聖書とわたし その一、問 題 の 発 端

聖書とわたし
寄 稿(「聖書講義」1958)
聖書とわたし
その一、問 題 の 発 端
“聖書的キリスト教か?
わたしのキリスト教か?”
ネストレ版ギリシャ語新約聖書の冒頭には、有名な聖書学者ベンゲルの言
葉がラテン語で掲げられてあります。
Te totum applica ad textum:
rem totam applica ad te.
訳しますと、「あなたの全体を、聖書の本文にあてはめよ。事柄の全部をあ
なたにあてはめよ」となります。これはとても意味深い言葉で、わたし共の
聖書研究のあり方に多くの示唆を与えています。さすがはネストレが序文の
冒頭に掲げた言葉だと思います。
わたしに与えられた主題は「聖書とわたし」という題です。大へんおこが
ましい題のようにも思います。しかし、よく考えてみますと、これほど自分
にふさわしい題はないと思います。事実、「聖書とわたし」ということ以外
に、わたしにはお話できることは何一つないと言ってよいくらいです。それ
はわたしが、わたしたちの聖書研究という問題を、とことんまでつきつめて
まいりますと、結局この「聖書とわたし」ということになる、と思うからで
す。もちろん、「聖書と」ということは、「キリストと」ということであり、
「キリストと」ということはまた、「神と」ということでありますが、それ
が「とわたし」という点と、ひとりひとり、本当の意味で結びついて、生き
た聖書研究になるものと信じます。そしてこのことこそ、ルーテルの宗教改
革の精神でもあったと思います。
この一、二年の間に、これは全く主のあわれみによるものと信じるのです
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が、少しずつ本当の聖書研究ということに目が開かれて、諸先生方の御指導
と御励ましのおかげで、少しずつ聖書の勉強を始めることができました。
この間に与えられたことを一言であらわしますならば、
「信仰は借りものであってはならない。それは正味、自分の信仰でなけれ
ばならない」ということでした。このことはまた言いかえれば、
「わたしのキリスト教はわたしのキリスト教でなければならない」という
ことでもありました。
もちろん、信仰はわたしが、わたしの努力によって獲得するものではござ
いません。御言葉と真剣に取組み、全生活をこれにぶっつけて求めて行く時
に、上より、全く神の恵によって、聖霊が与えて下さるものであります。聖
霊によらなければ誰も「イエスは主である」ということができません。信仰
は神の信仰、キリストの信仰、聖霊の信仰であります。ですから、わたしの
信仰、わたしのキリスト教というものはないと思います。
しかるにわたしには、問題は「聖書的キリスト教か、わたしのキリスト教
か」という形でやってきました。ここに言う「聖書的」とは、本当の意味で
の聖書のキリスト教(わたし共のキリスト教はこれでなければいけないので
すが)ではなくて、いわゆる聖書的キリスト教 scriptural Christianity と称
するものです。また、「わたしの」キリスト教と申しますのは、「我流の」
という意味でなく、本当にわたしと結びついた、わたしのものとなったとい
う意味です。このことは昨年この会の主題となりました「日本的キリスト教」
ということとも関連していると思うのですが、わたしはこの「日本的キリス
ト教」ということも、ひとりひとりが夫々、借物でない自分のキリスト教を
持ち得て始めてあり得る、否、それがそのまま日本的キリスト教である、と
考えています。
わたしがそれまで育てられた環境、またわたしが信じていたキリスト教は、
一つの最も聖書的な、また聖書的たらんと努力するキリスト教でした。『聖
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書の語るところで我らは語り、聖書の黙するところで我らも黙す』をモッ卜
ーとし、「本質(エセンシャルズ)においては一致、意見においては自由、
すべてのことにおいて愛」を合言葉とするこの運動は、教義においても、い
わゆる礼典においても、教会の組織・制度においても、また、いかにしてク
リスチャンになるかという「なり方」においても、素朴な新約聖書の教会に
帰ろうとする運動でありました。そしてこのことはいいことだと思いますし、
またこのような運動の中で訓練を受ける機会を得たことを、わたしは今も神
に感謝しております。
すべての人間製の組織や教派を排して、一つになるために新約聖書に帰ろ
うとするこの運動の中で、わたしは、最も聖書に忠実なキリスト教、最も聖
書的なキリスト教に従って、それに生きようと夢中で努力しました。しかし
そのような、一つの定まった標準の規格版の、ワンセットになったキリスト
教 the New Testament Church に自分を合わせて行った時、わたしは、その
わたし自身と聖書との間に、わたし自身の命(ライフ)と、この生きた生命
との間に、実は何のつながりもないことに気がついて、愕然としました。
その頃のわたしの聖書主義のキリスト教は、これは極端に簡単にして言う
とこんなものでした。「神はいます。それは聖書に書いてあるから。神は父
