フランス競馬のポイント (財)競馬国際交流協会 参与 真田 昌彦 1.競 馬 の 概 況 フ ラ ン ス で 競 馬 が 本 格 的 に 開 催 さ れ る よ う に な っ た の は 19 世 紀 前 半 ( 1833 年 )で 、馬 も 人 も ル ー ル も 全 て 、400 年 前( 1 6 0 0 年 代 )か ら 行 わ れ て い た イ ギ リ ス か ら の 直 輸 入 で あ っ た 。つ い で に 言 え ば 、ボ ー ト 、 ボクシング、ラグビー、サッカー、テニス、ゴルフ等もイギリスが発祥 国で同じころ世界的に広まったものだ。 2世紀遅れてスタートしたフランス競馬はイギリスの悪弊を教訓に、 賢 く も 、1891 年 法 で 競 馬 協 会 だ け に 、パ リ ミ ュ ー チ ュ エ ル 方 式 の 馬 券 の みを場内発売にかぎって法許して、ブックメーカーと違法賭事を駆逐し た 。 さ ら に 1931 年 法 で 、 こ の 法 許 を 場 外 発 売 に 拡 大 し た 。 1954 年 チ エ ルセ馬券(3連勝単式馬券)を考案し、さらに売上を大巾にアップさせ た。その後も 5 連勝単式馬券や勝馬投票のコンピューター化によって馬 券 の 売 上 を 伸 ば し ( 2002 年 8,915 億 円 、 1998 年 か ら 5 年 間 イ ン フ レ 率 12%に も か か わ ら ず 売 上 25%増 ) 今 日 も 好 調 に 推 移 し て い る 。 2.ア メ リ カ 人 の 貢 献 国 の 取 り 分 の 多 さ が 問 題 に さ れ て は い る が ( 13.38% )、 馬 券 の 売 上 か ら控除された資金が競馬にも還元されて賞金を潤沢にし、さらに馬産の 保護のために、フランス産馬について多額の馬主賞、生産者賞が交付さ れること、馬の生産∑競馬∑調教に適した肥沃で平らなスペースに恵ま れていること、パリという世界一美しく、自由に人生を享楽できる都市 が あ る こ と な ど が 原 因 で 、20 世 紀 初 頭 か ら 従 来 の 貴 族 や 大 地 主 に 代 わ っ て、ビジネス界の成功者やお金持ちが国の内外を問わずフランスの競馬 と 生 産 界 に 参 入 す る よ う に な っ た 。と り わ け 、19 世 紀 末 に 驚 異 的 な 産 業 の発展により巨万の富を蓄えたアメリカのいくつかのファミリーの参加 の 影 響 は 大 き か っ た 。こ う し て ア メ リ カ 人 馬 主 の 活 躍 は 、20 世 紀 初 頭 か ら 始 ま っ た 。ベ ル モ ン ト 家 、デ ュ リ ア 家 、グ ー ル ド 家 、サ ン フ ォ ー ド 家 、 ヴァンダービルト家、フィットニー家、ワイドナー家等々が 2 つの世界 大戦の間にフランスで大活躍した。活気のある独自の気風と強固な資本 力による活力をもって、真に価値ある刺激となったこれらアメリカ人の 厩舎と馬生産は、単に現在も続くいくつかの重要な牧場ばかりでなく、 生来の弱気を捨てて立ち向かわざるを得なかったフランス人との実りあ る競争を生み出した。 フ ラ ン ス の 駈 歩 競 馬 に 急 テ ン ポ で 国 際 的 な 巾 を 持 た せ 、そ の 結 果 、フ ランスの競馬番組に組まれた選別競走の中で成功を収めた馬に大きな価 値が生まれたのは、こうしたアメリカ人の刺激的な存在があったからで あると言える。 3.生 産 の 概 況 馬 生 産 の 中 心 地 域 は 、か つ て ヒ ッ ト ラ ー が ヨ ー ロ ッ パ の 穀 倉 地 帯 に し よ う と し た と 言 わ れ る ノ ル マ ン デ ィ 地 方 で あ る 。 