や話題を矢継ぎ早に繰り出す。案の定、一郎は、英 語の基礎構文や一次方程式の説明さえあやふやで確信なく(英語など大学の授業でするク ローニンのリーダーのほうが余程、組みしやすい)、冷汗をかかされる破目になったのだ が、あつし君には大人相手にタジタジとさせることを皮肉っぽく楽しんでいる気配がある。 それでもあつし君が教科書を使う勉強より世態の話題を好むらしいのをいいことに、一郎 は太宰治の心中事件や「レ・ミゼラブル」のストーリィ、中日ドラゴンズ杉下投手の魔球 フォークボールの投法解説などで煙に巻いて二時間のノルマを凌いだりする。 週二回の正規の勉強のほか日曜日などにあつし君を連れて東山動物園とか植物園へスケ ッチに訪れることもある。息子の孤独を慰めてほしい、という母・絹よさんの依頼である。 そんな日、一郎は友人の夫馬敬成を誘うことにしている。高校時代、文芸部で一緒だっ た夫馬は母と二人、親戚の二階一間に間借り暮しをしていて、交通局の食堂で賄い婦をし ている母親の脛を齧りながら、中途半端な文学修業をしている。就職する気もなく、戦死 した父親の遺族年金を食っているのだ。彼は一郎の誘いを断ることもなく、油絵の用具一 式を携えてやってくる。 一郎はあつし君のスケッチブックを適当に覗いて時間をつぶし、頃合いを見計らって動 物園の近くにある食堂で食事をする。金は一郎が出す。とはいっても絹よさんから託され た金だ。一郎は三人の食事をカレーライスかラーメンで済まそうとする。絹よさんから預 かった金が幾らかは浮いて、二、三回分の彼の食事代に回せるからだ。しかし、あつし君 は一郎の姑息な目論見を見透かすふうにカツ丼とか天麩羅丼を註文し、売店でキャンデー や菓子の類を買わせる。 あつし君の母親・絹よさんは月謝のほかに折折、革靴やセーターをプレゼントしてくれ て、一郎を喜ばせた。一郎には家庭教師のアルバイトよりも肉体労働のそれのほうが性に 合っていたし、生い育った漁港の町の実家とは随分かけはなれた「大和荘」のプチ・ブル ジョアふう家風にも窮屈を感じて、日ごとに馴染めない気分を覚えていたけれど、絹よさ んの心使いにはひかれていた。 夏休みにはいって「大和荘」の熱海への家族旅行があり、一郎をそれに誘ってくれたの も絹よさんである。一郎が、友人を誘いたい、と絹よさんに頼んだのは、家族旅行といっ た雰囲気に違和感を覚えて、夫馬敬成をひっぱりこめば孤立感をいくらか解消できるとも くろんでのことだ。絹よさんは一郎の頼みを快く聞き入れた。 名古屋から熱海までの車中、CCの甥にあたる博心さん、その妹の千代乃さん、一郎、 夫馬の四人が四つの座席に同席したのだが、人生観まがいを語り合ううち博心さんと夫馬 は議論を始めた。日本大学に在学中の博心さんは派手柄のアロハシャツを着て、挙措に洒 落者の雰囲気がある。大学を中退して喫茶店だかを始めたい望みがあって両親と対立して いる。二人の議論が感情的な様相を呈したのは、たがいの自説を固守しようとしてよりも、 夫馬が博心さんの気障っぽい人柄に厭悪を感じ、博心さんがいちはやくそれを察知したか らにちがいない。 一郎は時に言葉を挟む程度で、二人の議論を面白がったが、博心さんにたいする夫馬の 違和感は、一郎の感情でもあった。千代乃さんは兄たちの議論を嫌い、気持ちをまぎらす ため一郎に何かと話しかける。一郎は擽ったい気分で彼女との会話を愉しんだ。 博心さんと夫馬の角逐は熱海の旅館(「大和荘」と同系列の官関係の宿泊施設)に着い てからも解けず、燠火が爆けるように数回、火花を散らしたすえ、二日目の朝からは互い に口さえきかなかった。 「馬瀬、あの家族はプチブルだぞ。博心とかいうあいつ、鼻持ちならん」 熱海旅行から帰って数日後、顔を合わせるなり夫馬は一郎に吐き捨てた。 「それはその通りさ」一郎は素っ気なく返した、「だからどうだって言うんだ? 僻んだ って仕方ない」 「あんな連中と付き合ってたら、堕落する」 夫馬は嫌悪感をあらわに言った。 それから三か月ほど経って、一郎はあつし君の家庭教師を辞めることにした。夫馬の言 葉が身にこたえたのではない。たまたま家庭教師の話がもう一つ転がり込んで、掛け持ち は無理。どちらか選ぶなら、新しい口のほうが精神的負担が軽く、気にも入ったからにす ぎない。 新しい家庭教師の相手は、あつし君と同じ小学校五年生の参平君。風貌、体型ともに福 福とした肥満児で、なにからなにまであつし君とは対照的に純朴な少年。大学から徒歩で 十五分ほどの市電通りに面した酒店の息子だ。酒店の店さきでは客に立ち飲みもさせてい て、参平君を拡大コピーしたような母親が店を切り盛りしている。母親も虚飾のない人だ。 父親のほうは、町の発明家みたいな暮しをしてきたが、いまは絵馬師になりたくて修業の ために神社の一室に寄宿していると聞く。 一郎が家庭教師を辞する旨、告げたとき、絹よさんは強く引き止めた。友人の芝山富吉 を後釜に紹介することで、絹よさんは納得した。 最後の授業の日、勉強を終えて食事を済ませたとき、あつし君と一緒に泊まってほしい と一郎に頼んだのは、絹よさんだった。 勉強部屋でトランプ・ゲームなど楽しんで十時頃、六畳の和室にはいると、あつし君を 真ん中に川の字に蒲団が敷かれていた。あれこれ一郎に話しかけていたあつし君がいつの 間にか寝息を立てはじめ、一郎もうとうとしはじめたとき、障子の開閉する幽かな音がし て、あつし君のそれを隔てた蒲団にはいる絹よさんの気配があった。一郎の眠気は吹き飛 び、目が冴えてしまった。 絹よさんは眠っていないのか、寝息もきこえず時時、蒲団のなかで体を動かす気配だけ がする。闇のなかで絹よさんの幽かな動きに気をとられているうち、一郎は気持ちが昂ぶ って寝れない。絹よさんはおれを待っているのだろうか、と意識し、あわててその思いを 掻き消す。意識しては掻き消す。それを繰り返すうち堪えきれなくなって、厠へ立つ。股 間が勃起しすぎていて小便がうまく出ない。部屋の障子をそっと開け閉めして、蒲団にも どる。蒲団にもどるまえ、闇のなかに絹よさんの気配を探ったけれど、そちらへ忍びよる 勇気はなかった。 股間をまさぐる柔らかい手指の感触を夢の中でのように感じたのは、明け方に近かった ろうか。とても寝られるとも思えなかったのに、いつか眠っていた。眠りのなかで唇に触 れる濡れた膚の甘い匂いを嗅いだ。 目を醒ましたとき、部屋のなかに薄明かりが差していて、絹よさんの蒲団に人のふくら みはなかった。 謡曲クラブの稽古は週に一回、大学から程遠からぬ白山町の大前田さん宅へ通う。大前 田征の父親が金春流の先生なのだ。鼓(つつみ)方はその夫人(大前田さんの母)が努める。 メンバーは六人だが、四年生の大前田征以外は全員一年生。つまり大前田さんがオルグし て出来立てのクラブである。それでも馬瀬一郎と芝山富吉を除けば、高校時代に謡(うたい) を齧っているらしい。一郎と芝山を誘い込んだ大林美身などは、なかなかの域のようだ。 初心者の一郎と芝山は『羽衣』から稽古を始め、節回しの記号を大体マスターしたとこ ろで、世阿弥作の直面物(ひためんもの)『蘆刈』の「笠の段」を習いはじめる。経験者で ある大林、鶴田、浜中は『田村』の稽古に励んでいる。恒例の名古屋学生能は熱田神宮能 楽殿で催される。来年の一月十五日の舞台では大前田征が坂上田村麻呂の縁起である修羅 物の能を演じることになっているので、それの地(じ)謡(うたい)をつとめるためだ。 一郎は、学生能の舞台では芝山と二人、「笠の段」を謡うよう、大前田先生から言い渡 されている。それだけではない。「笠の段」の稽古をつづけるかたわら、間もなく『田村』 の稽古にも合流して発表の日にはそちらの地謡にも芝山ともども加わるよう言われている。 なんとも荷が重い。それでも辞退する気にならなかったのは、たかが学生の分際の発表会、 大恥かいてもともと、あとは野となれ山となれ、と腹を括ったからである。さいわい酒店 やすだ屋の息子・参平君の家庭教師は、「大和荘」のあつし君のそれに比して格段に気楽 な雰囲気であり、さきの経験でこつを心得たこともあって神経を使うこともない。謡曲の 稽古に打ち込む環境はあった。 「せっかく学生能に参加するのだから、謡曲クラブにも顧問が必要だなぁ」 その顧問には誰を頼めばいいだろうかと大前田征が言い出した。一郎たち初心者の謡も 少しは態をなしてきたころだ。 愛智大学に能狂言に関心を持つ教員がいるだろうか。戦前、中国大陸に創建された東亜 同文書院の系列を継いで、「自由と進取」の気性を学風とする大学なのだ。一郎が入学す る数年前、情報収集のため学内に潜入していた警察官が学生たちによって監禁される事件 が起ったり学生運動が活発であり、それにたいして寛大な、社会科学系の左翼的教員が主 流。日本浪漫派の流れを汲んだり日本的伝統を重んじたりの教員はいそうにない。国文系 の教員のなかに謡曲クラブの顧問を引き受けてくれそうな人がいるかもしれないが、メン バー六人のなかに文学部の者はいない。 「馬瀬君、ベルモントさんに頼んだらどうだろう」 話柄が手づまりの状態になったとき、不意に大林が言った。打診というより催促する口 調。 「そうだー、ベルモントさんなら馬瀬君の頼みをきいてくれるよ」 芝山が大林の提案に応じる。 一郎は虚を衝かれた。そして内心、はじらいを覚えた。 「ベルモントさん」とは、一郎たちが第二外国語として授業を受けているフランス語の助 教授で美波志ベルモントのことである。三十歳代後半、やけに野太い声が特徴の「ベルモ ントさん」は、概して学生たちと息の通い合う型(タイプ)の教員だが、自分への態度に特 別なものがある、と一郎は感じている。それは授業中の挙措に感じられたが、フランス語 の前期末テストの際に決定的になった。監督の「ベルモントさん」が、答案用紙と首っぴ きの学生たちの間を二度、三度と往き来するのに不思議はない。ただ、その都度、「ベル モントさん」は、一郎の机にひろげられた答案用紙の誤りの部分を万年筆のキャップでコ ツコツと打ち、訂正するよう合図をして通り過ぎたのだ。大林たちがその一齣を知ってい るとは思えないが、一郎は妙に羞恥を覚えた。 「ベルモントさん」が一郎に目をかけてくれるのには理由がある。「ベルモントさん」に は、異端の泥棒詩人ジャン・ジュネを論じた『アクロバットの支点』と題する著書がある。 それを読んだ一郎が長文の感想文を「ベルモントさん」に書いたのがきっかけだ。そのと き「ベルモントさん」は「きみの批評はよろしくない」と一言のもとに切り捨てたけれど、 その後、研究室を訪ねてはサルトルやカミュ、フランツ・カフカなどについて半可通の文 学論を語る一郎にたいして「ベルモントさん」は寛容だ。 結局、一郎は「ベルモント」さんに顧問を頼む件を断りきれなかった。「ベルモントさ ん」は謡曲クラブ顧問の依頼に何と応えるだろうか。辛らつな批判が返ってくるのではな いだろうか。そう考えると一郎の気分は重い。 翌日、「ベルモントさん」の研究室へは一郎のほか大前田さんと大林が同行した。 案の定だった。 「馬瀬君はなぜ能に興味をもつのかね。きみの文学がめざしている現代の問題と、それは どのように関係するのかね」 「ベルモントさん」は、野太い声で訊ね返した。色艶のよい楕円の顔に笑いが浮んでいる。 一郎はそこに皮肉を読みとった。 一郎は言葉に詰まった。返す言葉が見つからなかったからなのだが、予測が見事に的中 して驚いてもいた。 「現代をとらえるためには伝統を否定的媒介にしなければなりません」 一郎は苦しまぎれに、棒読みの口調で言った。 「きみたちの発表会を楽しみにしているよ」 そう言って、「ベルモント」さんは謡曲クラブの顧問を承諾した。 三人が鄭重に礼をして研究室を辞したあと、一郎の気持ちは釈然としなかった。学生能 発表会の日まで謡曲クラブをつづけられるだろうか。最近、謡曲(その稽古)と経済学研 究会(その学習)とのあいだの異質感をはっきりと感じはじめている。 「それは馬瀬君、絶対的窮乏論によって理論的に解決する問題ですよ」 水口健二が、一郎の発言に応えて即座に言った。 テキストの読解が済んでいつもどうり討論にうつり、終りぎわに一郎が発言したときだ。 資本主義から社会主義への移行を歴史の「法則」とか「必然」によって説明する意見には、 いつも胸につかえるものがあって、ようやくきょう、それを口にした。「下部構造」と呼 ばれる経済のしくみの変革は、プロレタリアートの主体的力量によって左右されるのでは ないか、人間の主体こそが社会主義革命を方向づけるのではないか・・・・・・。一郎は自分の 発言が文学的にとられるのでは、と惧れながら思いきって言ったのだ。 経済学研究会が使っている教室には、どこか隔離された雰囲気がある。部室を持たない ので、昼間の授業が終了したあとB校舎の一室を使っている。二部の授業は行われている のだが、それはA校舎に集中していて、B校舎に学生の人影はなく閑散として廊下の明か りもほとんど消されている。 その教室で一郎が経研の仲間とともに最初に読んだのが、レオンチェフ「資本主義とは 何か」。いわば経研の入門書だった。そのあとマルクスの「賃金・価格・利潤」「賃労働 と資本」を読み、いまはエンゲルスの「資本主義綱要」がテキストだ。 初めの頃はテキストに登場する言葉の概念一つ一つが未知のもので、読んでも読んでも 内容はチンプンカンプンでしかなかった。テキストの文脈を「働かざるもの食うべからず」 「能力に応じて働き、必要に応じて得る」といった俗語に変換して理解したつもりになろ うとしたほどだ。その“社会主義的俗語”でさえ、彼が中学生の頃、当時、仕事もせずヒ ロポン中毒に罹っていた長兄が自己韜晦じみて部屋の壁に貼紙していたなかの言葉にすぎ ない。 それでも漁港の町で八人きょうだいの一人として貧しく育った生い立ちが幸いして、資 本主義の現実にたいする未分明なりの違和感はあり、社会主義への憧憬はあった。そんな 程度の関心だったから、文学の領域でも社会主義リアリズムとかマルクス主義芸術論とか には馴染めず、カミュ・サルトル論争では、カミュの立場に親和を覚えている。 一郎は経済学研究会の学習に参加してほぼ八か月、ようやく資本主義とは何か、その輪 郭をつかめるようになり、資本主義へのアンチテーゼとして社会主義理論の概要を漠然と ながら理解しようとしている。それで学習会でテキストとして読むのとは別に、自発的に マルクス『共産党宣言』、レーニン『何をなすべきか』をほとんど理解できないままに読 んだりしている。理解できてもできなくても、いずれ『経哲手稿』や『資本論』『反デュ ーリング論』なども読まなくてはと思い、古本屋でそれらを購(もと)めるために金をため ているのだ。 そんな一郎に何かと教唆してくれるのが、キャップの水口健二。水口は三年生だから、 教養課程の名古屋校舎ではなく専門課程の豊橋本校に通っているのだが、学習会のたび名 古屋校舎の経研に顔を出す。四年前、メーデー事件、吹田事件などの「騒擾事件」と踵を 接して名古屋で大須事件が起ったとき、彼は高校三年生で高校生Sと呼ばれる細胞に属し ていた。そして大須球場で開かれた集会に参加し、デモ行進にうつった直後、ポリス・ボ ックスへ火炎壜を投げ、検挙された。未成年者ということで起訴猶予になったが退学処分 となり、大検に合格して一年遅れで愛智大学に入学した。 水口健二の経歴を知ったとき、一郎はある種の感銘を受けた。大須事件にはささやかな 因縁があったからだ。それの起ったとき一郎は中学三年生の一学期だったのだが、授業の 時間を潰して事件のことを熱っぽく話したのは国語教師の九米仙七だった。「九米はん」 は、事件の際、集会に参加していた朝鮮人高校生が警官隊の発砲によって殺害されたこと を教室の皆に伝えた。殺害された高校生は一郎たちの中学校の卒業生であり、一郎の小学 校時代の友だち申萬浩の兄だった。 一郎が水口に一種畏敬の気持ちをいだいたのはそんないきさつがあってのことだが、そ れだけではない。水口はすでにマルクス主義関係の文献を豊富に読み込んでいるらしい。 『資本論』全巻を読了しているばかりか、第何章の何節にはこれこれの文言があると暗唱 (そらん)じたりする。誰それの発言や疑問には即座に、それについてはどこそこでレーニ ンがこう書いていると引用する。 一年生メンバーまでが水口の影響を受けて、やたら「レーニンは、・・・・・・と言っている」 とやったりする。何かといえば一知半解のまま、「絶対的窮乏論」とか「アジア的生産様 式」とか「物神崇拝」とかの言葉を口にする。それは経研のなかでは一種の流行(はやり) 言葉の様相を呈している。学習会が始められた当初、「マルクス・レーニン主義」のマル クス・レーニンを同一人物のフルネームと勘違いして、仲間の失笑を買った芝山富吉でさ え、近頃ではそれらの言葉を合言葉みたいに流暢に口にする。 馬瀬君、きみの考え方は唯物弁証法を否定するものだよ。プチブル観念主義であって科 学的ではない・・・・・・。誰かがそんな批判を口にするのでは、と一郎は予想したのだが、皆、 黙っていて、喜多弘次の言葉が意表を衝いた。 「馬瀬君の考えは、ヘーゲル的だな」 一郎は高校三年生のとき岩波文庫の『哲学入門』を呼んでいたが、友人の夫馬敬成に「ヘ ーゲルを読んだ」とひけらかすために読んだにすぎず、まるで記憶に残っていない(理解 できなかった)ので、喜多にそう言われても馬の耳に念仏、反論ができなかった。 「次回には絶対的窮乏論についてもう一度学習しましょう」 口を噤んだままの一郎に助け舟を出したのは、水口だった。 時刻はすでに九時に近い。学習会は三時間を十分にこえている。A校舎では二部の授業 が終わる頃だ。 経済学研究会のそんな雰囲気と大前田宅で行われる謡曲の稽古風景とはあまりにかけは なれている。稽古のあいだ鼓方をつとめる大前田夫人は五人の学生をまえに妙にはなやい で和服姿もなまめかしい。声を作り科(しな)を装って、練習生に触れる所作が必要以上に 過剰ともおもえる。「大前田夫人は若い男性に目がない」というのが、大林美身の評だ。 大林はさらにつづけて、「馬瀬君、気をつけたほうがいいよ。夫人はきみを狙っとるらし い」と忠告する。もっとも彼は、一郎だけにではなく鶴田と中浜にも同じことを言ったと のこと。同級生ながら法学科の二人とは稽古で顔を合わせる以外、交渉はほとんどなかっ たけれど、彼らが憤慨して大林の言葉を伝えるのを聞いて、大林自身が大前田夫人から狙 われたがっているらしい、と一郎は勘繰る。 夫人とは対照的に、夫の大前田先生は終始、仏頂面をしている。稽古の途中、何度も駄 目を出すのだが、それは練習生の未熟さのせいばかりともおもえない。時にヒステリック な様相さえ呈することがあるからだ。大前田先生の不機嫌は、夫人の態度と何か関わるの では、と一郎が勘繰るほどだ。大前田先生の生業が何なのか、一郎にはよくわからない。 建設ブローカーだ、と大林は言う。そういえば大前田先生はニッカボッカーがよく似合い そうな、いかつい体格をしており、浅黒く日焼けした容貌もその体型に適合している。 経済学研究会の学習と謡曲クラブの稽古との関係を「理論的に解明」することは、一郎 に出来ない。前日、三時間以上も学習してまだ『資本論綱要』のなかの一節が頭のなかに 残っている状態のまま、翌日の謡(うたい)の稽古では、坂上田村麻呂が観音の助けを借り て「東夷」を平定したという故事に清水寺の縁起をかさねて脚色した能の物語を謡ってい る。その落差は滑稽。一郎に生理的違和感を覚えさえ、思考の分裂を招きかねなかった。 一郎は心理的危機感を解消するため、残余の時間はひたすら小説や文学書を読むことに 没頭する。家ではフランス語の復習以外はそれに費やしたし、授業と授業(たとえば一限 と三限)のあいだに講義の間があけば、空(あ)いている教室を探しては、そこでカミュの 『異邦人』サルトルの『嘔吐』カフカの『審判』ドストエフスキーの『悪霊』などに読み 耽る。広い階段教室の最後列隅っこの席に掛けて一人、本を読んでいる彼の姿は、木木の 枯れ枝に一羽だけ止った鳥のように孤独だ。そんな姿が学友の目にとまることを一郎は恥 じた。 一郎は高校生の頃から孤独な読書の折折、感想を書いていて、そのノートは五冊目にな っている。その行為もまた孤独の影をまとっていて、彼には他人の目を憚ることのように 思えた。 (ノート「檻と草原」より) 『転落』は、『異邦人』『ペスト』をついでカミュの不条理文学を小説化したものである が、驚いたことに『シジフォスの神話』以来、長い歳月にわたる人間的・社会的変遷が作 家の上に襲いかかったにも拘わらず、カミュの思想の根源は逸脱していない。このことは 一貫性として賞讃すべきことなのか、停滞として非難されるものなのか。 ともかく、カミュが思想の枠組みを変形させることなく不条理論を発展させつつそのイ デーを、独得の南国的詩情にデコレートさせながら文学作品としたのは素晴らしいことだ。 『転落』のモティーフは不条理を意識する瞬間であり、それ以前と以後である。 ジャン=バティスト・クラマンスにとって不条理の感情は突発的にやってきた。しかも彼 の心的状態が甚だ芳しい時に起ったのである。その瞬間から、クラマンスは「不条理の人」 としての自己を自覚する。そしてその瞬間からクラマンスの(自己の)行為についての解 釈は逆転される。その瞬間以前にはヒューマニズムとして映った行為と情景が、エゴイズ ムとして自覚されるようになる。 即ち、用心深く、偽善という装飾によって隠匿されていた人間性が、「不条理の人」と して自覚された瞬間、無慙にも裸にされ、以後、彼をおそうのは自己の「内部」と「外部」 に対する「罪の意識」である。但し、不条理の感情の発生、「不条理の人」としての自覚、 「罪の意識」の、心理的順序を完全に規定することは不可能だろう。 いずれにしても、その瞬間以後、クラマンスには烈しい虚無の日々が訪れ、無意味とい う言葉が必要となる。「無意味」は際限なく無を分泌し、彼の存在を無に近づける。 「不条理の人」は「罪の意識」によって責められ、あるいは鍛錬され、「不条理の人」と して完璧な存在となり、同時に無へと近づく。『転落』における絶望的な暗さは、そのパ ラドクスに因るのであって、人生の否定ではない。むしろ反抗でさえある。 自殺の拒否! 自殺は自他を、救わない、懲らしめない、是正しない。せいぜい他人の 退屈を楽しみに換え、世間話に花を添えるのみだ。 それにしても、カミュは相変わらず肉欲と愛の戯れがお好きだ。性愛は行きずりの遊戯 であって、人生にとって絶対的なものではない。尤もカミュにとって絶対的なものなどな い。唯すべてが無=意味の生を生きるために必要とされるにすぎない。 生きる、という事実のみが光り輝いている。 カミュにおける神の観念――ドストエフスキーは、人間は裁かれる立場にあるものだ、 と言ったけれど、カミュは、人間は常に裁かれる立場を回避しなければいけない、と言う。 カミュはもう一言付け加えるべきだ、人間は自らをのみ裁く立場にあるべきだ、と。勿論、 そう付け加えたからといって、彼が「神」の観念を否定するのではない。 カミュはドストエフスキーが『悪霊』でたたかったように『ペスト』のなかでたたかう が、彼の「神」は肉体のなかにあって、ロゴスによっては是認されることのない罪――性 欲、暴力、殺人を是認する。 カミュの場合、罪の意識が己を救うというパラドックスが成立する。 カミュが私に悟らせるのは、死=無に限りなく近づく生=存在という、生きることだ。 一九五六年九月二十八日 『嘔吐』を、今日、ようやく読み了えた。サルトルは何時も難解だ。 〈私は存在したくないと考えるから、私は存在する〉 〈私の裡にあって、依然、現実感を持っているもの、それは、存在することを意識する存 在である〉 〈意識は、絶対に自己を見失うことがない。それは自己を見失う意識であろうとする意識 であるから。・・・・・・意識の意識がある〉 以上のような、アントワンヌ・ロカンタンの内白は、私には詭弁じみて聞える。私がま だ『存在と無』を充分に読んでいないせいかもしれない。しかし、サルトルの小説の強烈 な個性と独特の肉体的な粘っこさは魅力的であり、私の索めるものだ。サルトルの哲学と 身体性がこの日記風の物語手法を創造的にしている。 梶井基次郎の『檸檬』を読んだときと極似の衝撃を『嘔吐』から受けたのは、不思議だ。 主人公アントワンヌ・ロカンタンには壊れ物に触れるような脆さを覚える。不条理の意 識の、自己存在に対する不安と畏怖が、私を緊張させるからだ。ロカンタンにおいては、 一塊の石ころが人間の意識に亀裂を走らせるような感受性を日常的現実にする。不条理の 開示が日常化するのだ。人生には意味はない、自分に存在する理由はない、自己存在その ものが余計である――そうした不条理の意識が、石ころを拾い上げた瞬間、嘔気となって ロカンタンを襲う。悲劇が始まるのは、その瞬間だ。 意味のない人生のなかで生きている、余計の自己存在を存在している、そうした自己を 発見しながら、しかし現存在は否定できない。此の驚くべき不条理が、人間を日常的に極 限状態に追い詰め、実存の根源的な問いを迫る。 サルトルはそのような嘔吐の意味を文学作品によって提出したのに違いない。不条理と しての存在の苦悩! 凄烈な文学的テーマだ。 『嘔吐』の結論はこういうことになるだろう――ロカンタンの索めた、偉大な苦悩は、存 在が苦しみは在るということを知らせるだけであって、その苦しみは存在の中にはなく、 人間の背後にあって永遠に姿を現わさない、という点にある。 意味があるのは、その苦しみであって、存在そのものには何の意味もなく、苦しみとの 相対関係にあって余計なものである。此処に於いて、人間存在に対するサルトルの不条理 の意識は恒久のものとなる。カミュの『異邦人』に於けるムルソーの思想と、『嘔吐』に 於けるロカンタンの思想とは、類似の相に於いて出発する。それは『ペスト』によって、 或いは『自由への道』によって、それぞれに如何に発展させられるか。その二大作を読む のが当面の楽しみだ。 私は、私が在ることを意識する。 実存とは、そうした素朴なものかもしれない。 一九五六年十月十五日 『審判』のヨーゼフ・Kに降りかかった無実の訴訟も、『変身』のザムザを襲った冷酷 な変容も、共にメカニックな不条理への不安の意識だ。カミュの反抗が人間そのものを主 体とする不条理性へのそれとするなら、カフカの抵抗は不条理のメカニズムに対するそれ と言える。しかし、ヨーゼフ・Kの抵抗はあまりに絶望的であり、精神的自殺の相を呈す る。 「まるで犬だ」この最後の叫びによってさえ救われることがない。その時、石切台の上の ヨーゼフ・Kは既に死を受け容れていた。カミュに於いては『ペスト』の医師であれ『異 邦人』のムルソーであれ『神話』のシジフォスであれ、不条理への反抗に生きた。反抗の 文学に執って死の容認(精神的自殺)は、嫌わしい結末であるかも知れない。 『審判』によって、人間存在の極限状況は提供された。其処には既に不条理な世界への告 発があり、反抗がある。ヨーゼフ・Kは弁護士を斥け、神に反逆する。それは彼が自己自 身であろうとする偉大な努力である。しかし、彼が貧乏画家の弁舌に乗り、女の救いを求 めるとき、ヨーゼフ・Kの不安も存在も明確さを失う。カフカが文学のアンガージュマン を放棄するのと同義である。 アルベール・カミュが次の如く指摘するのは、将にそのことではないか。 〈『審判』一切を提供しながら、何ものをも確立しないのが、この作品の運命であり、そ しておそらくは偉大さである〉 〈創造が成すべきことは、遁辞を拒むことだ。 処が、カフカが全宇宙に対して提供する烈しい訴訟の果てに、わたしは、この遁辞を見 出すのである〉 カフカは『変身』に於いて人間を喪失する。『審判』に於いて起訴され、裁かれる。『城』 に於いて「測量師は必要でなかった」とき拒絶され、疎外され、罰せられる。 それらは不条理に於いて既に与えられたメカニズムであり、先天的、宿命的でさえあっ て、帰結は常に敗北なのだ。敗北だけがパラドクシカルに救いなのであって、問題なのは 敗北のために如何に闘うかである。カフカも亦、「シジフォスの神話」であり、神話=物 語が既に外部の不条理を告発している、主人公の敗北と引換に。 カフカにとって「自由」は一個の「絶望」であった。カミュとサルトルに於いてそれが 「選択」の苦悩であるのに似ている。 一九五六年十一月十四日 『カラマーゾフの兄弟』を十三日間で読み終えた。恐るべき小説だ。『悪霊』も凄かった が、その比ではない。さすが疲れた。 〈私は、偉大なる人間の苦悩と悲惨の前に跪く〉 ドストエフスキーのその言葉は私の胸に響く。ヒューマニズムではない、感傷やモラリ ズムではない。人間の愛苦に直面した魂の声が深く胸奥に響いてくる。 〈聖性とは、苦痛を役立たせることである。 それは、悪魔に神であることを強制することだ。 それは、悪の感謝を獲ち得ることだ〉(ジャン・ジュネ『泥棒日記』) 〈異教徒の徳は輝かしい罪悪である〉(キェルケゴ-ル『死に至る病』) 〈自由とは、苦痛である〉(アルベール・カミュ『シジフォスの神話』) それらの言葉をドストエフスキーの告白は想い起こさせる。人間の深淵に直面したもの が負う、悲哀とも憤怒ともつかぬ魂の声において、それらは類似である。 ドストエフスキーは次のようにも言う、〈彼らは、自分の本質を充分に究めようとして、 かえって極度な孤独に陥っている〉 苦悩、罪悪、孤独、自由という苦痛。それらは将に文学のテーマー、人生の主題に他な らない。 それなのに私にいま在るのは、仮構された苦悩と自由の苦悩、虚構の孤独と罪の観念。 此の虚構の一切が真理に変わるのは、それら苦悩、自由の苦痛、孤独、罪の観念とシジフ ォス的に闘う時であり、その闘いこそが唯一の救いと知る時であろう。 一九五六年十二月十六日 馬瀬一郎が一時、教会へ通ったのは、高校三年生の今頃の時季であった。深い動機があ ってのことではない。けもの集団を率いて暴力三昧に明け暮れていた過去と完全に訣別す ること、そして欧米文学を読み始めていて「神」の問題を理解しなくてはと思っていたこ と――そんなとき友人の夫馬敬成に勧められたのだった。 プロテスタント教会の気風には馴染めず、礼拝には数回行ったきり頓挫したのだったが、 最近、彼がそのことを思い出すのは、ドストエフスキーやカミュを耽読しているからに違 いない。しかし、それだけではないことに彼は気づいている。 教会へ行くのは最後にしようと決心して礼拝に臨んだ日、彼は牧師の説教がつづいてい る途中、突然、挙手をして質問した。教会で経験した違和感について述べ、日曜日も働か なくてはならないため礼拝に来られない友人のことを訴え、現実社会の変革にキリスト教 が寄与しうるかを質したのだ。性急な発言に四囲から冷たい視線が突き刺さってくるのを、 一郎は感じた。 礼拝が終わっての帰り、バス停にむかう彼の背に声をかける人がいた。磨かれた石像の ように額が美しく、容貌全体が透き通るような印象を与える女性だった。彼女はそのこと だけを言うために後を追いかけてきたというふうに、「私も、あなたの発言に同感だわ」 と告げた。そのあと短い言葉を交わし合ったきり、バス停で二人は別れた。名前を先に名 乗ったのは彼女のほうだ。 あのとき一度、会ったきりの神坂ねんこのことを一郎は高校を卒業するまで忘れられず にいた。彼女の像が彼のなかで薄らぎはじめたのは、大学にはいって未知の日日に気をう ばわれるようになってからだ。ところが、明日がクリスマスイブという日、一郎は思いが けず彼女と再会したのだった。 謡曲クラブのキャップの大前田が稽古のあとで皆の前に学生能発表会のチケットの束を 示したのは、四日前のこと。チケットがなかなか捌けないので各大学の部員が分担して売 ることになったと言う。どんな方法で売り捌くか相談するうち、二人一組のコンビを組ん でキャッチ商法の要領で学内で売ろうと決まり、学生だけではほとんど売れないだろうか ら百貨店なども訊ね、店員をターゲットにしようということになった。学生主催のダンス パーティを開くときパーティ券を捌く、あの手法の模倣である。それで一郎は芝山富吉と 組み、M百貨店を訊ねたのだった。 神坂ねんこが洋傘ケースのむこう側で驚きの表情をみせたのと、一郎が彼女に気づいて、 あッと声を上げたのとは同時だった。それでも神坂ねんこは瞬時に、透明な印象の容貌か ら色彩がひくように驚きの表情を納め、懐かしげな笑みを浮かべた。 一郎は挨拶の言葉が見つからず、いきなり学生能のことを説明し、チケットを示した。 「そうなの、大学へ進んだの?」 神坂ねんこは一郎をまっすぐ見ながら、なぜか視線を曇らせて言い、チケットには碌す っぽ目もやらず付け加えた、 「いいわ。友だちを誘うから二枚下さい」 チケットを渡すと会話の接ぎ穂を失って、一郎は、ありがとう、と言ったきり踵を返し てしまった。去りぎわに神坂ねんこが、クスッと笑ったのが何の意味か、彼には判断でき なかった。一郎の不器用な態度を笑ったのか、それとも一年前に教会で牧師に噛みついた 高校生がいま謡曲などしているのが可笑しかったのか。 そんなことよりも一郎には、彼女と別れて何か忘れ物でもしてきた気持ちが切実だった。 次の布石を打っておくべきだった、と思う。いや、これでいいんだ、彼女が発表会に来た ときに会える・・・・・・。そう自分に言い聞かせる端から、神坂ねんこの言った友だちが恋人 だったらどうしよう、などと一人相撲の憶測をして、そんな自分を内心軽蔑した。 学生能の発表会は終った。芝山富吉と連吟で謡った、十分ほどの『蘆刈』「笠の段」は 無難に済んだが、大前田征が舞った『田村』の地謡では、謡っている一時間ほどは足の痺 れを意識しなかったのに、謡い終えて立ち上がろうとした瞬間、一郎は見事にひっくりか えった。一郎だけではなかった。六人のうち四人までが退場するとき転んで、客席にどッ と笑い声が上がった。 神坂ねんこは発表の日、姿を見せなかった。ところが、偶然はふたたび必然のように訪 れた。 学生能発表会のあと、一郎は謡曲クラブをきっぱりと退(ひ)いた。経済学研究会の学習 には参加しており、家庭教師のアルバイトもつづけているが、時間的余裕ができた。大学 へはいって以来、疎遠になっていた高校時代の友人・夫馬敬成との交友が復活した。一郎 は文学の友人に飢(かつ)えていた。いつか同人雑誌を発行したいと思っている彼にとって、 夫馬は得がたい存在である。 一郎は夫馬と二人、栄の丸善で本を覗いたあと、夕暮れの通りに屋台の提灯が並ぶ広小 路を名古屋駅前まで歩き、大手新聞社の中部本社があるビルの一階で画具の店にはいった。 明日、島崎藤村の記念館がある馬篭へ行くことになっていて、スケッチの道具を買うため だ。「不条理の文学」に熱中している一郎に藤村への関心はないが(夫馬は相変わらず自 然主義文学を愛好している)、馬篭行きは初めてなので付き合うことにした。 画具店を出てビルの玄関へ向かおうとしたとき、何か視覚の端に閃くものがあって一郎 は振り返った。ネッカチーフなどを売るショーウィンドの傍に二人連れの女性がいて、立 ち止まった一郎に気づいたのは神坂ねんこ。 一郎が彼女のほうへ歩くのと、神坂ねんこが彼のほうへ近づいてきたのと、ほぼ同時だ った。 「この前はごめんなさい。祝日の休暇はどうしても取れなくて」 神坂ねんこが、詫びる機会を待っていたふうに言う。 「チケット返品してくれてもいいよ」 一郎は言って、すぐ後悔した。神坂ねんこは可笑しそうに小さな笑みを浮かべた。その 顔に化粧気のないのが、彼女の職場柄、意外だった。 「琥珀でお茶でも飲まない?」 コーヒーを飲みながら、学生能の発表会のとき謡い終って退場しようと立ち上がった瞬 間、足がしびれてひっくりかえった話をして、彼女が笑うのを見たい、そう思う。 神坂ねんこは連れの女性を振り返り、今度の機会に、と断った。彼女は踵を返して去っ たが、今度の機会に、という一言は一郎の耳に新鮮だった。 翌日、日帰りの馬篭行きを「信州の旅」に変更しようと言いだしたのは、一郎だった。 去年の三月、いまと同じ季節、高校卒業の記念に淡路島と京都を巡る一人旅をして以来、 旅の気分を味わっていない。こんども一人旅をしたいのだが、いきなりそれを切り出すわ けにいかず、夫馬が難色を示せば物怪(もっけ)の幸い。ところが夫馬はあっさりと同意し た。信州の旅なら島崎藤村ゆかりの小諸や千曲川を訪ねられるからにちがいない。 二人は深夜の名古屋駅から中央線鈍行列車に乗った。 一郎は旅のあいだ車中や宿で折折の感想をノートに綴った。 夜行列車にて 疲労と不眠のなかで始まった旅でさえも、いつの日にかそれが蘇る思い出になることを 思えば、不快を覚えない。喧騒と間抜けと不作法に充たされた夜行列車の一夜さえ、思い 出の種子であることを知っている。 夜明けのイメージ 夜の明け染める頃、白っぽい翳らいのなか列車は走る。 山陵と山陵の狭間(はざあい)、谷間の底に、文明から見棄てられ、あるいはそれを拒絶 して息づいている村々。点在する家々の明かり、静まり帰るたたずまい、その風景が醸し 出す無関心。 夜明けの村が醸し出す美しさは、論理ではなく情緒だった。それで二人は「朝とその美」 について語り合った。「朝には邂逅があり、夕には別離がある」などとぼくが言う。その 陳腐なアフォリズムさえ滑稽ではなかった。 老尼と従者 善光寺で奇妙な儀式を目撃した。 二人の尼僧を従えた老尼が、朝の参道を勤行のために本山へ登って行く。従者の一人が 赤い傘を老尼の頭上に差しかけ、いと厳かに静々と。 参道の両側には多くの善男善女が跪き、瞑目する。男たち数人が参道の者に跪拝するよ う促す。従者の尼僧二人はあたりをキョロキョロ眺め、きらびやかな僧衣の老尼は、拝跪 する信徒たちの頭に手を触れては通り過ぎる。このうえなく事務的な仕種で。 お道化た若者たちがその奇妙な儀式を笑いながら老尼の前に跪く。老尼は変わりない所 作で若者たちの頭上に手を添える、このうえなく厳かに、事務的に。 この儀式の性格の途轍もないアナクロニズムに、ぼくと友人は当惑する。なぜか滑稽と 裏切りをぼくは感じる。 ぼくも藤村的? ぼくの嫌いな藤村の、看板絵もどき一色に塗りつぶされた悲劇的な城下町。 なのにぼくも友人同様、小諸城址の落ち着きと、小雨の煙る千曲の谿流に心魅かれるの を、如何ともできない。 所詮、ぼくも藤村的なのか? ドイツ人の別荘 すっかり落葉した木々の間を真っ直ぐ続いていく赫土道。 軽井沢で前時代的な電車を降りたぼくらは、題名のない歌をハミングしながら、時に口 笛を吹き、ほかに人影のない竝木道を歩く。外人別荘地帯を通り過ぎる時、ぼくらはその 殆どがドイツ人の標札であることを知る。門扉に掲げられた番号もドイツ語。 「シュバイツアー」 「否、シュバイツェル」 友の発音をぼくが正す。 旅について 人と喧騒の諏訪湖畔。縄文の神々が渡った湖面に神秘なく、凡庸。昨夜の宿で飲み過ご した宿酔が、まだ尾を引いている。 八ケ岳、アルプス、富士を霧ヶ峰高原から望んで、気持かなり慰められる。 旅――それは人生への、怠惰な、変哲のない、しかし決定的な意志であり、刻印である。 信州の旅からもどって日を経ずに一郎がM百貨店を訪ねたのは、一週間まえの夕方、偶 然に出会った神坂ねんこがもらした言葉を彼のほうから実現しようと思い立ったからだ。 今度の機会に・・・・・・。彼はあのとき彼女の言葉に新鮮な感情を覚えたけれど、態のいい逃 げ口上かもしれないと疑っていた。それならそれで構わないと自分に言い聞かせ、三度目 の偶然に賭けるつもりでいた。ところが旅から帰って、こちらから神坂ねんこに会いに行 こうと思い立ったとき、それが不意の衝動ではないことに彼は気づいた。小諸の町で木(こ) 芥(け)子(し)を買ったときすでに彼女への土産にする心づもりだったのだから。 「ふーん、島崎藤村、好きなの」 一郎が信州を旅したことを言って木芥子のはいった木箱を渡すと、神坂ねんこはちょっ とためらったけれど、ありがとうと言って受け取り、そう言った。彼女の口吻が一郎には 微妙な侮辱をふくんでいるふうに聞えた。 いや、違うよ。旅のあいだ、おれはマルローの『人間の条件』を読んでいたんだ・・・・・・。 「藤村なら、『破戒』を読んだことがある」 神坂ねんこはちょっと無機質な口調で言いつぐ。 『破戒』ならおれも読んだ、と言おうとして、一郎はやはり『人間の条件』にこだわる。 それなのにうまく言葉にならないのは、神坂ねんこがアンドレ・マルローを知ってるだろ うか、いや知っているとして、気障にとられないだろうか、そんなためらいがあったから だ。 「ごめんなさい。客でもない人と立ち話してると、同僚がうるさいのよ」 不意打ちみたいに神坂ねんこが、一郎の胸を一突きした。 一郎はまたも、彼女が厄介払いしたがっていると勘繰って腹を立て、背を向けて商品ケ ースの傍を離れた。二、三歩来たところで不意に踵を返し、ふたたび神坂ねんこのほうへ もどると、一郎は彼女を誘った。退社時に合わせて時間を決め、M百貨店と道路を隔てて 隣り合う丸善の二階書籍売場で待っている、と告げた。神坂ねんこの返事は曖昧だったが、 断ったとも受け取れなかった。ただ、これまで会うたび彼女の透明な印象の顔を輝かせた 笑みが、きょう一度もみられなかったのが一郎の気にかかった。 一郎が強引に告げた場所に時刻を違わず神坂ねんこが現れたのは、彼になかば意外だっ た。それでも彼はそのことを確信していたように考えることにした。 夕暮れどきの風が少し冷たい街路を、二人は広小路通りから名古屋駅前まで歩き、喫茶 店にはいることにした。途中、神坂ねんこは口数少なく、小柄というのではないが華奢な 体付きに似合わず足早に歩いた。一郎は、彼女が異性と散歩することに慣れていないせい にちがいないと思うことにした。 喫茶「琥珀」で一郎はコーヒーを、神坂ねんこはレモンティを飲み、会話も途切れがち に十五分ほど過ぎたとき、彼女は彼のコーヒーカップが空(あ)くのを待っていたかのよう に帰ると言い、琥珀ビルの前で別れた。 翌日の金曜日を間に置いて、一郎がたてつづけに三日間、神坂ねんこの職場を訪ねたの は、彼自身にも馴染まないほどの情感に衝き動かされてのことだった。訪ねるたび一郎は 彼女を誘い、最初のときと同じ場所で約束の時刻に待ち、昏れなずむ街路を二十分ほど歩 いて、駅前の琥珀でお茶を喫む。二人の会っている時間が徐徐に長くなったのは、散歩の 道道、交わす言葉が次第に増え、歩調がゆったりとし、コーヒーとレモンティを飲みなが らの会話にも気持ちが通いはじめたからだった。 そうして一郎は、彼女について少しずつ知るようになった。神坂ねんこの家は、名古屋 から西北へ私鉄電車で十分ほどの町(そこはすでに市内ではなく郡部なのだが)にあって、 高校は名古屋の西部にあるそれへ、一級河川庄内川に架かる橋を渡って自転車で通ったと いう。彼女の通った高校が一郎の卒業したけものの学校とは対極の名古屋でも有数な進学 校であることを知って、彼が驚いたふりをすると、 「馬瀬さん、東方高校なの。あの学校の生徒には近づくな、というのが、わたしの学校の 校是だったわ」 神坂ねんこはそう言って、「校是」という言葉におどけて笑った。 一郎も図に乗って、漁港の町の彼の家のこと、高校時代は「トーホーのイチロー」など と呼ばれ、傷害事件で家庭裁判所送りになったことなど、話したりした。 それなのに肝腎な大学の話はしなかった。彼女が時に口にする言葉の端端から、神坂ね んこがその話題を好まないと気づいたからだ。三か月ほどまえ学生能発表会のチケットを 売り捌いていて偶然、M百貨店で一年振りの再会をしたとき、彼女は「そう、大学に進ん だの」と呟いて表情を曇らせたのだったが、それ以来、一郎の頭の片隅にその表情が謎の ようにひっかかっていた。