ゲーム終結時に発生する拍手 について 石飛 「生涯教育 ゲーム」をめぐって既 に発表 した一連 の論考 (石 飛 (2004)、 本稿 は、 和彦 (2(X15)、 (20()6))に つ らなるものである。 授業 でゲーム を とりあげ、実際に学 生 にゲーム を実演 させ る と、 しば しば、ゲー ムが終 わ った ときに拍手が起 こる。本稿 の 関心は、 この拍 手 の機能 に向け られ る。 なぜ私た ちは ゲームが終 わ った ときに拍手 をす るの力、 本稿 の第 一の課題 は、拍手 の機能 を定式化す る ことである。 つ ぎに、そ の拍手 をスムーズ に発生 させ る装置 について考察す る。 これが第 二の課題 である。 これ らの考察 か ら、生涯教育ゲームの枠組 な い し 「空気」 の管理装置 の ひ とつ として の拍 手について 、方法論 的・ 工学的 な探究が提案 され るだ ろ う。 1:予 備的考察 1-1:辞 書的定義 さしあた り、「拍手」は次 の よ うな辞書的意味 を もつているよ うである : 。はく 一しゅ 【 拍手】手を打ち鳴らすこと。激励・祝意などを表すために手を打つこと。 「―で迎える」「―を送る」(岩 波書店『広辞苑』 ) 。はくしゅ 【 拍手】[ほ めるとき、賛成の意を表すときなどに]手 のひらを何度も打ち合わ ) せて音を出すこと。 (学習研究社『 現代新国語辞典』 い うまで もな く、 これ らの語釈 は、正 しい。 とい うよ りも、 ご く常識的な次元 で言 うな ら ば、辞書に書 いてある語釈 こそがその単語 の定義 であ り、それ じた いが、正 しさを測定す るモ ノサンの役割 をはたす ものである以 上 、正 しいか どうか を問 うことがいみをな さな い よ うないみにお いて 、定義 上 、正 しい。 しか し、それ はそれ として、拍手が出現 してい る実際 の状況 を観察す ると、辞書的定義 には表 わ されて い ない これ らの振舞 いの実際的な意 味が見 えそ うなので ある 例1 【 発表終了時】 進行役 これで 1班 の発表を終わ ります。 全員 (拍 手) 例 2:フ ラフープリレー】 【 -41- : (「 フ ラフー プ リレー」 で、 フ ラフープが参カロ 者 の 円陣を一周 して出発点に戻 つた) 全員 全員 :(間 。 日をみあわす。) :(拍 手 ) 例 1】 【 例 2】 のよ うな場面での拍手には、おそらく、ごく形式的儀ネ 【 L的 な意味以上に は、ほとんど激励・祝意・賞賛・賛成等の意味は含まれていないよ うに思われる。 こ うし 「拍手」とい う振る舞いからいったん、 た拍手のありようは、検討に値するだろう。つま り、 辞書的な意味を切 り離 して考察する余地があるのではないかとい うことである。 この点に ついて本稿 の視点をはっきりとさせるために、あるエ ピツー ドについての記述を見てみよ う。それは、慣習を異にするふたつの社会のあいだでおなじ「拍手」 とい う振る舞 いにつ いての通念がくいちがつたために、ちょっとした誤解を発生 させたとい うエ ピツー ドを紹 介するものである : ヨー ロ ッパ でのオペ ラ、バ レエ 、 コンサー トな どの公演 が、は じめてテ レビでア メ リカヘ 生 中継 された時、演技・ 演奏 が終わ つて盛 んな拍手 かつさいに応 えて、出演者 たちが 自分 たちまで拍手す るのを見たアメ リカの視聴者 はシ ョンクを受 けた ものだ。 ・ ・・「連 中はな んて うぬばれが強いんだ。 コー ラス・ メンバ ーが主演者 に拍手 を送 るのはまだ許せ るさ。 たぶ ん彼 らの憧れ の的なんだろ うか ら。 で もプ リマ・ ドンナ 、 コンサー ト・マス ター 、指 揮者 まで、 どうして拍手す るんだろ う」 と不思議 がったのだ。 こんな声 がテ レビ・ プ ロデ ューサー たちに届 いたので、以後 のテ レビ中継では、英語 が話せ る解説者 をつ けて、 ヨー ロッパ ではこれが 当た り前 の ことだ と説明す るよ うになつた。 出演者た ちは 自分 の演技・ 演奏 に拍手を送 つてい るのではな くて、観客に紺 して、そ の支持 と是認 に感謝 を表わ して い るのである。 (ヴ ァー ガス(1987=1987)、 pp.53‐ 54.) このエ ピツー ドを紹介 している ヴァー ガスは、観 客 の拍手 と出演者 たちの拍手それぞれ に ついて、宛先 と意味 とを付与 している。 つ ま り、観 客は演技・ 演奏 の見事 さに関 して 出演 者 に宛てて賞賛 の拍手を送 り、出演者は観客に宛てて感謝 の拍手を送 ってい るのだ、 とい つた ぐあいに。そ して、同 じ拍手 とい う振 る舞 い に紺 してアメ リカ と ヨー ロ ンパ とでは意 味 の種類や広 さに違 いが あったのだ と指摘 してい るよ うに思われ る。