TPPがわが国の海洋安全保障に与える影響

農政トピック
まれば、壊滅的な打撃を受けることが予想される。
TPPがわが国の
海洋安全保障に与える
影響
アメリカは、サトウキビを個別交渉品目とする
希望をもっているが、TPPの趣旨からすると、個
別品目が設定される保証はない。
南西諸島の最西端に八重山諸島がある。その中
核となる島は石垣島(石垣市)である。石垣市の06
(平成18年)度における農業生産額は92.6億円であ
るが、そのうちサトウキビは14.5億円(15.7%)、肉
用牛は52.8億円(57.0%)、果実6.3億円(6.8%)、米3.6
億円(3.9%)、豚肉1.4億円(1.5%)であり、TPPが導
山田吉彦
(東海大学海洋学部海洋文明学科教授)
入されると国際競争力を失う作物だけで、農業生
産高の80%以上を占めている(表 1 参照)。
TPPが 導入されることになると、サトウキビは
外国産に完全に市場を奪われることが予測され(表
2 参照)、サトウキビ農家および工場は、存在自体
が危ぶまれることになる。当然、運送、菓子製造、
TPP により離島の社会が崩壊する
販売などの周辺産業も多大な影響を受ける。前述
「サトウキビは島を守り、島は国土を守る」
の南大東島や石垣島では、島の主要産品の出荷が
かつて、南大東島を訪れたとき目にした標語で
減少することにより、貨物船航路の維持も難しく
ある。この島の経済は、サトウキビの生産と製糖
なり、島民の生活物資の輸送にも多大な影響を与
工場に依存している。
えることが危惧される。
南 大 東 島 は、 沖 縄 本 島 の 東360kmに あ る 島 で、
また、近年、西日本の離島を中心に肉用牛生産
北大東島、沖大東島とともに大東諸島を形成して
が盛んである。各地が競うようにブランド肉の生
いる。この大東諸島を基点とする領海と排他的経
済水域を合わせた面積は約40万㎢と広い。
表1 沖縄県および石垣市の品目別農業生産高
(平成18年)
総額
サトウキビは、南大東島のみならず、奄美大島
以南の南西諸島において重要な農産物である。2009
沖縄県
9,060
(平成21)年度のデータでは、沖縄県の農家数の72
石垣市
926
単位:千万円
米
サトウキビ
果実
肉用牛
70
1530
610
1630
(0.7%) (16.9%) (6.7%) (18.0%)
36
145
63
528
(3.9%) (15.7%) (6.8%) (57.0%)
資料:第36次沖縄農林水産統計年報
※カッコ内は、総額に占める割合
%がサトウキビ生産に従事し、全耕地面積の47%
で作付けされている。前述の南大東島をはじめ沖
縄県の離島においては、製糖業とともに重要な基
幹産業である。
また、サトウキビ以外の南西諸島における主要
な農作物は、肉用牛、豚、米、果実である。これ
表2 農林水産省による TPP の影響試算
品目名
甘味資源作物(サトウキビ等)
肉用牛
豚
米
生産減少額
(億円)
1,500
4,500
4,600
19,700
らの作物も環太平洋連携協定(TPP)への参加が決
生産量減少率
(%)
100
75
70
90
(農林水産省試算から作成)
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産に従事している。沖縄県においても肉用牛の生
ウキビと同様に地域社会の経済、社会に多大な影
産量が拡大している。肉用牛の子牛を生産し、本
響を与えることになる。同様に沖縄県産の豚肉に
州をはじめとした古くから続く肉用牛生産地に提
も影響が出るだろう。
供している。この肉用牛は、TPPの影響で、75%
が減少することが予想されている。競争に耐えら
広くて大きな海をもつ
「日本」
れるものは、高級肉( 4 等級、 5 等級)のみであり、
日 本 の 国 土 面 積 は、 約38万 ㎢ で あ る。 こ れ は、
とう た
それ以外は国際競争力をもたず淘 汰 されるものと
国連加盟国中で62番目の広さであり、けっして大
農林水産省は予測している。だが、現実はさらに
きな国とはいえない。しかし、この国土を取り囲
厳しいと思われる。現在、国内の肉用牛の産地は、
む海の広さ、領海と排他的経済水域を合わせた面
すでに高級肉の生産に力を入れているため、過当
積 は 約447万 ㎢ で あ り、 世 界 で 6 番 目 の 広 さ で あ
