ル.コルビュジエとモダニズムの時代

L-C とモタ
ニス
ムの時代
030125
事務局長の中川さんからモダニズムの時代とル・コルビジュエについて語ってくれの課題をもらいました。
今日初めてお目にかかる方もいらっしゃいますが、J.L.C.誕生の経緯やこれまでの経過などにつきましては既に事務局長からお聞き下さってい
るものと勝手に解釈させていただき、早速課題に入らせていただきたいと思います。なにせワインの業界と物流の業界で生活を致して参りまし
たただの芸術好き人間にすぎませんのでどうかそのお積もりで笑ってお聞きいただければと存じます。
モダニズム
「建築の歴史」教科書風にぶっきらぼうに言いますと、1907 年のドイツ工作連盟からスタートし、第 1 次世界大戦中の前衛運動と戦後の混
乱期に理論化され 1925 頃にほぼ確立されと言われています。
それまでの歴史的様式や伝統的慣例を完全に無視し、合理主義、機能主義、実利主義にのみ立脚して、建築を通して社会や文化までも再構築
しようという態度、ないしは考え方、一種のイデオロギーと呼ぶべきものと考えられます。このままでは、ああそうですかになり全然面白くも
楽しくもありませんから、少しそのよって来るところとか、背景をお話しさせてもらおうと思います。
その時代と直前の時代
時代は 20 世紀初頭ですが、その直前は正に 19 世紀末、ご存知の通りルネッサンスからざっと 300 年、フランス革命からこれもざっとです
が約 100 年経った時代でありますが、モダニズムを知る背景の背景としてほぼ 1870 年頃からの時代をさーっと見ていきたいと思います。
音楽の世界
音楽では後期のロマン派が最後の超大型の花を咲かせた、(ワーグナーびいきの私としましては)1976 年「指輪全曲」のバイロイト初演を頂
点に、音楽史を通して一番高揚した時代と思っています。また 1885 年にはマーラーが「さすらう若人の歌」を発表し、
「大地の歌」に至る壮大
な作品群でロマン派の役割を果たし尽くした感じの時代でもあります。
1988 年にガブリエル・フォーレが残しました至高にして不朽の名作「レクイエム」は(実は私が死んだら必ずかけてくれと、あそこにおり
ます家内に約束させている音楽なのですが)
「ロマン派の音楽への鎮魂のまことを捧げる音楽でもあった」と言いますと失礼とも、不謹慎ともお
叱りを頂くと思いますがタイミング的には正にその通りと思えるのです。
ワーグナー、マーラー、そしてブルックナーの後に続くこの時代の作曲家はこの先どう行けばいいのか何を書けばいいのかと随分困っただろ
うな、大変だっただろうなと感じられます。
しかしその道は見つかった、拓けたということは皆さんご存知の通りです。兆しは今から思えば少し斜に構えたと言いますか、皮肉屋ともと
れるエリック・サティの 1888 年「ジムノペディ」あたりからなのでしょうが、本命のクロード・ドビュッシーはローマ大賞を何度も断られて、
1884 のカンタータ「放蕩息子」でローマ大賞は得ましたが、1894 年の「牧神の午後の前奏曲」まで待って一気に名声を獲得することになりま
す。しかしドビュッシーにとりましても私たちにとりましても待った甲斐十分以上にあったことになります。
1902 年オペラ「ペレアスとメリザンド」に至り、ローマ賞どころか全世界から現代 20 世紀音楽への道を完璧に拓き切った芸術家としての永
遠の栄誉を得ることになり、ヴァレーズ、ウエーベルン、ベルク、バルトーク、コダーイ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコ
ーヴォッチ、ペンデレツキーへと繋がってゆくことになるのですから。
ちょっとわき道にそれますが、ドビュッシーから 100 年、現代の現代音楽とは変な言い方ですが、正直に告白しますとこれにはいささかの閉