サ ラ ブ レ ッ ド は 2002 年 に は 生 産 者 数 3,800 名 余 、生 産 頭 数 4,272 頭 で ト ロ ッ タ ー の 7,735 名 、 10,671 頭 の お よ そ 半 分 の 規 模 で あ る 。フ ラ ン ス で は サ ラ ブ レ ッ ド 生 産 者 は 、 使 役 馬 、 障 害 馬 ( セ ル フ ラ ン セ )、 ポ ニ ー よ り も 少 な い 。 繁 殖 牝 馬 6 頭 以 上 の サ ラ ブ レ ッ ド 生 産 者 は 184 名 で 1〜 2 頭 し か 牝 馬 の い な い 生 産 者 が 83%を 占 め て い る 。 馬 生 産 に 対 し て は 現 在 で も 19 世 紀 初 頭 に ナ ポ レ オ ン 1 世 が 敷 い た 管 理体制の原型が存続している。馬産は農務省馬政局とその下部機関であ る 23 の 国 立 種 馬 所 の 管 轄 下 に あ る 。こ れ ら の 種 馬 所 は 血 統 書 を 管 理 し 、 小規模生産者のために競馬の益金で、種牡馬を購買して繋養し、品評会 を開催したりして、生産者へ金銭的助成あるいは技術的指導を行ってい る。 ∑種付け頭数の制限 人 工 授 精 は 、フ ラ ン ス で は 、牛 に 次 い で ト ロ ッ タ ー に も 利 用 さ れ る よ うになったが、世界中の競馬国と同様にサラブレッドの生産には相変わ ら ず 使 用 さ れ て い な い 。 フ ラ ン ス で は 20 世 紀 初 頭 に は サ ラ ブ レ ッ ド 種 牡 馬 は 1 年 間 に 種 付 で き る 牝 馬 の 頭 数 を 40 頭 ま で に 制 限 し て い た ( 種 付 初 年 度 は 30 頭 )。 1999 年 に は 種 付 頭 数 は 1 頭 に つ き 100 頭 か ら 150 頭 ま で に 制 限 が 緩 和 さ れ た 。た だ し 、 ( 税 法 上 )農 業 者 と み な さ れ る 生 産 者が所得を増やそうと思えば、南北半球を結ぶシャトル便のお陰で所有 する種牡馬を年中働かせることもできる。 4.フ ラ ン ス に 入 っ た ア メ リ カ の 血 統 オ ー ガ ス ト ∑ ベ ル モ ン ト 、 W.K.ヴ ァ ン ダ ー ヴ ィ ル ト 、 特 に H.B.デ ュ リアーといったアメリカ人がフランスに開設した自分の牧場で繋養する ために輸入した繁殖牝馬を通じて20世紀初頭から、フランス馬の中に アメリカ馬の血統が混ざり始めた。これらの輸入繁殖牝馬の子孫によっ て ピ エ ー ル ∑ ヴ ェ ル テ イ メ ー ル は エ ピ ナ ー ル ( Epinard ) を 得 、 マ ル セ ル ∑ ブ ー サ ッ ク は ト ウ ル ビ ヨ ン ( Tourbillon) を 生 産 で き た 。 1950 年 代 初 頭 に は 5 頭 の 種 牡 馬 が ア メ リ カ か ら 輸 入 さ れ た 。 そ の う ち 、 フ ラ ン ソ ワ ∑ デ ュ プ レ が 輸 入 し た レ リ ッ ク ( Relic 1945) は 大 成 功 した。同馬は 2 歳時に活躍したがその後負傷して引退した馬だった。ウ イ イ 牧 場 で レ リ ッ ク は 1951 年 か ら 1956 年 ま で の 6 年 間 に 1 ダ ー ス の 種 牡 馬 と 比 類 な い 繁 殖 牝 馬 リ ラ ン ス( Relance:マ ッ チ Match、レ ル コ Relko、 リ ラ イ ア ン ス Reliance の 母 )を 生 む 。産 駒 は 皆 、早 熟 で ス ピ ー ド を そ な えていた。 