謎が解けたのは、彼女が大学進学を断念したときの口惜しさを 語ったからだ。 二人が出会うきっかけとなった教会へ彼女が通ったのも、進学を断念せざるを得なかっ た(その理由について神坂ねんこは語らず、一郎も問い質さないことにした)心の動揺を 慰めるためだったという。当時、動揺のまっただなかだったということらしいが、あれは 一郎が高校三年生の三学期なのだから、神坂ねんこは同学年ということになる。 「最初に会ったとき、確かおれより年上のように言ったはずだよ」 一郎が真面目な口調で言うのに、 「そんなこと言った? もし言ったのならわたしの天邪鬼が騙したんだ」 神坂ねんこは事もなげに返し、表情を淡い色彩で染めた。 一郎が神坂ねんこを馬篭行きに誘ったのは一種、自然のなりゆきだった。四月にはいっ て二年生前期の授業が始まる直前の金曜日、二人は朝早くの名古屋発中央線の列車に乗っ て中津川まで行き、そこから緩い傾斜の山道を休み休み歩いて二時間ほどをかけ馬篭へ行 った。夢が実現して、一郎は得意の絶頂だった。 神坂ねんこと初めての接吻を交わしたのは、馬篭の宿(しゅく)を散策したあとさらに傾 斜の道を登り、妻篭の宿の入口あたり、人けの途絶えた山涯の際でだった。四囲に展けた 山嶺を眺めるうち、一郎が感情に促されるまま誘い、二人は唇を合わせた。何かの果物に 似た彼女の口臭が生(なま)めいて一郎の欲情を刺激した。彼は舌さきで彼女の唇をひらこ うとする。神坂ねんこは少し息を弾ませたが、最後まで歯を噛み合わせたままだった。 Ⅱ 「愛智大学名古屋校舎」の標板がある校門をはいって、右手に櫟の木が一本、先端の鋭い 葉を繁らせて毅然と孤独に立っているのを眺め、狭いキャンパスを抜けると、事務棟の玄 関はある。 あれ、何かあったのか・・・・・・。 掲示板の前に学生たちの集(たか)っているのが馬瀬一郎の目にはいった。休講とか教務連 絡といったなじみの場面にしては人集りが普通ではない。合格発表の掲示を見るのにも似 て、学生たちの様子がどこか昂(たかぶ)っている。 掲示板にはB紙をつなぎ合わせた貼紙に三十名ほどの姓名が墨書されており、その頭書 きによって新学年特待生の発表であることが知れた。 「馬瀬君、凄いんやね。特待に選ばれとる」 横合いから声が飛ぶ。フランス語の授業と経済学研究会でいっしょの芝山富吉が浅黒い 童顔に笑いを浮かべている。芝山が声をかけなければ、一郎は貼紙の名前も確かめずに掲 示板の前を離れるところだった。 経済学科二年生の欄に馬瀬一郎の名前が確かにあった。瞬間、頭の中が少しぼーッとし た。錯覚ではない。 入学試験では特待生枠を受けて不合格だった。以来、一郎は特待生へのこだわりを捨て ていた。確かに一年生前後期の成績簿はほとんどの科目が「優」ではあった。だからとい って特待生をめざして勉強したつもりなどなく、大学のレベルがよほど低いのだろう、と 思っていた。 もしかするとベルモントさんのお陰かもしれない・・・・・・。ふとそんな疑いが一郎に起っ た。フランス語の美波志ベルモントが一郎に示す好意からして、彼が教授会(特待生選考 委員会)で強力に推したということは、充分に考えられる。 一郎は名古屋駅に近い家で母子二人の間借り暮しをしている夫馬敬成の部屋に泊まるこ とが多くなっていたが、四日ぶりに漁港の町へ帰った。家へ着くなり、特待生に選ばれた ことを報告すると、父は喜んだ。父の半端ではない喜びぶりをみて、特待生選抜のいきさ つへの疑いは吹き飛んだ。 大学入学以来、一郎は奨学金とアルバイトの収入で学費などを賄い、家からの経済的援 助は一切、受けていない。だから、父の喜びが金銭的理由でないことは確か。高等小学校 を卒業後、家業の職人仕事を継いだ父は、五十二歳になる今日まで間に外国航路の貨物船 乗組員、山林伐採人夫、繊維ブローカーなどの職も転転としながら八人の子どもを育てた。 小学校の頃、「勉強の出来る子」として町の語り草になるほどだった父には、「上の学校」 へ行けなかったことが余程、口惜しかったらしく、子どもには教育を受けさせたいと口癖 にしてきた。長女は高等女学校を出たけれど、長男、次男はいずれもぐれて高校途中で退 学した。三男・一郎の大学進学によってようやく希望は叶ったのだった。そこへ飛び込ん だ、特待生選抜の報だった。 一郎はといえば、経済的理由によって率直に喜んだ。授業料免除は、奨学金の月額二千 円がまるまる浮くことを意味する。これまで散発的に手に入れていた「世界文学全集」(河 出書房刊)の購入にはずみがついて、全巻揃える目途がついた。窮屈にしていた小使いに もいくらか余裕がうまれた。 一郎が夫馬敬成と連れ立ってストリップ劇場をしばしば訪ねることになったのも、いわ ば特待生の余禄ということになる。 開慶座は名古屋駅前のビル街を少しはずれた商店通りにある。もともとは芝居小屋だっ たので、舞台、花道、二階桟敷が残っていて、せり上がりもある。フィナーレにはそこか らトリをつとめるダンサーが登場する。 一郎と夫馬は、時間を持て余す日など朝十時の開演から二階桟敷に入りびたる。時時は ダンサーの拙い踊りを眺め、素人っぽい芸人の幕間ショーを見るが、畳に寝そべってうた た寝をしながら夕方を待つ。腹拵えは出入りの都度、下足番のおにいさんに挨拶して、商 店通りの駄菓子屋でパンと牛乳を買ってくる。 夕刻、客席と舞台の様相は一変する。一階座席ばかりでなく二階桟敷までが客で一杯に なり、一郎たちはたたみに寝そべるどころか、男たちが発散する熱気の渦にのみこまれる。 登場する踊り子の肉体も芸も輝き、ミュージックボックスの演奏者たちが華やぎと哀愁を 醸し出す。幕間のコミックショーや紙切りの演技では、年季のはいった芸人たちが客席を 堪能させる。 クライマックスは、トリの踊り子がせり上がりから登場し、舞台でひとしきり演じなが ら身に着けたものを一枚一枚脱いでからだ。舞台の端で、花道の所所で、彼女が膝を開い て股間のものを誇示するたび、客席はその一点をめざして見事に統制された人の波をつく る。彼女の一挙手一投足が波のうねりを招き、干かせる。その情景は二階桟敷から眺める 一郎に、異様とも感動ともつかぬ情感をもたらした。 ショーが干けると一郎は、踊り子の肉体と芸にか、あるいは観客の興奮にか、いや、そ のいずれにも昂揚して体じゅうの血を火照らせて、劇場を出るのだった。 開慶座では夫馬敬成が一緒ということもあって、一郎の欲情は中途半端にしか解放され なかったけれど、中央劇場では奔出した。広小路通りの途中、堀川運河に架かる納屋橋の 袂にあるそこへは、一郎は一人で行くことにしていた。もとは映画館である中央劇場は、 開慶座とは対照的に場内は健康的なつくりで人の波も起らず、上品なストリップ劇場だ。 それでも一郎は見知らぬ男たちのなかで一人、舞台のダンサーの裸身に見入っているうち、 抑えがたい欲情を覚えて席を立ち、便所へはいった。ズボンのファスナーを外すなり、彼 の意思とかかわりなく精液は奔出した。欲情は外部の何かによって抑制されない場合、さ らのままに醸成されるのだろうか。孤独と性欲のあいだには、何か暗暗とした生理のかか わりがあるのかもしれない。 一郎が未世出のストリッパーと言われるジプシー・ローズの舞台を観たのも、中央劇場 だった。彼女の引退興行と銘うたれたその日、ジプシー・ローズの肉体にはすでに脂肪が つき、踊りにも生彩が失われていた。一郎はその舞台を見るうち、自身の孤独と彼女のそ れとを奇妙に混淆した。 踊り子たちの裸身に孤独な欲情を奔出させるのは、神坂ねんこへの情欲の代替行為なの かもしれない・・・・・・。時に一郎はそんな想念にとらえられて陰気な気分になった。 神坂ねんことは、一週間と間隔を置かず頻繁に会っている。平素は彼女の退勤時間に合 わせてM百貨店に隣合わせた丸善で待ち合わせ、名古屋駅前まで広小路通りを歩いて喫 茶・琥珀でお茶を飲むか、時には毎日ビルの地下にある大衆バー・オリオンでビールを飲 んでダべるのだが、彼女の職場が定休日には日帰りの遠出を愉しんだりもする。知多半島 を海岸沿いにバスで巡ったり、渥美半島の尖端・伊良湖畔を訪ねた。一郎は海を好んだが、 神坂ねんこは緑を好んだ。それで木曽川畔に遊んだり、瀬戸の緑地公園や海上(かいしょ) の森を散策した。恵那へ行ったときは山麓を巡るうち方向を見失い、トンネル工事の作業 員に叱られた。二人は発破作業の現場にまぎれこんでいたのだ。 いまでは会うたび二人は、接吻を交わすのが習いになっている。神坂ねんこが舌をから ますことを覚えたのはいつ頃からだろうか。いまでは熱っぽい所作さえ示すようになって いる。 ところが、一郎に体を任すことを彼女は拒んだ。知多半島の尖端・師崎の人気(ひとけ) ない海辺の岩陰で抱擁し合ったときも、伊良湖の恋路ケ浜で肩を寄せ合って沖合にひろが る紺青の水平線を眺めていたときも、一郎は激情に駆られて彼女の下衣に手を忍ばせたの だったが、神坂ねんこは彼の侵入を撥ね返した。木曽川畔の繁茂する雑木林や海上(かいし ょ)の森で二人きりになって、鳥たちの囀りを聞くうち一郎が欲情を抑えがたくなったとき も、神坂ねんこは毅然とさえおもえる邪険さで彼を拒絶した。 デイトのたび使う金は神坂ねんこがいさぎよく払って、一郎に「貢ぐ」という言葉を想 い起こさせるほどだったのだから、彼女が彼に献身しているのは確信できた。それだけに いっそう、彼女の拒絶は一郎に不可解だった。 神坂ねんこの拒絶に遭うたび、一郎は鬱積する気持ちをノートに記した。「檻と草原」 につぐ六冊目のノートは、現在の彼の文学的関心を反映して、「不条理と実存」と名づけ られている。 Nよ、君は余りに強すぎる女(ひと)だ。 逢うたび、君はその事実をぼくに再認識させる。その認識はぼくにとって苦痛だ。 君の華奢な肉体の何処に、あの烈しい焔は隠されているのか。ぼくは気力なく、虚弱な、 空虚(うつろ)すぎる人間だから、君の強さに従いて行けない。だから、君の肉体を求める時 に遭遇する、あの拒絶は、何か非人間的な酷薄をぼくに感じさせるのだ。 いま、ぼくの、愛に関する感情は、実に複雑だ。繊細なほどだ。否、虚弱と言うべきか も知れない。 注意深く、慎重に、常に神経を研ぎすましていないと、ぼくの愛は忽ち、他の忌むべき 感情に変ってしまう。愛は虚となって、欲望だけがぼくの感情の底に残るのだ。 ぼくの愛の対象が、いま肉の存在のみであるなら、ぼくは、欲情より以外のもの、即ち より高貴なもの、より優雅なもの、より知的なものを、愛に感じることは出来ない。或る 女(ひと)を愛するとしたら、そこには精神的なもの、無垢なものが(必ずしも美的である必 要はない)、発見されなくてはならないのに。 しかし多くの場合、ぼくは愛の感情に精神の純粋を見出すことが出来ない。或る女をこ よなく愛したいと思うのに、彼女の内面を侮り、愛の欲求は枯渇を潤す精液の甘美のみを 味わおうとする。 それでもぼくは、愛したい。欲情によって変型された愛ではなく、認識によってさえ充 たされる真実の愛によって。 其処でぼくは、或る造作を自分及び相手に施す。 即ち、恋愛という営みからはそもそも永久に見出されないであろう無垢と崇高の像を、 自己の空想世界で形成するのだ。即ち、男と女の関係に架空の純粋と優美を創造するのだ。 存在しもしない純粋と優美を虚構的に想像することによって、恋愛という像を飾ってやる のだ。 そのような、虚構的に創造された愛による他に、ぼくは愛する術を失っている。残され たカードは他にはない。だから、このような奇妙な仕方の愛であっても、ぼくは充分に満 足なのだ。方法はどのようであれ、愛という感情を持ち得る能力が付与されていると信じ られることは、ぼくにとって至上の歓びなのだ。ぼくは、手放しで喜悦に入る。 しかし、このような愛の、なんと脆弱なことか。虚構の愛の仕種など、現実の仕種―― たとえば彼女の何気ない言葉、表情、身振り、媚態、性の仕種によって、雑作なく破砕さ れてしまう。嘔吐のように消え失せてしまう。 後に残るのは欲望の残骸。 ただただ虚構な、虚無のそのまた虚無が、呪われた屍(しかばね)のように残るだけだ。 そう、それは実にロマンティックな愛の骸(むくろ)だ。 ぼくらのものである日日。ぼくはNのために何かをしたいと言い、最後に忘れず、Nを 好きだと付け加える。Nは、あなたはわたしのことを好きと言いすぎると抗議し、最後に 必ず、息がつまる、と言う。それでも、夜と語らいと微笑と善意とは、二人のものだ。 ぼくはNを愛したのか? ぼくらにはそれはどうでもいいことのようにおもえる。巨大 な無関心という他人の渦のなかで、ぼくらは出会い、触れ合い、犠牲を交し、たがいを愛 したと信じる。ぼくらにはそれだけで充分なはずだ。 (ノート「不条理と実存」) 一郎は神坂ねんこへの情念を宙づりにされたまま、抗しがたい誘惑に溺れる気分のなか にあった。 経済学研究会の学習のため読まなくてはならないテキストも通り一遍に目を通してやり すごすので、他のメンバーとの知識の遅れはますます水をあけられる。大学の授業には、 神坂ねんこの職場が定休日に日帰りの遠出をする以外は、欠かさず出席してはいる。一般 教養過程の必要単位は一年生で三分の二ほど取得して進級に心配はない。だが、せっかく 選抜された特待生を次年度も維持できるか不安があった。 一郎が以前から念願していた同人雑誌の発行をいよいよ決心したのは、そんな宙吊り状 態から出口を見出したいという衝迫があってのことかもしれない。 大衆バー・オリオンのカウンターで二人が肩を並べた日、一郎が構想中の雑誌について 語っていたときだった。 「一泊旅行しない?」 神坂ねんこが唐突に言った。バイオレット・フィーズのグラスを弄りながら呟いたのだ が、一郎には激しい言葉に聞えた。 神坂ねんこと一郎が諏訪湖を訪ねたのは、四日後の金曜日。午後三時頃、そこに着いて、 縄文の神々が渡ったという広い湖面を望み、湖畔を歩いた。一時間ほどして冷雨が降り出 したので、旅館へ急いだ。 質素な中庭の見える和室で座卓を挟んで語り合ううち、冷雨はいつの間にか霙まじりに なっている。 「雪の季節にはまだ遠いのにね」 窓の外の風景を眺めながら、神坂ねんこが言って、一郎を真似てタバコを吸う。それは あとにも先にも初めてのことであり、咳きこんで顔を顰めたりしたけれど、一郎には彼女 の仕種がくずれた女を演技しているようで好もしかった。 入浴と食事をすませて、一郎が逸る感情を抑えぐずぐずしているうち、さきに寝衣に着 替えたのは彼女だった。蒲団にはいるなり、一郎は彼女の体を抱いた。口づけを何度も交 わすあいだ、神坂ねんこは一郎の体を抱きしめ、身を捩らせた。 一郎の下衣を彼女が脱がせた。一郎が彼女の下腹部へ手を伸ばすよりさき、彼女は自分 の下衣を取った。一郎が彼女のなかにはいって射精するのに三分とかからず、そのあいだ 神坂ねんこは眼と唇をきつく閉じたまま下腹部を動かすことも知らなかった。抱擁しあっ て何度も唇を交わしたときの激情が嘘のように。 曖昧な眠りから醒めたとき、まだ深夜だった。神坂ねんこは彼の腕に身をあずけて、小 さい寝息をたてている。一郎はそっと彼女の体から腕を外し、寝具から出て素裸かのまま 座卓の前に座った。そこに開いたノートにペンをはしらせた。 諏訪。忘れることのできない至福の土地だ。ねんこはいま少女のような寝顔でスヤスヤ 眠っている。 幸福とは、こういうことか。人間は結ばれて、幸わせなんだ。幸福などというニヤけた 言葉、俺は好かないけれど、今は別だ。 空は輝くために。星は光るために。風は歌うために。雪は白さのために。そして君はぼ くと結び合うために。似合いなんて、もともとはない。愛し合って、似合いなんだ。それ は見事な創造行為。三十年、五十年それは朽ちることがなく、ぼくらは皺だらけの似合い を続けるだろう。 ねんこ、愛とはそういう単調なものに違いない。だけど、何んという鮮烈な単純だろう! そこまで書いたとき、一郎は突然、ペンをノートの上に投げ出した。背後にねんこの眼 醒めた気配を感じたからだ。 ねんこは蒲団の上に上半身を起こしている。少し寝惚け顔のまま微笑んだ。その表情に 誘惑されるように、一郎は彼女の体に彼の身を投げた。唇を交わすのももどかしく一郎は 彼女のなかにはいった。ねんこは驚いたふうに彼を見つめたが、最初の行為のときとはち がって、眼を見開いたまま一郎の動作に合わせ、ぎこちなく下半身を動かした。溜息に似 た幽かな声が唇から洩れる。彼女のものが彼のものを包むように濡らすのを感じたとき、 一郎は胯間に鮮やかな解放感を覚え、まるでノートに文章の続きを記すように、愛よ、永 遠よ、と心のうちに呟いて彼女のなかに精液を放った。 一郎に、ある「事件」が起きたのは、神坂ねんこと初めて体を交わして十日と経たずだ った。他人には「事件」と呼ぶには当たらないことであったとしても、彼には切実な事件 と感じられた。 「事件」は、ヴィクトル・E・フランクルの『夜と霧』を読んだことに因(よ)る。みずから も悲惨を体験したユダヤ人心理哲学者が、ナチス・ヒトラーのアウシュビッツ強制収容所 におけるユダヤ人ホロコースト(大量虐殺)を記録した、その一冊が、一郎を衝撃した。 ガス室への通路いがいの明日(あす)を奪われた人びとの極限の生と死――その生生しい物 語の証言と、著者による鋭利な人間観察、そして巻末に載せられた数数の写真が一郎に呼 び覚ましたものは、人間という存在についての深甚な畏敬と恐怖という驚くべきアンビバ レンツだった。彼はドストエフスキーの『死の家の記録』とはまた別の感動に心を戦かせ て、その一冊を読んだ。書物によって初めて与えられた、魂を揺すられるのに似た経験か もしれない。 『夜と霧』を読んだあと、一郎のうちに何かが崩れていく感覚をもたらした。経済学研究 会で仲間たちと交わす議論など、ひどく教条的で、人間という存在からは遊離した、空疎 な概念の遊戯にすぎない、と思えた。いや、経済学の論議だけではない。彼がこれまで文 学作品によって理解しえたと信じていた、不条理とか実存とか、孤独、反抗といった人間 存在をめぐる認識が、まるで観念的虚妄ではないか、と疑われたのだった。カフカなどを 引き合いにして友人・不馬敬成の浪漫的教養主義を批判してきたのが、子どもじみた衒学 趣味とさえ思える。カフカを読みはじめた頃、一郎がその名前を口にすると、夫馬は「カ ステラみたいな名だ」と茶化したのだったが、あのときの彼の口吻が妙に気にかかる。 一郎は衝撃をうまく整理できないまま、『夜と霧』のなかのフランクルの思索の断片を ノートに書き散らした。 〈異常な状況に於いては、異常な反応が、将に、正常な行動であるのだ〉 〈苦悩する者、病む者、死につつある者、死者――これら総ては、数週の収容所生活の後 には、当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことは不可能になる〉 〈此の無感動こそ、当時、囚人の心を包む最も必要な装甲であった〉 〈一体、此の身体は、私の身体だろうか、もう既に、屍体ではなかろうか。 一体、自分は何なのか? 人間の肉でしかない群衆、掘立小屋に押し込まれた群衆、毎日、 その一定のパーセントが死んで腐って行く群衆、その一小部分なのだ〉 〈自分の生命を維持する為の、排他的な関心に役立たないものを徹底的に無価値なものと した〉 〈恐ろしい周囲の世界から、精神の自由と、内的な豊かさへ逃れることに於いてのみ、繊 細な性質の人間が、しばしば頑丈な身体の人よりも、収容所生活をよりよく耐え得たとい うパラドックスが理解され得るのである〉 〈愛は、結局、人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものである〉 〈愛は、一人の人間の身体的存在とはどんなに関係薄く、愛する人間の精神的存在とどん なに深く関係していることであろうか〉 〈強制収容所に於ける人間が、群衆の中に消えようとすることは、自分を救おうとする試 みでもある〉 〈苦難と死は、人間の実存を始めて一つの全体にするのである〉 〈自然主義的な人生観や世界観が、種々の多様な規定性や条件の産物に他ならないと、我々 に信じさせようとすることは、果たして真実なのだろうか〉 〈人間は身体的性質、性格学的素質及びその社会的状況の偶然な結果に他ならないのだろ うか〉 〈人が、感情の鈍磨を克服し、刺激性を抑圧し得ること、また精神的自由、即ち環境への 自我の自由な態度は、この一見、絶対的な強制状態の下に於いても、外的にも、内的にも、 存し続けたのである〉 〈まず最初に、精神的人間的に崩壊して行った人間のみが、収容所の世界の影響に陥って しまう。また、内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが、崩壊してしまう(此処に言 う、内面的な拠り所とは、心に未来の何か、目的を持つということである)〉 〈強制収容所に於ける囚人の存在は、期限なき仮の状態である〉 〈強制収容所に於ける、内的な生活理想は、人間的に崩壊してしまった人間にとっては、 過去への回顧的な存在様式になるのである〉 (ノート「不条理と実存」) 一郎はフランクルの言葉の処処に、以前に読んだドストエフスキー『死の家の記録』か ら記憶にとどめている言葉の断片――「人間は、総てに慣れ得るものだ」「私は、私の苦 悩にふさわしくなるということだけを恐れた」といったフレーズを挿入して書き写したの だったが、書きすすめるうち衝撃の核心がもっと別のところにあると気づいた。 衝撃の核心は、人間の身体にたいする畏怖だった。強制収容所で亡びゆく肉体に対する 内的、精神的な自由の優位を説くフランクルの体験的思考に魅かれたのは確かだったが、 その内的、精神的自由への意思が一郎に呼び覚ましたのは、より直截に、身体への畏怖で あった。 ガス室で焼き殺される人間の肉の臭い、その肉体の脂肪を材料に製造する石鹸、人間の 皮膚を剥がして作製された電気スタンドの笠、毛髪で編んだ壁飾り――それら人間の「残 虐な叡智」がもたらす、肉体への恐怖。その恐怖が一郎のなかで女性への怖れを目醒めさ せたのだった。侵されてはならない聖なるものであるはずの肉体。その肉体に触れること への禁忌の感覚は、生ぬるい血のはいった壺に素手を突っ込むような、手ざわりと臭いの 感触として、一郎をおそった。 生生しい感触が神坂ねんこという一人の女性の肉体にむすびついて、確固とした畏れの 感情に変わるのに、彼の内面で何の媒介物も必要としなかった。全裸のまま死の部屋へと 追い立てられる女たちの肉体に、神坂ねんこの白い裸身を想像するのに、心理的な操作の 余地さえなかった。 聖なる身体への生生しいほどの畏怖――自分のなかに呼び覚まされた、その感情が癒さ れる時まで、ねんこは抱けない・・・・・・。哀しいような、憤りにも似た気持ちで一郎はそう 思った。 Ⅲ 「小説界」 軍艦が言う。 「寓話」 三郎さが言う。 「浪漫」 夫馬敬成が言う。 「海」 氷やの K ちゃんが言う。 「実存文学」 馬瀬一郎が言う。 「棄権」 最期に任天堂が言う。 その瞬間、一郎の家の二階に集まった六人の若者は、いっせいに嘆息をもらした。 同人雑誌を発行するために数回、会合をかさねて、同人の顔触れが固まり、発行所を一 郎の家に置いて編集も彼が担当することになった。結社としての旗幟はとりたてて鮮明に せず、各人がそれぞれの個性を発揮して精一杯の作品を載せようと意思一致した。いくら か議論はあったけれど、そこまではトントン拍子に話がまとまった。ところが、肝心の誌 名を決める段になって脱線した。前回の話し合いでまとまらず、きょうまた各自の推奨す る誌名を挙げることにしたのに、これが前回、各自が提案したものの鸚鵡返しで各人各様 になってしまった。 「これじゃ、埒が明かんなぁ」 しばしの沈黙のあとで、三郎さこと伊東三郎(一郎の次兄の同級生で名古屋大学教育学 部四年生)が、得意の臭いのないおならを音高くひりながら言った。 「ご破算にして、あたらしい誌名を考えよう」 そう言ったのは、綽名が頭の格好に由来する軍艦こと馬瀬広之助だ。軍艦は広島の大学 を卒業して漁港の町へ帰ったばかりの、同人のなかでは最年長。 軍艦の意見に誰も賛否を表明しないまま、 「追(つい)舟(しゅう)」 と、氷やの K ちゃんこと馬瀬圭吾が言って、即座に、薬局の息子である任天堂こと古見 皓也と夫馬敬成(いずれも一郎の高校同級生)が、それに賛同した。この場の雰囲気にう んざりして、早く決着をつけたいのらしい。 「上品なエロティシズムがあって、いいじゃないの」 「うん、平凡なようでいて含蓄がある。誌名として他にはなさそうなのがいい」 三郎さと軍艦が口を揃えて賛成する。 「夜の太鼓」 一郎は咄嗟に口にした。「実存文学」に固執していて他の誌名など考えていなかったの だが、「追舟」に対抗上、急きょ思いついたのだ。 馬瀬のやつ、また我(が)を出して・・・・・・。夫馬敬成と古見が顔を顰める。年長の三人は格 別、意に介してないふう。場所の雰囲気は圧倒的に「追舟」優勢だが、一応裁決しようと いうことになる。 案の定、一対五で「夜の太鼓」の惨敗だった。 一郎は主宰者の立場を自負していたので、自分の提案が孤立させられたことに面白くな かった。借りは作品で返そう・・・・・・。彼はそう腹に決めた。 同人雑誌創刊の計画が具体化すると、一郎は早速、創作にとりかかっていた。ここ二年 ほどのあいだ、「瓢箪」「如来菩薩」「芥川治」「星男」「破綻」「怯懦者」「壁の中」 「殺人」などと題して中短編の習作を試みていた。いつか雑誌を出す日のためにと書いて いたのだが、それらはすべて没にすることにした。芥川龍之介や太宰治のはしかから癒え ない模倣が目に余って、現在の文学的関心とはかけはなれすぎているからだ。「壁の中」 や「殺人」といった習作は、サルトルの「壁」、カミュの「異邦人」に影響されて書いた ものだが、これも模倣の域を出ない。 そうしてあらたに書きはじめた小説「甲蟲と奇妙な女」の構想について、一郎はノート に次のように記している。 主人公の“奇妙な女”は四十四歳、独身の中学教師。彼女は女学生の頃、一度だけ男の 肉体を知っている。その時の体験が今、彼女の肉体に激しく蘇る。 或る憂鬱な雨の日、彼女は庭さきに面した縁の下の踏み石に牛乳壜を見付ける。壜の中 には誰が入れたのか雌雄二匹の甲蟲が入っている。二匹の昆虫が交わす性戯が、彼女を激 しく嫉妬させる。 主人公は冷酷な悪戯を思い付く。雌の甲蟲を別の牛乳壜に移し、雌雄を引き離して二匹 が互いを求めて身悶える姿を楽しもうと企てる。 彼女は毎日、壜から逃れようとしてシジフォスの徒労を繰り返す雌の苦闘を眺めては冷 酷なサディズムにひたる。 遠い昔に男から捨てられ、教師生活に倦んで教え子に愛着を抱けず、生のすべてに何の 意味も感じられず、依怙地に虚無の日々を送っている彼女。甲蟲への卑しい戯れが一時、 彼女に生の感情を幻想させる。 軈て、二匹の甲蟲は死ぬ。不条理の意識は甲蟲の死後にやって来る。彼女は甲蟲への悪 戯のなかで時に自分の醜さに苦しむが、甲蟲が死んで以前の退屈な日々にもどった時、彼 女は苦悩から解放されたことに虚しさを覚える。 不条理の意識と性的感情――それは主人公の難問であり、現代の難問である。 (ノート「不条理と実存」) 一郎は、「甲蟲と奇妙な女」を書きすすめながら、この小説にオリジナリティがあるか、 とそれだけを自問していた。そして作品の最後に、主人公が教え子の少年を誘惑する場面 を据えた。庭さきの縁の下に甲蟲の入った牛乳壜を置いたのがその少年にちがいないと妄 想して、彼を犯そうとするのだ。 〈作品の最後の場面〉 わたしは狂おしく彼の童貞に自分の肉体を挑ませた。彼の虚弱な肉体はわたしの狂気じ みた欲情に抱かれて健気に耐えていた。 「頑張って、もっと頑張って」 わたしの声に、彼は忍び泣きを押し殺しながら身を揺すった。 冷酷な不条理の中で、わたしは、これでいいのだ、と思った。 私たちの畸形のいとなみは成就されなかった。彼はまだ男性の肉体を整えていなかった。 二個の肉体は狂おしい徒労の末、空しく離れた。 わたしは歪んだ気持を微笑にし、彼は泣きじゃくった。 雨の降らぬ間に、彼は帰って行った。 明日、どうするかは考えていない。 『追舟』創刊号の原稿が揃ったのは、十一月にはいってからだった。ただし、軍艦だけは 小説が書けず、急きょ評論に変更したらしいが、それも間に合わなくて創刊号をリタイア ーした。代りに、原稿集めの段階で同人になった国本尺六が短編を寄せた。国本は漁港の 町の青年でもなく、誰かの知人というのでもない。『追舟』創刊の噂を風の便りに知って 舞い込んできた。工業高校定時制に通う三年生。容貌も体型も達磨大師のミニチュアとい ったふうだが、現在働いている鋳物工場を辞めて東京へ行き、演劇の道(役者か台本作家) へすすむ日を夢見ている。 創刊号に集まった小説五篇、シナリオ一篇―― 三郎さは伊東三郎の本名で、時代もの仕立てに人間の自己同一性の不安を描いた「新三 と喜之助」。三郎さは石川淳に傾倒していて、戯作調を擬ったつもりらしい。国本尺六は 秋村進のペンネームで、天上を舞台のディスカッション小説「人の作者」。夫馬敬成は猪 部淳二のペンネームで、吉行淳之介の「娼婦の部屋」ばりに青春のメランコリーを描いた 掌編「瑞夢」。“水無月来りなば日もすがら/我は愛する者と共に、芳しき乾草に坐らば や”(ロバート・ブリッヂェス、佐藤春夫訳詩)といった詩片を作中に引用している。氷 やのKちゃんは火野葦平に擬したペンネーム・火野公平で、漁港の町を舞台に少年たちの 幼い性と悪意を描いた「小さな加害者」。シナリオ一篇は任天堂の「縮図」。中小都市を 舞台に、自衛隊基地にからむ町の人びとの悲喜劇を書いている。任天堂は無口な偏屈者で、 高校時代は国木田独歩とか田山花袋とかを読み漁っていた。それが最近、シナリオ作家に なろうと野望を抱いているようだ。三年前、警察予備隊から生まれ変ったばかりの自衛隊 を題材に取り上げたのも、時宜性(タイムリー)をねらってのことかもしれない。任天堂の日 頃の言動から推して、一九五七年現在の日本の政治状況について深い関心があるともおも えない。 一郎自身の作品「甲蟲と奇妙な女」は四百字詰原稿用紙九十二枚に達した。創刊号では 最長の作物であり、出来栄えも一等のものと自負して、あられもなく自己陶酔に耽った。 作品が揃うと、一郎は早早と割付をして(三郎さの「新三と喜之助」を巻頭に、「甲蟲 と奇妙な女」を掉尾に置いた)、風呂敷包みにした原稿を抱え、自宅から歩いて五分ほど の犬塚謄写堂へ急いだ。 ぼくたちは巧妙な作品を選ぼうとはせず、誠実な苦心作を選びます。ぼくたちは完成作 を選ぶよりも、粗々しくともエネルギッシュな失敗作を選びます。尊いのは作品の生命力 であって容貌ではなく、新しい時代の同人誌は、技巧ではなく主題を要求しています。 ぼくら現代文学の主題とは何か? それは時代の不条理と対決して、文学という寓意と 仮構をもって現実の中から「人間の回復」を創造することである。 二〇歳を出たか出ないかの若僧があばら屋に集まって、そんな大それた夢を見ながら、 稚拙ながら現代文学のマンネリズムを打破したいと鼻息を荒くしているのです。そうです、 見果てぬ夢を追いもとめて。 (『追舟』創刊号編集後記) タイプ謄写版B5判八十六頁の『追舟』創刊号百冊が、藍色の題字とモノクロ男女裸身 像を装幀に配してインクの匂いも鮮やかに届いたのは、年の暮れも迫った十二月二十八日 の夕方だった。 犬塚謄写堂は、一郎の家から坂道を漁港のほうへくだって途中にあった。平屋建て住居 の一角に機械を置いて、夫婦二人の印刷屋。印刷職人から独立して間もなく、文芸雑誌の 注文をこなしたのは初めてとあってか、犬塚謄写堂主人はインクの匂いがする雑誌を自転 車の荷台に積んで届けたとき、満面に笑いを浮かべていた。 一郎はその夜、雑誌の山を枕もとに積んで眠った。二十歳(はたち)の記念に・・・・・・。そう 心に呟いて。 年があらたまって開かれた同人合評会。「甲蟲と奇妙な女」は作者が才気にばかり走っ ている、と散散の酷評だった。生煮えの実存主義観念も痛烈に批判された。この連中には 現代文学の課題が理解されていない・・・・・・。一郎はそう思うことにして、散散の酷評を無 視した。 彼は早早に二号に載せるための小説に取りかかった。それは創刊号合評会で批判の標的 になった観念の遊戯への傾斜をいっそう強くするもので、文体も装飾的だった。「繋がれ た足」と題されたその作品の創作メモは、次のように記されている。 若いヒロポン中毒の主人公は、群衆の無関心の中で、その無視という蔑視に耐えられな い。他人を傷つけることによって彼は群衆の関心を自分にひきつけようとする。彼と群衆 とは無関心の壁に隔てられながらも、目に見えない鎖によって互いに足首を繋がれている と男は妄想する。彼は、群衆の誰かを殺さねばならない、そうして無視という侮蔑に復讐 しなければ、孤独を逃れ、抽象された「ヒトのムレ」に入ることができない、と信じ込む。 ヒロポン患者は、赤い屋根の精神病院へ送られる。 其処では、患者たちは人間的な絆を奪われている。欠片となった存在の孤独があるのみ だ。 主人公は、次第に人間ではあり得なくなる自分を見出していく。彼が、赤い屋根の病院 の白い壁の室で見る夢は、石塊(くれ)に変容した自分の姿なのだ。彼は夢という思索のなか で、人間が人間以外の物体(もの)になり得ることを発見する。その時、彼の中で何かが啓示 され、群衆への殺意は消える。孤独の恐怖さえ癒される。 退院の日、彼を載せた赤い車は、白い街へ、群衆の中へ入って行く。無関心の視線、黄 色っぽい群衆の波、埃を巻き上げる町の空洞。 突然、主人公の内に蘇る殺意。目に見えない鎖の妄想が甦る。 虚妄か、さもなくば消滅! 男が叫んで、救いを求めたとき、彼を乗せた赤い車は方向転換してふたたび赤い屋根の 病院へ向かう。 (ノート「不条理と実存」) 「繋がれた足」を書きすすめながら、創作はしばしば中断した。気負い立ってはいても、 つきまとう不安を拭いきれない。同人たちの批判を無視して突き進むには彼自身の小説観 を明確にしておく必要があったのだ。なにより自分自身を納得させるために。 一郎が小説を書きすすめる作業を中断するたび、貪るようにドストエフスキー『カラマ ーゾフの兄弟』サルトル『自由への道』カミュ『ペスト』アンドレ・マルロー『侮蔑の時 代』と読破したのは、そうした彼なりに切羽詰まった必要に迫られてのことだった。そし て思いつくのにまかせて、小説論まがいの断片をノートに記した。 「不条理と実存」と題したノートはまだ数頁を残していたが、それを空白にしたまま彼は 新しいノートを下ろした。気分をあらためるためだ。高校二年の終り頃に書き始めて七冊 目にあたるそのノートには、「現実と虚構」と標題を付した。 ぼくはつくりごとしか書かない。現実をどんなに精巧に生き写したとして、それが小説 である限り、現実そのものではない。精密さに於いて現実そのものを超えることは出来な い。小説にはフィクションというもう一つの現実があって、時にフィクションは現実その ものより遥かに衝撃的である筈だ。 小説は仮構であって何ら差し支えない。 事実に忠実であろうとすれば、小説は扁平な、表層のものになってしまう。ぼくらの周 囲は余りに真実が掩い隠され矮小化されている。ぼくらの体験も、知性も、殆ど、新しい ものを生み出さない。昨日の出来事、今日の思考の繰り返しだ。『ペスト』のなかでタル ーが言うように、「そうです。・・・・・・ペストの正体はしょっちゅう繰り返すということな んです」。 ぼくらは仮構から出発して、軈ては、かつて一度も発見されなかったような、人間の奥 部の尤も致命的なものに達しなればならない。日本の私小説がそれを成し得ていないのは、 実生活をその型に似せてしか小説の世界に写し出していないからだ(私小説作家の中には、 実生活の場で文学を模倣しようとする、滑稽な人さえいる)。私小説作家の実生活は、社 会的なものから隔離された古臭い思考と行動によってまかなわれているので、畢竟、その 小説は、私生活観想的な、創造性に欠けたものになってしまう。 太宰治の才能が、文学と実生活の世界を模倣し合おうなどという滑稽な劇を演じなかっ たなら、人間を極限の状況に於いて設定し得ただろう。 最近読んだ島木健作の『癩』についても、仮構が人間の深部に至る力を信じていたなら、 感傷や希望などによって救われることなく、怖るべき文学に達しただろう。 極端に言えば、ぼくらはもっと嘘を吐(つ)いて、体験を超越しなければならない。それが 人間の致命的な深所へ至る方途なのだから。 シジフォスはすべてを理解していた。 両肩に喰い込む石の重みが、決して解放されない苦痛であることを。そして、それにも 拘わらず、その重みを愛していることを。果敢に耐えつづけることを。 医師リューはすべてを理解している。人間はペストから決して救われないだろうという ことを。そして、それにも拘わらず、救いのないことがペストと闘う理由に他ならないと いうことを。 このように提出された状況(シチュアシオン)をぼくらは生きている。既に骰(さい)は投げ られている。 提出された状況から、ぼくらは鵜の目、鷹の目で、可能性を見出さなければならない。 状況との容赦ない対決に於いて、ぼくらの新しい条件を見出さなくてはならない。そうし た困難な発見は、文学の想像力と創造力の問題だ。 そのためにぼくらに与えられた悪徳の手段は、嘘である。嘘の代償として真実が得られ るだろう。 小説家は先ず、言葉を愛する。彼が言葉を信じるからだ。 しかし次の段階で、小説家は image(イマージュ)を愛する。それは彼が image を信じる ようになると、最早、言葉を殺したいと感じるからだ。小説家の imagination(イマジナシ オン)の内部に、或る像が宿ると、彼が持ち合わせる種々の現実の言葉は失速しはじめ、 imagination の外部で像が小説化される時、個々の言葉は死ぬ。 その時、言葉は、image の胎に包まれて唯の姓名の形骸にすぎなくなる。現実が虚構と いうもう一つの現実に変容する瞬間だ。 小説という現実コミットメントの形式(スタイル)について考えているのに、何故、一見そ れとは関係なさそうな、人間に関する思惟の断片が思い浮かぶのだろう? 〈人間は観念ですよ。しかも全(まる)でちっぽけな観念です。人間が愛というものに背を向 けた瞬間からは〉(アルベール・カミュ『ペスト』) ぼくはその言葉を強引に読み変えている。 「小説は虚構ですよ。しかも不思議な力を備えた虚構です。小説が現実に立ち向かおうと 決心した瞬間からは」 〈虚無は、絶対よりも更に達し難い〉(同『結婚』) ぼくはその言葉さえ更に次のように読み変えるだろう。 「虚構は現実よりも更に達し難い」 〈不条理な経験のなかにあって、私に与えられた最初の唯一の明証は、反抗である〉(同 『反抗的人間』) そうなのだ。不条理という現実の経験のなかにあって、私たちに与えられた最初の唯一 の明証が反抗であるなら、その反抗は何によって成されるべきか。たぶん、現実の不条理 を超える、小説という虚構の真実によっての筈だ。現実と対峙し得れば、小説はすでに反 抗であるに違いない。 〈人間は、現状を拒否しうる唯一の被造物である〉(同前) 人間に紛れない事実は、唯一、想像力を所有するという事実であり、それによって、直 面した危機から何かを回復しうるという事実なのだ。 作家は、衝動(モチーフ)によって書くか、観念(イデー)によって書くか。 衝動によって書かれた時、作家はそれについて評論を書く必要を感じる。たぶん、文学 的感動を外的 image として描いたにすぎないから。 他方、観念によって書かれた時、作家はそれについて論じる必要を感じない。既に内面 に於いて文学的感動の image を idea に昇華させて描いているか、或いはその逆の過程(プ ロセス)が経られているのだから。 アルベール・カミュの場合、〈生への絶望なしに、生への愛はない〉(『裏と表』)の 像的観想は、〈希望がないということは、絶望ということではない。それは、より多く意 識的に人生を見つめるということだ〉(『シジフォスの神話』)の行為的観念へと発展す る。また別の流れについて言えば、『異邦人』に於ける死刑囚の image が『ペスト』や『反 抗的人間』に於ける反抗の idea へと発展するのも、同類のプロセスである。 このように一人の作家に於いても、像(イメージ)から思想(イデー)への深化は証明される。 ジャン・ポール・サルトルに於いて同様のことは言える。『嘔吐』(『想像力の問題』) から『自由への道』(『存在と無』)への展開(プロセス)は、像的観念(イマジネーション) から行為的思惟(アンガージュマン)への前進を証明する。 フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーに於いて、その過程は思想世界と物語 世界のいっそう顕著な発展関係として証明される。ペトラシェフスキー事件に遭遇して、 『死の家の記録』を人間観察として体験録風に書いたドストエフスキーは、『虐げられた 人びと』の人道主義的メロドラマから出発しながらも、『地下生活者の手記』を転機に『罪 と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』へと、その思想世界と物語世界を一作ご とに深め、広げる。 ドストエフスキーに於いて、思想世界の深まりと広がりが、物語=小説世界の深まりと 広がりに緊密な関係を有している事実は、ぼくらに絶対的な確信を与える。つまり、思想 世界の文学的表現は虚構的営為によって可能なのだという仮説さえ示しているのだ。否、 思想とは、文学に於いては、フィクショナルなものに他ならない、という予感さえぼくら に与える。 ぼくが小説を書くのは、文学に憑かれたからでも、或る種の覚悟によってでもない。ぼ くに小説を書かせる重荷に似たもの――ぼくはそれを逆説的に、強制された権利と呼ぼう。 権利がぼくを蝕む。 実存の問いを、ぼくは実感 mood として描くのではなく、idea の相に於いて形象しなく てはならない。サルトルをさえ批難するとしたら、それは次のような事情に因(よ)ってだ。 〈俺は、ここで何をしているのだろう〉(「分別ざかり」上) このサルトルの問いは mood である。それは「俺は何者だろう」と問うのと同断である。 実存的問いは次のように問われなくてはならない。 俺は一体、何で在り得るのだろう? その問いを解き明かすには、俺は一体、何を成すべきだろう? 文学の中の思想だって? 思想のために文学を犠牲(いけにえ)にすべきではない――それが仮に定説であったとし ても、ぼくは敢えて、思想のために文学を奉仕させよう。 小説を読む時、ぼくはその中の思想を読み解こうとしている。読む時と同じように、ぼ くは思想を索めて小説を書こうと決めている。そのために文学的効果が損なわれたとの批 判を浴びようと、敢えて文学的未完を選ぼう。思想の名に値するものを持てないなら、小 説など書かないがマシなのだ。花田精輝を真似て言おう、文学だって? そんなものは弟 子たちに任せておこう、さもなくば犬に呉れてやるがいい、と。 ぼくはまるで楽天的にそう言うことが出来る。何故なら、思想は既に虚構である、とい う仮説を確信しはじめているからだ。 思想は現実の生き写しではなく、或る仮構の手続きによって、まったく新たに形づくら れたものなのだ。出来上がった思想は、既にフィクションである。 