潮 音 OB 横浜国立大学グリークラブOB合唱団機関誌 第23号−2010年5月発行− 1 目 次 ページ 1. 巻 2 頭 言 瑞慶覧 宏 1 北大OBクラーククラブとの交歓演奏会記録 小泉 進 2 3. 第10回定演の選曲 石川 節 5 4. 天国からのメッセージ 神野 清彦 8 5. 暗 譜 藤澤 秀夫 13 6. 発声は表情から 松尾 光 14 7. 山本先輩の寄稿文「グリーの内部改革」について 高田 信昭 15 8. サーティーフォー三春演奏旅行記 大澤 良蔵 21 9. 宋祖親鸞聖人御真影還座式の音楽法要に参加して 佐藤 義暉 23 10.ハ モ り び と 小暮 弘 25 11.ボヘミアン・ラプソディ 紺野 信壽 28 12.ピ ア ノ 余 話 米田登貴彦 30 13.拍 手 考 高山 峻一 32 14.「たばこ」と手術について 関本 昭 33 15.杖を忘れた・・・! 吉田 延明 35 16.昨年の夏のこと 伊地 由憲 38 17.川 柳 事 始 め 坂井 紀康 41 18.川柳紀行 〜 マレーシア、シンガポールを訪ねて 矢川 一義 43 19.雑 真方 顕 47 20.“日本のくるま”昔ばなし・・・・お伽噺? 冨井 俊夫 49 21.オーケストラ付きで見た無声映画 堀 史治 51 22.ささやかな実践 高橋登美雄 53 23.亡き友を偲ぶ 杉浦 武二 55 24.編 集 後 記 編集委員会 57 感 2 巻 頭 言 昭和40年卒 B−2 瑞慶覧 宏 今年は OB 合唱団が 1994 年 2 月に発足して 16 年になり、定期演奏会も節目となる 第 10 回を迎えることになります。ここまで発展してきましたのは、諸先輩の皆さんや 常任指揮者の飛永さん、ピアニストの佐藤さん、ヴォイストレーナーの田中さん、吉原 さん、諸先生のご尽力によることは申すまでもありませんが、加えて団員の皆さんが一 丸となって頑張って来られたことの結果であり、敬意を表します。 その一方で団員の平均年齢は小泉さんの試算によりますと今年の 10 月時点で 71.8 歳になり、3 年前の神野さんの試算 68.7 歳と比べてみますと、略 3 歳加齢しており高 齢化が進んでいることが窺えます。引続き団の活動を維持・発展させるには現在の団員 の皆さんに継続して頑張っていただくことが先ず必要ですが、それに加えて 5 年、10 年先のことを考えますと比較的若年層の団員の増加を計ることも重要ですので、団とし て定期演奏会の都度フェローの参加の機会を設けたり、団員の皆さんが同期会を利用し て入団を呼び掛けていただいたり、OB 会としてグリーフェスタで還暦年次のお祝いの 場を設けて OB 会活動や OB 合唱団活動への参加を呼び掛けたりと種々努力を重ねてい ただいていることはご承知の通りです。 これから還暦を迎えるのは昭和 40 年代後半以降卒業の OB の皆さんになりますが、 年金の支給開始年齢が徐々に引き上げられて最終的に 65 歳になるため、完全に退職す る年齢も還暦年以降にずれて行くと思われますので、入団を考える年齢もそれに連れて ずれる可能性があり、引続き根気強く地道に若手 OB に対する入団勧誘の努力を続ける 必要があると思われます。 他方では勧誘にいろいろと努力しても若手 OB の入団が少なく、特に平成卒 OB の入 団がないのは、単に仕事が忙しいからだけではなく、現在の OB 合唱団員との間の世代 の開きが大きい為(平成卒 OB とは 27 歳以上の開きがある)合唱音楽に対する考え方 が異なり、それがバリヤーになって OB 合唱団に入るのに抵抗があるのではないかとの 見方もあります。ところが現在の OB 会の会則では、OB 会が合唱活動を行う場合はそ の名称は「横浜国立大学グリークラブ OB 合唱団」と称するとなっており、OB 会が認 める合唱団は OB 合唱団のみということになり、このままでは若手 OB が新たに OB に よる合唱団を立ち上げようとした場合、この条項が障害になると思われますので、この 問題を克服するには OB 会の会則を変えて、若手 OB による合唱団の立上げが可能にな る体制を先ず整えておくことが必要ではないかとの見方もありますので、この問題への 対応策について改めて団員の皆さんでご検討をお願いしたいと思います。 1 北大OBクラーククラブとの交歓演奏会記録 昭和40年卒 B−2 小泉 進 4月10日(土)に蒲田の大田区民ホール・アプリコ大ホールにて北海道大学合唱団 東京OB会クラーククラブとの交歓演奏会を無事終えたが、演奏会の詳細内容はプログ ラムや当日の進行表に譲るとして、それまでの経緯等を記録したので今後の参考にして 頂ければ幸いである。 1.はじめに そもそもこの交歓演奏会は団員並びに諸先輩・後輩の皆さんが現役時代に北大と演奏 旅行、ジョイント、賛助出演などで親交が続いたことから実現されたもので、丁度6年 前の2004年4月11日にみなとみらい大ホールにて第1回が開催されている。この 時は私は未だ入団前で、神野プロジェクト長を筆頭に当団側が主導する体制で開催した そうで、私は受付の手伝いをした記憶がある。 北大側はこのことを非常に恩義に感じていたようで、次回は必ず北大側が主導で恩返 しをしたいと思い続けていたそうだ。たまたま一昨年夏の現役3大学(北大・関学・横 国大)ジョイントの時、北大側現会長の景浦さんと現団長の名島さんから瑞慶覧団長に 「そろそろ第2回目をやりましょう」と声が掛かり、昨年2月18日に両団幹部による 下打ち合わせが持たれ、両団の都合から2010年春∼初夏ごろ開こうと合意したが、 会場予約が思うように行かず、5月になってやっと会場と日程が決まり、実現に至った ものである。 2.プロジェクト会議と役割分担 昨年の初夏の頃は6/7の当団の第9回定期演奏会及び6/27東北大,名大との3大 学OBジョイントがあり、プロジェクト会議はそれらの終了後から始まり以下の7回行 った。 #1;7/10、#2;8/12、#3;10/27、#4;1/8、#5;2/20、 #6;3/16、#7;4/3 (6月に最終締めの会議も予定されている) 主な役割は、北大側の樋口さんがプロジェクト長となり、企画・構成・進行表作成等 は坪さん、ステージ・フロント関連は谷川さん、会計は御厩さんが中心で北大側が主導 となり、当団側に主導をまかされた印刷物関連は永井さんと鈴木さん、記録関連は江上 さんを中心に進めることになった。 この他に当団側では、瑞慶覧さん、石川さん、斎田さん、小柳さん、川添さん、堀さ ん、真方さん、三戸部さん、木野さん、小泉がプロジェクトメンバーとして参画した。 2 3.合同曲の選曲と合同練習 合同演奏曲は最終候補として「アイヌのウポポ」と「枯木と太陽の歌」が残ったが、 北大側が「アイヌ」は何度も歌っているので「枯木」にしたいとの要望があり、後者に 決まった。この曲は1956年(S31年)には世に出ており、北大は1968年(S 43年)の定演で作曲者石井歓先生の指揮で歌ったそうだ。また昨年7月の第17回東 西四大学OB合唱連盟演奏会の合同演奏にも歌われた。石井先生は昨年11月24日に 惜しくも88歳で亡くなられたが、先生の奥様が我々の演奏会を聴きにわざわざお越し 頂いたそうで、先生には良い追悼の演奏ともなったように思える。 指揮は北大側の五十嵐さんにお願いしたが、練習効率を上げるのと合同練習に毎回は 出られない人のためにと4ページにも及ぶ詳細な「歌い方の要点」をまとめて下さり、 意欲的に指導頂いた。合同練習は各3時間ずつ4回行った。二人のソロの当団側は高木 さんにお願いした。 合同練習と当団側参加者数の記録; (T1)(T2)(B1)(B2)(計) #1 1/30 川崎国際交流センター 14 13 13 14 54 #2 2/20 フォーラム南太田 14 16 17 17 64 #3 3/20 大田区民プラザ小ホール 13 14 15 16 58 #4 4/3 14 16 14 58 フォーラム南太田 14 アンコールは、北大側東さん指揮で「最上川舟唄」(ソロは70歳以上の4人で、と いう事になり当団側は石川さんと菅又さんにお願いした)と、当団側飛永先生指揮では 佐藤先生のピアノ伴奏付きで「ナブッコ」を、何れも合同で歌うことになった。練習は 上記#3、#4の各1時間を充てた。 尚、#1の練習後合同懇親会も開き、早期の団員相互交流を図った。 4.演奏会当日の当団側お手伝いの皆さん グリー現役が新入部員勧誘で多忙なため、今回は次の方々にお願いしご協力頂いたが、 紙上を借りて厚く謝意を表する。 1)グリーOB;八木啓充さん(S34卒)、鯨岡篤太郎さん(S45年卒) 2)川崎市立看護短期大学生;近藤さん、宮崎さん 3)プロジェクトメンバーの奥方と友人;瑞慶覧夫人、真方夫人、長石さん、小泉夫人 5.当日の入場者数 チケットのもぎり数で1152枚だったそうで、これに招待者約20名弱、両団のお 手伝いの皆さん約20名を加えると1200名弱ということとなり、ホールの総座席数 1477からすると約80%で、まずまずの入りであった。 尚、当団側のチケットさばき数は769枚で、この80%が来場頂いたと仮定すると 615となり、当団側も約半分の入場者動員に貢献出来たと思われる。 3 6.出演者と会場 プログラムに載っている出演者リストから両団共不都合者が出て、最終的には北大側 49人、当団側65人、合計114人の出演となった。当団側では杉原さん、高山さん、 吉原さん、椎橋さん、小山さん、川原さん、安田さんの7名が諸事情により出演されな かったのは残念であった。 この会場は正直言って大変使いづらく、控え室にたどり着くのも一苦労で、ステージ もエール交歓や合同の時は平場を入れて6列としたが、下手、上手共出入りのドアが狭 くやや離れた各2つのドアを使用して2列ずつで入退場したが、寸前まで要領が徹底せ ず混乱した。 7.打ち上げ会 ホールの地下にある展示室で立食パーティ式の打ち上げ会を行ったが、北大側約50 人と当団側53人、更に両団のお手伝いの方約20名の参加であった。両団代表の挨拶 の後、各指揮者、両ピアニスト、各エール曲の作曲者、編曲者、更に大先輩の方々より ご感想、祝辞などを頂き、お手伝いの方々やプロジェクトメンバーの紹介も織り交ぜて、 愛唱曲のハモリを6∼7曲歌い大いに盛り上がった。お互いの熱唱を称え合い、合同演 奏の成功を喜び合い、次回のジョイントを約して19時過ぎにお開きとなった。 司会は樋口プロジェクト長の名調子で進行し、当団側は木野さんが名補佐役を務めて くれた。 尚、昼食の温かいお弁当も、打ち上げ会の料理・飲み物も比較的好評であった。 8.アンケート アンケートは202枚が回収された。概して第1ステージ(当団)より第2(北大側)、 第3(合同)の方が評価点が高く、当団に対してかなり手厳しい評価やコメントも見ら れるが、これからじっくり読ませてもらって今後に生かせればと思う。 9.最後に 北大側ではこの後、10/25に札幌のKitara大ホールでの “北大合唱団OB による「男声合唱の夕べ」”に臨むそうだが、これは4年に一度開催され全国からOB が集まるイベントで今度が第9回目、ちなみに前回は180人のOBと2000人の来 聴者が集まり大家族的な雰囲気になったそうである。 当団も10/17の第10回定演に向けて、これから本格的に取り組んで行かねばな らないが、団員皆様のご協力のもとに是非成功させたいものである。 ご指導の先生方、そして団員の皆様、特にプロジェクトメンバーの皆様、ご協力誠に 有難うございました。 4 第10回定演の選曲 昭和36年卒 T−1 石川 節 節目となる第 10 回の定演はいつもと違う何か特別なことをやりたい、いつからとな くこの思いは全団員に浸透しました。その特別なことの 1 つが団員の中で「定演で歌い たい曲」の人気 No.1 であるケルビーニのレクイエムをオーケストラの伴奏付きで演奏 するということだというのもかなり以前から団内では共通の理解になっていたように 思います。事実、第 8 回定演の選曲過程で決まりかけていたケルビーニのレクイエム(抜 粋、ピアノ伴奏)を「島よ」との組み合わせが重くなりすぎるとの理由で断念した際も、 本当のところは全曲をオケ付きでやりたいので、第 10 回の定演までとっておきましょ うということで自らを慰めたのです。7 割強の団員には第 4 回定演(2002 年)での神 奈川フィルハーモニーとの共演による全曲演奏の緊張と高揚、そして一瞬ひやりの記憶 が生々しいでしょう。こうした思いを背景に昨年 5 月 2 日のリーダー会議において第 10 回定演のメインステージの選曲はレクイエムですんなり決まりました。オケについ てはプロ、アマを含め複数の候補がありましたが、日時も会場も決まっていない(抽選 の数ヵ月前)時期だったので、日程調整の自由度が大きく、費用もあまりかからず、事 前の合わせ練習も 2 回位はできるというアマのメリットを考慮し、手探りでしたが第 2 回定演(1998 年)のモーツァルトのミサ・ブレヴィスで共演した国大の現役オーケス トラ(無論メンバーはすっかり入れ替わっているのですが)に最初に打診しました。先 方からは 7 月と 12 月は難しいが 10∼11 月のタイミングなら共演を検討したいとの前 向きの返事をもらいました。その後会場探しで曲折はありましたが 10 月 17 日のミュ ーザが予約できた時点で確認し承諾を得ました。現役オケの実力については特に不安は なかったのですが昨年 12 月の定演を聴きに行ってそのレベルの高さにびっくり、合唱 団も頑張らねばとの思いを新たにしました。 もう1つの特別なことはレクイエムの演奏を OB 合唱団単独ではなく平成 OB を含む フェローや現役グリーにも呼びかけて全員参加方式でやろうとしていることです。これ までの定演でも合唱団員以外のグリーOB にフェローという資格で部分的に参加するこ とを呼びかけ、実績を重ねてきましたが、その対象は愛唱歌ステージが主体でした。今 回はいわばメインのステージを対象として OB のみならず現役の学生にも参加を呼び かけています。学生諸君にとってもミューザの舞台でオケ付きで歌うのは貴重な体験に なると思います。既に数人の学生が参加を表明してくれました。また現役時代にこの曲 を歌った経験のある OB がこれをきっかけにして再び歌い始めることも期待していま す。 5 ケルビーニのレクイエム全曲の演奏時間が、約 45 分とほぼ 2 ステージ分の演奏時間 に匹敵するため、他のステージが時間的に制約を負うことになりました。演奏会を会場 の使用契約時間内に終了するために残された演奏時間はこれまでの実績から 42∼43 分 と推定されます。この時間で何ができるかが次の課題となりました。折角共演をお願い するのだから第 2 ステージもオケ伴奏でオペラの合唱曲を全員参加でやったらどうか との意見もありましたが、レクイエムとオペラ合唱曲では色々な意味で負担が大きすぎ るとの意見が大勢でこの提案は見送られました。それではオペラ曲の代わりに愛唱曲を 全員でという提案もありました。現役も平成 OB も忙しい中をぬっての出演ですし全部 の曲を歌いこなすことは大変な負担になります。また全体の中に埋もれての演奏だけで は出演のモチベーションが低いだろうということと、お客様の中にも現役と平成 OB の 演奏を楽しみにしている方も多いだろうとの配慮から、持ち時間を短縮して 3 グループ の単独演奏と合同演奏を行うことにしました。 更に今迄のように各団が代わる代わる 入退場するのでは時間ロスが多いので、最初に登場する OB 合唱団が演奏後はステージ 上で着席して待機し、次の平成 OB も同様とし、現役グリーの演奏が終了した時点で全 員が起立して合同演奏を行う、そしてこの流れをナレーションでつないで全体をワンス テージにまとめることにしました。ナレーターは団員から選ぶのが望ましいのですが、 限られた時間の中で円滑な進行を確保するため外部から専門家を起用することしまし た。 このステージの選曲は、レクイエム、そして休憩のあとという順番を意識して検討し ました。レクイエムが荘重なミサ曲で歌詞もラテン語(歌詞カードで訳をつけますが) で演奏時間が 45 分かかりますから気分転換を望まれるお客様もいらっしゃるでしょう。 第 2 ステージは歌詞も分かる親しみの持てる曲を選びたいと考え、第 9 回定演で好評だ ったアラカルト曲構成にしました。男声合唱曲の各ジャンルから歌ってよし、聴いてよ しという曲を探しました。実際には、4 月 10 日に予定されていた北大合唱団東京 OB 会クラーククラブとのジョイントコンサートの選曲作業が先行しました。 ジョイント コンサート用に選んだのは 7 曲でしたが、上記の理由から定演には 5∼6 曲が精一杯で す。お客様は色々な曲をお聴きになりたいでしょうから曲の重複は少ない方がよいかも しれませんが、練習時間と完成度の兼ね合いを考慮しなくてはなりません。レクイエム と、後述する合同演奏の 2 曲にかなりの練習時間をかける必要があり、全体の完成度を たかめるためには新曲の選択はミニマムにせざるを得ませんでした。 合同演奏は、定演の呼び物の 1 つで現役グリー、若手 OB、OB 合唱団が声と心を合 わせて一体感を確認し誇示する場でもあります。これまではオペラ合唱曲とか男声合唱 曲の古典や愛唱曲など、やや OB 合唱団寄りの選曲をしてきましたが、今回は飛永さん の推薦で若い世代にも人気のミュージカルの挿入歌を選びました。OB 合唱団にとって 6 ミュージカルの曲はやってみたい反面やや苦手意識もあり、これまで演奏機会の少なか ったジャンルです。 「ラマンチャの男」の代表作「The Impossible Dream(見果てぬ夢)」 は幾つになっても男声合唱の魅力を追い続ける三世代のグリーメンを象徴するキーワ ードともいえるでしょう。 以前にも潮音に書いたことですが、選曲の審判はお客様が下すのです。レクイエムの 選曲は団員の希望を前面に押出しての選曲でしたがお客様の評価はどうなるでしょう か。我々が感じるこの曲の魅力をどうすればお客様に伝えられるでしょうか。現役グリ ーや若い OB の参加による声の若返り、現役オケのレベルの高い演奏、ミューザの優れ た音響効果と、これ以上良い環境は望めません。 暗譜するほどに練習を重ねこの曲を 自分のものとして楽しむことができるようになって初めてお客様の共感を得ることが できるのだと思います。多くの現役学生、OB が参加してくれることを願いつつ、恵ま れた条件の下でこの名曲に再度チャレンジできる幸せをかみしめながらしっかりと練 習して行きたいと思います。 