こ れ ら の 繁 殖 用 馬 の 輸 入 直 後 P.A.B.ワ イ ド ナ ー 夫 人 が エ チ エ ン ヌ∑ポ レの厩舎に送り込んだアメリカ産馬がフランス競馬に登場した。ネプチ ュ ー ン Ⅱ ( NeptuneⅡ 1955)、 ダ ン キ ュ ー ピ ッ ド ( Dan Cupid1956)、 フ ラ ダ ン サ ー ( Hula Dancer1960)、 ブ ル ー ト ム ( Blue Tom1964) 等 は 2 歳時、合計でル∑ボワ賞 5 回、ロベール∑パパン賞 2 回、モルニイ賞 3 回、ラ∑サラマンドル賞 4 回、ル∑グラン∑クリテリウム賞 2 回、ラ∑ フォレ賞 1 回の勝鞍をあげた。エチエンヌ∑ポレの巧みな調教を受けた これらすべての馬たちは早熟で、サラブレッドにとって最も重要で根本 的な資質であるスピードを有していた。 全 員 が 中 距 離 ラ ン ナ ー と し て 優 秀 な 成 績 を 挙 げ た 。そ の 中 で ダ ン キ ュ ー ピ ッ ド は ル ∑ ジ ョ ッ ケ イ ∑ ク リ ュ ブ 賞 で エ ル バ ジ ェ( Herbager)に 僅 差で敗れはしたが、クラシック距離も完璧にこなせた。 ピエール∑ヴェルテイメール夫人のためにアレック∑エッドが購買し た 当 歳 馬 リ ヴ ァ ー マ ン( Riverman 父 Never Bend)と 1 歳 馬 リ フ ァ ー ル ( Lyphard 父 Northern Dancer)の アメリカ製 牡馬は 3 歳になって その優秀な素質が一大開花し、種牡馬としても大きな貢献をした。 1967 年 、 ル ∑ グ ラ ン ∑ ク リ テ リ ウ ム で の サ ー ア イ ヴ ァ ー ( Sir Ivor) の目の覚めるような優勝はアメリカ産馬の実力について最後まで懐疑的 だった人々をも納得させずにはおかなかった。さらに、2 頭のアメリカ 馬 が 旧 大 陸 で そ の 名 を 上 げ た 。 1970 年 、 ニ ジ ン ス キ ー ( Nijinsky 父 Northern Dancer ) は イ ギ リ ス で 三 冠 馬 の 栄 冠 を 手 に し た 。 ま た 1971 年 、ミ ル リ ー フ( Mill Reef 父 Never Bend)は ダ ー ビ ー と 凱 旋 門 賞 で 優 勝を果たし、ヨーロッパの代表馬を粉砕した。英国、フランス両国は同 じ結論にいきつく。つまり、アメリカ馬産は師匠であるヨーロッパ先進 国を追い越してしまったのだ。それは半世紀にわたり改良を続けたアメ リカ馬産の成果を物語っていた。アメリカ馬産レベルアップの要因のひ とつは、レースのどれをとっても最高に厳しい選抜が行われていること である。アメリカではレースは発走直後からスピード走行が持続する。 つまり猛スピードでレースが展開するのである。だからいくらかの稀な 例外はあるとしても最もスピードのあった馬が勝者となる。一方ヨーロ ッパでは、とりわけフランスでは、最後の直線がはるかに長いこともあ って、レースでは待機作戦がとられる。従ってアメリカの場合とは大変 異なるわけである。戦術上の配慮や、走行中の運∑不運といった要素の ために多くのレースが競走馬の真の実力どおりの結果にはならない。勝 馬は幸運だったからで最も実力があったからではないのだ。レース結果 が馬の実力を最大限裏づけ証拠となり、新しい血統の馬でも ラブレッド改良用馬 最高のサ となることが出来たことがアメリカ馬の最高の強 みであった。フランスの厩舎と牧場にアメリカの優駿を導入したのは賢 明だったと評価されている。しかしもとをたどれば、旧大陸がアメリカ 競馬の初期に供給した馬のおかげでもあったのだ。