競争に陥り、価格が崩壊することが危惧されてい
るといわれている(図・表 3 参照)。また、領海と
る。
排他的経済水域の水面下に存在する海水の量は、
石垣市では近年、石垣牛をブランド化しその生
1 億5,800万㎦と多く、世界で 4 番目に多くの海水
産に力を入れてきた。すでに石垣市の全農業生産
をもっている。言い換えると、日本の海は広くて、
額の 6 割近くが肉用牛となっている。石垣島のみ
大きいのである。一般的に「日本の海」とは、領海
ならず沖縄県全域で生産高が増加してきた。しか
と排他的経済水域を合わせた海域のことを指す。
こう てい えき
し、10(平成22)年に発生した口 蹄 疫 の問題などに
排他的経済水域とは、「他国を排して経済的な権
より、生産農家の収入が減少し、肉用牛の生産に
益 が 認 めら れ る 海 域 」の こと で あり、1994年 に 発
依存する農家では経営に不安を感じている。TPP
効した国連海洋法条約において沿岸から200カイ
の導入は、さらに農業経営の悪化を導くことにな
図 日本の排他的経済水域
るだろう。
また、ホテルの食堂、焼き肉店、居酒屋などを
はじめ、石垣市の飲食店は、積極的に石垣牛を素
材とした食品を顧客に提供している。石垣市に隣
接する竹富町の黒島は、「牛の島」として観光客向
けに売り出している。肉用牛の生産状況は、サト
表3 日本の国土、海域面積
石垣市の全農業生産額の6割近くを占め、ブランド化生産に力を入れる
「石垣牛」
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国土(領土)面積
約38万㎢
領海面積
約43万㎢
排他的経済水域面積(領海含む)
約447万㎢
出典:2004. 日本の国境 山田
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リ( 約 370km)まで認められている。日本は、96年
ある。当然、択捉島、国後島などの北方領土の島々
に批准している。
や韓国に武力占領されている竹島も含まれてい
では、具体的にこの条約における経済的な権益
る。そのうち、有人島といわれる住民登録がされ
とは何かというと、大きく分けて 3 つある。 1 つ
ている島は315である。このうち離島は6,852であ
は、海底資源を調査し開発する権利である。日本
り、この離島が基点となり、広大な排他的経済水
の沿岸には、メタンハイドレートという天然ガス
域を主張することができるのだ。
層 や 希 少 金 属 を 含 ん だ 海 底 熱 水 鉱 床が存在する。
09年12月、政府は離島を有効に活用し、日本の
排他的経済水域では、これらの資源を独占的に獲
管轄海域の有効利用と秩序の維持のために、「海洋
得することができるのである。
管理のための離島の保全・管理のあり方に関する
2 つ目は、海中を調査および利用する権利であ
基本方針」を策定した。
る。海水の中には、希少金属をはじめたくさんの
国が定めた基本方針では、国土面積(約38万㎢)
鉱物資源などが流れている。たとえば、ウランで
の約12倍に及ぶ排他的経済水域等面積(約447万㎢)
ある。日本の海に 1 年間に流れるウランの量は約
の管轄海域の適切な管理のため、離島の保全およ
520万tであり、その0.2%を捕集するだけで日本の
び管理を的確に行うことが必要であるとしている。
原子力発電に使う量を確保できるほどに多い。
そして、離島の役割として、
3 つ目は、漁業管轄権である。排他的経済水域
① 離島が安定的に存在することで、排他的経済
内では、日本の漁業慣例法令を適用することがで
きる。日本の許可なくして、他国の船が漁をする
ことは制限することができるのである。
水域などわが国の管轄海域の根拠
② 広大な海域におけるさまざまな活動を支援し
促進する拠点
③ 海洋の豊かな自然環境の形成や人と海とのか
日本を支える
「離島」
かわりにより形づくられた歴史や伝統を継承
日本が広大な排他的経済水域をもつ理由は、海
の 3 点を挙げ、離島の社会の維持、経済の振興
洋国であり、多くの島を領有しているからである。
の必要性を認めている。
日本には6,852の島があるとされる。この島の数
また、その具体的施策として、
は、総務省統計局発行の『日本統計年鑑』に記載さ
① 海洋に関するわが国の管轄権の根拠となる離
れているものである。87年、海上保安庁水路部(現・
