2016年4月3日(日)礼拝 ヨハネ21:15-19 Ⅱコリント12:9 〇 広岡朝(あさ) そうNHKの連続テレビドラマの「あさが来る」の主人公。 昨日最終回を朝ドラ史上最高視聴率、25パーセントで終わったそうです。 先週「あさが来た 広岡朝子と満喜子とヴォーリズびっくりポンの物語!」 *1 という本 んをいただきました。 あさは60才のときに、乳がんの手術を受けます、その時に「いのち」について考える ようになります。そして「いのち」「心の豊かさ」を求めて、日本基督教団の大阪教会に 行くようになります。理屈をいうあさに、日本女子大の創設者で牧師である成瀬仁蔵はユ ーモアをこめて「このおばあさんはどうも仕方が無い。君教育してくれんか」と、大阪教 会の牧師宮川先生に話すのですね。宮川先生は数日後訪ねてくれて、やがて彼女はクリス チャンになり、洗礼を受けたのです。 皆さん、ドラマであさの娘と千代と結婚するのが東柳啓介、啓介さんでしたね。(実際 は一柳恵三)彼の妹の満喜子も将来クリスチャンになり、建築家でも有名なヴォーリスと 結婚します。彼らの結婚式はヴォーリスが設計した明治学院のチャペル。来週11日に私 はそのチャペルでメッセージをします。 〇 聖書に「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまず いて滅びる。」とあります*2。」 あさは 七転び八起き よろしく 九つ転び十起きの人生でした。 失敗して倒れてしまうこともあっても、起き上がったら良いじゃないですか。 あさのご主人新次郎は言います「負けたことあらへん人生やなんて、面白いことなんか あらしません。勝ってばかりいてたら人の心がわからへんようになります」 意味深いことばですね。 私たちは失敗、負けてしまうこと、転ぶこともあります。大切なことは、失敗した原因 を知って、助けてくださる神様を仰ぐことでしょう。 少し傲慢になって、ちょっとした言葉尻にそれが出て、相手を傷つけたり、失敗してし まったとします。 そのときに、、失敗の原因が他人ではなく、自分の内、いつの間にか入り込んできた 「傲慢さ」だったと分かったら、神様の前に悔い改めて、謙遜になって、神様に引き上 げていただきましょう。そうして、神様は私たちを恵みから恵みに信仰から信仰へと 成長 させてくださいます。 聖書にこうあります。 *1 三浦三千春 「あさが来た ヴォーリズ新書 あだむ書房 広岡朝子と満喜子とヴォーリズびっくりポンの物語!」 2016 *2 箴言 24:16 -1- 「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。 主がその手をささえておられるからだ*1。」 大きな失敗をしたひとりの人がいました。その名をヨハネの子、シモンと言います。 別名ペテロです。 このペテロというのはイエス様がつけてくださった、名前です。岩という意味がありま す。岩は容易に動かないしっかりしたものです。彼の信仰がそのような岩のようなしっか りしたものになるという名前です。 イエス様には12人の弟子がいました。12弟子といいます。ペテロはこの12弟子の トップだと思っていた人です。 イエス様がいよいよ十字架にかかられる前日、イエス様はペテロに 「あなたは鶏が啼く前に、わたしを三度知らないと言う。しかし、わたしはあなたの信 仰が無くならないように祈った.立ち直ったら兄弟を励ましてあげなさい。」*2 と仰るのです。 ペテロは憤慨しました。面子丸つぶれです。自分は12弟子のトップ、誰よりも働いた、 奉仕をしてきた。と思っていた人です。皆のいる前で、ペテロが失敗すると言われたです。 ペテロはきっと、顔を真っ赤にしたと思います。 「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」 皆さん、ペテロは口からでまかせを言っていると思いますか。いいえそうではありませ ん。本気でそう思っていたのです。 ところからイエス様が兵士たちにとらえられ、イエス様の成り行きを知るために、何食 わぬ顔でペテロは裁判の行われている、大祭司の庭にいて、たき火で暖を取っていました。 (今日もちょっと寒いですね。会堂は少し暖房を入れています。) ペテロがいたところも寒かったようです。大祭司の庭にはたくさんの人が集まり、たき 火をしていました。そこで暖をとることができます。ペテロもそこに行き、暖をとってい ました。 