アベ・グレゴワールの歴史的評価とフランス革命像

アベ・グレゴワールの歴史的評価とフランス革命像
-革命百周年、ナショナル・ヒストリー、国家と教会-
山中聡*
야마나카 사토시
<요지>
본론에서는 프랑스 개혁기에 활동한 개혁파 성직자의 지도자 아베 ・
그레고와르(1750-1831)의 역사적인 평가를 통해서, 프랑스의 민족 역사의 형성을
새로운 시점으로 해석하고자 하는 것이다. 그레고와르는 일반적으로 노예제의 폐지와
유대교도의 해방에 공헌한 것으로 알려져 있으며, 프랑스혁명 200 주년(1989 년)에는
그 공적을 인정받아, 국민적 위인으로 세상에 알려졌다. 그러나, 본고의 고찰에 의하면,
그는 사후 무엇보다 공산주의와 기독교의 조화에 평생 추구한 인물로 평가 받고
있다는 것이 밝혀졌다. 즉, 공화파와 가톨릭 교회가 격하게 대립한 19 세기 프랑스에
있어서, 충성을 맹세한 인물로 묘사된 것이다. 그에 대한 이러한 역사적 평가는
공화파정권이 추진한 민족 역사 구축에 어떤 영향을 받은 것인가. 본논문에서는,
혁명 200 주년제 실행 위원장인 쟌네의 말처럼, 원래, 그레고와르가 행사에 현창되어야
한다고 했던 혁명 100 주년제까지를 일단락으로 하여, 이에 대한 평가의 변천을
고찰한다. 이러한 작업에 의해서, 국가와 교회의 관계가 민족 역사에 미친 영향을
새로운 측면에서부터 해명할 뿐만 아니라, 현재 프랑스가 신봉하고 있는 국가 원리인
「라이시테=정교분리에 기초한 국가의 세속성・종교적 중립성」이 이러한 사상・주장에
의해 정당화 되어 온 것인지에 대해서도 많은 견해를 얻을 수 있을 것이다.
주제어:프랑스 혁명(France revolution), 내셔널 ・ 히스토리(National history),
역사와 기억(History and memories), 국가와 교회(State and church)
1.
はじめに
いわゆる「グローバル化」の進行は、既存の国民国家に対して様々な面から変化
をもたらしている。一連の変容は 1990 年代以降、一部の国々で反動的ナショナリズ
ムの台頭を引き起こしたが、一方で研究者に対しては、この国民国家の歴史的役割、
及び現在のそれが抱える諸問題の批判的検討を促した。その結果、国民意識を下支
*
京都大学大学院文学研究科歴史文化学専攻西洋史学専修、博士後期課程 3 年次
- 291 -
えするナショナル・ヒストリーの存在と、国家がそれを構築する上で様々な「記憶」
を動員していく過程に注目が集まった。国民国家の典型といわれるフランスの場合、
そのようなナショナル・ヒストリー構築の主軸を担ったのは、言うまでもなくフラ
ンス革命の記憶であった。
こうした革命の記憶の過去と現在を巡る問題については、P・オリイを始め、我
が国でも工藤光一や長井伸仁が考察を進めているが、これらの研究の方向性を少な
からず規定したのがP・ノラ編『記憶の場』である。既に紹介されているように、
この論文集は第三共和政が確立した統一的ナショナル・ヒストリーを解体し、より
多様な国民意識が時代と共に移り変わる姿を描きだすことを意図していた。ノラに
よれば、革命の記憶もまた不動の存在ではなく、国内外の状況に応じて変化するも
のであった。その証左として彼は 1989 年に実施された革命二百周年祭を取り上げ、
顕彰行事における国家の指導力低下や地域・集団の自立性向上と並行して、革命の
記憶がその統一性・支配力を失いつつあることを指摘した。
同年 12 月に行われた革命期の偉人三名のパンテオン(共和国に特別な貢献のあっ
た人物を祀る霊廟)移葬は、このような記憶の変容に直面した政府の苦悩を物語る。
移葬された三名に与えられた表象は、もはや以前の共和政賛美を前面に出すもので
はなく、コンドルセの「教育」、モンジュの「科学」 1、グレゴワールの「人権」と
いうように、現代世界に普遍的とされる、ある意味「無難」な価値観であった。革
命の記憶から政治性が後退し、併せて普遍的価値観への適合が図られたことは、
「グ
ローバル化」はもちろん、欧州統合の直中で揺れ動くフランスの将来を考える上で
も有効なレファレンスとなろう。
ところで、前述の三名の内、最後のグレゴワールに関しては、当時の二百周年祭
実行委員長J=N・ジャヌネ(以下ジャヌネ)が、再版されたグレゴワールの回想録の
序文に以下のようなコメントを記している。
「その点に関して、次のように問うこと
ができる。1889 年、革命百周年は、なぜ〔パンテオン移葬や各種展覧会を催した二
百周年祭と〕同じやり方で、この高名な聖職者の名誉を称えなかったのか、と」
。
多くの論者が指摘する通り、第三共和政期前半に実施された革命百周年の祝福は、
フランスのナショナル・ヒストリー形成を考える上で最も重要な項目の一つである。
そしてジャヌネの言葉からは、グレゴワールが本来ならこの行事で顕彰されるべき
存在であり、それに値する功績も残していたことが想像できよう。では、そのよう
1
コンドルセは公教育制度の確立に尽力し、モンジュは科学教育の振興に貢献した。
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に評されるグレゴワールとは、どのような人物なのだろうか。
アンリ・グレゴワールは、国民議会期から第一帝政期にかけて活躍した革命派聖
職者の指導者である。彼は 1750 年 12 月 4 日、ロレーヌ地方リュネヴィル近郊のヴ
ェオに生まれた。少年時代はナンシーのイエズス会系コレージュで教育を受け、1782
年にはアンベルメニルの主任司祭となった。早くからユダヤ教徒を巡る諸問題に関
心を持ち、1788 年には論文を執筆してメッスのアカデミーから賞を受けている。1789
年にはナンシー選挙区の聖職者代表として三部会に選出され、貴族や教会の特権廃
止を主張した。革命開始後は議会でユダヤ教徒の解放に取り組み、同じ時期に「黒
人友の会」に入会して奴隷制の廃止を推進した。また、1790 年 12 月には聖職者民
事基本法への服従に賛成し、最初の宣誓僧となっている。
革命の激化と共にカトリック教会への非難が強まる中、彼は 1792 年 9 月 21 日に
は国民公会において王政廃止を提案し、同年 11 月 15 日には国王の裁判を要求する
など、共和政への支持を繰り返し明示した。1793 年秋以降、非キリスト教化運動が
展開し、同年 11 月 7 日には宣誓僧に対して国民公会議場での聖職放棄宣言が強制さ
れた。しかしグレゴワールは唯一人これを拒否し、同日以降も僧服を身に付けて公
務、自宅でのミサを続けた。
その後グレゴワールは、
「テルミドール反動」による恐怖政治の崩壊を受け、1794
年 12 月 21 日には政教分離の実施と宗教的自由の保障を政府に要求し、1795 年 2 月
に実現させている。同年 3 月からは宣誓派教会の再興を本格化させるが、同時期の
説教では「共和国を愛さない者、それは悪い市民であり、故に悪いキリスト教徒で
ある」と述べ、革命とキリスト教の協調路線を継続する意思を表明した。
グレゴワールは国民公会解散後、五百人会議員を務めつつ、国立学士院の会員と
しても活動した。ナポレオンのクーデタ後は立法府の一員となり、1801 年には元老
院議員になった。但し、コンコルダートに基づくカトリック教会の再編には参加で
きなかった。尚、帝政開始の際は反対意見を表明したが、後に伯爵になっている。
帝政中期には外国を旅行し、帰国してからは帝政の打倒に関与した。しかし復古王
政期には、革命派聖職者の指導者としての過去と、国王処刑への関与の疑惑から王
党派と保守派カトリックの怨嗟の的となり、政治活動からの引退を余儀なくされた。
晩年は執筆活動に専念し、1831 年にパリで死去した。
以上のようなグレゴワールの生涯を踏まえた上で、ジャヌネは革命百周年時の共
和国が彼の顕彰を見送った原因について、次の二点を挙げた。第一に、
「ユダヤ人の
法的解放が完全に実現し、奴隷制が廃止されて四〇年以上」を経た一方、移民の大
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量流入やドレフュス事件(1894 年―99 年)を経験していなかった当時のフランス2で
は、人権に対する社会の関心も低く、彼を顕彰する意義が見出し難かったこと。第
二に、王政復古を望むカトリック教会が「若く脆弱な共和国」を脅かしていた当時、
「王殺し」の噂3もある宣誓派司教のパンテオン移葬は、前者への明らかな挑発行為
