2014/5/11 門戸聖書教会 礼拝説教 ヨハネの福音書講解 82 ヨハネ 21:18-25 あなたはわたしに従いなさい 1.行きたくない所に連れて行かれる 長く、礼拝においてごいっしょに学んでまいりました『ヨハネの福音書』ですが、今日のところで最後 となります。不十分な学びの中で、いつも生煮えの料理をお出しするような申し訳なさを感じておりま したが、シンプルでいて深い『ヨハネの福音書』に凝縮された、主の愛といのちの光 が少しでも、みな さんの心に届いていれば、幸いです。 さて、今朝の箇所は、前回からの続きです。 テベリヤの湖 畔で、復活 の主イエスと弟 子たちは、鮮やかな再 会を果たします。徹夜の漁にもかか わらず、何 もとれなかった弟 子 たちに、浜 辺 から主 イエスが声をかけられたのです。 「舟 の右 側 に網 をおろしなさい」。その通りにすると、驚くべき大漁となった。イエス様だ!と気づいたペテロは思わず 湖に飛び込みます。主は彼らのために、浜 辺に炭 火を起し、朝 食 を用 意してもてなしてくださいまし た。そして、ペテロに 3 度優しく尋ねられたのです。 「あなたはわたしを愛しますか」 それは、イエス様が捕まって裁判にかけられている時、主を 3 度知らないと言ったペテロを回復さ せるための憐 みの問 いかけでした。 心 を痛 めながらも、ペテロは、「わたしがあなたを愛 することはあ なたがごぞんじです」と、精 一 杯 、お答 えしました。その、自 らの罪 深 さ、弱 さ、情 けなさいに悔 い砕 かれたペテロに、主イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と、ご自身が十字架に贖った神の小羊たち、 生まれたばかりのキリストの教会を牧することを委ねられたのです。 今日の箇所は、そのイエス様とペテロとの対話の続きです。 ヨハネ 21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自 分で帯を締めて、 自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに 帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 「行きたくないところに連れて行かれる」-ありがたくない話です。しかも、「自 分の手を伸ばし、ほか の人 があなたに帯 をさせて」ですから、手を縛られて、自由 を奪 われてということです。やりたいことも できなくなるのです。 私たち、やはり、自 分の生きたいように生きたいですし、やりたいことをしたいと思 います。将 来はこ ういうことをしよう、こんな風 に生 きてみたい、こんな家 庭 を築 いて、こんな仕 事 をして、こんな老 後 を 過ごしてと、色々と願いもし、実際に計画 も立てます。しかし、得てして人生は思い通りにはいかない ものです。夢破れて、願いかなわず、自分 が思 いもしなかった、こんなはずではなかった人生に否応 なく入れられてしまうこともある。「行きたくないところに連れて行かれる」ことがある。 1 2.わたしに従いなさい 実は、10 年以上前になりますけれども、神戸女学院のチャペルで、この箇所からお話ししたことが あります。ミッションスクールですから、チャペルタイムがあるのですね。全 校 生 徒 が大 講 堂 に集 めら れてメッセージを聞く。300 人くらいはいたと思うのですが、みんなバラ色の未来を信じて疑わないよ うな、キラキラした目で、じっとこちらを見ておられました。 そんな彼女たちを前に、私は、自分のサラリーマン時代の小さな挫折の経験をお話ししました。 まだ国の援助機 関で働いていた頃、ある時、内線電話で突然 人事部 長に「部長室に来なさい」と 呼び出されたのです。何か怒られるのかなあと思って行ってみると、「徳永君、今度、君を 2 年間留 学させてあげるから、学校を選んで、英語 を勉強しておくように」と言われたのです。当時、海外長期 研修といって、全額会社負担で、2 年間 留学させてもらえる制度がありました。私は留学先を選んで、 英会話学校にも行って、一応 試験もパスして、後は行くだけという所でした。ところが、その矢先に人 事部 長が変 わってしまいました。そして新 しい部 長さんに呼 び出 されて告げられたのです。「アメリカ には行かなくていいから」と。