Title テロール男爵の『古(いにしえ)のフランス,ピトレスク・ ロマンティック

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テロール男爵の『古(いにしえ)のフランス,ピトレスク・
ロマンティック紀行』( fulltext )
石木, 隆治
東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II, 57: 69-101
2006-01-00
URL
http://hdl.handle.net/2309/1156
Publisher
東京学芸大学紀要出版委員会
Rights
東京学芸大学紀要人文社会科学系Ⅱ 57 pp.
69∼101,2006
いにしえ
テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
Le voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France par le Baron Taylor*
石
木
隆
治
人文社会**
(2
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5年8月3
1日受理)
《はじめに》
周知のように英国では「ピクチャレスク」という審美的観念が存在して,特に現在ではそれにまつわって
様々な議論がおこなわれている。わが国でも「ピクチャレスク」に連なる「崇高」の概念をめぐっての『崇高
と美の観念をめぐる』が邦訳されているし,また「ピクチャレスク」の代表的思想家ウイリアム・ギルピンの
主要作品の復刻が刊行されるなど,研究も活発におこなわれている。ところで,このピクチャレスクという概
念は純粋に英国固有の観念であって,フランスには存在しないのであろうか。否,そんなことはなくて,フラ
ンスにも立派に存在する。「ピトレスク」というフランス語は1
8世紀には盛んに用いられた語であって,その
示すところもおおむね英語のピクチャレスクと同じであった。しかし,
「ピトレスク」は「形容詞」としてそ
の存在を認められていたのであって,決してある美的「傾向」,「美学」そのものとして認知されているわけで
はない。
では実際には「ピトレスク」とはさまざまな書物のなかに散在する単なる「形容詞」としてのみ存在してい
たかというと決してそんなことはなくて,本書でこれから主要に扱う『古のフランス,ピトレスク・ロマン
ティック紀行』という膨大な書物によって物質化していることでもわかるように,あるひとつの「ピトレスク
な態度」というものが実在していたことは確かである。そうしてこうした「態度」は拙論で検討する1820年刊
行の『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』よって,その最高峰をむかえたのである。これは当
時のアカデミー美術のなかにしかるべき位置を持つことが出来なかったし,まして文学史・美術史の中にもそ
の正当な場所を見いだすことなど出来なかったので,当時はかなり高い評価を受けたもののそのまま忘れ去ら
れてしまった。しかしながら,この『ピトレスク・ロマンティック紀行』という書物が登場したのは,ピトレ
スクの長い準備期間を過ぎて,それがほとんど最終局面に入ろうとしたときに登場してきて,その最後の壮麗
な花を飾ったのである。本論では,『ピトレスク・ロマンティック紀行』そのものにできるだけ焦点をあて,
この書を通じて「ピトレスク」なる概念について考えてみたい。
いにしえ
1820年,テロール男爵とシャルル・ノディエが中心となって『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティッ
ク紀行』Voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France という膨大な書物の刊行を開始する。これはわ
が国ではまったく知られていない文献だが,フランスの文化史を理解するのに欠かせない文献であって,本書
が19世紀の文学,美術,考古学研究,あるいは旅行に与えた影響は計り知れない。しかし,逆に言うとあまり
にも多彩な性格を持っていたために,各分野が強い専門性を確立して,より独立的な性格をもつに至ることに
なる後世には忘れられることになった書物である。
これはフランスのありとあらゆる歴史的に意味のある遺跡,記念物をリトグラフと解説文によって紹介しよ
*
**
Le voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France par le Baron Taylor / Takaharu ISHIKI
東京学芸大学(1
8
4―8
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1 小金井市貫井北町4―1―1)
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人文社会科学系Ⅱ
第57集(2006)
うという野心的な試みであった。著者はジュスタン・テロール男爵,作家のシャルル・ノディエ,アルフォン
ス・ド・カイユーであり,そして当初の出版社はフィルマン・ディド兄であった。二つ折りの大きな判型の書
物で,厚さもかなりある。リトグラフィー用のベージュがかった厚めの紙を使用しているので,たとえば第1
巻は総ページが140ページほどだが厚さは7センチ以上ある。1
878年まで,つまり60年近くを費やして2
4巻刊
行され,328
2枚の図版を数えたが1,結局完成に至らなかった。しかし,フランスのかなりの地域を網羅して
から中断したのである。文章,図版で協力した人の総数はおおよそ1
00を超える。これは P・ギナールによれ
ば「もっとも美しい書物[...]わがフランスの中世芸術の擁護と顕揚にもっとも貢献した書物のひとつ」であ
る。
当時は製本をしないで一部分が完成するたびに,予約購読者に渡していたようで,サイズは二つ折り版,つ
まり縦54センチ,横35センチの大きなもので,4枚分のテキストと4枚のインディアンペーパーに印刷された
リトグラフの絵が,当初15フラン50で,後に18フランで頒布された。全部が揃った後,各自が製本したようで
ある。ラングドックとピカルディーの巻からは,中世の写本をまねて,図版が各ページを縁取りしてテキスト
部分を囲むように変更された。これをヴィニェットという。紙も通常の印刷用紙上に刷られるようになった。
大きさでも,重さでも一般の庶民が家庭で気楽に開いて読むような類の書物ではなかったので,購買したの
はやはりもっぱら王侯貴族や,大ブルジョワだったようだ。第1巻の刊行時に予約購読者として名前を連ねて
いるのは,フランス王ルイ1
8世や,オルレアン公爵,これとは別にオルレアン公爵夫人,さらにはリトグラ
フィーの擁護者として有名だったベリー公爵夫人ら王族9名,ロシア皇帝始め外国の王族7名,フランスの大
臣3名,公共図書館4館,それ以外の貴族,ブルジョワ,書店など,総計は574名2であった。
挿絵を担当したのはエヴァリスト・フラゴナール,ジャン=バティスト・イザベイ,息子のウジェーヌ・イ
ザベイ,ジェリコー,アングル,オラース・ヴェルネ,ボニントン,ドーザがいる。またディオラマの共同主
催者であるブトン,さらにディオラマと写真術を発明したダゲール,修復家として名高いヴィオレ=ル=デュッ
クといった当時の錚々たる画家が下絵を描き,それを専門の版画家が,あるいは画家自身がリトグラフにした
ので,この挿絵を見るだけで十分な価値がある。出版が長期に亘ったので,リトグラフィー作者にも交代が
あった。テロール男爵は出版のリズムに合わせて,すばやくリトグラフィーの作品を提供してくれ,しかも彼
の気むずかしい注文を忠実にこなしてくれる画家を求めたので,アドリアン・ドーザの位置が次第に高くなっ
ていったということも付け加えておきたい。しかし後期に多くの作品を提供した作家として名を残したのはウ
ジェーヌ・シセリとエミール・サゴである。
いにしえ
最初の2巻は『 古のノルマンディー』を対象としていた(1820年から25年)。その後,フランシュ・コンテ
編一巻,オーヴェルニュ編2巻,さらにはラングドック4巻というように,フランスの中でも未開な土地,つ
まりそれだけピトレスクな景観の残る土地を優先した後,英国人に人気のあるピカルディー3巻,そして当時
人気が上昇しつつあったブルターニュ3巻,ドフィネ編1巻,そしてシャンパーニュ編3巻,ブルゴーニュ編
一巻と続き,最後に南部ノルマンディー編の1巻を加えたところでストップした,というように,フランス全
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国の半分近くを網羅したことになる。詳細については注を参照されたい。
また,ノルマンディーをめぐる巻が
この膨大な叢書の最初と最後を飾っていることも注目に値する。各巻が擁する図版の多さにも注目されたい。
当時は,有名な古刹は別として地方にどういう寺院があって,山岳地帯などではどういうピトレスクな風景が
あるかなど,まだまだよくわかっていなかったので,この企画はフランス全体の史跡,景勝地を知る上で画期
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的なものであった。
しかしこの膨大な著作は最初からこれほど巨大な仕事になるとは予測していたかどうかは疑わしい。手持ち
資金も少なく,またどれだけ売れるのかまったくわからなかったからだ。ノディエの娘マリーの証言による
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と,当初500フランの準備資金しかなかったという。
出版当初は全部で何巻になるかの予告はなく,単に『ノ
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ルマンディー』の巻が予定されているのみである。
1,執筆者たち
『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』には著者は3人いた。まずあまり影の濃くない協力者
としてアルフォンス・ド・カイユー(1788−1876)がいる。彼は建築家で美術アカデミーの自由会員であった
が,本質的には行政官的な仕事をした人であった。1825年には王立美術館の事務長,ついで副館長,最後に41
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年に館長となった人である。彼はテロール男爵の若き日からの友人であったので,この大企画に参加したもの
と思われる。しかし,彼の貢献はほとんど無視しても良い程度である。
《シャルル・ノディエ》
もうひとりの著者シャルル・ノディエ(1780−1844)は,わが国では『スマラ』『トリルビー』『パンくずの
妖精』といった怪奇幻想系の作家と見なされているが,正統的なフランス文学史をかじったことのある人なら
誰でも知っているように,ロマン派の先駆者として極めて高い評価を受けている人物である。彼は若い頃フラ
ンス革命に巻き込まれてだいぶ苦労しながら博物学に興味を持ったりした後,イギリス人のある知識人の秘書
になり,イギリスのロマン主義的文学,とくにシェイクスピアに親しんでアンソロジーを出し,またゲーテの
研究をこの時期にしている。さらにはオノマトペに関する辞書を作っている。この時代の人によくあるよう
に,われわれがふつう想定している学問システムにうまくはまらない執筆活動を行った作家である。その後パ
リに出てアルスナル図書館の館長に任命され,家に優雅な文芸サロンを開いてロマン派の称揚につとめた。彼
のサロンにはユゴー,デュマと言った,後にロマン派を代表することになる人物たちが集まり,そのためロマ
ン派の父祖という称号を奉られることになったことはよく知られている。
『ピトレスク・ロマンティック紀
行』にリトグラフィーの作品を発表した多くの画家もこのアルスナルに呼ばれたことがあることも忘れてはな
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らない。
彼は1810年代から当時英国の流行作家であったウォルター・スコットの紹介を早くから始めていて,まさに
中世文化の復活に大きく貢献した一人である。また『ピトレスク・ロマンティック紀行』の初刊を発表した
1820年には,バイロンの作品の成功に刺激されて,パリのサンマルタン座でノディエは『ヴァンパイア』を上
演している。この作品はタイトルでわかるようにかなり通俗的な怪奇的作品で,彼は著者として名前が載るの
を断ったほどだが商業的には大成功で,この後かなりの数の似たようなテーマの芝居が現れた8。彼がこうい
う作品を書いたのは,ひとえに英国でのウォルポール『オトラント城綺譚』
,アン・ラドクリフ『ユドルフォ
の謎』らの成功をみてのことであろう。1810年代,20年代というのは,このように英国で始まったゴシック・
ロマンスの幻想怪奇趣味がパリにも入り込んできた時代であり,ノディエはその紹介の急先鋒であったことは
明記しておく必要がある。彼は自作『ザルツブルグの画家』でも,放置された僧院の数々を主人公に訪れさせ
たりしているから,ノディエ自身がこの『ピトレスク・ロマンティック紀行』に関わるのは,必然であったの
である。
ノディエ自身は大旅行家というほどではなかったようだが,ウォルター・スコットらの影響を受けて,代表
作『パンくずの妖精』では,スコットランドとそしてモン・サン=ミシェルなどを舞台としとしているように
スコットランド,ノルマンディーについては知っていた。というのも,1
818年にはテロールらとノルマン
ディーを訪れたばかりか,20年にはテロールらとともに英国を訪れ,スコットランドのウォルター・スコット
の故地グラスゴーを訪問するなどしるからであり,『ディエップよりスコットランド山系逍遙』を3ヶ月後に
は出版もしている。その他にもセーヌ川を巡る紀行文,また『歴史のパリ,パリの通り逍遥』(1838)『新パリ
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物語,パリ周辺逍遙』
といった紹介文の監修者になったりしており,当時高揚してきた土地の魅力に対する関
心に決して無関心ではなかった。というよりも当時の英国で「ゴシック」と「ピクチャレスク」が分けがたい
ものであったことを,そのまま引き受けていた,と言ったらいいか。
《テロール男爵》
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3人目で最後の著者ジュスタン・テロール(ブリュッセル1789−パリ1879),「芸術家たちの父」
と呼ばれた
人物については日本では全くと言ってよいほど知られていない。彼は19世紀を代表する人物の一人として,没
後すぐに伝記を書かれるぐらいの大物だったのだが,今日ではフランスでもほぼ忘れられた存在である。専門
分野が定まっている人なら,それぞれフランスにも(そして,わが国にも)専門家がいて紹介するから,一定
の知名度を持つことができるのだけど,このひとはその専門がなかったことが,その後忘れられてしまった理
11
由のひとつになるだろう。
彼の母方はもともとアイルランド系の貴族の家系で,フランドルはイープルの貴族としての生活を送ったあ
と,祖父にはブラバンの王の参事をした人を持つ。父はイギリス生まれで,ライデン大学で教鞭を執ってい
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た。彼自身はブリュッセルでフランス大革命の年に誕生した。テロールは早くからフランスの土を踏み,最初
パリで,次にレンヌで恐怖政治時代を過ごした。成長してからは,当時パリのオペラ座の舞台装置家をしてい
たデゴッティのもとで絵描きとして働く。この頃彼は主としてデゴッティのアトリエで,シセリ親子,ダゲー
ル,アローなど,のちのちの『ピトレスク・ロマンティック紀行』作成において重要な役を演ずる人々を知り
合った。1810−11年にはじめて「芸術家として,古物研究家としての巡礼」に出て,フランドル,ドイツ,ロー
マ,ナポリをまわった。以後たえず続くこうした探索の旅の端緒となる。
もともと文学とジャーナリズムへの道を志していたのだが,徴兵逃れが思うようにいかず,もともと有能で
あったせいだろう,気がついたときはオルセー将軍のもとで頭角をあらわしその側近となってしまった。しか
し,彼は旅行へのやみがたい思いがあり,軍籍を維持したまま1816年,17年とオランダ,ドイツへと旅する。
そして18年にはすでに述べたように,友人のノディエ夫妻とその娘のマリー,カイユー,そしてジャン=バティ
スト・イザベイの息子でまだほんの子供だったウジェーヌ・イザベイとともにノルマンディーへの旅行に出
いにしえ
た。この旅行が彼らによる『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』直接の端緒になったことは
疑いない。2
0年にはノディエ夫人を除いた同じメンバでまたもやイングランド,スコットランド旅行を実行し
12
た。彼は自らデッサンもよくし,1824年には,サロンで2等賞のメダルをもらっている。
また,『ピトレスク・
ロマンティック紀行』の制作と併行して,1819年から30年にかけて,各地の史跡,記念物の保存に関して議会
に陳情を繰り返して行い,後にヴィオレ=ル=デュックらが活躍することになる《史跡委員会》Commission des
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Monuments historiques の礎を築くのになにがしか貢献した人でもある。
1825年には今日のコメディー・フラン
セーズの王代理顧問として運営の仕事にあたるようになり,この年にこの仕事や,
『ピトレスク・ロマン
ティック紀行』の功績もあって男爵の称号をもらった。以後13年間,コメディー・フランセーズの仕事に携わ
る。彼は友情に厚い人であり,また進取の気性の人だったから,20年代にダゲール,ブトンが企画したディオ
ラマの計画に資金面で協力し,これを成功させるのに貢献した。この間,彼はロマン派の演劇に協力し,デュ
マ父,アルフレッド・ド・ヴィニー,カジミール・ドラヴィーニュらの作品を上演したばかりでなく,過去に
スキャンダルを起こして上演を禁じられていた『フィガロの結婚』等も,かまわず上演させた。ヴィクトル・
ユゴーがロマン派としての勝利をかためた『エルナニ』の上演を許可したのは,彼だと言われている。その後,
美術総監の仕事につくが,これはやや名誉職的な仕事であり,その間に彼は公式,非公式の任務を帯びてさま
ざまな旅に出たのである。
その後,彼はエジプトのルクソールのオベリスクをフランスに移送するために陣頭指揮をした。オベリスク
は移送のために特別に作られた船に乗せられてナイルを下り,地中海を渡った後,セーヌを上って直接パリま
で運ばれたのである。現在,その偉容をコンコルド広場に見せていることは周知の通りである。その後テロー
ルはスペインに何度かの旅をしたが,これはスペインのムリリョ,ヴェラスケス,ズルバラン,リベイラ,そ
してゴヤらの絵画を大量に収集してルーヴルの富を増やすためであった。現在の考え方からすれば帝国主義的
な美術品収集の先兵だったのだが,当時のスペインやエジプトは優れた美術品の保存が確実に行えない状況に
あったので,世界一自由で,世界一過去の美術品に対する敬意を持っているフランスで保存することが,そう
した美術品のためにもなるという考え方があったのである。彼自身にとってはおそらく,
『ピトレスク・ロマ
ンティック紀行』のなかでフランスの歴史記念物の美しさを称揚し,その保存を訴えようとしたことと,エジ
プトで,スペインで危機に瀕した文化財の保存をはかりたいという想いとのあいだには,同じ精神の発露で
あったのだろう。
1838年には美術視学官となり,さまざまな芸術家の援助のための協会を五つ作り,また文芸家協会の創立者
のひとりでもある。そのあと,フランス美術館連合の顧問となり,最後に上院議員となった(1
869年)。現在
でも彼の名を冠した芸術家支援組織≪テロール財団≫が存在して活動を続けている。この時代にはナポレオン
のもとで現在のルーヴル美術館を作ったヴィヴァン・ドノンとか,長くルーヴルの美術部長を務めて,権力を
振るったフォルバンらのように,行政と芸術の間にあって活躍した人がたくさん出ているが,そのうちの一人
と考えて良いだろう。
テロール男爵とはどんな人だったか?
