海外移住資料館

Japanese Overseas Migration Museum News No.28
Winter
ペルー 2013
■発行元:独立行政法人国際協力機構 海外移住資料館
神奈川県横浜市中区新港 2-3-1 赤レンガ国際館 2 階
Tel:045-663-3257(代)URL:http://www.jomm.jp/ ■編集発行人:JICA 横浜 所長 吉浦 伸二
南米で日本人が
最初に移住した国
インタビュー
アルマカミニイト
日系社会は進化している特別な存在
海外の
邦字新聞より
World NIKKEI News
海外各地で移住者・日系人のために発行されて
いる邦字新聞より、気になるトピックをピック
アップしてご紹介します。
2012年12月7日
(金)ハワイ報知
ハワイ報知創刊100周年記念号
アメリカ・ハワイに本社がある日刊紙「ハワイ報知」が創刊100周年を迎えました。
創刊当時、
日本移民に対する厳しい労働条件と人種差別から、待遇改善を要求する労働争
議が各耕地で起っていました。横浜出身の牧野金三郎は労働者側に立つ新聞の必要性を感
じ、新しく日本語新聞を創刊することを決意。1912(大正元)年12月7日、ホノルル市内で「布
哇(ハワイ)報知」
を発刊しました。
1941年の真珠湾攻撃翌日の紙面には、
「之ぞ我ら
の戦ひ」
と題した社説を発表。
「國籍、人種の如何を問
わず、布哇の住民は米國に忠誠を誓い、各自が疑いを
かけられることなき様行動せねばならぬ」
と訴え、
アメ
リカに生きる日系移民の進むべき道を示しました。
「100周年記念号」に掲載された日米開戦前後の同
紙の歩みをご紹介します。
ハワイ報知の紙面より
太平洋戦争開戦
1931年に満洲事変、1937年に日中戦争と中国大陸
で戦乱が起り、
日米関係は悪化していったが、
日本人社
会では日本側に立つ論調が多く、ハワイ報知も日本サ
イドに立っての報道が主体だった。日本人移民から日
本の陸海軍への寄附も盛んになり、
「同胞赤誠の表現。
国防恤兵本社寄託金。カイムキ地方同志会(陸海軍恤
兵献金)金千七百三十九円九十銭」
(1937年9月27日)
などと日本語新聞はその仲介役を果たしていた。
1941年12月7日、
日本海軍の真珠湾攻撃により、太平
洋戦争が勃発した。報知は開戦翌日には「之ぞ我等の
戦ひ」
と題する社説を一面トップに掲げ、
「平静を保ち、
当局の指示に従い、協力するように」
と呼びかけた。ア
メリカ軍部はハワイ全土に戒厳令をしき、次々と全般命
令を布告。12月10日に発令された第14号ですべての日
本語新聞雑誌が発行停止となった。
しかし日本語しか解らない一世も多く、軍政府が出
す、家賃統制、医療品食料品購入、労働条件、夜間外出
規制などの細々した日常生活を規制する命令などが伝
わりにくくなっていった。そのため軍は1942年1月6日の
全般命令42号で、ハワイ報知と日布時事の二紙の1月8
日からの再刊を許可した。再刊は許可されたが、軍部か
らの検閲官が派遣され、検閲済みの英文ニュースを直
訳したものだけを掲載する事が要求された。
また2月か
らは、社説も陸軍情報部で書かれたものを、そのまま翻
訳して載せねばならなかった。日本語新聞が復活した
とはいえ、完全に軍当局の宣伝機関としての役割が主
なものだった。
戦時下の1942年11月には、
日系二世によって構成さ
れた非常時奉仕委員会の勧告により、
タイトルの『布哇
報知』が『ハワイヘラルド』に変更された。
(同時期に『日
布時事』は『布哇タイムス』
と改称した)
1943年3月には第442連隊の募集が行われ、ハワイ
からは2600名が合格した。報知では増ページを行い、
合格者の「入営御礼」広告を掲載した。同年9月には442
連隊がイタリアに上陸し実戦に参加。それ以後は、
日系
部隊の戦況報告や戦死、戦傷の記事が連日紙面を埋め
るようになった。
(後略)
■World NIKKEI Newsは、資料館友の会のメーリングマガジンでも配信中です!図書資料
室(海外移住)の「邦字新聞コーナー」で閲覧することのできる13カ国26紙より、気になる
記事をピックアップしてご紹介します。
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海外移住資料館
み詳細は、資料館ウェブサイトをご覧下さい。
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★両イベントとも、詳細は海外移住資料館
