産業保健スタッフ向け 自殺防止マニュアル

産業保健スタッフ向け
自殺防止マニュアル
廣 尚典
アデコ㈱健康支援センター
1
目次
第Ⅰ章.職場における自殺の現状と行政等の動向
1)近年の自殺者数の動向
2)自殺の背景因子
3)過労自殺をめぐる問題
4)自殺の労災認定
5)自殺防止対策有識者懇談会報告の考え方
6)「21 世紀における国民健康づくり運動(健康日本 21)」の目標と対策
7)第 10 次労働災害防止計画の内容
8)その他の自殺防止対策事業等
第Ⅱ章.職場で進める自殺防止対策の基本的な考え方
1)メンタルヘルス指針が求める活動と自殺防止対策の関係
2)組織、管理体制のあり方
3)関係者間の連携の重要性
第Ⅲ章.自殺の高リスク者の把握と評価
1)自殺の危険因子とサイン
2)うつ状態とその簡便な構造化面接法
3)問題飲酒の評価のポイント
第Ⅳ章.自殺の高リスク者への対応
1)高リスク者への対応法
2)希死念慮に関する質問法
3)自殺を打ち明けられた場合の対処法
4)専門機関への紹介の仕方
5)家族・肉親との連携法
第Ⅴ章.その他
1)家族等への啓発活動
2)管理監督者への働きかけ
3)ポストベンションについて
2
第Ⅰ章.職場における自殺の現状と行政等の動向
第Ⅰ章のポイント
・わが国の自殺者数の増加は、著しく、平成 10 年より 3 万人を超える状態が続いている。
この傾向は、労働者(被雇用者、管理職)にも、同様にみられている。
・労働者の自殺は、当該職場に多大な影響を与えることは言うまでもないが、最近では事
業者責任を問われる例もみられており、労災認定例も増加している。職場における自殺防
止対策は企業のリスク管理の面からも重要となっている。
・国も職場において自殺予防対策が行われることを求めており、そのための事業も展開さ
れている。
1)近年の自殺者数の動向
わが国の自殺に関する全国統計は、警察庁と厚生労働省から発表される。例年、厚生労
働省の数字は、警察庁の数字に比べ、1000 人〜2000 人少なくなっている。
警察庁の発表によると、わが国の年間自殺者数は、1998 年に急増し、3 万人を突破した。
それ以後、6 年連続で3万人を超えており、2003 年は 34427 人であった。減少傾向には転
じていない。これは過去に例を見ない高率である。年齢層別にみると、20 歳代〜50 歳代の
いわゆる就労年齢ではいずれも増加をみており、特に 50 歳代、40 歳代で伸びが著しい。被
雇用者に限ってみても、国民全体と同様の増加傾向が認められている。管理職については、
10 年以上漸増傾向にあるとさえいえる(図Ⅰ‐1〜4)。
http://www.npa.go.jp/toukei/
厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健統計課は、毎年公表している人口動態統
計をもとに、時系列分析など自殺による死亡の状況について分析を行い、人口動態統計特
殊報告として自殺死亡統計を取りまとめている。2005 年に公表されたものは、1994 年〜2003
年を中心として分析しており、1977 年、1984 年、1990 年、1999 年に続いて 5 回目である。
これには、月別、手段別、都道府県別データの他、諸外国のデータも掲載されている。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/
3
図Ⅰ‐1.わが国の自殺者数の推移(全体)
(人)
40000
34427
35000
33048
32863
31042
31957
30000
32143
25524
25000
23599
24391
23742
24460
22104
21346
22436
21851 21679 22445
21084
20000
23104
15000
10000
5000
0
S60
61
62
63
H1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
図Ⅰ‐2.わが国の自殺者数の推移(年代別)
(人)
14000
12000
11529
10000
8614
8000
6000
5419
4603
4000
3353
2000
613
0
S60
61
62
63
H1
2
3
4
5
6
7
4
8
9
10
11
12
13
14
15
〜19歳
20歳代
30歳代
40歳代
50歳代
60歳以上
図Ⅰ‐3.わが国の自殺者数の推移‐被雇用者
(人)
9000
8474
7960
8000
7890
7301 7307
7470
7000
6034
6000
5660
5487
5767
5144
5108
5000
5394
5416
5696
5333
5214
5374
4925
4000
3000
2000
1000
0
S60
61
62
63
H1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
図Ⅰ‐4.わが国の自殺者数の推移‐管理職
(人)
800
745
728
713
700
696
735
692
600
516
500
487
422
449
382
390
400
362
407
411
371
355
335
300
478
200
100
0
S60
61
62
63
H1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
2)自殺の背景因子
警察庁の発表では、平成 15 年の自殺の主な原因・動機は、
「健康問題」15416 人(遺書あ
5
り 3890 人)、
「経済・生活問題」8897 人(同 3654 人)、
「家庭問題」2928 人(同 971 人)、
「勤
務問題」1878 人(同 616 人)となっており、最近の自殺者数の増加には、特に前 2 者が色
濃く影を落としていると言われている。その傾向(特に「経済・生活問題」)は、不況との
関係で否定しようのない面があるが、このデータは精神医学、心理学の専門的知識を必ず
しも有していない警察官によって集められたものであり、ひとつの例についてひとつの動
機を取り出していることには注意が必要である。
自殺はさまざまな原因からなる複雑な現象であり、単一の原因だけですべてが説明でき
るものではない。精神科医等の専門家からは、自殺直前には多くの例で精神健康が損なわ
れていることを強調する指摘が少なくない 1)。わが国では、自殺に関する研究は数が多くな
いが、欧米の心理学的剖検などの手法を用いた調査研究によると、自殺例の大多数に、精
神不健康状態がみられていたという。なお、心理学的剖検とは、自殺後に専門家のチーム
が本人の家族や知人に対して同意の上面接を行い、彼らのケアをするとともに、本人の生
前の精神面の問題を探るものである。
3)過労自殺をめぐる問題
1990 年代後半より、「過労自殺」2)という言葉がマスコミ等で使用されるようになった。
先行して話題になった「過労死」が過度の仕事の負担を主な発症要因とする脳・心臓疾患
による死亡であるのに対して、「過労自殺」は、長時間労働をはじめとする職場要因によっ
て、何らかの精神疾患(多くはうつ病)を発症し、そのために結果的に自殺に至った例を
さす。
電通事件は、この過労自殺に関して事業者責任(安全配慮義務)が問われた事例であり、
最高裁判決では遺族側の主張が全面的に認められた。結果として、多額の損害賠償も発生
している。それ以後も、おたふくソース事件、川崎製鉄水島製鉄所事件など、過労自殺を
めぐる訴訟事例が続いた。これらの訴訟で事業者が責任を問われた主な事項は、当該労働
者の長時間労働等の過重労働を放置していたこと、当該労働者に明らかな異変がみられた
にもかかわらず、管理者が適切な業務面の配慮や専門医の受診勧奨を怠ったことなどであ
る。
4)自殺の労災認定
1999 年 9 月「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針」が公示され、精
神疾患が業務上疾病として認められるための要件が明確になった。この中で、自殺につい
ては、業務による心理的負荷によって精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った