と子と聖霊である。それは聖書に書いてあるから。わたしは罪人である。そ
れは聖書に書いてあるから。わたしは救われねばならない状態にある。それ
は聖書に書いてあるから。キリストは十字架につけられて死に、葬られ、三
日目によみがえり、わたしの罪の贖いをして下さった。それは聖書に書いて
あるから。彼は神の子である。それは聖書に書いてあるから。救われるため
には、わたしはこれこれのことをしなければならない。それは聖書に書いて
あるから。何をせよと書いてあるか。いわく、信ぜよ、悔改めよ、告白せよ、
浸されよ。これだけの手続きが済めば、わたしは義とせられ、聖霊はわが中
に宿り給う。聖書に書いてあるから。主の再臨とわたしの肉体の復活はある。
それは聖書に書いてあるから。」
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しかし、ひるがえって、その再臨と復活がこの自分にとって何のかかわり
があるのか? 神は父と子と聖霊であるということが、このわたしにとってど
うなるのか? ということを顧みた時、たとえば十字架の贖いということが、
聖霊ということが、復活ということが、いずれもわたし自身と、またわたし
自身の need と、少しも必然的なつながりのないことに気づいたのです。事
実わたしは、自分が何によって救われているかという根本問題すら、実は解
決していなかったのです。
もちろん、このような信仰が生きた力となる筈はありません。わたしは自
分の属していたある仕事の失敗と共に、信仰もなくしてしまい、わたしの聖
書的キリスト教はすっかりダメで、何の役にも立たないことを、イヤという
ほど知らされてしまいました。わたしはよく考えてみますと、その時まで、
キリストを信じていると思いながら、自分の信仰を信じていたのでした。ま
た聖書の福音を頼みとしていると思いながら、自分が聖書的であるというこ
とを頼みとしていたのでした。
こうしてわたしは聖書の研究をもう一度、一からやり直さなければなりま
せんでした。そしてその時、それまでは日本福音化のため、教会の一致のた
めと思ってしていた聖書研究が、今度はわたし自身の霊魂のため、わたし自
身の平安のため、わたし自身が義とされるための聖書研究に変ってしまいま
した。そしてこの心をもって聖書に対した時、まずわたしの神は、今まで考
えていたよりもはるかに畏るべき方で、しかも神はわたしたちにもその同じ
義と聖を求めて、どこまでも、どこまでもわたしに迫って、追いつめてこら
れる方であることを知りました。
この生ける神に接した時、そこには癒されなければならないわたし自身の
破れ、解決されねばならないわたし自身の霊の問題が、そして次々にわたし
自身の恐ろしい罪が示されて、わたしはその解決のために夢中で聖書と取り
組まねばなりませんでした。
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もちろん、このような聖書研究には、危険が伴います、一人の「わたし」
という人間の霊の問題、ニード、わたし自身の戦い、というものから出発し
て行く時、仏教の表現を借りるならば、「法」の方からでなく、「機」の問
題から出発して行く時、そこには人間から発した人間のための信仰におちい
る危険があります。「わたしはこうだから、わたしはこれを必要としている
から、宗教もこうであるべきだ」とする危険です。すなわちギリシャ哲学の
立場、ヘレニズムの宗教への危険性です。しかしもしこれが単にわたしの側
から発したことではなく、真に聖霊がこの問題に対して、まずわたしの目を
開き、神がまずわたしの霊をあわれんで、神がイニシャチヴをとって、わた
しの心の中に示して下さった問題また戦いであるならば、神はこの危険性か
らわたしを守って、真に「罪と義とさばきとについて」わたしの目を開いて
下さる(ヨハ 16:8)はずであります。
こうしてわたしは決心しました。何でなくても自分の正味のキリスト教に
生きよう。聖書を通して本当に信じさせて頂いたことだげを信じ、それに生
きよう。ほかの誰でもないこのわたし自身の霊の問題、神の前におかれた自
分自身の罪の問題の解決と必然的に結びついたもの、切りはなせぬもの、そ
れだけがわたしのキリスト教だ。それはほんものの、自分のものでなければ
ならない。借りものであってはならない。もし借物であるならば、それがど
んなに聖書的なキリスト教でも、どんな教会の伝統的システムであっても、
棄ててしまうか、あるいは本当に信じさせて頂けるまで待とう。
こう考えて聖書に接した時、そこに残ったのは、義なる聖なる神の前にお
かれたわたしという人間、そのわたしの、どうにもすることもできない罪と
いう問題、それだけだということを知りました。しかもそれが抽象的な罪意
識ではなくて、自分の生活の現実の中に見えはじめたのです。たとえばわた
しの仕事の中に、不誠実がありました。対人関係にウソがありました。家庭
においては愛の欠如と冷酷がありました。そして、すべてこれらの根である
神への罪ということに対し、その解決は主イエス・キリストご自身であり、
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教会でも、信仰でも、熱心でも、人格でもなく、教義でも、礼典でも、聖書
