イタリア/ポルティコの街で

イタリア/ポルティコの街で
山形の街作りを考えた「ボローニャの会」の3年間
ボローニャの会
はじめに
山本陽史(山形大学教授・ボローニャの会世話人)
本書は山形の街作りについて考える市民の会「ボローニャの会」の3年間の
活動の集大成として作りました。イタリア・ボローニャ市訪問記などのいくつ
かの報告、対談、会員の提言などを収録しています。
会の名称の由来や行ってきたことについては、後出の「ボローニャの会から
の提言(中間報告)」をご参照ください。山形大学が会の運営をサポートしてき
た経緯があって、今回の出版にこぎ着けました。
さて、本会はこのたび3年間の活動にいったん区切りを付け、発展的解消を
図ることとなりました。ここに来て、ボローニャ市と山形の市民レベルの交流、
ボローニャ大学と本学との具体的な交流が今後始まる見込みとなったことを望
外の喜びとしています。
このささやかな取り組みが今後も形を変えながら継続していくことを会の一
員として願ってやみませんし、そのために必要なサポートは続けていきたいと
思います。
(2014年3月記)
目
次
ボローニャの会からの提言(中間報告)
山本陽史
1
ボローニャ市・ボローニャ大学訪問記
山本陽史
4
ボローニャ再訪記
山本陽史
6
8
ボローニャの会 熊谷顧問-結城学長新春対談
『ボローニャ紀行』の2年間
鈴木喜恵子
35
「ボローニャ紀行」を巡って
原葉子
37
「今、山形から世界へ発進 — 文化・芸術活動を中心として —」岸 実瑩
38
「古い町の古い家屋に人を呼ぶまちづくり」
・・・・ささやかな実践を通じて
ボローニャ景観紀行 (時系列編)
正木徹
43
熊坂俊秀
48
「土に叫ぶ」松田甚次郎、空手還郷で残したもの。脚下の実践/未来への遺産
都市と自己本位
菅野佑一
61
貞包英之
69
ボローニャの会、ボローニャ訪問視察参加に基づくまちづくりへの提言
蘆野眞一郎
74
井上ひさしさんが教えてくれた日本の3つの大切なもの-笑い・方言・地方
山本陽史
- ⅰ -
77
2012年9月16日
ボローニャの会からの提言
(中間報告)
山本陽史(山形大学教授・ボローニャの会世話人)
はじめに − ボローニャの会とは −
ボローニャの会は、山形大学特別プロジェクト「いま、言葉を東北の灯(と
もしび)に」の一環として、震災後の東北に生きる私たちがどのように復興と
街づくりにかかわっていけるのかを話し合うためにはじまりました。
山形県川西町出身の作家井上ひさしさんの『ボローニャ紀行』(2008、文藝春
秋)に学ぶためにこの名がつけられています。
どんな活動をしてきたか
2011年10月に第1回の会があり、それからおおむね月1回、平日の夜に1時間半
の会合を重ねています。年会費も規約もなく、入会脱会自由の会員が自由意志
で参加するゆるやかな会です。山形大学教員が事務局を引き受けていますが、
会員の大半は学外の様々な年齢と職業をお持ちの一般市民の方々です。
会員有志の発表とディスカッションを基本とし、ときおりゲストを招いての
講演などを通して、山形そして東北の街づくりについての提言をまとめようと
しています。
来年に最終の提言を発表する予定ですが、発足からほぼ1年経ちましたので、
中間報告をいたします。
ボローニャの何を学ぶか
井上さんはイタリアの都市ボローニャの街づくりに深い感銘を受け、現地を
訪れてこの作品を書きました。
ボローニャは人口四十万人程度の中規模都市で、パスタのボロネーゼ(ミー
トソース)の発祥の地、ヨーロッパ最古の大学があることで日本でも知られて
います。第二次大戦後の復興にあたり、さまざまな制約と統制を伴うアメリカ
のマーシャル・プランによる復興資金のイタリア中央政府による交付を拒否し、
国に頼らない独自の街づくりを図りました。それは井上さんによると4つの原
則にもとづいています。
1、女性が安心して働ける環境をつくるために、公共保育所を作る。
2、中心市街地の歴史的建造物と郊外の緑を保存し維持する
3.
「投機」を目的とした土地建物の売買はしない。
4、市内の職人企業の工場が発展しても大企業化せず、分社化する。
加えて、文化・芸術活動も盛んです。市内には美術館・博物館と劇場がそれ
ぞれ40くらい、映画館が50くらい、図書館が70以上あると言われています。
そして営利・非営利にかかわらず何か事業を起こそうとする場合には、「協同
-1-
組合」を結成し、横のつながりでことに当たるのが常態化しています。
国に頼らない街づくりは住民が自治や行政に深く関与することにもなり、日
本で言う連合町内会のような「地区住民評議会」と呼ばれる組織は、一定の予
算を持ち、自治体に近い権限を与えられているのです。
ボローニャの会の現在の議論
上記のようなボローニャのすぐれた点を参考にしつつ、過疎化・少子高齢化
や震災の影響のある東北・山形でいま私たちがやっていくべきことは何なのか、
会では和やかな中に真剣な討議が重ねられています。現在どのようなことが話
題になっているのか、必ずしも全員で合意していない内容も含め、以下に挙げ
ておきます。この内容を基本に提言をまとめていきます。
1.空き家を街づくりの拠点に
現在全国の家屋の13%が空き家になっていると言われています。山形は全国
比較では空
き家率は実は低い方ですが、空き家を安い家賃で貸し出し、若
者のシェアハウスや芸術
家集団の拠点として活用するという活動をすでに
行っている会員がいます。今後はさら
に空き家の利用が進むシステムを構
築していくべきです。
2.東北芸工大・山形大学など高等教育機関の連帯、ボローニャ大との提携に
よる街づくり
ボローニャのように大学が町中に点在し、文化・芸術・産業のバックボーン
としての役割をさらに果たすべきです。
また、ボローニャ大学に学ぶために交流を図るべきです。
3.地域共同体の成因としての役割を見直す
日本人の生き方は「お上」の指示を疑うことなく従い、他人に自分の行動を
合わせることがしばしばありました。しかし、震災後にはそのような生き方に
対して疑問が呈されています。
個人として考え、他者と横のつながりとして連帯して行動していくことによ
って地域共同体を活性化することにつながっていくのではないでしょうか。そ
の場合の個人とは「権利」だけを主張するのではなく、共同体の成員としての
「義務」
、役割を果たすべき存在を言います。
4.文化の「共同購入」協同組合の再構築
ボローニャであれだけの数の文化芸術施設が維持されているのは、多くの人
々が出資したり、会場に足を運ぶ人がいるからです。そのような文化や芸術事
業を「採算が取れる」も のとすることが大事です。かつてあった芸術鑑賞団
体は著しく衰退していますが、もう一 度その良さを見直し、
「協同組合」のよ
うなもんを再構築してはいかがでしょうか。
5.文化芸術施設に足を運ぶ・会合でさまざまな人と顔を合わせ
前項と関連しますが、日本人はどうも出不精であったり、見る(聴く)前に
評価を決めてしまう傾向があるのではないでしょうか(本日ご来場の皆様には
あてはまりませんが)
。
足を運ぶことが文化芸術事業を支えることになります。
また、いろいろな会合にも積極的に顔を出し、Face to Face (フェイス・ト
ゥ・フェイス)で議論する土壌を作ることがこれからの街づくりには欠かせま
せん。
5.中心市街地の建物などの保存と活用
文翔館の成功例という良き前例があります。まだまだ再活用できる建物があ
-2-
るはずです。
6.コンパクト・シティの実現
役所や文化施設・商業施設が中心部に存在するのはヨーロッパの町では通常
のことです。
パリのような大都市でも主な施設を徒歩で回ることが可能です。中心部と周
辺、郊外とい
う諸地域の機能の棲み分けの見直しを行うべきです。
7.既存の交通インフラの活用
自動車に過度に依存することは鉄道やバス網の衰退を招きます。少子高齢化
社会ではお年寄りや障害をお持ちの方、免許を取れる前の若者などの交通弱者
をいたずらに増やし、かえって引きこもりを増やすことになってしまいます。
むろんコンパクト・シティの実現のためにもこれらのインフラの活用は欠か
せません。
8.地域固有の歴史・文化・自然・産業資源の価値の見直しと活用
山形交響楽団やモンテディオ山形といった、プロ集団がこの規模の地域に存
在していることは世界的に見ても稀有のことです。それ以外にも世界に誇るべ
き資源がたくさん山形にはあります。これを積極的に活用し、経済や人的交流
の活性化に活用すべきです。
9.歴史・自然・文化的風景に配慮した景観形成
町歩きやの醍醐味は美しい風景に出会う感動に尽きると思います。古木の前
に幟(のぼり)を林立させたり、歴史的建造物の前に目隠しになる標識を設置
してしまったりして景観を台無しにしてしまうことに鈍感ではなりません。
-3-
ボローニャ市・ボローニャ大学訪問記
山本陽史(山形大学教授・ボローニャの会世話人)
2013年11月18日から22日にかけて「ボローニャの会」会員有志が、
3年間の活動の集大成としてイタリア・ボローニャ市を訪問し、文化資源と歴
史的建造物を生かした街作りについて視察しました。私はその旅行の引率をい
たしました。
ボローニャ市は人口約38万人、ヴェネチア・フィレンツェ・ミラノ・ロー
マなどイタリア主要都市を結ぶ交通網の要にあり、包装機械などの製造業が発
達し、商業都市としても知られています。
また、1088年に創立されたヨーロッパ最古の大学ボローニャ大学はボロ
ーニャ市内中心部にキャンパスが点在し、現在も学生数およそ7万5千人万人
の規模を有するイタリア有数の総合大学としてヨーロッパの学芸の一つの中心
となっています。
大学はもちろん、ボローニャ市は歴史的建造物を保存再活用するなどの施策
を通して、中心市街地が空洞化せず賑わいを失っていないこと、映画や演劇・
音楽などの豊富な文化資源の存在、女性の権利の尊重などの施策で知られ、山
形出身の作家井上ひさし氏がその著書『ボローニャ紀行』で高く評価していま
す。
このたびの視察では、市街地での総延長が40キロメートルに迫るという「ポ
ルティコ」(アーケード柱廊)で歩行者の便が図られた中心商店街、種々の歴史
的建造物、タバコ工場と屠(と)殺場の建物を再利用した「チネテカ」(映画フ
ィルム修復施設と映像資料図書館)・ボローニャ大学のもとキャンパスであった
市立図書館、もと女子修道院があった建物にある女性図書館、古代遺跡の上に
作られたニューメディア図書館、煉瓦工場の建物をそのまま利用している産業
博物館、宮殿に入っているボローニャ大学本部に隣接するボローニャ市立歌劇
場などの施設を視察しました。
そして、ボローニャ市役所を訪問し、市の経済局長マウロ・フェリコーリ氏
から、中心商店街の空洞化防止の経緯と、文化資源を生かした街作り政策の説
明を受けました。併せて、山形国際ドキュメンタリー映画祭に対する関心の高
さが表明されました。なお、席上羽黒山伏の資格を持つボローニャの会会員に
よるホラ貝の演奏披露もあって会談は大いに盛り上がりました。
-4-
また、視察旅行の後半合流した本学結城学長がボローニャ大学学長を表敬訪
問し、先方の国際交流担当副学長と研究者や学生の交換等、今後の大学間交流
についての打ち合わせを行い、今後も継続して連絡を取り合い、具体的な内容
の提案をしていくことで合意しました。
加えて、ボローニャ大学と日本の各大学でも教鞭を執っておられたジョヴァ
ンニ・ペテルノッリ氏(愛称ニーノさん、井上ひさしさんとも親しかった)が
理事長をつとめるボローニャ東洋美術研究所で山本が日本文化に関心を持つ現
地の学生や市民に対し、井上ひさし氏の文学的業績と震災後の東北についての
講演を行いました(本書巻末に講演内容を収録しています)。
-5-
ボローニャ再訪記
山本陽史(山形大学教授・ボローニャの会世話人)
ボローニャ市・ボローニャ大学と山形大学の具体的な交流内容を詰めるため、
私は2014年2月16日から21日まで現地を再訪しました。
ボローニャ大学の国際交流担当者との打ち合わせでは、教員の研究交流を進
めていくことで大筋合意し、まずはボローニャ大学の東洋学関係の教員を山形
に招くこととしました。具体的には2015年になるとの見通しです。
また、チネテカとボローニャ市役所では、映画関係者、とくにドキュメンタ
リー映画制作者の代表と面会ました。先方は山形の映画祭に大変強い関心を寄
せており、具体的な交流を始めたいという要望がありました。
前年11月には訪問できなかったコーパップス(障害者を雇用している農場)
と、コーパップスが経営している山のレストラン、イル・モンテを訪れること
もできました。イル・モンテは冬期は営業していませんが、コーパップスで農
場で働く皆さんと昼食をご一緒でき、貴重な体験となりました。
訪問の合間を縫ってボローニャ市の中学校を訪問し、
『おくのほそ道』と俳句
教室を開催しました。山形の文化資源の一つである『おくのほそ道』と芭蕉の
俳句についてまず解説し、その後生徒たちにイタリア語で俳句を作ってもらい
ました。日本語のように17音で作ることは難しいので、季節をあらわす言葉
を入れた三行詩、ということで作ってもらい、それを私が日本語の575に訳
すという試みでした。
その中で、たとえば『おくのほそ道』旅立ちの句「行く春や鳥啼き魚の目は
泪」を説明しましたが、イタリア語では鳥は楽しく歌うもので、鳴き声が悲し
みとは結びつかない、といった文化の違いが明らかになりました。違いだけで
はなく共通点も有り、俳句では感情を表す言葉があまり使われず、自然の事物
にこと寄せて自身の気持ちを表現することが多いことは、すぐに理解してくれ
ました。
ちなみに、イタリアの詩は長く、押韻などの規則が複雑なために、小中学生
が詩を作ることは不可能なのだそうです。子供たちにとって今回の俳句教室が
初めて詩を作る体験だったとのことですが、みんな俳句作りに熱中してくれた
のがとても印象的でした。山形、日本の文化を伝えるのに俳句は非常に大きな
武器となることを実感し、今後の文化を通した国際交流戦略を考える上で大き
-6-
なヒントを得ました。
中学校で『おくのほそ道』について説明
中学生の俳句を日本語の俳句に訳しました
-7-
ボローニャの会
熊谷顧問-結城学長新春対談
2014年1月7日(火)大学コンソーシアム山形
熊谷眞一 シベール特別顧問
結城章夫
山形大学学長
司会 山本陽史 山形大学基盤教育院教授
ボローニャ市立歌劇場の桟敷席(かっての富裕層の指定席)
山本> お二人ともボローニャにいらっしゃっていますので、まずボローニャの
印象からお話いただきたいのですが。
熊谷>私は平成24年の12月、ボローニャを訪問しまして、井上ひさしの『ボ
ローニャ紀行』の足取りをたどりました。ニーノ先生(東洋美術研究所理事長
ジョバンニ・ペテルノッリ氏)という方が日本語が非常にご堪能で、先生とお
話しながら、散策したり、カフェでお茶を飲んだり、ボローニャを理解したと
言うより、感じてきたという印象が強いですね。
-8-
ボローニャのあの街がもっている記号というのはいったい何だろう、と考えま
すと、私なりにほっつき歩いて、市役所の壁にあるレジスタンスで犠牲になっ
た市民の写真の前に立った時に気付いたことがあります。レジスタンスの歴史、
つまり、理不尽なものに対しては、命がけで反抗するという気概がある。これ
が内部においては、トレランス(寛容)という気風を生み出していると。現象
としてはまさに正反対でありますけれど、根っこのところではつながっている
にちがいないと感じました。
ボローニャ美術研究所でニーノ先生の説明を受けながら資料を拝見
実は今わたし、東北芸術工科大学の大学院の2年生になっておりまして、修
士論文のまとめに入っています。その四分の一くらいは、ボローニャに関して、
です。私の場合には、井上ひさしと出会う前に宮沢賢治との出会いがありまし
た。「雨ニモ負ケズ」を読んだ時ですね。井上ひさしをはじめとして、賢治に影
響された人は東北に数多くいらっしゃるかと思うけれど、いわゆる「思い残し
切符」というのはまさに、井上ひさしが受け取ったものではないかと思うんで
-9-
→市役所の壁に貼ってあるレジスタンスの犠牲者の写真
- 10 -
すね。そのあとに私が井上ひさしとつながったものですから、井上先生のおっ
しゃる「広場」というキーワードがあります。3つの道があってはじめて広場に
なると。私と井上先生がつながっているのは一本の通路ですから、それに他の
2本の通路が一緒になると、それが丁度トライアングルになりまして、その中
から、あぁ、悠々とお考えが書かれてくると、そう言うような感じですか(笑)。
私の場合は、考えてみると、これまでは、ホラの後始末をしてきた人生かな、
と。今もこれまでで一番のホラ吹いてますので、今まで生きてきて一番忙しい
思いをしております。
山本>学長お願いします。
結城>去年の11月の後半にボローニャへ行き、3泊いたしました。私にとりま
しては、初めてのボローニャ訪問でした。典型的なヨーロッパの中世都市で、
あの赤レンガ色の街並みが印象に残っております。私が行った一番の目的は、
ヨーロッパで一番古い大学、という事は世界で一番古いということになるかと
思いますけれど、ボローニャ大学と山形大学の連携協力の可能性を探るという
ことでありました。学長が来たということで、先方のボローニャ大学のDIONIGI
学長も出てきまして、話すことができました。学長との間では社交的な話しか
しなかったんですけれども、実務的な話は、国際担当の副学長、女性の方でし
たけれども、この人と一時間ちょっとぐらい話をしてまいりました。で、お互
いの関心事項も大体わかってきましたし、特に相手の顔もわかりましたので、
どの人と交渉すればいいのかということがわかったという事で、今回の大きな
成果だったと思っています。こういうものは、これだけでは物事が進んでいき
ませんのでフォローアップが必要なわけであります。何回も繰り返し、やっぱ
り会うことが必要だと思っていますので、とりあえず山本先生には、2月にも
う一度行ってくださいとお願いいたしました。話の続きを進めていただいて、
協力の具体化をはかってもらいたいと思っています。
山本>3月にフラテルナル座の方がお見えになるということで、シベールアリー
ナとの交流っていうのも本格的になるかと思うのですけれども、熊谷さんは今
後のボローニャとの交流は、どのようにしていきたいとお考えでしょうか?
- 11 -
熊谷>コーパップスをこの山形で実際に創設したいと考えています。サンドリ
さんにある場所で、必ずこれをやりますと宣言しちゃったんですね。私の場合
はいつも宣言からはじまりまして、それで自分を追い込んでいく、というスタ
イルでこれまでやってきているものですから。これは、同時に井上ひさしに対
する宣言でもあって、いわば井上ひさしからもらった申し送りにもなっている
わけですから、この切符をもって、ある到達する駅に着かなくちゃいけないな
と。サンドリさんとはその場で、アドバイザーになっていただくお約束をして
まいりましたんで、今後も何かにつけて、山形においでいただき、いろんなと
ころを回っていただくといいかなと。日本の中にはすでに、コーパップスと似
通っているわけではないにしても、先行している例は結構ありまして、著名な
ところでは栃木県にココ・ファームというのがありますし、日本のなかでも、
いわゆるボローニャ現象は確実に浸透しつつあるという点を申し上げておきた
いなと思います。
私は、ボローニャ市長のマウルさんという方にもお会いしまして、ボローニャ
市と山形市が姉妹都市になられませんか?
