線画家としてのパウル・クレー

モノクロームの
モノクロームの魔術師
- 線画家としての
線画家としてのパウル
としてのパウル・
パウル・クレー -
(展覧会パンフレット ISU2009 所収)
岸田 孝一
1. はじめに
わたしが初めてパウル・クレーの作品(複製ではなく本物)を見たのは,1954年の6月に,当時はまだ
東京・京橋にあった国立近代美術館での「グロピウスとバウハウス展 (Gropius and Bauhaus)」だっ
たと思うが,どうも記憶がはっきりしない.
ちょうど高校の最終学年で,わたしはその秋の学園祭における演劇部の出し物の演出兼舞台装置係
としての忙しい夏休みを目の前に控えていた.翌年春の大学受験のことは,いくらか頭の片隅にも引っ
かかっている程度だった.通っていた高校が男子校だったので,男優だけで上演できる脚本を探すの
に恐ろしく苦労した.ようやく,故・加藤道夫の作品「挿話(エピソード)」というのがあるとだれかが見つけ
てきて,「ちょっと難解な作品だけれど,これをやることにしよう」ということに決まった.
たぶん,バウハウス展に出かけたひとつの目的は,オスカー・シュレンマーの舞台美術作品のミニチ
ュアを見たいということだったと思うが,それは見事に期待はずれ(シュレンマーの舞台美術がよくないと
いう意味ではなく,わたしたちの芝居の上演には参考にならなかっただけ).あの展覧会で,わたしの眼
が思わず惹きこまれたのは,何年か前この小冊子にも書いたが,ジョセフ・アルバースの静かな抽象画
「正方形賛歌」であった.クレーについては,さて,どんな作品が展示されていたのか,まったく覚えてい
ない.
いまはフィルム・ライブラリに変わってしまったこの旧・近代美術館の映写室で観た何本かのモノクロ
ーム映画が,まだ印象に残っている.なかでも,フリッツ・ラングの無声映画時代の作品「ニーベルンゲ
ンの指輪」や,山中貞夫が前進座と組んで作った「人情紙風船」が,バウハウス展の記憶と関連して思
い出されるのはなぜだろうか.
翌年大学に入り,美術サークルで絵を描きはじめてから,クレーの作品はそれとなく意識の端にひっ
かかっていた.かつて舞台美術を手がけたせいだろうか,たとえば「船乗りシンドバッドの冒険」のような
物語性の濃いいくつかの作品には特に興味を惹かれた.それを真似て「喜歌劇・眼の壁」シリーズ(未
発表)を試作したりしたのだが,それは未完成のまま,スケッチブックにしまいこまれている.
クレーの作品や文章と深い関わりをもったのは,木原伸雄君の卒業論文のお手伝いで,当時はまだ
日本語訳のなかった Das Bildnerische Denken (造形美術家の思考)を翻訳したときであった.
一応第2外国語でドイツ語を履修したとはいえ,生来の怠け癖のせいでほとんど文法も単語も忘れてい
た.豊富な図版を含めておよそ500ページものこの書物をどう扱うかは難題だったが,とりあえず最初の
数十ページ,すべての単語の意味を辞書で引き,文法はほとんど無視して文章の意味を推測するとい
う力仕事を続けているうちに,なんとか新聞や小説なども読みこなせるようになった.まだ日本で紹介さ
れていなかった現代作家ハンス・エリヒ・ノサックやイルゼ・アイ ヒンガーの長編小説,ゲオルク・トラーク
ルやシュテファン・ゲオルグの詩集,あるいはフランツ・カフカの評伝などを拾い読みした語学力は,しか
し,いま,いったいどこへ消えてしまったのだろうか.
拾い読みといえば,ドイツ語だけではなく英語の本も乱読した(これは後年コンピュータ関連の仕事に
就いたときに役立ったが).本郷の大学図書館には,関東大震災からの復興のために欧米から寄贈さ
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れた稀観本がたくさんあって,授業をサボったおかげでありあまる自由時間をどうしたらよいかに悩んで
いたわたしには嬉しかった.
