愛の不成立を克服するための気付き

『愛の不成立を克服するための気付き』
小学校教員養成課程 社会科教育学 哲学・倫理学専攻
042432
清水
裕史
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『愛の不成立を克服ための気付き』
―目次―
序
第一章
第二章
愛の定義
第一節
『愛するということ』における愛
第二節
「条件つきの愛」と「条件つきでない愛」
第三節
唯一性を求める愛
愛の不成立の不可能性
第一節
「愛」の反対は「無関心」
第二節
「愛」の反対は「憎しみ」
第三節
倫理愛
第四節
責任と赦し
結
1
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序
2001年9月11日、ハイジャックされた計4機の旅客機がアメリカで同時多発テロ
(以後9.11)を起こした。2機は世界貿易センタービルへ衝突、1機はペンタゴンへ
衝突、残りの1機はシャンクスヴィルに墜落した。世界を短時間にして恐怖に震え上がら
せたこの事件、被害は死者数だけで3000人近くに上った。アメリカはこの事件を、オ
サマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織アルカーイダが計画・実行したと断定し、
イラク戦争へと発展した。この戦争による死者数は、イラク人だけで一般人も含め15万
人以上だと言われている。
9.11が起こった日を私は今でも鮮明に覚えている。当時高校 1 年生だった私は、学
校の文化祭も終わり、いつもの学校生活が戻り、その日もいつものように朝目覚めた。い
つもと違ったのは、テレビの前に映る、あまりにも信じられない映像と、テレビの前で言
葉を失った私の家族の姿だった。私がこの9.11の朝を鮮明に覚えているのは、それほ
ど私にとってこの事件が後にまで大きな影響を与えたことを物語っている。実際私は、こ
の年の11月に学校代表として行くはずだった韓国との短期交換留学が、9.11の影響
により、急遽取りやめになった。だが、私の中では、交換留学が取りやめになったこと以
上の、もっと大きな影響を受けたのである。私の中でこの9.11に対する思いは、他の
どの事件・事故に対する思いよりも強い、異色な光を放っている。それはとても鈍くて、
暗い、捉えようのない、まさしくテロリストのような光だ。
この事件は、世界中に大きな影響を与え、9.11に関する本や映画も多く世に出るこ
とになった。私の好きなミュージシャンであるMr.childrenのボーカル・桜井
和寿も、この9.11で感じた思いを、
『さよなら2001年』という曲に書き残している。
その中にこのようなフレーズがある。「ねぇ
の?
神様
あなたは何人いて
一体誰が本物な
僕にだけこっそり教えてよ1」これは何を意味するのか。
論文にミスチルを出すとは生意気な。どうでもいいけど、ミスチルの社会風刺は昔に比べ
ると随分とレベルアップしている。
「everybody goes」なんかと比べるとその差が歴然とし
ているのがわかると思う。この曲にしても、結局は力強い批判ではなく悲しくも切実な祈
りに終始している辺り秀逸だなぁ、と思うけど、まぁどうでもいい。
私が9.11でつきつけられたものは、
「何が正しいのかなんて、誰もわからないんだよ」
という恐ろしい不安だった。確かに9.11を首謀した者たちは非難されなければならな
い。人を殺すことは間違いなく「正しくないこと」だからだ。だからこそアメリカはもち
ろん、世界中がこの事件を連日報道し、そして犯人に対する怒りに多くの人が共感した。
ところが、テロリストたちの行動を「正しい」と感じる者は、非常に少ない。いくらテロ
1
Mr.children『 君が好き/cwさよなら 2001 年』トイズファクトリー、2002 年
2
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リストといえども、テロを起こす理由が存在するはずだ。理由も無くあれほどリスクの高
い計画・実行は成し得ない。そこにはそのリスクをはるかに超える大きな意図があったの
だろうと推測できる。背景にあるもの、それが例えばアメリカに対する激しい怒りだった
としたら・・・例えば強い抑圧を受けていて、怒りの表現方法が暴力しか残されていないのだ
ったとしたら・・・例えばテロを起こさなければうやむやにされるような、
「無関心の差別」
があるのだったとしたら・・・9.11は「正しくない」と感じるわれわれであっても、すぐ
に様々な理由を想像することができる。それにも関わらず、多くの者はテロを起こしたこ
とが絶対的に「正しい」とは感じないだろう。それは、アメリカが一方的な被害者(国)
なのだから当たり前だ、と言う人もいるかもしれない。しかし、9.11を起こしたテロ
リスト達が絶対的に「正しくない」と考える人の中にも、その後のアフガニスタン侵攻や
イラク戦争を起こしたアメリカや、それに加担した国々を「正しい」と考える人は、かな
り少ないのではないだろうか。
同時多発テロにおいて、アメリカは多くの損害を被った。この時点ではアメリカは一方
的な被害者(国)であり、アメリカが訴える怒りや憤りに多くの者(国)が共感した。し
かし、その後のアフガニスタン侵攻・イラク戦争において、今度はアメリカが加害者(国)
の側に回ってしまう。先に仕掛けたのはテロリスト達であって、一方意的な加害者ではな
い、という主張があるかもしれないが、テロリストとは何も関係のない一般市民の視点に
立ってみたらどうだろうか。彼らにとって、アメリカは一方意的な加害者(国)としか映
らないだろう。そもそも、テロリストと関係がある者に危害を加えるのは正しいのだろう
か。実際アメリカはイラクに大量破壊兵器があるとしてこの戦争を「対テロ戦争」と呼び、
自分達の正当性を訴えたが、この点には世界で賛否両論に分かれ、アメリカを批判する者
(国)も現れた。そして結果的に大量破壊兵器は見つからなかった。いや、それ以前に、
テロリストと関係があろうがなかろうが、危害を加えること自体、正しいことなのだろう
か。
私がここで言いたいことは、イラク戦争まで含めた9.11の事件が正しいのか、正し
くないのかなどというものではない。あの事件が表していることは、
「正しい」とみなが判
断できるものがこの世には無くなった、ということである。実際9.11に関わらず、
「正
しくない」ということは多くの者が同意できても、
「正しい」と多くの者が同意できない事
はしばしばある。ところが、
「正しくない」が分からなければ、
「正しい」も本質的に理解
できない。つまり多くの者が同意できると感じている「正しくない」ということでさえ、
人間は本当に理解できていないのである。そう、これらは桜井和寿が言うように、国や宗
教などを越えた「神」の乱出によってもたらされた、
「正しいもの」=「神」の消滅を意味
する。
人類の歴史のまだ最初の頃、飛行機はもちろん、車も舟も発明されていなかった頃、人
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類は小さな集団で小さなエリアで生活をしていた。そこには絶対的な長がいて、みなはそ
れに従い、調和を保っていた。そこは自分達だけの、唯一つの「セカイ」であった。しか
し、その集団が次第に大きくなり、そして舟や馬など移動手段が発達するにつれ、集団と
集団がいつしか交わるようになる。ときには争いごとにもなった。一方は支配を、他方は
服従を選ぶ。そうすると、それぞれの集団での慣習やルールがぶつかり合い、服従を選ん
だ者は争うか、そこでも服従を選ぶことになる。
科学の目覚ましい発展は、
「セカイ」を世界と繋げた。
「セカイ」と「セカイ」の摩擦は、
ときに戦争を生む。人類とは不思議な生き物で、戦争によって平和を実現しようとする生
き物である。この矛盾と不可能性は、歴史がそれを証明している。その摩擦の解決手段が
律法=ルールである。ルールに沿って正誤、善悪を決定しようというものだ。しかしルー
ルには限界があることをわれわれは知っている。なぜなら、ルールを決めるということ自
体に普遍性がないからだ。ルールに普遍性を持たすためには、ルールを決めるものが普遍
的な存在でなくてはならない。いわば「神」だ。この「神」という存在は、非常に便利な
存在である。
「神が言った」となれば、それは普遍的なものであり、それに従って正誤や善
悪を決定できるからだ。しかし、「セカイ」と「セカイ」の摩擦は、「神」と「神」の摩擦
も生んだ。世界と繋がって、初めて「セカイ」の数だけ「神」がいることを知ったのだ。
そうなると、いったい誰が本物の「神」なのか、誰もわからないのである。ここにルール
の限界があるのだ。
現代社会はセカイの交わりによる価値観の多様化が進んでいる。価値観とはいわばルー
ルである。どのセカイで育ち、どのセカイのルールのもとで育ったのかで価値観は作られ
ていく。つまり、ルールの限界とは、価値観の多様性を意味する。私はルールの限界、つ
まり「神の消滅」にたどり着いたこの世界を平和に導く最後の可能性が、
「愛」ではないか
と考えた。それはユダヤ教の律法主義を乗り越えようとしたキリストの「隣人愛」に似て
いるかもしれない。しかし私は「ただ愛しなさい」などというスローガン的な主張をした
いわけではない。なぜ愛せないのか、
「愛せない」とはどういうことなのかが知りたいので
ある。愛が成立しない理由とは何か、逆に成立する理由とは何か、その仕組みを解明した
いのである。
「愛せない」という仕組みを知ることで、
「愛する」とはどういうことかを提
示したいのである。そして、そこに存在する「愛」の可能性はどれほどあるのだろうか、
