第5回

中田大助がヤルートへ発った翌朝、秀次郎は少し寝坊をした。
いつも決まった時刻に起きる夫が寝息をたてているので、波津子はそっと布
団を抜けだした。するとすぐ「おい」と声がした。
「あら、お目覚めでしたか」
「何時だ」
窓の外はまだ暗い。
「五時半」
秀次郎はむっくり起き上がった。
ほこらで手をあわせていると夜が明けた。
東京に一泊した中田は、昼前にグアムへ向け飛び立つはずである。秀次郎は
ヤルートの土になった部下へこのことを報告した。
石段を下りていると、城山早朝登山会の老人たちが軽い足取りで上がってき
た。まずいと思ったが、もう身を隠す場所はない。知らん顔をしていると、向
こうから次々と挨拶の声があがる。秀次郎は立ち止まりいちいち頭を下げた。
翌日も秀次郎は少し寝坊をした。
ほこらで手を合わす時間を短くし、登山会の老人たちと合うのをさけた。
朝食のとき、波津子が今日は午後一時に一人ですと整体の客のことを確認し
た。八十をこえてから、なじみの客を日に一人か二人取るだけにしていたが、
今年に入ってそれもおぼつかなくなった。体力はまだあるのだが、客を取る気
分になれないのだ。それでも週に二人か三人のペースでほそぼそ続け、三月に
なった。十日も過ぎたがまだ一人も取っていない。
新聞を読んでいた秀次郎は頭を上げ、窓の桟に置かれた花のない花瓶をなが
め、それからかすれた声でいった。
「もう、やめにしよう」
波津子は黙って頭を下げた。
この日、夕方の散歩コースがかわった。大助が経営する幼稚園の横を歩いた。
足が自然に向いたのである。
園舎の奥に大助の住まいがある。
たいした用もないのに、こどもたちが遊ぶ園内をとおって、すまいの事務室
と応接室をかねた部屋で、大助と話しこむことがよくあった。いつもこどもた
はつらつ
ちの喚声や歌声が聞こえ、若い女の先生たちの溌剌とはたらくすがたを見るの
がひそかな愉しみであった。しかし元旦以来、大助が訪ねてくることは何度か
あったが、秀次郎の方からまだ幼稚園をのぞいてはいない。
夕刻、金網ごしにのぞく園内はがらんとして、ただ園児送迎用のバスが三台、
園舎の側に停まっているだけである。
秀次郎は幼稚園の角を折れた。
運動場にある赤や青色にぬられたブランコやジャングルジムが目に入る。だ
れもいない砂場の側に、城山から小鳥が一羽舞いおりてちょこちょこ歩いてい
る。つられてその方向へ視線をうつし足をとめると、小鳥はぱっと宙に舞い視
界から消えた。
老人はステッキをかたく握りしめた。
たたず
かすかに肩をふるわせながら、夕暮れの 佇
まいの中に立ちつくしていた。
秀次郎がかつて芳野の未亡人と訪ねた山村
へ出かける決心をしたのは、このときである。
ちょっとした感傷旅行ではないかという自
嘲がすぐわいた。かれの軍人時代の気質は感傷
的なことを嫌った。そこで志村は旅行の目的を
「戦犯事件」のスタンプについての調査という
ことにした。なにもそんなに気負うことはなか
ったのだが、そうすると気分が楽になった。
挿絵(A.Murayama)
次の日は、いつもどおりに参拝した。
ほこらの前で、かれは「戦犯事件」のスタンプについて考えをめぐらせた。
役所がなぜそのようなスタンプを押したのか。きっとGHQが出した公職追放
指令と関連しているにちがいない。それも佐礼山村の中で公職追放に該当する
「戦犯事件」があったのではないか。ふとそんな考えが浮かんだ。
朝食を済ますと、秀次郎は図書館へ出かけた。用件をいうと、司書の女性が
キャリーで戦争末期の地元紙の束を運んできてくれた。かれは背を丸め、新聞
記事を拡大鏡で丹念に読んでいった。
昭和二十年に入り、松山もたびたび米軍機の来襲を受けるようになった。か
れはその模様を伝える地元紙の伏せ字のまじった記事を拾い読みし、
「醜翼この
通り地獄行」の小見出しと、山中に撃墜されたグラマンの残骸の写真を見つけ
た。
「墜落現場にて○○本社記者、三月十九日に松山上空に侵入し友軍機によって
撃墜されたグラマンの残骸が佐礼山の山林で発見され、記者は○○部隊一行の
トラックに便乗し、○村に到着。某村では警防団員の警備で敵機は現場に保管
されていた。○村の巡査の案内で現場に上がる。墜落現場では機体は真っ二つ
くぬぎ
に折れ、周囲の櫟林の 櫟 が数十本黒く焼け焦げている。
また、もぎとられた左翼が栗畑との境の松をへし折って転がっていた。タイヤ
にはAIRPLANEと刻まれ、チューブにはGOOD YEAR MADE
IN USA 三十二×八と印刷されてあった。ぐしゃりと押しつぶされた操縦
席から搭乗員の手帳、眼鏡、バンド等の所持品も発見され、綿密な地図もあっ
た。
(中略)機体の一部を処理した一行は戦利品を部隊に預け午後四時に山を降
りた。某村に帰った時は鬼畜の戦利品をわれもわれもと見学する村民で黒山を