になってしまうこと、である4。
行論の過程で明らかとなるように、ジャヌネのこうした指摘にはかなりの修正が
必要となる。とはいえ前段の二点からは、グレゴワールの歴史的評価が近・現代の
フランスを理解する上で重要な問題(共和派と教会の対立、フランコ・ユダイスム、
植民地主義と移民の統合)と何らかの関わりを持つことが読み取れる。革命百周年と
二百周年を節目にしつつ、その評価の変遷を検証すれば、ナショナル・ヒストリー
の批判的検討への新たな一助となろう。例えば、グレゴワールの奴隷解放は植民地
でも宣伝されたが、植民地主義はノラの『記憶の場』では考察が決定的に不足して
いる分野である5。加えて、多方面で活躍したグレゴワールの歴史的評価の検証は、
同書では十分に捉え切れていない個々の記憶の相互関係を描きだすことも可能にす
る。それにより、従来は関係が薄いと思われていた複数の「記憶の場」が、実はグ
レゴワールを軸として深いつながりを持っていたことが明らかとなるのである。グ
レゴワールに関する研究は、パンテオン移葬の影響もあってか 1989 年以降増加して
おり、生前の活動についてはかなりのことが分かる。一方で、その歴史的評価を主
眼においた研究は管見の限りこれまで存在しない。そこで本論文では、彼の死後に
出版された革命史叙述と、彼に対する顕彰行為の分析を通して上記の問題を検討し
たい。
しかしながら、紙幅の都合上、今回は百周年までの展開に検討範囲を限定せざる
を得ない。それに伴い、主要な論点も共和派と教会の対立に絞られることを断って
おく(但し、第四章ではフランコ・ユダイスムの問題が絡んでくる)。周知のように、
フランスでは 19 世紀以降、共和派とカトリック教会が民衆統合の主導権を巡って闘
2
実際には移民の大量流入は始まっており、それを背景に 1889 年には国籍法が制定されている。
3
当日の裁判には欠席したが、派遣地(サヴォワ)から送った書簡の内容が問題となり、グレゴワ
ールが国王処刑に賛成したかどうかについては、現在も歴史家の間で議論が続いている。
4
尚、ジャヌネは、百周年時には議論にならなかったが、二百周年の際にはグレゴワールの
「自由を擁護する活動」が積極的に評価されたことも併せて指摘している。
5
また、2005 年 2 月には植民地支配の肯定的側面を学校で教えることが法律で義務化される
(後に撤回されるが)など、フランスにおける植民地主義への批判的検討は十分に進んでい
ない。
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争を繰り広げた。以下の考察では、共和派=「三色旗」とカトリック教会=「十字
架」が対立した近代フランスにおいて、一人の革命派聖職者、すなわち「三色旗」
と「十字架」双方への忠誠を生涯守り通した(とされる)人物が、死後どのような評
価を受け、それが革命百周年の祝福と如何なる関わりを持つのかが問われることに
なる。こうした作業は、現在のフランスが採用する国家原理「ライシテ=政教分離
に基づく国家の世俗性・宗教的中立性」が、過去においてどのような思想・主張に
よって正当化されてきたのかを知る上でも重要な知見を提供するだろう。
2.
共和派知識人の注目と分かれる評価
2.1 奴隷解放論者の注目
七月革命から約一年後の 1831 年 5 月 28 日、グレゴワールはその八〇年の生涯を
終えたが、革命派聖職者としての過去は死の直前まで彼を苦しめた。病床のグレゴ
ワールは当時のパリ大司教ケランに対し、終油の秘蹟を求めていた。しかしケラン
は秘蹟の実施にはグレゴワールが宣誓派司教の地位を放棄することが必要との見解
を示した。グレゴワールはこれを拒否し、数回にわたった両者の交渉は決裂した。
結局、王妃の告解師を務めていたギュイヨン師が禁令を犯して秘蹟を行ったが、彼
は後にこの行為を撤回している。
グレゴワールの葬儀は死の三日後に行われた。遺骸はモンパルナス墓地に運ばれ、
その際学生や労働者を中心に二万人もの市民が参列した。また、当日は棺をパンテ
オンへ移葬しようとする動きも見られたという。埋葬時にはマルティニークの元徒
刑囚で奴隷制廃止に貢献したC・ビセットを始め、元フランス革命期の代議士A=
C・チボドー、後に世界ユダヤ人同盟を結成するA・クレミューが追悼文を読んだ。
加えてハイチでは、奴隷解放に関するグレゴワールの功労を称えて国民の服喪が発
令された。彼の死は国内外で大きな反響を呼んだ。
そのグレゴワールが再び世間の注目を集めたのは 1837 年のことである。この年、
フランス奴隷制廃止協会は人種間の偏見に関する懸賞論文の賞として「グレゴワー
ル賞」を創設した。応募者の一覧には、後に奴隷解放の立役者となるV・シュルシ
ェールの名もある。
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また、論文の審査員の中には大革命期に活躍したラザール・カルノーの息子にし
て、第二共和政の公教育・宗教大臣を務めたイポリット・カルノーがいた(以下カル
ノー)。このカルノーが、1837 年と 1840 年に評伝『グレゴワールに関する史的解題』
とグレゴワールの回想録を併せたものを出版し、その思想や生涯を詳細に解説して
いたのである。
カルノーがこうした活動を進めた背景としては、主に三つの要素が考えられる(う
ち一点は第二帝政期の展開を考える上で重要な論点となるため、次章で紹介する)。
第一に、自らが指導する奴隷解放との関連がある。
「有色人への〔白人と〕同等の権
利の承認と黒人貿易の廃止を要求し、そして次々に法制化させた」グレゴワールが、
彼にとって世に知らしめるべき「偉大な先人」であったことは間違いない。
第二に、
当時の共和派による政府批判とのつながりが指摘できる。
カルノーは 1839
年に代議士となり、その後は急進共和派として選挙権の拡大を要求した。その彼が
「政治的な投票において、グレゴワールは絶えず議会の中で最も民主的な部分に合
流した」と述べ、グレゴワールの政治姿勢を称えたことは注目される。加えて「彼
は七月の革命権力から無視されて死んだ。それは、彼の遺骨を狂信〔終油の拒否を
巡る問題であろう〕から守ることさえできなかった」との記述からは、フランス革
命の指導者を冷遇した七月王政への敵意が読み取れる。共和派主導の反体制運動は、
やがてその歴史的な参照枠をフランス革命に求めるようになるが、カルノーがこの
時期にグレゴワールを紹介したことも、そうした文脈の中で理解できよう。
2.2 二月革命前夜のフランス革命史叙述とグレゴワールの人物像
前述の政府批判が高揚した 1840 年代後半、多くの共和派知識人がフランス革命史
叙述を出版した。以下では代表的な五つの作品6、キネの『キリスト教とフランス革
命』(1845 年)、ミシュレの『フランス革命史』(1847 年―53 年)、ラマルティーヌ
の『ジロンド派の歴史』(1847 年)、ルイ・ブランの『フランス革命史』(1847 年―
62 年)、エスキロスの『モンターニュ派の歴史』(1847 年)を題材に、革命史の中で
のグレゴワール評価を考察する。
尚、既に指摘がある通り、五名は共和政を樹立したフランス革命を全体として支
6
五名の革命史家の内、ミシュレ以外は第二共和政期に代議士を務めており、当時の政治変
動に深く関与していた。また、ミシュレはこの時代において最も著名な歴史家の一人であ
った。
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持する点では共通するものの、個々の事件や党派の評価については意見が分かれ、
時に対立した。彼等の議論において、モンターニュ派独裁の是非と共に重要な争点
をなしたのが、キリスト教の取り扱いである。例えば歴史家ミシュレは著書の中で
ラマルティーヌ、ルイ・ブラン、エスキロスの名を挙げ、この三名が革命史の中で
聖職者に寛容な立場をとったことを指摘し、これを「近代精神の伝統、及びフラン
スのそれに反する」行為であると断じた。
周知のように、カトリック教会による教育干渉に激しく抵抗したミシュレは、
『イ
エズス会』(1843 年)等の著書を通して教会非難を繰り返した。同書の共著者であっ
たキネがキリスト教自体は肯定したのに対し、ミシュレの批判はキリスト教の教義
にまで及んだ。
『フランス革命史』の序論でキリスト教を「恩寵の、無償で恣意的な
救済の、そして神の特別な計らいの宗教」と定義し、フランス革命をそれに対する
「正義の遅れ馳せの反動」と定めたミシュレは、当然カトリック教会や聖職者を革
命の宿敵と見なした。彼にとって「カトリシズムの生、それは共和国の死。共和国