そんな問いを掲げ、これから考察を進めていく。もちろんタイトルからも察するように、
「愛
は成立するんじゃないか」という希望を持ってだが。
第一章では、まずE.フロムの論を参考に愛の定義を行う。愛に見られる「配慮」
「責任」
「尊敬」
「知」という基本的要素を紹介し、その基本的要素は具体的にどのように作用する
のかを、森岡正博の「相手に条件を付けて愛する「条件付きの愛」」
、浅見克彦の「対象が
持つ性質を愛する「対象愛」
」
、そして大澤真幸の「唯一性を求める愛」を取り上げる。
第二章においては、愛が成立しない仕組みと、その矛盾を解明し、愛とは何かを今度は
私なりに定義する。愛の反対を「無関心」と仮定した場合、
「憎しみ」と仮定した場合の2
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つの方向から、愛がなぜ成立しないのかを探り、愛が成立しない理由はないことを明らか
にする。そしてフロムの論に見られる問題点を指摘し、新たな「倫理愛」という気付きを
提案する。最後には、愛を「責任」と「赦し」と定義し、本論の出発点である9.11を
われわれが乗り越えられる可能性を、結に添える。
前書きは自論?出典なり、誰かの後押しなりがあればもっと説得力のあるものになると
は思う。
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第一章
第一節
愛の定義
『愛するということ』における愛
「愛はなぜ成立しないのだろうか。」この問いに答えるためには、「愛とは何か」につい
てまず述べなければならない。
「愛」とは誰もが知っている言葉であり、誰にとっても身近
にある言葉である。愛に関する本や歌は、この世に数え切れないくらい存在する。それゆ
え「愛」という言葉に潜むイメージは、十人十色と言っても良いほど多種多様に存在する。
「愛とは何か」という問いに簡単には答えられないが、これから「愛が成立しない理由」
を探るわれわれにとって、
「愛」のイメージをおおまかにでも共有することは必要条件であ
る。そこで、まずはE.フロムの『愛するということ』を手がかりに、愛とは何かを考えて
みよう。
手がかりとしてフロムを…で別に悪くはないけど、
「なんでフロムなの?」ということは、
諮問の際に聞かれるかも知れない。
フロムは愛についての大きな問題とは、今日の人々の大半が愛を一つの快感のように捉
えていることだという。そして、愛を経験するかどうかは運の問題で、愛について学ぶべ
きことはないかのように思い込んでいることだと指摘する2。しかし、決して今日の人々が
愛を軽く見ているというわけではない。それどころか、本に映画に歌にミュージカルに世
間話に、愛の問題が取り上げられることは非常に多く、多くの者が愛に飢え、よりよいも
のを求めているように見られる。この一見パラドックスのような奇妙な態度の原因を、フ
ロムは以下の3つにまとめている。
、、、
第一に、
「たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてでは
、、、、
なく、愛されるという問題として捉えている3」ことである。人々にとって重要なのは、ど
うすれば愛される(人間になれる)か、ということなのだ。愛されるのにふさわしい人間
になるために、しばしば男は社会的成功、富、権力を求め、女は外見を磨いて自分を魅力
的にするのである。
、、
、、
第二に、
「愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思い込
、、、
み4」をしていることである。
「愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは
愛されるにふさわしい相手を見つけることはむずかしい5」と考えている。そのために自分
の交換価値の限界を考慮した上で、市場から手に入る最良の、言わば「掘り出し物」を必
2
3
4
5
E.フロム『愛するということ』紀伊国屋書店、1994 年、12 頁参照
同上、12 頁
同上、13 頁
同上、13 頁
6
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死に探そうとするのである。
、、、、
第三に、
「恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現
すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同している6」ことで
ある。それまで赤の他人だった 2 人が、ふいに親しみを感じ、一体感を覚える瞬間(=「落
ちる」
)は、実は頭に血が上った状態であり、愛の強さの証拠ではないのである。それは、
「それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎない7」のであって、大方の
場合すぐに終焉を迎えるのだ。
全体的にはここはさほど重要な部分ではないのでこの分量で全然いいけど、厳密には少々、
言葉足らず。第一のところは「社会的に成功し、
「多くの友人を得て、人々に影響をおよ
ぼす」ようになるための方法と同じである」こと。第二のところは、自らの意志によっ
て相手を選んでいるのではなく、その人は単に突き動かされているだけということ。第
三のところは、愛は一種の運命に左右されており、愛を経験できるかどうかは運に任さ
れたものにすぎないということになるということ。特に後ろ2つは、愛が「受動的な」
ものではなく、「能動的な」ものであるということを強調する文脈につながっていくの
で、フロムの理解としてはわりと重要かも。まぁ、でもそんなことわかってるだろうし、
全体としてはどうでもいいところなので気にしないでおk。
以上のような問題を指摘した上で、
「愛は技術である8」と考え、
「愛は能動的な活動9」で
、、、
あり、
「愛は何よりも与えることであり、もらうことではない10」と言った。愛とは諦める
ことでもなく、何かを犠牲にすることでもない。自ら物質を、そして「自分自身を、自分
のいちばん大切なものを、自分の生命を、与える11」のである。
「自分の生命を与えること
によって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感
を高める12」と述べる。そして愛に見られる4つの基本的要素を示す。それは「配慮」
「責
任」
「尊敬」
「知」である。これら4つの基本的要素は、互いに関わり合い、依存しあって
いる。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
第一の「配慮」とは、この場合「愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること13」で
ある。例えば子供に対して食べ物をあげたり、風呂に入れたり、そういった配慮が欠けて
いる母親を見たら、どんなに母親が子供を愛していると主張しても信じることは出来ない
6
同上、14 頁
『愛するということ』17 頁
8 同上、12 頁
9 同上、42 頁
10 同上、43 頁
11 同上、46 頁
12 同上、46 頁
13 同上、49 頁
7
7
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だろう。反対に母親が我が子をあれこれと気にかけているのを見れば、信じることができ
るであろう。あるいは、花を好きだと言うような女性が、花の水遣りを怠っていては愛を
感じないが、いつも花を気にかけ水遣りや世話をしている姿を見ると、きっとその愛に心
を打たれるだろう。
第二の「責任」とは、この場合自発的な応答責任を意味し、
「他の人間が、表に出すにせ
よ出さないにせよ、何かを求めてきたとき」に、「要求に応じられる、応じる用意がある、
という意味である」14。愛する心を持つものは、相手の問題を自分自身の問題として捉え、
自分自身と同じように責任を感じる。反対に、愛する心を持っていないものは、決して自
分以外のものに責任を持とうとしないだろう。
第三の「尊敬」とは、この場合「その人が唯一無二の存在であることを知る能力15」を意
味する。尊敬とは他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことであり、人を
利用するという意味は全くない。誰かを愛するときとは、互いが独立し、自由であること
を前提に、ありのままのその人と一体化を味わうことができるのである。
第四の「知」とは、
「その人に関する知識16」を意味する。知識なければ、本当の意味で、
配慮や責任や尊敬ができない。一方知識も、配慮、責任、尊敬が動機でなければ、むなし
いものになる。相手に関する知識は、表面的なものではなく、核心にまで届くものであり、
自分自身に対する関心を超越して相手の立場に立つことで、初めてその人を知ることがで
きるのである。
「配慮(care)」
「責任(responsibility)」
「尊敬(respect)」
「知る(knowledge)」
、出来れ
ば原語も示していればわかりやすいかも。特に責任は、responsibility, liability, duty、
obligation など複数の訳語が考えられるので、そのような語は言語を明確に示すのが通例なのか
も。細かいところはわかんね。ちなみに、
「与える(giving)」という言葉も、相手に「奪わ
れる(being deprived of)」、相手のために「犠牲を払う(sacrificing)」
、という言葉と
の対比でフロムは用いているので、この辺も、原典を参照して言語を示せばかなりカッ
コイイんじゃね?
