「神にせまられた改革」 - 学校法人東洋英和女学院

2011 年度
東洋英和女学院
全学院新年度礼拝説教
「神にせまられた改革」
聖書:イザヤ書
24 章 17 節~20 節
聖学院大学大学院長
日本基督教団牧師
大木 英夫
アメリカのテレビは、東日本大震災の光景を「アポカリュプティック」
(ヨハ
ネ黙示録的)という言葉で言われているとのことを聞いた。黙示録は世の終わ
りについて語っている。この地震の大揺れを経験したとき、わたしはイザヤ書
もとい
(24:18)の「地の 基 震い動く」という言葉を思い出した。まさに前代未聞の
激烈な地震と津波が襲ってきた。-しかし、振り向くと、日本はその後、世界
中の国々から、アフリカの聞いたことのない国からも、援助の献金やその他い
ろいろな助けが寄せられているという。日本は世界からこれ程まで善意をもっ
て見つめられている。こんなことは日本の近代史におよそなかった。
司馬遼太郎は『この国のかたち』という本を書いた。日本文化には「かたち」
への強い関心がある。しかし、大災害は、過去の「かたち」を破壊する。
「かた
..
ち」は外面である。テレビが映し出ているのはまさにその「かたち」の破壊で
....
ある。たまらないほど悲惨な光景である。これからの課題は、国の基礎から、
....
つまり外面ではなく、国の内面から全体をどう改造して行くか、そういう基礎
....
から内面からの「国づくり」である。
この巨大な崩壊は、戦後の国づくりの失敗を暴露しているのではないか。地
震国日本は、何度も大地震を経験しながら、その経験を生かした堅固な国づく
りに成功しなかった。今から八十八年前、関東大震災があった。東京は壊滅し
た。その時どんな「国づくり」を始めたのか。時の大正天皇は「国民精神強化
振興の詔書」なるものを発布した。その趣旨は大正リベラリズムの軽佻浮薄を
排し、質実剛健、忠孝義勇など、明治天皇の教育勅語の倫理道徳に立ち返り、
国家再建の企てを励ますものであった。昭和に入って、そういう日本の空気の
中で新しい時代の人間はどう育って行ったか。わたしはここで、その時代の中
に生を受け、成長して行ったひとりのエリートのことを思い出す。
臼淵磐、吉田満著『戦艦大和の最期』の中に際立つ当時海軍大尉、生れは大
正十二(1923)年八月、その一カ月後の九月一日、あの関東大震災がきた。彼
は横浜一中四年から海軍兵学校へ入った抜群の秀才、あの敗戦の年の四月には
二十一歳で大尉に昇進、なんとか戦局を逆転させようと「不沈艦」と言われた
戦艦大和に乗り組んで、沖縄目指して出航した。
「戦艦大和」に乗り組んだ若い
将校たちは皆大正天皇の詔勅の導く中で成人したばかりの秀才たちであった。
出航後、真剣かつ深刻な討論の集いが開かれた。そのリーダー臼淵磐大尉は、
こう言った、
「日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。本当の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。俺たちはその先導に
なるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望ではないか」。この言葉を聞
いた吉田満尐尉(東大法学部卒から海軍士官となる)が、戦後書き残したので
ある。―その討論会のあと、この戦艦大和は、上空から群がる敵戦闘爆撃機の
集中攻撃を受け、不沈艦は、まっさかさまに海底に沈没した。―大正天皇詔勅
が導いた日本の「国づくり」はこういう結果となった。吉田満は生き延びて日
銀に入り、西片町教会の忠実な信徒として生涯を終わった。
戦艦大和の沈没四ヵ月後、二発の原爆を受けて、大日本帝国「大和の国」も
沈没した。それまで日本の国大和も、戦艦大和が受けたような攻撃を受けつづ
けた。その-ヵ月前のことである。三月十日は東京下町が大空襲の闇の中に巨
大な地獄火が燃えているような光景を、はるか遠い多摩御陵近くの高台にあっ
た東京陸軍幼年学校校舎からわたしはこの眼で見た。今も眼底に焼きついてい
る。十七歳であった。三月十日とは何の日か。実は、それは日露戦争の最後の
満州奉天の決戦に大勝利、それを記念した「陸軍記念日」、その日を狙った。―
今その同じ下町の地に、世界一高いというスカイ・ツリーがまもなく完成する
という。それが建つのは墨田区業平(在原業平・古今和歌集)、そのあたりに野
球の王貞治さんの実家もあった。この世界一のスカイ・ツリーで日本は誇りを
取り戻そうとしているのか。しかし、王さんはこう言った。
「若い人たちに大空
襲を知ってもらうきっかけになってほしい」。これは、まもなく完成するスカ
イ・ツリーをもって「世界一」とはしゃぐ日本の大衆を戒める言葉ではないか。
あの関東大震災、あの業火に焼かれる下町、不沈戦艦大和の沈没、そして、こ
の度、前代未聞の超大地震、テレビに映し出される光景、王さんの言葉は日本
人に「めざめよ」と呼ぶ声のように聞こえだす。―しかし、みよ、この惨状、
どう再建できるか分からないような惨状であるにもかかわらず、この日本に向
けられている世界のまなざしは違う。各国の関心と援助は、日本が今度こそど
う立ち直り、どう立ち上がるか、そういう願いをこめて助ける、驚くべき新し
い国際連帯を造り出しているのである。地球が新しい地球になりたがっている
かのように。地球が新しい連帯へと変動して行くのか。日本の立ち直りは、自
分たちの国、いや世界全体の立ち直り、援助隊の人びとの動きには新しい世界
結合への熱い思いが秘められている!!