当時のシュヌヴィエール侯爵が非常にうまい言い方で要約をしてい
る。
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石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
彼は全てであった。軍人にして画家,文人にして劇作家,劇場支配人,美術視学官,古物収集家,愛書狂,
旅行者,外交官,美術特使,考古学者であり,かつアマチュアであった。一言で言えば,芸術と科学,精神
的営為がもたらすことの出来るすべてのすばらしいものを体現していた。もっといえば何にもまして愛国の
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人,疲れを知らない善行の人であった。
彼が死んだ時やり残したことは,自己の回想録を書くことだけであったという。彼は創生期のロマン主義者
にふさわしく王党派であり,またエジプト,スペインから文化財を持ち去るなど帝国主義者でもあった。ま
た,当時の人々がうらやむような仕事をどれもかなりの高いレベルで実現したことは事実ではあっても,正真
正銘のディレッタントであったとも言える。彼の著作は学問的な造詣の深さという点では当時から徐々に台頭
してきたアルシス・ド・コモン,ヴィオレ=ル=デュックらの学者グループに追い越されていくのである。ま
た,史跡保存に関わる行政官としては,メリメのような華々しい活躍はできなかった。旅行の印象を書く文筆
家としてはシャトーブリアン,フローベール,マクシム・デュカンに負けるのである。しかし,彼は編集者と
して優れた能力を発揮したし,また他の人たちには表現できない何かを表現している。それはシロートっぽさ
ではあるけれど,なにか現代につながっていくような感性,一般の旅行者に近い感性である。
執筆に関しては最初のノルマンディーを扱った二巻はノディエが執筆した。ただ,ノディエ自身の言葉を信
ずるならば,一部の美術に関する部分はテロールが執筆したという。その後ノディエは自分自身の仕事で多忙
をきわめたために執筆を降りた。その後は一貫してテロールが執筆したが,いちぶは若い研究者の協力を得て
いる。しかし,当時ノディエは文筆家として高名だったから,テロール男爵は彼の思い出を記録し,また売り
上げを伸ばすためにノディエが執筆から降りた後も彼の名前をはずさなかった。そこから,さまざまな誤解が
生じた。いずれにしても著作の発案,制作,監修のいずれもテロールが中心であったので,彼を中心人物とす
ることが正しいだろう。
彼はどのようにしてこの膨大な仕事を実現していったのだろうか。彼がこの仕事を着想した時期に関しては
いろいろな説がある。ある人は,1811年,彼が22歳の時にヨーロッパ中の故地をまわる巡礼を始めたときに,
すでにキリスト教的考古学の書物の構想を持っていたという。また別の人は,1813年に徴兵で彼が戦地に赴い
たときにすでに,こうした構想を胸に抱いていたという。テロール自身,『ピトレスク・ロマンティック紀行』
の中の各所でいろいろ違ったことを言っている。『ブルターニュ編』(1843)の中では「35年前に私ははじめて
ブルターニュを訪れた。そうしてこの美しい地域のピトレスクな景観を眺めて,私は『紀行』を思いついた」
と書いているのである。35年前というと,1808年頃だろうか。ちょっと早すぎる気もしないではないが,いず
れにせよ彼が20代の頃にすでに『ピトレスク・ロマンティック紀行』の構想を持っていたことがわかる。とも
あれ彼がこの計画に実際に着手することができるのは,1818年になってノディエと知り合った後のことであろ
う。
彼はどうしてこのように膨大な時間と精力を必要とする仕事を行ったのだろうか。それはある種の危機感の
表明でもあった。フランス大革命後,キリスト教の権威は地に落ちて,各地で教会,僧院は行政による廃止の
対象となり,また攻撃,破壊,略奪を被った僧院も数知れずあったのである。国家から払い下げを受けて,そ
うした僧院の建物を解体して,建築材として石を売る業者も現れた。さらには,イギリス人の観光客が大量に
流入してきて,由緒ある石像彫刻の断片などを捨て金で買い取って持ち帰ることも起きた。英国人はフランス
の史跡保存政策の貧困を非難しながら,他方ではこのような持ち帰りを行っている者もいたのである。
『ピト
レスク・ロマンティック紀行』では「英国人たちはジュミエージュの僧院の石を持ち去り,また石工たちがレ
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ザンドリーの美しい屋敷のすばらしい彫刻を壊している」
としている。
つまりテロール男爵は崩壊の危機にさらされていた中世芸術のすばらしさを一般に知らしめることによって
「中世の傑作を野蛮人の槌から守る」ことを使命としていたのである。
仕事はどのように始まったのだろうか。これについてはノディエの証言がある。
最初になされた提案に賛同したとき,私はこの計画が畏友テロール氏の指揮の下でこれほど大きさなものと
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なるとは想像もしていなかった。氏の希有な才能,氏の多彩な知識,疲れを知らない精力ならもっと大きな
企図も可能かと思われたが。[...]われわれカイユー氏と私は謹んで以上の証言をするものである。この間に
も氏は,興味深い注釈においていくつかのあやふやな事実を確認するために巧みな探求を続けていられるば
かりでなく,新たにクロッキーを描いて,その大胆さ,巧みさによって応援の手練れの画家たちの指針を与
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えているのである。
このように,この大仕事のヘゲモニーを握ったのがテロールであることは疑いがないが,実際の執筆は誰が
行ったかについては,いささかの議論があった。というかいくつかの勘違いもあったし,またテロールはなぜ
か敵の多い人だったので,意図的な歪曲もあったようである。当時,ノディエも協力していた『文学芸術年報』
で報告者のルルディウはこの『ピトレスク・ロマンティック紀行』の企画を褒め称えた後に,この企画は「ノ
ディエ氏が計画して成功させたもので,我々の期待をことごとく満たしている」と書いているのだが,数ヶ月
後には同じ雑誌がテロールの名を「挿絵担当」としてあげているのみである。また『パンドラ』誌は「ノディ
エ氏の文体の魅力」のみを語っている。
すでに述べたようにこの『ピトレスク・ロマンティック紀行』のなかでも,少なくともノルマンディーに関
する2巻については,執筆を行ったのはノディエであり,その後の巻は,主としてテロールが執筆したものと
思われている。このことについてはノディエ自身の証言がある。2巻目の最後で,書き手は謝辞を述べている
が,ここではテロール男爵とカイユーにも謝辞が向けられているので,これはノディエが執筆したとしか考え
られない。
後になって新聞の『シルフィッド』紙が『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』の執筆に当たっ
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て,テロール男爵が他人に書かせたのに自分の名前を使っていると攻撃したことがあった。
この時すぐに反撃
したのは,その名前を使われたと目された人たちであった。
ノディエは『ジュルナル・デ・デバ』誌に載せた公開書簡でこう反駁している。
拝啓,貴紙において「コレクター」と署名された記事の一節を拝読,非常な驚きを覚えましたので,こうし
て書簡をしたためます。「テロール氏はシャルル・ノディエが本文を書いた書物に自分の名で署名をしてい
る」とありますが,貴下にこのような情報をもたらした者は,貴下の信頼を濫用していると言わざるをえま
せん。小生は『ピトレスク・ロマンティック紀行』の執筆に関して,テロール氏と一緒に働きまして,二人
で書物に署名をいたしました。最初の2巻の大部分は小生が受け持ちましたが,最良の部分がそうだとは言
いかねます。それというのは,美術に関するテロール氏の執筆部分は私の受け持ち分よりも成功を収めてお
りますし,これからも収めるでしょう。その後,テロール氏はこれまで出版された『ピトレスク・ロマン
ティック紀行』の10ないし12巻を一人で執筆されました。こうした既出版部分が小生に帰されることがある
のは,テロール氏が礼儀上,昔の協力者の名前を残していてくれるからに過ぎません。
小生はこれまでたびたび抗議しなければならない羽目になりましたし,またこの機会にもきっぱりと,そ
して名誉にかけて抗議いたしますが,小生は一行も書いてはいないのです。久しい以前から,寄る年波には
勝てず,また日々の苦しみ,仕事の義務のせいでこのような膨大な仕事に必要な研究,配慮,勤勉さをもつ
ことができません。(1843年5月23日,パリにて)
しかしその後になると,今度はテロールが中心になって執筆したものの,何人かの協力者がいたのは当然とい
えば当然であろう。『文学的フランス』誌においてケラールは1
838年以前に出版されたプロヴァンスに関する
5つの巻はテロールの手になるものだと言っている。30年後になってもこの『ピトレスク・ロマンティック紀
行』の執筆者についての議論はかしましく行われ,世論はなぜかテロールに対して厳しい声も多かった。これ
に対してケラールはちょっと微妙な書き方をしている。
ところで,われわれはノディエに関する記事のなかで示したように,この本の執筆に当たってはテロール男
爵ほとんどひとりで十分だった。ただ,現場にいて秘書役をつとめた作家たちに部分的な執筆を依頼したこ
とはある。アメデ・ド・セゼナ氏はオーヴェルニュ編,ブルゴーニュ編,ドフィネ,ラングドック,ピカル
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石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
ディーの一部を担当し,またブルターニュ編の校閲を行った。ドゴール氏はブルターニュ編を担当。アドリ
ヤン・ド・クルセル氏は他の部分の著者である。テロール男爵は今世紀のアレクサンドル・ド・ラボルド18
19
のような存在である。
ケラールはテロールをさまざまなゴースト・ライターを使ったアレクサンドル・デュマのような存在にした
がっているように見える。とくにアメデ・ド・セゼナが抜きんでて執筆に協力した,と。ところが当のセゼナ
はまったく異なることを書いている。
テロール男爵は一人でこの大著の構想をしたのだが,いつも変わらずこの企画の主導者でもあった。挿絵の
分類,選択,仕事の全体の割り振り,土地と歴史記念物に関する自分の研究などの仕事にもかかわらず,氏
は原稿の執筆に必要な数多くの探求に没頭していた。当初,ノディエ氏が協力していたが,その後はずっと
テロール男爵が単独で執筆部門を担当している。
またテロールは,1854年からは(つまり,ドフィネ,ブルゴーニュ,シャンパーニュ,南部ノルマンディー
編に関しては),自分の名前のみを表紙に入れている。これは彼の自信を表すものだろう。また,8
9歳になっ
て,彼の初期の協力者がことごとく亡くなり,最後の一人のようにして残った後も,
『ピトレスク・ロマン
ティック紀行』の執筆に意欲を失っておらず,書斎である客に向かって『ピトレスク・ロマンティック紀行』
を指さしながら,「自分はこの本の一章を口述筆記したばかりだ」と言ったという。彼はこの作品の完成に向
けて,最後まで執念を燃やしたのである。
2,『ピトレスク・ロマンティック紀行』の政治的な意図
この本はまずなによりも歴史的・考古学的な記念物を示して,記述することに重点を置いて,その意図はま
ずもって文化的な性格を持つことはすでに述べたが,しかしそれが政治的な意図をもつことも忘れてはならな
い。周知のようにフランスでは大革命後,宣誓を拒否した僧たちは放逐され,僧院,教会は破壊されたのだが,
このように精神的,物質的に損害を被った国民精神の遺物(キリスト教建築物のこと)をここに書物の形で保
存しようと言うのがこの本の意図するところである。少なくともノディエの序文にはそう書いてある。彼は序
文の冒頭に
いにしえ
フランスの古の歴史記念物は特殊な性格を持っている。変わることがないすぐれて国民的な観念,情念の領
域に属しているのである。こうした記念物が崩壊すると言うことは,思想にとってもっと重要な崩壊,長い
間王政を支えていた諸制度の崩壊を物語っている。歴史記念物の崩壊は王政の崩壊なのである。
ノディエ,テロールは遅れてきた王党派であって,フランスの国家的精神を体現してきたそうした歴史記念
物をできるだけ保存し,それが不可能ならばそれがなくなる前に,せめて記録の形で残そうという,かなり
せっぱ詰まった気持ちがこの本の意図するところである。こうした意志は実はナポレオンの意図を継承する物
である。統領ナポレオンは大革命以来のフランスのナショナリズムをさらに高揚させて,ギリシャ,ローマ
や,イタリアのルネッサンスに還元されないガリアの文化を称揚しようとしていた。だから,この本はある種
の危機意識の表れであると同時に,一種積極的な政治的な思惑の書でもある。
ナポレオンはこうした活動に熱心で,すでに1800年頃から各県に任せて,それぞれ県の文化財の記述などを
行わせていた。各県はその県の『簡約記述目録』を出版して,県内の文化財の発見に努めるように指示をした。
いくつかの県では実際に出版にまでこぎ着けたが,執筆を行ったのは各県在住の役人,文学者,建設部門の技
師等だったので,出来,不出来の差が激しく,全体としてあまりよいものができなかった。はかばかしい成果
が上がらないのに業を煮やしたナポレオンはこの計画を凍結し,各県知事の責任において『県別資料集』を制
作させた。この計画は1801年には「タルン版」からスタートして,1810年頃にはほぼ全県が出揃った。これは
各県の分が同じ体裁で,また全てパリで印刷されており,ナポレオンの考えでは,これのひと揃いが『フラン
ス全国記述集』を構成すべきものであった。この資料は各県の産業情報を主とするものだが,旅行者向けの観
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東 京 学 芸 大 学 紀 要
人文社会科学系Ⅱ
第57集(2006)
光情報をも載せていた。
この成功を受けて,たとえばこの当時大臣を務めていたモンタリヴェは「フランスの史跡,とりわけ古い城
郭」についての情報を提出するように1810年に各県知事に指示しているのである。こうした動きの背後には,
当時フランスの歴史記念物に関する膨大な研究を準備していたミランやアレクサンドル・ド・ラボルドらの動
きがある。ミランは1807年に膨大な『フランス各県の旅』の原稿を完成し,またラボルドは『歴史的事実と芸
20
術研究との関連で考察されたフランスの史跡,年代別目録』を作っていた。
『ピトレスク・ロマンティック紀
行』の序文でも言及されているこの本の中で,ラボルドは「フランスはヨーロッパ諸国の中で文句なしにあら
ゆる時代を通じてもっとも史跡に富む」と述べている。そうして,「あらゆる時代の遺産を集め,歴史家には
比較研究の素材を提供し,芸術家には模範とすべき素材を提供し,土地を愛する人々にはフランスの栄光の最
良の思い出」を提供すると述べている。かなり愛国的な調子である。またルノワールはナポレオンの支持のも
とに,フランス王の墓所として有名なパリ郊外のサンドニ寺院にあった王たちの墓までも集めたフランス史跡
博物館 Monuments français を作った。このようにナポレオンは歴史上の遺跡を最大限活用することによって,
自己の存立基盤であるナショナリズムの高揚を図ったのである。
ナポレオンに取って代わった復古王政は,実は王,貴族,教会が奪われていた財産を取り戻すことに熱心で
あって,国家の政策としてこうした国の宝を収集,分類し,顕揚するという仕事には必ずしも熱心ではなかっ
た。それで,せっかくできたばかりのフランス史跡博物館をいきなり解散させたりすることさえした。王族,
貴族や僧たちが本来自分たちのものであった僧院や城の遺産を取り戻す邪魔になったからである。このよう
に,復古王政はギロチンの記憶におびえながらかろうじて存続していった年寄りの政権であって,なにか新し
い目標に向かって突き進む意欲はまるでなかった。しかし,この時代になると在野の研究者の研究成果や,地
方での動き,世論の流れなどによって,史跡保存の流れは留めようのないものとなっていく。各地域では自分
たちの地方にある史跡についてもっと詳細な著述へと向かったのである。このような動きの結果がはっきりと
めだってきたのは,1817年頃のことである。10年前には研究者ミランらの研究と保存の動きに対して冷たかっ
た世論なのに,この年画家のルイ・ガルヌレが版画を発表して,石工たちがパリ近郊のモンモランシーの城を
解体している情景を描き出すと,人々は大いに憤激した。また,この年には画家のボージャンが『フランス,
新ピトレスク紀行』を発表して好評を得て,24年まで刊行が続いた。この紀行集には,ボージャン当人以外に,
ミシャロン,ゴブラン,ギヨといった当時のそうそうたる画家が加わっている。これを受けて,時の内相ドゥ
カーズは再度,各県の知事に対して地域の記念物に対するリポートを出すように求めている。今回は記念物を
どんどん持ち去りつつある英国人に対する対策という意味もあった。
この時期にはもちろん歴史記念物をカタログ化して記録しようとする試みも継続しており,たとえばダジャ
21
ンクールは4世紀から1
6世紀に絞って歴史記念物の記録をしようとした。
またこれと類似した企図としては
オーバン=ルイ・ミランの『古のフランス』がある。この書はもっぱら破壊の被害にあっている記念物に焦点
22
を合わせている。
実は共和制を主張する野党側には,こうした史跡保存の動きを冷ややかに見る論調も少なくなかった。彼ら
から見ると,教会と僧院を復元することは古き権力の思い出を呼び起こすことになり,また城の復興を図るこ
23
とは,そこに住んでいた権力者の「おぞましき放蕩と憎むべき裏切り」
を復活させることにつながるからだっ
た。しかし,援護射撃は英国の方から来た。
『ピトレスク・ロマンティック紀行』刊行直後の2
1年,イギリス
の新聞『コータリー・レヴュー』紙は「中世におけるノルマンディーの建築」と題する長い記事を載せて,ノ
ルマンディーの史跡研究の書を紹介し,フランス人の無関心を非難しながら,
『ピトレスク・ロマンティック
紀行』を擁護したのである。
こうした動きに対しては復古王政も無関心でなかった。むしろこうした動きに便乗して自分たちの先祖の時
代の文化を賞揚することによって,自分たちの権威の正当性を誇示できるのだから,基本的にはこうした動き
には好意的だった。たとえば,画家のユヴェは,ルイ18世の愛人であったカイラ侯爵夫人のためにゴシック・
トロヴァトール的な絵画をたくさん描いているし,またベリー公爵夫人(後述)も同じような絵画が大好き
で,そうした絵画,風景画を大いに奨励した。1825年にルイ18世の葬式がパリ郊外のサンドニ寺院で,また同
年ランスでシャルル1
0世の戴冠式が挙行されたときは,いずれも中世風の服装,由緒正しき式次第と雰囲気で
実行されたのである。
『ピトレスク・ロマンティック紀行』の刊行を始めたテロールが2
5年に男爵に任命され
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
たのは,こういう空気のなかのことであった。ノディエもまた24年にアルスナル図書館の館員として正式に採
用される。
《印象の旅》
しかし,この『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』の目的は先行する研究書の類とは少々異
なるところがあるこの企画は政府に委嘱された学者の本ではなく,あくまでも民間の自主的な企画(ある程
度,政府の援助は受けたようだが)であった。また二人とも研究者とは大いに異なる経歴の持ち主である。ま
た本当に国民的な遺産を研究し,それをきちんと残そうとすれば,たった一つの城の廃墟,たった一つの僧院
にしても,長い歴史があり,建築学上のさまざまな議論があるだろう。そういうことは,この二人には不可能
である。そうしたことは執筆者には十分わかっていたことであって,ノディエは序文でこう述べている。
われわれはフランスを学者として巡るのではない。そうではなくて,なにか興味深い眺めを鑑賞することを