いまでも記憶に残っているベスト・スリーをあげると,第1位は,19世紀アイルランドの恐怖小説家ジョ
セフ・シェリダン・レファニュの全集.これを見つけたときは嬉しかった.まだロジェ・ヴァディム監督の映画
「血と薔薇」が公開される前だったので,美しい女性吸血鬼「カーミラ」の名前は,日本ではほとんど知ら
れていなかった(いまでは文庫本で読むことができる).
第2位はハーマン・メルヴィル全集.作者の肩の力が抜けている分だけ「白鯨」よりもできがよいと思わ
れる哲学的海洋冒険小説「マーディ – そして彼方への航海」が白眉だった.なんとか日本語に訳そう
と努力したのだが,途中で挫折した.ちかごろ,イ タリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの論考をきっか
けに,「潜勢力」(何かをすることもしないこともできる力)の概念をめぐって,思想界の一部で話題になっ
ている短編小説「書記バートルビー」も,この全集で読んだ(潜勢力問題については,月曜社刊「バート
ルビー - 偶然性について」および新潮社刊「バートルビーと仲間たち」参照).また,エジプト旅行日記
の一節は,ある雑誌から美術評論を依頼されたときに引用させて貰った.
第3位は,専門学科向け開架閲覧室に並んでいた数学・物理学・天文学のクラシックス.ゲオルク・カ
ントール,アイザック・ニュートン卿,さらにはティコ・ブラーへなど,それまで名前しか聞いたことのない人
たちの著書がずらりと並んでいた.しかしこちらは,肝心の中身は難しくて歯が立たないので,文学や哲
学の匂いのする部分だけをまさしく拾い読みしただけ.
余談が長くなった.本題に戻ることにしよう.
2.創造者の告白
ユルク・シュピラーの編集による「造形美術家の思考」には,前半の100ページ弱に,クレーが書き残
したメモやエッセイ,講演の原稿がまとめられ,後半の400ページ強には,1921年11月から翌年の12
月まで,バウハウスでかれがおこなった造形講義のノートが収められている.それは,すでに以前から出
版されていた名著「教育的スケッチブック」の完全版ともいうべきものであった.
「美術は,目に見えるものを再現するのではなく,(見えないものを)見えるようにするのだ」というよく
知られた名文句で始まるエッセイ「創造者の告白」(Schoepferische Konfession) は,この本の76
~80ページに収められている.クレーがこのメモを書き始めたのは,第1次世界大戦の兵役から帰った
1917年ごろらしい.そして,1920年にベルリンで発行されていた芸術雑誌に発表された.
クレーは,最初,線画家そして版画家(エッチング家)として,画家としてのキャリアを始めた.1914年
春,スイス人のルイ・モワイエ伯爵の誘いで,画友アウグスト・マッケも一緒にチュニジアへの旅に出かけ
る.その途中,イスラムの4大聖地のひとつであるカイルアンで色彩の啓示に目覚めるまで,かれは線画
家であった.4月16日の日記には次のように記されている:
わたしは.いま,仕事の手を止める.何か知らぬが,心の奥深く,和やかに染みこんでくるものが
ある.それを感じて,わたしの気持ちは安らぐ.あくせくするまでもない.色彩がわたしを捉えたの
だ.自分のほうからそれを捜し求める必要はない.わたしにはよくわかる.色彩は永遠にわたしを
捉えたのだ.わたしと色彩とは一体になった.まさに至福のひととき.わたしは画家なのだ.
しかし,その後もかれは線画家であることを止めなかった.生涯に描いた線画作品の総数は3000点
を越える.クレーはある種の整理マニアだったから,それらの作品には,きちんとコード番号をつけられ
ているに違いない.両親が,そして妻が音楽家であったせいでもあろうが,クレーは20世紀の美術家の
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なかでは,もっとも音楽的な造形を心がけた人物だといえよう.かれは,さまざまな記号や符号を含んだ
自由な造形を目指していた.インゼル版線画集のあとがきでヴィル・グローマンが指摘しているように,
その作品は,現実性から少しずつ遠ざかりながら,音楽における楽譜のようなものに近づいて行く.