塞感を抱いていました。1954 年「主なき槌」で圧倒的な評価をえましたピエール・ブーレーズも 1960 年の「マラルメの肖像」以後は(指揮
者としての活躍こそ大変立派ですが)新しい作品の発表を知りませんでした。殆ど作曲を止めたのだろう、手詰まりで指揮者に転向したのでは、
なんて実のところは思っていましたところが、1984 年の作という「デリヴェ 1、デリヴェ 2」
(「偏り」とでもとりあえず訳しておきますが)
その「デリヴェ 1、デリヴェ 2」を彼自身の指揮で聞く機会があり、これには感心致しました。
丸くなった彼の風貌に合わせた訳ではないのでしょが、音楽の折り目の角がとれた感じで楽しく聞かせられました。芸術家と言うものは偉い
ものだなあ。道なき道をよくも切り拓くものだなと感心致した次第です。
ちなみにその夜のプログラムはドビッシーの「ハープと弦楽器の為の舞曲」、この「デリヴェ 1、デリヴェ 2」
、最後にアーノルド・シェーンベ
ルグの 1912 年の作で、室内楽と声の為のモノドラマ「ピエロ・リュネル」op.21(月に憑かれたピエロ)が据えられていまして、ソプラノに
は声に張りと力があり日本では 15 年位前にワーグナー歌いとしてレコードで紹介されましたので、覚えておいでの方も多いと思いますがアニ
ヤ・シリヤが無調の上特殊な発声を求められるこの難曲を(聴くほうにとっても難曲なのですが)これは「やっぱり傑作なのだ」と分からせて
くれる様に見事に歌いきって喝さいを浴びておりました。
絵画の世界
絵画の世界では 1874 年に第 1 回印象派展が開かれていますから正に印象派の時代と言うことになりましょうが、早くも「後期」と言う接頭
語が付く時代に入っています。
画集でしか見たことがありませんが 1890 年台前半のセザンヌに「赤いチョッキの少年」
、98 年頃の「浴みする女達」などは 20 年後のパブ
ロ・ピカソの問題作「アヴィニオンの娘達」の創作を予告しているように思えます。
また 1895 年には私たちは既にムンクの「叫び」を知ることになります。豊饒と言うべき印象派の時代に絵画の世界でもモダーンの確実な足
音が聞こえてきている時代であったなあ、そしてそれはセザンヌからだったなあと思います。
絵画はそれまでバロック、ロココ、新古典、ロマン、とほぼ一直線に流れてきていましたものが 19 世紀の中葉以降は後期印象、象徴、ナビに、
20 世紀に入りましてからはフォーヴ、キュイーヴ、エコール・ド・パリ、シュール、ダダ、抽象と一気に絵画表現が多様化致しましたからセザ
ンヌからのストレートな影響や繋がりではありませんが、マチス、カンディンスキー、シャガール、ブラック、デュシャン、モディリアーニ、
レジエ、エルンスト、クレー、モンドリアン、ダリ、ポロック、フォートリエ、ニコルソン、サムフランシス、デクーニングと言った素晴らし
い芸術が既に残されていまして、130 年間豊作、ワイン屋風に言いますとエクセレント・ヴィンテージが 130 年連続ということになります。
彫刻
急いで彫刻を見てみましょう。これはもうオーギュト・ロダンでしょう。1877 年の「青銅時代」に始まり、
「歩く人」などの習作を経て、1885
年、英仏 100 年戦争に題材を求めた「カレーの市民たち」
、80 年から生涯をかけての「地獄の門」
。
「地獄の門」は「考える人」
「接吻」と言った凄い副産物まで生んだ恐るべき傑作だと思います。ロダンの死後最終的に鋳造が行われるに際し
て日本人が関与したと聞くだけで感激に震える思いがします。
写実とはこう言うことと示し切り、後に続くブールデルによって有名な「ヘラクレス」や「果物婦人像」や(画集でしか見れませんが)ブー
ルデル美術館にある「マドレーヌ・シャルノーの像」が生まれ、それはすぐ先にザツキンやジャコメッティの登場を促しているように見ること
が出来ます。
もう 45 年位前の話しですから決定的に古い話で(本日ご出席のご婦人方の殆どはまだお生まれでなかったころになります)恐縮ですが、戦後