フロムの一貫した主張は、愛するとは技術であり能力である、ということである。自己
愛17を除いて、ベクトルの先を決して自身に向けるのではなく、ベクトルの根元を常に自身
14
同上、50 頁参照
同上、51 頁
16 同上、52 頁
17 フロムは「自己愛」と「利己主義」を全く別物として捉えている。
「利己的な人は他人を
愛することができないが、同時に、自分自身を愛することもできない(
『愛するということ』
97 頁)
」と指摘し、
「自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する
能力、すなわち気づかい、尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。
(同、96 頁)
」と述べ
る。
15
8
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に固定するのである。愛の問題とはすなわち、どこまでも「自己」の問題なのである。相
手に何かを求めたり、環境に責任転嫁したりすることなく、常に自分自身の問題と捉え、
ただ「愛する」ということに価値をおく。そして、
「愛するために」正しい知識と不断の努
力が必要不可欠なのである。
フロムにとって愛の問題が、どこまでも「自己」の問題である、ということはおそらくフ
ロムの根本思想にかかわっている。だけど、今回はそれが問題ではないからスルーしてる
のは懸命でGJ。一応言っておくと、孤独の克服とかその辺の話が絡んでるんだけど、ま
ぁ、わかってるよね。
ところが、
「知識」と「努力」と言われても、何を習得し、どのように努力をすべきなの
かが全く見えてこない。次節以降では、実際にどのようなものを「愛」と呼び、どのよう
なものを「愛」と呼ばないのかを、具体例を交えながら考察していく。
第二節
「条件つきの愛」と「条件つきでない愛」
「私のどこが好き?」
世の女性は、ときどきこのような質問をパートナーにする。私の認知する限りでは圧倒
的に女性が多いが、中にはこのような質問を男性が女性にすることもある。この質問の意
図はどこにあるのだろうか。
日本人は「愛」という言葉に少し恥ずかしさを覚える。その理由はここで探る意味もな
いので控えるが、
「好き?」と聞く場合と「愛してる?」という場合で、日本人はそこまで
違いを意識しているとは考えられない。「私のどこが好き?」と聞いた場合、
「私のどこを
愛してる?」と同じような意味で使っていると考えられる。では、この質問の意図はどこ
にあるのか。実はこの場合「どこ」と聞きながらも、知りたいことはその場所自体なので
はない。「なぜ私を愛しているのか」
、その理由を知りたいのである。もちろん場所に全く
関心が無いというわけではない。もし回答が得られれば、その場所こそが理由であるから
だ。しかし、例え「君の美しい目だよ」という回答と「君の優しい性格だよ」という回答
では、個人的な趣向の違いは除き、さほど質問者の気持ちに違いはないだろう。なぜなら
質問の意図は「なぜ愛しているか」であり、
「理由が存在するかどうか」が第一に知りたい
のである。だが、この質問は本当に正しいのだろうか。
森岡正博は『無痛文明論』において、選択的中絶の問題を「条件付きの愛」と捉えて問
題視する。
「
「条件付きの愛」とは、あなたがしかじかの条件を満たすかぎりにおいて、私
はあなたの存在を肯定してあげようというものだ。あなたが、私の望みに反しないかぎり
において、私はあなたの存在を認めて、あなたを祝福してあげる。選択的中絶の根本にあ
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るのは、この意味での条件付きの愛である。18」つまり、選択的中絶を選ぶ親は、子供に「障
害を持っていない」という条件を付け、それをクリアーしたならば愛しましょう、という
ことであり、愛することに条件を付けているというのだ。しかもこの問題が恐ろしいこと
は、この問題を一番実感し、苦しむのは、生まれてきた子供自身だという点である。なぜ
なら、今まであるがままの自分を愛してくれていると思っていたとしても、この問題に気
付いた途端、
「私は条件を満たしたから愛されているのだ。もし障害を持っていたら、生ま
れることさえもなかったのだろう。他にも条件があるのだろうか。その条件を満たしてい
なければ愛してくれないのだろうか。
」という不安に永遠と苛まれるのである。もちろんそ
の条件を満たすことなく、この世に生まれなかった命ほど悲しい事実は無いが、永遠に続
く生への不安を抱えながらこれから生きていくということほど、残酷な事実はないであろ
う。
「私のどこが好き?」という問い掛けの根本的な問題はここにある。その問いに答えら
れるということは、相手への愛に理由が存在するということである。理由の存在する愛で
あれば、すなわちその理由が排除されたときには愛さないという事実を示す。これは本当
に愛と呼べるだろうか。
一方、浅見克彦は『愛する者を所有するということ』の中で、
「(対象の性質が愛の意識
を生むという)原因論を想定し、それにもとづいて現実の愛を追求する態度は、対象がそ
れ自体としてもっている性質を愛するという意味で、対象愛19」と名付けた。これはフロム
が指摘する愛の問題の第二に相当する。つまり、自分が愛せるかどうかは、自分が愛の意
識を生む対象が現れるかどうかだ、という態度である。これは一見相手の持つ性質を賞賛
するという意味で、相手の存在を価値付けているように見えるが、実は全くの逆なのであ
る。なぜなら、この場合価値付けているのは「相手の存在」ではなく、
「相手の持つ性質」
だけなのである。つまり相手の部分的な尊重でしかない。このように、対象愛とは、
「みず
からの願望と悦びを満たす性質を相手に求め、他者を介して自分を充足させようとする自
己愛20」なのである。もちろん自己愛を否定するわけではない。自己愛なしに自我は生まれ
ないし、自己愛を否定する愛は、本当の愛ではないからだ。しかし、自己愛の実現手段と
して他者を利用するとなると、これは自己愛とは呼べない。利己的な愛であり、利己主義
でしかない。つまり「対象愛」とは、利己的な自己愛という問題を抱えるしかないのであ
る。
自己愛と利己愛の区別が少しはっきりしていない。読んでいれば何となくはわかるけど、
わかったようなわからんような感じ。だけど、まぁ全体としては議論の大事な部分ではな
いので気にしなくてry。もし、諮問でツッコまれたときにはうまく説明できるように。
ないと思うけど。
18
19
20
森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003 年、61 頁
浅見克彦『愛する人を所有するということ』青弓社、2001 年、105 頁
同上、117 頁
10
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このように、愛に理由や条件を付けることは、理由や条件を愛しているだけであり、
「あ
なたを愛している」とは言えないのである。理由や条件を付けていようとも、それをクリ
アーしたのは私自身であり、部分的な尊重であっても、その全てを愛しているなら愛と呼
べる、と言う人がいるかもしれない。しかし、理由や条件を愛しているということは、そ
の理由や条件さえ変わることがなければ、あなた自身は代替可能である、ということを示
してしまうのである。ここまでくれば、
「それでも愛だ」と主張する人は、かなり少ないの
ではないだろうか。
第三節
唯一性を求める愛
前節において、愛に理由を求めることは不適切であることを確認した。ここでもう少し
この意味について深めよう。前節では「私のどこが好き?」という問いを出発点に、この
問いは「なぜ私を愛しているのか」の答えを求めていると述べた。しかし、もう少し深く
探ってみると、この問いの欲求は、実は「私の唯一性」を求めていることに気付く。つま
り、私にしか持っていないもの(=唯一性)を愛してもらうことで、私だけを愛して欲し
いという独占欲を満たすための確認なのである。ところが、私の唯一性とはそう簡単に手
に入れられるものなのだろうか。
大澤真幸は、
『恋愛の不可能性について』において、小説『これは愛じゃない』に見られ
る「ぼく」と「レーナ」の愛について興味深い記述をしている。
「名前は、性質の記述には
還元できない。名前は、ただ端的に、固体を指し示しているのであって、その固体の性質
について何事も含意してはいないのである。このことは、レーナを愛する理由が、レーナ
についての性質に還元しえないのと似ている。その還元不可能性は、名前の記述への還元
不可能性と同じ事情に由来するのである21」
。固有名とは、その固有名が持つ性質には還元