場合、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、または自殺行為を
思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたものと推定さ
れ、原則として業務起因性が認められることになる。
精神障害および自殺の労災認定状況を表Ⅰ‐1 に示した。精神障害の労災認定例は、平成
6
2002 年 100 例となり、2003 年は 108 例であった。そのうち、自殺例は 40 例となっていた。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/05/h0525‑1.html
表Ⅰ‐1. 精神障害および自殺例の労災認定状況
1995 1996 1997 1998
1999
2000
2001
2002
2003
精神障害の請求件数
13
18
41
42
155
212
265
341
438
精神障害の認定件数
1
2
2
4
14
36
70
100
108
自殺例の請求件数
10
11
30
29
93
100
92
112
121
自殺例の認定件数
0
1
2
3
11
19
31
43
40
5)自殺防止対策有識者懇談会報告の考え方
上述した自殺者数の急増に対して、厚生労働省はその抑止対策を講じるべく、平成 14 年
度 8 回にわたり、自殺防止対策有識者懇談会を開催し、わが国における地域、職域を含め
た自殺防止対策のあり方をまとめた。
そこでは、職場が、家族や地域とともに、自殺防止対策を行う場として重要視されてお
り、心の健康問題に関する正しい理解の普及・啓発、うつ病対策などを推進することが重
要であると述べられている。また、平成 12 年に公示された「事業場における労働者の心の
健康づくりのための指針」
(メンタルヘルス指針)に沿って、心の健康づくり計画を策定し、
それを推進すること、管理監督者や産業保健スタッフ等の知識、対応技術の向上を図るこ
と、職場復帰の支援体制を検討すること、事業場内外の相談体制を整備することなどの必
要性も強調されている。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/12/h1218‑3.html
6)「21 世紀における国民健康づくり運動(健康日本 21)」の目標と対策
平成 12 年に策定された「健康日本 21」では、
「最近のわが国の自殺者総数は 24,000 人か
ら 25,000 人で推移していたが、1998 年には一挙に 31,000 人を超えた。この数は交通事故
死者数の約 3 倍にも上り、自殺予防は精神保健の最重要課題の一つである。自殺はひとつ
の要因だけで生じるものではなく、多くの要因が絡み合って起こるが、特にうつ病は最も
重要な要因であるといわれている。つまり、うつ病を早期に発見し、適切に治療すること
が自殺予防のひとつの大きな鍵になる。このことから今回自殺が急増した原因を明確にし、
それらを排除することにより従前の 25,000 人程度に戻すことはもとより、さらに適切な治
療体制の整備等を図ることにより、22,000 人以下に減少することを目標とすべきである。」
と述べられ、うつ病等に対する適切な治療体制の整備等を図り、平成 22 年までに自殺によ
る死亡数を 2 万 2 千人に減らすことが、目標として設定されている。
7
具体的な対策は、 (1) 自殺が生ずる前に対策を講じ、予防につなげること(予防)、(2) 生
じつつある自殺の危険に対して介入し、予防すること(介入)、(3) 不幸にして自殺が生じ
てしまった場合に遺された人々に対する影響を少なくすること(自殺後の対応)の 3 つに
分類され、それぞれについて、以下の活動が求められている。
予防:職場や学校や地域を通じ、一般の人々に自殺の危険因子、直前のサイン、適切な
対応法などについての知識の普及を図ることが挙げられ、特にうつ病の症状と、有効な治
療法があることの理解を広める必要がある。また、かかりつけ医、保健婦、教師などは、
自殺の危険を早期に発見できる立場にあることから、予防のための知識を持ち、さらに精
神科医などの専門医との連携を図る必要がある。
介入:自殺の危険の高い人を早期に捉えて、迅速に適切な治療を受けられる環境を整え
る必要があり、まず精神科医療が充実することが前提となる。地域の保健医療関係者が協
力して、自殺を減らすための取り組みを行い、自殺者が減少した事例もある。
自殺後の対応:自殺が同じ場所で行われる傾向が見られたり、ある自殺に影響を受けて
自殺が行われることが観察されており、特に自殺者の周囲の者に危険性が高まることが指
摘されている。このような連鎖的な自殺を防ぐために、地域で自殺が生じた時には、周囲
の人に対する支援や、適切な報道がおこなわれるようにするなどの対策を講じる必要があ
る。
また、「海外では、専門家が自殺のきっかけや自殺者の受けた治療などを調べて、自殺の
背景を明らかにし、この結果を自殺予防に役立てる取り組みが行われており、わが国にお
いても、有効な自殺対策を立てるために、死亡統計や警察庁の実施する調査では十分に捉
えられない自殺の背景を明らかにする必要がある。」とも述べられている。
http://www.kenkounippon21.gr.jp/kenkounippon21/about/
7)第 10 次労働災害防止計画の内容
労働災害防止計画は、5 年毎に厚生労働省が公示するものであり、その後 5 年間に国が労
働災害防止のため力を入れて取り組み、各事業場にもその推進を求める事項をまとめてい
る。
2003 年に公表された第 10 次労働災害防止計画では、労働者の健康確保対策のひとつとし
て、メンタルヘルス対策が掲げられている。具体的には、メンタルヘルス指針に基づき、
事業場の状況を踏まえた適切な計画を作成し、その計画に沿ったメンタルヘルスケアの積
極的な推進を図ること、うつ病等の予防対策のための体制の整備や事業場外資源との効果
的な連携を進めることなどが重要であると述べられている。自殺予防については、平成 13
年に作成された「職場における自殺の予防と対応」(職場の自殺予防マニュアル)3)の周知
を図るとともに、相談体制の確保、産業保健と地域保健の関係機関が連携した自殺防止対
策を推進することとしている。
http://www.campus.ne.jp/ labor/anei/10jibou2003‑2008.html
8
8)その他の自殺防止対策事業等
中央労働災害防止協会は、厚生労働省からの委託を受けて、毎年「働く人の自殺予防に
関するセミナー」を全国規模で開催している。また、同協会から 2004 年出版された「ここ
ろのリスクマネジメント(管理監督者向け、勤労者向け、家族向け)」4)は、労働安全衛生
総合研究事業「労働者の自殺リスク評価と対応に関する研究」の成果をもとに作成された
ものである。
日本医師会は、2004 年「自殺予防マニュアル―一般医療機関におけるうつ状態・うつ病
の早期発見とその対応(明石書店)
」5)を刊行している。
9
第Ⅱ章.職場で進める自殺防止対策の基本的な考え方
第Ⅱ章のポイント
・職場における自殺防止対策は、メンタルヘルス対策を推進する中で、その一環として行
われるべきである。
・したがって、体制、仕組みづくりや関係者の連携等も、非常に重要である。
・個人情報の保護にも留意した対応が求められる。
1)メンタルヘルス指針が求める活動と自殺防止対策の関係
メンタルヘルス指針は職場でメンタルヘルス対策が行われることの重要性とそのあり方
を具体的に示したもので、現状を踏まえた中長期的な計画のもとに、事業所全体がオープ
ンな形で取り組むことを求めている。
http://www.campus.ne.jp/ labor/anei/sisinetc/mentaru‑sisin.html
自殺防止対策は、それ単独で実施することはあまり効率的でなく、また関係者の理解、
協力も得にくい可能性が高い。したがって、メンタルヘルス対策の中に組み入れて推進さ
れるのがよいであろう。
例えば、以下のような取り組みが考えられる。
表Ⅱ‐1.メンタルヘルス活動への自殺防止対策の盛り込み例
・一般労働者のセルフケアのためのリーフレットに、自殺に関連する情報を掲載する。心
の健康問題を持つ労働者への同僚としての対応の留意点にも触れる。
