旧約概論1 「律法の書=五書」

四国教区福音学校第Ⅱ期
旧約概論1
「律法の書=五書」
芦田 道夫
はじめに
前 の 「 旧 約 聖 書 の 成 立 と 構 造 」 で 学 ん だ よ う に 、「 律 法 の 書 」 と い う 言 い 方 は
ユダヤ教的であるわけですが、ここではキリスト教の立場からユダヤ教的区分を
見ていこうと思います。
1 .「 モ ー セ 五 書 」
まず、律法の書に含まれる書はどのようなものでしょうか。それは、通常聖書
の最初の五つの書、すなわち「モーセ五書」を指しています。
創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記
これら五つの書は、本来一書であるべきものが、物理的理由によって(つまり
巻物としての限界によって)五巻となったと考えられてきました。わたしたちキ
リスト教ではこれらを一つの書とすることにそれほどこだわりませんが、ユダヤ
教ではこのモーセ五書は聖書の中心として特別な存在です。そしてそれにはそれ
なりの意味があるのです。
日本語に翻訳された聖書ではわからないのですが、ヘブル語聖書では創世記に
続 く 第 二 巻 で あ る 「 出 エ ジ プ ト 記 」 の 最 初 は 「 そ し て ( AND ) こ れ ら は ・ ・ ・ で
あ る 」 と い う 言 葉 で 始 ま り 、 第 三 巻 の レ ビ 記 は 「 そ し て ( AND ) 主 は 呼 ん だ 」、
第 四 巻 の 民 数 記 は 「 そ し て ( AND ) 言 っ た 」 と な っ て い ま す 。 す な わ ち 創 世 記 か
ら民数記までは続いているという形をとっているのです。では第五巻の申命記は
ど う か と い う と 、「 こ れ ら は モ ー セ が 語 っ た 言 葉 で あ る 」 と い う 始 ま り に な っ て
いて、第四巻までとはちがってモーセの説教集(モーセの言葉集)のようになっ
ています。それでも最後の34章ではモーセがピスガの頂からヨルダン川西岸を
見たこと、モーセがモアブで死んだことが記されていて、出エジプト記から申命
記までがモーセの生涯を軸に書かれていることを示しています。
そ れ だ け で は あ り ま せ ん 。 申 命 記 3 4 章 4 節 で は 、「 わ た し が ア ブ ラ ハ ム 、 イ
サク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。
・・・」と記されて、創世記に書かれているイスラエルの父祖たちへの約束が、
こ こ で 成 就 に 至 る と い う 流 れ に な っ て い ま す ( そ の 最 初 は 創 世 記 1 2 章 7 節 )。
そうすると当然、実際に約束の地を征服したのはヨシュアのときですから、創世
記からヨシュア記までを一巻と考えなければならないのではないか、という声が
起こるはずです。実際、有名な旧約学者であるフォン・ラートは、はっきりと創
世 記 か ら ヨ シ ュ ア 記 ま で の 六 書 を ひ と ま と ま り と 考 え て 、「 六 書 の 神 学 」 な ど と
言います。
それでは創世記1章から11章は何のために書かれているのでしょうか。それ
はこの申命記まで至る大きなテーマに即して見るならば、アブラハムに始まるイ
スラエル民族への神の約束と成就ということが、単に小さな一民族の祝福だけに
関わることではなく、全被造物の祝福という壮大な神の計画に関わることである
ということを表すことにあると考えられるのです。それを端的に表している言葉
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はアブラハムに主が約束された、創世記12章3節「地のすべてのやからは、あ
なたによって祝福される」という言葉です。そしてパウロはキリスト来臨によっ
て 、 今 や 真 に そ の と き が き た こ と を 告 げ て い ま す ( ロ - マ 8 : 1 8 ~ 2 2 )。
ま た ヨ ハ ネ は「 神 は そ の ひ と り 子 を 賜 っ た ほ ど に 、こ の 世 を 愛 し て く だ さ っ た 。」
(ヨハネ3:16)と表現しています。
したがって、五書の構造は大きく見ると;
「 前 史 」( 創 世 記 1 章 ー 1 1 章 )
「 父 祖 た ち へ の 約 束 」( 創 世 記 1 2 章 ー 5 0 章 )
「 約 束 の 成 就 へ の 道 程 」( 出 エ ジ プ ト 記 ~ 申 命 記 )