それは納得で きる主 張 ではあるが、本稿 では も う少 し別 の角度 か ら考 えてみ よ うと思 う。 ヴァーガスは、 アメ リカのテ レビ視聴者 たちが「コー ラ ス・メンバ ー が主演者 に拍手 を送 るのはまだ詳せ るさ。 たぶん彼 らの憧れの的なんだろ うか ら」 と推論 した と述べ た うえで、そ の推論では 「で も プ リマ・ ドンナ、 コンサー ト・マス ター、指揮者 まで、 ど うして拍手す るんだろ う」 とい う疑間が解かれなか った、 とい うふ うに記述 している。 アメ リカの観 客 たちは、 アメ リカ 的な辞書的定義 を当てはめて 「観客 の拍手」 を解釈 し、 さらに同 じ辞書的定義 を若干拡大 -42- して 「コー ラス・ メンパーの拍手」を解釈 したが、それ以上の 「出演者 たちの拍手」を解 釈することはできなかった とい うわけである。それに対 して ヴァーガスは (あ るいは 「英 語が話せる解説者」は)、 ヨーロンパ的な辞書的定義において拍手は単に賞賛だけでなく感 謝の意味も持つのだ、と解釈 を与えたことになる。 しか し、そのかぎりにおいては、ここ でアメリカの視聴者たちがおこなったこととヴァーガス 自身がおこなったことのあいだに は本質的な違いはないのではない力ち つま り、いずれも、拍手が発生 したとい う現象に対 して、行為主体 (観客/コ ー ラスメンバー/指 揮者)と 宛先(演奏者/主 演者/観 客)と 意 味内容 /憧れ/感 謝)を 割 り当てて記述 しているのである。あたかも誰かが誰力Чこ (賞 賛 宛 てて封筒にメッセージを入れて送っているように、演奏者が観客に当てて感謝 の意を拍 手に乗せて送 つている、とい うわけである。 さて本稿 では、 こ うした理解が、適切 でない と言いたいのではない 一 日本の私たちの辞書にあつて も拍手は同様 の意味を持 つてい るだろ う。そ うではなく、「拍手」の発生とい う現象に対 して、辞書的な意味を付けカロえた り範囲を拡大 した りするのとは別 の次元で見ることはできないか、とい うことである。【 例 1】 例 2】 の ようななんでもないような場面を見て、そこでの拍手に、誰かの誰 かに対す 【 る賞賛ない し祝意ない し感謝ない しなにが しかの意味が込められていたのだと解釈するこ と、ではな く、拍手が起 こるとい う現象その ものの意味を見ることはできないか、 とい う ことである。 あるいは逆のいいかたをしたほ うがいいか もしれない 一 日常生活の中で、何 らかの 激励・ 祝意・ 賞賛・ 賛成等の意識・感情が起こったときに実際にそれを拍手 とい う形で表 現することがどの くらいあるだろ うか ? たぶん私たちは、日常生活の中でいきな り拍手 「 をされれば 場ちがい」な空気を感 じて当惑することになるだろ う。 つま り、辞書的な意味 とは別の次元において、実際の使用においては、拍手 とい う振る 舞 い と激励・祝意・ 賞賛・ 賛成等の意味とは、イ コールではない とい うことである。そ う 考えるならば、【 例 2】 の ような拍手の用い られ方を検討す ることの重要性がわか 例 1】 【 るだろ う。 1-2:い くつかの視点 拍手 とい う現象 の解明には、い くつかの視点が設定されるだろ う。本稿では詳 しく論及 で きないが、ランダムに挙げてい くならば ・ : 拍 手は儀礼的側面を持 つ。 た とえば宗教的活動 において行 われ る 「柏手」 との関連 を 検討す る必要があるだろ う。す ると、拍手 とい う動作には、何 かを聖別 す る機能があるの ではな いか と予測で きる。 -43- 拍手は、人間が発す る音 の 中では打楽器的な性格 を持つ。 つ ま り、手 を打 ち合 わせ る ことによつて鋭 く大きな破裂音 を発す ることである。行動学 を参照す べ きか もしれないが、 ・ そ うした打楽器的な音 を発生 させ ることは、た とえば 「相手 を威嚇す る」 とい つた機能 を 持 つ か も しれない。 この ことを、儀礼的機能 との関連で捉 え られ るか もしれない。 ・ 拍手は 口頭 での言語的発話 と競合す る。 つ ま り、拍手す るとい うことは喋 らない とい うことである。手 で大きな音 を出す ことは、 口で発 した言葉 を相手に伝 えることの邪魔 に なるだろ う9も ちろん、 じつ さいには、拍手を しなが らた とえば 「素晴 らしい !」 と語 り かけることもあるのだが、 しか し、そ の場合 で も、あま り細か い内容 の言葉 を発話 しなが ら同時に拍手をす るとい うことはふつ うは考 えに くい。逆 に、 コンサー トな どで 「プラヴ ォー !!Jと 言 いなが ら拍手をす る場合 には、それ はいわ ゆる通常 の発話 とい うよ りは、 「イエー」「ワー 」といつた無内容な叫びに近 い もの になるだろ う。