しばらくして「アフリカ」行きの辞令をもらいました。「アメリカ」と「アフリカ」 -1 字違いではありましたが、ずいぶん人 生は変わりました。 それでも、気 を取り直して赴 任したアフリカで、 先 週お話 ししたようにマラリアなど度 重なる病 気 で 心身を消耗して、1 年そこらで帰国することになってしまったのです。しかし、その挫折の中で、神様 ともう一度、真剣に向き合う経験を与えられて、牧師になるようにと導かれたのですね。 私 は、目 をキラキラ輝 かせて、自 分 は「行 きたい所 に行 ける 」ことを信 じて疑 わないでいるような、 若 い方 たちに、こう話 しました。「行 きたいところに行 って」 自 分 の思 い描 いていたとおりの人 生 を歩 めたら、それはそれで幸 いかもしれないけれども、もし「行きたくない所に連れていかれる」ことがあっ たら-自分が思い描いていたのとは違う人生、願 いもしなかった、いや、こういうことにはなってほしく ないということをあなたが経験するならば、むしろ、その時こそ、あなたは大切なことを知り、本当 に貴 重なことを学ばされているのではないか。そんな話をしたのです。 けれども、改めて今回、この箇 所を読んでみますと、イエス様がペテロに言っておられるのは、人生 の願 いが叶 わないとか、挫 折 を経 験 するとか、そんなレベルの話 ではないのだということに気づかさ れました。 ヨハネ 21:18・・・しかし年をとると、あなたは自 分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、 あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 21:19 これは、ペテロがどのような死 に方をして、神の栄 光を現すかを示して、言 われたことであっ た。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 「手を伸ばして」、ほかの人に帯を締められて、「行きたくない所に連れて」いかれる-それは、明ら かに囚人として処刑 場に引き立てられていく姿です。イエス様は、ペテロにあらかじめはっきりと告げ ておられるのです。あなたは、「わたしの羊 を飼 う」ことで、自 分 の行きたい所 に行 ってやりたいことを するのとは、全 く違 う人 生 を歩 むことになる。「行 きたくない所 に連 れて行 かれる」ことになる。そして 最後には殉教の死を遂げることになる。 2 「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。 」 はっきりと、主イエスはペテロの死に方までも、予告される。そして、その上で言われるのです。 ヨハネ 21:19 「わたしに従いなさい」 3.主よ、この人はどうですか これは実 に厳 しいことではないでしょうか。主 に従 えば、死 ぬということが、はっきりわかっているの です。人 間的に見れば、この先、ペテロには地 上での報 いというものはない。ひたすら厳しい奉仕の 道 を歩 んで、重 い責 任 を背 負 い、最 後 には殉 教 の死 が待 っている だけなのです。しかも、主 イエス は、そのことを承 知 の上 で、従 ってきてくれるかと 尋 ねておられるわけでもないのです。ただ、ペテロ にこう命じられるだけなのです。「わたしに従いなさい」と。 ここでペテロは、さすがに、すぐ返答はしていません。「はい」とも「いいえ」とも言っていない。 そのか わり、後ろを振り向いている。 ヨハネ 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子 はあの晩 餐 のとき、イエスの右 側 にいて、「 主 よ。あなたを裏 切 る者 はだれですか」と言 った者 であ る。 21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」 浜 辺 を歩 きながらの会 話 だったのだと思 います。ペテロは振 り向 いた。すると、 「イエスが愛 された 弟子」-この福音書では匿名を通しているヨハネがついて来ているのを見た。そして、思わず「主よ。 この人はどうですか」と聞いた。 どうしてペテロがそういうことを聞 いたのか、理 由は色々考 えられるでしょう。