の生、それはカトリシズムの死」であり、革命派聖職者グレゴワールは「共和主義
カトリック教徒、自由の中で権威を信ずる者(再び見出すことのできた最も完全なる
ナンセンス)」と揶揄すべき存在であった。
一方、そのミシュレに批判された三名の内、ルイ・ブランとエスキロスはグレゴ
ワールの人物像に言及し、しかもかなり好意的な描写を残した。ルイ・ブランは、
彼の革命派聖職者としての人格を以下のように肯定している。
「啓蒙思想家と同様に
理性を誇り、村の司祭で最も謙虚な者と同様に心が純真な彼は、世俗の作家を読む
ことからは偏見への軽蔑を、そして福音書からは貧者への愛を得たのだ」。
また、エスキロスは「私は国民議会の中で最良の革命的献身を実践した人物の一
人に視線を注ぎたい。それはグレゴワール師だ」という一節を皮切りに、彼を称え
る文章を数多く書き連ねた。その中には「キリスト教と民主主義の同盟がとても自
然に思えたので、彼は特権の放棄なしにイエス=キリストを理解しなかった」との記
述も見られる。
両名の態度に当時の社会主義思想の性格が関係していることは疑い得ない。いわ
ゆる「初期社会主義」は、その理想を原始キリスト教に求める傾向があった。社会
主義者ルイ・ブランも『社会主義者の教理問答』(1849 年)の文中で「質問、社会主
義とは何か。答え、それは活動する福音書である」と宣言し、キリスト教が社会主
義にとって大きな位置を占めることを認めた。彼は 1793 年からのモンターニュ派独
裁を高く評価していたが、そのような解釈において、キリスト教は排除すべき要素
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ではなかった。
キリスト教社会主義のジャーナリストであったエスキロスの文体には、同様の傾
向が一層顕著に見てとれる。次に引用する通り、彼は福音書を革命と不可分の崇拝
対象と見なしていた。
「革命はモンターニュ派の手元で、何者も消し去れない一つの
性格を帯びた。それは貧乏人、弱者、被抑圧者、子供を救った。人類を救済しよう
とした。それは神の腕であった。武装した福音書だった」
。
以上のような思想的特徴を持つ二人の革命史家によって、グレゴワールは革命と
福音の調和を願い、これを実現するべくカトリック教会の改革に奮闘した英雄的人
物として描かれることになる。
2.3 聖職者民事基本法への賛同と宣誓派教会の組織
続いてグレゴワールの政策に対する評価を検討するが、彼の活動は多方面にわた
るため、五人の著書でも言及は相当数に上る。しかし、単なる紹介を超えた濃密な
議論が展開され、見解の対立まで確認できたのは、やはり彼が革命派聖職者として
主導した宗教政策であった。ここではまず聖職者民事基本法を巡る問題について考
察する。
聖職者民事基本法とは、1790 年 7 月 12 日に採択されたカトリック教会の改革に
関する法令を指す。この法令は以前から批判の多かった教会組織を粛正し、市民的
な秩序へ聖職者を統合することを意図していた。その結果、行政区分に対応した教
区の編成が行われ、不要とされた役職や聖職禄は廃止された。司教や司祭は住民の
選挙によって登用され、叙任をローマ教皇に求めることは禁止された。以後、聖職
者は国家から俸給を支給される「国家公務員」として扱われた。一連の改革は伝統
的なカトリックの習慣を大幅に改変したため、多くの聖職者が反発した。また、彼
等に対して「国民と法と国王」への忠誠宣言(公民宣誓)が強制されたことは、問題
をさらに複雑化させた。
こうした状況の下、聖職者議員として最初に宣誓したのがグレゴワールであった
(1790 年 12 月)。そして彼は翌年の春からは宣誓派教会の司教として活動した。ま
た、自身も『公民宣誓の正当性』という著書を発表し、改革の必要性を以下のよう
に強調した。
「カトリック教はその栄光を曇らした暗雲を見事に克服する。断ち難い
絆で結ばれた宗教と憲法はフランス人の幸福をなし、世界からの敬意に値するため、
その主権の直中で荘厳に顔を上げる」
。
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しかしながら、1791 年 3 月、4 月にはローマ教皇が法令を公式に非難し、宣誓を
拒否した聖職者の多くは反革命の陣営についた。聖職者民事基本法による教会改革
は、革命を激化させる一大要因となった。
以上のような改革の顚末について、ミシュレは近代文明とキリスト教を対立させ
る立場から「その時それ〔議会〕は、脆弱にして誤りである一つの仕事を完成した。
人はそれを聖職者民事基本法と呼んだ」と述べ、法令を全面的に非難した。そして
「議会をこの大きな過ちに押しやった 3 人」の一人としてグレゴワールを挙げてい
る。
これに対してルイ・ブランとエスキロスは、改革が失敗に終わったことは批判し
ながらも、聖職者民事基本法の精神、あるいはグレゴワールの宣誓については、自
らが信奉する福音書との親和性を認めている。例えばルイ・ブランは、この法令が
定めた教区の再編、選挙制の導入、俸給の支給等の措置は、福音書の教えに何ら反
するものではないことを指摘した7。さらに彼はグレゴワールが他の聖職者の説得に
失敗したことを「これほど残念な言葉によって生じた有害な結果を、誰が修復する
というのか」という文句で批判したが、それは自身がこの改革の成功に幾らか期待
を抱いていたことの表れでもある。また、エスキロスは以下のように述べてグレゴ
ワールの行動を弁護した。
「他の者達はグレゴワール師のように、単にキリスト教を
原初の純粋性に戻すことを望んだ。皆、宗教の尊厳を辱めるこの陰謀や不正取引の
精神を聖堂から追放するよう主張したのだ」
。
キリスト教と近代文明の調和を志向した歴史家キネも、失敗という結果には不満
を示す一方、
「原始教会の発展と若返った国民の発展が、キリスト教の最初の時代と
新時代が、原理と目的が結び付くのは美しく思われた」と述べ、聖職者民事基本法
の理念を称えた。
このように、福音書の教えを尊重するルイ・ブラン、エスキロス、キネは、立憲
議会主導のカトリック改革をミシュレのように拒絶することはなかった。三名の革
命史家が示した歴史認識は、保守派カトリックのそれとも異なる。聖職者民事基本
法は、当時の彼等と同じくキリスト教と近代文明の調和を求める者によって、グレ
ゴワールの記憶と共に第三共和政期前半のフランスで再評価されることになる。
但し、同様に親キリスト教の立場をとる詩人ラマルティーヌが、
「立憲議会はフラ
7
著書の第六巻一七五頁には「
〔本文で挙げた改革で〕福音書が切り裂かれたとか、キリスト
が冒涜されたとか、神に宣戦布告がなされたと主張するには非常に大きな虚偽が必要だっ
た」との記述がある。
- 299 -
ンスの聖職者の改革において中途半端な処置のまま立ち止まることで、一つの大き
な過ちを犯した」と述べ、聖職者民事基本法を肯定しなかったことには注意を要す
る。それはキリスト教に好意的な共和派の間でも、在るべき国家と教会の関係につ
いては意見の相違が見られたことを物語るからである。詳細は次章で述べたい。
2.4 非キリスト教化運動への抵抗
革命史家の意見が分かれた事件はもう一つ存在する。それは、グレゴワールが試
みた非キリスト教化運動への抵抗である。前節でも述べたように、聖職者民事基本
法に反対した聖職者は反革命の陣営に与した。その後対外戦争の激化やヴァンデの
乱によって状況が緊迫する中、共和国は革命に忠誠を誓った宣誓僧をも敵視するよ
うになった。そして一部の過激革命派は、1793 年秋以降、宣誓僧に対する僧籍離脱
の強制や教会施設の破壊を推進した。パリでは、同年 11 月 7 日にコミューンの活動
家が宣誓僧を国民公会議場に連行し、聖職の放棄を宣言するよう強要した。
大司教ゴベルを筆頭に多くの聖職者が放棄を受け入れる中、グレゴワールだけが
これを拒否した。彼の回想録には、自らがその日議場で語った演説の一部が記され
ている。
「私は自分の教区で人に尽くそうと努めた。今後もそうするために私は司教
職に留まる。私にとって大切な、そして諸君が私から奪えるとは思えない聖なる諸
原理に従って行動しながら。私は礼拝の自由を援用する」
。
同日以降グレゴワールは議場に姿を見せなくなったが、パリでは彼の行動に対す
る非難が続出した。グレゴワールの追放を勧告する新聞も現れた。非キリスト教化
運動は宣誓僧の半数以上を聖職放棄に追い込んだとされており、抵抗することは生
命の危機を伴った。グレゴワールもこの時ばかりは死を覚悟したことを述懐してい
る。しかし、結局彼は一切懲罰を受けることなく、翌年 1 月には国民公会に現れ、