と尋ねましたところ、私のほうに
それを遮るものはありません、要はあなたたちの意欲いかんですよ、いっしょ
けんめい取り組んでもらえれば応じますよ、とのニュアンスでした。ですから、
早速市長にもう一回持ち掛けてみようと考えています。市長も未来都市宣言を
やろうとしていますので、映像関係の絡みで、宝物の山であるチネチカとの結
びつきとかから始めるのも手かなと。自分勝手に言ってしまったんですけど、
思いがけずいい方向にいくといいなと、思っております。それから、フラテル
ナル座ですね。丁度行ったときに、井上先生のあの二人芝居『父と暮らせば』
のセットで練習をしておるような最中で、仮面を使った寸劇なんかもやってい
ました。山形に来るのはもう一人いて、三人でなんかそのために書下ろしをさ
れたようですね。世界中ではじめてシベールアリーナでそれが上演されること
になります。これは大変画期的なんですね。同時に20名でワークショップも行
います。私は勉強に行ったわけですけれども、根っからのベンチャーで勉強で
終わるタイプではありませんので、学んだ以上はそれを具体的に形にするとい
うことをめざしています。
山本>たぶん、お会いになったのは、マウロ・フェリコーリ氏ですよね。市の
経済開発局長の。
- 12 -
左から5番目がフェリコーリ氏
彼は街づくりの専門家で、ジェノバ大でも講座をもっている研究者でもありま
す。彼は、日本の堺市とすでに姉妹都市なんだけれども、結婚しているわけじ
ゃないから、山形とも交流したいと。先日、私のところにメールが来ましたけ
れど、映画祭に非常に興味があるので、交流できないかということで、2月に行
ったときに話を進めたいと考えています。学長、大学自体との交流というのも
あるかと思いますが、それ以外の部分で、こういうものができるんじゃないか
とイメージしているところがありますか。あ、もちろん大学の中のことから先
でも。
結城>まず大学の交流だと思うんですけれども、ボローニャ大学にも、東洋文
化だとか日本文化を研究している研究者がいまして、日本に対する関心は非常
に高いように思います。今回行った時に、山本先生が、そういった研究者を対
象に、井上ひさしと浮世絵について講演をされたそうですが、非常に好評であ
ったというように聞いております。国際担当副学長の会議にも、日本の仏教美
- 13 -
術か何かを研究しているニコレッタさんという方がおられて、ぜひそんな方を、
山形に招聘したいと思っております。山形に来てもらって、出羽三山とか山寺
とかもあるわけですから、そういうものを観てもらって、交流を深めていった
らどうでしょうか。それと、先方は有機EL、に関心がちょっとあって、化学の
研究者の方が二人ほど来ておったんですけれども、先方の研究のレベルがよく
わからなくてですね、うちの工学部に紹介しようとは思っておりますが、どの
ぐらい協力ができるか、ちょっと、これからの課題だなと思っております。と
にかくいろんな場面で、ボローニャ大学と山形大学の接点を作って、お互いに
とって有意義になるような交流、協力を、積み重ねていくと。実績を作って、
いずれその、大学間の協力協定にもっていく。その協定ができますと、お互い
に学生の交流もできるようになり、学生がお互いに行ったときに、授業料払わ
なくても、相手のところで受け入れるというようなことができるようになれば、
山形大学の学生で、イタリアに行って勉強したいと、いう学生がいると思いま
すので、売り込み先としてボローニャ大学を考えていきたいと思っておるとこ
ろです。
熊谷>学長がいらっしゃると、話がいきなり具体的になりますね。私は、ポエ
ム的にアプローチするというのが、基本形でありまして、いい加減なもんなん
ですよ。いい加減にしないためにはやるしかないという、そっちの方向に走っ
ていくわけで、私のアプローチ方法と、学長と、山本先生のアプローチの方法
がいっしょになったら、とっても面白いことになると思いますね。
山本>芸工大との方はどうですかね。演劇とか映画学科もあると思いますが。
熊谷>芸工大は、大学院で、いろんな先生のところでお世話になりながらやっ
ていますけれども、直接何を教わるというよりも、やっぱり刺激ですね。自分
は大したことなくても、頂き物がどんどん、どんどん詰まっていくんですね。
それはすぐに次には活かせない。でも、それは他の先生方と直でお話をして非
常に刺激を受けて火花が散ると、私の思考回路の中で底の方に眠っていたもの
が、ふっとこう浮かんできて一緒になって、成果に結びつくことになります。
勝手成果の方程式と言ってますけども、単純な方程式で、y=ax+bです。xは情
報が入ってくる入力、yは出ていくものですけども、aと言うのは、私がオリジ
- 14 -
ナルとして持っているもの、プラスbというのは、他人様からいただいたもの
になります。ただ入ってくる情報というのはプラスばっかりじゃないんですね。
マイナス的に入ってくる場合があるんですよ。そのときには、ボローニャ方式
でトレランスというマインドで、そこに襲いかかるんです。マイナスが大きけ
れば大きいほどプラスが大きくなってくるという、そう言う理屈をこねていま
して、y=ax+bなんだと。単純な問題に還元せよと、そんな風に言ってますけど、
そういう意味では、ボローニャに行って、プラスbのところに、たーっぷりと蓄
えられて帰ってきました。これからはホントに生涯かけて、ボローニャシステ
ムっていうものをやって、あわよくば、全国に、ボローニャシステムを流行ら
せたい、ボローニャ病を広めたいと、そんな風に思っております。
山本>ボローニャの会もできましたし、ボローニャに行くこともできました。
大学としての講演もできました。そう言う意味では、だいぶ病気が広がりつつ
ある、ということですね。大変楽しい病気というか、嬉しい病気ですね。この
三年間ぐらいですけれども、ここまでやって、市民のみなさんも何人かいらし
たということで、とっても大きな動きになっていると、大変ありがたいことだ
と思います。
結城>大学の話に戻りますけれども、大学の出来方が、やっぱり全然違うとい
うことを認識いたしました。山形大学は国立大学ですから、国が、日本の国の
発展のために、税金で作った国立大学なんですけれども、ボローニャ大学って
のはまず、ヨーロッパの各地から貴族の子弟、つまり学生が集まってきて、先
生を雇って、そして、それが大学という形になってきた。学生が作った大学と
いう事だと思います。その証拠に、それぞれの貴族の家紋があるわけですけど
も、その家紋をいれた楯みたいなものが、ずらっと並んでいるんですね。壁に
も山ほど飾ってありまして、それでそれが学生主体の大学、学生が作った大学、
という事を非常に良く示しているように思いました。こういう風にして一番最
初の大学はできたんだな、ということを非常に感心して見てまいりました。
- 15 -
→ボローニャの学生たちの家紋
山本>街づくりも勉強に行ったのですけれど、そちらも刺激はすごくありまし
た。学長がずっと掲げておられる学生主体の大学という精神とつながるところ
はありましたでしょうか?そういう、なかでもポルティコというところですか
ね。
結城>出来方がまったく違っているのですが、出来た今の姿はそんなに違わな
いんじゃないかというようにも思いました。それは実際に協力ができるベース
になるだろうと思います。それから街の印象で、柱廊っていうか、アーケード
って言うか、ポルティコと呼ばれますが、井上ひさしさんの『ボローニャ紀行』
で読んでたんですけれども、非常に立派ですね。新潟あたりの雪よけ、あぁい
うものかと何となく思っていたんですけれども、そんなもんじゃなくて、ガチ
っとしていて非常に高いですし、幅も広いですし、しかも延々と続く、ものす
ごく立派な、道路の上にかかっている屋根ということで、これは非常にすごい
ものだなと。歴史を感じる、まさに、すばらしいものだというように思い、感
銘を受けました。
- 16 -
ボローニャ市中心商店街のポルティコ(柱廊)
熊谷>その成り立ちがまた、あのボローニャらしくて、学生を住まわせるため
に、自分の住まいの前に部屋を作った。そのために、それを支える必要があっ
た。そこから来ているようで、いかに学生を大事にしたか。実は自分の自宅の
前と言ったら、ある意味一番いい場所ですから、そんなところを提供するって
いうのは、普通はあんまりないと思います。やっぱりあの街全体がそう言った
ものをほんとに大事にして、未来をこの人たちに託すしかないという、意識っ
ていうのが、高いなぁと思いますね。
山本>ボローニャ大学は、学生数が今7万5千人で、日本で言いましたら、日本
最大の大学、日大とほぼ同じ規模で、イタリアでは4番目です。だから、ボロー
ニャ以外にも、塀がなく街の中に転々とキャンパスがあって、古い宮殿がその
まま事務局で使われていたり、生協食堂とは思えない豪華なレストランがあっ
たり、広場に学生がたむろしてたり、街と学生との関係っていうのが、とって
も上手くできているなっていう感じがしました。だからポルティコはまさに学
生と共に歩む街っていう事なんでしょうけど、男女共同参画、女性の地位も非
- 17 -
常に重要視している。今、山形大学も、男女共同参画ということでいろいろや
っているんですけど、その辺は学長どういう風にお感じになりましたか。
→ボローニャ大学の学生食堂
結城>女性図書館を訪問しましたが、女性の修道院を転用していて、館長の
方も当然女性ですけども、大変立派な方でした。ものすごくテキパキした方で、
女性問題についてもリーダーだな、というように思いました。
- 18 -
ボローニャ大学は街中がキャンパス
- 19 -
女性図書館の館長
山本>熊谷さん、われわれはイルモンテに行けなかったものですから、その話
を少し聞かせていただけるとありがたいと思います。
熊谷>イルモンテは、コーパップスのシンボルなんですね。母体としてコーパ
ップスの広大な教育農園があって、そこで健常者と障害者がいっしょになって
農作業をやって、作物という命を育てながら、実は自分の命を養っていくとい
うことをやっておるんですね。その中にはものすごく面白い人もたくさんおり
まして、アンドレア君という計算の天才児がおりまして、私も何種類も買って
途中から変更してみたり、ちょっと意地悪な買い方してみたりもしたんですけ
ど、日本で算盤をはじくようにして暗算するんですね。それでぱっと出す。や
っぱり天才を秘めてる、そういう感じはしますね。それとサンドリさんと言う
方は、御自分もたしか障害をお持ちなんですが、やっぱりすごいデッカイ人で、
実際身体も小さくはないんですけども、それ以上に存在感の大きい人だなぁ、
と。
- 20 -
コーパップス(左は入口の看板、右は農園)
ボローニャでいろんなレストランに行きましたけれども、やっぱりイルモンテ
は一番おいしかった。わたしも一応プロですから、ひいき目でそう言う風に思
っている、感情移入してそう思うんじゃなくて、一人の食事、料理のプロとし
て味わった時、行ったなかでは、イルモンテの食事が美味しい。それとそこに
来るお客さんもあったかい、そして同時に心から楽しんでらっしゃって、そこ
の店にくるのをとても楽しみにしているんだなというのがよくわかりますね。
上の左はコーパップス売店、右がイルモンテのレストランの建物
下はレストランの看板のモザイク
- 21 -
コーパップスに話しを戻すと、実際に働いてる女の子、男の子の御両親たちに
ちょっとお目にかかって、いろんなことをお聞きしたんですが、やはり、基本
的に感謝していると。ただやっぱり彼ら彼女らも非常に給料をたくさんもらっ
ているわけじゃなくて、そこには限界もあるんで、自分たちが元気なうちはい
いけれども、自分たちが動けなくなった時に、この子はいったいどうなるんだ
ろう、という心配は、やっぱりされてましたね。当然だと思います。だから私
はそこでやっぱりこれは、ビジネス的手法でやらなきゃと思ったんですね。あ
すこはビジネスとは言えないわけですよ。やっぱり社会福祉という位置づけな
んですね。そうすると当然、給料を払える仕組みになっていない。そうじゃな
くて、少なくとも月十万くらいの収入を得られるようにすべきだろうと思いま
して。例えば日本で一番有名なのは、スワンベーカリーという、クロネコヤマ
トの創始者の小倉昌男さんが、御自分の資産を拠出されて、作った財団があっ
て、パン屋さんを都心部の一等地でやってらっしゃって、それとカフェですね。
そこに行きまして、社長のお話をお聞きしましたけども、そこに行くと、特に
障害者だという事を言ってるわけでもなくて、それを会社の売りにするわけで
はないと。いわゆるノーマライゼーションの観点でやってらっしゃる。そうい
うところもボチボチと出てきておりますけれども、大方はやっぱり社会福祉と
いう位置づけですね。ただその中でも鹿児島に「しょうぶ学園」なんていうの
があって、これがまたすごいところで、私は行ったことはないんですけども、
行った方が持って帰ってきたDVDを見たんですが、バンドがあるんですね。障害
者のバンドが。もちろん健常者もいて、そのバンドが、不揃だけど、妙な調和
がある。そこにもやっぱり彼らに眠っている何かがあるのかな。そんなものを
引き出せることがもしできたら嬉しいな、と思ってますけど、でもやっぱり、
やってみると未知の領域ですから。まぁいろんなことがあるんでしょうね、た
ぶんね。もうここに来て、ひるむわけにはいかないんで(笑)
、覚悟を決めて。
72歳ですから、あとに続くものを信じて走るしかないんですよ。結局。あと
何年おまえできるんだったって、答えられないですよね。そりゃ2年かもしれ
ないですし、もしかしたら。だからそんなことではなくて、走ると。私がやる
のは、オーベルジュですから、年中無休。泊まれるレストラン。
山本>ちょっと話を街に戻しまして、われわれはボローニャの街中におったわ
- 22 -
けですけれども、文化施設が充実している、という印象を受けました。たとえ
ば博物館と図書館ですよね。この辺は非常に見るべきものが多い、しかも非常
に気軽に見られる、その辺、学長どういう印象をおもちですか?
結城>産業博物館に行かせてもらいました。説明の方が非常に熱心で(笑)、情
熱に圧倒されました。井上ひさしさんの『ボローニャ紀行』にも出て来ますけ
れども、模型が実にうまくてきていまして、当時のボローニャの街の仕組み、
地下に水路が通っていて水が流れていて、水車があって、水車を動力にして機
械をまわして絹の糸を依る、それも秘密がもれないように、窓のない家の中に
閉じ込めてやっていたというようなことを、一生懸命説明していただきました。
絹糸の糸より機も、これがまた素晴らしい模型があって、何分の一かの縮小モ
デルなんですけども、ピチっと実際に動く非常に素晴らしい模型でした。あぁ
いった技術が産業革命以前にできていた。まったくの手作りの機械だったんで
すけども、それが今、ティーパックの自動包装マシーンに発展してきているの
が良くわかる展示になっていました。そのほか、バイクなどいろいろな機械も
ありました。そちらのほうは、どこにでもある町工場的なものだな、というふ
うに思ってはおりましたけれども、その絹糸のより機、あれには大変に感銘を
受けました。
煉瓦工場を再活用した産業博物館
- 23 -
→産業博物館にある模型
山本>通訳の青山さんは大変でしたけれども、説明を的確に訳してくださいま
した。動力の問題ですよね。結局、産業革命の場合には石炭が出てくるんでし
ょうけど、あれだけの水力の技量、工夫って言うんですか、なかでも半自動的
にできていたんですね。もう一つ、跡地ですね。あれは煉瓦工場だったんです
ね。そういうところをそのまま利用しているんで、使い勝手はおそらくすごく
悪いんだろうと思うんだけど、そういうところを利用する精神というのは、や
はり素晴らしいなと思いました。この辺、学長、印象に残っているところはあ
りますでしょうか?
結城>そうですね。今、通訳の青山さんの話が出ましたけれども、私、今回の
発見の一つだったと思います。いろんな通訳さん見てきましたけれども、彼女
はもちろんプロじゃないんですけども、彼女はほんとに熱心だったし、上手だ
ったし、丁寧に省略せずに、きちんと訳してくれましたし、ピカイチの通訳で
あったと思います。あぁいう方がボローニャに住んでおられる、しかも比較的
- 24 -
安価で、プロなら二時間分くらいの値段で一週間ほど雇ってしまったわけです
けれども、彼女があそこにいてくれると言うのは、強みといいましょうか、こ
れからあの、ボローニャとの交流を深めていく上で非常に大きな武器になるな、
というように思いました。
山本>青山さんがいらっしゃるというのは、とても心強いですね。
熊谷>チネテカにも行きましたが、すごい印象ありますよ。
チネテカの外観
チャップリンプロジェクトがすごいですね。チャップリンというのは、私にと
っては大変な映画作家で、特に『ライムライト』を観て、
「人生に大事なものは、
想像力と勇気と少しのお金である」に対してその通りだと思いました。私の人
生を変えてきた言葉だと思います。その『ライムライト』の資料がたくさんあ
って感動しましたね。
- 25 -
→チネテカでチャップリンプロジェクトの説明を受ける
山本>やっぱり山形にとってドキュメンタリー映画祭があってよかったな、と
今回、正直、思いました。フルオーケストラがあって、サッカーチームがあっ
て、映画祭があって、こっちのセールスポイントがたくさんあるんですね。そ
れにシベールが入るということで。
熊谷>文翔館なんか、まさにボローニャ方式だし、第一小学校も、御殿堰も、
紅の蔵も、言ってみれば、ボローニャシステム。あるものを大事にし、過去に
学び未来を切り開く。日本にたくさんの地方都市があるなかで、もしかしたら
一番ボローニャに近いのは山形ではないか。山形はいい街だなぁと、あらため
て、ボローニャより帰って再確認しましたね。
山本>このあたりで、みなさまから質問などをお受けしたいんですが。
客席1>今の話を聞いて、昨年の11月のことをまざまざと思い出しました。
- 26 -
私が感動したのは二点ほどありまして、まず、昔の宮殿だらけですね、あそこ
は。ヨーロッパの歴史を知っていればもっと楽しかったんだろうな、と思いま
すが、市役所や、今図書館になっているところも含めて、宮殿を活用してやっ
ている。それから、いわゆる回廊ですよね。ポルティコで市街地は全部つなが
ってるわけです。外見は茶色の建物なんですけど、中が結構改造されていて、
住みやすい形になっている。日本の街づくりはなんでああいう風にできないの
か、というのが、山形も含めて、思うわけですけども。
やっぱり家に対する考え方が違う。家族が住む、子孫が住むっていう発想から、
後世に残る家並みを最初から考えてんのかな。消費税が家にかかるってあたり
前だと思ってたんですが、ヨーロッパでは、新築住宅、中古住宅の譲渡や修繕、
また賃貸住宅には付加価値税がかからない国が多いのです。その辺の発想から
して根本的に違うのかな、ていうところを、あらためて知らされました。
あとは、市役所の部長さんも言ってましたけど、人口も減ってるわけですよね。
ボローニャも昔、50万もいたのが38万になっている。で、大手のスーパーなん
かも出て、商店街大丈夫なのかという話をした時に「ポルティコでつながる商
店街の一つ一つが専門店の集まりだ、だからスーパーに十分対抗できるような
形での、ポルティコを活用した商店街づくりをやっている」とはっきり言って
ました。なるほどその通りで、やはり、日本で、山形でも、その発想、街中で
は必要なんだろうと思います。それから、ボローニャそのものでは人口減って
るんですが、周辺の都市圏では100万あるということで、その100万の人口をボ
ローニャに呼ぶっていう発想で交通網の整備やってるわけですよね、列車や道
路も含めて。ボローニャ大学でも、38万のところに7万5千人いるわけです
よね。山形とか考えた時に、周辺から、県境も越えた中で、どうやって人を集
めて、地方に賑わいを作っていくかというのが課題ですね。先ほど熊谷さんが
おっしゃったように、街づくりのために学ぶことはいっぱいあるんだろうな、
というようなことを思った次第です。
山本>消費税というのは多分一過性のものに対してかかるもので、これは、家
に対する考え方というのが違うという事なんでしょうね。日本では消費財なん
でしょうね、消費税かかるんだから。固定資産税で済ませるべきなんでしょう
けど。それはわれわれもあんまり考えてなかったんで、新鮮な考え方だな、と
いう風に思いましたね。
- 27 -
客席2>今回、ありがたい事にボローニャ訪問させていただきました。街づく
りの話で、やっぱり根本的な違いは、市民性ってベースがあるところですね。
私も県で商店街の指導なんかしたことあるんですよ。日本じゃ勝手なんですよ。
街の事考えないんですね。どこの商店街かは言いませんけど、みんなそこに住
まないで、郊外に出ていって、貸しちゃうんですね。家賃さえ入ればいいって
考え方なんですよ。それじゃ街に対する愛着というものは、どうしても薄れて
しまう。それからあの柱廊の方も構想あったんですよ。全部都市計画ですから、
街路を広げる時に、みんなセットバックしよう、建てる時はセットバックしよ
うと。あるいはセットバックしなければ、そこの一メートルぐらいを、凹まし
て、雨の日でも通れるようにしようと。ところが日本はそうならなくて、すぐ
まぁ大枚の補助金を払って、変なアーケードを作っちゃう。錆びるとかえって、
みっともなくなっちゃう。やっぱり市民性ですね。
もう一つは日本人はフローの経済で、つまり、また建てればいいって、安物を
建てちゃう。むこうはストックという考え方があるんで、そのストックを何百
年も持たした方が、おそらくコスト的には安いんですね。一度建てれば百年も
つもの、ビルであれば、二百年三百年もつものを建てていく、そういうふうな
都市づくりからしないと。やっぱりボローニャ方式は、ただ外見だけ真似ても
ダメだと思いました。以上です。
客席3>今回、学長といっしょに行かせていただいた、秘書室の阿部です。え
ーと、ボローニャ大学を訪問した時に、「ボローニャ大学には世界中から数多く
大学間交流の申込みがあって、申し込んでも、実際に協定にたどり着くまでに
は、一年くらいの期間がかかる、そういう状況なんだよ」っていう話を伺いま
した。なので、学部間の共有ですとか、できるところの交流から、実績を積み
上げて、進めていくのがいいんじゃないかという話になったと思います。それ
で先ほど学長の話にもありましたけども、今回、山形大学ボローニャ大学のそ
の窓口となる教員、山本先生もそうなんですけども、実際にお会いして、顔を
会わせたということが、すごく意味のあることだったのかな、と思います。市
役所を訪問した時も、教育や文化の交流あたりから、できることからどんどん、
それを突破口として交流を拡大していければいいね、というような話にもなっ
たと思います。その辺が印象深いところでした。
- 28 -
客席4>とってもいいチャンスをいただいて、あの、ボローニャに行けて、大
変幸せだったと思います。井上ひさしさんを追いかけているもんですから、行
きますと、どうしても、ここにも行ってらっしゃるな、と感じて、とても良か
ったです。ニーノ先生にもお会いできて、とってもいい方で、ほんとに素晴ら
しかったです。女性図書館に、ちょっと興味がわいてきまして、日本、特に山
形なんかも、影では女性強いんですけれども、どうしても、表に出てくる機会
が無いというか、少ないんじゃないかな、と感じて。その方面をちょっとやっ
てみたいな、と考えたりもしました。あと、塔に登ってこれなかったのが残念
です。それだけ後悔しています。どうもありがとうございました。
山本>その流れのなかで、別の街にも行きましたよね。比べていかがでしたか?