望み,気高い思い出を味わいたがっている旅行者として回ろうとしているのである。
[...]言ってみれば,
24
これは発見の旅ではなく,印象の旅なのである。
「発見の旅ではなく,印象の旅」なのだ。その後,彼はこう続けている。
われわれは歴史の痕跡のあとを辿ることはしない。歴史を援用するのは,そうした歴史の重たい証言がわれ
われの感動を強めたり,その圧倒的な物語で史跡の荘厳さを強化したりして,感動を高めるのに協力してく
れる場合のみである。さらにこういうことがある。われわれは歴史のもたらす情報が,伝承という道を通し
て伝えられるとき以上に,生き生きとした関心をもってこれを聞くことはないのである。人間の記憶は,数
世紀のあいだ継承された思い出話を通して伝えられるときに,生き生きとした歴史の感覚をひとの心に伝え
ることができるのである。
つまりこれは学者が研究の成果を報告したり,研究の成果を一般向けにやさしく書いたりする本ではなく,ア
マチュアの旅行者が見たままの印象を記述する本である。また,18世紀の「記述」集のように,実証的,科学
的な本ではなく,いわば民族学的,詩的,私的な旅行記なのである。非科学的な「伝承」をも取り上げるとい
うのだから。彼は続ける。
どれほど田舎の案内人の素朴な話が,現代の歴史家たちの論争に光明をもたらしてくれたことだろう。われ
われはものを信じやすい性格なので,厳しい批評家なら批判しそうな観念も受け入れる。このように受け入
れるのは,研究好きな読者に権威的に押しつけるためではなくて,感じやすい読者の新たな感動のもとを提
供するためである。われわれは子供っぽいお涙頂戴式の話の感動的な誤りを排除しないし,また偶然の結果
生まれた間違いも,うそによる誤りも排除しない。われわれは,それどころか古き城の塔の中の守護精霊
や,小さな部落のなじみの小妖精の話を集めるのである。
彼がこのような発言をするのは,もちろんロマン主義が時代のフォークロワからさまざまな要素を取材して
利用したという事実がある。実際,このあとで筆者ノディエはシェイクスピアのお化けはフォークロワに源泉
を持っているといい,そのあとにダンテ,スタール夫人,ゲーテ,シラーらの名を援用している。実際,
『古
のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』のなかのすくなくともノディエが書いた部分に関してはそう
いうフォークロワに対する嗜好を読み取ることが出来る。ノルマンディー編の中にいくつかそうした伝承物語
の紹介があるし,おそらくこれはノディエにしか書けまいと思われるロマンティックな文章に接することがあ
る。第2巻から,ノルマンディーのプルヴィルの海辺の情景を引用すると,
海の眺めは次第に恐ろしいものになっていった。嵐の時のプルヴィルほどに,目と想像力に恐ろしく映る海
をほかにあまり知らないほどだ。これは移動砂に囲まれたモン=サン=ミシェルをなにがしか思わせるもの
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がある。またこの自然風景の憂鬱な影響のせいで,われわれは民衆の迷信めいた伝承を喜んで聞く気になる
のであった。
つまりノディエが言いたいのは,これは客観的な歴史をたどる書物ではなく,史跡にただよう独特の雰囲気
(それを彼は革命前に存在した国民的な精神とみなしている)をよく再現するものであるのならば,フォーク
ロワ的な言い伝えでも構わず採用するというのである。詩人の書く歴史である。
ノディエが降りた後,執筆を担当したテロールは前任者ほど文筆の才がなかったし,おそらくそういう考え
方には賛成ではなかったから,それ以降この作品はいっそう歴史記述的になり,考古学的になる。彼は個々の
史跡の説明にあたって,まずガロ・ロマン時代からはじめて歴史の記述を行い,ついで問題の史跡の記述と場
所の描写を行う。彼の文体はレトリック調で,やや単調である。彼はおそらく初期にノディエが書いていた頃
に行われていた批判,感興の赴くままに書きすぎる,ロマンティックに過ぎるといった非難を意識していたの
かもしれない。というか,もともとテロール男爵にとっては,ノディエのこうしたロマンティックに過ぎる要
素は受け入れがたいものであったろう。なぜならば,詩的な印象を既述するだけの旅ならば,フランス全国を
津々浦々,隈なく表現するほどのこともないからである。つまりテロール男爵が担当している部分は「記述」
description という本来のジャンルに戻ったということができるだろう。実際,テロールの執筆部分には「記述」
という語が頻出するのは事実である。
ただ,そうはいってもテロール男爵の執筆部分に関して,このように膨大な書物の細部にわたって正確を期
すことは大変な労苦を伴うものであったことは言うまでもない。テロールが書いたことがらが当時の学問水準
から言っても常にオリジナリティがあったとは言えないが,それでも彼は昔の旅行家の本を漁り,学者に精確
な詳細を尋ねた。ノディエの親友であったシャルル・ヴェスはテロールの知的好奇心の格好のターゲットとさ
れ,テロールからの質問の手紙に悩まされたという。また,彼の書庫はこうした研究にとってはほんとうに役
に立つ図書室となり,こうした分野の研究に関しては,パリの古いサント・ジュヌヴィエーヴの図書館や,後
にパリの国立図書館になる王立図書館に比せられたという。
したがって,この書物は,膨大で細々として研究によって,崩壊しつつある国民的遺産を記述し残そうとす
るばかりではなく,むしろそうした歴史記念物がもっているピトレスクで,かつロマンティック,さらには審
美的な価値の中に,国民精神の発露をみて,それを残そうとしたのだと考えることが出来る。また,この作品
はむしろそれが擁している膨大な図版によって評価されるべきものであるという人もいる。ドーザをはじめと
して,フラゴナール,イザベイ,その他錚々たる画家を動員して作られたリトグラフによる図版はテロールに
よるチェックを受けているからであろう,作者は異なるのに,ある共通の雰囲気を漂わせている。それは失わ
れた時代の事物や,人々や精神に対する深い思いである。
3,ノルマンディー
『ピトレスク・ロマンティック紀行』がノルマンディー編から始まったことの意義は大きい。ノルマン
ディーはもともと史跡の多いところとして知られていたが,そうした現象が起こるのは歴史上重要な事件が数
多く起こったようないつもフランス史のスポットライトを常に浴びてきた場所であることも大きいが,もう一
つには英国ではじまったゴシックへの関心をもった英国人が海外に押し出してまで,ゴシックの遺跡を見よう
とするときに,ノルマンディーはいちばん近く,いちばん手頃な場所として意識されたことも大きな理由だろ
う。
もともと,ヴァイキングがノルマンディーに建国した9世紀から1
1世紀ほど間での間は,このノルマン
ディー公国はヨーロッパでももっとも活力のある国として,遠くシチリアにまで属国を作ったほどだが,その
影響もあって,多くの史跡を抱え,また風景も美しく,しかも英国人から見れば物価も安く旅館の食事も美味
であることから,英国人を引きつけたのである。彼らはノルマンディーに入り込んできて,遺跡を勝手に持ち
去ったりしたが,他方フランス人がゴシックの遺跡を大事にしないことを非難もして,史跡研究の発展を促し
た側面もある。そうした動きを受けて,シャルル・デュエリシエ・ド・ジェルヴィル(1770−1853)らがノル
マンディーの史跡の研究を始めた。そうして友人たちを集めて研究会を開き,
「ロマネスク建築」という概念
を始めて提出したのは,1818年のことである。ジェルヴィルはほとんど故郷のヴァローニュを離れなかったか
ら,彼の説はパリまで届かなかったが,彼の友人で,政治家,学者であるオーギュスト・ル・プレヴォ(1787
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
−1859)はジェルヴィルの研究を発展させ,パリの知的世界にも知らせたのである。
しかし,このことを受けて,またもっと大きな文脈の中に置き換えてみると,このフランス国内での美学的
な興味の転換が大きな意味をもっている。そうして,このことが,1830年頃にはっきりした形をとってきた価
値観の変化,つまりひとびとの関心がイタリアを離れて,1
8世紀には一部がスイスなどへと移ったあと,ス
コットランドやノルマンディーへ,一言で言えば,北方へと関心が集まっていく現象の締めくくりとなったの
である。
これまで,ルネッサンス以降の美的価値観に影響を受けて,風景画といったら(少なくとも公式的には)ロー
マ近郊の風景しか認めてこなかった価値観が崩れて,自国内の普通の風景がローマ近郊に勝るとも劣らないと
考えるようになっていくのである。英国の影響を受けながら,そうしてルソーの影響を受けながら起こったこ
うしたロマン主義的なパラダイムの転換のあおりをうけた起こった変動であって,単なる自然発生的な動きで
はない。また,フランスで18世紀には,保養や観光の地として好まれたのは,当然ながらパリ近郊と,そして
スイスであったが,それが次第にノルマンディーへと移っていく流れをあらわしているものである。ノルマン
ディーはパリと並んで首都に近い,あるいは交通の便が発達している,ピトレスクな景観に富むという理由で
人気を得たのである。
パリ近郊で人気を得た場所は多々あるが,そのなかでも特に有名だったのはパリの北おおよそ60キロメート
ルの地に位置するシャンティ,またルソーの墓で有名になったエルムノンヴィル,さらにはパリの西南70キロ
メートルほどに位置するフォンテーヌブローの森などがある。フォンテーヌブローの森を愛でる慣習は長く続
いて,後のバルビゾン派の発展につながることはよく知られている事実である(バルビゾンの村はフォンテー
ヌブローの森はずれにあるいくつかの村の一つに過ぎなかった)
。また,パリ近郊は印象派の揺籃の地として
も知られているが,そうしたことが起こったのはずいぶん以前からパリ近郊の森や川を愛でる習慣があっての
ことである。
『ピトレスク・ロマンティック紀行』では,ヴァロワ地方のサンリス等,ごく一部を除いてパリ近郊は扱っ
ていない。この書物はフランス全国のまだ十分に知られていないピトレスクな魅力を紹介しようという野心を
持っていて,パリ近郊はすでに多くの情報があると判断してのことだろう。これに対して,ノルマンディーは
『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』の最初の2巻を占めるなど,非常に重要な役割を演じて
いる。拙論では書物の目的からして,『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』のノルマンディー
編3巻(3巻目は最後に刊行された)を主として参照することとしたい。必要な場合にのみ,他の巻にも言及
することにする。
《ノルマンディー編,Ⅰ》
ノルマンディーを重視する姿勢は全体の序文でも示唆されているが,
『フランシュ・コンテ』編のノディエ
による序文でも,中世建築の功績がすべてイギリス人に帰せられることに対する反発が,ノルマンディーを最
初に取り上げた理由として説明されている25。
序文のあと,この膨大な書物はごくごくさりげなく,セーヌ河をパリから下ってルアンに近いルヴィエから
始める。そのあと,叙述はセーヌを下り,
《恋人河岸》にいたる。ここで,著者はこの土地の歴史よりは,こ
の「恋人河岸」という名前にこだわって詩的想像をめぐらす。専制的な領主が娘をもらい受けようとした若者
に出した条件はこの美しい娘を抱いたまま,急な斜面を全力で頂上まで登ることだった。若者は最後,息絶
え,娘は絶望のために死んだ。この地の紹介はこれだけである。これは何らかの理由で《恋人河岸》という名
前がついたこの土地に事後的に伝承が被さったのであろう。大岡昇平が『武蔵野夫人』の執筆に当たって,た
だただ名前にひかれて「恋ヶ窪」を作品の舞台にしたような話である。つまりノディエは史実を語りながら,
同時にフォークロワを語り,その町の詩的印象を述べるのである。彼は,僧院の歴史をたどるのと同じくらい
の情熱で妖精の宿る木やプロエルメルの樫の木について語る。つまり伝説と事実がない交ぜになっているので
ある。
そのあと,叙述はルアンをとばしてしまい(第2巻で登場する)
,セーヌを下って悪魔王ロベールの城の廃
墟に立ち寄って,この由来のはっきりしない悪行の王様についての噂を語ったかと思うと,さらにセーヌを下
り,ブロトンヌの森の中の僧院の建ち並ぶ地帯にはいる。まずはジュミエージュの骸骨のような廃墟について
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熱心に語る。ジュミエージュはフランス有数の美しい廃墟であるだけあって,説明も15ページに及び,図版も
14枚を数える。ジュミエージュは640年に聖ベネディクトゥスによって創建された後,ダゴベールが参詣した
こと,またダゴベールの息子のクローヴィスの二人の息子が罪を犯し,その罪を清めるためにジュミエージュ
にきたこと。このことを16世紀の詩人ロンサールがその『フランシアード』で歌っていることなどが記述され
ている。そのあと,各建物の説明で終わる。図版をみて驚くのは,この当時はまだジュミエージュの廃墟がま
だかなりよく保存されていることで,当時は付属の小教会,回廊などの一部がまだのこっていたのである。大
教会の方も二つの尖塔のうえの帽子もまだ残されている。絶世の美女として名をはせたアニェス・ソレルのも
のとされる墓は今日ではもう見ることができない。フランス有数の美女として有名だったアニェス・ソレルの
ものらしい墓があることに筆者たちは非常な感興を覚えたらしく,テロールのリトグラフィーが掲載されてい
るし,文章も長い。筆者たちがことさらにジュミエージュに力をいれたのは,当時,ちょうどジュミエージュ
の解体が行われつつあり,そのことで一部の良識ある人たちの批判を浴びていたからである。著書はそのこと
については触れていないけれど,ことさらにロマンティックな感興を盛り上げて,この失われようとしている
史跡に対する哀切の気持ちを表現している。
太陽は二つの塔の間で傾いて行き,その弱まった光は教会の前庭でいっそう青白い影を玄関ホールに落とし
たあと,昔の舗石にとって代わった短くまばらな草の上で消えていくのであった。穴のあいた壁でなる風切
り音を除いて,全てが沈黙していた。そのぴゅうぴゅういう音が鳥たちを時としては不安がらせるのだっ
26
た。鳥たちは天空で道を見失い,お互いを求め合って,追い掛けあって,姿をみせなくなるのであった。
そのあと,語り手は,「イタリアのもっとも美しい村」を思わせるセーヌ沿いのまち,コードベックに至る。
ここは,アンリ4世が「私が見た中でもっとも美しいチャペル」と評した,まるでレースのような複雑な模様
をつけたゴシックの教会を擁するところである(この町は,その後二時大戦中に教会を残してぜんぶ焼けてし
まった)。
そのあと,叙述はジュミエージュに勝るともおとらぬ,ブロトンヌ森の名刹サン=ヴァンドリーユの僧院の
廃墟にいたる。僧院を徘徊する亡霊に触れた後,叙述はこの僧院が英仏海峡側の聖ミカエルに捧げられたグラ
ンヴィル,アヴランシュ,ポントルソンの教会を統率する役目を持っていたこと,修道院の建築に当たっては
近所の町リルボンヌの古代の遺跡から石を持ってきたことなどを記している。サン=ヴァンドリーユの僧院も
また,その挿図を見る限り,当時はまだ教会の外陣など,かなり骨格を残していて,現在ほとんどなにも残っ
ていない状況とは比べようもない。この僧院の廃墟も,当時は解体問題でパリの心ある人たちの関心を集めて
いたのである。
そこから,古代ローマの大きな劇場跡のあるリルボンヌまでは一足だ。この地はローマがコー地方の首都と
して,Juliobona という名前を与えた町をその淵源としているが,その後歴史の闇に埋もれていたのをヴァイ
キングが再発見したのである。この土地が住むのに気持ちが良いことから,住居や墓をつくったのである。も
ちろんローマ遺跡の石を使って。ここは丘の上には中世の城塞の跡(シャトー・ダルクール)もあって,なが
い時の流れをしみじみと感じさせる。つまりこの町では古代と中世の遺跡を一度に見ることが出来るのであ
る。コードベックが河岸にあるのに対して,リルボンヌは河から1キロほど離れてゆっくりと迫り上がってい
く小高い丘の上にあり,丘の上からは遙かにセーヌ河のゆったりした眺めが見通せる(10数年後にはターナー
がここからの眺めを描くことになるだろう)。
筆はさらに河の流れに沿って下り,セーヌに入ってきた船が必ずや通らねばならない要衝の関,タンカル
ヴィルの城塞に至る。この城は,断崖の上から渦巻く流れを見下ろしており,通過するどんな船も見逃さない
のである。城には無数の塔の廃墟が建っており,小高いテラスから見下ろすセーヌの恐ろしい様はまさに絶景
である。この城を記述するノディエの筆は詠嘆調であり,さらに古い遺跡ほどよく残るというやや風変わりな
理論を展開している。またタンカルヴィルの城址を描いたリトグラフ7枚はいずれも秀逸である。
さらに下って,ついには河口に至る。しかし到着地は現在の河口のまちルアーヴルではなくて,そのとな
り,手前に位置するアルフルールである。ここは以前はルアーヴルを凌ぐ最大の港町であったのだが,押し寄
せる流砂のせいで港が埋まってしまい,今ではルアーヴルの貧しい郊外に転落してしまった。しかし,この土
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石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
地の輝かしい歴史の思い出はここの教会のどんなに遠くからでも見つけられる高い尖塔に込められていて,い
までもこの地は人々を引きつけているのである。この教会はターナーその他の絵でも有名である。
わが『ピトレスク・ロマンティック紀行』においてはアルフルールの町の歴史を叙述することに熱心で,こ
のセーヌの入り口に位置する重要な戦略都市が長い歴史を通じて(コードベックと同じように)
,英仏の間で
とったり取られたりを繰り返していて以下事実を語る。
その後,叙述は新しい都市ルアーヴル=ド=グラース(現在のルアーヴル)に入り,次いでグラヴィール,
モンティヴィリエを経た後,今度は海岸にそって北上することになる。ここに出てくるのは,歴史のある港町
ばかりであり,モネが好んで描いた保養の町サンタドレスも,そうして『ピトレスク・ロマンティック紀行』
出版の数年後からはあれほど画家たちの好奇心をそそることになるエトルタもなしである。1820年代にはこう
した土地は未だ「発見」されていなかったからだ。
港町フェカンではノディエが興味をもって描くのは,僧院のみである。ここの創建はジュミエージュと同じ
くらい古いこと,歴代のヴァイキングの王たちの墓はここにあり,エジプトのピラミッドにも比較できること
を語った跡,この教会は実はメロヴィンガ朝の頃より残るのはわずかにいくつか残るチャペルのみであること
が語られる(ちなみに,フェカンの修道院はサン=ヴァンドリーユ,ジュミエージュと並んで,ベネディクト
派の最重要拠点であり,『ピトレスク・ロマンティック紀行』の第1巻はある意味でベネディクト派巡りと考
えることも出来る)さらにはもっと大きなディエップの港町がある。ここはイギリスのドーヴァーと結ぶ重要
な拠点であると同時に,フランスの船乗りが世界へと羽ばたくための拠点であった。歴史記念物としては,サ
ン=ジャック教会の描写に一ページを当てている。最後は古戦場アルク城址を訪れて,第1巻は終わる。アル
クの城址は数年後にはベリー公爵夫人が華やかのお供の列をつれて,お参りにやってくるだろう。
《ノルマンディー編,Ⅱ》
第2巻は序文なしでいきなりこの1巻にストレートに接続するように始まる,描写は英仏海峡をさらに北上
して,プルヴィルにはいる。ここは,現在ではあまり知られていない小さな町で,ここではノディエは町とそ
こにある寺の廃墟については数行の文章を割くのみであり,その他はもっぱら,海と海辺の情景,さらに船の
難破の話ばかりしているのである。
われわれは秋分前後のはっきりしない天気のある一日,自然全体が嵐の予感に震えているような日に出かけ
た。雲の配置,空気の動き,紫色で透明な空が,こうした地上からの予感にうまく合っていた。しかしなが
らわれわれは,英仏海峡のファレーズに沿った岩場だらけの道をたどった。絶え間なく動き回る波の暗い色
にファレーズの永劫代わらない白色が対照をなしていた。ファレーズはなにやら未知の世界の残骸であり,
死の不妊性をもっているのである。[...]