現実に対峙してそれに打ち勝つために営まれる思想の営為は、既に虚構であり、虚構そ のものの闘いのなかで生き延びる他なく、そればかりか、虚構そのものとして深化し、達 成される。 ぼくが楽天的なのは、そのような文学=虚構と思想=虚構との蜜月関係を信じ始めてい るからである。 fiction の世界をぼくは愛している。 俺はフィクションだ! ぼくがそう叫ぶ時、同人たちは一様に眉を顰めるだろう。ぼくは一人芝居を演じなくて はならないだろう。 確かに、フィクションのためのフィクションは無意味(ナンセンス)に違いない。フィクシ ョンは必然に因って要請されてこそ用いられる方法(メソッド)だ。自然主義リアリズムによ っては追究し得ない、人間状況の難問に立ち向かってこそ、フィクションは、日常より更 に真なりと言い得る。 文学は決してモラルという定型を要請しない。その逆にまた、モラルは文学を生まない。 文学が要請し、またそれが生まれるのは、不定型の探検である。その探検の最たるもの が、多かれ少なかれ無秩序を運命づけられた〈虚構〉という人間の営為なのだ。 虚無への世代的な郷愁のなかにあって、現代文学の前提である不条理からの「人間の回 復」を試みるのは、易しいことではない。 そういう困難に直面して、取り得る文学的方法の最善のものが、思想=虚構という行為(プ ロセス)を経て試みられる、創造的方法に違いない。 (ノート「現実 と虚構」) 文学とは一体何だろう・・・・・・? 一郎は、大学の授業も神坂ねんこへの想いも捩じ伏せて、そのことばかりを考えつづけ、 ノートを埋めた。憑かれたようにそんな作業をつづけるうち、掌のなかに確かな感触に似 たものが訪れた。現実とみえて現実ではないもの――小説が孕む〈虚構〉という、得(え) も言えないものの不思議に魅入られていくにつれ、一郎は体の内側から何かが解(ほど)けて くるのを感じる。 この感じは何だろう・・・・・・。 数か月前、フランクルの『夜と霧』に遭遇して、そこに記録されたナチス強制収容所の 現実から受けた、圧倒的な衝撃。動物のように屠(ほふ)られる人間の死がもたらした、肉体 への畏怖。その衝撃と畏怖が一郎を呪縛していたのだったが、小説と現実とは異質のもの と気づきはじめたときから、そして虚構の真実が現実ごとを超えるかもしれないと予感し はじめたときから、彼は呪縛から解かれるのを感じはじめた。 いや、そうではないのかもしれない。生生しい現実と肉体への、あの怖れから逃れるた めに、彼は作為的に〈虚構〉へのめりこんだのかもしれない。ノートに書きつけられた、 強引な虚構論は、彼なりの焦りの発現にすぎなかったのかもしれない。 一郎にとっていま、その因果の関係は問題ではない。神坂ねんこの肉体にまでおよんで いた、女性の身体への禁忌の感情が、幽かな気配ながら氷解しているらしい事実だけで、 彼には充分だった。 そんな彼を、ある肉体の蘇生にかかわる言葉が励ましたのは、一見脈絡を欠くようにみ えても、肉体への怖れから癒される前兆があったからなのかもしれない。 〈拷問にかけられた肉体は要素となって自然に還り、其処から生命が甦るだろう。殺人自 体も完成しない〉(アルベール・カミュ『反抗的人間』) ナチスの強制収容所で全裸のままガス室へ追い立てられる白い裸身――あの女たちへの 慰藉と再生の物語が、その言葉によって語られ始めるように、一郎には思えたのだ。啓示 にも似たその直感は、神坂ねんこの肉体にたいする禁忌の感情をも、彼のうちから解いて いくようにみえた。彼女の肉体への禁忌の感情が、ガス室へ送られる女たちの白い裸身へ の怖れによってもたらされたように、その逆の巡りを辿って。 一郎にはいま、女たちへの蘇生の祈りが、神坂ねんこの肉体への怖れを癒してくれる、 と感じられるのだ。 神坂ねんことの逢引は、「夜と霧事件」(一郎は内部に起った経験をそう呼ぶ)に遭遇 して以来、間遠になっている。あれからの数か月、抱擁も交わしていない。不自然な時間 が経過しているのは否めない。 「繋がれた足」は四百字詰原稿用紙八十六枚になって、締切りぎりぎりに書き上がった。 『追舟』二号が刊行されたのは一九五八年四月四日。「繋がれた足」のほかには伊東三郎 の小説「二人三脚」、秋村進の詩「幸福な子供」、古見皓也の戯曲「蝿の群」の三篇が掲 載されたのみで、七十八頁の誌面となった。 一郎は編集後記に次のように付記した。 創刊号に「端夢」を発表した夫馬敬成君が退会した。「書けなくなったから・・・・・・」と いう彼の後姿を惜しむと共に、ぼくは言い知れぬ憎悪を感じる。彼は少なくとも彼自身の 使命を回避した。悲しいことだが、君の健康を祈る。 (『追舟』二号編集後 記) 夫馬敬成が『追舟』同人を辞したのは、「書けなくなったから・・・・・・」との理由もさる ことながら、一郎への不信も影を落していた。一郎が創刊号に乗せた小説の、雌雄の甲蟲 の設定は、いつか夫馬が語った油虫のエピソードにヒントを得ていた。一郎は夫馬の不快 感に気づいていない。 一郎が神坂ねんこと体を交わしたのは、インクの匂いが鼻を衝く『追舟』二号を手にし て、何か月ぶりかに会った日だった。 金曜日の午後、二人は市電に乗って築港まで行き、名古屋港を望みながら埠頭を歩いた。 埠頭を過ぎてさらに防潮堤を南へ向かい、時時、波止めに腰を下ろして、港に出入りする 貨物船を眺める。呼び交わす警笛の音が、人の呼び合う挨拶のようにも聞える。埠頭に碇 泊する船の姿が、四月の陽光に映えて輪郭をぼかしている。それだけのことが一郎の気分 を、世俗から少し外れたような、特異な心境にさせる。 二人が防潮堤をさらに行くと、遠く対岸のコンビナート群を霞ませて伊勢湾の全貌がひ らける。急に風でも出てきたふうに沖合の海面が銀白の粒子を燦めかせ波立つのを眺めた とき、一郎はあたりに魚を釣る人の姿さえないことに気づく。 防潮堤に腰を下ろして肩を並べた、その同じ姿勢のまま、一郎が「繋がれた足」八十六 枚を読み終えたとき、沖合の波涛は茜(あかね)色に染まっていた。対岸の風景は、逆光のな かで夕暮れの気配に沈んでいる。 一郎が感想を訊ねると、神坂ねんこは戸惑いもみせず、 「難解ね」 と応えた。 「そうなんだ。おれの小説は仲間から南海ホークスと呼ばれるんだ」 一郎がそう言って笑うと、プロ野球には関心のない彼女は一瞬、怪訝な表情を浮べ、そ れでも彼に合わせて笑った。 神坂ねんこが、唐突に着ているものを脱ぎ、一郎の前に白い裸身をさらしたのは、夕闇 がまだ昏れなずんで幽かな薄白色をとどめているときだった。思いがけなく大胆な彼女の 振る舞いに、一郎はたじろいだ。まるで一郎のなかで起った出来事をすべて知っていて、 肉体への怖れの残り火を吹き消そうとするかのような行為――彼には神坂ねんこの振る舞 いがそのように思えた。 一郎はセーターとズボンを脱ぐと、それを防潮堤の上に敷き、横たわるよう彼女を促し た。 薄闇に横たわる彼女の白い裸身は、一瞬、一郎の意思を竦ませた。それでも彼は、白い 裸身に自分の体を重ねることができた。 おれはこうして、ねんこの力で癒される・・・・・・。 Ⅳ 草原を風が渡って行く―― 広いキャンパスのあちらこちらに草むらが叢生していて、四月の風がゆるやかに吹きぬ ける。その風景は、たしかに風の渡る草原の印象をあたえる。中央のグラウンドを抜けて 遠く東の外れ、厩舎に近い草叢で馬術部の馬が二頭、のんびりと草を食(は)んでいる姿が、 いっそうその印象を補強する。 ゆったりとした風は、事務棟に近い「自由の鐘」のほうから、雑草まじりの広いグラウ ンドをわたって、教室が並ぶカマボコ型建物の方向へ、つまり南西から北東へと吹いて、 もとは兵営であった教室棟の二階屋根を越え、行方知れずになる。キャンパス全体にたゆ たっている、微細な花粉に似た銀いろは、風の色のようでもあり、陽(ひ)の燦めきのようで もあり、混然としてよくわからない。 たしかなのは、風と光に混じって幽かに漂っている微妙な匂い。懐かしさの匂いだ。遠 い海辺から運ばれてくる潮の香りとは、どこか違う。キャンパスの南側には田畑がひろが っていて、そこから流れてくるうち微妙に変質した下肥(しもごえ)の匂いだ。風が時に駆け るように吹く日もあって、そんなときは充分になまの匂いを運んでくる。 そんな風と陽光と匂いのなかキャンパスを突っ切るようにして、馬瀬一郎は学生集会の 開かれる大教室へ向かう。大教室は西側の正門をはいって、カマボコ型建物とは反対の方 向、キャンパス南寄りの事務棟に接してある。昼休みのこの時間、いつもなら草むらに座 り込んでダベリあったり、キャッチボールを愉しんだり、所在なげにブラブラしている学 生の姿が目につくのに、妙に閑散としているのは集会に参加する学生が結構いるからなの だろう。 愛智大学豊橋本校――教養課程を終えてここに通うことになった最初の日、一郎は一種、 牧歌的な開放感を覚えた。眩しく朴直な感銘にさえ似ていた。 キャンパスに降りそそぐ陽差しのせいばかりではなかった。二年生まで通った分校は名 古屋市の中心からそれほど外れていない住宅地の一角に四囲を木の塀に囲まれて狭い空間 を閉ざされ、学生たちの様子もどこか息が詰ったふうにみえた。 豊橋本校は、十数年まえまでは帝国陸軍の地方連隊のあった跡地で、いまもその残影が 端端に残っている。兵営をそのまま利用した木造校舎は陰気なたたずまいであるが、それ さえも広広として粗野なキャンパス全体と奇妙に調和して、一郎の気分を眩しく解き放っ たのだった。風の渡る草っ原などという叙景的形容は、彼の心境を反映した稚気にすぎな いとしても、偽りのない印象でもあった。 大学の正門すぐ目の前には、駅舎も改札口もなく廃れかかったホームだけがあって、一 時間に一本ほど一両車輛の古風な電車が止る。豊橋駅を始発にして渥美半島を斜に横断し ている、単線のA電鉄だ。交通費を節約してスクールバスを利用する一郎は、まだ数回そ れに乗ったきりだけど、地方都市郊外に広がる田舎っぽい風景のなかを時速三十キロほど で走る単線一両電車の存在もまた、一郎の牧歌的な解放感を擽った。 そんな新天地めく豊橋本校へ移って、もうひとつ一郎に眩しく感じられたのが、学生自 治会が呼びかける政治集会だった。キャンパスに立看板の類などなく自治会室の窓にやた ら檄文が貼られているにすぎないけれど、名古屋校舎ではそれさえも目にとまらなかった。 大教室は学生たちで溢れていた。二百名ほどの椅子はすっかり埋まって、ドアをはいっ た後方や窓際、壁際にも多くの学生が立っている。一郎は学生たちのあいだを横ざまに抜 けて、窓際近くに場所を占めた。 集会は始まったばかりのようだ。警職法粉砕 全学集会――そう横書きに墨書されたB 紙が黒板に貼られて、講壇に立った自治会役員が集会の意義を演説している。教室に熱気 が溢れているというのではないのに、一見、陸上部員みたいに短髪、骨太、浅黒い風貌の 学生は、ポロシャツのなかの分厚そうな胸を張り、日焼けした腕をしきりに突き上げては 語調を高ぶらせる。学生運動のリーダーにはちょっと適わしくない外貌の男だな・・・・・・。 一郎は勝手な感想を抱き、下手に演技っぽい所作にも馴染めないものを感じるが、その場 の雰囲気に新鮮な気分を覚えた。こうして学生集会が開かれ、学生たちが大教室を埋める というのは、さすが・・・・・・なのだ。 愛智大学豊橋本校で「警察官スパイ事件」が起きてから、まだ六年と経っていないはず だ。一人の警察官が学内の政治動向を情報蒐集するために学生に化けて潜入していたのが、 発覚した。学生たちはその警察官を自治会室に軟禁し、追及した――という事件だ。学生 たちの追及を受けて警察官は、学内潜入の目的が在籍する朝鮮人学生の動きを探るためだ ったと告白したらしい。 事件の際、大学教員たちは全面的に学生の側に組して支持したという。戦前、中国大陸 にあった東亜同文書院の教員たちが多く勤めるこの大学には、進取の気風が漂っていて、 マルキスト、リベラリストと呼ばれる教授たちが少なくない。帝国陸軍の跡地に創建され たキャンパスの一角にいちはやく「自由の鐘」(それは広い敷地の片隅にあって、目立た ない質素な代物ではあったが)が設置された事実も、大学の性格を物語っている。 「警職法」に反対する声が他校に先駆けて挙がったのも「警察官スパイ事件」の記憶が生 生しいのと併せて、そんな大学の気風に因(よ)るところが大きいのだろう。一郎は幾分、心 地よさをともなってそんなふうに思う。 講壇に立つ学生が代っている。最前の演説型とは対照的だ。痩せてもいなくて大柄では あるが、妙に生っ白い顔にそれ自体が内気そうな型の眼鏡を掛けて、「警職法」について 解説している。ときどきレジメらしき便箋に視線を落とし、講義か学習会でレポートでも する調子だ。「警職法」の危険性を声高に糾弾するふうではなく、法案の中身を逐一、分 析して参加者たちを納得させようとする手法だ。二十分ほどで話を終えるまで、訥訥とし たその調子は変らなかった。一郎にはそれが半ば物足りなく、半ば安心でもあった。 三人目の学生が講壇に立ったとき、シュプレヒコールでも叫んで気勢を上げるのかと思 ったが予想はあっさりと外れて、司会は次回の全学集会の日程を伝え、閉会を告げた。そ れで一郎が別段、落胆することはなかった。初めて参加した学生集会を彼は彼なりに新鮮 な気持で味わったのだ。 誰かが背後から一郎の肩を叩いた。集会の余韻にひたるでもなくゾロゾロと二階の大教 室から階段を下りる学生たちに混じって、カマボコ型建物へ向かおうとしたときだった。 これから担当教授のゼミナールがある。 「馬瀬君、来てたのか」 肩を叩かれて振り向いた一郎に、喜多弘次が眼鏡の奥の眼で笑って言う。 二人は肩を並べ、急ぐでもなくグラウンドの真ん中を抜けてゼミの教室へ向かう。 「全学集会の感想は、どう?」 喜多が訊ねる。中学を卒業して夜間高校に通いながら郵便局に勤め、郵便配達をしなが ら労働組合運動だけでなく日本共産党の周辺で政治活動にも接触してきたらしい喜多の口 吻には、その方面ではまっさらの一郎をためす気配がある。 「学生の関心があれほど高いのが、意外だった。一種、新鮮でもあったよ。名古屋校舎の 頃は、学内の政治集会なんて、想像してなかったから」 幾分は喜多の思惑に応えるふうに、一郎は言う。 「それにしても、白柳(しろやぎ)君の報告は迫力なかった。もう少しアジプロ入れなきゃ学 生たちは燃えないよ」 喜多は不満を表して、「警職法」法案の内容を講義ふうに解説していた学生が、民青同 盟員で自治会委員の白柳であると教えてくれる。最初に盛んにアジっていた体育会系タイ プは? と一郎が訊ねると、あれが自治会委員長の志賀だと教えて、あの男は自己顕示欲 のかたまりで政治的には何の理論武装もしていない人物だ、と補足説明までした。民青同 盟員の白柳の訥訥とした外貌と、政治的には無理論の志賀の派手っぽさ。一郎は理由も無 く、二人の対象がミスマッチな関係に思えたが、案外そういうものかもしれないと思いな おす。 「学生のなかには名古屋校舎から来た新三年生が多いから、まず警職法の中身を理解させ るために、あんなふうに解説したんじゃないの? 政治闘争の始めはまず課題の認識が基 本かもしれないな」 一郎が白柳の無骨さに感じた安心をそんなふうに表現すると、喜多は言下に言い放った。 「いや、あれは白柳の性格でね、ねちっこいんだよ。それに彼は学者志望でね」 一郎は虚を衝かれて喜多の横顔を窺う。喜多の風貌もなかなか学者タイプではない か・・・・・・。一郎は内心、そう皮肉ってみる。 喜多の横顔を眺めたその視線をずっと先のほうへやると、馬術部の馬が草叢で、体にま といつく虫でも払っているのか尾を振り立てながら草を食(は)んでいる。一頭だ。もう一頭 は厩舎にいるのか、部員が遠乗りに行っているのか。 埒もなくそんなことに気が逸(そ)れかかって、一郎は不意に奇異なことに気づいた。学生 集会には日頃『資本論』第何章何節によればとか、レーニンの『何をなすべきか』によれ ばといった冠頭句を口癖にしている『資本論』ゼミの仲間が、喜多弘次のほかには誰も参 加していなかったようなのだ。 馬瀬一郎が本山二三麿教授の『資本論』ゼミナールを選んだのは、さほど積極的な理由は なかった。どちらかといえば消去法に因(よ)る。数学がからきし駄目な彼には近経(近代経 済学。ゼミ仲間はそれをブル経と呼ぶ)を専攻する意思など、端(はな)からなかった。事実、 やたら数式を応用してケインズ理論を説明する「経済原論」Ⅰなど、学会でも評価が高い と噂される気鋭の教授の講義なのにさっぱりついていけず唯一、赤座蒲団を貰ってしまっ たほどだ。それで、名古屋校舎時代に顔を出していた経研(経済学研究会)のメンバーに 誘われるまま『資本論』ゼミにはいった。 「理論経済」Ⅰの最初の授業の日――本山二三麿教授を初めて見て、一郎は意外な感じを 受けた。名前に「麿」などとあるので公卿ふうな人品だろう、と勝手に想像していたのだ。 唐草模様の色褪せた風呂敷包みを小腋にして大教室に現われた本山教授は、四十歳代の半 ばのはずなのに、うんと老(ふ)けて見えた。色浅黒く土の匂いのする風貌といい、小柄なが ら厳(いか)つい体格といい、講壇に立つより野良で働いているのが適しい印象だ。実際、一 郎は漁港の町でよく見かけるおじさんの誰彼を彷彿したのだ。ある日、街角で出会ったと して、マルクス経済学の気鋭の学者をそこに見出すのは、至難だろう。 本山教授は講義を始めるなり武骨な印象を一変させ、その毒舌の奔放さによって一郎の 度肝を抜いた。マルクス理論によって資本主義経済を縦横無尽に分析する弁舌の折折に、 彼は天皇その人を「天ちゃん」と呼んで天皇制を諷刺し、同僚のブルジョア経済学者の誰 それを名指しで揶揄し、返す舌鋒をもってマル経の権威(たとえば宇野弘蔵など)をも批 判する。毒舌の間間に囃子詞めいて、これは「ぺけッ」あれも「ぺけッ」と悪態を頻発す るのだ。そんな講義に教室を埋めた学生たちは、どッと沸くのだ。「理論経済」Ⅰの履修 生が多いのは、本山教授が試験では失格点を付けない、つまり「ぺけッ」にしないという 評判にも起因する。 「それは、きみィ、○○と××との弁証法によってアウフヘーベンされるんだ」 『資本論』のゼミ学生のあいだでは、そんな口吻が流行になっている。本山教授の口真似 をして、仲間同士でやり合うのだ。名古屋校舎での経研の学習会にチューター役を買って いた上級生・水口健二の口癖が、それに由来したものと一郎が気づいたのだったが、いま やその口吻は下級生をも侵蝕している。もっとも名古屋校舎経研の出身者で堂堂とそれが 出来るのは喜多弘次であって、山波雄太郎と一郎の場合、まだぎこちなく様(さま)になって いない。いちはやく「天ちゃん」とか「ぺけッ」とかの本山教授口真似をマスターしてい る喜多を、一郎と山波は半ば羨望の、半ば軽蔑の、複雑な心境で見ている。 名古屋校舎経済学研究会のメンバー七人のうち、専門課程にすすんで『資本論』ゼミに はいったのは喜多、山波、一郎の三名。他の四名は就職時の利と不利を計ってのことだろ う、銀行論とか経営学とかのゼミナールを選んだ。山波雄太郎が『資本論』ゼミを選んだ のは、一郎には意外だった。 山波は、中学生のころ肺結核を患って胸郭手術を受け、休学したため一郎より二歳年長 の同級生。色白の長身痩躯が幾分、右肩下がりなのは、肋骨を何本か切除したせいだ。彼 が職人である父親の職業を口にしたがらないほどに気位が高いのは、性格に因るものなの か、同級生のなかで二歳年長なのを過剰に意識してのことか、一郎は計りかねる。ともか く上昇志向型(タイプ)の山波は、一郎が失敗した特待生入学の試験に合格して教養課程にお いても抜群の成績を維持したことに自負心を抱いており、クラシック音楽や西洋名画の鑑 賞を趣味にしている。『資本論』ゼミでは異質の存在なのだ。別の意味で異質な一郎にた いして安心感を抱いているらしく、彼がいつか不用意に口にしたことがある。 「四年生になったら、ゼミを替わろうと思っている。ぼくは社会主義を信奉しているわけ ではないから。それに、本山ゼミでは優秀賞を狙えないし・・・・・・」 山波の言葉を聞いて、一郎は特に驚きはしなかった。正直な男だな、と思ったにすぎな い。優秀賞というのは、卒業のとき各ゼミナールから指導教授によって一名ずつ選ばれて 表彰される制度だ。本山ゼミではそれを狙えないというのは、丹波作治の存在を意識して の言(げん)だろう、と一郎は即座に納得した。 本山教授の指導によって『資本論』を逐一、解読していくゼミの授業は、一郎にとって 難解このうえない。大学にはいって、デカルト『方法序説』、キエルケゴール『不安の概 念』、シェストフ『悲劇の哲学』、ヤスパース『現代の精神的状況』といった書物を文庫 本で闇雲に読んできて、自己流の生半可な理解で一人、納得したつもりになっているのと 訳が違う。本山教授は「経済理論」Ⅰの授業の時とは打って変わって、ゼミでは温和な態 度で指導するのだが、その解読は事前に読んで大体の見当をつけていた一郎の解釈を、こ とごとくひっくりかえす。ありていにいって、一郎が興味をそそられたのは、『資本論』 のなかでマルクスが付す感情的でさえある長大な「註」の文章のほうだった。したがって 彼が提出するレポートなどピント外れの論述だったにちがいないが、本山教授は落第点を つけることがなかった。 そんな一郎に、同じ三年生でも一年生から豊橋本校に通ったゼミ生の存在は眩しい。教 養課程の頃から『資本論』を聴講している彼らは、本山教授の口吻を自家薬籠中のものに しているばかりでなく、解読のツボを心得ているのだ。沖縄出身の具志堅政信など、地域 の政治活動に没頭していてゼミへ顔をみせるのは稀なのに、出席の都度、活発に発言する。 一郎には驚異なのだ。 そんな本校入学者のなかでも特に筋金のはいっているのが丹波作治である。丹波も山波 雄太郎と同様、特待生入学試験をパスした学生で、喜多弘次とは格別ウマが合うようだ。 喜多と丹波は共にマルキスト志望なのだ。 丹波作治がマルクス経済学者をめざしていて、本山教授がすでにその将来の軌道を約束 している、と一郎に教えてくれたのは喜多弘次。同様のことは山波雄太郎にも伝わってい るにちがいない。 『資本論』のみでなくマルクスやエンゲルスの著書を読み込み、一郎には眩しくさえある 革命理論を口にするゼミ生たちが、喜多を除いて誰一人、学生集会に参加していなかった ことは、やはり奇異というほかなかった。 口舌の徒――そんな言葉を一郎は呟く。ゼミ生たちの理論偏重=実践軽視の性向は、本 山教授のあまりにストイックなアカデミズムに影響されているのかもしれない、と彼は思 う。 ある日の授業中、ゼミの雰囲気に反乱を試みたのは、花咲幸男だった。花咲は自他とも に認める熱心な共産党Sの活動家。その彼が突如、ゼミ生たちに食いついたのは、講義が 少し脱線して、本山教授が「警職法」に反対する自治会(民主青年同盟が執行部を牛耳っ ている)の闘争方針を揶揄して、「左翼小児病」と呼んだときだ。ゼミ生たちは教授の言 葉に同調して、笑った。 その直後、花咲は立ち上がるなり顔を真っ赤にして叫んだ、「きみたちは卑怯だ。口先 ばかりで反動勢力とたたかえるのか。観客席に座って批判ばかりするのは卑怯だ」。彼は 感情の蝶番(ちょうつがい)でも外れかかったふうに肩をふるわせた。 花咲は、本山教授の言葉とゼミ生たちの笑いが共産党Sの活動家である自分を揶揄した、 と受け取ったのかもしれない。戦後間もない一時期、徳田球一の秘書をしていたという本 山教授が日本共産党と袂を分かってから熱烈な対立者に廻っていることをも根に持ってい るのかもしれない。たとえ動機は個人的なものであったとして、花咲の批判は的を外れて いない、と一郎は思う。それでもこの場で発言して彼を擁護する勇気は、一郎になかった。 鼻先に向けられるゼミ生たちの蔑むような視線に圧迫されたからだったが、それ以上に一 郎には用語の弁をふるう自信がなかった。彼自身、何ほどの実践もしていない、傍観者に すぎない。 花咲は、俯き加減に沈黙している本山教授を睨みすえるようにして、教室を出ていった。 一郎は、おれもゼミ生の皆と同じ結託者なのだ、と自嘲的に思い、花咲の後姿を見送るし かなかった。 一郎に不思議だったのは、彼が「口舌の徒」と密かにレッテルを貼っているゼミの仲間 たちが、経営学ゼミや近経ゼミの学生たちに対すると俄かに猛烈な敵愾心を燃やすことだ った。前期の試験が終って夏休暇にはいるまえ、ゼミ対抗のソフトボール大会が開かれて、 一郎はそのことを痛感した。 『資本論』ゼミが初戦で対戦したのが、最近、学生たちに持てはやされて花形の経営学ゼ ミ。指導教授の大岩が経済界に顔効きなので、就職には最も有利と評判のゼミだ。「物神 崇拝主義者どもには敗けるな」というのが、試合前に『資本論』ゼミ・チームのメンバー が互いに飛ばし合った檄。 両チームともに中学、高校時代に野球部の経験者はいない。攻撃も守備も皆、へっぴり 腰で様(さま)になっていないこと甚だしい。一人、一郎は軟式野球部とはいえ野球で名高い 東方高校で一年半、エースピッチャーを勤めクリーンアップを打った。彼にはゼミ仲間た ちが露わにする相手チームへの対抗心に同調するつもりはなかったけれど、それでも力を 抜いたりはせず、格段の活躍をみせて、『資本論』ゼミ・チームが乱戦を制して経済学ゼ ミ・チームを破った。 一郎は株を上げ、仲間たちの握手攻めにあったりしたが、『資本論』の勉強では落ちこ ぼれの彼として、なんとも面映いかぎりだった。 具志堅政信の「パスポート拒否事件」が起きたのは、ソフトボール大会の一か月ほどの ちだった。 夏の休暇を利用して沖縄へ帰省していた具志堅政信は、本土へ戻る飛行機の機中でパス ポートを破り棄てたのだ。パスポート不所持の廉によって、羽田空港の税関で足止めを食 った彼は、われわれウチナンチューに、なぜ本土往来のためパスポートが必要なのか、と 日本政府に抗議した。「入国」を拒まれた三日間、彼は米軍による沖縄占領がいかに理不 尽な政策であるかを質(ただ)し、アメリカ占領軍と日本政府を糾弾した。一郎が初めて「琉 球処分」という言葉を知ったのは、具志堅政信の抗議を報じる新聞記事によってであった。 具志堅政信が羽田空港の税関を出たのは、水口と喜多が現地へ到着した日。具志堅は警 察へ移送され、取調べを受けていた。 具志堅政信は結局、処分保留のまま仲間たちのもとに帰ってきた。九月にはいってすぐ のことだった。 一郎は、後期にはいっても「警職法」の学生集会には必ず参加することに決めている。 具志堅政信の羽田空港での果敢な行動が、一郎に心情的な影響をあたえ、一種の共感をも たらしたのは確かだ。具志堅の行動は直接「警職法」にかかわるというよりも、二年後に 改訂が迫っている日米安全保障条約に深く結びつくと思えたけれど、いずれにしても問題 は三竦(すくみ)に絡んでいるのだという程度の認識は一郎にもあった。 豊橋本校での新年度が始まって十日目頃、新規特待生の発表があって、一郎は選抜から 外れた。一年限りの儚い夢だった。新規特待生の成績対象となる二年生の一年間、一郎は 神坂ねんことの濃厚な交際に明け暮れて、授業に打ち込むどころではなかったのだ。同人 誌『追舟』の発行に現(うつつ)を抜かしてもいた。経済的打撃は否めないけれど、奨学金で 凌げなくはない。 『追舟』三号は、七月中旬に出ていた。季刊の計画はなんとかクリアしたものの、頁数は 創刊号より半減して四十六頁の薄いものになった。 誌面には新登場、日比裕の小説「三人卍」、軍艦こと馬瀬広之助の評論「空白の子」、 秋村進(本名・国本尺六)の戯曲「スフィンクス」が載って、一郎はアルベール・カミュ の『結婚』の文体と、最近登場した大江健三郎の『死者の奢り』の状況設定(シチュエーシ ョン)を模したような短編小説「埋没」を発表した。 そして編集後記を次のように記した。 「新しい文学の可能性」という課題が提起されて以来、既に数ケ月、ぼくらも微力ながら そのことを追求してきました。 且つて近代日本文学の正統であった自然主義リアリズム――私小説の潮流を、ムナクソ ワルイ亡霊として駆逐し、思想と構造を文学の正統とすべく「観念的な、余りに観念的な」 文学の創造を、敢えて決行することをぼくら心に決めたのです。 寓意(アレゴリー)と仮構(フィクション)によってぼくらのイデーを表現するために、ぼく らは近代日本文学の手法を否定するという暴挙を、選んだのです。ぼくらの選択が正しい か否か、それは当面、ぼくらの関心ではない。ようするに、試みが問題なのだ。 ぼくらは、試みに賭ける。 (『追舟』三号編集後記) 一郎が主張する文学観は必ずしも同人たちの共通認識とはなっていない。一郎の一人よ がりの感を否めない。それは同人雑誌を発行しようと集まった計画の段階ですでに露呈し ていた。誌名を決める際の亀裂が、雑誌の発行をかさねるにつれて深くなった。創刊に加 わった同人のほとんどが三号に作品を掲載しなかったのは、その結果なのだ。 仲間のあいだに漂う停滞感には感情的なそれも忍び込んでいる。退会者は夫馬敬成ひと りだが、一郎が二号の編集後記に書いた文章は、同人みなに例外なく不快感をもたらした。 氷やのKちゃん、三郎さ、軍艦といった年長の同人も面と向かって口にすることはなかっ たけれど、一郎の雑誌運営には専横を嗅ぎとって、眉を顰(ひそ)めている。同人の離散はそ れほど遠くない・・・・・・。一郎は『追舟』四号の準備にとりかかった。 友二君じゃないか・・・・・・。 読み耽っていたエルミーロフの『ドストエフスキー論』から目を上げて、何げなく通路 の前方、彼の位置とは反対側の座席に視線をやったとき、一郎はそう思った。斜交いに後 姿しか見えないけれど、異常に白い項あたりに窺える容貌の感じといい、歪つに傾いだ右 半身の特徴といい、不自由な右手でしきりに何かをメモしている後姿といい、中学の頃、 一年間だけクラスが同じになった友二君に違いない。それにしても、友二君がなぜ、この 列車に乗っているのだろう・・・・・・。 後期の授業が始まって一か月ほど経った大学からの帰途、豊橋から名古屋方面へ向かう 東海道線の車中のことだ。 石山友二は一郎より何歳か上のはず。両親が開拓民として旧満州(中国東北地方)へ渡 っていたのでそこで生まれ、戦後、日本へ引き揚げてきた。中学時代の石山は長期欠席す ることが多く、一郎と同じクラスになった二年生の時も学校を休むことが多く、たしか四 年間通って中学を卒業したはずだ。その以前、小学校編入時も同年齢の者より遅れ、それ で一郎より何歳か年上になる。 一郎は石山友二とは特に親しかったというのではないが、彼が体に障害を負ったのは引 き揚げの途中、失踪する日本軍の自動車に轢かれたからだ、と石山自身の口から聞いたこ とがある。 中学を卒業して数年後、石山友二が自宅で採れた野菜を乳母車に積んで漁港の町を売っ て歩いているという話を、一郎は母から聞いた。母は、「家(うち)に寄ってくれるときは、 きっと買うようにしとる」と付け加えた。 「友二君じゃないか」 石山友二に間違いなかった。何か印刷物の裏に短歌らしきものをメモしていた石山友二 はゆっくりとした動作で顔を上げ、怪訝な表情をみせた。 「中学で一緒だった一郎、馬瀬だよ」 一郎がそういうのとほとんど同時に、 「あー、いーくん」 友二君は言うなり表情を緩めた。 友二君と向かい合わせに掛けていた主婦らしき人が、どうぞ、と目顔で言って席を替っ てくれたので、一郎は礼を言って旧友の前に掛けた。 「短歌を作るのに凝(こ)っていて」 一郎がメモ用紙に視線をやったのに気づいて、友二君は悪びれるふうもなく言い、下敷 き代りにしていた大学ノートにメモの紙を挟んだ。 友二君がなぜこの列車に乗っているのだろうという一郎の疑問はすぐに解けた。一年ほ ど前から障害者専門の職業訓練所に通っているという。その施設は豊橋から飯田線に乗り 換えて三十分ほどの町にある。 「いーくんは」 友二君が訊ね返す。一郎は数秒、躊躇し、 「豊橋の大学へ通っている」 と答える。友二君の顔が影の掠めるように曇った。 友二君は自分をさらすふうに、久しぶりに会った一郎に語った。 中学を卒業して、乳母車に積んだ野菜を行商みたいに売り歩いていたときは、自分が惨 めで辛かった。町では野菜など自宅で栽培している家が多い。漁師の家でさえ貰い物で済 ませている。売れるはずもないのだ。ただ、家人から余計者と思われたくないばかりにそ れをしているだけ。そう思うと、自己嫌悪がつのり、不自由な恰好で乳母車を押している 姿を他人が笑っているように妄想してしまう。半日ほど町を廻れば、体も疲れ切る。 夕暮れどきなど、家の向かいにある寺の木木が暗く影におおわれて風に鳴るのを眺めて、 あぁ、死にたい、と無性に思うことがあった。事実、衝動的にカミソリで手首を切って死 のうとし、果たせなかったこともある。短歌を詠みはじめたのは、そんな時。日日をやり すごすつなぎの慰めにはなった。二時間近くもかけて職業訓練施設に通う気になったのも、 短歌のお陰で少しは生きようという気持ちが沸いてきたからかもしれない―― 友二君はときどき笑いに紛らせながら淡淡と語るのだが、一郎はなぜか感謝したい気持 ちを覚えた。自分を忌憚なく語る――そういうことは(あるいはそういう人生を持ってい るということは)、自分には一度もない経験なのだ。 家(うち)の畑でも家族で食べきれないほどの野菜を作っているのに、友二君が乳母車を押 して廻って来れば、母は几帳面に買うことにしていた、そんな事情もあって友二君は仕舞 っておきたい胸の内まで語ってくれたのかもしれない。一郎はそう思う。 大府駅で武豊線のディーゼル車に乗り換えてから、一郎は同人雑誌『追舟』のことを話 した。 「すでに三号まで発行していて、十一月には四号を出すことになっている。友二君、ぜひ 短歌を寄せてくれよ」 一郎の誘いに、友二君は幾分はにかむふうだったが、目を輝かせた。 夕陽の燦めきがホームを染めるなか、友二君は短歌を『追舟』に寄せることを約して、 漁港の町とは一つ手前の東浦駅で降りた。駅舎から消えるとき、右肩がひどく下がって左 右に揺れる友二君の後姿が、心躍らせているように一郎に感じられた。 三日後、石山友二から郵便が届いた。封筒を開けると、四首の短歌と詩篇一篇がはいっ ている。約束の物、早速送ります――と一行だけの手紙が添えられている。 短歌は、無為の日日、ノイローゼに怯えながら父親や兄との不和を詠んだ歌が二首。月 二千円の給料で病院の受付係をする不具の身を嘆いた歌壱首(三日前の車中では病院に勤 めた話は出なかったけど、野菜の行商をする前か後かにそんなこともあったんだ、と一郎 は知る)。あと一首は自殺未遂の歌だった。友二君の話では手首を切ったということだっ たが、短歌では農薬を服んで――となっている。そうか・・・・・・。友二君は少なくとも二度、 自死を企てたんだ、と一郎は推察する。 四首の短歌はいずれも暗い色調に彩られ、総じて詠嘆にながれる傾向のものだった。短 歌の技法について疎(うと)い一郎だが、そういう傾向には違和感があった。しかし、同封さ れていた詩篇に彼は魅かれた。詩に題は付されていない。 月をみなさい。 月には顔がない。 だから 月は笑っています。 人をみなさい。 人間には顔がある。 だから 人は笑えません。 人間に顔がある限り 人間は笑えません。 月に顔がない限り 月は笑っています。 空がとても青くて 家々の屋根がまぶしそうです。 「可哀想だな」そう思いながら見ている男。 どうしてあなたは そんなふうに自分を眺めるのですか。 空を眺めるのがまぶしい男。 「可哀想だな」そう思いながら 男が考える死。 どうしてあなたは そんなふうに自分を眺めるのですか。 あなたがそんなふうに自分を眺めるので あなたは死です。 「人とは何ですか」 「それは、おかしい、です」 「おかしいって、何ですか」 「無意味です」 「無意味って、何ですか」 「それは、人間です」 空があまりに青いので、 家々の屋根はまぶしそうです。 「可哀想に・・・・・・」と男は思います。 一郎はその詩を『追舟』四号に載せたいと思う。短歌四首のほうには躊躇(ためら)いがあ る。 ともかく一郎は、『追舟』バックナンバー三冊を石山友二に送った。 四号の締め切りが迫っているのに、掲載する作品を同人たちが準備している様子はみら れない。顔を合わせるたび催促するのだが、反応は一郎の意気込みを削ぐものだった。一 郎の文学論あるいは雑誌運営にはっきりと異を唱える者さえいて、同人たちの離散は避け られない段階に来ているようだ。原稿が集まらなければ、友二君の短歌を載せるのもやむ をえないだろう・・・・・・。一郎は手前勝手にそんなふうに思う。 一郎自身は、他に作品が集まらない場合をすでに想定して、これまでになく長い小説を 書きすすめていた。「いたずら」と題されたそれの創作メモは、次のように簡単で漠然と したものだ。 主人公「ぼく」は山陰地方の砂丘(作中では勿論、そこは地名もなく抽象化された場所 でなくてはならない)を旅したとき、少年たちのいたずらを見る。 十数人の少年たちが、一人の気弱そうな、貧相な少年を罵りながら、砂丘の頂きへ引き ずり上げて行く。捕虜の少年の体は縄で縛られ、何人かの少年がそれを引く。頂きに仁王 立ちした体格のよい少年が、繋がれた少年を足蹴にし、足蹴にされた少年の体はまっさか さまに砂丘を転げ落ちる。砂にまみれて転落する少年の悲鳴は聞えない。そのいたずら(懲 罰)は何度も繰り返される。繰り返されるうち、捕虜の少年は自分から求めて砂丘を登っ て行くようになる。 主人公「ぼく」は数日後、砂丘で三人の少年が自殺したという新聞記事に接する。三人 のうち一人はいたずらの被害者である捕虜の少年、あとの二人は彼に同情した少年――そ う「ぼく」は想像する。 主人公「ぼく」は旅の途中、砂丘の町へ舞い戻る。そこで意外な事実を知る。捕虜の少 年は生きていた。 「ぼく」は生き残った少年に接近する。少年が自殺を考えていることを知る。二人は砂丘 で対決し、一緒に死ぬことを暗黙のうちに決意するのだったが・・・・・・ (ノート「現実と虚構」) 一郎が「いたずら」を書いているさなかに、石山友二からハガキが届いて、一郎を驚か せた。『追舟』一号から三号までの馬瀬君の小説を全部読んだ。そのうえで考えたことだ けれど、ぼくの原稿を掲載しないでほしい――という文面だった。理由が具体的に書かれ ていない。 一郎は詩だけでも載せさせてほしいと返事を書こうか迷ううち、石山友二が断りの手紙 を寄越した理由を考えた。そして不意打ちでも食らうようにその理由に思い当たった。一 郎の小説を読み、そこに書かれた世界が自分の直面している現実や人生の悩みとはあまり に懸け離れているのを知って、石山友二は絶望したのに違いない。一郎が一人よがりに書 いている「観念的な、あまりに観念的な」文学が、石山友二によって告発されたのに等し い。 一郎は石山友二に返事を書くことができなかった。 『追舟』四号は結局、一郎の小説「いたずら」一二〇枚一篇のみの掲載で発行された。 彼は負け惜しみに次のような編集後記を書いた。 今やぼくらは状況と自己主体という且つて両立し得なかった対立命題を、実存への危機 的な問いとして止揚しなくてはならない。ぼくらの状況は既に与えられた。現代文学の課 題は、現状分析とか、人生の反映とかにあるのではなく、与えられた状況への主体による 語りかけ=対決にあらねばならない。現代文学の冒険は、虚無と不条理に充ちた状況の内 部にあっての「人間の回復」でなくてはならない。虚無とか不条理とか言う時代の風土病 への世代的な郷愁にも拘らず、その彼方へ向けて根源的に人間を回復する、その最善の方 法として、喩(メタファー)と虚構(フィクション)という、もう一つの現実=文学という真実 を、ぼくらは選んだのだ。(『追舟』四号編集後記) 『追舟』四号の発行が合図であったかのように、同人たちは離散し、会は崩壊した。 Ⅴ 一郎が小豆島から四国を巡る旅に発ったのは、『追舟』四号が出たその月の下旬だった。 同人会は解体し、合評会を開くことも叶わず、無性に虚しさを覚えたのが、彼を旅に急き 立てた直接の動機だったが、昨年の三月に夫馬敬成と信州を巡ったきり旅らしい旅から遠 ざかっていることが彼を促した。神坂ねんこを誘おうか、一郎はずいぶん迷った。 神坂ねんことの関係は、三年生になってから落ち着いたものになっている。たがいを理 解し合っている確信が、二人のあいだに絆らしきものをつくり、一郎はしばしば悩まされ た嫉妬を覚えることも少なくなっている。むしろ、映画「わらの男」を観て、ヒロインが 浮気するのに本気で腹を立て不機嫌になったりするねんこを、一郎は可笑しく眺めたりす る。体を交わす二人の身振りには、どこか擬似夫婦の趣さえ感じられる。 迷ったすえ、一郎は一人で旅することにした。 一郎はこれまでの旅でそうしたように、ノートを丹念に取った。 一九五八年十一月二十三日 夜の明けきらぬ名古屋駅は、いくらか瞑想的だ。あるいはちょっと間抜けな表情。 うろこ雲のあいだに橙色の朝焼けが差しはじめたのは、どの辺りだったろうか。たぶん 米原の少し手前。 列車が高槻を通過する時、浦本君の顔を懐かしく想い出す。どこか明治書生気質を感じ させる、実直そうな顔。 高校を卒業した年の三月、山陰の旅で知り合った浦本君は、ぼくより二歳年上の金沢大 生だった。専攻は工学部なのに文学好きらしく、『追舟』を送るたび丁寧な感想を寄せて くる。サルトルやサン・テグジュペリも読んでいるようだ。高槻市の電機メーカーに就職 した、と便りが届いたのは今年の春。 山陰の旅では城の崎を訪ねて、志賀直哉の『城の崎にて』を思い浮かべ、なぜか梶井基 次郎の『檸檬』との類似に思いを馳せたのが、ふと想い出される。 神戸の港は、すっかり朝。港通りのレストランで働く高知の娘が印象的だった。 雨の中の小豆島航路。海上の汽船というものは、どこか動物的だ。 小豆島よ、君は哀れか。近代化の犠牲羊か。 T荘のHちゃん、君は善い人だ。いつもどこでも幸せでいてほしい。信頼を裏切ったぼ くを憎むのは構わない。この男、消えるべし。 小豆島にて 十一月二十四日 土庄の港までHちゃんが送ってくれた。汽船の発つまで黙っていた。「さよなら」の声 は汽笛の響きに消されてしまった。 汽船は島を大きく迂回しながら離れた。もう一度、ぼくは小豆島を訪ねたい。 朝、瀬戸内海は静かだ。霧雨を浴みて息を詰めているのだ。海面は動かない。 濃い雨雲の狭間、空が橙色に明るんでいる辺りで、小豆島は終っている。そこから数学 的な水平線。 暫くすると、四国の島影が姿を現わす。人口五万八千の島はすっかり姿を消し、高松港 が微かに視界に映る。それは徐々に明確な容姿を象どる。工業港らしく、裸の鉄塔と巨大 な貨物船。高松港に入る少し手前で、海面の色がくっきりと境界を彩って、濃碧から赤錆 色に変わる。「この波は徐々に広がっていくんですよ」と乗組員が教えてくれる。 上陸した頃、雨は上がる。窪川行の列車で赤いコートの女性と向かい合わせる。 多度津の海が美しい。讃岐財田から後免までの風景が実にいい。あるときは灌木林、あ るときは鬱蒼とした緑樹のあいだを、列車は愉快なほどゆっくりと走る。谷底の川がどこ までも従いてくる。ときどき遠く谷間(あい)にみえる百戸足らずの村のたたずまいが、人び との営みへの懐かしさを誘う。 天気のいい日には、川底の岩影がくっきりと目に映る、と赤いコートの女性が言う。ぼ くが、信州の小淵沢線に似てる、と言うと、彼女は千曲川に憧れていて、ぜひ信州を旅し たい、と微笑む。 彼女(名はKちゃんと知る)は高知で下りた。大学の寮に帰ると言う彼女の写真を、駅 前のタクシー寄せで撮り、ぼくは再び乗車。