客席4>そうですね、フィレンツェとヴェネツィアに、山本先生に連れていっ
ていただいたんですけど、フィレンツェは、やっぱりボローニャと比べると金
持ちの街なのかなぁと。メディチ家の宮殿、ていうんですかね。すごく豪華で、
街の色も若干違って、白かったり、黄土色だったり…。たくさん歩きまして、
健康には良かったと思います。ヴェネツィアの水にはちょっとビックリしまし
た。サン・マルコ広場は水浸しだったもので。
山本>水位があがっていて、我々が行ったときには20センチあがっていて、ひ
どい時には40センチくらい。
山本>行った人間はみんな喋ったようですので、ぜひいらっしゃらなかった方
も、思いをぶちまけるなり、質問なりをしていただいて。
客席5>質問ということではないのですが、話を伺ってみて、十分の一ぐらい
は、私、行っちゃったような、御一緒に行ってしまったような印象を受けまし
た。今回、日程の都合でどうしてもダメだったんですけれども、是非、目の黒
いうちに一度は、ボローニャの街をこの足でしっかり眺めてみたいものだなと
思っております。はい、というので、私のこれからの生きがいにしたいと思い
ます。
- 29 -
客席6>ボローニャの話を伺いまして、ボローニャと井上ひさしさんのかかわ
りの中で、広場という言葉、やっぱりすごい大事だなって思うんですね。よそ
の街で、あんまり住んだことがありませんので、ほとんどもう山形に暮らして
おりますので、他と比較しようにもわからないんですが、やっぱり、山形の人
って、多分、影では強いんでしょうけど、外に出てきて、人と人とでつながろ
うと言う時になると、みんな、一歩どころか三歩か十歩引いちゃう。だからそ
の、広場という発想は、すごい大事だという。何がとか目的はなくてもいいん
ですけど、人が集まって、こう繋がれば、やっぱりあの、1と1で2じゃなく
て、3か4になれる。これを言ってもなかなか通じないことにものすごいもど
かしさを感じていますので、広場という発想、すごい印象的でしたし、これか
らも人と人がつながるところが大事、すべてはそこから始まるんじゃないかな
って、やっぱり今お話し伺って思いました。
客席7>熊谷先生、社会福祉的なことで、すごく感動されていたようにお聞き
したんですけれども、どうなんでしょう、日本とのというか、山形市というか、
日本と比べた場合にすごく社会福祉というものが進んでおるというイメージで
あったわけですよね。
熊谷>社会的協同組合という、日本にはない仕組みがあるわけです。ボローニ
ャでは三人おれば協同組合を作ると言われていて、ホームレスの組合とか、い
ろんな組合がたくさんあるわけですね。
- 30 -
ホームレスのための雑誌「大きな広場」
その協同組合っていう仕組みと発想がすごく自由で、それが街の産業の基盤
になっていて、決して大企業を作らない。基本的な技術は一緒であっても、そ
の商品とか出方が全然違っている。同じ包装技術でもいろんなところがあって、
会社はあんまり大きくしないで、でも世界に冠たる会社はたくさんあって、そ
こに頼まない限りは、ティーバックも作れなかったりする。日本の伊藤園が、
金っ気を日本人は嫌うんでホチキスじゃなくて糸で括ってくれっていう要望を
出して、それにむこうが応えたと。やっぱりそれがいいと、世界中に逆に広ま
ったと。ですから、チネテカなんかでもそうなんですけども、普通に考えたら
絶対に儲からない、ビジネスにならないことをやって、いつのまにか、もうけ
ちゃっているという、この辺はすごいなと思いますね。複式簿記の原理という
のはイタリアで生まれてるわけなんですよね。わたし、山形商業高校だったも
んですから、簿記の時間に、先生どうして左が借方で右が貸方なんですかって
聞いたら、お前たちがそんなこと覚える必要はないと言われて(笑)、えらい腹
がたって、それ以来、簿記をボイコットしちゃうんですけども。でもその理由
- 31 -
を40代になって初めて知ったんですが、実は左側に冒険家たちの分を書いて、
右側に出資元のヴェネチアの資本家の分を書いて、それで借方貸方なんだと。
イタリアがこの原理を発見したということはわかっているんですが、実はボロ
ーニャ大学ではないのかなと。あそこは、経済を統べるための法律の方からか
らいってますから、たぶん、そうじゃないかなと思うんですけど。
客席7>社会福祉の面においても、国家からではなく下から盛り上がってきて
いる意識もあるんでしょうかね。
熊谷>大きなお金というのは限界がありますけれども、小さなお金はある意味
無限であるということなんじゃないでしょうか。著名な方が街角で帽子を置い
て、寄付を募って、それがとんでもない金額になっているっていう例がありま
す。現にニーノ先生に教えられた方がおったもんですから、その方の様子を見
てましたけども、滅多にお金を入れる人がいないんですよね。でもねぇ、ちり
も積もれば山となるっていうんで、実は大変な金額がそこから出ているわけで、
やっぱり、ボローニャ、イタリアの面白いところ、すごいところ。日本のよう
に偽善っぽくなることがない。非常に素直。日本の場合だと、いいカッコして
とか(笑)、言われるのがちょっとまずいのではないかと。だから日本でも、一
年、年間一万円出しませんかと言ったら出す人いっぱいいるんだけど、十万百
万となるにしたがって、誰も出さない。だから少しのお金を多くの人から集め
るのが、一番いいのかな、と。私が始める「ポラーノの広場」も一株一万円の
株主を今から一万人募集しようと思っております。社会福祉の方は日本でもた
くさんいるんですが、ものすごく大変な思いをしていらっしゃる割には、そこ
で働いている人は、社会参加はされていない、その辺がものたりない。
客席8>ボローニャも、井上ひさしさん以外の本を読みましても、今の協同組
合とか、そういうシステムができあがるまでに相当な苦労があったようです。
時には大ゲンカをしたりとか、トラブルがあったりして、協同組合とかコーパ
ップスができてきたと。あの『ひょっこりひょうたん島』もそうなんですけど、
人間のいろんなやりとりがあって、でも、なんとかいっしょにやっていこうと
いう思いがあって、それで一緒に同じ地域に住む者として暮らしていこうよと
言うことになると思うんです。ボローニャに行かれまして、そういうのがわか
- 32 -
る場面っていいますか、つまり、今まで葛藤がありながらも、今のこの体制が
できたという、そういう場面に出くわす、あるいは、なんとなく片鱗がつかめ
るというようなことはあったでしょうか?
熊谷>もし私がイタリア語ができたらですね(笑)、その辺のところはいろいろ
収集することができたと思いますけど、何せ青山さんを介しての事ですから、
なかなか、わからないと。ただ印象として、都市としては、ひょっこりひょう
たん島の精神はたしかにボローニャの何重にもかかった中に、同じようなもの
があるな、と。ただそれがある意味、レジスタンスかもしれませんし。
客席8>レジスタンスの時に、協力して、ほんとにたくさんの犠牲も出したけ
れども、そこで協力したことがベースとなっているというのは、たしか、いろ
んなところでね、書かれおりますけれども、やっぱりそういうところも波及し
てるんですね。
熊谷>以前、高度化資金という制度がありました。資金を使って協同組合を作
りなさいというプロジェクトです。いろんなところが名乗りをあげて、山形県
内にももちろんありますけれども、上手くいっていない。一つは指導型で、パ
ターンが決められているんですよ。こうこう、こういう組合を作りなさいよと。
そうすると、ある時期はいいんですけども、時代の潮目が変わるとあっと言う
間におかしくなってしまう。全国にその屍が累々として(笑)
、そのなかには、
理事長引き受けた人がそこで悲惨な目にあっているっていうような悲劇が、た
くさんあるわけで。
山本>実はボローニャ大学は平安時代にできているんですよ。930年くらい。で
も、ずっと安泰できているわけじゃなくて、おそらく20世紀後半から激烈な競
争に入っていますよね。しかもイタリア語だから、やっぱり言語としては、英
語には勝てないという部分がある。植民地も少ないから、宗主国として留学生
を受け入れるルートもなかった。でもこれだけ激烈な競争の中で生き残ってい
て、世界中からも協定依頼が殺到する。これは戦略があったと思われるんです
けど、その辺、学長いかがでしょうか。山形大学がどうやれば生き残れるか(笑)。
- 33 -
結城>大学の出来方がね、まったく違いますし、それに今聞いてて、ほんとに、
市民と、政府というか国との関係がまったく違うんだろうと思いますね。だか
ら、それぞれの社会風土の中で、そこで生き残っていくという事を考えるしか
ないです。
山本>例えばローマ大学とかパリ大学とかみたいに、首都とか大都市にあるわ
けじゃなくて、まぁ、ボローニャって人口38万人と考えると、山形としては親
近感がありますよね。それから、都市圏って言うか、まあ、山形で100万ちょっ
とということですね。その中で生き残っていくという、のがおそらく山形大学
としては、考えられることで。
結城> 山形大学はそう簡単にはつぶれませんよ、大丈夫です(笑)。今の国の
仕組みの中でね、ちゃんとやってくれると思っています、これは。
山本>前に出ていくという中で、ボローニャ大学との繋がりというのが一つで
きたというのが大きくて、それをすごく続けていきたいので、私も及ばずなが
ら努力していきたいと思っております。
そんなわけで、だいたいお時間になりましたけれど、今日はお二人の対談、そ
れに加えてボローニャに行った方もいらっしゃるんで、いろいろな経験をお話
していただきました。ボローニャとのつながりもできるでしょうし、山形大学
もそう簡単につぶれないという力強い言葉をいただきましたし、シベールアリ
ーナの取組や新しいポラーノの広場のお話しもいただきました。ぜひ今後とも、
続けて、何らかの形で交流を続けていければと思っております。ということで、
今日は、ほぼ時間になりましたので、今日はこれまでとしたいと思います。お
二人に拍手を。
- 34 -
『ボローニャ紀行』の2年間
鈴木 喜恵子
ボローニャの何に魅かれるのか。中間提言的にまとめた感想の最初の文をもう
一度書き出して見る。
ボローニャの良さは、何か事を成そうとするときにすぐ協力者が集まり協同
・共生できるということだと考えている。誰かがするだろう・してくれるだろ
うではなく、自分たちの手で出来る限りのことをするというフットワークの良
さ、自分たちの住む街は自分たちで造るといった「住民一人一人の意識」に大
いに共感する。言い出しっぺの声に耳を傾け、理にかなえば手助けをし、何よ
り言い出しっぺを孤立させない良さがある。
山形にもボローニャに負けないくらい素晴らしいものがある。さまざまな試
みと努力の賜としての文化団体、スポーツ団体がある。周辺に美しい田園や果
樹地帯があり、豊かな自然がある。ただそれは山形に特化したものではなく、
全国いたるところに存在する「ボローニャ的な要素」だ。
では、それらの要素をどのように活用したら山形の魅力として発信できるの
か。気づいた人たちはすでにあちこちで活動を展開しているが、それに加えて
もっと沢山あるはずの山形の良さを集めてコーディネートする官・民の枠を超
えた柔軟な存在を作ってはどうだろう。街の景観や機能をデザインし、ライフ
スタイルを論じ合える「場」をまずは作る(これまでも類したものはあったと
は思うが)。
ボローニャとは街の成り立ちも歴史背景も異なる山形の地で、山形の住民一
人一人がボローニャ市民のような意識を持てるのか自分も含めて心もとないが、
少しずつでも行動を積み重ねれば何らかの形になるのではないか。一人一人が
住民として自覚し、はつらつと生きて行ける街。まずは自分の一歩から。
この2年間、井上ひさし著『ボローニャ紀行』に導かれる形でボローニャを
- 35 -
学んできた。学びに終点はなく、当然まだ解答にも出会っていない。本当のと
ころはボローニャの入り口付近でウロウロしていただけかもしれない。ただそ
れだけ、かもしれないが私自身は「この指とまれ」にとまる物好きでありたい
と考えている。
(2013・9 ボローニャの会)
- 36 -
「ボローニャ紀行」を巡って
原
葉子
2011年10月25日の“ボローニャの会”の顔合わせ会に参加しようと
考えた時、どんな会なのか全然わかりませんでした。井上ひさしさんの『ボロ
ーニャ紀行』を読みましたが、やはり、分かりませんでした。それから2年‘
一人3分ルール’という厳しい?規則の中たくさんの人々の考えを伺い、感心
したり、ちがうなーと思ったり、でも自分の考えはまとまりませんでした。
そして2013年11月<ボローニャ視察旅行>に参加し「ボローニャ紀行」
を巡ってきました。初めてのヨーロッパ旅行で不安が大きいスタートでしたが、
何とか必死で身体全体で感じとるよう巡りました。
歴史的建造物との共存、それは保存だけではなく現在も利用され活用され、
生活の中に溶け込んでいました。中心地区は中世やルネサンス期のまま赤いレ
ンガの色の街並で残されています。ポルティコをめぐり女性図書館から市役所
へ向かう時、先導にはぐれて走り廻った街並は狭くはないが広くもない。この
空間は今の日本には無いように思われました。ポルティコにより個人の住居、
実態はほとんど垣間見れない。でも、近いところに人々の生活が在るのでしょ
う。その絶妙な距離感は大変うらやましいと思われました。
山形の街づくりには少し違和感が在って、商店主さんたちの工夫・努力・反
省があまり見られないような気がするのは私だけでしょうか。
自分は状況を把握することは何とか正確にできてるつもりですが、それから
先の深く考える、整理する、表現するということがとても不得手なのです。“ボ
ローニャの会”に参加して、少しでもこの苦手意識を克服するようにしたと思
います。
- 37 -
「今、山形から世界へ発進 — 文化・芸術活動を中心として —」
岸 実瑩
文化・芸術と経済に関して、岡山県倉敷市の大原孫三郎、總一郎、謙一郎の
三代(明治から昭和)における企業人の芸術支援と思想にふれ、これからの山
形における文化・芸術(美術館等も含め)についてもふれてゆきたいと思いま
す。
初代大原孫三郎が心血を注いだ分野は、経済や社会、地域、学術のみならず、
文化や芸術にも深く及んでいる。後世に残っている実の一つが倉敷市の美観地
区にある大原美術館である。孫三郎は晩年、手がけた事業を回顧して、「心血を
注いで作ったと思っているものが案外世の中に認められず、ほかのものに比べ
れば、あまり深くは考えなかった美術館が一番評判になるとは、世の中は皮肉
なものだ」と語ったこともあったという。この言葉は、孫三郎が大原美術館を
適当につくったということではない。農業研究所をはじめとする科学研究など
は、立場や体験基いて、社会の現状を改良したいと心底考えた孫三郎が、腹案
としてずっとあたためてきたものを試行錯誤で形にしたものであった、それら
に比べると、西洋絵画の蒐集と美術館創設は、孫三郎が考えてきたものではな
く、児島虎次郎との縁によって着手したものであったものであって、このよう
な表現になったのだろう。
孫三郎には、
「景気は好況、不況、好況、不況と回転する。しかし、文化の種
は早くから蒔かなくてはいけない」という考えがあった。四十七歳で早世した
親友、虎次郎との友情の証として孫三郎が大原美術館を創設した一九三〇(昭
和五)年前後は、孫三郎にとって公私ともに苦しい状況が続いていた。前年に
はニューヨーク証券取引所での株価暴落に端を発した世界恐慌が発生し、倉敷
紡績も不況のあおりを強く受けていた。プライベートでも、かねてから胆石を
患っていた寿恵子夫人が、美術館の地鎮祭一週間後に病没してしまうという悲
しみに直面した。
しかし、そのような状況のなかでも孫三郎は、美術館設立構想を放棄するこ
とはなかった。大原美術館は、大原孫三郎と画家・児島虎次郎の友情に端を発
していた。虎次郎は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科選科で、
黒田清輝(一八六六ー一九二四)などに師事していた。同級生の一人には青木
- 38 -
繁(一八八二ー一九一一)がいた。虎次郎は、昼に絵画を学び、夜は暁星中学
校でフランス語を勉強していた。虎次郎は、一九〇二年、有為の学生に対して
大原家が学資支援を行っていた大原奨学生の面接を受けるために孫三郎にはじ
めて会った。孫三郎の秘書、柿原政一郞が明かしていたことによると、孫三郎
は虎次郎と対面した際に「何の目的で画家になるのか。金もうけか、出世か」
と尋ねたという。虎次郎は、真に優れた画を描いて美術界に貢献したい、と答
えた。孫三郎は、虎次郎の誠実さに打たれ、手厚い支援は虎次郎が死去するま
で続けられた。
○欧州留学と洋画購入の要請
一九〇七(明治四十)年に虎次郎は、東京府主催勧業博覧会の美術展に「里
の水車」と「なさけの庭」という二作品を出品し、一つが一等入選、もう一つ
が昭憲皇后の目にとまり、宮内省お買い上げとなった。大喜びした孫三郎は、
虎次郎に五年間もの欧州留学をプレゼントした。その後の一九一九(大正八)
年にも孫三郎は、一層の勉強のためにということで二度目の欧州留学を虎次郎
に許可した。このとき虎次郎は、ロンドンに到着するなり「日本の若い学生の
ために、本場の名画を蒐集して帰りたい」と孫三郎に絵画購入を希望する葉書
を送った。虎次郎は、幸運な自分は孫三郎の支援で本場の名画を直接見て勉強
することができるが、日本で勉強している人たちには、一流の西洋絵画を目に
する機会がほとんどないと考えたためである。孫三郎は即答はしなかった。孫
三郎は西洋絵画を購入することなど考えていなかっただろうし、金額も決して
安くはなかったためだと想像できる(ちなみに、後に虎次郎が購入したエル・
グレコの「受胎告知」は十五フラン、日本円で当時五万円だった)。しばらくの
時を経て「絵を買ってよし」という許可を孫三郎から得た虎次郎は、画商に頼
らず、自分の眼識にそった作品を買うべく、モネなどの画家を直接訪ね歩いて
絵画を蒐集した。
○蒐集した洋画を即時に一般公開
モネの「睡蓮」や、マチス、ユッテ、デヴァリエールなどの西洋絵画を蒐集
した虎次郎は一九二一(大正十)年に帰国した。孫三郎は、大原邸の近くの倉
敷小学校新川校舎で「現代フランス名画家作品展覧会」を開催した。倉敷駅か
ら会場まで、長蛇の列ができるほどの好評に孫三郎は驚いたという。その年末
- 39 -
には、虎次郎がアマン=ジャンに購入を依頼していた作品が到着したことを受
け第二回目が、また一九二三年には第三回の展覧会が開催され、全国から人が
訪れた。孫三郎の父方の祖父(岡山市の儒家)は浦上玉堂や頼山陽とも親交が
あった。父も伝来の日本や中国の書画骨董を多々有し愛好していた。そのため
孫三郎も幼少期から東洋美術に囲まれて育ち、客間などの掛軸のかけかえは、
少年時代から孫三郎の役目となっていた。このような環境で育った孫三郎は東
洋美術を好み、鑑識眼を身につけ、郷土の雪舟や玉堂の書画を蒐集するように
なっていった。その一方で、西洋画については、鑑識眼も知識もほとんど持っ
ていなかった。実際、孫三郎は、欧州留学中の虎次郎に出した書簡で洋画をさ
して「小生は画のことは素人なれど」と記述していた。また、短期間に集めら
れた西洋の美術品がどの程度の価値を持っているのか、孫三郎は一抹の不安を
持っていたと息子の總一郎は回顧していた。
○美術館設立構想
広島出身の辻永(一八八四〜一九七四)は、「東京に立派な美術館があるもの
と、彼地の人々は心得て居るだろうが、何という皮肉、何というみじめさであ
ろう。近々の中に此れ等の作品を容れる美術館を大原氏が建てられるそうだが、
一刻も早く実現されん事を望んでやまない」と孫三郎の美術館構想を耳にして
いた。さて、大原總一郎は、一九六二年に執筆した「新時代と民芸」の中で「経
済的な繁栄を理由なく白眼視するものではない」としながら、「経済の繁栄が本
当に美しい生活を生むかどうかとなると、簡単には肯定できないのが現状だと
思う。なぜなら大量生産の時代は必ずしも美しいものばかりを作ろうとしてい
るのではない。今日は、何はともあれ、利益があればいいといった考え方に変
わっており、そういった意味で、現在、民芸の世界はかなりとざされている」
との見解を示している。この總一郎の考え方は、美術批評家から出発して社会
批評を行うようになった英国のジョン・ラスキン(一八一九〜一九〇〇)の思
想に通じるものがあるようである。ラスキンは利己中心的、金銭万能的な放任
主義の経済学が横行している間には美しい社会の出現を期待することはできな
いと考えた。ラスキンは、生命があり、愛と喜びに満ち溢れた社会を打ち立て
る必要性を説き、そのためには社会の根底に美術を置かなければと主張した。
健全なる社会には、偉大なる美術が必要だというのであった。
- 40 -
○民藝運動の推進
「文化の種は早く蒔くべし」と考えていた孫三郎の文化、芸術支援は、西洋
絵画の蒐集と大原美術館の設立のみではなかった。もう一つの例として、柳宗
悦を中心とする民芸運動への支援を見てみたい。民芸運動は、地域の風土や習
慣、伝統の中で培われてきた名もなき職人による民衆的工芸、いわゆる民藝の
なかに見受けられる「健全な美」への認識を高めていくことを目的とした運動
である。これは、柳宗悦(一八八九〜一九六一)、濱田庄司(一八九四〜一九七
八)、河井寛次郎(一八九〇〜一九六六)、富本憲吉(一八八六〜一九六三)な
どが中心になって展開された。また、孫三郎は、腹案としてきた公会堂設立の
代わりとして、現在の大原美術館と新渓園のある土地(約二千坪)と建物(五
棟約百五十坪)を現金一万円(当時)とともに、一九二二(大正十一)年十二
月に倉敷町に寄付した。このため、大原美術館開館当初に設立された正面玄関
のある一部の建物(旧本館)以外の建物(徐々に増築された分館など)につい
ては、現在も倉敷市に借地料を払っている。このような大原美術館は現在、独
立採算制で、入館料収入を中心に、寄付も募りながらすべての運営を行い、民
間の立場から自由に、また、公共性を重視して活動することを追求している。
現理事長の大原謙一郎は、政治や経済の担い手だけでなく、文化分野に携わる
人間も国際理解や交流などを手始めに様々な分野で積極的な教育普及活動に一
層力を入れている。地域還元には特に力を注いでいるため、地元の幼稚園、小
学校、中学校、高等学校などとも連携して、
「お母さんと子どものための特別展」、
「サラリーマンのための週末美術館」、「お母さんと子どものための音楽会」
、そ
して「ギャラリーコンサート」など、多くの企画が継続的に展開されている。
地域に根付く美術館のイベントは、倉敷から決して離れなかった孫三郎、そし
て總一郎から謙一郎へと脈々と続いてきた姿勢と考えを受け継ぎ、発展してき
たものと言えるかもしれない。