さて,冒頭に引用したクレーのことばの原文は:
Kunst gibt nicht das Scichtbare wieder, sondern macht sichtbar.
であって,そこには何を「見えるようにする」のかは明示されていないが,「見えるようにする」という以上,
対象はそれまでわれわれの目に見えなかったものであると考えるのが自然だと思われる.そのとき,しか
し,どこからか「.… しないほうがいいのですが」という書記バートルビーの呟きが,幻聴のように聞こえて
きたりするのはなぜだろうか.しばらくは,続きの文章を追ってみよう.
グラフィック・アートは,本来,抽象に適している.それは,暗い御伽噺めいた性格を持っていると
同時に,自らを精密に表現する.グラフィックな仕事が純粋なものになるにつれて,すなわちグラ
フィック表現の基礎である「かたち」の要素への比重が大きくなるにつれて,目に見える事物の写
実的な描写は次第に不完全なものになる.
グラフィック・アートの形式要素は,点および線・面・空間のエネルギーである.もっとも基本的な
面の要素はといえば,太い鉛筆によって作られたエネルギーであり,同様に基本的な空間要素
は,たとえばたっぷりと絵具を含ませた筆で描かれる,ぼやけたさまざまな濃さの点である.
より深い認識の領域に地形図をこしらえるために,小さな旅を試みよう.静止した点は,運動を
始めなければならない(線).ちょっと進んでは立ち止まり,息を入れる(休息の回数だけ途切
れる線).どのくらい来たかを振りかえる(逆向きの線).心の中でルートを吟味する(線の束).
川にぶつかりボートに乗る(波動).上流には橋が見える(いくつもの孤の連なり).やはり深い
認識の地を目指す同志に出会い,一緒に行くが(平行し重複する線).やがて意見が合わなく
なる(2本の線が勝手な方向に進む).そのうちに2人とも興奮する(ダイナミックな線の躍動).
耕された畑を横切り(たくさんの線で区切られた面),深い森に入る.友人は道に迷いあちこち
探し回り,狂った犬のような軌跡を描く.わたしのほうも決して冷静ではない.川の上に霧が立
ちこめる(空間的要素).だが,すぐに晴れる.籠作りたちが荷馬車に乗って家路につく(車輪).
道端に立つ子どもたちの髪がかわいらしくカールしている(螺旋).やがてあたりの空気が蒸し
暑く暗くなる(空間的要素).地平に稲妻が走る(ジグザグの線).でも頭上にはまだ星が出てい
る(ばらまかれたいくつかの点).やがて宿に辿りつく.眠る前に多くのことが思い出される.こうし
た小さな旅はかえって印象的なのだ.
いろいろな線.斑点.滑らかな面.斑な点で飾られた,あるいは線で区切られた面.波動.休止
によって区切られた動き.反対方向への動き.籠細工そして編まれた髪.小屋の壁.ひとつの
音,複数の音.絡み合い,時には強くなる線(ダイナミクス).
初め,線は均衡を保ちながら進むのだが,そのうちに障害にぶつかって気力を振るい立たせ,
身震いをじっと抑える.希望に満ちたそよ風の心地よさ.雷雨の前に羽虫が襲ってくる.怒って
叩きつぶす.藪の中の夕暮れには導きの糸があればよい.稲光りは,急激に上下する体温の
カーブを思い出させる.むかし,子どものときにかかった熱病のことを.
きわめてわかりやすい文章だが,しかし,だまされてはいけない.これはまるでデパートのマジック・シ
ョップ・コーナーで手品の仕掛けを説明している売り子みたいな口調である.万人向きのお座敷芸のネ
タを除けば,魔術師がほんとうの芸の種明かしをすることなどありえないのだ.上述の文章は,だから,
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自作のグラフィック・アートを観にくるであろう一般大衆に向けたとりあえずのメッセージだと解釈したほう
がよいだろう.「これがすべてだと誤解するならそれもよし」という居直りの姿勢も感じられる.
クレーの文章は,次のように続く.