しかし、 やはりそこには、 つい人 と比 較をしてしまう、私たちの性 質 のようなものが出 ているように思 います。自 分 は行きたくな いところに連 れていかれ、殉 教 の死 が待 っているのだとしたら、この人 はどうなのか、 あの人 はどうな のか。自分だけが損な役 回りを演じることになるのではないか、自分だけが重 い責 任を担 わされてし まうことにならないか。主 に対 する奉 仕 や生き方 までもが、いつの間 にか、比 較 の対 象 になってきて しまう。 しかし、それに対して、主イエスははっきりと言われるのです。 ヨハネ 21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望む としても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」 神様の愛というものは、一 人 一人に特 別なのですね。みんなをただ平等に愛するというのとは違い ます。一 人 一 人を特 別 に、それぞれの人 に独 自の、最 善の愛 を向けて愛 される。一 人ひとりに与 え られた賜物も立場も人 生も異なります。役 割も使 命も違います。その働きに大きい小さい、タラントの 多 い少ないはあっても、何 の上 下もない。主 は私たちを、宇 宙 の歴 史 の中 で、ただ一 人 の、掛 け替 えのない者として創 造してくださいました。そして、ひとり一 人 に、その人にしかなしえない使 命 や役 割を与 えてくださっているのです。隣 の人 は関係ない。ただ、私たちひとり一 人が、その主 の愛に応 えて、従っていくかどうかが問われているのです。 3 この後、伝 承 によれば、ペテロは主 イエスを大 胆 に宣 べ伝 え、ローマで捕 えられて処 刑 されます。 ヨハネは迫害の時 代を生きながらえ、この『ヨハネの福音書』をはじめ、『ヨハネの手紙』を記し、最後 はパトモス島に流され、そこで『ヨハネの黙示録』を執筆したと伝えられています。 それぞれへの導きは確かに異なっている。けれども、それは優劣ではなく、ましてやどち らが祝され ているとかということではない。あの人は祝 されているのに、私は…などと思えることがあるとしたら、そ れは、自分 に主 がどれほど独 自の愛を注 いでくださっているのかが、分かっていないのかもしれませ ん。主は、あなたをかけがえのないただ一 人 の人として愛 され、あなたのために十 字 架 にかかられ、 あなたによみがえりの命を注がれ、あなただけの使命を与えておられる。あなたがあなたである尊さを 生きるように召しておられる。 4.あなたはわたしに従いなさい 島崎光正さんというキリスト者詩人 がおられます。島崎さんが、晩年に遺された、こんな詩がありま す。 自主決定にあらずして たまわった いのちの泉の重さを みんな湛えている 1 島 崎 光 正 さんは、ご存じの方もおられるでしょうが、生まれつき「二 分 脊 椎 症」とい う脊 椎 の病 気 を 負っておられ、歩 くことや排せつに困難 を覚 えておられました。それだけではなく、お父 様 はお医 者 さんだったのですが、患者 さんからうつったチフスが原因で亡くなってしまうのです。島崎さんが生 後 1 か月の時でした。 結 局、色々な家 の事 情で、島 崎 さんは長 野 の父 方の祖 父 母 の元へ預 けられることとなります。お 母様は当時まだ 24 歳。もちろん、我が子がかわいくないはずがない。別れて半年後、長野を訪ねら れたお母 さんは、島 崎 さんを寝る時も 片 時も離 さず、抱き続 けられたそうです。別 れ際にも、列 車か らプラットホームに飛び降りて「長 崎にいっしょに連れて 帰りたい」と泣き叫ばれたそうです。そして別 離のあまりの悲しさに耐えかねて、心を病 み、夫の勤めた九 州大学 医学 部の精神 科に入院し、その まま生涯を終えられるのです。 重 い障 害 に、両 親の死、やがて育ててくれた祖 父 母とも死 別 し、島 崎 さんは天 涯 孤 独 の身となり ます。その孤 独 の寂 しさの中で、やがて、島 崎 さんはイエス・キリストと出 会 い、詩 を書 くことを覚 え、 多くの珠玉の詩を残されました。 1 『生 かされて生 きる』(藤 木 正 三 著 、いのちのことば社)p134f 4 先ほど紹介した詩 は、ドイツで行われた「二分 脊椎 症 国際シンポジウム」で島崎 さんが講演をなさ った、その最後に朗読された詩なのです。