別れが惜しい。 窪川に着いたのは夕暮れどき。実にゆったりとした汽車の旅だった。 そこからはバスで二時間の行程。夜が小説の中の「時」のように急速に下りてくる。夜 の土佐佐賀の海が美しい。星々が眼下の波面を控え目に輝かせている。 途中の停留場で、二人の教員が窓外の人々の日教組の歌に送られて乗ってくる。勤評闘 争を深刻に語り合う二人にアルコールが入っているのが、ちょっと可笑しい。 バスは終着の辺鄙な町に着いた。 土佐中村にて 十一月二十五日 土佐中村から下の加江へ下るバスの行程は、どこか雲仙のそれに似ている。伊豆田峠か ら見下ろす下田の海、蟻崎の海、家々もまばらな谷間の部落。急角度に曲がりくねる断崖 上の道を息もつかせず走行する運転手の集中力と熟練に感嘆する。 土佐清水で交通公社の係員と小さなトラブルがあったが、清水から足摺までの路程で若 い車掌が示してくれた親切のお陰で不快な気分はすっかり晴れた。土佐清水は、入江を望 む水の綺麗な港町だった。 いよいよ南の果てへやって来た。窪川からバスで七時間に近い行程のすえ、足摺岬だ! 天気は晴朗。足摺の海は意外に穏やか。しかし、波涛はどこか闘う者の激しさを秘めて いる。いまは牛乳のような海面は、いつか炎と燃えて岩を襲い、抉り抜くだろう。太平洋 の水平線は幾何学的な正確さ。 沖合の燦めきを眺めていると、くらくらと眼が眩んで太陽に吸い込まれそう。眼下の波 と岩々は死への誘ないにちがいないが、ぼくにとっては有難度い生への誘惑だ。銀白に燦 めく光の粒子を見よ。あれこそ、ぼくの生だ。生の輝き。 灯台下の展望台で、高知から来たという夫人と写真を撮る。足摺岬を独り歩くとは、こ のおばさん、なかなかの人だ。 足摺岬に着くと早々に、ぼくは展望台の岩の上に寝転がり、中村の宿で作って貰ったお にぎりを頬ばる。海鳴りが快い。大きなのを二個食う。正午だ。 展望台から天狗の鼻、ビロー園と巡る。ビロー園では禁門を犯して園内に入り、ビロー 樹の立札に(相合傘マーク/ねんこ・一郎 1958 11・25)と落書きする。 ビロー樹林への紅土道の途中に清水が流れており、四つん這いになって口をつけ、冷た い水を飲む。 ビロー園の出入口でバスを待っていると、布カバンを袈裟懸けにした小学生が、木々の あいだをサッサッサッサッ・・・・・・と歩いて来る。彼は見事に胸を張ってぼくを見もせず通 り過ぎる。ぼくがそっと彼の後姿をねらうと、彼は後頭部にでも目があるように振り向き、 カメラを構えたぼくのほうへ四、五歩戻って、いっそう見事に胸を張り、ニコリともせず 帽子を被り直す。パチリ。人影のない一本道、最前と同じ歩調で遠ざかった。 ぼくの乗ったバスが途中、彼を追い越すとき、少年は破顔一笑、手を振りながらバスのあ とを駆けてきた。砂けむりが彼の姿を消すまで、ぼくは窓から顔を覗け、手を振る。胸の 名札に「川島英正」とあった少年は、足摺岬での二時間ほどの愉しみをいっそう際立たせ てくれた。 足摺岬から土佐清水を経て、竜串でバスを降りた。海岸で団栗を拾う、紺のセーターの 娘に会う。ぼくより二、三歳年下か。瞳のちょっと激しい娘(こ)だ。 ぼくと彼女は、「見残しの岩」への遊覧船を待ったが、日が暮れはじめたので明朝行くこ とにする。その代り、ぼくらは竜串の岩場を巡る。夕陽が海を染めて岬の向こうへ沈むの を、二人は岩にもたれて見送った。 ぼくらは、ごく自然のことのように手を取り合って険しい岩々を巡り、そのあとも夕闇に つつまれた海辺でしばらく語り合った。中学を卒業したあと、二年ほど富士山の見えると ころで過ごしたと言う。そこで何をしていたのか、彼女は語らなかった。肩を並べて話す うち、ぼくが夕闇に誘惑されでもするように唇を求めると、彼女はきっぱりとそれを拒ん だ。 ぼくが竜串からバスで十数分の三崎の遍路宿をとったのは、彼女の勧めによる。明治の頃 からの実に古びた宿だ。彼女は三崎の人なのだ。 バスを降りて別れるとき、ぼくは明日の「見残しの岩」行きに誘ったが、彼女は返事をせ ずに去った。海辺でのぼくの不躾な行為を怒っているにちがいない。 三崎の遍路宿にて 十一月二十六日 バス停に彼女は来ていた! 今朝は紺のセーターではなく、大人っぽいワンピースを着 ている。「おはよう」と声を掛けると、彼女ははにかむふうに笑った。 「見残しの岩」への遊覧船では“町の有力者”たちと同乗する。ぼくと彼女意外に一般客 はいない。“町の有力者”連は「見残しの岩」を観光商品にするつもりらしい。岩々の一 つ一つに名前をつけに来たのだ。岩の容姿に合わせて「鷹の嘴」とか「獅子の鬣(たてがみ)」 とか「犬の鼻」とか、通俗的に小田原評定している。野性のままが一番いいのに・・・・・・。 「見残しの岩」の素晴らしさは、峨峨とした連なり。そして海底の珊瑚と熱帯を想わせる 魚々の、幻想的な美しさ。「見残し」とは、弘法大師がこの地を訪ねたとき、その険しさ に足を伸ばすこともならず見残した、との故事に由来する。 ぼくと彼女はその岩々を見上げる海辺の岩場を巡る。手を取り合って。彼女が霧雨の降 りしきる岩場を仔猫のように駆ける、裸足になって。実に野性的だ。 遊覧船の二人の船頭さん、老人と若者が、ぼくらに飾らない親切をかけてくれる。 「見残しの岩」での二時間余。“町の有力者”連を案内したガイド嬢は、彼女の友だちだ という。二人を写真に撮る。 帰りの遊覧船から眺める「見残しの岩」は、来るときに増して精悍な風貌だ。船上で、 霧雨に頭髪をすっかり濡らしながら寄り添っている二人は、恋人同士に見えただろう。 竜串の海岸へ戻ると、即席の恋人同士は砂浜で夕暮れまで貝殻を拾ったりした。別れる まえ、口づけを求めたのは彼女だった。彼女の所作はひどくぎこちなかった。 彼女はいまさっきバスで三崎へ帰った。あのどことなく激しい瞳が一瞬、冷たく光った のが忘れられない。「来年の三月、もう一度来る」そう言うぼくに、彼女は頷いた。瞳が うるむように輝いた。あの瞬間を想い出す。 ぼくはいま、茶店で宿毛へのバスを待っている。 竜串の茶店にて 宿毛へ向かうバスの中、窓外の闇に移る少女の顔が三崎の彼女の顔に重なった。竜串の 茶店で可愛い少女が三味線の稽古をしていた。映画の場面に似た情景だった。 潮風と霧雨にあたり、岩々を巡って疲れた体に、想い出が何んとも快よい。ねんこのた めに海浜で拾った貝殻の色いろを、欲張りな気分で眺めている。 それにしてもこの宿の女中さんは妙な女(ひと)だ。感情を失ったような、紙人形に似た雰 囲気の女だ。赤木圭一郎のファンだと言う。 宿の山芋が美味い。 宿毛の昭和館にて 十一月二十七日 宿毛から宇和島までのバスの路程は長い。途中、城辺という町を通る。こんな僻地にこ んな新しい町が、と驚くほど垢抜けたたたずまいだ。 沈降海岸を走るバスは次々と名も知らない岬や岩々を望ませる。港では真珠の養殖が行 われている。海辺の砂地に乾された小魚が、キラキラと銀いろ。潮の香りを放って陽光が 踊る。 親切な車掌さんがぼくのためにこの地方の地図を呉れる。バスの車中は、大阪へ行く、 里帰りしていた土地の娘さんたちで賑やかだ。彼女たちが歌に疲れ、コックリコックリ始 めた頃、バスは宇和島に着いた。 宇和島桟橋で遊ぶ。宿毛の宿で作ってもらったおにぎり弁当を片づけ、防波堤の上にひ っくり返って寝る。晩秋ともおもえぬ陽射しが、顔の皮膚を刺す。眼を閉じていると、蒸 気船の軽やかな響き。若い漁師の何ごとか呼び交わす声。波の音。ときどき鳴る銅鑼。そ れらは孤独のなかの慰藉。 宇和島駅から予讃線で松山へ向かう。車中は混んでいて、ぼくは誰彼となく話す。通過 したばかりのトンネルの名を訊ねたとき、あれは夜昼トンネル、と答えたのは向かい合わ せの女性。そのひとは網袋に入ったボールを大事そうに膝に乗せている。時々、胸のあた りに抱きかかえたりして。バレーボールの選手で、松山市で開催される競技会に参加する のだという。化粧気のない質素な感じのひとだ。大原美術館を訪ねたことがあると言う。 竜串の浜辺で拾った貝殻を見せると、その変哲もない貝殻を彼女は一つ一つ丁寧に眺めた。 松山に着くと、ぼくは道後温泉へ、女子バレー選手は明日の試合のため宿舎へ。「時間 があったら見に来てください」別れぎわに彼女はそう言って、試合の始まる時刻を告げる。 宿のビールがほろ苦く、それがいい。 道後の宿にて 十一月二十八日 朝、徒歩で松山城に登る。盆地のなかの町の朝は、陽が昇ると靄の中から現われる。港 の工業地帯は既に活動を始め、山間(あい)の道後は黙々と湯けむりを奏でている。 城壁を登る。快い疲労。城下町特有の、朝明けの神秘。松山での印象はあの感じに尽き る。 松山から高松へ。 出船の銅鑼と「蛍の光」がもの悲しい。高松港を発った連絡船は、瀬戸内の島々を望み ながら静かに海上を滑る。 あの銅鑼の響きと「蛍の光」の旋律が、四国の旅の終りをぼくに告げた。一つの作品を 書き上げたのに似る充実が、いまぼくの内にある。しかし、それは不朽の名作か、それと も唾棄すべき・・・・・・。 列車での帰路は、大阪で小休止を挟んだ意外は長く続き、名古屋駅に着いたのは二十二 時三十一分。 ホームにねんこが迎えている。 ねんこの家にて 見知らぬ土地を訪ね、見知らぬ人びとと出会い、異質の言葉を交わす、それは途轍もな くいい。互いにまっさらで不器用な会話は、ちゃちな策略を不可能にし、人間の控え目な 善意を際立たせる。思いがけず遭遇した、小さな冒険にも似ている。 自然の情景が美しいからといって、ぼくらが救われるとは思えない。抒情が人を救うな どと考えるのも馬鹿げている。人を救うのは、正確な生の思想をおいて他にはない。 にもかかわらず、ぼくは旅の都度、抒情を愉しむ。旅が通りすがりの土地、一期一会の 出会いである以上、それらへの感動もやはり一過性の抒情にすぎない。そして、その種の 抒情が、生死の問題に直面したときぼくを救うとは思わないが、人間の凡庸な生をいくら か彩るのは確かだ。人が求め、必要としているのは、案外、こういうものかもしれない。 それでもぼくは、臍を曲げてみる。抒情とは決して妥協しない、と。 ぼくの内部にあって巨大な支配力を持つのは、思想の意思なのだ。 (ノート「現実と虚構」) 一郎が小豆島から四国を巡る旅から帰って、数か月が経っていた。一九五九年の二月初 旬。 「わたしはどちらでもいいの。あなたが決めて」 神坂ねんこはそれほど深刻な表情をみせず、語調だけは一郎の退路を絶つふうに言った。 一郎はそれにも即答することができない。 喫茶「琥珀」にはいってテーブルに着く間もなく、ねんこは妊娠したと告げたのだが、 そのときから一郎は碌すっぽ言葉を返せないでいる。時間稼ぎしている自分を意識して苛 立っているのに。 子どもを産むか、堕胎手術をするか。ねんこの体を思いやれば優柔不断は赦されない。 手術をするなら一日も早くなければならない。 「ねんこは生みたいのだろう?」 一郎の言葉は曖昧だった。 彼女は一郎のそんな態度を予想していたように眉を曇らせ、視線を険しくした。 「今度の定休日、堕(おろ)してくる」 彼女が一郎をキッと見据えて言うのに、一郎は視線をそらさず堪えた。 ねんこはおれの心のうちをすっかり読んでいる。おれが堕胎に反対できないのを先刻承 知なのだ。おれはといえば、こちらが大学を卒業するまでねんこは生みたいと言わないだ ろう、と高を括っている。それで、彼女が堕胎手術を決心するのに期待して、故意に優柔 不断な態度を演技している・・・・・・。 一郎の体のどこからともなく漂い出た腐臭が、彼の鼻を衝いた。 「病院へは従(つ)いて行くよ」 そんな一言で醜悪なエゴが軟らげられるとは思わなかった。彼女はその言葉を払いのけ た。 「恥ずかしいから、いい」 彼女の様子が口調ほどに険しくないのが、一郎には救いだった。いや、彼が一人勝手に そう思いなして救いを求めているにすぎないのかもしれない。 彼女が手術をした日の夕方、二人は産婦人科医院に近い喫茶店で待ち合わせた。 ねんこは体力を使い果たしたあとのように蒼白な顔をし、華奢な体をいっそう細くして、 一郎を待っていた。彼女の容貌を際立たせるはずの透き通るような額の感じが、どこかく すんでいる。 それなのに一郎は、それまで会っていたゼミ仲間の山波雄太郎を伴って待ち合わせの店 に現われたのだった。手術あととも知らない山波があれこれ話しかけるのに、ねんこは辛 そうにしていた。さすがに一郎も気苦しくなって山波と別れ、彼女を家まで送った。 一郎が言い出して、二人の婚姻届を彼女の住む町の役場に出したのは、それから一週間 ほどのちだった。ねんこがまだ同棲するわけにはいかないと渋るのを、一緒に暮らすのは 別の問題として、まず形の上だけでも結婚しよう、と説得したのだった。 「形の上」などという行為を一郎は嫌悪したけれど、せめてもの気持ちをぬぐえなかった。 婚姻届という姑息な方法が罪滅ぼしになるとは思えないけれど、贖罪の意思と、ねんこと の絆を確かにしておきたいという我執とが、相半ばして、彼は一枚の紙片に託した。 ねんこの両親が婚姻届に異を唱えなかったのは、いずれ二人が家に同居することを望ん だからだろう。ねんこは三人きょうだいの末っ子だが、兄は物心ともに家から離れており、 姉は大阪に嫁いでいる。一郎の父母には婚姻届を出したことを(いずれねんこの両親と同 居のことも)まだ話していないが、反対はしないと分かっている。彼が八人きょうだいの 四番目(三男)という条件以上に、父母は息子の選択を拘束しない型(タイプ)の親だから。 そんな事情があって、一郎は何の躊躇もなくねんこの住む町の役場に婚姻届を出したの だった。 四年生になったら、擬似夫婦がうんとほんものらしくなるだろうな・・・・・・。一郎にはそ んなふうに思う余裕がうまれた。 Ⅵ 神坂ねんこの家は、名古屋駅から私鉄電車に乗って三駅目。鉄橋を渡るとすぐの町にあ る。 その家は敗戦の年、アメリカ軍機の名古屋空襲によって家を焼かれた人びとのために急 遽、建てられた簡易住宅。整地工事も粗雑なまま埋め立てた田んぼ跡地に同型の家が碁盤 目状に棟を連ねている。原型のままの家屋のあちこちに改装、増築した家家もあって、同 じ戦災者のなかにも貧富の差があらわれているのが窺われる。 一九〇〇(明治三十三)年に生まれた神坂ねんこの父は小学校を卒業すると、兵庫県養 父郡の山間(あい)の部落を出て名古屋の製菓会社に丁稚奉公した。ずっと菓子職人をつづけ て、第二次大戦中は従業員数名を雇って、名古屋西部の同業者が軒を並べる地区で製菓業 を営んでいた。そしてB29 の焼夷弾爆撃に見舞われたのだった。 いま父親は、長屋ふうに住宅二戸分の一戸を改造して機械を置き、一人で駄菓子のあら れ(おかき)を作っている。もう一戸分の住宅には、建て増しされて間もない六畳一間の 二階がある。一郎が四年生になって早早、神坂ねんこの家に同居すると、その二階が彼の 部屋になった。 同居人の彼が二階の部屋に運び入れたのは、漁港の町の家にあった本と本棚、洋服箪笥 の小ぶりなのが一個(それは一応、父が買ってくれた新調のものではあったが)、それき りだった。 ねんこの父親は小柄な体を朝から夕まで動かして黙黙と働くばかりの、楽しみといえば 近隣の祭りなどに催される演芸会で浪曲(十八番は天中軒雲右衛門の「壺坂霊験記」らし い)を披露するくらい、という人。険阻な表情など見せたことはなく、一郎に対してさえ 腰を低くして笑顔を絶やさない。家のオルガナイザーは彼女の母親のほうであるが、一郎 を末娘の“入婿”と見做して神坂の家を託すつもりなのか、何かと気を使っている。 玄関に「馬瀬一郎」の標札を掛けたい――神坂ねんこがそう言ったのは、同居して間も ない日だった。一郎がこの家の住人であることを明確にしたい、併せて彼が「神坂」の婿 養子というのではなく「馬瀬」の人間であることを宣明する。彼女なりの気遣いがあった のだろう。一郎は彼女の提言を断った。確固とした理由があってのことではなく、漠然と 自分の立場を猶予の状態におきたかったからだ。 神坂ねんこの家に同居したとはいえ、そこで過ごす時間は少なく、最近では外で泊まる ことが多くなっている。大体は大学に近い山波雄太郎の下宿が宿になる。来年に改訂をひ かえた日米安全保障条約に対する学生の動きが俄かに活発化してきたことが外泊の理由だ った。 山波雄太郎は四年生になると『資本論』ゼミナールから社会経済学のゼミナールに移っ ている。そこで奥三河・鳳来町や紀州の山間部落における歴史や習俗と経済の関係を調査 している。もともとマルクス経済学には馴染めない型(タイプ)の人間であったのだが、いつ だったか一郎に打ち明けたように、『資本論』ゼミでは望み薄な優秀賞を狙って他のゼミ へ転じるという目論見を実行したのだ。 山波が親近感を示してくるのは、彼なりの罪障意識によるのだろう、と一郎は気づいて いる。一種の打算から転身した負い目を、もとのゼミ仲間とつながっていることで解消し ようというのだろう。そのために教条的で辛辣な仲間のなかにあって異質な型(タイプ)の一 郎が選ばれたということに違いない。 一郎が山波の行為を容赦しているというのではない。内心、軽蔑さえしている。ただ『資 本論』ゼミに固執する理由を彼自身、持っていないだけのことである。やがて就職問題が 目前にあらわれたとき、『資本論』ゼミを離脱しないまでも、履歴書に記しやすいゼミナ ールも便宜的に履修して二股をかけるということだってありうる。そんな誘惑を断乎、断 ちきるほど、おれは潔癖ではない・・・・・・。一郎はそう思っている。 「馬瀬君、優秀賞はぼくの夢だよ。本山ゼミの仲間は転向者呼ばわりしてぼくを蔑むだろ うけど、人それぞれの生き方があると思わないか。ぼくはイデオロギーで人生を縛られた くない。馬瀬君なら解ってくれると思うんだ」 二人がときどき行く駅前のやきとり屋台で飲んでいるときだった。コップの酒を二杯ほ ど空けるうち、山波はゼミナールを替わったことを弁解しはじめ、さも一郎が彼の気持ち を理解するはずだというふうな口吻になっていた。山波の粘っこく擦り寄る心の動きに、 一郎は苛立った。 「優秀賞が夢なのは君の勝手だが、ぼくには全然、解らん。ぼくは思想と人生は同伴者だ と思っている。思想によって生きるのが、ぼくの夢だ。人それぞれの生き方というのなら、 君と一緒にしてほしくない」 幾分かは酔いの勢いもあってのことだろう、一郎は意地悪く言葉を返した。 それでも二人は不穏な口論にはならず、山波の下宿へ帰った。彼の下宿が気侭な宿であ ることは、一郎にとって重宝だった。 二階大教室で開かれた全学集会は、席につけない者もいて学生たちで溢れている。正面 講壇の背景には、横書きに墨書された白布が掲げられて、「日米安保 改訂阻止 全面廃 棄へ」 「警職法」は国会で審議打ち切り、実質上の廃案となった。それからの延長という形をと って、日米安全保障条約の改訂問題が学生たちのあいだに関心を高めている。「警職法」 廃案の当初、安堵感もあってか、引き継がれた安保問題への関心は鈍く、学生集会は低調 だった。危機感をつのらせた自治会執行部が情宣活動にやっきになったこともあって、よ うやく大教室を学生たちで埋めるまでになった。 愛智大学内ではまだストライキにはいるか否かの論議には至っていないが、東京の大学 では一部の学生がピケを張ったという情報も伝わっている。「警職法」闘争の街頭デモで 逮捕された都島直二が、きょうの集会に釈放後はじめて顔をみせたのは、一挙にストライ キの提起まで持っていこうとする執行部の演出があるのかもしれない・・・・・・。一郎はそん な予測をしながら、汗っぽい空気のなか前列に近い席に掛けていた。 きょうも本山ゼミのメンバーは誰も参加していないようだ・・・・・・。一郎は、大教室のな かをひとめぐり眺めたのだが、一人だけいるのに気づいた。彼の位置から斜め左の前方、 最前列端っこの席に掛けて顔の側面をみせているのは、康(カン)元(ウォン)南(ナム)にちが いない。 都島直二を起用しての演出――その予測は的中した。 自治会書記長の白柳が手短かに基調報告を終えると、司会者が都島直二の名前を呼んだ。 参加学生のなかに紛れて後方の席にいた都島が窓際の通路に姿をみせると、パラパラとい う感じで拍手が起こる。白いワイシャツに黒っぽいズボンの小柄な都島は足早に通路を抜 け、敏捷な動作で講壇に登った。ふたたび起こった拍手はやはり疎らなものなのに、都島 は壇上に立つなり大歓声に迎えられでもしたふうに両腕を高高とかざし、満面の笑みをつ くって手を振る。司会者が拍手を要請し、半分ほどの学生がそれに応えたが、一郎は拍手 を送らなかった。 ヒロイックなのは苦手だな・・・・・・。一郎は内心、呟く。 都島は、逮捕から拘留にいたる状況を報告し、官憲の不当を激しい語調で弾劾した。安 保改訂時に予想される人民の反対闘争を予防的に弾圧するのが、「警職法」の狙いだった。 われわれは国家権力の策謀を見事に粉砕した――都島はそのように結論づけた。 語りつぐうちみずから煽られて興奮の度を増すらしく、都島はアジテーションの身振り をいよいよ激しくして、「全学ストップをもって、東アジアの平和を脅かす日米国家権力 策謀を打ち砕こう」と唐突に檄を飛ばし、壇上から下りた。 思いのほか多くの拍手が起こった。 「学生が、授業をボイコットするというのは、どういうことですか」 一郎の真うしろあたりで声が挙がった。司会者が議事を進行しようとする矢先だった。 一郎は振り向かなかったけれど、その声が文学部の女子学生であることはわかった。女 子は数十名しかいない大学で、学生集会に参加するのは彼女一人だった。色黒の容貌がど こか男性っぽいばかりでなく、いつも白い開襟シャツと茶色っぽいズボンを着けている。 一郎が知るかぎり彼女は学生集会に欠かさず姿をみせている。 「平和を守るのは、学生の任務じゃないですか」 司会者は一瞬たじろぐふうだったが、平静な口調で応えた。 「問題を擦り替えないでください。誰だって平和を望んでいるでしょ。でも、民主的な論 議も経ないで、いきなり全学ストを提起するなんてフェアーじゃない。ルールを守るよう 要求します」 女子学生の語調には上(うわ)ずる気持ちを不器用に抑制している息づかいが感じられた が、ヒステリックな印象はなく、どこか凛と響いた。 集会は小波(さざなみ)程度の紛糾で納まった。自治会執行部が、都島直二の発言は闘争方 針の公式的な提案ではない、と答えたからだ。これから全学ストの問題は避けられないだ ろう。あの女子学生の発言に親近感を覚えたとしても、スト自体、否定はできない。その 日のためにおれ自身、立場を明確にしておかなくては・・・・・・。 一郎は大教室をあとにしながらそう思い、学生たちの群れのなかに康元南の姿を探した が、見つからなかった。 二日後の『資本論』ゼミナールの時間、花咲幸男が教室の椅子を投げ、机をひっくり返 して暴れた。 講義の始まる前、集会での都島直二のアジテーションと女子学生の抗議がゼミ生のあい だで話題になった。彼らの耳に情報がいちはやく伝わっているのだ。 「都島君は冒険主義者にすぎんよ。そう、極左冒険主義の弊害」 そう言ったのは丹波作治だった。 そのとき、花咲幸男がいきなり立ち上がり、何か叫んで自分の掛けていた椅子を丹波に 投げつけた。椅子は離れた席の丹波には届かず、音を立てて机の上に落ちた。花咲はさら に蒼白な顔の皮膚をピクピク震わせて叫びつづけ、目のまえの机をひっくり返した。「警 職法」のとき、すでに布石が敷かれていた。しかし、あのとき彼が示した態度とは明らか に違って、花咲の眼に狂気の影が走っているのに一郎は気づいた。ひっくり返した机を飛 びこえ丹波のほうへ襲いかかろうとして、花咲は足をとられて転倒した。 激しい興奮と憤怒に駆られて一過性の狂いだったのだろうか、花咲は泣きながら教室を 飛び出した。 康元南と一郎が、花咲のあとを追ったのは同時だった。花咲は廊下を駆け、あッという 間にキャンパスへ走り出て行った。花咲の姿が廊下から消えると、康と一郎は諦めて教室 へ戻った。教室の雰囲気はぎこちなく沈み、ゼミ生たちが気持ちを俯かせるようにして黙 りこくっていた。 全学ストライキの闘争方針は鳴りをひそめたまま、自治会の呼びかけによる始めての街 頭デモが行われたのは、梅雨空の下だった。 松葉公園に集まった学生は二百人そこそこ。労働組合の赤い鉢巻や腕章を着けた者も、 ちらほら学生たちに混じっている。鉢巻姿の学生は自治会執行部の数名だけ。主催者が用 意したプラカードやゼッケンを一部の学生が手にしたり胸に着けているほかは、大半の学 生が徒手空拳、手持ち無沙汰な風情ではある。傘を差している者はいない。 自治会の志賀が初めての街頭行動の意義を訴え、デモ行進の注意など説明しているあい だ、一郎は参加者に視線をめぐらした。先日の学生集会で執行部に詰めよった女子学生の 姿があった。彼女とそれほど離れていない位置に、康(カン)元(ウォン)南(ナム)がいる。一 郎は、学生のあいだをぬって康のほうへ近づいた。 「康(こう)さん」 一郎が声を掛けるのに、康(カン)は「あぁ、馬瀬君」と微妙に訛りの混じる言葉で応え、 小さく笑った。同級生だが五、六歳年上の康を一郎たちは「康さん」と呼ぶ。 背後から肩を叩く者があって振り向くと、『資本論』ゼミの喜多弘次だった。ゼミ仲間 はほかに参加していないようだ。 霧のような細かい雨が降っている。デモ行進は松葉公園を出発し、大通りを豊橋駅へ向 かう。駅前ロータリーを巡ってふたたび公園に戻るのだ。世辞にも果敢なとはいえない、 ゆったりとした行進、それでも参加者たちは執行部が先導するシュプレヒコールに合わせ、 調和のとれた声で叫んだ。叫び声は、夕闇にはまだ間があるのに暗い、雨雲の空に消えた。 「安保改訂を阻止しよう」 「日本を米帝の植民地にするな」 「日本の自主独立を守ろう」 「ふたたび戦争への策謀を許すな」 「日米安保を断乎、粉砕しよう」 一時間ほどの行進のあいだ、自治会執行部のアピールとシュプレヒコールは、同じパタ ーンで繰り返された。隣でやけに威勢よく声を張り上げる喜多に煽られて、一郎の声も次 第に高くなった。 途中、一郎が怪訝な感じにとらわれたのは、行進が駅前ロータリーを折り返して大通り をすすんでいる時だった。喜多の向こう隣を歩いている康元南が、ずっと黙っていてシュ プレヒコールには唱和しない。馬のそれを連想させる温和な康の眼が、どこか不機嫌に曇 り、雨に濡れた横顔に険(けん)が掠めている。康のはにかむ癖を見慣れている一郎には、意 外だった。 デモ行進のあいだに雨は少しずつ強くなって、松葉公園で解散するや学生たちの一部は 喫茶「田園」に走り込んだ。 「わたしの国の問題は、一度も出なかったね。日米安保条約と朝鮮半島は密接な関係なの に」 一郎たち三人も「田園」へ駆け込み、一息ついたとき康が言った。咄嗟には意味を解し かねて喜多と顔を見合わせた直後、それが集会のアピールやシュプレヒコールについて言 っているのだと気づき、一郎は虚を衝かれた。康の表情はデモ行進の時とはよほど軟らい でいたけれど、内心、一郎と喜多に抗議しているのが解った。 一郎がしばしば下宿を訪ねるほど康元南と親しくなったのは、デモで一緒になったその 日からだ。下宿は大学から歩いて十分ほどの周囲が田園地帯の一角、竹林の近くにあった。 「新井さん」というその家の四畳半一間が彼の間借り部屋だった。 一郎が初めて下宿を訪ねたとき、桜の季節も過ぎてかなり経つというのに、康の部屋に は大きな火鉢があって、真昼のその時間、炭火こそ熾(おこ)されていなかったが、夜には炭 を入れて熾すのだ、と彼は言った。 「日本へ来て、すぐ結核に罹ってね。それ以来、冷え性の体になったです」 康は火鉢の上縁に肘をつき、火箸で灰の表面をならすように掻きながら言った。 青森の山間にあるサナトリウムで二年間、療養し、「すごく気立てのいい看護婦さん」 と恋愛した。二十歳(はたち)の初恋だった。接吻もしたことのないプラトニックなラブだっ た。体がよくなって、東北のほうの飯場などで働いていたが、病気の再発を心配した母方 の叔父さんに呼ばれて豊橋へ来た。その叔父さんが下宿の家主「新井さん」だ。こちらへ 来てからも看護婦さんとの間に文通はつづいたけれど、一年と経たずに彼女からの便りは 途絶えた。それでも四、五回手紙を送りつづけ、返事がないまま消息は絶えた。 二十三歳で大学へ入ったのは、叔父「新井さん」の勧めと援助があってのこと。「新井 さん」は日帝時代に十歳代で日本へ渡ってきて、ダムやトンネルの工事現場で働き、日本 が戦争に敗けた時、つまり朝鮮が解放された時には、飯場の班長みたいなことをしていた。 その経験を活かして戦後、土方の組を興し、それ相当の苦労と手腕があってのことだろう、 いまは従業員十数名を雇う土建会社「新井組」の経営者。康の言葉を借りれば、日本にい る同胞のうちでは「稀な成功者」ということだ―― 康元南は一郎が下宿を訪ねるたび、火鉢の灰を火箸の先で丁寧に掻きならしながら、そ んな話をした。火鉢の灰を掻きならす所作は、康の癖なのだ。 「これが犬の鑑札です」 ある日、康がそう言って、机の抽出しから取り出したのは、一冊の薄い手帳だった。学 生手帳とは違って仰仰しい感じのそれを手渡されて、何のことか、と一郎は思った。茶色 っぽい表紙を戸惑いながら眺める一郎に、康は頁を繰ってみろ、と目顔で促す。横書きに 本籍、現住所、氏名などが記された欄があり、康の顔写真が貼られている。さらに頁をめ くると押捺された指紋が並んでいる。一郎は訳もなく慌てて手帳を閉じた。手帳の意味が 充分に理解できないまま、一郎は胸騒ぎを覚えたのだ。 康は一郎の手から手帳をひったくるようにすると、何も説明せず、脈絡を無視するふう に言った。 「わたしは大学終えたら院のほうへ進み、学者になるのが夢です」 それはその都度、言い回しに違いはあっても、一郎の前で康が決まり文句のように言う 言葉だった。『資本論』ゼミの本山教授が兼任で勤めている、東京のR大学の大学院へ進 む準備を彼はしている。 一郎と康元南が、一か月間アルバイトをするため、長野県と新潟県の県境に近い十日町 へ行ったのは、夏休みにはいって早早だった。 名古屋から長野まで国鉄中央線で行き、そこから飯山線に乗り換えて十日町へ。十日町 から山合いの道をバスで四十分ほど登ったところに八箇孕石という、美しい川が流れてい るきりで民家の見あたらない土地がある。一郎と康はそれぞれボストンバッグ一個を提げ て、そこの飯場にはいった。かなり大がかりな隧道工事が行われているのだ。 二人が八箇孕石の隧道工事の現場に来たのは、一郎の次兄サーやんに誘われてのことだ。 サーやんは高校を中退して職に就くこともなく二年ほどぶらぶらしていたのだが、突然、 漁港の町を出て東京へ行き、さらに北海道へ渡り、ふたたび西下して、新潟県の直江津、 長野県の松本などを転転とした。東京と札幌で一時、「国際画報」というグラビア雑誌の セールスをしていたほかは、ずっと土木現場の飯場暮らし。忘れた頃に家に届く一枚のハ ガキによって、一郎は次兄の六年間の軌跡を知っていた。東京の浅草に近い地下鉄工事現 場で働いていたときのハガキには、無縁仏になった遊女の白骨が地底からゴロゴロと出て くる、と書かれていた。 「只今、十日町と小千谷のあいだの八箇孕石(はっかはらみいし)という所のトンネル工 事で発破係をしている。すごくいい所だから、夏休みに一度遊びに来るといい」 一郎の名前を宛名にしたハガキが漁港の町の家に届いたのは、七月の初め。半年振りの 便りだった。一郎は最初、一週間ほど訪ねてみようと考えていたのだが、その話を康元南 にすると、彼も同行したいと言う。話し合ううち、そこでアルバイトをすれば一挙両得、 ということになった。一郎がその旨、手紙を出すと、サーやんからすぐに承諾の返事が来 て、ハガキには、「学問の徒である学生諸君が飯場の労働を経験するのは、日本の将来に とって誠に望ましい」と書き添えられていた。 飯場で働いているのは秋田、山形、福島などから出稼ぎに来ている人が大半で、一郎に はよく聞きとれない、くにの言葉で話し合っている。家族からの便りを懐かしそうに見せ てくれる人もいるが、方言そのままを仮名書きしたものなので、一郎にはほとんど読み取 れない。発破係りのサーやんは、その人たちをたばねるボーシン(班長)でもある。 サーやんの口利きが効いてのことだろう。一郎と康の仕事は予想していたのと違って楽 なものだった。道具を運んだり、掘削した土砂を運ぶトロッコ押しの助手をしたり、仕事 を終えたあと、泥にまみれた道具や長靴、合羽などを飯場と道路を隔てた目と鼻のさきの 川の水で洗ったり、というのが主な仕事だった。それで隧道工事のアルバイトをしようと 決めるとき一郎が抱いた危惧は、消えた。一郎は康元南の健康を心配したのだった。いま は治癒しているとはいえ、結核の前歴があるのだから。「馬瀬君、大丈夫だよ。わたしは 土方の経験者だからね、腕に自信がある。馬瀬君のほうこそ悲鳴を上げないかと、心配だ ね」 そのとき康はそう言って笑った。 康が言ったとうり、彼は音(ね)を上げるどころか大学で顔を合わせるときより明るく、顔 色も冴えている。馬のそれに似た温和そうな眼が、いっそう柔和になっている。 仕事は朝早く飯場から百メートルほど離れた現場にはいって、八時頃には始まるのだが、 終えるのも早く三時には飯場に戻る。昼食は飯場で摂って、時には二時間近くも休憩する ことがあるので、午後の仕事は三時間にもならない。 賄いと人夫たちの作業着など衣類の洗濯は、安田組という飯場の社長の母親がしている。 七十歳はこえているこの人は、じつに溌剌と体を動かして人夫たちの世話を焼く。一郎は ひそかに「肝っ玉ばあさん」と呼んでいるが、康は違う呼び方をした。 「オモニ、オモニ」 康は「肝っ玉ばあさん」をそう呼んで、何かと相談し、楽しげに話を交わしている。会 話の半分以上が二人のくにの言葉だ。 ここへ来て康さんの様子が明るくなったのは、同胞の「オモニ」のせいにちがいな い・・・・・・。一郎がそのことに気づいたのは、働きはじめて一週間と経たない頃だった。 飯場では餌付けをして数羽の鴉を飼っている。サーやんが前の現場の神奈川県相模原の 山中で迷子になっている一羽の鴉を拾って育てながら、すっかり懐(なつ)いたそれを肩に乗 せて八箇孕石まで連れてきた。そのうち、どこからともなく一羽、二羽と鴉が集まってき て、いまでは七羽の鴉が人夫たちと一緒に暮らしている。仕事を終えてその鴉と遊んだり、 「オモニ」の洗濯を手伝うのが、一郎と康の愉しみになった。 サーやんが迷子になった子鴉を育て八箇孕石の飯場まで連れてあるいてきたという話を 聞いて、一郎は少年の頃、彼に従いて爆弾穴に生息する牛蛙を獲ったことを憶い出した。 牛蛙の腹に縦一文字に包丁を入れ、外套を脱がすみたいに上手に料るのは、サーやんの得 意業(わざ)だった。サーやんには優しいところと残酷なところが妙に調和していた。 「オモニ」の洗濯を手伝うのは最初、康だけだったが、一郎もそれに倣うようになった。 水を張った大きなドラム罐に衣類を漬けて一枚一枚、洗濯板で洗う作業は楽しいとはいえ なかったけれど、それを川べりに張りめぐらせた紐に干すのが楽しかった。康と冗談話を 交わしながら、衣類の一枚一枚を三十メートルほどの紐に掛けていくのだ。すっかり掛け 終ると、見事に並んだ白や色物の衣類が、陽差しを浴びて運動会の万国旗みたいに川風に はためき、気分を愉しくする。 飯場でのアルバイトもあと一週間ほどで終るという日、そんな洗濯物の旗を背景に一郎 と康は川べりの堤に尻を下ろして語り合っていた。 話題が一段落して、二人は、碧青に澄む川面で光の粒子が黄色い微細な花弁のように燦 めくのをぼんやりと眺めていた。そうして川面に視線をやっていると、頭のなかが虚ろに なって夢の中へ体が漂っていくような気分になる。 「馬瀬君――」 不意に康が呼びかけた。 「君には、わたしのことを康(こう)ではなく、康(カン)と呼んでほしい。そう、元南(げんな ん)ではなく元南(ウォンナム)と」 康はそう言って、一郎のほうへ注いだ視線をすぐに川面に戻した。 康の言葉は唐突だったが、一郎はそれほど驚かなかった。一郎がこれまで「康(こう)さん」 と呼ぶたび、数瞬とはいえ硬い表情が康の顔を掠めた。一郎がそのことに気づいてからし ばらくになる。それがずっと心にかかっていて、八箇孕石の飯場に来て「オモニ」が康を 呼ぶのに康(こう)とか元南(げんなん)とは違うのを知った。それで一度、彼のほうから康元 南の朝鮮語の読み方を訊ねようと思っていたのだ。 しかし、そのあとに康がつづけた話は、一郎を動揺させた。 「馬瀬君は、九年前にわたしの国で戦争があったこと、知ってますね。朝鮮戦争、そう、 六(ユ)・二五(ギオ)と言います」 「知っています。中学一年の時、ラジオで大学野球の放送を聞いていて、臨時ニュースで 聞きました。朝鮮半島で戦争が勃発したと告げるアナウンサーの声が少し興奮していたの を、はっきりと覚えています」 康は一郎の言葉に頷いて、語調をととのえるふうにゆっくりとつづけた。 「あの戦争が始まった日、わたしは高等学校の二年生でした。最初、北の人民軍が釜山近 くまで南下してきて、わたしの父はその人民軍に志願しました。しかし、アメリカ軍がわ たしの国へ上陸してきたのは早かったですよ。日本の本土や沖縄の基地から戦艦や爆撃機 がどんどんやってきたのです。アボヂ、そう、お父さんが戦死したのは、戦争が始まって 一年と経たない間でした。わたしが潜水艦でドンブリコして、そうです、密航して、玄界 灘を渡ったのは、アボヂが亡くなってすぐあとです。日本にいる叔父さんのところへ逃げ なさい、オモニがそう言ったのです。オモニは運よく戦争を生き残りました。故郷の大邱(テ グ)というところで、いまも小さな雑貨屋さんを開いて細細、暮らしています」 康はそこまで言うと、一つ溜息をついて、 「こんな話は不愉快ですか。でも、馬瀬君にぜひ伝えたかったのです」 と、微かにはにかんだ。 「とんでもないです。康(カン)さんがそういう話、ぼくなんかにしてくれて嬉しいです。ぼ くは幸運な日本人かもしれません」 一郎はそう康に応えた。感情の底のほうから伝わってくる動悸を抑えているせいか、ぎ こちない言い方になった。 康元南は二度三度と頷いて、それきり話題を変えた。何度見ても馬のそれを連想させる 両の眼が、柔和な光を取りもどして一郎に注がれた。 一郎は、申(シン)聖(ソン)浩(ホ)さんの死について話そうかどうか迷った。中学三年生の 時、国語の時間に久米仙七が大須事件の話をしたのを思い出していたからだ。 七年前の七月七日、中国訪問の報告と朝鮮戦争反対を目的とする政治集会が、名古屋の 大須球場で開かれた。その集会とデモには五千人をこえる人びとが集まり、数千人の朝鮮 人も参加していた。その時、警官隊の発砲によって参加者の一人が殺された。その犠牲者 が漁港の町に住む高校生で、申聖浩さんだった。 そんないきさつがあって、一郎は朝鮮戦争にまつわる大須事件と申聖浩さんの死を康に 話そうかと迷ったのだが、結局、切り出せないでしまった。 一週間のち、一郎と康は一か月分一万八千円の賃金を安田組から受け取って、八箇孕石 の飯場をあとにした。賄い付きで一万八千円の賃金は、一郎がこれまでのアルバイトでは 手にしたこともないほどの額だった。 「康君、しっかりと学問をおさめて、ウリ同胞(トンボ)の役に立つ人間になりなさい。馬瀬 君は、康君とよく友情をしてやりなさい」 賃金のはいった封筒を渡すとき、安田社長が二人に言い、隣で次兄のサーやんが笑みを 浮かべていた。 帰路、一郎と康元南は松本で途中下車して、駅に近い路地裏にある「馬のさしみの店」 で酒を飲み、その店と隣り合わせの木賃宿に泊まった。 Ⅶ 一郎は『追舟』が休刊して四か月ほどのちに、名古屋で発行されている同人雑誌『七星』 の同人に加わっていた。 「骨は、ぼくが拾いましょう」 初めて訪ねて行った日、『七星』を主宰する沐前円洙(もくぜんえんしゅ)はそう言った。 沐前円洙の家には鍼灸院の看板が掛かっていて、玄関をはいってすぐの狭い待合室で一 郎は沐前と対面した。座卓を挟んで二人掛けソファが二脚あるきりの待合室は、来客のた めの応接間も兼ねているらしい。ガラス扉一つ隔てた奥が鍼灸の施療室になっているが、 沐前は訪問治療に出ることのほうが多いようだ。一郎が訪ねた日も、彼が外出から帰るの を二、三十分待った。一郎が待合室にいた二時間ほどのあいだ外来の患者は一人もなかっ た。そのかわり白杖を手にした盲目の人が時時、玄関を出入りして、待合室脇の階段を昇 り降りした。二階にマッサージ師の何人かが住み込んでいるようだ。 玄関をはいって待合室と板壁のあいだに、人が体を斜めにして擦れ違えるほどの通路が 土間なりに奥へ通っていて、そこに自家製の印刷所がある。印刷機と植字盤の棚がかすか な電球の明かりに照らされていた。「七星工房」と名付けられたそこで、沐前自身と、印 刷工の経験のある同人が、活字を拾い、輪転機を回し、『七星』は作られているのだ。 『七星』が創刊されたのは、日本が戦争に敗れて四年後、一九四九年九月だった。以来、 五、六十頁の薄手なものながら同人雑誌としては珍しい活版で印刷され、月刊で発行され ている。 「馬瀬君、文学は泥水を啜ってするものですよ」 沐前円洙は、『七星』の由来や性格について語りながら、その言葉を何度も挿んだ。頭 髪を坊主頭に刈り込んで頭蓋が大きく、顔貌もどこか入道の趣がある。四十歳そこそこな のに、名前があたえる印象もあってか、老成の風情だ。左眼をあらぬ方向に漂わせ、ちょ っと斜視にして、右目で相手を見据えるのが癖らしく、沐前がそんな視線をこちらに注ぎ つつ「文学は泥水・・・・・・」云云と言ったとき、古くさい型(タイプ)の人だな、と一郎は思っ た。「骨は、ぼくが拾いましょう」と言ったときも同じ感想を持った。だからといって、 一郎が不快感を抱くということはなかった。 同人に加わると早早、一郎は『七星』一九五九年五月号に短編を寄せた。「奇妙な男」 と題されたそれは、衒いばかりが目立つ作品で、主宰の沐前円洙は雑誌の冒頭に載せてく れたが、同人たちの評判は散散なものだった。 次作は題材も文体も極力、作意を抑えて、素直な作品を書くことにしよう―― 一郎がそ う決めたのは、彼なりに前作の不評を反省してのことだった。それで少年時代の一時期、 漁港の町で彼の家近くに住んでいて強く記憶に残っている、知恵遅れの少年をモチーフに 書くことにした。フィクションを混えて書くのにはちがいないけれど、できるだけ事実を 作品に反映させたいと考えた。 「あんちゃんぽっぽ」と題された作品のメモを、一郎はノートに記した。ノートは四年生 になって八冊目にはいり、「極限と参加」と題されている。 「あんちゃんぽっぽ」メモ 知能に障害を持つ少年たけると、虚無感(ニヒリズム)にとらわれた青年Sの、奇妙だが、 稀有の友情。 ぼくが小学生の頃、家の近くに「お釈迦さんの家」があった。毎年、お釈迦さんの日に は甘茶をふるまう祭祀があって、ぼくら近所の子供はそれを楽しみにしたものだ。その家 には父親のいない家族が住んでいて、たけるは縁戚の者なのか、何時の頃からか「お釈迦 さんの家」に預けられていた。 漁港の町の西、田圃の向こうを鉄道が走っていて、一時間置きくらいに列車が通った。 その時刻が来ると、たけるは決まって家を飛び出し、地蔵堂の角を曲がって、白い坂道を 駆けた。そして通り過ぎる列車に向かって、腕と脚をぎくしゃくに躍らせ、叫ぶのだった。 「あんちゃん ぽっぽ」「あんちゃん ぽっぽ」 お兄ちゃん、汽車が行くよ、と彼は告げるのだ。それでぼくらは彼を「あんちゃんぽっ ぽ」と呼んだのだが、そのとき、お兄ちゃんとは、彼の兄を指すのではなく、付近で遊ん でいる子供たちの誰彼のことだった。