つ ま り、標準的な拍手 のあ り方 としては、拍手す ることは言語的発話 を しない ことを意味す るだ ろ う。 ・ 「 拍手 は集団的現象 である。 ある場面で拍手が起 こつた場合、通常、それ は 全員 」 が 拍手を した、 とい うことになる (実 際に全員 が手を叩いていたか確認 され る必要 はない)。 ・卜数程度だ った とした ら、「半数 の人が拍手 を した」 あるいはその とき拍手 を していたのが とは記述 されず、「半数 の人 しか軸 手を しなかった (ま ば らな拍手が起 きた)」 と記述 され ることになる。 もちろん、 じつさいに手 を叩 くのはひ とりひ とりの人なのだが、 しか し、 拍手は、た とえば 「喧騒」 とか 「どよめき」 とか 「歓声」 とか と同 じく、集 団的な現象 で ある と思われ る。 拍手 をす る とき、人 は、集団に融解す る。 口頭で言語的発話 を行 うことを遮断 して 、没 個性 な拍子 を全体 に合わせて打 ち鳴 らす ことによつて、集 団的な営為 の一部 となる。 これ らの (あ るいは これ以外 の様 々 な)視 点について 、 ここで直接的 に論及す ることは で きないが、本稿 では これ らの視点 か ら、拍手 を、何 らか の集 団的な手続 き、 しか も儀ネL 的な、何 かを聖別す る手続 き と捉 えてみ よ うと思 うQ 2:「 括 り出 し」 の装置 としての相手 2-1:括 り出 しの機能 例 1】 【 例 2】 のよ うな生涯教育ゲームの終結時に発生する拍手に戻ろ う。ラフな直感 【 にしたが うならば、ここで注 目しよ うとしている拍手の機能 とは、ある活動 (ゲ ーム)の 開始・終了 。ないし転換点を可視化 して、ある活動を 「ゲーム」 として括 り出す こと、だ -44- 「 といえる。無論、多くのゲームや 日常的場面に見 られるように、活動 の最中に 手を打 つ て喜ぶ」 とい うかたちでの拍手もあ り、その場合は感情表出機能により傾 いていると思わ 例 3】 では、逆に、括 り出 しの機能がより前面化 されている れるのだが、次の 【 : インタビューの会話記録 より】 例 3:あ るフ 【 「 つて (生 徒 1、 2は 帰国子女。他に 2名 とインタビュアー 2名 が同席。質問は 海外に行 よか った こと悪か つた こと」 。) 生徒 1:う 一ん 外国人 の もの ごとの考 え方や (笑 )常 識 的な考 えや生活様式 な どを知 る ことがで きたのがや つば りいちばん 良かったんや ないか と思 い ます (一 同拍手) 生徒 2:書 いたのそのまま言 つて るや ろ 生徒 1:言 うことないなあ イ ンタ ビュアー ,そ うい うふ うに書 くわけ ? 生徒 1:や つぱ し、あんま りふ ざけて書 けないか らな これはゲームの記録 ではな く、あるイ ンタビューの会話記録か ら引用 した ものである。イ ンタビュー に答 えてい るのは帰国子女 の 中学 生であ り、イ ンタビューの質問 も彼 らの海外 体験 についての ものである。会話 中で 「書 いた の」 と言 つているのは、彼 らがそれ までに へ 頻繁 に受 けて いた 同様 の帰国子女調査研究 のアンケー ト用紙 の回答 の ことを指 している。 ここで生徒 1は 、イ ンタ ビュアーのあま りにお さだま りの質問 に封 して、冗談めか しなが らお さだま りの回答 を答 えてみせたわけであ り、それ に対 して他 の生徒 たちは、拍手 をす る ことによつてそ の発話 を括 り出 し、いわば 「別 の ゲーム」 として提示 してい る とい うこ とが見て取れ るだ ろ う。 次 の例 も直接的 にゲームの場面 ではないが、授業等 で頻繁 に見 られ る現象である : 例 4:ゼ ミ発表の終了時】 【 発表者 :以 上で発表を終わ ります。 全員 :(拍 手) これは 【 例 11と 似 たや りとりであるが、ゼ ミの授業場面で発生するたびに違和感を感 じ るものである。拍 手の括 り出 し機能 に注 目することで、この違和感の理由がわかる。すな わち、 ここでの拍手は、本来ならディスカッシ ョンに向けて開かれているはずの ものであ る「発表」を、いわばゲーム として (あ るいは「役割演技」 として)括 り出して しま うため に、授業担当者 としては大いに違和感が生ずるのである。 「 ニュア さて、「拍手」の辞書的定義 の中の、たとえば 激励」「賞賛」 といつたことなる ンスは、 こ うした括 り出しの機能 の上に付加 される感情の違いにもとづ くものであるが、 -45- それは、拍手 とい う同 じ単純な動作・音声が、社会的活動 の 中の どの局面に置かれ るかに よって 、ク レシ ョフ効果 の よ うに意味合 い を変えるとい う事実 を指 し示 している。 