朝の15分があなたを変える。 こころのごはん 2013年10月号 ヨブ記21章~詩篇9篇 きょうのメニュー:ヨブ記21章 「傾聴は他者への贈り物」 --------------------------------------- 10月1日(火)ヨブ記21:5「手を口に当てよ」 「私を悪人と断罪する前に、私の苦悩を理解してほしい。傾聴と沈黙こそが私への慰 めとなる」とヨブは言っています。ヨブの友人は言葉で説得しようとします。しかし、 傾聴こそ治療方法です。 「傾聴」とは「gift of understanding」と言われます。他者へ の最大の贈り物は傾聴です。ただじっと話を聞いてもらうだけで心が癒されます。とこ ろが、私たちは「ああしたらいい」 「こうしたらいい」と指示やお説教しがちです。いつ しか親に偉そうな口調で語ることがあります。親にしてみれば子が何歳になっても子で すから、 「うちの子は生意気だ」 「親に向かって説教する」といいます。私は教会では信 徒の悩みを聞く立場ですが、病院では立場が逆転して話を聞いてもらいます。病院では 診察時間が2~3分です。事務的・機械的です。 「燃え尽き症候群」って聞いたことがあ るでしょうか。それは、几帳面、仕事熱心、清潔、権威と秩序の尊重、律儀、強い責任 感等であって、日本人にはこのタイプが多い、つまり、日本人は心の風邪にかかりやす い国民性だと言われています。症状としては、不眠、抑うつ気分、意欲の低下、思考抑 制、食欲不振、体重減少等です。きょう、家庭で「手を口に」当てましょう。 ◎詩篇141:3を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記22章 「からのスポンジ」 --------------------------------------- 10月2日(水)ヨブ記22:21「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ」 エリファズの第三回目の論争が始まります。彼によると、ヨブに苦しみがあるのは罪 があるからだと断定して、単刀直入に悔い改めを迫ります。ヨブに対して、既成の神学、 つまり、因果応報の考えで責め立てます。もちろん、病気は罪の結果ではありません。 病気と信仰とは全く関係ありません。自分を責めている人が何と多いでしょう。 「自分の 信仰が薄いから、こんな不幸があるのでは」 「自分の祈りが足りないから、こんな試練が」 「先祖のたたり」 「罰が当たった」とか。神と和解し、平和を得るには、砕かれることで す。からっぽのスポンジはどんどん水分を吸収します。しかし、充分水を吸ったスポン ジはもう水を吸いません。神の恵みも同じです。飢え渇き、求め、ハングリー、からっ ぽの心に神の恵みは注がれます。水分が高いところから低い方へ流れるように、神の恵 みも心の貧しい者へ注がれます。聖書は「心の貧しい者は幸いです」 (マタイ5:3)と いいます。私は、礼拝の前に「主よ、この者を十字架の陰に隠して下さい」と祈るよう にしています。つい天狗になり、へりくだることを忘れるからです。 「恥はわがもの、栄 光は主のもの」です。十字架の陰に身を隠しましょう。 ◎Iペテロ5:6を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記23章 「病んで学ぶ」 --------------------------------------- 10月3日(木)ヨブ記23:10「しかし、神は、私の行く道を知っておられる」 私は絶対使わない言葉に『ガンバレ』があります。健康な時は挨拶や手紙の最後によ く使ったものですが、必ずしも『ガンバレ』という言葉で癒されないことがわかったか らです。というのは、病気になって「工藤さん、ガンバって」とよくいわれるからです。 言葉は人を慰め励ましもしますが、ときには言葉が人を傷つけます。これは病んで気づ いたことです。ビリー・グラハムは「人生は選択科目と必修科目を取得する大学のよう なものだ」といいます。世には避けて通れるものと、避けて通れないものがあります。 試練はだれもが避けて通りたいものですが、必修科目の一つです。聖書に出て来る偉大 な人物は皆、試練という学科を取得した人です。人は逆境で造られます。逆境は人を鍛 える神の道場です。逆境は神と出会うチャンスです。そこまで行かないと、神の言葉を 聴けません。信仰に入った動機を伺うと、必ずといっていいほど問題を抱えています。 凧揚げには逆風が必要です。逆風が強ければ強いほど凧は飛びます。紅葉は寒ければ寒 いほどキレイだといいます。紅葉に寒さが必要です。凧や紅葉と同じように、人間にも ピンチが必要です。今の試練は決して無駄ではありません。 ◎ローマ人への手紙5:3~4を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記24章 「信仰に目覚めよ」 --------------------------------------- 10月4日(金)ヨブ記24:24「しばらくの間」 ヨブは悪しき者が繁栄している当時の世界に目を向け、数々の矛盾を述べています。 2~4節に悪者の横暴ぶりが記されています。当時の矛盾は今日の矛盾でもあります。 今の時代も悪しき者が成功をおさめ、不正を働く者が繁栄していることがあります。し かし、悪者の繁栄は永続するものではないのです。彼らの最後は滅びです。ヨブは1節 で「なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか」 (口語訳)と言っています が、聖書は神の審判は必ず来るといいます。私たちの歩みを清算する時が近づいていま す。その時、人は自分のまいたものを刈り取ることになります。それがいつであるか聖 書は沈黙しています。あえて沈黙していることに深い意味があると思います。主の審判 が遠いと「まだまだ大丈夫」と思い、生活が怠惰になるからです。ある神学校のテスト に「あす再臨が来るとしたら、あなたはどうしますか」という問題がでました。ある人 は「あれもこれも今のうちにしよう」と書きました。その答えは「きのうと同じように 生きる」といいます。