できない。例えば、私は「清水裕史」という固有名を持つが、その「清水裕史」が持つ様々
な性質(大阪教育大学の学生、22 歳、京都府出身、背丈は 175cm、ボランティアサークル
aile の代表、ハンドボールが好き、明るい性格・・・)をいくらあげても、
「清水裕史」を定義
できないということだ。なぜなら、私が例え大阪教育大学の学生でなくても、背丈が 165cm
しかなくても、
「清水裕史」という存在は変化しえないからだ。そして、大澤はこの名前の
還元不可能性を、愛に適用したところがとても興味深い。つまり、例えば私を愛する者が
いたとしても、その理由を「清水裕史」が持つ様々な性質に還元はできない、ということ
である。
「清水裕史」を愛するということは、大阪教育大学の学生を愛することでも、明る
い性格を愛することでもないのだ。ところが実際の所、たいていの者が「唯一性」と「性
質」を同じように捉えている。そのために「私のどこが好き?」などという質問を繰り返
21
大澤真幸『恋愛の不可能性について』筑摩書房、2005 年、19 頁
11
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し、そこに唯一性を求めようとする。しかし、この点においても大澤は「積極的な理由づ
けは、かえって、その愛を相対的なもの(非唯一的なもの)として示したことになってし
まう22」と指摘する。これはどういうことか。例えば、私を愛する理由を私の性質に見出せ
ることができるならば、それは同じ性質を持つ者を愛する可能性がある、ということを示
すことになるのである。つまり、
「私のどこが好き?」という問いは、相手の唯一性が全く
見えないどころか、反対に相手の唯一性を失わせてしまっているのである。
「清水裕史」を
愛するということは、
「清水裕史」という存在そのものを愛するということである。それは
固有名を愛するということであり、それこそが真実の唯一性なのである。
さて、ここまでの議論は愛についてのイメージを共有するために行ったのであった。第
一節ではフロムの論を参考に、愛を技術と考え、愛の基本的要素を「配慮」
「責任」
「尊敬」
「知」とした。その上で、第二節では愛に理由を求めることが相手の持つ性質を愛すると
いう意味で誤りであることを明らかにした。そして第三節では、前節と同様、唯一性を性
質に求めることは誤りであり、唯一性とは固有名でしか還元できないことを明らかにした。
このように第一章では、フロムの論をベースに愛のイメージを共有してきたのだが、次章
ではいよいよ本論の目的である「なぜ愛は成立しないのか」を探っていこう。
ここは、厳密には「固有名を対象の性質についての記述に置き換えることはできない」と
いう議論と並行させる必要がある気がする。もちろん、その議論自体はこの論文の中で主
要な問題ではないから軽くでいいんだけど、いきなり「固有名」という単語が出てくるこ
とに違和感を覚える人はいるかも。大澤が、
「清水裕史」という固有名は「哲学ゼミのおっ
ぱい星人である」という記述に置き換えることができない、という言語哲学の問題と、
「私
のどこが好き?」と聞くことに理由で答えられないということの類似性を語っている、と
いうことへの注釈なり、言及が少しは必要だった気がしないでもない。
22
『恋愛の不可能性について』41 頁
12
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第二章
愛の不成立の不可能性
第一節
「愛」の反対は「無関心」
これまで、何が愛でないかについて述べてきたが、愛とは何かについてはほとんど述べ
てきていない。ここからは「愛がなぜ成立しないのか」を解明し、
「愛」というものの本質
に迫っていく。まずはその足がかりとして、
「愛」の対極から話を進めていこう。なぜなら、
暗闇を知るには光を知らなければならず、真実を知るには嘘を知らなければならないから
だ。
後半は「嘘をつくには真実を知っていなければならない」じゃないかな?
「愛の反対は憎しみではなく、無関心なのです」これはマザー・テレサの有名な言葉で
ある。この言葉は彼女の人柄をよく表す言葉として世に広く知られているが、この言葉を
出発点としてみよう。
ちなみに、マザー・テレサだけの言葉ではない。というか、個人的にはヤスパースの言葉
だと思っていたんだけど、検索してみるとマザー・テレサの名言として定着しちゃっとる
がな。ちなみに、ヤスパースのほうは「実存解明」を読めばこの言葉があります。キリス
ト教、もしくはユダヤ社会で伝統的に語り告げられている言葉なのかもしれんね。出来れ
ば要出典、Wikipedia でもいいだろうし。
「愛」の反対は「憎しみ」だろうか。それとも彼女が言うように「無関心」なのだろう
か。その議論は一先ず省き、まずは彼女の言うとおり「愛の反対は無関心である」と仮定
し、この方程式から「愛がなぜ成立しないのか」を考えてみよう。そのためには、まず問
いの変換をしなければならない。
「愛が成立しない相手に、なぜ関心を持たないのか」とい
う問いである。この問いの結論を言えば、それは「責任を持ちたくないから」である。
変換をしなければならないのはなぜか。上の言葉を定式化すると、
「愛していないならば、
関心はもたない」。これを問う形にすると、
「なぜ愛していないならば、関心を持たないの
か」それに対する結論は、愛さないということは「責任をもたないから」である。
「~した
い(want)」という要素がここに紛れ込んでしまっている気がする。そのせいで、以下の論
が少々感情論、感覚論気味になっているのが残念。それがなくても、
「相手に対して責任を
もたない」ということは、
「相手に対する責任の放棄」である、ということがきちんと示せ
ると思うので、以下につながっていくでしょう。
13
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人は責任から逃れたいという思いを持っている。誰でもそういう経験をしたことがある
はずだ。例えば教室で暴れていて花瓶を割ってしまった。確かに最後に触ったのは自分だ
としても、もしその原因が友達からふっかけられた喧嘩だとしたら、必死にその説明をし
て自分にかかる責任を少しでも軽く、あるいは無いことにしようと努力するだろう。この
ような行動に見られる人間の性質とは、
「自分に責任がかかるのが嫌だ」ということである。
大澤真幸によると、責任とは「
「それは誰がやったのか」ということへの応答23」である。
こう言われればなるほどと思うが、
「責任」という言葉には、何か嫌なイメージがつきまと
う。もし「責任」が「それは誰がやったのか」という問いならば、
「私の作った新記録です」
と自慢気に答えるスポーツ選手や、
「ここに橋をかけたのは私の実績のひとつです」と自信
満々に答える政治家にも当てはまる。そこにはそれなりの良いイメージがあるが、
「責任」
という言葉だけを見れば、やはり嫌なイメージを拭い去れない。その理由は簡単なことで
ある。
「それは誰がやったのか」と問われるのは、大抵悪いことが起こった後だからだ。そ
うなると「責任」という言葉は悲しいことに、誰からも拒絶される。なぜなら、当たり前
のことだが、こういった場合責任を持つということは、非難を受けるということを意味す
るからだ。自ら責任を持ちたいと望む者がいても、自ら非難を受けたいと望むものは、そ
うはいないだろう。
人はみな非難を受けたくない。だから「責任」というものをあまり持ちたくない。それ
までに関わりがないものであれば、なおさら持ちたくないものである。そんなものにいち
いち責任を持っていては、身に覚えも無いことで非難を受ける恐れがあるからだ。では、
「責
任を持たなくてもいいような状況を作る」ことで無関心はなくなり、愛の成立へと導くこ
とが出来るのだろうか。これはいささか強引な導きであり、この筋道は誤りである。なぜ
なら、愛には必ず「責任」が含まれるからである。愛を成立させるために「責任」を放棄
するということは、愛に近づくようで、実際は愛の要素を奪い取り、愛から遠ざかる一方
なのである。
「積極的に関心をもつこと」と「責任を持つこと」は互いに関わっている。積
極的な関心は、積極的な関わりを導き、積極的な関わりは相手に責任を持つことを示す。
この導きは、また逆も真である。つまり、相手に責任を持つことで積極的な関わりを導き、
積極的な関わりには積極的な関心が不可欠なのである。このように、関心の確立には、責
任を排除するのではなく、反対に責任を強く表すことで、関心は存在を確立できるのであ
る。
ここでの導きは、相手に対して「積極的に関心をもつこと」と「責任を持つこと」の関わ
りなので、やはり単に愛さないということが「責任の放棄」であるということで事足りる
のではないかな。
