東京都立拝島高等学校 松岡健太郎

「共育」実践―美しい未来の共同制作
東京都立拝島高等学校
芸術科(美術)教諭
松岡健太郎
「教育」は「共育」である、との至言があります。
私がここに書かせていただくのは、美術教師として生徒と共につくり学んだ、
ささやかな作品制作の記録です。
それは、授業の一部として毎年制作している「貼り絵」形式の共同制作です。
教員になって9年。前任校でも現任校でも、この取り組みは毎年必ず実践してき
ました。現任校においては9月下旬の文化祭での発表・展示を前提として、1学
期末から約1ヶ月の授業をこの共同制作にあてています。年をおうごとに作品
の規模は大きくなり、昨年はベニヤ板約24枚大の作品をふたつ、それぞれおよ
そ縦8メートル、横6メートルという巨大画面となりました。作業は小指大程度
の小さな色の紙(ラシャ紙)をちぎり糊で貼っていくという、極めて単純なもの。
参加生徒は、全学年(1年生から3年生)の美術科目を履修している全生徒。そ
こに放課後は、履修していなくとも手伝いたいという“ボランティア”の生徒や
美術部の生徒が加わり、総勢200名を超える制作参加となります。この方法で
巨大画面に絵画を表現していきます。
この共同制作で私の貫いてきた方針のひとつは、題材を古典に取材するという
事です。今までの作品例は、クロード・モネ《日傘をさす女》、ドラクロア《民
衆を導く自由の女神》、葛飾北斎《冨嶽三十六景》、レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖
アンナと聖母子》
《最後の晩餐》
《白貂を抱く貴婦人》、雪舟《秋冬山水図》など、
洋の東西を問わず古典的傑作を生徒と共に選定してきました。そこには当然、平
常の鑑賞学習の内容が大きく関わります。日本での巡回展で実際に鑑賞した時
の感動、作品誕生の背景を授業で知ってから大いに高まった関心・・・・・・。題材決
定の動機は毎年様々ですが、生徒は「昨年よりさらにいいものをつくろう!」と
大いに意見を述べてくれます。生徒と共に今年の作品を何にしようと考える時
間は私にとってこの上なく幸せな時間です。古典に題材をとる事は、単に復古的
な美術史を教授したいからではありません。大きく言えば、今日までに世界に生
まれた具体的な作品という美と徹底的に向き合い味わうことで、これからのあ
るべき文化創造の形を探るきっかけを得るためです。実際、美術分野に限らず高
校生の古典離れは深刻です。それは言い換えれば、私たち大人が本当に古典の美
を伝えられていない、味わえていない、その裏返しではないでしょうか。シビレ
エイは自らがしびれていからこそ触れるものを皆しびれさせる、と言います。教
壇に立つ私自身がどの程度人類の生み出した美にしびれているかが、生徒に真
の感動を伝えられるかのバロメーターに違いない。必然、1学期に決めた題材が
ヨーロッパの名画だった場合、実物の研究鑑賞を目的に、夏休み、私自身がイタ
リアやフランスに訪問することもしばしばです。
私の今までの赴任校は、前任が肢体不自由養護学校、現任が全日制普通科高校
です。率直に言って、決して積極的に美術を専攻した生徒が多数いるわけではあ
りません。私事で恐縮ですが、私が美術教師の道についたのは自らの高校時代の
恩師(美術教師)によるところ絶大なものがありました。先生は絵の下手な生徒
と上手な生徒に対し、決して態度や指導を変えなかった。一人の作家として最高
の美の創造を目指す姿勢を、どの生徒にもわけ隔てなく見せてくれていました。
そんな先生の“後ろ姿”と“作品”に、高校生の私は文字通りしびれたのです。
「貼り絵」の手法そのものも、この恩師の実践が淵源です。美は特別なものでは
なく、あらゆる人の感性に訴えかけるものであるはずだ。高校時代からの私の信