第10回定演プログラム(案) OB 合唱団、現役グリー、フェロー 演奏 第1ステージ 横浜国大管弦楽団 共演 レクイエム ニ短調 ケルビーニ 作曲 第2ステージ ・OB 合唱団・フェロー 演奏 早春賦 吉丸一昌 作詞 中田 章 作曲、林 光 編曲 中国地方の子守歌 日本民謡 山田耕筰 作曲、林 光 編曲 Finlandia-hymni V. A. Koskenniemi 作詞 Ring de Banjo S. Foster 作曲 Honor! Honor! スピリチュアル J. Sibelius 作曲 A. Parker/R. Shaw 編曲 Holl Johnson 編曲 ・平成 OB 演奏 ・現役グリー 演奏 ・合同演奏 Man Of La Mancha(ラマンチャの男)より Joe Darion 作詞、Mitch Leigh 作曲、源田俊一郎 編曲 Dulcinea(ダルシネア) Impossible Dream(見果てぬ夢) アンコール 2曲 7 天国からのメッセージ 昭和38年卒 B−2 神野 清彦 早いもので、OB合唱団の創設メンバーのひとり、今富晋吾君が逝ってから一年半に なります。第8回定演で彼が振った「Zum Sanctus」の pp の美しい響きは今でも心に 残っています。先日の北大OBとのジョイントコンサートで彼の奥さんにお会いしまし た。その折に、一通の原稿を頂きました。彼が生前に口述をしたものをお嬢さんのゆか りさんが起こしたもので、最近、彼の使っていたパソコンから発見されたそうです。 常々、OB合唱団を「ハマの文化にしよう」との思いで、全ての情熱を合唱につぎ込 んでいた彼のメッセージが綴られています。未完とも思われますが、原文を皆さんにご 披露して改めて彼の業績を偲びたいと思います。 アマチュア合唱団員への贈り物 −合唱上達の極意− 昭和38年卒 今富 晋吾 1、良い演奏をする為の条件 良い演奏をする為には、3 つの条件が必要です。その3つとは才能と努力と集中力で す。その 3 つは掛け算の関係にあってどれか一つでも1より小さいと良い演奏が出来ま せん。 まず、才能についてみてみると音楽家になる為には絶対音感が必要であるとか、それ が無いと出来ないという様な話もあるけれど、決してそんなことはありません。音楽の 為に必要な才能は音の高さ、リズム、表現力等があり、これらは全て良い訓練をすれば 伸ばすことが出来ます。 でも、本当に優れた演奏家の演奏を聴いてみると、とても人間技とは思えないほどの テクニックや記憶力があり、とても訓練しても到達出来ないと思われるような素晴らし い才能も確かにあります。 そこで、私達アマチュア合唱団が注意しなければならないのは、その様な天賦の才が 無いだろうと最初から諦めて努力をしなかったり、或いはある程度努力しても上達の可 能性が見えないままに諦めてしまったりすることです。 良い演奏をする為の 3 つの条件というのは、スポーツにも共通しています。オリンピ ックのソフトボールで金メダルを取った上野投手が「私達全体の集中力、気力、向上心 が相手を上回ったから金メダルを取れたのだと思います」と言っていました。試合が終 わってみれば普通のお嬢さんですが試合の中には彼女たちの努力と才能と集中力が結 集されていたのだと思います。これから、これらの 3 つの条件をどのように伝えていっ たらいいか、お話したいと思います。 8 2、合唱団員に望まれる資質 昔から音楽家には悪い人はいないと言われます。コーラスが好きな人には悪人はいま せん。コーラスが好きな人には協調力、集中力、忍耐力が見られます。これらは、最近 の若い人に欠けている点だと言われています。コーラスをするには相手の歌に自分の音 を合わせるという努力が必要で、絶えず正しい音を他のパートと協調しながら探しだし ていく作業が協調力を育むのでしょう。そして他のパートが難しい個所を練習している ときに、じっと静かに待っていなければならないため、忍耐力が養われます。そして指 揮者の僅かな動作に求められている音楽を感じ取り、指揮者の思い通りに表現するとい う大変な集中力も要求されます。しかし、合唱団員には残念なことに共通してみられる 欠点があります。ひとつは素直に人の言葉を受け入れないこと。ある注意をされたとき に「ああ、おれはそれを知っているよ」とか、「それは努力したけど俺には出来ないん だ」とか、注意されたことの本質をしっかり聴きとろうとする注意力が欠けています。 ですからいつも同じような注意を繰り返されてしまうのでしょう。 これから皆様にお話ししようと考えていることは、私自身が工夫して考え出したこと もいくつか含まれていますが、大部分は昔から合唱団の練習の時に先生方から繰り返し 言われている基本的な事柄です。従って、長く合唱団で歌ってこられた方には今迄に繰 り返し言われてきていることと思います。 3、合唱団で磨かれる資質 合唱の素材は音です。当然良い声を磨かなければなりません。しかしその前にもっと 大切なことは良い耳を磨くことです。良く発声練習を行い、ある程度良い声、大きな声 が出せるような団員を数多く抱えている合唱団でもその合唱を聴いてみると意外にハ ーモニーが揃っていなかったり、力強さが欠けていたりするものです。それは歌を歌っ ているときに相手の歌を聴くという訓練が出来ていないためです。声だけが育ってしま い耳が育っていないのです。 まず、ピアノで 440 サイクル、Aの音を弾いてその音を歌わせてみると正確に 440 サイクルの音を出している人は少ないものです。440 の音の隣り、半音上の音は約 480 サイクルで 40 サイクルの差があります。この半音の差を普通の人は耳で正確に聴き分 けることが出来ます。しかし、耳の鋭い人は 1/8 音や 1/16 音の差を聴き分けることが 出来るのです。この 1/16 音の差は 2∼3 サイクルであり、耳の鋭い人はこの差も聴き分 けてしまうのでしょう。普通の耳の人が 440 サイクルの音を出せと言われたときに正 確な音を出すことは難しいのですが、練習方法として二人一組になり、相手の音を聴き、 同じ音を出し、相手の声と自分の声が一致するように努力をすれば驚くほどきれいな音 が作れるようになります。これを三人一組、4 人、5 人と増やして行き、一つの音を作 る作業をすることが最初の一歩です。それがピアノであってもフォルテであっても、低 い音であっても高い音であっても常に一つの音になるように心掛けなければいけませ 9 ん。 純正調と平均律。17 世紀のバッハが 1 オクターブを平均した 12 の音に分けた平均律 という音階を工夫しました。この平均律のお陰でピアノ(クラビーバ)の発達の基礎を 作りました。しかし、本当に美しいハーモニーは平均律では作られません。その昔、合 唱が主流だった頃、人々は完全5度の美しい響きに心を奪われたのです。その完全 5 度 の音階がどのようなものかを中世の人は研究しました。その中でピタゴラスという有名 な数学者が完全 5 度は 1:2/3 であるということに気付きました。そこからピタゴラス 音階をいうものを作り出しましたが、この音階は理論的に微妙な誤差が生じるため、そ の後いろいろは人が研究し、ピエトロ・アーロンと言う人が作った音が中全音律と言わ れています。 合唱音楽を作る時、もっとも基本となる音は完全 5 度の関係です。ベースがドの音を 出すと音はひとつの規則だった倍音列を作ります。その最初のもっとも大きな倍音が 5 度の関係になるからです。ベースが 440 サイクルで響いた時、バリトンは 660 サイク ルの響きを出すときに生じる美しい倍音をまず聴きとらねばいけません。ベースがひと つのパートの音を作る時と同様にバリトンも一人ずつ音を良く聴きながら 660 サイク ルでパートの音を作り上げるように練習しましょう。 音楽の基本和音としてカデンツァがあります。セカンドテノールはベースの 1 オクタ ーブ上の 880 サイクル。これも完全に響く美しい音ですのでベース、バリトンの音の 上に響いている倍音列のドの音に合わせてセカンドの音を作ってください。この三つの 音が鳴ったときには私達の耳には、この完全な和音の他に新たにミという倍音が鳴って いるのに気付きます。トップテノールはこのミという音に注意しながらこの音を作って ください。これらの 4 つの音が正確に響いた時に初めて美しい響きが鳴り響きます。合 唱の和音には主和音、属和音、下属和音が基本 3 和音としてあります。主和音と同じよ うに属和音、下属和音も美しい倍音率の上に重なるように練習し、美しいカデンツァを 作りましょう。これらの過程は全てお互いの音を聴きあうことによって初めて達成でき るものです。 お互いの音を聴き合うことによって、注意しなければならないことは音の高さであると これまで話してきました。しかし、音楽を作る上で皆様に注意していただきたいことに 音の高さだけではなく、音の大きさや音楽の速さ、リズム等があります。これらのこと は殆どの場合、楽譜に記されています。初めての曲を歌う際には難しいこともあるでし ょうが、音の高さばかりに集中してしまい、音の大きさや速さについては案外注意が向 かないものです。音の大きさについてはピアノやフォルテ、クレッシェンド等の作曲者 の意図が楽譜に明確に記載されています。合唱を始めるときに、まずこれらの事柄に注 意し、心構えを持って欲しいと思います。 10 4、音の大きさについて 初めての曲を練習する時には、音の大きさは全てメゾピアノ程度で行うのが望ましい と思います。自分は音がとれるから大きな声で歌うのではなく、自分の音が他の人の音 と同じ大きさで揃うように歌うことが大切です。そしてある程度音が正確に出せるよう になったら楽譜に記されている強弱をきちんとつけるといいと思います。他人の音(パ ートの音)と自分の声の大きさとのバランスに注意しましょう。メゾピアノ程度の時に は、きちんと聞こえていた他人の音がフォルテ、さらにフォルテッシモになると聞こえ なくなっていることはありませんか?昔からフォルテッシモは他人の音より大きく出 してはいけない。ピアニッシモは自分の声が聞こえてはいけない。といわれています。 これはまさしく他人の音を常に聴くための大切な注意だと思います。音楽は基本的には 作曲者の思いを聴く人に伝えるためにあるものです。したがって聴く人にどのように自 分の思いを伝えたらいいのか考える必要があります。このことは対話や演劇と同じです。 相手に強く訴えたいからと言って怒鳴りつければ自分の思いが伝わる前に相手は不快 な感じを持つでしょう。ですからフォルテだからと言ってやたらと大きな声を出しては 作曲者の意図は伝わりません。ピアノやピアニッシモでも同じです。自分の声はこれが 一番小さいという声で唄ってもそれが相手に聞こえなければ相手には何も伝わらない でしょう。ピアニッシモの時の作曲者の思いというのは非常に大きな悲しみとか祈りな どを伝えようとしているので通常の歌の音よりももっと強いものを持っています。例え ば内緒話をすることを考えてみてください。「これはとっても大切は事よ」という時に は他の人には聞こえないよう小さくしますが、相手には伝わるようにきちんと話します。 このことが音楽の表現の中では最も重要なことです。しかも、最も訓練が必要とされる ことです。どのようにピアノを出したらよいかについては、後でまた説明いたしますが、 フォルテやピアノの意味を伝えようとすることは音の強弱だけではなく、作曲者の意図 をその様かたちで聴き手に伝えるとしているのだということを心に留めておいてくだ さい。 クレッシェンド、デクレッシェンドについても同じことが言えます。クレッシェンド では相手に伝えようとする作曲者の意図が聴く人に強い感銘を与えるようにすること が大切です。そのためにはクレッシェンドと書かれている所から大きくし始めて、すぐ に自分の音の限界に達してしまうのでは力強い音楽は作れません。聴く人が力強さを感 じてからも更にぐいぐいと大きくなるクレッシェンドは時に聴く人を強く圧倒し、音楽 の印象を決定的にすることがあります。このようなクレシェンドをする為に注意するこ とはクレッシェンドが始まってから終わりまでの音の大きさが後になるほど大きくな るようにすると良いでしょう。デクレッシェンドでも同じです。音が小さくなったな、 と感じ始めてから聴く人は音にひきつけられ、それからしっかりしたデクレッシェンド が終わると強い感銘を与えることが出来ます。このようなことに注意して作り出すピア ノ、フォルテ、クレッシェンド、デクレッシェンドは無造作に歌われている場合と比べ てその音量の差の違いは実に僅かです。しかしながら音楽として与える効果はとても大 11 きいのです。このことは 100M競争のスタートダッシュとも似ているかもしれません。 ほんの僅かの差でありながら最後に決定的な違いを作り出すからです。従ってこの音の 強弱についても他の人との音を良く聞きながら皆と一緒になって作り出すことが望ま れます。皆がデクレッシェンドをしているときに何人かがフォルテのままで歌われると その音楽は注意力のない何人かの音楽のレベルに下がってしまいます。 5、音の速さ 音の速さを表す時に速度記号と拍子記号と音符の長さが使われます。速度記号には 4 分音符が 1 分間に 76 という様な細かい規定から、アンダンテ、アレグロ等のような表 情記号と同時に書かれているものがあります。拍子記号には 3/4 とか 4/4 という形で表 示されています。その他に音符の長さによる付点 4 分音符とか 3 連符という表記がりま す。速度記号について1分間に 76 と記されている場合にどのくらいの速さか分かるで しょうか?これは昔の音楽家が考え出したことですので、自然に分かる人はなかなかい ないでしょう。しかし、訓練をすればこの速度感はある程度身につけることが出来ます。 私が皆様にお勧めしたいのは、例えばメトロノームで 1 分間に 76 の音を何回か聴かせ て、メトロノームを止めて反復させるという練習を合唱団同士で練習の際に行うといい でしょう。 指揮者の指揮に集中して速度を覚えようとすれば、ある程度は覚えることが出来ます が、合唱団員は指揮者が速度を決めているからといって任せきりになって自ら速度を考 えることを止めていませんか?例えば、オーケストラと比較すると、オーケストラのテ ィンパニー等は 26 小節休んだ後に突然フォルテッシモで鳴らすことがあります。その 間、ティンパニーの人は与えられた速度で 26 小節をしっかり数えているものなのです。 その上、オーケストラではそれぞれがパート譜を持っており、その 26 小節の間、他の 楽器がどのような音楽を作っているか全く見ることが出来ません。従って彼らは大変な 集中力を持って自分の入る瞬間を待ちかまえているのです。 そこへ行くと合唱の場合には、他のパートの譜も全て記入された楽譜で、自分のパー トが他のパートとどのようにかかわっているかを観ることが出来ます。歌を歌う時に指 揮者が合図をして音を出すのですが、良く見ていると人によって違いがあります。指揮 者が自信を持って音を出すべき瞬間に音を出す人もいますが、中には誰かの音を聴いて から音を出す人がいます。あるいは指揮者よりも早く音を出す人もいます。このことが (2008 年 9 月 3 日口述) 音楽の乱れを生みます。 今富君の原稿はここで途切れています。まだまだ言いたかったことがあったに違いあ りません。しかし、「いい演奏は、始まった瞬間にきれいな音だな、と感じるかどうか だよ」と言っていた彼の音楽づくりの基本が十分伝わってきます。それにしても惜しい 人を失いました。 12 暗 譜 昭和41年卒 B−1 藤澤 秀夫 暗譜と聞くと心穏やかならぬ重いものを感じるのは、私だけかもしれませんが、何か とりつかれているかのような呪縛でも有るのではと思い、取り上げてみたくなりました。 それは、私達の定演のアンケートに、過去何回となく、「楽譜を持って歌っているの は」と、何か悪いことでもしているかのように、合唱経験が長いと自負されている方々 からきつく指摘されているのである。 暗譜とそれに近い言葉を字引きで調べてみると、次のようでした。 「暗譜」 楽譜をすべて覚える。楽譜を暗記している。 「暗唱」(暗誦)詩や文章を見ないで声に出す。 そらで覚え(てい)ることを、口に出して唱えること。 暗譜で歌うとは、楽譜を全て覚えて歌う。楽譜を持たずに歌えると言うことではない かと思います。 暗譜で歌うことの長所と短所を考えてみると、長所としては、指揮者の指揮を良く見 ることができる。短所としては、各歌いだしの、立ち上がりが鈍く(不揃いに)なりや すく、不安に陥った雰囲気の表現。などが代表的なことだと思います。 暗譜で歌えるためには、どのような事が必要なのか、何を覚えておいたら歌えるのか 考えてみると、まずは、団員有志の皆様の作ってくださる、パート別の練習用ディスク を使って自習し、音程、リズムや音の流れを練習します。全員での練習では全パートの 音を聴き、和音の構成(どのようにハモっているのか)を確認できるようになる。練習 中の指揮者の注意や、曲の流れによる歌い方の、その他諸々のこと、楽譜に加えられる 記号や変更などなど、その他、楽譜には書いてない長い休止符の後の入りの場所やくり 返しの前のアウフタクトにおける、指揮者の動きなど、練習中に確認し楽譜のどの位置 でどのように処理されるのか、皆覚えておかなければならないと考えられます。練習中 に覚えた全ての出来事を思い出すことができることだと思います。 暗譜で歌えるということは、ただ覚えているのではなく、より良く歌うことの為の努 力の結晶だと思います。ケルビーニは楽譜を持つと言えども、暗譜が必要なのだ!!!。 どのようにしたら楽に暗譜ができるか、楽譜を読むことの出来ない私なりに考えてみ たいと思います。まず、パート練習で基本的な音とり、リズムの確認など正確に押さえ てほしい。そして、全パートでの音の組合せ(ハーモニー)の確認、その上で一曲全体 の流れと、全体像の把握、これらの事を一曲の練習を始めた時期にしっかりと覚えられ るまで繰り返してほしい。全曲の把握と楽譜との対応ができると暗譜は易しくなると考 えています。 もっと基本的には、ステージに載せると計画した曲の練習時間が出来るだけ多く取れ るように、企画と計画してほしいと思っています。皆さま、妙手を教えてください。 13 発声は表情から 昭和51年卒 B−2 松尾 光 発声のことを書きます。私もよく声が飛び出して指揮者から指摘されますが良い声と はどんな風に出せばよいのかほんとうに難しいです。ボイストレーニングやいろいろな 人がさまざまなことが言っていますが混乱しがちです。これと思う単純なコツがあれば と思うのですが結局自分にあったものは自分で見つけるしかないのでしょうか。 