HPをご覧ください。
「100年後のカリフォルニアへ
−祖父たちの足跡をたどって 松井みさき写真展」
特別展示
3月1日
(金)∼5月6日
(月) 企画展示室 ●開館時間 10:00∼18:00(入館は17:30まで)
●休 館 日 月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日)、年末年始(12月29日∼1月3日)
●入 館 料 無料
アクセス ■みなとみらい線
「馬車道」駅(4番出口)から徒歩約8分
「みなとみらい」駅(クイーンズスクエア方面改札)から徒歩約15分
■JR線・市営地下鉄
「桜木町」駅から(汽車道→ワールドポーターズ→サークルウォーク)
徒歩約15分
ニューヨーク在住の写真家松井みさきさんが、アメリカ移民だった祖父の足跡をた
どる旅で出会ったカリフォルニアの風景と、家族の記録で構成したフォト・ストーリー。
松井みさきギャラリー・トーク
3月2日
(土)、3日
(日)14:00∼15:00 企画展示室
表紙の写真:
白黒…………ペルーのサトウキビ耕地で働く女性たち。
(ペルー日本人移住史料館所蔵)
カラー(上)…ペルーのリマ市で毎年日系団体が主催して行われている
「MATSURI」。2012年は11月
10日に行われ、約2万人が集まった。
(提供:ペルー新報)
(下)…ペルー、
フジモリ大統領(1990∼2000)
父親の写真を展示に発見! JICA日系研修で来日の立花さん
JICAが中南米の日系人への技術協力の一環として実施している日系研修員受入事業で来日したブラジル
の立花アルマンド敏春さんは、帰国前日の11月7日資料館を訪れ、
「戦後移住のはじまり」のコーナーで展示さ
れている写真に、父 茂敏さんの姿を見つけました。
「日本戦災同胞救済会より母国へ送った慰問品」
とクレジットのついた写真の左端に白いスーツにサングラ
ス姿の男性を指す立花さん。写真には「1947年頃ブラジルサンパウロ州サンパウロ」
とあります。
第二次世界大戦後、食料にも事欠く日本の窮状に、南北アメリカから、当時のお金で400億円以上の物資が送
られました。支援を取りまとめた団体(アジア救済公認団体Licensed Agencies for Relief in Asia)の頭文字をとっ
て
「ララ物資」
と呼ばれていますが、多くは戦時中に敵国人となって苦労した日系人が祖国日本を思って送ったも
のでした。写真に写っている山と積まれた荷物には「LARA YOKOHAMA」の文字を読むことができます。
約1カ月間JICA横浜に滞在し研修を受けていた立花さんは、
「父は日本人の団体で役員を務めていまし
た。写真の存在は知っていましたが、
まさか資料館で展示されているとは思わなかった」
と、思いがけない発
見に感慨深げでした。
TOPICS
Topic-1
海外移住資料館や海外移住にまつわる
さまざまな情報をお届けするコーナーです。
JICA横浜海外移住資料館 開館10周年記念シンポジウム
このほど海外移住資料館は2002年10月の開館から10周年
を迎え、11月1日
(木)に記念シンポジウムを行ないました。
津田塾大学 飯野正子理事長(当資料館学術委員長)は「海
外移住資料館の意義・役割―次世代に向けて」
と題した基調
講演の中で、
「われら新世界に参加す」のテーマのもと、日系
人の貢献を中心にした海外移住資料館が設置された意義に
ついて述べ「移住という事象が、
日本にとってどのような意味
を持つのか、世界における人の移動が、人々に、社会に、
どの
ようなインパクトを与えるのかを考え、それを次の世代に伝え
る責務を私たちは負っている」
と語りました。
アメリカ、
カナダ、
ペルー、
ブラジル、
メキシコの日系博物館・資料館の館長や海
外日系社会の代表が参加したパネルディスカッションでは、海
外移住資料館への期待や各国日系博物館との連携のあり方
Topic-2
テレビ東京「地球VOCE」の取材で、
藤原紀香さんが来館しました!
について、意見が多数出されました。
パン・アメリカン日系人協会の春日カルロス名誉会長(メキ
シコ)が「メキシコは100年以上の移民の歴史があるのに、日
系の博物館が存在しない。必ずメキシコに移住資料館を建設
します」
と話すと、場内からは大きな拍手が起こりました。当日
は、国内外から130名を超す参加者が来場しました。
Topic-3
大人気イベント 第5回宝島ハロウィンを開催!
