複雑事象を表す他動詞 A Study of Complicated Event Expressed by Transitives 劉 剣(筑波大学大学院生) 要旨 本発表は、日本語の他動詞は単一事象だけではなく、複雑事象をも表すことを主張 し、ここ主張を用いて、日本語のいわゆる周辺的な他動詞構文、つまり、状態変化主 体の他動詞文、介在文、間接受身文などを統一的に説明した。 キーワード:単一事象、複雑事象、介在文、状態変化主体の他動詞文、間接受身文 1.他動詞は意志性? 発表者の中国人友人の金さんは以下の自他動詞使用の経験がある。金さんはレスト ランでアルバイトをしていた時、手が滑ってお皿をパッと落としてしまった。中国人 はパッと落としたという場合、「哎呀,掉(落ちる)了!」という発話が一番自然であ る。金さんはその発想で「あら、落ちた!」という日本語を口に出し、これを見た店 長に、 「落ちたじゃなくて、あなたが落としたんでしょ」といわれ、金さんはショック を受けた。 「わざとじゃなくて、不注意なのに」と金さんは思いながら、なぜ店長が「落 ちる」という自動詞を「落とす」という他動詞に言い直したのかわからなかった。 金さんが、他動詞「落とす」なら、 「わざと」という意志性を伴うと思い浮かぶのは、 当たり前のことだろう。意志性は、他動詞のもっとも重要な意味素性の一つである。 「ご 飯を食べる」 「本を読む」などの普通の他動詞は、常に意志性を伴う。しかし、金さん のケースでは、店長が金さんの行動をずっと見ているから、 「わざとではない」ことは わかるはずである。したがって、店長が言った「落とす」は、「意志性」を伴わないわ けである。他動詞のもう一つの重要な意味素性は「働きかけ性」である。日本語の典 型的な他動詞文は、 「太郎が花子を殺した」のような「主体が客体に働きかける」、 「客 体が変化を被る」ものであると言われている(角田 1991 等)。店長の「落とす」は「働 きかけ性」を強調する可能性があるのか。つまり、 「わざとじゃなくても、あなたがや ったんでしょ」ということを、店長が「落とす」という他動詞を通して言いたいので はないと思われるが、これに答える前に、次の例がみられたい。 2.他動詞は働きかけ性? (1)私たちは空襲で家財道具をみんな焼いてしまった。(天野 1987:109) 1 この例における「焼く」という他動詞は、意志の意味も読み取れないし、働きかけ の意味も読み取れない。 「家財道具」に作用したのは「空襲」で、 「私たち」ではない。 「空襲」は言うまでもなく、意志を持たない。また、「私たち」は、意志的ないし非意 志的に「火をつけて家財道具を焼いた」という行為もしなかった。よって、「私たち」 から、「家財道具」への「働きかけ」の意味が読み取れない。天野(1987、1991)によ ると、 「私たち」は「家財道具が焼けた」という出来事を間接的に経験しただけである。 本発表の言葉に言い換えて、 「家財道具が焼けた」という出来事は HAPPEN TO「私たち」 と理解してもよい。 しかし、単なる HAPPEN TO の関係を表すためには、自動詞を使っても、他動詞を使 ってもあまり差がないようである。天野(1987)も以下のことを指摘している。 「私た ちは空襲で家財道具をみんな焼いてしまった」という他動詞文は、 「私たちが空襲で家 財道具がみんな焼けてしまった」という自動詞文と、ほとんど同じ意味を表すわけで ある。 「意志」の意味もないし、「働きかけ」の意味もないから、単なる HAPPEN TO を表す という点で、両文は意味が同じなのかもしれないが、しかし、他動詞「焼く」を使う 文には、HAPPEN TO だけではなく、それ以外の意味も含まれている。日本語のネイティ ブに、「私たちは家財道具が焼けてしまった」と言うと、客観的で、「家財道具が焼け た」という出来事が HAPPEN TO 私たちという事実を述べている。それに対して、 「私た ちは家財道具を焼いた」と言いうと、「私たちのせい」「私たちは責任を取らなければ ならない」とかのニュアンスがあるという直感的な内省判断をもらった。つまり、自 動詞文と比べると、他動詞文において、 「私たち」という主語は、出来事述語と、そも そもなんらかの関係がある。 たとえば、「夜を明かす」の例が見られたい。 (2)ときには弁当とお茶を持参して星空の下で夜を明かすなんてことも珍しくない。 (BCCWJ からの実例) (2)においては、文の明確に現れていない主語の「私たち」は、「夜」に働きかけ て、 「明ける」ようにするという意味が読み取れない。