・管理監督者教育に、希死念慮を打ち明けられた場合の対応法等、自殺防止に関する事項
を盛り込む。
・産業保健スタッフの知識および技術向上のための研修予定に、自殺防止関連の講習会へ
の出席を入れる。
・産業保健スタッフ間で共有する情報の中に、自殺のリスクに関する事項も含める。
・事業場外資源の活用法について整備をする際に、希死念慮を持つ労働者の専門機関へ導
く手順も確立しておく。
職場において多大な労力をかけても、防止できない自殺があることは明らかである。し
10
かしながら、業務に起因するところが大きい例(例えば、職場のストレスを主因として発
症したうつ病を背景とする自殺)を防止することは、事業者の責務として重要であり、自
対策を講じる優先順位も高くなる。
2)組織、管理体制のあり方
メンタルヘルス指針は、メンタルヘルス対策を組織的に推進することも提唱している。
労働者、管理監督者、産業保健スタッフが心の健康づくりにおいて各々どのような役割を
担うのかを明確にするべきである。
例えば、上司‐部下関係に関して、次のような取り組みが考えられる。
表Ⅲ‐2.上司‐部下関係(部下管理)の見直し例
・部下と上司の仕事場が離れており、仕事の悩み等に関して日常的な相談が困難な状況を
ある場合には、社内イントラネット等での報告に加え、定期的な対面ミーティングを行う
ことを定める。
・業務の指揮命令系統が複雑で、指示を求める上司が複数となるような組織では、各々の
労働者の業務全般を把握し、必要によって調整する役割を担う担当を決める。
産業保健スタッフが職場の中でどのように位置づけられ、どのような健康管理体制が敷
かれているかも、メンタルヘルス対策に重要な意味を持つが、これは自殺防止対策にもあ
てはまる。労働者や管理監督者が産業医や看護職などの産業保健スタッフに気軽に相談で
き、産業保健スタッフが職場の諸状況(例えば一部の職場で長時間残業が発生している、
組織改革がなされてまだ安定していない、商品のトラブルが発生し、多大な損害が生じた
など)を日頃から掌握できるような体制、仕組みづくりが工夫されるべきである。産業保
健スタッフは、事業場のライン管理の特徴を熟知しておくことも重要である。
また、職場復帰支援システムの構築も重要である。後述するように、精神疾患の罹患は
自殺リスクを高めることが多く、それによって休業していた労働者が復職するにあたって、
適切な支援を行うことは、自殺防止の面からも非常に意義深い。厚生労働省は、2004 年 10
月に「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」を公表しており、そ
れを参考として、各事業場の実態に合った復職支援システムを構築することが勧められる 6)。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/10/h1014‑1.html
個人情報の保護にも留意する仕組みが必要である。心の健康問題に関する情報は、健康
に関する情報の中でも特に機微なものといえる。個人情報の保護に関する法律(個人情報
保護法)第八条の規定に基づき策定された「雇用管理に関する個人情報の適正な取扱いを
11
確保するために事業者が講ずべき措置に関する指針」および「雇用管理に関する個人情報
のうち健康情報を取り扱うに当たっての留意事項」に沿った取り扱いができる管理体制が
求められる。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/10/s1014-9g.html
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/seisaku/kojin/dl/161029kenkou.pdf
一方、「生命や身体を保護するために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが
困難であるとき」は、個人情報取扱事業者の義務の適応が一部除外される。すなわち、労
働者に自殺の危険が迫っており、本人に病識が十分でない場合などでは、生命を守ること
を優先した対応が求められることがある。
3)関係者間の連携の重要性
産業医をはじめとする産業保健スタッフは、通常職場と外部機関(相談機関、治療機関)
との橋渡しという重要な役割を担っている。自殺防止に関しても、自殺の危険が迫ってい
る労働者を適切に専門機関に紹介することなど、中心的な役割の一角を担うことが求めら
れる。
こうした産業保健スタッフの役割は、本人たちが認識するだけでなく、職場に十分に広
報される必要がある。
12
第Ⅲ章.自殺の高リスク者の把握と評価
第Ⅲ章のポイント
・産業保健スタッフとして、自殺の高リスク者、危険因子を理解し、該当する労働者を的
確に同定、把握することが望まれる。
・そのためには、必要な知識、技法を修得することが必要である。
・うつ状態の評価を目的とした簡便な面接法が開発されており、それに習熟することもす
すめられる。
・問題飲酒者を把握するためには、健診結果だけを検討するのでは不十分であり、日頃か
ら職場の諸状況を情報収集することが重要である。
1)自殺の危険因子とサイン
(表、表)。
従来、いくつかの自殺の危険因子、自殺を示唆するサインが指摘されている 7)
精神科入院歴、独身が特に強い危険因子であることも報告されている 8)(表)。わが国で
は、藤野らが 1986 年から 89 年にかけ、福岡県内 4 市町村の1万 3259 人を対象にコホ
ート研究を行い、1 人暮らしの男性は同居者のいる男性に比べて88.6 倍、独身男性は既
婚男性に比べて 3.1 倍自殺するリスクが高かったことを報告している。女性では、同居者
の有無や、既婚か独身かの違いでリスクに差はなかった。
厚生労働省では、とくに注意すべき自殺の予兆として、これらの危険因子を含めて「自
殺予防の十箇条」をまとめている 3)(
表Ⅲ‐1)。
①孤立、孤独
さまざまな面で援助をしてくれる人を身近に持つことは、自殺行動の緩衝要因となり、
逆にその欠如は自殺の危険性を高めることになる。未婚者、離婚者、配偶者と離別して
いる人、近親者の死亡を最近経験している人の自殺率は、結婚し配偶者のいる人の自殺
率の約 3 倍である。アルコール症では特に離婚が自殺の直接原因となることが多いとの
報告もある。また、家族や集団の中で「疎外感」や「孤独感」を感じている人の自殺率
が高いことも報告されている。
13
表Ⅲ‐1. 自殺の危険因子 7)
(1)孤独、孤立
(ア) 一人暮らし
(イ) 未婚、離婚
(ウ) 家族がいない
(エ) 集団の中にいるが、人間関係が希薄
(オ) サポートしてくれる人がいない
(2)うつ病、うつ状 (ア) うつ病、うつ状態、精神疾患の既往
態や他の精神疾患
(イ) 最近、うつ病、うつ状態になった
(ウ) ひどいうつ状態から、少し回復
(エ) うつ状態の時に周囲から励まされた
(オ) 喪失体験がある(重要な人の死、重要な役割・機能の喪失)
(カ) 薬物依存、アルコール依存
(3)困難な問題に直 (ア) 職場の問題(過重労働、失敗、人間関係等)
面している
(イ) 家庭の問題(家族の病気、ローン等)
(ウ) 重い病気を患って苦しんできた、家族に負担をかけている
(4)自殺に結びつき (ア) 自殺を口にする
やすい行動パターン
(イ) 自殺未遂、リストカット
(ウ) ストレス対処の方法が限られる
(エ) ミスや事故を起こしやすい
① 未熟、柔軟性欠如
② 特定の行動パターン
③ 完璧主義、執着気質、過剰適応
(5)自殺を選択した (ア) 家族、親戚に自殺者がいる
役割モデルの存在
(イ) 尊敬している人が自殺した
(ウ) あこがれている人が自殺した
(6)その他
(ア) 自殺の既遂は男性に多いが、未遂は女性に多い
(イ) 年齢が高くなると、自殺率が増える
14
表Ⅲ‐2. 自殺を示唆するサイン 7)
ポイント
・ いずれのサインも、曖昧なものが多い
・ 決定的なサインがあるわけではなく、予測することは非常に難しい
・ 自殺の可能性が考えられる人の行動上の変化が認められたときには、どのようなも
のでも直前のサインと見なすべきである
・ 自分の家族や職場外の人間からの連絡についても、同様に注意すべきである
1、言葉 (ア)直接的表現
①
に表れる