グリー以外で指導を受けて、印象に残ったことを 2 点書いてみます。参考にしてみて ください。結局当たり前のことかもしれません。 1.発声は表情から 歌う表情が大事なことは皆が言うのですが。②口をあけすぎないこと。②力いれて顎 を下げることは厳禁。②リラックスして力をぬき楽しいことを思い出しニヤとする感じ、 いいにおいをかいでいるとき鼻の後ろをあける感覚です。②顔の上半分をほおの筋肉を 使い縦にあける。②唇はむやみに動かさない。明るい響きが出るような気がします。 2.ボイストレーニングは 3 つの要素から(ほんとうの自分の声を見つけるために。 ) ②咽頭とその周囲のトレーニング。 ファルセットと実声の継ぎ目なく声をだせるようにして声域の確保を解決。 ②口の中の筋のトレーニング 母音(長母音、短母音)子音の出すときの口の共鳴腔をマスター。昔のイタリアでは 母音の練習だけを何年もかけて行いマスターしたらどんな歌も歌えるプロとなったと か。これほど母音のマスターは難しいとのことです。高低、aou、aieともすべて ほぼ同じポジションで唄うことが基本。頭を 4 つに分けると上半分の真ん中からやや前 のポジションです。大声は不要。特に息を無駄に使わないこと。 ②体全身の筋のトレーニング(姿勢、呼吸) 正しい姿勢とは坐骨から頭部までの一体感をつかむこと。骨盤から頭まで空気がまっ すぐ通る体の中の道を意識する重力に逆らわない立ち方をする。歌を歌う体づくりに間 接をほぐすトレーニングが有効のようです。(足首、膝、腰を回す。下半身と上半身を 体の軸を意識してねじるなど。十分に脱力し口をややあけ自然に呼吸しながら行いま す。)ちょっと古いですが野口体操(通称こんにゃく体操)が有名です。芸大で体育の 先生をしていました。参考URLです。 http://www.noguchi-taisou.jp/noguchitaisou/ntp1.html 呼吸は息を吸い込むのではなく入ってくるもの、体のある部分を広げると広がった分 だけ入ると意識します。これらは実技指導を受けないとわからないかもしれませんが、 よい発声は自分の体の状態を意識して良いイメージを作り上げることと思いました。 健康にいいことは間違いありません。 14 山本先輩の寄稿文「グリーの内部改革」について 昭和34年卒 B−1 高田 信昭 昨年の三大学OBジョイントコンサート打上げパーティで東北大OBの方から声を かけられました。 その方はS.32年にグリークラブの仙台での演奏会を聴いたとい うことで、しかも当時のプログラムのほかグリークラブの機関紙「潮音」「潮音ニュー ス」などを持参され、それらをOB合唱団にご提供いただきました。 後日それらの資料を読みましたが、その中でS.32年卒の山本洋昭先輩が卒業後に 寄稿された 一文“グリーの内部改革” に興味を惹かれました。 創部10年を迎えた時代のグリークラブの動きを克明に捉えているだけではなく、急 成長してきた新制大学のクラブを軌道に乗せるための先輩方の努力を知ることができ 感銘を受けました。そして、そのときに築かれたシステムが殆どそのまま受継がれてい ることに驚きを覚えました。 グリークラブの中興の出来事ともいえる事柄をOB合唱団の皆さんが知ることは意 義のあることと思い、「潮音OB」に載せていただくことにしました。 グリーの内部改革(潮音 S.32 年 12 月 22 日号 掲載) S.32 年卒業 序 山本 洋昭 この小文は発展するグリークラブの一変貌時の記録である。 内容は時期的に云って昭和 28 年 7 月より 30 年 6 月までの 2 年間のことについてである。 以前の組織とその状態、現組織をもたらした遠因と近因、変革の内容、その結果、等をその渦 中から私が見たところの概要であるが、なるべく客観的に表したいと思う。 1. 現マネージャー制度の形が出来たのは 28 年の冬であるが、それ以前のグリークラブは山根先 生を中心とした役員制をもったクラブであった。 6 年の伝統ではあったが、関東コンクールに三連 勝をして隆々たるものであった。 山根先生は外来の指揮者というよりは部の一員で希望者は先生のお宅に個人指導を受け に行っていた。 組織の面に於いても部長の決定には山根先生の発言が大きく之を左右した らしい。 副部長、内・外務、庶務、会計の各役員が三年生の中から選ばれ、パートリーダーは大 体四年生が受け持ち、二年生以下は関与しなかった。 又、練習責任者という役はなく、学生 指揮者の石倉さんは万年サブ・コンで、殆どの曲の下練習をやっていた。 この頃の社会状勢に、歌声運動の台頭があり、雨後のたけのこのように合唱サークルができて、 急進的な労働運動の歌をやり出した。 この頃は音楽的というよりは、むしろ多分に政治的色 15 彩を持っていて、ソ連の新曲をとり入れ、その活動も、労働運動、学生運動の一環として、多彩 なものだった。 グリーの身近なものとして「民研」が生まれ、同じ音楽(合唱)サークルとは思えぬ ほどに対照的活動を行った。 この頃は新学制による学内体制の変化及び旧制と新制に育った学生が入れ替わりつつあ る時期に当っていた。 グリークラブは当然、これらの影響を受けずには居られなかったし、見ようによっては非常に受 け易い年令にも達していた。 発展に発展を続けて伸び上がってきたグリーが大所帯となってい たこと。 練習時間を制限されたアマチュアの合唱団として、音楽的にかなり難しい壁に突当たり 頭打ちの状態にあったこと。 山根先生が多くの合唱団を指揮されるようになって、グリーに割け る時間が少なくなってきたこと等々。 2. 28 年 6 月 27 日練習会場に自治会のものが現れて、ルーマニアのブカレストにおける世界青年 平和友好祭に出席して下さいとセンセイショナルなスピーチをやった。 之がグリー改革の重要な遠因 となったブカレスト問題の発端である。 その日の私の文を引用すれば、「突然グリークラブをルーマニアのブカレストに於ける世界平和祭に日 本代表の一つとして推薦するから是非行ってほしい、との話が出て、我ら一同魂消てしまった。 旅費、滞在費、一切あちら持ちで鉄のカーテンの向う側を見物できるというのだから、これ程うまく 快適な話はない。 もしかしたらパリに寄り、ワルソーあたりに遊ぶことになるかも知れないと云わ れる。 羽田から S.A.S.機で 7 月 28 日に発ち、8 月 2 日より 16 日迄祭典、帰るのは 9 月上旬 だそうだ。 入国許可証は早速ルーマニアから来るそうだが旅券問題が大変だ。 可能性につい ては夢のような話であるから何とも云えないが、夢としたってまことに愉快な夢である。」(原文 のまま) というわけである。練習場はたちまち議場と化し、白熱した討論の場となってしまった。 何し ろ鉄のカーテンは当時凍りついていて厳しく、内部に入り得るものは少なく、又、入った者は、赤 とレッテルを貼られるばかりか、帰ってくるものも少なかった。 それに国内では吉田内閣の向米 一辺倒に疑問を持つ連中が大いにカーテン内に興味を持っていた時であった。 議論は三日続き、四日目に終に「グリー行くべし」と態度が決まった。 この間に練習人員 5 か ら 60 名のクラブが一躍 120 数名に膨張したり、行くと決定した瞬間に就職を後に控えた四年生 の Y さんが、一身上の問題でクラブを辞めると発言したり、青野さんが S.A.S.機は最近危ないと いう反対理由を持ち出したりして種々のエピソードがあった。 大観すると大体三、四年生を中心とする反対グループと一、二年生の賛成グループに分かれて しまったが、一回も顔を見せなかった山根先生に関しては、歌声運動は共産党なんだと決め 付けておられた先生のことだし、反対の切り札としてグリーが行くとしても山根先生は行かないだ ろうという話が出た程であるから、反対は明白であった。 この分かれ方がそのまま新マネージャー 制の賛否のグループになったということは興味深い。 又、山根先生が一緒に行かないと発表されたことは、少なからず、我々賛成グループにショックを 16 与えた。 なぜならば今でこそグリーは学生指揮者が居て、どこへでも行って、自分達だけで正 式な演奏をすることができるが、当時は先生が欠けたら指揮者無しの合唱団の感が全てを支 配していたのだ。 横浜国大グリークラブは、山根グリークラブであったと云って決して過言ではない だろう。 先生無しでは、我々は歌うことができないと痛感し、その先生が我々と共に居るので はないということを覚った時、後に来るものは何か。 当然、如何に我々グリーが山根先生に依 存しているか、いかに非力であるかの反省と、自分達だけでも歌えるように、又自分達の決定 を実行できる程度に実力を養成しようという意識面無意識的な思想が形成されたのである。 7 月 7 日参議院議員控室に於いて、騙されていたと気がつくまで、クラブ員全体は実に良く働 いた。 旅券交渉、署名運動、資金カンパ、旅行準備と、あるものは京浜で、あるものは故郷に 帰って、校外でも教室内でも。 こうしたブカレストへの夢は、きれいに天の川に流されてしまったし、一ヶ月経った夏の山中湖 の合宿にはもう跡かたもなく一片のお笑い草程度にしか思われない位グリーは旧通りに帰って しまったかに見えたが、真剣にやれるところ迄やったという誇りと、ともかくクラブの決定を動かし たという自身は深く賛成派の心の中に潜んだであろう。 亦、それと反対に、信念をもって終始 反対であった人を除き言を左右にしたり、引退声明を出しておいて、行かぬとなったら平然と 当たり前のように出てきたり、詭弁を弄したりした先輩の威信は大分傷つけられたであろうし、 先生を囲む役員以上の指導者が不明朗に浮き上がって感じられるようになったのである。 3. 秋のシーズンは忙しく始まり、いつの間にか 11 月になってしまうのであるが,11 月 15 日に中 央大でやった関東コンクールには辛くも 1 位をとり四連覇を為した。2 位早大グリー、3 位慶大ワグネルであり、課題曲は「海(清水脩)」 選択曲は“Let my people go”であった。 選択 曲は“Kirie”を練習していたが一週間前に急に“Let my people go”に変更されたものである。 続いて仙台に行き、再び全国第 2 位。夜の旅館で涙を流してのお通夜のようなしんみりとした 反省会があったのだが、一年後に全日本九州コンクールで 3 位となった後のにぎやかさとは対象 的であったそうな。 続いてガムシャラな猛練習の後に 12 月山葉ホールに於いて初の東京演奏会を開いた。 之が組 織改革の近因となったのである。 小さいホールへ余る勢いをブチまけたという様な演奏会で、28 年頃のグリークラブを代表するステー ジであった。 つめこみと田舎大学の粗野なステージマナー、マネージメントの不徹底、その代り難曲 に体当たりして、ともかく歌い放つという気概、細かいことに気は使わないで歌い飛ばすという 豪放さ、こんなことが今のグリーと変わっていた点である。 当時一年であった私はここに二つの 不満を感じた。 芸術として曲をみる意識が無い。 何だかシンギングマシーンみたいな気がす る・・・今考えれば不勉強の裏の姿でもあったのだが、それと、入りきれなかった客が券を置い て帰ったり、採算がどうだったのかの発表もとうとうなかった様なマネージメントに対する不満であ る。 17 4. 29 年に入って、1 月、グリーを芸術的にもクラブ的にも一段と飛躍させる為には何かが変わら ねばならないという機運が盛り上がり、組織を改革しようということになった。 寒い講堂で練習 が終わると、ふるえながら熱の入った討論が続き、2 月の末、終に追い出しコンパの席上、新マネ ージャー制にする選挙が行われた。それまでに喧々諤々として考え出されたのが現在行われて いる 3 年、2 年生による組織である。 発展に発展を続けたグリーが、その初期形態の頂上に頭 を打ちつけて伸び悩んでいるこの 2、3 年、そのカラを打ち破って更に発展の道を開こうとしたの がこの改革の意味であり目的であると私は信じている。 その結果が今着々と現われつつある のだが、どのような結果を招こうとも、之はグリーに重要な位置を占めることがらに違いない。 未経験且理想に勝った組織は、ヨタヨタ歩きを始めた。 反対の方が多かった四年生からは積 極的な指導とか実務の受継ぎなく、新マネージャーは殆ど聞くという意思を持たなかった。 勿論 その結果はできばえの悪い 1 年となって現われて来た。 今までの行事その他を踏襲しながら 新しい試みの連続であったし、山根先生との意思の疎通は益々前面に表れて来た。 且、曲 の解釈、音楽性に関する先生とは異なった意見や行事に関する意見等々、団員の主張がで て来、皆が個々に考えるようになると、今までの山根先生によって一本にまとめられていた時と と異なって混乱が生じてきた。 石倉さんの主張する音楽の流れは山根先生のやり方とかなり の隔たりがあったし、コンクールの選択曲でも、先生の“ねずみ”に対し“巡礼の合唱”と、しかも之 が一ケ月前になっても議論百出で決まらなかったのが一日を争うようになってから二転三転し て、やっと決まり、3 日前にドイツ語から日本語に切り替えるなどという混乱を伴ったのである。 辛うじてコンクールは全国に出たが、3 位に下ったことが示すように 29 年のグリーは音楽的に云って 確かに下降の傾向を持っていたことは否み得ない。 そのような混乱に加えて山根先生が忙しく且スラムプの時期があったらしいのと、組織の完成 に目を奪われがちで肝心の音楽の方に全力を傾けることができなかったからだ。 しかし之は 本末転倒とはいいながらも、長い目で見れば一段階としてやむを得ないものであったろう。 そ の責任者たちは 29 年の責任を痛感しつつも軌道に乗って上向きに上り始めるグリーの夢を翌 年に託したのである。 尚この年に、グリーにとって切っても切れない県立音楽堂が完成し、そのコケラ落としを行い、定 期演奏会の会場を講堂からここに移したのである。 初回の第 3 回は不振の 29 年にしては不 思議なほど好演奏の続出で盛況さは今日と変わることなく女学生フアンを中心とする横浜の支 持者地盤がここに出来上がったということは一筆に値する。 活動記録(S.30 年度) 6 月 4 日 第 10 回関東合唱祭(於市ヶ谷女子学院) 19 日 第 2 回大学合唱協会演奏会(於県立音楽堂) 26 日 第 8 回横浜学生合唱祭(於工学部) 9 月上旬 夏季合宿(猪苗代湖畔天鏡閣) 6 日 交歓演奏会(於会津女子高校) 18 10 月 9 日 高工同窓会出演(産経ホール) 中旬 秋季合宿(藤澤遊行寺) 22 日 第 10 回関東合唱コンクール 総合 4 位(立教大学タッカーホール) 11 月 6 日 女子商学園文化祭協賛出演 21 日 第 3 回横浜市民合唱祭 12 月 16 日 第 4 回定期演奏会(於県立音楽堂) 1 月 22 日 小野学園音楽会演奏会(日本青年館) 3 月 15 日 卒業式出演 18 日 山根先生の義捐金募集演奏会(工学部講堂) (出演団体)木曜会、関東学院大学、横国大グリー、その他職場合唱団 30 年度大要 学生指揮者として、高林さんが指揮し、完全に山根先生の指導を仰ぐことなく、自分達のみ で活動するという 10 年間に於いて唯一の年度であったが、その活動は僅かではあっても発展 傾向にあった。 学生指揮者制を唯一の理想形態としてとったのではなく、やむを得ず踏み出 したという状態ではあったが、始めた以上は・・・という強い決意の下に、高林さん中心のリーダー グループは、全力を尽くしその任に対した。 コンクールに於いては、総合第 3 位に留り、連続優勝 には終止符を打ったが、定期演奏会にはグリーの力を十分に発揮したのである。対外、対内的 活動に於いてマネージャーの果たした役割も大きかった。 今までの中心であった山根先生の居 なくなったグリーに支柱を与え、まとめるという大任は果たされたのであった。 部員の自覚も強 く、練習時間が良く守られたことはそのもっとも大きな現われだったろう。 リーダー制、マネージャー 制はこの一人歩きの年に名実共に確立されたのである。 翌年から再び山根先生の指揮を仰 ぐことになったのであるが、確立されたこのときの制度は良くその利点を残し、以後のグリー発展 の重要な要因を為しているのである。 活動記録(S.31 年度) 4 月中旬 春季合宿(鎌倉学生会館) 15 日 逗子市市制記念音楽祭(於逗子小講堂) 6 月 1 日 第 1 回横浜国大音楽祭(於県立音楽堂) 9・10 日 第 3 回大学合唱協会演奏会(於京都彌榮会館) 17 日 第 9 回横浜学生合唱祭(於工学部) 23 日 第 4 回横浜市民合唱祭(県立音楽堂) 24 日 第 11 回関東合唱祭 9 月上旬 夏季合宿(猪苗代湖畔天鏡閣) 6 日 福島演奏会(於福島市教育会館) 11 月 3 日 神奈川文化・スポーツ賞授与式出演 19 上旬 秋季合宿(於藤澤遊行寺) 11 日 第 11 回関東合唱コンクール 総合 4 位(於中野宝仙学園) 29 日 横浜四大学合同演奏会(於県立音楽堂) 12 月 8 日 小・中学生の為の音楽会(於吉祥寺小学校) 16 日 第 5 回定期演奏会(於県立音楽堂) 1 月 26 日 第 2 回東京演奏会(於第一生命ホール) 以上の他、ラジオ放送、学内行事出演等、内部的には追い出しコンパ歓迎コンパ その他 活動記録(S.32 年度) 「参考:山本さんの文には記述が無いがこの後のグリーの活動を見るた めに記した」 4 月中旬 春季合宿(於千葉小湊)、小湊中学校で演奏会 20 日 入学式出演 5 月 9 日 セツルハウス建設資金募集音楽会 18 日 「ねこの子会」交換演奏会 27 日 NHK 短波 アジア向け放送録音 6 月 1 日 第 8 回横浜国大創立記念音楽祭 9 日 第 12 回関東合唱祭 16 日 第 4 回大学合唱協会演奏会(於名古屋) 17 日 四日市高校との交換演奏会 22 日 カリフォルニア大学グリークラブとの交歓演奏会(於フライャージム) 23 日 第 10 回横浜学生合唱祭(於工学部)(横国大グリークラブ主催) 7 月 6 日 第 5 回横浜市民合唱祭(県立音楽堂) 6 日 第 5 回横浜国大経済学部合唱祭 11 日 学内演奏会 12∼14 日 東北演奏旅行(郡山、福島、仙台、山形) 8 月 31 日∼9 月 6 日 夏季合宿(於静岡県袋井町法多山) 9 月 20 日 第 2 回横浜四大学合唱連盟定期演奏会 10 月 20∼22 日 秋季合宿(葉山長者園) 27 日 関東合唱コンクール 男声 1 位、総合第 2 位 31 日 横須賀湘南女子学園文化祭 11 月 8 日 上智大学グリークラブとの交歓演奏会 10 日 横浜商業高校文化祭 19 日 東北大学男声合唱団東京演奏会に賛助出演 12 月 18・22 日 第 6 回定期演奏会 1 月 26 日 第 3 回東京演奏会 3 月 15∼30 日 演奏旅行(静岡、神戸、舞鶴、広島、水巻、田川、長崎、熊本、鹿児島) 20 サーティーフォー三春演奏旅行記 昭和34年卒 T−2 大澤 良蔵 私の故郷は滝桜で有名な福島県三春町である。