海の眺めは次第に恐ろしいものになっていた。プルヴィルの荒れ気味の浜辺ほど,想像力と視線に厳しく訴
える浜辺をほかにあまり知らない。これはモン=サン=ミシェルの動き回る浜辺やリドの厳しい裏側をなに
27
がしか思わせるところがある。
つまりここでは,ノディエは史跡の紹介という任務を完全に離れて,紀行文の作者として振る舞っていること
になる。しかも,ここで彼が呼び起こしている感興は極めてピトレスクな海辺の情景をもととしている。筆者
ノディエはモン=サン=ミシェルの動く浜辺にいたく興味をそそられており,
『パンくずの妖精』のなかで重要
な役をこの浜辺に追わせたことはいうまでもない。
その後,叙述はユーの町に入る。北国のまち,教会と城。
そのあと,描写はノルマンディー北端のトレポールまで行き,さらに北のピカルディー地方との境界となる
ファレーズについて長々と触れた後,ディエップの近く,世界を股にかけて活躍したアンゴが建てた館を訪れ
る。つまりこのあたり,ノルマンディーの北端にあたる部分を訪れたノディエの筆は,教会以外のもう一つの
ピトレスクな風景の代表,厳しい海やそそり立つ断崖を描いていることになる。
このあと,描写はいったん海岸地方を離れ,南下してセーヌ河沿いの古都ルアンに入るが,その途中に由緒
正しいサン=ジョルジュ・ド・ボシェルヴィルの教会を訪ねる(この時代には,図版をみると教会はかなり完
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東 京 学 芸 大 学 紀 要
人文社会科学系Ⅱ
第57集(2006)
全な形で存在したようだが,現在は廃墟に近い状態になっている)
。ルアンはノルマンディーのゴシックの代
表的なまちとして,ヴィクトル・ユゴーをはじめとしてパリの人々の想像力をかき立てた町であったから,さ
すがに50ページ以上を割いて,大聖堂から始めて一つ一つの教会,ジャンヌ・ダルクを処刑した広場,ゴシッ
クの裁判所,一般の家屋など細かく紹介している。
またルアンの最後で筆者はダルヌタルという郊外の土地に言及する。そこを取り上げるのはもっぱらここの
パノラマ的な眺めがすばらしいからである。
[ダルヌタルにあるカルヴィルの教会の]四角い鐘塔はイタリアにはよくあるタイプだが,フランスでは
めずらしく,教会とは別々に建っていて,てっぺんまで登り着いた旅人にピトレスクで爽やかな二つの谷間
の広大なパノラマを見せてくれる。この二つの谷間はダルヌタルで合流して,たくさんの紡績工場に水と動
力を供給した後,ルアンに向かっている。水の地帯は,工場内で水に浸けられた布地のようにありとあらゆ
る色調をしている。ルアンの並んだ屋根屋根,いくつもの高い塔,昔の城壁にとってかわったすばらしい緑
のベルト地帯,活発で生き生きとした都市の活動から立ち上る蒸気が尽きる南の地平線には優美な風景が拡
がって,そこからさわやかな雰囲気が立ち上っている。そうした風景に緑の芝生に覆われたサント・カト
28
リーヌ山がまるで壮大なアルプスのような趣を添える。
この当時のピトレスク美学は風景の中に人工物の存在を推奨していたが,それは必ずしも廃墟である必要はな
く,このように工場でも構わなかったのである。
その後,描写は再びセーヌ河に戻り,パリへと向かって遡っていく。ここでいくつかの小教会を訪れた後,
ノルマンディーとフランスの国境に位置するガイヤールの大城址,レザンドリーを尋ねる。近くのジゾール,
ヴェルノン,ガイヨン,そしてモルトメールの修道院の廃墟を訪れ,最後にエヴルーを訪れて,旅を終わる。
要約すると,旅はセーヌをルアンよりも下ったルヴィエから下って河口まで行った後,時計回りに右回転し
て海岸沿いに国境近くまで北上した後,もういちど時計回りに回転してルアンを経由,今度はセーヌを上っ
て,またパリに戻るというコースなのである。これでノルマンディー北部の旅は終了した。1820年から25年に
かけて刊行されたノルマンディー編2巻をひとことで要約するならば,夥しい数のゴシックの教会,修道院,
とくにそうした建築物の廃墟に加えて,海辺の情景,とりわけファレーズを含む海辺の厳しい情景を描いてい
る,というふうにまとめることができるだろう。また,ノディエは第2巻を書き終わったときにもう自分は降
りることを覚悟していたようで,あとがきと謝辞をのせている。
《ノルマンディー編,Ⅲ》
第3巻目の刊行はだいぶ伸びて,1878年である(しかし,1849年代に造られたリトグラフも多いので,実際
にはもっとはやく制作が進行していたのかもしれない)。
まず,テロール男爵による序文がある。ここでは,まず3巻目がノルマンディー南部を対象とすること,ノ
ルマンディー南部とはオージュ地方,カン平野,ベッサン地方(中心地はバイユー)コタンタン地方(同じく
中心はクタンス),アヴランシャン地方(中心はアヴランシュ)
,ヴィール地方のボカージュ,ウルム地方
(ファレーズ),イエモワ,そしてアランソンの平原であることを述べる。次いで,ノルマンディーのもっと
も華々しかった時代,ヴァイキングがやって来た時代が語られる。ヴァイキングがノルマンディーを占領した
後,その子孫がそのさめやらぬ熱情をさらに広げてシチリアに王国を建てたこと,ギヨームがイギリスを併呑
したこと,十字軍への参加,などが語られる。
このあと本文にはいるが,すでにノディエは執筆陣から降りているので,テロール男爵が本文も全て執筆し
たものと推察される。
本文にはいると,扱っているのはセーヌ河もルアンのあたりでセーヌを下流方向に見て左手にいったあたり
の町をあまり脈絡なく並べている。登場するのは,大聖堂のあるリジュー,またリール川沿いの景色が美しい
ポント・ドメール,ついで海岸に戻って征服王ギヨームが英国攻略に出向した港として知られているディー
ヴ・シュル・メールなどである。
そのあと描写は海岸地方を西進して,ギヨームの英国征服を描いたタピスリーで有名なバイユー,さらには
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
ノルマンディー第2の都市であるカン,さらに描写は南部ノルマンディーの深部に向かい,アランソン,モル
ターニュ,セーなどを訪れた後,コタンタン地方にはいりサン=ロー,ヴァローニュ,シェルブール,グラン
ヴィル,モルタン,アヴランシュを経て,ノルマンディーの西端,モン=サン=ミシェルにいたる。
モン=サン=ミシェルはこの時代すでに修道院は廃止されており,一部を牢獄に,一部を囚人の更正のため
の仕事場にされており,ここで使われているリトグラフもそうした機織りの仕事場に帰られた≪騎士の間≫
(シャルル・セシャンのデッサンによる。1
842年作画)
,ゴミ置き場にされた≪アキロンの間≫(同)といっ
た,あまり芳しくない情景である。
ところで,ノルマンディー編の最初の2巻が刊行された次は,すでに述べたようにフランシュ・コンテ編一巻
(25−29年)
,オーヴェルニュ編2巻(29−33年)であった。ところが,これらの巻はフランスでももっとも
へんぴな場所を扱っている。フランシュ・コンテはノディエばかりでなく,本書に後に登場するヴィクトル・
ユゴー,クールベなど,ロマン派を輩出した土地であるが,ひとことで言えばフランスからアルプスへと接続
していく土地であり,高いところでは標高1000メートルを超え,高原や,激しい滝,水源(たいてい山中の大
きな洞窟から水が吹き出てくる),山間の穏やか湖などの景観が多い。また,オーヴェルニュはフランスの中
央からやや南に寄った中央山塊のある土地で,それほど高くないけれども,山並みが続いているような土地で
ある。そうしてそのように続く丘の天辺に中世の城の廃墟が点々と見える。つまり,この地域は,城の廃墟も,
もちろん教会もあるが,いずれも地方史にかろうじて名を残すような存在が多くて,フランス史上重要な存在
とは言えない。これらの地方で重要なのは,むしろ急峻な魅力をたたえた自然の景観なのである。いいかえれ
ば,『ピトレスク・ロマンティック紀行』という作品は当初,ノルマンディー編では国家的な意義をもつ史跡
をも扱うようにしていたが,実際には自然の景観,それも極めてピトレスクな,つまり荒々しい,粗野な自然
の景観を重視していることが見てとれる。実際,テオドール・ルソーが1830年代初頭にオーヴェルニュ地方を
訪れてこの地域で絵のモチーフを探したとき,オーヴェルニュを紹介したものとしては,
『ピトレスク・ロマ
ンティック紀行』のオーヴェルニュ編くらいしかなかったのである。言いかえると当時のパリの人たちは,
オーヴェルニュや,フランシュ・コンテ,さらにはその後に続くブルターニュなどを荒れて,ピトレスクな魅
力をたたえた土地と想像してはいたが,たしかな情報はほとんど持っていなかったのである。しがって『ピト
レスク・ロマンティック紀行』は序文ではフランスの史跡の記録をうたっているが,刊行順から判断するとピ
トレスクな景観の紹介にもかなり重点があるということがわかる。しかし,このように寺院のような史跡と並
べて,こうした自然の興味深い景観を並べるというのは,ガイドブックと同じことを行っているということが
できるだろう。現在で旅行ガイドは,ホテル,グルメ,果ては買い物情報を満載したものにかわってしまった
が一昔前のスタイルを守っている緑色のほうのミシュランや,ギド・ブルーはこのスタイルを守っていること
は周知の通りである。
4,『ピトレスク・ロマンティック紀行』なかの図版
《リトグラフィー》
そもそもこの膨大な『ピトレスク・ロマンティック紀行』という作品が成功するにあたって,少し前に発明
されたリトグラフィーの功績は大きい。リトグラフとはドイツはバヴァリアのアロイジウス・セネフェルダー
(1771−183
4)が1798−99年頃に発明した技術で1800年にロンドンで特許を取っている。定義から言うと,リ
トグラフ用に準備されたインク,ないし鉛筆で作り出した線を複数枚の紙の上で再生する技術である。この目
的のために科学的な手法で完全になめらかな表面をもった石版を準備し,トレース用の脂肪分の入ったインク
(蝋,石鹸,黒煙でつくる)で石灰岩の石版の表面に描く。石版の表面にはゴムと酸の混合物を薄くまんべん
なくのばして広げておく。これがインクの脂肪と,また表面にしみこませた水分を保持することになる。イン
クの脂肪がついた部分はそれをそのまま保持するが,そうでない部分は水でしめったままであり,白いままで
ある。この方式は,凸型に彫り上げる木版とも,また凹型につくる銅版画とも違って,凹凸を作らずに平板な
ままで製版をすることができる。これだけでも,作成の容易さがうかがい知れるだろう。また,同じ石版から
かなりたくさん刷ることが出来た。
この技術の特徴は従来の木版,金属版に比べて,総体としては制作が容易で早いこと,安価なことがあげら
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第57集(2006)
れる。それに加えて,転写紙に描かれた絵を強い圧力を用いて石版に線を付ける方式なので,事後的な訂正も
可能であった。この技術は当初,版画のために,また本の挿絵用としてドイツとイギリスに拡がったが,1802
年頃,フランスにも入ってきた。1815年になると二人の出版業者,ラステリー伯爵,エンゲルマンがこの技術
を使っての出版を始めた。そうして1818年になるとゼネフェルダー自身がパリにやって来て,リトグラフの出
版業者の免許を手に入れた。彼は木箱に入れた携帯用リトグラフィー作成キットを販売して大成功を収めた。
そこには石灰岩の薄石版のほかに,その他の必要品,マニュアルが入れてあり,300フランしたという。
リトグラフィーは当初は,どんな新技術でもそうであるように,十分成熟していない点があってあまり説得
力のある版を作ることができなかったが,すぐに急速な進歩を遂げた。初期の代表作はナポレオン帝政時代の
思い出を記したニコラ・シャルレの作品で,これをドラクロワが評して「偉大さと自然さがうまく調和してい
る」と言っている。クロード・ロジェ=マルクスは自著『1
9世紀のオリジナル版画』のなかで,
「この[シャ
ルレの]版画が王政復古下で獲得した人気がリトグラフの人気につながったことは疑いない。その人気の最初
29
の発露がテロール男爵の『ピトレスク・ロマンティック紀行』である」としている。
テロール男爵の作品は
ちょうどロマン派的な版画が生まれた時期に登場した。
「光と陰の陰影に富み,生命感を固定してしまったダ
ヴィッド風の伝統に対立して出てきたのである。リトグラフの隆盛は非常なものだったので,もしもレンブラ
ントが生きていたら,リトグラフに自己の夢を託したろうと言われたほどであった」また同じ頃,出版業者の
シャルル・モットはゲーテの『ファウスト』をドラクロワのリトグラフ挿絵入りで出版して,これを成功させ
ているのである。時代はロマン主義の真っ盛りであったが,ロマン主義はリトグラフィーという力強い複製媒
体によって普及した面がある。
また,リトグラフィーは言うまでもなく非常に精密な描写をもたらすので,考古学的な著述には理想的な表
30
現方法であった。ゲニェールとモンフォーコンによる『フランス王制下の歴史記念物』
を皓歯とするものであ
る。また中世関係のコレクターであったデュゾムラール(1771−1842)は自己の所蔵品を中心に『中世芸術』
(1838−1846)を全5巻で刊行した。彼の所蔵品がクリュニー美術館の基になったことはよく知られている。
そのほか目立つ物だけをあげても,マリエット,ケリュス,ショワズール・グフィエらによる,古代エジプト,
ギリシャ,ローマの記念物についての研究などもある。またこれはすでに17,18世紀から人気のあった旅行記
の類にさし絵という強力な視覚的補助手段を加えて花を添えるために格好の手段であった。たとえば,バルテ
31
レミー師による『西インド諸島,東インド旅行記』
,『世界一周記』
『青年アナカルシス旅行記』
,さらには
ラ・ポルトによる50巻になんなんとする『フランス紀行』集32などがある。もちろん,リトグラフはロマン派
の特色である「地方色」を打ち出すのに最良の手段でもあり,
「ピトレスク」な表現に対する大衆の欲求に非
常によく応えた。この時代には,したがって『ピトレスク雑誌』,『絵入りピトレスクなフランス』,『博物誌の
絵入り辞典』,『名門家系ピトレスク博物館』といった出版物が目白押しだったのである。
《『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』のなかのリトグラフィー》
しかし,リトグラフィーの作品として優れたものをあげると,それは風景画であり,時代の好みを反映して
ピトレスクな風景画である。そうして,テロール男爵の『ピトレスク・ロマンティック紀行』を最高の成果と
することはだれも異論がないだろう。リトグラフィーは60年ほどの命脈を保ったあと,ダゲールらが発明した
写真術にとって代わられる。
このように,リトグラフィーは技術の進歩によっていわば写真に似た簡潔性を手に入れたのだが,それでは
これは写真と同じような意味での複製芸術なのだろうか。ベンヤミンのいう有名な複製芸術論は主として絵画
に対して写真,そして一部には映画を対置することによってあらたな複製芸術の性格を規定しようとしたもの
だが,リトグラフィーをむしろ複製芸術のはしりとしてかんがえるべきではないだろうか。
リトグラフに関しては,新技術の導入時にあるように当初は一般の抵抗もあったらしい。
『ピトレスク・ロ
マンティック紀行』の序文はこう述べている。
リトグラフィーという名前で知られている新技法は趣味人たち全員の称賛を得たわけではない。問題はおそ
らく,発明の悪しき実践にあるのだろう。よく新発明が無知によってねじ曲げられることがあるように。リ
トグラフィーは,鑿を用いる方法よりも,もっと自由で,オリジナル,もっと早いのである。リトグラフィー
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
に用いられる鉛筆は,旅行者の感じたところを自由でオリジナルに,そして素早く定着させるために作られ
33
たように思われる。
この書物である意味で主役をなしているリトグラフィーにはある共通した特徴がある。まず,廃墟,廃墟,
廃墟ばかりである。ついで,自然のなかの山や滝,洞窟,パノラマといった典型的にピトレスクな景観がある
(遙かな山の頂上にはやはり城の廃墟が描かれていることが多い)
。これはフランスの各地に重要な史跡を記
録するものであって,それらは毀れているか,毀れつつある状態であったから当然と言えば当然だが,そうし
た廃墟を描くとき,そこにもちろんかなりな程度でその廃墟を美的な意味で堪能している風情が見られる。単
なる記録ではないのである。また,そうした廃墟画は大きく分けて,二つに分けることが出来る。一つは,廃
墟や教会の外観,または内部を主に描いていて,手前には人間や動物がいるケース。時としてはこうした廃墟
の背後に広い景色が拡がっていて,そこに山が見えたり,海や川が見えたりすることがあるが,主たる対象は
あくまでも建築物である。もうひとつは,広大な風景の中に山があって,その上に城や修道院の廃墟がある場
合。手前にはやはり人や家畜の姿が見える。できれば手前には川などがあって涼しげな趣を伝えてくれると
もっとよい。また逆に高いところからみた広大な風景の先に城の廃墟と海が拡がっていても構わない。このよ
うに説明すれば十分おわかりと思うが,この二つの構図は基本的には一つである。ちょうどズームレンズに
よって対象を近づけ,教会,城など,あるいはその廃墟を画面一杯に拡げて眺めるか,あるいは,ズームを拡
大して遠景を眺めるかの違いに過ぎない。
もうすこし一般化して言うと,『ピトレスク・ロマンティック紀行』の場合は概して,本の性格上寺院とそ
の廃墟が多いが,人工物が必ず描かれている。それは,寺院,城などのほかに,藁葺きの農家,鶏のいる農園
の庭,場合によっては上述したように工場などが入ってくることもあった。そして,必ず手前に人間とそして
犬,山羊のような動物がいるのが常である。これはおそらく当初は廃墟の大きさの比較の基準として,描かれ
たものかもしれないが,それが発展して,現代ののどかに羊飼いをしている人物の後ろで黙って屹立している
廃墟を見せることによって,過ぎ去ってきた時間の長さ,そのもの凄さを示したり,あるいは逆にのどかな現
代のピクニックの男女をしめして,遺跡のもの凄さを中和するという働きをしていることもある。このように
廃墟の傍らに現代の人物を配置するということはピラネージでもターナーでも行っていることであって,この
当時の国際的なピトレスクの一つの約束事のようなものであった。多くの場合,そのように登場する人物たち
はかろうじてその表情がわかる程度のマネキンのような存在である。これはもともとはおそらく歴史画のなか
に歴史上,神話上の人物を配するルールが会ったことを受けつつ,それに対立するような形で,平凡な人物を
配して絵になごみ感を与えるためといわれている。
また,『ピトレスク・ロマンティック紀行』の各章の最後のページでは,文章がページの途中で終わってし
まうので,当然にも下の部分が空白になることが多かったが,ここに文章と連携して,なんらかの挿絵を入れ
た。これは風景のこともあったが,概して何らかの人物像が多かった。中世風に着飾った男女が出てきたり,
あるいは絞め殺されようとする若い娘とか,非常にロマンティックな図柄が多い。つまり特に初期の巻に関し
ては,トロバドール風が多いのである。
つまり『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』の中の図版は実はかなり様式化された描き方を
しているのである。その理由を理解するためには当時のリトグラフィーの作り方に関して若干の知識を必要と
する。リトグラフィー,とくにピトレスクなリトグラフィーは普通3人の人間が関わって作成された。一人目
は,地方に出かけてデッサンを描いてくる人であり,二人目はそれをリトグラフィーに移す人,最後はいうま
でもなくこれを印刷する職人である。一人が二役を兼ねることもあったし,一つの役割しか引き受けないこと
も多かった。ヴィオレ=ル=デュックは『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』に大量のデッサ