テレビ東京系列で放映している
「地球VOCE(ヴォーチェ)」の
みなとみらい周辺が仮装した子どもたちであふれる人気イベント
キャスター、藤原紀香さんが番組取材のため10月24日
(水)海外
「第5回宝島ハロウィン」が10月28日
(日)に盛大に開催されました。当
移住資料館を訪問しました。藤原さんは吉浦伸二館長の案内で
日はあいにくの小雨まじりの天気にもかかわらず、お姫様やウルトラ
館内を見学。海外移住の歴史に触れた後、
日系ブラジル人の来
マンなど、それぞれ自慢の仮装をした455人の子どもたちが参加して
館者に、
日系人が資料館をどう思っているのか話を聞いていま
くれました。
した。
この模様は12月21日と22日に放送され、番組の中で藤原
普段は緑のベストを着て展示案内
紀香さんは次のように述べました。
「展示の中で興味深かったの
をしてくれるボランティアさんたち
が、移住者たちと一緒に海を渡ったトランクです。移住者のみな
も、
この日はマントや帽子をかぶり魔
さんは、それぞれの
女やドラキュラに変装して子どもたち
国で文化を伝えて融
を出迎え、用意していたチョコレートを
合 さ せ てる ん で す
配るなど大活躍!仮装したボランティア
ね。横浜から世界へ
さんに館内を案内してもらった子ども
羽ばたいていった日
たちは大喜びで、ハロウィンイベントな
本の移住者たち。国
らではの楽しい一日となりました。
際協力の先駆者たち
の思いをあなたも感
じてみてください」
海外移住資料館ウェブサイトでは、展示案内ボランティアが活動中に感じたこと
や展示に関連することなどを思いのままに綴った「ボランティア日記」を公開中!
サトウキビ耕地労働者から
大統領まで
南米で日本人が最初に移住した国 ペルー サトウキビ耕地で働く日本人移民。女性
(ペルー日本人移住史料館所蔵)
1月18日
(金)
から2月17日
(日)
まで、
資料館では、
ペルーに移住した日本人の足跡をたどる
特別展示
「ペルーの日系人」
を開催しています。
サトウキビ耕地労働者に始まり90年代には大統領が誕生するまでになった
ペルーの日系社会はどんな歴史をたどってきたのでしょうか。
佐倉丸から始まった契約移民
19世紀末、ペルー沿岸地域ではサトウキビ・プランテーションによる製
糖事業の拡大のため労働力を必要としていました。民間の移民会社が、
サトウキビ耕地の契約労働者としてペルー移民を募集し、1899年、790人
の日本人移民を乗せた「佐倉丸」が橫浜からカヤオ港に到着したのがペ
ルーの日本人移民の始まりです。ハワイ移民同様出稼ぎ労働による故郷
への送金が目的でしたが、耕地での労働は厳しく、思うようにお金が貯ま
らない上に、マラリアやチフスなどの風土病で、第一回移民の成人男子
790人のうち124人が1年以内に命を失うという過酷なものでした。
その
後も日本国内の不景気とアメリカでの日本移民の排斥からペルー移民
は継続されますが、多くは契約の労働期間が終了しても帰国する金すら
できず厳しい生活を強いられました。
ストライキや耕地からの逃亡も相
次ぎ、命がけで標高4000メートルを超すアンデス山脈の峠を越えてボリ
ビアやブラジルにまで新天地を求めた人もいました。1923年に契約移
民の送り出しが終了するまで、83回の航海で18,727人の日本人がペルー
に渡りました。
日系人社会の形成
農地を離れた日本人は都市に仕事を求め、行商からはじめ、少しずつ
資金を蓄え商業に進出する者も出始めました。資本の少なくてすむ理髪
店をはじめ、特に日用雑貨店や飲食店が多く、ペルー人経営の商店数を
次第に超えるほどになっていきます。
日本人がペルー社会に進出していく
インタビュー
アルマカミニイト
日系社会は進化している特別な存在
今年4月にデビューしたアルマカミニイトは、
日系ペルー三世の
エリックさん(右)
と日本舞踊の師範でもある日本人の宗彦さん
(左)による、ボーカル・デュオ。
生い立ち・育った環境が全く異なる彼らは、
どうして出会い、
どん
な音楽をめざしているのでしょう。
11月にエリックさんの生まれ故郷ペルーでの海外公演から帰っ
てきたばかりのお二人にお話をうかがいました。
エリック
(エリック福崎) 1991年、ペルー、
リマ市生まれ 2008年からペルー国内のオーディション、
コンクー
ルで3回優勝を飾りブラジルでの決勝大会でも優勝。2009年単身来日。2010年から