所属先の公教育委員会で職務を再開したのである。それだけにこの事件は革命史家
の関心を引き付けることになったが、議事録等の史料には、放棄を拒否したグレゴ
ワールの処分に関する議論が全く記載されていない。そのため、彼が「生存」でき
た理由については、状況証拠を元にした推測のみが示されている。
見解は三つに分類できる。第一の見解は、グレゴワールの行動がロベスピエール
派の指示に基づいていたとするものである。これはミシュレが示した見解であり、
事件の展開は以下のように説明された。
「ブロワの司教グレゴワールの最後の行動が
残されていた。
〔・・〕会議のこの最後の時まで欠席していた彼は、彼等〔公安・保
- 300 -
安委員会〕に頼まれてやってきたのだ。私はそれに何の疑いも抱いていない」
。
確かにロベスピエールは非キリスト教化による世論の分裂を警戒し、反対意思を
表明した。また、1793 年 12 月 6 日には「礼拝の自由」の保障を国民公会に求めて
いる。ミシュレによれば、グレゴワールの行動は、そのようなロベスピエールがコ
ミューンの横暴を抑えるために仕組んだ陰謀の一つであった。逮捕されずに済んだ
のは、彼が「両委員会とロベスピエールの保護下にあった」からである。
第二の見解は、ロベスピエール派が保護したと推測する点ではミシュレと共通す
るが、グレゴワールの抵抗自体は彼個人の意思から行われたと考えるものである。
これはエスキロスとラマルティーヌが示した仮説であるが、
「グレゴワール師は勇敢
にもエベールやショーメット〔コミューンの活動家〕の隣で自らの信仰を保持した」
や「不満の声や哀れみの笑みがこの良心の勇敢な行いを迎えた」との一文が示す通
り、両名が彼の行動を「美徳」として賛美した点は興味深い。
尚、ルイ・ブランやキネもグレゴワールの抵抗を勇敢な行動として賞賛したが、
彼等はロベスピエール派による保護の件は特記していない。これが第三の見解であ
り、例えばキネは事件について次のように述べるに止めている。
「そこからあらゆる
事を示すだろう一つの時代において、これよりも偉大な勇気はなかった。国民公会
はこの一人のキリスト教徒〔グレゴワール〕の挑戦を前に、その怒りを放っておく」
。
より注目されるのは、以下の一節が示す通り、ルイ・ブランが陰謀説を採用した
ミシュレを厳しく批判したことである。
「結局、ミシュレ氏はグレゴワール師、この
とても立派で正しく、勇敢で誠実な人物が、その抵抗において両委員会とロベスピ
エールの道具、すなわち哀れな喜劇の役者でしかなかったと推測している。そのこ
と全体についてミシュレ氏は何の証拠を与えているのか。何もない」
。
引用箇所からは、グレゴワールの行動に対するルイ・ブランの深い敬意を読み取
れよう。こうした態度は彼自身のキリスト教への愛着とも無関係でなかったはずで
ある。程度の差こそあれ、同様の傾向はミシュレ以外の他の三名にも指摘できよう。
本章ではグレゴワールが没後に奴隷解放論者の注目を受け、共和派知識人によっ
て評価されていく過程を考察した。その結果、グレゴワールへの評価を分ける重要
な基準の一つとして、各革命史家のキリスト教への態度が挙げられることが明らか
となった。一方で、五人の革命史家が聖職者民事基本法への賛成等、グレゴワール
の革命前半の活動のみを紹介したことには注意を要する。いわゆる「ジャコバン史
学」は、モンターニュ派独裁をロベスピエールの指導下で頂点に達し、テルミドー
ル 9 日のクーデタによって倒された「民衆の権力」として賛美するものであった。
- 301 -
ルイ・ブランやエスキロスのように賛同するにせよ、ミシュレのように批判するに
せよ、当時の革命史叙述はこの歴史観を軸に展開した。したがって、ロベスピエー
ル失脚後のグレゴワールが取り上げられることは少なかったのだろう8。ところが第
三共和政期前半には、彼の革命期後半の活動にも注目が集まることになる。次章で
はそこに至るまでの過程を論じてみたい。
3.
カトリック教会の復権とフランス革命像の変遷
3.1 第二共和政期の国家と教会
1848 年 11 月 4 日、二月革命で成立した立憲議会は第二共和政憲法を採択した。
その第七条は、国家と教会の関係を以下のように規定した。
「現在法によって承認さ
れている諸宗教にせよ、将来承認される諸宗教にせよ、その司牧者達は国家から俸
給を受け取る権利を有す」
。
この条文には二つの特徴が見られる。まずはカトリック教会の地位に特に言及し
ていない点、そして国家に公認される宗教が将来増加するのを見越している点であ
る。これらの点は、以前の政権がカトリックに優越した地位を認めた上に公認宗教
の数を制限してきたことを考えれば、大幅な路線変更を謳ったものとして注目され
る。そのような変化は何故生じたのか。まずは 19 世紀前半の状況を概観する。
周知の通り、当時の国家と教会の関係はいわゆる「コンコルダート体制」によっ
て規定されていた。これはナポレオンが 1801 年にローマ教皇庁と締結したコンコル
ダートが国内法として制度化したものである9。これにより、カトリックの司教やプ
ロテスタントの牧師は政府によって任命され、俸給を与えられた。1808 年にはユダ
8
ルイ・ブランの著書だけは第二帝政期の半ばまで出版が続いた。文中では国民公会の解散
まで叙述されているが、宗教政策やグレゴワールに関する言及は見当たらない。また、キ
ネの著書も国民公会以降の宗教史を論じているが、やはりグレゴワールや総裁政府期の宗
教政策には特に言及していない。
9
「コンコルダート体制」は、俸給の支給や行政区分に対応した教区の編成を実施している
点で聖職者民事基本法と共通する。但し、前者の場合はローマ教皇がカトリック司教に対
して叙任権を行使できた。この点は大きな変更箇所として注目される。また、後者が定め
た選挙による聖職者の任用も踏襲していない。尚、グレゴワールは宣誓派教会を指導して
いたことを教皇庁から非難されていた事情もあり、ナポレオンが司教に任命しなかった。
- 302 -
ヤ教も公認され、1831 年からはラビにも俸給が支払われた。
フランス革命以前、カトリシズムは圧倒的権力を持つ「国教」であった。特権を
剥奪されて弱体化したとはいえ、聖職者民事基本法においても唯一の公認宗教とし
て認められていた。
「コンコルダート体制」が複数の宗派を公認して宗教的多元性を
保持したことは、近代フランスの宗教史を理解する上で特に留意すべき事柄である。
しかしながら、公認された宗派の信徒が全員この「コンコルダート体制」を支持
したわけではない。法的保護を受けたとはいえ、教会運営に対する国家の統制は厳
格であり、宗教的自由も十分に保障されなかったからである。例えば復古王政期に
はカトリックの儀式が他の宗派に強制され、七月王政期には結社法の改悪によりプ
ロテスタントの活動が厳しく規制された。二月革命前夜には、こうした状況の改善
を求める声が高まっていた。その中には「コンコルダート体制」そのものを廃止し、
諸教会を国家から完全に分離・独立させること、すなわち政教分離の実施を推奨す
る意見も見られた。まだ少数派ではあったが、プロテスタント系新聞の『スムール』
等、幾つかの新聞はこの政策の実現を求めて啓発活動を進めていた。
共和派知識人の中にも同様の思想を持つ者がいた。その一人が前章で紹介したラ
マルティーヌである。七月革命以降、彼は政教分離を志向するカトリック自由主義
者のラムネを支持し、同様の立場を取るプロテスタントの牧師とも親交を深めてい
た。さらには『国家、教会及び教育』(1843 年)等の著書を発表して現行の「コンコ
ルダート体制」を厳しく非難した。ラマルティーヌが『ジロンド派の歴史』の中で
聖職者民事基本法を批判的に論じたのは、以上のような理由による。宗派間の完全
な平等を志向する者が、教会組織に粛正を施すとはいえ、カトリックのみを公認し
た同法令の精神を認めるはずはなかった。
また、同じく前章で取り上げたカルノーも、二月革命以降ラマルティーヌの立場
に近い行動を起こしている。彼は臨時政府で公教育・宗教大臣に就任し、初等教育
の主導権をカトリック教会から共和派に移すための処置を講じた。加えて同年 3 月
には教員が用いる児童向けの道徳教本を編集させた。その中で最も有名な教本の一
つである『人間及び市民の共和主義的教本』(Ch・ルヌーヴィエ編)には、次のよ
うな一節が見られる。
「様々な宗教的礼拝は自由である。法はそれらの内の如何なる
ものにも俸給を支払うことはできない。しかしそれは共通の道徳への違反を含むも
のを禁止することはできる」。
カルノーがこうした政策をいつから構想し始めたのかは定かでないものの、彼の