的教会一致運動でもなく、伝道ですらない、ということを始めて知らされた
のでした。そしてイエス・キリストだけがわが義であり、わが聖であり、わ
が贖いであることを知らされて喜びにあふれた時、今度は、今までは教義の
問題であり、聖書的信仰の問題であった聖霊や、復活や、再臨やその他のこ
とが、少しずつではありますが、新しい意味をもって、今やこのわたしの罪
の徹底的解決のための神の恵として、一つ一つ信じることができるようにな
りました。そしてキリストご自身が、わたしにとって日々の生活の慰めと力
となりました。これは本当にうれしいことでした。
聖書を自分の宗教の聖典として読むということは、一つのことです。しか
し聖書を自分自身の現実の問題―ほかならぬわたしの罪、義、平安等に関
して、神がその中から自分に語りかけて下さっている書として、夢中で解決
を求めてこれと取り組むということは、たしかにまた別なことです。そして
後者には、わたしたちが生きる限り、戦う限り、探究しつづける限り、尽き
ざる喜びの発見とスリルがあります。聖書はおもしろい本とならざるを得ま
せん。
わたしが今晩お話申し上げますことは、すべて古い真理であって、あたり
まえのことばかりだと思います。今頃になってそれを知ったのがおかしいよ
うなことばかりです。今わたしがやっております勉強にいたしましても、聖
書会の皆様などよりはずっとずっとおくれております。これもまた、わたし
のキリスト教の限界かもしれません。ただわたしは今晩、今のべましたよう
な「わたし自身のキリスト教」、「自分自身の聖書研究」の生活の中に、パ
ウロとエレミヤから学んだ二つのことを発表いたしまして、もしそれが間違
っておりませんでしたならば、紀州の山の中でも、同じ生命の書と取り組ん
で、同じ真理を教えられた者がいるということを知って頂いて、一緒に喜ん
で頂きたいと思うのであります。
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その二、パウロから学んだこと
“キリスト教とユダヤ教との違い”
「パウロのキリスト教」という言い方は、あるいは誤解の恐れがあるかも
しれませんが、聖書の中にはやはり、パウロのキリスト教、ヨハネのキリス
ト教……というものがあると思います。もちろんキリストは一つです。福音
は一つです。しかしそれが、パウロの問題、パウロの戦いと結びつく時、そ
こにパウロのキリスト教が生れるのだと思います。そしてパウロの書いたも
のを読みますと、その中にパウロが生きて戦っているのが感じとれます。そ
れはパウロのキリスト教です。ほかの誰のでもありません。
パウロから教えられたことの中で、わたしにとって最も身近で、大切だっ
たことは、「キリスト教とユダヤ教の違い」ということでありました。わた
しは一昨年からこの問題にぶつかり始めました。それまでのわたしの理解で
は、新しい契約(新約)と旧い契約(旧約)との違いは、キリストによって
新しい時代区分 dispensation が始まったことにありました。そしてそれと共
に神さまが人をお救いになる方法、救いの御計画 the plan of salvation が変
ったのでありました。たとえて言うならば、今日の日本人は、聖徳太子の十
七条憲法にしばられるものではない。今日の我々は日本国憲法の下にある。
同様にキリストの十字架、復活、昇天後のわたしたちは、旧い律法によって
規制されるのではい。新約聖書の中に示されている救いのプランにのみしば
られるのである。即ち「救われるために何をなすべきか」という問題に対し
て、旧約時代の人たちにとっては、律法を守ること、割礼を受けることが答
であったが、今の我々にとっては、それはまずキリストを信じることであり、
次に悔改めることであり、第三にキリストを告白することであり、第四に最
後の段階として水に浸されることである。これが新約下における救いのプラ
ンである……というのでした。
しかし、福音がユダヤ教と異なるのは、そのように救われるためにふむべ
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き手続きが変更された、というだけなのでしょうか? ある人が言うように、
預言されたメシアがほかの人ではなくて、ナザレのイエスだった、というこ
とだけを信じれば、ユダヤ教徒はそのままキリスト教徒になってしまった
(M.クラーク説)のでしょうか? パウロは果して、「ユダヤ教時代には割
礼を受けて律法を守り、犠牲を供えることが必要であったが、今は制度が変
り、イエス・キリストを信じ、水の浸しを受けて主の晩餐という礼典(オー
ディナンス)を守らなければならないのだ。間違えてはいけない。キリスト
を信じて正しい手続きをふめ」ということを教えるために、あのガラテヤ人
への手紙を書いたのでしょうか? わたしにはどうしても、問題はもっと別な
ところにあるように思えました。
ちょうどこの頃わたしは、山本先生の聖書講義の旧号を通してガラテヤ書
の講義に接しました。そして何よりも、このガラテヤ書の本文を読むという
こと、しかもいかなる伝統的、教会的、妥協的解釈にも左右されずに、ガラ