ンを提供したが,これはアルバイトの小遣い稼ぎのようなもので,リトグラフィー化にも印刷にも関わってい
ない。彼が提供した図版は名前入りのものを見る限り普通予想されるように教会の精密な図面のようなもので
はなく,もっぱら各ページを連続した装飾模様で飾るヴィニェットで,しかも図柄はまるで漫画である。当時
は旅行がブームだったから,このように地方を旅行して,売れるかどうかは別としてデッサンを持ち帰る者も
多数登場したのである。しかし,テロール男爵に依頼されて,作業メンバとして地方を回った者もいた。
『ピ
トレスク・ロマンティック紀行』のように,膨大な仕事で長時間にわたる仕事の場合,日程が押してくるとま
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第57集(2006)
るで流れ作業のようにして,画家は旅先からデッサンをパリに送り,パリでは待ちかまえていたリトグラ
フィー作家がどんどんそれをリトグラフィーに仕上げていくようなことをしたようである。デッサン画家は,
非常な苦労をして旅を続けることを余儀なくされ,途中で事故にあったり,病気になる者も少なくなかった。
19世紀前半に広く一般に使用されていたイアサント・ラングロワの旅行ガイドブックの序文には,空を見て今
日の天気を予想する方法のほかに,ピストルの撃ち方まで書いてある。
「強盗の白目が見える」至近距離まで
34
引き寄せてから撃つべきである,としてある。
こんな状態での旅行で,しかもノルマがあったらからゆっくり
した物見遊山ではありえない。画家は一定程度のスピードでデッサンを仕上げたら,あわただしく次の場所へ
と移動したのである。そんな状態だったから,画家は自己のデッサンにリトグラフィー担当がパリで勝手に修
正を加えるのを止める手段がなかったし,一般に修正を認めていたようである。その結果,リトグラフィー作
家はある程度は精密な仕事をしたが,デッサンの不分明な細部を勝手に補い,壁にツタをはやし,なんでもな
い時計塔をゴシック風に改善し,背景の糸杉をふやしたりした。リトグラフィーの絵は本来はトポグラフィッ
クな精密な客観的な描写を任務としていたはずなのに,実際はあまり忠実な現実の再現を行っていないことに
なる。というよりも,トポグラフィックな絵というのはいつでもどこでも,現実の忠実な再現などおこなった
ことがない,と行った方が事実に近いように思われるが。トポグラフィックな絵画は,もちろん建築の研究,
改築,あるいは港湾の整備の資料のような目的もあったが,実は観光客が持ち帰る記念の絵はがきのような任
務も大きかった。この場合,買う方は自分の見た物を忠実に再現してくれるのはよいが,できればもっとそれ
を美しく描いてもらったほうがうれしいことになる。またそうしたトポグラフィックな絵画をみて旅への想い
をかき立てられる人たちにしたところで,実際よりももっと魅力的に描いてくれた方が,いっそう気持ちが奮
い立つというものである。したがって,トポグラフィックな絵画は,自己の使命をまじめに考えれば考えるほ
ど,リアリズムから離れ,トポグラフィックから逸脱しようとする欲求を内蔵していることになる。
こうした専門のリトグラフィー刷り師のなかでいちばん有名だったのはルイ=ジュリアン・ジャコテで,彼
は1824年から50年にかけてほとんど毎年のように,自己の手になるリトグラフィー集『アルバム』を刊行して
いる。彼の世話になったデッサン家は数知れず,たとえばグザヴィエ・ルプランスはそのリヨン風景集を彼に
負っているし,またシャピュイ,ユエらも彼に頼っている。彼の腕力は留まるところを知らず,パリから一歩
も離れずに,キューバの風景(ソーキンのデッサン)
,さらにはカルコヴィー,モスクワ,ナイアガラの滝な
ども平然とリトグラフィーにしたのである。こうなってくると,各地独特の地方色が弱まってしまうのは当然
だろう。
また,リトグラフィー刷り師はすでに述べたように舞台前景に子供や犬,場合によってはいかにもロマン
ティックな中世風衣装を着た人物を勝手に配することをためらわなかった。
『ピトレスク・ロマンティック紀
行』のリトグラフィーは作家によって異なった味があるのは当然としても,なにか全巻に共通する雰囲気があ
る理由のひとつはこうした人物たちの存在のせいかもしれない。実はこのことには歴史があって,18世紀にす
でに,ピラネージ,その影響を受けたユベール・ロベールやヴェルネは,風景画に人物像を入れるのを常とし
ていた。また『ピトレスク・ロマンティック紀行』の初期にはエヴァリスト・フラゴナールとペルノがゴシッ
ク風の背景を前にして中世風に着飾った男女が登場してぞっとするようなシーンやお涙頂戴の少女漫画風の
シーンを展開することもあった。しかし,リトグラフィーが産業化してくると,あらゆる時代,あらゆる地方,
あらゆる階級の男女を描き分けて,リトグラフィーに描き入れることは難しい仕事であるという認識が広まっ
て,その結果,専門家が登場してデッサン画家の描いていない人物や犬を作品の中に分業的に書き入れること
になったのである。その中でいちばん有名なのはヴィクトル・アダンで彼もまたパリから一歩も離れずに,世
界中の人物像,トルコ人から中国人,黒人,さらには優美な宮廷女から荒々しい船乗りまで描き分けたのであ
る。
リトグラフィー自体も時代の流れと共に進歩して,当初,エヴァリスト・フラゴナールやヴィルヌーヴが主
導権を取っていた頃は,技術的にまだ未熟で,全体の調子が単調な灰色を主調としており,メリハリがなく,
全体に粒子が粗かった。
リトグラフの技法はその後急速に進歩して,いわば《カマユー技法》とでも言うべき重ね印刷に進歩した。
カマユーとは同色で濃淡のある2層で出来ている宝石なので,この呼称をもちいている。第一の層は黒いイン
クで刷って絵の輪郭を描き出し,第2の層はビスタ(煤とゴムをまぜた暗褐色の絵の具)を用いた淡彩で刷っ
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
て中間のトーンを出した。第3の色調,つまり白は紙自体が持っている本来の色を利用する。カマユー刷りの
リトグラフは明るい白とくっきりとした黒の濃淡をはっきり出すことが出来るので,淡色の紙の上に白い白墨
と黒い鉛筆を用いて描いたような印象を与えることが出来た。この手法は1818年にエンゲルマンが発明し,そ
の後『ピトレスク・ロマンティック紀行』に参加した多くのリトグラフィー作家が採用したのでその人気も
あって,普及した。しかし,この技法を使うと,白がはっきり出すぎること,淡彩風の黄色も必ずしも心地よ
い色調になるとは限らなかった。
こうした色調はリトグラフィーでは冷たい白っぽい色調しか表現できないと信じていた頃の産物だが,その
後ボニントンがリトグラフィーでも熱く黄金色の色調を表現できることを示してからは急速に廃れた。しか
し,この技法は35年頃に再度復活して40年過ぎには,隆盛を迎えたと言われている。また,この流れを汲む多
35
色のリトグラフィー(クロマトリトグラフィー)も37年にエンゲルマンが特許を取り,50年代に流行した。
《画家たち》
この図版集に参加した画家たちはすでにみたように,当時のそうそうたる画家たちが,こぞって参加したの
である。
エヴァリスト・フラゴナール(オノレ・フラゴナールの息子)は『古のフランス,ピトレスク・ロマンティッ
ク紀行』のサンピエール教会,サンセピュルク教会のチャペル,サンヴァンドリーユの大教会の廃墟など,数
え切れないほどの作品を描いていて,その貢献度は計り知れない。彼は,もともと父と同じようにいかにも18
世紀的な優美でやさしい絵を描いていた人だが,時代に流れに勝てず,その後作風を急展開させてゴシック的
な作品や,トルバドール風に転向した人である。トロバドール風というのは当時もてはやされたひとつのスタ
イルで,中世風に着飾った人物が登場してロマンティックなシーンを展開することを特徴とする。この『ピト
レスク・ロマンティック紀行』のなかでも,自己の特徴をいかんなく発揮しており,風景の中のややぼんやり
とした葉叢の描き方はいかにもフラゴナールであり,それとすぐ見分けが付く。また,時としてトルバドール
風がはっきりでることもある。彼はその後の巻でもテロール男爵の企図に協力していて,トロバドール風はフ
ランシュ・コンテの巻ではなぜか一層目立つようになる。
ついで登場するのは海景画で有名なジョゼフ・ヴェルネの息子オラースで,彼はジュミエージュの教会,
フェカンの風景,水夫たちの十字架,アルク城の戦闘の様子など,ここでも海景画を中心に描いている。
しかし,『ピトレスク・ロマンティック紀行』に参加したリトグラフィー作者のうち,いちばん作品で有名
になったのはボニントンである。彼は,ノルマンディーの2巻目から参加し始めノルマンディーの巻には4枚
の図版とヴィニェット,ならびにフランシュ・コンテの巻に9枚の図版を提供しているのみである。彼の夭折
がこれ以上の協力を阻んだ。
彼の灰色とも真珠色とも判然としない光に満ちた色彩は特別なもので,リトグラフの持つ表現の可能性を非
常に拡張しており,色数を別とすれば水彩画に匹敵する表現力であった。黒は黒で真っ黒につぶれることがな
く,いつもニュアンスを残し,もっともぼやけた水墨画に近いところまで行くのであった。彼の作品の持つ独
特の中間色の色合い,また独特の急角度をもった遠近法,あるいは全体の空気のように軽やかな調子などきわ
めて魅力にあふれるものであり,もともとは英国調の教育を受けたものの,フランス育ちなので否応もなくフ
ランス的なエスプリを感じさせる。なお,彼は廃墟の絵は全く描いておらず,ゴシック優先のピトレスクの世
界から次の時代への移行を進めようとしていた矢先の死であった。しかし,その中でも有名なのは,ノルマン
ディー編に表れる『ルアンの大時計通り』と『エヴルーの大時計のある通り』である。
また,オーヴェルニュの巻になって二人の画家が参加する。彼らは提供した図版の枚数もごくわずかであっ
て,ウジェーヌ・イザベイは1830年から32年にかけて17枚の図版を提供したが,ポール・ユエは1831年に図版
を2枚提供したのみであるが,二人ともリトグラフィーの歴史において重要な貢献をしたのであった。他の画
家たちがどちらかというと,リトグラフィーのデッサン画家として記憶されているのに対して,この二人は普
通「小ロマン派」と呼ばれる油絵の画家として記憶されることが多い。二人とも,定着しかけていたリトグラ
フィーの作法にあまり従わず,ドラマチックな効果を出すために光と闇の強い対比を強調し,また力強く,不
規則な hatching の使用によって自由な色調差を出したり(
『紀行』の図版146),またへらの使用によって,絵
の具の厚塗りに似た中間色的な色調を出したりしている(
『紀行』の図版148)。こうした手法により,二人の
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東 京 学 芸 大 学 紀 要
人文社会科学系Ⅱ
第57集(2006)
やり方は画面に動きと活気をもたらすことになった。とりわけイザベイは,30年代,40年代におけるリトグラ
フィーの革新者として記憶されることになるだろう。特に彼の『ティエールのサンジャン教会』(図版129bis)
は空の色調と山,大地,教会の色調がうまく調和しており,トポグラフィックな情報を提供するというより
は,流れるような線によってむしろある種の印象を表現しようとすることに力点がおかれており,芸術絵画と
して成立していることがありありとわかる。この作品は31年のサロンで展示された。
後になって,サバチエと多くの英国人画家が参加するようになって始めて,空や遠方の靄がかった調子がで
るようになって,すばらしい効果をあげるようになった。ついで刷毛に塗った油の単独使用,あるいは鉛筆と
の併用が美しい効果をだすようになった。この技法を発見したのはハーディングである。ドフィネ地方の巻の
刊行の頃にこうした技法が全て揃い,銅版やその他の版画よりもよいものができるようになった。ハーディン
グは英国人でボニントンの後を襲うようにして登場してくる。彼は鉛筆を用いる方法で成功した後,今度はリ
トグラフィー用の油をしみこませた筆を使う方法を発明し,そうした手法の第1人者となった。また,もうひ
とりの英国人画家ルイ・ハーグも80枚以上のリトグラフィー作品を,ほとんど自分でデッサンも描いたうえで
提供している。
このように技術の発展が急速だったので,画家たちの中にはこうした発展について行けない者も出るように
なった。また,すでに述べたように,技術的な安直さ故にリトグラフィーがはやると,急速に質の悪いものが
大量に出版されることとなり,リトグラフィーのなかでも良質で,手のかかる作品の制作を駆逐したのであ
る。またリトグラフィーはその構造上原盤が堅固でなく,あまり大量の部数をすることが出来ないことも,災
いした。
また『ピトレスク・ロマンティック紀行』も後半になってから登場したウジェーヌ・シセリ(1813−1890)
はオペラ座の有名な装飾家シセリの息子で,また母親は当時の高名なミニチュア画家ジャン=バティスト・イ
ザベイの娘であったから,先述のウジェーヌ・イザベイの甥に当たる。彼は,画家がもたらしたデッサンのリ
トグラフィー化で力を発揮していたが,36年頃,ピカルディーの巻から『ピトレスク・ロマンティック紀行』
に登場し,『ブルターニュ』で評価を固めさせた。その後,栄光の絶頂にいたあと徐々に腕をさげた。しかし
最後のノルマンディーの南部編でもモン=サン=ミシェルを担当して,相当の力を見せている。
ドーザは1825年頃に登場した。当初はあまりうまいとは言いかねる出来だったが次第に力をつけ,一般の家
屋,教会などなんでもリトグラフィーにすることができた。彼は最後までテロールに忠実に従い,どんな題材
でもこなしたから,テロールにとっては非常にありがたい存在であった。概して彼の作品は,しかし線を引い
て描いただけといった物が多く,詩的な雰囲気を欠いている。
この書物の出版は,旅行と出版の世界に大きな影響を与えた。というか,
『ピトレスク・ロマンティック紀
行』がのっていたある大きな流れがとめどもなく拡がり,強くなっていくのが確認できるのである。特に大陸
へと押し出してきたイギリス勢は活発で,コーニーはテロール男爵の本の2年後には,ルアンのいくつもの通
りを描いた版画集を刊行するし,またボニングトンとフィールディング兄弟が協力して『ノルマンディー海岸
と港町へのハイキング』(1823−25)を出版した。またフランスではこの時代の海洋画家の第1人者であった
ルイ・ガルヌレはノルマンディー海岸を旅行して『フランス海岸への海からのピトレスク紀行』
(1823年)を
著している。また,この『ピトレスク・ロマンティック紀行』に協力してリトグラフィーの作成に参加した画
家たちはほとんど自分独自のピトレスクなリトグラフィー作品集をダニューブ川流域,イタリア,オリエン
ト,フランス各地を対象として出している。たとえば,シャピュイは1
823年以降,『フランスのカテドラル』
を出版し,しばらく後には『ピトレスクな中世』を出版している。
『ピトレスク・ロマンティック紀行』の成功を見て,様々な出版社がこうした旅行物,つまりピトレスクな
絵入り版画集や,雑誌を発売するようになった。パリでいくつかの専門の出版社が生まれたばかりでもなく,
地方でもリヨン,ナント,ルアン,レンヌなど専門の出版社が生まれたのである。こうした出版社は単にリト
グラフィーの大量頒布に寄与したというばかりでなく,リトグラフィーのスタイルにも工夫を加えてある種の
型を作り出したり,その普及に貢献したのである。たとえばパリの出版者ジオーは,素早く描かれたクロッ
キーを好みイザベイ,ウジェーヌ・ラミ,デカンらを動員して,そうしたデッサンを地方から大量に送らせ
た。リトグラフィー師の裁量の余地を広く取って,いつも新奇を好む大衆を常に刺激するようなスタイル,
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
テーマを考えたのである。ジオーのやり方の影響を受けた出版者は何軒もあり,そうしたスタイルを広げて遠
くロンドン,ニューヨークにまでそうしたスタイルの作品を売りさばいた。このように,
『ピトレスク・ロマ
ンティック紀行』自体はその発行部数などたかが知れたものだったが,その成功が他の出版物の発行を刺激し
たことによって,計り知れないほどの影響を与えたのである。
スタンダールはその『ある旅行者の手記』でしきりに「どんなに質の悪い物でも構わないから版画をご覧い
ただきたい」と書いているが,かれは語っている史跡の美しさを読者にわからせるには,百万言よりも図版の
方が有利だと考えていたのである。また後年になるとドラクロワは「旅行中のクロッキーのほうが,旅行記に
まさる」と書いている。ここにおいて視覚の優位が自覚されているのである。つまり18世紀には,言葉に従属
するように登場してきた視覚的な要素が,はっきりと自立をしているのである。そういう意味で,視覚の自立
を画したこの『ピトレスク・ロマンティック紀行』のもつ意味は大きい。
しかし,このようにフランスのピトレスクな旅が大衆化してくるに従って,さまざまな変化が起きる。これ
はつまりは政治的にはナショナリスムの動きであり,また文学的にはロマンティスム,そうして地理的にはイ
タリアを離れて北方を志向する動きである。その結果として,イタリア人気は地に落ち,リトグラフィーでイ
タリアを描いた物は非常に少ないか,年長のすでに頭が固くなった作家たちの作品が多い。いうまでもなく,
イタリアはヴェネツィアを中心として19世紀には人気を復活するが,それは古典古代を彷彿とさせる土地とし
てではなく,あくまでもピトレスクな土地としてのことである。
こうした傾向は単にリトグラフィーだけの話ではなく,美学全体,文化全体の好みの問題としてそうなって
いくのである。たとえば,バルザックは『30歳の女』のなかでフランス人がフランスに対して抱く軽蔑の念に
ついて,遺憾の念を示している。
わが哀れな金持ちたちは美しきフランスを嫌悪するばかりか,かくも醜くなってしまった国イタリアの風景
を大急ぎで眺める権利を買い取るために大枚をはたくのである。
また,ピトレスク派の画家ポール・ユエもまた同様の指摘を行っている。
ずいぶん遠くまでモチーフを探しに行く人たちがいるけれど,パリとその近郊よりも美しいところはないん
36
だ。
また,このようなリトグラフィーの大量印刷の性格上,あまりに大量に情報が流布すると飽きられるという
マスコミ的な特徴もすでに現れており,スイスは人気を失った。したがってこの時代の作家たちはフランス国
内の未踏の地を行くか,海外,英国,アメリカ,ギリシャ等を目指した。この動きは,もう少したつと植民地
としたアルジェリア等への関心へと引き継がれていくことは言うまでもない。
5,史跡の保存
《史跡保存》
このようにして,リトグラフィーの普及をうけて『ピトレスク・ロマンティック紀行』からはじまるピトレ
スクをめぐる新たな流れは,広く深くその影響を広げていったが,しかし30年代,40年代くらいになると,当
初の衝撃力を失っていくことは避けられないことがあった。一つには廃墟に対する科学的な研究と,そして修
復活動が本格化した,ということがある。ピトレスクな美学の信奉者なら,ただ廃墟をうっとりと眺めて,そ
れを朽ちるままに任せても良いだろうが,これがナショナリスト的な復興運度に結びついたり,あるいは文化
財として保存すべき対象として認知されるようになると話は違ってくる。そうした建築物の歴史を科学的に研
究し,また,崩壊を止め,再建することが必要になってくる。
貴族と僧侶が革命によって追放された後,彼らが押さえていた歴史的な城,寺院などが荒廃に任せられたこ
とに対する危惧の念はすでに革命直後から存在していたのだが,そうした活動は個人のレベル,あるいは地方
自治体のレベルで,行われていた。すでに触れたようにアレクサンドル・ド・ラボルドは『時代別フランスの
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史跡』(全2巻)
を20年以上かけて刊行するような活動がすでに行われていたが,そうした活動のなかでいち
