申命記31章~士師記3章

朝の15分があなたを変える。
心のごはん
2013年1月号
申命記31章~士師記3章
きょうのメニュー:申命記31章
「三つの恐れ」
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1月1日(火)申命記31:6「彼らを恐れてはならない」
これはモーセの死期が迫った時、イスラエルの民に残した激励の言葉です。人には三
つの恐れがあると言います。第1に、言葉や命令の恐れです。人の顔色や親の命令、上
司の言葉です。第2に、失敗の恐れです。
「もし失敗したら」
「もし負けたら」
「もし病気
にかかったら」と、万一のこと、マイナス思考に考えます。NHKの英会話の講師が「英
語上達法とは、完璧主義を捨てること」だといいました。第3に、死の恐れです。数年
前、教会員のある方が天に召されました。この方は親や兄弟もないため、牧師が身元引
受人になっていました。世的には孤独な方でした。いつも「イエス様、イエス様」と口
癖のように、主を慕い求めていました。物質的には豊かではありませんでしたが、神と
共に生きた人です。医者から白血病という診断を下され、いつどうなってもおかしくな
い状態とまで言われました。入院中に、
「何か心配はない?」と尋ねました。すぐ「何も
心配はない」と2度強調されました。ここに信仰者の強さを見ます。強さは肉体上のこ
とではなく、永遠のすみかを知っていることです。イエス・キリストは最後の敵である
死に勝利されました。このように、主イエスは死の恐怖から解放して下さいます。
◎ヨハネによる福音書14:27を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:申命記32章
「神の贈物なるいのち」
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1月2日(水)申命記32:39「わたしのほかに神はいない」
本章は単なる歌ではなく、モーセの信仰の賛美です。確かにキリスト者といえども、
試練に遭遇します。でも癒すお方でもあります。もちろん、この癒しは、失った手足が
ニョキニョキ生えてくることではなく、なくても前向きに生きることです。癒しという
と、派手なパフォーマンス(病気や障がいが治ること)だけを取り上げられがちです。
それも奇跡ですが、日々いのちが与えられ、前向きに暮らせることが最高の癒しです。
私はいつも死と隣り合わせの生活ですが、神の恵みは遠い場所にあるのでなく、もっと
身近な場所にあります。
NHKクローズアップ現代で、
食べたものが食道に入らないで、
肺に入るという、つまり、肺炎になって救急車で病院に運ばれる危険性を番組で取り上
げていました。むせる人が危ないといっていました。最近、よくむせるのです。この難
病の先輩者たちはタンを飲み込めないので、器官切開をしてタンを吸引します。そうい
う人を見ているので、まだイエスさまのお手伝いができるとは神の恵みです。いのちは
神の贈物です。すべての人に平等に、公平に与えられています。それをどのように生か
すかは私たちに委ねられています。きょうも 1 日いのちが与えられていることを感謝し
ましょう。
◎コロサイ人への手紙4:5を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:申命記33章
「偶然ではない」
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1月3日(木)申命記33:29「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろ
う」
この章にはモーセが臨終のとき、各氏族に語った祝福が記されています。私たちも今
日まで信仰が全うできたのは「下に永遠の腕」をもって支えた神のおかげです。最近私
は平凡な一コマ一コマの中に、どれだけ神の恵みがつまっているかを発見するようにし
ています。何か嬉しいことがあったら、キリスト者でなくても当然喜ぶでしょう。例え
ば、受験に合格したとか、昇給したとか、宝クジが当たったとか・・・・。毎日普通に子供
がランドセルを背負って学校に行ったり、ご主人が会社に行って、
「ただいま」と帰宅し
たり、家族が病気をしないで健康でいたり、交通事故から守られたり・・・・そういう当た
り前の事が実は偶然ではないのです。学校も会社も戦いです。学校や会社がどういうと
ころと知れば知るほど奇跡です。この世は「強者の理論」
「数の理論」が支配しています。
新聞で悲しい事件、暗いニュースが多いです。いくらこちらが気をつけていても、相手
に何をされるかわからない時代です。だから、毎日を普通に過ごせるなんて神の恵みで
す。自分の力でここまでやれたのだと高慢になってはなりません。今あるは神の恵みで
す。神は「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」
(へブル13:5)とい
います。
◎Iコリント15:10を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:申命記34章
「生は使命のある証」
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1月4日(金)申命記34:5「こうして、主の命令によって、主のしめべモーセは、
…死んだ」
モーセは120歳でありながら、目もかすまず気力も衰えなかったとは驚くべきこと
です。しかし、にもかかわらず死んだのです。彼の死は老衰によるものではなく、使命
が終わったのです。この世の医者は人が死んだら病名をつけます。しかし、聖書は使命
の終わりが師だといいます。人には、それぞれ使命があります。赤ちゃんにも、ご老人
にも使命があります。その使命には、生きている使命(生存的使命)となすべきことの
使命(職務的使命)があります。ガン患者の施設で看護師として働いている方からお話
を聞きました。看護師の立場から、
「日頃から自分がどうしたいか」を決めておくことが
大事だといいました。例えば、ガン告知や延命治療などしてほしいかなどです。言い換
えれば、死への備えということです。昔は末期患者が家で亡くなり、死が身近にありま
した。今は病院で亡くなる人が多いです。死をタブー視するのでなく、正面から向き合