テヤ書の本文をそのまま読むということを教えられました。そしてそのよう
な読み方の中から、いかに生命にあふれた生きたものが出てくるか、という
ことを教えられました。まずわたしは、この手紙の中で、パウロの語調がた
だごとでないのに驚きました。それはまるで喧嘩腰です。「奇怪千万至極で
ある!」、「のろわるべきである!」、「ニセ福音である!」、「自分の体
を切断してしまえ!」 たしかにパウロはこの手紙の中で、必死になって、ま
るで狂ったように、何かを守ろうとしています。そして何かと命がけで戦お
うとしています。そしてわたしにはやがて、それがこの「キリスト教とユダ
ヤ教との違い」という問題だということが、少しずつ分かってきました。そ
うするとこの問題はパウロの問題ではありません。それはわたしの問題です。
律法主義、行為主義の偽福音は、実にわたしのまわりに、身近に、否わたし
の中にさえあるではありませんか! ギリシャ語講読のクラスで、わたしは生
徒たちと一緒にパウロの一字一句に注意を注ぎました。
パウロが必死で言おうとしていることはこうでした。「わたしたちが義と
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されるのは律法の行いによるのではない。キリストの信仰によるのである」
(2:15,20)。ここの所、口語訳では「キリストを信じる信仰」となっており
まして、何か「キリストを信じる信仰」が救いの功績のように読めますが、
パウロが言おうとしているのは、律法は行うもの、キリストの義は、手に何
ものも持たないで仰いで受けるもの。律法ではない。キリストだ。行いでは
ない。信仰なのだ。神が罪ある我を義とし、また御自ら義となって下さった
十字架の義を、そのまま仰いで受けるそのことだ、ということでありました。
パウロはまた 3:2 では「律法の行いか、信仰の聞くことか」と、更にこの対
照をはっきりさせています。言い換えればパウロは結局、「キリストがすべ
てか、それともキリスト・プラス・サムシングか」という問題に対して、断
乎「キリストのみ」と答えたのでした。そして「我はこれを仰いで受けるの
み、このキリストの十字架以外に誇とするもの断じてあらざれ!」とその信
仰を明かにしたのでした。これに対してユダヤ教では、神に義とされるには、
割礼が必須不可欠(エセンシャル)である。律法を行うことが必要である。
たとえイエスを信じてもこの必須不可欠(エセンシャル)なものは棄てるこ
とができない、と教えたのです。これに対して、このきびしい律法の道を自
ら命がけで歩んで、義とならんがために徹底的に罪と戦って、ついに律法に
よって律法に死ぬところまで行ったパウロは、その死の中から唯一の義、キ
リストを示された時に、「割礼……ノー、律法の行為……ノー、犠牲礼典…
…ノー、キリストのみ!」と叫んだのです。これに妥協することは、パウロ
にとってはキリストを犬死させることでした。
このことを学んだ時、わたしにはガラテヤ 1:11 の言葉が、ひじょうに興
味深く思われました。
「兄弟たちよ、あなたがたにはっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福
音は人間によるものではない。」
原文には、「カタ・アントロポン」kata. a;nqrwpon なものではない、とあり
ます。「カタ」kata, という前置詞はこの場合 according to, agreeably to, in
conformity to というような意味ですから、パウロの言った意味は、「わたし
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の宣べ伝えた福音は、人間流のものではない。人間式の、ヒューマンな、人
間が普通考える考え方に合ってはいない。人間はもともとこんな考え方をし
ない。したくないし、またしようとしない。福音は本質的に人間の考え方と
は反対なものである」ということであります。
ユダヤ教は、上より与えられた啓示ではありますが、それが一たび宗教と
して固定した時、その人が義とされる道はやはり「カタ・アントロポン」な
もの、人間に似つかわしい、ふさわしいものになっていました。そこでは、
人は義とされるためには、自ら義たらんとする努力が、律法の行為が要求さ
れます。人は自分の義と引きかえに神の義を頂きます。もっとも人が本当に
自分の罪を徹底的に知らされ、キリストの十字架の下に行くためには、福音
の前に律法による訓練と戦いと、断罪と死が必要なのですが。
しかし福音においては、神の義と引かえるための何のわざも、何の条件も
あり得ないのです。これはまことに反「カタ・アントロポン」的です。それ
がたとえ割礼であろうと、水の浸しであろうと、信仰であろうと、熱心であ
ろうと、わが担う十字架であろうと、伝道であろうと、慈善であろうと、聖
書研究であろうと、それがキリストとわたしとの間に来て、「救いのための
条件や功績」と考えられた時には、それはユダヤ教になるのです。ですから
パウロは言いました。「わたしは神の恵を無にはしない」(2:21)。
このことはわたしには、エレミヤの「新しい契約」に関する一句を思い出