これはいつ再臨がきてもいいように、普段から信仰の目を覚まし ている人の答えでしょう。 『あなたの神に会う備えをせよ』 (アモス4:12) ◎ローマ人への手紙13:11を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記25章 「みがけば輝く」 --------------------------------------- 10月5日(土)ヨブ記25:6「ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさら である」 ここで友人たちの主張は終ります。彼らの伝統的な知恵をもってしても、ヨブに解決 を与えることはできませんでした。私たちの現実は「うじ」 「虫けら」 (6)に等しい者 ですが、人は皆、無限の可能性をもっています。神は、どんな人間であるかを見ないで、 どんな人間に成り得るかをご覧になります。どんな人でも磨けば光ります。 「自分にラベ ルを張る」ことと、 「他人にラベルを張る」 、これがクリスチャンの得意技です。教会は 「クリスチャンはこうあるべき」と型にはめて見られがちです。家族が死んでも、 「ハレ ルヤ」ということが信仰的で、特に男のくせに、泣いたり、めそめそしたり、悲しむの は不信仰のラベルを張られます。教団発行の『りばいばる』誌上に、 「病気になったら」 という詩がありました。 「病気になったら、どんどん泣こう。痛くて眠れないといって泣 き.手術が怖いといって涙ぐみ、死にたくないよといって、めそめそしよう。恥も外聞 もいらない。いつものやせ我慢や見栄っぱりを捨て、格好悪く涙をこぼそう。またとな いチャンスをもらったのだ。自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを」 。ナンバーワ ンでなくていい、ありのままでいい、今の自分を丸ごと受け入れましょう。 ◎ヘブル人への手紙2:18を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記26章 「失敗に学ぶ」 --------------------------------------- 10月6日(日)ヨブ記26:14「神の道の外側」 ヨブは直接的な神のことば、つまり「力ある雷」 (14)を聞きたがっています。本当 に神のなさることは理性を超越しています。失敗、病気、事故、挫折など、人生のマイ ナスと見えることをも、神はプラスに変えて、神の栄光を現されます。 『失敗学のすすめ』 (畑村洋太郎著)という本があります。この方は東大の教授でしたが、クラスで成功談 よりも失敗談を話すと学生の目の色が変わるそうです。この本に『ダメ上司には気をつ けろ』とあります。ダメ上司の典型例として、 「そんなことをやってもうまくいかない」 「自分も過去にやったけど、ムダだったからやめておけ」と部下のやる気を殺している 人をあげています。反対に、いい上司とは社員のやる気を引き出す人でしょう。失敗・ 挫折は人生の財産です。偉大な人物は失敗しない人ではなく、失敗しても立ち直った人 たちです。 「何も行動せず前例をまねるだけなら失敗はしない。犯した失敗を袋叩きにし ないで、積極的に活用すべきです」と著者は言います。そうです。失敗の中に多くの貴 重な宝が詰まっています。人生の雨宿り、無駄な時、寄り道、ピンチは大切な時、貴重 な時です。神はピンチをチャンスに、マイナスをプラスに変えて下さいます。 ◎箴言19:21を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記27章 「今あるは神の恵み」 --------------------------------------- 10月7日(月)ヨブ記27:5「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない」 人には「なしたる罪」と「なさざる罪」があります。確かに「なしたる罪」において 清いかもしれないが、しかし「なさざる罪」を指摘されると、だれひとり自分の潔白さ を証明できる人はいません。聖書は「義人はいない。ひとりもいない」 (ローマ3:10) といいます。もしあなたがあと数ヶ月の命と宣告されたら、きっと生き方が変わるでし ょう。限りある命、残りの命をいかに用いるかがテーマとなります。人には、職務的使 命と生存的使命があるといいます。その使命の終わりが死です。まだ、生かされている のは尊い使命がある証拠です。若い命を投げ出す人もいますが、そんなに急いでいかな くても、時がくれば、だれでも必ず別の世界に行かなければなりません。時間を知るの に、短い針と長い針を見ます。あの針は気分で動いてはいません。今日は少し元気だか ら早く回り、今日は少し疲れたからゆっくり回ろうとしません。目には見えないモータ ーがコンスタントに動かしています。私は時計の針と同じです。ある人は私を「希望の 星」といいました。しかし、私が頑張っているのではありません。いのちは神のもので す。目には見えませんが、神が生かしています。自分にしかできない使命を果たしまし ょう。 ◎Iコリント10:31を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記28章 「問題の解決策なる主イエス」 --------------------------------------- 10月8日(火)ヨブ記28:28「見よ。主を恐れること、これが知恵である」 本章は「知恵の賛歌」と呼ばれています。人は鉄や金や宝石を得るためには、身を挺 して地下を掘ります。しかし、淵も海も「私のところにはない」 (14)といいます。で は、どこに知恵が隠されているのでしょうか。その解決を与えるのが、28章です。知 恵は地上になく、聖書は「主を恐れることは知恵である」 (28)といいます。結局のと ころ、問題の解決・心の支えは神にあるのです。多くの人は希望や心の拠り所を求めて います。聖書は「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」 (Ⅱコリ ント4:18)といいます。あなたは何を土台として生きているでしょうか。 