初めての大規模なブールデル展が日本縦断で開催され、福岡では久留米市に出来て間もないピカピカの石橋美術館で開かれました。体が震えま
した、2 回行きましたが 2 回とも震えました。躊躇うことなく私はブールデル党に一人で勝手に入党しロダンの素晴らしさを知りましてのちも、
モダーン彫刻の開祖はブールデル、従ってセザンヌに並びうる存在はブールデルと思い込んできました。今年ロダン美術館、ブールデル美術館、
マイヨール美術館を縦に続けて拝見するまではです。ブールデルに対する敬愛の気持ちにいささかも変化はありませんが、近代彫刻の開祖はロ
ダンであると思い知らされました。
マイヨールは既にもっとモダーンですからヘンリー・ムーアやイサム・ノグチの登場は間もないことが予感されます。彫刻の世界もモダーンへ
の大きな移行の時期であったんですね。
政治と経済
ヨーロッパは政治と経済はどんな具合だったのか、フランスはユーグ・カペーから 3 代の王朝をつなげて 800 年間一頃は殆どイル・ド・フラ
ンスだけの小さな国になったりしましたがやはり大した国だと思います。
大革命からも曲折しながら 100 年かかけて 1870 年本物の「共和国」になりました。ご苦労様でした、素晴らしいことです。
ドイツは 1871 年バイエルンを統合し統一ドイツを実現しましたが、まだ「帝国」の時代で波乱の予感。
イタリアも 1861 年何とか統一国家にまとまりますが、まだ「やっとの王国」。偉大だった古代ローマ帝国建設の英知や、ヴェネチア共和国の
見事なあの政治体制をいつ何処に置き忘れてしまったのか、今の私の大きな疑問です。今日の J.L.C.の課題が終わりましたら塩野七生にとんぼ
返りして勉強したいな思っているところです。
英国は流石にと言うべきか 1453 年カレーを残して大陸から撤収して以後、内部体制の改革を進めることで(つまり内輪もめだけは盛んに、
しかも真面目にやったと言うことなのですが)国際的には「立派な王国」になっていました。
ちなみに我が日本は明治維新の真最中で、1889 年の帝国憲法発布で「立憲君主国」の仲間入りなのですが、秀吉による統一は 1590 年です
からほぼ英国並みの結構感心な体制だったと私は愚見しています。やはり島国は統一、独立には有利なのでしょうか。
さてこんな中、つまり近代国家の形が整いつつあった中、ヨーロッパ列強はなにをなしたかを見てみますと国内では科学技術と産業の振興と
言うことで、科学は大変に成果を挙げることになり、これらはみな直接現代に繋がるテクノロジーです。いわく蒸気タービン、自動車、水力発
電、ディーゼルエンジン、新諸元素、精神分析学、ラジウム、ホルモン、etc.みな 1870 年から 1900 年の間の 30 年間に発明発見されたもの
です。サエンスでは西欧が完全に独走態勢に入ったと言うことになります。
一方外交政策はと言いますと「外」つまり地球の東と南に向けての徹底した「侵略と収奪」を行ったと言うしかありません。すさまじいのは
英国で 1842 の香港、1867 のカナダ、1877 のインド帝国、1878 キプロス、1901 オーストラリア、1907 ニュージーランド、1905 のアフ
ガニスタン!英国に比べやや小規模ながらフランスも 1830 のアルジェリアに始まり、1869 エジプト、1887 の仏領インドシナ連邦。
早い者勝ちの強いもの勝ち、本国の何倍もの植民地を(つまるところ武力)支配し、ただ同然の資源を持ち帰れば植民地の資源は枯渇し、本
国は豊かになりまくるのは当然でありましょう。
花の都パリ、世界中があこがれるパリの原形はナポレオン 3 世の時ですから 1852、土木技師でもあったオスマンのパリ大改造によるものと
言うことは周知のことでありますが、如何に皇帝の強大な権力をもってしても、お金がなくては出来ることではありませんが、お金は広大な植
