認知症サミット日本後継イベント関連資料(京都の軌跡) 2012 京都文書と京都式オレンジプラン 京都府立洛南病院副院長 森 俊夫 はじめに 京都では、2013 年 10 月に「京都式オレンジプラン」 (京都認知症総合対策推進計画)が 公表された。特筆すべきは、認知症の「私」を主語にして、オレンジプラン最終年となる 2018 年 3 月の京都を描いた「10 のアイメッセージ」が採択され、冒頭のイメージ図(オレ ンジロード)と最終頁の「プラン評価の方向性」を飾っていることである。このことは、 京都の認知症施策の評価方法として、 「10 のアイメッセージ」を指標とすることを京都府が 宣言したことを意味する。評価には認知症の本人と家族も参加することが決まっている。 世界の国家認知症戦略に通ずる選択に踏み出す自治体が誕生した瞬間である。 この「10 のアイメッセージ」というアイデアは思いつきから生まれたものではない。京 都では 2011 年 11 月に端を発する、認知症に関与する人たちが結集して京都の認知症ケア を変えようとした「京都式認知症ケアを考えるつどい」(以下、 「つどい」)という、疾風怒 濤のような試みがあった。その成果が、最終的に「10 のアイメッセージ」へと結実した。 京都というローカルなエリアを舞台にした一つの物語にすぎないが、その成否には時間的 にも空間的にも様々な要因が関与していたように思う。可能な範囲でそれを整理してみる。 最初に少し時間を溯る。 Ⅰ 「つどい」前史 1.二人の先駆者の登場 新しい時代の到来を告げる最初のできごとは、オーストラリアと日本という海を隔てた 二つの国で不思議な同時性をもって始まった。1998 年のことである。46 歳の若さで認知症 を宣告されたクリスティーン(Christine Bryden、後に Christine Boden)は、 「私は誰にな っていくの?(WHO WILL I BE WHEN I DIE?) 」という一冊の本を書き上げる。彼女 は「これまで私が見てきた資料は、すべてアルツハイマー病の介護者のために書かれ、出 版されている。残念なことに、私たち、現実にアルツハイマー病を病む者が忘れられてい るように思えてならない」と書き、認知症当事者が置き去りにされている状況を告発した。 同じ年の日本。精神科医小澤勲(元京都府立洛南病院副院長)が「痴呆老人からみた世 界」を上梓する。小澤は、「痴呆老人から見た世界はどのようなものなのだろうか。彼らは 何を見、何を思い、どう感じているのだろうか。そして、彼らはどのような不自由を生き ているのだろうか」と、次にくる時代を予見するかのような言葉をその冒頭に刻む。そし て、別の書で「これまで痴呆を病む人が私たちを、そしてこの世界をどう見ているかにこ ころを寄せるという視点が欠けていたのではあるまいか。これは、これまで痴呆を病む人 たちは処遇や研究の対象ではあっても、主語として自らを表現し、自らの人生を選択する 主体として立ち現れることがあまりに少なかったことによると思われる。とすれば、これ までの痴呆ケアは、痴呆を病む人たちにとってどこか的はずれになっていたに違いない」 と言葉を続ける。従来の認知症論の限界を喝破するとともに新しい方向性を明示するもの であったが、それはクリスティーンが示した視座と奇跡的な重なりを示していた。 2.当時者が語る時代の到来 二人の先駆的な動きに時代が鋭敏に反応する。急速な高齢化の進行は、社会の側にそれ に対する十分な準備を欠いたまま、認知症を生きる人とその家族の増大をもたらした。彼 らが望む治療やケアと、実際に提供されるものとの間には大きな落差が存在し、新しい認 知症ケアの登場を渇望するエネルギーは沸点に達していたといってもよかったと思う。そ こに 2003 年のクリスティーンの来日が呼応する。松江と岡山での講演はテレビでも放映さ れ、私たちに大きな衝撃を与えた。小澤とクリスティーンが出会うのもこの時である。1998 年に始まった二筋の流れは時空を越えて日本の地で交錯する。 