ばんよく知られているのは,アルシス・ド・コモン(1
802−1873)の活動である。彼は1823年に《ノルマン
ディー古美術愛好家協会》を設置した後,『ノルマンディーを中心とした中世建築試論』を発表し,カンで教
員をしながら3
0年には『史跡による古代研究』を刊行して,フランス西部の科学的な文化研究の成果を示し
た。しかし,全体としてはまだ研究の条件も未整備で,たとえばゴシック建築の各部分の名称さえ,研究者に
よってまちまちであったので,活字だけの研究書を読んで理解するには大いなる困難が存在した。そのため
に,スタンダールはこう書いている。
どのような用語を使ってゴシック建築について語ったらよいかわからない。それは,コモン氏もそれ以外の
人も各人が勝手に用語を採用しているからである。このことについて,フランス史協会が本文に挿絵入りで
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100ページほどの小冊子を提供してくれることを望む。
またメリメも同じようなことを書いている。「中世建築に関してきまった用語がまだ存在しない。それで目
に映る対象を表現するのに苦労が大きいのだ」こうした世論の要求を受けて,ポワティエ,トゥール,ランス
などで同様の考古学協会が発足したばかりでなく,研究者向けの出版物が相次いだ。
コモンは研究活動を精力的に続け,34年には《フランス考古学会》を創設し,その学会が開く学会活動,機
関誌『史跡雑誌』によってフランス中世に関する知識を普及させていった。彼はその研究をほぼノルマン
ディーに限定していたが,その影響はノルマンディーを超えて広く及んだ。コモンは1837年に『ゴシック建築
略史』を出版し,これについでバールが『中世における二大流派に関する史跡研究者提要』を刊行,また1840
年にはポップとネローによる『ゴシック建築の3つの時代』が刊行された。また,41年には,ブラセ師による
『キリスト教建築』が出版され,8000部という驚異的な売り上げを記録したのである。
コモンの著作のなかでは『カルヴァドス地方の史跡統計』
(1846−67)さらに『考古学基礎』がもっとも有
名な出版物である。コモンの名はヴィオレ=ル=デュックの『事典』の序文に偉大な先駆者として引用される
ことになるだろう。復古王政の中心にいた人たちも自己の権威の後ろ盾になる中世文化復興に大いに興味を
もっていたことはすでに述べた。
《ヴィクトル・ユゴー》
しかし,そうした動きをもっとも早い段階で体現し,しかも一般にわかりやすい形で史跡破壊に警告を発
し,史跡保存へと世論の動きを引っ張ったのは,ヴィクトル・ユゴーである。1825年,当時23歳のユゴーはノ
ディエ夫妻らと夏にスイス旅行をして帰京すると,
「フランス史跡の破壊について」という論文を発表し,い
かに野蛮な破壊が国の遺産を失わせているか,警告を発している。その論文の冒頭第1行目で,5年前から刊
行を開始した『ピトレスク・ロマンティック紀行』を引きあいに出すことから始めており,ユゴーのパンフ
レットが,ノディエらの仕事とタイアップして行われていることは,明らかである。
もし事態がこのような調子で進むなら,フランスには『ピトレスク・ロマンティック紀行』以外の史跡はな
くなってしまうだろう。この『ピトレスク・ロマンティック紀行』では,テロール氏の絵画とノディエ氏の
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文筆が,優雅に,想像力と詩情をもって競作している。
このままいけばフランスの史跡はことごとく破壊されて,そうした史跡を記録した『ピトレスク・ロマン
ティック紀行』しか残らないと言いたいのであろう。そのあとユゴーは,彼の知る限りの,あるいは情報を集
めた限りのフランス国内の史跡破壊状況を列挙して,その酷さを告発していく。そのなかでも,われわれの注
目を引くのは,ジュミエージュとサンヴァンドリーユの廃墟に対する言及である。この当時,このセーヌの河
岸に位置する二つの僧院の廃墟の破壊がパリの知識人の間で,問題になっていたことは想像に難くない。
聞くところによれば,かのすばらしきジュミエージュの廃墟で,英国人は1
00フランで何でも好きなものを
包んでもらう権利を買えるのだという。このようにエルギン卿の冒涜行為がわが国で行われているのだ。し
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石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
かも,そこからわれわれは利益を得ているのだ。トルコ人はギリシャの遺跡を売り飛ばしただけであった
が,われわれはもっとご立派なことをしている。自分たちの遺跡を売り飛ばしているのだから。またさらに
人の言うところでは,かの美しきサンヴァンドリーユにあっては,無知で強欲な所有者某が一品一品を売り
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さばいているという。彼は歴史記念碑をただの石材としか考えていないのである。
このような史跡破壊に対する彼の危機感は時代の雰囲気の中にすでに醸成されていたものである。このような
時代の雰囲気を背景として,3
1年には同じヴィクトル・ユゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』が刊行され
て,カテドラルを主人公とするこの大作が大成功を博すのである。彼はこの成功を背景として,32年にも史跡
破壊に対する警告の文書を再度発する(「破壊者たちへの戦闘宣言」)
しかしながらこうした史跡保存のへの動きは,こうしたピトレスクの美学と運動の発展の結果ではあるが,
ピトレスクとはぶつかる面ももっている。たとえば,ピトレスク美学からすれば廃墟に蔦が這っているのはと
てもよい情景ではあるが,蔦はさらに史跡を破壊するので史跡保存の立場からは,歓迎できないことになる。
実際,コモンはパリのクリュニーのローマ遺跡に蔦が所狭しと生えているのが放置されているのを見て,これ
を嘆いたのである。
《史跡委員会》
しかし,史跡保存へと向けた時代の雰囲気を受けて,7月王政になると,もっと公的なレベルでのそうした
歴史記念物の保全が課題になってきた。そのことを中心になって担ったのは歴史学者のギゾーであった。彼
は,ルイ=フィリップの王制下で,内務大臣,ついで文部大臣として,最後は首相として,事実上国政の中心
になって政治を司った人物であったが,もともとはソルボンヌのフランス近代史の教授であった。1831年,ギ
ゾーの内相時代に国の施策として重要な歴史記念物の維持,修理に補助金を出すようにした。それというの
も,中世建築物の破壊とそれに反対する運動は復古王政の時期には,往々にしてアンシャン・レジームを復活
させようとする貴族たちと,それに反対するブルジョワたちとの闘争の口実に使われがちであったから,むし
ろこれを逆手にとって両者の和解を進め,ナポレオンと同じように国民的和解の象徴として,国の史跡の整備
を行おうとしたのである。こうした7月王政の「国民和解」の姿勢は本格的なものであって,ルイ=フィリッ
プはそのためにはルイ14世の居城であったヴェルサイユを《歴史博物館》とする計画を持っていた。ヴェルサ
イユの部屋から部屋へと,中世の王たち,ルネッサンスの王妃たち,ルイ14世から初めて,大革命,革命派の
将軍たちの活躍,ナポレオンに至るまで,つまりもっとも反動的な王族からもっとも革命的な市民に至るまで
全部が全部フランスという国の栄光のために戦った英雄として,そこに同列に並べられるわけである。ルイ=
フィリップはこれとまったく同じ趣旨に基づいてルーヴルの美術館を改装することを考えており,シャルル
マーニュからエジプト征服まで,常に美術の発展に寄与するフランスのイメージを表す野心を持っていた。
こうした史跡の保存と管理ための専任のポストが作られた。その《視学官》の役はフランス中を回って各地
の史跡の状態を見回り,必要ならば修理の勧告を行うことであった。最初に任命されたのはルドヴィック・
ヴィテで,彼はノルマンディーの史跡研究の権威オーギュスト・ル・プレヴォーの弟子であった。実はヴィテ
はヴィオレ=ル=デュックの叔父ドゥレクルーズが主催していた一種の知的サロンの常連だったのである。こ
こで《史跡委員会》とヴィオレ=ル=デュックのつながりがはっきり出来ることになる。彼は修復が必要な建
物のリストを作るだけで満足しないで,各建物の現状の記述を始めたのである。また,彼は史跡と中世研究の
発展を願って,パリに史跡のコピーを設置する博物館の建設(現在のフランス史跡博物館 Monuments français
である)を提唱したし,美術学校のなかに中世考古学の講座を設置させた。しかし,彼は34年には辞表を提出
する。
その後を襲ったのが作家のメリメである。周知の通り彼は『カルメン』で有名な小説家だが,実人生ではこ
の史跡保存の視学官としてより多くの時間を費やしたはずである。彼は1834年から60年までの長期に亘ってこ
の職にあり,非常な力を振るったのだ。ヴィオレ=ル=デュックが世に出ることが出来たのは,主として彼の
おかげである。彼にはそれまでフランスの史跡の保存のために戦ってきた人たちと,いささか異なることが
あった。ユゴー,モンタランベール,テロール男爵をはじめとして歴史記念物のために奮闘してきた人たちは
例外なく熱心なカトリックであったのに対して,彼ははっきりした無神論者であって,史跡の保存は宗教的な
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義務心から発したものではなかったのである。言いかえると,彼は純粋に史跡を史跡として保存したいがため
にその職務を務めたのである。彼は皮肉を込めてこう言っている。
「無分別な市当局や教会を飾り立てたがる
司祭の不器用な情熱から,無信仰な反教権論者が教会をこれほどたくさん救ったことはないでしょう」
実際,この時期になると史跡保存の視学官は,教会を石切場と考えるような人物から守るばかりでなく,な
にも考えずに適当に教会を修復しようとする司祭たちと戦うことが大きな任務になってきた。メリメは1834年
の7月2日にアルシス・ド・コモンに書いている。
なんと多くの敵たちがわが古き史跡を破壊しようと集まっていることでしょう。アングレームの教会は,
プロテスタントもやって来ましたし,サンキュロットも来ました。しかしほかにも敵がいて,おそらく彼ら
の方が手強いのです。私が言いたいのはへたくそな修繕屋たちのことでして,連中の修復は破壊者の鑿より
ももっと悪質な痕跡を残してしまうのです。
こうした史跡の保全活動を補助金によってコントロールしようとしたので,当然の結果としてさまざまな施
設から,補助金支給への申請があったから,修復の重要度に序列を付ける必要が生じた。そのため1837年にな
ると,内相のモンタリヴェ侯爵はそのための組織を作って,そこに序列付けを委託することにした。これがフ
ランスの史跡の修復に大きな貢献をする《史跡委員会》Commission des monuments historiques の始まりである。
この委員会はすでに存在していた《民間建築全国評議会》Conseil national des bâtiments civils と協力して,任務
にあたることになった。両方の委員会を主催していたのは政治家のヴァトゥーで,彼のラブレー風の冗談は有
名だった。またここに参加していた人物に,ギゾーの寵愛の篤かったルドヴィック・ヴィテがいた。彼は同じ
くメンバにはいった作家のメリメと同じく,史跡研究を科学として行うとする傾向の急先鋒であった。
《史跡
委員会》の議長はすぐにルドヴィック・ヴィテに代わった。このように30年代から国策として中世研究と中世
研究が始まり,こうした動きと平行して歴史に対する科学的な研究がはじまり,オーギュタン・ティエリやミ
シュレらのフランス史の科学的研究が始まったことはいうまでもない。しかしながら,オーギュスタン・ティ
エリの著述は今日から見ると,歴史と言うよりは読み物に近く,その記述,洞察の深さでむしろ優れた文学作
品と呼びたいようなしろものである。
実際に,この時代にテロールのよるこの本の刊行とほぼ並行して,フランス各地の歴史記念物の修復が始ま
るのである。たとえばこれはノルマンディーではなく,ラングドックの例だが,ドーザの腕をしてもその荒廃
ぶりを覆い隠せなかったバニョルの温泉場(ロゼーヌ地方)は1838年から修復が始まるし,東ピレネーのサル
スの城塞も,1837年に修復が開始される。南仏の古拙サン=ジルは1842−68年にわたって建築家ケステルとル
ヴォリの手が入る。しかし,こうした修復活動について述べるのならば,ヴィオレ=ル=デュックについて触
れないわけにはいかない。
《ヴィオレ=ル=デュック》
歴史記念物の研究,修復にもっとも功績のあった第一人者はヴィオレ=ル=デュックであって,この人物の
ことを抜きには,こうした修復の歴史を語ることはできない。彼は自己の勉強をデッサンから始めたことでわ
かるように,芸術的なセンスにあふれた才能の持ち主で,世が世ならピトレスクの画家になったかもしれない
人物であった。しかし,彼は時代の流れに従って研究家・修復家になったのである。
ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックは1814年の1月27日にパリで生まれた。
彼は幼時からデッサンをよくし,順調にいけば美術学校にいって建築士になったところだが,彼は美術学校
の伝統的なアカデミックな教育を嫌って独学の道を選んだのである。アカデミックな教育においては,ただ設
計をするだけで,建築の現場で必要な知識はなにも身に付かないというのが彼の批判点であった。彼はそこで
父の友人であるジャン・ユベその他のアトリエに入り,見習いとして建築の実際を学んだ。また,この時代か
ら盛んに旅行をすることを始めて,フランスの各地の中世建築の実態をつぶさに見ることになる。
1回目は叔父のドゥレクルーズとオーヴェルニュ,リヨンを通って地中海への旅(1831年7月21日―10月20
日)
2回目。1832年9月20日―10月25日,ノルマンディーへの旅。ルアンールアーヴルーオンフルールーカンー
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石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
シェルブールーバイユー。
初日,彼はパリからルアンまでの150キロ強を14時間の馬車の旅で踏破している。平均時速10キロ強である。
3回目。友人の音楽家エミール・ミエとの旅。1833年5月4日―9月15日。
この時はロワールの城をめぐり,その後大西洋岸に出てピレネー山系,そうしてラングドックをまわった。
これだけの旅にこれだけ時間を掛けているのは,各地でスケッチを行いながら旅行したからである。しかし,
彼は非常なスピードでスケッチを行うことできて,時によっては日に5枚ものスケッチを残したという。
4回目,(1834年9月2日―10日)新婚の妻とその兄弟アドルフを伴ったノルマンディーへの旅。
ディエップーアルクール・アーヴルーオンフルールーカン
5回目(1
835年5月15日―6月13日)の旅もノルマンディーで友人のレオン・ゴシュレルと共に,シャルト
ルーリジューーカンーアヴランシューモン・サン=ミシェルークタンス。
このように最初の5回の旅行のうち3回はノルマンディーにでかけている。つまり彼も当時のピトレスクの
風潮にそのまま乗っているのである。彼がノルマンディーにあしげくかよった30年代とはどういう時代かとい
うと,すでにゴシックの教会に対する驚きは一般化し,もっとその建築を詳細に見てみたいという欲求が出て
きた時代である。リトグラフィーの発達のおかげで,ひとびとは教会の内部の構造まで,よく見ることが出来
た。
6回目,イタリアへの旅(1836年3月12日―37年9月)
ヴィオレ=ル=デュックは父の仕事のせいで7月王政の王の近くにおり,水彩を描いて王から数千フランを
下賜されたことがあった。これがもとになって,彼はイタリア旅行ができた,と言っている。この時の旅行は
1年半にも及ぶ長いものであったが,当時のイタリア旅行の定番通りに彼はまずナポリ・シチリアへとまわ
り,ついでローマへ赴いて,ローマ賞に輝く秀才の留学生たちと交流をした。つまり,彼なりのグランド・ツ
アーである。しかし彼がいちばん熱狂したのは,最後に訪れたヴェネツィアであった。
(手紙)
後述するように,20年代後半からフランスでも始まったヴェネツィアのブームは30年代になって本格化する
のである。彼はこの旅行から450枚以上のデッサン,水彩画,クロッキーなどを持ち帰ることができた。
どうも,この時代になるとローマよりもヴェネツィアに熱狂するひとつの精神類型を想定せざるを得ない。
それは,ひとことで言えばロマンティックな性格と言うことになるだろうが,ヴィオレ=ル=デュックにとっ
てはさらに,ヴェネツィアはギリシャ建築がローマを飛び越していきなりゴシックに結びついた都市,ひとこ
とで言えばゴシックの都市なのである。それだからこそ彼は殊の外,ゴシックの大宮殿パラッツォ・ドッカー
レを好んだのである。このように彼は時代の精神をよく吸収して,きわめてロマンティックな青春を送った人
物であった。ギリシャは18世紀からローマとは別に本格的な研究が始まっており41,そうした成果を踏まえて,
また当時の「ピトレスクなヴェネツィア」の隆盛を踏まえて,彼は独自な建築史観を打ち立てたのである。
帰国後,『ピトレスク・ロマンティック紀行』のために,フランス国内でのデッサンをテロール男爵に売却
した。1837年から45年にかけて249枚を売却している。テロール男爵はこれを元にしてリトグラフィーを作り,
彼の『ピトレスク・ロマンティック紀行』のなかの挿絵,しかしリトグラフィー化は別のリトグラフィー師が
行ったので,彼の名前が入っていないものもあるようである。
彼の叔父で子供の頃から彼を可愛がっていたドゥレクルーズは自宅にサロンもどきを開いており,そこに
ヴィッテやメリメが出入りしていた引きで,彼は修復の世界に入っていったのである。つまりこれまでのよう
にゴシックの建築をロマンティックな目で嘆賞する態度から,科学的で,労働を尊重し,自由と非宗教性を尊
重する目へと移ったのである。
これはよく言われるように19世紀は科学の時代であって,当時の総合的な科学であった博物学は,実証主義
という形をとってテーヌやオーギュスト・コントの哲学ばかりでなく,文学の世界でもバルザックやゾラの写
実主義,自然主義に強い影響を与えていた。当時の最強の批評家であるサント=ブーヴは「文芸批評とは文学
における博物学である」とまで言っている。こうした風潮の中でヴィオレ=ル=デュックは特にキュヴィエの
研究に深い関心を寄せていた。なぜならキュヴィエは昔の動物の化石から,動物全体の骨の復元をすることが
できたからである。ヴィオレ=ル=デュックはその有名な『建築事典』のなかでこう書いている。
「キュヴィエ
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は,その比較解剖学の仕事によって人類が支配する以前の世界の歴史を同時代人の目の前に一挙に明らかにし
た。彼に続いて,想像力がこうした新たに開かれた道を熱烈にたどった。彼の後,文献学者がヨーロッパの諸
言語の起源が一つであることを発見した。人類学者が諸民族とその風習のほうへと研究を発展させた。最後に
42
考古学者がやってきた,,,」
彼は自分を広い意味での考古学者と考えていた。
しかしながら,キュヴィエは骨の復元を想像しただけにとどまって,現存する動物の改善まではもちろん試
みなかったが,ヴィオレ=ル=デュックはある意味でそれに近いところまでしたのである。ヴィオレ=ル=デュッ
クの最初の伝記を書いたのは,弟子のポール・グーだが(彼はモン=サン=ミシェルの修復に腕を振るった)
,
彼が書いているところによれば,ヴィオレ=ル=デュックの「いくつかの修復は独自の創作である」ヴィオレ