させます。「主は言われる。見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに
新しい契約を立てる日が来る。この契約は、わたしが彼らの先祖たちをその
手をとって、エジプトの地から導き出した日に立てたあの契約のようではな
い。」 英文 not like the covenant,原文「ロー・カッベリート」tyriB]K' aol(エ
レミヤ 31:31)。事実新しい契約は「契約のようではない」のです。それは
契約であって契約ではありません。それはもはや交換条件の取引でないから
です。エレミヤは「契約(べリート)」という言葉を使って「契約」以上の、
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反「カタ・アントロポン」なものを言いあらわさなければならなかったので
しょう。たしかに新しい契約は「契約のようではない」のです。福音は凡そ
人間流の宗教観、信仰観に反するのです。
キリスト教とユダヤ教をかくも峻別し、福音の真理を守った使徒パウロが、
もとを正せば熱心なユダヤ教徒の出身であったということはおもしろいこと
です。しかしこれは決して偶然ではありませんでした。それは旧約の律法の
義の訓練を通して始めて、人は罪を知らされるからです。パウロは福音の福
音たる所以を、その深刻な罪の体験の中から知らされました。「ああ、わた
しはなんというみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだからわたしを
救ってくれるだろうか!」という、あの、深い深い、罪の悲しみを知ってい
たパウロだったからこそ、その罪よりの救いは、神の子イエス・キリストの
十字架以外に何もないことを知り得たのでした。
ですから、もしキリスト以外に何か、割礼とか、教会とか、浸しとか、救
いに必須不可欠条件 essential になるものがあるとすれば、それはキリスト
にとってかわるもの、キリストを犬死させるものです。ですからパウロは言
いました。「見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、
キリストはあなたがたに用のないものとなろう」。また「わたし自身には、
わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものは断じてあ
ってはならない」(ガラテヤ 5:2,6:14)。
こうしてキリスト教とユダヤ教の違いは、パウロによれば「キリストだけ
か、キリスト・プラス・サムシングか」という一点に尽きました。ガラテヤ
のクリスチャンたちを悩ましたこの something は「割礼」ということであり
ました。しかし今のわたしたちの、否わたしのまわりにもこの something は
あるではありませんか。否、それはわたし自身の中にさえ入り込んで、たえ
ずわたしのキリスト教をユダヤ教にしてしまおうとしているではありません
か。「信仰」が救いの引かえクーポンのように考えられていました。「悔改」
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が救われるためにふむべき一つの段階のようなものとされていました。「告
白」はクリスチャンになるための手続きとなっていました。浸しは救いの条
件、天国に入る大切な最後の段階でした。そしてこれらのことが実に聖書に
帰る運動、最も聖書に忠実であろうとする聖書主義運動の中から生れて来た
のです。
A.B.デーヴィドソンはへースチングス聖書辞典の「エレミヤ」の項におい
て 、 「 申命記 と パ リサイ 主 義 は同じ 日 に 世に出 た 」 “ Pharisaism and
Deuteronomy came into the world the same day.”と言っています。聖書主
義の運動のあるところ、死せるパリサイ主義は影の形にそう如く、いつもそ
れに同行します。それはユダヤ教であります。わたしがパウロから学んだこ
とは、生きたキリスト教がユダヤ教とどこで根本的に違うかということであ
りました。そして間違ってもそのようなユダヤ教になってはいけないという
ことでした。こうしてわたしはユダヤ教の中からキリスト教を知らされまし
た。
その三、エレミヤから学んだこと
“聖書の信仰と異教(ベイガニズム)
あるいは宗教(レリジョン)との違い”
預言書を読んでみて、まず第一に驚いたことは、「預言者たちは生きてい
る」ということです。これは預言者といわれる人たちが、それぞれ自分の時
代とその問題の中で、真剣勝負の戦いを生きて戦った人たちだからでありま
しょう。自己の霊のこと、同胞の霊のことにおける切実な問題をもって戦っ
た人たちの戦闘記録だからであります。そしてその中に夫々の人の真摯な戦
いの連続を見る時に、アモス書は「アモス戦記」、エレミヤ書は「エレミヤ
戦記」と名づけてこそふさわしいように思います。そのような戦いの記録で
ありますから、預言者の書は、これを読む者も預言者と同じような戦いを持
たなければわからぬものであり、また預言書を本当に読めば、読む者もまた