福島県のほぼ中央に位置しており、新 幹線が通る郡山市の東12kmにある。ここに2002年三春交流館「まほら」がオー プンした。400席の大ホールはプロの音楽家も絶賛する音響効果を持ち、今回(3月 7日)のサーティーフォーの演奏会会場となった。主催者は「三春アンサンブル支援会」 で三春町の関係者(100人以上)が会員(私の甥もその一人)となり、7年前から毎 年3回三春に関係のあるプロの演奏家(団体を含む)を招待し、演奏会を主催している 団体である。サーティーフォーの記事を掲載した雑誌「Ku:nel」やサーティーフ ォーの作成したCDなどがきっかけとなって、2008年秋プロではないサーティーフ ォーに出演の打診があり、1 年前の2009年3月に大ホールの予約が取れ演奏会の開 催が本決まりとなった。サーティーフォーは2008年4月に熊本演奏旅行、2009 年9月に北海道演奏旅行を行っており、今回は3回目の演奏旅行であった。我々が現役 の学生時代の昭和30年、31年のグリー夏の合宿地は同じ福島県の猪苗代湖畔にある 天鏡閣であったが、その懐かしい合宿地を再訪したいとの希望がかねてよりサーティー フォー内部で話し合われており、三春演奏会のあと、会津、猪苗代方面を散策すること も合わせて計画する事とした。 三春での2時間の演奏会のプログラム(27曲)を決め練習を開始したのは北海道演 奏旅行後の昨年10月からである。全27曲を暗譜するのも大変であったが、休憩20 分を含めて2時間を歌い続ける体力の維持も大変であった。 演奏会当日の3月7日(日)雨模様の中、東京駅8:08発の東北新幹線やまびこ号 で郡山に向かい磐越東線に乗り換えて10:04三春駅到着。主催者の出迎えを受けマ イクロバスで まほらホール へ直行。早速ホールでの声だしで、その音響効果の良さ にメンバー全員が驚嘆した。15時の開演時には会場は350名ほどの聴衆で埋まり、 司会,解説役のT−2田中俊郎さんの「三春出身の大指揮者大澤を紹介します。」で会場 は大爆笑につつまれた。音響効果の良さに助けられ、ハーモニーの乱れもなく、一曲ご とに大きな拍手を頂きながら、演奏は順調にすすみ全員合唱「故郷」で終演となった。 ここで特筆したいのは、第2部の終わり近く、「仰げば尊し」の演奏後、プログラムに 記載しないまま 私の母校 県立田村高校の校歌 を歌った事である。原曲は混声4部 合唱であるが、これをメンバーの熊谷さんに男声4部に編曲していただき、メンバー全 員暗譜で演奏した。聴衆の皆様は大変に喜ばれ、大きな拍手を頂いた。またアンコール 2曲後に、それまで招待客として客席で聴いていた田村高校音楽部女子生徒さん11人 にステージに上がっていただき、女声3部、男声4部合わせて7部合唱で校歌を演奏し た。大変な反響で、しばらく拍手が鳴り止みませんでした。後刻、校長先生からも大変 感謝されました。参加の女子高生の声も、歌唱力も大変立派で、合唱レベルの高さに驚 21 かされました。お礼として、後刻CDを贈ることと致しました。 終演後はホール近隣の旅館「八文字屋」で主催者とサーティーフォーの打ち上げパー ティがあり、私の親族、高校同期の友人等も多数参加した。ほとんど全員の方からすば らしい演奏会であったとのお褒めの言葉を頂いた。また 前三春町長の伊藤さんも参加 され、まほらホール建設時の苦労話などを披露された。主催者からは、過去 7 年 21 回 の主催した演奏会の中で最も会の趣旨にそった演奏会であった ました。サーティーフォーの宿泊は温泉 ィーフォーメンバーのみの二次会は 馬場の湯 との感想が寄せられ の若松屋旅館で、入浴後のサーテ 概ねいい演奏が出来た事の達成感の中で、大澤の 指揮の乱れなどを肴に、無礼講で夜遅くまで盛り上がった。 まほらホール全景 雪の瀧桜の前で 翌日は雨もやみ、旅館の手配したマイクロバスで出発、田村高校全景を見下ろせる丘 の上や、前夜からの雪をかぶった滝桜の観光後、会津若松へ直行した。天候も回復し、 鶴ヶ城では天守閣頂上まで登った後、白虎隊で有名な飯盛山にむかった。ふもとの食堂 で昼食の予約をしたら、飯盛山の観光ガイドを無料で引き受けてくれ、美声の若き女性 のガイドから丁寧な説明を受けた。少し得した気分になり飲み放題の昼食を楽しんだ。 昼食後、猪苗代湖畔の天鏡閣を訪ねた。すばらしく綺麗な迎賓館になっており、54年 前の合宿時とは全く様相が一変していた。現在は国の重要文化財に指定されているとの 事である。50年以上前とはいえ、こんな由緒ある場所で貧乏な学生集団60名が合宿 練習を行った事が信じられぬ思いである。 ここでハプニングがあった。天鏡閣受付の女性が、われわれのグループが昨日三春で 演奏会を行ったコーラスグループであることを知り、その要請により立派な応接間の中 で、2曲を披露した。更に今後、天鏡閣が主体となって、合唱祭的な行事をすることを 立案中であり、それへの参加を打診された。今後の検討課題とする旨返答。 天鏡閣を後にして、15:30郡山駅前で解散。岳温泉組の4人以外は16:05の 「なすの号」自由席 1 車輌にほぼ貸切状態で乗車。酒盛りしながら全員満足感に浸りな がら帰京した。 今回の演奏旅行の成功は三春側の大変なご厚意によるところが大きいが、メンバー全 員が一心同体でそれぞれに努力したこと、そして最後には天候にもめぐまれたことで、 無事成し遂げられた事と思います。関係の皆様に厚く感謝いたします。 22 宋祖親鸞聖人御真影還座式の音楽法要に参加して S34卒 B−1 佐藤 義暉 還座式とは御真影堂を修復のため御真影を阿弥陀堂に移し修復が済み御真影を再び 御真影堂に還座するための法要であります。修復に要する費用は莫大なものですが西本 願寺は一度も火災にあっていないので半額国庫補助が出、東本願寺は三度火災にあった ため補助無しとの事。私達は東本願寺の法要に参加いたしました。 このきっかけは YGC の何回か前の定演に廟堂頌を取り上げたのを上野の住職で真宗 大谷派の音楽部長の菅原さんが YGC のホームページでご覧になり、連絡があり定演に お招きいたしました。廟堂頌は清水脩氏が御遠忌法要の称名の声が京都駅まで届いた様 を題材に作曲し、大谷大学のグリークラブでは代々歌い次がれているとのこと 去年の 5 月ごろ菅原さんから連絡があり、還座式の中で、還座が済み、御真影の周りを整頓する ため、金障子閉扉し開扉するまでの 40 分間、賛歌との見出しで音楽法要をおこなう、 内容は女声 混声 男声合唱でメインは廟堂頌なので、是非参加協力して貰えないかと の要請がありました。条件は 9/28~9/30 の二泊三日、滞在費 12,000 円負担、交通費半 額補助、夫人も混声女声に出演すれば同条件との事、本山の御真影堂にて演奏するのは 初めての事で是非成功させたいとのことでした。 合宿(仏教音楽研修会)参加したのは OB では、加藤春千代 八木啓充夫妻 山形一雄 松田清 田中俊郎夫妻 佐藤義暉 河田洋一、合わせて 23 名、法要前日参加の青木俊 彦等 4 人の参加を加え総計 27 名となりました。 9/28、12 時頃京都雄琴駅に到 着、徒歩にて大谷大学湖西キャ ンパスセミナーハウスに到着、 まず受付にて財布を預けさせら れ、外出はリハーサルのため本 山に行っただけで、真宗作法に 基づく生活をおくりました。一 日は朝の晨朝(お経)感話で始ま り食前の歌 朝食 食後の歌 真宗の学習が終わって、やっと 習礼(練習)になります。 常日頃の生活とは全く違った経験ができました。最初の夕食はバーベキュウでビール も出、一息つけました。合宿の参加者は私達を除くと僧侶 教区合唱連盟の方方でソプ ラノ 28 名 アルト 20 名 テノール 13(7 名我々) バス 20(9 名我々) この人数で 廟堂頌を歌うのかと思いましたが、前日の御影堂のリハーサルには大勢の方が参加され T-1 23 T-2 32 B-1 28 B-2 46 となり、ほっといたしました。 23 指揮者は日豊教区長福寺住職で同志社大学のグリークラブで学生指揮者をやり長年 高校の合唱指導に当たっている武内和朋氏が副指揮者は茨田通俊氏が担当されました。 9/30 日当日はあいにくの雨でしたが、阿弥陀 堂 僧侶 御影堂 境内の天幕に全国から集まった 信徒 4000 人強で満ちあふれ、儀式がす すみ、金障子が閉扉し賛歌となりました。まず は、ご遠忌テーマソング(還座式発表曲)の女声 合唱二曲と混声合唱二曲が終わり、男声合唱と なりまずは清水脩作曲の『礼讃無量寿』―親鸞 聖人の正信偈より一信徒が常に唱える一節― 東本願寺 御影堂 側面にて を歌い、続いて廟堂頌を歌いました。 明け放たれた 800 余畳の御影堂の大広間に集まった大勢の僧侶信徒のまえで歌う廟 堂頌は作詞家長田恒雄氏と作曲家清水脩氏が描いた世界そのものであり、うねりよりの ぼりたつ称名の声に合唱が乗って大屋根を支える感がした。私はミサ曲を歌う機会はあ ったが、歌として歌い信仰心を持って歌ったことはないし信仰心を持つ人々のまえで歌 った経験もない。わずかの間の研修であったが真宗の一端にふれ、その心を持って信徒 の前で歌い、一体感が生まれ、歌いながら心に清々しさを感じた。熱心なカソリック教 徒がローマの大聖堂で聖壇を背にして、歌う感じと同じではないか。全国から参加した 熱心な信徒さん僧侶の方々に御影堂で合唱をさせる事は初めての事とて更に感慨が深 かったのではないだろうか。指揮者の茨田先生の文章に、「教えというのは、いくら理 論を並べ立てたところで、人に伝わるものではありません。それが歌という形で表現さ れる時、理論を越えて人の心に響くことが期待できます。」とある。真宗の新しい息吹 を感じた。 24 ――昭和 7 年に創刊された日銀旧友会機関誌「日の友」は、今年の 1 月号で通巻 400 号の節目を迎えた。これを記念号とするため、「随筆」の大募集が行われた。 ――幾つかのテーマが例示されたが、中で目を惹いたのが「アカデミー賞受賞映画 『おくりびと』をもじったもの」であった。咄嗟にこの表題が浮かび投稿した ら採用され、1 月に「日の友」400 号は予定通り発行された。 ――「潮音 OB」編集委員から同誌 23 号への転載を奨められたが、内容的に不向き であると固辞した。しかし結局は、若干の修正を加えたのち全体を要約して提 供することとした。ご笑覧いただければ幸いである。 ハモりびと 昭和29年卒 B−2 小暮 弘 ◎ プロローグ 「ハモり」とは「ハーモニー(Harmony)」の意だが、動詞にすると「ハモる」となる。 未だ戦争の傷跡が色濃く残っていた 1950 年代、グリークラブ仲間でよく使われた言葉 である。4 人以上が集まり各パートが揃っていると 「それでは、この辺で一発ハモろうか!…」 と、駅のプラットホームや街角など処かまわず、ポピュラーな愛唱歌を4部合唱するの が常であった。現在では全く考えられない情景であるが、米軍占領下にあって一般では 趣味・娯楽を楽しむ余裕のない時代だったので、結構な人垣ができることもあった。 ◎ ハモり人生 本来の業務が多忙を極めた期間など若干の中断はあったものの、現在まで半世紀以上 もハモり続けてきたことになる。まさに「ハモり人生」そのものであったと、しみじみ 実感される昨今であるが、その原点は矢張り 1951 年(昭和 26 年)のグリークラブと の劇的な出会いにあった。 新潟支店に転勤した 1959 年(昭和 34 年) 、私が指揮した日本銀行新潟支店合唱団が 開局したばかりの「テレビ新潟(JODR-TV) 」に出演したが、その際の強烈且つ鮮烈な 印象が、吾が「ハモり人生」の更なる深みへと導いたのであった。 当時、テレビが殆ど普及しておらず当然録画技術もない時代で、本番生出演は大変厳 しかったが貴重な経験となった。このテレビ出演は各方面に大きな話題を提供したが、 合唱団メンバーの中に、後に総裁となる若き日の福井さんが居られた。 母行リタイアを機に、大編成の二つの本格的男声合唱団に加入した。独自の定期演奏 会開催、各地の合唱祭参加、地域社会の文化活動に賛助出演、小学校を訪問して男声合 唱の楽しさを共有するスクール・コンサートなど多彩な演奏活動を展開している。 更に 1995 年(平成 7 年)、初の海外遠征となった北ドイツ演奏旅行を敢行したが、 この国際文化交流の成果が日本経済新聞紙上大きく採り上げられ反響を呼んだ。合唱団 の知名度が急激に上昇し、その後の飛躍的発展・向上のきっかけとなった。 25 爾来、ドイツを中心としてヨーロッパ各国、オーストラリア、中国など八次におよぶ 海外演奏旅行を行っている。今や両団とも、八十余名のメンバーを擁する大男声合唱団 に成長、次の公演に向けての練習に余念がない。平均年令は年々上昇するが「ハモりび と・パワー」は若々しく全開で「ハモり人生」を満喫している。 ◎ 厳しい練習 我が団にも忍び寄る高齢化の波、それに伴って記憶力や反射神経の鈍化現象が発生す る。これは直ちに読譜力低下やリズム感の乱れ等に繋がり合唱にとっては大敵である。 「楽譜を見ている合唱は、台本を読みながらの芝居と同じで、お客様に大変失礼だ!」 とする完全暗譜論に対して、「楽譜を見ないと、不安感ばかり先行して自信をもって歌 えない」とする暗譜絶対反対論も根強く存在すのが実態である。これらシニア合唱団に 共通する悩みをスマートに解決することが、今後に向けての大きな課題となろう。 「楽譜から目を離せ!…。アインザッツを厳密に揃えろ!…」 「音楽が流れていない。リズム感がない。テンポ遅れ気味だ!…」 「強弱記号、速度記号、曲想記号をしっかり見ろ!…」 「音が下がる。音は常に高めにとれ、下からぶら下がるな!…」 鋭い指摘が飛び交う練習風景である。斯くて今日も厳しい練習が続く。二つの合唱団 掛け持ちの私は、毎週土曜・日曜はこの練習のためセッセと横浜通いであるが、少しも 負担を感じていないから洵に不思議である。 ◎ 歌は心の叫びである 従来厳しい練習の成果発表の場である定期演奏会は、ミサ曲やレクィエムなど宗教曲 の大曲・難曲をメインとし、邦人作品の無伴奏男声合唱組曲これも大曲をサブステージ にもって来て最終を本来の愛唱曲ステージで飾るという構成が一般的であった。 宗教曲と組曲で 2 ステージ占められると、残りの愛唱曲ステージの曲数が極端に制限 される。そこで、選曲にあたり各ステージ毎にテーマ性を求めず、幅広いジャンルの中 から歌いたい曲を自由に選び、ア・ラ・カルト方式で色々毛色の変わった曲を次々に採 り上げようという声が挙がり、前回の定期演奏会でそれを実行した。 原語で歌った曲が何と 10 曲(英語2曲,独語2曲,イタリア語2曲,チェコ語2曲、スペイン語1曲、 ラテン語1曲)にも及び、暗譜するのに大変苦労した。さらに極めて難解な難しい詩の曲 が選ばれたりして、これだけ色々な曲を次から次へと歌われたら、聴衆は堪ったもので はないだろうと、当初この方式には反対だった。ところが、いざ実現してみると意外な 反響と高評――全く聴き慣れないチェコ語の曲「まことの愛(Laska Opravdiva)」が最も 評判良かったのは大きな驚愕であった。 これを要するに「歌は心の叫びである」と云うことであろう。たとえ言葉は解からな くてもその曲の音楽性・芸術性、つまり『曲想と表情』が豊かに忠実に表現されていれ ば聴く人に深い感銘を与えるのである。最も重要なことは、より高度な演奏をして詩の 心を聴衆に訴え、その感動を共有することである。 26 ◎ エピローグ 英語の「グリー(Glee) 」には「歓び・歓喜」と云う意味のほか音楽関係用語として 「無伴奏(ア・カペラ)の3声部又はそれ以上の合唱曲」と云う意味もある。従って、 グリークラブ(Glee Club)と名乗る男声合唱団は数多い。ア・カペラ男声合唱のあの 重厚な響きに魅せられ、その世界に飛び込んだのが運の尽き、永くも又多彩な「ハモり 人生」を歩むこととなった。相変わらず「ア・カペラ男声合唱こそが真の歌である」と 勝手な持論を繰り返している。 指揮棒一閃する直前のあの静寂と緊張、満場の鳴り止まぬ拍手をもらった時の感激と 興奮、それらは正に合唱の冥利に尽きる瞬間であり、今なお私を惹きつけて離さないの である。「ハモりびと」仲間が創り出す重厚な響きを「おくりびと」として我が「ハモ り人生」の終曲(=終局)が奏でられれば、これに勝る幸せはないと思っている。 (2010. 3.31 記) 「ハモりびと」300 名による重厚な「ハモり・響き」 (神奈川男声合唱協会 第8回演奏会 2009 年 4 月 18 日 27 藤沢市民会館) ボヘミアン・ラプソディ 昭和33年卒 B−1 紺野 信壽 今まで誰にも言わなかったとっておきの話をしよう。「ボヘミアン・ラプソディ」というロックの曲 をご存知だろうか。 私は1979年1月29,30日、ロイヤル・アルバートホールで、ロンドン交響楽団、ロンドン交響 合唱団、そしてロックバンドの競演する「クラシック・ロック」の演奏会に、コーラスメンバーの一 人として出演した。指揮はハリー・ロビノヴィッツ、合唱指揮はリチャード・ヒコックス。大変な評 判、大盛況であった。これはさらに翌年2月13,14日に同じメンバー、同じ会場で、今度はピー ター・ナイトの指揮で再演された。こういった大規模の交響楽団、交響合唱団、ロックバンドの 競演はそれまで世界で行われたことがなく、いわゆるクラシック・ロックの嚆矢となった。いろい ろなロックの名曲がシンフォニックに演奏されたのだが、その中で特に私の印象に残ったのが 「ボヘミアン・ラプソディ」であった。 まず静かなホルンの重奏で導入部が演奏され、それが他の管楽器に引き継がれて行くと、 弦楽器の低音のユニゾンが最初の美しいメロディを歌いだす。それが盛り上がったところでコ ーラスの登場である。女声のハミングに乗って男声が「…anyway the wind blows….」と歌うので ある。テンポが変わってアレグロとなり、ロック歌手が「…I am a poor boy from poor family…」と 歌うとコーラスが「…スカラムッシュ…ファンダンゴ…ガリレオ・フィガロ…」などと意味不明の掛 け合いとなり、盛り上がったところでいよいよロックバンドが大音響で登場する。コーラスの女性 や聴衆の若者は首を振り体をゆすって大変な騒ぎである。そしてフィナーレは交響楽団とコー ラス。アンダンテのクライマックスが次第に収まって、再び「…anyway the wind blows…」と歌い 終ると最後にシンバルがppで余韻を残して消えてゆく。