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2016.6.12
「キリストのことばと平和によって」
コロサイ 3:12-17
主イエスへの信仰によって、彼の死と復活にあずかるバプテスマを受けた私たちは、古い自分をその行いといっ
しょに脱ぎ捨て、新しい人を着たことを先週見ました。その新しい人は、造り主のかたちに似せてますます私た
ちを新しくし、「キリストがすべて」という真の知識へと至らせるのです。すると、どうでしょうか?私たちは、
もはや地上のものではなく、天のものに思いを寄せるようになるのです。その天の神の右に座を占めておられる
キリストを私たちは切に求めるようになります。この地上にありながら、でも地上に属する者ではなく、主がお
られる天に属する者としての歩みは、そのようにして私たちのうちで始まるのです。
ですから、パウロは言います。12 節「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがた
は深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。私たちは、神様に選ばれた者、聖められた者、愛
されている者です。それは「私たち」ではなく、「神様」が私たちを選んで下さったから。「私たち」がこの世
とその汚れから自分自身を聖めたのでなく、「神様」が御子の血をもってこの世から私たちを聖め別ち、ご自分
に属する者と下さったからです。そして、それは「私たち」がまず愛したからではなく、「神様」が御子のいの
ちを与えるほどに、罪人の私たちを愛して下さった、今も愛し続けて下さっているからです。
ですから、私たちは神様のものとされています。御子の成し遂げられたみわざによってもそうですが、その御子
と一つ、彼のうちにあってそうなのです。それゆえに、私たちはキリストにあって満ち満ちています。そのよう
な者に向かって、「あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」とパウロは言うので
す。これらは御子の品性そのものであり、彼に似た者へとつくり変えられるただ中にある私たちが、当然、身に
着けるものということができます。
では、なぜ私たちはそれらを身に着ける必要があるのでしょうか?その必要性は何ですか?13 節「互いに忍び合
い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださっ
たように、あなたがたもそうしなさい」。「互いに忍び合うため、赦し合うため」に、私たちはこれらを身に着
ける必要があるのです。では、どうですか?ここで言われる「互いに」とは、誰を指しているのでしょうか?
それは教会の外の人ですか?それとも、中の人でしょうか?もし外の人であるなら、「外部の人に対して、あな
たがは忍耐しなさい。彼らを赦しなさい」となっていたと思います。ですから、「互いに」というのは、教会内
のこと、つまり、主にある兄弟姉妹のことです。では、その中で「だれかがほかの人に不満を抱くことがあって
も」とパウロが言う時、皆さんはどう思われますか?「教会の中で、他の人に対して不満を抱くことがあるなん
て信じられない」と言われるでしょうか?救われたばかりの人を除いて、おそらく、ほとんどの方は、教会の中
にもそのようなことがあることを知っておられると思います。
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを
赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」。私たちが互いに忍び合い、互いに赦し合う理由、それ
は相手のいかであるかにかかっていません。相手が謝罪したら、赦すのではなく、謝罪してもしなくても、私た
ちは赦すのです。なぜなら、「主が私たちを赦して下さったように」とは、そのようにだからです。主は、罪人
に対するあわれみのゆえに、私たちがまだ悔い改める遥か前に、ご自分のいのちをささげて十字架にかかり、そ
の身と死をもって私たちに対する神のさばきを代わりに受けて下さいました。
私たちはそのように主によって赦されているのです。そして、そのように赦し合うようにと命じられています。
すべて主イエスのゆえに、また主によってです。でも、そこに愛を忘れてはいけません。14 節にこう記されてい
ます。「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」。主が、私たち
に対して忍耐し、私たちを赦して下さったのは、嫌々ながらでも、義務感からでもありません。それは愛から出
ているのです。主ご自身が愛であられるゆえに、ご自分が犠牲を払うことで、私たちを赦すことを進んでして下
さいました。もちろん、その主のうちには深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が見られるわけです。
では、どうしたら私たちはその主のようになれるのか?15 節「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するよ
うにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさ
い」。キリストの平和が、私たちの心を支配するようにすること、また感謝の心を持つ者となること、それが私
たちをして、それらの品性を身に着け、互いに忍び合い、赦し合うための鍵です。
なぜ私たちは召されて、主と一つにされたのでしょうか?私たちの罪を赦してもらうだけでなく、主と一つにさ
れる必要があったのでしょうか?それは主の平和(平安)が、私たちの心を支配するようになるためです。そし
て、その平和をもつ者同士、つまり、キリストのからだである教会が、彼の平和をうちにもつためです。
どうぞイメージしてみてください。そのようにキリストの平和が、私たちの心を支配しているなら、互いに不満
を抱いたり、さばき合っている姿を想像できますか?むしろ、そのようなことは、それぞれの心に主の平和がな
い時、主に赦されていることに感謝をしていない時に起こるのではないでしょうか?私たちが感謝するのは、も
ちろん、誰か人に対してもそうですが、17 節にも記されているように、それは主によって父なる神様への感謝で
す。主のゆえに、主の福音とその救いを喜ぶゆえに、私たちは神様に感謝をささげます。
では、キリストの平和は、どのようにして私たちの心を支配するようになるのでしょうか?それは自動的に起こ
ることですか?16 節「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、
互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」。キリストの平和、
それは私たちが自分のうちにキリストのことばを豊かに住まわせることによって、私たちの心を支配します。
私たちをして、自分のうちに、また教会の中に何か問題があったとして、でもそれが神様の御手のうちにあり、
主が最善へと導いて下さることを知れるのは、何と幸いなことでしょうか。天地万物の創造主である方が、つま
り、万物を造られ、その目的であると同時に、これを治めておられる方が、「わたしは決してあなたを離れず、
また、あなたを捨てない」と約束して下さっているのです。私たちは何を恐れる必要があるでしょうか?神様が
共にいて、みことばと御力をもって導いて下さっています。これほど心に平安を与えるものは他にありません。
でも、もし私たちが、主のみことばを自分のうちに豊かに住まわせることをしていなかったらどうでしょうか?