ある活 動 の開始点で拍手が行 なわれれば、 これか ら始ま る活動をゲーム として括 り出 しなが らそ れ に向けて感 情 を表出す る、すなわちそれが、辞書で言 うところの「激励」の表現 とな る、 とい うことにな り、また活動の終了点で拍手が行 なわれれ ば、そ こまでに行われて いた活 動 を同様 にグーム として括 り出 しそれに向けて感情 を表出す ることによ り、結果 として辞 書で言 うところの 「ほめる」表現 となる、 とい うぐあいに。 こ うした括 り出 し ― あるいは、集団的に聖別す ること ― の機能 に注 目して、本 稿 では、拍手 を、社会的諸活動 (ゲ ーム)の 多元的な枠組 を制御す るのに用 い られ る装置 として捉 えることにす る。 2-2:役 割解除 と括 り出し これに似た もの として、グル ープ ワー ク、ロール プ レイな どにおいて、「役割解 除」とい う手続 きの重要性 が強調 され ることがお もいだ され る。こ うした「役割解除」の手続 きは、 個人 の心理的な 「構 え」 に関連す るもの として概 念化 されているよ うにお もわれ る。 た とえば、「構成的 グループエ ンカ ウンター」 のテ キス トでは : エ クササイ ズが終わ つた ら、現実 に戻 る前に、終わ りの儀式 を しっか り行 うことが大切 で ある。特に ロール プ レイで役割 を与え られた場合 に、役割 と現実が混同 して しまい、や り とりの中で相手を嫌悪す る場合 がある。 エ クササイ ズが終わ つて も、後味が悪 い ままであ る。役割演技 と現実は違 うので、エ クササイ ズが終わ つた ら 「互いに感謝 の気持 ちを込 め て 「あ りが とう」」と言 つて 、役割 を解 く儀式 を行 う。/い まのや りとりは、この場ですべ て完結 していること、エ クササイ ズが終わった ら現実 に戻 る こ と、現実 に戻 つた らロール プ レイ中の ことは話題 に しないことを しっか りと確認す る。それ で もなお嫌 な気持 ちが残 るよ うな ら、その ことを個別 に聞 くので、心にため込んで しまわないことを伝 えるD (國 分 &國 分監修 (2004)、 p.139.) あるいはフィ ンガーペイ ンテ ィングの ワー クをもちいたファンタジー グル ープの プ ログラ ムにおける 「終わ りの儀式」についての文章 : ・・・ このよ うに、生 き方 について変化 を生 じさせ られた り、忘れて いた傷 と対面 させ ら れた りす るほ どの活動は、メンバー をファンタジーの世界 に浸 らせ ている といえよ う。 フ ァンタジーの世界 に沈潜 した参加 者 に とつて、グループの解散 と同時に 日常生活 の現実世 界に戻 ることは思つているほ ど容易ではない。そ こで、「終わ り」の区切 りとして 「儀式」 -46- が設 けられた ので ある。特 に、浸 つていた世界の残 骸 ともい うべ き作品をきちん と処理す ることが 「思 い切 る」 ことに通 じる と思われ る。 (銅 子 (2007),p.158.) さて、 しか し本稿で注 目している 「拍手」は、場の参与者 「全員」でお こな う作業であ る。そこで「解除」されるのは、ある個人のとる「役割」ではない。また、その「目的」も、 個人が役割に囚われ続けるのを回避する、とい うものではないように思われる。 しいてい えば、場の空気を適切にしめなければ、なんだか気持ち悪 い、釈然 としないものが残つて 後味が悪いのである。そのために、みんなで 「拍手」をすることによつて、それぞれの参 与者に 「役割」を与えていたところの 「場」の枠組み全体を、参与者全員で、解除する手 続 きであるように見える。た とえば個人の 「役割」が結果 として解除 されるとしても、そ れは、「場」の枠組の解除を経由 してであると思われるのである。 3:ゲ ーム終了の制御 3-1:終 結点 の明確化・枠組 の指示・選択的透過 あらためて 【 例 1】 【 例 2】 を見比べてみよう。 例 1:発 表終了時】 (再掲) 【 進行役 :こ れで 1班 の発表を終わ ります。 全員 :(拍 手) 例 2:フ ラフープ リレー】 (再 掲) 【 (「 フラフープ リレー」で、フラフープが参加者 の円陣を一周 して出発点に戻 つた) :(間 。 目をみあわす。) 全員 :(拍 手) 全員 いずれも、きわめてありふれたや りとり場面である。そして、一見してわかるとお り 【 例 「 1】 【 例 2】 には違いがある。すなわち、【 例 1】 では これで 1班 の発表を終わります」 とい う発話があり、それに応 じるようにして拍手が起 こるのに対 し、【 例 2】 では、ゲーム が終結点をむかえ、一瞬の間があつたのちに、拍手が起こる。 さしあた り 【 例 2】 に注目して、次のことがいえるだろ う。