築いた。一番残念なことは搭乗員を発見できなかったことで、二十日には警防
団員が一斉探査することになっている」
秀次郎は、搭乗員に関する記事を探して新聞を操っていった。すると 5 日後、
小さく次の記事があった。
「二十五日朝、佐礼山の○村警防団より同村の櫟林の炭焼き小屋ですでに死亡
している敵機搭乗員発見の届け出が○○部隊へあった。発見者の亀井正利さん
の話では、同日の朝早く炭焼き小屋へ行くと、搭乗員が壁際に倒れて息絶えて
いたという。墜落現場から三里余りの山中を虫の息で歩き、小屋に辿りついた
ものの出血多量で死亡したものと思われる」
これだ、と秀次郎には直感するものがあった。かれは二つの記事のコピーを
ポケットにしまうと、図書館前でタクシーをつかまえ、まっすぐに家へ帰った。
この亀井正利という村民のことを調べれば、スタンプの謎が解けそうな気がし
た。
佐礼山村へ出かけたのは、それから三日後の三月半ばである。
JRに五十分ほど乗って、山間の無人駅で降り、そこからバスに乗りかえた。
昔、政江と訪ねた山奥への一本道は二車線に広がり舗装されている。車窓に
もえぎ
は濃い緑の人口林にまじって、萌黄色にかすむ栗や櫟の落葉樹の林がよぎって
いく。佐礼山村まで一時間ほどで着いた。
秀次郎はまず、村役場を訪ねた。
「総務課」の案内板が下がったカウンターに立ち、声をかけた。
すぐそこにいた若い女が顔を上げた。
秀次郎はポケットから取り出した手帳や財布の中をさがし、折りたたんだ新
聞記事のコピーを広げ、この記事のことで訊ねたいことがあるのだがと用件を
伝えた。
数分後、かれは役場内の応接用のソファに招かれていた。応対に出たのは部
長で高市俊造と刷られた名刺を差し出した。
秀次郎は郷土史家を名乗り、グラマンが撃墜され佐礼山に墜落した当時の村
の様子が知りたいと役場を訪ねた目的を話した。
高市は鼻先でうなずき、前に乗り出した。
「そのグラマンなら見ましたよ。はっきり覚えとります。上空から黒い煙を引
きながら滑るように落ちて山へドカーンでした」
高市は右手を斜めに上げ、落ちていく様子を示した。話好きな人物らしい。
それは、高市が小学校へ上がった年のことで、警防団が山から持ち帰った「戦
利品」が校庭に並べられているというので、遊び仲間とこわごわ見にいった。
校庭は運動会の時のように村中の者が集まっていた。
「戦利品、戦利品とみな口々にいうとりましたが、焼けこげたグラマンの機体
の一部がばらばら置いてあっただけのことですわ」
と高市はその時の村人たちの異様な興奮を冷ややかに表現した。
その戦利品も高市少年が翌日もう一度見に行くと、跡形もなくかたづけられ
ていた。
早朝からグラマンの搭乗員を探すため、山狩りが始まっていたのだ。
撃墜から五日後に搭乗員の死体が発見された。ところが、村人の反応はいた
って冷ややかであった。死体は軍部で内密に処理されたという。これには一つ
わけがあった。
村で山狩りが行われていた頃、宇和島の方へ出かけていた村人数名がたまた
しでんかい
ま宇和海に墜落する紫電改をまじかに目撃した。
不時着を試みた紫電改は海面上で二度大きくバウンドして停まった。砂浜で
訓練中の若い兵隊たちが救助しようと小舟に向かってかけ出した。紫電改の沈
没はあっという間だった。機体は尾翼の方を垂直に立てると海中へ吸い込まれ
てしまった。小舟を漕ぎだそうとしていた兵隊たちは砂浜に集められた。上官
に対してかれらは何度となく「忘れました」と誓わされていた。そしてしつよ
うに殴られた兵隊たちは、鼻や口から血を流しながら肩をふるわせ紫電改の消
えた海をながめていた。
この目撃談はその日のうちに村中に広まり、村人の軍への不信感や恐怖心を
募らせることになった。
村人はだれもグラマンのことを口にしなくなった。新聞ではグラマンの搭乗
員は三里余りも歩いて亀井正利の炭焼き小屋にたどりつき、そこで息絶えたこ
とになっているが、これは四国各地に敵艦戦闘機が数次にわたって来襲するよ
うになった戦況に鑑み、防空・防衛にいっそう守備を堅持し、皇土護持をまっ
ねつぞう
とうさせるねらいで、軍部が記者に記事を捏造させたものだという。
村人の間でひそかに伝えられた話では、搭乗員は炭焼き小屋の近くの森へ落
下傘で降りたものの重傷を負って倒れていた。亀井が搭乗員を発見したときに
はまだ息があったのである。
戦後この記事のことでアメリカの軍政部が佐礼山村へ調査に来た。搭乗員の
死因に重大な疑問がもたれたからである。調査対象は憲兵隊と警防団、それに
亀井であった。
発見者の亀井はきわめて不利な立場に立たされてしまったのだ。
秀次郎は高市の話から、政江に手紙を出したのは亀井の妻であることを確信
した。
夫婦はまだ健在なのだろうか。