=ル=デュックは修復中の建築物に関して情報が足りない場合や,またそれにオリジナリティが足りないと見
なした場合には,それにオリジナリティを付け加えることをためらわなかったのである。
ヴィオレ=ル=デュックは当時のゴシック熱に便乗し,教会を勝手に修復する司祭らの横暴に抵抗して,あ
る程度科学的な修復を行ったことで評価されるが,時としてかなりはげしい逸脱があったのも事実だ。また,
彼が手がけた大きな修復,ヴェズレーのロマネスク寺院,カルカッソンヌ,ピエールフォンの城などを訪れて
みると,なにかつくりものの印象,あえていえばディズニーランドの城のようなキッチュな印象を覚えること
も事実であろう。
このようになったのは,当時の中世建築に関する研究が現在から見れば十分でなかったこともあるが,それ
だけでなく,彼はある種の使命感があってそうした大胆な修復を実行したところもある。
ヴィオレ=ル=デュックは意外にもピラネージと比較できる人物である。二人ともデッサン家であり,古代
の遺跡を前にして,当時興隆しつつあったナショナリズムに呼応して,その遺跡に隠れている国民の熱情を掘
り起こそうとしたのである。ピラネージはすでに消費尽くされていた古典主義の牙城であるローマにあった
ヴェネツィア人だが,彼は衰弱したローマの下に埋まっている廃墟をローマ文化のさらに前身であるエトルリ
ア文化の壮大なエネルギーのたまものと考えたのである。彼の版画にこもっているエネルギーは,そうした埋
もれた古代が持っていたはずの精力への思いの表れである。したがって,彼のヴェドゥータと呼ばれる古代の
復元図も非常に力のこもったものになっている。ある時代への復帰への思いである。ヴィオレ=ル=デュック
は同じく,ヨーロッパの中世のゴシックにギリシャから引き継がれた理想の文化を見た。だから,彼はこの埋
もれてしまった文化を復元しようとしたのである。彼はコント流の実証主義が始まる時代に生きた建築家で
あったし,また時代の要請にのって復元の仕事がまわってきたから,ピラネージのように想像図を書くだけで
はすまさずに,彼なりの理念に基づいて実際に修復をおこなっただけの違いである。しかし,これはかなり大
きな違いでもあるだろう。
《ピエールフォンの修復》
このようにして4
0年代からはヴィオレ=ル=デュックによるヴェズレーの本格的な修復が始まるのである。
ついでトゥルーズのカテドラル,サン=セルナンは1
860年にヴィオレ=ル=デュックの関心を集める,という
43
ように次々と修復の手が入っていくのだった。
本書ではヴィオレ=ル=デュックの修復活動をこまかく追うことはしないが,ひとつだけ彼の修復の例をあ
げてみると,パリから比較的近く,わが国の『10日間フランス一周ツアー』にも訪問地としてときに顔を出す
ピエールフォンを一瞥してみる。これはナポレオン3世の帝政時代に入って,ヴィオレ=ル=デュックももう
すでにたくさん修復家としての仕事もして,その評価を決めていた時期の仕事である。1861年になって,ナポ
レオン3世はようやく自己の政権の基礎固めを終えると,
「中世のもっとも輝かしい時代の王宮をひとつ復活
させる」というアイデアを思いついた。当初,ボナギ(現在は亡霊のような恐ろしい廃墟となっている)
,あ
るいはパリの北のヴァロワ地方のクーシー(一次大戦中にドイツ軍によって爆破された)も考えられていた。
しかし,最終的にはパリの北のピエールフォンに落ち着いたのは,このすぐ近くのコンピエーニュの森に,皇
帝一家が夏に避暑に来ていたからである。ここは狩り場として有名で,皇帝がいるからには取り巻きの宮廷人
や,客もたくさん来るので,そうした人たちをもてなす手段として,この城を考えた。つまり当初からお客に
見せ,また実際に居住するべき場所として考えたのである。
メリメはナポレオン3世の細君のウージェニー皇妃の友人であったから,そのつてでヴィオレ=ル=デュッ
― 94 ―
いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
クをナポレオン3世に紹介した。それで,彼がこの件を担当することになったのである。
『ピトレスク・ロマンティック紀行』のなかにもタヴェルニエとジョンキエールによるこの城のリトグラ
フィーが入っているが,それによるとこの城はすでにかなり毀れていて,屋根などはなく,壁もかなり削られ
ており,非常に魅力のある廃墟だが,この状態から全体を復元することはかなり無理があることはすぐ見て取
れる。
当初は部分的な修復を計画していた。城の中の主塔,もっともよく残っていたエクトールの塔とゴドフロ
ワ・ド・ブイヨンの塔だけを修復する予定であった。しかしながら二つの意志が重なって,この計画をねじ曲
げていったのである。まずウージェニー皇妃は全部を修復して,ここを皇帝の夏の居住地にすることを望ん
だ。また,ヴィオレ=ル=デュックも建築家としての野心から,ヴァロワ王朝下の軍事上の建築を完全に再現
できる腕をもっていることを示してみたいという希望をもっていた。
このように見てくると,ナポレオンから,ギゾーに至るまでフランスの歴史記念物の研究,保護は国策とつ
ながって行われていることに,注意する必要がある。しかし,このように権力と密着した姿勢が問われて,そ
の後,ヴィオレ=ル=デュックはボザールの教授に就任した時の開講演説で学生にはげしくやじられる運命に
会うことになったことも記憶しておきたい。
『ピトレスク・ロマンティック紀行』の1867年のシャンパーニュの巻の序文でテロールは「墓場に片足をい
れた老人として」,亡くなった「ノディエ,カイユー」の霊を呼び出し,こう書いている。
われわれは以下のようなささやかな功績しか持ちえないとしんずる。後になって,ヴィテ,メリメ,ルノル
マン,オーギュスト・ル・プレヴォー,コモンらが咲かせたすばらしい業績の先鞭をつけたことである。
ここにはヴィオレ=ル=デュックの名前がないが,ここで引用されている名前はことごとくヴィオレ=ル=
デュックに収斂していく名であることはいうまでもない。しかし,実際はここで引用された科学派やそして
ヴィオレ=ル=デュック自身もテロールのことを嫌っていたのである。なぜなら,
『ピトレスク・ロマンティッ
ク紀行』に描かれた図版は修復に役立つような代物ではなかったからである。このようにして,ピトレスクと
いう《印象》《外観》に基づく美学の偉大な書物も,科学的な修復によって追い越されていくのであった。
6,リトグラフィーその後
このように中世ゴシック建築に対する関心ははっきりと「修復」へと移っていくことが確認されるが,で
は,『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』と共に隆盛を迎えたリトグラフィーという技術はど
うなったのだろうか?リトグラフィーというジャンルは最近誕生したばかりであって(そうしておおよそ50年
で命脈を終え,写真に取って代わられる運命にあったから)
,ますます隆盛を迎えるが,しかし公的なカル
チャーとして認知されていたわけではないので,商業的な世界で生きていくしかなかった。流行のスタイルに
固有の身代わりの早さのような性格も持っていた。当時から始まった絵入り雑誌 magazine pittoresque の人気は
大変なものだったが,風景に限っていうと。30年頃になると,ノルマンディーをテーマとするリトグラフィー
はだいたい終息を迎え始める。また,ゴシックのいかにもそれらしい廃墟も描かれなくなった。その代わりに
ノルマンディーは避暑地として人気を得るようになる。人々は表象の世界で見ていた土地を実際に訪れるよう
になるのである。
1
5世紀の盛期ゴシックに対する趣味は実は18世紀の終わり頃から存在していたが,まだ,ゴシックというも
のがまだよく理解されておらず,スペイン風のムーア風の東屋などと共存して,しかもイギリス風の庭園など
を舞台として描かれることが多かった。つまり英国風のピクチャレスクである。また,しばらく後になるとロ
マネスク建築に対する関心も高まってくるが,その場合にはロマネスクの建築は毀れていなくてはならず,暗
い雲間からさす一瞬の光に照らされなくてはならなかった。
そうしたことが起こった理由はおそらくイギリスから受けたテーマ上の,また技法上の影響をほぼ消化し終
わったこと,またノルマンディーの大量の史跡もほぼめぼしいものは紹介し終わったという意識が生じたのだ
ろう。
― 95 ―
東 京 学 芸 大 学 紀 要
人文社会科学系Ⅱ
第57集(2006)
テロールの『ピトレスク・ロマンティック紀行』の方法は実は当初から,批判があった。各地方に画家を派
遣してすばやくデッサンをさせ,それをもとにリトグラフィーをつくるのでは,あまり正確なトポグラフィッ
クな絵画は期待できない。さらにはピトレスク度を強めるためにさまざまな誇張がおこわなれることもまれで
はなかった。単なる風景画ならまだしも,教会や城の修理につかう図版としては正確度が足りないことにな
る。こうしたより精密はトポグラフィックへの欲求から,30年代の後半くらいから,これまでとは異なったリ
トグラフィー作品が登場することになった。それは各地方に住んでその地域の風景や史跡に詳しい研究家ら
が,18世紀に描かれた版画を収集し,あるいは当代の画家に改めて依頼したり,あるいは自ら筆を執って描い
たりして,地方単位でピトレスクの書物を作ったのである。この場合リトグラフィー制作に関わるのは,パリ
で勉強してきた後,地方都市で店を開いた職人が多かった。こうした作品は通常《アルバム》という名前を付
けられることが多く,1836年の『アイン地方のアルバム』,その後『ドフィネ地方アルバム』『ランス地方アル
バム』『北部ロワール地域アルバム』などと続き,40年代以降盛んに出版された。精密化への欲求である。
《パリ近郊》
,その他
すでに見たようにパリ近郊は18世紀から人気のある土地であったが,その人気は衰えることがなくミシャロ
ンが好んだパリ近くのフォンテーヌブローの森が人気があった。コローがここにくるようになったのも師のミ
シャロンの影響である。この森にはごつごつした岩場があり,ピトレスクの定義によくあてはまったのであ
る。たとえばフォンテーヌブローの森にはあまりにも多くの絵描き風の若者が集まって写生をするので,農民
たちが驚いたと言われるほどであった。実際にフォンテーヌブローの森の空き地におおよそ百人はいそうな画
家が集まって,みな日傘をさして,写生に熱中している姿を描いたリトグラフィーも存在する。若い画家たち
がこの地に集まったのはひとつには,当時始まったローマ賞の「歴史的風景画」部門に森のデッサンを求めら
れたからだと言われている。。
フォンテーヌブローを除くと人気があったのはシャンティであった。ここアルフレッド・ド・ミュッセと
ジョルジュ・サンドの思い出がしみこんだ土地であり,また後にネルヴァルが『シルヴィ』で歌い上げるヴァ
ロワの土地である。とくに1833年からはロバノフ大公によってここで競馬が開催され,ジョッキークラブが運
営を引き継いだのである。
ノルマンディーがリトグラフィーの世界で人気を失った一因は,フランスが1830年からアルジェリアの領有
をはじめた結果,ひとびとの好奇心が,北アフリカへと向かったということもある。オリエンタリスムの始ま
りである。こうした関心はマグレブ圏だけでなく,イギリス,ギリシャ,中近東,アメリカ大陸にまで拡がり,
こうした地域へ出かけた画家たちは,苦労しながらも,絵画の世界では処女地であるこうした地域のピトレス
クを伝えることに熱中した。ルイ=フィリップの王政が敷かれてのフランス国内では,ブルターニュ,プロ
ヴァンス,ピレネーが処女地として画家の訪問を受けることになった。
《教材としてのリトグラフィー》
1830年代を迎えて,ルイ=フィリップの7月王政が始まると,軽ジャンルとしての風景画はまったく世間に
受け入れられてしまった。初期にはあれほど攻撃されたのに,いまとなってまったく普通の芸術ジャンルであ
り,また非常によく愛好されるジャンルともなったのである。これは英国の影響でもある。英国では18世紀の
末から19世紀の初頭にかけては水彩が大流行で,嫁入り前の若い娘の必須のお稽古事でさえあった。そのため
に,水彩画を教える教師の数が激増したと言われている。したがって,フランスでもこの時代になると自分で
リトグラフをやるかどうかは別として,リトグラフを嗜むことは上品な行為とさえ見なされるようになったの
である。例の流行に敏感なベリー公爵夫人は,居城のロスニー城の絵を自ら描き,デロワがこのあまり上手と
は言いかねる作品をリトグラフィー化した。チュルパン・ド・クリッセ氏,ビュシェール・ド・ルピノワ氏,
アランクール子爵,ルイ・ボナパル,元オランダ王とその義娘,ラロッシュ氏,ラロシュジャクラン伯爵夫人
ら,社交界の大物たちが揃って風景画に手を染めるようになったのである。つまり,風景画,リトグラフィー
は完全に世間から認知を受けて,何の危険性もない常識的な趣味の領域に入ってきたのである。こうした事実
を認めないのはアカデミーに集う画家たちだけであって,彼らは,風景画,リトグラフィーをサブカルチャー
のようなものと見なして軽蔑していたのであろう。しかし,地方に居住している若い娘たちも,デッサンの先
― 96 ―
いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
生の勧めに従って,土地の廃墟のデッサンを行い,軍人も司祭もまた自分たちの住まう町の絵を描いたりした。
また,「ピトレスク」という言葉自体があまりに頻繁に使われるようになったので,バルザックは3
2年に発
表した『すばらしきゴディサール』のなかで,
「文学が《ファンタスティック》という言葉をやっと扼殺した
その瞬間に,版元は《ピトレスク》という用語を使っている」と皮肉っている。逆に言えば,この頃からピト
レスクは思想的な意味合いは失っていくことになる。
こうした趣味としての風景画熱はすでに世紀の折り返し点頃には十分盛り上がっていて,30年代以降はそう
したブームを皇室が追認したに過ぎないのである。こうした風景画のアマチュアたちはプロになるつもりはな
かったから,風景画の基礎的な勉強を個人の先生に高い授業を払って受けようとは思わなかった。あるいは絵
の先生たちは頭が古くて,風景画を教えられなかった。教え方のメソッドが確立していなかったのである。彼
らは教科書を使って基礎を学ぶことを望んだ。それで人々は過去の名画を見せれば教育になるだろうと考え
て,ロンドンでは『クロード・ロラン以降の風景画集』(1801),パリでは『風景画家たちの歴史的ピトレスク
案内』(1803)を出版した。しかし,そうした考え方は不十分であることがすぐ判明した。生徒たちは訓練が
十分でないので,先人の名画を眺めただけでは,作品を仕上げることができず,もっと基礎から,つまりたと
えば木を一本描くとか,橋や小屋,ゴシックのチャペルなどひとつひとつの素材をきちんと描くことから始め
ねばならないことがわかったのである。こうした形式の新教科書は直ちに好評を博した。こうした教科書は当
初はクレヨンで描くようなやり方で刷られたが,リトグラフィーが発明されると,すぐさまリトグラフィー版
にとって代わられた。1817年,18年にはすでにミシャロン,ブルジョワ,ギュヨの作品を元とする提要が発売
された。こうした『風景画断片集』,『クロッキー一歩一歩』などが20年代には大いに売れたのである。30年代
になると,フルリー=シャヴァンという業者がこうした教科書の出版を一手に引き受けるようになる。彼が出
版したのは,『若い画家のためのヴァランシエンヌ』
,『ブトン(室内画デッサン提要)
』,『ジョゼフ・ヴェル
ネ,海景画のエチュード,クロッキー集』(ボニントン,モザン等が制作している)
,『アトリエのジェリ
コー』『ヴィクトル・アダン』といったものであった。このようにして有名な画家たちの作品がいくらか遅れ
て人々の前に安価に提供されることになった。このようにして,優れた作品が,そうして作品が描いている風
景画がゆっくりと人々の間に拡がっていった。さらにいえば,こうしたリトグラフィー集は若い画学生がデッ
サン一般を勉強するのに非常に役立った。人物や彫像をもとにしてデッサンをすることは非常に難しいが,こ
うしたすでにできあがった作品をもとにすることは比較的容易だからである。ボヴァリー夫人は若い頃,こう
した『断片集』に基づいて,水車のデッサンをしたことがあった。
つまり風景画はまったく誰にも受け入れられる凡庸なジャンルになったのである。まだ,ルイ=フィリップ
の治世には大衆旅行はまだそれほど拡大していないが,しかし大衆の観念のなかではまったく受け入れられた
ものとなった。それにともなって,ピトレスクの観念も,あまりエキセントリックなものではなくて,大衆に
受け入れられるような穏やかなものになっていくのである。
20年代から50年くらい間には,どういう人たちがリトグラフィー集を購買したか。
特に30年代頃から,活発になってきたのは特定の地方だけの歴史記念物,風景を描いた《アルバム》で,これ
は統計的にわかっているのだが,購読者はその土地の城持ち,土地持ちの有力者ばかりで,彼らは自分たちの
城が描いてあるのを友人たちに見せびらかすために,また自分が毎日曜日,ミサに出かける教会が描いてある
のに満足して買ったのである。したがって,その地方の外ではまったく売れなかった。しかし,『ピトレスク・
ロマンティック紀行』の販売部数が,後になって低迷したのはこれに一因があると言われている。第2には画
学生が風景画の勉強のためにかったのである。
第3に,これがある意味ではもっとも重用なのだが,旅行への誘いとして,そうして見も知らぬ外国の風景
や建物の美を楽しむために買い取ったのである。このころ,リトグラフィーで名を挙げた版元ルメルシエのも
とには,世界中からデッサン,水彩画が送られ,それをもとにして多量のリトグラフィーが制作された44。
リトグラフィーというジャンルは必ずしも風景画に限られるものではなく,すでに1824−25年にはフランス
にいたゴヤが非常に芸術性の高い作品を作り出しており,この伝統は,ドーミエ,ガバルニらに引き継がれて
いくが,それを別として,もうひとつ風俗画のジャンルが活発であった。これは《グリゼット》
《ロレット》
《ココット》などと呼ばれる素行のややあやしい女性たちの生活ぶりを紹介して描いたものが,人気を得た45。
彼女たちの服,気の利いた言い回し,若さ,美貌が,将来こういう女性たちを囲ってみたいと考える公証人に
― 97 ―
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人文社会科学系Ⅱ
第57集(2006)
なったばかりの若者とか,地方の商人などの間で好評を博したと言われている。わが国の浮世絵の美人画と同
じことだろう。また,周知のとおり,印象派の絵画はパリの周辺のセーヌ河のほとりに集まってきたボート乗
りの運動や,田園での楽しい食事や,ダンス場などの風俗の存在を前提としているが,そうした場所の風俗も
当時のリトグラフィーが得意とするところだった46。つまり,ここではリトグラフィーは印象派に先行するの
である。
少し歴史を先回りして,リトグラフィーの運命の終焉についても触れておくと,リトグラフィーは誕生して
60年ほどで,その命脈を終える。それには,テーマ上の問題と,技術的な理由があった。まず,テーマに関し
ては,リトグラフィーはその運命を風景画,とくにピトレスクな風景画と手を携えて進んできたのだが,人々
はこのジャンルに飽きてしまったのである。特定の地域,特定に建築物ではなく,こうした様式自体に飽きて
しまったのである。どんなにフランス広しといえども,ピトレスクは味わいを感じさせる眺望,建築というと
限りがあるので,繰り返しになってしまうということがあった。また画家の方にしても,何年か前に先輩の画
家が座った場所にすわって,似たような絵を描くのはあまり楽しい体験ではなくなったに違いない。しかしこ
れはトポグラフィックな風景画の宿命である。古典画ないし歴史的な風景画にあっては,作者の想像力がはた
らく余地が大いにあったから,いくらでも同じ物語からいくらでも作品を紡ぐことが出来た。しかし,風景画
は基本的には写実を旨とするものだから,同じ場所にキャンバスを立てれば,同じ絵になってしまうのであ