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そのような戦いの中へと押しやられざるを得ぬものであります。
わたしがそれまで頭に描いていた預言者像はといいますと、それはひじょ
うに冷たい、機械的なものでした.預言者とは旧約時代における一つの職(オ
フィス)であって、神によって任命され、啓示によって奇跡的に上より与え
られた言葉を、そのまま神のハイファイスピーカーのように高忠実度に再生
し、或は警告を発し、或は末来を予告し、またキリストの姿を前以て似顔絵
の立て札でも立てるように描いて見せた人であって、預言者自身の性格や生
涯や、いわんや彼の問題や悩みや戦いについては、あまり考えて見たことが
ありませんでした。しかしエレミヤ書の本文を開いてこれを研究し始めた時
に、まずそこに、どうかすると神の啓示の言葉を見失わせるくらい強烈に浮
き彫りされている、預言者自身の生活、神のハートとソウルにふれて驚きま
した。
A.B.デーヴィドソンは、「エレミヤ書の中にあらわされているのは宗教的
真理 religious truths というよりは、むしろ一つの宗教的人格 a religious
personality である」(H.D.B. Vol.Ⅱ,p576)と言っていますが、たしかに
エレミヤ書の最も重要な点は、その中にあらわされているエレミヤという一
人の人の生涯であります。わたしたちはそれを見ることによって、その背後
に働いておられる方、またエレミヤが必死になって相手にしたところの者
―神を見るのだと思います。
ご存じのように、エレミヤの生涯は苦難と失敗の連続でした。その心の中
には解決し切れない霊的問題をかかえて、最後の最後まで神に迫り、神と格
闘した人でした。ヤボクの川におけるヤコブ、それに義人ヨブの戦いを除い
ては、旧約聖書中にこれほど真剣な深刻な戦いは見たことがありません。エ
レミヤは、
「真の宗教、真の信仰、純粋な神との交わりは何か? 何だろうか?
神様いったいどうなんですか!」ということを、全生涯をもって探究し、そ
のために戦いぬいた人でした。
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わたしがエレミヤから教えられた最大の教訓は、「聖書の信仰と異教(ペ
イガニズム)との違い」ということでありました。これはまた、「聖書の信
仰と宗教(レリジョン)との違い」と言ってもよろしいかと思います。それ
は、エホバの神が真にわたしたちに求められるのは、「生きる」to live とい
うことであるのに対して、異教のそれは「祭る」「おがむ」to worship とい
うことだ、ということでした。たしかに異教(宗教と言っていいと思います)
の本分とすることは to worship であって to live の方は問いません。また問
うても一応、worship することによって、それは帳消しになります。これに
対して聖書では、少なくともキリストの福音においては、いわゆる「礼拝す
る」ということがないのです。これは新約聖書における「礼拝」という意味
の単語の用例をしらべてみましてもよくわかります。
ですから問題は、ひとりの人が生きていること、生きて、考えて、行動し
て、戦って、仰いでいること、それが宗教であるか、それとも生活は俗界の
ことであって、それとは別に、礼拝の日があり、礼拝の場があり、礼典祭祀
の一定の手続があり、それによって生活の不義のうめ合わせをし、安心を得
るか、そのどちらか? というところにあります。もともと聖書の宗教は、そ
の真の精神は、そして少くともキリストの福音は「宗教」と呼ぶことのでき
ないものです。大体、礼拝もしないようなものを宗教と呼ぶのはおかしなこ
とでありますし、わが国の宗教法人法にも、宗教法人とは礼拝行為を行う団
体と明記してあります。そして教会規則の中に「教義をひろめ儀式行事を行
い」という一句を入れなければ、大阪府では宗教法人の認証は下りません。
ですから、もしわたしたちの信仰を宗教であるというならば、これは法律的
にも宗教法人法第一条の違反になると思うのであります。
エレミヤは B.C.7 世紀の中に、生活と神信仰との分離を見ました。これは
ペイガニズムの特色です。エレミヤは生ける生命の源を去った同胞に、「主
に帰れ」と呼びかけます。そして大体時を同じうしておこった申命記への復
帰運動、即ち聖書主の宗教改革の中へも、彼はとびこみます。そして少なく
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とも初めは、その中に同胞の救いの希望を見て、聖書的宗教制度回復運動(レ
ストレーション・ムーブメント)に情熱を傾けます。彼はそのために故郷を追
われ、親族から生命をねらわれる身となります。それでもなお、彼はこの聖
書によって同胞を救う運動を必死で戦います。
しかしそのうちにエレミヤは一つの大きな誤算に気づくのです。それはこ
の聖書主義のりっぱな運動が、いつの間にか一つの宗教となり、その宗教を
行うことによって事足れりとするようになってしまっていたのです。霊にお
いて始まったのに肉において仕上げるに至ったのです。すなわち霊において、