「死にたい」「自殺したい」「自殺の方法を教えてほしい」「生き
ていくのがいやになった」「来年はもうここにはいないだろう」
サイン
②
(イ)間接的表現
自殺に関する文章を書いたり、絵を書いたりする
① 「楽になりたい」「遠くに行きたい」「家出したい」「ここに来る
のもこれが最後だろう」
「もう、これ以上、耐えられない」
2、行動 (ア)直接的行動
① 自殺の準備をする、計画を立てる
に現れる
・ 自殺の手段(薬物、刃物、銃、ひも等)を用意する
サイン
・ 自殺の場所を下見に行く
・ 自殺に関する書籍を集める
②
(イ)間接的行動
自殺未遂をする
① 身の回りの整理をする
②
借りていたものを返す
③
重要な地位を退く、辞退する
④
遺書を書く
⑤
昔の友人、知人に連絡する
⑥
病気の治療を中断する
3、その
(ア) アルコール、薬物の乱用
他
(イ) 引きこもり
(ウ) 危険な行動をとる(交通事故、大きなケガ等)
15
表Ⅲ‐3. 自殺企図の危険因子と寄与危険度 8)
危険因子
寄与危険度*(%)
合計(n=444,297) 男性(n=287,052) 女性(n=157,245)
既婚で同居
1.8
1.9
1.0
独身
25.8
26.2
20.6
無職
2.8
3.0
2.1
年金生活者
10.2
7.0
18.8
障害年金受給者
3.2
1.7
6.7
低所得者
8.8
9.3
7.2
病気欠勤
6.4
6.6
6.2
1 年以内の精神科入院歴
24.7
20.1
32.9
過去の精神科入院歴
40.3
33.0
53.6
*寄与危険度とは罹患率の差であり、危険因子への暴露群がその因子のみによって発症
した部分を示す指標。 すなわち危険因子への暴露によって、罹患の危険がどれだけ増え
たか(絶対効果)を示すものである。
表Ⅲ‐1. 自殺予防の十箇条 3)
①うつ病の症状に気をつけよう(気分が沈む,自分を責める,仕事の能率が落ちる,決断
できない,不眠が続く)
②原因不明の身体の不調が長引く
③酒量が増す
④安全や健康が保てない
⑤仕事の負担が急に増える,大きな失敗をする,職を失う
⑥職場や家庭でサポートが得られない
⑦自分にとって価値あるもの(職,地位,家族,財産)を失う
⑧重症の身体の病気にかかる
⑨自殺を口にする
16
⑩自殺未遂におよぶ
②うつ病、うつ状態や他の精神疾患
自殺完遂者の生前の精神状態を調査した多くの研究報告によると、その 80〜100%が何
らかの精神疾患に罹患していたという。自殺と密接に関連する精神疾患としては、うつ
病などの気分障害、統合失調症、人格障害、アルコール症、薬物依存などがあげられる。
欧米の報告では、特に、うつ病(60〜70%)、薬物依存、統合失調症等が多いと指摘され
(表Ⅲ‐2)。精神疾患罹患者の自殺との関連性の強さを一般人口の死亡率
ている 9),10),11)
と比較すると、ほとんど全ての精神障害が自殺の危険因子となっていたという報告もあ
る
12)
(エラー! 参照元が見つかりません。
)。また、精神科入院歴は自殺との関連が強い
が、退院したばかりの患者は特に自殺の危険が高い。
一般に、うつ病の罹患者では、自殺の危険が高い。重篤なうつ状態では「自殺する元
気もない」のであるが、その回復期には活動性が増すため自殺行動がみられることがあ
る。希死念慮のある場合は特に注意が必要である。再発例、長期化例、他の精神疾患合
併例、心気妄想(「自分は癌に違いない」)、罪業妄想(「自分は罪深い人間であり、人に
迷惑をかけている」)、貧困妄想(「貧乏でこれから生活していけない」)などの妄想を呈
する例は、それ以外の例に比べ、やはり自殺の危険が高い 13)。
表Ⅲ‐2
既遂自殺の診断比較(%)
研究者名(報告年)
躁うつ病
薬物依存
統合失調症
人格障害
診断なし
Robins ら(1959)N=134
45
25
2
‑
6
Dorpat ら(1960)N=108
30
27
12
9
0
Barraclough ら(1974)N=100
80
19
3
‑
7
Chynoweth ら(1980)N=135
55
34
4
3
11
Rich ら(1986)N=283
44
60
14
5
6
Conwell ら(1991)N=85
55
42
8
18
11
Conwell ら(1996)N=141
47
89
16
‑
10
(高橋の表 11)を一部改変)
*重複診断あり
17
表Ⅲ‐3.
精神障害における自殺リスクの強度比較 12)
標準化死亡比*
器質的脳疾患
332
側頭葉てんかんの外科切除
8750
側頭葉てんかん
800
一過性全健忘
2000
精神遅滞
88
薬物依存
574
鎮静剤
2034
アヘン
1400
アルコール
586
大麻
385
精神疾患/機能障害
1209
大うつ病
2035
躁うつ病
1505
もうろう状態(昏迷)
5714
自殺念慮/企図
4737
自殺企図(薬物)
4979
自殺企図(その他の方法)
3836
摂食障害(拒食症)
2252
摂食障害(過食症)
1250
強迫性障害
1154
パニック障害
1000
統合失調症
845
不安神経症
629
その他
透析患者
1449
AIDS/HIV
658
SLE
435
消化性潰瘍
210
*
標準化死亡比:一般人口での死亡率を 100 として比較
18
WHO の報告によると、うつ病の罹患率は一般人口において 3〜5%と高い。わが国の疫学
調査(2002 年度)でも、
「15〜30 人に 1 人が一生涯のうちにうつ病にかかり、そのうち
の 4 分の 3 は医療を受けていない」と報告されている。欧州のうつ病の大規模疫学調査
14)
の結果でも、うつ病罹患者の 43%が医療機関を受診しておらず、未受診者の 86%は受
診する必要さえないと判断していた。また、受診者のうちの 57%は専門医ではなくプラ
イマリーケア医を受診し、薬物投与を受けた者は 31%で、適切な治療(抗うつ薬の投与)
を処方されていたのは、わずか 25%であったという。プライマリーケア医を受診する患
者のうちの約 5〜10%が大うつ病であるといわれている 15),16)が、その半数はうつ病と診
断されないままである
17)
。一部のうつ病患者は、精神症状よりも身体症状が主症状とし
て出現することがあるため、一般内科などを受診しやすい。
以上のことから、産業保健スタッフとしては、まずはうつ病・うつ状態に気づく知識・
技術(表Ⅲ‐4)を身につけることが望まれ、さらにそれに対して適切な対応をしていく
ことが求められる。うつ病における自殺の危険因子を表Ⅲ‐8 に示した 18)。
うつ病に薬物乱用やアルコール依存症が併存すると、自殺の危険は一層高くなる。酩
酊状態において自殺企図がみられることも少なくない。
アルコール依存症例の自殺は、初期よりも長期経過の末のものが多く、対人関係の葛
藤や関係の破綻、様々な喪失体験が高率に認められている。事故死も多く、事故として
処理された中にも自殺行動であった可能性もあるものも高率に含まれると考えられてい
る。明らかなアルコール依存症がなくても、徐々に飲酒量が増加する場合は注意が必要
である。
統合失調症では、幻聴や妄想に支配されて自殺行動に出ることもあるが、現実的な問
題に直面することによるものも多い。抑うつ状態やストレスが契機となる場合も多い。
人格障害では、特に境界性人格障害と反社会性人格障害において、自殺の危険が高い
ことが指摘されている。自殺企図を繰返し、致死性の低い手段を取る例も多いが、実際
にはそれが自殺の前段階である場合もある。
③困難な問題(職場、家庭、個人の問題など)に直面していること
職場において強いストレスの原因となりやすい出来事としては、大きな病気や怪我、
交通事故、労働災害、仕事上の重大なミス、退職の強要などがあげられる。これらは、
精神障害の労災認定の判断に際しても、「大きな心理的負荷」として評価される。また、
仕事面以外では、離婚や別居、重い病気や怪我や流産、近親者の死亡や怪我、親族に反
社会的行為をおかした者が出たこと、多額の財産損失や大きな支出、天災・災害・犯罪
に巻き込まれたことなどの出来事が、一般的に強いストレス要因であるといわれている。
こうした出来事を経験した労働者は、精神面の健康が脅かされている可能性がある。ま
た、過度の長時間労働が続いている場合も、同様の注意を払いたい。
19
表Ⅲ‐4.