クリスティーンの来日講演と「私は誰になっていくの?」の邦訳は、 「呆けたら何も分か らなくなる」といった旧来の認知症観をひっくり返し、認知症であっても見事に語り見事 に文章を書くことを明らかにした。そしてクリスティーンに勇気づけられ、日本でも多く の認知症当事者が発言し始めた。最初に登場したのは福岡在住の越智俊二さん(当時 57 歳) であり、2004 年 10 月に京都で開催された国際アルツハイマー病協会(ADI)国際会議で、 「認知症本人からのメッセージ」を 66 の国や地域から集まった人々に届けた。2005 年に は長崎在住の太田正博さんが主治医の菅崎弘之とともに全国講演を開始する。2006 年 10 月には京都で「本人会議」、2007 年 2 月には広島で若年期認知症サミットが開催され当事 者本人からのアピールが採択された。機は熟しつつあった。 3.つどいの源流と 2011 年の京都の風景 つどいの源流は、2007 年 9 月 28 日に遡る。この日京都では第 50 回日本病院・地域精神 医学会総会の公開プログラム「認知症セミナー」が開催された。認知症の人と家族の会発 祥の地京都に、長崎からアルツハイマー病当事者の太田正博さんと主治医の菅崎弘之を招 き、そこには肺癌を患い限られた時間を生きる小澤勲の姿もあった。彼らが蒔いた種を京 都の地で育もうとする、連綿と続く「こころの系譜」がある。この時に「ポストセミナー」 という、職種・職域を越えた横断的で誰でも参加できる自由な場が形成され、ここが京都 の認知症ケアを構想する核となった。目指したのは「認知症と明るく生きる」ことのでき る社会の創出である。 そこに今後のグランドデザインを描いた「地域包括ケア研究会報告書」(2010 年)と、 それを受けて京都府が予算化した「京都式地域包括ケア構想」(2011 年)が登場する。そ こで掲げられた地域包括ケアという言葉の含意は、「誰もが住み慣れた地域で暮らし続け ることのできるケアシステムと社会」と要約された。京都が大きく動こうとする局面を迎 えて、ある危機感があった。それは、「誰もが」の中に認知症の人たちは含まれていない という実感からきている。京都で医療やケアに携わる者が直面しているのは、地域から排 除されていく認知症の人たちが存在するという現実である。誰かがこの問題に対する処方 箋を描かない限り、排除が固定化していくことになる。それが 2011 年の京都の風景であっ た。 この時点では、「認知症を生きる彼・彼女からみた地域包括ケア」といったものは未だ 十分に言語化されていなかった。ここに言葉を与えていくこと、それはどこか遠くでなさ れる作業ではなく、「いま、ここ」で成し遂げなければならない喫緊の課題となった。そ れが「つどい」の開催を決意した理由である。2012 年 2 月 12 日に一回目の「つどい」を開 催し、2013 年 2 月 17 日に二回目の「つどい」を開催した。 Ⅱ 第一回「つどい」と 2012 京都文書 1.第一回「つどい」とは何か 第一回「つどい」は、「京都の認知症医療とケアの現在」をデッサンし、「認知症を生 きる彼・彼女から見た地域包括ケア」に言葉を与えることを目的とした、京都を舞台にし た一つの物語であった。それを言葉にしたものが「2012 京都文書」である。2012 年 2 月 12 日、同志社大学寒梅館で開催された第一回「つどい」の最後。京都で認知症医療・ケアに 関与する多様な専門職・家族・市民で埋め尽くされた会場で、参加者 1,003 人の拍手で「2012 京都文書」が採択された場面は、京都の認知症医療とケアに新しい形が与えられていくこ とを予感させ、認知症の人が排除されない社会を幻視する瞬間になった。 「つどい」とは、京都という一つの自治体全体を網にかけた直接民主主義の実験だった と言ってもよいかもしれない。政策立案者が拾える言葉を刻むこと、すなわち認知症に関 与する者と政策立案者との緊張感と躍動感のある相互補完的関係の形成が企図された。