みことばを所々知っていても、その背景や意味を知らずして、もっというと、それを語られる主を知るほどに、
主のみことばを豊かに聞くことがなければ、どのようにして私たちの心を主の平和が支配するようになるでしょ
うか?「恐れるな!思い煩うな!」ということばを知っていても、なぜそうなのかといった肝心な理由を知るこ
とがなくては、主の平和が私たちの心を支配するまでに至らないと思います。
ということは、私たちには何が必要なのでしょうか?それは、キリストのみことばに聴くことです。それを自分
のうちに豊かに住まわせるために、自ら務め励むことです。そうでなければ、主のことばが勝手に私たちのうち
に豊かに住むことはありません。そして、主のことばがうちになければ、主の平和が私たちの心を支配すること
もないのです。そして、さらに主の平和が私たちの心を支配していなければ、感謝の心は持てませんし、また、
ほかの人に対して不満を抱きやすくなり、互いに忍び合い、赦し合うことも困難になってしまいます。教会は、
そのようにして、一人一人の主への信仰にかかっているのです。
では、キリストのことばをうちに豊かに住まわせるのに、私たちはどうすれば良いのでしょうか?当然、聖書を
読んで、学ぶことが大切ですが、何よりも自分自身でみことばに取り組むことです。私たちが教会をあげて聖書
通読に取り組んでいるのは、そのためです。それは単に聖書の知識を増やすためでもなければ、自己満足を味わ
うためでもありません。それは実に、キリストのことばをうちに豊かに住まわせることで、キリストの平和で私
たちの心を支配していただくため、そのようにして主と一つにされていることのすばらしさを知って、ますます
主との信頼関係を深めるためです。主への従順は、その信頼関係がなければ成り立ちません。
でも、みことばはただそれを聞くだけでは、すぐに忘れてしまうことも事実です。ですから、「知恵を尽くして
互いに教え、互いに戒め」と言われています。これは牧師が、講壇からみことばの説き明かしをするようなもの
ではなく、すべての信仰者が、互いの間で進んですべきこととして語られているものです。そこでお聞きします。
「あなたが最後に、みことばをもって他の信仰者と互いに教え、互いに戒め合ったのはいつですか?」。「あな
たのうちに住むみことばは、他の人の信仰が引き上げられるために用いられていますか?」
その流れで、その続きを見ます。「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」
この「詩」とは、詩篇のこと。「賛美」とは、クリスチャンが作った頌栄、つまり、伝統的な讃美歌のことで、
「霊の歌」とは、信仰を表現する、より一般的な歌といわれています。
いかがでしょう?あなたは、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神様に向かって歌っています
か?もっというと、それらのツールを用いて、あなたは自分を罪と滅びから救い、恵みをもって導かれる神様に
向かって感謝とともに賛美をささげているでしょうか?詩と賛美と霊の歌を用いないと、神様をほめたたえるこ
とができないというわけではないですが、曲を含み、それらの歌詞が神様をほめたたえる助けとなるので、私た
ちはそれを用いて神様に心から歌うのです。礼拝そのものといえます。
私はできる限り、自分のまわりにクリスチャン・ミュージックを置くようにしています。個人的には、聖歌・賛
美歌の歌詞が、主をほめたたえるには良いと思いますが、でも、普段ラジオを聞くのは、現代のクリスチャン・
ソングです。英語なので、歌詞がよくわかるとは言えませんが、でも、時に歌詞を口ずさむ中で、神様への感謝
があふれることを経験します。皆さん、あなたは主のことばをご自身のうちに豊かに住まわせるために、みこと
ばに日々聞いておられますか?それを他の信仰の友と分かち合っていますか?救いの喜びと感謝を賛美という形
で神様に表しておられますか?
17 節「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主
によって父なる神に感謝しなさい」。すでに見たように、ここでも神様に感謝することが言われています。パウ
ロは「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし」と
言っていますが、それは文字通り、すべてのことを指していると思うのです。そして、そのような歩みは、主イ
エスのことをいつも思っているところから来きます。自分のうちに主のみことばを豊かに住まわせることで、主
の平和が私たちの心を支配するところから、そのような歩みは生まれるのです。
そして、そのようにキリストのことばと平和によって、私たちは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして
愛を身に着けるようになる。時間はかかります。一夜にして、主のようになる人はいません。でも、私たちが主
とともにすでに死んだ者、主とともによみがえらされた者であるならば、それを信じる信仰があるならば、主ご
自身がみことばと聖霊による力をもって、私たちをご自身に似た者へとつくり変えて下さいます。
ですから、私たちは進んで主のみことばに聴く者とさせていただこうではありませんか。それを自分のうちに豊
かに住まわせることで、主の平和によってこの心を支配していただこうではありませんか。ご自身のいのちを捨
てて十字架にかかり、私たちを罪と滅びの支配から救い出して下さった主は、感謝をもってご自分に近づく者に
主もまた近づいて下さいます。そして、この世のものとは違う神の平安をもって私たちを満たして下さるのです。