ここまで来ると、不思議な方程式が成立したことに気付く。
「配慮」と「責任」は、愛に
23
大澤真幸他『中学生の教科書』2001 年、四谷ラウンド、214 頁
14
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必ず含まれる要素であった。この場合の「配慮」は積極的に気にかけることを意味したの
で、
「関心」と置き換えても問題はない。そうすると、無関心を克服するために関心・責任
を確立するということは、つまり、
「愛を成立させるためには、愛することが必要」という
方程式にたどり着く。この一見当たり前で、肩透かしをくらったような方程式こそ、実は
愛の不成立の克服を的確に表しているのである。それはどういうことか。
ここが、唯一、そして最大によくわからん。
「愛を成立させるためには、愛することが必要」
ということは第一章でフロムの理論から確認したような…ここでわざわざこれを言わなく
ても、関心・責任が愛することにとって特に重要であるということさえ確認しておけば問
題はない気がする。
「愛する」ということは、能動的な活動であり、対象がなければ「愛する」ことはでき
ない。もし自分を取り巻くこの世界を、
「対象(として認識)のある世界」と「対象(とし
て認識)のない世界」に分けたとすれば、前者は「関心のある世界」
、後者は「関心のない
世界」と言い換えることができる。
「愛の反対は無関心である」という前提に立った場合、
今立っているのは後者の世界である。この「関心のない世界」=「無関心の世界」におい
て、なぜ愛は成立しないのかを探っているのである。このように整理すると、
「なぜ愛は成
立しないのか」という問いの無意味性を実感せざるを得ない。なぜならば、今立っている
のは後者、つまり「対象のない世界」であり、対象を必要とする「愛」はそもそも成立し
ないどころか、概念自体が存在しないのである。ではやはり愛は成立しないのだろうか。
いや、そうではない。ここで証明できたことは、「
「愛を成立させることは不可能である」
ということを証明するものはない」
、ということのみである。なぜなら、この世界にいるも
のは対象として認識されていないため、愛そうとしても愛せないのである。それは能力の
問題ではなく、それ以前の問題である。もし「愛する」という行為をしようとしたならば、
その時点で「対象のある世界」へと移行する(
「対象のある世界」においては、次節で述べ
る)
。つまり、「愛の反対は無関心である」という方程式は、愛が全く成立しないことを述
べているのではなく、反対に愛が成立する可能性のある世界(すなわち対象のある世界)
の存在をほのめかしているのである。
「対象のない世界」というのは、
「愛するということが問題にならない世界」ですね。ちょ
っとずるい気もしますが、うまいこと言いやがりましたね。これ、オリジナル?だとした
ら立派な詐欺師になれるぜ。ちなみに、ここでのことは関心・責任の重要性さえ説いてお
けば十分に語れる論になっていると思うというのは、上でも指摘したところ。何にしても、
ここはちょっと僕もよくわからん。でもうまいこと言ってるとは思う。諮問で質問が飛ぶ
可能性が大なのはここなので、先生たちをうまく丸めこめる論を考えておくように。
15
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第二節
「愛」の反対は「憎しみ」
今度は、一般的に認知されている辞書的な意味の「愛の反対は憎しみである」という方
程式から、愛が成立しない理由を探ってみよう。ここでも同じように問いの変換をしてお
こう。今度は「愛が成立しない相手が、なぜ憎いのだろうか」である。
憎いというのは、
「害を加えたくなるほど、しゃくにさわり、腹の立つようす。24」とい
うことである。
「害を加えたくなる」ということは、相手と何かしらの関わりがあるという
ことになる。直接的か、間接的かはわからないが、害を加えたい相手とは何らかの関わり
があり、先述の「無関心」とは少し様相が変わる。
「無関心」の動機は、今までの関わりを
絶ちたいというものよりは、初めから関わりがないものに、今まで通り、もしくは今まで
以上に関わりを持ちたくないというものであった。しかし、愛の反対を「憎しみ」と仮定
すると、それ以前の関わりがあった上で、
「害を加えたい」というほどの不愉快さを抱えて
いる。
「害を加えたい」という思いは、
「関わりを持ちたい」という思いの存在を示唆する。
それは積極的な関わりではないかもしれないが、少なからず「関わりたくない」と思って
いる者が、
「害を加えたい」とは思わないであろう。
もう一度問いに戻ろう。
「なぜ憎いのだろうか」
。
「憎い」という感情は、私達が普段使う
言葉で言えば、
「むかつく」
「腹が立つ」
「うっとうしい」というところだろうか。ここには
共通して「ゆるせない」という感情が潜んでいるように思える。
(実際他の辞書では「憎い」
の意味を「気にくわない。不快で許しがたい。25」と表現している。
)相手の行動が、相手
の性格が、何かそこには不愉快に相当する「ゆるせない」事実が潜んでいる。
ゆるせない事実とは何だろうか。その原因を2つの場合に分けて考えてみよう。1つは、
相手の固有名を除いて、相手に付随する性質の場合。相手の容姿、相手の癖や性格、相手
の所属、相手の性別、相手の趣向・・・そういった性質が「ゆるせない」事実だという場
合。これは、愛の成立を妨げる理由となりうるのだろうか。答えは誤りである。人間に付
随する様々な性質とは、言い換えれば、固有名に還元できないものとも言える。相手に付
随する性質をいくら並べたところで、それで相手を表すことはできない。第一章の第四節
で述べたように、固有名は性質に還元できない、という思考は、愛が理由に還元できない、
という思考を導いた。そこでわれわれは、愛することに理由をつける矛盾と、誤りを確認
した。だとすれば、愛せないことに理由をつける矛盾と、誤りに気付くべきである。なぜ
なら、愛せない理由とは、それを排除することにより愛する理由へと簡単に変換すること
ができるからである。相手に付随する性質を愛せない理由にするということは、まさにそ
れこそ「条件付きの愛」の証明に他ならない。そもそも相手に付随する性質とは、根本的
に愛とは無関係なのである。従って、この場合においても、
「愛せない理由はない」という
24
25
市川孝他『現代新国語辞典 第二版』三省堂、2004 年、940 頁
松村明他『国語辞典 第九版』旺文社、2002 年、1025 頁
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事実を確認することになる。
では、もう一方の場合はどうだろうか。もう一方とは、相手を指し示す固有名が「ゆる
せない」事実の場合である。この場合、固有名とは決して名前の雰囲気や、名前の字画、
名前の意味など、
「名前」自体に意味を持っているわけではない。この場合、相手を指し示
す唯一の手段としての固有名を意味し、つまりは、相手の存在そのもののことである。相
手の存在そのものが「ゆるせない」ということは、愛の不成立の立派な理由と位置づけら
れるのだろうか。結論から言えば、これも誤りである。人はそもそも存在に責任を問えな
からだ。この世界に自分で望んで生まれてきた者は、誰一人としていない。
「親の愛によっ
て生まれた。
」これ以上の説明は、人間存在に関しては記述できないのである。従って、存
在そのものを「ゆるせない」という思考は、責任を負えない行為に対する責任追及であり、
無意味、かつ越権行為である。人間にはそもそも他の存在を否定するような権限は与えら
れていないのだ。人間には生まれた理由がないのと同様に、生まれてこない=存在の否定
の理由もない。つまり「(存在否定という意味で)愛せないことにも理由はない」
、という
事実をここでも確認することになる。
ここの論は素晴らしいです。
第三節
倫理愛
「愛」をその対極に位置する「憎しみ」と「無関心」という2つの側から探ることで、
愛がなぜ成立しないのかを探ってみた。ここまで来たら結論までもう一息である。その前
に、もう一度、
「愛」について整理してみよう。ここでも、フロムの考える愛を参考書代わ
りにする。
フロムの考える愛とはこうであった。愛とは何よりも与えることであり、そこには、配
慮、責任、尊敬、知という基本的性質が必ず含まれる。言い換えれば、配慮、責任、尊敬、
知が含まれない愛は、本当の愛とは言えないということである。これは愛について必要な
条件を網羅的に整理したものであるが、ここに実はフロムの決定的な誤りが見られるので
ある。それは4つめの愛の要素「知」である。フロムの言う「知」とは、
「その人に関する
知識」を意味した。しかし、
「その人に関する知識」とは何か。フロムによれば、