三代の大原家の抱負「倉敷から文化を世界へ発信してゆく」は、ボローニャ
の文化に関する教えと共に、山形の街々、東北の街づくりになってゆくことと
思います。さらに、地域コミュニティとネットワークについて、町内会・自治
会の役割を考えた時、かつての日本の村落は強固なコミュニティであり、とき
に閉鎖的な面もありましたが、相互扶助の機能を担ってきました。また都市化
の中にあっても、相互扶助の住民組織として、町内会、自治会が行政の補完的
- 41 -
役割を果たしてきました。しかし、ボローニャの考え方からすれば、自治体に
こそ、十年先を見通す明と決断力があれば、山形も、これまで以上に素晴しい
成果を上げてゆくことが出来ると思います。
次に、ボローニャ的考え方と教えに従って、これからの山形のあり方につい
て箇条書きではありますが、あげてみたいとおもいます。1.自治組織の充実、
2.山形精神(文化)の構築、3.山形の都市計画(文化財等をさらに保護)、
4.主体性の確立(県民一人ひとりが主人公という意識)
、5.芸術と文化を支
えるものの見直し。以上の項目について具体的に想いをのべれば —— 特に山形
の文化面において —— ◇美術館(超一流の西洋美術作品多数あり)、博物館、
劇場等を一層増やしてゆくことの方策。◇その前提として、文化芸術施設に積
極的に足をはこび、各講演会、諸会合にも極力出掛けて出席するように心懸け
る。また、異業種の人たちとの交流を広く深めてゆく。◇芸術と文化を支える
ものの見直し。特に歴史・文化・自然等の見直しと活用、
「縄文の女神」などの
アップ、世界の良心 — 安達峰一郎の、さらなる顕彰。もちろん以前に議論され
てきた、山形交響楽団、モンテディオ山形といった集団を強く意識してゆき、
さらに世界にも誇れる資源等を積極的に活用してゆくようにつとめる(経済・
人的交流の活性化)、また、セミプロ集団(文化的消防・警察)による音楽活動、
山形国際ドキュメンタリー映画祭への参加と支援、美術等諸活動のために開催
されてゆくことへの働きかけと公園などにおける土曜コンサート(夜間)など
の開催実施呼びかけ。
[参考資料]
・
「大原孫三郎 — 善意と戦略の経営者」兼田麗子著、中公新書、2012
・
「ボローニャの大実験 — 都市を創る市民力」星野まりこ著、講談社、2006
- 42 -
「古い町の古い家屋に人を呼ぶまちづくり」
・・・・ささやかな実践を通じて
ボローニャの会
会員
正木
徹
(山形市在住)
(ボローニャ方式のまちづくり)
ボローニャのまちづくりから、気が付いたことがたくさんあります。紀元前
からの長い歴史を持つイタリアの一都市が、いろいろな異文化との遭遇、支配、
戦争などの歴史の波を、受けながらも、たくましい住民の知恵と工夫で生き抜
き、古い町の財産をうまく活用し、現代の社会に適合させ、多くの人が住んで
満足する魅力的な町になっているという点は、人口減少や高齢化で、街の活性
化を失いつつある山形の都市に多くの示唆をあたえてくれます。
井上ひさしさんは、著書「ボローニャ紀行」の中で、様々な「ボローニャ方
式」まちづくりの手法について報告しています。
「文化による街の再生」や、「使わなくなった公共の建物や土地を無償でボラ
ンティアグループや社会的な協同組合に提供する・・・」
欧米では、一般の民間住宅などは、言うまでもなく、時代とともに住み替わ
るのが当然の流れになっています。
(日本での古い建物の活用)
日本を顧みると、寺院や城郭、武家屋敷、民間の邸宅などの歴史的建造物以
外は近年まで、ほとんど、保存、再利用という発想は乏しかったわけです。特
に、戦後の経済発展の中では、国の施策においても、都市再開発、融資や税制
で新しい建物づくりが奨励され、一般の中途半端な古い建物は破却の対象にし
かなってこなかったわけです。
(地方の空き家問題)
ことに最近、地方都市、農村部の空き家、廃屋が問題になっています。
少子化の流れもあり、地方都市から若者が流出し、高齢者のみの世帯が急増し、
最終的には、だれも住まない古い住宅が、地方都市では郊外の農村部のみなら
ず、中心部でも珍しくありません。防犯、防災、雪害、衛生面でも大きな問題
となっています。
反面、地方都市に住もうとする若年がいても、所得の問題もあり、中心部に
住めず、郊外のアパート住まいになっているわけです。
- 43 -
住宅の所有者の視点から見れば、貸し借りのトラブルなどを考えると、若干
の収入が得られる程度なら、そのまま放置していたほうが、ましだという考え
があります。
しかも、今の税制では土地に建物が建っていたほうが固定資産税が大幅に減
額されるため、破却もすすまないのです。
行政でも、実態調査や持ち主不在の空き店舗の活用施策や、老朽化した空き
家の管理補助などを始めましたが、例えば人口約4万人の新庄市でも、空き家
が387戸もあるのです。持ち家に対する割合は4%にもあたります。
(古い家を若者に貸す試み)
ここで思い出すのは、ボローニャのまちづくりの発想です。行政の施策を待
つまでもなく、市民としての街づくりへの関与や自分でできることから始める
発想です。
幸い、今の高齢者やその予備軍の人は、比較的、年金などの収入が確保され
ており、もし、遊休不動産を所有していたとしたら、かなりの人は、そこから
積極的に収益をあげなくてもいいのです。むしろ、積雪地帯においては貸すこ
とによっての維持管理経費の節減という点のメリットも大きいわけです。
つまり、現在、住んでいない住宅などを、積極的に若い世代に廉価で貸して、
住宅として、また、社会的活動や創作活動の拠点にするという提案です。
私もボローニャの会の一員として、ささやかな実践活動を行いました。
3年前から空き家となっている新庄市にある私の生家(築50年、蔵部分は
90年)をシェアハウスとして提供したのです。
(シェアハウスの実践)
H24年4月に発足、3世帯5人が住むことになりました。
家屋内の整理、改造も住人が行い、芸術創作活動を行う拠点となりました。
創作の場、ギャラリーとしての活用はもちろんですが、新庄市中心部の古い
町内は若者が少ない地域です。このままでは重要無形民族文化財の新庄祭りの
存続さえ危ぶまれます。このシェアハウスに集う彼らはお祭りや氏神様の祭事、
防災といった地域活動の担い手としても活躍しています。
その様子が地元新聞やNHKのローカル番組で取り上げられたこともあり、反響
を呼びました。私にも、空き家の活用について、いくつかの問い合わせがあり
ました。
(シェアハウスからアーティスト・レジデンスへ)
- 44 -
私のシェアハウスも、今年、新たな展開を迎えます。このシェアハウスをさ
らに改造して、アーティスト・イン・レジデンスとして活用しようとする試み
です。
各種の芸術創作活動を行う人物を一定期間、ここに招へいして作品制作を行っ
てもらおうというわけです。この構想は、行政の目にも止まり、平成25年度
の「やまがた若者チャレンジ応援事業」の採択事業となりました。
この活動に対し、新たに賛同する市民もでてきました。市内の別の空き家を
無償でギャラリー、イベントホール提供するという話です。すでに、ボランテ
ィアベースで改装工事が始まりました。
アーティスト・イン・レジデンスの概要を紹介して、参加者、賛同者を募る
ためのホームページも立ち上がります。実は、このシェアハウスの主催の
Nさんは私も理事をしている地域づくり団体「最上の元気研究所」のメンバー
です。研究所の持つ全国的なネットワークを通じての情報発信も行っていきま
す。
(空き家を、人と人とのネットワーク拠点に)
古い街中の建物の外観を維持して、内部を改造し、人が活躍する場を作る、集
う場を作る、新たなビジネスチャンスを創造する・・・ささやかなボローニャ
方式の街づくりです。町屋の活用や山村の農家の活用など、全国でもいろんな
動きが出てきています。
(新庄市内等での新たな動き)
私の知人Iさんも新庄市内で、所有の空き家を利用して、都会から短期間在住
する人のための簡易宿泊施設を始めています。言わば休日リゾートです。
また、県外在住の方が、長く空き家となっていた市内の実家を改装して、私
設美術館をオープン(無料)した事例も出てきました。
古い家でも、新しい発想や、新しくそこに住む人の感性で、交流、ビジネス
チャンスにできるものが無数にあるわけです。なぜなら、彼らの交流、マーケ
ットはネットを通じて、地域ではなくて全国、そして海外に広がっているから
です。
友人Eさんも、50歳でリタイアして、世界各地から滞在客を呼べるような「湯
治宿」をやりたいと言っています。休日に県内や東北各地の温泉を回って、空
き旅館を探しています。英語、中国語が堪能な彼は、賛同する中国人の奥さん
と新しいタイプのホテルをやることでしょう。
- 45 -
(家の世襲と家機能の継承)
地域でも家の世襲のシステムがうまくいかなくなってきています。
今や、家をその人の家族のみが受け継ぐという発想を変えていく必要がありま
す。欧米の街中の「家」のように、ほかの人が受け継いで、形を変えて活用し
ていく・・必ずしもレンガ造りや、石造りの建物にだけ通用する仕組みではあ
りません。日本の木造の建物でも、十分やれるわけです。むしろ、改造のしや
すさは、木造の方が優れています。
よその地域からも、いろんな人が、古い町、山村に転居、移住して来て、活
躍する仕組みを作っていくわけです。
これを推進するには、即、行政の支援が必要というわけではありませんが、
物件の紹介、あっせんや、仲介機能のようなことができるNPOのような組織が必
要かもしれません。
空き家プロジェクトの成功事例が出現し、家の持つ機能が時代に継承される
ことの意義が理解されることにより、衰退する地方都市、山村住民の文化的、
経済的活性化につながることを期待します。
- 46 -
- 47 -
ボローニャ景観紀行 (時系列編)
熊坂
俊秀
1.遅れていく男
2012 年12 月1日(sat)6:30 勤務地の酒田を出発、寒河江、山形に立寄り、12:
30 山形発
山形道、東北道、磐越道、常磐道、圏央道、16:10 稲敷IC で高速道路を下り、
17:00
予約していた駐車場に着く。移動とともに気持ちも移っていく。
17:20 成田空港第一ターミナル北ウィング着。4FのCアイランドで航空会社
AFのカウンターを確認。もう、別世界だ。
遠藤氏から15:26 にメールが到着していた「空港ではタクシーにホテルの名前
を見せれば到着する、詳細を説明するから電話をくれるように」と。遠藤氏と
連絡。「熊坂さんの到着時には既に撮影班はILMONTE に出発しているので、ホテ
ルの部屋が空いてなければ荷物を預けて、一人で街中観光してください、との
由。」(それは了解である。待たせる心配がなくなり、気が楽になる。携帯が通
じるということは本当に便利である。地球の裏側と何気なく繋がる)
19:10 搭乗券発券機でチケット(乗継分も含み)を受取り、チェックイン。シ
ートの変更を依頼され、了解する。バッグとリュックサックを機内持込みとす
る。乗り継ぎ(乗換え:トランスファー)を考えて「預け」ないようにした。
出国手続きはスムース。予定時間を少し遅れて搭乗開始。プレミアムエコノミ
ー(A)シートはビジネスとエコノミーの間のグレードということ。これまで
エコノミー以外に乗ったことがない私としては、優雅な気分です。食事はエコ
ノミーと同じだが、シートはシェル型シートでリクライニングが後ろに倒れな
い構造。レッグレストも付いて、広さが4 割アップということ。歯ブラシや機
内用靴下、耳栓などが入ったアメニティセットが配られた。エールフランスら
しい洒落たもので、色も洒落たベージュ。隣席は、黒人のご婦人、フランス人
のようで、言葉が通じそうにない。
時計のデュアルモード(裏時間)を現地時間(-8h)の表示にする。
22:40(14:40)離陸。B777-300ER(303 席)。鈍重な感じ(なかなか
高度、速度が上がらない感じ)。成田からパリまで9,719km、12 時間の飛行予定
時間。
- 48 -
15:20 食前酒としてシャンパンを頂く。16:20 食事。AFに前に一度乗ったこ
とがあり、青白二色の洒落たナイフ&フォークが持帰り可能で今でも持ってい
るが、現在は、プラスチック製に変わっている。AFらしく洒落て欲しい。
12 月2 日(sun) 日付が変わったが、あまり眠れなかった。醒めている。
2:002回目の食事(軽食)。
2:52CDG空港着陸。乗り継ぎ案内が黄色のボードを持って最初に待っていた。
3:20 入国審査は簡単。3:40F56ゲート付近に案内され乗継待ち。また、朝食
(軽食)を提供される。たまたま横に並んだ日本人、スペインに赴任(語学留
学)する若い会社員と話したら、山形に縁のある人だった。「六次の隔たり」の
ような話。
CDG空港は、フランスらしさがたっぷりの空港。構造物がスリムで曲線的。
5:30 朝食をとり、髭剃り洗顔し身だしなみ。ボローニャ行きの2Gターミナル
に移動で案内標識を見間違って一時迷ったが、2階のバス乗り場からN2バス
に乗る。聞いてはいたが、10分近くかかる。結構離れているのだ。ターミナ
ルは、なんとなくクリスマスの雰囲気(カラー)になっている。
6:20 セキュリティチェックを行い、2階の搭乗口で待つ。私以外に日本人はい
ない。フライトボードを注視するが、予定時刻の7:30 を過ぎてもボローニャ行
きの表示が出ないので不安になるが、他の便に遅れてようやく搭乗ゲートが表
示される。搭乗口で機内持ち込みしようとしたバッグを預けるように指示され、
いそいそと乗り込んだ。
EBM170のリージョナルジェットだ。もう国内便のような雰囲気。乗り込
んでからも全ての機材で氷の除去作業(デアイシングカーから噴射)が行われ
るために時間が掛かっている様子。いつの間にか朝日が見えるようになってい
た。
8:35 ようやく離陸。パリ上空を旋回し、南に向う。エッフェル塔が見えたよう
な気がする。ここでも朝食が出る。4食目だが食欲あるため完食する。アルプ
スと思われる山並みの真上を通り過ぎる。アルプスを越えるということに感慨
を覚える自分だ。
9:50 ボローニャ(BLQ)空港着陸。雨模様。荷物を受け取り空港を出る。タ
クシーを拾う。タクシーはプリウス。運転手曰く「グレイト」
(プリウスのこと)。
名車の多いイタリアで誉められるのは気分が良いが、運転がレーサーのように
「グレイト」だった。
- 49 -
10:40 ホテル・コメルチアンティ着。ホテルのフロントでは、優しそうな女性
の方が、私の下手な英語でも何とか応えてくれる。伺っていた通り家族的な雰
囲気です。部屋は、221室。大変広い部屋。壁には、歴史を感じさせる木材
の梁や柱が見えるようになっている。
2.ポルティコの街歩き
11:00 フロントでマップを頂き、すぐに着替えて街歩き開始。テーマは「ポル
ティコ」
。ホテルを出るとすぐ前の通りに、ガラス越しに地下が見えるようにな
っている所がある。遺跡を保存し、かつ、見えるようにしているのではないだ
ろうか。古いものを大事にするという街のメッセージを受け取る。この通りに
続くマッジョーレ広場を抜けて北に向う。インディペンデンツァ通りを駅に向
って歩く。メインストリートのようだ。この中心市街地では最も広く真っ直ぐ
な通りで、両側がポルティコの通りだ。ポルティコは世界遺産暫定リスト登録
の重要な要素らしい。
2005 年11 月12 日以来のボローニャ街歩きです。寒さはあるが、天気は回復し
てきて晴れ間も見える。ある通り(レノ川通りか?)より内側は常時自動車通
行禁止(日本流の歩行者天国)となっている。Web 情報では、昨年まで社会実
験をやってきて、商店街からは反対もあったようですが、今年5 月から2ha の
エリアで、週末は8 時~22 時が歩行者天国になったようです。ポルティコが
当たり前の街で歩行者が多いため、沿道の店は、ショーウィンドーに工夫を凝
らしている。確認はしていないが、ポルティコの敷地は本当に私有地なのだろ
うかと疑ってしまう。公私などということは問題ではないくらいポルティコの
歴史が強いのだろうか。まもなく、7 年ぶりにボローニャのマクドナルドを見
つけた。ボローニャにもマクドナルドはあり、だけど作り方がボローニャ風な
のだ。看板、垂れ幕は建物の意匠に調和させ、また、地元の店を併設させるの
だ。安価なファストフードでなく、少し上質なイメージになります。
マッジョーレ広場から1.5km ぐらいか、寄り道しながら歩いて20 分でボローニ
ャ中央駅に着く。イタリアの最も重要な結節点ということで、駅舎は大きくあ
りませんがホームが長く大きい。乗降駅というより乗換駅なのでしょう。この
駅での注目点もマックドナルドです。前もって得ていた情報のとおり駅前広場
東側の駅舎には、マクドナルドとピッツェリアが併設されている看板表示も例
のとおり控えめだ。そもそも看板が大きいから売上が伸びるなどとは思えない。
- 50 -
来た道を戻り始めると、バスセンターの向かいの広場には、露天というには上
品な店が立ち並んでいる。商品は、チーズ、ハム、チョコレート、ワインなど
を木製の丸い建屋に並べて売っている。常設と臨時の中ほどのような雰囲気。
ポルティコを進むと商店の間に木製の大きな扉がある。セキュリティキーのよ
うなものが見え、雰囲気としては上階のアパートメントの入り口だろうか?背
の高い扉はそれ自体が、威厳がありながらも、商店の雰囲気を壊さない品の良
さがある。
ポルティコも、時代によるものか、様々なタイプが見える。高さ、意匠、材質、
照明などで雰囲気が変わる。空間構成として縦横比は重要な印象を形成する。
ボローニャの場合には、街路全体の縦横比とポルティコの縦横比が影響しあっ
て通りの印象を形成するようだ。
途中、本当の露天市場に立ち寄り、街の雰囲気を味わい、忘れてきた手袋を購
入。
マッジョーレ広場に入る前に左(東側)に曲がり、例の二つの斜塔に向かう。
小さな広場は交差点となっているが、以前来たときは恒例のデモ隊が歩いてい
る場所だった。低い方のガリゼンダの塔は、怖いくらいに傾いている。アジネ
ッリの塔に登ることにする。井上ひさしさんが登れなかった塔だ。狭い入り口
から入り、少し登ると、チケット売り場。名物の割にはお安い € 3です。造り
が極めて簡易。内側に支保材も控え壁もない暑さ50cm ほどの石壁。階段は木製
が多く、既に磨り減っていて雰囲気はあるがスリリング。途中に踊り場のよう
なものがあるが、なぐさめ程度であり、がらんどうの空間を登るようでスリリ
ング。降りる際には、泣き出して動けなくなった女性までいるくらいスリリン
グ。井上先生は絶対無理だった。霞城セントラルや京都タワーの展望室と同じ
ぐらいの高さ。階段は498 段だそうで、頂上に着く頃には汗が噴き出してきた。
頂上からの眺めは、評判どおりの絶景。桃色の海。赤い屋根瓦で埋め尽くされ
ている。井上先生は、フロントのおばさんの言葉として「飛び込みたくなる」
と表現していたが、それは井上さんの30 年来の恋のせいもあるのではないか。
それにしても、街の形が良く見える。都市の防備のためとか、富の競い合いと
かではなく、建てた人たちがこの景色を見たかったのではないのか、と思って
しまう。南の山上にはポルティコに続くサン・ルーカ大聖堂が陽光に照らされ
ており、誘われているようだ。俯瞰景の効果として取り巻く環境空間を目で実
感できることがあると思われる。実感することによって安心感を得て、安穏な
- 51 -
良い心持ちになれる。
塔を降りて、ボローニャ大学の方面に向おうと思い、V.ZAMBONI(ザンボーニ通
り)を行くが、寂しい感じのポルティコになる。怪しい女性(物売りか、スリ
か?)などもいて、危ない雰囲気も出てくる。私は見るからに東洋人だが、さ
もずっとこの街に住み続けているような気持ちで歩き回ることにしている。
ポルティコは、ボローニャ市(コムーネ)だけでも40km あるそうですが、全て
良いとは思えない。元々必要(居住スペース増)によって張り出し、出来た回
廊ということなので、美よりも用が先行したという成り立ちと言えます。用に
よって形作られたものが、この密度の濃い街並みに調和して美しさを得たとい
うことでしょうか。
同じようなものに昭和50 年代に日本全国の商店街で広まった「アーケード」と
いうものがあり、山形県内でも主だった商店街に普及し、そして近年では老朽
化に伴って撤去されることが多くなっている。ただ「雨露を凌ぐ」ということ
だけで作られたものは淘汰されてしまったのではないだろうか。雨露を凌ぐ機
能だけでなく、快適空間を演出する構造美を併せ持つことがなかったために淘
汰されたように思える。現在では、「アーケード」という言葉があまり良い印象
として捉えられていないような感じさえある。
さらに、
「ポルティコ」と「アーケード」は、ファザード(正面外観)が大きく
異なる。建物に組み込まれて一体的に見られることを当然の事と見込んでいる
ものと、建物に付け足す形で設置され、一体的に見られることを予定していな
い違いです。このせいもあって、
「アーケード」は街で生き延びることが出来な
かったのではないでしょうか。
また、私有地である「ポルティコ」と基本的に違い、流行した日本の「アーケ
ード」は公道である歩道に屋根をかけたものが多い。歩く人に対するもてなし
の立ち位置が異なる。
日本においても、ポルティコと近いと思えるものに、「雁木造り」がある。積雪
地である日本海側の街に今でも残っており、
「雁木造り」を活かした街づくり活
動もある。雪や雨を凌ぐために庇を延ばして、その下に出来た空間を歩けるよ
うにしてあり、そのような家屋や商家が連続することで、まるで商店街に面し
た公道のようなものとなる。しかし、あくまでも民地であるため、通路沿いに
腰掛などを置くことも、商品を並べることも家主の意思次第であり、お客のた
めにもてなしの工夫が可能となる。
- 52 -
山形県内でも旧街道沿いなどで名残が見られるが、津軽地方など(特に黒石市
は秀逸)では、
「こみせ(小見世)
」と呼んで、居心地の良い空間を提供してく
れています。公と私の中間領域的な曖昧な性格がもてなしの気持ちを伝える場
となっています。
歩き続けたが大学には到達せず、サン・ドメニコ教会にたどり着く。威風堂々
だが中に入れる雰囲気はない。今日は日曜日なので礼拝のためか。
中心市街地は、東西2.3 ㎞、南北2.0 ㎞と狭い面積だが、狭い道が入り組んで、
曲がりくねって方角が分からず迷子になりそうだ。通りの名前が付いているの
で、それを30 本ぐらい覚えることが必要だ。住所も「通り」とか「広場」に続
く番号のようだ。
15:00 ホテルに戻り、すぐに着替えてサン・ルーカ大聖堂に向けてランニング
開始。ひたすら教会へ続くポルティコの坂道。屋根付き廊下で回廊と言っても
良いか。サラゴツツア門から3.6 ㎞あるそうだ。歩く人も多く、走る人もいる。
並行する車道が乾いているのにスリップするような急坂。神はやはり山の上か!