黙ってればいいのに、ペテロは近くの人と話しをして、その場をとりつくろうと思って いたようです。でも、すぐにガリラヤの訛りだと分かってしまいました。 東京にいると、全国からいらっしゃっていますので、お国ことばを聞くと、ほっとしま す。 ぶちにちょる・・山口ですか?「ぶちにちょる」って聞こえたので。と言ったら、笑顔 で「そうそう」と話してくださいます。 ペテロのことばでイスラエルの北の方言だと、まわりの人達は気づきました。 *1 詩篇 37:24 *2 ルカ 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために 祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 -2- その北というのは、ガラテヤ地方、そうイエス様が最初に伝道をし、イエス様の12弟 子のほとんどはこの地方のお国言葉を話していた人達です。 「ん?ガリラヤ方言、あのイエスの弟子のほとんどがガリラヤ人、そしてイエスもガリ ラヤのナザレ出身。薪の光ではよく分からないけれど、どこかで見たことのある顔、そう、 この人は、イエスのそばをいっしょに歩いていた。いつも一番先にいたから覚えている。 そう、あれはイエスの弟子だ」 最初にそこにいた女が気づきました。 ペテロは知らないと言って、場所を移ります。 女中たちが、イエスといっしょにいた人ではないかと言われて、 ペテロは、イエスなど知らないといいます。 そして気づいたあたりのひとが、ペテロに近づいて *1 お前は「確かに、お前はイエスの仲間だ、なまりで分かる、間違い無い」 ということ を言われると、ペテロは、普段、人がしないことを言って、信用してもらおうとしました。 それは「私の言ったことは真実。嘘だったら、神に呪われたものになってもいい」という 誓いのことばです。 テレビドラマで 毛利元就 というのがありました。毛利は今の山口地方を支えるひと です。相手をだますために、起請文を書かせるという場面がでてきました。 起請文(きしょうもん)というのは、「嘘だったら、神仏に呪われても良い、私の言っ たことは真実である」 ということです。当時神仏に呪われたら、生きている間も死後も大変なことになると信 じられていましたから、起請文の真実性は高いものでした。 元就は、家臣にある敵をだますために、起請文を書かせます。その敵が油断をしていた ところに攻めていき、相手を滅ぼしてしまいました。 ペテロが 「呪われても良い、わたしはイエスをしらない」と言ったら、周りの人は、 そこまで言うのだったら本当だろうと思うのです。 ですから、ペテロは 「呪いをかけて誓い始めた」 のです。 こんな時、ぶつぶつと誓いをしますか。 疑いの目をもって、集まった人たちを信頼させるために、大きな声で、「呪われても良 い、私はしらない」と言ったのです。 その時に二つのことが起こりました。 1つ、鶏が三度泣いた。 夜明けが近かったのでしょう。鶏が泣いたのです。 *1 26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確か に、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。 26:74 すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。する とすぐに、鶏が鳴いた。 -3- ほかの人は分かりませんが、ペテロにはそれが一つの合図だったのです。 イエス様がおっしゃったように、わたしは鶏が泣く前にイエス様を三度も裏切った もう一つは イエス様がペテロをご覧になったということです。 周りの女たちも、どうもおかしいと思っていた人たちも、ペテロを見つめていました。 その視線は、疑いを感じている視線です。 61節 振り向いてペテロを見つめられた。のまなざしはどうでしょう。 冷たい、あざけりを感じるようなまなざしでしょうか。いいえ違います。「慈愛に満ち たまなざしです。無言ですが、その眼差しは語っていたのです。「あなたの信仰が無くな ならないように祈った。立ち直ったら兄弟を励ましなさい」 22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまで に、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思 い出した。 人間とは弱いものですね。