平成二十三年度前期日程 入学試験問題 小 論 文 A 曹褒姦智 人文学部 人文コミュニケーション学科 注意事項 ① 試験開始の合図があるまで、この問題冊子の中を見てはいけません。 ② 解答用紙には︵その一︶と︵その二︶があります。解答はそれぞれの解答用紙の指定の欄に 縦書で記入しなさい。 ③ 受験番号は、それぞれの解答用紙の指定の欄に算用数字で横書しなさい。 ④ 試験時間が終了したら、解答用紙の受験番号の書いてある面を上にして、︵その一︶を ︵その二︶の上に重ねて監督員の回収を待ちなさい。 ◇M17(653−85) 問題一次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 非日常的な状態がある一方、日常的な状態もあります。祭りや大事件のさなか、直後というような時間の中にいるわたしたち と、日常生活の中の私たちとは、明らかにあり方が違っています。普段の暮らしの中では、私たちは何かに向き合って緊張する ということなく過ごしています。そのような時間、場面を﹁日常﹂と呼んでいます。威力ある何ものかを前にしてあるいはそれを 感じっつ緊張している人々は﹁聖なる﹂時間を過ごしており、夕食のため買い物に出かける人々は、かなり急いでいる場合でも緊 張はなく、不断の日常の﹁俗なる﹂時間の中にいます。日常的なもの、無緊張なものを﹁俗なるもの﹂と呼びましょう。死者が﹁聖 なるもの﹂とすると、われわれ自身は﹁俗なるもの﹂となります。 たと このような﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂の違いは、高い場所に置かれたタンクから低い場所に置かれたタンクにパイプを通じ て流れる水の量と速度に誓えることができます。二つのタンクの間の距離が大きければ大きいほど、落ちる水の勢いは強くなる ように、﹁聖なるもの﹂の雰囲気と﹁俗なるもの﹂のそれとの差も大きくなります。宗教現象があるときには、この水の場合のよう に落差が存在しているのです。﹁威力あるもの﹂の威力が強ければ強い大きな流れとなり、それほどでもない場合には弱く小さな 流れとなります。﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂の高さが同じになると、水の流れはないゆえに、宗教現象も存在しなくなりま 刊。 ﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂という二つの概念のみでは、葬儀のように社会や集団の中で行うような行為と、ヨーガや念仏な どの個人が魂の救いを求めて行う行為との区別は説明がつきません。その説明のためにはまた異なる操作概念を追加する必要が あります。ですが、﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂の二つの概念は最も重要なものなので、まずこの概念についてしっかり考えて ミワク 的な何ものかのある時 おきたいのです。﹁聖なるもの﹂粕回田、清浄なるもののみではなくて、死体に表さ痢るような不気味な非日常的なもの l ⑤ をも指すということは前に申しました。名状Lがたく、非日常的で力があり不気味で、しかし ◇M17(653−86) −1− 間や空間と、そういうものの存在がない時間や空間。こういう二つの嶺域の間で、宗教行為が行われます。われわれは前者を ﹁聖なるもの﹂と呼ぶ一方で、後者を﹁俗なるもの﹂と呼んでいます。 ︵中略︶ 宗教現象には二つの極︵twOpO−es︶があること、すなわち両極性︵pO−arity︶が認められ、その二つの間には区別が存在します。 その二つの極を﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂と名付けることは、今日、宗教学において一般に受け入れられています。英語では thesacred︵聖なるもの︶とtheprO訂ロe︵俗なるもの︶という語を用います。thehO−yという言葉はsacredの意味の嶺域の一部を 指すと考えられます。﹃聖書﹄のことをHO−yBib−eといいます。HO︼yは神々しいとか清浄とかそういった意味なのですが、 sacredはもう少し意味が広いのです。