うのです。24年前に医者は私に正直に病名(脊髄小脳変性症)を宣告して下さいまし
た。患者に告げないで隠すことがあるようです。隠さないで正直に告知されたのが、自
分にとっては良かったです。
なぜなら、
前向きに難病と向き合うことができたからです。
◎ピリピ人への手紙3:20を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア1章
「身につけたい3つのこと」
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1月5日(土)ヨシュア記1:8「この律法の書を…昼も夜もそれを口ずさまなければ
ならない」
ここは指導者の資格が記されています。
指導者の第一の資格は、
忠実であることです。
ヨシュアはモーセに忠実に仕えました。だから「従者」と記されています。主イエスも
たった3年間の公生涯のために、30年間の準備期間を要しました。ナザレの大工の息
子として、私生活の中で両親に服従しました。下積みの生活で、神に仕える前に、目に
見える両親に仕えたのです。指導者の第二の資格は、みことばです。8節参照。信仰生
活は隠れたところで、いかに神と交わるかで決まります。教会を出て、ひとりになって
からが本当の戦いです。家庭ではだれも号令をかける人はいません。力の源泉、それは
神との深い交わり(密室)から生まれます。ニーバーの祈りに「変えなければならない
もの」があります。新年は密室から。必ずあなたが変わります。指導者の第三の資格は、
明確な神からの召命です。よく修養生は卒業間際に「第一線でやっていけるのか」と、
自分に失望するそうです。そのとき、召命経験が決め手だといいます。自分や人ではな
く、神の選び・神の召命が最終的にものをいいます。リーダーは孤独です。
「私たちに資
格があるか」ではなく、
「私たちは召されているか」ということです。Iテモテ1:12
参照。
◎ヨハネによる福音書15:16を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア記2章
「聴従の信仰」
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1月6日(日)ヨシュア記2:21「おことばどおりにいたしましょう」
イエス・キリストの系図(マタイ1章)には、4人の女性(タマル、ラハブ、ルツ、
ウリヤの妻)が記されています。そのうち少なくとも 2 人は異邦人だといいます。異邦
人であり、遊女であるラハブが聖書に名を残すことになった理由がここに記されていま
す。彼女は、真の神を「うわさ」で聞いていましたが、
「あなたがたの神、主は、上は天、
下は地において、神であられるからです」
(11)と、神ご自身に従ったのです。ラハブ
の偉いところは、
「うわさ」に止まらず、神に従ったことです。このように信仰とは、頭
の体操ではなく、イエス・キリストに従うことです。ヘブル語の「聞け」
(シャマー)に
は「従う」の意味もあるとか。つまり、聴従です。どんなに「教会はいい所だ」
「聖書は
すばらしい」
「宗教は役立つ教えだ」と頭で理解しても、実際に決断しなければ信仰とは
いえません。教養を身につける意味で神学や聖書を研究する学者は多いです。それはち
ょうど、レストランのメニューを外から眺めているのと同様です。それだけでは栄養に
なりません。実際に、食べなければ。礼拝で何と多くの方が頭の体操をしているでしょ
うか。今迷っているなら、思い切って神に従うことが祝福です。
◎ヤコブの手紙2:17を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア3章
「聞く耳をもて」
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1月7日(月)ヨシュア記3:3「そのうしろを進まなければならない」
「契約の箱」とは神の臨在の象徴です。ヨシュアは「契約の箱」をイスラエルの民の
前に置いて前進するように命じました。4節の「2千キュビト」とは約900mです。
これは常に神を先頭に置く生活です。民の前にはヨルダン川という障害物が立ち塞がっ
ていましたが、神を先頭に置いたとき、無事ヨルダン川徒渉に成功したのです。私はよ
く会員から「ご相談」を受けます。相手の悩みをひと通り聞いた後、
「あなたはどうした
いのですか」と尋ねます。すると「私はこうしたい」
「私はああしたい」と必ず意見や計
画を持っています。それは「ご相談」というより「ご報告」です。人の前の出方が神の
前の出方です。神へのご相談とは、心をニュートラルに、白紙の状態で神の前に出るこ
とです。ある牧師が奥さんに「お父さんは人と話している時、いつも何かを教えるよう
な話し方をしているわね」と言われたといいます。神学校でも教会でも家庭でも「教え
る者」だったのです。語る立場・教える立場にある者は要注意です。これは一種の職業
病です。上に立つ者ほど、現場の声・庶民の声を聞く必要があります。信徒は牧師にい
いにくいです。だから、牧師の方からフィルターをかけないで、謙虚に聞く耳をもちま
しょう。
◎Iペテロ5:5を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア記4章
「キリストの証人」
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1月8日(火)ヨシュア記4:7「これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ」
イスラエルの民がヨルダン川を渡り終えた時、すぐにしたことはヨルダン川から12
の石をとり、それを記念として泊まる所に据えたことです。記念の石を据えた理由は、
主の契約の箱の前でヨルダン川の水がせきとめられたという神の御業を永久に記念し、
それを子孫へ信仰の遺産として語り伝えるためです。クリスチャンはだれでも信仰の記
念となる石、つまり証を持っています。ヨルダン川を渡った者だけが石を持ち来たるよ
うに、罪から救われた経験者だけが証人になれます。子供や孫に何を残すよりも、信仰
の遺産、霊の財産ほど貴重なものはありません。クリスチャン2世、3世になると、お
母さんのお腹の中にいるときから教会に通っています。だから、明確な信仰体験はあり