うつ病・うつ状態を疑うきっかけとなる変化 7)
ポイント
・ 以下は日常行動からの変化を記述している
¾
本人からの訴えではなく、周囲が気づく変化について記述する
¾
誰にでも日常的に見られる行動であり、行動自体は異常ではない
¾
その人のそれまでの一般的な行動から見て、以下のような
変化
が見られ
たときには、うつ病・うつ状態を疑ってみる
・ うつ病・うつ状態を疑った時には、それを確認するための質問をする
#1:睡眠に関連する変化
1. 寝つきが悪くなった
2. 夜中によく目を覚ますようになった
3. 悪夢をよく見る
4. 朝早く目が覚めるようになった
5. 朝、床の中でぐずぐずしている
6. 昼過ぎまで寝ている
#2:生活のリズムに関連する変化
1. 昼と夜が逆転している
2. 朝悪く、夕方になると調子がよくなる
#3:食事・食行動に関連する変化
1. 食欲がなくなった
2. 大食することがある
3. 食事の味がしなくなった
4. 嗜好が変わった
5. 好きだった食べ物を残すようになった
6. 飲酒量が増えた
#4:通勤に関連する変化
1. 遅刻が多くなった
2. 早退が多くなった
3. 夜遅く帰ってくることが多くなった
4. よく会社を休むようになった
20
#5:仕事に関連する変化
1. 仕事の能率が落ちた
2. 積極性がなくなった
3. 先行きについて、悲観的な見方をしがち
4. 自分はダメな人間だとよく言う
5. 自信がなくなったと言う
6. 注意散漫で集中できない
7. 物忘れが多く、凡ミスをする
8. 夜遅くまで一人で仕事をしている
表Ⅲ‐8. うつ病における自殺の危険因子 18)
自殺手段の選択と兆
候の特徴
1)自殺企図歴および患者自身が自殺を暗示する
2)自殺の家族歴あるいは知人の自殺を認める
3)自殺すると脅す
4)自殺の実行や準備を具体的に言葉に出す
5)不穏な状態が先行した後の「不気味な落ち着き」を認める
症状の特異性
6)自己抹殺や破滅の夢をみる
1)激しい不安焦燥感
2)頑固な睡眠障害
3)過度で統御不能の攻撃性
4)初期、回復期、混合期
5)生物学的な危機の年代(思春期、妊娠期、産褥期、更年期)
6)重度の自責感と不全感
7)不治の疾患、心気妄想
環境要因
8)アルコール症
1)崩壊家庭の出身
2)喪失体験
3)職業および経済的な困難
4)課題や人生の目標の達成の失敗
5)宗教的な絆の喪失
④自殺に結びつきやすい行動パターン
自殺企図の既往は非常に重要な危険因子である。自殺行動は反復される傾向があり、
手首を浅く切った、睡眠薬を 5〜6 錠飲んだというような、致死性の低い自殺未遂であっ
21
ても、「本当に死ぬ気がなかった」とは言えない。これらを長期間経過観察すると、一般
人口よりもはるかに自殺する率が高いからである。どのくらい確実に死に至る方法をと
ったかよりも、本人がどれくらい確信をもって死ねると考えていたかという点が重要で
あり、自殺未遂の手段を問わず、深刻に受け止めて適切な介入方法をとらなければなら
ない。「自殺を口にする人は本当に自殺したりはしない」という考え方は誤りである。自
殺を示唆する言動をみせる者は実際に自殺の危険が高いということを再認識しておきた
い。
また、自殺の高リスク者の多くは、早期から自己破壊傾向を認めると言われている。
ある日突然自殺に及ぶのではなく、自殺に先立って事故を起こしやすくなる傾向(事故
傾性)が繰返し認められることが多い。繰り返す事故が意識的に引き起こされているこ
ともあるが、無意識に自滅行動をとる場合もある。例えば、事故を防ぐ手段をとらなか
ったり、慢性疾患の治療を怠ったり、突然失踪してしまったり、大博打に出たりするこ
となどがあげられる。
自殺に結びつきやすい行動パターンをとる者の性格傾向としては、衝動的、依存的、
未熟、強迫的、完全癖、孤立、反社会的等が挙げられる
19)
。未熟で依存的な性格であり
ながら、周囲に不満を持ちやすく、故意に相手の怒りを引き出すような敵対型の場合に
は自殺の危険が高いと指摘されている。また、
「100 点か 0 点か」と言った完璧主義のタ
イプでは、ほんのわずかな失敗でも取り返しの付かない大きな失敗としてとらえやすく、
自己の存在の意味さえも失ってしまうことがある。抑うつ的で孤立しやすいタイプでは、
対人関係が希薄なため、周囲に本人の悩みや不安が認識されないまま自殺に至る場合も
ある。非行や犯罪などの反社会的行動と自己破壊的行動は密接に関連しており、抑うつ
状態は表面化されていなくても自らの死に結びつく行動をとる場合があり、注意が必要
である。
これらとも関連した自殺の直前のサインを表Ⅲ‐9 に掲げる。
⑤自殺を選択した役割モデルの存在
同一家系に自殺が多発することがしばしば報告されている。遺伝的要素があるかどう
かは結論が出されていない。)血縁者でなくても、深い絆のあった人、尊敬している人、
憧れている人が自殺するという体験をすると、潜在的に自殺の危険の高い人は、非常に
大きな精神的打撃を受け、さらに自殺の危険性が高まる。
22
表Ⅲ‐9. 自殺の直前のサイン 3)
1. 感情が不安定になる。突然涙ぐんだり、落ち着かなくなり、不機嫌で、怒りやイ
ライラを爆発させる。
2. 深刻な絶望感、孤独感、自責感、無価値観に襲われる。
3. これまでの抑うつ的な態度とは打って変わって、不自然なほど明るく振舞う。
4. 性格が変わったように見える。
5. 周囲から差し伸べられた救いの手を拒絶するような態度に出る。
6. 投げやりな態度が目立つ。
7. 身なりに構わなくなる。
8. これまでに関心のあったことに対して興味を失う。
9. 仕事の業績が急に落ちる。職場を休みがちになる。
10. 交際が減り、引きこもりがちになる。
11. 注意が集中できなくなる。
12. 激しい口論やけんかをする。
13. 過度に危険な行為に及ぶ。(例:重大な事故につながるような行動を繰り返す。)
14. 極端に食欲がなくなり、体重が減少する。
15. 不眠がちになる。
16. 様々な身体的な不調を訴える。
17. 突然の家出、放浪、失踪を認める。
18. 周囲からのサポートを失う。強いきずなのあった人から見捨てられる。近親者や
知人の死亡を経験する。
19. 多量の飲酒や薬物を乱用する。
20. 大切にしていたものを整理したり、誰かにあげてしまう。
21. 死にとらわれる。自殺についての文章や詩を書いたり、絵を描いたりする。
22. 自殺をほのめかす。(例:「知っている人がいないところに行きたい」、「夜眠った
ら、もう二度と目が覚めなければいい」などと言う。長いこと会っていなかった
知人に会いに行く。)
23. 自殺についてはっきりと話す。
24. 遺書を用意する。
25. 自殺の計画を立てる。
26. 自殺の手段を用意する。
27. 自殺する予定の場所を下見に行く。
28. 自傷行為に及ぶ。
23
⑥その他
・性別
我が国の自殺者の男女比は男:女=2.5:1 であり、男性に多い。しかし、自殺未遂者
では女性の方が男性よりも 2〜3 倍多いということが知られている。また、女性では「精
神障害」「都会暮らし」「自殺の家族歴」で自殺リスクが高く、男性では「独身」「失業」
「低所得」で高い。「2 歳未満の子供」がいる女性はリスクが低いという報告もなされて
いる。
・年齢
最近の自殺率の年齢パターンとしては、50〜60 歳代に小さなピークがあり、その後高
齢者ほど自殺率が上がるという傾向がみられる。1998 年以降、中高年における自殺率が
顕著に増加しているが、高齢者の自殺率も依然として高い。また、高齢者ではより致死
性の高い自殺手段をとる傾向がある。高齢者では、退職、失業、収入の減少、社会的役
割の縮小、身体疾患、知人や配偶者の死といった喪失体験やストレスも他の年代よりも
多く、深刻である。小さなピークを示した中高年層では、家庭でも職場でも重要な役割
を果たすようになるとともに、昇進、転勤、失業、子供の問題、介護など様々なストレ
スも増えてきているという背景が伺える。身体的にも様々な疾患が出てくる年齢でもあ
る。働き盛りの中高年では、深刻な問題を抱えていたとしても、自分の中に押さえ込ん
でしまう傾向が見られ、そうなると、よりサポートが得られにくい状況ができてしまう。
2)うつ状態とその簡便な構造化面接法
ⅰ)うつ状態に対する適切な評価(見立て)の必要性
うつ状態は,職場において高頻度に見られる状態である。うつ状態を生じる疾患はいく
つかあるが、中でもうつ病は,欧米では Common disease として扱われるべきであると
されている。しかしながら、わが国においては、まだ広く啓発がなされているとは言いが
たく、職域においてもまだ十分な評価が行われていないのが現状である。うつ病は,従業
員の QOL や生産性を著しく低下させるだけでなく、上述したように、自殺の大きな原因と
なる、一方で、うつ病は医療的介入が成功しやすい病態でもあり、予防活動の良いターゲ
ットとなりうる。
ⅱ)うつ状態の評価の基本的手順
うつ状態の評価は
①薬や身体の病気、アルコールなどが原因ではないか?
②うつ病ではないか? その他の精神疾患によるうつ状態ではないか?