「砂の上」 が人生の土台でしょうか。それとも「岩の上」が人生の土台でしょうか。砂の上ならば、 立派そうに見える家でも、すぐ倒れてしまいます。岩の上ならば、雨が降り、洪水が押 し寄せ、風が吹いて家に打ちつけても、絶対に倒れることがありません。クリスチャン ホームにも、雨や洪水や風が吹きます。試練を乗り越える秘訣は主イエスの信仰です。 0×100=ゼロ、0×1000=ゼロです。ゼロにどんな大きな数字をかけてもゼロ です。かける対象で決まります。だから、主イエスに信頼しましょう。 ◎伝道の書12:13を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記29章 「過去に自己満足するな」 --------------------------------------- 10月9日(水)ヨブ記29:3「あのとき」 ヨブが過去の幸福な時のことを思い返しています。当時は子供たちがまわりにおり、 牛乳や油は豊かに満ちていました。人々からは尊敬されていたし、貧しい人々には助け も与えることができました。そのように愛して下さった神が、なぜ苦しい目に会わせる のか、それがヨブにとっての疑問でした。ヨブは「あのとき」 、 「あのとき」 (3、6、 ) と過去の恵みを回顧していますが、信仰とは「昔は良かった」と過去をなつかしむこと ではないのです。以前修養会の合間にボーリングをやりました。昔は、結構スコアも良 かったのに、ボールが重くて投げられません。ショックでした。病気とはいえ、こうも 体力が衰えたのかとガッカリしました。昔の自分も自分だし、現実も自分だし、ニつの 自分を受け入れるのに時間がかかりました。私たちも「あの頃は」 「若い頃は」 「昔は」 といいます。時には頑張ってきた自分にご褒美をあげるのもいいと思います。自分が認 めてあげなかったら、一体だれが認めてくれるでしょうか。毎日「それでいいんだよ」 「もう歯をくいしばって頑張らなくていいよ」 「笑っているだけでいいよ」と自己受容の 声を自分にかけてあげましょう。過去に自己満足しないように。 ◎ピリピ3:13~14を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記30章 「聞かれない祈り」 --------------------------------------- 10月10日(木)ヨブ記30:20「あなたはお答えになりません」 ヨブは、すべての道で主を認め、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を忍ん だのです。それゆえ、ヨブの忍耐は結局、祝福につながったのです。聖書はヨブの忍耐 のことを「耐え忍んだ人たちは幸いである」 (ヤコブ5:11)といいます。教会には「忍 耐」がいることをあることから学びました。ある時「私は教団が違うから、ほっといて ほしい」と少々冷たい態度をとられました。ただ祈るしかありませんでした。ところが、 赤ちゃんが産まれてから態度も表情も変わりました。今は家族で教会に来るようになり ました。そこで学んだことは、 「あきらめない」ということです。内側に潜んでいる不信 仰との戦いです。 「継続は力なり」です。祈りでもすぐ答えられる祈りもあれば、長い時 間がかかる祈りもあります。祈りの答えを妨げているものに3つあります。①「不義と 不従順」です。イザヤ書59:2を参照。②「利己的な動機」です。 「願っても受けられ ないのは、…悪い動機で願うからです」 (ヤコブ4:3) 。③「高慢な心」です。ルカ1 8:9~14を参照。聖書に「下に根を張り、上に実を結ぶ」 (イザヤ37:31)とあ ります。答えを得るまで祈り続けましょう。 ◎ヘブル人への手紙10:36を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記31章 「いい人を演じる必要はない」 --------------------------------------- 10月11日(金)ヨブ記31:35「全能者が私に答えてくださる」 以前『いい人をやめると楽になる』 (曽野綾子著)という本を読みました。これは何も 悪い人になれ、という意味ではありません。多くの人は「ほめられたい」 、 「認められた い」という願望をもっています。理想の嫁・姑・夫・妻・子供になろうとして、背伸び をしたり、気負ったり、人間関係で悩んでいる人が多いのです。疲れない付き合い方は どこにあるのでしようか。 「いい子」を演じると、重荷になり疲れます。ある薬局の相談 内容は、第1位が疲れ、第2位が水むし、第3位が虫さされ、です。多くの人は疲れて います。ヨブはあくまでも身の潔白さに固執し、 「いい人」をやめることができないで苦 しんでいます。そのヨブが42章で悔い改めています。これは何を意味しているのでし ようか。人は神と出会った時、はじめて「いい人」をやめることができるのです。ヨブ の最大の論争相手は神ご自身です。 もう背伸びしたり、 飾ったりする必要はありません。 あなたはあなたで素敵なのです。ある教会の信徒が「先生、いい牧師になろうと思わな いほうがいいよ」と新任の牧師に言ったのを覚えています。相手のあるがままを受け止 めているのです。ありのままの自然体でいいのです。 ◎Ⅱコリント12:9を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記32章 「あっ・そうさん」 --------------------------------------- 10月12日(土)ヨブ記32:11「あなたの意見に耳を傾けていた」 32章から37章まではエリフの言葉です。6節をみると、彼は三人の友人よりも年 下であったので、意見を控え、遠慮してただ傾聴していました。 「耳を傾けていた」 (1 1)とは、ヨブと友人たちの議論を黙って傾聴していたことを意味します。クリスチャ ンの得意技はお説教です。いつしか牧師のような口調で、親や目上の人に語ってしまう ことがあります。多くの人は命令・指示・説教ではなく、ただ黙って共感してほしいと 思っています。以前鬼頭兄が二人の訪問看護師のサービスを受けていました。