生活においてこそ主に帰らねばならぬのに、人々は礼拝のやり方において、
神殿の聖書的なことにおいて、組織・制度において、つまり肉において聖書
に帰ったからもう大丈夫だ、我々は安全な立場(セイファー・グラウンド)に
いる。平安だ! 平安だ! というようになってしまっていたのです。これは
偽善であります。偽善にはいろいろな偽善もありましょうが、神に対して霊
のことを肉で、形でごまかそうとすること、これが最大の偽善 the hypocrisy
であります。これは神をバカにする恐しい罪です。聖書をキリスト教という
一つの宗教(レリジョン)の聖典、拝みや祭のガイドブックと考えると、人
間はいつでも、生きた生命を死んだ宗教に変えてしまうようです。これは昔
も今も変りがありません。エレミヤの問題はまたわたし自身の問題です。こ
のことを知らされると、がぜん、エレミヤ書という本がおもしろくなってき
ました。
エレミヤはこの生命の化石化を見た時に、決然立って戦わざるを得ない破
目に立たされました。そして彼は国民礼拝の中心、エルサレムの神殿の庭に
立って叫びます。「あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の
神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。主はシロに対して行(お
こな)ったように、この家にも行われる」(7:4,14)。彼はまたあまりにも
極端、暴言と思われるような大胆な断定を下します。「あなたがたの犠牲に
燔祭の物を合わせて肉を食べるがよい。それはあなたがたの先祖をエジプト
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聖書とわたし
の地から導き出した日に、わたしは燔祭と犠牲とについて彼らに語ったこと
もなく、また命じたこともないからである」(7:21.22)。これなどは聖書的
宗教を根底から覆すようなショッキング・ステートメントです。彼はまた言い
ます。「見よ、このような日が来る。その日には、割礼を受けても、心に割
礼を受けていないすべての人をわたしは罰する」(9:25)。
「冒涜だ! 聖書(トーラー)否定だ!」と宗教家は激昂したでしょう。祭
司も、預言者も、政治家も、王も、エレミヤはみんな敵にまわしてしまいま
す。そして人から捨てられて、単独へと追いやられたエレミヤは、そこでか
えって神ご自身のもとへ帰ることができました。彼はそこではじめて、聖に
して義なる神の前におかれた罪ある自己の魂の破れを見、まず我自身が神に
帰り、神との人格的交わりに生きることこそ、先決問題でありすべてである
ことを教えられます。こうしてエレミヤにおいて、それまでの国家的、民族
的システムは、個人個人の魂が神に帰り、「主はわが正義」というその義に
すがって生きる、個人個人の深い霊的生活へと転換するわけであります。
わたしは今、エレミヤ書の中から、わたし自身にとってとても印象的だっ
た二つの個所を読んでみます (9:23)。
「主はこう言われる。知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある
人はその力を誇ってはならない。誇る者はこれを誇りとせよ。すなわち、さ
とくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地にいつくし
みと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたし
はこれらのことを喜ぶ、と主は言われる」。エレミヤ書の中にはこの「主を
知る」ということが強調されていますが、これは主が真にどんな方であるか
を知り、そしてそれに生きるという全生活のあり方を意味しています。拝む
ことではなく生きること、祭ることではなく知ること、これが主なる神の求
め給う礼拝です。
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としますと、これはもはや礼拝ではありません。生活全体です。この神は
祭ることも拝むこともできない神です。霊なる神には霊をもって対しなけれ
ばなりません。全人格をもって迫ってこられる神には、全人格をもってお答
えせねばなりません。エホバが主であることを知り、その主が義であり愛で
あることを知って、その主に頼り、義と愛の中に生きること、これが聖書の
礼拝であります。そしてここに異教、いわゆる宗教と、主を拝することとの
根本的違いがあります。
このことを教えられて、新約聖書に目を転じた時、そこには何とすばらし
い真理が、わたしたちの主によって教えられていることでしょう。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝
する時が来る。そうだ、今来ている。父はこのような礼拝をする者たちを求
めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこと
とをもって礼拝すべきである」(ヨハ 4:23,24)。
神は霊である。 そうです! すべての違いの根本はここにあります。「宗