著書『グレゴワールに関する史的解題』の文中にはその片鱗を見てとることができ
- 303 -
る。以下に引用する通り、彼はグレゴワールが非キリスト教化運動に抵抗し、ロベ
スピエール失脚後には政教分離の実施と宗教的自由の保障を求めて活動したことを
高く評価していた。
「彼〔グレゴワール〕は命がけで拒否する、自分の宗教的信仰を
放棄することを。彼は力強く目指す、フランスでのカトリック礼拝の再建を、そし
て同時に全ての礼拝の自由を法制化させることを。何と多くの理想的仕事、与えら
れた模範があることか」
。
3.2 フランス革命期後半の政教分離政策とグレゴワール
ロベスピエール失脚後、グレゴワールは宣誓派教会の復興を進め、1794 年 12 月
21 日には国民公会で演説した。そこで彼は共和国の安定には宗教的平和の実現が不
可欠であることを説いた。また、具体的方策に関しては次のように述べた。
「政府は
如何なる礼拝も採用できないし、まして給与を支払うことはできない。それが自分
の礼拝を持つ権利を各市民の中に認めているとはいえ」。この一節からは、グレゴワ
ールが政教分離の実施を提案したことが読み取れる。かつて同意した聖職者民事基
本法の理念は、この時点で完全に否定された。一方で宗教的自由の保障については、
彼はこれをカトリックだけでなく、他の宗派にも適用するよう求めた。グレゴワー
ルの唱える「礼拝の自由 liberté des cultes」とは、文字通り全ての宗派に認めら
れるべきものであった。
実際、グレゴワールは演説の中で王権によるプロテスタント迫害を批判するなど、
自分が他宗派の利害にも配慮していることを強調した。その上でカトリック教徒が
現在も弾圧されている状況を問題視し、今後は「礼拝の自由」を法的に保障して祖
国の周りに「等しく秩序、幸福、及び国民的栄光の友である全ての宗教が結集せね
ばならない」ことを説いたのである。近年精力的にグレゴワール研究を進めている
R・エルモン=ブロによれば、この時の彼の演説は、カトリック教徒が他宗派の完全
な宗教的自由を要求した最初の事例であった。
もっとも、当時の事情を考えれば、こうした主張を行うのは戦略上当然の措置と
もいえる。既に 1794 年 9 月には聖職者への俸給を廃止することが法制化され、聖職
者民事基本法は事実上消滅していた。加えて非キリスト教化運動の性格を見た場合、
国民公会がカトリックのみに宗教的自由を与える見込みは極めて薄かった。グレゴ
ワールには市民の権利である「礼拝の自由」を援用し、他宗派との共存を図る以外
に手段が残されていなかったのである。
- 304 -
また、翌年 2 月 21 日に制定された政教分離と「礼拝の自由」に関する法令は、礼
拝の実施に際して厳しい制限を設けており、諸宗派の信徒は不自由を強いられるこ
とになった。とはいえ、コンコルダート締結までの約七年間、フランスが史上初の
「政教分離時代」を経験したことは、後世の共和派の思想に大きな影響を与えた。
カルノーもまた、そうした影響を受けた共和派の一人であったと思われる。彼が
グレゴワールの伝記を執筆した第三の目的は、自身が支持する宗教政策の歴史的実
例を紹介することにあった。それに加え、カトリックの司教でありながら全市民・
全宗派の「礼拝の自由」を要求したグレゴワールは、革命派聖職者の真髄をきわめ
た人物として、個人的にも好感が持てる存在であったのだろう。前述のプロテスタ
ント系新聞『スムール』は、このカルノーが臨時政府で大臣に就任したことについ
て、以下のような期待の意思を表明した。
「彼〔グレゴワール〕の伝記作者〔カルノ
ー〕が教皇庁にコンコルダートの断絶を告げるべく〔政府に〕召喚されたことは、
画期的なことになろう」
。
3.3 第二帝政期におけるカトリック教会の復権
カトリシズムの優越性に触れず、公認宗教の増加も認めた第二共和政憲法の特徴
は、前節で紹介した宗派間の平等を求める意見が、立憲議会においてある程度重み
を持ったことの表れである。しかし、同時期に続発した政治的混乱は、こうした傾
向に対する保守派の反発を激化させた。共和主義的教育改革を訴えたカルノーは
1848 年 7 月に大臣職を辞し、その後議会では新たな初等・中等教育の改革に関する
法、いわゆる「ファルー法」が制定された(1850 年 3 月)。同法はカトリック教会に
教育行政の主導権を与える一方、プロテスタントやユダヤ教関係者を冷遇した。聖
職者は初等学校での宗教教育を監督した。また、イエズス会の教育参加も認められ、
カトリック系中等学校は大幅に増加した。
一連の優遇政策は第二帝政が開始してからも継続した。ナポレオン三世のクーデ
タを支持したカトリック教会は「ファルー法」による庇護に加え、聖職者への俸給
の増額等、特権的待遇を享受した。一方で、プロテスタントやユダヤ教は行政・司
法当局から不当な扱いを受けた。特にプロテスタントは勧誘活動や礼拝の際に厳し
い取り締まりを受け、牧師の訴追にまで至る事件が各地で多発した。
こうした状況は、イタリア政策の結果、帝政とカトリック教会の関係が悪化した
後、急速に変化する。例えば 1863 年には公教育大臣に共和派のV・デュリュイが起
- 305 -
用され、教会勢力の抑制を狙った政策が提案された。そして第二帝政に弾圧された
共和派を始め、自由カトリック、プロテスタントの中からは政教分離の実施を推奨
する意見が現れた。同様の論調は当時のフランス革命史叙述にも見てとれる。一例
として、前章で紹介したキネが亡命中に出版した作品『革命』(1865 年)を取り上げ
たい10。
キネは 1850 年代から政教分離の必要性を訴えていたが、同じような姿勢は本書に
も明確に表れている。作中で彼は「コンコルダート体制」が「諸宗教の平等という
フィクション」を掲げながら、実際はプロテスタントを抑圧していることを批判し
た。当然のことながら、カトリックのみを公認した聖職者民事基本法への評価は、
宣誓したグレゴワール共々、以前の著書(『キリスト教とフランス革命』)に比べて
厳しくなっている。
「このようにして間違った方向で改革がなされた。信者は民事基
本法で何を得たのか。何もない。〔・・〕1790 年の立憲派司祭〔宣誓僧のこと〕は
中世の教会権力を表象しているに過ぎなかった。〔・・〕グレゴワール司教以上に、
このかりそめの教会をよく表象する人はいなかった」
。
歴史の批判的考察が普及した第二帝政期の傾向を反映してか、
『革命』は非キリス
ト教化運動に対するグレゴワールの抵抗についても「私はもう少し先で示そう。彼
の抵抗が、公衆の前ではそれを非難した多くのモンターニュ派によって秘密裏に称
えられていたことを」と述べ、より冷静な評価を下している。しかしその一方で、
革命期後半に行われた政教分離政策についてはやはり賞賛の意を示し、将来再開さ
れることを希求した。
「1794 年 9 月 20 日、公会は諸礼拝の給与を廃止した。もっと
良いものは何だろうか。それは近代世界の偉大なる原理、政教分離であった。共和
3 年ヴァントーズ 3 日〔1795 年 2 月 21 日〕は、法における新たな進歩だ」。
帝政末期になると「コンコルダート体制」を批判する共和派の声はさらなる高ま
りを見せた。彼等は 1869 年からの選挙キャンペーンを利用して反体制運動を指導し
たが、その多くは当選後の公約として政教分離の実施を掲げていた。同様の公約を
表明した候補者には、後に第三共和政の指導者となるL・ガンベッタやJ・フェリ
ーも含まれていた。また、ユダヤ社会の公認紙の一つ『アルシーヴ・イスラエリー
ト』も、政教分離を支持する候補者への投票を呼びかけた。
このように、第二帝政期におけるカトリック教会の復権は、共和派、プロテスタ
ント、ユダヤ教徒の反発を引き起こした。そこから政教分離の実施を求める意見が
10
尚、作中にグレゴワールは登場しないが、1856 年に『旧体制と大革命』を著したA・ド・
トクヴィルも政教分離を志向していた。
- 306 -
現れた。第三共和政期前半には、そのような立場の歴史的正当性をフランス革命期
の政教分離政策に求める動きが出てくる。そして本章で述べたグレゴワールの活動
が脚光を浴びることになる。ところが、この時代には彼が革命期に関与したもう一
つの政策、すなわち聖職者民事基本法も同様に注目を受け、結果として二つのフラ
ンス革命像(「政教分離政策の模範」と「聖職者民事基本法の母体」)が対峙する。
第二帝政末期の共和派の多くが政教分離を志向していたのに、何故この時期には聖
職者民事基本法も問題になるのか。次章ではその背景を考察し、併せて革命百周年
との関連も検討したい。
4.