ません。クリスチャン1世が涙と鼻水を流して証をします。ああいうふうにならなけれ
ば、救われていないと劣等感やコンプレックス悩む必要はありません。救いの体験はみ
な違うのです。型にはめる必要はありません。果たして、自分は救われているのだろう
か、と落ち込む人がいます。
「それでも、やっぱり、クリスチャン」に変わりはありませ
ん。一時的な感情や気分に流されてはなりません。あなたが救われた事実は変化しませ
ん。
◎Ⅱテモテ3:14を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア5章
「おごるな」
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1月9日(水)ヨシュア記5:15「あなたの足のはきものを脱げ」
ヨルダン川を無事に渡ったら、今度はエリコの城が障害物として立ちはだかっていま
した。主はまずヨシュアに「足のくつを脱ぎなさい」と命じました。モーセもそんな経
験をしました(出エジプト3:5)
。
「くつを脱ぐ」とは、自我に死んで神のしもべとな
ることです。当時、奴隷はくつをはいていなかったと言われています。私たちはこの神
体験が6章(エリコの城)の直前であることに注目すべきです。敵前に勝利するには、
何かを身につけることではないのです。何かを捨てることです。それは自我が砕かれ、
肉の力を脱ぎ捨てることです。
『あなたのしもべ度チェック』というのがあります。①ほ
かの人がほめられているのを素直に喜べるかどうか。人の賞賛を一緒に喜ぶことは容易
なことではありません。妬みが起きるからです。
「泣く」ことより「喜び」が難しいそう
です。②自分の苦労や奉仕をだれに知られなくても平気かどうかです。③意見の違う人
の話を最後まで聞けるかどうかです。
「どうせ主人のいうことは」
「どうせ女房のいうこ
とは」と、自分のやり方にケチをつけられると黙っていられません。④自分の失敗や欠
点を指摘されたら直せるかどうかです。自我が生きていると、自分を正当化します。
◎ヤコブの手紙4:6を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア記6章
「あきらめるな」
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1月10日(木)ヨシュア記6:16「主がこの町をあなたがたに与えてくださったか
らだ」
エリコはカナンの重要な軍事基地です。その巨大なエリコの城を前にして、主は
すでに「あなたの手に渡した」と動詞は完了形になっています。神の側ではすでにエリ
コをヨシュアの手に渡している、の意味です。エリコの近くには、カナンの軍勢、イス
ラエルの軍勢、天の軍勢という3つの軍勢が配置されていました。まさに天の軍勢によ
る勝利の先取りです。そして、神の作戦とは、毎日一回ただ契約の箱をかつぎ、ラッパ
を吹いて町をめぐり、7日目には7回城壁をめぐり、ラッパの音と共に大声をあげよ、
というものです。この神の戦略は、人間の常識では考えられない全く馬鹿げた戦術でし
た。たとい理性で説明不可能でも、これは神の奇跡以外何ものでもありません。現に、
あなたが教会に導かれたという、これほど大きな奇跡はありません。奇跡というと、派
手なパフォーマンス的な事のみが取り上げられます。もちろん、それらも聖霊の働きで
しょう。しかし、神の恵みはもっと身近にあります。自分の頑固な心の城壁が崩れたの
です。人の心の現状を見て、あきらめてはいけません。あなたの神は小さくないですか。
神の力を制限しないようにしましょう。神の手にかかると、どんな問題でも粉々に砕か
れます。
◎ヨハネによる福音書16:33を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア7章
「敗北の原因」
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1月11日(金)ヨシュア記7:11「イスラエルは罪を犯した」
7章は罪と敗北の記録です。エリコの町を占領したイスラエルの民は、アイの部族と
戦って無惨な敗北に終わりました。それはアイの部族が強かったからではありませんで
した。アイは2千~3千人の兵士で弱小の民でした。では、どこに敗北の原因があった
のでしょうか。①敗北の第1原因は、自負心、過信です。人々は自分の力でエリコを征
服したという自負心がありました。自分の力を過信して勝利に酔っていました。勝ち誇
るほど危険なことはありません。②敗北の第2の原因は、祈祷をおろそかにしたことで
す。人々は勝利に溺れ、浮かれていました。恵みの絶頂ほど最も危険な時です。勝利や
成功の瞬間は、謙遜の瞬間であるべきです。大成功と共にある落とし穴に気をつけまし
ょう。③敗北の第3の原因は、不従順です。アカンが奉納物を盗んで、罪を犯しました。
一個人の罪がイスラエル全体の敗北につながったのです。ちょうど1本の歯痛が全体に
影響するように。アカンは姿を変えて、私たちの心の中に入り込んでいます。信仰を腐
らすのは外敵ではなく、心の中のアカンです。よくスポーツ選手が敵は内に住んでいる
自分だといいます。過信というアカン、祈祷の怠慢というアカン、不従順というアカン
です。
◎ルカによる福音書17:10を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア記12章
「失敗に学ぶ」
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1月12日(土)ヨシュア記8:8「主の言いつけどおりに行わなければならない」
本章は「アイの陥落」
(1~29)と「エバル山の祭壇」
(30~35)の 2 部構成で成
り立っています。7章では、イスラエルが自分の力を過信し、神の前に静まることをし
なかったため、アイに敗北しました。ところが、敵に勝利した直後、静まったのです。
彼は失敗に学んだのです。勝利におぼれないで、ひとり静かに神の前に単独者(キルケ
ゴール)となったのです。どんなに仲のいい夫婦でも、神の前には単独者です。教会を
出ると、もう仲間はいません。号令をかける司会者も祈る人も説教者もいません。ひと
りで祈りの祭壇を築かないといけません。すべての人にとって「祈りの祭壇を築く」こ
とは霊的戦いです。いざ聖書を読もうとすると、電話やお客様や別の用事を思い出し中