つまり神々しいとか清浄とかだけでなく、非日常的で不気味なものも指すように使えま す。 secu−arという英語がありますが、これは世俗的という意味で、否定的な意味が込められることがあります。prOfaロeという B のはsecu−arの意味も含みますが、無緊張な状態、﹁聖なる﹂力なり雰囲気なりがないこと、あるいはないものをprO訂neといっ ています。 方向を持った運動量のことを方向量︵ヴエクトル︶といい、方向のないエネルギーのことをスカラーといいます。ヴエクトルと いう概念がわれわれの考察にとっては重要です。宗教における二極の間に、つまり﹁聖なるもの﹂と呼ばざるを得ない緊張をはら んだ状況と、﹁俗なるもの﹂と呼ぶべき無緊張の状態の間に、何らかの交わり、あるいは動態が生まれます。それぞれの場での方 向を持つ運動量がヴエクトルです。 二つのタンクが上下にあり、タンクの間にパイプなり穴があいていて、上のタンクから下のタンクに水が流れる場面を先ほど 想定しました。上下の差が大きければ大きいほど水の流れは激しくなります。そのように上から下へ﹁聖なるもの﹂から﹁俗なる もの﹂へエネルギーが流れます。これがヴエクトルです。もっとも、宗教では﹁俗なるもの﹂から﹁聖なるもの﹂へという方向を 持った運動量も存在するということ、あるいはむしろそのヴエクトルの方が出発点となります。そのことをここでつけ加えてお ◇M17(653−87) − 2 − きましょう。 時には、この二極は一つとなります。﹁宗教における二極﹂の区別がなくなる時があるのです。このなくなる時には、俗化と聖 化という二つの場合があります。一つは何事もない、際だったことのない普通の日常です。この場合には﹁聖なるもの﹂が存在し ないことによって、二極の差がなくなります。先ほど述べた二つのタンクの例でいえば、かの二つのタンクは同じ高さに置かれ ていることになるのです。この時には二つのタンクの間の水の流れはなくなります。これがいわゆる俗化の状態です。このよう な場合には、宗教的なエネルギー、ヴエクトルは存在しません。宗教現象は二極間の落差があるところに成立します。それがな いところでは、前にも申したとおり、宗教現象そのものが存在しなくなるのです。 ﹁聖なるもの﹂を眼前に見た時点での精神的なたかぶりにあって、あるいは宗教的な儀式のクライマックスにおいては、﹁俗な るもの﹂が﹁聖なるもの﹂と激しく交わって聖化されます。こういう場合には両方とも﹁聖なるもの﹂となりますが、﹁聖なるもの﹂ のみが存在する場面は長時間続かず、すぐに宗教における二極に分かれた事態が現れます。劇的な聖化の例としては、ヨーガ行 ︵注に ⑥ ③ 者が三味に入った瞬間、あるいは ゼンソウ が悟りを開いたそのときが [回]げられます。その瞬間における行者には﹁聖 なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂の意識上の区別はないだろうと思います。 ﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂という﹁宗教における二極﹂という考え方は、いわゆる二元論ではありません。﹁俗なるもの﹂と ﹁聖なるもの﹂を常に補集合的な二つの嶺域で考えるということではないのです。 ﹁なぜ﹃二極﹄という言葉を用いるのか。﹃嶺域﹄という言葉の方がよいのではないか﹂と言われたことがあります。たしかに﹁領 域﹂という概念で解決がつく場合もあります。しかし、宗教的な反間、例えば、﹁自分が神を信じているか信じていないか﹂を問 もん い、苦悶するときの状況を分析するには、二領域という概念では不充分です。 また、寺院の中と外を考えた場合、寺院の中が﹁聖なるもの﹂で、寺院の外が﹁俗なるもの﹂ということは一応正しいでしょう。 ◇M17(653−88) − 3 − ところが、寺院の中でも、俗なるところと聖なるところとがあります。本堂の中でも、本尊が奉られているところと、信者が座 るところでは聖性の位階に違いがあります。このように﹁聖なるもの﹂にはさまざまな濃度の差、位階があります。さらに、その レイテツ になったり、あるいはそれに気づいた自分と、それ 差はそれぞれの場面において、刻々と変わります。