働きかけの意味の「夜を明かす」 という力を持つのは、人間ではなく、神様しか考えられない。 「私たち」のような人間 の「夜を明かす」ことは、「夜が明ける」まで、自分がいる。自分をその状態に維持す るなどの意味である。他動詞「明かす」は、「夜が明ける」という出来事に自分を関係 付けようとすることを表す。 また、「大学を終える」の例も見られたい。 (3)ベンガル人のロイさんは、本当はシェフになりたくて、デリーで大学を終えて から、三年間、ホテル経営学校に通った。 2 (BCCWJ からの実例) (3)においては、主語のロイさんは、大学や大学時代に働きかけていない。むしろ 「大学(時代)が終わる」という(決まりの)出来事に、ロイさんは邪魔をせず、最 後まで無事にいたという意味である。 一方、自動詞は、自然現象や決まりごとを表す。場合によって、自然現象や決まり ごとに、人間が動作主体として参与している。たとえば、バスを運転する運転手さん はバスの発車や停車をコントロールしているはずだが、バス停に着く前、運転手さん のアナウンスは「次、止めます」という他動詞文ではなく、「次、止まります」という 自動詞文である。 「次、止めます」という他動詞文を選択したら、潜在的に、発言内容 に対する発言者の関与(保証など)を暗示する。それに伴って生じるかもしれない責 任の可能性を前もって排除しておくには、「次、止まります」のような自動文にして、 当事者の意図を超えたレベルの出来事という意味合いを含めておくのがもっともよい のである(池上 1981)。つまり、人間が実際の動作の主体として出来事に参与していて も、自動詞文が選択されたら、人間と出来事との間の(責任)関係がキャンセルされ る。 また、「お茶が入りましたよ」という自動詞文も見てみたい。客や他人のために自分 がわざわざお茶をいれたのに、日本語では、 「お茶がはいる」という自動詞文を選択し て発話する場合が多い。この表現も、話者が美徳のため、自分と「お茶がはいる」と いう出来事との(恩恵)関係をキャンセルして使っていると考えられる。 3.本発表の提案 以上見てきたように、自然現象や決まりごとという出来事がまずある。この出来事 とそもそも関係なくても、関係を結び付けようとすると、他動詞を使う。一方、この 出来事とそもそも関係あるのに、関係をキャンセルしようとすると、自動詞を使う。 言い換えれば、他動詞は主語の指示対象が出来事と関係あることを表し、自動詞は出 来事自体を表す 1 。本発表は他動詞を対象とする。 普通、他動詞を述語とする文は単一事象文である、「(私は)ご飯を食べる」、「太郎 は次郎を殴る」、「空襲で家財道具が焼けた」などは単一事象文である。他動詞ではな く、出来事(すでに単一事象になっている)を述語とする文は、複雑事象文である。 「私 たち」を主語に、 「家財道具が焼けた」という出来事を述語にしたのは、複雑事象文で ある。単一事象を表す他動詞は、他言語における他動詞とあまり違いなく、「意志性」 「働きかけ性」などの意味素性が重要であるが、複雑事象を表す他動詞は、それらの 意味素性があまり重要ではなく、その他の意味素性が重要だと考えられる。その他の 1 自動詞が表す出来事には、そもそも自然現象で、誰でもこの出来事と関係ない場合と、誰かがこの出 来事と関係あるにもかかわらず、その関係が無視される場合とがある。 3 意味素性というのは、 「なんらか関係がある」という意味素性ではないかと考える。こ の素性は、管見のかぎり、他言語の他動詞には見られない。便宜のため、この素性を small v 2 と記す。 (4)単一事象他動詞と複雑事象他動詞 焼く 明かす 焼く 太郎は(わざと)家財道具を焼いた 焼ける+v 私たちは空襲で家財道具を焼いた 明かす 太郎は(わざと)秘密を明かした 明ける+v 私は夜を明かした 4.検証 4.1 検証Ⅰ この提案の考え方でもう一度、前の金さんの例を見てみよう。本発表は、「あなたが 落としたんでしょ」という店長の他動詞文を単一事象ではなく、複雑事象だと考えた い。つまり、 「お皿が落ちる」という単一事象があり、店長は、この事象は金さんと何 らかの関係で結び付いていると考えたので、 「落とす」という他動詞を選択して、金さ んを責めていた。金さんの「あら、落ちた」という自動詞文は、店長が考えた関係を キャンセルする機能があるため、店長の耳には、 「無責任な言い方」に聞こえると考え られる。