「陽は昇り、陽は沈む」

フランクフルター・アルゲマイネ紙
2014 年 4 月 7 日付
「陽は昇り、陽は沈む」
日中両国において、両国の戦争を予見する人々は多い。紛争の焦点
は東シナ海の諸島だが、その背後には、両国ともに二千年にわたる
優越感、屈辱、報復、そして民族の尊厳をめぐる闘争の歴史がある。
フォルカー・シュタンツェル博士
中国においても日本においても、日中間の戦争を予見する大衆文学が様々に存在す
る。そこでは、第一次世界大戦直前 1914 年頃のヨーロッパの状況との類型が示される
ことが多い。また昨年、英国の歴史学者クリストファー・クラークは第一次大戦前の
状況を、欧州各国の首脳が「夢遊病者のように」災厄に突っ込んでいった、と描写し
た。状況を見守るヨーロッパ人にとっても、現在の日中関係と 1914 年との類似性はそ
こでいよいよ歴然としたのである。
日中関係には三つの現象が特徴的であるが、それらはことごとく、民族の自尊心、
尊厳、傷つきやすさ、屈辱と関係している。もともと中国の歴史の殆どの時期におい
て、日本は自国の視野の外に位置する、どうでもよい島々でしかなかった。しかし日
本にとっては、二千年以上にわたり、中国が本質的な文化の尺度であった。その後 19
世紀には日本が近代化を進め、アジアの強国として中国に対し、それ以前は欧州諸国
にしか可能でなかったようなやり方で、二度の戦争をもって屈辱を与えた。その後日
本には 1980 年から 1990 年までの間、来るべき世界の「ナンバー・ワン」と見なされ
ていた時代があり、中国は 1990 年以来、貧困に喘ぐ共産主義の大帝国から、世界経済
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のナンバー・ツーにのし上った。1978 年に日中が国交を正常化して以来(訳注:国交
正常化は 1972 年、1978 年には日中平和友好条約締結)、二国間関係が着々と悪化し
てきた事実は、ここに特殊な問題が存在することを示すに他ならない。しかし、だか
らといって本当に戦争にまで至るのであろうか?
過去二千年の間、日中の兵が交戦したことは 5 回しかない。それは日本が島国であ
ること、また中国はどの王朝も大陸志向であったことに起因する。しかし、日中関係
の初期にはすでに喜ばしからぬ言葉が使われていた。中国の史書には、西暦 57 年の両
国間の交流が初めて記録されている。その際には、帝が「倭」の王に印を授け、臣下
にあることを示した。「倭」とは「矮小」な国、日本である。この蔑称は、現代の中
国人が「小日本人」あるいは「小日本」について語るときに今なお残響として聞こえ
る。
7 世紀から 9 世紀まで、中国は、日本を含む東アジア全体にとって文明の手本であ
った。文字、仏教、儒教的国家制度、法制度、建築、芸術、音楽、すべては中国から
受け継いだ。交易を行い、相互に訪問しあった。しかし中国が膨張政策を取った時期
に、文化的侵攻がいずれ軍事的侵攻になり得るという意識が日本で高まった。その頃、
日本では「帝」の概念を「天皇」として中国語から取り入れ、この天皇を、中国の帝
と同列に置いた。「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す。」あまりに大
きな隣国に対する、自己確認の行為であった。
日本への最初の侵攻は 1274 年と 1281 年に元朝下で行われた。おそらくは、日本が
黄金に満ちた国であるとの評判にそそられてのことであっただろう。蒙古襲来は阻止
されたが、脅威の認識は残った。幕府は、その後 150 年に渡り自らを中国の「封臣」
と呼ぶことにより対処する。この、政治的にはおそらく正しかった「封臣」の身分は
また、日本は独特、特別であるとの意識の形成につながった。神話によれば日本の天
皇家の起源は神々であるとされ、また建国以来一系の支配者であったことにより、し
ばしば王朝の変わる中国に比して日本が優れており、世界でも優位に立つという意識
の根拠となったとは言えまいか?中国はもはや手本でも脅威でもなく、いざとなれば
勝算さえあるように見えたのである。そうして 16 世紀に朝鮮半島の地で初めて中国征
服の試みがなされたが、これを中国は阻止した。しかしその後も、日本は特別である
という理念は、19 世紀、それまでの中国とは比べ物にならないほど大きな脅威であっ
た西洋の植民地主義を前に、日本の精神的な頼みの綱となった。これによってこそ日
本は、自尊心を揺るがされることなく徹底的な近代化を推し進めることができたので
ある。