一人はア メリカの病院で勤務していた方で学歴も経験もありました。もう一人は看護学校を卒業 したばかりの若くて人生経験もあまりない方です。だから、ただ「あっ・そう」と聴く だけでした。前者は医学的な知識を押し付け、後者はじっと苦労話を聴いてくれます。 どちらが喜ばれたでしょうか。彼は「あっ・そうさん」とニックネームをつけ、その方 の来るのを楽しみにしていました。患者にとって、過去の学歴は関係なく、今どのよう に自分に関わってくれたかが問題だということがわかります。案外あなたの耳を必要と しているのは遠い人ではなく、身近な存在の人かも知れません。 ◎ローマ人への手紙10:17を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記33章 「ステンドガラス」 --------------------------------------- 10月13日(日)ヨブ記33:4「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与 える」 ある町に大きな教会堂が建っていました。その中にすばらしいステンドグラスがつけ られていました。ある日、大きな嵐がその町を襲い、その教会のステンドグラスは壊れ てしまいました。人々は大変ショックを受けました。そして壊れたガラスを拾い集めて 箱の中に入れて、教会の地下室に運びました。一人の旅人が「このガラスの破片をよか ったら、私に譲ってくれませんか」と頼みました。人々は、 「どうぞ、どうぞ、お持ち下 さい。もう何の役にも立ちませんから」と、それを承諾しました。しばらくしてから、 一通の招待状が教会に届きました。ある有名なガラス工芸家からでした。工芸家のアト リエに行くと、ステキなステンドグラスが完成していました。その工芸家は「これは私 があなたがたからいただいた、壊れたガラスの破片です。あとは元の所に戻すばかりで す」と。こうして再び、美しいステンドガラスは教会に飾られました。しかもそれは、 以前のものよりもはるかにすばらしい物でした。あなたは自分の計画に失望・落胆して いるかも知れません。そのとき、このことを知っていただきたいのです。神は弱い者を 役立つように生かしてくださいます。イエス・キリストは人生の修復師です。 ◎ピレモンへの手紙11節を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記34章 「自分の知識に依存するな」 --------------------------------------- 10月14日(月)ヨブ記34:5「私は正しい」 ヨブはどこまでも「私は正しい」 (5)と主張しています。ヨブはあくまでも自分の考 えに固執し、自分の殻を破れないでいます。自分の考え、自分の計画、自分の主義主張 は正しくて、間達っているのは回りの人だと思っています。では、どんな人が信仰をす るでしょうか。ルカによる福音書5章に、大変興味深い記事があります。あるとき、漁 師たちが一晩中働いても、獲物がなく意気消沈していました。弟子たちが失敗・挫折を したから良かったのです。失敗は恵みです。少しでも魚がとれたら、神にすがろうとし ません。もしペテロが「説教はあなたの方が上手かも知れませんが、漁にかけてはオレ たちがプロだ。オレたちが専門家だ。これで何十年も飯を食っているんだ」と従わなか ったら、奇跡は起こらなかったはずです。自分の知識、経験、長年の勘という自分の殻 が破れたことが祝福につながりました。殻が破られる経験は恵みです。私たちは人にも 神にも勝とうとします。しかし、神の前に負ける経験、自我が砕かれる経験こそが、実 を結ぶ秘訣です。自分の弱さを知ることは決して恥ではありません。案外無駄と見える 時が貴重です。人生の寄り道・立ち止まり・道草で得がたいものを発見します。 ◎詩篇37:5を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記35章 「わが望みは神よりいづ」 --------------------------------------- 10月15日(火)ヨブ記35:5「天を仰ぎ見よ」 ヨブはどこまでも「神の前に自分は正しい」と主張します。そして、神の公義に対し て不満を訴えるヨブに対して、エリフは「神を待つべきである」といいます。ヨブの苦 しみは神を信じるがゆえのものであります。神を信じていると言っても、うまい話ばか りではありません。あるときは病気をしたり、けがをしたり、事業に失敗したり、人に 裏切られたり、誤解されたりすることもあります。そんなとき、どこに解決を求めたら いいのでしょうか。14節に「あなたは神を待て」とあります。 「彼を待つ」とは、現実 から神を見るのではなくて、神から現実を見ることです。そこに立たないかぎり、ヨブ の問題も解決を見ることはできなかったのです。神を待てないからあせるのかもしれま せん。あわてるのは待てない証拠です。以前『急がない。ひとりの時間を持ちなさい』 という本で教えられました。生活の場で、静止・休止・停止という黙想の時を持ちまし ょう。現代は、待つことが苦手な時代です。何でもかんでもインスタントばやりです。 一時的な感情や思いつきで決断しないようにしましょう。急がしさにかまけて、バタバ タと動き回らないようにしましょう。あせらず、あわてず、一歩一歩です。 ◎詩篇62:5を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記36章 「病んで学ぶ」 --------------------------------------- 10月16日(水)ヨブ記36:15「神は、…彼らの耳を開かれる」 エリフは人生に艱難があるのは、人を教育し訓練するための神の手段であると言いま す。 「耳は逆境によって開かれる」とは彼の力説するところです。彼はヨブの三友人のよ うに、苦難は神の刑罰であるとは言いませんでした。人の深みと味は、どれだけ困難と 逆境を通ってきたかで決まります。それは年齢によりません。年若くても逆境を通過し た人は、重みと深みがあります。諺に「艱難(かんなん)汝を玉にす」とあります。人 は試練をあうと神に近づくものです。