時には彼より年少の者が「あんちゃん」となること もあった。その彼を真似て、ぼくらは体を滑稽に躍らせ、「あんちゃん ぽっぽ」と叫ん だものだ。ぼくら子供は、彼の行為が喜びの表現であることも知らず、揶揄ったのだった。 のちにぼくは夫馬敬成と友人になり、夫馬の借り部屋を訪ねるようになって、隣に住む 女の子を知り、たけるを思い起こしたものだ。学齢でいえば中学生くらいのその女の子は、 夫馬やぼくの顔を見ると、「だんだぶう」「だんだぶう」と言って風呂にはいることをせ がんだ。「だんだぶう」は入浴が好きだったのにちがいない。「あんちゃんぽっぽ」のた けるが汽車を好きだったように。 最近、ぼくは「あんちゃんぽっぽ」や「だんだぶう」が知能障害の子なのかどうか、疑 わしくなっている。そんな疑問が、たける少年を書きたいと思ったモチーフ(創作的動機) だ。 青年Sは孤独である。その孤独感には、作為的な自嘲と虚無がまつわりついていて不純 なのを、彼自身、知っている。人物設定はこれまでに書いた「まっくろけ まっしろけ」 の「ぼく」、「奇妙な男」の名前のない男、「埋没」の征さん、「いたずら」の「ぼく」 などと同系だが、S自身のそのような自覚において、前記人物らとは異なる。Sの人物的 性格を人生に敗残した青年として限定するか、虚無と孤独に閉ざされた現代人の直面する 難問として設定するか、その選択はここでは大した問題ではない。 人間的な感動を失った青年がいて、ある町で蔑ろにされている少年と出会い、少年に注 ぐ「愛」や「善意」がいかに試されるかが問題だ。その「愛」とか「善意」が、同情的な ものではなく、少年との関係性においていかに「友情」へと浄化されるか、少年との関係 においてS自身がいかに慰藉されるか、そのプロセス自体が小説の主題にならなくてはな らない。 青年Sが情熱のすべてから見放されたのは、ある日、彼が抗い難い「不条理の眼」に見 つめられてしまったからであるが、その彼がたける少年との「友情」によって、「不条理 の眼」の呪縛から解かれることができるのか、その可能性を試すのが、この小説の眼目で なくてはならない。 そして終章――たけるは、事故とも自殺ともつかない仕方で、列車に轢かれて死ぬ。青 年Sが彼の内部に、ある恢復を予感した直後だった。たける少年の死のあと、Sは「あん ちゃん ぽっぽ」と叫ぶ人になる。 (ノート「極限と参加」) 「あんちゃんぽっぽ」は『七星』一九五九年九月号に掲載された。同人のあいだでおおむ ね好評を博した。 ところが、突然の嵐が一郎の満悦を吹き飛ばした。 二階の部屋でサン・テグジュペリの『人間の土地』を読みながら、一郎は雨戸を打つ風 の音に苛立ちはじめていた。 最近、サン・テグジュペリに傾倒していて、二日まえ漁港の町の実家に戻ったのを機に、 一週間ばかりここにとどまって読み込もうと思っている。いや、サン・テグジュペリに集 中するために実家に帰ったのだった。『人生に意味を』『手帖』『ある人質への手紙』『城 砦』など数冊を携えてきていた。以前、よくそうしたように、海辺へ行って防潮堤に寝転 がり、燦めく陽差しの下で潮風に吹かれながら、サン・テグジュペリを読むのを愉しみに 来たのだ。 昼間の予報では、大型で強い台風が紀伊水道を抜けて潮岬あたりに上陸するコースをと っている、と伝えていた。進路次第では伊勢湾への接近も懸念されると報じていた。 漁港の町で風が強くなりはじめたのは、夕暮れ前だった。雨はさほど激しくなかったが、 道端の木木を風が音を立てて揺するのを窓から眺めるうち、一郎は訳もなく粗暴な気分に なった。読書を邪魔された腹癒せに、彼はノートに書きなぐった。 戸外(そと)は嵐だ。 おれは今、戸外へ飛び出して行って、ずぶ濡れになり、嵐の中をさ迷い歩いてみたい気 持ちだ。まだ日暮れ前というのに、まるで暗夜じゃないか。 野良犬みたいに濡れしょぼれたおれは嵐を呪うだろう。人は惨めな姿でいるときが一番 善良そうに見えるのだ。おれは思い切り惨めな気持ち、卑屈な人間になってみたいと思う ことがある。まったく奇妙な願望だ。 嵐よ、まだまだ足りない、もっと手荒く吹いて呉れ。この男の人生までも吹き飛ばして しまうほどに。 この男、「苦難」をこよなく求めているらしい。 (ノート「極限と参加」) それだけノートに書きなぐると、一郎の苛立ちは幾分、治まり、ふたたび彼はサン・テ ックスを読みはじめた。 宵の口をすぎたあたり、戸外で電線を伝う風の音がしだいに悲鳴に似たそれに変り、雨 戸を叩く雨音も喧しくなる。闇の中を風雨が叫び声を上げて走っている。 一郎は読書を中断してふたたびノートに向かい、サン・テグジュペリに関するメモを取 っておくことにした。サン・テグジュペリに関するメモは、すでにノートの頁を埋めてい る。たとえば―― サン・テックスがめざめたとき、彼の眼前には「敗北」がある。差し伸べもしないのに 彼の手に「奇妙な腫物」が落ちる。そこでかれはこう言わざるをえない、「こんなのって ないよ」。 だが、サン・テックスは報酬を受け取ることを忘れやしない。そう、彼は言う、「ぼく にはパラドックスをゆっくり味わい楽しむ権利がある」と。 「敗北」「無気力」この奇妙な腫物、ぼくらは一度だって手を差し伸べていないのに、 それはぼくらの掌にぬくぬくと落ち込んでくるのだ。だからといって、ぼくらに愚痴る権 利があるなどと思わないで呉れ。ぼくらは、ふわふわとした、手応えのない、奇妙な腫物 を握りしめて闘うのだ。闘いには死んで行く兵士も必要なのだ。罪のない敗北の犠牲者は ぼくらだ。観客たちよ、審判者どもよ、口出しはしないで呉れ。敗北を裁くのは、敗北者 たるぼくら自身だ。奇妙な腫物など、ぼくらには寝耳に水だ。だが、いただいた贈物はぼ くらの手で処分しようじゃないか。 サン・テックスは瞑想家にちがいない。人生の「延長」を唱え、「絆」に賭ける彼の詩 的エスプリは、瞑想のうちに眩く燦めく。しかし、フランス人としての、飛行士としての 彼は、充分に行動的である。 サン・テックスは矛盾する「二人の自分」を背負って、空を飛ぶ。 彼の願いが何であるか、ぼくは理解する。「絆の温み」「それぞれの一人が万人のすべ ての罪を負う」「人間の共同体」「真実の人間の復興(ルネッサンス)」「真実の人間の救出」 「真実の人間の本然への施与」――彼がその願いをどのように表現しようと、それはぼく らの願望でもあるのだから。 そうだ、土中に埋まった一人の坑夫を救い出すために百人の生命(いのち)を動員しよう。 一人の犠牲者を救うために十人の生命を必要とするなら、ぼくは喜んで十人目の男になろ う。 (『戦う操縦士』について) サン・テックスの門は、すでに閉ざされていた。何年振りかでそこに帰ったベルニスに とって、パリは単純で職業化された社会にすぎず、虚偽の生を愉しむ者にとって卑属化さ れたその社会は好都合なものにちがいないが、真の人生を生きようと願う者には唾棄すべ き社会だった。ベルニスは自からそのような社会を拒否する。 ベルニスが年上の女と恋したとき、彼はそれを愛と呼び、女も彼に愛を見出す。だが結 局、それだけのことだ。彼は自分が女にとっての救いとならないことを発見し、女とのあ いだの埋め難い断絶に絶望する。そのとき彼は女のもとから出発する。ベルニスは愛を拒 否する。 サン・テックスにとって、社会への、愛への門は閉ざされている。しかし、サン・テッ クスは自からそれらを拒むのだ。その拒否を彼は「脱出」と呼ぶ。不条理な彼らの世代か らの「脱出」なのだ。 結局、サン・テックスにおいて生が意味を持ちうるのは、地上にあってではなく空(そら) の上にあってなのだ。地上的世界を語るとき彼は瞑想的であり、空の世界を飛ぶとき戦士 となるのだ。 ところが『南方郵便機』にあって、主人公ベルニスの空の生は地上からの「脱出」の結 果なのだ。そこには『戦う操縦士』にみられる積極的な生の闘いはない。『戦う操縦士』 では、サン・テックスは友愛と戦闘(たたかい)の論理(ドラマ)を展開した。ちょうどカミュ が『ペスト』において連帯と戦闘(たたかい)の物語(ロマン)を展開したように。 終末においてベルニスの機は盗賊に襲撃され、彼の死体は砂丘の上に両腕を十字架の形 にひろげた恰好で発見される。ベルニスの行動の意味を暗示するように。 ベルニスの死は、サン・テックスの思想の何を表わしているのか? 単純に同僚である 飛行士の死に関する実話から着想されたものなのか? あるいはぼくらの時代の状況を表 徴する何かなのか? (『南方郵便機』について) サン・テックスは、人間の内奥の相反する二つの真実のあいだの闘争について語った。 『夜間飛行』における航空会社の支配人リヴィエールは、航空便の夜間飛行という危険を 冒すことによってスピードに賭ける。夜と空に闘いを挑み、人間の能力(ちから)がどんなに 崇高であるかを証そうとするのだ。そのために彼は規律に厳格であり、部下にたいする愛 情さえ現わしてはならないのだ。過失にしろ成功にしろ、出来事というものは人間が命令 し、作り出すものなのだから、過失を犯した部下を彼は非情に罰さなくてはならない。懲 罰は悪意のためではなく二度と過ちを犯さないためのものである。偉大な事業を成し遂げ るためには、ヒューマニズムを抹殺せねばならないのだ。 『夜間飛行』におけるサン・テックスの主題は、人間における二種の命題――個人のため に人類の標(しるし)を滅ぼすべきか、人類の標を証し立てるために個人の生命を犠牲にする 事がゆるされるか、この二つの命題のあいだの闘争にある。それは人間の二つの側面―― 人類的事業=革命か、個人の尊厳=ヒューマニティかの対決でもある。 支配人リヴィエールはあ、矛盾する命題に苦悩する。たった一度の過失のせいで二十年 にわたる航空界への献身にもかかわらず除名されようとする老人に対し、リヴィエールは 皺のためにひび割れた相手の手を眺めながら、ヒューマニティへの郷愁を覚える。しかし 彼は、人類の標を立てるためにそのような郷愁を自分の内部から追放しなければならない。 老人を馘首するより他ないのだ。それでもリヴィエールは、自分が戦っているのは彼ら部 下ではなく部下たちの過ちに対してであることを知っており、悔いることはない。 だが或る夜、アンデスの彼方で夜間便が嵐に遭遇し、乗員二人の生存が絶望的になった とき、打ちひしがれた乗員の妻を前に、リヴィエールはいよいよ事業か個人かの矛盾に悩 む。「人間の生命には価値はないかも知れない。僕等はつねに、何か人間の生命に立ちま さる価値のあるものが存在するかのように行為しているのだが、さてそれは何であろう か? 何の名において、僕は行動しているのだろうか?」リヴィエールのうちにそんな疑 問が浮かぶのだ。 サン・テックスは人間の生命以上の価値のために戦っているのだ。が、実際に乗員二人 の生命が絶たれていくのを感じるとき、前記のような問いを避けることはできず、苦悩の 末、次のように記す、「生命がこの事業を動かすとき、はじめて彼は人間の死滅に対して 闘っていることになるのだ」 サン・テックスは、個人の生命を礎に人類の標を選んだ、と言えようか。 「人間という奴には矛盾が多いので、やれるようにしてやっていくより仕方がない」のだ。 サン・テックスにとって、動いている力だけが人生を解決する、ということか。 二人の乗員は死に、新しい操縦士が、誇りと微笑に充ちて、夜の空へ飛び立っていった。 リヴィエールは重たい勝利を背に負って、それを見送る。 「彼がもし、たった一度でも出発をよしたら、夜間飛行の存在理由は失われてしまうはず だ。・・・・・・勝利だの、敗北だのと、これらの言葉には意味がない。・・・・・・大切なのはただ 一つ、進展しつつある事態のみだ。・・・・・・生命の躍動が行きわたり、あらゆる問題を解決 していく筈だ」 サン・テックスは、人間をではなく、その能力(ちから)と標(しるし)を選んだのだ。 「彼にとっては人間というものは、捏(こね)固めなければならない生のままの蠟であった。 この物質に魂を吹き込み意志を創ってやらなければならない」。 (『夜間飛行』に ついて) 数週間前から、一冊読了するたびに読書覚書の形式で書きつがれてきた、それらの文章 につづけて、一郎は『人間の土地』についてノート「極限と参加」に記しはじめた。戸外 を走り抜ける風雨の唸りを聞きながら。 〈僕ら人間について、大地が、萬巻の書より多くを教える。 理由は、大地が人間に抵抗するがためだ〉 サン・テックスは、彼の焚火で、人間を呼ぶ。 「別の火よ、夜の中に點り出でよ。人間だけが火を持っているのだ。人間よ、我らに答え よ」 だが、広漠たる地の涯、その火は消え去るべき祈りでしかなかった。彼は祈りにも絶望 しなければならなかった。答えはなかった。それでも彼は、絶望と仮死のなかでさえ、人 間の尊厳を守りつづけることを知っていた。 絶望と死の恐怖のなかで、ぼくが泣いているのは、自分のことなんかではない。絶え難 いのは、ぼくを待っていてくれる、あの数々の眼だ。彼らが発するであろう、叫び声、あ の絶望の大きな炎だ。ぼくの沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を少しずつ虐殺してい く。なんだって、沈みかけている人びとを助けるのを、こんなに多くのものが邪魔するの だ。我慢しろ、ぼくらが駆けつけてやる。ぼくらこそ救援隊だ。 砂漠の真ん中で、サン・テックスは叫びつづける。 「おおい! 人間ども・・・・・・」 この地球には本来、人間が住んでいる筈ではないか・・・・・・彼はもう一度叫ぶ。 「人間ども!」 砂漠での永い彷徨のすえ彼の祈りに答えたのは、遊牧のアラビア人だった。そのときも う、彼らのあいだには人種も言語もなければ、国境もない、あるのはただ、彼の肩に天使 の手を置いたアラビア人との、人間の絆・・・・・・人間の友誼だった。 だから、リビアの牧民よ、君の顔をサン・テックスはどうしても想い出せなくなる。君 は人間だ。だから君は同時にあらゆる人間の顔をして、僕らの前に現われる・・・・・・ 一郎がそこまで書いたときだった。突風がドンと家にぶつかる音がして、二階の部屋が グラリと揺らいだ。一度揺れたきり、雨戸を軋ませる風の音だけに戻った。 一郎はふたたびペンを取った。 『人間の土地』におけるサン・テックスの主題(テーマ)、その一つは、危機に身を曝したと き人が発見する、人間の絆だ。それを彼は「人間の本然」と呼ぶ。人間の本然とは、人間 を単純化することだ。 重要なのは、イデオロギーによってでもなく、制服によってでもなく、人間そのものに おいて、人が人を愛することだ。この単純化され、抽象化されたきずなを、サン・テック スは「人間の本然」と呼ぶ。 サン・テックスの思想的巡礼は『夜間飛行』における脱個人的人類主義のモラルから『人 間の土地』におけるヒューマニティと絆のモラルの展開によって説明することができる。 「一旦危急に直面すると、人はお互いにしっかりと肩を組み合う。人は発見する。お互い に或る一つの共同体の一員だと。他人の心を発見することによって、人は自からを豊富に する。人は和やかに笑いながら、顔を見合う。そのとき、人は似ている、海の広大なのに 驚く解放された囚人に」 「人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、 自分に関係がないと思われる不幸な出来事に対して忸怩(じくじ)たることだ」 「僕は、人が人間を堕落させるのに忍び得ない」 サン・テックスは、『戦う操縦士』において思想をさらに明瞭にする。 「人間は絆の塊りだ。人間には絆ばかりが重要なのだ」 「ぼくらは自分たちの絆の温かみを感じている。だから僕等はすでに勝利者である」 「各人が、万人のすべての罰を負うのである」 「罪なくして獄に投げられた、たった一人を解放するために、千人が死ぬのが何故に正当 であるかは、われわれは問わないのだ」 『夜間飛行』から『人間の土地』『闘う操縦士』におけるこのような変遷は、革命から反 抗へのカミュ的変遷と似ている。カミュとサン・テックスにおける最も人間的な側面、そ れは人間の正義を守り抜こうとする魂に輝いていたことである。 『夜間飛行』において人類の標を立てるための「事業」を人の生命に優先させる思想は、 「革命」に奉仕するモラルである。しかし『人間の土地』以後、サン・テックスは「全体」 への奉仕を絶対化するよりも人と人の「絆」にいっそう重きを据えるようになる。革命の モラルからヒューマニティのそれは回帰するのだ。コミュニストたちは、カミュに対して そうしたように、こう言うだろう。 サン・テグジュペリよ、きみは、右翼だ。 カミュにおいてもサン・テックスにおいても、彼らが悲劇的なのは、人間的(ヒューマニ ティ)の魂を守り抜こうとしたことだ。 ぼくはいま、解答不可能な難問にぶつかる。カミュとサン・テックスのヒューマニティ は彼らの意志の如何にかかわらず、革命とコミュニズムに背反する。革命とコミュニズム はその意志の如何にかかわらず、ヒューマニティの反抗と正義を成さぬ仲として拒絶する。 革命か、正義か・・・・・・。この余りに単純な壁に出口があるとしたら、それは二つに一つの 選択だけだ。 だが、この選択は、父と母のいずれを選ぶかという問いと同じほどに、解答不可能なの だ。 「なぜ、人は、美しい魂を守りつづけるゆえに、反動的とならねばならぬ宿命にあるのか?」 ぼくはただ、カミュのこの言葉に向き合うのみである。 (ノート『極限と参加』) 一郎は、書き終えるとノートを閉じて寝ることにした。疲労感が体をつつむ。ノートを 取ることよりも戸外に吹き荒れる風雨への緊張が彼を疲れさせているようだ。 深夜。雨音はひっきりなしに激しくなり、闇の空間を失踪する風の音は、獣のそれに似 た黒い咆哮に変わった。そいつは闇を裂き、木木を薙ぎ倒し、漁港の町を巻き上げんばか りに怒り狂っている。 一郎が眠られぬまま蒲団のなかで身を竦めているときだった。二階の部屋がグラリと揺 れた。二時間ほど前、一度、部屋を揺すったきり姿を消したはずのあいつは、機を窺って いたのだ。一郎がそう思ったのが合図のように、家じゅうが激しい軋み音を立てて、グラ グラと揺れつづけた。一分、二分・・・・・・それは振幅を増して間断なくつづく。電気が消え た。 危ない! 一郎が心のうちに叫んで跳ね起きたとき、二階の南向きの雨戸が飛んだ。窓ガラスが割 れて散った。 天井が舞い上げられる! 一郎は、二つの部屋を仕切る障子を開け放ち、北側の雨戸とガラス窓も開け放った。荒 れくるう風を、二階の部屋の南から北へ筒抜けに吹き抜けさせよう。咄嗟の判断が、彼を その行動にはしらせた。雨水が部屋を襲うことなど意に介する暇はなかった。 一郎はノート「極限と参加」だけを手にすると、急ぎ階下へ降りた。 仏壇のある奥の間に父、母、妹三人、弟がいる。父を除いては皆、青褪めた顔をして身 を寄せ合うように怯えきっている。階下の部屋も、風が吠えるたびグラグラと揺れ、壁に はすでに亀裂がはいっているのだ。その亀裂がしだいに裂け目をひろげるのが分かった。 家が揺れている・・・・・・。 「菰(こも)部屋が安全かなん」 父がそう言って、皆が仕事部屋へ避難するとき、一郎は二階をそうしたように、南側の 雨戸と窓を開け放ち、納戸の部屋の障子を取り外し、北側の雨戸も開け放った。その瞬間、 風は檻から解き放されたように家の中を南から北へ吹き抜けた。 一郎が「菰部屋」へ行くと、そこはピタリと揺れが止っている。 父が“こもかぶり”のしるしかきに使う菰が壁に高く積まれていて家族が「菰部屋」と 呼ぶ仕事部屋は、南側に面してガラス障子が嵌まっているきりで雨戸もない。住居のほう とは比較にならない、やぐい造りの平屋だ。ただ、ガラスの障子戸がある南面には、戸外 に隣接して便所と野良具などを納める物置とを兼ねた小屋が立っている。その小屋が、風 が仕事部屋を直撃するのを防ぎ、風封じの役割をつとめるのだ。そんな小さく粗末な存在 さえもが、位置しだいでは猛威を振るう風に対し恰好の遮蔽物になる、一郎はそのことを 知って小さな感動を覚えた。父は小屋の役割にいちはやく着目したのだ。 「菰部屋」に避難して少し落ち着いたとき、一郎は母や妹、弟たちの怯えた表情を眺め、 俄かに衝き上げてくる感情にうろたえた。 いま、おれはこの家の長兄なのだ・・・・・・。 長兄が道楽暮らしのすえ五年前、勘当同然に家を出た。現在は名古屋の鋳物工場で堅気 に働いているが、家には顔を出せずにいる。次兄のサーやんは放浪暮らしをかさねて、い ま十日町の隧道工事の飯場にいる。長姉は、弟妹たちの世話をよくみて家を切り盛りして いたのに、三十歳に近くなって親の勧める結婚ばなしを虚仮にし、年下のバーテンダーと 駆け落ちみたいに家を出た。 「ここなら大丈夫。もう心配はいらん」 「菰部屋」で身を寄せ合っている妹弟たちに一郎は兄らしく言う。 こんな嵐の日にかぎって実家へ帰っていたことを、一郎は幸運(ラッキー)だと思う。この 家でいま、おれは長兄の役割をはたさなくてはならない・・・・・・。そう思った瞬間、彼は家 を出て神坂ねんこと同居したことに、罪障感を覚えた。彼はその感傷を心のうちで打ち払 った。 「あッ、血が」 高校に通うすぐ下の妹が声を上げた。見ると、一郎の右手拇指から血が流れて掌が赤く 染まっている。そういえば、最後に納戸の部屋の雨戸を開け放すとき、激しい風に揺れる ガラス障子が容易に開かないのに慌て、ガラスを割ってしまったのを覚えている。あのと き傷つけたのにちがいない。妹が声を上げるまで、一郎はそれに気づかなかった。痛みさ え感じなかったのだ。 母がもんぺズボンの腰に挟んでいた日本手拭いを歯で裂き、一郎の右手に巻きつけた。 包帯代りの手拭いに血が、あッというまに滲んだが、まもなく止まった。 「舟に乗ってた頃、凄(すげ)え時化に遭ったことを想い出すなん。家も船も、滅多なことで 壊れるもんじゃない」 父が三十数年前の記憶を蘇らせたのか、言った。父は高等小学校を卒業すると、家業の 「しるし書き」を手伝うことになったが、二十歳(はたち)前に父親(一郎の祖父)が死んで、 母親(一郎の祖母)と折り合いが悪くなった。それで二年間ほど甲板夫見習いとして中国 航路の貨物船に乗っていた。 敗戦の年の七月、隣町の中島飛行機が米軍の空爆を受けた時、庭さきの防空壕で身を寄 せ合って艦載機の音を聞いていたのを、一郎は想い出した。 家族七人、息を詰めて嵐の去るのを待つうち、強い吹き返しがあって風は西風に変った。 やがて風は空(から)っ風になり、その変化が刻刻、体で感じられるほどに衰えはじめた。 一郎が中の間にノート「極限と参加」を忘れたのに気づいたのは、家の揺れがすっかり 納まってからだった。二階から持って降りたノートは、階下で悪戦苦闘のあいだも彼の手 にあったはずなのに、知らぬ間に手離したらしい。 ノートの表紙には血が染みついていたが、なぜかほとんど濡れていなかった。 夜が明けきらないうち、風は止み、一郎は戸外へ出た。家の前の道で人の話し声がした からだ。家を出ると途端、弱弱しい風に混じる異臭が鼻を衝いた。 懐中電灯を持った近所の人が二人、道路にいて、 「何か、燃える臭いだなん」 と一郎に声を掛ける。異臭を怪しんで原因を調べているのだ。坂道を駅舎へのぼる方向 を望むが、火の気配はない。 「海のほうへ行ってみるかなん」 一郎もいっしょに坂道を漁港のほうへ歩く。異臭は西の方向、鉄道線路のむこうから風 に運ばれて漂ってくる。鉄路の向こうには、旧中島飛行機の社宅が並んでいるが、その一 帯にも火は上がっていない。 三人は、造り酒屋の森のように大きな屋敷と酒倉の土塀に沿って坂道を下る。夜明け前 の空に取り残された星が輝き、疾走する雲間に細く弓なりの月が見え隠れする。 異臭の正体は結局、見つからなかったが、海辺へ降りて一郎は驚いた。漁港と波止めで 隔てられた神社がすっかり消えており、境内と道を隔てた民家が倒壊していた。 陽が昇った。あれほどの風雨が数時間にわたって吹き抜けたのに、家の中は思いのほか 痛手を受けていない。壁や畳が雨にうたれて変色しているが、家具など壊れているものは ない。二階の机に積まれたサン・テクジュペリも、表紙が水を吸ってふにゃふにゃになっ ているわりに頁はそれほどやられていなかった。 雨戸が吹き飛ばされた直後、おれが咄嗟に判断して敢行した行動は、じつに適切だっ た・・・・・・。 一郎はちょっと鼻を高くしたい気分だった。 そんな気分が吹き飛んでしまったのは、ノート「極限と参加」を開いたときだった。嵐 の一夜を記録しておこうと頁を繰っていて、五日前に記した文章が目にはいり、彼は愕然 とした。九月二十一日のそこには、「パンドーラの凾」と題を付されて、次のような文章 が書かれている。 パンドーラの凾をぼくらの手に・・・・・・ そして大いなる災いをぼくらの手に・・・・・・ ぼくらの世代、それは不幸の時代! 黄金の不幸を、燦めく受難を、ぼくらの手に・・・・・・ 死を呼ぶものなら、ぼくらは力いっぱいそれを握りしめよう。悪を呼ぶものなら、ぼく らはそれを恋人のように抱きしめよう。 赤い花をぼくらの手に・・・・・・血の香りが僕らの頬を愛撫する。 白い乳房をぼくらの手に・・・・・・死の香りがぼくらの欲望を擽る。 パンドーラの凾をぼくらの手に・・・・・・ ぼくらはいつだって、謀(たくら)む。 (ノート「極限と 参加」) なぜこのような文章を書いたのだろう・・・・・・。一郎には想い出せない。たった五日前の ことなのに、彼はそれを書いたことすら忘れている。 昨夕、風が激しくなりはじめた頃、訳もなく衝迫にかられて、「嵐よ、もっと手荒く吹 いて呉れ」などとノートに言葉をつらねた。五日前の文章と昨夕の文章、どこかで符合し ているように思える。しかし、何の符号なのかが判らない。はっきりとしていることは、 それらの文章が招いたように、凄まじい嵐が襲ったという事実だ。その想像が一郎を愕然 とさせた。 午後四時頃、夫馬敬成が名古屋から訪ねてきた。頭陀袋ににぎり飯や罐詰を携えてやっ て来た。東海道線で大府まで来て、大府から知多半島への鉄道は不通になっていたので、 十キロほどの道のりを歩いて来た、と言う。 同人雑誌『追舟』二号を発行したところで夫馬が「書けないから」と同人を去り、その ことを一郎が編集後記で面罵した。以来、二人の関係は疎遠になっていた。夫馬の陣中見 舞いをことのほか喜んだのは、一郎の父と母だった。一郎は感動を素直に表現できずにい た。 「半田が火の海になったというニュースを聞いて、心配になって来ました。大府駅で人に 訊ねると、台風のさなかに火事が出たのは事実だけど、それは半田の中心街のほうのこと で大火にもならなかったと聞いて、安心したのですが」 夫馬が父母にそう説明するのを聞いて一郎は、あぁ、明け方の異臭はそれが原因だった のか、と知った。 一郎と夫馬は、漁港へ行った。舫ってあった漁舟が数隻、破壊されて、艫綱に繋がれた まま海中に船体を沈めている。 湾を離れて遠く沖合へ去るにつれ、波は日頃より高くうねっている。その波涛を夕陽が 淡く茜色に染め、大粒の魚鱗のように海を燦めかせている。 二人は台風一過の海を眺めながら、にぎり飯を頬張った。 「『七星』の同人になったそうだな」 夫馬が言った。 「うん、二篇ほど短いのを発表した」 「そうか、馬瀬は文学をつづけるんだな」 「『七星』の同人にはなったけど、『追舟』を復刊したいと思っている。やっぱり、自分 の旗幟を鮮明にできる雑誌を出したいからな。自分の雑誌が欲しいよ」 一郎はそう言って、ちょっと迷い、思いきって語をついだ。 「夫馬、もう一度、一緒に雑誌やらないか」 夫馬は幾分、淋しそうに笑い、それでもきっぱりと断った。 「おれは文学を離れることにした。才能もない」 一郎はそれ以上、勧めることをしなかった。夫馬は駄目を押すように、いま身体障害者 の介護などをする奉仕グループに加わっている、と付け加えた。 夫馬敬成は、雨漏りのする家で一晩泊まり、翌日早めに、列車が不通のままなので大府 まで歩いて、名古屋へ帰って行った。 夫馬が帰ると、一郎は棒のようになって四時間ほど眠り、目が覚めたときようやくノー トに向かう気になった。 非道い嵐だった。何より非道いのは、この嵐が人間の生命と共に尊厳をも奪ったという ことだ(きょうの新聞朝刊によれば、死者・行方不明者が数千名に達し、早くも被災地に 泥棒行為が横行しはじめているという)。 朝、廃墟の中、確かに太陽は昇った。 あれは祝福の太陽ではなかった。死と崩壊を告げるしるしだった。そのことがはっきり しつつある今、ぼくはこの憤りをどのように表現したらよいのだろう。小説など無力にち がいない。形態(かたち)にこだわることなく、この憤りを表現しなくてはならない。それな のにぼくは、憤りの最上の表現が沈黙であることを知っている。 (ノート「極限 と参加」) Ⅷ 伊勢湾台風と名付けられたそれが去って数日後、一郎は神坂ねんこの家に戻った。一郎 の実家はさほどの被害でないことを電話で知らせてあったので、彼女の家では安否を気使 っていなかった。それでも一郎の顔を見るとねんこは涙を浮かべた。 神坂ねんこの家へ戻ったのも束の間、一郎はふたたび漁港の町へ帰った。創作への衝動 が沸いて、その小説は漁港の町で書きたいと思ったのだ。凄まじい風が咆哮を上げて体内 を吹きすさぶのに似た激情だった。 人間の生命を奪い、尊厳を嘲笑った魔物。あの魔物への報復はやはり小説を書くことで しか果たせないのだ。 避難民の財産を狙う「海賊」の一団、私欲に狂う商人たち、視察のヘリコプターに乗り たがる官吏や政治屋たち、恩恵がましく被災地を訪れる天皇の息子。 その一方で、暗澹たる状況の中にあって闘う人びと。住民救助隊、医師、水没地帯へ筏 舟を駆って救援活動をする学生たち。 死臭と重油の臭いが立ちこめる海抜0メートルの工場地帯で死体の回収をする人びと、 八百人の死者を葬う小学校校庭で火を焚く人びと。 魔物が吹き抜けた廃墟で、悪魔と天使が競い、不義と正義が闘いを繰りひろげる――そ んな人間と状況の物語(ドラマ)を、ぼくは書きたい。あわよくば、人間の証(あかし)を立て たい。 十月三日 題名(タイトル)は「象徴、地に堕ちて 驢馬ら天に昇る」としよう。 主人公二人、救援活動班の学生MとAP原子力発電所職員のS. Theme.「象徴」の死と「驢馬ら」の蘇り、Mたちの明日への讃歌。 「象徴」は天皇制とそれをささえる諸々の人間=状況の喩=メタファー。「驢馬ら」はそ れとたたかう人間=思想行為の喩=メタファー。二つの喩の闘争が Theme だ。 十月五 日 (ノート「極限と参加」) 創作メモはそれだけ取ったきりで、一郎は実家に帰ったその日から憑かれたように書き はじめた。 主題(テーマ)とか構成(プロット)とかを練り上げる暇もなく、伊勢湾台風あとの廃墟に生 きる人物たちの行動と、日米安保条約改訂前夜の政治状況――二つの筋立て(ストーリィ) が組み立てられていた。地の文体は散文詩的なそれになった。登場人物たちの思考と行動 の対立(ダイアローグ)は、書きすすめるうち小説のほうからおそいかかってきた。ペンが鈍 ることはなかった。 おれの青春をこの小説にぶっつけなければ、前へは進めないのだ・・・・・・。 闇雲な気持ちに煽られるまま、彼は原稿用紙に挑みつづけた。 「象徴、地に堕ちて 驢馬ら天に昇る」一七七枚は、一週間後に書き上がった。書き上げ ると、一郎は夢から醒めたように不思議な覚醒感を覚えた。一週間、異様な熱中のなかに あったのに疲労感がないのは、夢の中だったからなのだ・・・・・・。一郎はそう思った。 数日後、一郎は作品を読み返して、題名を「かくて驢馬ら天に昇る」と改題した。そし て、「この一編を資本論ゼミナールの本山二三麿先生と同志、喜多弘次、康元南、山波雄 太郎に、終生変わらぬ友情の標として、贈る」という献辞を小説のエピグラフにした。 「かくて驢馬ら天に昇る」を『追舟』復刊号に発表したい――そんな欲求が一郎の内に湧 いた。『七星』の同人にはどこか小じんまりとした手(て)遊(すさ)びめいたところがあり、 社会的な題材を大きな仕掛けで書きたいという意欲に逸る一郎には、馴染めないものがあ る。『七星』が薄手の月刊誌なので長編の一挙掲載がむずかしいという難点もある。それ 以上に自分の雑誌を持ちたいという欲求が彼には強くあった。 日が経つにつれて一郎は居ても立ってもいられなくなり、申(シン)萬(マン)浩(ホ)を訪ね た。 現在では漁港の町で唯一、文学について語り合える友人は申萬浩だ。申萬浩は大須事件 のとき銃殺された申聖浩さんの弟で一郎とは一年遅れて愛智大学に通っている。野間宏の 『眞空地帯』や『暗い繪』など読みあさっている仲だ。 申の家は町の墓地の北側にあって、緩やかな傾斜をなす土手の斜面に立っている。その 傾斜地が風を遮ったのだろう、家は無傷だった。 一郎が入口で声を掛けると申自身が出てきて、ちょっと待つように言い、貸してあった サルトルの『自由への道』を携えて出てきた。 「全部、読み了った?」 本を受け取りながら一郎が訊ねると、申は曖昧な表情を返した。貸した本を返すたび堰 を切ったように読後の感想を語る申なのに、可笑しいな、と一郎は思う。 雑草の生える斜面に人の足で踏みしだかれて出来ている野道を北浦湾のほうへ下(くだ) りながら、二人は台風の夜のことなど話すが、申の様子がいっそう寡黙に感じられる。 北浦湾は薄く霞がかかって夕暮れの色に昏れなずみ、空を舞う海鳥の影とは対照的に海 面に淡い光を散らしている。冷たい風が防波堤を吹き抜ける。 「もし、申君が加わってくれるなら」一郎は湾の上を舞う数羽の海鳥に視線をやりながら 言った、「『追舟』を復刊したいと思うんだ。どうだろう、一緒に雑誌つくらない?」 一郎が返事を促すふうに申の顔を見る。申のほうも、羽を止めた恰好で舞い降りたり忙(せ わ)しなく羽搏いて舞い上がったりする鳥たちを眺めているが、視線を返さない。 「それは出来ないね。来月にはくにへ帰るから」 申は飛翔する鳥たちに視線を向けたまま、少しくぐもった声で言った。 一郎は、何のことかと一瞬、訝(いぶか)ったが、すぐ言葉の意味を飲み込んだ。 「何時(いつ)?」 一郎は驚きを隠して訊ねる。 「十二月中頃。帰国船の第一便で」 申は初めて一郎をまっすぐに見た。かすかに笑みを浮かべたが、それは忽ち浅黒く頑丈 に頬骨の張った容貌の裏に消えた。 申がそれきり言葉を継がないので、一郎のほうから質ねなければならなかった。 「名古屋を発つのは何時(いつ)?」 十二月八日の朝、特別列車で名古屋駅を発ち、新潟へ向かう――それが申の返事だった。 「兄が日本で英雄的な死を遂げたから、家(うち)の家族は祖国で歓迎されるはずだ。ぼくも ピョンヤンの図書館に勤められることになっている」 申はそれを誇るというふうでもなく淡淡と言い、ひとこと付け加えた。 「馬瀬さん、元気で過ごしてください」 「別れの挨拶は、いまはしないよ。十二月八日、名古屋駅へ見送りに行くから」 一郎は反撥するふうな言い方になっていた。息苦しさがそうさせた。 約束の十二月八日、一郎は朝早く名古屋駅へ駆けつけたが、申萬浩と会うことができな かった。 名古屋駅のホームには、民族服を着た人びとが混じって見送りの群衆で溢れていた。高 校生たちが鳴らす民族楽器の音を掻き消さんばかりに、群衆のあちらこちらで「万歳(マン セー)、万歳(マンセー)」の叫びが上がった。列車の窓の内と外とで、手を握り合い、上半 身を抱き合うようにして別れを惜しんでいる。頬を合わせて慟哭しているチマチョゴリの 老婆の姿がある。 歓喜と悲嘆が不思議に一つになった昂揚――そんな熱気のなかを、一郎は人びとの群れ を掻き分け、ホームを吹きぬける寒風にさえ汗を浮かべて、列車の最前部から最後部まで 窓窓を覗いて巡った。しかし申萬浩の姿を発見できないまま、列車は新潟へ向かって発っ た。 申萬浩が祖国へ帰って十数日後、一九六〇年を迎えた。一郎が書きついできたノートは、 新しい年とともにあらためられて「シジフォスの夢」と題された。その一月一日のノート に、一郎は「六〇年代宣言」を気取ってマニフェストまがいを記した。日米安全保障条約 の改訂を前に、昂揚する運動への予想が彼を刺激した。 さあ、六〇年代だ。人はぼくに告げる、「驢馬らよ、黄金の六〇年代を生きよ」と。 昨日、何かが終った筈であり、今日、何かが始まる筈だ。 「崩壊」と「新生」がいま、世界を席巻している。「破壊」と「建設」が渾然として躍動 している。だから、その混沌(カオス)が「創造」に他ならない、とぼくは信じる。「創造」 は「混沌」を伴って到来する筈なのだ。「戦い」が「静謐」を伴って訪れるように、「反 抗」が「正義」を伴って訪れるように、「混沌」が「創造」を約束する、とぼくは信じる。 「雪解けだ!」と、世界は叫ぶ。 平和のために血が要求されると断言することはできないが、血のあとに平和が訪れる、 と信じることはできる。 「平和共存だ!」と、世界は叫ぶ。 東と西が歩みより接近するのが五〇年代末期における世界の必然だったとして、その故 にぼくらは六〇年代に「革命」の根拠を失うのだろうか! 東西両陣営における経済的平 和共存、軍事的並存によって、「社会主義」への夢は基盤を失うのだろうか? 「混沌」が「創造」を約束するように、ぼくのうちで「怒り」が「変革」を約束する。「怒 り」に発する文学が「変革」によって帰結するという考えは、血のあとに平和が訪れると いうのに似て、たぶん正しい。 「怒り」は不規則(イレギュラー)な地点にその位置をとる。それは予測し難い方向に向かっ て乱れ飛ぶ。だが、無秩序な方向へ乱れ飛んだ「怒り」は、やがてある地点に集結する。 そう、集結するその場所が、「変革」なのだ。 「怒り」が「変革」へと回帰する。この収集可能性が、六〇年代、ぼくの文学の起点だ。 情念のエネルギーから思想としての「変革」の形成へ――この繰り返されるトートロギー こそ、ぼくの文学的 Theme の中心となるだろう。 さぁ、六〇年代。驢馬ら、生きよ。 (ノート「シジフォスの夢」) 一郎は正月を漁港の町の実家で過ごそうと、神坂ねんこと一緒に帰っていたのだが、マ ニフェストまがいの気負いとは裏腹に得(え)も言われない空虚感に気づいた。それを紛らわ そうと、一郎は二階の部屋でペンをはしらせた。「小説の方法」について書いて置こうと 思ったのは、「自分のためのマニフェスト」を読みかえして、そこには主題に関する抽象 観念ばかりが上滑りしていて、肝腎な Method について何も書かれていないと気づいたか らだ。 〈或る種の監禁状態を他の或る種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在す る或るものを、存在しない或るものによって表現することと同じくらいに、理にかなった ことである〉 アルベール・カミュが『ペスト』のエピグラフに掲げた、ダニエル・デフォーの言葉で ある。これほど明快に、文学における仮構の意義を表現した言葉もあるまい。小説=言語 による表現芸術において、「原理」があるとしたら、仮構性 Fiction を措いて他にないのだ から。 「つくりもの Fiction」――現実を超えたところで要求される「人間の問題」を提出し、展 開し、解答するのが「小説の本質」であって、その本質をコトバによって具現するには「つ くりもの」という Method の原理に拠るしかない。 たとえば、「死」について人が問題とし得るのは、それが現実を超えた形而上学の問題 として認識される範囲内においてのことである。事実としての死などは、とても人智が扱 い得る現象ではありえないのだから。だからこそ、ぼくは、カミュが対決した「死」が形 而上学の課題だったとしても異存はない。 いったい、誰が、棺桶の中の死を、問題にし得よう! われわれの手に負える「死」は、頭蓋骨の中の「死」をおいて他にありえないのだし、 それで充分なのだ。 文学の扱い得る「死」が頭脳の中の「死」でしかないのなら、文学が選び得る唯一の方 法は、「つくりもの Fiction」だということになる。つまり、「死」を描くに際しても、「死」 を仮構することによって初めて可能なのである。「死」を仮構するとは、「死」をめぐる 様様な思想、思想としての「死」、それらを創造することである。 ふたたび要約して、小説=文学の行為とは、言語という固有の表現媒体によって、現実 が収集しきれない「人間の問題」を収集し、現実が把捉不可能な「人間の本質」を把握し、 現実が解決を留保している「人間の課題」に仮設的にであれ応答することである。そして、 そのような目的が果たされるのに唯一の方法 Method は、それが現実との勝負に勝つこと を要求される故に、仮構性 Fictionality と想像力 Imagination なのである。 このように文学と現実の関係が把握されて、前掲のデフォーの言葉が真実味をおびるの である。 ぼくの言葉で言うなら―― ある思想を別種のある物語によって表現することは、何であれ現実に存在するあるもの を、つくりもののあるものによって表現するのと同じくらいに、理にかなったことである。 (ノート「シジフォスの夢」) 一郎が、カミュの文学的思索における死の形而上学に触れて、そのような虚構論を記し た三日後、彼を動顛させる出来事が起こった。一月五日の新聞夕刊でアルベール・カミュ の突然の死が報じられたのだ。 〈〔サンス(中部フランス)四日発AFP〕フランスの実存主義作家でノーベル文学賞(五 七年)受賞者のアルベール・カミュ氏(四六)は四日パリの南百㌔のシャペル・シャンピ ニで自動車事故のため死亡した。その自動車に同乗していたガリマール出版社経営者ガス トン・ガリマール氏と同氏の夫人、令息の三人はいずれも重傷を負った。 車はスポーツカーでガリマール氏が運転しパリに向かい高速度で走って樹木に衝突した。 警察の調べではタイヤがパンクしたためらしい。(UPI電では道路がぬれてスリップし たと伝えている) カミュ氏は一九一三年十一月アルジェリア生まれ、アルジェー大学に学んだのち、アルジ ェー・レピュプリカン、パリ・ソワール紙などの新聞記者となったが、第二次大戦中、一 時アルジェリアに戻り、オラン市の小学校教師をするかたわら、小説「異邦人」評論「シ ジフォスの神話」を書いた(一九四二年)のちパリに潜入して対独レジスタンス運動に加 わった。ドイツ占領下のパリで前記二作品を発表、サルトル氏に認められ、またレジスタ ンス運動の有力紙「コンバ」の主筆となり、戦後一九四七年、小説「ペスト」を発表して 現在フランスの代表的小説家となり五七年にはノーベル文学賞を受けた。 劇作家、評論家として知られ、その他の代表作には戯曲「戒厳令」(四八年)「正義の 人々」(五〇年)評論「ドイツ人への手紙」(四五年)などがある。〉(毎日新聞一九六 〇年一月五日夕刊) 漁港の町の実家で、配達された新聞に三段抜き見出し「カミュが自動車事故死」とある のを目にした瞬間、一郎は軽い目眩さえ覚えた。どこか見知らぬ白い夢のなかのような場 所をさ迷っている気分のまま、同じ記事を何回も読んだ。彷徨感はいっこうに薄れる様子 もなかったが、繰り返し記事を読むうち幾分、落ち着いて、ノートを取る気になった。 ノートは、五日間つづいた。 一九六〇年一月五日 カミュが死んだ! 一月四日、パリの南百キロのシャペル・シャンピニで、自動事故のため死亡したのだ。 タイヤがパンク、高速道路の樹木に激突したらしい。 ぼくは、カミュの死を過大には悲しまない。カミュの死後も彼の文学は生きつづけると 確信しているからだ。 