日ごろ騒々しいと思っていたロックミュ ージックが6分間のオペラとでも言うべき壮大なラプソディになっている。 これはフレディ・マーキュリーが作り、彼のバンド「クイーン」が1975年に発表した曲である。 原曲は導入部がアカペラの男声コーラス。と言ってもメンバーはたった4人である。実は多重 録音を7回ほど繰り返すと2の 7 乗イコール 138 となり、100 人以上の完璧にそろったコーラス になるのである。「これは夢か、はたまた現実か」そしてフレディのソロ「ママ、僕は人を殺し た・・・」というショッキングな告白から曲はドラマティックに展開して行く。これはたちまちポップ ス界でセンセーションを巻き起こし、1975年の暮に9週間連続のヒットチャート1位を占めること になった。フレディは 1986 年に演奏活動をやめるが、その 5 年後の 1991 年 11 月 23 日に自 らエイズに感染していることを告白し、翌日亡くなってしまう。そして 2000 年にはイギリスの放送 局が行った「ミレニアムソングとして、この 1000 年でもっとも良かった歌、次の 1000 年間歌い続 けたい歌」の人気投票に、ビートルズの「イマジン」「ヘイ・ジュード」などを抑えて堂々第 1 位と なったのである。この歌はイギリス人なら誰でも知っていて、誰でも歌えるアンセム(国歌、聖 歌)に匹敵すると評価されたのである。歌詞の中の「生まれてこなければ良かったんだ・・・」と 28 言うところは、彼の「ゲイ」とエイズにかかわる痛恨の告白に思われて心が痛む。しかしイギリス ではそれで人を差別すると言うことはなさそうだ。死後 10 年近くたっても彼の歌を愛し、彼の死 を惜しむ風潮はミレニアムソングにランクされたことによっても明らかである。『ちなみにベンジ ャミン・ブリッテンも「ゲイ」であったことはよく知られている。テノール歌手のピータ・ピアーズが パートナーであった。彼はピーターのために沢山名曲を書いたし、オペラ「ピーター・グライム ズ(漁師の男が孤児の少年を養子にするが、暴風の海で死なせてしまう)」や「ねじの回転(裕 福な家の少年が前任の家庭教師の影におびえて死んでしまう)」などに、ブリッテンの性向が 表われていると言う。』フレディ・マーキュリーは本名ファルク・バルサラ。1946年9月5日、アフ リカのザンジバルでペルシャ系インド人のゾロアスター教徒の家に生まれる。ザンジバルはタン ザニアとして独立し、身の危険を感じた一家はインド・ムンバイに移り、彼はそこで初等教育を 受ける(指揮者ズービン・メータもムンバイ出身のゾロアスター教徒である)。1964年、フレディ 18歳のときに一家はイギリスに移り、彼はロンドン・イーリングの美術学校でデザインを学ぶが、 そのときに出会ったのが後のクイーンの仲間であった。 私が英国に赴任したのはこの歌が盛んに歌われていた1976年の春であった。オイルショッ クの直後で、英国は不景気のどん底にあった。「英国病」と言われて、ストが頻発し電車は止ま る、ロンドンは2ヶ月もごみの山にうずまる、警察や消防までスト、墓地の前にピケが張られて埋 葬ができないと言う話まで聞いた。 英国は1979年秋、労働党のキャラハンから保守党のサッ チャーに政権交代し、サッチャーは次々と新政策を打ち出す。VAT(=付加価値税:日本の 消費税に相当する)を一挙に倍以上に引き上げる。会社のセールスマンが「給料は上がっても どうせ税金で持っていかれるから、上げる代わりにカンパニーカーをくれ」などと言いっていた 高率の所得税が下がって俄然働く気になるわけだ。警察と消防はストライキが禁止された。 1980 年、私は帰国することになる。私の最後のステージは 7 月 8 日、セントポール大聖堂での ベルリオーズのレクイェム。ジョン・プリッチャードの指揮であった。その 1 年後同じ場所でチャ ールズ皇太子とダイアナさんの結婚式が行われた。あのレクイエムはダイアナさんの悲劇のイ ントロイトスであったか。 その後英国は景気が回復し、私がいた頃スラムであったテームズサイドやバービカンは見違 えるほどきれいになり、立派なコンサートホールができてロンドン交響楽団はそこへ移った。青 果市場跡だったコベントガーデンは、アミューズメントタウンとなって若者であふれている。 ○LPレコード:「Classic Rock」、「Classic Rock II」(LSO, London Choral Society の演奏、キヤノン UK が電卓の販売キャンペーンをレコードカヴァーに入れて協賛した) は CD にはなっておらず、廃盤らしい。日本で所持するのは私だけかも。 ○「クイーン」の「ボヘミアン・ラプソディ」の演奏は沢山CDになっており、今でも 売られている。代表的なものは: 「Absolute Greatest Queen」 2009 年 11 月発売 29 EMI UK 6866422 ピ ア ノ 余 話 昭和32年卒 B−1 米田 登貴彦 先日、立ち寄ったCDショップでルーマニア生まれのピアニスト、ディヌ・リパッテ ィの弾く「ショパン 14 ピアノ ワルツ」というCDが目にとまった。この曲集は私の 国大入学当時の 1950 年代の前半に発売されたLPの復刻盤で、最初にこのLPを耳に した時の衝撃は忘れられない。第一曲が華麗なる円舞曲(ヘ長調 作品 34‐3)で、フォル テの和音を数小節叩いた後、鳥のさえずりにも似た流麗なメロディーが開始する。やが て、左手がワルツのリズムをきざみ始める頃には、まさに羽化登仙の心地である。 この曲は、すでに聴き覚えてはいたが、このように流麗華美な曲とは、このLPを聴 くまで知らなかった。ピアノの音が格段に美しいのである。この曲は 1950 年7月、ジ ュネーブで録音されたもので、このとき使用されたピアノは、ハンブルグから取り寄せ られた大戦後初めてスイスに輸入されたスタインウェイであった。 日頃からピアノの音色の美しさには大きな魅力を感じており、その根拠を知りたいと 思っていたが、この CD に巡り合ったのを機会に少々調べてみた。ピアノは製造者によ ってその響きに特徴があり、明るさ、豊かさ、深み、陰影などの多様な形容で区分され るが、このような相違はどのようにして生まれるのであろうか。材質や構造によって音 質が変化するのは明らかであるが、今回は、これらの数多くの要素の中から「倍音の共 鳴による音の特徴」という視点で概観してみた。図 1 はピアノの略図である。 中央の有効弦が楽曲演奏の基本となる音(基音)を発生する。この時、有効弦の上には 数多くの倍音が重なって発生しており、これらの音波が響盤を介して空中に伝わる。ピ アノの響盤は楽器の中でも最大級の面積を有するので、雄大な響きとなるのである。 この主となる音の通路に加えて、構造上の色々な工夫が加わって特徴のある響きが作り 出される。 まずは、スタインウェイの音造りについて述べる。図 1 の右方、後方弦の共鳴弦(ア リコート弦)部分が豊かな倍音の音源となる。このアリコート弦の長さをあらかじめ計 算して定めた位置に、ブリッジを並べてプレス成型したアリコート・プレートを設置す る(図2)。この工夫によって、有効弦の響きにアリコート弦の響きが加わってピアノの 音質、音量の幅が大きく広がる。この複合された響きを響盤に伝えると同時に、フレー ムからの音響放出をも強調した上で、振動を筐体木部まで伝達し、楽器全体を響かすの がスタインウェイの音作りである。金属製のフレームを鳴らす音造りは、華やかな印象 30 を強めるので、メーカーによってその扱いは異なる。たとえば、フレーム形状の変更と フェルトによる振動の制限を加えるなどによって、落ち着いた音色のピアノに変化する。 このような技法の展開はヤマハ、カワイが採用しているが、後方弦の一部にアリコート 弦を設置するスタインウェイ方式の構造は踏襲している。 フレームからの音響放出を全面的に抑えて、響盤と筐体の木部から放出される音を重 視するのがベーゼンドルファーの特徴である。木材は高音の金属音を吸収するので、派 手さを抑えたしっとりとした落ち着きを持つ音作りがその特徴である。 図2. アリコート弦周囲の構造 図3.ブリュートナーの独立アリコート弦 スタインウェイのアリコート・プレート方式は、アリコート・ブリッジの位置が計算 上の値によって固定されているので、倍音の波長に厳密に一致しない場合もあり、理想 のアリコート効果を生むとは限らない。 そこで、アリコート弦を正確に調律できるピアノもある。その一つがイタリアを代表 する名器ファツィオリである。アリコート・プレートのブリッジ部分に独立した駒を設 置して、この駒の位置を調節してアリコート弦の調律をするもので、その響きは一層豊 かで、晴朗な音質を持つピアノとなっている。 独特のアリコート弦をもつ構造で有名なピアノを紹介しよう。ドイツ製のブリュート ナーで、我が国では馴染みが薄いが、ドイツではベヒシュタインに相当する評価をもつ ピアノである。このピアノは、中高音域に有効弦(各音程ごとに3本)と同じ長さの第4 の弦を張り(図3)、これをアリコート弦としている。後方弦の短い弦をアリコート弦と するスタインウェイ方式は高音の倍音を強調するので、華やいだ音になる。その華美な 音を嫌って、落ち着いた中にも豊かな音を求めて考案された方式である。この第4の弦 はハンマーによる打弦はせず、共鳴効果の活用にのみ使用される。打弦後の余韻の長さ は世界一である。その音は「澄んだ美しい響きを長く持続させる」と云われる。 最後になったが、日頃からその美音に接しているベヒシュタインの特徴を述べる。他 の多くのピアノが、倍音の共鳴を強調し、フレーム伝導の響きを活かして音作りをして いるのに対して、有効弦が発する主音程振動と倍音のみを響版から放射させることに専 念し、アリコート弦を設けず、フレーム共振などの金属性の音の伝播を極力制限して、 しっとりとした地味な音作りを目指しているのがベヒシュタインの特徴である。他に例 を見ない、落ち着いた感性を代表するピアノである。音楽の本質を語る楽器と評される こともあり、強靭なタッチに耐える意味で堅牢なことでも秀でているピアノである。 31 拍 手 考 昭和35年 T−2 高山 峻一 我々が演奏会で聴衆から頂く拍手、他団体の演奏に送る拍手、これらは今まで日本で はパチパチと云う連続拍手以外は聴いたことがない。また01年のイギリス遠征時に聴 いたバービカンホールでのロンドン交響楽団の演奏やニューロンドンシアターでのミ ュージカル「キャッツ」でも拍手は連続拍手であった。またテレビで観るベルリンフィ ルのジルベスターコンサートやウイーンフィルのニューイヤーコンサートはスタンデ ィングアプローズである。 ところが08年11月にJTBの「サンクトペテルブルグ・モスクワの二都物語」と 称するツアーに参加した時、ツアーのメニューにあったオペラ鑑賞で、有名なマリンス キー劇場と道を隔てた並びにあるレニングラード音楽院ホールで上演されたヴェルデ ィの「La traviata(椿姫)」を聴いた。演者はみな若いので音楽院の卒業公演と思われ た。衣裳は一応クラシックであった。コーラスは男女全員黒の衣裳を纏い舞台の上手、 下手の袖に分かれて同数が着席してコーラス部分では起立して歌った。たとえば乾杯の 歌では普通、大勢が舞台の中で衣裳を着て歌うのを、黒の衣裳で両袖で歌ったのである。 最後にヴィオレッタが倒れて幕が降りて拍手となった。この拍手が今まで経験したこ とのないザッ、ザッ、ザッ、ザッという断続拍手であった。カーテンコールでもやはり ザッ、ザッ、ザッ、ザッである。ナチスや北朝鮮の軍隊行進を連想して薄気味悪くさえ なってきた。 この意味がわからずその後ずっと気に掛けていた所、09年9月、オバマ米大統領が 就任後始めてイギリスの国会を訪問した際にオバマ米大統領が入場する時、迎えるイギ リスの国会議員の拍手がサンクトペテルブルグの聴衆と同じザッ、ザッ、ザッ、ザッと いう断続拍手であったのをテレビで見た。 この意味を穿って考えると、ジョンブルは底意地が悪いので「よくやった」という事 ではないかと推測した。この考えが当っていたのは同月末にテレビの海外SFサスペン スドラマ(俳優の顔付からイギリス製と判断した)最終回で主人公が爆破装置を解除し たところ、後ろから悪徳博士がザッ、ザッ、ザッ、ザッという断続拍手をしながら出て きて「よくやった、よくやった、だけど死んでもらうよ」と云ったのである。 これでサンクトペテルブルグの聴衆の拍手の意味が分かった。流石芸術の都の聴衆は 耳が肥えていて、日本の音大卒よりはるかにうまくても「よくやった、よくやった」な のであった。 32 「たばこ」と手術について 昭28年卒 平成 5 年 5 月 T−2 関本 昭 それまで長い間慢性肝炎で中学の親友である東邦医大大橋病院長に診 て貰っていたが、彼が肝硬変になったようなので、CT で調べようと言った。 6 月初めに CT の検査結果をみて肝臓に癌を発見、7 月入院して直ちに肝動脈閉塞法 によって、S3 の動脈を閉塞、血液の循環を止めて S3 の癌を死滅させた 。 ここで肝臓の説明をしておこう。肝臓は 8 個のセグメントに分かれていて、下の方か ら S1、S2、と始まり一番上部の(肺の裏側に位置する)一番大きなセグメントが S8 とな る。8 個のセグメントは夫々独立しており、夫々に動脈が繋がっている。即ち肝動脈と いうのは 8 本あり、足の付け根部分にこの 8 本の肝動脈が集まっているため、そこを切 開して、この 8 個のセグメント一つ一つに造影剤を注入して肝臓のレントゲン写真を撮 って、夫々のセグメントの癌の有無を調べるのである。 肝動脈を閉塞すると、血液の供給が止められ、そのセグメントの肝細胞は死滅するこ とになる。その時、癌細胞から死滅が始まる。この死滅は発熱反応であるため、癌細胞 の死滅が始まると、39℃以上の発熱となる。現在では、この肝動脈閉塞法という方法は 行われなくなった。癌以外の良い細胞まで死滅するためである。 さて、S3 の癌を死滅させて、「今後どうするか?」と聞かれた。「どうするかとはど ういうことか?」と聞くと「このままで、また癌が出たら、また肝動脈閉塞をするか、 あるいは、思い切って悪い部分を切除するかどちらにするかということだ」というので、 私は「切除したい」と答えた。それでは良い病院を探そうと調査の結果、東京の駒込病 院を紹介してくれた。9 月に駒込病院肝臓内科に入院、直ちにエコー、CT、MRI、肝 臓造影等々検査、検査が続き、その結果 S3 と S4 に癌が複数あることがわかり、外科 病棟へ移動、S3 と S4 切除のための数多くの検査の結果、いよいよ大手術の前に、鶴田 耕二さんという外科最高の先生から家内と二人が呼ばれ、「手術は私が責任をとる。問 題は術後の痰を出すことで、これは本人でないと出来ない。奥さんも私も手伝えない。 痰が出せないと、肺の中が痰で一杯になり死ぬよ」と言われた。その時は、痰を出すこ とが、如何に大変なことか分からなかった。 実は私は 20 才前から、S23 年 4 月横浜高工応用化学科へ入って以来、煙草を吸って おり、会社では、関本と言えばいつも煙草を口にくわえて社内を走り回っている姿しか 思い浮かべないとまで言われていました。しかし、平成 5 年 7 月肝臓癌で東邦・大橋病 院へ入院する前に、病院の前の喫茶店で立て続けに 3 本煙草を吸ってから入院、院内は 禁煙でその日以来完全に煙草は止めました。家ではカートンで買っておいた煙草もすべ て廃棄しました。 手術の一週間前から、術後痰を出すための色々な訓練道具があり、丸い小さな球が三 33 つ並んだ道具を口に加えて息を強く出すと三つの球が浮き上がるという訓練。大きな機 械の前に座って、口にチューブをくわえて息を静かに吐く訓練等々を行います。 9 月 20 日朝 9 時から開始した手術は夕方 6 時頃終り、約 9 時間の大手術でした。 術後ストレッチャーに寝て手術室から出てきた時、全身がガタガタ震えて、見ていた家 内も私の姉も驚いて心配しました。その日は集中管理室で一夜を過ごし、翌朝目が覚め たら直ちにレントゲンが運び込まれて私の背中の下へレントゲンの乾板を入れレント ゲンを撮り、肺の中の痰の様子を調べました。 その後、集中管理室から点滴の台を持って自分で歩いて病室へ帰れといわれて、少しず つ歩き出したら、息が苦しく、足はよろめき、フラフラして、一歩一歩歩いて何とか病 室へたどり着いた時は呼吸がハア、ハアとしていました。それから自分のベットへ寝る のが大変で、少しづつ足をベットの枠にひっかけながら切った腹部は伸ばしたまま何と か横になりました。 問題はそれから痰をどうして出すかの戦いが始まりました。胸の下から下腹部までそ の時は、縦にまっすぐ下へ、次に丁度切腹のように下腹の左から右へ横一文字に切り、 約 48cm 位切っており、傷口からリンパ液を出すためにプラスチックのパイプが 7 本傷 口の近くに埋め込まれ、パイプの先端は 1cm 位出ています。 1 日に 3 回か 4 回、腹部に巻いた包帯・ガーゼを取り、そのガーゼの重量を計測して 記録し、リンパ液がどれだけ出たか測定します。 術後約 1 週間は、傷口の痛みを感じさせないために、脊椎に針を刺し、その針の先端 のプラスチックの球に麻酔薬を注入しています。そのプラスチックの球が縮む力を利用 して麻酔薬が少しづつ注入されるという仕組みです。 それでも咳き込むと腹部が震動するので、痰を出すための咳き込みが一切出来ないの です。ただ、ハッハツと息をして痰を出さなくてはならず、傷口の痛さと痰を出す戦い が続きました。家内が病院へ来ると笑わせるようなことを言い、笑うと傷口が物凄く傷 むので、「帰れ」とどなりつけたりしました。 2 階のレントゲン室まで、点滴台を持ってエレベーターで歩いて毎日レントゲンで肺 の痰を調べ、「大分溜まっているよ」と注意されました。手にはいつもテッシュペーパ ーを持ち、歩きながらハッ、ハッと痰を出そうとするのですが、なかなか出ません。 その後、4 年間に 7 回手術を行い、H8 年 3 月の 7 回目は S7 肺の裏側の大きなセグ メントに 3.5cm の癌がみつかり、10 時間に及ぶ大手術でした。しかし翌日集中管理室 から病室へ帰る時、看護婦が「関本さん院内を一周してから病室へ帰りなさい」と言い、 私も平気でスッスッと院内を一周しました。そして痰の出し方の要領もお手のもので、 何の苦労もなくスッスッと出しました。 7 回目の手術後、リコピンの効果を信じてトマトジュースを飲み始めてからは、ピタ ッと再発しなくなり既に 13 年以上経過して今日に至っております。