ニャンたる音楽 ジャン=クロード・レーベンシュテイン『猫の音楽』をめぐって 森元庸介 2015 年 2 月 27 日 於熊本 フランスにジャン=クロード・レーベンシュテインという一風変わった美術史家がいる。セザ ンヌ、マチス、ピカソといった近代美術史の王道について書いたりもしているのだが、教授資 格は古典語で取得。博士論文は、一般にはほぼ無名の 18 世紀イギリスの画家アレキサンダー・ カズンズを、ルネサンス以降の模倣論の伝統に位置づけたむやみやたらと詳しい大著で、本人 によれば「博士論文という形式でゲームをしかけたのだ」そうだ。個人的に出会す機会のいち ばん重なったのはパリのシネマテークである。「最近、『老子』を訳したんだよ」——「そのため に中国語を勉強なさったのですか」——「うん」——「大変……じゃなかったのでしょう、きっと?」 ——「うん、そうでもなかった」 。 ひとを喰ったようではあるのだが、送り出される仕事はどこまでも厳密だ。 そんなレーベンシュテインの少し前の著作、『猫の音楽』を、おもしろがってくださる編集の 方との出会いにも恵まれて、昨年、力不足を承知のうえで翻訳、上梓した。 いまでこそひたすら「カワイイ」猫だが、18 世紀に至るまで、ヨーロッパのイマジネールにお いて猫はずいぶんと邪険に扱われてきた(実際、『猫の音楽』が掲げる図版の猫たちは決して可 愛くない) 。その核心に「猫はすぐれて淫蕩な動物である」という思い為しがあり、その愛の営 みにともなう鳴き声が音楽のなかで「ノイズ」(あるいは「シャリヴァリ」)として表象される ことにもなった。とはいえ、それは人間が自身の性愛に対して抱える明言しがたい感情の裏返 された投影なのでもある。 加えて、レーベンシュテインは、18 世紀フランスの文人モンクリフによる滑稽本『猫』を導き の糸としながら、ヨーロッパとアジアのあいだで、理解すること=聴き取ること(entendement) がどれほどまでにすれちがうものであるかを軽快に、繊細に、そして少しく意地悪に指摘して ゆく。 「異文化コミュニケーション」という言葉がほとんど虚ろになりそうな昨今であるけれど も、そもそも「理解」って何だろうと疑ってみて、むしろ呼吸の余地が開けたりはしないだろ うか。 書物のうちに取り上げられた音楽、図版、なによりテクストを手がかりに、終わりゆく(?) ヨーロッパならではの反時代的な知性が一筆描きした覚醒夢を眺めてみたい。
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