民地から、そして産業革命の成果である産業資本の充実、金融資本の充実から不足なく供給されたものと考えられます。
しかしこのことはやはり新たな富みの偏在と多数の都市貧民層を生むことになってしまったのです。お金は下から上へも吸い上げられたと考
えられます。パリだけではなくマンチェスターでもフランクフルトでも大都会はみな同様であったと考えられます。オスマンの大改造から取り
残された裏路地の有り様は暗く、狭く、極めて非衛生なスラムだったと言われています。都市はなんとかしなきゃならない所まで来ていたのが
この時期でもあった訳です。
建築
主題の建築の世界はどうだったかを概観してみますと、それまで 1 本筋の建築様式(古代ギリシャ、古代ローマ、ビザンチン、ロマネスク、
ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココ)が 18 世紀後半に入り一気に多元化した時代で、主役は「新古典主義」19 世紀の後半に至るまで
国際的な広がりを見せました。
「新古典主義」の脇にはゴシック・リヴァイヴァル、第 2 帝政式、ギリシャ・リヴァイヴァル、ネオ・バロックが
並びます。
「新古典主義」にはパリ 1806 着工のパリ/エトワールの凱旋門とマドレーヌ聖堂 。
「第 2 帝政式」には 1857 のルーブル新館、1875 のパリ
オペラ座。
「ゴシック・リヴァイヴァル」には 1880 再建竣工のケルンの大聖堂、カナダの国会議事堂などなど。
加えてそれらの折衷、ミックス版、また周辺諸国の民族的伝統を加味した様式までがあるわけですからこの時代、良く言えば絢爛たる様式の
開花とも言えなくはありませんが悪く言えばくちゃくちゃの時代だったとも言えます。
恐るべきは音楽の都ウイーン、1858 から 30 年かけての大改造がありましたことはご存知でしょうが、環状道路にたち並ぶ公共建築物はま
さに各種建築様式の展覧会の様相を呈しているのだそうで、ぜひ訪ねたい街なのではありますが少し心配でもあります。
お気づきでしょうがここまでの建築の話はみんな大建築、公共建築物の世界でした。一般住宅、つまり民家はいったいどんなだったんだろう
と思い、調べてみようとしたのですが現在までのところちゃんとした資料を見つけることが出来ませんでした。都会では民家は建て替えられて
既にないのでしょうし、写真も今日程には普及していなかった時代ですからこれも少ないと来ますから、仕方なしにパリの裏町を描き続けた佐
伯佑三、荻須高憲の絵で見当を付ける事になります。
産業革命の成果、科学技術の目覚ましい成功が辛くて重い課題を次世代に残したとも言えるでしょう。民権運動、労働運動の進展、社会主義、
共産主義の拡大を背景に多くの建築家がモダニズムによる「社会と建築の全面的な変革が可能」と信じ、確信したのです。結果はそれがいささ
か楽観に過ぎたことを示してはいますが、今から 100 年前何という素晴らしい確信であったことか、何と素晴らしい楽観であったことかと今で
も私はそう思います。
さてモダニズムとは過去の歴史的様式や伝統的慣例を完全に無視し、合理主義、機能主義、実利主義にのみ立脚して社会や文化までも再構築
しようという態度ないしは考え方、一種のイデオロギーと冒頭にいいました。
このモダニズムの思想をきちんと体系化し、全世界に宣言、伝達したのは敬愛するル・コルビジュエが 1923 年に著した「建築をめざして」
であり、バウハウスの校長ワルター・グロピウスの「インターナショナル建築」であると言われています。
1907 年ル・コルビジュエは生まれ故郷スイスのラショードフォンにある美術学校で最初の先生ラプラトニエの奨めで初めてのヨーロッパ旅
行に出かけて、途中パリのペレの建築事務所に数ヶ月働き翌年には田舎へ戻っています。一時ドイツのベーレンス事務所に勤務、それからこれ