19 世紀後半、日本は近代化の立ち遅れを挽回することにより、帝国主義的発展の遅
れも成功裏に取り戻した。1873 年、ビスマルクは日本政府使節団と夕食を共にし、そ
の席におけるスピーチで、ドイツや日本のような「小さな国々」が台頭するにあたっ
ては、国際法にとらわれてはならない、と述べたのである。国際法などというものは、
列強による抑圧の手段に過ぎない、と。果たして日本は、植民地主義の実現にあたり
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この助言に従い、さらに、妨げのない交易と天然資源へのアクセスによって繁栄が担
保されるという、西洋モデルのロジックにも従った。ここで第一の犠牲となったのは
朝鮮である。日本は 1876 年、それより 20 年前に米国が日本の開国を迫ったのと同じ
やり方で、朝鮮に開国を強いた。
1894 年、95 年には、朝鮮における影響力をめぐる中国との戦争に日本が勝利する。
これにより、日本は朝鮮を支配し、満州への道を固めたのみならず、台湾を手中にお
さめた。中国は、巨額の賠償金を支払い、港湾を開かなければならなくなった。中国
は、この屈辱を与えたのが同じアジアの一国であったことにより、とりわけ強く打ち
のめされた。1792 年に英国大使が訪中して以来、中国は百年にわたり、なんとか西洋
の攻勢に立ち向かうための手段を模索してきたのである。知識人や政治家は、中国を
「豊かで強く」するという「中国の夢」をしばしば掲げてきたが、それは常に、旧態
依然とした支配構造と文化的優越感に阻まれて成功しなかった。しかし日清戦争に敗
れた時、明治時代の日本がモデルとなり得るように見えたのである。そこで 1898 年、
中国政府は日本から、かつて対中国で勝利した当時の首相を招聘し、改革を率いる顧
問の座を提供しようとした。しかしこの試みも、保守勢力により芽が出る前に息の根
を止められることになる。
改革派の中国人は日本に亡命し、近代西洋の概念を日本語経由で中国語へと翻訳す
る作業を行った。1911 年の辛亥革命後、中華民国を立ち上げる孫文や、文学者の魯迅
は最もよく知られた例である。対日感情が悪化するのは、ヴェルサイユ条約により、
それまでドイツの植民地であった青島が、日本の委任統治領とされてからであった。
この決定は、第一次大戦では対独の協商側連合国として戦い、これで植民地を手中に
できると考えていた日本を怒らせたが、返還を期待していた中国も怒らせて、北京の
学生達が蜂起する五・四運動につながった。中国人は今日に至るまで、この蜂起を民
主的な独立への意思ののろしであったと称えている。日本は 1922 年には委任統治領を
返還したが、中国には自らの無力を前に怒りと妬みが残り、日本には中国を遅れた
「アジアの病人」とする蔑みが残った。
日本は 1905 年、日露戦争に勝利して、初めて非ヨーロッパの国がヨーロッパの国を
制し、さらに朝鮮を植民地とした。この軍事的成功を背景に、日本国内では、それま
で西洋からの挑戦を受けて立つために重要であった、上述の「日本の特殊性」という
信念も変化してゆく。1940 年代まで、アジアの諸国家を近代化へと導くのが日本の役
目であるという考えがここから生じていた。そして最終的に日本は世界全体を、天皇
を崇拝する「皇道」へと導かねばならないという考えが生まれる。この思想が日本を
第二次大戦へと、そして敗戦へと導くことになった。
政界のエリート達は、資源供給を確保するために、北東アジア地域および中国南部
を含む東南アジア圏へ膨張が必要だと考えた。その第一歩として、日本は「満州国」
として満州の「独立」を強制し、清朝最後の皇帝の子孫(訳注:実際は清朝最後の皇
帝本人)に傀儡政権を任せた。1937 年に始まった日中戦争では、1 千万人から 2 千万
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人の中国人が犠牲となった。1946 年から 1952 年まで、国際軍事裁判が東京や、参戦
した諸国で開かれ、化学・生物兵器の使用、南京大虐殺、強制労働、強制売春につい
て、1 千人以上が戦争犯罪および人道に対する罪により有罪判決を受けた。
西ヨーロッパで 1950 年代に始まったような和解への道の可能性は、1945 年以降の
日中間にあったのだろうか?そのために最も重要な前提条件は、和解への意思である。
しかしこれは東アジアには存在しなかった。中国は内乱状態に陥り、新しい中華人民
共和国は朝鮮戦争において北朝鮮側、ソ連側で戦った。また原爆が投下されたことで、