二つのフランス革命像と回避された「危機」
4.1 『フランス革命』誌の創刊
1870 年代、第三共和政は王党派の脅威に晒されていた。国民議会は王党派が大半
を占めていた。その後共和派は補選の度に議席を増やしてはいくものの、1873 年に
は王党派のマクマオンが大統領となり、
「道徳秩序」体制の下で王政復古が画策され
た。カトリック教会はこの時期に勢力を拡大し、共和派の躍進を抑え込もうとした。
このようなカトリック教会の動向に危機感を覚えた共和派は、安定した政権基盤
を確保した 1879 年以降、教育改革を通してその影響力を削減しようとした。1880
年には「カミーユ・セー法」が制定され、女子中等教育の世俗化が実施された。そ
して 1881 年から 1882 年にかけては「フェリー法」が制定され、初等教育が無償・
義務・世俗化されることになった。その後、1886 年には「ゴブレ法」が採択され、
公立小学校から聖職者が追放された。
これらの活動と並行して、フランス革命の記憶を動員した共和主義的公民の育成
も進められた。1879 年にはラ・マルセイエーズが国歌となり、1880 年には 7 月 14
日が国民祝祭日となった。そして 1881 年には学術誌『フランス革命』が創刊された。
この『フランス革命』は、革命百周年に向けて革命史研究を進展させ、その成果を
全国に普及させることを目的にしていたが、編集には政治家の意向が大いに反映さ
れた。例えば監修者のA・ディドとJ=C・コルファブリュは 1885 年から上院議員、
- 307 -
下院議員を務めており、双方は急進派の論客としてその名を知られていた11。
周知の通り、当時の共和派はフェリー(「共和左派」)やガンベッタ(「共和同盟」)
を中心とする穏健派の政府与党と、G・クレマンソー等が率いる急進派に分かれて
いた。後者は低所得者の利害を重視し、累進課税の導入や鉱山・鉄道の国有化等を
求めていた。とりわけ政教分離の是非は穏健派政府との主要な対立軸であった。
実際、第二帝政末期には政教分離を志向したはずのガンベッタやフェリーは、第
三共和政で政権を担う立場となってからは「コンコルダート体制」の廃止に消極的
な姿勢を示した。例えばフェリーは、1887 年 9 月 27 日に行われた「共和同盟」の
総会で次のように語った。
「諸宗教の予算を廃止し、聖職者から教会を取り上げ、司
祭を通りに投げ出すことは、共和主義の国においてでさえ―西部や中央の諸県は何
というか―全体の動揺、諸良心の苛立ちを起こすものであり、誠実な政府が易々と
行ってはならないものだ」
。
1880 年代、穏健派政府は「フェリー法」等を通して教育の世俗化を推進したが、
政教分離については保守派の抵抗を恐れ、早期実施を求める急進派の主張を退けて
いた。このような両者の対立は『フランス革命』の論調にも影響を与え、寄稿者の
一人にある論文を書かせることになる。彼がそこで訴えたのは、グレゴワールが主
導した聖職者民事基本法によるカトリック改革をこの時代に再開することであった。
4.2 二つのフランス革命像
『フランス革命』第二号(1882 年)に収録されたA・ルロワの論文「共和主義司教
グレゴワール」には、以下のような記述がある。
「彼〔グレゴワール〕が引き起こし、
そして聖職者民事基本法の中に具現されているカトリック改革は失敗したかもしれ
ない。
〔ただ〕それは成功し、純化や憎むべき奴隷主義の除去を通して宗教を救うに
値するものだった。何であれこの業績を再開する必要があろう。病がより激しく腐
敗がより甚だしい現在、何よりそうする必要があろう」。
タイトルが示す通り、この論文はグレゴワールの革命派聖職者としての活動を論
じたものである。著者のルロワによれば、当時のフランス社会は「民主主義的観念
と宗教的観念の必要ではあるが困難な和解」という課題を抱えていた。
「和解」を困
11
表、背表紙の記名から、
『フランス革命』は、創刊号から第一四号(1888 年)まではディド
達が監修し、第一五号(1888 年)以降はA・オラールが監修していたことが窺える。
- 308 -
難にしているのはもちろん共和国とカトリック教会の対立であるが、ルロワは特に
後者が教皇権至上主義者によって支配されていることを問題視した。1864 年にロー
マ教皇が近代自由主義を批判し、ヴァチカン公会議(1869 年~70 年)で教皇の不可謬
性が宣言されて以降、フランスのカトリック教会では教皇権至上主義が台頭してい
た。その教会が「道徳秩序」体制下で王党派と結託したことを受け、共和派は教皇
権至上主義への敵意をつのらせ、政教分離を求める急進派の主張も先鋭化していた。
先に引用した史料において、ルロワが「病」や「腐敗」と呼んだのは、この教皇
権至上主義のことである。それを排除するための方法として彼は次のように述べ、
聖職者民事基本法が定めた聖職者の選挙を推奨した。
「教皇権至上主義者や無神論者
によってあれほど中傷され、そして自らが内包する肥沃かつ寛容で、真に福音的な
ものの全てを示すために、いつの日か再検討することが適切となる聖職者民事基本
法は、有益かつ本質的な方策によって、司祭や司教の選挙を人民に返還したのだ」。
「コンコルダート体制」が定めたカトリック教会の運営規定の内、俸給の支給や
行政区分に対応した教区の編成等は存続させつつ、選挙で任用した司祭・司教には
教皇への叙任申請を禁ずることでローマとの関わりを断ち、教皇権至上主義者をフ
ランスから駆逐するという構想であろう。ルロワが何故このような主張を展開した
のか、その背景を特定することは難しいが、おそらくは政教分離の是非を巡って穏
健派政府と急進派の主張が平行線をたどるなか、何らかの打開策を講じる必要に駆
られたと思われる。彼が『フランス革命』の創刊号(1881 年)に寄稿した論文「革命
の歴史家達」には、モンターニュ派独裁を批判する記述があり、そのことはルロワ
が穏健派政府と共通する歴史認識を持っていたことを窺わせる12。しかし彼は「コン
コルダート体制」を手付かずのまま維持することには否定的な態度を示した。聖職
者民事基本法の再施行は、こうした立場を取るルロワが、穏健派政府と急進派の双
方に示した「第三の道」であったのかもしれない。
ルロワはグレゴワールを「共和国を建国しつつキリスト教を再建し、人間の諸権
利を福音書に基づかせて公布するよう努めた」人物として賛美した。非キリスト教
化運動に抵抗しながら処罰されなかったことについても、彼が持つ「熱烈に革命的
な精神と、自身の導き手であるキリストのような、苦しみを持つ全ての者のために
意を注ぐ激しい民主的心情」が周囲に同情されたことをその理由に挙げている。そ
うした偉人の記憶を利用しつつ、ルロワはカトリック改革の必要性を次のように説
12
この論文ではルイ・ブランやエスキロスの歴史認識も批判された。尚、ルロワの職業や経
歴等は現在のところ不明である。
- 309 -
明した。
「もしカトリシズムが少なくとも我が国において、その本質的な宗教上の観
念と連動して滅びたくないのなら、近代社会と和解せねばならない。要するにそれ
は脱皮し、ローマから来たものは全て捨て去り、古来の聖なるガリカン〔フランス
教会自立主義〕的理性から出てきたものだけを保たねばならない」13。
しかしながら、この論文においてルロワはカトリック教会の改革のみを問題にし、
プロテスタントやユダヤ教を巡る状況には一切触れなかった。聖職者民事基本法(フ
ランス革命期にはカトリックだけを公認)を再施行した際、他宗派の取り扱いはどの
ようになるのかについても全く説明していない。この点を踏まえた場合、同じ『フ
ランス革命』第二号にグレゴワールの別の側面を捉えた論文が掲載されたことは意
味深長である。著者は本論文で度々取り上げたカルノーである。
カルノー著「グレゴワール司教と理性の祭典」は、彼が同年に出版した『アンリ・
グレゴワール―共和主義司教』の一部を抜粋したものである。カルノーは当時上院