以上,グラフィック表現の諸要素を列挙した.視覚芸術の作品には,これらの要素が必ず含まれ
ている.だからといって,作品がこれらの要素だけから成り立つのだと考えてはならない.要素は
作品を作品足らしめる「かたち」を生みだすためのものなのである.しかし,「かたち」を生成する
そのとき,要素は自らを犠牲にしてはならない.自らをきちんと保持しなければいけないのだ.
「かたち」あるいは対象あるいはそのほかの副次的なものを構成するためには,いくつもの要素
を組み合わせることが必要になる.たとえば何本かの線から作られる面(小川の流れ)とか,3次
元的なエネルギーを持つ空間要素(入り乱れて泳ぐ魚)とか.
このようにして「かたち」のシンフォニーを豊かなものにして行けば,そのヴァリエーションの可能
性は無限になり,さまざまな「想い」(Idee)を表現することが可能になる.
もちろん,画はまず(描くという)行為から始まるのだが,その前に(何を描くかという)「想い」がな
ければならない.無限なるものには始まりはない.円のように始まりがない.画家にとって「想い」
こそが,もっとも基本的なのである.「初めにことばありき」とルーテルもいっている.
これは,いささか理解しにくい文章だが,ひとつだけはっきりしていることがある.クレーは,画とは「何
かを描く」ものだと考えている.目に見えるものを再現するのではないが,何かを見えるようにすることが,
画家の仕事だというのが,かれの考えだった.このあたりが,20世紀後半に登場した新しい画家たちと
の決定的な違いだといえる.
たとえば,以前(1998年)この展覧会のパンフレットで紹介したバーネ ット・ニューマン(アメリカ抽象
表現派の代表的画家)のことばをもう一度聞いてみよう:
わたしが感じていた当時の問題とは,「画家にいったい何ができるのか」でした.そして,主題の
問題が非常に重要であることがしだいにはっきりしてきました.技法でも,造形性でもなく,作品
の見え方でも,タブローの表面でもない.そういったことはすべて,特別な意味を失っていました.
わたしだけでなく,ジャクソン・ポロックやその他の仲間たちにとっても,問題は,「いったい何を
描くのか?」ということだったのです.
われわれのうちの何人かは,作品から対象となるものすべてを取り除きました.怠惰な裸体,花,
その他,最終的に,なにかしら物語めいたものへ還元されるようなものを,です..... 多くの画家
はまだ美しい世界を描く作業に熱中していましたが,われわれは,世界は決して美しくなどない
ことを認識したのです.
われわれが解明しようとした倫理的な問題とは,「美化すべきいったい何があるのか」ということで
した.解答のきっかけをつかむ唯一の方法は,まず,美化されうる外部世界という観念を捨てるこ
とだったのです.「ゼロからの出発」と,わたしがいったのはそういう意味なのです.
これはまさしく,「われわれは,何かを画に描くのではなく,ただ画を描くのだ」という決意の表明だとい
うことができるだろう.その背後には,富永仲基のいう三物五類のテーゼ「およそ言に類あり,世あり,人
ある」に即していえば,「世」すなわち時代の潮流の変化が読み取れる.クレーが若い精神を育てた20
世紀前半は,科学の進歩に対する人びとの信頼が高まった工業化社会の興隆期であった.その指導
的役割を担った物理学の世界では,相対性理論や量子力学の分野で新しい理論の誕生や発見のニュ
ースが次々に報告されていた.キュービズムその他の美術運動がこうした科学分野における革新の流
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れにかなりの影響を受けたことは間違いない.「目に見えるもの」すなわち人間の視覚によって感知でき
る範囲を越えて世界の真実は広がっているのだという認識が,画家たちを刺激したのである.「(何かを)
見えるようにするのが自分の仕事だ」と宣言したクレーも,そうした時代の子であった.谷川俊太郎が,ア
ニメ・鉄腕アトムの主題歌に「ラララ科学の子」というフレーズを書いたのも同じ流れを汲んでいる.