多くの日本人はすでに罰を受けたような気がしていた。さらに、日本では天皇が在位
したままであり、ドイツの「零時」にあたるような政治的な一新はなかった。
対日戦線において痛手を最も大きく被ったのは蒋介石政権下の中国政府である。さ
らに、中国の開放は、最終的には米国の対日勝利の帰結であった。それでも、毛沢東
の率いる中国共産党は、対日勝利を自分たちの手柄であるとした。今日に至るまで、
この対日勝利と、資本主義の搾取からの開放が、中国共産党の正当性を形成する二本
の柱なのである。台湾に避難した蒋介石政府の「中華民国」とは、冷戦下においては
日本は外交関係を維持していたが、(訳注:公式には 1972 年、中華人民共和国との国
交樹立で中華民国との国交は断絶)日本からの賠償金支払いも、謝罪も不要であると
し、蒋介石は「われわれは、憎悪には徳によって報いる」と述べた。
過去が再び議論のテーマとなったのは、日本と中華人民共和国との関係が正常化さ
れようという時であった。正常化への進展は「ニクソン・ショック」の結果見られた
ものである。米国と中国が秘密に接触をしていたことが 1971 年 7 月に明るみに出た際、
日本では、米国による安全保障に疑問が沸いた。そこで、できるだけ早く中国と和解
をする動きにつながったのである。すでに 1972 年には田中角栄首相が北京を訪れ共同
声明を発表し、1978 年の日中平和友好条約が締結されるに至ったが、この条約により、
人民共和国は賠償請求と謝罪要求を放棄したのである。その頃はまだ、日本において、
戦時中に存在した「軍国主義者」や「帝国主義者」と、今や平和と友好を求めてやま
ないと見られる日本の政治家を区別することは易しいようであった。周恩来首相は、
「数千年の歴史に比べれば、60 年の歴史など取るに足らない」と述べた。
廉価な産業製品の輸出を振興するという日本の開発戦略は、「アジア四小龍」と呼
ばれた東アジア、東南アジアの四カ国(韓国、台湾、香港、シンガポール)において
は着実に成果を上げていたため、このモデルを今度は中国にも適用しようということ
になった。鄧小平の改革・開国路線から日本ほど利を得た国は他にない。日本のアニ
メ映画、漫画、ファッション、ポップ音楽は、中国の若者に影響を与えた。今日では、
日本における外国人留学生の 60%が中国人である。日本で、英語の次に学習者数の多
い外国語は、中国語である。
それでも日本の民主主義体制と、中国の独裁体制の間にある政治的な対立は消滅し
なかった。日本と台湾の関係の深さをめぐって生じた 1980 年代初期の日中確執に続き、
中国側は、日本による「侵略」を否定する歴史教科書に対する批判を行った。これを
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受けて、日本は公式には初めて、中国を攻撃したことを認め、鈴木首相により正式に
悔悟の念が表明された。しかし今日に至るまで、日本政府の中に、先の戦争はアジア
を白人による植民地支配から守るためのものであり、戦争犯罪はなかったとする声が
ある。そして中国は、日本の過去を、そのときどきの政治的な状況に応じてカードと
して利用するため、そのような日本の主張を非難することも、しないこともある。
1990 年代初頭、天安門広場における虐殺事件に各国が反応したが、北京との関係を
真っ先に正常化させた民主主義国家は日本であった。その頃、過去の歴史は問題とは
ならなくなっていた。しかしそれが再び変化する。それは 1989 年 6 月 4 日の天安門事
件以降、そして東ヨーロッパに革命が生じて以来、中国共産党の正当性逸失が見られ
ており、これに対処するため、中国が公式の歴史観を変えたことによる。1994 年 1 月
には、中国共産党は「愛国教育」を全土の学校と大学に導入することを決めた。それ
以来、五千年にわたり高い文化を誇る、時代を超越し偉大な中華帝国という非歴史的
なイメージを植え付けている。この偉大な中華帝国は外国人の手により、「百年の辱
め」にあわされたが、今日では、自らにふさわしい正義を要求している、と。
博物館、記念碑、教科書、テレビ、映画などに見られる開放戦争の描写は、勝利者
の物語ではなく、犠牲者の物語として語られるようになった。このようにして、中国
の大衆の根底を流れる、自国民の被った艱苦についての道徳的な怒りの念は、西洋に
対してよりも、日本に対してはるかに攻撃的に向けられている。歴史描写が人為的に
操作され、国民の怒りが組織されることが数年間も続くと、日本に対する本物の怒り
と、演出された怒りとの境界線が分からなくなる。そして国民の気分そのものが、今