はル・コルビジュエにとってとても重要な「東方旅行」を行っていますが、結局 1913 年ラショードフォンで事務所を開設しています。彼にと
ってこの期間は学習の期間であり、その後の身の振り方についての大変な迷いの時期でもあったのかと推測する人もいますし、私もそう思って
います。
しかし 1917 にパリに移住する前の 1914 彼の発表した「ドミノシステム」なる「住宅の原形はかくあるべし」の論文はその後基本的に「住
宅」生涯のテーマとした彼の考え方の根幹をなすものであり、同時にモダニズム建築の根幹を成すものとして不朽であります。
それからの活躍は実に素晴らしいもので、J.L.C.仲間内では知らない人はいないのですが初めての方もいらっしゃるので、その代表作を画面で大
急ぎで一覧していただこうと思います。
そして最後にかくも偉大な天才が、世界中の建築家達からは最高の尊敬を集めながら、終生フランス政府からは公的な仕事を獲得できなかっ
た理由については彼が生粋のフランス人ではなかったからとか、フランスの保守的な学閥の壁が厚かったからとか、彼のあまりに過激とも言え
る攻撃的姿勢が政府機関の反発にあったからとかが言われもし、私もおよそそんなことかと考えていました。しかし最近読みました東秀紀さん
の「荷風とル・コルビジュエのパリ」に紹介されているヴァレリーの言葉に新しいヒントを得ましたので紹介致します。
ヴァレリーが 1895 年に発表した建築論「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法」と 1921 年の論文「エウパリノス」にじかに触れる事が出来ま
せんでしたが、これらは共にル・コルビジュの建築芸術論「建築をめざして」のバックボーンをなすものとして、その後も彼の愛読書であった
とそうです。
「建築をめざして」に於いてル・コルビジュは「機能を満たしているだけで建築は美しいのではない」、「形態が持つ立体としての幾何学的秩序
と調和が人を思索させ感動させるもの」といっていますからは建築を単なる機能主義者や工場生産によるプレファブ礼賛者でないことは既に明
白です。
しかしあくまでも優れた建築を「もの」としての崇高さにのみ求め、それに関わる人間の心や魂や精神に触れていないとことを東さんが指摘
されています。またル・コルビジュが贈呈した「今日の装飾芸術」への礼状の中でのヴァレリーの「私は人間は過去と共に生きてゆくもの」と
言う言葉が改革や前進のためには過去の一切をためらうことなく切り捨てる姿勢を婉曲に指摘したものと述べられています。端的には 1925 発
表の「ヴォワザン計画」はパリっ子の心情を無視したもので、とても受容出来ないのではないかと言う指摘なのです。
これはこれまでの佐々木さんのジョセフィン・ベーカー物語、多田羅さんのアイリーングレイ物語、烏田さんのシャリオットペリアン物語、か
らもヴァレリーの指摘もまるで見当はずれではないなと思われます。
1922 に「300 万人のための現代都市」案発表
格子状の道路網、ピロティで支えられた 200mの十字形超高層ビル、低層の集合住宅を組み合わせた田園都市計画モダニズム建築家に喝さいを
あび、共産主義者からは資本主義的、ブルジョワ的、ファシスト的と非難、市民からは非ヨーロッパ的の非難。ドイツ野郎!
1930 に「輝く都市」案発表
階層的な都市構成を捨て、教育、ビジネス、交通、ホテル、大使館、」住宅、緑地、軽工業、倉庫、輸送、重工業等を用途別、機能別に並べた線
形都市に転じた。
1923「建築をめざして」発表、1925「ヴォワザン計画」発表、1931 サヴォア邸の完成、大戦中の隠遁生活をへて 1945 マルセイユ再開発に
おけるユニテ・ダヴィタシオンに始まる怒濤のような活躍と実績に繋がるのですが、これらにつきましてはまた機会をみてお話をさせていただ
ければと思いますし、会員さん各位のお話も是非承りたいものと願っております。