断します。後回しにしないで、今すぐに実行するといいです。
「あとで」と思わないこと
です。
「教会の霊性は個人の霊性に比例する」といわれます。教団のパンフレットに、
「信
徒のパワ-が教会を変える」とありました。しかし、これは肉の力ではできません。聖
霊の働きです。そして、それは密室と深く関わっています。自分が変わると、教会が変
わり、教区が変わり、教団が変わります。要は、自分の霊性の活性化が決め手です。
◎箴言16:3を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア9章
「主の十字架のお陰」
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1月13日(日)ヨシュア記9:25「私たちは今、あなたの手の中にあります」
イスラエルの民がエリコやアイを陥落させたというニュースは、諸国の王に恐怖を与
えました。そこで何とか助かりたいと思ったギベオン人は、和睦を講ずるために一つの
策略を立てました。彼らは繕った古いものを身につけて、遠くからやってきたように見
せかけたのです。ところが、そのウソがばれてしまいました。そこでギベオン人は「私
たちは今、あなたの手の中にあります」
(25)と申し出たのです。これは自分たちの身
柄をいっさいヨシュアに委ねた大胆な申し出でした。ヨシュアは彼らに水を汲み、たき
ぎを切る仕事をさせました。このギベオン人はのちに「ネテニ人」として神殿に奉仕す
る者となります(エズラ8:20,ネヘミヤ10:28)
。何という神の恵み・神の憐み
でしょうか。私たちも殺されても仕方のない者でしたが、主イエスの十字架の血潮によ
って、罪が赦され、今があるのです。最近うちの信徒が「自分の生涯で何一つムダなこ
とはなかった。みんな最善であり必要だったんだ」と証しされました。キリスト者とい
えども、うまい話ばかりではありません。でも神は万事を益に変えて下さいます。あな
たの人生に偶然はありません。人間にも都合があるように、神にもご都合があります。
◎エレミヤ書29:11を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア記10章
「難病患者会」
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1月14日(月)ヨシュア記10:14「主が…戦ったからである」
ヨシュア記はカナンにおけるイスラエルの民の戦いの記録です。特に、この10章は
連戦連勝の記事です。勝利の秘訣がどこにあったのでしょうか。それはイスラエルの民
が強かったからでも、最新型の戦略兵器を装備したからでもありませんでした。その秘
訣は「主がイスラエルのために戦われた」からでした。それが強調されています。毎月、
南区役所の保健所で「難病患者会」があります。以前、ビックリすることがありました。
それは「ハ-ベスト・タイム」に出演したのを、ある患者さんが録画テ-プを持ってき
て見せたのです。
私がそんなことをすると、
会長という地位を利用し宗教を押し付けて、
と批判されるでしょう。30分の上映が終わった後、みんなが拍手していました。そし
て「感激した」
「お話も良かった」と感想を述べていました。ビデオには「神」
「信仰」
などの宗教用語がたくさん出てきます。まさか区役所という公共の施設で、キリスト教
のビデオ上映ができるとは、だれが想像したでしょうか。患者の中にはいろんな宗教の
方もおられます。自分が難病にならなかったら、絶対にその会に入会することも、存在
も知らなかったはずです。主は弱さを用いる名人です。主が働いた御業の一つです。
◎詩篇18:46を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア11章
「ゆだねるとは?」
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1月15日(火)ヨシュア記11:23「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取
った」
10章にはカナンの南部における勝利が記されていますが、この11章にはカナンの北
部における勝利が記されています。勝利の主役は「主」です。8節にも「主が彼らをイ
スラエルの手に渡されたので」とあります。しかし、実際に勝ち取るのは人間です。2
3節に「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った」と記されています。ここに
信仰と努力の関係があります。多くの人は誤解しています。信仰するとは、神秘主義に
なることではありません。たとえば、明日試験があるとします。自分はもう洗礼を受け
ているから、私はクリスチャンだから、教会にもちゃんと通っているから、何も勉強し
なくても、神が助けて下さると思い違いしている人が多いです。社会は厳しいです。甘
くはありません。教会に行ったから、学校や会社で、眠いとか疲れたといっても通用し
ません。言い訳が通らないところが社会です。よく「牧師は大変ですね」といわれます
が、信徒はもっと大変だと思います。この世に生きているからです。案外、牧師は教会
にいることが多いですが、教会員は一般社会でもまれています。少し脱線しましたが、
真のゆだねるとは、逃避ではありません。やることはやって、結果を主に明け渡すこと
です。
◎Iペテロ5:7を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア12章
「隠されていること」
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1月16日(水)ヨシュア記12:8「これらは、山地、低地、アラバ、傾斜地、荒野」
本章の1~6節は、ヨルダンの東におけるモ-セの下に征服したシホンとオグの領土
について記されています。7~24節は、ヨルダンの西におけるモ-セの下に征服した
31の王の一覧表です。ヨシュアはイスラエルの部族に、彼らの土地を嗣業として与え
ました。その土地は「山地、低地、アラバ、傾斜地、荒野」
(8)と言われます。それを
受け取った人々はもっと良い場所をほしかったと思ったかも知れません。信仰は決して
うまい話ばかりではありません。