ナチスの暴政を逃れてアメリカに渡ったヨーロッパの美術家たちの多くは,科学の進歩が必ずしも人
間の幸福にはつながらないことを実感していた.かれらの不安感は,やがてニューヨークの若い絵描き
たちの心にも浸透し,いわゆる抽象表現派グループ(単一の流れではなく,それぞれが独自の方向を目
指して活動を開始した画家たち)の誕生をもたらした.共通のスローガンは「何かを描く」のではなく,「た
だ画を描く」,それだけであった.
3. 造形思考講義
1921年,クレーはワルター・グロピウスに招かれてワイマール・バウハウスの教授に就任する.そこで
のかれの造形講義は1921年11月14日に始まり,翌1922年12月まで続けられた.開講にさいしてか
れは「概念としての分析」と題する短い前置きの演説を行っている.
日常の会話で取り上げられる化学分析の話をしよう.ある製薬会社が売り出した薬がよく効くと評
判になり市場で成功を収めると,競争相手がサンプルを科学者のところへ持ち込んで分析しても
らう.科学者はそのサンプルを成分に分析し,どれが有効なのかを解明する.あるいはある薬品
が健康に有害だという場合には,同じような分析によってどの成分が悪いかが判明する.いずれ
の場合にも最初に与えられるのは,よくわからない要素から成り立っている全体であり,分析の結
果,全体を構成する成分とそれらの働きが明らかになる.
われわれ芸術家が行う分析の動機は,それとはまったく異なる,分析対象の作品を構成要素に
分けてそれぞれの働きを調べるというようなことはしない.われわれは,自らの足で歩き出すため
に,先人たちがかれらの作品の創造にさいして通っていった道を探ろうと努めるのである.
こうしたアプローチをとることによって,われわれは,芸術作品を何か固定不変なものとして理解
するという誤りから免れることができる.贋作者たちのように,忍び足で作品に近づき,目についた
ものだけをすばやく盗み取って逃げ出すというような行為を避けることができるのである.
作品の成立プロセスを探求するというこの分析アプローチを,わたしは「ゲネシス」(創世)と名づ
けたい.世界創造について書かれたモーゼの第1の書もまた「ゲネシス」(創世記)と名づけられ
ている.そこには,神が最初の日に何を創ったか,2日目に何を創ったか .… が書かれており,
世界を構成する諸要素が時系列的に分類されている.
われわれは造形美術家である.「かたち」の創造を目指す実践者である.したがって,「かたち」と
いうものが作られた有史以前の始まりについての意識を,片時たりとも忘れてはならない.作品
が「かたち」だけから成り立つかのように誤解することのないように切望するが,しかし,表現のた
めの道具を持っていなければ,自然,動植物,この大地の歴史,あるいは星などについての学
問的知識は少しの役にも立たない.われわれが「かたち」を表現する道具を持っていなければ,
どのように深い心情も,どんなにうつくしい魂も役に立たないのだ.
そうした前提の上に立って,わたしは,造詣美術家にとっての「かたち」が始まるところから,すな
わち「点」が動き始めるところから,この講義を始めよう.
このスピーチを前置きにして,クレーの造形講義・第1講「かたちの要素(Form)について」は開始さ
れる.その筋立ては次のとおり:
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11月14日 線(能動的,受動的,中間的)
11月21日 演習(テーマはヴァイオリン)
11月28日 線,平面,そして空間における位置づけ
12月5日 演習(平衡的な表現,面を用いた構成)
講義(空間的・立体的表現と運動の統合
12月12日 造形要素としての重さ.力のバランス.積荷.量と質,両者の関係
1月9日 演習(テーマはイニシャル文字)
1月16日 構造を持つ「かたち」.分割できるものとできないもの.
造形美術家の行為としての測量・計量.時間の単位と長さの単位.
1月23日 演習(テーマは分割不可能なものおよび構造的リズムによる構成)
講義はさらに,第2講 「生成の根本概念.運動の造形」(1月30日~4月3日),第3講 「造形全体の
構成.運動のメカニズム」(5月15日~7月3日),第4講 「色彩の秩序と変質」(11月28日~12月19
日)と,休暇の期間を除けばほぼ1週間に1回のペースで行なわれている(後半に行くにしたがって演習
の頻度が高くなる).