『シジフォスの神話』と『異邦人』によって、文学とかかわりつづける端緒を得たぼくに とって、カミュの「誕生」は祝福すべきものではあるけれど、あくまで文学において決定 的に重要なのであるから、彼の「死」は致命的ではない。彼の死を惜しむことより、ぼく はぼくの城砦を固めていけばいいのだ。 ぼくの「文学」を大きく培ってくれたカミュに報いる道があるとすれば、それはぼく自 身の文学を鮮明にして、彼の文学から訣別していくことだろう。ぼくが手前味噌に誓った カミュとの「姿のない友情」までもが死んだわけではない。ぼくはこれからも一人合点に 彼との「友誼」を深めていけばいい。 それにしても! 黄金の六〇年代は、想像のつかない時代になりそうだ。 一月六日 カミュが死んだ! 彼は実に不粋な仕方で死んだ。人々は詮索するだろう、ガリマール氏の泥酔運転ではな いか、と。カミュもまた、死への抵抗力を失う程度に飲んでいたのではないか、と。つま り、アルベールは不名誉な犬死にをしたのかもしれないのだ。 だが、ぼくは、誰人にというのではなく、自分に告げておきたい、カミュが残した文学 的遺産は、彼の死のかたち如何にかかわらず、その死を名誉ある死と主張する権利を有す るだろう、と。 ぼくの知る限り、カミュは「死」について最も多く語り、もっとも誠実に抵抗した、二 十世紀の作家だった。その彼が実につまらない事故死を遂げたとして、人は軽蔑する資格 があるだろうか。深刻に慨嘆する権利さえあるだろうか。人間の死など多かれ少なかれ、 不恰好なものだろう。 あらためてぼくは自分に告げよう、カミュの死が凡俗の極みにおいて招来されたとして も、彼の文学が追求した「死への抵抗」という命題は、けっして反故(ほご)になることはな い、と。 カミュが戦いつづけた死は、街角の死であるよりも、「死」という観念そのものだった。 ぼくらが戦い得るのは、「死」という観念の原型に対してなのだ。だからこそ、カミュの 謂う「形而上的な死」を容認し、そのうえでぼくらは、人間に約束され、避けがたく宣告 される「死」と戦うのだ。そうして戦いつづけたアルベールに、喝采を送ったのだった。 われわれの前には死が在る。唯一の明証であるかのように、死が在る。だから人生は無 意味だ、と宣言する権利なぞ、われわれにない。無意味のなかで生きることが、死とさえ 戦う人生の光栄なのだ! カミュはそう叫ぶ。 カミュは自動車事故で死んだ。だから、ぼくは敢えてこう告げる、亡骸(なきがら)のなか から、カミュの文学は甦るだろう、と。 一月七日 カミュは死んだ! カミュの文学はもっとも二十世紀的に逆説 Paradox の文学だった。 彼は『裏と表』によって宿命的な旅に発った。影と光、老人と若者、肉体と魂、カミュ の旅はつづいた。太陽と理性、殺人と自殺、悪意と善意、孤独と連帯、旅はさらにつづい た。死刑囚と執行人、憎悪と愛、怒りと微笑、恐怖と矜持、牢獄と世界、欲望と反抗、歴 史と正義、そして死と生。旅は果てしない Paradox のなかでつづけられた。 Paradox の最も基本的な形態は、不条理そのもののうちに胚胎されていた。 生きるに値する人生はない。 なぜ? 約束の時は、死であるから。 絶望するのか? それとも自殺? 否、人生が生きるに値しないなら、人は生きるに値する カミュの文学(ダイアローグ)は、Paradox の渦のなかで輝いた。 そして、カミュにおける最大の Paradox が、彼の死にみられる、愚鈍と厳粛だった。 一月八日 カミュは死んだ! 彼が日本へ来ることはなくなった。戦中派は暗い混乱を生き抜き、ぼくら戦後派は廃墟 を生き抜く、その贈物(プレゼント)として「不条理の文学」に感謝し、拍手と祝福を送った のに。 しかし、日本の若者たちは、彼の無礼にまさる代償を受け取っている。日本の若者たち は、カミュによって「生」の何であるかを知り、励まされている。少なくとも、怒れる若 者(アングリーヤングメン)たちは。 一月九日 カミュは死んだ! 最近、ぼくの精神にとって「事件」と呼べるものなどなかったので、その「事件」がこ うも突然やってくると、どぎまぎしてしまう。悲憤慷慨するよりさき、ぼんやりしてしま ったのだ。 昨日、『客』を読んだ。六〇年代、最初の読書だ。 この作品を読んで、カミュは死ぬべきでなかった、と思う。広漠たる原野に唯一人たた ずむ異邦人の明日が、Solitaire なのか Solidaire なのか、ぜひ彼に答えてもらいたかった。 解答を保留のまま、カミュは死んだ。 カミュは「最初の人」と題する長編の構想を練っていたという。未成の長編が、カミュ の解答をぼくらに伝えるものだったのだろうか。 とてつもなく巨大な義務と権利がぼくらに手渡されたということになる。保留中の難問 を解かねばならないという、文学上の義務と権利! (ノート「シジフォスの夢」) 日米安全保障条約の改訂期限切れをめぐって、アメリカ連邦政府と日本政府のあいだに 延長の調印式が迫り、世情は緊迫した。一郎が通う愛智大学でも、騒然とした雰囲気のな か学生たちは浮き足立っていた。全学連愛知の主要な戦線(フロント)を担っている学生自治 会は、先鋭的な行動を次次と提起しはじめた。 一郎は、過激な方針に特に積極的な分子というのではなかったが、学内での決起集会や 街頭デモンストレーションには欠かさず参加して、昂揚した気分のなかにあった。日米安 保条約への危機感は、それなりに彼のうちに醸成されていたのだ。 後衛には後衛なりの、役割がある・・・・・・。 そんな気負いがなくはないけれど、一郎を促したのは、「正義」とか「反抗」といった 観念だった。もしかすると第二次大戦中、フランスの文学者たちが対ドイツ抵抗運動(レジ スタンス)を戦ったのに、自分の行動を模しているのかもしれない。 一郎が政治の季節のなかで身体的な時間を過ごしていたある日、カミュを追悼するサル トルの文章が雑誌に載った。 サルトルとカミュのあいだに交わされた、マルキシズムかヒューマニズムか、革命か正 義か、をめぐる論争以来、二人の間柄が不仲になったという報を、一郎は知っている。か つて共に対ドイツ・レジスタンスを戦い、同志的に実存主義思想を文学と哲学両面にわた って構築しながら、ついに訣別した二人。そのサルトルがカミュの死をどのように悼むか、 一郎は強く興味を唆られた。 雑誌二頁の短文ながら、サルトルの文章を読み終ったとき、一郎は感動を覚えた。そこ には優れて稀有な、思想的同志ならではの情理が表出されていた。 思想を容赦なく競いながらも、真の友情とはいかにあるべきか。この短文にはその規範(モ デル)が示されている・・・・・・。一郎は感動を覚えるまま、ノートにペンを走らせた。 亡きカミュに手向けたサルトルの文章を読んだ。(註『新潮』三月号「矛盾に悩み沈黙 していたカミュの死に手向ける論敵サルトルの追悼全文」菅野昭正譯) 僅か二頁の追悼文であるが、ぼくは感動した。 「カミュの死」以来、日本の文学者たちによって多くのことが語られてきた。だが、不幸 にして、カミュの文学と業績に報いるに足る追悼文は、それらの中になかったように思う。 サルトルは追悼文の中で、矛盾に悩み沈黙を強いられたカミュの内奥について、沈着な 情熱と深い友情をこめて語った。晩年のカミュの沈黙について、サルトルは実に理解ある 態度を示している。 カミュがそのために苦悩せねばならなかった矛盾を、サルトルは「尊重すべき幾つかの 矛盾」と言い、それらの矛盾は、カミュに一時的な沈黙を選ばせたのだ、と表現する。サ ルトルにとって、カミュは「待つにふさわしい数少ない人物に属していた」。なぜなら、 カミュは「じっくりと選択し、その選択に誠実であるから」と。そういう慎重さこそが、 カミュの「人間的な特性だった」のだ。 サルトルは正確にも、カミュのユマニスムを「頑強で、偏狭で、純粋で、峻厳で、感覚 的なる」それと称し、「彼のユマニスムは、現代の厖大な、醜悪な事件に対して、勝ちめ の疑わしい戦いを挑んでいた」と断言する。これらの言葉に接すれば、サルトル・カミュ 論争の際、おぉ、哀れなるシジフォスよ、と毒づいたサルトルの言葉とは思われないのだ。 サルトル(たち)は、待っていた。「彼がその後どうしようと、どう決断しようと、依 然としてわれわれの文化の領域の主要な力のひとつであり、彼なりの流儀でフランスの歴 史、今世紀の歴史を代表しつづけただろう」 「彼はすべてをつくりあげてはいたが、しかもあらゆる場合と同じく、すべてが為すべき こととして残されていた」。カミュは、サルトルのその指摘に対して、こう語ったそうだ、 「私の作品は、私の前にある」と。 カミュがぼくらの目に不安定な位置に立っていると映った原因について、サルトルはこ う解明している、「活動中のこの男は私たちに問題を投げかけ、彼自身も答えを探求する 問題そのものとなった。彼は〈長い人生のなかば〉に生きていた」。 「カミュの死」によって、ある人々はその文学の真実性を否定し、「不条理なものとは、 もはや誰も彼(カミュ)に提出せず、もはや彼が誰にも提出しないこの問題(死)のこと であり、もはや沈黙ですらなく、絶対に価値のないこの沈黙のことなのだ」と論断する。 それらに抗して、サルトルは次のようにカミュを弁護する、「彼を愛した総ての人にとっ て、この死には耐え難い不条理がある。けれども、この毀損された作品(人生そのものの 意か?)を完全な作品と見なすことを学ばねばなるまい。カミュのユマニスムが彼を不意 に襲うこととなった死に対する〈人間的な〉態度をもり込んでいる限り、自負にみち純粋 な彼の幸福への追求が、死ぬという〈非人間的な〉必然性を含み、それを要求する限り、 彼の作品およびそれと不可分な生涯の中に、私たちは、一人の人間の純粋で輝かしい試み、 たえず実存を未来の死から奪い返そうとする試みを認めるべきであろう」。 短いが善意に充ちたこの一文を読み終ったとき、ぼくはサルトルの次のような言葉を心 底、信じた。 「彼と私は不和だった。が、不和など何んでもありはしない。それはまさしく――たとえ 二度と会わなくても――私たちに与えられた小さな狭い世界で〈一緒に〉、互いに忘れる ことなく生きるという、別の生き方に他ならない」 カミュは生前、サルトルのこの友情に充ちた言葉を、沈黙のなかですでに知っていただ ろうか? (ノート「シジフォスの夢」) 日米安全保障条約の延長・改訂に関する調印が、二つの政府の間に交わされた。それに 抗議して、愛智大学が全学ストライキにはいったのは、一郎がカミュにたいするサルトル の追悼文についてノートに記した、その日だった。 膚を刺すような冷たい風が、冬の陽差しにきらめいてキャンパスを抜けていく。グラン ドのあちらこちらに枯れ残る草むらが、小さく風に戦(おのの)いている。渥美半島の根っこ にあって温暖の地には珍しく、二日前に雪が降った。 冷やかな空気に匂いが混じって、一郎の鼻孔を擽る。木木の燃えるちょっと香ばしい匂 いは、彼が配置についている北門の傍で学生たちが焚火をしているのだ。焚火は、馬術部 の厩舎の裏手にある農家の雑木林から、枝を払ったり倒れた枯れ木を見つけたりして掻き 集めてきた。 北門から西へ二百メートルほど離れた正門付近でも、学生たちが焚火を囲んでいる。正 門のピケには北門の倍ほどの人数が配置されているから、四十人はいようか。門を固める ピケの隊列のほうはいつの間にか歯抜けになって、大半の学生が焚火のまわりにいる。一 郎がいる北門のほうはさらに酷い状態だ。校門の前には見張り役が三人ほど交替で立つほ かは、焚火の周囲に屯してダベリ合っている。時時、誰からともなく声が上がって、イン ターナショナルを合唱する。 勿論、全学ストライキにはいったのっけからそのようにのんびりと弛緩した雰囲気が学 生たちを領していたわけではない。ストに突入するや早早、柔道部の学生がピケ破りに来 る! という情報が飛び込んで、緊張感が漲った。急遽、ピケ隊の規律まで決め、終日、 組んだスクラムを解かなかったほどだ。しかし、ストにはいって三日目のきょうになって も柔道部にそれらしき気配はなく、学生たちは安堵し、同時に気抜けもした。自治会委員 長の志賀が柔道部の主将とボス交渉を謀って相手を説き伏せた、という噂が耳にはいった が、一郎に真偽のほどはわからない。確かなのは、ピケ学生のあいだで急速に緊張感が消 えはじめ、安保条約の調印に抗議する初期の意気込みにかげりが差しているということだ。 午後二時頃だった。日頃から学生たちと懇ろな間柄で有名な哲学担当の助教授「中迫さ ん」が火の元の監視とも暇つぶしともつかずブラリと姿を見せた。彼が焚火を囲む学生た ちと三十分ほども無駄話をして去ってから間もなくのこと。ちょうど一郎が『資本論』ゼ ミの喜多弘次、康元南と三人、北門のところで見張り役に立っているときだった(ゼミの 仲間でピケ隊に参加しているのは、他に具志堅政信と花咲幸男がいるが、二人は正門のほ うの配置についていた)。 一郎たち三人の前に、寒そうにコートの襟を立てて四人の学生が現われた。 「馬たちに飼葉を与えたいので、校内(なか)へ入れてくれませんか」 内の一人がこちら側三人の顔を順繰りに見つめ、落ち着いた口調で言った。どことなく 几帳面な会社員といった型(タイプ)の学生が、青山という馬術部のキャプテンなのを、一郎 も知っている。青山が、独語講師のドイツ人女性が乗る馬に付き添ってグランドをトロッ トで駆けている姿をよく見かける。その情景を目にするたび、一郎は小学校にはいったば かりの頃の記憶を蘇らせたものだ。その年の夏休み、どんないきさつでか軍隊が校舎に駐 屯していて、あるとき散歩帰りの軍馬を引く兵士が一郎を馬の背に乗せてくれたことがあ った。校門の近くまで来ると、優しい顔の兵士の表情が急に険しくなって、邪険な動作で 馬の背から下ろされた場面を鮮明に憶えている。兵隊は上官の目を恐れたのだろう。 青山以外は見たことのない顔だが、馬術部員だろう。 一郎たちは顔を見合わせた。三人の表情に、あ・うんの呼吸でOKのサインが浮んだと きだった。見事な素早さで、都島直二が焚火の傍から飛んで来た。都島は北門ピケ班のキ ャップだ。 「全学ストの期間は、学内にはいれないよ」 都島は、青山が一郎たちに説明したのと同じ言葉を繰り返すのに応えた。 「わたしたちはストライキ破りをするつもりはない。馬に飼葉を与えれば、すぐ帰る」 「いや、学生が学内へはいること自体が、問題なんだ。特例を認めたら、全学ストの意味 がなくなるんだ」 「じゃあ、わたしたちの行動にあなたが立ち合えばいい」 「それは同じこと・・・・・・。そんなに馬が心配なら、われわれが代って飼葉を与えてやるよ」 「無茶を言わないでください。馬に飼葉を与えるのは易しいことじゃない」 都島との押し問答がつづくうち、銀縁眼鏡の奥で青山の眼に涙が滲んできた。他の馬術 部員たちも、ピケ学生たちに取り囲まれて、顔を蒼白にしている。 にやけた馬術部の連中は、おれの好みじゃないけれど、都島も頑迷だな・・・・・・。 一郎が苛立ちはじめたときだった、康元南が唐突に口を開いた。 「安保条約は悪いけど、馬には罪はありません。都島君、この人たちを通しましょう」 康の口調は生真面目そのものだったが、一郎はつい吹き出しそうになった。なんと抜群 の言葉だろう。まさにその通り、馬に罪はない・・・・・・。 「都島君、おれも康さんの意見に賛成する」 一郎が言うのに間髪入れず、 「賛成!」 と喜多弘次が大きな声を上げた。喜多は右手を高く挙げさえした。 都島は意外とあっさり折れて、馬術部の四人は厩舎へ向かった。ピケ学生の囲みが解か れて校門をはいるとき、青山が康元南に会釈した。 康元南らの発言をきっかけに都島が意外とあっさり妥協したのは、一応は原則的な態度 を表明することによってピケ隊としての立場は維持した、とみずからを納得させたからか。 一郎はそう解釈したが、釈然としない場面であった。 日米安全保障条約とのたたかいは結局、六月に予定されている国会での承認問題に照準 が合わされ、学内での運動は新年度を待つことになった。国会へ向けた、四か月ほどの闘 争は、熾烈を極めるだろう。一郎にもそれが予測できた。しかし、その時、おれはたたか いの隊列にいるだろうか。後衛とはいえ、戦線のどこかにいるだろうか・・・・・・。 一郎がそう自問せざるをえなかったのは、四か月後、彼は未知の世界にいるからだ。 就職先は一月に決まっていた。 昨年秋、新聞社と放送局それぞれ一社の入社試験を受けて二つとも失敗した。マルクス 経済学の専攻では一般企業への就職は難しいだろう。それならいっそ、神坂ねんこを説得 して単身、東京へでも出ようかなどと考えていた矢先、高校時代の教師が、就職口を持っ てきてくれた。家具や建材も製造する合板メーカーだ。 とりあえずという気持ちで、一郎は従業員二千名ほどのその会社に入社を決めたのだっ た。履歴書の専攻欄には「銀行論」と虚偽の記載をした。選択必修科目の銀行論の講義は 履修したけれど、専攻などではない。卒業論文も「貨幣理論の展開――貨幣の必然性と本 質」と題して、『資本論』の使用価値・交換価値・価値論の章と商品の物神性の章とから やたら引用して書き上げ、本山二三麿教授に提出した。 友人たちが集まって、馬瀬一郎と神坂ねんこの「門出を祝う会」が催されたのは、卒業 式の二日後だった。今更、「門出」など面映く辞退するのを、ゼミ仲間の喜多弘次、山波 雄太郎らが強引に準備をすすめた。名古屋・栄の喫茶ニューボンには、ゼミ仲間のほかに 夫馬敬成ら高校時代の友人、神坂ねんこの職場と高校時代の友人、それに同人誌『七星』 の主催者であるも沐前円洙ら二十名ほどが集まった。 テーブルにはシャンペンとビール数本、簡単なオードブル、それにコーヒーとケーキが 添えられただけの質素な集いではあったが、ささやかな友情が一郎を素直に感激させた。 彼ら・彼女らの励ましとも毒舌ともつかない祝辞(スピーチ)に、神坂ねんこが涙をみせる 場面もあった。一年余の変則的な結婚生活には不安を感じることもあったのだろう。「祝 う会」を機に安定した生活が約束される、と彼女は安堵したようだ。 友人たちが寄せ書きした色紙に、一郎は促されるまま「飛躍」と記した。 三月中にねんこと二人、記念の旅をしておこう・・・・・・。一郎がそう決めたのは、神坂ね んこの涙に応えたいと思ったからだ。 記念の旅は、三泊四日、房総の旅と決めた。 一九六〇年三月七日 早暁の名古屋駅プラットホームで細川さん(ねんこの友人)から花束を、夫馬敬成から チョコレートを、贈られた。山波雄太郎が手渡してくれたのは、マルセル・パニョルの『笑 いについて』だった。 東京駅から房総線へ。乗り換えて間もなく、窓外の風景は早くものどかな田園のそれに 変わる。房総半島の香りが感じられるようになったのは、千葉を発つ頃。名古屋を発つと き晴れ渡っていた空はどんよりと曇って、木更津から館山に至る海岸線は太平洋側なのに、 どこか山陰のそれを思わせる。 太平洋の波涛は、曇り空の下で幾分、陰鬱だが、やはり豪放だ。未知の空、未知の土地、 未知の人々、それらの経験が、待ち受けている人生の何を暗喩しているのか、ぼくにわか るはずもない。ただ、旅が人生と類似(アナロジー)であることだけは、察せられる。 安房鴨川に着いたのは、午後四時半。 安房鴨川・吉田屋にて 三月八日 安房鴨川の夜は、神秘的とも言えた。雨に煙る闇の中に、波涛が暗白色の牙を剥いてい た。荒々しい潮鳴りは夜じゅう吠えつづけ、ぼくとねんこは部屋の窓越しに黒い海を眺め ながら語った。あてどもない愛や希望について、いまこの時だけはそれらがさも信じられ ることのように。ぼくは文学と「闇の中の光りの一雫」について語り、ねんこは命(いのち) と生まれてくるそれへの不思議について話した。床の中でねんこの性技はこれまでになく 練熟していた。 今日、ぼくらは銚子に向かった。途中、大網で乗り換え、もう一度、成東で乗り換え、 その頃から霧雨になった。成東から銚子への列車が石炭車であるのに、ぼくらは驚き、手 を拍った。列車のなかでぼくはジャン・バールの『実存主義的人間』を十数頁読み、ねん こと二人で『七星』に載って間もない小説「かくて驢馬ら天に昇る」を話題にした。 列車は広々とした平野を望み、人里離れた松林を抜け、走りつづけた。房総半島の最端・ 銚子に午後四時に着く。犬吠岬へはバスで二十五分。 犬吠岬の燈台に登るなり、ぼくらは感嘆の声を上げた。波のうねりは激しく牙を立てて 異様に白く弾け、あちらこちら海面に突き出した岩が、波涛に耐える巨大な動物の背を彷 彿させる。ぼくらは写真を撮るのも忘れてその光景を眺め、岬をあとにした。 宿へ着いたのは、夕暮れ時。空と雲と海は、夕映えの終りを告げて暗紅色に染まってい た。闇の中の光の兆(きざし)のように、月が昇った。 夕食をすませ、窓際の椅子に掛けたときだった。灰色の海はすっかり夜の海に変貌し、 波涛が月影に映えて暗く幽かな銀白に燦めいたり、漆黒に塗りこめられたりする。雲間に 月が入ったり出たりするたび、そんな明と暗を繰り返すのだ。夜の海を眺めるうち、不意 にぼくの視覚に闇と光ふたすじの道が見えた。それは妙にくっきりと帯状をなして海上を 沖合へ走った。月は雲間に隠れているのに、銀白の道が一本、それに伴走するように海面 の暗色よりさらに濃く黒い道がもう一本、目にはっきりと見えた。 二本の道は数十秒だったか、視界から消えて、二度と同じ現象は起こらなかった。 犬吠岬・磯屋にて 三月九日 正午頃、犬吠岬を出発。銚子発十二時四十四分の千葉行きに乗る。松岸から佐原へ至る 水郷地帯は、静謐と抒情を満喫させる。犬吠岬の動と水郷の静は、房総の旅の白眉になる だろう。残念なのは、水郷を夕映えの中で見なかったことだ。 成田を経て千葉へ戻り、東京へ。今日の一拍地・湯河原へ向かうのに東海三号に乗った のは、午後四時四十七分だった。 湯河原・伊豆屋にて 一郎とねんこが帰途、湯河原で一泊して、房総の旅を終え、名古屋へ戻ると、吉報が待 っていた。新聞紙上で「かくて驢馬ら天に昇る」が取り上げられ、高く評価されていたの だ。 〈それにしても、馬瀬一郎の「かくて驢馬ら天に昇る」(七星二月号)は、エネルギーに あふれた力作である。おそらくこの作品は、主題の追いつめ方にも、方法や文体にも、結 晶への途上の発酵状態ともいうべき混迷を多分に残している。しかし、伊勢湾台風のとき の学生医療班の救援活動を、現在の日本の学生運動全体の風潮とからみあわせて描きつつ、 デラシネのかわきに悩む青年の生き方を根本的に追求しようとしている意欲のたくましさ に、私は抜群のものを感じないわけにゆかなかった〉 一郎は、『追舟』復刊の希望がかなわないまま、「かくて驢馬ら天に昇る」を『七星』 に発表したのだった。主宰の沐前円洙は一七七枚にのぼる小説を雑誌の巻頭作品として一 挙掲載した。それにもかかわらず、一郎は『七星』での発表に多少、忸怩たる気持ちをひ きずっていた。 C紙の文化欄に載った、文芸評論家Mの一文は、そんな一郎の鬱屈を吹き飛ばし、励ま した。勿論、一文には作品の未熟を指摘する批判が含まれているのを読み取らないではな かったが、一郎の内にそこはかとない文学への意欲が湧いてきたのは確かだった。 神坂ねんことの房総の旅から帰ると、三週間ほどでもう会社勤めに出る日が、一郎に迫 った。その事実が、否応なく彼に、これから進むべき道の選択を問うた。 待ち受ける世界の、未知の渦のなかで、取るべき道は何か? 政治へのコミットか、日 常の平穏か。革命か、文学か――観念に還元されるなら、そのような問いだった。 そうだったのか? あのとき突然、海上に現われた黒白(こくびゃく)二本の道は、この問 いの前触れだったのか・・・・・・。 房総の旅の折、犬吠岬の宿で幻覚のように見た、沖合へと夜の海に伸びていた不思議な 二本の帯が何であったのか、その正体がわかったように一郎は思う。二本の道、二つの 門・・・・・・。 一郎は何かの予感に促されてノートに向かった。 アルベール・カミュが、革命に代って正義を選択した時、人々は彼を「右翼!」と弾劾 した。あるいは、「反革命!」と。 カミュはやがて、彼を取り巻いて起こった政治的事件――たとえばアルジェリア問題な どについて、頑強に沈黙した。沈黙には、苦悩と矜(ほこ)りが、奇妙に影を重ね合っていた。 不条理とのながい戦いの期間、カミュを支えてきた「正義」の観念にとって、血は流さ れてはならないものだった。カミュがけっして革命を否定したわけではないとしても、革 命が血を要求するとき、正義はそれを容認するわけにはいかなかった。 革命か、正義か? カミュの苦悩はこの選択の出口のなさにあった。そして彼によって 正義が選ばれ、『反抗的人間』は書かれた。 人々が、カミュを「右翼」と呼んだのは、あの時だった。だが、その時、カミュのうち には或る種の矜りが在ったことを、人は忘れていた。正義の名において真正のユマニスム を守ろうとする矜持(きょうじ)が在ったことを。 正義が反革命であるのなら、ユマニスムがブルジョア的であるのなら、血を拒否するこ とが右翼的であるのなら、ぼくらは時に「反革命」さえも、「ブルジョア的」さえも、「右 翼」さえも、弁護しなければならないのだろうか? (ノート「シジフォスの夢」) 一郎は、カミュの苦悩に擬して「二つの道」について書いたのだったが、それもまた、 未知の世界に待ち受ける選択に比べれば、漠然とした問いのような気がした。 問いは漠然としたものではあったが、一郎は何かの衝迫に衝き動かされるようにして、 学生時代最後の小説を書いておこうと思い、想を練った。それは寓話ふうの短編になるは ずだった。そして彼は創作メモをノートに取った。 人は何処から来て、何のために歩き、何処へ行くのか? サムと萬次は、涯ないかとおもわれる道を何日も歩きつづける。道は灌木のなかを抜け、 赫土の丘陵を折れ曲がり、河を渡り、そして不毛の大地へ、砂漠へとつづく。彼らを迎え る町とてなく、風と光のなか飢えと渇きに耐えて歩きつづけながら、二人は絶望し、ふた たび信じる。やがて行く手には、二本の道標が現われるだろう。 彼らが信じたとうり、道は二筋に分かれ、それぞれの入口にはそれぞれに道標が立って いた。一本の道標には「泉への道」と記され、もう一本の道標には「工場への道」と記さ れている。 いずれの道を行くか、口論の末、友情は袂を別ち、萬次は「工場への道」を選び、サム は「泉への道」を選ぶ。そして、それぞれに「工場の門」と「泉の門」を潜(くぐ)る。 数日後、町の人々のあいだに奇妙な噂が流れた。「工場の門」からロボットの幽霊があら われた、と。 同じ頃、別の村では、オアシスから発する河の下流で狩人が若者の死体を発見した、と いう噂が流れた。 (ノート「シジフォスの夢」) 「道」と題したその小説のエピグラフに、一郎はポール・ゴーガンの次のような言葉を付 すことにした。 われらどこからきたのか 何者なのか どこへゆくのか? 白い花 ユ 劉 ヨン 竜 ヂャ 子 表通りから裏路地へ抜けると新井のハルモニの家へと突きあたる。夕餉の献立の匂いが ハルモニの家の玄関先にこもっていた。急に空腹を覚えた。昼食抜きの嗅覚がいわしのヂ ョリン(煮付け)だと嗅ぎわける。唐辛子とニンニク生姜をたっぷり効かせた韓国風家庭 料理だ。木枯らしが吹き抜けるこの季節。唐辛子の効いたヂョリンは身体が温まる。食事 の時間を避けてきたつもりでいたのにお腹がキュンと鳴った。夕暮れて夜の闇が押しよせ ていた。どうしようか。引き返そうか。また出なおしてくるのも億劫だった。玄関のドア の前でためらいながら声をかけた。 「ハルモニ、ケシムニカ」(おばあさん、いらっしゃいますか) なぜかこの頃、読書の秋でもないが、教育テレビのハングル講座で韓国語を学びはじめ た。あれだけ嫌悪していた韓国語を勉強しようなんて自分でも心境の変化に驚いている。 単語を並べただけの片言のウリマルだけど、ハルモニが下手な発音でも誉めてくれる。ハ ルモニの笑顔が嬉しくてウリマルを習いはじめたのかも知れなかった。まるで小学生の子 供みたいだ。 玄関を入っていくと、ひとり住まいのハルモニにはちょっと広すぎるキッチンと居間が つづいている。贅沢な調度品が並べられ、大きな食器棚とテーブルがでんと居間に座って 居る。 「ねえちゃんな。ええとこ来たな。さあ上がって」 ハルモニは大画面のテレビを見ながらいつも一人ぼっちの食事だ。箸を置きながらハル モニが手招きしてテーブルを指す。 「ハルモニ、シガニオップスニカ、カゲプスムニダ」(おばあさん、時間がないから行き ます) 玄関から身を乗り出して遠慮しながら告げると、 「そんな冷たいこと言わんと、ちょっとだけ上がって、いっしょにご飯食べていきや」 格好の話し相手を逃がすまいとハルモニがしきりと誘う。また長居しそうな気配にどう しようか迷った。ハルモニの嬉しそうな顔を見てしまうとむげに断れもせず、誘われるま ま居間へ上がってしまった。 いわしのヂョリンが鍋ごとテーブルの上に載っている。付けあわせにナムルとキムチと 大根葉の味噌汁。昔懐かしい在日の家庭料理だ。いまはほとんど食卓にのぼることもない。 亡くなったウェハルモニ(母方のおばあさん)がこしらえてくれたキムチの味覚と匂いが 懐かしく思いおこされる。 「なにもないけど、遠慮せんと沢山食べていきや」 ハルモニが丼にご飯を盛り味噌汁をすすめながら言う。 ハルモニの家へは月に一度、駐車場の賃貸料を支払いに通っていた。表通りの一角に土 地を持ち駐車場として車の契約を結んでいた。 三年まえ、父との親子喧嘩のはずみで家を出た。嫁ぎ遅れて職もなくブラブラしている 娘の身を案じての父の苦言だった。顔を合わせれば世間体が悪い、見合いでもせよとうる さく言った。鬱陶しくて辟易していた。どこかで家を出る口実を探っていたのかも知れな い。派手にやりあったすえ身のまわりの荷物を車に積み、とりあえずひとり暮らしの女友 だちのマンションへ潜りこんだ。友人のマンション住まいは駐車場がなく違反と知りつつ も路上駐車。何度もレッカーで持っていかれた。駐車違反の切符とレッカー移動代金は半 端じゃなく痛い。そんな矢先だった。立ち話をしている新井のハルモニと偶然出会った。 「三浦さんところの、娘さんでしょ」 「どうもこんにちは。お久しぶりです」 内心、苦手な人と出会ってしまったとうろたえた。 「三浦さん、あんたこんなところで何をしているの。あなたのお父さん心配してますよ」 安田のおばさんがさも親切そうな顔をしてしたり顔で言う。派手なスーツに身をつつみ 手には高価な指輪が輝っている。 「大丈夫です。子供じゃあるまいし。しばらくアボジとは別居です。ときどき家にも連絡 していますから」 在日韓国系の組織民団の婦人会の支部長でやたらと顔がひろい。一度だけ安田のおばさ んの紹介でお見合いをしたことがあった。その縁で顔だけは知っていた。在日の家を戸別 でまわり団費を集めながらうわさ話しに余念がない。どこの誰れが何をしているのか、他 人には知られたくない家庭の事情までも心得ている情報通だ。早く退散するにこしたこと はない。うわさ話しの矛先を取られまいとあたり障りのない世間話に耳を傾け、話しつい でにどこかに駐車場が空いていないか訊いてみた。安田のおばさんがいきなりポンと肩を 叩いた。 「ちょうど良かった。いま新井の姉さんと話してたところだったのよ」 偶然にも一台分の駐車場の空きがあると言う。二人のおしゃべりに耳を傾けていたハル モニの腕をとり、 「姉さんこの娘、駐車場探してるんだって。ちょうど良かったじゃないの。貸してやりな さいよ」 こざっぱりとした身なりのいま流行のうす紫色に髪を染めて、小柄なハルモニが笑顔で 頷いていた。 「はじめまして。三浦です」 安田のおばさんの紹介が功をなし駐車場契約は即決成立。いますぐ車を停めても良いこ とになった。ハルモニの生活費が目減りしていま嘆いていたところだと、安田のおばさん が大袈裟に誇張して言った。 都心の街中で駐車場を探すのは至難の技。このときばかりはお節介やきな安田のおばさ んに感謝した。 その場の取り決めで口約束。書類上での賃貸契約は交わさず、毎月の賃貸料はハルモニ の家へ持参することになった。最初の数ケ月は決められた金額を渡すだけで領収書もなか った。親しくなるにつれお互いが了解していても思い違いが有るかも知れない。些細なこ とでも金銭がからむことで気まづくなるのも億劫だった。簡単な領収書でもなんでもいい から欲しいと伝えた。ハルモニは黙って市販の家賃通帳を渡してくれた。翌月ハルモニの 家へ行き通帳を渡した。ハルモニは食器棚の引き出しから印鑑を取りだし、三文判と通帳 をそのまま返してよこした。今日の日付を自分で書き入れ判を押せと言う。言われるまま に日付を書き判を押した。ハルモニは通帳を確かめもせずに頷づいていた。ずっとあとで 理解ったことだがハルモニは読み書きができなかった。だから領収書が書けなかった。偉 そうなことを言いながらそのことに思い至らなかった自分の未熟さを恥じた。 あの日、ハルモニがいつになく険しい表情をして言った。 「ねえちゃんな。わしが今月分のお金もらってない言うたらねえちゃん、わしにもういっ かいお金渡してくれるか。くれへんやろ。そやから領収書も判もなにもいらんのや」 参った。ほんとうに参った。グゥの音もでなかった。ハルモニの言うとおりなのだ。返 す言葉もなく立ちつくしていると、ええから、ええからと、子供を宥めるようにハルモニ が家賃通帳を渡してくれた。そんなハルモニの人柄に親近感を覚え惹かれていった。 不思議だった。ハルモニと出会うまえは、在日の同胞と会うのを避けていた。日常会話 にウリマルが使われることもなかった。ハルモニと話していると知らない単語が混じって くる。一緒に食事をしながら「マラ」てなに、「チウラ」てなに、子供のように聞き返す と、そんなことも知らないのかと目を細めて教えてくれた。早速辞書を引いて調べてみる けれど該当する単語が見つからない。見つけられないはずだった。あとで方言だと知った。 ハルモニと話していると亡くなったウェハルモニを思い出す。いつも白いチマチョゴリ を着ていた。白いチマチョゴリには切ない思い出がある。場所がどこなのかも思い出せな い。靴を脱いで人が大勢集まっているところ。白いチマチョゴリを着たウェハルモニが白 いコムシンを脱いで上がってきた。子供の声だったろうか。誰かが変な靴と笑った。みん なの蔑む視線が一斉にハルモニに向けられた。哄笑と嘲笑が沸いた。幼かったわたしがハ ルモニのチマチョゴリに取り縋って大声で泣いた。こんな変な服着てくるからだ。泣き叫 ぶわたしを宥めながら、為すすべもなくおろおろしていたハルモニの哀しそうな顔がいま も胸に浮かぶ。どうしてウェハルモニに取り縋って泣いたんだろう。きっと大好きだった ハルモニがみんなに笑われていることが悲しかったんだ。遠い昔のこころの襞の切ない一 齣がよみがえる。 「ハルモニひとつ聞いてもいい。ハルモニの家族はどうしているの」 いわしのヂョリンに箸を運びながら、まえから気になっていた家族のことを訊ねてみた。 ふっとハルモニの表情が翳った。あまり触れられたくない様子だった。ハルモニはキッチ ンの戸棚から焼酎の壜を取りだしてきた。コップをふたつテーブルへ置き、いっしょに飲 むかと顔を向けた。少しだけならとコップを手にした。医者に止められていると笑いなが らハルモニはコップに焼酎を注いだ。 「ハルモニ、だったら飲んじゃいけないんでしょ」 「ケンチャナ。ええから、ええから」 ハルモニの口癖だ。心配する言葉を遮ってコップの焼酎を半分ほど飲みほした。久しぶ りに口にする焼酎にむせて、うっと唇をゆがめた。 「息子がひとりいたよ」 「どうしてハルモニといっしょに暮らさないの」 「ヌメリ(息子のお嫁さん)が、わしといっしょに暮らすのが嫌やだって出ていった」 嫁姑の確執だろうと予想はしていた。どこの家でもひとつやふたつ他人には話せない家 族との軋轢をかかえている。 「孫がときどき、わしに会いに来てくれてる。いまアメリカの大学へ行って勉強してるか ら、ちょっと来られへんな」 遠くを見るような目をして話題を孫の話しへそらせた。寂しそうだったハルモニの横顔 が、焼酎のせいかほんのり紅く染まり頬がゆるんだ。 いつだったか夏の盛りにハルモニの家を訪ねていった。めずらしく来客があった。居間 のテーブルでハルモニ手作りの水キムチと大盛りの素麺を美味しそうに頬張っていた。 「お孫さん?」 可愛くてしかたがないのだろう目を細めてハルモニが頷く。スポーツで鍛えているのか 肩幅ががっしりと張っている。上半身裸の厚い胸に汗が光っていた。 「この子、父さんにそっくりだよ」 ハルモニが自慢げに紹介すると、日焼けした顔をほころばせ、素麺を頬張りながら頭を ぴょこんとさげた。精悍な顔つきに似ず、笑顔は少年ぽい幼さが残っていた。 「ハルモニ、お孫さん早く帰ってくるといいね」 そろそろ退散しようと時計を見た。とっくに十時を廻っている。また長居をしてしまっ た。 「ハルモニ、もう遅いから行くね」 食事の礼を言い、もう少しと寂しそうな顔をして引き止めるハルモニを残して家を出た。 年が明けて二月の末にハルモニの家を訪ねた。玄関の灯りが消えている。留守にしてい るのかと思いながらドアに手をかけた。鍵がかかっていた。また出なおすしかなかった。 あくる日も来てみた。留守だった。どうしたのだろう。誰かといっしょに温泉旅行にでも 出かけているのだろうか。勝手に思いめぐらせながらマンションへ戻った。駐車場の賃貸 料も貯まっている。一週間ほど日をあけて、今日こそはハルモニが在宅していると思い出 かけて行った。玄関のドアが開いた。なんだか嬉しくなってきた。 「ハルモニ、ケシムニカ」 返事がない。居間の奥へ向かってもう一度大きな声で呼んでみた。留守なのかな。ドア を開けたまま出かけるはずもないし。近くの自販機にたばこでも買いにいってるのだろう か。もう一度出直してこようと玄関を出かけたとき、ハルモニが廊下の奥のトイレから悲 痛な叫びをあげて転がり出てきた。 「どうしたの、ハルモニ」 「あぁ、ねえちゃんな、よう来てくれた、早よう上がって」 お腹の痛みをこらえて顔が歪んでいる。崩折れそうなハルモニの身体を慌てて支え居間 のソファーへ横たえた。ハルモニが喘ぎながらテーブルの上のノートを指して電話を掛け てくれと言う。ノートの紙面に大きく書かれた数字が並んでいる。急いで電話機を取りあ げ数字の番号を押した。呼び出し音のあとにナースセンターと告げる声がした。ハルモニ が受話器をもぎ取るようにして訴えた。 「アイゴ、痛いだ。看護婦さん痛いよ。アイゴ、看護婦さんなんとかしてくれ」 痛みを堪えてハルモニが必死に苦情を訴えているが話が通じない。たまりかねたハルモ ニがねえちゃん訊いてくれと受話器を渡された。かかりつけの病院らしかった。痛み止め の薬は渡してあります。それでも治まらなければ明日の朝、外来で病院へいらしてくださ いと言う。事務的な素っ気ない対応だった。ハルモニへ電話の内容を伝えると、そうかと 頷きながらいくらか落ち着きをとり戻してきた。 「ハルモニ、大丈夫ですか。誰か呼びますか」 「ケンチャナ、ええから。大丈夫や」 痛み止めの薬を飲むと言うのでコップと水を用意した。ベッドで横になるようにすすめ たが、ソファーで良いと横たわった。 目を閉じて眉間に皺を寄せ痛みを堪えている。なにをどうすれば良いのか分からない。 そっと腰をさすりながらしばらくハルモニの様子を見ていた。一時間ほども過ぎたろうか。 薬が効いてきたのかハルモニの表情もやわらぎ薄く目をひらいた。心配顔で覗きこむと、 「ねえちゃんな、もうええから、ありがと」 ソファーから身体を起こし迷惑をかけて済まなかったと礼を言う。ハルモニの様子が落 ち着いてきた。安静にして休むようそっと寝かしつけてマンションへ戻った。 六月の鬱陶しい梅雨が明けようとしていた。あれからハルモニのことが気がかりだった。 何度か家を訪ねたがドアに鍵が掛かったまま留守だった。身体の具合が悪くなり入院をし ているのかと心配しながら連絡のしようがなかった。電話番号もなにも知らされていない。 きちんと確かめておけばよかった。たぶん元気でいるよ。そう自分にいいきかせてハルモ ニの家を訪ねていった。 めずらしくドアが開いていた。 「ハルモニ、ケシムニカ」 見知らぬ女性が怪訝な顔をして居間から出てきた。 「どんなご用件ですか?」 保険の勧誘にでも来たセールスレディーだとでも思ったのだろうか、突っけんどんな応 対だった。 「あの三浦と申しますが、駐車場のお金を持ってきたのですが」 「あぁ、あなたでしたの」 どうぞ上がってくださいと、すっかり態度をかえて居間へ招き入れた。 「あの、ハルモニは?」 「ご存知なかったんですか。亡くなりました」 「いつですか?」 「先月です。子宮癌でした」 あまりにも突然だった。入院しているものの心配するほどではないと思っていた。亡く なるなんて。重い子宮癌だとは想像もしなかった。慌てた。気が動転してなにを言えばい いのか言葉がでなかった。 この半年、入退院を繰り返していたという。病院のベッドを嫌って医者が止めるのも訊 かずに病院を抜け出していた。あのときもハルモニは病院を抜け出して家へ戻っていたの だ。 「そうでしたか。あなたでしたか。義母が駐車場を貸していたのは」 駐車場の賃貸料は契約者からハルモニの口座へ振り込まれていたという。 「帳面を見ていたものですから、一台分空きが有るもので変だと思っていたのですよ」 街中の駐車場は空きがあればすぐに埋まってしまう。契約をしたいと頻繁に問い合わせ があった。そのたびにハルモニが人に貸してあるとの一点張り。ええからええからと受け 流していた。 「きちんと契約もしないで人に貸すなんて始めてのことでしたからね」 ハルモニは一人ぼっちで寂しかったんだ。突然迷い込んできた同胞の娘を自分の娘みた いに可愛がってくれた。もっと時間をつくって会いにくればよかった。いまさらながら悔 やまれてならない。 「あの、できればお線香をあげたいのですが」 急ごしらえの小さな祭壇の位牌に向かって線香をあげ合掌した。焼香をおえると、どう ぞお茶でもとすすめられテーブルに着いた。 「失礼ですが、ハルモニの息子さんの?」 「ええ、家内でした」 「すみません。なんてお呼びすればいいんでしょうか」 「いまは旧姓にもどって伊藤です。主人は交通事故で亡くなりました。義母からはなにも 聞かれてないのですか」 「ええ、立ち入ったことはなにも」 ハルモニは家族のことに触れると切なそうに顔をそむけていた。女手ひとつで育ててき たひとり息子に先立たれていたのだ。 彼女が言った。主人は母親思いの気持ちの優しい人でした。いつも義母のことを聴かさ れていました。お袋は俺を育てるために苦労をしたんだ。物心がついたときから母ひとり 子ひとりの生活だった。濁酒を売って流れ者の荒くれ男を相手に身を粉にして俺を育てて くれたんだ。 「義母は気丈な人でしたから、わたしとは合わなかった。初対面の人に内輪話しをするな んて変ですよね」 彼女が言葉を濁した。 「よければ、話してください」 人に話して聴かせるほどのことでもないけれど、これもなにかのご縁でしょうからと、 彼女は訥々と話しはじめた。 義母は、わたしとの結婚を猛反対したの。ひとつはわたしが日本人だったこと。それと 水商売の年上の女だったてことなの。誰が聞いても反対するわよね。おまけのお腹の中に は子供がいたの。 「ええ、一度お見かけしました。いまアメリカへ留学していらっしゃるとか」 ハルモニを訪ねて来たときに偶然出会っていると話した。夏の日のぴょこんと頭をさげ た笑顔が胸に浮かぶ。 出会った頃、主人は学生だった。子供ができたことを知った義母は、わたしを無理やり 家へ入れた。わたしは結婚を望んではいなかった。