る。また,この頃からはじまった主にリトグラフィーによる複製芸術がもつ固有の問題も生じてきた。つまり
大量に作成し,大量に頒布すれば,そのあとは飽きられてしまうのである。アウラを放つ神秘的な存在ではな
くなり,単なる消費財になるのであった。
もうひとつ,こちらの方が重要なのだが,3
0年代ころから,リトグラフィーが普及して,絵入り雑誌が拡がっ
てくる。
『アルティスト』を皓歯として,
『若者新聞』
(1836),『子供雑誌』
(1837),『若者向けピトレスク雑
誌』(38)などが目白押しとなった。それに伴って,急速に技術的に程度の低いリトグラフィーが拡がってい
た。リトグラフィー製作者は小うるさい芸術家たちの細かい要求をいちいち聞いているよりは,安直な作品を
短期間に大量にする方が儲かることに気が付いた。その結果リトグラフィーというと安物のいい加減な複製と
いうイメージが拡がってしまい,芸術家たちが一層離れることになった。彼らの一部は昔の木版やエッチング
に戻っていったのである。さらに技術的に致命的な理由として39年に写真術ダゲレオタイプが発明されたこと
がある。当初は写真の質があまりよくなかったので,版元は各地方,各建築の写真を撮らせて,それをパリで
リトグラフィーにするという手法を採用した。つまりリトグラフィーの3工程のうち,第1の工程だけ写真に
委ねたのである。写真とリトグラフィーの共存である。しかしこれによって,デッサン家がリトグラフィー制
作の現場から放逐された。これはある意味で,リトグラフィーのトポグラフィックな精密化を促進させること
になったから,リトグラフィーの進歩をもたらしたと言っても良いかも知れない。しかし,写真術が進歩する
と,リトグラフィー自身に全面的に取って代わることになるのである。もちろん,こうした終盤期にはいろい
ろな存続のための動きが表面化するのは当然で,写真術に対して,リトグラフィーの独特の味わいを売りにし
ようとするもの,あるいは大量頒布に背をむけて芸術的なリトグラフィーを試みるものなどがあり,ある程度
成功したものもある。しかし,次第に刷りを行う職人が減り,最後にはリトグラフィーの道具自体が摩耗して
使えなくなり,,,それを買い換える気力もなくなったときにリトグラフィーは終焉を迎えることになる。し
かし,それはまだしばらく先の話である。
また,本稿では扱わないが,『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』に登場した画家たちのう
ち,イザベイ,ボニントン,ユエらにドラクロワを加えた本格的な画家たちは20年代には緩やかなグループを
形作っていた。彼らは普通小ロマン派と呼ばれているが,じつはこのグループはピトレスク派であった。しか
しながら30年代にはいって彼らが運動を発展させようとして,アカデミー派と衝突したときに,彼らはこうし
た包囲網を十分に突破できなかったのである。同じく弾圧に晒されながらもこの弾圧から生き延びたのは,ド
ラクロワである。そうして,絵画は彼が引っ張る方向――つまりロマン派の方へと流れていく。風景画の方も
次第に様変わりしていって,ピトレスクのような表現主義的な傾向というよりは,ルソーのような自然主義的
な傾向へと流れていき,それがバルビゾン派を形作ったことはよく知られている。30年代には批評家のサント
=ブーヴはあたらしい青年たちの文学,絵画に渡る芸術運動を「ピトレスク」と名付けるほどの大きな運動で
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
あったものが,「ロマン派」という名にかわっていくのであった。しかし,この問題については稿を改めて論
ずる必要があるだろう。
《結語》
『古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』という膨大な著作はその重層性ゆえに,政治的,文化
保存的,その他諸々の使命をもっていたが,それはたとえば史跡保存の使命は拙論で触れたように,ヴィオレ
=ル=デュックらの科学的,実証主義的な修復へと繋がっていった。しかし,この膨大な書物のなかで現在か
ら見て一番重要なのは,おそらく,1
8世紀から始まった純粋視覚的な表象の意味がここで萌芽的にであって
も,十全に姿を現したということであろう。18世紀にはたしかに,物語やロゴスに回収されない視覚的な,具
体性の世界の独自性を発見したが,しかしそれは一回限りの絵画作品としてであった。それが『古のフラン
ス,ピトレスク・ロマンティック紀行』では,複製の作品として視覚的な様子を一般大衆に提起しているので
ある。いままで,言葉でしか理解できなかったもの,つまり具体的な描写よりは観念でものをとらえることを
得意としていた手段ではなくて,具体的な表象によって,不在のものの有りようを理解できるようになったこ
とはもちろん革命的な意味を持っていたはずである。また,そうした表象がごく貴族の館などの隠されて飾ら
れているのではなく,ルーブルのような公共の場や,そして複製芸術によってひろく人口に膾炙していった意
味は大きい。
ベンヤミンはその有名な『複製芸術論』で複製芸術のはしりとして写真を想定しているが,実は複製芸術の
固有の論理を探るには,リトグラフィーの普及から始める方が妥当であろう。また,複製芸術ではないがパノ
ラマ,ディオラマのような大衆的な見せ物は実は複製芸術を同じような性格を持っていることを,理解してお
く必要がある。
つまり視覚的な要素が,文字,観念から独立して一定の存在を主張するようになったり,またむしろ優位に
立つようになったのである。
こうした視覚的な要素の発達は,技術の発達によって,そのメディアが急激に変わることがあり,それに
よって複製芸術自体のありかたが影響を受けることがあるし,現在もそうした動きが続いている。そうして,
流行に左右されやすい,商業的な性格をもつ,といったマスコミ独特の性格も早くももつことになった。
そうした表象的な文化のありようのいちばん冒頭にあったのがこの『古のフランス,ピトレスク・ロマン
ティック紀行』である。
注(以下の注に対応した参考文献表は別の機会に公表する)
1
実はこれについては諸説ある。巻数が一定しないのは,配布の仕方のよるのだろう。Cf. Twynman, p.231 n.2
2
Lebeuffe, p.364
3
ノルマンディー編二巻(1
8
2
0年から2
5年。図版3
8
8枚。公式予約購読数5
7
4,印刷部数およそ6
0
0部。これとは別に一枚
単位で流出した図版がかなりの部数で存在する。以下同様)
。その後,フランシュ・コンテ編一巻(1
8
2
5―2
9年,図版
1
7
9枚,予約購読数2
4
3,印刷部数5
0
0)
,オーヴェルニュ編二巻(2
9−3
3年,図版2
7
2枚,予約購読数1
5
4,印刷部数
5
0
0)
,ラングドック四巻(3
3−3
8年,図版7
6
0枚,予約購読数2
3
7,印刷部数3
5
0)
,ピカルディー編三巻(3
5−4
7年,図
版4
7
7枚,予約購読数1
4
8,印刷部数3
5
0)
,ブルターニュ編三巻(4
3−4
6年,3
7
8枚,予約購読数1
3
9,印刷部数3
0
0ない
し3
5
0)
,ドフィネ編一巻(4
3年,1
7
4枚,印刷部数3
0
0ないし3
5
0)
,シャンパーニュ編三巻(4
4−5
7年,4
1
7枚,印刷部
数2
5
0),ブルゴーニュ編一巻(6
3年,1
8
0枚,印刷部数2
5
0)後にさらに南部ノルマンディー編の一巻(1
8
7
8年,1
6
3枚,
印刷部数1
5
0)を加えた。
4
Cf. Dorbec, 1910, p.31
5
Nodier, 1820 (2003), p.171
6
すでに4巻が刊行された3
2年になると,以後1
6巻の刊行が予告されているが,総冊数は何冊になるか書かれていない。
3
5年には予定出版の巻数が1
8巻に増える。6年後になるとセゼナがテロール自身から聞いた話として,2
5巻としてい
る。1
8
4
4年になるとジュール・ロマンは3
0巻と見積もっている。また,各巻の冊数もこれと比例するようにして増加す
る傾向にあった(Juan Plazaola : Le baron Taylor, portrait d’un homme d’avenir, Fondation Taylor)つまり仕事の進行にと
もなってまるで爆発する星雲のように肥大化していったのである。
― 99 ―
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第57集(2006)
7
Miquel,Isabey, t.I,p.45
8
Larat, 1923, p.128 この芝居の舞台装置は『ピトレスク・ロマンティック紀行』にも協力するシセリであった。ノディエ
は1
8
2
1年には『スマラ』を発表し,2
2年には『ヴァンパイア』と同系統の作品『アンフェルナリア』Infernalia をなか
ば匿名で出版する。
9
後者の書物には,後にジェラール・ド・ネルヴァルが傑作『シルヴィ』の中で逍遙することになる,シャンティ,サン
リス,モルトフォンテーヌ,エルムノンヴィルなども,まだ遺跡の残るポール・ロワイヤルと並んで紹介されている。
1
0 François, p.1
1
1 Baron Justin Taylor(1789−1879) : Voyage pittoresque en Espagne et en Portugal et sur les côtes d’Afrique de Tanger à Tétouan
(1,2),1826 ; La Syrie, l’Egypte, la Palestine et la Judée, 1837 ; Les Pyrénées,1843(この作品は同年ピレネーを旅行したヴィク
トル・ユゴーによる『諸世紀列伝』に影響を与えたと言われている);Pélerinage à Jerusalem, 1841 ; Voyge en Suisse, en
Italie,en Sicile, en Angleterre, en Écosse, en Allemage, en Grèce, 1843 ; Reims, ses monuments, la sacres des rois de France,
1854 ; Voyage en Languedoc ;
(Fondation Taylor, crée en 1844 par le baron Taylor, ecrivain, illustrateur, et philanthrope Voir : L’Art du paysage de l’atelier au
plein air (dic))
1
2 François, p.15
1
3 Ibid.
1
4 Plazaola,p.13
1
5 Voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France, Normandie, p.
1
8
0
1
6 Voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France, Normandie,Introduction
1
7 テロールにとって非常にしつこい敵であった俳優のピエール=ヴィクトールも18
2
7年に彼のことを「挿絵担当」として
書いている。
1
8 Alexandre−Louis−Joseph de La Borde (Comte de, 1773−1842) :フランスの政治家。たくさんの旅行記を出版した。
1
9 Les supercheries littéraires dévoilées : II, c 1258a Art. Nodier
2
0 Millin : Voyqge dans les départements de la France ; Alexandre de La Borde : Les Monumens de la France classés chronologiquement et considérés sous le rapport des faits historiques et de l’étude des arts, 1816−1836
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1 Jean−Baptiste Seroux d’Argincourt : Histoire de l’art par les monuments, depuis sa décadence au IVe siècle jusqu’à son renouvellement XVIe.
この書が出版されたのは作者の死後9年目,1
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3年である。
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2 Aubin−Louis Millin : Antiquité nationale ou recueil de monuments pour servir à l’histoire générale et particulière de l’Empire
français, 1790−98
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3 Larat, p.180
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4 Voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France, Introduction
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5 Voyage pittoresque, Franche Comté, p.4
当初ゴシック建築は英国の発明と考えられていた。
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6 Voyage pittoresque, t.I p.48
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7 Voyage pittoresque, t.II, pp.6−7
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8 Voyage pittoresque, t.II, p.105
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9 Cité par Jean Charay, préface au Voyage pittoresque et romantique dans l’ancienne France : Le Vivarais, réimpression partielle du
livre original, éd. des 4 seigneurs Grenoble, 1969
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0 Montfaucon, Bernard de : Les Monuments de la Monarchie française, 1729 avec les dessins de Gaignières
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1 Abbé Barthélemy : Voyage aux Indes occidentales et orientales, Voyage autour du monde par la merdu Sud, Le Voyage du jeune
Anacharsis, etc.
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2 La Porte : Voyages français
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3 Voyage pittoresque, Normadie I, p.10
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4 Langlois, 2e éd, 1811
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5 Adhémar, p.84
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6 René−Paul Huet, p.9
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7 Alexandre de La Borde : Les monuments de la France classés choronologiquement et considévés sous le rapport de faits histori-
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いにしえ
石木:テロール男爵の『 古のフランス,ピトレスク・ロマンティック紀行』
ques et de l’étude des arts. Les dessins faits d’après nature par MM. Bourgeois et Bance, Paris, 1816−36, 2 vol.
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8 Touriste I, p.248 et II, p.84
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9 Victor Hugo, p.13
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0 Victor Hugo, p.18
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1 Cf. Caylus : Rucueille d’Antiqité, 1752 ; Julian−David Leroy : Ruines des plus beaux monuments de la Grèce, 1758 ; Marc−Antoine Laugier : Essai sur l’architecture., 1755 ; John Stuart Nicholas Revette : Antiquity of Athens, 1762 (cf Jannin Barier : Piranèse, p.12)
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2 Viollet−Le−Duc, Dictionnaire, tome VIII, p.15
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3 Saule−Sobré, p.4
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4 Adhémar, 1982, pp.10−11
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5 Farwell, tome 7 ≪ Love and Courtship ≫, pp.12−14
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6 Farwell, tome5 ≪ The Contry ≫, pp.15−17
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