ときには自分の思いと反対方向に進むときもあります。
新興宗教は「商売繁盛・家内安全」をキャッチフレ-ズにして誘惑します。甘い言葉で
だまされてはなりません。現実には「山地、荒野」がやってきます。今はその意味がわ
からなくても、あとでわかるようになります。私たちは人生のデコボコ道や傾斜地や荒
野は避けて通りたいと思います。病気も好きでなったものではありません。与えられた
ものです。今はそれと上手に付き合うしかありません。リビングバイブルには「物事を
秘密にするのは神様の特権」
(箴言25;2)とあります。神のやり方は「秘密」です。
人間には隠されています。理解できないことやわからないことと同居するようにしまし
ょう。
◎ヨハネによる福音書13:7を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア13章
「占領すべき地」
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1月17日(木)ヨシュア記13:1「まだ占領すべき地がたくさん残っている」
新聞に載った記事です。
おばあちゃんが手押し車を押しながら、
人道を歩いていたら、
小学生に「くそババ-、邪魔だ。こんなとこ歩くな」と怒鳴られたといいます。この世
は、社会の役に立たなくなると、お荷物とか邪魔物扱いにされがちです。教会でも奉仕
や多額の献金ができる人を特別扱いする危険があります。私はいつも「高齢者は教会の
宝です」と叫んでいます。若い時と違って、失う部分が多くなります。失ったものを数
えないで、今ある機能(残存機能)を数えましょう。ヨシュアは一生懸命に国のために
尽くし、あとは第一線から退いてゆっくりと老後を楽しく過ごす時です。しかし、神は
「まだ占領すべき地がたくさん残っている」と使命を与えます。このように主は何歳に
なっても必要とされます。まだ生かされているのは使命が残っている証拠です。神は若
い人も用いますが、高齢者をも主の御用に用います。老人福祉法第2条に「高齢者は敬
愛され生きがいを以て健全で安らかな生活を保証されるものである」とありますが、お
年寄りを粗末にする教会は祝福を失います。今シニアの働き人が求められています。教
会の中で高齢者にしかできない働き場所があります。
「夕暮れ時に、光がある」
(ゼカリ
ヤ14:7)
◎詩篇71:18を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア14章
「継続は力なり」
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1月18日(金)ヨシュア記14:9「あなたが、私の神、主に従い通したからである」
以前モ-セがカナンを偵察するために、カレブをカデシュ・バルネアから遣わしまし
た。そのとき、カレブは真実を報告しました。カレブはイスラエルの神、主に従い通し
ました(民数記14:24)
。それゆえ相続地を得ることができたのです。さらに注目し
たいのは、9節に「あなたとあなたの子孫の相続地となる」とあるように、ひとりが従
い通すことは家族全員の祝福になるのです。例えば,ルデヤが救われたら、
「この婦人も
その家族も、共にバプテスマを受けた」とあります。また看守が救われたら、
「自分も家
族も、ひとり残らずバプテスマを受け」とあります。また、ザアカイが救われたら、
「き
ょう救いがこの家にきた」
(ルカ19:9)とあります。
「救いがこのザアカイにきた」
とは記されていません。ザアカイという個人の救いが、一個人にとどまらず家族全体の
祝福に及ぶのです。また「助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせ
た」
(出エジプト1:21)とあります。親子で礼拝に出るのもいいです。特に、育児中
は子どもが騒がしく、説教が聞けないことが多いです。それでもいいから継続すると、
必ず祝福があります。家庭の祝福はあなたにかかっています。
◎Ⅱテモテ4:8を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア15章
「花嫁道具」
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1月19日(土)ヨシュア記15:19「私に祝いの品を下さい」
カレブの娘アクサはオテニエルと結婚してネゲブの地へ行くことになりました。ネゲ
ブはユダの南部地方で乾燥した不毛の地でした。そこで父のカレブは娘にお土産として
何がほしいのかと聞きました。娘のアクサは「水の泉を私に下さい」
(19)と「泉」を
求めました。彼女は「ほしいもの」ではなく、
「必要なもの」を求めました。何と花嫁道
具は「泉」だったのです。それは砂漠地帯では一番必要だったのです。もし神があなた
に花嫁道具を一つ求めよ、というなら何を願うでしょうか。あれもこれもほしいと「な
いものねだり」をするでしょう。聖書は「どうしても必要なことはわずかです。いや、
1つだけです」
(ルカ10:42)といいます。では、だれが心の渇きを癒して下さるで
しょうか。そうです。主イエスこそ人生のオアシスです。あなたは疲れを覚え、心の渇
きを感じていませんか。主イエスは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲
みなさい」
(ヨハネ7:37)と招いています。時計が壊れたら八百屋に持っていく人は
いません。時計屋に修理を出すでしょう。家電は電気屋に、つまり、造った所に持って
いけばいいのです。人間もどこか破損したら、創造主なる神に立ち返ればいいのです。
◎黙示録21:6を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア16章
「ことばの暴力」
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1月20日(日)ヨシュア記16:10「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなか
った」
イスラエルの民はカナン人を「追い払わなかった」
(10)と記しています。聖書は「追
い払えなかった」とは記していません。イスラエルの人々はあえて意識的にカナン人を
