Title 「竹取物語」の潜勢力 : <始まりの>様式 Author(s) 谷口, 卓久 Citation 札幌国語研究, 4: 59-68 Issue Date 1999 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2626 Rights 本文ファイルはNIIから提供されたものである。 Hokkaido University of Education ﹃竹取物語﹄ の潜勢力 −<始まり>の様式− ろに文字の発生があった。日に見えるも.の、自に見えないもの、 もの あらゆる存在が文字に盛り込まれた。︵存在︶は、ことばとなり、 ︵注1︶ 形象化して、ことばの呪能を内在させることを目的とするとこ ︵生命︶ということばは、現代のもっとも根本的であるとと 文字化されることにより、想像の喚起・再生を促した。それ故 H 序 もに汎く深く関心を人々に喚起していることばである。四〇億 に、存在の魅惑は、表現としての︵ことば︶のなりたちの歴史 を生活体系の総体としての視座で受け容れる必要がある。こと 年とも言われる地球の︵生命の歴史︶を考えるに、現代は、︵生 命︶ ばの問題は、文字学・文学の域にとどまらず、文化史の開港で の概念そのものが改めて問われている時機にある。日に見 えて在るこの世界に生きているわれわれには、いったい︵何処 もある。 蓬生巻︶は通称にすぎず、宮廷の時の場では、†竹取の翁︵の ﹃竹取物語﹄の書名をめぐつて、﹃かぐや姫の物語し︵源氏物語・ から来たのか、何者であるのか、何処へ行くのか︶という問いが、 切実な問いとして古くからあった。生命の始まりは、さまざま な不可思議を胚胎t、誕生は、誕生したものにとっての新しい 以前の伝本が未発見の現在においては、作品の成立過程を含め の概ねは、﹃竹取翁物語﹄であり、﹃竹取物語﹄と遺されて たけとりのお書&のものがたり 物語︶L ︵源氏物語・絵合巻︶と呼ばれて、これを正式名とすべ 世界の始まりであるとともに、新たに関係を結ぶ周囲にとって も新しい世界を拓く。・創生は、まさしく創世である。伝承され きだとの指摘がある。現存する伝写本のうち、正統をなすもの た︵ことば︶が湛えている世界があるとして、.︵文字︶を通して、 われわれは文字以前を想像する。文字は、ことばの器として生 まれた。ことばの生成に立ち会うということは、そのことばの 生い立ちに対する深い理解が必要である。ことばを視覚化し、 −59− への想像を喚起するのも事実である。﹁もと光る竹﹂に宿った あり、﹃かぐや姫の物語﹄が通称と錐も﹁かぐや﹂の語史︵誌︶ て慎重にあるべきだろうイしかし、二光︶源氏の物語﹄の例も られていだから、そのような所に生えている竹は、空間的 いう言葉に明らかである。ノ古代、野も山も異界との境界と考え にて見つけたる。かかれば、心ばせも世の人に似ず侍り。﹂と つち の物語は、地より生い出でた竹が、土に接する根もと に霊力を帯びる。異界との境界を行き来する竹取の翁の職能に いのち ︵生命︶ も興味を覚えるが、﹃竹取物語﹄以前に、竹は霊力を帯びるも みみづらゆつつ のとして観念されていたのである。.霊力を虚構する源泉が、何 に︵光︶をもつことに始まり、︵三︶という数詞、満月の︵光︶ あ曾ひとくさ ︵伊耶那岐命の黄泉 へ上のびている。人の起源を想像させる↓青人草﹂と発想を同 その製品にも及んでいることを﹃古事記﹄ 処にあるかの具体相を解明する一つめ緒として、竹のみならず の性質を示す じくし、竹中誕生評・竹生殖信仰︵竹を生殖の直接の母体とし たもので、身ごもった﹁竹母﹂は子どもを生む︶ 国脱出の神話︶ か とも う たかむ丘 が伝えている。