全体として,なかなか魅力的なシナリオのように見受けられる.しかし,もう一度注意しておこう.魔術
師の手つきにだまされてはいけない.これは,ただ,プロの画描きあるいはデザイナを志す若者たち向
けの手品の種明かしであって,絵画創造の秘密を明かしているわけではない.
4.「かたち」はどうやってできるのか
白川静先生の「字統」によれば,「形」という漢字のヘンの部分の初形は「井」.これを首枷のかたちと
見れば「刑」の意味になるが,しかしそれは鋳型の外側の表象でもあるので,範型の意味にもなる.ツク
リ「彡」は色彩や光沢の美しさを示す.つまり,型を用いて生成された美しいものが「形」なのである.孟
子に「形色は天性なり.ただ聖人にして然る後,以て形を践(ふ)むべし」(天与の形も修行を積んでこそ
初めて完成される)という記述がある.また礼記には「天に在りては象を成し,地に在りては形を成す」と
記されている.架空の観念的シンボ ルが現実世界に出現して「かたち」が生まれる,と中国の古代人た
ちは考えていたらしい.
そして,「すべてのものの生成の根本には運動がある」というのが,先に引用した「創造者の告白」の
後段に記されたクレーの立場であった.かれはいう.
若いころ,わたしたちが頭を悩ませながら読んだレッシングの「レオコーン」では,時間芸術と空間
芸術との違いが,ひどく大げさに論じられていた.しかし,よく考えてみると,この区別は単なる錯覚
にすぎない.なぜなら,空間もまた時間的概念なのだから.
ひとつの点が 動いて線 を描くには時間が 必要だ.線が 面 になるときも,また面 が空間 になるときも
同様である.1枚の画は一瞬にしてに完成するわけではない.家を建てるときと同じように,少しず
つできあがってゆくのである.では,鑑賞者はどうか.いっぺんに作品を理解するのだろうか.そう
ではあるまい.「絵画を鑑賞するには椅子は必要だ」とフォイエルバッハもいっている.何のための
椅子か.それは,長時間立ちつくして疲れた足が心を痛めないようにするためのものである.
舞台は時間,登場人物は運動なのだ.時間を持たないのは静止した「点」だけだ.宇宙全体にお
いて運動こそが規定の事実なのであり,地上における事物の静止状態は,それらが偶然立ち止ま
っているだけのことである.静止を本来の性質だと考えるのは,見かけにだまされているのだ.
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文字の生成プロセスは,まさに運動の典型的な例である.造形美術の作品もまた生成プロセスとし
て体験されるべきものであって,最初から完成したものとして受け取られるものではない.画家が制
作にあたるとき,炎のようなものが心の中に燃えあがり,それが手を通って紙の上に流れ出し,再び
閃光のようにもとのところへ戻って行く.このサイクルが何度も繰り返されるのだ.
作品を鑑賞する人びとの行為も同じように時間的である.眼は一度に一方向しか観ることができな
いので,作品の一部分しか 視野に入らない.他の部分を見るにはそこから一度離れなければなら
ない.かれは,画家と同じように,1ヶ所に留まることなく,あちらこちらへの移動を繰り返す.画面の
上には,牧草地のように,鑑賞者の視線が辿って行くべき道筋があらかじめ用意されている.美術
作品は運動によって生み出されたもの,そのように定義されたものであり,したがって「観る」という
運動によって知覚されるものなのである.
これもまた,とてもわかりやすく親切な説明であって,一見,何の文句のつけようがないように感じられ
るが,はたしてそうなのだろうか.あらゆる意見の表明には100%の真実はない,と一般意味論者は指
摘する.もちろん,反対意見も100%正しくはない.真実はどこかその中間にある.