という三つに区分されることがわかります。
2.モーセ五書の構造
五書の構造を考えるときに、20世紀半ば、旧約聖書の理解に一石を投じたド
イツの旧約学者ゲルハルト・フォン・ラートの説を無視することはできません。
彼の説が正しく、伝統的な福音主義的理解に一致するということではありません
が、重要な示唆を与えるものですので、簡単に紹介しておきたいと思います。
《 信 仰 告 白 を 核 と し た フ ォ ン ・ ラ ー ト の 理 解 》 *1
フォン・ラートは五書は雑多な歴史文書の集積ではなく、明確な信仰告白を核
にして発展した宗教的文書であるとしました。そしてその核となるべき信仰告白
は申命記26章1節~11節のようなものであったと考えたのです。
26:1 あ な た の 神 、 主 が 嗣 業 と し て 賜 わ る 国 に は い っ て 、 そ れ を 所 有 し 、 そ こ に 住 む 時 は 、
あなたの神、主が賜わる国にでき る、地のすべての実の初物を取ってかごに入れ、あなた
の神、主 がその名を置くために選ばれる 所へ携えて行かなければならない。そしてその時
の祭司の所へ行って彼に言わなければならない、
『き ょう、あなたの神、主にわたしは申し ます。主がわれわれに与えると先祖たちに誓われ
た国に、わたしははいることができま した』。
そのとき祭司はあなたの手からそのかごを受け取ってあなたの神、主の祭壇の前に置
かなければならない。そして、あなたはあなたの神、主の前に述べて言わなければならな
い、『 わたしの先 祖は、さすらいの一 アラムびとでありましたが 、わずかの人を連 れてエジ
プトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこ で大きく、強い、人数の多い国民になり
ました。とこ ろがエジプトび とはわれわれをしえたげ、また悩まして、つらい労役を負わせ
ましたが、われ われが先祖 たちの神 、主に叫んだので、 主はわれわれの声を聞 き、われ
われの悩みと、骨折りと、しえたげとを顧み、主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべ
き事と、しる しと、不 思議とをもって、われわれをエジプ トから導き出し、われわれをこの所
へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わり ました。主よ、ごらんください。
あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました』。そしてあなたはそれを
あなたの神、主の前に置いて、あなたの神、主の前に礼拝し、あなたの神、主があなたと
あなたの家とに賜わったす べての良い物をもって、レビびとおよびあなたのなかにいる寄
留の他国人と共に喜び楽しまなければならない。
この信仰告白の直接的バックグランドは、出エジプト記1章~15章の出エジ
プトの出来事であり、さらに出エジプト記16章~18章および民数記10章~
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「 旧 約 聖 書 神 学 Ⅰ 」( イ ス ラ エ ル の 歴 史 伝 承 の 神 学 ) G ・ フ ォ ン ・ ラ ー ト
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34章に描かれる荒野の40年の出来事でした。それこそがイスラエルが直接体
験した神の救済の出来事であったわけです。そしてこの救いの経験から、それが
たまたま偶然の出来事ではなく、父祖たちに約束された神の契約の成就として起
こった出来事であることを理解し、さらにそれは小さな一民族の救いではなく、
人類と世界を救う神の御業であると示されたのです。やはり著名なドイツの旧約
学者であるクラウス・ヴェスターマンは、フォン・ラートの考えを支持して、こ
の よ う に 五 書 は 同 心 円 的 構 造 を も っ て い る と 言 い ま す 。 *1
人類と世界
神と神の民
神の救済
出 1-15,16-18
民 10-34
創12-50
創1-11
3.五書の救済史的理解
前 述 の 構 造 を 手 が か り に 、五 書 を 救 済 史 的 に 理 解 す る こ と を 試 み て み ま し ょ う 。
まずそのために、C.ヴェスターマンの同心円的構造を基本構造として前提しま
す。すなわち五書、さらに旧約聖書は、苦しむイスラエルの叫びに対して、神の