﹁左の御美豆良に刺せる湯津津 のが﹃竹取物語L 問櫛の男桂一箇取り開きて、一つ火燭して入り﹂﹁右の御美豆 火や夢に化生するところに霊力が語られている。古来、竹は、 りき﹂のように、櫛が単なる装身具でなく呪具として用いられ、 圭Tぐしせばしらひとつ うな古代的伝承性と現実性とを物語世界形成の潜勢力としつつ 良に刺せる湯津津間櫛を引き開きて投げ棄つれば、乃ち夢生 である。¶竹取物語﹄の物語世界が、どのよ 表現されているかについて考察する。 いのち 白人生命︸の始まり−︵竹︶と︵光︸− 界をなし邪気を取り除く特殊な効能をもつと観念されていた。 祭祀儀礼などの民俗行事において、神の依代として、或は、結 ょり、生命の起源が象徴的に語られている。成人して、かぐや 竹の霊力の源に旺盛な生命力を想像できる。 ﹃竹取物語﹄ の冒頭には、︵竹︶ ︵光︶ ︵三︶ということばに 姫と命名される女の子の生命は、竹の中に宿り、竹から生まれ の光に導かれ、寄って見ると筒の中には 三寸ほどの人がいる。︵光︶ 霊力を帯びた︵竹︶ とって来ては種々の物を作っていた。竹製品が、笛・生・筆・ から生まれたのである。︵光︶ たのである。竹とりを生業とする翁は、山野に分け入って竹を 箱・帝・寵などの楽器や生活用具であるのか、具体的な記述は 徴している。﹃字津保物語﹄ に宿るのである。︵かたち︶は、形・容・容貌の に﹁いつまでかかたちにやどるた は、まさしく生命の存在力を象 の化生と想われる小さ子は、︵竹︶ ない。﹃風土記﹄をみても竹の記述は少なく、その頃、この列 ましひのはなれぬほどをありとたのまん﹂とあり、︵たましひ︶ ︵ ︵かたち︶ ︵たましひ︶とは、その内に在るもので、土橋寛氏に﹁語源的 用字に窺われるように、目に見えて顕在化している相を言い、 は 島のどこにでも竹林が見られたわけではなかったらした、 ﹁野山にまじりて竹をとりつつ﹂によ牛翁は、人里から離れ た野山に自生する野生の竹を取ることをくりかえしてぃたので ある。﹁野山﹂が﹁世﹂あ外との境界にあることは、、翁の ー60− アタシタニ に見ればタマシヒは﹃タマのと﹄であり︵とは霊力。シは他国、 から生成した八神の神話にも窺われ、その神名はいづれも具体 ニーり 的な威力を物語っている。乳は赤子を養い育て、東風は五行説 の青・春に通じて生命の萌芽・義動を促し、日に見えて廟現す アダシヒトウツシクエウツシゴコロ 他人、現国、崩心のシと同じ連体助詞︶、従って生命霊の 系列に属する語﹂との指摘がある。また、人いのち︶は、﹃万葉集﹄ る。本来、人いのち︶は﹂︵かたち︶と不可分の関係にあった。 地ち︵ ち・ つち︶から生じた草木の生長に生命力を具体的に感得 かち ︵注5︶ でも現代語でも生命を意味し、命が長いとか短いとか、或は、 掛替のないものや根源的な事物に対しても用いるようになる。 ましひ︶と ように増え栄える予祝がこめられている。まして、竹のように る﹁青人草︵蒼生︶﹂︵古事記︶も、萌え出でて生い茂る青草の に強い霊力を観念していたのである。人民を意味す た︵竹︶に、物語の享受者︵作者を含めて︶は生命の存在力を 生長・繁殖力の旺盛なものにおいてはなおさら強い霊力を実感 し、︵地︶ 観たであろう。︵たましひ︶︵いのち︶をやどす霊的空間として、 したであろう。地の霊力をうけて、竹は、︵光︶に象徴される︵い 語源的には、生命力の詣で、﹁い﹂は生命、﹁ち﹂は力である。