強いと思っていてもいざとなったら手のひらを返してしま う可能性があるのです。その可能性を私たちは皆もっているかもしれません。 自己保身。指摘されたときに、その通りですと認めないで、そんなことは言ったり、 やったりしていない。一体なんのことか分からないと言ってしまう。 ペテロの姿は決して他人事ではありません。 主が振り向いてペテロを見つめられた。 ペテロは、イエス様のやさしい、でもとても悲しそうなまなざしを見たときに、鶏が泣 くまでにイエス様を三度知らないといってしまうと、イエス様が仰ったいたことを思い出 します。 何かが音を立てて崩れる瞬間でした。 自分はなんて人間なんだろう。イエス様を知らないといってしまうとは。 彼は一人外にでて激しく泣いたのです。 呪いをかけて誓ったので、さすがに彼を追ってくる人はいません。 しかし、ペテロは自分は、愛するイエス様を知らないと言ってしまったと、そんなみじ めさと、すべてをご存じで、自分を包み込んで、祈ってくれたイエス様の愛に触れて泣き 続けていたのです。 最初に広岡朝のことを話しました。 あさは、私たちと同じメソジストの流れの救世軍のリーダー、山室軍平に会います。 あさが山室に教えてもらいたかったのは、彼の高潔な人柄があったからです。彼に勧めら れた信仰書を読む日々、ある朝突然、あさは、絶対者なるかたがおられ、あさを愛してい てくださる神様がいらっしゃることが心の底からわかり、涙が溢れて仕方がない経験をし ます。そして大阪教会で洗礼を受けたのです。 自分の至らなさ、みじめさを知ったとき、人は泣きたくなるものです。 -4- また、深い愛に触れたときに、泣きたくなるものです。 ペテロはこの二つを経験しました。 我(が)が強くて、強情で、なんでも一番、人と比較して、自分の方が良くやっている。 認められて当然と思っていたペテロ。そのペテロがよりによって、愛するイエス様を知ら ないと言ってしまったのです。自分のみじめさを感じたときです。 そしてイエス様のやさしいまなざしを見たときに、イエス様の愛に触れて、その愛の深 さを感じるからこそ、余計に自分のみじめさ、至らなさを感じたのです。 ○ ペテロが裏切ったイエス様はその日に十字架につけられ、そして殺されてしまいました。 ところが、3日後によみがえってくださいました。 人は挫折を感じた後に、回復するまでに時間がかかるようです。 ペテロは復活されたイエス様に何回か会っているのですが、自分の中にわだかまりがあ りました。それは、自分はイエス様を裏切ってしまった、もうイエス様の弟子などと言え るようなものではない。そんな思いです。 ペテロがイエスさまに三度目に会ったときのことです。 イエス様が弟子たちに食事をもてなしてくださいました。 そう、それはちょうど最後の晩餐でイエス様が弟子たちにパンを配り、葡萄の液を回し てくださったときを思い出させるような時です。 食事を終えたときにイエス様は仰います 「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上にわたしを愛しますか」 ヨハネの子シモンとはペテロのことです。いつも周りのことを気にして、比較し、自分 が上だ、自分が勝っている、優れていると思っていたペテロに、あなたはこの人たち以上 にわたしを愛しますか。と聞かれたのです。 しかもこの愛しますかというのは アガペーの愛、注ぎだすような愛、神様が私たちに 与えてくださるような愛し方で、自分を愛しますかと仰いました。 ペテロは口が裂けても「アガペーの愛であなたを愛します」とは言えません。そのよう な自信はありません。自分の弱さを知っているからです。シモンというのは揺れて動く葦 という意味だと説明をしてくれた牧師がいました。その通りですと、シモンはまさしく、 弱い、揺れて動くような存在だと自覚していたでしょう。 ペテロは「私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と言いました。 この愛は親や兄弟を愛するような、愛のことを言います。フィレオーの愛です。 イエス様は「わたしの子羊を飼いなさい」と仰いました。 方向性を失っていたペテロに使命を与えてくださったのです。 イエス様はまたペテロにおっしゃいました。 「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しますか。」 ここでもアガペーの愛でわたしを愛しますかと聞かれたのです。 