毎週土曜・日曜の 合唱練習、田中先生の月 2 回の個人レッスンが癌の再発を抑えているのでしょう。 34 杖を忘れた・・・! 昭和36年卒 T−1 吉田 延明 最近、時に杖を突いて歩く無様な姿をご覧頂き、憐憫の声をお掛け頂くのだが、以下 は何があったのか、ご報告ついでの闘病記である。 【発 症】 昨年 8 月の末の OB 合唱団の練習を国大の教文ホールで終わり、陽はまだ高いものの 夕方になり涼風も出たので徒歩で和田町バス停に出た。常盤公園の傍を通り 130 段の 階段を何とか降りきり、無事バスに乗り込んだ。最寄の駅でバスを降り、右折車を避け ようと早足で横断歩道を渡っていたところ、がくんと左膝に激痛が走り、歩行不能に近 い状態となった。 何とか足を引きずりながらも家にたどり着き、一息入れてから救急病院で診察とⅩ線 検査をしてもらった。骨折ではないし靭帯も切れてはいない、専門医に来週早々診断を 求めなさいと、シップ薬と痛み止めを処方され、その夜は帰宅した。月曜日の 9 月 1 日に OB 合唱団のゴルフコンペが自分のホームコースで開催されることになっていた のだが止むを得ずキャンセルし、幹事諸兄には大変ご迷惑をお掛けしてしまった。 【整形外科的治療】 近くの整形外科は年寄りが溢れていて、待たされた挙句の X 線検査後の診断は、 「変 形性膝関節症」だという。要するに膝の関節の軟骨が磨り減り、骨と骨が直接当たって 炎症を起こしているのだ。女性に多い病らしいが、小生は膝のサイズが貧弱で上体の体 重を支えられずにこうなったという御託宣だった。既に 10 年ほど前から階段での軽い 痛みが始まり、それ以来大腿部の筋力増強のためにスポーツジム通いを続けていたのを 最近はサボっていた挙句の発症だった。 その日に膝関節の潤滑油としてヒアルロン酸を注射してくれた。ヒアルロン酸は 1 週 間から 1 ヶ月程度で身体に吸収され効果がなくなるらしい。従って病気を治す手段では ないので、医療費削減の観点から全体で 5 回までを限度にしているらしい。その間に腿 の筋力増強と体重削減をせよ、というのである。寝たきりが嫌なら人工関節という外科 手術もあるから、と脅かされた。女房の母親が同じく膝に人工関節を入れたのだが、歩 行訓練中にボケが始まり、いまや老人ホームで寝たきりになっているのを思い浮かべた。 しかし、この注射は実に劇的な効果があり、病院の帰りには痛みは激減し、5 日後に は炎症も消え、シップ薬を張りながらも通常の生活に戻れた。医師によると、階段は体 重の6倍くらいの加重が膝にかかるので、エレベーターやエスカレーターのお世話にな りなさい、階段を使うことによる運動効果よりリスクの方が大きいから、と申し渡され た。やむを得ず使わざるを得ない階段に備え、折りたたみ杖を携行することにした。平 地でも杖を使うと左膝への負担が減り、格好を省みず杖のお世話になった。 体重を荷重にしないやり方で腿を強化する運動を毎日の日課にしつつ、それまでもや 35 ってきた全身のストレッチに加え、暫らく止めていた鉄アレイ運動を再開し、食事もダ イエットに心掛けることとした。 【ゴルフは止められない】 さて問題は、既に今秋にエントリーしたゴルフの約束をどうするか、秋野菜の種まき 後の管理をどうするのか、重たい菊鉢の移動をどうするのか、など悩みが尽きなかった。 9 月の横浜グリークラブの定期演奏会とヨコハマサーティフォーのミニコンサートを こなし、立ち続けることに対し徐々に自信を深め、庭仕事も車付の座台を利用し何とか 必要最小限の作業をして秋を迎えることが出来た。 3 週間後には 2 回目の注射をしてもらい、ヨコハマサーティーフォーの北海道演奏旅 行に備え、何とか 2 回の演奏会を無事に務めることが出来た。杖は勿論携行していた。 問題は会社時代からのゴルフ仲間と約束した温泉宿泊を兼ねた二日連続のゴルフ行に 果たして耐えられるだろうかにあった。 北海道のゴルフもご他聞に漏れず乗用カート全盛で、しかもコース内に乗り入れを認 めていた。自打球の近くまでカートを回し、ゴルフクラブを必ず 2 本持って杖代わりに してボールに向かい、打ったら直ぐにカートに戻る、という何とも運動にならないゴル フを展開した。スコアは言わずもがな、何とか二日連続のプレイをやり通せたのである。 此れで自信を深め、10 月以降年末までにエントリーしている 13 ゲームの全てをキャ ンセルせずに立ち向かうことにした。この中には自分が欠席すると流れてしまうコンペ もあり、 「ヒアルロン酸さまさま」と注射の日程をゴルフの予定に合わせて組み込み、4 回目の注射を 11 月 9 日にしてもらった。 ここで考えたのは残り 1 回で終わりなのだから、これからは注射をせずに行くところ まで行って、もし痛みが発症することになったら、そこで虎の子の最後の注射をしても らい、その先は場合によって外科的な手段を講じても仕方なかろうと腹を固めた。この 辺りでお会いする各位から、未だ治らないの、と声をお掛け頂いた次第である。 10 年来愛用してきた膝のサポーターを整形外科医は医学的にはまったく意味なしと けなすのだが、膝を温めるためにあえて利用し、腰痛防止ベルトを締めて、重い菊鉢の 移動もこなし、更なるゴルフのお誘いにも乗って、10 月から年末まで結局 16 ラウンド プレイしてしまった。成績は散々だったが、老人仲間では優勝もあったしベスグロも取 れたのである。 【柔道整体師との出会い】 今年に入ってからゴルフの練習所に定期的に通い、体重移動を抑えた振りにだんだん 慣れてきたが、1 時間の打ち放題で毎回 200 球は振るのでかなりの運動量になり、背中 や腰、特に右側に痛みを感じ始めた。膝の痛みは激しいものではなく、階段の降り始め と上り始めにチクッとする程度になってきた。コースへも 2 回出たが、いわゆる蟹歩き ゴルフを励行し、コースの方向と直角にボールへ向かい、打ったらカートへ戻るように した。 36 こうしていても激痛再発の恐怖を忘れることが出来ず、腰、肘や手首を傷めた高校の 友人達から快癒の報告を伝え聞いたので相談を持ちかけた。直ちに定期的に本人も通っ ているいわゆる柔道整体師の紹介をしてくれ、2 月の半ばから毎週 2 回通院し、毎回 15 分の治療を受け始めた。大変快活で元気のよい青年先生で、愉快な会話をしながら の治療では元気も頂いている。 劇的ではないが体調はすこぶるよくなり、歩行に自信が持てるようになってきた。そ の治療は驚くことに決して膝の患部を触らないのだ。下半身は膝下や大腿部のつぼ押し とマッサージのあと、ゆっくりとしたリズムの脚の蹴り上げ程度までである。上体は背 中から腰の脊椎近傍のつぼ押し、うつむき姿勢の胸部の矯正、首の引き回しと周囲のつ ぼ押し、両腕の上方や後方への伸ばしを丹念にやってくれる。腕を挙げると痛かった右 肩もほぼ快癒した。健康保険が適用され、此れで患者の負担は数百円なのだ。 【杖を忘れた】 3 月の初めにヨコハマサーティーフォーの演奏会が福島の三春において開催され、翌 日はマイクロバスで会津若松市の観光を行うことになっており、更に数人の仲間で酸性 の湯で有名な二本松市の岳温泉へも足を伸ばす予定を組んでいた。 家を出るときに小雨が降っていて急いで車に乗り込んだのだが、なんとなんと、いつ も大切に携行している杖を玄関先に置き忘れ、そのまま駅頭まで気がつかなかった。エ イままよと、そのまま電車に乗り込み、いざとなったら現地で杖を手当てしようと覚悟 を固めた。荷物は車つきのバッグに納めたので問題は無い。同行の各位から杖を忘れる ほど膝が治ったのだよ、と揶揄されてしまった。 演奏会は未だ木の香も新しい三春市民自慢の「まほばホール」で行われた。ここは大 変に音響がよく、約 300 人の聴衆を前に、ネット 1 時間 40 分、立ち続けの演奏に耐え た。素晴らしい聴衆の反応に、むしろ歌うこちら側が感動した。 翌日は朝まで雪が残り、有名な三春の滝桜の冠雪した姿を鑑賞した。大丈夫かなと警 戒しながらも、会津若松城の天守閣の最上階まで杖無しでゆっくりと昇り降りできた。 白虎隊の悲劇のあった飯盛山では、上りにエスカレーターはあったものの通路には結構 高い階段もあった。此処も手摺を頼りに杖無しで完歩できたのである。 次の日は岳温泉から二本松市内のタクシー観光と洒落込み、先ず訪れた二本松城址で は最上段の天守閣址まで何とか二本足で登りきり、杖のお世話にはならなかった。 治療のお陰だと以上の武勇伝を伝えた整体師から、決して無理はいけません、膝に問 題があるぞと意識しながら、毎日のストレッチと体操、そして歩行を十分に行い、日常 生活を元気に送ってください、と忠告された。以来、杖無しで歩行している。 此処を紹介してくれた友人を中心に、近くこの医院に通う患者 8 名が集まり、医院の 名を冠したゴルフコンペを行う話が決まった。整体師に優勝杯を出せとか、老年の“よ いよい”ジジイ集団に因んでか 41+41 のグロス 82 打以下で回ったら無料治療券を出 せとか、無理難題を申し入れているようである。 37 昨年の夏のこと 昭和36年卒 T−1 伊地 由憲 昨年の夏、アメリカ東海岸とカナダの一地区を旅する機会を得た。広大な大陸のほん の一部の範囲でしかないが、初めて訪れる場所は、私にとって、見るもの聞くもの大変 新鮮で、日本との違う部分も容易に理解が進む。連続で 3 回の合唱練習を失礼して随分 遅れをとったが、やむを得ない心境だった。また、36 日間という長期間の国外での滞在 も始めての経験で、その分ゆったりとした気持ちで動き回った。 まず、成田からニューヨークに飛んで、息子家族と合流しニューヨークで 3 連泊、そ して、レンタカーでフィラデルフィア、ボルティモア、ワシントン D・C など宿泊を重 ねながら見学。その後、空路でバッファローへ。ナイアガラ観光は、カナダ側の民家に 宿泊し、朝方の滝からライトアップされた夜の滝まで迫力満点の滝を 2 日間も眺めてい た。その後は、車でカナダの南の街々を動いたが、ナイアガラオンザレイクというかつ てイギリス領の美しい観光地で過ごした 2 日間が印象深い。それから息子宅のシカゴに 戻りイリノイ州のあちこちを訪れた。それにしても車のガソリンを補給するのに、アメ リカはガロン、距離がマイル。カナダは日本と同じリットルとキロメートル。道路表示 も違うので、即判断するのに当初は迷った。この旅でのいくつかの体験を述べたい。 (1) 屋外音楽鑑賞・その他 シカゴに居るからには、シカゴ交響楽団の演奏を聴きたいと前々から頼んでいたが、 券を取ってくれていた。夏の間、この交響楽団はラビニア音楽祭を主催し、そこを本拠 地として活動していた。シカゴから北の方向の郊外に、車で約 1 時間ほど行ったところ のハイランドパーク内の野外コンサートホールである。驚いたことに、野外ホールはド ームのように屋根があり、3000 以上の固定椅子になっていた。そのホールの後部は広 大な芝生の広場になっていてホールに入らなくても敷物を敷いて音楽を鑑賞できる。外 に設置した大スクリーンがあるからである。その日は ホールも満席、外にもおそらく万という人が入場して いたに違いない。幸いにホール内の特等席で聴くこと ができた。ホール内にも左右にスクリーンが取り付け てあり、演奏者の表情がよくわかった。曲目はメンデ ルスゾーンの第 3 番交響曲、ドボルザークのチェロ協 奏曲だった。チェロの演奏者は、ヨーヨー・マで、そ の音色とともに画面に映し出されるヨーヨー・マの表 情が実に豊かで、聴衆を魅了し、終わってもなかなか 拍手がなり止まなかった。久しぶりに私も感動した。 初めて見たが、指揮者と独奏者以外の団員は、夏のせ いか男女とも半袖の白のシャツにノーネクタイの服 ヨーヨー・マ 38 装にはちょっとびっくりした。余談になるが、不思議なことにこの大勢の観客の中に黒 人が一人も見当たらなかった。周囲の人に何故かと子供に聞いてもらったが、よくわか らないようだった。趣味の音楽が違うのか。街には大勢の黒人がいるのに、今でも納得 がいかない。 ニューヨークでは、ジョン・レノンの自宅マンションが通りにあって、見てみたが、 門の守衛が射殺された当時の様子を質問に応じて面倒がらずに丁寧に息子に説明してく れた。おなじ時に、デンマークから来たというビートルズファンの女性も熱心に聞いて いた。あれから 30 年近くなるのに、ここを訪れる人は多いと守衛が話したそうである。 イリノイ州の州都スプリング フィルドを訪れた時、リンカーン が 20 年間住んだという住居の前 で、この街のカレッジスクールの 男女合わせて 8 人の学生がハモッ てフォスターの曲やその他の民 謡を約 20 分ずつ歌い、1 時間お きに聴衆の面前で披露して喝采 を浴びていた。綺麗なハーモニー にうれしくなって 2 回も聴いてし まった。ダニーボーイなど知って カレッジスクール合唱団と 左端が筆者 る曲は、もちろんこちらも共に小 さく口ずさみながら・・・・・・。 今年もプロ野球を 2 回観戦したが、プレイボー ル前の国歌斉唱のとき、6 人の男性が合唱で歌った が、これまた迫力満点の素晴らしいハーモニーで 大変満足した。 (2) 見学場所・天候 それぞれの街でさまざまな見学をしたが、印象 的な場所をいくつか挙げれば、ワシントンの国会 議事堂視察である。友人の知人のイリノイ州出身 の議員を紹介され、その秘書の案内で議事堂内を 2 時間も歩き回り少々くたびれたが、懇切丁寧に説 明しながら、接してくれた。帰りには州旗の掲げ た議員の個室でお茶菓子を接待された。選挙権の ない異国の人間をこんなに親切に扱うことに大変 戸惑ってお土産も持参しないで行ったことに後悔 したが、あとで聞いた話しでは、州内に住んでい 39 リンカーンモニュメントの前で (ワシントンD・C) るだけで、よく面倒をみてくれるとのことだった。感謝・感謝である。そのあとホワイ トハウスに向かい、就任間もないオバマ大統領が現れないかと、裏の垣根越しに中を見 ていたが現れることはなかった。笑いごとではなく、そう思いながら垣根越しに覗いて いた人は大勢いたのである。 アメリカの大統領の権威はすごいと思う。議事堂内には歴代の大統領の銅像があるし、 ワシントン D・C のあちこちに初代のワシントン大統領をはじめ、いくつかの歴代大統 領のモニュメントが点在し、見て回るのも容易でない。 9・11同時多発テロ事件のビル跡地に行ったときは、 もう 9 年近く前の事件にかかわらず、囲い越しに見る 工事は地下の部分しか進んでおらず、外にある殉職した 消防士の写真に手を合わせ、多くの犠牲者のご冥福を祈 った。ハドソン川に不時着したジェット機の場所を見て、 こんな所で全員助かった奇跡になんだか喜びすら覚え た。 アメリカの突然の豪雨はものすごい。高速道路を走っ ていて小雨から豪雨に見舞われ 1 時間半も抜け出せな かった。助手席に座っていたが、昼間にも関わらず、あ たりは真っ暗で、点灯して走っている前の車も良く見え ない。本当に怖い思いをした。 新しいヤンキースタジアムに野球を見に行ったとき、 殉職消防士の写真 7 回ぐらいから稲光ととも に強烈な雨が降ってきて試 合が中断した。1 時間以上 も待たされて、気が長い方 のわたしでも帰りたくなっ たが、観客はのんびりと売 店などに行って待っている。 やっと試合が始まって落ち 着いたが、アメリカ人は辛 抱強いと思った。その後、 松井秀にヒットが出たのが せめてもの救いであった。 新ヤンキースタジアム 潮音の原稿として思いつく材料がなく、また、旅のまとまりのない雑感になりました ことをお詫びいたします。 40 川柳事始め 昭和40年卒 B−1 坂井 紀康 「我々の世代はそろそろ仕事から退く人も増え始めているようだ。人生区切り目だね。 皆元気かなあ。機会をつくって会ってみたいなあ。卒年次毎に夫々時折集まっているよ うだけど、同期に限らず、一緒に歌った世代に声をかければ、もっと賑やかで懐かしい 集まりになりそうだね。 」 40卒の仲間で飲んだ時の会話です。思い立って40∼43卒合同同期会を野毛のあ の「叶家」で開きました。平成17年春のことです。 その席に参加された41年卆の安藤紀佑さんから「一緒に川柳をしませんか」と誘わ れ翌年から彼が副代表を務める川柳の集まりに参加しています。 例会は第3土曜日なのでグリーの練習の合間をぬって出席することになります。 グリーは団体種目で調和を求められ個人の声が目立たないことが良いとされるよう ですが、川柳は際立って個人プレーで言葉による個性表現を旨とします。調和なんて云 っておとなしくしていると撰者から「月並み、同想多し、相討ち」等とバッサリ切られ ることもあります。 ここ数年、年賀状に前の年に詠んだ川柳を書き連ねています。この度は迷惑を省みず 潮音誌上に披露させていただく事にしました。 平成20年新年 最近始めた川柳に事寄せて近況報告します ある日の席題「山」「森」に子供の頃を想いました 山の向こうに都会があった少年期 森の精ヒンヤリとしたものかしら 吟行会で初めて東京競馬場へも足を向けました きれいだけどどこか悲しい競走馬 先導馬馬それぞれの役目あり 句会で三才に選ばれた2句 「触れる」「分ける」 古傷に触れぬ配慮がなお辛い 七三に分けた昔を撫でてみる 12月句会の題「歌う」そして新年 はないちもんめ歌ったあの子寡婦になる 子供らと花札をして少し勝ち 41 平成21年新年 春 吟行会で皇居東御苑に行きました 大河ドラマを思い浮かべながら 新緑に菊も葵もあらそわず 健康保険はずっと納めるだけと思ってきましたが近年納付と受給が均衡 してきました 昔の飲み仲間も少しずつ欠けていきます この頃は訃報の都度の同期会 年金生活では入るは限りがあり 引かれることのみ多く感じられます 天引きの天の語感に腹が立つ ゼロふたつ足したい気分預金残 平成22年新年 子供の頃 田舎には街灯もなく夏の夜の天の川がきれいでした 明かり消し星空見ようこれもエコ 五輪招致が巨大なビジネスゲームに見えるこの頃です ヒロシマよオリンピックをお前もか 政権交代 前途多難ですが期待しています 似顔絵がまだ笑ってる新総理 お迎えをしばし待たせて酒を酌む 今しばらく人生を楽しむ算段です 今年も楽しい一年となるよう大切に生きたいと思います (筆者、注)三才とは撰者が優れていると感じた3句を選び天地人と位置付けた句の ことです。オリンピックならさしづめメダル獲得と云ったところでしょう。 先だって川柳の集まりの新年会があり、前年の優秀作品が表彰されました。 前掲の私の句 天引きの天の語感に腹が立つ が平成二十一年度最優秀作品 正賞に選ばれ気を良くしています。 (追記) 平成二十一年度最優秀作品に選ばれたのも束の間、3月の例会に出した句は 散々でした。 鯨のさしみで一杯やりながら 南氷洋うさんくさいぞ調査とは お前はシーシェパードのまわし者かとひやかされました。 