第一に、この一瞬の 「間」 は、きまずさとい うか、なにか 「うまくいっていない感 じ」を与える。第二に、拍手はこ こで、その 「間」を埋めて 「うまくいっていない感 じ」を修復するように、自然発生 して いるように見える。第二に、拍手が自然発生的だったとするならば、まさにこの場面で拍 -47- 手 とい う手続きが機能的に要請 された ことを表わしているだろ う。そ こで、【 例 2】 を、本 稿 の注目する 「拍手」の原型を示す場面 と見ることにしよう (こ の 「気まず い感触」をお ぼえておくこと)D 例 2】 と姑比 したときに、【 例 1】 ではきわめてスムーズにことが運んでいるように見 【 える。それはすなわち、【 例 1】 のや りとり場面が、より巧妙に人工的に制御 されている、 ということを表わすだろう。い うまでもなく、「これで 1班 の発表を終わ ります」とい う発 話が、その制御装置に当たるだろう。 ふたたびラフな直感に したが うならば、「これで終わ ります」とい う発話は、拍手が起 こ るべ きポイ ン トを明確に可視化す る装置 として機能 しているように、さしあた り思われる。 たとえば : 例 5:言 い直 しの例】 【 進行役 :ん で、まぁみんなそれな りに和がはかれたかな一 と )思 います (一 同、笑 い :(一 同の笑 い と重なる)終 わ ります (お 辞儀) :以 上です (お 辞犠) 全員 :拍 手 この場合 、進行役 のアナ ウンスが最後 の 「終わ ります」 の ところで、一 同の笑 い と重 なつ て、そのために拍手 を導 くことに一度失敗 している。 そ こで 、あ らためて 「以上です」 と 言 い直 し、またお辞儀 とい う同 じ動作をや り直す ことによつて、拍手 を導 くことに成功 し ている。逆 にい えば、首尾 よく拍手 を導 くことに成功す ることが、「終わ ります」とい う発 話 に要請 されている、とい うことであるよ うに見 える。本稿 で提案す るのは、この よ うに、 ゲーム終了時 のや りとりをグームの空気 の制御装置 として分析す ることである (基 本 的に この視点は、会話分析 の古典的 な研究である、会話 の終了部 門のメカニズムヘ の視点 と同 様 の関心を持つ ものである (シ ェ グ ロフ&サ ンクス(1972=1989)))。 次 の例は、「終わ ります」とい う発話 と拍手 とのや りとりが、多層化 されている場 面であ る : 例 6:多 層化 】 【 (一 連 のプログラムの最後 のグームの、最終 ランナ ー が ゴールす る) 進行役 :(7ヤ レを鳴 らす) え― 、記録 53秒 全員 :(「 イエ ーイ」拍手) 進行役 :2班 の優勝で―す 全員 :(「 イエーイ」拍手) 進行役 :以 上で 「ゴ ミ袋 リレー グーム」終 わ りま―す -48- 全員 :(「 フー フー」拍手) 進行役 :え 、以 上で終わ りま―す 全員 (「 は い」)あ りが と― ございま した ― :(拍 手) ここでは、進行役 と全員 (参 加者 「みんな」 )と のや りとりが何往復か行 われて い る。まず、 あるゲーム 「ゴ ミ袋 リレー」の 内部で、あるチームのプ レーが行われ完了 (ゴ ール )す る。 これ に姑 して進行役 はベル 苦 と記録 アナ ウンス によつて終結点をマー クす る。 それ に封応 して、全員が拍手 を行 う。次 に、「2班 の優勝 です」 とアナ ウンスす ることで、「ゴ ミ袋 リ レー」 とい うゲームの 内部で の、セ レモ ニー としての優勝 アナ ウンスを行 い、そ こでまた 全員が拍手 )を 行 (こ れ は辞書的な意味での 「賞賛」 の拍手、 と言 つて よいか も しれない う。次 に、「以上で 「ゴ ミ袋 リレーゲー ム」終 わ りま―す」 とい う発話 によつて ゲームそ の ものの終結点 をマー ク し、それ に応 じてまた全員 が拍手 を行 う。最後 に、 このグームを含 む一連 のプ ログラム全体 )の 終結点 をマー ク し、それ に応 じ (こ れ が予 )工 発表 とな っている てまた全員 が拍手 を行 つている。 この 【 例 6】 を見 ることによつて、進行役 の 「終 わ ります」 とい う発話 に も うひ とつの 機能 を付 け加 える ことがで きるだろ う。つ ま り、「終わ ります」とい う発話 は、たんに枠組 の終結点を明示す るとい うだ けでな く、多層的なグームが行 なわれ ている ときに どの枠組 が終わ ろ うとしているのかを明示す る、とい う機能 である。つ ま り、「終わ ります」とい う 発話 は、そ こで行 われてい る多層的な活動 の うちのひ とつの層 を定式化 し、マー クす る こ とで、拍手 とい う終結儀式 を協働的に行 うことを提案す る装置であ り、拍手 は、それ じた いが そ の提案 へ の承認 とい う隣接 ペ ア を形成 し、 このや りとりが、あわせ てゲーム終了の 制御装 晋 ヒ となつて いる、 とい う見取 り図を描 くことができると思われ る。 