︵た 竹の空洞︵筒の中︶は機能していたのであろうし、幼児を竹製 のち︶を宿し、﹁三寸ばかりなる人﹂として具体的に顕現した ︵いのち︶に語源的違いはあるが、︵光︶をやどし こ の籠に入れ養うことにも通じている。これまで、︵竹︶︵光︶の ● ■ ● ● ● ● ● ● ︵かたち︶をかえて宿り続け ところで、今一つ考えるべきことに、竹から生まれたのが、 した。 るという信仰を、﹃竹取物語﹄の作者は抱いていたようである。 いのち 生命の力のようなものの、根元性をここでは、︿生命︶と表現 という生命の力のようなものが﹂ と同時に、その身の機能の保証でもある︵いのち︶︵たましひ︶ のである。かぐや姫の誕生は、生命力に溢れ、︵竹︶と︵光︶ とによって語り始められたのである。身を主宰するということ ︳ ● ● 霊力を有することについて述べたが、更に、﹁もと光る竹﹂と ある竹の根もとに注目したい。何故、根もとであるのか。﹁つ ち︵地・土︶﹂・に潰する根もとであることに意味がある。 上代語の﹁ち﹂について、坂本勝氏が﹁霊的な力だけを意味 する単独例はないが、血・乳・鈎と同源と思われ、人間の生命 ● る。﹁霊 ︳ ● の根元に関わるモノの名に埋もれた形で残っている。カミヤタ 且的な ■ マが単独で抽象的な霊威を表しうるのに比べて、 紆 のが、女性と限らないことが、古代中国、五世紀の蒋嘩桐¶後 なぜ女性なのか、ということがある。民話﹁斑竹姑娘﹂の主人 自然物の持つ激しい力・威力を表す語で、複合語として用いら 公・ は、 竹から生まれた女性である。しかし、,竹から生まれる れ、﹁いかづち﹂﹁をろち﹂﹁かぐつち﹂などがあり、血・乳 風斑・ 道・鈎という﹁ち﹂や、﹁つち︵地・土︶﹂﹁かたち﹂なども具 漢。 書L ︵巻首十六﹁南蛮西南夷伝第七十大﹂の﹁夜郎侯伝説﹂︶ 体性を示す。血が生命力の源であることは、経験的に知り得る 伊耶那岐命が、その子迦具土神の頸を斬ったときに流れ出た血の﹁有二三節一大竹流入二足問一。由三共中有二号声一、剖レ竹視レ之、 −61− 太初、神によって天と地とが創造されたが、︵その顛末は次 の如くである︶。地︵は未だ地としては存在せず、見渡すかぎり、 得二一男児一、帰而養レ之。﹂に伝えられている。盛漠ぎ以前 の﹃華陽国志﹄︵巻四﹁南中志﹂︶、五世紀の劉叔敬縮ら異苑﹄︵巻 ひょうふぅ ただ︶味々漠々。暗闇が底知れぬ水を覆い、神の気息︵親風︶ 五︶、十一世紀未の楽遥蔓平貴字記﹄︵巻百六十二﹁嶺南道六﹂︶ にも同内容の記述がある。人を生んだ竹は、人にとり母である。 がその水面を吹き渡っていた。神が、光あれと言うと、光があっ た。神は光をよしと見て、光を聞から分けた。神は光を日と名 生まれたその人が女性であるなら、将来、母となるであろう。 によって盛琴れ、次第にコスモスに転成されていくプロセス を措いている。﹁光﹂を呼ぶことにより存在が喚起され、光を﹁日 と名づけたことにより新しい存在世界の現出が始まるのであ る。﹃古事記﹄の創成神話には、右の創世記の如き神の声はなく、 創世記に語られる天地創造は、何も無いところに突然天と地 が創り出されたのではなく、原初のカオスが、神の存在形成力 男児にない﹁母﹂性の二重性が見える。二重性は多重性を内在し、 づけ、閣を夜と名づけた。 不断に更新され、反復され、展開される誕生の相が見える。竹 の表皮が、幾重にも重なり、皮の内に清清しい新鮮さを保有す るところに発想の源があるのだろうか。或は、母系社会を反映 ︵世界︶の始まり−︵光︶と︵三︶卜 するものであろうか。性差の問題については、改めて慎重に考 察 す る 必 要 がある。 