例えば、イザヤはウジヤ王が死んだとき、神の声 を聞きました(イザヤ6章) 。アブラハムも父テラを失った悲しみの中で神の声を聞きま した(創世記12章) 。ヨシュアもモーセが死んで神の声を聞きました。いざという時、 人は何かにすがりたい・頼りたいと思うものです。受験生に人気がある商品は「キット カット」というチョコだそうです。 「きっと勝つ」の意味です。以前「落ちないりんご」 が売れたとか。問題にあうと縁起をかつぐのでしょう。多くの人に信仰をもった動機を 聞くと、やはり試練や困難とは無関係ではないようです。人は病むことによって、聞く 耳を持つようにされ、神の前に素直にされ、神と出会う備えができます。 ◎Iペテロ1:6~7を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記37章 「被造物は神の贈物」 --------------------------------------- 10月17日(木)ヨブ記37:24「だから、人々は神を恐れなければならない」 37章は自然界に秘められた神の栄光について語られています。冬の季節(1~13) と夏の季節(14~22)のなかで自然現象に秘められた神のみこころを示し、ヨブに 向かってこれらのことを考えてみよ、と迫るのです。自然は神の恵みです。私の実家は 農家ですが、よく父が天候を気にしていました。農業は自然が相手です。確かに暑い日 だけでなく、恵みを施す雨も雪の日も必要です。農作物には雨も日光も必要なように、 人生にも恵みの雨も太陽も必要です。 「雨宿りした木陰で思わず木の実を発見することが ある」といいます。人生の「雨宿り」で、最大の学校である病床の講義を受講するもの です。 「この痛みはなった人でないとわからない」とよく聞きます。 「病床」というクラ スで得難い経験をします。何か試練に会うと「どうして自分だけ?」と、悲劇のヒーロ ーのように思います。しかし、自分はまだ恵まれていると思うようにしています。医者 から「今晩、峠です」と宣告される人もいます。太陽の光を皮膚にさらさないように、 どんなに暑くてもズボンと長袖を着る人もいます。人工透析もいます。 「昼はあなたのも の、夜もまたあなたのもの」 (詩篇74:16)です。 ◎Iコリント10:31を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記38章 「自然に学ぶ」 --------------------------------------- 10月18日(金)ヨブ記38:41「烏にえさを備えるのはだれか」 神はヨブに自然に関する質問をされます。天と地について、海について、光と闇、雪、 雨など数々の自然の現象についてヨブに尋ねます。その中で神は二つのことを示されま した。第一は、死ぬべき人間は神の道を完全に理解しえない無知な者であること。第二 は、神の摂理の御手は常に最善で、世界を導いておられることなどです。そのように偉 大な神は、カラスの子が鳴くときもエサを与えるお方であるというのです(41) 。自然 は神の贈物です。手間をかけるとその分はね返ってきます。手をかけ過ぎてもいけない し、全くかけなくてもいけません。花を育てることは子育てと似ています。自然に対し て知恵をもつ神は、まして人間をも最善に導かないでしょうか。空の烏は蒔くことも、 刈ることもしませんが、神は彼らを養っていて下さいます。私たちは大きな事から小さ な事までくよくよ心配します。しかし、心配するのは神の仕事で、ゆだねるのは私たち の仕事です。人間が神の領域を犯すところに問題があるのです。もう重荷をひとりで背 負わなくてもいいのです。私は電車を使って他教会へ行きます。バックという重荷を網 棚に置きます。すると電車が運んで下さいます。神があなたの重荷を背負って下さいま す。 ◎マタイによる福音書6:26を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記39章 「野ろばに学ぶ」 --------------------------------------- 10月19日(土)ヨブ記39:5「だれが野ろばを解き放ったのか」 38章において自然現象における不思議を説いた神は、この章において動物の不思議 を取り上げます。 岩間のやぎや雌じかが子を産むのを知っているのは神であり (1~4) 、 野ロバを自由にしてやったのも神であり(5~8) 、野牛(9~12) 、だちょう(13 ~18) 、馬(19~25) 、たかとわし(26~30)などの特徴も神が与えたもので あるといいます。野ロバは他の動物のように飼い主がいません。馬小屋もないのです。 えさを与えてくれる主人もいません。しかし、神は荒野で生きられるようにして下さい ます。ましてや人間に良くして下さらないはずはありません。 「製品」という語を国語辞 典で調べると「販売を目的とした大量の品物」とありました。つまり、統一規格の大量 生産ということです。 「作品」を調べてみると、 「心をこめて制作したもの」とありまし た。聖書は、私たちを製品でなく、 『作品』 (エペソ2:10)と呼びます。製品は安い とか高いとか、他社と比較できますが、作品は世に1つしかないものですから比較でき ません。動物の神秘を説きながら、人知をはるかに越えた神の知恵とご配慮を教えてい ます。 『私の目にはあなたは高価で尊い』 (イザヤ43:4)と。 ◎ヘブル人への手紙13:5を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記40章 「神を見た時」 --------------------------------------- 10月20日(日)ヨブ記40:4「ああ、私はつまらない者です」 今までずっとヨブは自分の潔白・無罪を主張してきました。ヨブは無限大の神の前に 立ったとき「私はつまらない者です」と告白しました。それは「取るに足りない卑しい 者」の意味です。神を見ると人は砕かれます。 「人生は出会いで決まる」 (マルチン・ブ ーバー)のように、神を見ると必ず人は変わります。神を見る経験はイコール、人を見 る経験になります。歴史は神を見る人によって動かされます。