残しておいたのです。これは神の命令に対する不従順でした。その事がのちにイスラエ
ルの人々を偶像に汚染させたのです。実は、最後まで手ごわい相手としてイスラエルの
民を悩ませたのはカナン人だったのです。私たちの心の中にも残してはならないものが
あります。それは古き自我です。それが対人関係の混乱を招きます。この世で最大のト
ラブルは人間関係だといわれます。人は多くの点で失敗するものですが、特に愛のない
言葉で失敗します。
「あの人の言葉でつまずいた」とよく聞きます。それほど私たちは言
わなくていいもので人を傷付けるのです。言葉は暴力になります。言葉が悪いのではな
く、心にあるものが外に出てくるのです(マルコ7:21)
。ことばは人をダメにもし、
人を生かすもします。母親は自分の子供に前向きな言葉、やる気の出る言葉をかけてあ
げてください。
「グズ」
「とんま」
「馬鹿」などと、否定的言葉・消極的な言葉が多いです。
1 日の中で、プラス思考よりマイナス思考の言葉が多いそうです。
◎詩篇141:3を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア17章
「あくなき挑戦」
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1月21日(月)ヨシュア記17:15「そこを自分で切り開くがよい」
ヨセフ族にはヨルダン川の東にギレアデとバシャンの地、ヨルダン川の西にパレスチ
ナ中部の広大な土地が与えられました。にもかかわらず、彼らはその土地で満足せず、
もっと広大な土地を与えてほしいと願いました。
それに対してヨシュアは 自分で林や森
を切り開くように命じたのです。人々には開拓精神、フロンティア・スピリットがあっ
たのです。これは大いに学ぶべきところです。信仰は生涯現役です。卒業式や定年制度
はありません。現状に自己満足しないで。日本のクリスチャンはほんの一握り、絶対少
数派です。教会の近くに、ある新興宗教があります。そこはいつも多くの人々で溢れて
います。
それに対して教会は数においても、
規模においても無力な存在かもしれません。
しかし、主は弱い群れに対して、神のビジョン(15)を与えます。聖書に出てくる登
場人物は常に少数派として活躍しているといいます。ノア、アブラハム、モ-セ、ダビ
デ、エリヤ…。神の人は絶対的少数派に身を置いています。大切なのは、だれに身を置
くかということです。みことばか、人の意見か?多数派か、それとも神のビジョンか。
たとえ、私たちは少数派であっても、失望しないで、立ち上がりましょう。
◎詩篇146:2を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア18章
「焦らず、気負わず、がんばらず」
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1月22日(火)ヨシュア記18:3「あなたがたはいつまで延しているのか」
4節に「私は彼らを送り出そう」とありますが、私たちは世に遣わされています。そ
こで注意すべきことが3つあります。第1に「焦り」です。
「速く、速く」と、まわりや
自分をせかすことがあります。速いことが必ずしも良いことだと限りません。人には皆
『速さのちがう時計』があります。自分らしく、ありのままがいいのです。第2に「気
負い」です。気負いというのは、自分に過度の期待をかけることです。もっと「~しな
ければ」といつも背伸びしています。だから疲れるのです。このタイプは今の自分に決
して満足していません。否、いつまでたっても満足がなく、
「私が」
「私が」と肩に力が
入っています。力のぬき加減を身につけましょう。第3に「がんばり」です。
「がんばり」
は普通、良いこととして奨励されています。私たちはよく「がんばってね」と声をかけ
ます。しかし、かえって相手にプレッシャ-をかけることもあります。がんばった結果、
「燃え尽き症候群」に陥ることがあります。赤星氏によると、自分の本当の気持ちを押
し殺し、
「いい子」になって人と交わる「いい子型」の性格の人が心の病になりやすいと
いいます。
「焦らず、気負わず、がんばらず」の三無主義が大切のようです。
◎伝道の書5:4を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア19章
「チャレンジ精神」
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1月23日(水)ヨシュア記19:50「彼はその町を建てて、そこに住んだ」
イスラエルの全部族に嗣業の地を割りあてられましたが、ヨシュアには与えられていま
せんでした。彼があえて求めたのは「テムナテ・セラ」という町でした。この町は元来
「テムナテ・ヘレス」と呼ばれていたらしいのです(士師記2:9)
。
「ヘレス」とは「太
陽の部分」という意味で、太陽崇拝を暗示する言葉だそうです。つまり、この町は偶像
礼拝の盛んな場所だったといわれます。このときのヨシュアは高齢に達していましたが
(90歳代)
、彼は新しいビジョンに燃え、偶像の町を建て直すという難事業にチャレン
ジしていきました。このように、青年期には青年期の、壮年期には壮年期の、老年期に
は老年期の使命があります。最近、新垣勉さんよくテレビやラジオに出演します。うち
の教会で御用したことがあるので、親近感を覚えます。この方は盲目のクリスチャン歌
手です。神学校を出たのだから、歌声を捨てなければと思ったようです。ある日ボイス
トレ-ナーから「あなたの声は天の贈物」といわれ、歌声を通して使命を果たしていま
す。製品と作品は違います。製品は画一的ですが、作品は神の手造りです。自分に与え
られた賜物と通して、神の栄光を現しましょう。人と比較しないで、自分のスタイルで。
◎Iコリント10:31を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア20章
「のがれの町」
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1月24日(木)ヨシュア記20:4「彼は、彼らとともに住む」
ヨシュア記20章は「のがれの町」についての記事です。申命記や民数記にも出
てきましたが、過失で人を殺した者が血の復讐から逃れることができました。ただ逃れ