白紙の上に「かたち」を描こうとする場合,「点」の運動によって「線」が生まれるというのはたしかだが,
それでは,もし,タブローが白紙でなかった場合はどうなのか.わたし自身,ここ十数年間,まず画面をさ
まざまな色で塗りつぶしておき,それをホワイトで消しながら,画面の底に隠された「点」や「線」を発掘す
るという描法をしばしば試行してきた.この方法による作品の制作プロセスは,まず画面全体を一瞬にと
らえ,それからランダムにどこかへ落下して,そこに埋もれている「点」や「線」を掘り出し,ふたたび空中
に舞い上がって次の場所を探すという作業の繰り返しになる.それは,白紙の上を旅するクレーの手法
とはまったく異なる,運動の次元がちがうといってもよい.礼記の筆法を借りるなら,「地中に在りては象
を成し,地表に現われては形を成す」である.儒教哲学のいう「型」などは存在しない.むしろ老荘哲学
の考え方に近い.「クレー・マジック,ここに敗れたり」というべきであろうか.
クレーの線画が多くの人びとを魅了し 続けることの理由のひとつは,その文学性,より正確にいえば
独特のユーモアを含んだ物語性にあると考えられる.画面に散らばった古代文字のような記号の群れ,
あるいは多彩な線(直線そして曲線)で描かれたさまざまな「かたち」.それらの「かたち」のいくつかは,
日常身のまわりに見られる事物のようでもあり,また,どこか異次元の世界から飛びこんできたもののよう
でもある.鑑賞者は,クレーによってあらかじめ設定された道筋を辿りながら、それらの「かたち」を拾い
集め,心の中に浮かんでくるイメージにもとづいて,それぞれお好みの物語を構成することができるよう
になっている.
以前,ある社会評論家と雑談をしたとき,かれが住んでいる鎌倉の近代美術館で開かれたクレー展の
ことが話題になった.「あの展覧会は楽しかった.どの画の前でもとにかく笑いがとまらなかった」と,かれ
はいった.おそらく,それまで現代美術には無縁だったかれを魅了したクレーの作品の特徴は,英語で
は Cartoon と呼ばれる「ひとこま漫画」の持つユーモアの味わいだったのである.Cartoon は,日本
では 新聞の政治欄 くらいでしか見られないが,イ ギリスには19世紀半 ばに創刊された 専門誌 Punch
があり,アメリカでも Newyorker など主要誌には必ず掲載されていて,その作者も高い評価を受けて
いる芸術ジャンルのひとつである.
クレーの作品は Cartoon とはちがって,社会風刺や政治批判を主題にしているわけではない.し
かし,その底には Cartoon と同様なユーモアの精神がひそんでいる.おそらくそれが,日頃政治的ひ
とこま漫画に慣れ親しんでいたわたしの友人に,クレーの作品への共感を呼び起こした原因であろう.
日常の現実ではなく,目に見える世界の奥に隠れている「見えないもの」に風刺的な視線を注ぎ,「見え
るもの」を描き出す.いわば宇宙を題材にした Cartoon というのが,クレーの描いたたくさんの線画の
本質であった.
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5.エキゾティシズムの彼方へ
1902年4月18日,イタリア旅行の最後の逗留地フィレンツエで,クレーは,昼間ボッティチェリの「ヴィ
ーナスの誕生」や「春」などを鑑賞した夜,小さな劇場で川上音二郎一座の公演を観て,主演女優マダ
ム貞奴の演技にすっかり魅了された.かれは,その日の日記にこう記している.
サダヤッコが一座の花形として際立つのではなく,一座全体の醸し出す雰囲気が観客を魅了し
た.あらゆるものに,出し物そのものにも,また演技にも,原始的で素朴な自意識が感じとられる.
しばらく静止しているかと思うと,ふいに突拍子もなく次の所作へと進んでゆく.もっぱら踊りと修
羅場が中心だ.伴奏の音楽は,野蛮というにつきる.斬り合いになると,喘ぐ喉の奥から「クックッ」
「ツゥツゥ」と声を振り絞る,それが全体にリズムを与え,立体的な効果をあげている.グロテスクな
ユーモア,それに巧みな曲芸.サダヤッコは,まさにギリシャのタナグラ人形だ.しゃべる口元が
かわいい.結局はかの女のすべてがかわいいのだ.そのすすりなくさまを見れば,かの女の奥ゆ
かしさがしのばれる(それに比べると,ヨーロッパの舞台で見られる涙は,何ともそらぞらしい).か
の女が寝床につく姿を見れば,嘆声の溜息が胸をついて出る.これは,妖精なのか,それとも現
実の女なのか.いや,現実の妖精なのだ.なぜなら,ここにあるものはすべて,そのまま現実の演
技なのだから.