(2012まで連続4回)宮沢和史プロデュースイベント
「NIPPONIA」に出演。2011年2月
アップフロントワークス主催オーディション「FOREST AWARD」特別賞)。
宗彦(大野宗彦) 1983年、群馬県高崎市生まれ 6歳より水尾流の水尾富蔵師に師事し日本舞踊を始
める。12歳で名取り、その後勝見流勝見智弥として師範となる。2005年からR&Bに
のめり込み歌手を目指す。2011年2月アップフロントワークス主催オーディション
「FOREST AWARD」特別賞)
性も子どもも働いた。
と同時に日本人による団体や同業者組合、県人会等が全国的に設立され
ます。相撲、剣道、野球などのスポーツ交流も盛んに行われました。1917
(大正6)年に、ペルー政府や日本政府にも対応する日系社会の代表機関
ペルー
として秘露中央日本人会が設立されます。 リ マ
1920(大正9)年には、
日系社会の念願であった里馬日本人小学校(リマ
日校)が設立されました。
リマ日校は、
日本の文部省より認可された日本
人としての子弟教育を趣旨とする日本人学校でした。
都市への集中は次第に強まり、ついには日本人移民の80%以上が都市
在住者となります。商業等への進出めざましい日本人は、ペルー人社会に
とって脅威に映り、第二次世界大戦に至る世界情勢の中、
日本人は排他的
で同化しないなどの風評がたち、
日本人移民に対する風当たりは強くなっ
ていきます。
1941年に日米が開戦し第二次世界大戦に突入すると、ペルーは日本との
国交を断絶し、
日本人社会と企業の資金は凍結、財産は没収され、すべて
の日本人の機関、学校は閉鎖されました。
1942年4月、ペルー政府は日本人市民をアメリカの強制収容所へと連
行し始めます。収容所には外交官、
日系社会の指導者、教師、成功してい
た事業家などが送られました。1942年から1945年の間に、
アメリカの強
制収容所には中南米地域から同盟国側の日本人、
ドイツ人、
イタリア人市
民約3000人が収容されましたが、
うち2300人が日本人で、
さらに1700人
以上がペルーから移動させられた人々でした。
ペルー社会への定着
第二次世界大戦の終結後、
日本人移民は、
日本へ帰国する考えを捨て
ペルーで生きていく道を選びます。子どもたちには、ペルー国民としての
教育を受けさせ、高い学歴を身につけさせることによって、ペルー社会の
中で未来を築いていけるようにと願いました。二世たちはその期待に応
え、医師や技術者、弁護士、教育者、芸術家など、様々な分野に進出し、
日
本人以外の民族との結婚も増えていきます。 1952年に日本とペルーの国交は回復し、
日本が戦後驚異的な経済復興
を遂げる一方で、ペルーは徐々に低迷していきます。
しかし、
この時代にペ
ルーを母国として育った優秀な二世たちは、ペルー人として、国の改革と
発展への理想に燃えていました。
アルベルト・フジモリもその一人でした。
里馬日本人小学校附属幼稚園児童の集合写真
(1936年)
。
第二次大戦で接収され国立
女学校となったが2012年に老朽化のため解体された
(尾形健輔氏提供)
第二次世界大戦がもたらした悲劇
1940年5月、
日本人の家屋や施設が反政府活動の武器庫になっている
というデマにより、
日本人家屋が襲撃、破壊されました。620家族が犠牲と
なり、その内、54家族316人は全てを失い帰国せざるを得ませんでした。
音楽との出会い、二人の出会い
エリック:ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんが熊本出身。おばあちゃん
まで日本国籍を持っていたので日系三世。
日本式の言い方だと四世にな
ります。家庭では全く日本語は使っていなかったけど、3歳のころから色々
な音楽、特に演歌を聞いて育ちました。兄弟3人で、日本にいる親戚が
送ってくれるビデオで紅白歌合戦や、
ものまね番組や音楽番組を見てい
ました。7歳の頃、お父さんが日本にデカセギに行って10歳の時にCDを
たくさん持って帰ってきました。いろんなジャンルがあったけど、特に氷川
きよしさんが好きになって、演歌を歌いたいと思いました。
宗彦:日本舞踊を始めたのは、家で日本舞踊の生徒さんをとって教えてい
た祖母の影響です。お稽古を小さい頃から見ていて、
自然と違和感なくそ