「他人に
関する知識にはたくさんの層がある26」という。そして、
「愛の一側面としての知識は、表
面的なものではなく、核心にまで届くものである27」というのだ。つまり愛において、相手
に関する知識とは、容姿、性格、所属など、比較的浅い層ではなく、もっと深い相手の根
本まで届かなくてはならないということだ。それはつまり相手の存在そのものであろう。
26
27
『愛するということ』52 頁
同上、52 頁
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しかし、フロムは自身で指摘しながらも、いかんせん「表面的な層」から脱出できていな
いのである。その証拠に、核心をこう説明しているのである。
「たとえば、相手が怒りを外
にあらわにしていなくとも、その人が怒っているのがわかる。だが、もっと深くその人を
知れば、その人が不安にかられているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感にさ
いなまれているということがわかる。そうすれば、彼の怒りがもっと深いところにある何
かのあらわれだということがわかり、彼のことを、怒っている人としてではなく、不安に
かられ、狼狽している人、つまり苦しんでいる人としてみることができるようになる。28」
フロムはここで相手に関する知識の深さを説明したかったのだろうが、残念ながらこれは
反対にその浅さを説明してしまっている。確かに「怒っている」という表面的なものから、
もう一層深くまで観察し、その奥にある「不安」や「苦しみ」を発見することができてい
る。しかし、これはまだ人間の核心には迫れていないのである。人間の核心とは、人間の
存在そのものだからである。人間の存在そのものは、どんな記述にも還元できない、唯一
無二の象徴でなくてはならない。しかし、フロムのこの記述では、相手を「不安にかられ、
狼狽している人」や、
「苦しんでいる人」という、記述の域を脱していないのである。これ
は、愛の深さどころか、愛に対する層の浅さを物語っているのである。ただし、フロム自
身が愛に対する認識が浅いというわけではない。なぜなら、愛の第三の要素「尊敬」とは、
まさに相手の存在そのものを唯一無二と認めることを意味するからだ。しかし、彼の誤り
は、
「尊敬」という概念において人間の核心=存在へと辿り着いたにも関わらず、
「知」と
いう概念によって、また浅い層へと戻ってきてしまったことである。もし愛することの要
素に「知」が含まれなければならないのならば、愛する人を「○○な人」というように記
、、、、、、、、、、
述できなければならない。しかし、愛とは理由に還元できないものであり、固有名を愛す
、、、、、、、、、
ることなので、愛する相手を「○○な人」と記述することができても、愛するために記述
、、、、、、、
をする必要はない。つまり、愛において「知」は無関係であり、相手の存在そのものとは、
「知る」のではなく「気付き、感じる」ものなのである。従って、愛の要素に「知」は必
要条件ではなく、愛には配慮、責任、尊敬の3つの性質があることが条件なのである。こ
れを念頭に置き、もう一度「憎しみ」
「無関心」とう言葉から見た愛の世界を整理してみよ
う。
ここは疑問。
「知」こそ「固有名としての相手への知」であり、それこそ責任と配慮が深く
関連していたように、知と尊敬も深くかかわっていると読むのが妥当ではないかな。例え
ば女の子が「清水君はどんな音楽が好き?」と聞いてきたりするのは、確かに記述におき
かえて清水を捉えていて、清水が「こいつはアホか、そんなこと知ったところで俺のこと
を理解できたとは言えねぇ」と思うこと自体はいいと思うが、本当にその女の子の質問を
くだらないものとして退けることができるのか。そこに「尊敬」が関わってきていて、固
有名としての清水そのものへの「尊敬」という前提があった上での「知」であるならば、
28
『愛するということ』52 頁
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女の子の目的はそういった表面上の「知」を得ることではなく、そのようなやり取りを通
じて清水という固有名を「感じる」ことではないか、と個人的には思う。ただ、その場合
原語は intelligence の方がふさわしいのかも。この辺は気になったら出村に聞いてみてくれ。
自分を取り巻く世界は2つに分けることができる。一方は自分と関わりのある世界。こ
の場合、実際に関わっているか、会ったことがあるかということではなく、自己の中で「関
わりがある」と意識されている世界である。言い換えれば、対象として認識されている世
界である。あの人は鈴木という名前で、私の会社の同僚で、顔はほりが深く、性格は温厚
で・・・というように、相手に関する一定の情報が自己の中で認識されている。もちろん
どれだけの付き合いがあるかは問題ではない。
「今日たまたまコンビニの前ですれ違った女
性」だけでも十分である。必要なのは、相手がそれ以外と区別される対象として認識され
ていることである。もう一方は、意識の中で関わりのない世界である。この場合多くは見
たことも、出会ったこともない人々が当てはまる。
「多くは」と記したのは、人は友人の話
や新聞などのメディアなど、あらゆるものを媒介して対象を認識できるためである。テレ
ビ上でしか見たことのない芸能人を意識しているのは、非常にわかりやすい例である。ま
た、歴史上の人物など、現存しない対象もここでは前者の世界に含まれる。関わりのない
世界には、対象がない。対象としての認識ができない、あるいは認識されていない世界で
ある。世間一般の大衆として認識され、そこではそれぞれを区別する情報もなければ、意
識もない。
愛の反対の「憎しみ」が存在するのは、前者の世界である。なぜなら、何かを憎むため
には必ず対象が必要不可欠であるからだ。しかし、本章第二節で確認したように、憎む原
因が相手に関する様々な性質や情報の場合、
「愛することに理由がない」という概念の裏返
しで、愛せないことの理由にはなり得ないのであった。存在そのものを憎む場合であって
も、その誤りと自己矛盾を明らかにし、この場合も愛せない理由になり得ないことを確認
した。一方、後者の関わりのない世界に存在するのは「無関心」である。なぜなら、無関
心になる条件が意図的・非意図的に関わりなく、意識の対象にならないことだからだ。そ
して、こちらにおいても本章第二節で確認したように、愛せない―つまり、愛の成立を不
可能にさせる要因はなかった。なぜなら、対象がなければそもそも「愛する」ことができ
ない―つまり、
「愛する」という能動的活動を意味する言葉自体が存在しないからである。
この領域では「愛せない」ではなく、
「愛していない」という言葉しか存在しない。「愛せ
ない」という言葉を適用するには、前者の関わりのある世界に対象を移さなければならず、
そうすると、先述の通り、またも「愛せない理由」がなくなってしまう。
ここのまとめ方はうまいです。
この2つの世界は、意図的・非意図的関わり無く、相互に移動が可能である。関わりの
19
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なかった世界にいた対象が、対象と認識されることで関わりのある世界へ、逆に関わりの
ある世界にいた対象が、一般大衆と同じように対象として認識されずに関わりの無い世界
へ移動できる。この移動は、自己の意識上の世界であり、実際的に関わりがあるなしの状
態と比例することもあれば、その時々の話題などで自由に移動されるものでもある。そし
て、このどちらの世界に属していても「愛せない理由がない」
、という気付きを私は「倫理
愛」と名付ける。
「愛せない理由がない」という気付きは、愛する対象としての他者、ある
いは自己の存在そのものの認識でもある。なぜなら「愛せない」と考えている者の多くは、
原因を性質に見出しているからだ。しかし、第三節で確認したように、他者に付随する性
質を愛せない理由にすることは不可能であり、愛とは無関係どころか、自分が愛せないと
いうことを証明することにもなってしまう。この倫理愛は、2つの世界を覆うように存在
する。あらゆる人間の存在そのものを感じ、唯一無二の存在に気付き、認めることでもあ
る。あなたはどんな性質にも還元できない、たった一人の存在であり、存在そのものが素
晴らしい。あなたがどんな性質を持っていようとも、愛の大きさには関係ない。なぜなら、
存在そのものを愛しているからだ。それは、自分自身の存在を肯定することでもある。逆
に言えば、誰であろうとあらゆる人間の存在を肯定できなければ、自分自身の存在を肯定
することもできない。愛する対象としての他者、あるいは自己の存在そのものの認識であ