イスラエル救済の出来事が起こったという事実を基礎としているということで
す。そしてその経験からイスラエル民族を省み、さらに全人類の救いへと発展し
ているというものです。このことは私たち個人の救いの経験から考えても妥当な
理解であると言えます。国家・世界をどう見るかは、個人的救いの経験をもって
いるかいないかで、大きく変わってくるからです。新生したクリスチャンと未信
者の人とでは、国家観や世界観が違うはずです。
a.出エジプトの出来事
では具体的に、神はイスラエルをどう導かれたのでしょうか。
ヨセフのときにエジプトに下り、繁栄したイスラエルもエジプトの王朝が変わ
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"Handbook to the OLD TESTAMENT" Claus Westermann
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ると、よそ者として圧迫され奴隷化されていきます。その苦しみの中で彼らは、
神に救いを求めるようになります。そして神はイスラエル救済のために、モーセ
を選ばれるのです。しかし不思議なことに、アブラハムのときと同じようにモー
セの選びについても、なぜモーセでなければならないのか、ということは語られ
て い ま せ ん 。モ ー セ の 選 び に つ い て の 重 要 な こ と は 、モ ー セ が 臨 在 の 神 に 出 会 い 、
神 の 名 を イ ス ラ エ ル に 知 ら せ た と い う 事 実 で す 。( 出 エ ジ プ ト 記 3 章 )
「出エジプト」の出来事は、大きく三つの出来事からなっています。
①過越・・・・モーセの出生に関することやエジプトへの災いは過越の出来事へ
の プ ロ ロ ー グ と 見 る こ と が で き ま す 。( 出 エ ジ プ ト 記 1 2 章 )
そ の 中 心 に は 「 贖 罪 」 思 想 が 横 た わ っ て い ま す 。; 憐 れ み の 神
②紅海渡渉・・後に出エジプトを回顧するときには、この紅海渡渉の出来事が中
心 的 と な り ま す 。( 出 エ ジ プ ト 記 1 2 - 1 5 章 )
そ の 中 心 思 想 は 「 力 あ る 御 手 」; 創 造 の 神
③ 律 法 付 与 ・ ・「 十 戒 」 を 基 礎 と し た 律 法 の 付 与 は 、 イ ス ラ エ ル 救 済 の 出 来 事 と
して出エジプトに含まれることで、そ意味が明確になります。
この中には祭壇と祭儀に関する規定も含みます。
そ の 中 心 思 想 は 「 聖 化 の 道 」; 神 の 民
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《 出 エ ジ プ ト の 年 代 》・ ・ ・ 大 き く 早 期 説 と 後 期 説 に 分 か れ る
早 期 説 ( B C 1 4 4 5 - 4 0 )・ ・ ・ ・ 列 王 上 6 章 1 節 を 根 拠 に 逆 算 す る 。
ソ ロ モ ン の 神 殿 着 手 ( BC965-960 頃 ) は 出 エ ジ プ ト か ら 4 8 0 年 目
後 期 説 ( B C 1 2 9 7 - 9 5 )・ ・ ・ ・ 出 エ ジ プ ト 記 1 章 1 1 を 根 拠 と す る
ラメセスという町の名前からラメセスⅡ世と関連づける。
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b .「 守 り の 御 手 」 と し て の 律 法
五 書 の こ と を ヘ ブ ル 語 で「 ト ー ラ ー 」と 言 い ま す が 、そ れ は 命 令 と い う よ り「 指
し 示 す 」「 指 示 」 と い う 程 度 の 意 味 で す 。 つ ま り 神 が 救 出 た イ ス ラ エ ル を 神 の 民
とします。これは何となくそうなったと言うことではなく、シナイにおける契約
と い う 形 を と り ま し た 。 出 エ ジ プ ト 記 2 4 章 で は 「( モ ー セ は ) 契 約 の 書 を 取 っ
て、これを民に読み聞かせた。すると彼らは答えて言った『わたしたちは主が仰
せ ら れ た こ と を 皆 、 従 順 に 行 い ま す 』」( そ し て 契 約 の 血 が 注 が れ る ) と 記 さ れ
て、契約が神と民の双方合意のうえであることがわかります。