中々うまくいかないものです。 42 川柳紀行 〜 マレーシア、シンガポールを訪ねて 昭和41年卒 T−1 矢川 潮音へ川柳紀行と洒落てみる 花粉避け沖縄も飽きマレーシア フライトは JAL なんですと下を向き 新聞とおしぼりケチル JAL の空 一義 3 月 4 日 11:05 成田発 JAL0723 でクアラルンプールへと向かった。私は 3 月のこの 季節、妻の花粉症対策もあって、1〜2 週間を沖縄で過ごしてきたのだが、今年は少し 奮発「マレー半島縦断の旅 4 泊 6 日」を申し込んだ。最近フライトは JAL ですと胸を 張って言えない感じ。 また友人がエコノミーでは新聞は有料と言っていたが、実際は 新聞の用意すらなかった。おしぼりも以前に較べ小さくなっていた。 JALは日本の シンボル、もうちょっと頑張って欲しい。シンガポール航空だって新聞は無料なんだか ら。 突然に熱帯となり顎上がり 18:00 クアラルンプール着 二人だけの専用ガイド豪華ツァー 。 「目的地三十度とのアナウンス」に摂氏 6 度肌寒の成 田から来た乗客から、一斉にウォーという喚声。クアラルンプール国際空港はパーム椰 子に囲まれ、黒川紀章設計の美しい空港。でも 30 度はやはり暑い。 現地ガイドは中国系の林さん、ツァー客は我々夫婦と松本から来た男性の二人連れの 計四人。その男性二人もその日のうちに別のホテルに行き、翌日からのツァー2 日間は 我々夫婦だけ、現地ガイドも車も我々専用という豪華ツァーとなった。 資源国ゴム錫石油パーム椰子 国は富み民は貧しくひったくり マレーシアは錫の生産世界一、ゴムも生産、石油も輸出、豊かなパーム椰子から食料 油、石鹸、バイオ燃料がとれる。マレーシアは世界有数の資源国、国は豊かになったが 国民は依然貧乏とのこと 。 「リュック前詐欺ひったくり気を付けて」と注意があった。 5年毎今度国王誰だっけ 王宮の前に専用 8 ホール マレーシアに国王(アゴン)がいるとは 知らなかった。翌 5 日の朝まず王宮を訪 ねる。何と前庭に 8 ホールの王様専用の ゴルフ場、でも今朝はピンは立っていな かった。 9 つの州にいる王様(スルタン) が、5 年交代で国王になるという。王様 も国王も大変長い名前で、国民はなかな か名前が覚えられず、しかも 5 年交代の ため、「今度の国王は誰」となるのだそ うだ。林さんから世襲の日本の天皇制を 褒められ、妙な気分になった。 43 記念碑へやはり靖国考える 金曜日マレーの信者皆モスク クアラルンプルのレイクガーデンにある、国家記念碑を訪れた。独立戦争を含む 3 回 の戦争の犠牲者を弔う、国の象徴としての記念碑。日本では戦死者を弔う靖国神社が、 国民全体の支持が得られていないことが頭をよぎる。 国立モスクを訪れる。マレーシアの国教はイスラム教、国民の 70%を占めるマレー 人は全員が信者で、金曜日には信者は必ずモスクへ、一日 5 回以上礼拝しなければなら ない。教会の中はがらんどうで、みんな聖地メッカに向かって遥拝するのだという。 伊勢丹もジャスコトヨタもみな元気 マレー人賄賂不正は当り前 専用のガイドとなった林さんは、結構インテリで色々よもやま話もした。 当地へ進出中の伊勢丹、ジャスコは非常に好調、トヨタもリコール問題なく良く売れ ているとのこと。マレー人の民度はまだまだ低く、政治意識も非常に低い。選挙では票 をお金で買うのは当り前。政治家は賄賂を当然のように貰い皆お金持ち。日本の前の財 務大臣がお酒を飲んで記者会見し、辞めさせられたのが不思議だと言う。お酒飲んで酔 っ払うのは当り前なのに、何で辞めさせられたのかと聞かれ、説明にちょっと苦労した。 マラッカの制覇で決まる世界一 大砲がオランダ広場占拠する 5 日の午後、マレーの中西部のマラッカ を訪れる。2008 年 4 月に世界遺産に登録 されてから、非常に観光客が多くなったと いう。マラッカ海峡は交通の要衝、東イン ド会社の本社があった場所。16世紀以来 ポルトガル、オランダ、イギリスと、この 地を抑えた国がその時代の世界の覇権国 となっている。観光地となっているオラン ダ広場には、1701 年アムステルダム製の 刻印のある大砲が置いてあった。 シンガポール人 5 カ国語など当り前 ザビエルの像がたたずむ丘の上 オランダ広場から登って行く丘の上に、ザビエルの像が建っていた。16 世紀、ザビ エルは日本への布教を終えゴアへ帰る途中この海峡で遭難、この丘の上のセントポール 教会に 9 ヵ月安置されていたのだという。 丘の途中、中国系シンガポール人の小学生の一団が、先生から英語で遺跡の説明を受 けていた。林さんの話では、シンガポール人は小学校から英語で全ての教育を受け、中 国系ならば北京語と広東語か福建語を勉強、マレー語、パミール語も理解出来るとのこ と。 44 マレー鉄道一等の客パンと水 偉そうな車掌一等に席二つ 4 時間のマレー鉄道ヤシ林 乗客は白黒黄色多民族 現地人マレー鉄道など乗らぬ マラッカで一泊。翌 6 日はこのツァー の目玉マレー鉄道に乗る日。マラッカか ら乗車駅のタンピンまで、交代した中国 系ガイドのポーさんが、車で連れて行っ てくれた。予想通り、1 時間遅れで到着 したディーゼル列車に、タンピン駅から 一等車へ乗り込む。席に座るとすぐにサ ービスボーイが、アンパンと水を配ってくれた。さらに立派な鬚を生やしたインド系の 車掌が検札にやってきた。何と彼は一等車の前と後ろの席を二つ確保し、交互に座って お客と雑談ばかりして いた。真面目に仕事やれ。 終着駅ジョホールバールまでの 4 時間、車窓からはずっとパーム椰子の林が続いてい た。マレーシアは本当に資源の国。しかも乗客は欧米系、中国系、インド系等々白、黒、 黄色の民族オンパレードだった。 ところでマレー鉄道に現地の人は殆んど乗らない。タイピンからジョホールバールま で、鉄道が 4 時間、自動車では 2 時間、しかも鉄道はいつも遅れて不定期なためだ。 120 年の歴史あるこのマレー鉄道を、観光資源としていかに活用するかが課題であろう。 ジョホールバール宝石の町ふさわしく コーランがハイバリに乗り心地よく 老人のナイトサファリは良く見えぬ カワイイしか言えぬボキャ貧女の子 ジョホールバール(アラビア語で宝石の意味)では、女性中国系ガイド陳さんから出迎 えを受け、市内観光に連れて行ってもらう。モスクからのバリトンのコーランが印象的。 6 日の夕刻、橋を渡って対岸のシンガポールに入国。 ガイドが男性の中国系黄さん に替わる。若者に人気のナイトサファリに入る。まずビュッフェで食事をしてから、夜 行性動物を見物のためトラムに乗り込む。後ろに乗った日本から来た女子大生がしきり と「カワイイ」を連発。どうも他の言葉は思い付かないようだ。ただ我々年寄りには動 物が良く見えなかった。お目当てのマレー虎もアジアライオンも皆寝ていた。 マーライオンこんなものかと水を吐き マーライオン色んな場所に現れる 翌 7 日は一日かけてシンガポール市内観光。7 日の午前中だけ、中国系ガイドのリチ ャードさんに率いられた団体ツァーに入れられ、初めての団体行動となった。まずはマ ーライオン広場へ。何故か私もその名前は知っている。 「シンガ」とはサンスクリッ ト語のライオンの意味とのこと。しかもこのマーライオン、この広場の他セントーサ島 など色々な場所にあったのには驚いた。本当に徹底している。 45 クラークキーしばしクルーズ 15 ドル リバークルーズ全て英語で意味不明 昼食後、市内観光団体ツァーと別れ、 ちょっと不安な夫婦二人の自由行動とな る。シティホールからシンガポール川沿 いの観光地クラークキーまで散策の後、 15 ドル払ってシンガポール川のリバーク ルーズへ。マーライオンを舟から眺める のもまた一興。英語の案内は良く分から なかったが、隅田川のクルーズを参考に したと言っていたようだ。 耳栓の効果抜群妻ニヤリ ぼやき無しそうか耳栓してたのか 最終日 8 日の朝、妻が耳栓を出してきて効果抜群と笑った。私のいびき対策だった。 地下鉄とモノレール乗りセントーサ リゾートへ島全体が工事中 8 日最終日は、一日シンガポールでの自由時間、ホテルのチェックアウトは午後 6 時 とゆっくり。 リゾートの地「セントーサ島」へ行くことに決める。地下鉄、モノレー ルと乗り継いで目的地まで行く。モノレールで終点まで行き、トラムに乗ってビーチ見 物。アミューズメントスポットはカジノがやっとオープンしたばかり、ユニバーサルス タジオは 3 月下旬オープンとのこと。島全体が工事中、多分更に賑やかになるだろうと 予感。 クラークキーからオーチャードまで歩き詰め 最終日ルームディナーと洒落てみる 舟を降りさあどうするかと言いながら、結局オーチャードロードのはずれにあるホテ ルまで歩く。くたくたに疲れ、外食に出る気力も失せ、ルームサービスディナーとなっ た。 タクシーはヒュンダイ 7 でトヨタ 3 TOTO の便器の前で息をつく シンガポールの町を歩いて印象的だったのは、タクシーに韓国製のヒュンダイ(現代) 自動車が多かったことである。7 割はヒュンダイ 3 割がトヨタのクラウンの感じだった。 韓国健闘、日本頑張れ。トイレの TOTO の文字が妙に懐かしい。今晩はいよいよ帰国。 帰国便日の出の先に日本あり 充実の素敵な旅と締めくくり 8 日 23:20 シンガポール発 JAL0710 で日本へ向かう。飛行機の中から日の出を拝む のは初めての経験、とても爽やかな気分 、まずは充実した旅であったと締めくくりた い。 46 雑 感 昭和41年卒 T−1 真方 顕 2008 年 11 月発行の「潮音OB」21 号に初めて投稿させてもらい、その最後の方に、 『石の上にも3年、少なくとも3年経過したときに体力の件や合唱でどこまで伸びたか を言えるのだろうかと思いながらまずは「継続すること」を目指そう』と記述した。 潮音担当者からの原稿要請の強い視線に押されて、何を思ってこのように記述したの かを多少振り返りながら思いつくまま、雑感として紙面を埋めさせていただきます。 「石の上にも 3 年」ことわざの意味はみなさん御承知のように、「辛くても辛抱して いれば、やがて必ず成功するから頑張れ」「長い間辛抱すれば必ず報われるものだ」と いうことですが、冷たい石の上に 3 年も座り続けると石も温まってくるとの故事の例え から来たようです。それではいったい誰が 3 年も石にすわったのか、何を成し遂げたの との事について仏教の法話によりますと、凡そ 2 千年前、インドでバリシバ尊者という 人が 80 歳で出家し、 「我出家して若し三蔵を学通し、三明を得ることなくば、誓って脇 を席に着けず」と厳しい修行を続けられた。仏教の修行は、学問もさることながら、樹 下石上での座禅が大切で、尊者は座禅石の上で座禅を組んだまま 3 年も脇を席に着けな かった(つまり横になって休まなかった)。そのことがあって遂に悟りを得、お釈迦様 から数えて十代目の祖師(脇尊者とも言われたそうです)がモデルになったのでしょう。 大器晩成という言葉のモデルのようでもあります。また、五十四代目の祖師はこの脇尊 者の話に添えて「心身徒に放捨すること勿れ、人々悉く道器なり、日々是れ好日なり、 只子細に参と不参とに依って、徹人未徹人あり」とその著書に述べているそうです。人 は皆、仏道を成し遂げるができるもの、只やったかやらなかったかだけである。せっか くの人生を無駄に使わず、毎日を好日に・・と。 今までに自分を振り返ってみたとき、この話はズキンと来たところが多々ある。仏道 を物事と読み替えると、宗教に関係しなくとも、又時代が変わっても普遍的な一つの人 生訓だと思う。 春は旅立ちの時期、多くの人が新たに学校入学、進学、就職、異動、退職等々でそれ ぞれ新しい環境の入り口に立ち、これからへの期待や不安が胸の内に去来する時です。 それまでの反省や悔いが残るもの、或いは漠然とした憧れ等にあれこれ思いめぐらし、 心機一転何かを始めようと動き出す時期でもあります。多かれ少なかれ多くの人はそれ ぞれにやることを定め、そして目標を立て、それに挑戦しようと始めるわけですが、い わゆる 3 日坊主といわれるような長続きしないことも実態として起こったことは経験 無いとは言い切れないでしょう。私もしかり、最初の数ページしか記載されていないノ ートやまったく読まれていないに等しい書籍とかはかなり出てくる。また楽器に挑戦し ようとしてそのまま埃を被っているものもある。特に若い時にはこの事例が多い。この 47 若さゆえの活動力は一方では継続して実行すれば素晴らしい結果をもたらす源泉でも あり、幅広い可能性に挑戦できる特権でもあるように思う。 年をとってくると、さすがに反省多く、無用の挑戦はさける、良くいえばやれること を見極めるということになるのだが、これにはそれまでの経験、知識、実績?をもとに、 又大きな要因である体力を勘案して対象を選定することになろうか。 高齢での大きな転換期はいわゆるリタイヤ―。30 年以上もの生業からの離別したと き何を生きがいに生きるか?とのテーマに真向かわざるを得なくなる。心した人はその 転換前から準備されているが、私の場合、漠然としたイメージしかなく、いざその時に なると焦ってしまうのだが、リタイヤ―直後、初めての地への転居から始まったので、 まず数十個の段ボールにいれた書籍、資料、その他諸々の整理が取敢えずの時間つぶし となった。ここで見出したのが中途半端で終わった残骸、これらを見て何かをやるから には中途半端にならぬよう・・との思いが「石の上にも 3 年」との表現になってきたの である。 もちろん「継続は力なり」との諸子の言も今となって良く理解できることも 影響している。 3 年という期間の意味はどうなのだろう。このあたりの解釈を記述されたどなたかの 説があるのかもしれないが、わたくしなりに思いつくまま、巡らしてみたいと思います。 まず、長いのか、短いと思うかのだが、実際に学習・修行しているときは長いと感じ、 過ぎてしまうと短いと感じる時間のように思う。従って、実際実行していくには覚悟、 意思が重要となる。一方、学習・修行による到達レベル向上が実感として捉えられるの に大凡 3 年くらいは必要ということなのではないだろうか。経営や開発等においてのサ イクルでは大凡、分析・課題設定・計画に 1 年、実行に1年、結果の分析・調整に 1 年の計 3 年位が要るというのが私の考え。学校教育では小学校を低・高学年と分けてみ ると中学校、高等学校とも 3 年ずつで、学校崩壊などというとんでもないことが無けれ ば一定のレベル、ステップに達すると期間なのではないだろうか。大学は今 4 年だが、 3 年で十分、今の 4 年制での最後の 1 年は大方時間の無駄、更に高度の知識は 3 年就学 の大学院で学ぶのが効率的ではないかと思う。余談だが果樹で、早く実をつける桃、栗 も植えてから収穫まで 3 年必要とのことだ・・ 新しい地に移り住んでもうすぐ 3 年、スポーツクラブに通いはじめて 2 年 8 カ月だ がメタボ解消は成功の部類、グリーOBに正式参加して 1 年 10 カ月、今のところ成果 はクエスチョン、歌三昧とはいかず、あと 1 年ちょっとで何か得たと言えるか心配でも あるが・・まだ続きそう。その他地域関係や旧知との例会等の幾つかに顔をだしている が、幸い時間割もよく継続中。髭をつけて 1 年ちょっと、多少の冷たい視線を無視すれ ば全く辛抱は不要にてこのことわざの対象外。 グリーOB合唱団の殆どの方が 3 年を乗り越え?られ、更に達磨大師が崇山・少林寺 で座禅を組んだまま過ごした 9 年以上も継続中の方もたくさんおられる。3 年も過ぎて いないのに、「何をごちゃごちゃ言ってるんだ」との声も聞こえてきそうです。 48 “日本のくるま”昔ばなし・・・・・お伽噺? 昭和34年卒 B−1 冨井 俊夫 “くるま”の話しといえば3つの遠い記憶が思い出される。中学生前後の頃だから今 から60数年も昔のことだが、何故かどれも鮮明に憶えている。 その1つ。小学校高学年の頃だった。私は東京の日本橋に住んでいた。戦後間もな い時期で少年の遊びといえば専ら野球だった。下町だからグラウンドはなく、学校の 校庭を使えないときは友達と一緒に皇居前の広場へ行った。人も少なく絶好の野球場 だった。たまに皇居に出入りする馬車が通る。皇太子が乗っているのを何度か見たこ とがあるが、そういうときは警官が来てドケドケと人払いをする。われわれは広場の 端に寄って、黙礼しながら馬車をやり過ごすとプレー再開である。 皆でグローブやバットをぶら下げて歩いていくのだが、途中に大手町の交差点があ る。当時は都電が通っていて、道路の中央に線路や路面よりも高くなっている細長い 形の停留所がある。その停留所の上に立ち止まって交差点を行き来する車を見ている ことが何度もあった。日本橋方面から皇居(お濠)の方へ抜ける道路を何台もの車が 行き交う。都電の敷石がひどく凸凹しているので、どの車もユサユサと前後にボディ を大きく揺らしながら、船でいえばピッチングをしながら交差点をわたっていく。乗 用車もトラックもそうだった。ところが大型の外国車が来ると、タイヤだけがポコポ コと下に降りたり上がったりするがボディは水平を保っている。 それが不思議で、面白くて、いつまでも眺めていた。 その2つ。中学生の頃だった。日本橋から銀座・新橋へ抜けていく都電の通りの両 側の歩道に露店がぎっしりと並んでいた。京橋あたりで少し切れるが銀座、新橋の方 へずっと続いていた。それを見て歩くのが楽しくて、なにか買った記憶はないけれど 友達と一緒に何度も往復したものだ。露天商のおじさんやおばさんに顔を憶えられた りした。暗くなって都電に乗って帰って来たことも少なくない。 露店見物で遅くなったとき、新橋の停留所で都電を待ちながら品川方面を見ている と、車がヘッドライトを付けて何台もこちらへ向かって来る。ヘッドライトの光には 2種類あった。それを見て、国産車か外国車か友達と当てっこをした。薄暮から次第 に暗さが増してくると容易に見分けられるようになった。ヘッドライトが弱々しくオ レンジ色をしているのが国産車で、白く強い光を放って近づいてくるのは外国車であ った。 外国車はおそらく殆どがアメリカ車であったろうが、このことから国産車との格の 違いを思い知らされた気がする。 49 その3つ。高校生になりたての頃だったと思う。日比谷高校だったか麻布高校だっ たかを訪問したとき、また何の用事で訪問したのかも記憶にないけれど、その3階の 教室の窓から見た光景をかなりはっきりと憶えている。高校は高台に建っており、谷 を挟むようにして目の前に向こう側の高台が見えていた。その中に、かなり急な登り 坂の道路がよく見えた。住宅街だから交通量は少ないけれど時折自動車が通る。 