る「倫理愛」という概念を持つことで、愛はいつでもどこでも成立することができるので
ある。
第四節
責任と赦し
これまで「愛はなぜ成立しないのか」
、そして「愛はどのような場合でも成立可能なのだ」
ということを述べてきた。ここにたどり着くまで、様々な難題にぶつかり、乗り越えてき
たが、ここまで来れば、
「愛とは」という人類永遠の難題にも立ち向かってみよう。
フロムの理論をベースに、愛の性質を前節において整理した。そして、愛の性質は「配
慮」
、
「責任」、
「尊敬」の3つだということを明らかにした。繰り返しになるが3つを簡単
にまとめると、配慮とは積極的に関心を持つこと、責任とは相手が求めてきた時に応じる
準備をしておくこと、そして尊敬とは相手の存在が唯一無二であると認めることであった。
この内、
「配慮」と「責任」は、実は非常に関連深いものである。本章第一節でも述べたが、
「配慮」を「関心」と置き換えた場合、関心と責任は切っても切れない関係なのである。
なぜなら、自ら積極的に関心を持つ、つまり関わりを持つという行為は、責任を担う第一
歩だからである。例えば、精神に少し異常を持った男が凶悪犯罪を起こしたとする。その
精神異常の原因は、人間関係に悩んでいたことであった。こうったケースは近年しばしば
ニュースを賑わしたりするが、
「責任」という概念を考えた場合、男に関わりのある人物に
(その関わりが深ければ深いほど)多少の責任29は問われても仕方ないのではないだろうか。
29
注意しなければならないのは、責任と原因の混同である。われわれは、責任を追及する
20
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未成年の子供が犯罪を起こしたとき、真っ先に親が責任を負わされるのはこのためである。
その子供と最も関わりがある可能性が高いからだ。逆に、男に会ったこともない地球の裏
側に住む人物に責任を負わすというのは、無理があることが即座に分かる。これは、関わ
りがないことが明らかであるからだ。つまり、関わりがあるところには責任が生まれ、責
任があるところには関わりが必要だということである。そして、関わりとは関心を持つこ
とで生まれる。親しい友達関係などは、その典型である。反対に、関わりが関心を生むこ
ともある。親しい会社の同僚などはこれに当てはまる。
「同僚」という関わりが、関心を生
んだと言える。いずれしても、責任を負えるということは、関心と関わりがあるという前
提に立っているのである。
責任とは、その語源(responsibility)に照らし合わせると、
「応答(response)可能性」
として考えることができる。応答するためには、まず関わりがなくては応答のしようがな
い。直接的、間接的、意識上に関わりなく、相手から自分への行為(=関わり)がなくて
は、応答は成立しないからだ。応答する可能性があることが責任であり、その可能性は関
わりと関心によって生まれる。逆に言えば相手への関わりと関心が、相手への応答の可能
性を生むのである。つまり結論としては、
「配慮」
「責任」は、ともに「相手に対する責任」
を表しているのである。
ごめん、責任についてはここでちゃんと原語から言及してんだな。
愛の3つめの要素「尊敬」に関しても、もう少し深めよう。尊敬とは、相手の存在を認
めることであった。これは、前節における「倫理愛」と言い換えても構わない。倫理愛も、
人間としての存在をベースにした、相手の承認だからである。相手の存在の承認とは、
「あ
なたはそこに存在してもいいよ」ということである。あなたは他とは違う、唯一無二の存
在であり、あなたの存在を肯定します、ということである。これは存在の「赦し」とも言
い換えられる。どんな人であろうと、どんな性質を持っていようと、存在を赦す、あなた
を赦すということである。これは性質を赦すことではない。あくまで存在そのものの赦し
であり、それ以上でもそれ未満でもない。従って、わが子を怒ったこともない母親に見ら
れるような甘やかしや、ガールフレンドの言動にあまり興味を持たず、
「いてくれるだけで
いいよ」というような妥協でもない。愛するとは、相手の生命の成長を積極的に気にかけ
ることであり、そのために時には衝突もあるだろう。時には悲しみが生まれることもある
だろう。例え相手が自分の願うように変わらなくても構わない。どんなに衝突しようとも、
ためにしばしば原因の追究をするが、意外なことに、原因の追究は責任を見失わせてしま
うのである。なぜなら、どんなことにも原因は無数に存在するからだ。一つの行為にして
も、その行為をした原因が物理的に、社会的に、心理的に、いくつも見つかるはずだ。も
し責任=原因ならば、その行為をした者には責任はないということになる。
「あなたに責任
がある」ということは「あなたに原因がある」ということを意味するのではない。原因に
よって責任は確定できないのである。
21
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どんなに悲しみが生まれようとも、あくまでもそれは相手の生命の成長を強く願うことか
ら、愛を生み出す過程であり、愛とは何ら矛盾しない。相手の性格が変わらないことで怒
りや悲しみを表現することもあるが、
「存在」そのものはいつも肯定しているのである。相
手に「いていいよ」という赦しをいつも与えるのである。
愛を突き詰めると、このように相手に対する「責任」と「赦し」という2つの要素に整
理できる。
「対象のある世界」と「対象のない世界」においては、この2つは次のような意
味をなす。まず後者の「赦し」とは、どちらの世界をも覆い、全ての人間に対する存在を
肯定することである。これは、愛の可能性の準備である。あなたを愛することができます
よ、という、世界全体へ示す自分の愛の準備である。愛の不可能性はここに一切ない。
「誰
であろうとも、愛そうと思えば愛せますよ」というメッセージである。それに対し「責任」
とは、実際に「愛する」という活動に繋がる。あなたを愛します、という対象に向けたメ
ッセージである。あなたに関心があり、あなたに応答する準備がありますよ、というメッ
セージである。これは関心を持つ、そして責任を負うという性質上、対象がなければなし
得ない。自己の中に、対象としての認識がなければ不可能である。従って、「責任」とは、
愛の対象を、対象化しなければならない。これは愛の対象を「対象のない世界」から「対
象のある世界」へと移行する作業とも言える。対象のない世界にいた一般大衆の中から、
「対
象」という認識を持つ=存在の認識である。そして、
「赦し」は「責任」の前提として位置
を取る。存在を認識するには、まずその存在を赦さなくてはならないからだ。存在の否定
とは、
「いなくなってほしい」という意味ではない。
「いなくなってほしい」というのは、
存在を否定しているようで、実は存在を認めている。
「いなくなる」という前に「今いる」
ということを赦しているのだ。このようにして、愛は世界全体に向けた愛の準備である「赦
し」の上に、
「責任」という活動を持って実現されるのである。
22
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結
「なぜ人々は愛せないのだろうか。
」この問いに答えるために、私は考察を始めた。第一
章では、E.フロムの『愛するということ』を手がかりに、愛とは何かを定義した。フロ
ムによれば、愛とは与えることであり、そこには「配慮」
「責任」
「尊敬」
「知」が含まれて
いなければならないのであった。これをベースに、
「条件付きの愛」は本当の愛ではないこ
と、愛の唯一性とは性質ではなく、固有名が指す存在そのものであることを論じた。
第二章では、第一章で見てきた愛を更に深め、
「愛」の反対である「無関心」と「憎しみ」
から、愛が成立しない仕組みを解明した。前者は自分を取り巻く「対象のない世界」に、
後者は「対象のある世界」にそれぞれ存在し、この2つの世界には、
「愛の不可能性」どこ
ろか、
「愛の不可能性」自体の不可能性が見えてきた。つまり、どちらの世界においても愛
が成立しない理由がないことが明らかになった。そして、愛するためには、愛する対象と
しての他者、あるいは自己の存在そのものの認識である「倫理愛」に気付く必要性を提示
した。そこには相手に付随する性質は無関係であり、フロムが言う「知」という要素は、
愛に不必要だということが分かった。そして最後には、愛を「責任」と「赦し」だと定義
することができた。
ところで、
「なぜ人々は愛せないのだろうか。
」という問いの答えは、簡潔に言えば「能
力の問題」であった。つまり、愛せない理由とは、相手に存在するのではなく、自分自身
の「愛せない」という能力の問題であった。愛が能力の問題だということは、残念ながら