登り詰めて反対側に少し下って振り返ると、サン・ルーカは夕日に照らされて
オレンジ色に輝いていた。神々しく見えるように出来ている。
坂を下りる途中で歓声が聞こえた。サッカー場だ。あのボローニャだ。
16:30 ホテルに戻る。このコースは迷わず行けそうだ。
17:30 風呂に入ってゆっくりし過ぎて、呼び出しを受ける。先行の皆さんとよ
うやく会える。
17:40 スタッフの宿泊するもう一つのホテルローマにて映写会。これまで収録
した映像をチェックするようだ。熊谷さんが堂々と自然体で映っているように
見える。カメラワークに緊張感を感じる。テープ切れも心配する意見。真剣勝
負だ。
18:40 一旦ホテルに戻り、19:45 出発。20:00 この街で唯一であるような中華
料理店。
他のメンバーは、昨日も来たそうですが、心残りがあったのか。ビールは大瓶。
色々と期待はずれもあったようだが、賑やかな食事だった。
22:10 長いボローニャ初日が終わる。
3.ボローニャロケ
12 月3 日(mon) 7:10 起床。時々目覚めるも何とか眠った。4 時頃、東北芸術
- 53 -
工科大学の蔵プロメンバーの相澤君から電話あり、6 日の10 周年記念パーティ
ーは欠席と伝える。電話の相手がボローニャにいることが驚きだったろう。
7:35 ランニングスタート。サン・ルーカの坂道の途中まで。8:30 ホテル着。
8:55 ホテル地下一階の食堂で朝食。まだ慣れない感じながら、しっかり頂く。
そういえば、この街にはコンビニがないな。
9:45 ホテルローマ裏からタクシーで出発。寒さはあるが晴れている。
10:00 ボローニャ大学着。クオモ先生と熊谷さんとの対談。クオモ先生は、自
身が視覚障害者だが、福祉関係分野の世界的権威だそうです。落ち葉で埋め尽
くされた園地に、寒いながらも日差しが出て、晴れがましい雰囲気の光景が撮
影される。大学内のカフェで喫茶する。ガラス張りの簡易な造りだが、透過性
がある。カプチーノも美味しい。
「見る、食べる」を満足させてくれることが大
事です。
タバコ工場跡地に立ち寄り。中心市街地での都市再開発・都市再整備で、保育
園から社会福祉施設(老人向け)に生まれ変わったという。幼児向け施設と老
人向け施設、学生寮など多様な世代が近接しあうということが大切であり、中
心市街地再整備の肝要なところです。
11:30「二つの塔」の前に行き撮影。
「二つの塔」のあるラヴェニャーナ広場に
続くリッツオーリ通りは、コンケーブ(つま先下がり、凹型)地形。塔がさら
に立派に見える。意図的に造ったとしか思えないが、簡単に出来そうだが実現
するのは難しい装置だ。
12:30 レストラン・テレジーナ。ワイン、パスタ、デザート。各人がオーダー
したものを吟味する(当たりか外れか)。どの店もデザートのボリュームが大き
い。
14:00 レストランを出て、市街地南端から迫り上がる丘の上から俯瞰景を撮影
する。サンミッシェル・イン・ボスコの丘と呼ぶ眺望点。遠くにアルプスと思
われる白い山脈が見え、中景には評判が良くない丹下健三タワーも見える。近
景には、サン・ドメニコ、二つの塔、サン・ペトロニオなどボローニャの全て
が見えるようです。
ここで、ディレクターの萩野さんと別れる。娘さんがTV 朝日のアナウンサーで
あること、個人的な話をこの時伺った。残った皆さんが、CDG 空港での乗り継
ぎを心配していた。
15:05 サッソ・マルコーニ方面へ移動し、COPAPS着。途中、レノ川を渡
- 54 -
る。
車中で案内役の青山愛さんに気候について聞いたところ、ボローニャも平年50c
m ぐらいの雪が積もり、最近は70cm ぐらいの積雪があって除雪が大変だ。温度
もマイナス13 度になった。これは「目からうろこ」のような話、山形市と同じ
ようではないか。山形では、その気候を憂い、負い目と思っている人が多い。
イタリアで最も好まれる街の一つであるボローニャと同じような気候であるこ
とを伝えなければならない。そのような気候の地だからこそ、文化や産業が発
達するのではないかということ。
COPAPSの教育農園は、広々とした農場の中にかわいい2 階建ての建屋を
中心にまとまっている。事前に見ている映像のとおりの風景だ。横山さんたち
にしても数年ぶりでしょうが、変わらぬ風景を喜んでおられるようだった。初
冬の冷たい空気にも丁度柔らかな日差しが差し込み、この場の空間を演出して
くれているように感じた。緑色のマフラーの熊谷さんが建屋の前の椅子に腰掛
けた風景は暖かい絵のようでした。
生産物が、美味しくて、安全で、そして安い。少し遠い所からでも、買いに来
てくれる人が多いらしい。わざわざ訪れるという、いわゆる三ツ星の場所なの
です。また、あの計算得意のアンドレアさんが、あのとおり格好良く会計して
くれる。
16:10COPAPS発。
16:40 東洋美術館着。
アレッサンドロ・グイディさん(青山さんの夫君)が迎えてくれた。少し遅れ
て、元の予定にはなかったニーノ先生がやってきてくれた。私もお会いできて
良かった。館内には、日本の歴史本や美術本が多く集められていて、井上さん
の著作も並んでいました。また最近、展示会を行ったという渡辺省亭のコレク
ションを見せていただいた。メトロポリタン、プラハなど海外の美術館に多く
所蔵されているとのこと。日本では山種美術館に所蔵。当美術館の著作本をい
ただく。
深瀬さんが、自身の著作『高野山』を贈るという話を伺い、酒田出身の土門拳
の関係本を一緒に送っていただくことをお願いする。日本を、日本人を愛した
写真家です。
17:40 東洋美術館発。18:00 ホテル着。
インターネット接続を設定変更で利用開始。ホテル内七日間フリーということ。
- 55 -
20:00 ホテル発。同行者がイタリア特有(海外はどこもか)のスリ犯罪に遭遇。
全く分からなかった。スリも職人という水準。この近くのマクドナルドは赤か
った。場所に合わせた対応をしているということでしょう。
マジョーレ広場近くのレストラン「レオニーダ」で食事。ワインからデザート、
食後のグラッパまでフルコースでした。また、料理はポルチーニづくしを頂い
た。熊谷さん選択のワインも全て好評で、皆さん満足された。そして笑い続け
た3時間だった。
私が参加希望したことについて、プロデューサーの方々は「アブナイ人だ」と
思われたとのこと、誉め言葉として受け取らせていただいた。
「男3 年、女7 年」という究極の哲学も話題になりました。
23:10 ホテル帰着。
12 月4 日(tue) 5:00 起床。熟睡できなかったが、朝早い出発によりランニン
グが出来ないため、ゆっくり風呂に入りインターネットをチェック。7:00 朝食
も慣れたために充分に戴くことが出来た。
8:05 深瀬さんの質問「熊谷さんの身長は?」。「以前は165 ㎝が現在は164cm」。
8:15 ホテルローマ発。サッソ・マルコーニ市に向う。ボローニャ中心部に向う
通勤で大変な渋滞。この都市圏であれば地下鉄などが備わっているのが望まし
い。途中、ノーベル賞のマルコーニ氏の家の前を通り過ぎる。
8:55 サッソ・マルコーニの青空市場に到着。非常に寒い。
市場用の専用改造トラックが「軒を並べる」
。肉屋、魚屋、チーズ店、野菜店、
果物屋など、売り物に合わせた特別仕様の、これも職人的こだわりを感じる改
造ぶりです。COPAPSのアンドレアさんが到着し、農園の野菜などを売り
始める。そのような情景が撮影された。
9:40 発。車窓風景が撮影される。
10:35 ボローニャ大学を通過し、線路近くのピアッツアグランデに到着。ホー
ムレス協同組合によってバス会社の車庫跡を改造して仮面造り工場や芝居小屋
などに利用されている。手造りの仮面がじっくり出来上がっていく場所のよう
である。暖房にペレットストーブが普通に使われていたのはうれしかった。作
業場の隣のスペースには、「父と暮らせば」の舞台が出来ている。近く、公演す
るのだそうです。
11:45 サン・ステファノ教会前広場とポルティコで撮影。玉石が敷き詰められ
た広場は歴史的な雰囲気を見せている。また、教会内の中庭がすばらしいとの
- 56 -
こと。
12:25 レストラン・イルドーゲに入る。パスタ、デザートともに美味しい。店
の雰囲気もステンドグラスに囲まれて居心地が良い。
15:40 ホテルで休んだ後、チネテカに向けて出発。16:00 チネテカ到着。映像
図書館責任者のアンナ・フィカリーニ女史に館内を説明していただく。チャッ
プリン家との関わりはやはり少々難しさがあるようだ。チャップリンの自筆デ
ッサン82点を購入したとのこと。繊細だ。2013 年のカレンダーを購入したら、
2012 年のものをプレゼントしていただいた。月めくりで破り捨てることが出来
ない代物です。
17:30 チネテカ発。外はすっかり暗くなっており、建物外壁にチネテカのサイ
ンが浮かび上がっていた。
17:45 マッジョーレ広場で熊谷さんと柴田瑞枝さんが対談。山形市出身で東京
外国語大学大学院生。現在、ボローニャ大学に留学中という。撮影後、オープ
ンカフェでお茶(私はずっとカプチーノ)を頂く。寒いが外がうれしい。
18:30 ホテル到着。19:30 ホテルを出て、レストラン・テレジーナでウサギと
羊をいただく。今晩も盛り上がったが、「所詮県庁」「所詮NHK」というのが
受けていた。私の場合、何かとまとめ過ぎるということらしい。
4.ボローニャの底力
12 月5 日(wed) 4:30 起床。短いが良く眠れたようだ。インターネットをチェ
ック。遠藤氏、私と同じ歳の中村勘三郎が亡くなった報道あり。
6:10 ランニングスタート。外は暗いが快晴のようで星が瞬く。サン・ルーカ大
聖堂に4 回目のアプローチ。ポルティコの坂道の途中で丘の上に夜明けの明星
だろうか、鮮やかに輝いて見える。神々しい風景なのです。この道は、すっか
り体に染み入ったような気がする。
7:20 ホテル到着。
9:30 熊谷さんの街中写真撮影。熊谷さんも街に馴染んでおられる。その間に、
私は証券取引所を改造したサラ・ボルサ図書館やこの街の中心サン・ペトロニ
オ大聖堂を見学した。
11:10 ホテル発。11:30 郊外の産業博物館到着。中央駅の北側で、辺りは新興
住宅地。とても詳しい説明を受けながら館内を見学した。
「ボローニャ紀行」の、
あの「模型」があった。市街地模型が上方にせり上がり、次は市街地の地下を
- 57 -
流れる運河の模型、その下には運河の水を利用した水車と動力設備が現れる。
思ったより小さいながらダイナミックな動きでうれしくなりました。また、二
分の一模型という紡績機は精巧な造りで、ボローニャの秘密であったとのこと。
紡績機について質問。
「質で優位性が出たのは理解したが、コスト面ではどうだ
ったか?」、答えは「コスト面でも優位性が高くなり、その分儲けが大きくなっ
た。値下げすることはなかった」
。
13:00 産業博物館発。運河が見えるところに案内される。地上で見えるところ
は限られているとのこと。そのために、見えることが大事にされていて、見え
る窓(穴)が強調されており、説明もある。見られる運河沿いの建物も見られ
ることを意識しているように、花が飾られていたりして整えられている。案内
役の青山さんはボローニャ生活約20年だそうです。ボローニャに恋した一人。
15:00 ホテル着。15:30 ホテル発。さすがにお土産買わなければならないが、
本屋さんや版画屋(リトグラフ)さんなど、この街らしい面白い店を案内して
いただく。横山さんのアドバイスをいただきながら、山形組は何とか購入でき
た。私は、奥さんにはスカーフ、娘にはバックをマッジョーレ広場近くで求め
ることが出来た。そして自分には干したポルチーニを求めたが、この店が並ぶ
市場のような路地は、前回来て印象深かった場所だ。
18:00 鍛冶職人工房を訪ねる。芸術的鍛冶屋さんだ。地下に先代の作品が展示
されており、しなやかに動き出しそうな金属作品、美しい影を映し出す金属細
工。井上さんが求めた女性の横顔細工は本当に魅力的だった。日本での展示に
も協力的な雰囲気だった。
次は、横山さんが2003年12月のロケの時にも感動を共有された宝石工芸
職人のマルコ・カーサグランデさんの築500年という工房を訪ねた。宝石工
房らしく、セキュリティが厳しいために店に入れる人数が限られているようで
したが、横山さんとの信頼関係なのでしょうか、全員一緒に入ることが出来ま
した。マルコさんと奥様(姉?)
、100歳を超えられた母親の3人に出迎えら
れた。横山さんは、ロケの一年後にも訪ねられているらしいので、8年ぶりな
のでしょうが、しっかりと再会を確認されていました。信頼という言葉を味わ
うことになりました。さらに、訪ねた全員にボローニャで最初のコインをプレ
ゼントされたのです。お返しできることは何なのでしょう。ここは、やはり「ご
恩送り」なのでしょうか。
- 58 -
【ボローニャで最初に造られたコインについてのメッセージ】
「ボロニーノ」
ボローニャと帝国間の数少ない平和な時期の一つに、神聖ローマ帝国ハインリ
ヒ6世からの許可を得て、1191 年にボローニャ市が作り始めた貨幣である。
当時、ボローニャは既に大学、そしてそこに訪ねる学生、教師、そしてヨーロ
ッパの各地を回っていた商人の活動によって、既に有名な街だった。
ボロニーノはすぐにボローニャ銀貨と呼ばれるようになり、その高品質な合金
(市の法律に定められた銀を含有していた)によって知名度を高め、歓迎され
た。
1360 年、ボローニャは金でボロニーノを鋳造し始める。
1861 年、イタリア統一と共に造幣所は閉鎖される。
この銀貨925/1000 製のレプリカで、市の尊厳と過去のボローニャの経済におい
てこれほどまでに重要な役割を果たしたこの銀貨の800 歳を祝いましょう。
ボローニャの金細工師 カーサグランデ・ティグリーノ合名会社
19:00 レストラン・モンテグラッパで最後の晩餐。店先に生のポルチーニが並
んでいる。一番奥の明るい長テーブルに案内された。こちらに来て入ったレス
トランはどこもお客でいっぱいだった。ボローニャの皆さんは、夜を楽しんで
いる。青山さんも含めてスタッフ全員が揃った晩餐です。熊谷顧問が挨拶。「思
い」を話された。美味しくいただき、皆さんの笑顔を写真に撮る。ブレは出る
だろうが、ノンフラッシュを通した。
5.貴重な時間の終わり
12 月6 日(thu) 3:30 起床。ゆっくり風呂に入る。山形からメールがあり、返
信する。
5:00 ホテルを出発。4泊ながらずいぶん長くいたような寂しさがある。ホテル
では、朝食を用意してくれた。そんな親切な、ファミリアなホテルだった。こ
の街に来たらこのホテル以外はないですよ、と思わせるホテルでした。
6:4014番ゲートイン。快晴で星が見える。EMB190(100人乗り)。7:
45
30分以上遅れているのに説明ない模様。(イタリア語が分からないせいではな
い)。
離陸後、アペニン山脈、アルプス山脈が見える。パリ近くになってからは、明
- 59 -
らかに原子力発電所と思われる施設が白煙を上げている。そう、フランスは原
子力発電の国なのだ。
9:15CDG空港着。かっこ良い職員が乗降階段を人力でセットしている。これ
で良いのです。
12 月7 日(fri) 9:46(日本時間)成田空港着陸。貴重な時間をいただいた。
私の時計の裏時間(デュアルモード)は-8時間のままです。
- 60 -
「土に叫ぶ」松田甚次郎、空手還郷で残したもの。脚下の実践/未来への遺産
菅野
佑一
昭和二(一九二七)年こそ序章、あの戦争は何だったのか(満州、日中、日
米、何を間違ったのか)、身を捨てて守るべき国家など本当に存在したのか(天
皇自ら責任感じられた国体、最高の良識南原繁が曲学阿世の非難を浴びながら
護持した国体、一体何だったのか)。不況深刻、金融恐慌(片岡大臣失言、若槻
内閣総辞職、田中義一内閣、モラトリアム、英独墺しか前例なき経済戒厳令)、
全日本農民組合発足(杉山元治郎外)、水争いや小作争議、米国生糸安値を端緒
とする繭工場賃金不払い女工さんのストライキ。時代は普選(昭和三年二月二
〇日)目指し米沢五色温泉宗川旅館一号室では七日で終了昭和元年の二〇日前
共産党再建創立大会(関東代表水野成夫、戦後経済三団体各理事併任、を含む
十七人出席)が開催されていた。
昭和二年、松田甚次郎は十九歳、盛岡高等農林学校を卒業、東北大旱魃の岩
手赤石村を慰問、その足で先輩宮沢賢治(三十一歳、既に結核罹患、妹トシは
五年前死亡)に会う。
「松田君はどんな心構えで帰郷し百姓やるのか。」「高等農林で学んだ学術を十
分活かし、合理的農業をやり、一般農家の模範になりたい。」「そんなことでは
私の同志ではない。これからの世の中は盛岡高農卒業だからとて優待などして
くれない。又優待される者など大馬鹿だ。煎じ詰めれば贈る言葉は次の二つだ。
(一)小作人たれ、
(二)農村劇をやれ。十年間誰が何と言おうと実行してくれ。
十年後に宮沢の言ったことが真理かどうか批判してくれ。今はこの宮沢を信じ
て実行してくれ。」
山形県民の典型、愚直なる農人松田甚次郎は十九歳で知っていた、「生きると
は何なのか」「人は一生の間に、その人間の生涯を決める会うべき人に必ず会え
る」事を。当時宮沢賢治は商人の生れ、それも貧しき人を客とする古着商、質
屋。天才詩人に非ず、二十世紀の思想家に非ず、稀有の童話作家に非ず、「本当
の百姓になる」と花巻(旧稗貫)農学校教師をやめ「農民と同じ次元の生活」
を営み、そこからの脱出、解放を願い、農耕に苦渋していた。自費出版の二冊
「註文の多い料理店」「春と修羅」は全く売れず。高等農林も大正九年父政治郎
との宗教上の確執を経て日蓮宗田中智学の国柱会(石原莞爾に同じ)入会。上
- 61 -
京布教活動など遠回り、高農研究生卒業時二十四歳、生前、全く世に知られず。
東日本大震災後、我々の周囲には宮沢賢治予備軍が溢れているではないか。
専門学校、高専、八〇〇にも増えた大学に。悩める有為な若者が。
松田甚次郎は読み取った。今農村指導者で一人として小作人になり切った気
持ちでやっている者のない事を。歌や俳句だけが農村芸術に非ず、単に娯楽を
与えるだけに非ず、自然・美の感得、芸術生活、社会教育、農村啓蒙、婦人解
放、経済文化の向上の為の農民芸術の実践を。昭和六年、賢治からの手紙で、
労咳、結核、生命の終りに近いことを松田甚次郎は知る。
昭和二年、父甚五郎と五年間の了解得て「六反歩小作農」となり「鳥越倶楽
部」を誕生させ、鳥越集落弥栄、農村芸術の振興、農民精神の鍛錬/本領発揮
のみを綱領で出発した。粗衣粗食で田植も終り「寄手苗餅(よてなもち/最上
地方の言い方。置賜で早苗振り=さなぶり)」頃から水が不足し出した。遠く薩
長以前から「百姓は欲ではやれぬ」、稲を愛する魂も擦り切れる辛苦/苦行(水
掛論争/本家分家の水掛論、水盗み、老人の水番、水争い喧嘩)の「水の歴史」。
個人主義、利己主義のブツカリ合い。報復の連鎖は何を生む、仇討ちは何も生
産しない。近世以来でも四百年、水争いはエネルギー=時間の浪費。「お互いが
利己主義で相殺するか、協同で互助するか、の精神の問題である」「お互に幸福
を望む以上、互助協同の旗の下に貯水池(春先の雪融水を貯え「水涸れ」の季
節に)築造に邁進すべき。議論討議から強調へ、が松田の基本的考え。更に彼
は野良着のまま、一円八〇銭の電灯料負担のみで神社借り切り、十六~十八歳
の少年達の自発/自治演劇「水涸れ」を六〇〇人の前で演じた。この余剰寺銭
二万余円が大貯水池築造の動機と基礎になる。既に宮沢賢治と「最後の別離」
を覚悟していた松田甚次郎は、無題の脚本を鳥越倶楽部員の訂正を仰いだ上、
僅かの金を持って花巻の賢治の許に走った。既に体力消耗(羅須地人協会設立、
労働党稗貫支部シンパ、当局の取調べ、天候不順、肥料設計、稲作指導)の賢
治は涙ながらに迎え、演劇の題名「水涸れ」と命名し、最高潮の処に「篝火(か
がりび)
」と書き加えて呉れた。
井上ひさしは何処にも松田甚次郎の名は出してないが、「水の手紙」(やまが
た水宣言)、市川市読みっ子運動、に間違いなく影響を受けている。劇中五十人
の合唱は歌う。(一)農に生まれて農に生き、土に親しみ土に死す(二)血涙こ
もる穫り入れも、搾るは何ぞ何なるぞ(三)あ、今我等醒めずんば、衰退の村
如何にせん(四)あ、今我等起たずんば、混沌の世を如何にせん(各小節、歌
- 62 -
詞一部抽出)。
昭和三年、甚次郎は「精神鍛錬」「農民の信念確立」のため、一年間加藤完治
(日本国民高等学校)の下へ。留守中若い「鳥越倶楽部」員は四方からの弾圧、
迫害、妨害で農村劇は一回も上演されなかった。曰く、道楽者らしい/興行師
の真似はしない方が賢明だ(集落総代の父松田甚五郎さえ)。曰く、年末の旱魃
で困っているその時に芝居騒ぎやられては困る。村の為と言うが「世間」は承
知せず誤解の因になるばかり。村の青年が芝居では怠け者に見られ易い。松田
留守中倶楽部打毀策動(自治的若者に活動されては青年団の面目立たず、クラ
ブ記念植樹欅移植せよ、クラブ員は青年団に入る迄の年令に限れ、如何なる行
事やるにも青年団の許可受けよ)
。
昭和四年、続く妨害(神社境内の権限青年団にあり、松田は辞を低くし二十
七歳の幹部に向後の許諾を約定)の中でトルストイ原作「酒作り」(禁酒を加味
し女性の共感を得、女子部結束の礎となる)を上演。(一)農民解放の歌「何ぼ
稼いでも楽にはなれぬ
なれぬ筈だよ搾られて
をとれどもボロを着る
在郷在郷[ざいございご]と軽蔑するな
ら米が来る」。(二)女の叫び
米を取れども芋粥すする
「男同志で決めたる規則
力協せりゃ[あわせりゃ]小さな蟻も
繭
町のどこか
それが女を搾るのか
虎を倒したためしある」。女子部盆踊
り復活にも松田の哲学あり(互いの心の啓発)(土の芸術を真に生かす)。自分
が輪の中にあれば如何なる迫害あっても大丈夫指揮出来るとの確信に到る。舞
台の序幕、ミレー(落穂拾ひ)、四人の娘に、「我が力、心、血潮、祈りこもれ
り一穂一穂に、充てりこの一粒一粒に」、と歌わせ合唱させ、朗読女性に「誰か
知るべき小山田の