議員であり、この『フランス革命』の創刊にも関わっていた。この論文で、彼はル
ロワが紹介しなかったグレゴワールの行動について、以下のように論じた。
「一年後、
1794 年 12 月 21 日、グレゴワールはある一つの動議のために発言を求め、礼拝の自
由のための演説を開始した。
〔・・〕そしてカトリシズムが共和主義体制と何ら両立
しないものではないことを主張した。しかし彼は、政府は如何なる宗教も採用して
はならないし、給与も支払うべきではないと考えていた」
。
尚、抜粋元の著書は青年向けの道徳教科書として書かれたものであり、カルノー
が依然としてグレゴワールを「偉大な先人」として理解していたことを窺わせる。
また、文中には「諸教会と国家の相互の独立は、自由に関する近代的認識に完全に
一致した唯一の体制である」という記述が見られ、それが 1795 年の憲法によって実
施されたことも指摘されている。つまり、彼はフランス革命期後半の政教分離政策
を高く評価していたことになる。
カルノーは論文中で聖職者民事基本法やルロワの主張を批判してはいない。とは
いえ、グレゴワールが残した数多くの業績から政教分離への関与を選択し、そのこ
とをルロワと同じ号で紹介したことの意味は推し量られるべきだろう。長年宗派間
の平等を求めてきたカルノーは、第三共和政期前半においても政教分離論を支持し
ていた。彼がグレゴワールを賛美する理由も、やはりカトリックの司教でありなが
ら政教分離と他宗派の宗教的自由を認めた点にあったと思われる。ルロワとカルノ
13
但し、グレゴワールは聖職者民事基本法に賛成はしたが、カトリック教徒ではない者が聖
職者の選挙に参加することは批判していた。
- 310 -
ーはグレゴワールを卓越した革命派聖職者として称揚した点(両名は彼を「共和主義
司教」と呼んだ)では共通するものの、その真骨頂をどの政策に見出すかについては
意見を異にした。この時点をもって、彼の記憶を媒体とした二つのフランス革命像、
「聖職者民事基本法の母体」と「政教分離政策の模範」が成立したのである。
このように、当時の共和派が革命派聖職者の記憶を肯定し、それを複数の宗教政
策の正当化に利用していたことは、従来指摘されなかった事実である。ところがそ
の後『フランス革命』では、グレゴワールと政教分離の関係を強調した論文が続出
する。まず、第九号(1885 年)に掲載されたコルファブリュ著「リュネヴィルでの大
国民公会議員グレゴワール師像の除幕」は、グレゴワールの像が故郷に建立された
ことの意義を次のように解説した。
「良心と理性以外の場所で、この同じ人民主権の
名によるこの公法、すなわち政教分離の正当化を求める者達にとって、この謹厳な
立法者〔グレゴワール〕
、この比類なきフランス人の発議は、我々の国民的伝統の厳
粛かつ神聖なこの時、最も優れた見本、最も誇り高き教えを提供する」14。
また、第一一号に掲載されたディドの論文「政教分離」(1886 年)は、フランス革
命期に政教分離を支持した人物の一人としてグレゴワールを挙げた。そして以下に
引用する通り、第一二号(1887 年)に掲載されたCl・シャラヴェイ編集の書評「時
評と参考文献」では、グレゴワールと聖職者民事基本法のつながりが否定された。
「しかしその一節で彼〔書評した論文の著者〕はひどく流布している誤りを指摘し
た。グレゴワールは、あれほど多くの不和や涙が生じた聖職者民事基本法の作者で
はない。
〔・・〕グレゴワールは公会で礼拝の自由を空しく求めた。しかしそれはヴ
ァントーズ 3 日の法令で宣言され、プレリアル 11 日〔1795 年 5 月 30 日〕の法令で
整備された。そしてそれが政教分離を確立したのだ」
。
前述の通り、コルファブリュやディドは『フランス革命』の監修者であると同時
に急進派の代議士でもあった。革命百周年に向けた準備の期間中、両名が顕彰すべ
き出来事を巡って穏健派と対立したことは知られている。穏健派政府の主導による
百周年の記念事業がグレゴワールを取り上げなかった原因として、まずは彼の記憶
が政教分離という急進派との対立軸に組み込まれてしまったことが挙げられる。
14
このグレゴワール像の除幕式についてはCh・アマルヴィも『記憶の場』で言及している。
それによれば、同式典は共和主義的カトリシズムの礼賛を通して教皇権至上主義者を間接
的に批判するという役割を担っていた。しかし、本論文の考察の結果、式典は「政教分離」
というより具体的な政策の宣伝に用いられていたことが明らかとなった。
- 311 -
4.3 政教分離と反ユダヤ主義
また、グレゴワールと政教分離論の結び付きは、反ユダヤ主義者等の保守派ナシ
ョナリストの感情を刺激するおそれがあった。当時の急進派は折に触れ、政教分離
論がプロテスタントやユダヤ教徒に支持されてきたことを強調した。例えば、後に
百周年連盟の指導者となるA・ド・ラ・フォルジュは、
『フランス革命』第三号の論
文「フランス革命と教会」(1882 年)において、政教分離を支持した「高貴な精神」
の持ち主として「ヴィネ〔19 世紀前半に活躍した批評家〕のようなプロテスタント
やアドルフ・クレミュー〔グレゴワールの葬儀に参加〕のようなイスラエリート」
を挙げた。何より『フランス革命』を監修したディドとコルファブリュが、それぞ
れプロテスタントの牧師であり、フリーメイソンフランス総本部の幹部であった。
フリーメイソンには政教分離論の支持者が多く、保守派は彼等をユダヤ教徒と共に
フランスの非カトリック化を進める陰謀家集団として嫌悪していた。
19 世紀後半、プロテスタントやユダヤ教徒は共和派の強力な支持母体を構成して
いた。特にユダヤ教徒はフランス革命で解放された後、大半がフランスへの帰属意
識を強め、ユダヤ的価値観とフランス的祖国愛を一体化させるフランコ・ユダイス
ムを生み出した。彼等は積極的に社会進出を図り、第三共和政期前半には政府の要
職に就く者も現れた。県知事として「フェリー法」による初等教育の世俗化を推進
する者もいた。そしてこのことが保守派の反ユダヤ感情を刺激したことは知られて
いる。例えば近代反ユダヤ主義の父とされるE・ドリュモンが出版し、多くの聖職
者の支持を受けて驚異的な売り上げを記録した『ユダヤ人のフランス』(1886 年)は、
女子中等教育の世俗化を次のように非難した。
「一人のユダヤ人だ。カミーユ・セー
だ。全ての宗教教育を排除するよう女子のリセを組織しているのは」。
穏健派政府が世俗化政策の一つの到達点である政教分離を拒否した理由には、こ
の反ユダヤ主義の高揚による世論の混乱や、政府機構の弱体化に対する危機感もあ
ったと思われる。この点を考えれば、急進派のディドが百周年の前年に『フランス
革命』(第一四号)の中で「カトリック司祭グレゴワールは、迫害され、侮辱されて
いたユダヤ人のために初めて声を上げた」と述べ、彼をユダヤ教徒の「解放者」と
しても称揚していたことは重要な意味を持つ。
それに加え、当時のユダヤ教徒の多くはグレゴワールの解放への取り組みを賛美
していた。リュネヴィルのグレゴワール像は全国のユダヤ教長老会が資金を提供し
て作成された。ユダヤ社会の公認紙の一つ『ユニヴェール・イスラエリート』も、
- 312 -
彼を賛美する記事を掲載し続けた。その一方で、前述のドリュモンも著書の中でグ
レゴワールを論じ、彼が解放したユダヤ教徒の子孫が金融支配を通してフランス人
を苦境に追い込むことを警告した15。
つまり、1880 年代後半に「政教分離のシンボル」として担ぎ出されたグレゴワー
ルは、
「ユダヤ教徒の解放者」としても広く認識されていたことになる。そのような
彼の記憶を革命百周年で顕彰することは、保守派に対して政府への攻撃材料を与え、
世論を政権の維持にとって好ましくない方向へ誘導することにつながったのではな
いか。それは「フェリー法」の施行を阻害するばかりか、同年 9 月に実施予定の総
選挙にも悪影響を与えただろう。
5.