るだけでなく、その町に受け入れられ、場所も与えられ、一緒に住むことも許されまし
た。教会も人々に居場所を提供する「開かれた教会」が求められます。
「ハレルヤクラス」
(知的障害者)の K 兄は数年前に洗礼を受けました。ときどき献金の奉仕をしたり、礼
拝で特別賛美をしてくれます。彼らの存在は教会を明るくし、心を癒してくれます。教
会は外側ではなく、内側です。私は多くの教会に行きますが、知的障害者のコーラスが
ある教会に出会ったことはありません。技術的には劣るかも知れませんが、からだで喜
びを表現する姿はステキです。弱い人やお年寄りを粗末にする教会は、主の祝福を失い
ます。健常者も障害者も共に生きる「心のバリアフリ-」を教会こそ実践する場です。
最近のクリスチャン新聞に「なぜ日本の教会は伸びないのか」の問いに、
「高い目線」と
ありました。いろんな要因はあると思いますが、これも一つの要因かも知れません。
「教
会」
(エクレシア)は主の招かれた人の群れです。だから、差別しないようにしましょう。
◎ヨハネによる福音書13:15を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア21章
「主の御手の中」
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1月25日(金)ヨシュア記21:43「こうして主は、…イスラエルに与えられた」
レビの人々に、住むべき町と家畜のための放牧地が割り与えられました。家畜にふさ
わしくない放牧地もあったでしょう。石や岩がゴロゴロした山地もあったでしょう。隣
の部族の割り当て地がよく見えたことでしょう。ところが、
「彼らはそれを占領して、そ
こに住んだ」
(43)とだけ聖書に記されています。委ねられたものを、そっくりそのま
ま受け取ったのです。与えられたものに文句や不平不満をいう人がいなかったのです。
これは驚くべきことです。何か試練に遭うと、悪い方に悪い方に「どうして自分だけ?」
と考えるものです。悲劇の主人公になります。この世にはもっと大変な人がいっぱいい
ます。今晩しか生きられない人もいます。命が与えられているのは偶然ではなく、神の
恵みです。あなたは生きているのではなく、生かされているのです。五体満足でも「あれ
がない」「これがない」と不平不満をする人がいます。当たり前の、普通の、平凡な中に、
神の恵みがいっぱい詰まっています。幸せは遠いところにあるのではなく、身近なとこ
ろにあります。
「置かれたところで咲きなさい」
(渡辺和子)といいます。自分の思い・
願いと異なった道に導かれるものです。それも主の御手の中と受け入れましょう。
◎詩篇74:16を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア22章
「他人に誤解されたら」
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1月26日(土)ヨシュア記22:11「イスラエル人は、こういううわさを聞いた」
イスラエルの人々は、
「一つの祭壇を築いた」
(10)ということを聞きました。なん
と、それが誤解だったのです。私たちは、うわさが一人歩きして、その人を誤解するこ
ともあります。直接会って真意を確かめると、いかに自分が偏見の目で見ていたかがわ
かります。ここで学びたいことは、彼らが主の御名を悲しませることだったら教えてほ
しいと申し出たことです。彼らには人の忠告を聞く謙虚さがありました。最終的には、
神の判断にいっさいを委ねたのです。ところで、他人から誤解されたり、中傷されたり
したら、どうしたらいいのでしょう? そのとき人間的な方法で、何とか誤解を解こう
とやっきになります。しかし、主の御手の中に委ねることです。主にまかせることは弱
虫ではありません。むしろ、積極的な方法です。主は全部知っています。以前ある中学
校で「いのちの授業」をしたことがあります。長女が「パパ、体育館は寒いから長い話
はやめたほうがいいよ」と忠告してくれました。2 月の寒い冬の時でした。30 分以内で
終わりました。生徒の代弁をしてくれたと思います。娘のアドバイスを聞いて良かった
と思いました。あなたの心配事をすべて主に委ねましょう。主は最善以下のことをなさ
いません。
◎ローマ人への手紙12:19を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア23章
「証の対象」
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1月27日(日)ヨシュア記23:3「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの
神、主だからである」
23章は、老齢のヨシュアが自分の死の近いことを感じて語った言葉です。ヨシュア
はイスラエルをカナンの地に導くという偉大な業績を成し遂げた人です。しかし、彼は
少しも自分の力を誇示しませんでした。
「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの
神、主だからである」と、神に栄光を帰したのです。人生には2つの履歴書があるとい
います。
「一般歴」と「信仰歴」です。どこの学校を卒業したか(学歴)も大事ですが、
神の前にいかに生きたかという「信仰歴」はもっと大事です。聖書学院の卒業式で、あ
る先生は「いそがない」
「いじけない」
「いばらない」の3つが牧会で大切だと語られま
した。牧会の現場では「謙遜」の二文字が大切です。教勢が増えたとか、立派な教会堂
が完成したとか、奉仕が増えたとか、つい有頂天になり、高慢になるのです。そこが悪
魔の罠・落とし穴です。私たちの教会では、第1聖日に「伝道礼拝」をして、救いの証
をしています。毎月信徒の証を聞くのが楽しみです。証で大事なことは、だれを証する
のかということです。この焦点がボケルと自慢話になります。自分の過去を語りながら
も、あくまでも神に栄光を帰すことを忘れないようにしましょう。
「恥はわがもの、栄光
は主のもの」
◎Iコリント2:4を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:ヨシュア24章
「信仰のバトンタッチ」