ペテロは言います「はい、主よ、私があなたを愛することはあなたがご存知です」 ペテロはフィレオーの愛でなら愛せますといいます。 イエス様は再び使命を与えられます。 -5- 「わたしの羊を牧なさい」 イエス様は三度聞かれます。 「あなたはわたしを愛しますか」 そのまなざしは、大祭司の庭で、ペテロが、「呪われてもいいから私はイエスとは関係 がない」と言ってしまったとき、イエス様が振り向いて見つめられたときのまなざしです。 自分が三度知らないと言ってしまったので、三度 知らないではない、「愛しますか」と 聞かれたこと、そして三度目は、アガペーの愛ではなく、フィレオーの愛でいいから、わ たしを愛しますかと仰ったので、心を痛めました。 主は全部自分の弱さをご存じ、それなのに、わたしを見捨てておられない。 イエス様は三度使命を与えられました。「わたしの羊を飼いなさい」 ペテロよ 「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたいところを歩きました。 しかし、年をとると自分の行きたくないところに連れていきます。」 イエス様はこうおっしゃいました。それは ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して言われたことでした。 ペテロは伝承によるとローマで十字架に磔になって殺されるのですが、その時に、私は イエス様と同じようにかけられるのは申し訳ない。逆さにしてくれと逆さ十字にされて殉 教したというのです。 挫折を知っていたペテロ、自分のみじめさ、その罪のためにイエス様が十字架にかかっ てくださったと知ったペテロは、イエス様を信じて、信仰生涯を全うしたのです。 皆さん、私たちは生涯の最後に、自分の想像もしないところに導かれることがあります。 しかし、そこでも主とともに歩んでいると、その生き方、そしてやがて死を迎えるときに は、何もできないはずの死のときにさえ、神様の栄光を現すことができるのです。 自分の弱さの極みにいるそのときに、神様がご自分の力を現してくださる、そのような 偉大なお方です。マイナスをプラスに変えてくださる方、その方が私たちの神様です。 ○ 皆さん、クリスチャンになるということは、すばらしいことです。 自分の弱さを知って、そんな弱い自分を神様は愛していてくださると知っているから 寛容な心を持つ事ができます。神様からの愛を頂いてまわりの人を愛することができる のですから。 イエス様は私たちを両手で迎え抱っこしてくださるようにして迎えてくださる方です。 渡辺和子さんの本を紹介して終わります。*1 九州のある小学校一年生の女の子のお話です。新聞に紹介されて、人づてに広まってい るそうです。 ☆ ある日、女の子が学校から家に戻ると、「今日の宿題は?」と父親に尋ねられます。 *1 渡辺和子 『幸せはあなたの心が決める』 -6- PHP研究所 2015 「今日はね、誰かに抱っこしてもらうこと」と答えた女の子を、父親は「よーし」と言っ てすぐに、しっかり抱いてやりました。 そしてその後も、母親、祖父、曾祖母、姉たちに次々と抱っこされたのです。 翌日、学校から戻った女の子は、6人に抱っこしててもらった自分が一番だったと父親 に報告します。 「皆、してきたんだね」と言う父親に、「ううん。何人かしてこなかった。先生が、前 に出なさいと言って前に出たんだ。そうしたら、先生が、一人ひとりを抱っこしてやった んだよ」。 ☆ 宿題をしてこなかった子ども達を叱るでもなければ、咎めるでもありません。中には抱 っこを拒否されて寂しい思いをしていた子がいたかもしれません。先生は親の代わりに抱 っこしてくれたのです。 叱られても当然、拒否されても当然のペテロをイエス様は、まるで子供を抱っこしてく れた先生のように、温かく迎えてくださったのです。そして私たちも迎えてくださるので す。 イエス様を信じて歩みませんか。 お祈りをしましょう。 父なる神様、御名を讃美します。弱い私たちの為に、自己保身に走りやすい罪深い私た ちの為に十字架にかかって下さったことをありがとうございます。弱い私達でも、イエス 様は両手をひろげて、迎えてくださること、本当にありがとうございます。イエス様を信 じて歩んで行きます。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン -7-
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