子供はひとりで産むつもりでいたの。 結婚を望まなかった。国籍が違うということだろうか。 「ひとりで産むってどういうことですか」 「主人の子供を産んでみたかった。ただそれだけだったと思うわ」 義母との暮らしは嫌ではなかった。義母は身重な身体に良いというものはなんでも買っ てきて食卓へ載せた。若布のスープや鶏のスープも食べきれないほどこしらえてくれた。 重いものを持ったり洗い物をしたり、簡単な家事さえも身体に良くないと気をつかってく れた。そんな義母の優しさに応えようと、わたしも良い嫁になろうと務めたわ。でも気が ついたの。義母はわたしの身体を心配していたのではないと。産まれてくるお腹の子供の ためだったのよ。それから悪阻がひどくなってキムチの饐えた匂いがたまらなくなった。 食べ物が生理的に合わなくなって食が喉を通らなかった。疲労と栄養失調で流産しかけて 入院したわ。退院してから実家へ戻って子供を産んだ。父親にそっくりな元気な男の子だ った。義母は手放しで喜んでくれた。でも義母とはもう暮らせなかった。 彼女が二杯めのお茶を煎れてくれた。 「ごめんなさい。話したくなければいいんですけど。ハルモニの息子さんてどんなひとで した」 主人は母親思いの気持ちの優しい人でした。大学を出ると先輩の経営する不動産会社に 招かれて就職しました。バブル景気でおもしろいほど物件が売れて、マンションを購入し 高級車を乗り廻して人が羨むほど羽振りがよかった。子供が生まれて、この子のためにも 頑張るんだととても子煩悩な父親でした。良いことは長くつづかないもので、バブル景気 に浮かれて掴んだ割引手形が裏金融の廻し手形だった。不動産会社は倒産し先輩の借金ま でかかえて、暴力団関係のやくざな取り立て屋に追われる身になった。マンションを売り 高級車も売り払った。あんなに優しかった主人が別人のように人が変わった。暴力を振る い酒に溺れるようになった。離婚を言い出してきたのは主人の方でした。泥酔したあげく に飲酒運転の交通事故で、ほんとうにあっけなく死んでしまいました。 息子を亡くした義母の嘆きはとても見ていられなかった。一度は義母といっしょに暮ら そうとも思ったのですが、義母がそれを拒んだのです。それでも義母は私と息子の生活を ずっと陰で支えてくれました。主人に死なれてやっと義母の思いが理解るような気がして います。ひとりで子供を育ててゆく大変さを知りました。息子が父親に似てとても素直な 優しい子に育ってくれました。おばあちゃんを慕ってくれてます。 「ハルモニのことを、どう思っていますか、恨んでます?」 いいえ。主人に死なれて母ひとり子ひとりの同じ境遇を生きています。義母を理解しよ うとは思いません。でも同じ女ですもの義母の生き方が理解るような気がします。 「ごめんなさい。ひとりで長いことおしゃべりしてしまって」 お茶が冷めてしまった、煎れなおしますとキッチンへ立っていった。 「いえ結構です。そろそろ帰ります。それと駐車代金をお支払いします」 「そうでしたわね、申し訳けないのですが、来月からは口座振込みでお願いできますか」 「ええ、分かりました」 ハルモニが残した土地と建物はアメリカへ留学しているお孫さんが相続することになっ た。とりあえず息子が日本へ戻ってくるまではわたしが管理しますと彼女が言った。駐車 場の契約を改めてむすび、賃貸料は銀行口座へ振り込むことになった。 「何かあればいつでも連絡下さい」 「ええ、ありがとうございました」 彼女へ礼を言いハルモニの家をあとにした。もうここへは訪ねてくることもないだろう。 玄関のドアのまえでハルモニの家をもう一度眺めて見た。玄関脇の鉢植えに唐辛子の葉が 青々と繁っていた。ハルモニが植えたのだろうか。目を凝らすと小さな白い花が可憐に咲 いていた。 ソンゴン ホ 宋建鎬先生を悼む パク 朴 チャン 燦 ホ 鎬 元東亜日報編輯局長の宋建鎬先生が、昨年十二月二十一日、ソウルの自宅で亡くなられた。 享年七十四歳。新聞記事を目にして暫し呆然とし、嘆息するばかりだった。 感銘与えた白紙広告闘争 一九七一年四月、金大中(キムデジュン)氏の挑戦を辛くも振り切って大統領三選を果た した朴正熙(パクチョンヒ)氏は、一九七二年、北朝鮮と秘密裏に接触して「七・四南北共 同宣言」を発表し、同年十月には終身執権を狙って憲法を改訂、“十月維新”と称した。 そして、民主化運動の高まりに手を焼いていた維新政権は、緊急措置を連発して弾圧を加 えた。 そういった状況下にあった一九七四年十月下旬、東亜日報の記者たちが「自由言論実践 宣言」を発表し、維新政権の言論干渉に抗議した。この宣言はたちまち全国のマスコミに 波及し、韓国社会には言論の自由を要求する声があふれた。しかし維新政権は、東亜日報 に広告を出していた企業に圧力を加えて解約させ、同紙の広告欄は空欄状態になった。 韓国を代表する新聞の白紙広告は、かえって、当局の言論弾圧を強く印象づける結果と なった。各界から抗議の声があがり、東亜の購買運動や広告解約企業の製品不買運動がお こった。さらに、社会団体、宗教団体から一般読者にいたるまで広範な層が誠金を寄せ、 広告欄を通して、記者たちの戦いを支持激励するメッセージを寄せた。 東亜の白紙広告闘争は全世界から熱い反響を呼び、同紙の広告欄は連日、民主主義実現 を望む内外の声で埋めつくされた。古今の言論史上類例のない、この感動的な闘いは翌春 まで続き、結局は、会社側が百五十名余の記者を集団解雇することによって終熄した。 当時、同紙の編輯局長にあった宋建鎬先生は、洪承勉(ホンスンミョン)論説委員ととも に会社側の解雇措置に抗議し、同社を去った。以来、宋先生は『シアレ ソリ』編輯委員、 韓国 NCC 人権委員として活動するなど、 一貫して民主化運動の先頭に立って闘いぬかれた。 一九八〇年五月、光州(クァンヂュ)民主抗争が展開され、軍事政権による血の弾圧が強 行されるなかで、宗先生は背後操縦者の一人だとして逮捕された。そして同年十一月、金 大中氏に死刑が宣告された陸軍戒厳高等軍法会議で、文益煥(ムンイクファン)氏らととも に懲役刑判決を受けた。 一九八四年、宗先生は民主言論運動協議会の発足とともに議長に選ばれ、一九八九年に は同志とともにハンギョレ新聞を創立して、代表理事・発行人兼印刷人となった。 宋建鎬先生の『韓國現代史論』を翻訳 一九八一年春、筆者は韓青時代の仲間数人と、学習と親睦を目的とする「東學舎」という 集まりを発足させた。 東學舎では翌年三月、筆者が風濤社から自費出版した『新しき朝鮮』(朝鮮総督府情報 課編纂。一九四四年刊)覆刻版のささやかな祝賀会をもち、解説をお願いした和田春樹先 生と、民団東京本部事務局長だった韓昌奎(ハンチャンギュ)先輩をお招きした。 この席で、宋建鎬先生の著書『韓國現代史論』の翻訳を提議し、決定した。この翻訳作 業は、素人集団にとっては余りに無謀な企画だったが、何度も諦めかけては歯を食いしば り、なんとか仕上げて風濤社に手渡し、一九八四年六月に出版していただいた(日本語版 の表題は『日帝支配下の韓国現代史論』)。 宗先生はこの本で、朴慶植(パクキョンシク)、姜徳相(カンドクサン)両先生の著書から 多く引用していたので、池袋での出版慰労会には、両先生を和田先生とともにお招きした。 両先生は、われわれが韓青の出身だと聞いて戸惑っていたようだった。 その昔、大韓青年団時代のイメージのせいらしかったが、韓青出身者がこの種の本を訳 出したこと自体、意外そうだった。またその席で、姜先生から出典の一部についての疑義 を指摘された。数日後に図書館で確かめたところ、宗先生が該当箇所を引用する際に、一 行ずれて読んでいたことが判明した。 しばらく後、札幌の林炳澤(イムビョンテク)氏とともに早稲田奉仕園を訪れ、徐(ソ)兄 弟救援活動の世話人をなさっていた東海林勤牧師にお会いして、この本を教会関係を通じ て宋先生に届けてくださるよう依頼した。そのころ、筆者は韓民統を辞して一年しかたっ ておらず、宗先生に直接渡すことは不可能だったからだ。 数カ月後、本は米人宣教師の手により届けられたとの連絡があり、しばらくして、宋先 生からの手紙が東海林牧師を通じて届いた。 翻訳に対する謝辞があったことは勿論だが、「私たちは、仲間同士励ましあって楽しい 日々を過ごしていますが、あなた方は異国で、どんなにか辛い思いをなさっていることで しょう」といった意味のことが書いてあって愕然とした。軍事政権に抗して命がけの闘い を続けている方から、このような言葉があるとは思いも寄らなかったからだ。 九五年、宋建鎬先生のお宅を訪問 拙著『韓国歌謡史 一八九五-一九四五』の韓国語版が一九九二年二月にソウルで刊行 され、次いで SP 盤の復刻 CD 全集が発売されて、筆者は同年十一月に訪韓した。一九六九 年以来、二十三年ぶりの祖国であった。 拙著を翻訳なさった安東林(アンドンリム)先生については、『架橋』十四号の拙稿「そ して『西便制』――二十数年ぶりの韓国」に紹介した。安先生は文人やジャーナリストと 親交が深く、文壇の裏面を知りぬいていて、日本でも知られる有名文人などを酷評するが、 宋建鎬先生についてはこう評した。「とても穏健な性格で、気の小さい人だ。それでも不 義不正を黙って見過ごすことができず、勇気をだして批判しては痛めつけられ、そのたび に後悔していた。ついには民主化運動の指導者になったが、彼を大物に育てたのは、独裁 政権の弾圧だ」。 一九九五年一月十一日、筆者はようやく宋先生のお宅をお訪ねした。遅きに失したかも 知れないが、“文民政権”になって一年近くたったということと、先生からの手紙を受け 取って十年になるので、そろそろ伺うべきだと思ったのである。 ちょうど家人は外出中で、宋先生が直接玄関まで出迎えてくださった。初めてお目にか かる先生の面差しは、写真で見るよりもさらに温和で、気品さえ感じた。 だが、そのお姿を目にして、思わず息をのんだ。身体の自由がきかず、ほんの数メート ル歩くのにも四苦八苦なさっていたのである。軍事政権時代に受けた拷問の後遺症に加え て、パーキンソン病に冒され苦しんでいるとのことだった。また、金泳三(キムヨンサム) 政権になってもなお、電話が盗聴されていると洩らされた。 われわれの翻訳作業について思い出されるには、多少時間を要したが、先生は心から喜 んでくださった。また先生は、他の著作で大衆歌謡についても論じておられるので、『消 えよ三八線(カゴラサムパルソン)』の年代をお尋ねしたところ、一九四七年だとのお答え だった。この曲については新聞広告などの資料がなく、年代を確定するのは難しかったが、 作曲者・朴是春(パクシチュン)氏の回顧録の内容から推測しても、宋先生のおっしゃった 一九四七年が妥当だと思われる。 はじめ、一時間ぐらいはお邪魔するつもりでいたのが、長居をすればお身体に障りはし ないだろうかと勝手に判断し、三十分ほどでお暇した。先生は、拙著へのお返しに評論集 『一つの国(ハンナラ)、一つの民族に向って(ハンギョレルルヒャンハヨ)』をくださり、 玄関まで見送ってくださった。 その後、何度かお邪魔したいと思ったことはあったが、そのたびにお身体のことを思っ ては、つい二の足を踏んでしまった。浅はかな判断だったと悔やまれる。 今年二月十九日、ソウル訪問の折に霊前にご挨拶しようと連絡をしたところ、四十九日 を過ぎて光州・望月洞(マンウォルトン)の民主墓地に埋葬したとのことだった。そして「二 十二日に光州に行くから、いっしょに行きませんか」と、ありがたいお誘いがあったが、 その日は名古屋に帰る予定日だったので、「마음(こころ)だけでもお伝えください」とお 頼みして電話を切った。 先生のご冥福を、心から祈ってやまない。 〈訂正〉『架橋』十三号所載の拙稿『異境にしみた恨の歌声』の(一)のうち、『お座 敷小唄』に関する部分を全部取り消します。昨年八月に刊行された奈賀悟さんの著書『日 本と日本人に深い関係があるババ・ターニャの物語』(文藝春秋)から、拙稿に記した歌 は『お座敷小唄』でなく、『まつのき小唄』だったと判明したからです。 一九九三年早春だったか、朝日新聞津支局への転任を前にした奈賀さんと、名古屋・大 須の劉竜子(ユヨンヂャ)さんの店「酒幕(じゅま)」で一杯やりました。話が弾み、奈賀さ んが厚生省の旧日本兵遺骨収集団の同行取材のためサハリンに行った折、現地の朝鮮人二 世女性(ババ・ターニャ)が『○○○○(なんとか)小唄』をうたうのを聞いて驚いたとい う話を聞きました。筆者は話の流れから『お座敷小唄』ではないかと推察し、この歌にま つわる思い出などを話しました。 同年、その話を文章化して『架橋』に寄稿し、奈賀さんに送ったところ、「取材して記 事を書く立場の新聞記者が、逆に取材されてしまった。コピーして知人に送りたい」とい う返事が届きました。ところが後年、奈賀さんが『ババ・ターニャの物語』を執筆するた め当時の資料を整理したところ、取材メモに『まつのき小唄』とあったという次第です。 三千里鐵道の旅 いそ かい じ ろう 磯 貝 治 良 朝鮮半島の形はよくうさぎの背に喩えられる。その背が真っ二つに断ち裂かれて、北に朝 鮮民主主義人民共和国、南に大韓民国がある。一つの民族の体が一九四八年以来、「幻想 のコミュニティ」である二つの国民国家に分断されているのである。 その分断ラインが軍事分界線(一般に三八線(サムパルソン)と呼ばれているのとは少し ずれる)であり、南北二キロずつ四キロの幅で非武装地帯(DMZ・Demilitarized Zone)が 東西に伸びている。広く深く灌木の林と雑草地の延々とつづくそこは、世界でも有数の野 鳥の棲息地であり、同時に地雷の埋没地でもある。DMZ の中心が、六(ユ)・二五(ギオ)(朝 鮮戦争)の折に停戦会談が開かれ休戦協定が結ばれた板門店(パンムンヂョム)であり、そ こは南北の共同警備区域(JSA・Joint Security Area)となっている。 JSA はまさに朝鮮半島の「片割れ同士の二つの国家」(金石範)が対峙する、軍事的緊張 の時空間だった。ヨチヨチ歩きの幼児でさえ難なくまたげそうな人造の軍事分界線、それ をはさんで向かい合う南北の兵士、質素なコンクリート造りの建物。五十年の歳月のなか で一見、惰性化した緊張の日常性と見まがうばかりのそれら風景には、しかし七千万民族 が背負わされた底深い不条理が否応なく感じられる。あたりを吹きわたる風の音にさえ、 なにかしら訴え、語る人の声が感じられた。 六・二五は終っていない。朝鮮半島の分断とは、戦争がつづいていることだ。二つに断 ち割られたうさぎの背が一つにならなくてはほんとうに戦争が終ったとは言えない。分断 がつづいているかぎり、南北いずれの国家も正当な国民国家とは言えない。統一がなされ てこそ、はじめて正当な国民国家が成立する。 わたしは二〇〇二年三月二十一日、目と鼻のさきに軍事分界線を眺める場所に立って、 そう感じた。そして、近現代史において朝鮮半島の分断に深くかかわりつづけている日本 の位置について、ほとんど身体的な思考を迫られることになった。 朝鮮籍6名も板門店へ 今回の訪韓は、NPO 法人三千里鐵道の JSA セミナーツアーによる。一九九四年の韓国文学 学校、民族文学作家会議との交流、一九九六年、在日の友人の親戚訪問に同行するととも に文学者とも交流、一九九八年の東アジア平和と人権国際シンポジウム済州島大会――に つづく四度目の訪韓である。一九九〇年代にようやく訪韓し、しかもたった四度というの は、奇妙な感じを人にあたえるらしいが、それには理由がある。韓国籍の友人のなかに七 〇年代からの反体制運動が「反国家行為」とされて国へ行けない人がおり、その人たちを 飛びこえて行くことに躊躇があったのであり、必要な機会に限って訪韓することにしてい るからである。今回の訪韓にあたっても、三千里鐵道の運動をもっともよく支えている一 人(韓国籍)が参加できなかった。 NPO 法人三千里鐵道について簡単に記しておく。二〇〇〇年六月十三日に金大中大統領と 金正日国防委員長がピョンヤン空港で抱擁し、解放後はじめての南北頂上会談が実現した。 そして歴史的な6・15共同宣言が発表された。 これをうけて愛知在住の在日二世都相太(トサンテ)さんがいちはやく運動を発意し、「三 千里鐵道」と名づけられた。分断の象徴である非武装地帯を在日(海外)同胞の心のふる さとにしよう、民族の和解と統一にむけて、本国の「従属変数」ではない、〈在日〉の自 立的、主体的な運動を展開しよう――そうして始められたのが、まずは朝鮮戦争によって 切断されたままの京義(キョンウイ)線鉄道(ソウル~新義州)のうち非武装地帯の南北二 キロずつの連結工事に必要な費用を募金し、南北それぞれ平等に送ろうという、運動であ る。募金活動は二〇〇一年三月一日から正式に始められ、6・15共同宣言一周年には「鐵 馬は走りたい」と銘打ってイベントを行った。任意団体三千里鐵道は NPO(特定非営利活動) 法人にもなった。三月六日現在、募金は延べ千二百名余から千五百三十万円が寄せられて いる。 そうして集まった募金のうち鉄道連結一キロ分の費用をまず南へ伝達しようと組まれた のが、三月二十日から二十三日の JSA セミナーツアーである(費用伝達はまず北から始め ようと模索されたが、それはうまくいかず後日を期している)。ツアーには愛知をはじめ 大阪、京都、北九州、福島から、韓国籍九人、朝鮮籍六人、日本(籍)人十人の計二十五 名が参加。 特記すべきは朝鮮籍の〈在日〉六名が、一回限りの臨時パスポートながら参加できたこ とである。七歳で渡日して七十年ぶりの帰郷、三歳で渡日して六十九年ぶりの帰郷という お二人。その連れ合いさんも初めての祖国訪問であり、いま一人の女性は二十歳まで済州 島で暮して「四・三事件」を体験し、渡日以来、五十年ぶりの帰国だった。朝鮮籍の組織 経験者であっても入国可能なのは韓国の最近の情況だが、はたして南から共同警備区域の 最先端・板門店まで訪ねることができるだろうか。それが心配だった。日本人はじめ外国 人ツアー受け入れ団体「統一(トンイル)マヂ」の努力によるものだが、朝鮮籍の〈在日〉 が揃って停戦会談の行われた部屋の中にまではいれたのは、稀有のことではないだろうか。 統一相に寄金を渡す 三月二十日(一日目)、午後一時まえに JSA ツアーのメンバー二十五名は仁川(インチョ ン)国際空港に顔を揃えた。空港施設の広大さに驚くばかりである。入国手続きがすむと、 統一マヂ(統一を迎え)のスタッフの出迎えを受けて、ソウルの中心地明洞(ミョンドン) にあるロイヤルホテルへ。 旅装を解くと間もなく、韓国政府の施設があるビルへむかう。都相太理事長、副理事長 の鄭戴宇(チョンヂェウ)さんと私、近藤昭一衆院議員、韓基徳(ハンキドク)事務局長の五 人である。韓国籍、朝鮮籍、日本籍ということになる。通訳は姜恵禎(カンヘヂョン)さん (この女性は昨二〇〇一年六月十七日に名古屋市公会堂で開いた南北共同宣言一周年祝祭 の折にも通訳を努め、その見事な日本語は日本人以上と折紙つきである。余談になるが、 今年二月二十二日から四日間、京都で開かれた東アジア平和と人権国際シンポジウムの際 にも会い、通訳スタッフとして活躍した)。 何階だったか失念したが、統一部に着くと、サークル状に並べられたソファと観葉植物 の置かれた、こじんまりとした室には予想以上の報道陣が待ちかまえている。カメラのフ ラッシュがたかれるなかで、丁世鉉(チョンセヒョン)統一部長官(統一相)に都相太氏か ら鉄道一キロ分の工事費六百八十万円が渡される。その場には社団法人・統一マヂの理事 長で国会議員でもある李在貞(イヂェヂョン)氏と同じく国会議員の任鐘晳(イムチョンソ ク)も同席した。ちなみに長身で若々しくさわやかな風貌の任鐘晳氏は、かつて全大協の代 表として学生の民主化運動を率いて、日本でもよく名を知られた人である。 寄金の伝達式が終わると、全員がソファに掛け、丁世鉉統一相の感謝の言葉を受けて三 千里鐵道の四人が一人一人、意見を交換した。この文章は個人的な訪韓報告なので、その 全体を記す余裕はないが、わたしはおよそ次のような発言をした(都相太氏から最初にい きなり名指しされて、うろたえた)。 「朝鮮半島の分断には日本の植民地支配が大きく原因しています。朝鮮戦争では韓半島 のみなさんの悲劇によって日本は経済復興の緒に立ちました。そして解放後、一貫して分 断を認める政策をとってきました。だから統一の問題はすぐれて日本の戦後責任の問題で あると考えてきました。それで日本人として統一にかかわる道はないかと三千里鐵道の運 動に参加し、今日こうして統一部を訪ねることができました」 簡潔を期そうとして杓子定規な発言になったが、それに統一相は、「日本の知識人のな かには植民地支配を反省し、戦後責任の問題を良心的に考える人がいるとは知っていた。 いまここではじめて会うことができてうれしい」と、見事なリップサービスで応えた。 丁統一相はそのあと一人一人の挨拶にたいしてもソツなく応じていた。 寄金の伝達式は三十分ほどで終った。 夕べは統一マヂ主催の歓迎レセプション。統一マヂについて簡単にふれると、故文益煥 (ムンイクファン)牧師の遺志をついで統一運動をすすめている民間団体である。文益煥牧 師はみずからも北を訪問して政権の迫害をうけながら、民族統一の悲願のために尽くした 人である。その夫人である朴容吉師母(サモ)ニムは現在、統一マヂのシンボル的存在であ り、今回の訪韓中も老齢をおして二度も集いに出席していただいた。 JSA 分界線に立つ 三月二十一日(二日目)、いよいよ非武装地帯 DMZ と板門店訪問である。朝九時、京義 線新村(シンチョン)駅から統一号に乗る。乗客は少なく、じつにゆったりと走る列車の車 窓から、カササギの巣をのせた灌木と山所の風景を眺める。途中、「新幹線」の建設基地 を過ぎる。南北にまたがって流れ、分断と統一の象徴である臨津江(イムヂンガン)を望む うち臨津江駅に着く(さらに DMZ 目前の都羅山(トラサン)駅まで鉄道は開通され、今年二 月十二日の旧暦正月には一番列車が走ったというが、一般の運行はまだ。のちに四月十一 日から営業運転が始まった)。 バスで臨津閣へむかう。途中、花石亭(ファンソクチョン)に寄って曇天の下、靄にけぶ るイムヂン江を望む。対岸の低い丘陵は米軍演習場になっていて地肌をさらしている。折 から米韓合同演習イーグル(旧名称はチームスピリット)の訓練中だったが、それはシュ ミレーションによって行われているとのことで、遠く米軍兵士の影がかすんで見えるだけ。 沖縄の基地から訓練に参加する米軍兵士たちは、ノービザで非武装地帯にはいり、ソウル で羽をのばして沖縄へもどって行くという。 臨津閣では、朝鮮戦争の停戦後、捕虜交換のために架設された木造の橋を見た。その橋 は「自由の橋」と名づけられている。 臨津閣を見学したあと、DMZ にもっとも近い都羅山の展望台に寄る。展望台の施設でビデ オを見たが、それは「反北教育」的なものだった。都羅展望台からは共和国でピョンヤン につぐ大きな都市開城(ケソン)が鮮明に望めるということだが、この日はあいにくの曇天 のため叶わなかった。ここで DMZ・T シャツを二枚買う。 板門店に行くためには、UN(国連)司令部の前線基地キャンプボニバスを通らなくては ならない。「ボニバス」とは、一九七六年八月十八日の「ポプラ事件」の際、共和国軍兵 士によって殺害された米軍兵士の名をとったものだそうだ。DMZ および JSA の南側を管轄す るのは、名目上は UN だが実際はアメリカ軍であり、韓国軍は現在も米軍の統轄下にある。 ツアーの一行は、キャンプボニバスの入口で若い韓国兵士の検問を受けた。難なく通過 したのだが、ちょっとしたハプニングがあった。車内の検問を終えてバスが発車したとき、 くだんの兵士が大声で停車を命じた。車中の誰かが、撮影禁止のカメラを窓外に向けたら しい。バスに乗り込んできた兵士はフィルムの提供を求めたらしいが、随行の統一マヂの スタッフが巧みに応対して、事なきを得た。 JSA(共同警備区域)に入ると、軍のバスに乗り換えて板門店へ。よく知られるように、 そこは一九五一年から北と UN 側との停戦会談が開かれ、五三年七月二十七日休戦協定が調 印されたところである。まさに分断の象徴であり、南北統一への宿願が凝縮された場所だ。 現在も南北政府および赤十字社による会談の場所になっている。共同警備区域として定 められた前後左右の境界直線距離が八百メートルという空間に、軍事停戦委員会の本会議 場、中立監視委員会の会議室、板門閣のほか南に UN 側の「平和の家」、北に共和国側の「統 一閣」など二十四棟の建物がある。現代グループが北へ贈った千頭の牛がトラックで通っ たという道路もあった。 小さな講堂ふうの室で、女性の係員から説明と注意を受ける。それが達者な日本語でな されたのは、三千里鐵道の一行のほかに二十名ほどの学生ふうの日本人ツアー(沖縄から のようだ)がいたからである。注意というのは、板門店を見学のあいだは挙動に留意する こと、とくに北の方向にむかって指をさしたりしてはいけない、といったことだった。そ の注意には、不測の事態は北からもたらされるという予断が暗に込められているふうで気 にかかった。ともあれ、共同警備区域とは一触即発の緊張がみなぎる場所である、とヒシ ヒシ感じられた。 説明と注意のあと、不測の事態によって被害を受けた場合の責任はすべてみずからが負 う、との「誓約書」に全員が署名して、休戦協定の調印された建物へ。室の中央に南北が 向かい合って対面するテーブルがあり、そのまんなかを東西に一本の電話コードが伸びて いる。それが休戦ライン(軍事分界線)である。たった一本の細いコード線が民族の分断 を表象しているのであり、それがなにかしら黒い不条理の化物のようにも見えるのである。 東アジアのここでは、いまだ冷戦構造の崩壊はないのである。 そしてわたしたちは展望台に立って、北と南が対峙する板門店の全景を見た。そのとき の印象は、この文章の冒頭に記したとうりである。 夕方からは、宿泊先のロイヤルホテル会議場でシンポジウムが催された。発題は、統一 ニュース顧問の金南植(キムナムシク)先生「6・15 南北共同宣言以後の南北関係」、高麗 大客員教授で平和統一市民連帯政策委員長の梁官洙(ヤングアンス)先生「京義線鉄道復原 事業の意義と展望」、NPO 法人三千里鐵道理事長の都相太氏「南北鉄道連結に対する在外同 胞の役割と可能性」だった。 それぞれの内容を紹介するとなると簡単ではないので、日韓両語によるパンフレット「京 義線に初めて枕木を置く」に掲載されている文章にゆずるとして、シンポの場でわたしに とって思いがけない出会いがあった。それを書く。発題者のひとり梁官洙氏と十六年ぶり に顔を合わせたのである。 一九八六年に韓国の民主派作家・黄晳暎(ファンソギョン)が来日して、〈在日〉の青年 たちを糾合し、マダン劇の上演活動を行った。それは東京と大阪で公演されたのだが、黄 晳暎氏は名古屋にも来て講演会を開いた。わたしはそれに付き合い、カトリック教会の施 設で持たれた打ち上げの会にも加わった(「客地」「韓氏年代記」「洪吉童伝」「武器の 影」などで知られる黄晳暎は、のちに北を訪問して南の政権に追われ、半ば亡命のような 状態でドイツに在住したあと、帰国して投獄された。現在は自由の身で日本にもしばしば 来ているらしい)。 黄晳暎氏がマダン劇運動などで日本に来ていたとき、通訳として行動を共にしていたの が、梁官洙氏である。当時三十歳台なかばで大阪市立大学に留学中だった。わたしの記憶 では、会ったのは名古屋での講演会と大阪でのマダン劇(ハンマダン)公演など数回にす ぎなかった。それでも民主化運動圏にあって日本へ逃れた留学生の暗い影をどことなくひ きずっていて(今回の再会でそれが半分、思いすごしであったとわかったが)、気になる 人物だった。 シンポジウムの席で、どこかで会った顔だなーと思いめぐらすうち、名前と顔がむすび ついた。それで発題のあとのフリートークで指名されると、わたしは再会の喜びを口にし た。彼は最初キョトンとしていたが、話を聞くうち思いだしたようだ。わたしが板門店訪 問の感想など述べて席にもどると、なつかしげに握手を求めてきた。 翌夕の送別晩餐会に彼は顔を出して二人で飲もうということになった。結局は、統一マ ヂの若いスタッフの労をねぎらう二次会に同席。黄晳暎が来名したときのエピソード「シ ガレットケース事件」など語り合って懐かしがった。「シガレットケース事件」というの は、講演会が終ったあとの交流の席で、当時笹島の寄せ場から「人間宣言」を発して指紋 押捺を拒否していた權政河(クオンチョンハ)が、贈り物としてシガレットケースを黄晳暎 に進呈し、その中には労働者の仲間が出し合ったカンパが入っていた、というものである。 のちに文芸誌『群像』で李恢成と対談した折、黄晳暎はとても感激してそのエピソードを 語っていた。 日雇い労働者であり詩人でもあった權政河は先年、わたしより数歳下なのに孤独な死に 方をし、仲間だけで質素な葬儀が行われた。 そんな想い出を語り合ううち、わたしと梁官洙は実際の仲以上に懐かしさを共有したも のだ。そして夜おそく別れぎわにわたしは、学者として不遇だった彼が客員教授とはいえ 高麗大学校という恰好の大学に職を得たことを喜び、彼もその言葉を素直に受け入れた。 妻子が大阪に住んでいて、月に一度くらい日本にもどるという彼とは、また会う機会があ るだろう。 鉄原の地雷地帯を行く 三月二十二日(三日目)は、江原道の鉄原(チョルウォン)を訪ねる休戦ラインツアーだ った。鉄原は朝鮮半島の三大穀倉地帯であると同時に、六・二五(ユギオ)(朝鮮戦争)の 際には最大の激戦地となったところである。 案内役を努めてくれたのは、前日につづいて写真作家の李時雨(イシウ)さん。李時雨さ んには写真集『非武装地帯 思索』『対人地雷』(いずれも一九九九年出版)があり、ハ ーグ万国平和会議招待写真展やドイツ韓人会招請写真展に出展している。一方で統一マヂ 文芸部長、平和芸術人国際連帯事務処長などを努める、社会参与派の写真作家である。一 九六七年生まれという若さながら、韓服姿の端正な風貌からは落ち着いて爽やかな人柄が にじみでている。 李時雨さんのプロフィールをいくらか詳しく紹介したのは、彼のガイドぶりがじつに的 確、誠意にみちていて、一行の共感を呼んだからである。 バスが、これも南北で分断されている京元(キョンウォン)線(ソウル~元山)の列車を 垣間見ながら北へ行く。鉄原一帯にはいると、灌木林におおわれた無住の地帯がつづく。 そこは旧民間人統制地域(民間人の立ち入り禁止地域)で、対人地雷があちらこちらに埋 まっている。道路に沿って大きくない川が流れており、その川底にも地雷が埋まっていて、 住民が脚を吹き飛ばされたという。朝鮮戦争から五十年、山地の地雷が豪雨で流れこんだ ものらしい。 かつて南北を貫通する四つのトンネルが発見されたが、一九七五年三月十九日に発見さ れた第二土窟(トンネル)あたりをバスが通過する。非武装地帯にあるそれは、一時間に 三万名の武装兵力と車輛、野砲、タンクなどを移動させられる規模という。一九七二年の 7・4共同声明以後の和解ムードのただよう時点で、発見と発表の時の食いちがいから誤 解と諸説が乱れとんだらしいが、「今は、どこで、誰が、何のために造ったかを論じるこ とは重要ではない。地雷を踏まずに南北を往来できるこのトンネルこそ、統一のために“平 和利用”すべきである」と、李時雨さんは明朗に言った。 鉄原といえば穀倉地帯とはいえ、かつてはちょっとした町があったはずなのに、小さな 集落さえ見えないのが不思議だったが、その謎が解けた。朝鮮戦争の激戦地として徹底的 に破壊され、いまも対人地雷の埋没地であって、町はよみがえることができないのだ。そ れで町はいま新鉄原として東の方向に移っている。 わたしたちは、人里はなれた月天里(ウォルチョルリ)という小さな駅で、爆破されたま ま歳月をしのいでいる貨車を見たあと、さらに六・二五の爪跡をたどっていった。鉄原第 二金融組合、日帝時代の製氷倉庫、農産物検査所、労働党舎などの跡であり、それらは建 物というより残骸といった姿で残っている。 なかで労働党舎は解放後まもなくの一九四六年、地上三階の鉄筋を使わないコンクリー ト造りで立てられたもので、ソ連式工法によるという。近くの住民たちが寄金を募り、労 働力を動員して建てたという。その入口には説明板があって、「この建物は北朝鮮労働党 鉄原軍堂として国民を絞り取る所であった」と書かれているが、それは「事実を歪曲して いる」というのが李時雨さんの意見だった。李時雨さんは労働党舎について、資本主義国 にある社会主義の建物として世界で唯一のもの、という言い方をしたが、正確な意味を問 い直す機会を失した。 いずれにしても、鉄原を訪ねてつくづく感じるのは、その地は現在も「戦後」のまった だなかだということである。六・二五は今日のこととして記憶されているのである。白馬(ペ ンマ)高地(三九五高地)戦闘の戦跡碑もその一つである。 朝鮮戦争最大の激戦地となった白馬高地は、休戦ラインの北側にある。中共軍第 38 軍と 韓国軍第9師団のあいだでくりひろげられた戦闘は「高地の主人が二十四回も入れかわる」 ほどの血戦だったという。激しい砲撃で大地の破壊される光景を空から見ると、まるで白 い馬のようだったとして「白馬」と名づけられた。 休戦ラインツアーでは観光もかねて、孤石亭(コソクチョン)と到彼岸寺(トビアンサ)も 訪ねた。孤石亭は高麗時代に創建され、李氏朝鮮初期に林巨正(イムコチョン)が活躍して 多くの伝説が伝えられる地という。到彼岸寺は統一新羅の時(八六五年)に建造されて、 毘舎那仏坐像(国宝第 63 号)と花崗岩でできた高さ四・一メートルの三層石塔がある。 同行の眞寛(チングアン)スニムが本堂で経を上げてくれた。三千里鐵道の成功を祈願す る言葉の入ったものだったが、どこかパンソリをおもわせる読経だった。韓式の僧衣をま とった風姿はいつも飄逸として、ニコニコと笑みをたやさない風貌は年齢不詳の童顔。ど ことなくドストエフスキー『白痴』の主人公ムイシキン公爵を連想させて「聖」なる人で ある。粗食を旨として、宴席でも酒と馳走には手をつけない。しかし民主化運動圏では一 種名物的な人物であって、監獄を出たり入ったりし、統一運動のために北へ行き、金大中 政権にたいしても辛口のものを申す。したたかに戦闘的で「俗」に徹するのである。つま り、「聖」と「俗」無辺の人なのである。非武装地帯を訪ねたときも、立ち入り禁止の「自 由の橋」の間近まで行って、橋の向こうで制止する兵士と悠々と何やら話していた。 眞寛師とはじつは今回の訪韓で四度目の出会いである。最初は一九九八年、「四・三事 件」の五十周年を期して済州島で開催された、第二回「東アジア平和と人権」国際シンポ ジウムの時。次は昨二〇〇一年、三千里鐵道が名古屋市公会堂で催した、南北共同宣言一 周年記念祝祭の折。三度目は今年二月、訪韓一か月まえに京都で開かれた第五回「東アジ ア平和と人権」国際シンポジウムにおいて。会うたびに交わす言葉もふえていく。今回は 眞寛詩集『過ぎゆく歳月』を頂戴した。 話をもどすと、休戦ラインツアーで訪ねた到彼岸寺で、わたしはハングル文(もちろん 漢文が付されている)の経書を頂いた。 감사합니다 統一マヂ 心地よく疲れてソウルにもどると、夕方からは鐘路仁寺洞(インサドン)の「知異山(チリ サン)」という名の韓式食堂でお別れ晩餐会。世話になった統一マヂにたいする三千里鐵道 からの答礼である(念のために断っておくと、ツアーのあいだのこれら出費の一切は参加 者の旅費によってまかなわれたのは言うまでもない)。 朴容吉師母(パクヨンギルサモ)ニムはじめ統一マヂの関係者と三千里鐵道側の参加者一 人一人が、韓国料理を愉しみながら挨拶を述べた。わたしは日本語と韓国語のバイリンガ ルで自作の詩を朗読した。 送別晩餐会が今回の DMZ セミナーツアーの閉幕行事だったが、そのあと有志がホテル近 くの食堂で二次会。統一マヂの若いスタッフの労をねぎらう席でもあった。歌と踊りで愉 しい時間はまたたくうちに過ぎ、夜はふけていった。 翌三月二十三日は、仁川国際空港からフライトまでの時間を利用して、ソウル見物。と はいっても、韓基徳さんと小学校を卒業したばかりの息子・萬海(マンヘ)君の案内で景福 宮(キョンボククン)と西大門(ソデムン)刑務所歴史館を訪ねるのがやっとだった。それで も訪韓の折にゆっくり見物を楽しんだのは、麗水(ヨス)からソウルへのぼる全羅(チョル ラ)線の一人旅をしたきりなので(タプコル=パゴダ公園や南大門(ナンデムン)市場、教保 文庫(キョボムンゴ)(書店)などには数回行っているが)、ありがたかった。 西大門刑務所は解放後、ソウル教導所、ソウル拘置所と名称変更され、一九八七年には 京畿道(キョンギド)義旺(ウイワン)市に移転した。ソウルの跡地はいま歴史館として、日 帝時代に官憲によって独立運動家や民衆の弾圧に使われた施設が、そのまま残されている。 暗い獄舎の独房や雑居房(拷問の場面や収監者の姿が等身大の人形によって再現された房 もあり、そのリアルさに震撼させられる)、ハンセン病舎、絞首刑が行われた頃そのまま の死刑室などを見てまわる。 ここは胸に焼きつけておくべきところだ、と思う。そして、徐勝氏も獄中十九年の一時 期ここにいたのだ、と思った。 午後七時、夕やみの降りた広大な仁川国際空港を、大韓航空機は名古屋へ向けて飛び立 った。機中にあって、JSA ツアーで体験したさまざまとともに、西大門刑務所の印象がひと きわ鮮明に蘇った。 (二〇〇二年四月十九日記) 道の下で 草色と愛・これが宇宙か――黄チウ「発作」から 作 ソン 宋 ギ 基 スク 淑 (訳 加 藤 建 二) どんなに首を巡らしても昨年まで通っていた昔の道路が見えなかった。高速バスは新し く出来た四車線の高速道路を飛ぶように走り、金周鎬(キムジュホ)氏はガラス窓に顔を触 れ、昔の二車線の道を探して目を光らせた。時々、遠く近く昔の道路が一、二箇所見えた が、その道路が一般道路へ続いているのか、そのままなくなっているのか、そんなことを もう少し見ようとすると、たちまち道が高く上がったり、ガードレールが視野を塞いだり した。海雲寺(ヘウンサ)へ通うため一年に二、三回ずつ四十余年通った道だった。その二 車線の道路を通り、この高速道路の工事をしているのを見る時は、工事地域がほとんど険 しい山岳地帯なので、あちらへ行けば高い山で、あそこははるかな渓谷なのにどうしよう と思ってあのような所を崩すのかと首をかしげたことが一度や二度ではなかった。 ところが、陰暦十五日前に初めてこの高速道路を走ってみると、トンネルを過ぎ渓谷を 越えてまっすぐに伸びた道がありきたりの一本道ではなかったし、このような道がずっと 昔からこのように予定されていて、今はじめて姿をさらけ出したようでまったく不思議だ った。しかし、今日はそのように昔通っていた以前の道路が見えなくなるやいなや、どこ かあの世で空でも飛んで行くように少し荒唐無稽かもしれないが、今まで海雲寺へ行くた びに抱き通っていた正直な心を捨て、不真面目になって行くようで少しだらけた気分だっ た。 バスが止まった。このバスは高速道路を走るが、高速道路のあちこちにある簡易停留所 に止まる一般高速だった。海雲寺近くの鈍行バスの停留所は高速道路のすぐ下にあった。 金周鎬氏が毎年、海雲寺に通って行う仕事は二つだった。ひとつは便所を掃除する仕事、 言うなればトイレ掃除であり、もうひとつは自分の祭祀を執り行なうことだった。便所掃 除はこの前の秋にしてしまい、今日は祭祀を執り行なうために行く途中だった。今年から は仕事がさらにひとつ増えた。寺の近くの長く放置してある荒畑を掘り起こし野菜畑を栽 培しはじめたのだ。 バスが来た。田舎のバスらしくゆっくりと来て、ゆっくり止まり、ゆっくりと出発した。 「南無観世音菩薩」 椅子に背をもたせかけるや、思わず念仏が漏れ出た。五十余年前、兵隊をいっぱい乗せ た軍トラックが、ある夜中に断崖から小川へ転落した事件が思い出されたのである。ドシ ン、ドシン、ドシン。 海雲寺で久しぶりに腹いっぱい食べて熟睡していると、非常召集がかかった。その前、 運転兵であった金氏は小隊長と選任下士がささやく声にびっくり驚いた。ここから十里程 になる村にパルチザンが十余名も潜入したというのだ。それなら、自分の外三寸(母方の 叔父)が頭目である彼の地域出身のパルチザンであることは目に見えている。そこには自 分の兄も加わっていた。暗がりのなかで低い声で小隊長の支持が慌ただしく往き来した。 一個小隊の兵力が全部出動する模様だった。兄たちはほとんど皆殺しに合うところだった。 この仕事をどうするか、行く途中でトラックをどこにぶつけてしまうのか? そうだ。ま さにそれだ。それしか方法はない。ぶつけてしまうお誂え向きの場所まで浮かんだ。拳を ぎゅっと握った。 今止まっている出動地点から少し行って坂道を十余メートルほど下りて行くと、道がほ とんど直角に折れ、その下は三、四尋も深い断崖だったし、そこからしばらく下りて行く と、小川が道の脇へぐっと近づき底が浅くなる。底へぶつけるつもりだった。それならば、 兵隊はたいして怪我をしないし、車は自分ひとりの力で動かすことはできないだろう。 事故原因は不注意であり、運転不注意は過失罪にすぎない。私は運転教育も速成だった し、運転経歴もほとんど一ケ月、その上にジープを運転していて、トラックは三日前にこ の部隊へ転属して来てはじめてだった。懲役に服せばどのくらい過ごすのか? 歯をくい しばった。運転席に上るや、胸はどきどきし体が空中へ浮かぶようだった。慌ただしく飛 んでいる黒雲の間に、ちらちらとかすめる月が、兄と叔父の方角へ息苦しくなるほど走り 出していた。 「出発!」 小隊長と選任下士が助手席に飛び上り声をあげた。ギアを入れアクセルを踏んだ。ブル ルン。車が動いた。胸の奥で心臓がはずむ音が耳に聞こえるようだった。坂道に入る瞬間 だった。小隊長が肩をぽんとたたいた。はい? びっくり仰天した。本心がばれたみたい だった。この野郎、注意せよというのだった。はい、はい、大声で答え、とっさにブレー キを踏んだ。ブレーキが入らなかった。あれ、間違って踏んだのか? 足を動かし力いっ ぱい踏んだ。ブルルン、車が激しく走り出した。ああ、この野郎、小隊長と選任下士の叫 び声が張りさけた。ありったけの力を出し再びブレーキを踏みハンドルを切った。しかし、 トラックはすでに空中に浮き、ハンドルを切るにはトラックの一方が崖へよろよろ傾いて いた。ドカン、ドカン、ドカン。 小隊長と選任下士をはじめとする五人が即死し、半分以上が重傷だった。金氏は脛骨が 折れたけれども、そんなものは重傷の部類にも入らなかった。どえらい事故だった。病院 は修羅場だった。張りさける叫び、消え入りそうな呻き声。その時、悲鳴のような叫びと ともに金氏の頬から火が出た。おまえも死ね、この野郎、死ね、死ね、死ね、金氏はその 兵をしっかり見つめて顔を殴るに任せていた。私がこのようにどえらいことを起こしたの だから、エンジンでも止まるように息がコトッと止まってしまい、体は水蒸気みたいに蒸 発してしまえばよいと願った。 金氏は負傷者たちを避け隔離収容された。その日の夕方だった。警護している憲兵たち が入ったというのは嘘の情報だったというのだ。