③心理的ストレスや性格、環境などが原因かどうか?
という手順で行われるべきである.
多くの労働者はいくつかのストレスや環境上の問題を抱えているのが通常であり,話を
24
聞いてすぐに③が原因と決めつけたくなるところであるが,やはり①や②を見逃してカウ
ンセリングや環境調整のみで対応していても効果はあまり期待できない.①の場合には身
体面の治療や断酒等の対応を優先すべきであるし,②の場合には精神科や心療内科での薬
物治療や休養を優先させなければならない。ここで紹介する構造化面接法は、②の見落と
しを避けるために有用であり、どのようなうつ状態をうつ病ととらえたらよいかというこ
とに対して一定の基準を示すものである。
ⅲ)うつ病の評価に必要な基礎知識
従来、うつは原因によって外因性うつ病,内因性うつ病,心因性うつ病に分類されてい
たが,最近では気分障害という枠組みが設けられ、それが状態像(エピソード)によって
双極性障害(そう状態がみられるもの)とうつ病性障害に大別されている。うつ病性障害
は、さらに大うつ病性障害,気分変調性障害,特定不能のうつ病性障害に分けられている。
うつ病といわれるのは、このうちの大うつ病性障害をさすことが多い。ただし、最近でう
つ状態全般がうつ病と表現されていることもあり、注意が必要である。
うつ病はまだ原因がはっきりしているわけではないが,現在のところ脳における情報の
運び手(セロトニンなどの神経伝達物質)の不足等により,思考・意欲・気分・体調など
に関する情報の混乱が起こり,心身の不調が生じてくる病態であると考えられている。
うつ病の特徴的な臨床症状は
①気分や意欲が低下する。
②いままでおもしろいと思っていたことがあまり面白くない。普段なら嬉しいことにも十
分に反応出来ず,気分転換もできない。
③疲れているのに不眠が持続する。4時や 5 時頃に目が覚めてしまう.
④食欲、味覚が低下する。体重も数キロ減る。
⑤決断がつきにくい。記憶力や集中力,思考力が低下する。イライラしやすい。疲れやす
く、通勤にもかなりのエネルギーがいる。
⑥原因がはっきりしない様々な身体症状(頭痛・胃腸症状・頑固な肩こりなど)が出現す
る。
などが挙げられる。
職場では①顔色がさえない。②出勤時刻が以前に比べて遅くなっている。③寝不足の様
子である。④昼食中もあまり食欲がない感じである。少し痩せたようにみえる。⑤好きだ
った話題でも話に乗ってこない。⑥仕事の能率が低下し,ミスも目立つようになった。⑦
残業も増えてきている。⑧新たな仕事への意欲や問題解決力が低下している。⑨仕事への
自信をなくし、周囲への迷惑を心配したり辞意をもらしたりする。⑩身体の色々なところ
が調子悪いらしい。といった変化で気づかれることが多い。
うつ病についての詳細は、他の精神医学関連図書を参照されたい。
25
ⅳ)構造化面接法による大うつ病エピソードの評価
うつ状態に関して、一定の知識を持った者であれば、専門医に近い判断が可能となるよ
うに、いくつかの面接方法が開発されている.構造化面接法は、制限された時間内にでき
るだけ均一な情報を得るために用いられる面接法で、精神医学領域の疫学研究等で用いら
れてきた。定型的な説明、定型的な質問をあらかじめ定められた手順で進めることによっ
て、熟練者でなくても、比較的短時間の訓練で一定水準の評価が行える。
構造化面接法は過去に数多く開発されているが、所要時間等の問題から、職域で活用で
きるものはそれほど多くない。M.I.N.I(Mini‐International Neuropsychiatric
Interview)は、ICD‐10 および DSM‐Ⅳという広く用いられている診断基準に準拠した最
も簡便な構造化面接法のひとつといえる。Sheehan らによって開発され、欧州 6 カ国にわた
る大規模なうつ病の疫学研究(Depression Research in European Society: DEPRES)で
用いられた。他の構造化面接法による結果との一致率も高く、かつそれらよりも短時間で
施行可能であるという特徴を有している。日本語版は、大坪らによって作成され、信頼性、
妥当性の検討も行われている 20)。産業保健活動における問診技術の標準化のためのツール
として利用可能であろう。
M.I.N.I.によって、大うつ病エピソードを満たすと評価された例では、もちろん最終的
にうつ病と判断するには,身体疾患(甲状腺機能低下症など)やアルコールによるものを
除外し,また他の精神疾患との鑑別など専門医による診断を必要とするが,そのまま放置
するのではなく、何らかの形で医療の対象にするか、注意深く経過を追うべきである.
もちろん,大うつ病エピソードを満たす例の中にも、性格的な問題が大きい例や、環境
への不適応と考えられる例が含まれることがあるので,エピソードを満たした人が全て薬
物治療の対象になるわけではない。しかし、少なくとも産業保健スタッフ等による相談を
行い、必要に応じて環境調整や個別面談を継続する等のサポートを行うといった配慮が必
要であろう。
ⅴ)簡便な構造化面接法による大うつ病エピソードの評価
大うつ病エピソードに関する M.I.N.I.の質問は 9 問(抑うつ気分、興味・喜びの減退、
著しい体重の変化、不眠、精神運動抑制あるいは焦燥、易疲労感・気力の喪失、無価値感・
罪責感、思考力・集中力の減退・決断困難、希死念慮・自殺企図)であるが,これをより
簡便に実施できるよう 5 問に短縮したのが,BSID(Brief Structured Interview for
。
depression)である 21)(表Ⅲ‐10)
本法では、2 週間以上持続する「抑うつ気分」と「興味・喜びの減退」についてまず質問
し,そのどちらか一つ以上が認められた場合に,追加して「不眠」,「無価値感や自責感」,
「集中や決断の困難」の 3 項目の質問をする。
判定は、これら5問のうち,「抑うつ気分」か「興味・喜びの減退」のどちらかを含む計3
問以上に「はい」
(肯定)があった場合、大うつ病エピソードであると判断することになる。
26
職場で労働者が自ら産業保健スタッフ等に訴えるのは,仕事の遅れや残業の増加といっ
た現実的な問題であることが多い。実際には、うつ病による抑うつ気分や不安といった症
状が彼らを最も苦しませているのであっても,彼らはこれらの心理的な症状よりも,現実
の問題に直結した「集中や決断の困難」といった機能的な面の方が回答しやすいと言える。
また、彼らは,その結果仕事が上手くいかない
反省や後悔
として「無価値感や自責感」
を口にすることが多い.
「無価値感や自責感」は「希死念慮」より、比較的自然に回答を得
ることが可能である.「不眠」はうつ病の中核的な症状である。
表Ⅲ‐10.BSID21)
B1
この 2 週間以上、毎日のように、ほとんど 1 日中ずっと憂うつで
あったり沈んだ気持ちでいましたか?
いいえ
はい
B2
この 2 週間以上、ほとんどのことに興味がなくなっていたり、大
抵いつもなら楽しめていたことが楽しめなくなっていましたか?
いいえ
はい
B1、またはB2 のどちらかが「はい」であるである場合下記の質問にすすむ
B3 この 2 週間以上、憂うつであったり、ほとんどのことに興味がなくなっていた場合、
あなたは:
a
毎晩のように、睡眠に問題(たとえば、寝つきが悪い、真
夜中に目が覚める、朝早く目覚める、寝過ぎてしまうなど)
がありましたか?
いいえ
はい
b
毎日のように、自分に価値がないと感じたり、または罪の
意識を感じたりしましたか?
いいえ
はい
c
毎日のように、集中したり決断することが難しいと感じま
したか?
いいえ
はい
B1〜B3(a〜c)の回答に、少なくともB1 とB2
いいえ
はい
のどちらかを含んで、3 つ以上「はい」がある?