稲穂のたわに實る時ー途中略ー刈り乾せ刈り乾せ稲の穂
を」、藤村詩抄から労働雑詠を語らせる。松田の実践は賢治を越えて。井上ひさ
しがイタリア憲法一条(伊国は労働に基礎を置く民主的共和国)の精神を説く
「人間は労働する生きもの」の嚆矢であり、労働の喜び、農の喜びを四人娘に
合唱させる。「労働[ちから]、労働、労働、いと清き労働のみのりよ」と。
昭和五年、農村の全ゆる行詰まり(米価安い/繭は安い/納税の金無し/食
う米なし)。都会に憧れた娘は病気を持って帰る。苦学成功夢見た青年は東京で
窮乏生活に。出稼に出た小作人は失業者の群に。南米移民した青年は風土病に。
村の地主は我利我利で小作人を儲の対象に。其の他村人で隣同士境界争ひ/高
利貸や肥料商人の催促に追われる。
甚次郎は苦しむ村人、就中、農家次三男の行路を打開巣えく。大高根/萩野
- 63 -
開墾地の実修修練へ青年達と出掛け、半年以上、出来た脚本が「移民劇」。三時
間演じ最後に全員(植民の歌)合唱し幕(「東亜の覇業誰が事ぞ、五億の民を救
わんと、大和民族起たん時、歴史を永久に飾るべく、弥栄村の高き名を、揚げ
よ日本民族[やまとおおみたから]」)。井上ひさしは残した、「あの戦争は何だ
ったのか、語り継がねばならぬ」「口無き死者の万感の思い」を。それが生き残
った者我々の責務と。
昭和六年、甚次郎五幕四場「搾取の壁が崩れた」を演出す(
「あれあれ壁が崩
れたよ
あれあれ壁が崩れたよ
協同一致の懸命で
搾取の壁が崩れたよ」)。
此の年協同組合結成、自給経済の確立/消費生活の合理化。一月、ユダヤ人マ
ルクスの〈搾取理論〉を研究/承認のシュムペーター(一八八三-一九五〇)来
日。一橋大学(学長山形出身三浦新七)兼松講堂(設計米沢出身伊東忠太)で
講演「近代経済学者の科学的武器」。東畑精一(シュムペーター文庫目録由来記
一九六二)に依れば暖房乏しい応接室で「ボロニア大学などと同じ貧弱な建物
の中で如何に見事な研究成果が挙げられたか」と気遣いを慰める。シュンペー
ターはナチス台頭後ハーバード大学へ亡命(ボン大学から)。戦後再来日二条城
訪ねた折、「搾取なしに此様な美術品有り得ぬ」と言い残した。
農村経済の苦況は続き(農作物価格安く/生活必需品高く/肥料消毒剤高い)、
町では米野菜卵が不足、脚気が流行。協同組合の力で「中間搾取の壁が崩壊」
生産者と消費者が初めて笑顔を交す。勿論、既得権益の保守派は何処にもおり、
村から町から執拗な妨害工作を受ける。舞台劇には自給自足の一つ「松田式ホ
ームスパン紡毛機」(古自動車廃物利用)も登場する。
昭和七年、青森出身秋田雨雀原作の脚色で「国境の夜」を上演。主人公は利
己主義者(「俺は他人の世話にならぬ、他人の世話も亦しない」
)
、鳥越の成金地
主、自作人にも可成り居た。協同組合の精神と隣保相扶の愛の心になって貰ひ
たさにこの脚本を甚次郎は採り上げた。井上ひさしも昭和四十年代以降、町田
市成瀬、市川市菅野外に農地→宅地化=崩壊を見ている。此れら各地農協(単
協)預金は大半が土地代金。地方農村も首都近郊農村も〈近代化〉の美名の許
に〈崩壊〉していった。松田から三十年、農業基本法(一九六一)成立以来の
「農業白書」が示すもの、更に新農業基本法(二〇〇〇成立、正式には食料/
農業/農村基本法)以降の「食料・農業・農村白書」が物語るものは「地方の
崩壊、農村の崩壊」以外何ものでもない。「農民」として生き未来に夢を託し理
想と現実の落差と戦い逝った賢治(三十七歳)・甚次郎(三十四歳)の黄泉の嘆
- 64 -
きを想う。
さて、甚次郎は父との五年契約終了、八月「最上共働村塾」設立、父の勘当
を受ける。父松田甚五郎は上京し、息子の師の一人小野武夫博士に相談、三〇
歳迄認めることで折合つく。
昭和八年、「隣保館」完成、室内劇可能となる。農村劇運動に時代物採択の是
非、逡巡するも「義民劇」を舞台に挙げた。(一)佐倉宗吾義民伝、農民の精神
こそ〈産霊[うぶすな]の魂〉の考えから此の大犠牲/大義烈に学ぶべしと信
じた。(二)国定忠治劇。翌昭和九年凶作に最上地方でも娘が売られた。「詩人
は常に来るべき文化の先陣に立つ者、最も鋭敏な災害予報機でなければならぬ」。
三大飢饉凌ぐ天災、山形県凶作婦女身売り(昭和九年)九九一人(芸伎一一六
/娼伎三一二/酌婦五六三)、東北各県知事に山形県は金森太郎知事(救世軍山
室軍平盟友の金森通倫の息)、県警本部長長岡万次郎(キリスト者内村鑑三の門
下生)は婦女身売防止トップに、秋田県も留岡幸夫知事(キリスト者北海道家
庭学校創始者留岡幸助息)となる。
昭和九年、風刺劇「結婚後の一日」(樋口紅葉作~、都会の娘に憧れ嫁に貰っ
た農村青年が嬶[かかあ]天下で酷い目に遭う。他方村の娘も女中さん奉公等
で村離れ、土臭い子女が少なくなって行く。一体俺達は誰と結婚すれば……と。
六、七〇年後中国、比国外国際結婚の前兆。九〇年代から私の持論、少子化高
齢化温暖化進み二〇二五年代にはウラル海干上り、キリマンジャロの雪溶け、
世界的「食料争奪戦」
「移民争奪戦」になる。
昭和十年、選挙粛正劇「或る村の出来事」(中野實原作脚色)。警察や役場主
導で懇談会(総選挙粛正)やっても一向に人集まらず。一夜のこの劇で男女三
〇〇名の観客。「ヴェニスの商人」(坪内逍遙訳、一五九四年ヴェニスの裁判)。
暮には新庄のキリスト教会でも再演、信者の人達にも感動を持って貰えた。当
時官主導の選挙粛正同盟会、未成熟な我国民には程んど機能せず。勿論一方で
選挙粛正目論む、他方で官憲的統制への危機感も。前田多門(賢治同様清濁併
せ飲めぬ真面目さ)は「公民の書」に言う「民衆は一見迂愚軽躁に見えようが
長期的視野に立てばその判断は決して忽[ゆるがせ]に為し得ない」。リンカー
ンを引き、「一部の人、特にシンパなら長期に欺ける。しかし全ての人を欺くこ
とは不可能だ」と。更に農民松田甚次郎は読み取る、「戦時にはオリガーキ/寡
頭政治が蔓延し、戦後、経済複雑化すれば専門知識の官僚へ委譲傾向は時代の
必然。但し憂慮忘るべからず」のG・ワラスの言葉を。
- 65 -
昭和十一年、「故郷の人々」。逃亡中の重大思想犯/開田中の農民の為唯一本
の杉の木さえ迷信から切らせぬ地主/三〇年間唯一人の罪人出さぬを誇りの定
年目前の老巡査のディレンマ、都会へ憧れる青年男女、農村の協同更正の障害
を描く。更に此の年松田は浪曲劇「乃木将軍と渡し守」も演ずる。昭和五十四
年井上ひさしは「しみじみ日本乃木大將」を紀伊國屋の舞台に掛ける。父修吉
なき井上宅にころがり込み、三兄弟を無限の暗に陥し入れた浪曲師は創作と信
じたい。彼は私の畏友に言い残した、「一つの真実を言う為、幾らでもウソを吐
[つ]きます」と。
宮沢賢治は何一つ果せぬ己れの境涯を悟り、「十年間やって見て呉れ」と託し
六年後昭和八年九月二十一日、生前全く世に知られる事無く三十七歳で逝った。
「魂の感応」と言うべきか、愚直一筋実践松田が小作人として鳥越倶楽部、
最上共働村塾(世にも最上[さいじょう]なる農村向上の為の修業の場と命名)
で取組んだ膨大なもの。集落共有地問題(小野武夫博士/日本社会の状況、農
村経済の仕組、終生松田を支援)
・婦人解放(住井すゑ/橋のない川、奥むぬお)
・農本主義(我国近代工業化の過程で相克的な農業こそ立国の基本/農村こそ
社会の基礎の立場)。自然、美の感得/芸術生活。修養道場(加藤完治/人格は
労働に依ってのみ錬られる/ペスタロッチにも繋がる/宇宙全体が人間の教室、
栢山の尊徳/此の秋は風か水かは知らねどもその日の業に田草とるなり、寛克
彦/キリスト者の信仰徹底断食同様、古神道大義、神ながらの心断食行)。隣保
館造り運営(託児所/青年学校/裁縫塾/母親教室/敬老など)。郷倉(冷害/
大凶作/飢饉)対策。出産相扶会(無料助産/産前産後無料診察/松田の生き
方に共鳴し移り住んだ人助産婦増子あさ外)。衣食住の問題(ホームスパン/共
同炊飯・炊事/栄養改善/ミツバチ/農産加工ー味噌/澱粉/醤油/水飴/缶
詰/緬羊/共同浴場)
。
非営利主義(横井時敬博士/塩水選の発明者/小農に関する研究 − 自己の労
力を貨幣化せず/貨幣化された他の労力を購入せず→家族的に独立経営す。農
家生活の生産手段の大半/生活必需品の大半を自家生産する。→肥料自給主義
/大鋸屑堆肥/熊笹、川芥外全ゆる廃物利用。サイロ/エンシレーヂ等山岳立
体農業。種苗の協同化)。横井博士は東北人松田甚次郎を誰よりも信頼した(横
井時敬に関心おありの方は東畑精一「農書に歴史あり」をご参照ください)。
賢治は当時の社会主義者達と全然異なった道を歩いた。社会運動をやる代り
肥料設計/石灰岩砕き野原に撒いた。社会の不正糺弾の代りに生涯の宿敵冷害
- 66 -
ー周期的襲来/いずれ將来する氷河期への恐れー大火山島爆発を夢想。陰鬱な
長編小説書く代り明るく/綺麗な童話を。死の直前、日の目見ぬ原稿一杯のト
ランクを前に「皆んな私の迷い跡だんすじや、どうなったって構わないんすじ
や」。終始批判的な父政治郎「賢しゅのした事など岩にブツガリハネ返さる事ば
かり」。終始賢治を庇った母イチ「そんたな無情い[むぞい]こと、賢さは何時
か皆んなで喜んで読むようになるんす。と私に言いましたす」。
無名賢治の果たせぬ夢を「馬鹿の十年」愚直に実践した松田甚次郎。父萬次
郎に「道楽者の如き、興行師の真似などせぬが賢明」勘当迄受けながら「世間
は賢い悧巧な人で一杯、愚かな馬鹿が少い。此の為世の中混沌としているので
あるまいか。小作人/農民芸術/共働修養道場、世間の賢明な人は馬鹿らしく
てやれるまい。私は世間から馬鹿にされようと信ずる事に従って馬鹿になって
十年過して来た」。松田はゲーテの「若き純なる望みは生涯の内いつかは実現さ
れる」を信じ「人の世に熱あれ/人間[じんかん]に光あれ」西光万吉・住井
すゑ・太田卯を信じ「眼差しは常に弱者/虐げられた人に、そして何より行動
を」。甚次郎は左右問わず我々日本人の二つの病根を読み取っていた。(一)無
限責任論(世間)、(二)無責任論(ニンベイ/総論賛成、各論反対)を。
昭和七年。最上[さいじょう]の共働村塾開塾趣意に松田は言う。「農村の興
廃は社会の基礎を左右し国の運命を支配する。小作人でも貧乏人でも北はサハ
リンから南は台湾・朝鮮の純真な青少年達と寝食労働を共にして修業したい。
現在の教育の弊害から一人でも救いたい。誰が先生、誰が生徒でなしに自治共
働でやるのだ。一芸に秀でた者は何処にでも限りなく居る。ドン底から救農、
農村興隆、破滅に瀕する農村を救うのは本当に農業/農村を思う信念ある実践
躬行の若き純真な先駆者が必要だ。新しい時代にはその時代に先駆する人と組
織が必要だ。お互いの切磋琢磨で玉の光を輝かそう」。
松田開塾の同じ年、東京大学物理の教授を辞し山形県小国叶水の僻地にキリ
スト教独立学園を目指したのが鈴木弼美。彼曰く学問(教育)の低調は全て立
身出世/金儲け/学者は名声欲しさ、を原因とすと。時代は満州国議定書に進
んでいた。世に蛸壺学者多く洞窟の哲人多し。昭和五十年筆者が鈴木校長にお
会いした時、毛布で仕切った真夏の校長室で(生徒は牛の世話や農作業中)「校
長から用務員さん迄全員俸給七万円/所得税から再軍備に回る分返還訴訟中:
と語り、草深い校舎の横腹には「神を恐るるは学問の初めなり」とあった。
賢治/甚次郎にとり農村の骨子は小作人/小農であり「將来もこの形態は変
- 67 -
わらない」と読み切っていた。小作農民こそ偉大/粗衣粗食/社会的経済的圧
迫を体験すれば必ず人間の真面目(誠の姿)が顕現される/最下層の文化・経
済生活を忍び国の大道を躬行(有言実践)、産業資源としての食料を供給し民力
の充実に貢献する/農民として真に「生きる」には「真の小作人」たることだ。
「小農主義/非営利主義/自給自足」が松田の方針。彼はソ連革命後の極度の
機械化(農民の疲労/耕地の瘠薄)・米国農業/個人主義的経営は如何に合理化
しても行詰ると見た。
「農村こそ国民の苗床/苗床荒して本田の稔り望めず/全ゆる国家で残念乍
ら戦いにならないと農こそ国の本[のうこそくにのもと]判らぬ/日本の農村
は総人口の三〇%最低限維持が国策であるべし」
。日本の農業は家族的に勤労し
/社会的に協働し/自給自足の合理的生産図るべし。
中南米各国支援で三年駐在のパナマに「森羅万象に天意を知る者は幸」とエ
スペラントで残した技師がいた。七年間苦闘し名も無く去った青山士[あきら]。
愚直の人だった。
慎しく天然自然を畏怖、救農救村、実践躬行、木偶坊[でくのぼう]、松田甚
次郎の一生は、四十三年、大旱魃に万策尽き「雨乞祈願[カムレーン]」、三十
四歳で逝った。二十七年社会主義的大農経営、トーズ/アルテリ/コムーナ集
団農場[コルホーズ]は今や消えた。五〇年前カンザスで機械化大農経営の苦
悩を見た。三〇余年前サンノゼで加州米ローズ国宝の減反を見た。「農業は大寨
に学べ」と自給自足目指した中国、今や社会科学院は農民比率二割以下目標と。
嗚呼。
「経済」追求挙句の果て「人心の荒廃」
「近代化の宿痾」人口減少/都市化「農
村崩壊」すれば「国家など幻想」必定。
- 68 -
都市と自己本位
貞包
英之
1
都市とは何であり、都市を豊かにすることはいかにしてできるのだろうか。
たとえば古典的な社会学によれば、都市はさまざまな結節機関が存在する場
として説明される。地方自治体の機関や警察、学校など、人や情報、商品の動
きを統制する機構が存在することが都市の証とされるのである。今でもこうし
た見方は妥当性を失っていないが、とはいえそれだけにも都市の存在は還元さ
れない。そもそも現在、権力機構を負担の少ないものへといかに縮小していく
かがこの国のひとつのテーマとなっている。行政機構や教育機構を縮小してい
くことは良かれ悪しかれ大局的にみれば押しとどめがたくなっているのであり、
そうした現実があるからこそ、では権力機構を離れ都市が何であることができ
るのかが今問われるべき課題となっているのである。
それをあきらかにするために、もう少し都市の住人の立場から考えてみよう。
少なくとも中世なかば以降の日本の都市についてみれば、しばしば3つの施設、
または機構が都市をつくる核となってきたことがわかる。ひとつは寺。寺はた
んに先祖を祀る宗教施設ではなかった。かならずしも権力に仕えるわけではな
い雑多な知識や情報を集め、それを学ぶ者を集める知的組織として寺はしばし
ば機能してきた。
次に遊女屋。遊廓としてまとめられるのは近世以降のことだが、いずれにし
ろ多くの都市は、遊女を売る遊女屋を繁華街の中心として発展することが多か
った。家の秩序や社会的な身分を超える性的経験を味わうことができることが
都市の醍醐味のひとつになったのである。
最後にそれとも重なるが商店。江戸の三井越後屋を代表に、都市には大店が
つくられ、流行商品を集める。大店を訪れればその時代のあらたな流行に触れ
ることができたのであり、だからこそ大店はしばしば一種の観光地として絵画
や名所図会に描かれている。
こうして都市を豊かにした施設をみるとき、それらがそれぞれに都市に「他
者」を都市に招来する施設だったことがわかる。寺は宗教的他者や知的他者を、
遊女屋は性的他者を、商店は商品のかたちで町の人が知らない技術や快楽のあ
り方を教えるのであり、それらの場所を訪れるかぎりで、人びとは思いも知ら
- 69 -
ぬ他者と出会い、人生の意味を問いなおしていくことができた。だからこそ寺
や遊女屋は商店はしばしば権力によって統制されつつも、都市生活を活性化す
る重大な要素になってきたのである。
2
振り返って、しかし現代のわたしたちの都市はそうした「他者」的なもの維
持し続けているのだろうか。そう問う時、答えに詰まる。わたしたちの社会は
ますます外部に開かれ、自由なものになっていると語られる。しかしそれは東
京という大都市を上位に置く階層的な秩序に従属する上での話であり、都市の
個別の現実からみれば、その豊かさを規定する他者的な場がますます失われて
いる。宗教的な権威は失われ、スピリチュアルやパワースポットといった安易
に消費される形式にパッケージ化される。風俗産業は「健全」な都市風景から
漂白されるとともに、援助交際やデリヘルといった目にみえないかたちへ分散
しつつ隠される。最後に商店は、amazonや価格コムといったスクリーン上の場
(サイト)へと移行し、物理的場を失いつつある。
こうして見知らぬモノ、あらたな世界を経験させる空間的な場所が失われて
いく代わり、都市は歯抜けのような商店街や空き家、駐車場に占領される。た
とえば2011年の東北大震災があきらかにしたのは、それをさらに押し進めた未
来の都市の姿であった。数多くのインフラや商店、人的資源を押し流され、い
まだ復興できずに入るそれらの都市の姿は予想を超えた陰惨な姿というよりも、
都市の時計の針を進めみせただけのものではなかったか。震災は他の多くの都
市が今後陥るかもしれない姿を前もって示したのであり、だとすれば震災をた
んに自然災害としてだけではなく、わたしたちの時代特有の社会的災厄として
考えてみる必要がある。
他者的なものが失われていくこうした現実のなかで、たしかにそれをできる
かぎり遅延する戦略が稼働していないわけではない。そのひとつが「観光化」
の戦略であり、行政や多くの観光業者が都市を飾り目新しい他者に仕立て上げ
ることで観光客を呼び寄せ、活性化させようと努めている。
しかしこの「観光化」が本当にどこまで都市を豊かにすることに役だってい
るかには疑問が残る。「ゆるキャラ」をつくり、「B級グルメ」を展開すること程
度にこの戦略が終わるとすれば、それは都市を外部の大都市の住人の趣味嗜好
に従属させることしか意味しない。みずからをチャーミングな商品として差し
- 70 -
だすことで、都市はみずからを多数者の欲望に叶うそれゆえ変哲のない場に変
えていく。一部の業者や自治体担当者は、それでも利益があればいいというの
かもしれない。しかしあらゆる都市が競って「観光化」を進めるなかで、ひと
つの都市が勝ち続けられる保証はどこにもない。多数の消費者の嗜好に従うも
のへと都市を標準化する勝者のいない競争がただ続けられていくばかりなので
ある。
「まちづくり」にしろ同じである。高度成長期以降、官主導の都市計画の限
界がますますあきらかにされるなかで、新自由主義色を強める行政によって住
人(とされる一部の人びと)主導の「まちづくり」への権限移譲がおこなわれ
てきた。そうした都市計画のアウトソーシングが、住人を主体化するという意
味で一定の効果をもたらしたことも否定しない。しかし「まちづくり」に、過
大に期待を寄せてもならない。まずその有効性の問題がある。都市の変貌は、
製造業の撤退と大規模なサービス業の進出といった巨大な資本の潮流によって
引き起こされてきたが、それに「まちづくり」がいかに対抗できるのかは不確
かである。今のところ多くの「まちづくり」が、資本が見落としていった商店
街や街路を補完しながら生活を快適にする落ち穂拾い的な役割を嬉々として引
き受けているばかりなのではないだろうか。
第二にそしてより大きな問題として、「まちづくり」が都市の魅力を減らす方
向に働く危険を真剣に考えなければならない。「まちづくり」は従来のボス的支
配、または企業城下町としての町の支配力が失われた都市の金と権力を取り結
ぶひとつの支配様式と重宝される。だからこそ皮肉にも成功した「まちづくり」
こそ自治体とむすびつき、安全や安心に向かうフォーマットを受け入れながら、
しばしば町の「異物」を排除することに仕えるのである。
「観光化」や「まちづくり」がこうして多くの問題を孕むのは、都市の多く
の問題が現代社会に起因するのであり、かならずしも地域の街によって解決し
がたいという当たり前の事実によっている。わたしたちの宗教意識や、性的か
かわり、商品のあり様は、消費社会化といわれるような現代社会の大きな変容
のなかで変化しつつあるのであり、それを地域的な取り組みによって解決する
ことには限界がある。にもかかわらずそれが安易に解決可能であるかのように
吹聴することで「観光化」や「まちづくり」が、誰の何の役に立っているかに
ついてむしろ冷静な分析が必要になるのである。
- 71 -
3
しかしそうした暗い現状把握をするだけではなく、最後にではわたしたちに
何が可能か考えておこう。高度成長期以後、日本の都市はその多くが資本や権
力的権威、人的資源を奪われ、ますます権力的、想像力的に外部の機構に依存
する場になりつつある。そのなかで大切になるのは、どこに存在するのかわか
らない想像上の多数の嗜好に合わせて自分を記号化するのではなく、自分たち
がいいと思えるモノやコトを評価していく「自己本位」の戦略である。それは
単純化すれば、生産とは別に消費を評価していく道といってもよい。他の都市
に売れるモノだから評価するのではなく、自分が消費していいと思うモノやコ
トに肯定的な意味をあたえていくこと。単純なことだが、この「自己本位」の
道が、他の都市に従属することに抵抗する都市の生存戦略の第一歩になる。
もちろん「自己本位」の道だけでは充分ではない。それはへたをすれば、自
分が欲しいものだけを得る王様化した消費者を産むだけだからである。「自己本
位」と同時に、自分の欲望を点検し、それを思ってもいないものの方に開いて
いく道を担保していることがだからこそ重要になる。
そのためにはたとえば人の生死に関する宗教的問いに真摯に向き合える場を
準備することや、性的経験を多様化する具体的な場を実現することなどが課題
になるが、それに加えて、いかに現在の秩序を相対化して捉えるための知の道
を都市に開いておくかが勝るとも劣らない問題になる。他の世界や社会につい
て学び、それによって自分の欲望を再点検できる「学び」の場を実現すること
が、都市を既存の秩序に閉じられないものにするためにかならず必要になるの
である。
そのためには、まず今のように「学び」を未成年者にかぎられたものから解
放することが大切になるが、しかしそれは「学び」をカルチャースクール的な
もの、あるいはいま流行しつつある街角のソーシャルな大学的なものへと落と
しこむことを意味しない。両者は「学び」を誰でも手軽に受けられるものにす