嘘の情報? にこの多くの人たちがこのざまになったというのか? それでは真っ赤な嘘の情報 いや、結局はこの私がそんな嘘の 情報に驚き、このように多くの人を殺し片輪にしたのではないか? 車が転落したのはブ レーキのせいだったが、それは私が正気でなかったためだ。トラックを小川にぶつけてし まおうと決めた後から、あまりに怯え軍靴の紐を結びながらもずるずる引きずり、運転席 に上がり脇で話す小隊長の声も分らないほどだった。ブレーキが入らなかったのも異常な ことだった。前日の夕方に警備兵が準備をしてから出動地点へ移動する時まで完全だった し、その後には動かしたことがなかった。怯えてブレーキを踏みそこなったのか? そん なふうではなかった。どうであろうとも私がそのように慌てなかったなら、断崖へ落ちな かっただろう。反対側の丘にぶつけてしまうことが出来たのだ。死ねと怒鳴りつけていた 兵士の悪態が蘇った。 そうだった。自殺しか道がなかった。生きている人間をこのように多く殺しておいてブ レーキがああだ、こうだとしらばくれることが出来なかった。捜査官はだませても自分自 身をだますことが出来ないと思った。幼い時見たある冬の田の畝の雉が浮かんだ。田畑を 冬に荒く鋤き返しておいた田の畝で、餌を探している雉に向かっていきなり石つぶてを投 げて追いかけた。雉は急な攻撃にぱっと翼を羽ばたき田の畝へ逃げ、あまりに慌ただしく て大きな土の塊にぱんと羽根を打ちつけてなすすべもなかった。狭い畝の溝なので羽根が 両方畝にぶつけて飛び上れず、自分では隠れているかのように翼を打ちつけていたのだっ た。 自殺の決心を固くすると、心が少し落ち着いた。すぐに捜査が始まったが、自殺する機 会ばかりうかがっていたので、捜査には関心がなかった。捜査官はびしびしと厳しく追及 したけれども、ブレーキが入らなかったということは言わなかった。そう言ったならば、 整備兵まで捕らわれ罰せられるので、どうせ死ぬことに決めたから、整備兵まで引き込み たくなかった。整備兵は整備を間違えたと言えば、それは失策だっただろうから、彼の失 策まで自分が抱えたかった。 治療がまずまずになると、憲兵隊の営倉へ移送された。紐まで準備しておき自殺の機会 をねらったが、容易ではなかった。営倉の憲兵たちの警護任務は脱獄の他には自害と自殺 の防止が重要な任務だった。命を断つことぐらい自分の決心ひとつにかかっていると思っ たが、そうではなかった。死ぬ機会を得ることがこんなにも難しいとはまた驚くべきこと だった。 そのように二月が過ぎる頃だった。ある日、急に生きたいという思いが起きた。その欲 求があまりに切実だった。罪の代価はまず懲役で支払い、生きながら何度も何度も支払お うと決めた。懲役は二年が宣告されて二年間を謹ましく暮らし不名誉除隊した。しかし、 兵隊たちのその呻きとわめき声は容易に消えなかった。軍トラックを見るだけでも鳥肌が 立ち、夢の中でも真っ赤に血をかぶった兵隊たちが呻き声をあげ、しきりにもがいた。十 余年が過ぎる頃、歳月も薬であろうと思い結婚をした。けれども、そうではなかった。初 夜にいきなり、ドシン、ドシンと音が耳をつんざき下半身がぎゅっと縮こまった。溜息を つき目をつぶり、新婦は涙を流した。自分の周りのどこかにすくんでいた無実の罪で死ん だ魂がそのように飛びかかったと思った。 走って家を出ると、あてどもなくさまよった。土木の現場で力仕事をしたり、伐木の人 足として山中奥く閉じ籠もったり、鮟鱇網の漁船に乗り果てしない海に閉じ籠もったりし て、身を削ることを一年以上もしたある日であった。酒の盃を前に置き、はるかに吸い上 げた煙草の煙の中に急に海雲寺がゆらめいた。海雲寺、そこはどこへ行ったとしてもその 方角に向かっては顔を向けることが出来なかったところだった。しかし、今行くところは そこしかないようだった。行ってどうしようといういかなる方途も浮かばなかったが、そ こへ行ってこそどうであれ、何か決まるようだった。しかし、一方ではそこへ行くとただ ちにガラガラと雷でも落ちるようで、すばやく足が踏み出せなかった。何度もためらい思 慮し、屠殺場へ入って行く牛みたいに後ろ髪を引かれながら海雲寺へ向かった。 海雲寺は道も森も、昔の姿そのままであった。自分では恐ろしかったつもりが、足取り は軽かった。トラックが真っ逆様に落ちた断崖が近づいていた。胸がどきどきし地獄を見 下ろすように断崖を見下ろした。トラックが脇を打った岩は昔の姿のまま小川の真中にも ちこたえていて、その両方へ小川の水が清らかに流れていた。遠く一柱門が見えた。胸が どきどきした。門の前に着いた。さらに足が踏み出せなかった。しばらくうろついた。恐 ろしさよりも許しもなく他人の家へ入っていくようなそんな気分だった。寺は誰でも入っ て行く所ではないのかと思ったが、同じことだった。けれどもここで戻っては自分はいつ までも人間の役割を果たせないようだという思いだった。今みたいに当てもなくさまよい、 どこかのゴミの山や深い山裾の石の小山のようなところで、ちまたの亡霊になってしまう ようだった。 煙草ばかりすぱすぱ吸いうろつき回り、道端の岩に尻を下ろした。ぼおっと座り空に消 えて行く煙草の煙だけを心空ろに眺めていた。その時、騒がしい笑い声とともに幻想のご とく、おかしな光景が目に入って来た。酒にひどく酔っぱらった人々が、あちらでげらげ ら笑い鉄の熊手鍬で何かを取り出していた。金氏の目に力がこもりはじめた。昔、ここで 数日間駐屯した時の記憶が浮かんだ。我知らずすっくと立ち上がった。近づくや汚物の臭 いが鼻を刺した。化粧室から汚物を取り出していた。 この寺は大きな寺で化粧室の規模も大きかったが、規模よりもその構造がありきたりの 鼻がひりひりした作りではなかった。誰でも化粧室へ入っていく時はありふれた化粧室だ からと何気なく入っていき用を足して出る時、不思議な目で再び後を振り返って見て、つ くづく見つめた人々は建物の構造に何度も感嘆を繰り返した。 仕事は三人がしていた。一人は僧服を着ていたが、髪を伸ばした寺男のようで、別の二 人は雇人(やといにん)のようだった。彼らは化粧室の底の中の方に積み肥のごとく積んで いる汚物を平地へと取り出していた。汚物はどえらく積まれていて、彼らは汗をたらたら と流しながら取り出していた。 「私もちょっと手伝いましょう。すぐやります」 金氏はくわえていた煙草の吸いがらを勢いよくぽんと投げ捨て上着を脱いだ。脇にある 熊手鍬を握ると雇人たちはおかしな目で金氏をながめた。 「はっ、はっ、どこかで罪をたくさん犯して来た人みたいですね。この仕事は誰でもやる 仕事ではありませんよ。たちまちこの毒の臭いにやられて鼻血を吹き出します。そんな正 直な心なら、どうせ寺にまで来なさったのですから、仏様の前に出て供養でもあげなさい よ」 かなり年を取っている雇人がげらげら笑いながら剣突くを食わした。 「供養は供養で、ようし、一度やってみましょう」 さらに乾かす間もなく、そのまま熊手鍬で汚物を刺した。臭いがぷんと鼻を刺した。鼻 を刺すという言葉が文字通り刺すというように、臭いがひどければひどいほどこれこそが 自分がやる仕事だと思った。一息つく間もなく粘り強く熊手鍬を突き刺し引き寄せた。雇 人たちはしょっちゅう、くっ、くっと笑った。どこまでやれるか見てみようという調子だ った。しかし、いつの間にか笑い声がだんだん減っていきはじめた。がむしゃらもがむし ゃらだが、彼らのリズムに合わせ仕事をする腕前が臼をつく手がしきりに出入りするよう にしているので、いい加減の人でないなあと思った様子だった。 寄宿舎棟と道を間におき、険しい丘に場を占めた便所は、その構造を上から見ると、軍 隊の野戦病院の形に三面だけの升形を仕切った衝立てが男女用を合わせて二十余個だった。 汚物は三、四尋下の建物の後柱の礎石と平面を成している底へ落ちて、その底は礎石の外 の平地へ広く続いていた。その平地から建物を眺めると、用を足す衝立ての底の一段下は 建物の後方がすべて広く開けていた。人々が用を足すところはこのように上下四方が涼し く開け、谷間から吹いて来る風がそのまま建物を通過するので風がほどほどに吹いても、 尻がちょっとやそっとの涼しさではなかった。底に汚物が溜まるとその度に草を刈りかぶ せるために、下から吹いて来る風に臭いはそのまま飛んで行ってしまい、汚物は汚物のま ま乾き堆肥になった。それを一年ずつこのように取り出し、からからになったならば、堆 肥としてこれほどめぼしい堆肥はないということだ。からからに乾くので畑へ出すことも やさしいけれども、昔の寄生虫が多い時も寄生虫の卵はほとんど乾いてしまったのだと言 った。 だから、この建物は化粧室であるよりも便所と言ってこそふさわしかった。それでそう したのか、化粧室という表札の言葉と違い、古びた板に昔の形のまま右側から左側へ「便 所」と書いた表札を別にひとつつるしていた。当たり前に用を足した人たちは、建物の独 特な構造に思わず首を回し「便所」と言いながら、歩みを止めるのは当然であったし、大 人たちは大人たちなりに子供は子供なりに「便所?」「便所?」「便所?」と言いながら、 首をかしげて笑い、またしばらく騒がしかった。 「休んでやりましょう」 寺男が声をあげた。みんな汗をぬぐい道具を置いた。 「あなたは、どこでこんな便所掃除をして来たのですか。転がって来た石が差し込まれた 石を取り除くというコンナありさまでは、われわれはこのとるに足りない仕事がなくなる 羽目になりますわ」 年を取って落ちついた人が高笑いを噴き出した。寺男はこの小さな盃はあなたがまず飲 めと言いながら、金氏に焼酎杯を押しつけた。金氏は手を振って遠慮したが、相手は必死 に突き出した。 「便所掃除をするのに、お客をもてなすことが仏様をもてなすよりも難しいなんて。地獄 にお出ましになった地蔵菩薩でもないのに、この世にはあなたみたいな人もいるのですね」 金氏は茄子畑に入った野郎みたいに、ぎこちなく酒を受けた。 「あれ、血!」 盃を口に持っていこうとした金氏はびっくりした。澄んだ焼酎の杯に血のしずくが赤く 広がった。みんながげらげら笑った。寺男が素早く彼の顔を空中に後にそらせ後頭部をや たらたたいた。雇人の一人は蓬をむしり丸めてさし出し、別の一人は汚物から白いちり紙 を選び、きれいなところだけ選び鼻の周りをぬぐってやった。 「松毛虫が落ち葉を食べてもむやみに食べると、地の神の怒りにふれて災いがそんなふう にひどく招くのですわ」 「そうです。落ち葉も落ち葉ですが、酒を飲みながら便所の古顔を知らなかったので、そ の怒りまで重なったようです。牛の角もそれぞれ念仏も一人分ずつだから、自分の分とし て厄払いをしなければなりません」 金氏はおしゃべりをふりまきながら焼酎瓶をもって再び注いだ。 「便所の古顔様、私の挨拶が遅れました。どうか酒を受けて下さい。コスレ(厄払いの呪 文の言葉)!」 堂々と皮肉を言いながら、あちこち一様に酒をふりまいた。すれすれの弾丸に当った猪 みたいに事の正否を問わず、うまく立ち回る人みたいに自分が出した思いつきに手際がな かなかよいと思ったのか、みんな黄色い歯をあるがままむき出し笑った。金氏もひさしぶ りに明るく笑ったことも、家を出て初めてだった。彼は翌日、最後に蓬を刈り、それを便 所の底に敷く時まで忙しくてあがきが取れなかった。仕事を終えると、なんとなく腹わた の中に積もり積もり溜められていた汚物でもきれいにさっぱり洗い出した気分だった。 金氏は便所の仕事が終わった後に、寺男に従いややうつ向いて薪を取って運び、薪も割 り、夜明けとともに起き、寺の隅々まで掃き、口の中で舌が動き回るように仕事の選り好 みをしなかった。後には寺の女や寺の家族たちの覚えが重なり、夜明けの礼仏にも出て、 彼らの脇に慎ましく立ち控えて礼仏の真似もした。そのように一月近く過ごす間に、寺の 様子もはっきりと見当がつくようになった。あの先この先やたらにからみ合う思いに夜中 まで寝そびれて、日ましにひときわ段々迫り入る風鈴の音にひとり外へ出た。草の虫も息 をひそめたある夜中の寂寥の中に一ヶ所、法堂だけ穏やかに明かりをつけていた。仏様が こちらへ来いと手招きでもするようだった。手招きに導かれるように、わくわくする胸を 抱きゆっくりと法堂の前へ行った。横門の大ぶりな取っ手を引っぱった。重く門が開かれ、 仏様は静かに座っていた。その前にしばらく立っていてからひざまづき、おとなしく腰を かがめた。その瞬間ちょっと前に三千拝をしていた人間が浮かんだ。次に続けざまお辞儀 をしはじめた。 これまで礼仏に出て礼をしながらも、小犬が山ブドウを食べるようにうわの空で真似だ けをしていたので、手の動き、足の動きがきちんと礼節に合うのかよく分からなかったが、 お辞儀をし終えて仏様を見上げると、そのたびにきちんとお辞儀を受けてくれているよう でお辞儀が安心できた。しばらくお辞儀をしてからそちらへも心が入り、お辞儀をするた びにお辞儀の数を数えはじめた。百回、二百回、三百回を越えるや、足がもつれ腰が曲が るようだった。歯をくいしばり、さらに真心をこめて手をそろえ腰を曲げた。夜明けの礼 仏が終わり、再びはじまる時は寺男と老女信徒が世話をしてくれた。彼らが面倒を見てく れると、新しく力がわくようだった。乳を飲む力まで絞り出し体を起こし腰を曲げた。ま るで悪鬼たちが足首をつかみ地獄へ引っ張るようだったが、その地獄から這い出るように 粘り強く三千拝を終えた。全身の関節がばらばらに離れたようで、体はまるでたっぷり水 を含んだ洗濯の固まりみたいで大変な重さだった。それでも、一つの役割を果たしたとい う思いに圧倒された心は、水面の上の落葉のごとく軽かった。 ぐっすり眠った。体がほぐれて久しぶりに家のことが思い浮かんだ。本当に久しぶりだ った。そうしてみると、家に一年以上も知らせひとつ伝えなかった。新婦はずっと前に実 家へ戻っていただろうが、家族たちにはまたどれほど心配をかけたか? いろいろの思い がもつれ心が慌ただしくなった。十日泊まった旅人が一日でいける道のりを急ぐように翌 日、朝早くに旅に出た。 家族たちは死んでいた人間が生き返ったように驚き、その時までまっていた新婦は魂が 脱け出た目でまじまじと見ていてから顔をおおい台所へ走って行った。家族たちはこれま で元気だったか、どうしてこんなに知らせ一本なかったのか、いつまたすべてを振り切っ て出かけるか心配で、こそこそ顔色だけうかがいながら荒探しも称賛もなくいつも遠回し ばかり言った。金氏はいじければ簡単な言葉もきちんと言えない人なので、捕えられて来 たヒキガエルみたいに目ばかりぱちくりしていた。 夜になり妻と一部屋に入ると、互いに離れ放れになっていた体が他の一方でも求めるよ うに、あふれる涙を持て余し抱き締め、何度も繰り返し抱いた。曲折があまりに大きかっ た後なので、絡み合う雲とこぼれる雨の調和が夏の一日の夕立のごとくぬかるんだ。 金氏はその後も毎年、海雲寺の便所の仕事を継続した。すでに三十余年の間一年もあけ ず、その仕事には広く要領を得て寺でもその仕事ならば、底の抜けた釜を置き鋳がけ屋を 待つみたいに、彼が来る時まで仕事を譲り置いた。便所掃除をしはじめながら金氏はその 時、無念に死んだ兵士達の極楽往生を祈る祭祀の礼仏もあげはじめた。祭祀は寺で簡単に 用意した供え物と調えておき、一晩中ひとり礼仏をあげることだった。その祭祀が今日だ った。事故が起きた日は数日前だったが、事故二、三日後まで兵士が死んだので祭祀の日 をそれぐらい遅らせて決めたのだ。供え物は老女信徒に電話で頼んでおいた。老女信徒は 最近ただひとり金氏の言葉であれば、むやみにはい、はい、と従った。前もそうだったが、 ちょっと前に野菜畑を栽培してからはなおさらだった。 ある時、坊さんが天命も過ぎたというこの寺は昔は私田も私田であったけれども、寺の 周りの山裾に野菜畑も広々として季節に従い、いろいろの野菜は勿論、秋のキムチまで多 くの僧侶たちが食べても残ったというのだ。しかし、近頃は広くてよく肥えた土地は廃家 の庭同然の雑草ばかり生い茂っていた。十余年前といっても大根や白菜を等しく育てても、 近頃はお坊さんが手に土と言えば、追いも若きも首を振り嫌がり、雇人も賃金に飯酒にそ の金もままならず肥料代や農薬まで計算すると買って食べる方がかえってよいというのだ。 けれども、農業が手慣れた金氏は前からでこぼこの山裾ごとに放置されている荒畑に目が 引きつけられた折に、老女信徒があのよい土地があるのに、白菜の浅漬けのチシャ一握り まで農薬に浴びた市場の物がおいしかったかと繰り言をいう声に早速、道具を担ぎ出たの だ。昔食べていた土地なので道具に手を出すや、アズキのつぶあんのごとく柔かい土がも て遊んでほしいかのように柔かいから、チシャが土の神に乗り移ると声でも張り上げるよ うにはね上がった。 バスから降りると、夕立が一雨過ぎるので商店で雨宿りをした。雨脚がかなり強かった が、すぐに止んだ。 「処士さま」 背に学生鞄を担いだ六つか七つの童子僧が金氏を呼びながら彼の下へ走って来た。白い 丸坊主に僧服を着た童子僧は、いくらか映画や絵に出てくる童子僧の形そのままに、肌の きめがすべすべで顔もいたいけで清らかだった。 「あれ、月浄(ウォルチョン)か。ちょうど私の月浄童子僧がまず最初に喜ぶと思って来た ところだ」 「お元気でしたか。南無観世音菩薩」 月浄は今更のように両手を合わせて合掌をしつつましく頭を下げ、金氏は寺に変わった ことはないかと言いながら、月浄の頭を撫でてやった。月浄は何事もないと言い、ちょこ ちょこと前へ立った。 この子供はここの住職がどこかの旅館から夜明けの道に出て、ある家の大門の前でへそ の緒も切り離さない赤ん坊を拾って育てた子供だった。そんな子供にしては顔が清くて賢 いことが並の子供ではないので、僧侶の間に可愛がらない人がいなかった。学校でも先生 は手厚く大事にするようで、同じ年頃の者ともよく一緒になって時々、十余名が群れにな り前後の山に押し寄せひどく汚したり、どやどやと押しかけ寺で飯を食べもした。 「居士さま、あれをちょっと見て下さい。この間、大学生たちが道端の木にみんなあんな ふうに名札をつけて回ったんですよ。あちらの岩の上にひょろりと高い木はガマズミ(ス イカズラの落葉低木)、その後に背の低いのはオヒョウ(ニレ科の落葉高木)、あの上に あれはシロミノイチゴ(バラ科の落葉低木)、あそこにはぴょんぴょんと立っているもの はナツハゼ(ツツジ科の落葉低木)、ここのこれはそのまま木イチゴではなくてビロード イチゴ(バラ科の落葉低木)、あそこに互いに重なり育った木は鉋の台の木、あれは仏様 がその脇で得度なさったという菩提樹」 月浄は上下に指さして木の名をすらすらと呼びつづけた。 「木の名を知るようになると、木たちがみんな急に友達になったようです。私が名前を呼 ぶと喜んでげらげら笑うし、手を揺するんです。あれ、あれはサワクタギ(ハイノ木科の 落葉低木)です。ああ、サワクタギよ。私、私。月浄だ。あれを見て下さい。この垣根へ 手を振っているみたいですよ」 月浄はげらげら笑った。あれはカラコギカエデ(カエデ科の落葉高木)、あれはハシバ ミ(カバノキ科の落葉低木)、あれはツルウメモドキ(ニシキギ科の落葉つる性低木)・・・・・・ 賢い子供で、すでに木の名前をすっかり覚えていた。 「処士さま、これはどんな木か知っていますか? このように小さくておかしな形をして いるが、それでも珍しい木なので、この木にも名札をつけてあるのです。これはマルパル トリナム(コキノシタ科のウツギ属の低木)、名前もおかしいでしょう?」 岩が十分に広くてぼろぼろの朽ちた石の透き間にこせこせと育った木を示しながらくす くす笑った。奇怪な所に狭苦しく育つ木らしく、根元がどれか分からず多くの幹がしぶと く生えていた。 月浄は立て続けに木の名を呼びながら、ある木にどうして他の木に寄りかかるのかと難 くせをつけもし、ある木にはこちらの空いたところへ枝を伸ばせと声をあげもした。 金氏は少し道の下の断崖が近くなると、財布から煙草ケースを取り出した。小川の中の トラックが脇を打った岩に黄鶺鴒が一匹尾をやたらに振っていた。鶺鴒がもう一匹飛んで 来て、歩みを止めた金氏は煙草ケースをしばらく空しく触れてから煙草を一本くわえ火を 付けた。鶺鴒は尾をやたらに振りながらまめまめしく近くに移り行き、金氏の目はしばら く鶺鴒のあとを追っていた。少し放れたところへ行っていた月浄は目を真ん丸にしながら こちらを見ていた。 「あっちの野菜畑に、白菜はたくさん育ったか知らないか」 「たくさん育ちました。信徒老女が間引いてナムル(野菜をゴマ油であえたもの)にして 食べていますよ」 「うん。土地の神がそのように豊かな畑では虫もさほど生じないものだ」 金氏はたちまち歩みがせわしなくなった。 「処士さまがいつも入っていらした部屋には、十日前に供養のお客が一人入っていらした が、今日出て行きなさったのです。今日行きなさるので、昨晩祭祀の礼仏を献げたんです よ」 金氏は法堂と寄宿舎棟を通って来て客舎へ行った。戸の横の板敷きの部屋に鞄一つ置い てあった。今日出て行くと言っていた客が、まだ出発しない様子だった。金氏は部屋に鞄 を投げ置いて野菜畑へ飛び出した。 山の曲り角を回ると、小川の向こうの野菜畑がすべて草色に生き生きしていた。金氏は 口を開けてにこにこ笑った。さかんに水が出る白菜は、さっき降った夕立ちでさらに瑞々 しかった。白菜の葉は葉っぱごとにぽたぽた水滴をつけ、声でもあげるようにすがすがし く咲き出していた。山頂に上がった太陽は、夕立ちの後の脹れた日光を白菜畑にだけ降り 注ぐようで、雨のしずくをつけた草色の葉っぱは、日光をそのまま透過するように透明で 美しかった。白菜畑は前葉も後葉もすべて内側の葉のごとく柔らかで、風が少し強く吹い てもそのまま粉々になるように柔かに見えた。 「おふくろさん、許してください」 うっとりと酔ったように白菜畑を見て立っていた金氏は、低い声で口ごもった。思わず 出た声だった。おどけて周りを振り返ってみて一人笑った。金氏は春白菜の葉がこのよう に美しかったか、これまで初めて見たもののように驚き、その瞬間、急におふくろが浮か んだのだ。亡くなってから、二十余年以上のおふくろだった。 金氏は幼かった時、おふくろをひどく恨んだことがあった。他人の家には瓶置き台や野 菜畑の側に立葵や鶏頭は勿論であり、ある家には木蘭にバラに季節ごとに色々の花たちが はなやかだったが、自分の家にはどこにでもある立葵や鶏頭の一本も植えなかった。母は そんな花は決して眼中にないようであったし、野菜畑の隅に手のひらほどの土地が生じて も、チシャや白菜の類の野菜を入れた。そうした母が無知で貪欲にのみ見えて金氏はいつ もむっとして訳もなく意地を張った。 ところが、金氏がチシャや白菜が牡丹やバラの花よりもはるかに美しいという事実を悟 り、驚いたことがあった。それは丸い石の塊が急に金の塊に変わったぐらいびっくりした ことであった。その時の衝撃は今も忘れることが出来なかった。軍トラックの墜落事件で 憲兵隊の営舎に収監されている時だった。憲兵隊は二ヶ月ぶりにはじめて私に運動をせよ と言い外へ送り出した。初めはギブスをした足を動かしにくかったし、次には一月近く梅 雨に入り、だから二月間も地下室の暗くじめじめした空間に閉じ込められていて、その日 初めて暗い洞窟の中から日光の世の中へ出た訳だった。 松葉杖をつき廊下を過ぎ、ちょうど運動場へ出る瞬間だった。思わずその場にぴたりと 止まってしまった。白い塀の向こうに空を刺すようにひょろりとそびえた柳の木があまり に美しかった。原色で白い壁の向こう、やはり原色で青い空を背景にひょろりとそびえた 柳の木の草色、風に日光をきらめかしているその草色はあまりに美しかった。彼はそのま まぼおっと立ち、柳だけを見ていた。あのみすぼらしい柳のあのありふれた草色が一体こ のように美しかったというのか? 泥んこの小川のほとりの顧みられない土地に背丈がひ ょろりとした木としても貧相で、材木としても使いぶりがないあの柳が、しかも山と野と 世の中を全部おおっているあの草色がこのように美しいことを本当に想像もできないこと だった。 彼は魂が抜け出た人のごとくその場に立ち、柳ばかり見ていた。この世の中に新たに目 覚めたようで、これまですっかり忘れていた何か大切なものを新たに見つけた気分だった。 何をしているかという憲兵の面責にしばらく歩く真似をして、再び柳の木を眺めた。再び 見てもやはり美しかった。花壇には石榴の花とダリアと鳳仙花が咲いていた。そんな花た ちの薄桃色や黄色は草色と比較が出来なかった。その派手な色はかえってみだらにまで感 じられた。みだらさ、これもまた驚くべきことであり、再び比較してみたがみだらだった。 一体このありふれた草色がどうして今このように美しく見えるのか、まったく理解できな いことだった。 彼は松葉杖をついたまま、運動時間の三十分をずっと柳の木だけを眺めていた。部屋へ 入るとその感動が少しおさまりおふくろが浮かんだ。昔、野菜畑に白菜やほうれん草など の野菜ばがり植えていたおふくろを今こそは理解できたと思った。その時、おふくろの目 には野菜や稲、麦のような穀物の草色が鶏頭や立葵は言うまでもなく、牡丹の花やバラの 花よりもはるかにもっと美しく見えたようだった。その上、白菜や大根やほうれん草は子 供たちと食べる野菜だったので、なおさら一層美しく見えたようだった。 急におふくろに会いたかった。おふくろは三、四日の感覚で面会に通っていたし、ちょ うど昨日もやって来た。おふくろの思いとともにそれよりもっと切迫した渇望があった。 生きたいという思いだった。草色、その美しい草色で充満したこの世の中で生きたかった。 こんなに美しい世の中を置いて死ぬということはあまりに悔しかった。生きたいという思 いがこの時初めて起きたのではなかった。この間ににょきにょきと頭にもち上がったが、 その時ごとに駄目だと首を横に振ってきた。しかし、その時からはこれ以上首を横に振る ことが出来なかった。 どこからおっちょこちょいに出て来たのか、リス一匹がトネリコにつき真ん丸い目玉を 転がし金氏を見ていた。 「うん、もっと低い所へ行け、低い所へ。ムササビの毛がおまえたちの種を絶やすとテレ ビで大騒ぎだぞ」 リスは返答でもするように、ぴょんぴょん飛んで枝から枝へ飛んだ。 「今日は。この野菜畑を育てなさる老人ですか?」 その時、洋服がきれいで顔色が明るく見える老人が上の方の小さな寺から下りて来て、 親しげに話しかけて来た。あなたのことをたくさん聞いたと言いながら、某ですと自己紹 介をした。 「あなたは寺で布施をしてもたくさんしていらっしゃるのですね。私と年齢が同じくらい だが、便所掃除ばかりそんなに辛く体を動かしておられるのには本当に驚きます。是非一 度あなたに会ってみたかったのだが、このように訳なく会えたならば、もう一日ぐらい泊 まっていくのに。まったく、ほっ」 月浄が言った老人らしかった。 「私もこの寺とは妙に縁があって、おおかた十日間仏様の前で懺悔をしました。実は今そ んな縁があったようで、尼僧のいる寺までお別れの挨拶をして戻るところです」 洪氏もこちらの岩に座り尋ねた。 「ほっ、ほっ、私の体の事情がそんなふうになってしまいました。ガンという奴が私の肝 臓にでんと花びらを広げてしまったのです」 洪(ホン)氏はほっ、ほっと笑った。急な話に金氏は呆然とした目つきで洪氏を見ていた。 相手はいたずらぽく大したことないように笑ったが、笑い声には濃い空虚さがにじんでい た。そのように見るとそうかと、さっきちらりとよく見えた顔色も血の気がなく唇さえか さかさに煮詰まって見えるのは、病人の顔色がそんな様子であらわれていると思った。洪 氏は間を置かず話を続けた。自分の長男がアメリカの大きな病院に医者としているが、彼 が早くこっちへ来いといかにもせき立てるので、アメリカまで病気自慢をするため行くは めになったとまた寂しく笑った。 「私の体の中でそんなものが広がっていることをまったく知らないでいたのに、どうして も病状がさらに進めば、再び故郷の山河を見る望みはないと思います」 故郷の山河という言葉に哀調が深く金氏は尋ねた。 「ソウル処士」 その時、月浄が走って来た。今さっき支社長という方から電話が入ったと言いつつ、た った今、車を送ったというのだった。洪氏は分かったと言いながら時計を見た。 「あの世の使いが眼の前にちかちか光るので、そうか、昨晩はあの童子をとらえて今まで 自分だけ包み抱いていた話をすっかりぶちまけました。どうしてあのように汚れがなく聡 明な子供がいるのか・・・・・・」 あの子供を見ると心の中まではっきり透けて見えるようで、今まで誰にも話せず胸の中 にだけうんうんと埋めておいた話を隠しへだてなくさらけ出したというのである。そのよ うに言葉の道が破れると、そうか、あなたとも一晩ぐらい一緒に過ごし胸にある言葉をす っかりぶちまければ心の中がさっぱりするのに、時間がこのように行き違うと言いながら、 すぐに去るようになったことを重ねて惜しんだ。 「われわれ同年配には誰も彼も世の中を生きるのに、厳しく生きて来ました。六・二五(朝 鮮戦争)直後にあの下の断崖で起こった軍トラック転覆事件を御存知でしょうか」出し抜 けの言葉に金氏は胸がドキンとした。洪氏は金氏をじろじろ見ており、金氏は胸がドキド キし息が苦しかった。自分がその事故の張本人ということを知っていて、わざと知らぬふ りをしているのではないかと思った。 「はい、知、知っています」 金氏は洪氏の視線を避け心配だった。洪氏は視線を空に浮かべた。金氏は激しく躍る胸 を押さえながら飛び出るような目で、洪氏の横顔をちらちら見た。 「あまりに凄惨だった。死人はもうすでに死人だったけれども、怪我をした人々もほとん どが人間の役割を果たせず、生きたのです。その罪があまりに大きいです。大きいとも」 洪氏の言葉には哀調があふれ出てぱさぱさの顔をひときわ寂しく見せた。彼は金氏をし ばらく見ていて、また空に視線を浮かべた。私がみんな知っている。その年で隠すものが 何かあるのか。早くぶちまけよ。洪氏はすべてを明らかに知り、そのようにこちらの欠点 を用いていると思った。肝臓ガンの話をすることで自分の話をしようとすると思ったのに、 そのように取り囲まれこちらの口から言葉を引き出そうとペテンをかけるのではないかと 思った。そうか、卵を食べる時はそれが逃げ出ない餌なので、しばらくの間抜け目なく転 がしゆっくり飲んだ後に柱木のような所で体を掛けてバサッとつぶしたのか。金氏は今は 心がきれいさっぱりとぶちまける時になったと心を決めた。覚悟を決めると心が少し和ら ぐようだった。 「思想、ほっ、ほっ、その思想」 洪氏はどんな思いからか、しばらくまた空しく笑った。 「その思想に心を奪われた時には、金を持ち威張りちらしている者たちはすべて虫けらに 見えました。彼らの側の軍人や警察はもっとたちの悪い虫けらに見えたし、それでそんな やつらをたくさん殺せばたくさん殺すほど、人間の役目を完全に果たしていると思いまし た。実はその思想という化物は影も形もなくなってしまい、残ったものは罪業だけのお荷 物ですよ」 自分はその時、左翼として追われ、当時左翼たちの隠れ場として軍隊ほど適当な所がな くて金を費って入隊をしたが、これは初めから敵陣へ入って行った訳なので、身を隠すと いうよりもひどいありさまで、砲弾がばんばん炸裂しましたとまた、ほっ、ほっと笑った。 「戦争が終わるや、今度はまた飢えて死んではいけないと歯を食いしばりました。歯を食 いしばり前よりもっときつく歯を食いしばって働いたので、いつの間にか工場が立ち上が り輸出で金をかき集めました。ところが、これはまた何ですか? 軍隊の棍棒で血まみれ になり、のけぞり斃れた労組員たちの真赤な目、その真赤に血走った目の中に意外にも昔 の私の目を発見しました。ほっ、ほっ、その目に映じたその虫けらはまたどれほどひどい 虫けらだったでしょうか? ほっ、ほっ」 洪氏はさらにひときわ虚脱したように笑い、金氏はずっと前からうわの空であるため、 化け物や虫けらが話す声がほとんど耳に集まって来なかった。 「ところで、ひとつお尋ねします。あなたもその時、その事故のトラックに乗っていらっ しゃったのですか?」 金氏はぶちまける決心をすると、その時、洪氏が負傷したならばどれほど受けたのか、 それから知りたかった。 その時、あの下の道から乗用車が上がって来た。車が止まり、月浄と運転手が下りた。 「板の間に置いてあった鞄を持って来ましたよ」 月浄が叫んだ。運転手が近づき空港へ行く道の多くの箇所で補修工事をしていると言い、 ひょっとすると遅れるかもしれないと慌てた。 「ほっ、ほっ、これは話をしてしまいましたね。あの時、私は整備兵なのでそのトラック には乗らなかったのですよ」 洪氏は軽く言いながら立ち上がり、金氏は飛び出るような目の玉で洪氏を見ていた。洪 氏はさようならと言って車に乗り、金氏はこくりとうなずいて遠くなる車を見ていた。 訳者解説 小説『道の下で』の主人公金周鎬氏は、朝鮮戦争の時に海雲寺の十里程離れ た村に潜入したパルチザンを襲撃するため、兵士を軍トラックで輸送する命令を受けた。 そのパルチザンの中には叔父も兄も加わっていた。彼らを救うために、金氏は自分の運転 するトラックを小川にぶつけて事故を起こそうと考えた。ところが、途中でトラックのブ レーキがきかず、トラックは崖から転落し死者五名を出す大惨事となってしまう。金氏は 自分の罪の大きさに何度も自殺を考えた。しかし、たまたま憲兵隊の営舎に収監されてい た時に、運動場の塀の向こうにそびえる柳の美しい草色を見てからは、どうしても生きた いという激しい思いにかられる。出所後、金氏は結婚した翌日、家を出奔し各地を放浪し てついに海雲寺の便所掃除こそが自分の天職と悟った。 金氏は今日、トラック転落事故で死んだ兵士の祭祀をするため海雲寺へやって来た。そ こで、金氏は五十余年前のトラック転落事故を知る洪老人に出会う。彼は肝臓ガンに冒さ れ、手術のためアメリカへ出かけるところだった。意外にも、その洪老人こそあの事故の トラックの整備兵であり、トラック転落事故をしかけた張本人であった。 この小説は朝鮮戦争のさ中に、自分が運転していたトラック転落事故で多くの死傷者を 出した罪をつぐなうために、海雲寺の便所掃除を続けて来た男の物語である。金氏は放浪 の果てに海雲寺へ救いを求めて行くが、寺の中へ入る勇気が出ない。「けれども、ここで 戻っては自分はいつまでも人間の役割を果たせないようだという思いであった」ついに、 彼は人間の役割を果たすために仏門に帰依する。また、トラック転落事故を工作した洪老 人は自分の罪を告白する。「あまりに凄惨だった。死人はもうすでに死人だったけれども、 怪我をした人々もどんな人間の役割を果たせず生きたのです」 人間は人間としての役割を果たすために、この世に生まれてきた。それなのに、人間と しての役割を果たせぬように、人間を「虫けら」と見て殺害する人間のあまりの傲慢さと その罪業の大きさをこの小説は訴えている。アメリカで昨年九月十一日に起きた同時多発 テロによる犠牲者も、その後のテロに対する報復としてアメリカが始めたアフガン空爆に よる犠牲者も、同じく人間が人間を「虫けら」と見る尊大な思想から殺されたのである。 同じ民族でありながら朝鮮戦争で殺し合う敵と味方であった者が、今もつづく分断現実の 中で戦時に犯した罪に自ら誠実であるがゆえにどうしても忘却することが出来ず、おのの き苦しみつづけている民衆の悲しみを作者は生き生きと描いている。 作者宋基淑氏は一九三五年に全羅南道長興に生まれる。全南大国文科卒業。一九六五年 に『現代文学』に評論「李箱序説」が推薦を受けて評論家として登壇し、一九六六年短編 「代理服務」を同じく『現代文学』に発表し小説家として活動しはじめる。七、八十年代 には民主化運動と教育運動に参加し、二度獄苦をなめた。民族文学作家会議会長、現代史 資料研究所長、全南大学教授を歴任。一九九四年の東学農民戦争百周年に完結した大河小 説『緑豆将軍』(全十二巻)で第九回万海文学賞を受けた。作品として長編『チャラッ谷 の悲歌』『岩泰島』『五月の微笑』などがある。本作品『道の下で』は『創作と批評』二 〇〇一年秋号に掲載された。 会 録 第 278 回(2001・6・24)金在南『遥かなり 玄界灘』 報告者・間瀬 昇 参加者 7 名 第 279 回( 7・22)梁石日『死は炎のごとく』 報告者・磯貝治良 参加者 5 名 第 280 回( 8・26)宮本徳蔵『海虹妃』 報告者・西尾 斉 参加者 10 名 第 281 回( 9・23)金時鐘『「在日」のはざまで』 報告者・劉 竜子 参加者 9 名 第 282 回(10・11)『架橋』21 号合評会 PART 1 報告者・加藤建二 第 283 回(11・25)『架橋』21 号合評会 参加者 7 名 PART 2 報告者・卞 元守 参加者 10 名 第 284 回(12・16)一年をふりかえり 2002 年を望む望年会 参加者 7 名 第 285 回(2002・1・27)金石範『満月』 報告者・磯貝治良 参加者 4 名 第 286 回( 2・17)金石範『新編「在日」の思想』 報告者・張 洛書 参加者 6 名 第 287 回( 3・24)賈島憲治『雨森芳洲の運命』 報告者・間瀬 昇 参加者 9 名 第 288 回( 4・28)岩田たまき『霧晴るる日まで』 報告者・西尾 斉 参加者 7 名 第 289 回( 5・19)金石範・金時鐘 『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙してきたか』 報告者・卞 元守 参加者 7 名 「戦争したい法制」三法案 敗戦から五十七年、この国は最大の危機です。「狼少年」の類ではありません。ほんと うに「狼」がそこまで来ています。それが「武力攻撃事態法」はじめ「有事法制」三法案 です。聞くところによると、福田官房長官の官僚ブレーンと中谷防衛庁長官の同期防大卒 エリートら「戦争を知らない世代」が一夜漬けで作ったようです。国会答弁でもまともに 答えられないようなズサンなものです。たぶん、ミリタリー・ルックの似合う小泉政権の あいだに遮二無二、成立させてしまおうと、連中も焦っているのでしょう。 武力攻撃の「おそれ」とか「予想される事態」とか、いかようにもデッチ上げ可能なア イマイモコを基本に据えているのだから、たまりません。戦後一貫して朝鮮半島の分断を 助長する政策を取りつづけ、朝鮮民主主義人民共和国を公式に国民国家として認めず「仮 想敵国」に擬して「戦争法制」を正当化しようというのだから、無茶苦茶です。もっとも 「敵」がいなければ造れ、というのが、親分ブッシュにたいする忠実な模倣なのでしょう が。 この欄で断言しておきましょう。中国と「北朝鮮」が軍事的、政治的、思惑的すべてに おいて、日本列島に「武力攻撃」をしかけるなんて、現実的にはありえません。妄想です。 アメリカの東アジア軍事戦略にスッポリ嵌まりこんだ空想です。 詩や小説でコトバの遊びや空想、虚構の力はなかなか楽しいものですが、「戦争したい 法制」のそれは断乎、拒否します。 二〇〇二年六月一日 (「無事法制」支持者) あ と が き ▼本誌の母体である在日朝鮮人作家を読む会が、ことし十二月には発足から二十五周年を むかえる。毎月欠かさず開いてきた月例読書会も、節目々々のイベントなどをはさんで、 来年(二〇〇三年)四月には三百回を数える。二十五年のあいだには在日朝鮮人文学も随 分、様変りしたが、日本語文学圏で元気だ。金石範、金時鐘、李恢成、梁石日といった「正 統」の人びとが健在であり、朴重鎬、元秀一、深沢夏衣、金真須美といった中堅どころが がリレーし、柳美里、鷺沢萠、金重明といった新世代の〈在日〉文学に玄月、金城一紀が 躍り出た。転形期の趣のある〈在日〉文学は多士彩々、刺激的だ。 ところが「読む会」には悩みのタネがある。月例会の顔ぶれは〈在日〉と日本人がほぼ半々 と二十年来、変わらないのだが、参加者がジリ貧なうえ、高齢化が顕著なのだ。偶に若い 世代が登場するのだが、うまく定着しない。土台、本を読み、モノを書くといった地味な 営み自体が、時勢に合わないのは百も承知。とはいえ、起死回生の妙手はないだろうか。 「読む会」もその時々のテキストを漫然と読むのではなく、在日朝鮮人文学あるいは〈在 日〉文学とは何かを体系づけてみる、そういう段階にきているのかもしれない。二十五年 間、コツコツと積み上げてきて、そろそろ仕上げの時に差しかかっているということだ。 ▼キナ臭いにおいが日本列島に漂って、東アジアを掩おうとしている。世紀末に「周辺事 態法」はじめ日米安保ガイドライン関連法が、うぶ声を上げた。二十一世紀に入ると、い きなり9・11 を奇貨として「テロ対策特措法」に成長し、さらにグロテスクな体をくねら せて、「武力攻撃事態法」など「戦時体制」へと変身しようとしている。巨大な妖怪が日 に日に肥え太りながら、日本列島を跋扈しはじめているのだ。 巨大な妖怪は何匹もの小妖怪を産み落とす。「メディア規制三法」と名づけられたそれ らは、言うまでもなく「戦時法制」を下から支えるために民衆を管理・統治するのが目的 だ。君が代・日の丸の法制化、盗聴法、住民基本台帳法の“改正”にはじまった流れの一 環だ。「戦時法制」と「メディア規制三法」は「戦争体制」づくりに欠かせない、ハード とソフトのセッティングなのである。そうして整えられた戦争のできる体制は勿論「備え」 のためなどではない。妖怪たちは、整えた体制を実地に試したくてウズウズしているのだ から。遮二無二、戦争を製造したがっているのが、この国の軍隊の「伝統」なのだから。 まさに「備えあれば憂いあり」なのだ。 大小さまざまの妖怪とどうたたかうのか。わたしは妖怪のファンだが、この妖怪とはた たかわないわけにはいかない。有名無名を問わずモノを書く者に、それが問われている。 文学的・思想的・人間的そして政治的にさえ立場と行動が問われている。言語しか持たな い表現者であっても、時に過激に、時に諷刺で、時に抒情でさえもって、さまざまな方法 で、非暴力抵抗の言葉を武器に変えて、妖怪を退治しなくてはならない。時には「身体表 現」が必要かもしれない。 ▼今号は磯貝の小説「シジフォスの夢」三百余枚が誌面の三分の二ほどを占めてしまった。 だからといって、ボツにした原稿があるというわけではない。執筆者の顔ぶれが固定して きたことにも、さきに書いた「悩みのタネ」の一つがあるわけで、新しい書き手――とく に〈在日〉の若い世代の書き手に登場してほしい。それでも、劉竜子の「白い花」、朴燦 鎬の宋建鎬先生追悼エッセイ、加藤健二翻訳の短編小説、統一希願紀行のルポ「三千里鐡 道の旅」など、まずは色とりどりに並んだので読んで楽しんでいただけるとありがたい。 表紙には在日一世の画家呉炳学(オビョンハク)先生の「仮面」を拝借した。快く承諾い ただいた先生に感謝します。 ▼昨年十二月の望年会でおこなった恒例の「読む会」二〇〇一年テキスト人気投票の結果 を記す。①磯貝治良「水について」(『架橋』21 号)②金重明『皐(みぎわ)の民』(講談 社)柳美里『命』(小学館)尹健次『「在日」を考える』(平凡社)③金城一紀『GO』 (講談社)金時鐘『「在日」のはざまで』(平凡社)④玄月『悪い噂』(文藝春秋)梁石 日『死は炎のごとく』(毎日新聞社)劉竜子「夜汽車」(『架橋』21 号)――上記の結果 は、中身のよしあしには直結しないだろう、念のため。 二〇〇二年六月五日 (貝)
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