海洋情報部)では、関係する最大縮尺海図と2.5万
分の 1 陸図を用いて、周囲0.1km 以上で水面に囲
まれ陸と隔たれ、自然に形成された陸地を島とし
て公表した。この場合、埋め立て地は対象外であ
り、防波堤や橋により陸とつながっているものは
島としている。この海上保安庁の公表した数字を
島の安定的な保全・管理
② 海洋におけるさまざまな活動を支援し促進す
る拠点となる離島の保全・管理
③ 海洋の豊かな自然環境の形成の基盤となる離
島および周辺海域の保全・管理
④ 人と海とのかかわりにより形づくられた離島
の歴史や伝統の継承
根 拠 に89年 9 月 に 発 行 さ れ た『 第39回 日 本 統 計 年
の実施をめざすこととしている。
鑑』から 日 本 を 構 成 す る 島 の 数 を 北 海 道、 本 州、
とくに離島の歴史や伝統の継承に関する施策を
九 州、 四 国、 沖 縄 本 島 も 含 め、6,852と し た の で
実施することに言及していることは評価に値する。
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人が暮らし、文化を伝承することで島の社会を
維持することができる。このことで、約447万㎢に
及ぶ広大な「日本の海」を保有することが認められ
るのである。そこには、海底資源、海水中の資源、
水産資源など、過去から現在、そして未来の日本
日本の最南端の島、沖ノ鳥島
人の生活を支える糧が存在しているのである。
かけてはいけないというのである。その結果、仕
離島における海洋安全保障の必要性
分け人による判断では、離島航路補助金は廃止も
国 連 海 洋 法 条 約 に 従 い、 島 の 要 件 を 説 明 す る。
しくは見直しとなった。結果的には、政治判断に
同 条 約 で は、 第121条 に お い て「 島 」を 規定してい
より現状維持になったが、離島の存在意義に関す
る。これは、島の実効支配を認定する要件に準用
る知識が啓 蒙 されていないことを痛感した。一面
できるものと考えられる。この条文の第 3 項では、
的な数値だけで判断しようとすると、大局を見失
「人間の居住又は、独自の経済的生活を維持できな
けい もう
うことになる。
い岩は、排他的経済水域を有しない」と規定されて
離島の問題においては、99.4%の国民が、海洋
いる。国際的に見ると無人島は、領土として認め
国家としての生活の安全を0.6%の離島住民に負わ
られるが、その島を基点とした排他的経済水域は
せているともいえるのである。前述のように有人
主張できないというのが一般的である。いくつか
離島は、日本のもつ広大な排他的経済水域の拠点
の 国 際 司 法 裁 判 所 な ど の 判 例 で も 示 さ れている。
である。仮に有人離島から島人が退去し無人島と
無人島を基点として排他的経済水域を主張するこ
なった場合、その島を基点とした排他的経済水域
すう せい
とは、世界の趨 勢 から考えると困難である。具体
は国際法上認められないことになる危険性がある
的に人が住むか、もしくは恒常的に島を経済利用
のだ。
しなければ、実効支配とは認められず経済権益の
島の「実効支配」において最も有効なことは、人
確保も難しくなる可能性がある。
の居住であり、それに伴い国家の主権を行使し秩
現在、わが国における離島の人口は、約70万人
序を維持することである。
であり全人口の0.6%にしかすぎない。かつて、前
国際社会においては、ほかの国民が居住する地
原誠司外務大臣(当時)が、TPP への参加交渉にあ
域に入り武力を行使した場合、侵略行為と見なさ
たり、「国内総生産(GDP)の1.5%にしか満たない第
れる。侵略行為に対しては、国連安全保障理事会
1 次産業が、ほかを犠牲にしてよいのか」という意
における制裁の対象となりうる。仮に、隣国が今
味の発言をしたことが問題となった。同じような
後、日本人の暮らす島を侵攻するようなことがあ
発想が、離島の維持・管理においても主張される
れば、国連安全保障理事会で非難をあびることに
ことがあった。民主党が新政権となり進めた「仕分
なる。また、日米安全保障条約により、日本の施
け」において、「離島航路補助金」等の仕分けに関し
政下にある地域に他国の軍が侵入した場合、日本
一部の「仕分け人」が、「離島は大きな老人ホーム」
の自衛隊およびアメリカ軍が出動し、危機を回避