次 の例では、よ り手 の込 んだ ことがお こなわれ ている : 例 7:活 動で得 られたものを定式化する】 【 (各 チームで 「人間知恵の輪」を行 つている。 BGMが 流れている。ひとつのチームを残 してあとは成功 し終わつている) 進行役 :(ベルを鳴 らす) :(BGMの 曲がちょうどエ ンデ ィングにはいる ) 進行役 :(エ ンデ ィングに合わせて)は い、 え― と、できなか つたチーム もある と思 うん と ですけ ども、最後に円になれたチームは、チームで最後輪になってまとまった、 い うことで、今 日のグームは終わらせていただきたいと思います とうございました 全員 :拍 手 -49- どうもあり が ここでは、ベル を使 い、また BGMの エ ンデ ィングをちょ うど利用す ることによつて 、効 果的かつスムーズ にゲームの終結点を可視化 している。 また、注 目す べ き点は、 ここでの 最後 のアナ ウンスが、この活動全体で得 られた もの を定式化す る (「 チームで最後輪 になっ てま とまった」 )も のだ とい うことである。〔 例 5】 で もある程度 は行 っていた (「 ま ぁみん なそれな りに和がはかれたかな― と思います」 )が 、ここでは よ り明確 に定式化 を行 い、ま たはつき りと 「ど うもあ りが とうございま した」 と発話す ることで、全員 が揃 つて拍手す ることので きるタイ ミングを明確 に コン トロール している。 ところで、 この 「活動で得 られた もの を定式化す る」発話 については、 ゴフマ ンの グー ム分析 の 「透過 汀 (を 参照す る とよい (ゴ フマ ン(1961=1985)、 邦訳書 p.62. 莫」 とい う比 阿 練 また石飛 (2(X15))だ ろ う。 ゲームは、 しか じかの枠組 によつて、 日常生活世界か ら離れた ひ とつの開 じた世界 を構成 している。 ゲーム世界は、ちょ うど細胞 をつつむ細胞膜 が選択 的透過性 を持つ よ うに、 日常生活世界 のある側面 をゲーム世界内に取 り込み、またゲーム 世界内の出来事 の ある側面 を 日常生活世界 に引き渡す。た とえば金 を賭 けたゲー ムのお も しろ さが賭金の レー トに よつて左 右 され るよ うに、ゲームのお もしろ さは、 この透過膜 を 通 してゲーム世界 と日常生活世界 との間にや りと りされ る リツースをいか に コン トロール す るかにかか つている。 この こ とは、 ここで検討 しているゲームの終結時 のや りとりにも あてはまる。すなわち、ゲーム内の活動 の成果 を、ゲーム外 の 日常生活世界 に どの よ うに 引き継 いでい くか、参加者がいわゆる 「「おみやげ」を持 って帰 る」ことので きる、しか も そ の ことを実感 で きる しくみを作 る とい う問題が ここにある と思われ る。 ここで見てい る「拍手」は、終了 しつつ あるゲ ーム (閉 じられ る枠組 )の 側 か ら見れ ば、 解除 の儀式である。 しか しそれ は同時に、外側 の枠組 (日 常生活世界)の 側 か ら見れ ば、 グーム内で行 つた活動 を定式化 し評価 し、そ こか ら何かを収穫 として取 り入れ る手続 きに もなってい るはずである。〔 例 7】 で行われ てい るよ うな定式化 は、そのよ うな意味にお い て、ゲーム を終結 し日常生活世界ヘ スムーズに復帰す る手続 きとな ってい るよ うに思 われ る。 3-2:グ ーム枠組 の開始 ―維持 ―終結 について 授業 との比較 ここで議論 の補助線 として、学校 の授業 とい う相互行為場面 を参照 してお こ う。 社会学的な相互行為論 の視点か らは、 (あ らゆる社会的相互行 為場面 がそ うであるよ う に)学校 の授業 もまた 、ある枠組 を持 つたゲーム として捉 え られ る。その うえで、本稿 で 注 目している 「生涯教育ゲーム」と 「学校の授業」とを、「スポ ンテニアス なゲーム/レ デ ィメイ ドなゲーム」 とぃ うかたちで封比す ることがで きる (前 掲石飛 (2004))。 す なわ ち、 学校の授業は、私 たちの社会 の 中で強固に制度化 されているひ とつの 「制度的場面」 とし て 、私たちが実際 に参加す る以前にあ らか じめル ールづ けられ システマテ ィンクに組織化 -50- 「 ーム終結部」 に関 して も、す されて いる。そ のために、た とえば本稿 で注 目している ゲ い うよ りは、あ らか じめ、 でに見てきた事例 の よ うにその場 で のや りと りに多 くを負 うと されてい る、といえる。 