居住環境デザイン第 9 回「光について」 作成者:井上、瀧田 “かた”から“かたち”の間に光は定義される ■はじめに き出し、自らを演出しつつも、光自身が空間に還 “かた”、“かたち”とは、菊竹清訓の「か・かた・ 元される。ここでは光が空間で、物質が石である。 かたち」のことである。それについてはここで述 また、石が空間でもあり、光が物質でもある。 べることは避け、第 3 章を参照していただきたい。 □ロンシャン教会(色の光) 私たちは、光は一概に定義できないものであると ロンシャン教会は光の窓と言われる小礼拝堂の して考え、建築をかたちづくるさまざまな光につ トップライトが石灰質の仕上げで受け止め、内部 いて考えていきたい。 空間に光のグラデーションを与えている。コルビ ュジェはロンシャン教会で光と影という空間構成 ■光について を時代に対し発し、再確認させた。ロンシャン教 先述したように、私たちは光を“かた”から“かた 会の光は微妙な差異により、グラデーションが生 ち”の間で定義されるものだと考えている。その事 まれ、それはあたかも一枚のキャンバスに彩色し 例を作品を挙げ以下で述べ、考察する。 ていくかの如く、色を重ねるように光は存在して □パンテオン(天の光) いる。 ドームの頂点から光を空間に導き、闇の中に差 □日本建築の光(陰の光) す一筋の光が我々にあたかも天空世界と繋がって 日本建築の光を語る上で、谷崎潤一郎の陰翳礼 いるように思わせる。 『この光によって球状の閉ざ 讃は無視できない存在である。その本のなかで、 されたミクロコスモスがマクロコスモスに連続す 谷崎は『われわれの座敷の美の要素は、この間接 ることが可能にさえ感じる』と磯崎新は評し、こ の鈍い光線に外ならない』と述べ、日本建築の光 の光の意義を説明した。西欧の礼拝堂やホールに はバウンス・ライトすなわち、反射する光である 多用されるこの光の使い方は、差し込む光の形式 とした。前述したような西欧の強い光によって導 的な定番であり、その光は内部空間を天界へとつ かれる影ではなく、屋根の下にできた曖昧な陰で なぐようなという あり、かげりである。それは庇、縁側といったも かた の間に定義される。 □ル・トロネ修道院(空間の光) のに対し、光を反射させ内部に取り込んでいるか 粗い石を用い、徹底的に装飾を排除したことで らで、屋内に行くにつれ光は弱まり、陰(=さえ 素材への還元と光の体験を主題とした建築である。 ぎられて光が直接当たらないところ)の空間とな 光に照らされた石が我々の身体に密着してくるよ っていく。このように日本建築での光は、陰の空 うな存在感を醸し出し、そこにいる人を光の幻想 間をつくるために用いられる。 的な体験へ導く。 『この光が壁の厚みを通り抜ける □ユダヤ博物館(歴史の光) 間に、変質し、密度を増し、目に見える空間のか ユダヤ博物館の光は残虐なユダヤ人の歴史を感 たちと化すのである』とルイス・I・カーンは評し、 じさせるために用いられている。通路を歩かせて、 光が石の素材へ還元されている様を説明した。光 光と影のバランスで感じさせ、建築自体が博物館 は石という素材の粗さ、肌理、表情を最大限に引 となっている。光は暗いヴォイドの空間をユダヤ 人の絶望と沈黙という歴史を体感させている。 □光の教会(記号の光) 建築の要素を徹底的に削ぎ落とし、限られた開 口部から差し込む光にすべてが集約されるような 空間を意図している。光は記号として存在し、そ れは かたち になって、はじめて定義される。 □サヴォア邸(衛星の光) 「光は快適な暮らしへのカギである」このよう に述べているようにコルビュジェは光の衛生面の 影響を説いた。サヴォア邸では屋上から光を取り 込み、日光の良くあたる住宅としている。そこに は屋上庭園という概念とともに、光の衛生面に配 慮した設計計画が見受けられる。 □中野本町の家(存在の光) 中野本町の家を代表するパースペクティブがあ る(別紙参照)。これは鮮明な一筋の光が空間に差 し込み、一つの椅子を照らしている。これは夫を 亡くした妻と子供二人のために、夫の記憶を絶や さないようにしている。そこには常に夫の記憶が 存在し、生活の中に在り続ける。中野本町の家は 存在の光であり、それは今は亡き夫の記憶を表現 している。 ■おわりに 以上のように建築における光は多岐に渡る。そ れは一概に「光とはこうである」と定義できるも のではなく、建築作品、用途、時代、地域によっ てそのニュアンスが異なる。“かた”から“かたち”へ と変化するとき、つまり、形態へ建築を変換する ときに初めてその建築での光が定義される。
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