マルチン・ルターが神を 見た時、ローマ・カトリックは震えおののきました。ジョナサン・エドワーズが神を見 た時、 「大いなる霊的覚醒」が誕生しました。ジョン・ウェスレーが神を見た時、世界は ひとりの人の教区となりました。ホイットフィールドが神を見た時、おびただしい数の 人が救われました。ジョージ・ミューラーが神を見た時、何千人もの孤児が養われるこ とになりました。そして、この神は、きのうもきょうも、いつまでも変わることがあり ません。 (ヘブル13:8)私はよく教会員に、家では号令をかける人はいません。ひと りで神の前に出るんですよ、といいます。バタバタと動かないで、静まって心の糧をい ただきましょう。 「汝ら静まりて我の神たるを知れ」 (詩篇46:10) ◎エゼキエル書37:5を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記41章 「沈黙は敗北でない」 --------------------------------------- 10月21日(月)ヨブ記41:12「わたしは…黙っていることはできない」 本章はワニのことを通して、 ヨブの弱さと高慢さを指摘しています。 ワニは力が強く、 その歯は恐ろしく、背の皮は厚くて、槍や矢で切り取ろうとしても歯がたちません。何 故、こんなにワニのことを記しているのでしょうか。それは、人間にとってワニさえ手 におえないのに、神と議論して打ち負かそうとするのは高慢なことだというのです。私 たちはちょっと大変なことがあると、これでも神は愛なのかと疑います。試練があると すぐ神がいるとかいないとか騒ぐことは、人間の傲慢であるとヨブ記は教えています。 さて、一日には昼もあれば夜もあります。同様に、人生にも晴天や雨天があります。み な必要なものばかりです。聖書は「それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっている がよい」 (哀歌3:27)と言います。しかし、黙っておれないのが私たちです。黙れな いのは主の最善が信じられないときです。私たちは人にも神にも、負けまいとします。 しかし、信仰とは神の前に無条件降伏することです。神なしではやっていけないと認め ることです。古き自分の自我に死んで、キリストと共に歩みましょう。 「神は、高ぶる者 を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」 (ヤコブ4:6) ◎ピリピ人への手紙2:3を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:ヨブ記42章 「ヨブの悔い改め」 --------------------------------------- 10月22日(火)ヨブ記42:6「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い 改めます」 この章はヨブの悔い改めの章です。ヨブは、罪もない者がなぜ苦しむのか、自分はど こまでも正しい、と主張してきましたが、とうとう悔い改めに導かれたのです。 「私はあ なたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」 (5)と。 神との直接的、個人的な出会いがヨブを悔い改めに導いたのです。神を見る経験はイコ ール自己の真相を見る経験です。これがヨブ記の語るメッセージです。聖書も「この人 による以外に救いはない」 (使徒行伝4:12)と言います。 「動物の子育て」をテーマ に、よこはま動物園(ズーラシア)の増井園長がこう講演をされました。この方は上野 動物園長や多摩動物園長を歴任された経験から、 「ツルの親鳥は、ヒナが後から必死でつ いてくるのに大股で歩き続け、ヒナを丈夫な足に鍛えていた」と。ヒナの今の苦しい経 験も、後でそれが役立つと親鳥はちゃんと知っているのです。ましてや天の父なる神は 最善以下のことをなさらないです。今の下積みの経験、人生の基礎工事が将来必ずプラ スとなります。神はいつも「必要なもの」を備えて下さいます。人生に無駄と思えるも のはありません。 「今は知らず、後に悟るべし」 (ヨハネ13:7) ◎マタイによる福音書6:8を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇1篇 「実を結ぶ秘訣」 --------------------------------------- 10月23日(水)詩篇1:3「時が来ると実がなり」 第一篇は詩篇全体の緒論のようなものです。原文では「アシュレー」 (幸いである)が 冒頭にきています。共同訳も新改訳も原文のまま訳しています。 「幸いな人よ」 (1)で す。1節は、幸いな人の「消極的な面」について、2節は、幸いな人の「積極的な面」 について記しています。つまり、幸いな者とは、ただ悪いことをしないというだけでな く、積極的に神の言葉を思う人のことだといいます。この「思う」とは「口ずさむ」 「思 い巡らす」の意味です。それも「昼も夜も」です。一日中の意味です。その結果として 「時が来ると実を結ぶ」 (3)のです。言い換えると、実を結ぶ秘訣はデボーションの確 立にあります。私生活の中で何を考え、何を読むかによってもわかります。だれも見て いないプライベートな部分で、神といかに交わるかが信仰生活を決めます。だから、教 会を出てからが本当の戦いが始まるといっても過言ではないのです。聖書は「下に根を 張り、上に実を結ぶ」 (イザヤ37:31)といいます。つまり、デボーションをおろそ かにして信仰の成長はありえません。個人生活は社会生活の土台です。信仰の上達に近 道はありません。現状に自己満足せず、基本を忠実に工夫しましょう。 ◎マルコによる福音書1:35を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇2篇 「ルー・ウォレスの回心」 --------------------------------------- 10月24日(木)詩篇2:12「御子に口づけせよ」 第2篇はメシア預言の詩です。キリストは油注がれた者(2) 、王(6) 、神の子(7) 、 諸国の支配者(8)として預言されています。