臼 ﹃竹取物語﹄での︵光︶は、かぐや姫の根元的性質を表すと ともに、︵世界︶の成立・転換を博くことばとしてある。ここ に言う︵世界︶は、この国︵地上の世界︶・月の国︵月の都︶・ 親子関係・男女関係・支配−服従関係の意で用いている。竹取 あめつちひらたかまあめのみなか ﹁天地初めて発けし時、高 ︶ 並独神と成り坐して、身を隠したまひき。﹂と、沈黙のうちに 三神が生成する。神名を掲げることによって初めて存在世界が 拓かれている。この三神は、いづれも﹁日﹂に関係する。﹁黒 いのち 閣は死と暗黒を死の世界と観念していた時代にあって、 ﹁光﹂に通ずるものは、世界を発くものであった。翁にとり、 の翁を尊くのも光なら、子のない翁姫の老境に光明をもたらし、 ひ 月の光により自ら化生変化の身であることを悟り、八月十五日 満月の夜、光に導かれて月の国︵世界︶へと還って往く。﹁光﹂ かぐや姫は授かった︵生命︶で﹁もと光る竹﹂﹁筒の中光りたり﹂ は、洋の東西を問わず普く認知されていることである。例えば、 の出会いに、﹁この子を見つけて後に竹取るに、節をへだてて、 ﹃旧約聖書﹄ ︵ 創 世 記 ︶ に 次 の 如 く あ る 。 よごとに貴金ある竹を見つくることかさなりぬ﹂﹁この児のか たちのきよらなること世になく、屋の内は暗き所なく光満ちた を世界や生命の起源に関係づけたり、清浄なるものを表すこと −62− 的に衝き動かし拓いていく力を伝えている。眉約聖書﹄︵創世 り﹂と幸福な様子が語られる。翁と姫と子の三者の世界が語ら 記︶でのような名詞としてより、動詞が遥かに力動的表現とし れ、子が﹁かぐや姫﹂と名づけられて後には、﹁いかでこのか て、 、ものの存在力を伝えている。 ぐや姫を得てしがな見てしがな﹂と慕う男たちとの関係が生じ 新しい存在世界を現出している。このこと㌍五人の貴公子に 月の国の人が、この地上の世界に誕生し、再び、月の国に遭っ て往くという大きな世界転換のみならず、物語の新しい局面を 結婚の条件として求められた五品にも言える。結婚という新し 拓く鍵としてのことばが︵光︶であった。一方、物語中に屡々 い世界を拓くための品々は、いづれも光り輝く美しさを属性と 見える︵三︶という数詞にも、反復の修辞性だけでなく、︵生成︶ している。 yよく 寸ばかりなる人﹂が﹁一震ばかりになるほどに、よきほどなる ︵三︶という数詞は、かぐや姫の誕生までに三箇所あり、﹁三 という時間性を示すことによって、︵姶まり︶竜一層印象づける。 発展た のま 性質 タマシヒはタマと同根であり、魂・霊・玉があてられる。タ しが づ窺 めわれる。この国でのかぐや姫の誕生は、﹁かぐ や姫﹂と名づけられて初めて成るわけであり、身の丈、月日、 マシヒが霊力をもつのは、とを添えてあることに拠る。鎮魂・ ことだ主 言霊とあるタマは、吉事記Lの神名で﹁玉﹂を用いていえ 権威の意をもつ。漢語の玉は、古代中国において、魂が宿る 玉は、美称としても用いるが、魂・霊と異なり具体的に神聖・ ︼■ょく yょくえつ 帳の中から一歩も出されず、大切に育てられていた女性が、か いう。まさしく︵生成︶発展の数詞であることを示している。 聖なる石とされた。王の権力・政治権力の象徴としての﹁玉 人になりぬ﹂と、竹から生まれた小さ子が、三月で成人したと モ■ウ 声、嘗の象徴としての﹁玉堂﹂︵玉踪・玉堂の先端の丸い穴は 天を象るとされる︶、軍事・統帥権の象徴としての﹁玉錬﹂は、 よ た量ぎよく 聖具として神聖性をもっていた。玉と玉との位相に違いがあ ぐや姫と命名され、宴を﹁男はうけきらはず招び集へて﹂催す 中で、大勢の人々に披鼻される。