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1月28日(月)ヨシュア記24:15「私と私の家とは、主に仕える」
「愛とゆるしの共同体」は家庭から! ヨシュアは『私と私の家とは、主に仕える』
と、自分の立場を明らかにします。
「エペソ書」の 5 章にも、夫婦のあり方が最初です。
その次に親子関係です。その次に社会生活が続きます。その順序は、内容と同じように
大事だと思います。まず夫婦関係が基本です。
「夫たちよ、妻を愛しなさい」
「妻たちよ、
夫を敬いなさい」と。一般的に、男性は妻より出世・お金・趣味・レジャ-を愛するよ
うになります。愛し続けることは難しいのです。だから、妻を一生涯愛しなさいと教え
ます。しかし、女性にも困難があります。それは、夫を一生涯尊敬する点です。結婚前
は尊敬していても、一緒に暮らすと欠点ばかりが目につきます。尊敬し続けることは難
しいのです。夫婦仲良が一番です。夫婦仲がよすぎて家庭が崩壊した話しを聞いたこと
がありません。
「信仰の継承」といいますが、一方を裁き合っていたのでは良い結果が期
待できません。あなたが礼拝に来られるのは、留守番のお陰です。手ぶらで帰宅しない
で、何か留守番の人に買うといいです。また、極力早く帰宅して、ご主人に仕えるとい
いです。
(キリスト者は真面目なタイプが多いです)家庭が粗末にならないようにしまし
ょう。
◎伝道の書4:12を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:士師記1章
「処分すべきもの」
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1月29日(火)士師記1:19「主がユダとともにおられた」
士師記は民が神への不従順のゆえに敗北したことを記しています。さて、一章には「追
い払わなかった」
(19、21、27~33)という表現が何回も出てきます。神の命令
はことごとく追い出すべきであったのに、イスラエルの民はそうしなかったのです。実
はいつまでもイスラエルを悩ましたのはカナン人だったのです。今の時代、私たちは心
に残る罪の始末をすべきです。なぜなら、それが命取りになるからです。罪は病気に似
ています。たとえば、ガン細胞はごく小さいものですが、ほっておくと知らず知らずの
うちに命取りになります。
「早期発見」が大事になります。私たちの心を占領している「傲
慢」がくせものです。主の恵みは何かを身につけることではなく、不必要なものを捨て
ることです。奉仕の陰に隠れて、自分を誇示しようとすることがあります。それは自分
がまだ生きている証拠です。自分ではなく、イエス・キリストが心に内住するように祈
りましょう。新しい年号になり、すべてが変わったような錯覚をします。どんなに外見
が変わっても、内側・中身が変わらなければ同じです。聖書は「もはや我生くるにあら
ず、キリストわが内にありて生くるなり」といいます。
◎ピリピ人への手紙4:13を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:士師記2章
「弱音をはいていい」
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1月30日(水)士師記2:4「民は声をあげて泣いた」
この章は、イスラエルの不信とそのさばきとしての外的侵入、人々がその苦しみに喘
ぐと神が士師を起こして、救われるが、その士師がいなくなると、人々はまた神にそむ
くという士師記の図式が記されています。一般に「泣く」という行為は日恥のように見
られます。特に、男性が泣くと「男のくせに」
「弱音をはくなんて」と非難されます。当
時の人々は「泣く」という道具を使って、神に叫び求めたのです。イエス・キリストも
泣きました。新約聖書には2ケ所出てきます。①ルカ19:41「その都のために泣い
て」とあります。②ヨハネ11:35「イエスは涙を流された」とあります。信仰を型
にはめて考えがちですが、ありのままで大丈夫です。弱さを前面にだしていいのです。
水野源三さんは、赤痢の後遺症で肢体麻痺になりました。その苦難の中で「生きる」と
いう詩を書きました。
「神さまの大きな御手の中で、
かたつむりはかたつむりらしく歩み、
蛍草は蛍草らしく咲き、雨蛙は雨蛙らしく鳴き、神さまの大きな御手の中で、私は私ら
しく生きる」と。使徒パウロも肉体の弱さを通して、言い換えると、あるがままで、自
分らしく仕えたのです。私たちも背伸びをせず、気負わず、自然体で仕えていきましょ
う。
◎Ⅱコリント12:9を読んで祈ろう。
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きょうのメニュー:士師記3章
「聖霊と宣教」
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1月31日(木)士師記3:9「主はイスラエル人のために、救助者…を起こされた」
イスラエルがメソポタミヤの王の支配下におかれて苦しんだとき、神は彼らの叫びを
聞いて一人の救助者を起こされました。これが士師(さばきづかさ)オテニエルです。
「士師」とは裁判官というよりは、指導者、支配者、救助者の意味です。各々の士師は
皆ある点において弱さをもっていました。オテニエルは弟の子であり(9)
、エホデは左
ききであり(15)
、シャムガルは牛追いにすぎず(31)
、デボラは婦人で、ギデオン
はマナセの中の最も貧しい家の最も小さい者(6:15)
、エフタは遊女の子(11:1)
、
そしてサムソンはナザレの人でした。また神は弱い者の弱い道具を用います。モ-セの
杖、エホデの左手、牛のむち、釘(4:21)つばとラッパ(7:21)
、うすの上石(9:
53)
、ろばのあご骨(15:16)などです。普通の道具が神の手にかかると見事に変
わります。この世は、勲章、身分、家柄、地位、学歴を問題にします。しかし、信仰の
世界は逆です。神は弱さを用いる名人です。復活された主は「いと高き所から力を着せ
られるまでは、都にとどまっていなさい」
(ルカ24:49)と、弟子たちのはやる気持
ちを押さえて「とどまれ」と言われました。静まって、神の力を待ち望みましょう。
◎ガラテヤ人への手紙2:20を読んで祈ろう。
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