教」や「礼拝」があり得ないのは、神ご自身が霊だからです。生きた人格だ
からです。そんな方としてわたしに迫ってこられるからです。そしてわたし
たちは、この神の本当の姿をナザレのイエス・キリストにおいて示されまし
た。「主を知ること」と言ったエレミヤがなお完全に知り得なかった主を、
十字架のイエス・キリストとして、復活の主キリストとして、神様はわたし
たちに示されたのです。そのキリストが実に、わたしたち一人一人の中に住
んで、わたしたちを潔めてしまわれたのです。わたしたちに与えられている
宝がどれくらい大きなものかが、今更のようにわかります。そして、ですか
らなおさらわたしたちは、異教と同じように祭ったりおがんたり、教会を作
ってそれに依ったり、儀式行事や礼拝行為などしてはおられないのです。も
っともっと根本の生命に生きる道を求めずにはいられないのです。
福音は生命です。生命は一つの形(宗教システム)の中に閉じこめること
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聖書とわたし
ができません。それは聖霊がここにも一人の魂を生かし、そこにも一人の魂
を生かし給うままに、それぞれの人の真摯な生活と戦いの中に聖霊と全生活
をもって取り組んで生きているところに、力強く生きて、実を結んで、子を
生んで行く筈です。わたしはただ、この福音の力を信じて、福音だけで生き
させて頂きたいと思います。一人一人がキリストを主として、キリストにす
がって生かされること、それがキリスト教だと思います。そして教会のこと
も、教派のことも、運動や主義のことも、組織や儀式のことも忘れて、ただ
福音だけ、キリストだけで生きているものたちを、教会―エクレシアとい
うのだと思います。わたしの愛読書、内村鑑三先生の「後世への最大の遺物」
から少し読みます。
「それならば、最大遺物とは何であるか。人間が後世に残すことのできる、
そしてこれは誰にでも残すことのできるところの遺物がある。それは何であ
るかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います。すなわち、この世の
中は、これは決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の
中であるということを信ずることである。この世の中は悲歎の世の中ではな
くして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯
を世の中の遺物として、この世を去るということであります。その遺物は誰
にも残すことのできる遺物ではないかと思う」(新潮文庫版 55 頁)。
そしてわたしはエレミヤの生涯と戦いの中に、この「勇ましい高尚なる生
涯」の一つを見ました。そして彼の生涯はまた、ここにもう一つの全く別の
わたしという一個の人間の生涯への、力強きチャレンジでもあります。何は
残すことはできなくても、伝道の成果、改心者の数を残すことはできなくて
も、もし主が許し給うならは、この「勇ましい高尚なる生涯」、希望をもっ
て生きられた生涯を残させて頂きたい。それによって、ただそれだけによっ
て主を礼拝したい。そしてまた生きるよりも戦うよりも、一生涯主を仰ぎた
い。これがわたしの念願であります。そしてこれこそ、パウロの教えた「わ
たしたちのなすべき霊的な礼拝」(ロマ 12:1)だと信じます。
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聖書とわたし
その四、む す び
聖書は生きた本です。ですから生きて、生活をもってぶつかって行って読
まねばなりません。聖書は多くの霊的先輩たちが神に召されて、霊の戦いを
戦った戦いの記録です。ですから戦いながら読まねばならないと思います。
聖霊は何ら真剣な準備のないところに、いきなりドカンと下るものではない
と思います。自分が今おかれている場にあって、真剣に誠実にそのつとめを
つくし、その中に次々に与えられる霊的問題と取り組んで、聖書の中に主を
求め、主の解答を求め、そして主を仰いで平安であるような聖書研究を、一
生涯自分の場で、自分のテンポ、自分のペースでつづけたいものです。
わたしの能力、わたしの理解力、体力は限られています。わたしの地上の
生命も限られています。しかし主がお召し下さるまで、主がお許し下さる間、
その時まで、主を仰いで希望をもってする勇ましい高尚なる生涯、偽りのな
い、一個の普通の人間としての生涯と、そしてこの生涯を真の生涯とするた
めの聖書研究を、コツコツと、自分のペースでつづけたいものです。それが
「わたしのキリスト教」でありたいと思います。今後も「聖書とわたし」の
聖書研究を
「わたし自身を聖書の本文に
Me totum applica ad textum:
事柄の全部をわたし自身に」 rem totam applica ad me.
あてはめて、求道者の道を歩みたいものです。
1958 年 7 月 28 日
東京都 西多摩郡 五日市町 高尾「青年の家」
雑誌「聖書講義」164,165,167 号所載
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