日では恒常的に批判的なものとなった対日政策の足場を固める根拠となっている。
さて、そのような中で、日本の戦争犯罪について謝罪した高位の政治家は枚挙に暇
がない。天皇さえもそこに含まれる。しかし謝罪の後にはまた別な高位の政治家が、
1937 年の南京大虐殺や、占領地における強制売春に関わる責任を否定するので、先の
謝罪の表現は意味を失い続けてきた。数年前から、東京の靖国神社がこの問題の代表
格となっている。国のために命を落とした日本人を祈念するこの地は、他国に見られ
る「無名兵士祈念碑」と似ていなくもない。かつてはここを、他国政府の代表者も訪
れていたものである。(ドイツ連邦政府が 1970 年に寄贈した樹木が、今も靖国神社の
境内に立っている。)しかし状況は 1978 年に変わった。神社側が、戦争犯罪人とされ
た 1068 人を合祀すると決めたからである。それ以来、日本の総理大臣が靖国神社に参
拝すると、常に外国からの批判が出るようになった。中国では、戦後ワルシャワを訪
問し贖罪に跪いた、当時のドイツ首相ヴィリー・ブラントの写真と、靖国でお辞儀を
する日本の首相の写真を対比させることが稀ではない。
中国の経済的、政治的影響力が高まり、東南アジアの国際機関における能動的な役
割が増大することは、1990 年にバブル経済が崩壊した後、停滞の時期を過ごしてきた
日本の不利に直結した。鄧小平により進められた平和的隣国政策は、30 年間にわたり
全ての隣国、重要なパートナーとの関係において実りをもたらしていた。しかしその
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政策も、2008 年、2009 年の世界金融危機からの影響にうまく対処して以来、中国の果
たす国際政治における役割が増大するにつれ、変化してきた。中国は自意識をますま
す高めながら、自国のような経済自由主義と政治的抑圧の組合せが、政治を司る一つ
のモデルでありえるのでは、と主張するようになったのである。
日中の論争の中心にあるのが、東シナ海に浮かぶ無人の島々である。日本語では尖
閣諸島、中国語では魚釣島と呼ばれる。1972 年、1995 年に中国が領有権を主張したと
きには、北京と東京は速やかに問題を収束させた。今日はそうではない。2013 年 2 月
(訳注:実際は 1 月、発表は 2 月)には、海上自衛隊の護衛艦が中国の射撃管制用レ
ーダーに照射され、さらに発砲されかねない危険な事態が生じたが、戦闘を回避する
ことができたのは、唯一、日本の艦長が冷静沈着に対応したからである。また昨年 10
月に中国政府は、尖閣諸島上に防空識別圏を一方的に設定し、外国の航空機は中国当
局に飛行計画を提出しなければならないとして、通告がなければ撃墜するとの脅しも
つけた。
これに平行して日中両国ではそれぞれに国内政治の状況が変化した。中国では、
2012 年 11 月に新政権が発足し「中国の夢」を実現させると約束した。日本では 2012
年 12 月末に政権が交代した。新閣僚の多くは、これまで表明されてきた日本の戦争犯
罪に対する責任を見直したいとの意向を持っている。安倍総理大臣が昨年 12 月に靖国
神社に参拝した後、北京側は全国人民代表大会において、国の記念日を二つ新設する
ことを決議した。一件は南京大虐殺の犠牲者を悼む日であり、もう一件は「日本の侵
略に対する中華民族の抵抗戦争勝利の日」である。
日中の世論調査によれば、両国ともに 90%以上が、相手国に対して良い印象を持っ
ていない。これを踏まえれば、1914 年のヨーロッパの状況が引き合いに出されるのも
不思議ではない。軍事的なグレーゾーンにおいて認識を誤ることによる衝突、あるい
は現地で相手と対峙した場合の自己過信、あるいは両国の首都においてさえも生じえ
る自己過信による衝突という危険性には現実味がある。しかし、現代の政治家は、ク
リストファー・クラークスが称した「夢遊病者」ではない。よく見える両方の目で見
据え、危険を熟知した上で行動しているのである。
著者は 2004 年から 2007 年まで駐中国ドイツ大使、2009 年から 2013 年まで駐日ドイ
ツ大使を務めた。
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イラスト説明:
中国式プロパガンダ:敵を憎悪せよ。防衛設備を着々と構築せよ。堡塁を強化せよ。
敵を壊滅させよ。(1937 年頃)
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