ところで、この惨状にまできた戦後日本の「国づくり」はどうであったか。
戦後の復興は早々と戦争の悲惨を忘れさせ、あの東京オリンピック、大阪の世
界万博と、高度経済成長を遂げてきた。しかし、そういう中で、1973 年小松左
京の『日本沈没』という SF 小説が出た。この小説の暗示するような崩壊、この
東日本大震災は、日本沈没もフィクションとは言い難いという思いを呼び出す
であろう。
「地の基震い動く」という古い預言者の言葉が現代の経験となってい
るのである。しかし、振り向けば、世界諸国民は子ども達までも、日本の悲惨
に同情し援助する、それはこれからの世界は、この惨憺たる現状から立ち上が
って日本が復興を成し遂げる、それが諸国民の未来の希望を産み出すことを感
じているからではないか。だからこそ、この大震災は、わが国には、これまで
とは違う、日本の真に新しい再生のため、まさに「神にせまられた改革」とい
う課題を迫るのである。
「真に新しい再生」が「神にせまられた改革」、それは、あの臼淵大尉のいう
「敗れて目覚める」という転換によってはじまるのではないだろうか。
「日本は
進歩ということを軽んじ過ぎた。本当の進歩を忘れていた。」ここに言う進歩と
は、ふつう日進月歩という平板な前進ではない、この「進歩」とは、英語では
「プログレス」、それはあのバニヤンの言う『ピルグリムズ・プログレス』、旅
する者の前進、そこに記された「落胆の泥沼」から前へと這い出るようなプロ
........
グレスなのである。それは魂の神へのプログレスでなければならない。日本に
必要な臼淵大尉のいう「進歩」とは、こういう「本当のプログレス(前進)」、
なのである。一体グローバリゼーションとは何か。グローブ(地球)がグロー
バライズ(地球になる)、それは地球中心から太陽中心へのコペルニクス的転回
..
.. .....
..
とは違う。転回ではなく、転向、そこに前進(プログレス)がある。未来が見
えてくる。世界が未来に向かって転向していく、世界が世界史になる。人間を
単に「人体」として見るか、それとも「人生」として見るか。
「人体」は生老病
死、
「人生」のプログレスとは何か、それはその「死」を越え出て行くほどのプ
ログレス、人間の究極の課題は、死を越えることまで行くことなのである。
三月十日の思い出の残る地にたつスカイ・ツリー、その塔を支えるために、
日本の古代の五重塔建築に用いた「心柱(シンバシラ)」という設計方式を採用
した。一体「人生」の「心柱」とは何か。人生を支える「心柱」に当たるもの
は、決して五重塔を支える木の柱のようなものではない。そのような木の柱を
横倒しにしても人生の「心柱」にはならない。死を越えて行く、そのような過
去から未来へと生きて行く人生の「心柱」とは何か。臼淵大尉はこう言った。
「敗
れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか。いま目覚めずして、
いつ救われるか」。ここには実に深い人間理解が秘められているのではないか。
―わたしにはこういう経験がある。哲学者・務台理作の許講義で聞いた言葉で
ある。この人のヘーゲル演習は『小論理学』を用いたが、ヘーゲルの弁証法の
基本となる「有・無・成」
(ザイン・ニヒツ・ヴェルデン)とは、キリストの「生」
と「死」と「復活」を表わしているという説明をした。人生の「心柱」とは、
生と死と復活のキリスト、そのキリストが人生に同伴している、そのキリスト
が歴史を導く。―
わたしはのちに学生たちにこういう譬えで説明をした。自
転車の譬えである。自転車は停止したままでは立てない、
「スタンド」と昔いわ
れたものをかける。しかしスタンドを外さないと動けない、外さないでペダル
を踏んでも空回りするだけ、前進できない。だからスタンドを外して、前に向
.. ..
かって走る、走ると立つ、しかし「立つ」は止まっていて立つのとは「立ち」
....
...........
が違う。つまり、倒す、倒れるという否定的な力を、前へと進む積極的な力へ
......
と転換させる。
いま日本は真の「改革」を神に迫られている。だから臼淵大尉の言葉を思い
出す。
「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今、目覚めず
......
していつ救われるか」。否定的なものを媒介とし、前進して立つ、生まれ変わっ
.
て、「新しい人」に成る、それは「神のかたち」(創世記)に似せて作られた人
............
間のみがもつ可能性である。だから日本も「新しい日本」になれる、
「敗れて目
覚める」という否定媒介の開眼が新しい未来を見るのである。この悲惨に打倒
.........
されるのではない。新しい日本へ立ち上がる。それは、キリストという心柱を
もって生きる人間の、人類の、新しく生きる可能性があるからである。明治以
来、和魂洋才、つまり、古い革袋に新しい酒を入れようとした。革袋が破れる、
あの関東大震災の東京の惨状、この東日本大震災の惨憺たる光景、ここで見る
のは二度にわたっての古い革袋の破れであった。この東日本大震災という日本
.......
...
史上最大規模の惨状からどう今度こそ新しい国づくりをするか。それを全世界
........
が見ている、いや、神が見ておられるのだ。人生も、社会も、まさに現代史の
....
グローバリゼーションの心柱もキリストなのである。そのようにして、世界一
....
のスカイ・ツリーよりも、世界に奉仕する世界一の新しい国として甦る。キリ
スト教教育はこんな大きな課題と今こそ取り組まねばならないのである。
(2011/04/08)