ることに骨を折るが、そうした道は実は「学び」とはあまり関係がないためで
ある。「学び」には自己の時間やプライド、または貨幣を投げだす賭けが欠かせ
ないのであり、それなしでは「学び」は結局、新聞や雑誌、ネットを通した情
報の収集と変わらないものとなってしまう。
ではそうした何かを賭けた「学び」の場がいまあるかと聞かれれば、たしか
に現代社会においては心もとない。大学はそうした場でありえるのかもしれな
- 72 -
いが、しかし激しい競争のなかで今では大学には人びとをよき市民として社会
の方に包摂する社会化の機能がむしろつよく求められている。そうした大学を
変えていくのか、または別の場をつくりだすべきかはいまだ分からないとして
も、都市が都市であるために自身の嗜好や欲望を相対化する「学び」の場を開
いておくことが重要な課題であることはまちがいない。それに比べれば、都市
を沈滞に導いているとされる経済的、政治的問題はかならずしも大きな意味も
たないとさえいえるのである。
- 73 -
ボローニャの会、ボローニャ訪問視察参加に基づくまちづくりへの
提言
蘆野 眞一郎
この会での「ボローニャ紀行」を読んでのレクチャーと意見交換、実際にボ
ローニャを訪問して気がついたことを山形市のまちづくりへの提言としてま
とめてみました。
1 市街地の景観の形成
古い町並みを保存しながら活用するボローニャ流を手本に、まず古い民家、
土蔵、西洋建築などは、取り壊さず保存していくことをルール化する。山形
では壊すほうが主流のように見える。これは、文化財保存とは違う手法なの
で、全体として価値を創出するため、条例化して、公益的団体が買取り、賃
貸ができるよう基金を創設する。
2 歩ける街に
ただこれでは点の整備なので、あわせて既存の建物の最建築の場合は、外観
を一定の色や様式に従ったつくりにする。風雪でも歩けるよう1階部分はセ
ットバックを義務付ける。
歩いて楽しい街区にするため、1回店舗部分はショーウインドウの設置と
展示を義務付け、夜まで点灯してもらう。七日町から駅まで歩いてみると15
分しかかからない。中世都市、日本の城下でも同様の規模で中心から東西南
北せいぜい2~3キロの規模で歩いて用が足せる範囲なのだ。旧市街地の地
図を見るとよくわかる。
ボローニャでとても素敵なクリスマス装飾の展示があったので、なんとい
う店かと思ったら、日本の「無印良品」だった。少なくても50年は続ける
といい町並みになる。
3 水環境のある市街地
山形五堰など用水の市街地への導水。中央分離帯や側道わきに表流水が見
えるようにする。また公園・広場への噴水、ビオトープ整備などで、うるお
- 74 -
いのある市街地にする。義光公400年もいいが、単に顕彰、イベントをす
るだけでなく、城下のまちづくりの知恵も拝借しよう。
仙台市では、震災で水の重要性に気がついた市民の間で伊達政宗が広瀬川
上流から引いて、仙台城下の四方に水路をめぐらした四谷用水復活の提案が
なされている。震災でもこの水は使えたのである。
4 公共交通の活用
自家用車が主要な交通手段になっている山形市では、高齢化に伴い、自動
車がなくても暮らせる環境にしていくことが必要だ。山形市では、小規模の
住宅団地が郊外に虫食い状態に開発されてきたため、おうちがだんだん遠く
なり、自動車がないと暮らせない。一方バス路線は縮小されますます不便に
なった。
このため、今後は山形線、仙山線、左沢線沿線の住宅開発をすすめ、鉄道
の利用を促進する。バスは環状線を走らせて郊外からも乗換えで中心市街地
に来やすくする。
鉄道とバスの連絡パスや乗車券を発行してひとつの定期券で、切符で乗れ
るようにする。だって東京じゃ鉄道駅やバス停から近いほうが土地は高い。
5 まちづくり議論の場をたくさんつくる
カフェ、フォーラム、名称はなんでも、テーマを決めて関心のある市民や
専門化が任意に集い、議論する場を街中にたくさんつくろう。行政やいわゆ
る専門家に任せっぱなしにしないで自分や子、孫のために住みやすいまちの
あり方を本音でしゃべろう。今回山形市で公演されるボローニャの仮面劇も
市民の議論から出てきたものだ。先の仙台市の例もこうした集まりから動き
出した。
6 ボローニャとの交流の促進
井上ひさし「ボローニャ紀行」の縁で、ボローニャの市民、ボローニャ大
学、演劇、女性図書館、市庁とのつながりができた。ボローニャにはまだま
だ学ぶべきものが、たくさんある。これをきっかけに多くの分野で交流し山
形市の創造に役立てようではないか。
「ボローニャ紀行」のあとに出版された星野まりこ子氏の「ボローニャの
- 75 -
大実験-都市を創る市民力」もヒントがたくさんある。たとえば、学術・芸術
・公益分野での学生、講師の交換、合同演劇、女性の社会参加の国際フォー
ラム、映画・映像アーカイブの整備、伝統工芸を高度技術産業化するノウハ
ウなどなど。いずれにしても、こうしたことを画策するのは市民である。そ
れが本当の民主主義というものであり、ボローニャ流の真髄ではなかろうか。
- 76 -
井上ひさしさんが教えてくれた日本の3つの大切なもの
-笑い・方言・地方-
山形大学 山本陽史
皆さん、こんばんは。
私は山形大学で日本文学を教えている山本陽史と申します。
山形大学は日本の東北地方、山形県に立地する国立大学です。山形県は日本
の生んだ偉大な小説家・劇作家井上ひさしさんの生まれ故郷でもあります。
本日は井上ひさしさんの業績についてお話し申し上げます。
井上さんはその作家活動を通して、近代の日本人があまり価値のないものと
考えていた3つのものの大切さをあらためて私たちに教えてくれました。その
3つとは、
文学における笑い・方言・地方
です。井上さんはこれらをほとんど孤軍奮闘で復権させるという日本の文学史
上希有な大仕事をしたのです。
まず、文学における笑いについてお話ししましょう。
井上ひさしさんは1972年、日本の若手小説家の登竜門である直木賞を受
賞しました。受賞作は「手鎖心中(てぐさり・しんじゅう)」という中編です。
この作品は江戸時代の戯作者(げさくしゃ)山東京伝(さんとう・きょうで
ん)の黄表紙(きびょうし)
『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』
を下敷きにした作品です。戯作とは、江戸時代後期、十八世紀後半から十九世
紀前半の江戸を中心に書かれた、笑いの要素の強い作品群を指します。黄表紙
は戯作の一ジャンルで、今日で言う漫画に似た、絵の余白に筋や台詞が書き込
まれた作品です。
山東京伝は資料で確認できる限りでは日本ではじめて作品の原稿料を受け取
った作家、つまり日本で初めてのプロフェッショナルな作家です。江戸時代後
半では最も人気のあった作家です。また、若い頃には浮世絵師としても活躍し
ました。
『江戸生艶気蒲焼』では、絵も自身で描いています。
『江戸生艶気樺焼』は、大きく平らな鼻が特徴の大金持ちの商人の息子が、
当時の芝居や歌に登場するような二枚目の男に憧れて愚行を繰り返すという物
語です。最後は江戸吉原遊廓の人気遊女とウソの心中に出かけ、追いはぎに身
ぐるみはがれて裸で「道行き」をします。
- 77 -
山東京伝の代表作であり、また、江戸時代の笑いの文学を代表する作品です。
井上さんはこの話をふまえて「手鎖心中」を書きました。題名の「心中」は
このウソの心中をふまえ、また、手鎖は京伝が筆禍事件を起こして江戸幕府か
ら「手鎖五十日」の処罰を受けたことに基づいています。戯作者を目指す若者
の愚行が描かれています。
日本の近現代文学では滑稽・笑いの要素が含まれた作品は質の低いものと見
なされる傾向が強かったのですが、井上さんはこの作品をはじめ、笑いの要素
や言葉遊び、語呂合わせをふんだんに取り入れた小説や演劇を次々と世に送り
出し、大きな人気を集めました。日本文学において笑いを復権したこと井上ひ
さしさんの大きな功績の第一です。
なお、個人的な体験ですが、私は高校生の時に井上さんの「手鎖心中」を読
み、山東京伝を大学で専攻しようと決意しました。私の人生を決めたのは井上
さんの笑いの文学であったのです。
2つ目として、方言の復権があります。近代日本の共通語は、江戸時代に武
士の政権が拠点とし、近代に首都となった東京の方言を基盤としています。日
本ではではながらく方言と比べて、一段低いものと見なされてきました。
このことは古代以来日本という国家が中央集権体制を志向してきたことと深
く関係があります。
とくに井上さんの生まれ故郷である東北地方の方言と、かつて「琉球王国」
と呼ばれ、独立国家であった日本の南西諸島、沖縄の方言が差別の対象となっ
ていました。日本かつての地方の小学校では方言を使うと罰せられることもあ
りました。井上さんも小学校の頃、方言を矯正するための発音練習を強制され
たそうです。
方言を話す地域は文化度が低いといった根拠の無い偏見が当然視されていま
した。
そんな井上さんの初期の戯曲に「雨」という作品があります。こういう話で
す。主人公である「徳」(とく)と名乗る若い男は江戸に生まれ、江戸で金物を
拾って生計を立てていました。彼は雨宿りの最中に出会った男に、行方知れず
になった羽前国(現在の山形県)平畠(ひらはた)というところで特産の紅花
を商う商店の若主人と間違えられます。若主人は行方不明になっており、徳は
現地に行って若主人になりすまし、その商店の若く美しい妻も手に入れます。
- 78 -
まんまと若主人になりすました徳ですが、慣れぬ東北の言葉を一生懸命マス
ターしようと努力します。また家業である紅花栽培の知識を得るために苦心し
ます。しかし実は平畠の人たちは徳の正体をはじめから知っていました。徳は
彼らによって政治的なスケープ・ゴートとして利用され、やがて命を失います。
この芝居の台詞はほとんど山形、とくに井上ひさしの出身地の置賜(おきた
ま)方言で書かれています。日本の小説や戯曲が方言で書かれることは極めて
まれでした。この作品は1976年、井上さんがオーストラリア国立大学の客
員教授でキャンベラに滞在中に書かれました。井上さんはこの滞在中、英語を
日常語とするオーストラリアの社会になじめず、人格崩壊の危機すら覚えたら
しいのです。井上さんはこの設定の理由を、「異なるコトバの体系の中へある日
突然入り込んだひとりの人間が、どのようにその異なるコトバの体系に精神を
圧しつぶされて行ってしまうのか、それを方言をテコに追いつめてみようとし
たかった」と述べています。
井上さんは上智大学に入学するために上京した際、自身の言葉のなまりに悩
み、吃(きつ)音症になってしまったといいます。キャンベラでの体験はそれ
に匹敵する衝撃だったのでしょう。
しかし、彼自身のこの二つの体験に基づいて言語的少数者が多数派の中で苦
しむという設定をする時、通常なら江戸(=東京)に山形の方言話者を投げ込む
のが普通です。井上さんの設定はこの逆であり、当時まだ若手と言って良い劇
作家がこのような方言と共通語の地位を逆転させるという、大胆な試みをした
ことに驚かされます。
私はこの芝居を2年半前、東京の新国立劇場で観ました。その休憩時間、お
そらく演劇を専攻しているらしい数人の女子大生たちの会話が聞こえてきまし
た。「いい芝居だと思うけど、台詞がほとんど理解できないので困った。共通語
で書いてくれればよかったのに」。井上さんがこの言葉を聞いたとしたら、会心
の笑みをもらしたに違いないと思います。
さて、井上さんが東北方言を大胆に取り入れた代表的な作品に、1981年
に単行本が刊行された長編小説『吉里吉里人』があります。この作品について
は次項でとりあげることにいたします。
その前に、方言を使った作品で触れておくべき重要な戯曲があります。それ
は本日ここにいらっしゃる青山愛さんのイタリア語訳でボローニャでも上演さ
れた戯曲「父と暮らせば」です。この作品は数年前に広島で原爆を浴びた若い
- 79 -
女性とその父親(実は父親は原爆に伴う火事で焼け死んでしまっているのです
が)の二人だけが登場します。会話はすべて広島の方言で書かれています。原
爆による悲劇から女性が恋人に出会って立ち直っていく過程を描いています。
広島弁のおっとりした言葉の響きがすばらしいと思います。井上さんの方言を
大事に思う気持ちが伝わってくるとともに、方言が生活に密着して語られる言
葉であることの価値をあらためて実感させられます。
方言は共通語のように社交のためのよそ行きの言葉ではありません。話す人
の生活と不可分に存在する生活語、喜びも悲しみも表現してきた感情語です。
方言で語られる言葉にその人の思いの真実が込められています。
今でこそ日本では方言を取り入れた小説や戯曲、映画は当たり前に作られま
すが、井上さんがその先駆者であることは紛れもない事実です。井上さんは日
本で方言を復権した刀のです。
さて、3つめに日本における「地方」について取り上げます。
江戸時代の日本は260あまりの藩が存在する国家でした。これは現在の地方の
行政単位である「県」の五倍以上です。藩はそれぞれに大名がいて、アメリカ
合衆国の「州」のように独立性の強いものでした。
ところが日本は1968年の明治維新以降、東京に政治・行政・経済・文化
の機能を集中させる中央集権国家に変貌しました。このことは現在も変わらな
いどころか、ますますその傾向は強まっています。中央が決めたことを地方が
従うという構造が固定化されてしまったのです。
このような東京一極集中への異議申し立てとして書かれた作品が井上さんの
代表作『吉里吉里人』です。この作品は日本語で100万字にも及ぼうという大長
編小説です。
東北地方の人口わずか四一八七人の小さな町が、東京に反抗して独立を宣言
し、結局滅ぼされてしまう数日間の物語です。
日本人の常識ではそんな小さな規模のコミュニティが独立などできるはずが
ないと考えるのが普通です。日本は人口の多い国家ですし、合衆国やロシア、
中国のような人口の多い国家のパワーを日常的に目の当たりにしているからで
す。
しかし、
『吉里吉里人』を構想した時、井上さんの頭にあったのはヨーロッパ、
なかんずくイタリアに存在した「都市国家」であったと思います。
- 80 -
ところで井上さんの出世作に日本の公共放送NHKで放送された人形劇「ひ
ょっこりひょうたん島」があります。井上さんは脚本の共同執筆者でした。こ
の作品は10数名の大人と子供を乗せて突然漂流を始めたひょうたん形の島の遍
歴物語です。規模は極めて小さいのですが、大統領もいて一応国家制度が整っ
ています。この島にいろいろは人びとがやってきて騒動を起こす物語で、私も
小学生の頃熱狂的なファンでした。
どうやら『吉里吉里人』は「ひょっこりひょうたん島」を下敷きにして書か
れたのではないかと私は考えています。ひょうたん島「共和国」より人口の多
い吉里吉里国は、憲法をもち、議会も官庁も裁判所もあり、行政機能を備えて
います。独自の言語「吉里吉里語」があり、文法書も刊行されています。もっ
とも実は東北方言なのですが。
また、食糧は自足自給で調達でき、エネルギーは地熱発電所を備え、大きな
総合病院もあります。吉里吉里国の医学は世界最先端水準で、世界中から患者
を受け入れる戦略でした。
加えて放送局も持っています。高等教育機関である大学もあります。何と中
学校に附属する大学なのですが。
井上さんは二つの機能が都市国家に必要と考えていたと思います。一つはそ
れ自身で完結して住民の生活が維持できる機能です。とくに医療や食糧、教育
の機能ですね。もう一つは他の地域の人びとと連帯したり交易するという交流
機能です。それ自体で完結しながら他と交流する、このような理想の都市国家
を井上さんは『吉里吉里人』で描いたのです。
吉里吉里国が独立しようとしたのは、日本の中央政府が地方に一律に押しつ
ける硬直した農業政策や、隣町との合併の強制、自然を破壊する無秩序な開発
への不満です。地方それぞれの独自性を認めない中央集権的な国家のあり方へ
の異議申し立てです。
日本の東北地方は農業が盛んです。井上さんは農業と地域文化の象徴である
方言を大事にしないことへの憤りを、作品中の登場人物の口を借りて以下のよ
うに表現しています。
「私たちはもう東京からの言葉で指図をされるのはことわる。私たちの言葉で
ものを考え、仕事をし、生きていきたい。私たちがこの地で百姓として生きる
かぎり、吉里吉里語はわたしたちの皮膚であり、肉であり、血であり、骨であ
- 81 -
り、つまりは私たち自身なのだ。
」
井上さんがもっとも愛したイタリアの都市がここボローニャでした。井上さ
んはボローニャの町に、完結と交流の両機能、高度な教育・文化機能、そして
地方の独立性という日本の地方が失ってしまったり、中央のコピーやお下がり
しか持たない多く機能の存在を見、理想の都市と考えたのです。
井上さんはふるさとの東北地方をはじめ地方は独自性を持つべきであるとい
うことを多くの作品や講演で説きました。いまやそのことを疑う日本人はほと
んどいないはずです。
地方が集まってはじめて国が出来るのであって、地方が衰退すれば国家その
ものが衰退するということを井上さんは日本人に気づかせてくれたのです。
以上3つのことは、井上ひさしさんが長い間作品を通して主張し続け、それ
によって私たちが日本人がやっと気づいた大切な価値あるものなのです。
さてところで、この架空の「吉里吉里」国は東北の内陸部に設定されていま
すが、実際に「吉里吉里」という地域が、東北の太平洋岸、三陸海岸にありま
す。この吉里吉里は2011年3月11日の東日本大震災の時に起きた津波で
大きな被害を受けました。吉里吉里のある大槌町には「ひょっこりひょうたん
島」にそっくりの小さな無人島がありますが、その島も形が変わる程の被害を
受けました。
井上ひさしさんは東日本大震災を体験する前の年にお亡くなりになりました。
もし井上さんがご存命であれば震災後の東北、そして日本の未来についてきっ
と貴重な提案をして下さるのに、という思いを持つ人はとても多いのです。井
上さんの不在は、東北はもとより、日本全体の大きな損失です。
しかし、だからといって悲しんでばかりはいられません。井上さんは東北、
そして日本の過去・現在・未来について多くの言葉を遺していらっしゃいます。
その中から私たちが東北で生きていく指針となる言葉を捜すことはできるはず
です。井上さんの精神を継承していくためにはその言葉に耳を傾けなくてはな
りません。
この講演の最後に、震災後の世界を生きるヒントとなると私が考える井上さ
んの言葉を3つご紹介したいと思います。
- 82 -
「父と暮せば」で、主人公の女性は原爆で友人たちがたくさん亡くなったの
に自分が生き残ったことを責め続け、自分は幸せになってはいけない、と思い
詰めています。そんなます。それに対して父親は生き残った者の役割は「あよ
なむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされ
とるんじゃ」「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝える
んがおまいの仕事じゃろうが」と言うのです。そしてもしそれができないのな
ら、誰かお前の代りの者を出せ、と憎まれ口を言います。それは誰かのことか、
と問う娘に、父は「わしの孫じゃが。ひ孫じゃが」と言うのです。
亡くなった人々の人生と無念の思いを次の世代に語り伝え、子孫を残してい
くこと、それが生き残った者の役割だという考え方は、そのまま震災後を生き
る日本人にも当てはまるものだと思います。
2つめは井上さんがここボローニャを訪れて書いた『ボローニャ紀行』の中
の言葉です。
「このところわたしは「平和」という言葉を「日常」と言い換えるようにし
ています。平和はあんまり使われすぎて、意味が消えかかっている。そこで意
味をはっきりさせるために日常を使っています。
「平和を守れ」というかわりに
「この日常を守れ」という。
」
今日と同じ日常の暮らしが明日も来ること、平凡な何でもないことのようで
すが、これこそが平和ということなのだ、という指摘です。津波で家を失った
人びと、原発事故で避難を余儀なくされた福島の人びとは「日常」の暮らしを
失ってしまいました。日本は戦争では無いけれど平和でも無いことが実感され
ます。
そして最後にやはり同じ『ボローニャ紀行』の中の言葉です。
「日本の未来を考えようと、よくいうけれど、日本も未来も抽象名詞にすぎ
ない。こんな抽象的なお題目をいくら唱えても、なにも生まれてこない。だか
ら日本の未来を具体化することが大切だ。では、どう具体化するか。それは、
毎日、出会う日本の子どもたちをよく見ることだ。彼ら一人一人が日本の未来
なのだ。かれらは日本の未来そのものなのだ。」
子供たちこそが私たちの希望であり、子供たちが笑顔で生きていける未来を
作ることこそが私たちの使命であるということに気づかせてくれます。
- 83 -
このように井上ひさしさんの言葉を生きる指針にしていくことが、これから
の日本人にとって大切なことだと思っております。
途中でも申し上げたとおり、私は井上ひさしさんの作品の影響を受けて文学
研究の道に進みました。いま井上ひさしさんの大変好きだった町ボローニャで
井上さんについての話をすることができ、本当に嬉しく思っています。
ご清聴いただき、感謝申し上げます。ありがとうございます。
(2013 年 11 月 17 日、ボローニャ東洋美術研究所にて)
- 84 -
“Hisashi Inoue and Three Important Things about Japan His
Works of Literature Taught Us: Humour, Dialects, and Regions
”
Harufumi Yamamoto, Yamagata University
Good evening, ladies and gentlemen. I’m quite honoured to be here and
able to talk about one of my favourite Japanese writers at Bologna.