念を、教師になって出会った生徒達が裏付けてくれました。手先の不自由な生徒
も、口やひじなど他の身体の部位で懸命に紙をちぎり、丹念に糊付け作業に取り
組みました。また、
「絵を描くのは苦手」と授業中渋い顔をするのが常の生徒も、
不思議と「貼り絵は楽しいから」と友人を誘い放課後遅くまで作業に取り組む例
が毎年必ずあります。
これらの生徒の姿は、あらためて私自身にこの「貼り絵」共同制作が持つ意味と
特質を教えてくれたように思います。第一に皆が参加できる「開放性」です。一
滴の絵の具も使わない貼り絵に、筆裁きの上手下手は無関係です。紙をちぎって
貼るという単純作業は誰でも気軽に取り組めます。第二には「全体感を培う」こ
とです。巨大貼り絵は数十メートルの離れて鑑賞するもの。当然遠くから見てど
う見えるかという、色の調和を考えながら制作しなくてはなりません。貼ってい
る色が赤という色でも、画面全体では赤とは違う色の効果が生じる(並置混色の
原理)。この全体感は、こと美術に限らず社会における人間の生き方にも関わっ
てきます。第三に「確かな手ごたえ・達成感がある」作業である点。現代のあま
りにも進歩したデジタル文明社会で、もはや子どもが努力相応の結果を得る体
験の場は少なくなってきている気がします。美術教室にもパソコンで絵を描く
実践があふれる中、手を汚して貼った分だけ画面が広がる“アナログ”なこの作
業に、生徒はむしろ新鮮な体験をしています。そして第四に「団結」の体験。巨
大画面を埋めるのは数十万枚の色の紙片。一人の天才の成せる技では到底あり
ません。しかし皆の力で完成した暁に生徒が流す涙は、決してこの団結という語
が死語ではない事を思い出させてくれるのです。
そして最もはずせない一点、それは教師自身も生徒と共に制作者の一人となっ
て苦楽を共にする事です。実現しようとする美の前に教師と生徒の差異はあり
ません。否、何より教師自身が本気になる以外生徒が本気になる術はないからで
す。その意味で、私の教育実践は生徒と共に苦しむ過程であり、私自身が成長さ
せてもらう「共育」の過程です。
「貼り絵自体は大変だった。・・・・・・この辛さは
『やればできる』ということを私に教えてくれた」
「美術はあまり好きな方では
なかった。でも・・・・・・やってみたところすごいはまってしまった。・・・・・・完成し
た時は本当に感動した」
「芸術の、人を動かす力は凄い。・・・・・・名画を描いた人
も、それを見た私たちも、貼り絵を見た人も、全て『感動』したから今回の事が
実現したのである」
「(この)経験や教え、想いは私を成長させ、これからも励ま
し、叱咤し、誇りとしていくだろう」これら、生徒達の卒業文集の文章こそ私の
誇りです。
文化祭前には必ずと言っていいほど、大勢の卒業生が差し入れを片手に作業の
手伝いに母校へ来てくれます。昨年はこの貼り絵の取り組みに地元市役所の協
力を得て、市庁舎での公開展示が実現。東京新聞はじめ多くのマスコミに生徒の
労苦の結晶を報道していただき感謝の限りです。今年の題材はレオナルドの《モ
ナ・リザ》と東洲斎写楽の大首絵《二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木》。
《モナ・リザ》制作500年(1503年)と江戸開府400年をテーマに東西
の美の競演を目指して、夜遅くまで美術室の明かりが消えることがありません。
互いに向き合うのではなく、共に並んで未来を見つめる。その意味で生徒は、
美の共同制作者であり、同志です。誰もが感動する美で世界があふれていく時、
皆が希望する美しい時代が到来するに違いありません。私にとっての「共育」実
践とは、その美しい作品・美しい未来を生涯かけて生徒という同志と共同制作す
ることなのです。