ゲーム枠組 の開始 一維持 ―終結 を制御す る しくみ が さま ざまに準備 こなわれ る 「起 立 、礼」 の挨拶 だ もつ とも見 て取 りやす いのは、授業 の最初 と最後 にお 「 立 では さむ ことに よつて 、 ろ う。授業 とい うゲームの開始部 分 と終結部分 とを 起 、礼」 る しくみ として、時間に合 わ その間 のグーム空間を明確 に括 り出す こ とができる。関連す ムは このばあい、本稿 で見て せ て放送 され る始業 と終業 のチ ヤイ ムがあるだ ろ う。 チヤイ であ り、それ 発話 に相 当す る、ゲームの終結点を可視化 し提案す る装置 きた「終わ ります」 う を うけてお こな う「起立、礼」 の儀 式が拍手 に相 当す るだろ 9 をもちいて進行 され るが、 また、学校 の授業 は、細 かい単元 に区切 られた教科書や教材 (な い し科 目の年間 プ ログラ それは、単 に教授 され る知識 内容 を伝 えるだ けでな く、授業 のプ ログラム として教師 お よび ム全体)の 見取 り図を可視化す る ことによつて、授業進行 の 目の終結 点ない し 「キ リ 生徒 によつて利用可能 な リツース とな つている。教科書 当該項 だろ う。 で のいい ところ」 は、授業 の終結点 をあ らか じめ予測 させ ることが きる ーム空間 の括 り出 しに一役 買 つ また、学校 の教室 の物理的性 質 じたいが、授業 とい うゲ に収容人数 (ク ラスの生 てい る と見 る こともできる。 つ ま り、教室 とい う空間 は、基本的 と室外 を仕切 る壁・ 窓・ ドア も遮断性 が 徒翔 に合わせて設計 されて いて、 しか も、室内 「 の =「 単一の授業 の空 間」、「教室 内にい 高 く、黒板 や机 の配置 もあわせ て、 教室 内 空間」 「 べ 内で起 こつてい る出来事」=「 授 る人 々」=「 授業 に参加 してい る/す き参与者 」、 教室 にいえば、室内外 の遮断性 が低 く、広 さ 業 に関与す る こと」、 とい う等値 を容易 にす る (逆 り・行 き来 してい るよ うな空間で、 も漠然 と広 い部屋 で 、関係 ある人 とない人 が頻繁 に出入 には、いわゆる学校 の授業 のや り方 複数 の活動 が同時 に行 なわれ た りしてい るよ うな場合 つて、た とえば、あるタイ ミング とは別 の方略 が要求 され るだろ う)。 そ うである ことによ スター トさせ る 日印 に用い られ で教室 の ドアがガ ラガラつ と開 くことが授業開始 の儀 式 を 「 の の 「いつせいに椅子 を引 く音」 る、とい うこともお こる し、授業終了時の 起 立 、礼」 際 が終了儀ネしの一部 となる とい うこともお こるだ ろ う。 つて、儀礼 的な手続 きが省略 されてい くよ うに見 興味深 いのは、学年 があが るに したが 「 立、礼」 の挨拶 が、学年 があがる えるこ とである。小 中学校 ではていねいに行 われ る 起 ムだけにな り、あるいはチヤ チ につれ て省 略 されて い き、高校 、 あるいは大学では、 ヤイ 「 ち着 きのないクラス」ほ ど)、 イ ム も省略 され る ことになる。また、低学年 ほ ど (ま た、 落 つてい るが、 「チ ャイ ム と同時に起 立、ネL、 授業開始」 を厳格 に実行す ることが重要 にな 「 ど)、 チ ャイ ム と起立・ネLと 始業 とを 学年 があが るほ ど (あ るいは クラスが落 ち着 く」ほ になる と、単元 ごとに構成 された ば らば らに して も授業 が成立す るよ うに思 われ る。大学 のまま用 い られ ることも少 な くなつていき、教 教科書然 とした教科書や ワー クプ ツクがそ だけ私 たちが規律訓練 され て 室空 間 も漠然 と開放的にな つてい くだ ろ う。 これ らは、それ -51- 枠組 の切 り替 えを身体内に 自動化 している、 とい うことによるだろ う (学 校教育 の潜在 的 カ リキ ュラムについての議論 (ボ ウル ズ&ギ ンタス(197併 1986)な ど)が 指摘 してい るの は、た とえば この ことである)。 もちろん、学校の授業が 「レデ ィメイ ドなゲーム」 であ り、その枠組 の制御 が制度 的お よび身体的に大幅 に 自動化 されてい るか らといって も、相互行為場面 の 中で枠組 の維持 が 行 われ ないで済 んでいる とい うことではない。む しろそ うした活動は、身体化 され 自動化 されて い るだけいっそ う無意識的に、営まれて い るのだ とい える (授 業 とい う制度的場面 の相互行為分析 については、秋葉 (1996)、 上 田(1997)、 二十嵐(2(l(17)な どを参照)。 