「離島が都市に負担をかけてもよいのか」という内
容の発言をした。全人口の0.6%が、ほかに迷惑を
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するための行動をとることになる。
10年に発生した中国漁船の尖閣諸島海域への侵
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入事件のように、東シナ海の情勢は安全であると
尖閣諸島および沖大東島には、分屯地(50人規模)
はいえない。とくに南西諸島沿岸部での中国艦艇
を設置する必要がある。以上を合わせると計1万人
の動きからは目が離せない。04年には、中国の原
規模の人員の増員が求められる。 1 万人規模の自
子力潜水艦が、宮古島と石垣島の間の日本領海内
衛 官 の 増 員 は 人 件 費 だ け で、 年 間845億 円 の 費 用
を潜行したまま通過するという事件が起きた。国
が必要となり、装備費はおよそ9,000億円程度が必
際条約では、潜水艦は他国の領海を通過する場合、
要となる。合計9,845億円となる。
浮上し国旗を掲揚しなければならないと定められ
また、海洋警備の面からすると海上保安庁の充
ている。先島諸島(宮古島列島や八重山列島)に暮
実は不可欠であり、大東諸島および与那国島、波
らす人々は、つねに隣国の脅威を感じているので
照 間 島、 ト カ ラ 列 島 な ど に は 海 上 保 安 署 の 設 置、
ある。
1,000t 型(PL 型 )以 上 の 巡 視 船 と350t 型 の 高 速 特
人が暮らし、社会を構成することこそが、安全
種 警 備 船(PS 型 )の 配 備 が 必 要 と な る。 そ の 増 員
保障においては、最も重要なことである。
は、合計で400人程度が見込まれる。仮に400人の
仮に TPP への参加により貿易の自由化が進み、
増員であれば、予算額としては人件費は年間30.1
島々の農業が衰退したならば、過疎化の進行を回
億 円 の 増 加、 巡 視 船 の 設 備 費300億 円 程 度 の 増 額
避することはできないだろう。前述の南西諸島の
が必要となる。
ようにサトウキビや肉用牛を中心にした農業で支
南西諸島における陸上自衛隊および海上保安庁
えられている島では、無人島になることさえ考え
の経費増は、恒常経費で年間約1,000億円が必要と
られる。島々の作物は、市場において壊滅的な打
なり、設備費を考慮するとおよそ 1 兆円を超える
撃を受けるため、離農する農家が続出し島の社会、
費用が必要と想定される。そのほか、海上自衛隊
経済が破綻することになる。さらに、海洋におけ
の増強も検討する必要があるだろう。
ぜい じゃく
る安全保障体制が脆 弱 になることは否めない。人
の居住と経済活動があるからこそ、平和が保たれ
まとめ
ているのである。仮に南西諸島から住民が激減し
島は、領土問題、海洋管轄権問題において、主
た場合、新たな海洋安全保障体制の構築が必要に
権を主張する基点となる。島に関する問題を国際
なる。
的な視野で見ると、島は人が暮らすことで初めて
その場合、陸上自衛隊では、南西諸島を統括す
島の意義が認められる。海洋資源開発、水産振興、
るために沖縄本島に現在、那覇に駐屯している第
海洋調査などの問題においても、基点となる島が
15旅団を拡充した師団(7,000人規模)の配備が必要
あってこそ、さまざまな権益が認められるのであ
となるだろう。これは、北海道中部を守る第 7 師
る。
団 と 同 規 模 を 想 定 し て い る。 石 垣 島( も し く は 宮
日本人の財産である海洋資源、水産資源を守り、
古島)には、旅団(2,000人規模)
を配置し、大東諸島
国家の安全を保障するためには、国境海域の島に
(想定は南大東島)および波照間島、与那国島、ト
人 が 暮 ら し、 社 会 を 形 成 す る こ と が 重 要 で あ る。
カラ列島(想定は宝島)などの国境離島および宮古
計画性なく TPPを導入することは、離島の社会を
島、奄美大島には、少なくとも駐屯地(各200人規
壊すだけではなく、日本という国自体を脅かすこ
模)を置く必要がある。また、現在、無人島である
とになるのである。
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