古代からの中世松山

中世の伊予
こう の
蒙古襲来絵詞
かつやく
河野氏の活躍
1200 年から 400 年くらい前(平安∼安土桃
山時代)に、伊予(今の松山周辺)では、河野氏
という武士の一族が活躍しました。河野氏は、水
軍をひきいて瀬戸内海をおさめていました。また、
道後温泉の近くに湯築城という城を造り、ここは
伊予の国の政治や文化の中心となりました。
湯築城は
今の道後公園の中に
あったんだよ。
800 年くらい前(鎌倉時代)に、元(今のモンゴルや中国)の軍が攻
めてきて、日本との間で戦争になりました。この時、河野 通 有がけがを
しながらも大活躍しました。上の絵は、その通有(左)を竹 崎 季 長(右)
が見舞っている場面です。
(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
右の人はだれでしょう ?
右は一 遍 という人の像です。一遍は 1239 年
(鎌 倉 時代)に、松山で生まれました。河野一族
の子でしたが、お坊さんになって、仏教の勉強を
したり、お寺にこもって修行をしたりしました。そ
して飢えや病気で苦しむ人たちのために、日本全
国を旅してお札をくばり、念仏を広めました。
また、太鼓などの楽器をならし、踊りながら念
仏をとなえる 踊り念仏 を広めました。盆踊りは
この踊り念仏から生まれたといわれています。
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一遍 上 人立像
(宝厳寺蔵)
大山 神社法楽連歌(複製)
これは、河野氏が今 治 市の大 三 島 にある大 山
神 社に奉納した連歌です。武士や僧侶、庶民も参加しています。連歌は何人かが
集まって 5・7・5 と 7・7 を別々の人が順番に作ります。これがのちに 俳句 へとつながっていきました。
(大山
神社蔵)