人は神に逆らって何ができましょうか。 「口づけせよ」とは,服従しなさい、ということです。アメリカのルー・ウォレスは過激 な無神論者でした。彼はキリスト教を撲滅しようとして一冊の本を書こうとしました。 それで5年間、イスラエルに飛び、欧米の大学を訪れ、死に物狂いでキリスト教研究に 没頭しました。やがて彼は「キリスト教撲滅論」を書き始めました。第2章を書いてい る途中、突然ペンを投げ出し、そこに悔い崩れました。 「わが救い主よ。わが神よ」と。 キリストの復活の事実がウォレスの心を変えたのです。彼はキリストを自分の救い主と して信じました。早速今までの原稿を破り捨て、新たにペンを取りました。そして完成 したのが『ベン・ハー』だったのです。聖霊が働くと、どんな人でも生まれ変わります。 まさかのことが起こる世界が信仰の世界です。あの問題・この問題も神が決着をつけて くれます。あきらめないようにしましょう。聖書は「求めよ」 (マタイ7:7)といいま す。答えを得るまで祈り続けましょう。 ◎ヨハネによる福音書14;1を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇3篇 「逆転の3文字」 --------------------------------------- 10月25日(金)詩篇3:3「しかし、主よ」 これはダビデが息子アブシャロムから逃げていた頃の作です(サムエル記下16章) 。 アブシャロムは父ダビデに謀反を起こし、4年がかりで人心を自分になびかせ、親を殺 そうとしたのです。 ダビデは少数の民を連れて、 ギデロン川をはだしで渡って逃げます。 オリーブ山の斜面を上るとき、ダビデは顔を覆って泣きました。彼に従った人々も皆泣 きました。山の向こう側に着くと、昔の敵サウルの一族のシムイがダビデに石を投げつ け、口汚くののしりました。ダビデの人生でこれほど孤独な時はなかったのです。しか し、ダビデは「しかし」と、逆転の3文字である神に希望を置いたのです。ここにダビ デの偉大さがあります。 私たちの人生にも中傷や攻撃や誤解されることもあるでしょう。 『なぜ、どうして?』と思うことがあるでしょう。この世は矛盾が多いです。教会に来 ない人が、クラスの成績がいいし、うまく妥協して上司に好かれることもあるでしょう。 「しかし、主よ」と、ダビデのように、神に望みをおく人は強い人です。神に頼ること は弱虫のすることだという誤解・偏見もあります。神に信頼する人は弱い人ではなく、 かえって強い人です。きょう、神に望みを置いて祈りましょう。 ◎ローマ人への手紙8:18を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇4篇 「荒野の恵み」 --------------------------------------- 10月26日(土)詩篇4:3「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ」 私は農家の長男としで生まれたので、 日曜日には畑仕事を手伝っていました。 だから、 高校生のとき教会に行き始めてから、戦いが出てきました。親の反対がありました。靴 を隠されたり、自転車の空気を抜かれたり、聖書を取り上げられたり…。土曜日には「神 様、あすは雨にして下さい」と祈りました。雨天という理由で、畑に行かないでいいか らです。今思うと何と自己中心な祈りだったと思います。農家ではなく、公務員の家庭 に産まれればよかったと思ったこともあります。今は農家に産まれ、信仰が反対された ことも感謝しています。なぜなら、そこで信仰が試され、鍛えられたからです。信仰の 土台は温室ではなく、 荒野で築き上げられます。 神は愛する者を特別に扱われるのです。 自分にとってはあの経験が良かったのです。黄金も、灼熱の炉に入れられて精錬されな ければ、ただの鉱石にすぎません。どんな高貴な宝石も磨かれなければ、原石のままで す。神の器は一日にして造られるものではありません。不必要な、意味のない試練は一 つもありません。りんごの木の枝は剪定されます。自分勝手に伸びきった枝は切られま す。 枝が手入れされることは痛いですが、 その目的はもっと良い果を実らせるためです。 ◎ヨハネによる福音書15:2を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇5篇 「朝明けの武器」 --------------------------------------- 10月27日(日)詩篇5:3「主よ。朝明けに私の声を聞いてください」 昔から、詩篇3篇は朝の祈り、4篇は夕べの祈り、5篇は朝明けの祈りとされていま す。3節には「朝明けに」という言葉が2回出てきます。著者の周りには、 「誇り高ぶる 者」 (5)や「待ち伏せている者」 (8)など、たくさんの敵がいました。私たちも周囲 にたくさんの問題で囲まれます。でも大丈夫。横は問題で山積みですが、上の窓・天の 窓は開いています。それが祈りを生みます。あなたには祈りという武器があります。あ きらめないで、祈りを活用しましょう。もちろん、武器を持っているのと活用している のは違いますが。今から88年前、1925年に、物部赳夫宣教師はブラジルに移民し た人々に伝道しようと出発しました。聖書学院を卒業し、ただ宣教の情熱だけをもち、 資金も乏しい中、ブラジル日系人を訪問し、教会ができていきます。しかし、3年半で 病と疲労に倒れ、最後は戸板の上で召されます。実は、物部先生の志を受け継いで伝道 者になったのが、田名網七五三吉(しめききち)です。その伝道の実として、現在30 以上の日系ブラジルホ―リネス教会があります。祈りは家庭の武器です。祈祷は祈闘で す。あきらめとの戦いです。何か家庭に問題があるのは、祈るようにというサインかも 知れません。 ◎ヤコブの手紙4:3を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇6篇 「聖書的な癒し」 --------------------------------------- 10月28日(月)詩篇6:2「主よ。