これまでの経験や知識では理解しがたいイメージや記号へのあこがれが,この記述からはうかがわれ
る.それは,近代美術の背景にあって,その潜勢力を構成していたエキゾティシズムの誘惑だということ
ができるだろう.パリ万博や貞奴の影響によって,ひところのフランス画壇を席巻し,ゴッホやその他の画
家に大きな影響を与えたジャポニズムの名残りが,クレーの時代に,まだ残っていたのであった.
1956年の暮,20才になったばかりのわたしは,美術サークルの会誌 NOVA 第2号に「エキゾティシ
ズム試論」と題する小文を寄稿している.その趣旨は,数年後に東京大学新聞に寄稿したエッセイ「不
朽という幻影」(「いす」1995に再録)と同様である.いささか乱暴だが,ルネッサンス以降現代にいたる
西欧美術の流れを「リアリズム」すなわち,科学を媒介とし,自然を対象として,世界の真実を追究するア
プローチとそのヴァリエーションでしかないと断定するというのが,当時の(そしていまもあまり変わらな
い)わたしの立場であった.
ところで,世界を理解するとはどういうことか.美学者ウィルヘルム・ヴォリンガーは,「美的享受とは客
観化された自己享受に他ならない」と指摘した.すなわち,画家たちが描写対象の背後に発見したもの
は自分自身の個性の 影でしかない.したがって,その作品が鑑賞者に大きな感動を 与えるためには,
作者自身が強烈な(パブロ・ピカソのように「いやらしい」)個性の持ち主でなければならないのである.
当然のことながら,並みのアーティストにとってそれはほとんど不可能に近い.そこで,「リアリズム」から
「エキゾティシズム」への逃避が始まったのだ.
ここでいう「エキゾティシズム」とは,単なる「異国趣味」の意味ではない.とにかく珍しいもの,自分の
経験や理解を越えるものすべてを安易に受け入れる態度をいう.それは,もともと創造者ではなく,芸術
鑑賞者のとるアプローチであった.それが,近代以降は,美術家たちに伝染し,たえず目新しいもの,
他人とは違って見えるものを追い求めるという陥穽に,ほとんど全員が堕ちていったのである.しかし,こ
の路線を進む限り,人間の眼は機械にはかなわない.ヨーロッパ文明の混乱を一手に引き受けたアメリ
カにおいて,映画芸術(CG を活用した SF etc)が隆盛を極めたのは,理由のないことではない.
クレーのタブローに散見される奇妙な記号や不可思議な機械,異次元の風景などは,やはりかれの
エキゾティシズム指向をあらわすものなのだろうか.昨年の暮から,日本各地の美術館を巡回している
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展覧会「パウル・クレー:東洋への夢」(9月5日~10月18日は神奈川県・横須賀美術館)を観れば,あ
るいはその答えが見つかるかもしれない.
エドガー・アラン・ポーの短編小説「ゴードン・ピムの物語」の最後は,次のような暗示的描写で終わっ
ている.
それは,はるか無限に遠い空の城壁から,海へ向かって流れ落ちて行く永劫の瀑布とでも呼ぶ
ほかはなかった.この大きな布は南の水平線いっぱいに広がっていて,音ひとつ立てないのだ
った.そしていま,われわれは,大きな口を開けて待っている瀑布のふところへと進みつつある
のだ.だがそのとき,われわれの行く手に,経帷子を身に纏ったひとりの人間の姿が立ちあらわ
れた.それはどんな人間とも比較にならないくらい大きな姿だった.そしてその皮膚の色は,雪
のように真っ白だった.
才のわたしは,この文章を引用して,
だ」と宣言していた.
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「まさにこのような地点から抽象絵画の精神は出発するの
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