寺や神社の場合はまだわかりやすいのです。しかし、自分が﹁神﹂を疑った ⑥ り、邪悪な気持ちになったりした場合。さらには他人に対して に失望した自分。こういったもろもろの場面を考察するには、﹁補集合的に、つまり、残りのないように二分された聖の領域と 俗の領域﹂を考える二分法によっては考察が進まないのです。 ﹁聖なる﹂空間や時間と﹁俗なる﹂空間や時間はたしかに存在します。ですが、﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂は、単に空間的な領 域を示す言葉でもなければ、時間的な期間を示す言葉でもありません。二極はいわば動的な存在です。一体となって同化する時 もあれば、一方の嶺域が他の領域よりも極端に拡大する時もあります。また両極が限りなく遠くなることもあります。 ところで、いかなる操作概念も歴史的に形成されてきた認識に基づいています。それゆえ、操作概念であれば無色透明な普遍 ︵注二︶ ︵注三︶ 的な物差しになりうる、というわけではありません。﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂が対概念として用いられるようになったのは 最近のことです。もともと﹁聖なるもの﹂とは﹃旧約﹄学の中で用いられてきた概念です。ヘブライ語では﹁カードシュ﹂という語が ﹁聖なるもの﹂に当たりますが、これは元来、区別するという意味を持っています。﹁俗なるもの﹂から﹁聖なるもの﹂を区別すると いう意味を持っているのです。 ︵立川武蔵﹃聖なるもの 俗なるもの﹄講談社、平成一八年、五八∼六四頁による。一部略。︶ ︵注一︶ 三昧 あらゆる雑念を払って精神を集中した状態。 ︵注二︶ ﹃旧約﹄学 聖書学のうち、旧約聖書に関する研究のこと。 ︵注三︶ ヘブライ語 古代ヘブライ人︵のちのユダヤ人︶が用いた言語。旧約聖書の大部分はヘブライ語で書かれた。 ◇M17(653−89) − 4 − 同一[〓]④∼⑥の片仮名を漢字に、また漢字を平仮名に直しなさい。 間二 傍線部AT﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂の高さが同じになると、水の流れはないゆえに、宗教現象も存在しなくなります﹂ とあるが、筆者が宗教現象を水の流れに誓えるのはなぜか、説明しなさい。︵八〇字以内︶ 間三 傍線部B﹁ヴエクトルという概念がわれわれの考察にとっては重要です﹂とあるが、それはなぜか説明しなさい。︵六〇字 以内︶ 間四 本文において、﹁聖なるもの﹂と﹁俗なるもの﹂を、﹁補集合的な二つの領域﹂ではなく、﹁二極﹂の概念として、筆者は理解し ているが、これについてあなたの考えを述べなさい。︵二〇〇字以内︶ ◇M17(653−90) − 5 − 問題二 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 鏡であれ映画であれテレビであれ、うつLとしての映像に終始つきまとうのは、物そのものをどのように伝えたか、というこ とでしょう。ここから映像と事実という問題、さらには真実という問題が出てまいります。 ︵中略︶ 映像は現実を空間的・時間的に部分として切りとり、二次元に置きかえて映し出します。それが目を通じて入力され ると、脳の視覚情報処理機構が経験に基づき質量と運動量を付加する。従って映像を見て三次元像が得られるのは、脳の視覚情 報処理能力による⋮⋮。脳科学はそう説明するようですが、要するに想像力で補うから映像は二次元で十分なのだ、ということ であります。 現実との関係でいちばん重要なのは、映像が﹁現実を切りとって二次元に置きかえたうつし﹂であるという点です。これは長所 でもありますが、むろん短所であるわけで、いろいろな問題がここから出てまいります。 たとえば、風景であれ人事であれ、部分を切りとって映すことしかできない。ですから皮肉な言いかたをする人は、 ﹁映像の問題点はいつも、何を見せたかにあるのではなく、何を見せなかったか、にあるのだ﹂ と批判します。 ︵ 注 ︶ その通りです。全体と部分の問題です。見方を変えて、同じように皮肉に表現すれば、全体を見せるためにあえて見せない部 分、というのもあるわけで、裏と表、微妙な関係であります。 