かぐや姫は、翁・姫と三人で を。天照大御神は、太陽の神格化であり、日が沈むと閣が支配 のっ ︵屋︶ ︵家︶ の内の暮しから、外の様々な人との関係へとそ する。闇夜に火なしでは、存在が見えない。日も火も、人にと の存在世界を移行している。 ては、力つけ不安を除いてくれる寄る辺であった。日も火も、 タマシヒの﹁ヒ﹂に通じている。ヒ・ヒル・ヒカリの語誌に、 日本における﹁三﹂は、早く、﹃古事記﹄︵創成神話︶に見え、 天竹 地創成の宇宙論を説く神話は、造化三神に始まる。また、伊 生命をそして世界を衝き動かす力を読みとることができる。﹃ 取物語﹄におけるかぐや姫の本質は︵光︶であり、光り輝くほ 耶那岐命が、身の穣れを敢で洗い清めることによって生まれた とはしら 神十柱の中で、身体の具体的部位としての、左目・右目・鼻 あまてち†おおみかみ つくよみのみこと たけはや†さの ら生成した天照大御神・月読命・建速須佐之男命の三柱は、 と動詞で用いているものは、関係により成立する存在世界を動 どの優美さをもって︵かたち︶を成したのである。光が、﹁光る﹂ −63− ぐや姫きとかげになりぬ﹂にも窺われ、日に見えて在る形が消 えて、本質・根元たる﹁かげ﹂となるのである。かぐや姫は︵光︶ たかまのはらよるのをすくじ 特異な神である。天照大御神は高天神を、月読命は夜之食国︵夜 の世界︶.を、建速須佐之男命は海原を治むべき領域として委任 地に接する竹の根もとが光り、、翁に見出された小さな人は﹂光 の化生であり、この﹁かげ﹂とは月影日影め影であり、光である。 ある。高天原を治める天照大御神に特に﹁御頸珠﹂を授けたのは、 される。伊耶那岐命の三貴子による︵世界︶の分治の始まりで みくbた圭 とっても、﹁三﹂の数字は、﹁天・地・人の道なり﹂︵説文︶、﹁道 しかし、﹃竹取物語﹄が、麗しく慕わしいかぐや姫との別れを、 天照大胡瑠皇祖とする聖なる皇統の由来を強調するためであ 彩をはなつ目映いほどの美麗な女性に成長し、八月十五夜の大 るとされる。更に、天照大御神と建速須佐之男命との﹁宇気比 い﹂ なる月の光へと昇天同化する。 の時に生成した三女神もまた﹁三﹂が整数として観念されてい いのち 囲 ︵生命︶の循環−︵月︶の象徴性− たことを示す。﹃竹取物語﹄での﹁三寸﹂﹁三月﹂﹁三日﹂は、 身の丈も成長を属性とするので、ともに時間との関ゎりが深く、 誕生によって書き出され、別離によって終わる物語形式は、 或は、月の神として月齢を数える神の意である月読命との間に 生命あるものの一生という限りある身体、時間と空間とに閉じ 大事な問題が潜んでいるのかも知れぬ。中国の古代の人々に こめられた人間存在を想起させる。悲しく慕わしい物語である。 は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず﹂︵老 月へ還る物語として発想したところには、日に見える身体の時 よる 間と位相を異にする、永遠の循環を意識させる構想がある。夜 子︶、﹁数は一に始まりて、十に遭鞘、三に成る﹂︵史記︶あ ある。遥かに望む月に、殊に、満月の時その光に引き寄せられ ように創造の数字と考えられていた。先述の、竹中から男児の ほ﹁寄る・廠る﹂にも通じ、互いに引き合う力の作用する時で 生まれる伝説でも、﹁夜郎者、初有=女子亮一於逝水一、有二三 の根元は︵光︶であった。帝が、宮仕えを無理強いすると、﹁か の思いもそこに拠るのであろうか。潮の満干に関る﹁監盈珠﹂﹁蛭 の伝承もある。