出生前診断によって「二分脊椎 症」の胎児が安易に選別 され処置される現実に警鐘を鳴らしながら、島崎さんはこのように述べられました。 「確 かに、二 分 脊 椎 に限 らず、障 害 を負 って生 まれてきたことは、人 生 の途 上 において様々な困 難をくぐらねばならないことは事実です。私は 77 年の歩みのあとを振り返ってもそう言えます。けれど も、それゆえに、この世 に誕 生 をみたことを後 悔 するつもりは少 しもありません。それほど、神 様 から 母 の陣 痛 を通 してさずかった命 の尊 厳 性 は、重 いものと考 えられます。このようなみなさんとの出 会 い、また日 本 でのわが家 の庭 の、朝 露 に濡 れたバラとの出 会 いの喜びは、何 よりもそのことを証しし ています。身 に、どのようなハンディを負 って生 まれてこようとも、人 間 は人 間 であるがゆえの存 在 の 意味と権利は、人類の共同の責任において確保され、尊重されていかねばなりません。そこにまこと の平和もあります。」 そして、そこで先ほど紹介した、詩を読まれたのです。 「自主決定にあらずして たまわった いのちの泉の重さを みんな湛えている 」 島 崎さんがお祖 母 さんから、お母 さんのことについて聞 いたのは、 5 年 生の時 だったそうです。顔 すら思 い出 せないお母 さん、生 後 半 年の頃、一 度だけ抱きしめてもらったお母 さん。しかし、そのお 母 さんが自 分 との別 れに耐 えかねて、思 わず列 車 を飛 び降 りて抱 きしめてくれた。その愛 を思 った 時に、どんなに障害がつらくとも、厳しくとも、この与えられた命を生きようと決意したそうです。 生まれつきの障害も、早くに親と死に別 れた孤独も、「自主 決定」したものではない。自分が願った ものではない。けれども、それは「たまわった」いのちである。愛 されてある「いのち」、生かされてある 「いのち」である。神 様 から、母 の陣 痛 を通してさずかった「いのちの泉 」の 重 さである。それは、どん な人も、人 が人 である限 り、必 ずみんなが湛 えているものである。その尊 さが守 られますように。この 詩には、そのような祈りが込められているのではないでしょうか。 ペテロは、主イエスから「あなたはわたしに従いなさい」と言われました。ペテロは、ここでも何も言っ ておりません。絶句しています。しかし、彼は従っていったのです。19 節のみことばは、既に、この福 音 書 が書 かれた時 に、ペテロが殉 教していることを示しています。ペテロは、大 胆 に主イエスを宣べ 伝え、最後はローマで、自ら願い出て逆さ十字架にかけられたと言われています。 ペテロはなぜ従って行けたのか。それはただ、主イエスの愛を知ったからです。主が十字 架にいの ちを捨てて示 された愛 の大 きさを知 ったからです。これから自 分 が導 かれる所 は、自 分 にとって「行 きたくない」ところかもしれない。殉 教 の死 に至 る道 かもしれない。しかし、そこは、他 ならぬ「愛 する 5 主」イエスがともにいてくださるところであることを知っていたからです。もはやそれは、死ではなくて、 死を滅 ぼされた、復 活 の主 が共にいてくださる、神 の国 の入り口 に過 ぎないことを知っていたからで す。ペテロにとって、大切なことは、もはやこのことだけであった。 ただ主を愛すること、ただ主に従ってゆくこと、ただ神の栄光を現すこと。 「行きたくないところに連れて行かれる」ことも、殉教の死も関 係がない。自分が何 をするかも、重要 ではない。ただ大切なことは、復活の主が共にいてくださること。この方と共に生きるということ。 あなたにはあなたにしかない痛みがあり、苦しみがあり、心の悩みがあられると思 います。しかし、こ のことだけは確かです。主はあなたを知っておられる。主 はあなたの罪を赦すために死なれ、よみが えられました。そして、あなたにしかできないことをなすように、いや、ただあなたがご自身とと共にある ものになるように、こう呼びかけておられるのです。 「あなたはわたしに従いなさい」。 どうかこの愛といのちへの招きに答えていかれますように。 祈ります。 6
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