大うつ病エピソード
の疑い
本構造化面接法は、数分〜(長くても)10 数分で実施できるため、健診時や健康相談時
27
に活用することが可能である。
本法によって、大うつ病エピソードの有無を調べる際のポイントとして、以下の 3 点に
留意されたい。
①必ずしも、一語一句質問項目に記載されている通りに質問する必要はない。質問の意
味を正確に伝えられるならば別の表現を用いてもよいし、他の質問を追加してもよいであ
ろう。
②出来るだけ「はい」か「いいえ」の形で対象者に自ら答えを出してもらう働きかけを
することである。「2週間以上、ほぼ毎日のように」といった内容に合うかどうかなどを確
認しながら「はい」か「いいえ」を出来るだけはっきり回答してもらう必要がある。その
際、保健スタッフが回答を誘導するような態度を取ってはならない。
③これはうつ病の診断をするための面接法ではなく、あくまでもうつ病の時に出現しや
すいエピソードをとらえるための面接法である。こういったエピソードの把握がうつ状態
の評価の基本であることを強調しておきたい。うつ病診断のためにはより詳細に症状をと
らえ、うつ状態を来すその他の病態を除外する必要がある。
また、精神科医、心療内科医あるいは類似の面接の経験が豊富な心理職等の指導を受け
た上で実施することを勧めたい。検査結果は、重要な個人情報であり、その取り扱いに十
分注意するべきであることは言うまでもない。実施前にも、労働者に対して、その意義を
説明しておくことも重要である。
ⅵ)他の留意点
うつ状態の評価のためのツールとしては、面接以外に、従来質問紙法も広く行われてき
た。質問紙法は、一般に面接法より実施が容易であり、CES‑D や ZungSDS など有用性が高い
ことが報告されているものもある。しかし、その実施に当たっては、面接と同様の注意が
必要である。より正確な回答が得られるようにする意味でも、関係者や対象となる労働者
への説明を十分に行うとともに、実施場所や回収方法などについて、プライバシーが確保
できるような配慮を行う必要がある。質問票の中には、著作権の問題が発生するものがあ
ることにも留意されたい。
また、面接法にしても質問紙法にしても、その結果の個人や職場へのフィードバックの
しかた、うつ病が疑われた例の扱い等を事前に決めておくべきである。
3)問題飲酒の評価のポイント
アルコール依存症は言うまでもないが、既に飲酒によって何らかの健康障害が見られて
いる「有害な飲酒」、このままでは近い将来重大な問題を引き起こすことが予測される「危
険な飲酒」などの問題飲酒、さらに以前に比べ顕著に飲酒量が増加していることも、自殺
の危険因子に数えられる。自殺完遂者および自殺未遂者が自殺行為に及ぶ直前に過度の飲
酒をしていた例も散見されるところである。
28
問題飲酒者は、健康診断の結果、γ‐GTP の異常高値などが指摘され同定されることも多
いが、血液生化学検査等ではほとんど異常が見当たらない例も珍しくない。したがって、
産業保健スタッフは、その同定を健診結果ばかりに頼るのではなく、日頃から職場の情報
(飲酒に起因している可能性のある病態による休業、出社時の酒臭、懇親の場での泥酔、
突発欠勤の増加、作業効率の低下、性格変化等)等を収集して、判断の参考とするべきで
ある。
問題飲酒についても、KAST、CAGE、AUDIT など、有用性の高い質問紙が開発されているが、
うつ病の場合と同様の注意が必要である。
29
第Ⅳ章.
自殺の高リスク者への対応
第Ⅳ章のポイント
・自殺の危険が迫っている労働者への適切な対応を日頃から理解しておく必要がある。
・希死念慮に関する質問の仕方についても、理解をしておきたい。
・当該労働者への接し方としては、時間をかけて相手の話をじっくり聴く姿勢が必要最低
限のものと言える。
・専門機関に紹介する場合にも、細心の注意が必要である。
・通常、家族や肉親との連携も、躊躇すべきではない。
1)高リスク者への対応法
ⅰ)高リスク者の把握
自殺防止においては、自殺の危険因子、自殺直前のサインを的確に把握することが重要
であるが、職場では限界があることも事実である。どの位の把握が可能かは、産業保健ス
タッフ等の人的資源の充実度(人数、知識、技術)、組織・管理面の諸状況によって異なる。
その凡その目安を表Ⅳ‐1 に示した。
例えば、業務効率の極端な低下や失踪のような異常行動は、大半の事業場で把握が可能
である。それほど目立たない業務遂行面の変化や生活習慣の偏倚化については、上司の目
が職場に行き届いているか、産業保健スタッフが職場や労働者に関わる様々な問題を熟知
しているかによって、把握に差が出ると考えられる。この部分をいかに改善できるかが多
くの職場にとって課題となる。逆に生育歴や家族歴、個人生活に関する事項は、プライバ
シーに強く関わる情報であり、どのような職場であっても安易に調査すべきものではない。
ⅱ)治療導入の判断
うつ病をはじめとする精神疾患の存在が疑われる例では、治療導入が必要かどうかを判
断することが重要である。判断基準は事例ごとに異なり、一律のものを示すことは難しい。
精神科医や心療内科医などの専門医が事業場に関わっている場合には、彼らの意見が参
考となるが、そうでない場合には、次の点を考慮しながら、判断に窮した場合には、専門
医に紹介し、意見を仰ぐように心がけるとよい。
・職場での勤務状況(業務効率、残業時間、勤怠、仕事ぶり、表情、会話の増減、行動の
変化等)
・生活状況(睡眠、食欲、生活習慣の変化等)
こうした情報は、産業保健スタッフよりも、上司や同僚のほうがよくわかっている場合
30
が多い。したがって、彼らとの連携が非常に重要であると言える。
すぐに専門医を紹介しない場合でも、産業保健スタッフは、その後も本人や上司との面
接を繰り返し、病態の変化の把握を怠らないようにすることが不可欠である。
また、遠隔地勤務などで本人がすぐに産業保健スタッフと面接することが難しい場合で
は、社内での対応に時間をかけるよりも、近隣の専門医の受診を促すなど、まず治療導入
のステップを進めることが望ましい。
ⅲ)外部専門機関との連携
外部専門機関(専門医)への紹介、相談については、産業医を介して行うことが望まし
いが、産業医の勤務日や勤務時間の制限などから、それが困難な事業場も多いであろう。
その場合には、看護職あるいは衛生管理者等が、その役割を担うことになるが、日頃から
その手続きの進め方を整理しておくとよい。
既に専門医の下で治療を受けている例では、随時専門医と産業保健スタッフの連携(本
人を介した書面での情報のやりとりなど)を行っておくと、有事の対応が円滑に行える。
ⅳ)復職支援とその後のフォローアップ
精神疾患による休業後の職場復帰前後、復職が不成功に終わった時期、休職満了になり
退職を余儀なくされた時期も、自殺防止において注意をすべきである。本人が少しでも安
心して復職に臨めるように、復職支援システムを構築しておくことが望ましい。第Ⅱ章で
紹介したように、厚生労働省から「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の
手引き」が示されているので、参考にするとよい。なお、自殺未遂者が職場復帰をする際
の支援に対しては、以下の点に留意したい。
表Ⅳ‐2.自殺未遂者の職場復帰支援の留意点
・産業保健スタッフ(医療職)間で自殺未遂に関する情報を共有しておく
・背景となった病態(精神疾患)への対応を確実に行う
・産業保健スタッフによる面接等をこまめに行う
・本人が産業保健スタッフに気軽に相談できるような関係づくりに努める
・日頃から上司、産業保健スタッフの目が届きやすいように配慮する
・特に自殺未遂の事実を職場が知っている場合には、受け入れ先の支援も重視する
(産業保健スタッフが随時上司等の相談を受けられるようにする)
・家族との連携の中で、職場の対応法等を説明し、理解を求めておく
31
2)希死念慮に関する質問法
希死念慮の有無について聞くことが、本人の自殺に向けての行動を誘発してしまったり、
希死念慮を増強してしまったりするという考え方があるが、それは誤りである。上述した
自殺の高リスク者、特にうつ状態にある労働者に対しては、必ず希死念慮に関する問いか
けをするように心がけた方がよい。
希死念慮に関する質問は、唐突に発するのではなく、本人が面接の中で十分に自分の気
持ちや感情を表現できるようになり、それを話し合う過程の中で、徐々に誘導する形で行
うことが望ましい。また、あまり婉曲な表現は使わず、例えば以下のような聴き方をする
ことが勧められる。
表Ⅳ‐3.希死念慮に関する質問例
・無力感を覚えますか?