風景としてある町を紹介するのに、広場の真ん中に立ってカメラを三六〇度パンすることは、必要でもなければそれで十分な 要件でもありません。それより大事なのは、町並みをいくつか選んで描くことですが、それはすなわち、見せなかった町並みを つくることです。 ﹁シルクロードの面影をのこすオアシス都市﹂とテレビで紹介されて、実際いい感じにみえたから行ってみたら、何とも中途半 端な近代都市だった。よくもあんな揺りかたができたものだ、というような苦情は海外ツアーが盛んになってからよく耳にしま ◇M17(653−91) − 6 − す。 ねつ ぺい ﹁何を見せなかったかが問題だ﹂という批判の一例です。しかし、ある意図のもとに隠蔽された風景があったのはたしかでしょ うが、選ばれ紹介された風景が担造されたものでないのも、またたしかなのです。 素材が事実であることはまちがいない。といって事実をいくつ並べても真実が現われるとは限らない。これは映像表現にいつ もつきまとう問題です。 シルクロードのオアシス都市まで足をのばす必要はありません。たとえば京都がいい例です。海外に紹介されているような、 たて 古い京都の風景のほとんどは外からは見えない塀の中にあります。塀の中と外のバランスが、京都という町の真実を伝える決め 手だ、ということになるはずです。 しかし、京都の風景の映像を素材として言いたいこと、というのもそれとは別にあるはずで、真実を楯にそこにまで塀の内と 外のバランスを持ち出すのは、不当というものでしょう。 こうした全体と部分の問題は、文章表現をふくめあらゆる表現に共通のはずですが、なかでも映像で大きな問題になるのは、 映像がわかりやすく説得力をもつからでしょう。とりわけ、全体と部分の、部分にあたる個別のものの説得力が大きい。木を見 て森を見ない、といいますが、映像ではしばしば木のほうが森より大きくなりやすいのです。そればかりでなく、一本一本の木 が森と張りあうほどの意味を主張することがある。 私の友人のカメラマンの話ですが、町を行くパリジェンヌの姿を撮って、華やかなパリの雰囲気を描いたつもりでいたのだそ うです。ところが編集中のその映像を見た土地っ子のフランス人が、どうしてポーランド人ばかり撮ったのか、なにかポーラン ドに事件でもおこったのか了 ときくので仰天。はじめて、全体の中から自分の好みで切りとってきた﹁部分﹂が特異なものであ ることを知った、というのです。 彼に美人をピックアップしようという意図があったことは否めませんから、見せないでおくことにした部分があったことはた しかです。でもそれは彼にとって、﹁全体を見せるために見せなかった﹂部分なのでしょう。﹁花のパリ﹂を描くために彼がとった ◇M17(653−92) − 7 − 表現手段です。しかしその主旨が、素直に伝わらないかもしれなくなったのです。 ﹁パリはいま若いポーランド女性だらけだ﹂ と言いたかったのでも、 ﹁パリの美人はみなポーランド人だ﹂ と言いたかったのでもないので、彼があわてたのも当然でした。フランス人とポーランド人の区別がつく人だったら、そう読 みとってもふしぎではない﹁全体﹂になっている、ということにはじめて気づいたわけです。 映像の﹁部分﹂は、こうしていつも全体を裏切ろうとしています。神は、好んで映像の細部に宿り給うので、めざす全体に到達 B するのは容易ではありません。 ︵吉田直哉﹃脳内イメージと映像﹄文垂春秋、平成一〇年、三六∼三九頁による。一部略。︶ ︵注︶パン パンニングとも言い、撮影位置を動かさず、カメラの向きを左右に振って撮影すること。 間一傍線部A﹁素材が事実であることはまちがいない。といって事実をいくつ並べても真実が現われるとは限らない﹂とはどう いうことか。わかりやすく説明しなさい。︵八〇字以内︶ 間二 傍線部B﹁映像の﹁部分﹂は、こうしていつも全体を裏切ろうとしています。神は、好んで映像の細部に宿り給うので、め ざす全体に到達するのは容易ではありません﹂とあるが、これについて、あなたの考えを述べなさい。︵二〇〇字以内︶ ◇M17(653−93) − 8 −
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