前に「バスが止まる」や「お茶が入る」の説明で述べたように、自動詞は、 動作の主体が関係していても、その関係をキャンセルする機能を果たす。逆に、他動 詞は、動作の主体と出来事との関係を強調する機能を果たす。 4.2 検証Ⅱ 本発表の提案で、介在文をうまく解釈できる。「太郎は(美容室で)髪を切った」の ような文は介在文である。 「髪を切る」という述語の表す行為の主体は、実は「美容師」 であり、主語の名詞句の指示対象の「太郎」ではない。太郎は美容師を介して髪を切 ったので、上記の文は介在文という。英語では、介在文を、 「Taro had/got his hair cut」 のように、 「have 構文」で表す。それと対比的に、日本語は「太郎は髪を切ってもらう」 などの迂言形式を使わなくても、他動詞そのもので複雑事象を表すことができる。本 発表では、上記の「切る」は、見た目では普通の他動詞と同じように見える 意味構造には small v という要素が含まれていると分析する。 切る 2 切る 太郎は(まじめに)きゅうりを切る 切る+v 太郎は(美容室で)髪を切る Larson(1988) が提案した生成文法流の small v とは、必ずしも同じ概念ではない 4 ものの、 この場合、small v は have にあたる。つまり、介在文における他動詞「切る」は、 「切る+have」(「have~cut」)という複雑事象を表す。 4.3 検証Ⅲ この提案で、いわゆる日本語特有の「間接受身」をうまく解釈できる。「太郎が花子 に髪を切られた」のような受身文は二つの意味解釈をもつ。一つは、 「髪」は「太郎の 髪」であり、「切る」という動作を発したのは「花子」である。花子は太郎の髪を切っ て、太郎は花子の動作によって影響を受ける。もう一つは、「髪」は「花子の髪」で、 「花子が(自分の)髪を切る」という動作は太郎とまったく関係ない。ただ、太郎は 花子の髪が好きだったのに、 「花子が髪を切る」という出来事に、ショックなどの影響 を受けたという意味解釈である。一つ目の解釈では、太郎は「切る」という動作に直 接関係するので、この意味の「切る」は、単一事象を現す他動詞である。一方、二つ 目の解釈では、太郎は動作と直接関係なく、出来事という単一事象と関係するので、 この意味の「切る」は複雑事象を表す他動詞である。この場合の「切られる」は、「切 る」という動作を受けるわけではない。意味的には、むしろ、 「切る」の受身ではなく、 「切る+v」の受身だと解釈しやすいのではないかと思われる。 5.まとめ 日本語の他動詞は、単一事象だけではなく、複雑事象を表すこともできる。単一事 象を表す日本語の他動詞は、他言語の他動詞とそれほど差がなく、「意志性」「働きか け性」などの意味素性が重要である一方、複雑事象を表す他動詞は、「意志性」「働き かけ性」などの意味素性は重要ではない。それより、「関係を結び付けよう」「関係が ある」という意味素性が重要である。 本発表では、上記の「関係」を small v と記し、「何らかの関係」と記述しただけで あるが、 「何らかの関係」はいったいどのような関係なのか。現段階では、介在文にお ける small v は have に、「家財道具を焼いた」や「お皿を落とした」のような文にお ける small v は lose に、「夜を明かす」「時を過ごす」「大学を終える」のような文に おける small v は keep oneself にあたると考える。small v は、上記の他、またいく つかの種類がある可能性を否定しないが、発表者の調査の限りでは、上記の三種類が 観察された。この三種類を統一的に説明する small v は何なのかを今後の課題にした い。 5 【参考文献】 天野みどり(1987)「状態変化主体の他 動詞 文」『 国語学 』151,1-14 天野みどり (1991)「経験的間接関与表現 –構文間の意味的密接性の違い-」仁田義雄 (編)『日本語のヴォイスと他動性』:191-210. 池上嘉彦 (1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館書店 佐藤琢三 (1994)「他動詞表現と介在性」『日本語教育』84,53-64. 角田大作 (1991)『世界の言語と日本語』くろしお出版 鷲尾龍一 (2012)言語学会夏期講座 講義 6 272-282.
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