認 知症の人たちにとって使い勝手のよい医療やケアを形にし、彼らが暮らしやすい社会をつ くること、そのことに誰も異論はない。問題はそれを可能にする方法論である。「つどい」 は、そこに一つの答えを示した。この「つどい」とその宣言である「2012 京都文書」は、 京都の認知症医療・ケアに一つの区切りをもたらし、今後の方向性を明示するものとなっ た。最初に京都文書を概観しておく。以下は、京都文書からの要約的引用である。 2.認知症の疾病観を変える(2012 京都文書) 「認知症の疾病観を変える」、この言葉は京都文書の通奏低音となっている。家族介護と それが限界を迎えたときの入院・入所しかなかった時代、既に多くのものを失ってからし か医療やケアとの出会いはなかった。そんな従来の認知症の疾病観は極論すれば、認知症 の終末像を中心に構築されたと言うことができる。しかし、終末像のイメージしか持たな い疾病観というのは、それが医療のものであったとしてもケアのものであったとしても極 めて貧困であり有害である。私たちの社会が準備できているケアは中等度と重度の認知症 に中心があり、初期で軽度の認知症に対するケアが欠落しているが、このことが時に取り 返しのつかない破綻と絶望を生む。癌などの他の疾病が「死の宣告」から「生きるための 告知」に転換していった過程にならって、初期の疾患イメージを手に入れることが重要に なる。多くの疾患がそうであったように、初期の疾患イメージと手当の方法が確立すると、 終末期の姿が大きく変化していく。認知症の疾病観を変える、そのためには初期段階への ケアを確立することが急務であった。 3. 出会いのポイントを前に倒す 求められたのは、出会いのポイントを前にずらすことである。家族や周囲との関係を含 め、すべてを失い、すべてが壊れた後に医療やケアと出会うと、その出会いは多くの場合 侵襲的なものにならざるをえない。彼らの生活の連続性を断ち、生活を根こそぎにする形 で始まる医療やケアとの出会いはお互いの不幸である。医療やケアの侵襲性を最小限にす るためには、失う前、壊れる前に彼らと出会う必要がある。そこに浮上してくるのが入り 口問題である。 4. 入り口問題とは何か 出会いのポイントを前に倒すには、医療やケアと出会う部分(入り口部分)、つまり医療 やケアへのアクセスがスムーズに行われる必要がある。しかし、これまではこの問題に明 確な焦点があてられることがなかったために、きちんとした分析がなされることなく放置 されてきた。ここで初めて方法論が明確になる。認知症の疾病観を変えるためには、まず はこの入り口問題を正確に描き出すことであり、次にその解決に向けた道筋を明らかにす ることである。京大病院の武地一は、この入り口問題を狭義と広義に分類し、アクセスか らの排除を「狭義の入り口問題」、アクセスしたものの医療やケアの対応力が及ばずに結果 として排除される場合を「広義の入り口問題」として整理した。多くの事例を検討するこ の作業から明らかになったことは、入り口部分における「条件の良い人」と「悪い人」と の二極分化であり、明らかな不平等であった。入り口問題とは、単にアクセスポイントの 有無だけに留まらず、社会経済的問題を含んだ「アクセスからの排除」をもたらす要因の ことである。入り口問題を視覚化したものを図に示す(図1)。 こうした問題を机上の空論ではなく本気で解決し、京都に認知症ケアを確立しようとす る試み、それが「つどい」であった。 Ⅲ 私たちの前に広がる新しい風景 1.京都の新しい実践(すぐに克服したい三つの課題) 京都文書が要請するもの、それは入り口問題の解決である。急ぐのは「三つの課題」の 克服であろうか。一点目は、 「切れ目のない連続したケアという課題」である。依然として 初期のケアは不在であり、ケアは最初から途切れている。二点目は、「早期発見・早期対応 という課題」である。診断後のサポートが不在であれば、診断は「告知」ではなく「宣告」 になる。早期に診断を受けたことが福音になるためには診断とサポートを表裏一体のもの とする仕組みが必要である。