私をいやしてください」 昨年ある方に「まだ生きているんですか。もうとっくに召されたかと思いました」と いわれました。生かされているのは、偶然ではなく、使命のある証拠です。何と言って も、前向きに暮らせるのは、主による心の癒しがあると信じます。さて、聖書的な癒し とは何でしょうか。私の友人が神学校を卒業するときに、ある宣教師が「皆さんは、魂 を愛するのではなく、人間を愛してください」と言ったそうです。これは別の言葉で言 えば、 「魂の救いだけではなく、人の救いを目指して伝道しなさい」ということです。も ちろん、福音が魂だけを救うということはありませんし、救いが魂にのみ留まるという こともありません。だから、聖書的な癒しということも、肉体の癒しや魂の癒しだけで はなく、全人格的な癒しの御業をいいます。主イエスは病人を癒した後、魂の癒しも行 っています(ヨハネ4:53、9:38) 。つまり、主にあっては心とからだは一つなの です。もうすでに癒されているから、前向きに暮らせるのです。反対に、五体満足でも 心の癒しがないために、 苦しんでいる方が何と多いことでしょう。 バランスが大切です。 肉体の癒しのみが強調されえる時代にあって、心の癒しも主の恵みです。 ◎Iテサロニケ5:23を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇7篇 「イエスさま、ありがとう」 --------------------------------------- 10月29日(火)詩篇7:17「主を、私はほめたたえよう」 本篇は、ダビデがサウルに追われて逃げていた時のものです。ダビデは、サウル王に 誤解され、中傷され、命をねらわれました。しかし、主に向かって感謝と賛美を忘れま せんでした。私は、主への感謝を忘れないために気をつけていることがあります。①は 「これくらいの怪我で良かった」と思うようにしています。歩行困難のため、毎日転ん であざを作ったり、血を流したりします。 「痛い!イエスさまありがとう。骨折しないで 良かった」と思うと、すぐ感謝に変わります。自分にとって骨折が一番要注意です。不 慮の事故があっても、 「いのちが助かった」と思ったら、些細な失敗・挫折しても感謝に 変わります。②は「失ったものを数えるな。今あるものを数えよ」です。年をとると、 獲得の時代から喪失の時代になります。若いときの気力が衰え、身体的に老化が出てき ます。肉体の衰えゆえに「あれもできない。これもできない」と失ったものを見がちで す。 「ない」ものではなく、 「ある」ものを見ることです。聖書は「主の良くしてくださ ったことを何一つ忘れるな」 (詩篇103:2)といいます。偶然や当たり前ではありま せん。何を忘れても、神の恵みは忘れないようにしたいです。 ◎Iコリント15:10を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇8篇 「自然界と人間」 --------------------------------------- 10月30日(水)詩篇8:4「人とは、何者なのでしょう」 私は礼拝の牧会祈祷でこの句を良く唱えます。それは被造物と比較し、今あるは神の 恵みと信じるからです。4節の「人」 (エノシュ)は「死すべき者、弱き者、はかない者」 を意味し、 「人の子」 (アダム)は「土のちり、罪の子」を意味しています。そして、 「こ れを顧みられるとは」とは「失われた者を捜し出す」の意味だそうです。ダビデは月や 星や無限の宇宙を見て、人間がいかにはかないか、また、その無価値な人間に御目をと めて下さる神の愛を知ったのです。以前「三浦市役所主催のリハビリ教室」で講演をし ました。その時に、家庭で障害者や高齢者を邪魔者扱いしないでほしいとお願いしまし た。むしろ、家庭で何かの役割をお願いし、居場所を用意し、その存在そのものを喜ん であげること。例えば、 「お留守番ありがとう。お陰で教会に行けた」と、少し大袈裟で もいいから、必要としていることを伝えることです。自分が必要とされているんだとい うことが、社会や家庭で生きる力となります。生きる意味を失うと、命を粗末にします。 聖書に「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」 (ルカ19:10)とあ ります。今あるは神の恵みです。無に等しいものを選ばれたのです。 ◎ヨハネによる福音書15:16を読んで祈ろう。 --------------------------------------- きょうのメニュー:詩篇9篇 「心の拠り所」 --------------------------------------- 10月31日(木)詩篇9:9「苦しみのときのとりで」 私たちの回りには、試練という敵、悲しみという敵、病気という敵が待ち構えていま す。そのとき、それに打ち勝つ防御施設、つまり、 「苦しみの時のとりで」を備えている 人は平安です。言い換えると、心の拠り所です。 「とりで」とは、確実な保護者の意味で す。クリスチャンと未信者の区別は、 「避け所」があるかないかで差がつきます。海が干 潮の時は岩がよく見えます。しかし、海が満潮になると岩が隠れます。岩は事実上残っ ていますが、満潮の時あたかも岩が消えてしまったかのように隠れるのです。これと同 様に、私たちの問題も神を見上げるときに、あたかも消えてしまったかのように隠れま す。現実の問題は残っていても、満潮の信仰で祈ると安らぎがあります。 「ライフライン」 で、日野原重明氏と星野富弘氏の対談がありました。その中で「肉体的に病んでいても、 前向きに生きるという健康観をもつことが大事」 と話されていました。 確かに朝起きて、 今日あれをしようと目的・使命があれば生きがいになります。ところで、その希望はど こからくるでしょうか。聖書は「私の望みは神から来るからだ」 (詩篇62:5)と言い ます。そうです。希望は上から与えられるものです。 ◎ヨハネによる福音書11:40を読んで祈ろう。 ---------------------------------------
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