︵たま︶は、霊性を帯びた古 代語で生命の意を内在する。白玉に真珠をイメージすることも 芽の香気としなやかな強さを備えた女性像として形象され、そ 乾珠﹂の︵たま︶ 人した。かぐや姫の︿かたち︶は、竹の自然美そのままに、清 節一大竹流入二足同一。聞三其中有二号声﹁剖レ竹祝レ之、得 る二 の一 も男 不思議はない。古代の日本人が、﹁円﹂という形状にい 児一、帰而養レ之。及レ長、有二才武一、自立為二夜郎侯一、 為を抱いたか、ということを考察することは﹂﹁つき﹂ か以 なレ る竹 想像 レ姓。﹂とある﹁三節﹂にも注目したい。 ということばの意味を考える上でも大切な問題が潜んでいる。 もと光る竹の中に、三寸ばかりの人がやどるには根拠があっ 潮の干満と月との関係は、海にかこまれた人々にとって、経験 たのである。その後、小さな人が三月で容姿の優美な女性に成 的に知るところであった。人の誕生と死が、潮の満干と関ると −64− 月の神として夜の世界を治めることを委任された月読命に 不滅で、永久に続くのであるという信仰を根底としている。後 脱いで若返りをし、従ってその生命は、他から害せられぬ限り えい書よ あるように、︵た.ま︶ ︵玉・珠︶ の形状は円かである。円かなる の死の由来話を﹁蛇と脱皮﹂型、﹁月の盈虚﹂塾に分けた。前 いのち 形状に潜むごたま︶︵生命︶に注目したい。伊耶那岐命によって、 者の話は、・蛇、噺暢、蟹のような脱皮する動物は、古い皮膚を つくよみのみこと は、漁港原を治めたとの伝承もあり、海と月との因縁を思わせ 者は、月の定期的な盈虚︵満ち欠け︶をその死と復活であると 円は、時間的にも空間的にも、完全なもの完結したものを表す 戻ってくるところである。円は、始まりであり、終わりである。 意味である。時間的な意味では、円は、人がそこから出てまた まれたものは、一 円は、・完全なもの、欠けるところのないものを表す。円にかこ し、古鏡の形状ともなる日輸・月輪への信仰との関係もあろう。 には、建る意の再生をも内在する。円かなるものに霊性を観念 あり、回春・再生の信仰との連関を想像する。また、﹁よみ﹂ あるが、﹁泉﹂には、生命の源と観念された﹁水﹂の湧く相が 何故に、ヨモ 月の満ち欠けに、死と復活や盛衰を観じたのは、古く﹃史記∑苑 する竹の中に身をやどしたという着脱の発想が興味深い。また、 羽衣を着て、この地上の世界に誕生したときには、脱皮し成長 いう変容を暗示する表現にも、月の世界の人となるために天の の羽衣を着ることにより、﹁心異になる﹂﹁物思ひなくなり﹂と 内に清清しく新鮮な茎があり、脱皮型の性質を示す。・また、天 植物としての竹は、その表皮は幾重にも重なり、剥かれた皮の 取物語﹄ フレーザーの﹁蛇と脱皮﹂塑・﹁月の盈虚﹂型の二類型は、∵﹃竹 観じ、それに人類の死の由来を結びつけて語ったものである。 ヨモ︵ヨ、、、︶ る。月読命のヨミは﹁黄泉﹂にも通じ、死者の世界を連想する。 のである。夜の天空に望む満月は、その光と円かなる形状をもっ 推葬沢伝︶ の↓語日、日中則移、月滴別府、物盛別表。﹂のよ か うに﹁月満つれば則ち磨く﹂や、藤原道長が一門の栄華を満片 に漢語の﹁黄泉﹂をあてたのかは間蓮で て﹂人の ︵たましひ︶を引き寄せる。月の形状の滴ち欠けは、 に喩えた.﹁この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることのな ︵ヨミ︶ 未来永劫に繰り返されるであろう﹁死と再生﹂を観る者に想像 しと思へば﹂︵小右記.・袋草紙︶などのように見える。﹃竹取物語﹄ に死の由来を読み解く前捷となる。