・絶望的な気持ちが強いですか?
・毎日がとてもつらいですか?
・生きるのが重荷ですか?
・生きる価値がないと感じますか?
・自殺したいというふうに思いますか?
希死念慮が確認されたら、具体的に自殺についての計画(時期、場所、手段)を立てて
いるかどうか、またそれは現実的なものかどうかを確認すると、より正確に自殺のリスク
を把握できる。
この場合も落ち着いて本人の思いを聞く姿勢をみせることが重要である。
3)自殺を打ち明けられた場合の対処法
健康相談などの場で、労働者から希死念慮を打ち明けられた場合、産業保健スタッフは、
以下のような点に留意して、適切な対応を行う必要がある 1)。
①真剣に話を聞く
希死念慮を打ち明けられた者は、たまたま自分に打ち明けられたのではなく、意識的・
無意識的に特定の対象として選ばれたのだと考えるべきである。そのことを自覚した上で、
きちんと相手に向かい合って話を聴くことが大切である。
②言葉の真意を聞く
希死念慮の訴え方、その表現は、「消えてしまいたい」「居場所がない」
「自分は何のため
に生きているのだろう」
「自分は誰からも必要とされていない」など様々である。逆に「死
んでしまいたい」という言葉が発せられた場合、その背後には、
「現在の苦境から逃れたい」
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「見捨てられたくない」など、様々な異なる意味がある。自殺念慮を持つ者のほとんどは、
「死にたい」気持ちと、
「もっと生きたい」気持ちの間で激しく揺れ動いている状態にある。
③できる限りの傾聴をする
自殺念慮を打ち明けられた場合、産業保健スタッフは、できる限りの時間をかけて、そ
の訴えを傾聴すべきである。徹底して聞き役に努めることが大原則である。何か気の利い
た助言をしなければならないと焦る必要はない。悩み、苦しみを理解し、共感する態度を
伝えることが重要である。本人が黙ってしまっても、沈黙を共有することで構わない。時
間をかけて話を聴くことで、本人の自殺に対する衝動が緩和されることもまれではない。
どうしてもその場で時間がとれないときには、本人に事情を話し、なるべく近い時間で
面接の約束をする。
④話題をそらさない
本人が心の中にある感情を言葉として表現できるような支援を心がけたい。逆にすぐに
自殺以外の事柄に話題をそらしたり、訴えや気持ちを否定したり、表面的な励ましをした
り、あるいは社会的な価値観・倫理観を押し付けたりすることは差し控えるべきである。
そのような対応を行うと、信頼関係が損なわれ、その後相談を持ち掛けられたり、胸の内
を明かしてくれたりすることがなくなってしまう恐れがある。
⑤十分に傾聴したうえで自殺以外の選択肢を示す
希死念慮が強い場合には、自らの考え、感情などに縛られていることが多く、まずは時
間をかけた傾聴によって、それを和らげることを優先すべきである。本人が十分に自殺念
慮に関して話し、気持ちが和らいだ状態に至ったら、そこで初めて自殺以外の選択肢につ
いて話し合う提案をするとよい。援助を行う用意があることを明確に伝える。
⑥キーパーソンとの連携
日頃から本人との付き合いが深く、本人の置かれている状況や気持ちを理解している者、
本人が信頼を置いている者(キーパーソン)に連絡をとり、その人の助力を得て本人の支
援を進めることも重要である。一般的には、家族、上司、友人がキーパーソンとして挙げ
られる。
⑦専門医受診を促す
うつ病などの精神疾患の存在が疑われたり、自殺の危険性が迫っていると考えられたり
する例では、専門医による診断や治療が不可欠である。この場合にも、上述したように、
十分な傾聴を行ったうえで、専門医を受診することの必要性を丁寧に本人に伝え、キーパ
ーソンと連携して、粘り強く専門医受診を指導すべきである。治療法を説明したり、それ
が有効であることを明確にすることもすすめられる。また、紹介後も、本人に関わってい
くことをはっきりと保証することも重要である。
⑧「自殺しない」契約をする
本人と「自殺をしない」契約を結ぶことも、自殺防止に有効であることが多い。ただし、
本人が自分自身の行動をコントロールすることが困難な場合には、あまり意味がないこと
33
がある。
4)専門機関への紹介の仕方
特に希死念慮が強い場合には、本人をひとりにさせず、家族や友人(できればキーパー
ソン)に付き添ってもらって受診をさせる。迅速に対応を進めなければならない。場合に
よっては、産業保健スタッフが付き添う必要があることもありえる。希死念慮に関して、
紹介状に明記したり、直接電話をしたりすることなどにより、紹介先の専門医に情報を伝
えることも重要である。希死念慮の情報が伝わらなかったために、主治医が適切な対応(保
護)を行い得なかったという事態は、何としても起してはならない。
いざという時に、円滑な動きができるように、緊急時を含め、職場のメンタルヘルス対
策に理解があり、労働者の心の健康問題について相談したり、当該労働者を紹介したりで
きる専門医療機関を近くに確保しておくことが望ましい。
5)家族・肉親との連携法
特殊な場合を除き、家族や肉親と連絡をとり、希死念慮に関する情報を共有しておく必
要がある。そのことについても、本人との話し合いの中で、本人に許可を得ておく。本人
が家族に伝えることに拒否的であっても、希死念慮の強い場合は、本人の生命を守ること
を優先すべきである。
家族が慌てたり気が動転したりしている様子をみせたときには、電話だけでなく、直接
面談によって説明をした方がよいことも多い。具体的な伝え方、言葉の選び方は状況によ
って異なるが、事実をあいまいにせずにはっきりと述べ、併せて共にできるだけの支援を
行っていきたい旨を伝えることが肝要である。
34
第 5 章.
その他
1)家族等への啓発活動
当然のことであるが、労働者の心の健康状態は、職場よりも配偶者や両親、兄弟など家
族、親族の方が把握しやすいことも多い。したがって、労働者の家族に対して、心の健康
に関する基礎的な知識(うつ状態のサイン、専門機関に相談することの重要性など)を供
与し、それに留意することの意義などを啓発することは、労働者の心の健康確保に大きな
意味を持つ。
このような家族や親族に対しての情報提供に、自殺防止に関する事柄を盛り込むことも
勧められる。
2)管理監督者への働きかけ
職場の管理監督者は、職場のメンタルヘルス対策において重要な役割を果たすことは、
メンタルヘルス指針が示す通りである。彼らの教育研修において、既存のマニュアル等を
用いて自殺予防に関する事項を解説することも、意義深いといえよう。
ただし、時間的な制約等がある場合も多いと考えられ、その場合にはポイントを押さえ
た簡潔な内容にする必要がある。
3)ポストベンションについて
自殺が起きた場合に、周囲の人々に及ぼす心理的影響をできる限り小さくするための対
策をポストベンションと呼ぶことがある。職場内で自殺者が出ると、その職場の上司や同
僚は大きな衝撃を受け、ひどく動揺したり強い罪悪感にとらわれる者もみられることがあ
る。そうした場合には、特に影響が心配される者を対象にして、起こりうる心身の変化(ス
トレス反応)を説明したり、個別の相談対応を行ったりすることが望ましいことがある。
産業保健スタッフ間で緊密に情報交換を行い、共有し周囲に伝える情報を統一しておくこ
とも重要である。
一部で、自殺者との関わりが深かった者を集め、小集団で話し合う場をもって、悲しみ
や自責の感情を表出させ、気持ちの整理の手助けをするデブリーフィングという技法が行
われることもある。しかし、この実施には経験豊富な専門家(医師、臨床心理士等)が関
与する必要があり、その効果について否定的な報告も少なくない。現時点で、多くの職場
で実施されることが推奨されるものではない。
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付)相談機関一覧:
労災病院(勤労者メンタルヘルスセンター
全国一覧)
http://www.rofuku.go.jp/rosaibyoin/center/mentaru.html
産業保健推進センター(全国一覧)
http://www.rofuku.go.jp/sanpo/index.html
精神保健福祉センター(全国一覧)
http://www.iph.pref.osaka.jp/kokoro/list/mhc.html
いのちの電話
http://www.inochinodenwa.or.jp
36
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