三点目は「認知症になっても安心して暮らせる地域という課 題」である。認知症だけにはなりたくないという認知症イメージが支配する地域には、認 知症の人の居場所はない。 私たちは、こうした問題を本気で解決しようと動き始めている。初期の欠落を埋める最 初の拠点として 2012 年 9 月に登場した「認知症カフェ」は、瞬く間に 40 ヶ所以上に拡大 して 2014 年 6 月には「京都認知症カフェ連絡会」が設立された。宇治で始まった認知症初 期集中支援チームは、市内 6 圏域で開設された認知症カフェと連動して機能することによ り入口問題の解決を図ろうとしている。広義の入り口問題の一つである「急性期病院から の排除」を解決するために、 「急性期病院における認知症の身体合併症問題」への取り組み を開始した京都府看護協会は、2013 年からは「認知症サポートナース養成研修」にも着手 した。もう一つの広義の入り口問題である「ケアの場からの排除」については、この 3 月 には京都府から「若年性認知症京都オレンジガイドブック」が刊行された。京都文書にあ る「若年性認知症問題は認知症ケアの試金石」との言葉と連動し、「若年性認知症は二度排 除される」現実の克服が目指されている。 最大の特徴はこうした実践が個々バラバラに行われているのではなく、京都文書の理念 を実践するためのミッションとして共有されていることだろうか。大きなエネルギーを背 景に京都のケア風景は変わり始めている。 2.「つどい」がしようとしたこと 2013 年 4 月に国際アルツハイマー病協会が発表した世界認知症宣言「私は認知症ととも に幸せに生きることができる」 (I can live well with dementia)。認知症の当事者を主語に した凛とした姿勢と肯定的な響き、そして爽やかな解放感に満ちあふれたメッセージは、 京都文書の「認知症の疾病観を変える」という冒頭の言葉と呼応する。 つどいの役割は、認知症と非認知症という二分法に終焉を告げ、川のこちら側に認知症 の人の居場所を創っていくことにある。そのために「認知症になってからの人生戦略」を 一緒に構築していく実践を、局地的にではなく京都全体に伝播させること、いいかえると 現在の医療・ケア・社会のシステムは認知症の人たちにとっては有効性の低いものとなっ ていることを明らかにし、新しい方向性と方法論を提示することにあったと言ってもよい かもしれない。問われているのは、新しい世界を構築するための理念・技術・方法論であ り、その「普遍化」「標準化」の問題になる。京都のアドバンテージは、「つどい」の到達 点が「京都式オレンジプラン」や「若年生認知症オレンジガイドブック」という行政の刊 行物に移植されたことである。これによって全市町村への浸透が可能になった。2018 年 3 月の京都にたどりつくために、次に問われるのは新しい理念を実現できる人材育成になる。 既に、KN 式認知症ケアパスを新しい多職種連携の中で、そしてカフェや初期集中支援機能 の中で、どう読み込み使い込んでいくのかといった実践的議論が先行している。こうした 作業を基盤にして、まもなく認知症ケアパスと京都式オレンジプランの評価方法を検討す るワーキングチームがスタートする。 おわりに 「痴呆を病む人の、そして彼らとともに生きてこられた方々の思いが、たまたま私という 道を通って、世間に届けられている」 、小澤の晩年の言葉である。2012 京都文書も、そのよ うにして書かれたものである。つどいの成果は、京大病院の武地一らによって「Present Status and Road Map to Achieve Inclusive and Holistic Care for Dementia in a Japanese Community: Analysis Using the Delphi Method」として論文化され、小澤の同 級生である中村重信によって英訳された京都文書も、その関連資料として採用された。
© Copyright 2024 Paperzz