動物と異なるが、 させる。 る。異常死であろうと病死老死であろうと、現実の問蓮として、 見にとまりたるをさなき人々を左右にふせたるに、荒れたる板 ふは忌むなり﹂︵後漢和歌集・巻十︶、﹃更級日記﹄︵姉の死︶の↓形 での﹁月の顔見るは忌む事﹂という禁忌は、﹁月をあはれとい 死が何人にもやがては享受すべき運命的な賜物であることを次 屋のひまより、月の洩りきて、㍉ちごの顔にあたりたるが、いと 般に原始人は、自然死というものを知らないと言われてい 第に認識するにいたる。そして、﹁死﹂という現象に村する由 ゆゆしくおぼゆれば、袖をうちおほひて﹂にも窺われる。 ︵︶ 来話が、神話の中に語られるようにかる。フレーザーは、多く 一65− に生まれ父母の居た人が、この地上の国に生ま 命を宿す竹生殖信仰や、︵光︶ への信仰、︵月︶ への信仰などを 古代的伝承として胚胎し、貴公子による求婚薄やかぐや姫とい 月の国︵都︶ れ変わり育てられて﹁かぐや姫﹂と成り、更に生まれ変わって う女性像の形象に現実性がより顕著である。 小嶋菜温子氏が﹁すでに姫の結婚拒否は貫かれ、難題渾は終わっ ﹃竹取物語﹄の世界が、︵始まり︶を物語るものであることは、 月の世界へ還って往く物語は、時間的空間的閉塞を超える文体 である。生命 を創造したと言える。︵始まり︶が更新され、反復され、展開 される物語として創作されたのが、1竹取物語﹄ された。月毎に望む十五夜の月は、月齢を重ねる。心奪われる の ︵生命︶ は、︵月︶ の胚胎する伝承世界により永遠性が保証 と指摘する語源渾にも窺われる。ここでは、かぐや姫昇天後の、 では何を語ろうとするのか。語源渾︵それも怪しげな︶である。﹂ る、姫の結婚拒否でもなく、難題渾でもないことになる。 ている。であるなちば、求婚者たちのストオリイの語ろうとす ほどに円かなる月の光が、異界を想わせたとしても不思議はあ 力の溢れる植物としての竹からの誕生で書き出されたかぐや姫 いのち るまい。望月には、この国の人の、天へのそして異郷への断ち の薬を頂上で燃やしたことによ などでの、不義山・布土山・不二山・不時山・福慈岳などの るものと、﹁士どもあまた具して﹂による﹁富士﹂である。﹁あ また﹂の語義と、﹃竹取物語﹄に先行する﹃万葉集﹄﹃風土記﹄ 物語﹄は伝えている。﹁不死﹂ 天への通信手段としての煙、﹁ふじ﹂の命名由来渾に注目したい。 富士山の命名由来の﹁ふじ﹂の語源に二説あることを、﹃竹取 結び 難い思いが伝えられているのである。 ㈲ 物語にあることばには、古代的伝承性と現実性という二要素 の結合が見られる。︵たけ︶ということばにしても、竹の神話 ぐや姫﹂と命名され、竹の属性としての清清しい香としなやか 語の表記にどのように関与していたのか、日本語の多義性がど 音性だけでなく表意性をもこめて用いられている。漢語が、和 ﹁ふ﹂の音より﹁富﹂士が虚構されたのであろう。漢語が、表 さを備えた女性として造型された。しなやかさは、貴公子の求 のようにして形成されたのか、を考える具体例の一つでもある。 は、優美で意志的で人を思いやる心を備えた、しなやかな強さ 生において神話的古代的伝承性を示し、成人して後の女性像で の煙﹂を重ねることも可能である。更に、五人の求婚者たちで ひ伝へたる﹂には、尽きることなく立ち昇る壇に﹁不壷︵尽︶ 頂きで燃やすっ﹁その煙、いまだ雲の中へ立ちのぼるとぞ、い 独り残された帝は、その思いを歌の詞にかたちと成して山の をもったかぐや姫像という現実性を示している。