重要 な ことは、授業 とい うゲーム枠組 を開始・維持・ 終結 させ るための手続 きや、それ をアフ ォー ドす るさま ざまな リツースが、学校 の授業場面には (あ るいは私たちの社会 の 中で の さま ざまな制度的場面には)あ らか じめ制度的に供給 されて い る (こ の点 につい ては石飛 (2(X15)で も触れた)と い うことである。それ と対比 して、「生涯教育ゲーム」では、それ ら のアフォー ダンス を見いだ し、ゲーム枠組 を開始 ,維 持・ 終結 させ る手続 きを実践す るこ とを、 よ り主題化 して行 うことになる、 とい うことである。 4:ゲ ーム終結にかんす る方法論的・工学的検討 本稿 では、グーム終結時に発生す る 「拍手」 に注 目して きた。 ここでの議論 は、ゲーム 終結 (あ るいはよ リー般的に、ゲーム空間の枠組維持 、あるいは 「空気 」 の管理 (石 飛前 掲論文(2004)(2(l(15)を 参照))に かんす る方法論的・工学的検討 とい う問題提起 をす ること になるだろ う。 「これで終わ ります」をメ リハ リよ く言 うことによつて拍手 のポイ もちろん基本的には、 ン トを明確 に指定す ることに尽 きるのだが、 しか し、そ こに もア レンジの余地 とヴァ リエ ーシ ョンの可能性 はあるだろ う。た とえば 〔 例 5】 〔 例 6】 【 例 7】 でみ られた よ うなベ ル や BGMの 利用、活動成果 の定式化 (あ るいは 「おみや げ」の確認)と いったや りかたは、 そ の手掛か りになる。 また、学校 の授業 の 中に制度化 され埋 め込まれてい る装置、た とえ ば先に上げた例では、単元化 された教科書 といつた ものは、グームの 「式次第」 をあ らか じめ配布 ない し掲示 してお く等 のや り方にア レンジす ることができるだろ う。 あるいはま た、それ以外 の さま ざまな社会的場面の終了時 の手続 きに注 目す ることで、利用可能 なや りかたを発見す ることも可能かも しれ ない。 た とえば、伝統的に行 われている 「手締 め」 (「 三本締 め」「一本締 め」な ど)と いったちょっ とした儀ネとを、ゲーム終 了時 の約束事 と して利用す るの も面 白いか もしれ ない (た とえば、現在 あま り使われな くなってい る 「大 阪締 め」を全員で覚 えておいて、プ ログラムの最後 を しめる約束事 としてや つてみ る、な ど)。 このよ うな視点か ら、終了を コン トロール す る方法・装置 は、検討 。開発 に値す る と思 -52- われ る。 * 本研究は、「社会教育特講 HI(生 涯教育方法論 )」 での探求に多 くを負 つてい る。授業 でのグ ームの実践 を通 じて問題 の考察 に付 き合 って くれた受講生諸君 に感謝す る。 秋葉昌樹(1996)「 脱線・中断 。再開にみる授業の秩序化と生徒の経験 ― apphed ethnomethodologyの 試み」 『 立教大学教育学科年報』nO.39.pp.59‐ ボウルズ, 71. S.&H.ギ ンタス(1976=1986)『 アメリカ資本主義 と学校教育』岩波書店 エス プリ別冊 イメージによるグループワーク 銅子龍賢(2007)「 終わりの儀式」 『 現代の の実践』pp.157‐ 166.) ゴフマン,E。 (1961=1985)「 ゲームの面白さ」 『 出会い』所収、誠信書房 二十嵐素子(2007)「 教える/学ぶ (授 業の会話)」 「教える/学ぶ (授業のワーク)」 前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編『 エスノメンドロジー』pp.175‐ 180, 182・ 188.新「翌1土 石飛和彦 (2(X14)「 生涯教育場面 に導入 され る 「ゲーム」について 一 「空気」 の協働的管 lo.8,pp.23‐ 35. 理 ―」 『 天理大学生涯教育研究』】 ― (2005)「 生涯教育ゲームの分析枠組/分 析可能性」 『 天理大学生涯教育研究』 no.9,pp.30‐ 49. ― (2006)「 生涯教育ゲームと状況的学習論」 『 天理大学生涯教育研究』nO.10. pp.40‐ 52. 國分康孝 &國 分久子 (監修)(2004)『 構成的グループエンカウンター事典』図書文化社 シェグロフ,E.&H.サ ックス(1972=1989)「 会話はどのように終了されるのか」 G.サ ーサス、H.ガ ーフィンケル、H.サ ックス、E.シ ェグロフ 『 日常性の解剖学』pp.175‐ 241.マ ルジュ社 上田智子(1997)「「授業」の相互行為的産出 ― 授業分析の一視点として」 『 日本語学』vol.16.no.3.pp.52‐ 63.明 治書院 ヴァーガス,M,F。 (1987=1987)『 非言語 コミュニケーション』新潮選書 -53-
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