とりわけフランスか ら 輸 入 さ れ た サ ー ギ ャ ラ ハ ッ ド( Sir Gallahad)、ブ ル ド ッ グ( Bull Dog)、 プ ラ ン ス キ ヨ ( Princequillo ) が ア メ リ カ 馬 の 血 統 形 成 に 果 た し た 貢 献 は大きい。 かくして、アメリカの繁殖馬はヨーロッパの牧場に押し寄せ始めた。 それらの馬は玉石混交だったが、量的にも質的にも、ノーザンダンサー ( Northern Dancer) の 子 孫 が 圧 倒 的 多 数 を 占 め た 。 5.長 距 離 馬 生 産 重 視 の 風 潮 1995 年 に ラ ベ イ ∑ ド ∑ ロ ン シ ャ ン 賞 ( GⅠ 1,000m) で 外 国 馬 が 再 び 勝利した後、ベルナール∑バルーシュは「クウルス∑エ∑エルヴァージ ュ 」誌 で フ ラ ン ス の 短 距 離 競 走 の み じ め な 状 況 を 次 の よ う に 認 め て い る 。 「フランスの大馬主∑生産者は純粋なスピードの追求に次第に興味を失 った。そして小規模生産者は安上がりで、しかも、儲かる商品(馬)な のに、この未開拓分野に進出することに、あまり熱意を示さなかった。 そ の こ と が 1975 年 以 降 、 半 恒 常 的 に イ ギ リ ス か ら の 遠 征 馬 の 独 占 的 支 配 を 許 す こ と に な っ た 」。こ の よ う に「 ス ピ ー ド は フ ラ ン ス で は 尊 重 さ れ な い 」 と い う タ イ ト ル の 論 文 が 1970 年 に 同 じ 雑 誌 に 掲 載 さ れ て 以 来 現 在まで状況はほとんど変っていない。そのために、フランスの生産者は 繁栄するはずの市場を失っている。長距離馬の生産は大切に維持すべき フランス馬産の特色であると確信して、いまだにそのことに重きを置く 風潮が強い。フランスの競馬史家、ギイ∑チボーは次のように書いてい る。 「 長 距 離 競 走 ( 2,800m 以 上 ) は 、 か た つ む り の よ う な 速 度 で レ ー ス が展開しなければ、おもしろいスペクタクルとなる。しかし、良い馬を 選別する上では意味を持たない。客観的に見ると、ひとつの長い平坦な 曲線で表現できる。加速することなくいつまでも、規則的に続く勢いの ない走行である。これらの要素は、勝利の決め手となる最後の瞬発力を 持ちつつ、かなりの距離を直ちに、最初から十分なスピードで走破でき る能力としての持続力と区別される点である。逆に、スピードは積極的 な要素であり、極めて短時間に最速走行に移行する機能で、ほとんど完 璧に近い循環器、呼吸器、運動器を有することが馬に要求される。スピ ー ド は 同 一 水 準 で 、 1,400m ま で し か 持 続 し な い 」。 「フランスにはスピードを伝える繁殖馬が必要だ。それは、第 1 に 1,600m と 2,400m の 距 離 の 選 別 競 走 の ト ッ プ ホ ー ス で あ る こ と を 示 す 決め手である瞬発力を産駒にそなえさせるためであり、第 2 には、両親 とも短距離馬の配合によって産駒にスピード力を伝えるためである。な ぜならば、スピード力は世代を経るにつれ次第に弱まり、最後は消滅し てしまわないように培われ維持されなければならないからだ。逆に、長 距離馬のほうは、そうしたいとする理由はない。選別競走に敗れた馬か ら 、 い つ で も 、 大 量 に 補 充 で き る か ら で あ る 」。 ( 平 成 16 年 1 月 20 日 記 )
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