ことばの古代 語られた語源渾での﹁さる時より﹂や、﹁山へのぽりけるより は、かぐや姫の誕 的伝承性と現実性とは、物語の本質的性格を示し、︵竹︶が生 を示す女性像として形象されている。︵竹︶ 婚に対しての慎重な言動や、帝の召しを頑に拒む意志的強勒さ 的性質が伝承される一方で、竹から生まれた人が﹁なよ竹のか ー66− なむ﹂﹁いまだ∼立ちのほるとぞいひ伝へたる﹂などは、一見 過去に意識の中心があるようだが、実は現在の時空にこそ発想 の始源がある。﹃竹取物語﹄冒頭の﹁今は昔、・・・﹂の﹁昔﹂ は、単に過去のある時空絶頂うのではなく、伝承を享受した現 在を起点にしての発想であり、伝承されるであろう新しい創作 ⑤ ⑥ ⑦ ︵一九九〇年・中央公論社︶。 土橋寛﹃日本語に探る古代信仰−フェティシズムから神 道まで1﹄ 坂本勝﹁︵チ︶と︵タマ︶と︵モノ︶語り−火連理命神 話のロ涌性−﹂︵法政大学国文学会編﹁日本文学誌要﹂50号・ 一九九四年︶。傍点は谷口。 前掲注③巌紹斐氏の論文で、古代中国の﹁竹生殖信仰﹂ について言及があり、引用された重陽国志㌔後漢書㌔異 を胚胎しているとも言える。﹃竹取物語﹄は、一つの完結した 物語世界のようであるが、神話的古代的伝承性や現実性を潜勢 苑﹄ ︵一九八 の存在 ﹃万葉集二巻第五︶山上憶良﹁悲二歎俗道佐倉即離易レ 書房︶。 力−﹂︵﹁朱夏−文化探究誌−﹂7号・一九九四年・せらび 五年・岩波書店︶。拙稿﹁身体の物語−︵音と声︶ 井筒俊彦﹃意味の深みへ−東洋哲学の水位−﹄ ﹃太平妾宇記﹄を参照した。他に福建地区の﹁月姫﹂ 力として表現された和語によって衝き動かされ、力動的な存在 伝説の報告などあり興味深い。 ⑨ ⑧ 世界を現出する︵始まり︶の物語として構想されているのであ る。 ︵注︶ の本文の引用は、日本古典文学全集本︵昭 去難一レ留詩一首﹂の序の自注に﹁異常者死也﹂とある。閣 ﹃竹取物語﹄ ① 白川静﹃文字道遥﹄ ︵一九八七年・平凡社︶。 ② 和四七年・小学館︶により、鈴木一雄﹁物語文学の形成﹂、 ⑲ ﹃今昔物語集㌣︵巻第三十一︶﹁竹取ノ翁、見付ケシ女ノ いかづちケどんけうた 児ヲ善ヘル語﹂では、﹁雷・優曇花・不打ヌニ鳴ル鼓﹂ に死の世界を観念する歴史は、古く長い。 政大学出版局︶。沖浦和光・﹃竹の民俗誌−日本文化の深層 の三晶である。﹃竹取物語﹄と異なる﹁竹取の翁﹂の伝承 片桐洋一氏の解説・校注を参照。 を探る−﹄ ︵一九九一年・岩波書店︶。巌紹婆﹁物語−中国 があったのであろう。 日本古典文学全集﹃古事記・上代歌謡﹄︵荻原浅男校注・ ⑲ 松前健﹃日本神話の研究﹄︵一九六〇年・桜楓社︶。後に、 鈴木修次﹃数の文学﹄︵昭和五人年・東京書籍︶。 一九七三年・小学館︶。 ⑬ ⑳ 文化との関係における形成と発達−﹂ ︵日中文化交流史叢 ︵一九八九年・河出 ﹃文学﹄中西進・巌紹梁編、一九九五年、大修館 古橋信孝編rことばの古代生活誌﹄ 書店︶。 書︹6︺ ③ 室井縛﹃︵ものと人間の文化史10︶竹﹄ ︵一九七三年・法 ④ 書房新社︶。 −67− ⑳ ⑮ ﹃松前健著作集﹄︵第十一巻・平成十年・おうふう︶に再収。 ﹁死の由来話と月の信仰﹂を参照し、フレーザーの二類型 についてもそれによる。 小鴨菜温子﹁︵竹取物語の人物造型︶求婚者たち−語源 薄をささえる言説−﹂︵﹁国文学1解釈と教材の研究−﹂平 成五年四月 ・ 学 燈 社 ︶ 。 前掲注⑲﹁国文学﹂所収の﹁竹取物語−フィクショシの 誕生−﹂での益田勝美・鈴木日出男両氏の対談を参照。 一68−
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