ういう世界に入っていきました。小さくてよその家のことはわからないの
で、誰の家でもそういうことをやっていると思っていたんです。6歳から初
めて、学校の部活とか勉強で休んだこともありましたが、年に一回の大き
な発表会にはだいたい出ていました。ヒップホップダンスをやった時に
日本舞踊の癖が出ちゃうこともあります
(笑)
。
家では、両親がホームステイの学生をよく受け入れていたので、外国人
に対して構えたりすることはないです。エリックは明るくて情熱的、一人で
何でもこなすという印象ですね。
エリック:小学校から高校まで同じ学校で、
日系人はまったくいない学校
でした。だけど、12才から日系団体が主催している、
コンテストやイベント
に出させてもらって、
しかも演歌を歌っていたので、
自分が日系人だとい
う意識はとても強かったです。今ではコンテストで優勝して日本で歌手
日系大統領の誕生
ペルーは、
スペインによる植民地支配からの独立後も白人による先住
民支配が続きましたが、第二次大戦後は国民統合政策がとられます。1968
年に成立した軍事政権は、農地解放を行い、先住民の小作人に農地を分
配しましたが、彼らには知識も経験もなかったので農場は荒れ生産は低
下しました。政策が破綻すると、政府は言論を弾圧。反政府テロ組織が活
になる夢を持つ人がたくさん出てきています。18歳の時に歌手になるた
め日本に出てきました。17才から独学で日本語を勉強し始めて4年にな
ります。
宗彦:二人が受けたオーディションで、お互いのことは一番印象に残って
いました。二人とも特別賞をもらって、最後にみんながステージに上がっ
た時も偶然隣同士で。
そうしたら審査委員長が講評で「この2人でデュオ
をやったらといいと言いだして、僕たちは苦笑いだったんですが、一週間
ぐらいして事務所からほんとうに電話があったんです。 ユニット名は、スペイン語で魂の意味のAlma(アルマ)と、小道の
Caminito(カミニート)に日本語の「紙」に「糸」の音を乗せました。紙は日
本の「包む文化」の象徴。糸には人と人の心をつなぐという意味を込めて
います。
初めてのペルーで
宗彦:1 1月9日にファンミー
ティング、ペルー日系社会で毎
年行われる「MATSURI」が10
日、宮沢和史さんのイベント
NIPPONIA※が11日にあり、初
めてペルーに行きました。
ファンミーティングに集まっ
てくれた観客のほとんどは、
日
1991年、名古屋で開かれた
米州開発銀行(IDB)年次総
会でスピーチするフジモリ
大統領
動を始め、国民の生活を脅かします。80年の民政移管後も、センデロ・ルミ
ノソ
(スペイン語で「輝ける道」
)などのテロ組織が農村部を制圧し、先住民
が都市部に押し寄せ、土地を不法占拠して町に居つくなど混乱が続いてい
ました。1990年、国立農科大学の学長だったアルベルト・フジモリは大統
領に立候補し、先住民の支持を集め当選します。それは、戦前に排斥され
た経験によりペルー人社会の中で「目立たずひっそりと」生きてきた一世
中心の日系人社会から、自らをペルー人として、社会進出を果たしてきた
二世の時代の到来を告げる、ペルー社会に対する強烈なアピールでした。
デカセギの始まりと在日コミュニティーの形成
フジモリ大統領は、テロ組織の撲滅を図り、国際金融市場での信用を
回復し経済の復興を図ります。
しかし、その急進的な経済政策は多くの
日系人も属する中産階級層を直撃します。ペルーでは、それ以前の80年
代から、ハイパーインフレやテロによる社会的不安から、北米やヨー
ロッパへ移住する人が多くなり、
日系人も80年代半ばから日本へ出稼ぎ
に行くようになりました。1990年に「入管法」が改正され、日系人やその
家族が働けるようになったため、給料の高い日本への「デカセギ」※は
ブームになりました。現在、
日本に住んでいるペルー人は5万5千人にも
のぼります。
※日本語の「デカセギ」は南米各国でも
「海外へ働きに行くこと」
を指す言葉として定着しています。
デカセギから共生へ 日本で、ペルー人もブラジル人同様、主に工場労働者として働いてきま
した。2008年のリーマンショック以降、仕事を失ったブラジル人は10万人
系じゃない人たち。ペルーのファンのほうが熱狂的で、デビュー曲の
「茜」をやったら日本語で合唱になって、なんで知っているんだろうと、