1台の乗用車がやってきて、平らなところから上り坂に入ってくると途端にスピー ドが落ち、ウーウーという感じでやっと上がっていった。次の車もそうだつた。友達 と一緒にそれらを眺めながら「ガンバレ!」と聞こえもしないのに声援を送っていた。 やがて、やや大型の外国車が見えてきたが、坂にさしかかっても速度が落ちることな くスイスイと上がり、消え去った。 そういう光景をしばらくの間繰り返し見ていて、少々大袈裟だが国力の差のような ものを思い知らされた感じであった。 以上に関連して思い出すのはそれからずっと後のことである。 サラリーマンになっていた私は昭和38年、名古屋へ転勤した。やがて寮生活の仲 間達5人と共同で通勤用として中古車を買った。といっても所謂 “タク上がり” で、 走行距離は30万キロを超えていた。私は免許を持っていなかったから急いで運転を 習い始めた。自動車教習所へは行かず、その中古車を使って貸しコースに行き、免許 を持つ友人が助手席に乗って指導してくれた。 試験場では一発勝負のつもりだったが実地試験で一度落ち、2度目に合格。それで も初めてハンドルというものにさわってから24日後に免許証を手に出来たのだか ら相当なスピード取得だったと思う。さっそく乗り回し始めたが、その疲れた中古車 はやたらにエンストした。 ちょうど東京オリンピック開催を控えていた時期で、東名高速道路はまだ工事中。 名神高速の部分(小牧−栗東間)が開通していた。休日には皆でよくドライブに行っ たものだ。高速道路はいつもガラガラだった。だから思い切りとばしたいところだが、 時速80キロを超えてくるとエンジンが過熱気味になる。そのため10分も走行すれ ば70キロ以下にスピードを落とさなければならなかった。ただ、僅か80キロでも 他の車を容易に追い越すことができたのであり、そのわれわれを追い越していくのは 外車だけだった。 その後40年以上の月日が流れた。いま、日本の“くるま”が世界中の道路を闊歩 するようになった。素晴らしい性能のくるまを作るようになり、日本の自動車産業は 世界のトップクラスになった。 米国議会の公聴会で日本の自動車メーカーの社長がリコール問題に関連し証言し ている映像をテレビで見ながら、お伽噺のような大昔の記憶が頭に浮かんできた。 50 オーケストラ付きで見た無声映画 昭和47年卒 T−2 堀 史治 7,8年前になるかと思いますが、ドイツの会社から招待があり生のオーケストラ付 きでドイツの無声映画「ファウスト」を観賞する機会に恵まれました。非常に興味深い 試みでしたが、次第に記憶の彼方に消え去りそうなので、この機会に振り返ってみるこ とにします。 「ファウスト」(無声)は 1926 年公開のドイツ映画で、F.W.ムルナウ監督がゲーテ の長編戯曲「ファウスト」とその他の民間伝承のファウスト伝説をもとに製作した作品 です。ドイツ無声映画の最高峰のひとつといわれていますが、原版の傷みがひどくなっ たので何回か修復が試みられ発表されています。ゲーテ生誕 250 年にあたる 1999 年 には京都映画祭で修復版の国内初上演が行われたとのことですが、熊の代わりに熊の着 ぐるみを着た人間が出ているカメラ・テスト用のものだったようです。一方、私が参加 した会でのものは 1995 年に修復された、本物の熊が出てくる最終版、或いは前者とは 異なる修復版です。 当時の作品の中にはオリジナル・スコア付き音楽が用意された映画もあるようですが、 この会で使われた音楽は、修復版に併せて 1995 年に作られたものです。オーケストラ は日本のどこか(東京フィルだったか?)が協力した小編成のものでした。 始まる前に当然何らかの説明があり詳細はその時に分かると思っていたのですが、徐 にオーケストラのメンバーが入ってきてチューニングを始め、何の案内もなくフィルム が回り始めました。それも本題のフィルムです。音楽の方も、いつの間にか入ってきた 指揮者のもとで始まりました。そのような次第ですので、気持ちの上での準備不足もあ り誤認や誤解をしたところがあるかと思いますが、その後仕入れた情報で補足しながら、 この「ファウスト」を紹介します。 天上で大天使と堕天使サタンが人間の老学者(錬金術師?)ファウストをネタに、 「人 間を堕落させることができるか否か」の賭けをするところから話が始まります。 地上では、街全体をサタンの影が覆いペストが大流行し、人々が次々に死んでいきま す。自分の老いと無力さに絶望したファウストにサタンの化身であるメフィストが近づ きます。ファウストは怖じ気づいて逃げ回りますが、メフィストはあちこちで待ち伏せ をして離れません。その結果、ファウストは 1 日だけ若返る契約を結びます。 若返ったファウストに合わせてメフィストも姿を変え、2 人はイタリア随一の美女パ ルマ公女に近づきます。無声映画らしく、砂時計の砂が落ちるショットがはさまり刻々 と近づく時間切れを強調し、音楽が緊迫感を増大させます。 いい思いをしたファウストは契約を 1 日ではなく永遠にしてくれと頼み、メフィスト の思うつぼとなります。若さを悔いる言葉を口にしないことを条件に 2 人は改めて契約 51 を結び、ファウストの願いを何でもかなえるためとしてメフィストは彼の助手になり同 行します。 生まれ故郷の町に戻ったファウストはやがて可憐な少女グレートヒェンに恋するよ うになり、メフィストの力を借りてグレートヒェンの愛を獲得しますが、メフィストは グレートヒェンの兄を挑発した挙句に殺害し、これをファウストの仕業にします。そし て、追っ手より逃がすためと称してファウストを遠ざけます。ファウストを失ったグレ ートヒェンは晒し者にされ、雪の中で産んだ赤ん坊を凍死させ、子殺しの罪で火炙りの 刑の宣告を受けます。 メフィストの度重なる妨害でグレートヒェンとの間を引き裂かれていたファウスト は、グレートヒェンが子殺しの罪で火炙りにされるのを知り、救出に駆けつけます。フ ァウストの到着が間に合うかどうかというところがクライマックスで、無声映画らしい 手法で緊迫感が表現されます。間に合ったものの、契約を破って自分の若さを悔いる言 葉を口にしたファウストは、元の老人に戻されてしまいます。 再び行われる天上での大天使とサタンの問答で、サタンは大天使との賭けに勝ったこ とを主張しますが、大天使はサタンが人間を堕落させることは愛の力「Liebe」によっ て妨げられたと宣言し、ファウストとグレートヒェンは一瞬若返って共に昇天します。 この辺りは、いかにもヨーロッパ的です。 全篇がスペクタクルの連続です。意図的なのでしょうが、現在ならコメディと受け取 られかねないような力みのある演技ですが、表情と仕草ですべてを表現しなければなら ない無声映画という制約からのことでしょう。逆にいえば、無声映画であるが故に、こ のような表現が功を奏しているのかも知れません。 卓越した映像技術を持っていたといわれるムルナウの代表作なので、特殊技術が多用 されています。二重露出、オーバーラップ等々、現在の目で見れば稚拙なものですが、 当時は最新技術のてんこ盛りで関係者に大きなインパクトを与えた作品だったようで す。 弁士は付いておらず字幕でした。無声映画は、ややもすると大仰でアトラクション効 果の増大をあからさまに狙った伴奏音楽と、弁士による誇張した説明や過剰な修飾でい やになることがあります。しかし、この「ファウスト」はそれらとは趣を異にするもの で、生のオーケストラと映画の協演(?)を楽しむことができました。後付けの音楽だ ったこともあるのでしょうか。 途中までは、この種の話の進め方や表現が鼻について、どうにもついて行けないと思 いながら見ていましたが、終わった後には非常にさわやかな印象が残りました。この辺 りが名作といわれる所以なのかもしれません。 因みに、ムルナウの「ファウスト」が発表された 1926 年は、チャールズ・チャップ リンの「黄金狂時代」が発表された年でもあります。 52 ささやかな実践 昭和43年卒 B−2 高橋 登美雄 アラーム音が鳴る前にゴソゴソ動き出す年齢となり、布団の中からリモコンでラジオ のスイッチ ON。謡曲だったり、民謡だったり・・・。着替え・洗顔後は、軽い体操。 腰をゆっくり回しながら、房総の山々を眺め、深呼吸をしながらゆったりスクワット。 中腰を早めに繰り返すスクワットに切り替えると、太股がビンビンしてくる。またゆっ たり。無理は禁物。ラジオはいつしかバロックに。爽やかな音に浸りながら、一人至福 の境地。前屈等でストレッチ。両手に 2Kg のアレーを持ち、かかと上げもしながら適 当に。両手を拡げたりしてから、ストレッチ。腹筋をしてから海老反り。腕立てをして からストレッチ・・・まあ、適当に、気の向くままに、家の中で、いい加減に。 雨でも可能だ。やりたくないときは、布団の中でウトウトしているのもいい。 こんな気ままの体操でも、やるかやらないかで違いが出る。日常でも駅やビルの階段 を2段づつあがりたくなる。この冬も湯沢高原の山頂からノンストップ 10 分で滑べり 降りる筋力が残っていた。 3月の三浦マラソンでは、2時間かかるものの歩かないで ハーフを走り抜く予定が、天候最悪で棄権。4000 円の T シャツ・大根の買い物となった。 風呂から上がるときは、桶2杯の冷水をタオルに含ま せて、手、足の先から徐々に体全体に当てている。1年 中やっているからいいものを、もしこのような実践をす るなら夏からやるといい。真冬の冷水は、本当に冷たい。 このような皮膚鍛錬は、寒い中で短パンになってマラ ソンに挑むことから始めたが、風邪をひきにくくする効果がありそうだ。 そして、これらは何よりも日常の様々な活動の気力に通じているから不思議だ。 妻が老婆の世話をしたり洗濯をしている間は、台所に立って朝食の用意だ。・・・食 後は、片づけ。生ゴミは、コンポストで堆肥に。 生協への買い物は、得意技。食卓のイメージは、出た所勝負。干物は便利だが、活き のいい魚があれば、刺身もいい。塩焼きや煮物もいい。里芋や大根を煮るものいい。手 をかけるのがまた楽しいし、経済的だ。多かったら、冷蔵・冷凍保存だ。 時折ちょこっと顔を出す娘が、タッパーに入れてかっさらっていく。 グリーOB ばかりでなく、昼食が必要なときは、できるだけ手づくり弁当を持つよう にしている。前日の夕食のおかずの残り物を中心に適当にアレンジすれば、はい一丁あ がり。油っこくないし、カネはかからず、なによりもゴミを軽減できる。飲み物は、お 湯を沸かして5円のティーパックをマイポットに入れれば OK。 53 コンビニ弁当が流行しているが、いつでも買えて安価だ。この値段で売って、生産者 にどの程度のカネが還元できるのだろうかと考えることがある。米一つとっても、同じ 量の清涼飲料水より安いという。生産者が作る喜びを味わえる生産価格保障が必要だ。 消費者にとってより安い方がいいかもしれないが、安売り競争は生産サイクルや安全面 の根本を崩す。 ペットボトルの飲み物も手軽だ。でも、考えてみたい。石油から作られるこれらの容 器は、新たなゴミを産み出し、その処理が大変になる。地球温暖化防止問題が声高に叫 ばれているが、一人ひとりのささやかな実践が、社会を構成しているのだ。 ペットボトルの蓋や缶ジュースのプルトップを小学生が沢山集め、世界で恵まれない 子どもたちのために役立てるという実践があるが、ふざけるな! これって、清涼飲料 水メーカーの戦略に乗った実践だと思う。恵まれない子どもたちに思いをつなぐなら、 ペットボトルを買うカネの一部を、ユニセフにでもカンパした方がはるかに効率的だ。 ゴミに関して言えば、週に1回、たったの1時間半だが町内のゴミ拾いをしている。 タバコの吸い殻が数として多いが、実に様々なゴミが捨てられている。毎回 30 ㍑ビニ ール袋一杯になる。 月に1回、ゴム手袋をして、これを①燃せるゴミ、②包装関係のプラスチック・ビニ ールゴミ、③ビン・缶・ペットボトル、④埋め立てにする不燃ゴミと、4分別している。 私達の生活とゴミ問題は、バランスをとっていくしかない。し尿や灰の処理も含めて バランスがとれていた江戸時代にタイムスリップするわけにはいかないが、「物を追い かける生活」をもう少し見直す必要がある。 新しい楽譜がときどき手渡される。準備をされている方に感謝。 帰りの電車内の楽しみは、この音譜を追いかけることだ。メロディは?自分のパート は? 他のパートは? 縦の音の関係は? 作曲者の思いをすべて記号化して書かれている楽譜。これって、すごい! 楽譜をじっくり読むこと。それが、その暗号を解くことになり、その曲がここからス タートする。 「もしもピアノが弾けたなら・・・」という歌があったが、弾けないなりに口三味線 で楽しむことができる。臨時記号が多くて難しいところに集中すると、ノイローゼにな る。「まっ、いいか」で適当に流し、時間のあるときにゆっくり確認すればいい。 指揮者は、この楽譜をどう料理するだろうかと想像すると、ワクワクしてくる。 この合唱団には様々な方がいて、パート単位で CD にしてくれている。ものすごい労 力が必要と思いつつ、CD コピーも毎回出される通信も、まさに感謝、感謝です。 54 亡き友を偲ぶ 昭和35年卒 T−1 池澤 國夫 杉浦 武二 君 (平成 21 年 4 月 26 日逝去) 時の経つのは早いもので、彼が倒れたのは平成 19 年 11 月でした。 大学時代のゼミの旅行に奥様共々参加すべく、東京駅近くで草津行きのバスを待ち合 わせている時に突如昏倒し、救急車にて築地の聖路加病院に運ばれました。 途中、心臓マッサージ・人工呼吸をしたが、病院に着いた時にはほぼ心肺停止の状況 で、心臓カテーテルを挿入し救急医療を施されたと後に奥様より伺いました。 彼は日頃より若干心臓に問題があったが、本人もご家族もそれほど深刻な状態では無 いと考えていた様でした。 一命は取り止めたが心臓が弱った状態が 30∼40 分続いた結果、脳細胞に十分な酸素 が行き渡らなかった為に、脳細胞の一部にダメジが残り昏睡状態に陥り、その後目覚め ることも無く、聖路加・南部病院・ご自宅と、ご家族の懸命な看護が続いたがついに帰 らぬ人となってしまいました。 彼は昭和 35 年、横須賀高校卒業と同時に経済学部に入学、まもなく当時から伝統的 な学生サークルであったグリークラブに参加しバリトンにて活躍しました。 積極的な活動と持ち前のバイタリティーから、三年になるとマネジャーとして各種の 演奏会を成功に導き同部の発展に貢献しました。 当時葉山に「長者園」と言う由緒ある旅館があったが、たまたまご両親がそこの世話 をされていた関係でグリーの合宿で何度もお世話になったことは彼と共に懐かしく思 い出されます。 彼はクラブ活動のみならずいわゆる勉強の方も熱心であり、小生など試験の度にノー トを拝借するなどお世話になりました。 渡辺ゼミの一員としても活躍し、一時は大学に残り研究生活をと嘱望された様だが、 機会があり兼松(株)より声が掛かり同社に入社し主として石油畑にて活躍しました。 この間、ロンドンに二回、インドネシアへと海外勤務を経験し将来を期待され取締役 となり、後に子会社の社長としてその力量を発揮したが、経済状況・同社の石油を取り 巻く環境の変化もあり、彼が描いていた将来の構想とは若干異なる方向に向かわざるを 得なくなったことは若干心残りであったろうと察します。 仕事一途の生活が続いたためにOB合唱団への参加はそれほど古くはなかったが、退 職後まもなくバリトンの一員として活躍し、さらには現役時代の経験を買われて第四回 定期演奏会のマネジャーとしてこれを成功裡に導きました。 学生の頃から機会をとらえては酒を酌み交わし口角泡を飛ばして議論しあった彼を 時々懐かしく思う今日この頃です。 55 誠に悲しいことですが、長い間の看病の疲れからか、彼の後を追う様に奥様も昨年八 月に他界されてしまいました。 磯山 進 君 (平成 21 年 12 月 23 日逝去) 彼はOB合唱団には参加していなかったので、ここに述べるのはいささか不適当かも しれませんが、私ども 35 年卒の学生指揮者であり、且つ当団の大連・イギリス演奏旅 行の際には貴重な寄付を戴いていたこともあり、ここに投稿させて頂きます。 彼は高校時代から積極的に音楽活動をしており、合唱団のリーダー的存在であると共 に、一時臨時メンバーとして東京都交響楽団にてホルンを吹いていました。 経済学部入学と同時にグリークラブに入部し、同期の中心的リーダーとして我々を指 導して頂きました。 二年になると、副指揮者としてリーダーグループに入り、三年では正指揮者として各 種演奏会・演奏旅行などにて名指揮者振りを発揮し、グリーに磯山ありとの名声を博す に至りました。 卒業後一時、横浜グリーに出入りしておりましたが、その後、種々の理由から合唱活 動から離れてしまいました。 彼の素晴らしい音楽性を持ってOB合唱団にても活躍をと願っておりましたが、それ もかなわぬままとなってしまいました。 四年程前に「食道がん」の手術後、体調を崩して入退院を繰り返していましたが、最 近は元気になり、亡くなる三日前には彼の所属する宗教団体の集まりに参加する程まで に回復していたとのことでした。 平成 19 年夏、ベースにいた椙本君を偲ぶ会の際には元気な姿を見せてくれましたが、 それが我々同期の仲間が会った最後となってしまいました。 去る 1 月 11 日、東大和市ハミングホールにて彼の属していた宗教団体主催の追悼式 が開催され、5 人の同期で列席しました。 合掌 56 編集後記 潮音OB23号の編集に当たり、23名の方から原稿をお寄せ頂きまして、本 当にありがとうございました。 今回の23号は、特にテーマは定めなかったこともありますが、皆様から多方 面に渡って幅広い話題をご提供頂きまして、我が合唱団のメンバーの皆様は、本 当に個性豊かな方々が多いと、認識を新たにしております。 OB合唱団や合唱活動、音楽とのふれ合いに関するテーマが約半数でしたが、 あとの半数は健康、旅行、趣味、随筆等本当に盛り沢山なものとなりました。 今回も多くの写真を挿入して、出来るだけ親しみ易い会報に仕上げたつもりです。 これからも団員の皆様に、楽しく自由な意見交換の場とし、色々な話題を提供 して行きたいと思います。 次回の潮音OB24号は、本年 10 月 17 日の第10回定演の後、定演特集号と して発行を予定しています。次回も皆様方からの沢山の原稿をお待ちしています。 矢川 記 57 潮音OB23号 発行日 : 2010年5月15日 発行元 : 横浜国立大学グリークラブ OB 合唱団 編集委員: 矢川 一義、 小柳 敏男、 藤澤 秀夫、 鈴木 重方 58 潮音 OB 編集委員会
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