さらに出エジプト記34章27節にはモーセに対して
「これらの言葉を書き記しなさい。わたしはこれらのことばに基づいて、
あなたおよびイスラエルと契約を結んだからである」
とはっきり言われているとおり、契約と律法とは不可分とみなされます。
しかし律法はなぜ必要だったのでしょうか。それは律法と言われるものが何を
指示しているかを見ればはっきりします。全律法は神に対する指示と人に対する
指示からなっています。神に対する部分は十戒では第一戒から第四戒まで(第五
戒まで入れる人もいますが)に代表されます。関連して出エジプト記35章以下
の幕屋についての指示、レビ記他の祭儀についての指示があります。
人に対する部分は十戒の第五戒から十戒、そして出エジプト記21-23章やレ
ビ記の残りの部分、申命記の多くの章が人との関係に対するものです。もう少し
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分けると、人に対する指示は道徳律と社会律に分けることができます。
いずれにしてもこれらの律法は、イスラエルが神の民として祝福を受けるため
に必要なものとして指示されたのです。神の民として特別取り分けられた人々が
どのように具体的に生きるべきかを指示したものです。
c.荒れ野の40年
それでは主として民数記で語られる荒れ野の40年はどのような意味をもって
いるのでしょうか。それについての聖書自身の答えは、申命記8章に記されてい
ます。
8:1 わ た し が 、 き ょ う 、 命 じ る こ の す べ て の 命 令 を 、 あ な た が た は 守 っ て 行 わ な け れ ば
ならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがた
の先 祖 に誓 われ た地 には いって 、 それを 自 分の もの とすることがで きるであ ろう 。
8:2 あ な た の 神 、 主 が こ の 四 十 年 の 間 、 荒 野 で あ な た を 導 か れ た そ の す べ て の 道 を 覚
えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知
り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。
8:3 そ れ で 主 は あ な た を 苦 し め 、 あ な た を 飢 え さ せ 、 あ な た も 知 ら ず 、 あ な た の 先 祖 た ち
も知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパン だけでは生きず、人は主の
口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
8:4 こ の 四 十 年 の 間 、 あ な た の 着 物 は す り 切 れ ず 、 あ な た の 足 は 、 は れ な か っ た 。
8:5 あ な た は ま た 人 が そ の 子 を 訓 練 す る よ う に 、 あ な た の 神 、 主 も あ な た を 訓 練 さ れ る
ことを心にとめなければならない。
8:6 あ な た の 神 、 主 の 命 令 を 守 り 、 そ の 道 に 歩 ん で 、 彼 を 恐 れ な け れ ば な ら な い 。
8:7 そ れ は あ な た の 神 、 主 が あ な た を 良 い 地 に 導 き 入 れ ら れ る か ら で あ る 。 そ こ は 谷 に
も山にも わき出る水の流れ、泉、お よび淵のある地、
8:8 小 麦 、 大 麦 、 ぶ ど う 、 い ち じ く 及 び ざ く ろ の あ る 地 、 油 の オ リ ブ の 木 、 お よ び 蜜 の あ る
地 、 8:9 あ な た が 食 べ る 食 物 に 欠 け る こ と な く 、 な ん の 乏 し い こ と も な い 地 で あ る 。 そ の
地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取ることができる。
8:10 あ な た は 食 べ て 飽 き 、 あ な た の 神 、 主 が そ の 良 い 地 を 賜 わ っ た こ と を 感 謝 す る で
あろう。
《課題》
申命記を一読してください。レポートは必要ありません。
次回
2月12日
「歴史の書」
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