おわりに
1889 年 5 月 5 日、パリでは万国博覧会が開催され、8 月 4 日には革命期の偉人と
してラザール・カルノー(イポリットの父)、F・マルソー、Th・ラ・トゥール・
ドヴェルニュの遺骸がパンテオンに移された(残り一名は第二共和政期の代議士J=
B・ボダン16)。これらの三名の内、ラザール・カルノーは 1793 年から公安委員会の
一員となり、フランス軍の編成を担当して「勝利の組織者」の異名をとった人物で
ある。また、マルソーは 1793 年に発生したヴァンデの乱の鎮圧や、1794 年のフル
リュスの戦いでオーストリア軍を撃退した将軍であった。最後のラ・トゥール・ド
ヴェルニュもまた、革命期に擲弾兵部隊を率いて数多くの軍功を挙げ、ナポレオン
の称賛を受けた。
略歴を見ても分かる通り、移葬された三名は政治家というよりはむしろ「軍人」
であった。穏健派政府は何故彼等の移葬を選択したのか17。近著で近代フランス史に
おけるパンテオンの役割を考察した長井伸仁が指摘する通り、それには政治家を顕
彰することの難しさが関係していた。生前はもちろん、死後でさえも評価の定まり
15
「いずれにせよ、グレゴワールの努力は一つの結果を得ていることだろう」という一文か
ら、ユダヤ教徒が銀行を支配してフランス人の財産を奪い去ることが予言されている。
16
ボダンのパンテオン移葬は、1888 年から興隆していた反議会主義的な政治運動であるブー
ランジズムへの対抗という文脈を持っていた。
17
尚、これらの人物のパンテオン移葬を最初に提案したのは、D・バロデを始めとする急進
派の議員達であった。
- 313 -
難い革命期の政治家をパンテオンへ移葬した場合、移葬に込めた政府のメッセージ
がそのまま全国民に共有されるかどうかは疑わしかった。その点、軍人なら政治的
な議論の対象にはなり難く、コンセンサスを獲得するのは比較的容易であった。ま
た、これらの三名は当時の共和派全体が重視した「ネイションの一体性」や「国防
の重要性」といった価値観を見事に体現していた。周知の通り、第三共和政は普仏
戦争の敗北を契機として成立し、敵国ドイツにはアルザス、ロレーヌ地方の割譲を
強いられた。そのため、1880 年代は対独復讐の意識が色濃く残っていた。華やかな
(特にドイツ民族に対する)軍事的栄光を持つ革命期の将軍達は、国威を発揚し、国
民の団結を鼓舞するのに都合の良い存在であった。
一方で、グレゴワールは移葬の候補にさえ入らず18、その活動を称える行事も特に
開催されなかった。これに対してユダヤ教徒は各地のシナゴーグで革命百周年を祝
福し、グレゴワールを「解放者」として賞賛した。こうした事実は、パンテオン移
葬を実施した穏健派政府が求めるフランス革命像と、学術誌『フランス革命』を監
修した一部の急進派議員や、ユダヤ教徒の多くが望んだフランス革命像との間に、
かなり大きな隔たりが存在したことを物語る。また、冒頭で紹介したジャヌネの見
解にも大幅な修正が必要であることを示している。以下、順を追って見ていこう。
本論文の考察を通して、グレゴワールはその死後、何より革命派聖職者の指導者
として評価されたことが明らかになった。彼の評価は、革命史家が共和主義とキリ
スト教の関係をどのように捉えているかで変動した。そして第三共和政期前半では
彼が関与した宗教政策が複数取り上げられ、その再開を求めて共和派の革命史家同
士が意見を対立させた。結果として急進派の革命史家が推す政教分離との結び付き
が有力視されるようになったが、それはグレゴワールがユダヤ教徒やプロテスタン
トの宗教的自由を尊重したことが、より広範な支持を受けたからである。故に、革
命百周年に彼の顕彰が見送られた原因があるとするなら、それは単に宣誓派司教の
地位や国王処刑への関与が問題になったことではない(実際、パンテオンに移葬され
たラザール・カルノーは国王の処刑に賛成した)。むしろ、その生涯が「政教分離」
という極めて今日的な議論であると同時に、穏健派政府にとっては(国民全体の同意
を期待できないが故に)実現困難な政策の宣伝に利用されたことの方が、より重要な
原因といえよう。
18
ラ・トゥール・ドヴェルニュの前に移葬の候補であったオッシュ(王党派貴族であった子
孫が遺骸の引き渡しを拒否)もまた、革命期にヴァンデの乱の鎮圧で名を馳せた軍人であ
った。
- 314 -
また、ジャヌネの指摘の内、人権に対する社会の関心を問題にした点にも疑問の
余地がある。百周年当時、移民はもちろんのこと、ユダヤ教徒の存在が世間の注目
を受けるための条件は整っており、しかも後者が受けた注目は共和国にとって危険
なものであった。当時の穏健派政府が「ネイションの一体性」を求めていたのに対
し、ユダヤ教徒は「異邦人」として排斥論議の対象になりつつあった。そして当時
の反ユダヤ主義は、
「フェリー法」等が進めた教育の世俗化への抵抗という形で表面
化していた。
「政教分離のシンボル」であり「ユダヤ教徒の解放者」でもあるグレゴ
ワールの顕彰は、そのような反ユダヤ主義を刺激し、共和派の選挙運動としても機
能した革命百周年を失敗に終わらせる危険性があった。
世俗化(程度の差はあれ)やフランコ・ユダイスムの発展は、国民統合を進める穏
健派政府にとって、立場上はもちろん、実利面においても決して拒否すべき政策・
現象ではなかった。しかし、この二つが調和しながら進行することは、保守派や農
村の反発という「より深刻な分裂」を引き起こすことにつながった。結果として、
穏健派政府がグレゴワールを顕彰しなかったことは、そうした発展途上の共和国が
抱えた「危機」を回避することに貢献したのかもしれない(もっとも、その危機はド
レフュス事件以降現実のものとなるのだが)。
以上の知見は、ナショナル・ヒストリー形成の最重要項目の一つである革命百周
年を、新たな側面(政教分離とユダヤ教徒の関わり)から説明するものである。また、
グレゴワールの歴史的評価が、複数の宗教政策(聖職者民事基本法の再施行と政教分
離の実施)の妥当性を主張するのに援用されていた点は、ともすれば「反教権主義」
の一言で片付けられがちな第三共和政の対教会政策を、より重層的に捉える上でも
有効な分析視角を提供するものと思われる。加えて、
「ライシテ」というイデオロギ
ーがフランス革命の記憶によって正当化されていく過程については、本論文の考察
によってその一端が解明されたといえよう。
紙幅の都合上、本論文はこれで終了するが、革命百周年では顕彰されなかったグ
レゴワールの記憶は、その後どのような運命をたどったのか。政教分離法の制定
(1905 年)や植民地主義、二度の世界大戦やホロコースト等、近・現代のフランスを
揺るがした多くの事件が彼の記憶と関わりを持つことになる。詳細は次稿に譲りた
い。
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※ R. F. : La Révolution française
山中 聡(Yamanaka Satoshi)
: 京都大学大学院文学研究科歴史文化学専攻西洋史学専修、博士後期課程 3 年次
住所:611-0031 京都府宇治市広野町宮谷 2-69
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접 수 일: 2007 년 12 월 27 일 / 심사개시:2008 년 1 월
심사완료: 2008 년
9일
1 월 28 일 / 게재결정:2008 년 2 월 28 일
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