「能力的に愛せない者も存在する」ということも意味する。つまり人間は、
「誰でも愛せる
者」と「誰も愛せない者」の二通りしかないのである。その上で「愛する」か「愛さない」
かは、個人の選択である。何を持って「愛する」のか、それは相手の性質に拠るものでは
いけない。その途端に「愛」ではなくなるからだ。
「愛する」という選択は、存在そのもの
からなされなければならない。つまり「あなただから愛する」とうい表現しかできないの
である。自己の「能力」と、対象の「選択」から、愛は自己と対象の関係を「愛せる上で
愛する」
「愛せる上で愛さない」
「愛せない上で愛する」
「愛せない上で愛さない」の4つに
分類できる(ただし、実際には「愛せない上で愛する」ということは不可能である)
。もし、
能力として愛せない、つまり「愛せない上で愛する」
「愛せない上で愛さない」の2つの領
域に現在位置しているとしても、何も嘆くことはない。われわれは今や「倫理愛」に気付
いたのである。これは大きな成長である。後はこの「気付き」を「能力」とするための、
努力が必要だ。なぜなら、フロムが言うように、愛とは一時の感情のようなものではなく、
「技術」だからだ。技術を習得するには、知識と努力が必要だ。愛を何かロマンチックな
快感のように捉えている者にとっては、愛に「努力」とう文字は、非常に受け入れがたい
であろう。しかし、もし愛が一時の感情でしかないならば、これほどむなしいものはない。
感情ほど環境に影響され、浮き沈みするようなものはないからだ。愛は能動的な活動とし
て発揮されなければならない。今目の前にいる、愛する人を能動的に愛し、存在そのもの
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―いわばその人の核に触れる。そしてその核の向こう側に見える、もっと大きな核―人類
、、、
の核に触れるのだ。つまり、目の前の相手を愛することを通して、世界全体へ向けた愛す
る能力を身に付けるのである。それは決して平坦な道のりではない。様々な障害がわれわ
れを待ち受けているだろう。しかし、そんな壁に挫折するような浅はかなものは、真実の
愛ではない。愛とは、相手に対する「責任」と「赦し」を果たそうとする、強い意志なの
だ。
最後に、序で取り上げた9.11という事件において、どのように「愛」の可能性を見
出せるのかを考察し、締めくくりたい。
9.11において被害者や多くの人々が怒りをあらわにする原因は、やはりテロリスト
のハイジャックによる不条理なテロである。例えテロリストにとっては筋の通る行為であ
ったとしても、被害者には全く持って説明のつかない、残虐な行為であり、赦し得ないも
のである。もしわれわれとテロリストたちの間に愛を成立させようとしたならば、われわ
れはテロリストたちに「赦し」を与えなくてはならないのだが、
「テロを起こし、多くの命
を失わせた」という事実が、われわれの中でそれを阻むのである。そこに「愛の不成立」
が見える。ところがこれは愛の不成立の理由にはならない、ということを本論では述べて
きた。
われわれは「テロを起こし、多くの命を失わせた」という事実が「愛せない」という理
由になると考えている。しかし、それはわれわれの中に「条件付きの愛」が存在すること
を認めてしまうことになる。その事実が愛せない理由になるのならば、もしその事実がな
ければ愛せる、つまり「
「テロを起こし、多くの命を失わせた」という事実がない」という
ことが、われわれの「愛する条件」になるということである。われわれは、われわれが設
定した条件をクリアーした相手しか愛せないということである。そんなに大げさに言わな
くても、テロを起こすやつなんて愛せないよ、などと言う者がいるかもしれない。では、
今世界で一番、心から愛する者がいたとして、その彼・彼女が明日テロを起こしたとすれ
ば、あなたは愛せないのだろうか。きっと彼・彼女を明後日も愛しているだろう。もしそ
れで「愛せない」というならば、たった一つの出来事で全てを否定するという意味で、そ
れほど浅くて脆い愛はないだろう。われわれは結局テロリストが行ったこと、つまり相手
に付随する性質に愛の成立・不成立の理由を求めることはできないのである。
これは極論。清水の愛の論は「固有名に対する愛は成立し得る」ということであり、
「固有
名を憎むことはできない」だったはず。だとすれば、
「対象を憎む」
、言い換えると、
「固有
名ではなく記述されものを憎むこと」までは否定できていないはず。ただ、そのような「憎
しみ」は清水の愛の問題とはそれこそ無関係である、というだけではないか。言うなれば、
「罪を憎んで人を憎まず」という意味で「憎しみ」が残される余地はまだ残っていると個
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人的には思う。つーか、たぶんそうだし、それでかまわないとも思う。問題は、
「テロリス
トは赦さない」としても、
「テロリストをしたAさんは赦す」ということがいかにして可能
か、ということを私たちが考えていくことではないかな。ようするに「テロを起こすやつ
なんて愛せないよ」ということは認めていいはず。
だが、これほど多くの言葉を使って愛が成立しない理由はない、ということを主張して
も、たいていの人には納得を得られないだろう。
「それはわかるんだけど、赦すことはでき
ない」
。そんな思いを持たれるということは、百も承知である。しかし、実はその思いこそ、
愛の可能性を示しているのである。テロリストに「赦せない」という思いを持っている者
は、きっとテロリストたちの謝罪を求めている。実際にハイジャックしたテロリストたち
は、もうこの世にはいないので、それならばその指示を出したトップ、あるいは関わった
者たち全てに謝罪を求めるだろう。そして、心から反省し、謝罪したならば赦してやろう。
これが人間として普通の態度である。しかしこれは本当に「赦し」と言えるだろうか。大
澤真幸はこれについて以下のように指摘する。
「罪人が善人に変質した後の赦しは、本当の
赦しと言えるだろうか。考えてみると、改悛によって善人になったものを赦すこと、つま
り「あなたはもう罪人ではない」と伝えることは、単に、罪人(だった人)についての客
観的な事実を認識し、記述しているだけであって、真の赦しとは言えまい。ここには、赦
しというものがもつべき、
「倫理的決断」の要素は、まったくない。30」つまり、愛の要素
である「赦し」とは、本来「赦せない」という認識を持った上でなされるものでなければ
ならないということだ。一方、愛のもう一つの要素「責任」においてはどうだろうか。
「責
任」という概念は「原因」という概念とは別物であり31、
「原因」という因果関係を追究す
ればするほど「責任」という概念は消え去り、
「責任」を担うべき存在も消えていく。なら
ば、
「責任」とは本来「原因」という因果関係では説明できない出来事に対して負わなけれ
ばならないものなのだ。大澤はこのことを以下のようにまとめている。
「
「責任」というこ
とは、自らが原因ではありえない出来事に関して(も)、さながら自分自身が原因であるか
のようにそれを引き受けること、そのことによって生まれる32」
。つまり、今われわれが9.
11のテロリストに抱いている「赦せない」という認識、そして9.11と自分とは全く
因果関係がなく「責任はない」という認識こそ、実は本当の意味で「彼らを赦し、彼らに
責任を持つ」=「彼らを愛する」という可能性を、大いに秘めているのである。
ここも、問題は「記述としては決して赦せない」存在を「固有名としていかに赦せるか」
ということ。
「(テロリストをした)Aさん(固有名)を赦す」ことが、表面上は「テロリ
スト(記述)を赦す」ことになるということに対していかに」責任をとるか、ということ。
30
31
32
『中学生の教科書』255 頁
脚注 29 参照
『中学生の教科書』220 頁
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【参考文献】
E.フロム(鈴木晶 訳)
『愛するということ』紀伊国屋書店、1994 年
森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003 年
大澤真幸『恋愛の不可能性について』筑摩書房、2005 年
大澤真幸他『中学生の教科書』四谷ラウンド、2001 年
大澤真幸他『愛ってなんだろう』佼成出版社、2007 年
浅見克彦『愛する人を所有するということ』青弓社、2001 年
松村明他『国語辞典 第九版』旺文社、2002 年
市川孝他『現代新国語辞典 第二版』三省堂、2004 年
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