イ・ギョンラン先生

19世紀ジェンダーイデオロギーにおけるジェンダー・人種・階級:
19世紀アメリカ女性文学を中心に
イ・ギョンラン(이 경란)
梨花女子大学・梨花人文科学院HK研究教授
19世紀のアメリカはアメリカ史上、最も力動的な時期であった。18世紀後半にアメリカ人は
「アメリカ植民地人(American colonials)」、すなわち「イギリス国王の臣民(subjects of English
King)」であった自らの政治的アイデンティティを「共和国の市民(citizens of the Republic)」
として再定義する政治的革命を成し遂げた。当時、アメリカ合衆国の領土は大西洋沿岸の13州
に過ぎなかったが、19世紀の百年間において大西洋から太平洋まで全アメリカ大陸を領土とす
る大陸国家として拡大した。戦争、買収、開拓など、あらゆる手段を用いて大陸国家として拡大
していく百年の間、アメリカは政治的独立にふさわしい文化的独立を成し遂げようと産業化と都
市化を推進した。また中産層の増大により、ヨーロッパでは経験のない多人種・多文化・多言語
国家が成立した。このような複雑で力動的な状況で、白人・中産層・男性中心の国家アイデンテ
ィティを構築しようとする努力が女性性と男性性、女性と男性の役割を極端に分離して規定する
独特のジェンダーイデオロギーが生み出された。
17世紀の清教徒文化の中で「男の誘惑者」として警戒された女性たちは、19世紀産業社会で
は競争的な市場文化において男たちを守る「家庭の天使」の役割を与えられた。植民地と開拓地
の経済的・共同体的活動に男性とともに参加するよう鼓舞された女性たちが、労働と市場の現場
から分離された家庭の中に「妻」と「母」の役割に限定されるようになる。「純潔、敬虔、家庭
的で従順な」女性像は「真の女らしさ(True Womanhood)」あるいは「(アメリカ)南部のレデ
ィ(Southern Lady)」という名のもとで理想化され称賛される(無論、一見、対称的なこの二つ
の女性観は、女性を男性の「他者」とみなす点で共通している)。
19世紀アメリカにおける「真の女らしさ」は、世紀転換期の「新しい女性(New Woman)」が
登場する前まで19世紀文化を支配したジェンダーイデオロギーの核心を成していた。メアリ
ー・スティーブンソン・カサット(Mary Stevenson Cassatt,1844-1926)の絵画や、アメリカ女
性に理想的な「女らしさ」を提示した『ゴーディーの婦人雑誌』(Godey's Lady's Book)の挿絵、
19世紀半ばの女性作家スーザン・ワーナー(Susan Warner)の『広くて、広い世界』(The Wide,
Wide World)のような家庭小説が、19世紀の女性たちにどのような「真の女らしさ」の概念を
構築し、または批判したのか、同時にこのような作品を通して「真の女らしさ」のイデオロギー
が階級・人種・国家観にどのように表わされているのかを考察する。
また、逃亡奴隷の女性作家ハリエット・ジェイコブス(Harriet Jacobs)の自伝『黒人娘の人生
の出来事』(Incidents in the Life of a Slave Girl)のような著作にあるように、「真の女らしさ」
の概念が適用できない非白人、非中産層の女性たちも白人中産層のジェンダーイデオロギーを利
用して、自らの生き方を正当化している。実際、家庭性と母性を前面に出して女性の行動領域を
拡張するジェイコブスの戦略は、白人女性が用いた戦略であった。私的領域に限定されていた白
人中産層の女性たちが奴隷解放運動、禁酒運動、子供の労働禁止運動、労働運動などあらゆる社
会問題に対して掲げたスローガンが「家庭のために」であった。 ストウ夫人の『アンクル・ト
ムの小屋』は、奴隷制度の最も大きな罪悪が母と子を分離し家庭を壊すことにあると描くことで、
大衆の感受性に訴え、奴隷解放運動に大衆を引き込む決定的な役割をする。19世紀半ばに私的
領域の境界を越えて職業作家になった多くの女性たちも、「女らしさ」の範疇から外れた自らの
行為を「家庭のため」、「子供を保護するために」不可欠な選択であったと自己弁護した。
カサットの絵画、『ゴーディーの婦人雑誌』の挿絵などや、ワーナーの白人少女の成長物語を
通して19世紀アメリカのジェンダーイデオロギーを探ることで、その限界と虚構性が明らかに
なる。ジェンダー規範を越えて公的領域に参入しようとする女性たちが、当時のジェンダーイデ
オロギーそのものを援用したのはまさに、19世紀のジェンダーイデオロギーが女性のアイデン
ティティを規定し、女性の行動領域を制限する強い力を発揮したと同時に、女性解放の拠り所に
なったという矛盾に満ちたものであったことを示すものであろう。