こっちがびっくりしました。J-POPだったりK-POPだったり、みんな結構ア
ジアの音楽を聴いているようですね。エリックのfacebookやネットで広
まっていったんでしょうね。
エリック:自分は日系人だという気持がすごく強くて、
それを日系社会の中
だけじゃなくて日本でもペルーでも広げていきたいと思っています。
「日
系」
というのはペルーとも違うし南米ともまた違ったひとつの「文化」だと
思う。
でも心は一緒。NIPPONIAで歌っているとそういう風に感じます。
アル
ゼンチン出身の大城クラウディアさんだって、
ブラジル出身のマルシアさ
んだって、ハワイのジェイク・シマブクロさんだって。国は違っても日系と
いう同じ心です。
※NIPPONIA:THE BOOMの宮沢和史がライフワークとして、
プロデュース・総合演出を務める、
アルベ
ルト城間、大城クラウディア、マルシア、
ジェイク・シマブクロ等各国の日系人シンガー、
ミュージシャン
を集めたコンサート。
日本人移民と日系人の歩みもそれぞれ紹介される。2010年から2011年までに3
回沖縄で行われ、2012年11月初めてペルーのリマで行われた。
アーティストとして、日系人として
宗彦:お互いの個性を引き立てられるようなユニットになっていきたいで
す。
もともとこれをやりたいと思って歌手になった道がお互いに違うので、
そこの部分はこれから混じり合うのかどうなのか、正直わからないけど、
エリックと僕でやっていることは、世界の掛け橋になる、ペルーと日本の
掛け橋になるということ。その方向は間違ってない。ペルーでそう感じま
以上が帰国しましたが、ペルー人はほとんどが日本に残りました。不況下
の日本でもペルーより希望が持てるという判断と、
日本の公立学校に通
わせる子どもの教育のための選択だと言えます。母国ペルーで大統領を
出すほどまでになったペルー日系社会は、大きな岐路に立たされている
と同時に、少子高齢化で労働人口が減少する日本も外国人をどのように
受け入れていくかが問われています。
日本人移住者を南米で初めて受け入れてくれたペルーから日本人の
子孫としてやってきた彼らが、
日系ペルー人として胸を張って
生きていけるような、そしてペ
ルーと日本との友好の架け橋
として活躍できるような社会作
りが望まれます。
浜松のペルー人学校「ムンド・デ・アレグ
リア」
で学ぶ子どもたち
特別展示「ペルーの日系人」
1月18日
(金)∼2月17日
(日)企画展示室
1899年、橫浜を出航した佐倉丸の790人に始まったペルー移
民の歴史を、移民が携行し
た品物や、貴重な当時の写
真、証言映像などから、移
民の生活と、今日までの歴
史をたどります。
戦前ペルー日系社会で行われていた
陸上競技大会の優勝旗(1937年)
した。
ラテン系J-POPというような新しいジャンルというか、だれもやっていな
いような音楽をやっていきたい。
ラテン音楽を聴いてきたことがなかった
ので、僕には新しいチャレンジです。
エリック:ぼくら日系人の存在を日本の人に知ってもらいたいです。
日本の
文化が海外で愛されてるということを日本の人たちに知ってもらいたい。
そして日系人に限らず南米から日本に来てがんばっている人たちを応援
したい。浜松のペルー人学校「ムンド・デ・アレグリア」でも演奏しました
が、特に子どもたちが、
自分のことをちゃんと知る、
自分のルーツをちゃん
と知ることが、
とても大事だと思います。
日系人はアイデンティティがないってよく言われるけど、違うと思う。両
方とも自分の国。ペルーにも愛情があるし、
日本にも愛情があります。
それ
が僕たち日系人の特別なアイデンティティっていうか、僕たちの日系社会
のすばらしさ。
それぞれが、
もっとそれを感じて欲しい。
日系社会は進化し
ている特別な存在。特別であることを大切にして欲しいと思います。
アルマカミニイト Alma Kaminiito 2012年4月25日1stシングル 茜/c/w「青に乗せて」
「Blue Horizon」でデ
ビュー。2012年10月24日2ndシングル 雨粒パール/抱きしめたい 抱きし
めたい リリース。2012年12月26日、80年代後半から2010年までの
J-POPのヒット曲をスペイン語と英語でカバーした1stアルバム ALMA
COVERSリリース。
スペイン語訳詩はエリックが手がけている。