I’m Harufumi Yamamoto, teaching Japanese Literature at Yamagata
University.
Yamagata University, a national university, is located in Yamagata
Prefecture in the Tohoku region. Yamagata Prefecture is the birthplace of
one of the greatest Japanese novelists and playwrights-Hisashi Inoue.
Today I’d like to talk about what Hisashi Inoue achieved in his lifetime as
a writer.
Through his creative activities, Inoue provided us with a fresh look at the
values of three things that recent Japanese people have not placed much
value on.
The three things are humour, dialects, and regions.
What Inoue achieved with his literary work was the unprecedented
attempt
in the
history
of Japanese
literature
to
restore
almost
single-handedly the status of humour, dialects, and regions to the level
that they deserve.
Let me begin with Inoue’s literary humour.
- 85 -
Hisashi Inoue received the Naoki Prize in nineteen seventy-two. The Naoki
Prize is considered to be a gateway to literary success for young aspiring
novelists in Japan. Inoue was awarded the prize for a brief novel titled
Tegusari-Shinju (“Handcuffed Double Suicide”).
Inoue modelled Tegusari-Shinju after an old story from the Edo period. The
story, titled Edo-Umare-Uwaki-no-Kabayaki, was written by Kyoden Santo.
Kyoden Santo was well known as a writer of ge-saku. Ge-saku refers to a
body of literature of humour written from the second half of the 18th
century through the first half of the 19th century, the period that falls on
the latter part of the Edo period.
Edo-Umare-Uwaki-no-Kabayaki is a type of story categorised in Japanese
as kibyoshi. Kibyoshi belonged to the genre of ge-saku, and referred to
cartoons with brief plots and characters’ lines written in the margins,
quite similar to today’s manga.
Kyoden Santo is the first Japanese writer ever to be paid for his
manuscripts, according to some historical documents. So Kyoden Santo can
be called the very first professional writer in Japan. Santo was also the
best-loved writer in the latter half of the Edo period. When young, Santo
was actively engaged in producing ukiyo-es. In fact, all the cartoons in
Edo-Umare-Uwaki-no-Kabayaki were drawn by Santo himself.
Edo-Umare-Uwaki-no-Kabayaki is about the son of a wealthy merchant,
with a big and flat nose. He just wants to be like a handsome guy
appearing in songs or on drama stages in those days but he commits one
foolish act after another in the story. In the final stages of the story, the
protagonist declares he will take on a suicide journey, without any
intention of doing so, accompanied by the most sought-after prostitute from
Yoshihara, once known as a prostitute area in the Edo period. But this
young man ends up being robbed of all his clothes and belongings by
- 86 -
highwaymen on the way and continuing his “suicide journey” in his
birthday suit, that is, naked.
Edo-Umare-Uwaki-no-Kabayaki is not just the magnum opus of Kyoden
Santo, but it is the work representative of the literature of humour from
the Edo period.
Inoue
adapted
Santo’ s
Edo-Umare-Uwaki-no-Kabayaki
for
his
Tegusari-Shinju. The title Tegusari-Shinju is the blending together of
shinju, meaning committing suicide together that the protagonist pretends
to do with his prostitute, and tegusari, referring to the penalty assigned by
the Edo Bakufu of wearing handcuffs for fifty days that Santo endured
after exciting the Bakufu’s anger by his slip of pen. In Tegusari-Shinju
Inoue depicts the follies committed by a young man who aims to be a
ge-saku writer.
In the modern and present-day Japanese literature, literary works with
absurdity and humour have tended to be regarded as vulgar and
uncultured. But Inoue wrote one novel after another and many plays as
well, into which he brought plenty of humour, word games, and puns, and
gained widespread popularity in Japan. Upgrading the status of humour in
Japanese literature is one of the big achievements Hisashi Inoue made.
Allow me to mention briefly my personal experience of reading Inoue. I was
in high school when I first read Inoue’s Tegusari-Shinju, and after
reading Tegusari-Shinju I decided to study Kyoden Santo at university. So
you can say that it was Inoue’s literature of humour that gave me the
academic direction I subsequently took.
Let me move on to the next topic: Inoue’s revival of dialects.
The standard language of the modern Japan was formed based on the
- 87 -
dialect spoken in Tokyo, where samurais established their government in
the Edo period and which was to be the capital of Japan in modern times.
There used to be a tendency in Japan to regard dialects as one grade lower
than the standard language.
This tendency had much to do with the reinforcement of the centralization
of the government since ancient times.
Local dialects were discriminated against, particularly dialects in the
Tohoku region including Yamagata where Inoue was born, as I mentioned,
as well as the dialects of Okinawa, the Southwest Islands, which was an
independent state called “the Ryukyu Kingdom.”
Indeed, in rural areas in Japan, pupils used to be punished when they used
their provincial dialects in primary schools. Inoue confessed that when he
was a pupil in primary school he was forced to undergo a pronunciation
training to correct his Yamagata accent.
It was long assumed without any evidence that areas where provincial
dialects were spoken were culturally backward. Inoue questioned the very
assumption in one of his early plays, titled Ame (“Rain” in English).
The central character of Ame is a young man who calls himself as Toku
(meaning “virtue”). Born in Edo, Toku is earning his living by picking up
metal utensils from streets in Edo. One day while taking shelter from the
rain Toku was mistaken by a stranger for a missing young shop owner who
sells safflowers locally
produced in Hirahata, Uzen-no-kuni ( now
Yamagata). Taking advantage of the fact that the owner has been missing,
Toku goes to the shop and makes the master’s beautiful young wife
believe he is her husband.
Successfully posing himself as the young master, nonetheless, Toku has to
- 88 -
make enormous efforts to learn the dialect being spoken in that Tohoku
area. He also has to take pains to attain techniques for cultivating
safflowers as it is the family’s business. But the truth is that from the
beginning local people in Hirahata have noticed who Toku really is. Toku is
simply made a political scapegoat by the local residents and eventually
loses his life there.
Almost all the lines in this play are written using the Yamagata dialect,
more specifically the dialect of Okitama from which Inoue came. Novels
and plays had rarely been written in dialects before Inoue.
Inoue wrote this play while staying as a visiting professor at the
Australian National University in Canberra. Inoue recalled that during his
stay in Australia, he couldn’t get comfortable at all in the society where
English is spoken as the everyday language, and for long periods separated
from his native tongue, the Japanese language, he felt even the danger of
his personality getting dissolved.
Inoue stated that he set the stage of Ame in the Tohoku area because, he
said: [Quote] “I wanted to explore how the mind of a single man can be
pressured to pieces by placing him into the situation where he strays off
into the system of a language totally different from that of his own.”
[Unquote]
Moving up to Tokyo to enrol in Sophia University in his youth, Inoue was
tormented by his own heavy Yamagata accent and found himself beginning
to stammer. The extent of his discomfort in Canberra must have been
equal to that of the discomfort he felt at the start of his new life in Tokyo.
But Inoue’s logic of placing the linguistic minority into the midst of the
majority of speakers of a particular dialect, based on these two of his own
experiences, home and overseas, may sound strange to some people. It is
- 89 -
more common, at least in terms of the tradition of Japanese literature, to
throw a speaker of a local dialect into the midst of Edo (that is, Tokyo).
But what Inoue did was the other way around. And it was a surprisingly
bold attempt for a fairly young writer to turn the linguistic hierarchy
upside down by reversing the statuses of the dialect and the standard
Japanese.
I watched this play at the New National Theatre of Japan two and a half
years ago. In the interval between the acts, I overheard a group of female
students chatting about the play. I guessed from the way they talked that
they apparently majored in drama at university. Anyway, one said to the
others something like, “I do think it’s a good play but it’s so hard to
understand most of the lines. They should have been written in the
standard Japanese.” I made another guess that if Inoue had eavesdropped
this conversation a mischievous smile should have appeared on his face.
I’d like to mention another important play of Inoue’s that uses another
Japanese local dialect. The play is Chichi-to-Kuraseba (“Living with My
Dad”) whose Italian version was performed here in Bologna, too, based on
the translation by Aoyama Ai san present today. This play has only two
characters: a young woman who survived the atomic bomb dropped onto
Hiroshima a few years previously and her father who actually has been
dead from the fire caused by the bomb. All their conversations are written
in the Hiroshima dialect. It centres on how the woman recovers from the
aftershock of the atomic bomb by starting her romance with a young man.
I am fascinated by the leisurely sound of the Hiroshima dialect the
characters speak in the play. The very sound not only makes me recognise
how deeply Inoue felt attached to local dialects but also convinces me of the
virtue of dialects closely tied to everyday life.
A standard language is like a suit you wear for formal occasions. A local
- 90 -
dialect never works that way. It is an everyday language closely knitted to
the daily lives of its speakers and it is a language of emotion that has long
expressed the speakers’ joy and sorrow. Only in it can we find the
speakers’ true feelings.
Now it is common to see novels, plays, and films making abundant use of
dialects in Japan. But it should be reminded that Inoue was the forerunner
of this literary trend. He was the one who succeeded in regaining the
status of dialects in Japan.
Let me move on to the last of all the three things Inoue taught us: regions
in Japan.
In the Edo Period, Japan was a nation with more than two hundred and
sixty hans (“provinces” in English). The number of the hans-two hundred
and sixty-is over five times as many as the number of what we call kens
(meaning“prefectures”) today referring to administrative district units in
the regions across Japan. Each han was governed by a daimyo, a feudal
lord, and had much independence like the “states” in the United States of
America.
However, eighteen sixty-eight saw the Meiji Restoration that transformed
the entire structure of Japan, establishing a new nation with all the
functions-political, administrative, economic, and cultural-centralized in
Tokyo. In the present day, the centralization of the government, far from
being lessened, has been reinforced instead. The structure of local
governments submitting themselves to the decisions of the central
government has been firmly fixed.
In order to counter this over-centralization in Tokyo, Inoue wrote one of his
most important novels titled Kiri-Kiri-Jin. It is a very long novel with
nearly one million words in Japanese and was published as a single volume
- 91 -
in nineteen eighty-one. It is also well known for its profuse use of a Tohoku
dialect.
Kiri-Kiri-Jin is about a small town in Tohoku with the population of only
four thousand, one hundred and eighty-seven. The town rebels against
Tokyo and declares its independence, but just in a couple of days it gets
destroyed.
This fictional story challenges the assumption a lot of Japanese people
share: that is, the assumption that it is impossible for such a tiny
community in a region to get independent. Japan as a whole has a large
population but is daily feeling the sheer presences of such countries with
larger population as America, Russia, and China.
But what Inoue had in mind when shaping the idea of Kiri-Kiri-Jin was
apparently Europe, above all Italian “city-states” you once had.
Kiri-Kiri-Jin also seems to be modelled on Hyokori-Hyotan-Jima.
Hyokori-Hyotan-Jima is a puppet play aired by NHK, the only public
broadcaster in Japan, nearly half a century ago. Inoue was a co-author of
its script. Hyokori-Hyotan-Jima depicts the drifting of a gourd-shaped
island in the sea, with a group of a dozen people (children and adults) on
it. Though a very small island, it is a nation in which the islanders elect
one of themselves President. A variety of people visit this island and cause
a lot of confusion among the islanders. I used to be one of the young ardent
admirers of this puppet drama in my primary school days.
Hyokori-Hyotan-Jima strikes me now as anticipating Kiri-Kiri-Jin.
Kiri-Kiri-Koku (the official name of the country), the larger-scale version
of the Republic of Hyotan-Jima, has its own constitution, congress,
government offices, law courts, and even administrative functions.
Kiri-Kiri-Koku has its own language, too, called Kiri-Kiri-Go, and grammar
- 92 -
books published on it. But actually Kiri-Kiri-Go is merely a Tohoku dialect.
Kiri-Kiri-Koku is also self-sufficient in food and boasts geothermal power
plants to produce energy and a big general hospital as well. Kiri-Kiri-Koku
is at the leading edge of medicine, and developing the strategy of taking in
patients from across the world.
In addition, the island has a broadcasting station as well as a university as
the institution of tertiary education, although strangely the university
itself is attached to a secondary school.
In my view, Inoue considered two types of functions vital for a city-state to
work. One is those self-sufficient functions that enable residents to
maintain their living standards in it. Medicine, food, and education are
counted for such functions. The other type is the functions that allow
residents to trade and fraternize with people inhabiting other areas. What
Inoue depicts in Kiri-Kiri-Jin is an ideal form of a city-state that is
self-sufficient and at the same time able to fraternize with other city-states.
What prompts Kiri-Kiri-Koku to get independent is the residents’
dissatisfaction with one-sided demands imposed uniformly to local regions
by the central government: for example, the enforcement of the rigid policy
of agriculture, the mergers of neighbouring towns, the chaotic development
leading to the environmental destruction. The declaration of independence
is made by the residents to express their objection to the nation that leaves
no room for regional uniqueness and individuality.
The Tohoku region has flourishing agriculture, and Inoue regarded dialects
as a symbol of agriculture and regional cultures. In the words of one of his
characters in Kiri-Kiri-Jin, Inoue voiced his indignation at the unfair
treatment of local dialects:
- 93 -
[Quote] “We will reject from now on any instructions given in the
language from Tokyo. We want to think, work, and live with our own
language. As long as we earn our livings in farming in this place, our
Kiri-Kiri-Go is our skins, our flesh, our blood, our bones; that is to say, it’s
our own selves.” [Unquote]
Inoue’s most favourite city in Italy is Bologna. Inoue found here in
Bologna an ideal city with many such functions as the combinations of
self-sufficiency and fraternity, education and culture of highest order, and
regional individuality that Japanese regions have long lost, burdened
instead now with the functions handed down from the central government.
In many of his literary works and lectures, Inoue put stress on the
importance of regions, including Tohoku, maintaining their provincial
identities. Now the great majority of Japanese come around to Inoue’s
view.
It was Inoue who paved the way to our realisation that the existence of a
nation depends entirely on the combination of regions, and that the decline
of individual regions inevitably leads to the decline of the whole nation.
The significance of all these three-humour, dialects, and regions-was what
Inoue kept stressing through his works of literature over the long span of
his career. And Inoue’s creative efforts finally brought us Japanese the
realisation of the individual values of humour, dialects, and regions.
While the fictional “Kiri-Kiri-Koku” is set in the far inland in the Tohoku
region, you can find an area called “Kiri-Kiri” in the Sanriku Coast, on
the Pacific side of Tohoku. This area suffered heavy damage from the
tsunami caused by the 3.11 [three-eleven] Japan Earthquake in 2011
[twenty-eleven]. ヤ tsuchi-cho, one of the towns in Kiri-Kiri, has a small
island like Hyokori-Hyotan-Jima, but the shape of the island was
- 94 -
transformed by the tsunami.
Hisashi Inoue had died one year before the Earthquake occurred. Quite a
few people believe that if he had been alive he would have made valuable
suggestions about Tohoku and about the future of Japan as well. Inoue’s
absence turns out to be a big loss not only to Tohoku but also to the whole
of Japan.
But we have to recover from the sorrowful tragedy caused by the tsunami.
Inoue left a lot of words in his works of literature about the past of Tohoku
and Japan, as well as about the way we should live in the present and in
the future. We must be able to find some words of “a guiding compass” to
direct us how to live in the Tohoku region. We have to turn an attentive
ear to Inoue’s words to get inspired by his soul.
So, finally, I’d like to introduce three statements made by Inoue which I
think will give us some insight about living in the aftermath of the
Earthquake.
The main female character of Chichi-to-Kuraseba is feeling guilty for
surviving the war, with many of her friends having been killed. She tries to
convince herself that she shouldn’t be allowed to be happy. Her “dead”
father admonishes her, however, to fill her role as a survivor:“You’re now
alive to let people remember that the war witnessed hundreds of thousands
of tragic separations.” “It’s your role to pass down the sorrows and joys
they had while they were alive.” And he went on to say to his daughter
even in a provocative way that if she couldn’t fill the role she let someone
else do that. When she asked him “Who’s the someone else?” he replied:
“My grandchildren. My great-grandchildren.”
Stories about how the dead people lived their lives and how disappointed
they must have felt in the heaven should be handed down to the coming
- 95 -
generation. For that to happen, you have to produce your offspring. These
are what survivors have to do. I think these words of Inoue’s will strike a
deep chord with the survivors of the Earthquake.
Inoue’s next statement is from Bologna-Kiko (A Trip to Bologna) which
he wrote after visiting this city. Inoue wrote:
[Quote] “Recently, I have made it a rule to use the phrase ‘everyday life
’ when referring to ‘peace’. ‘Peace’ has been so overused that it has
lost its sense of reality. ‘Everyday life’, on the other hand, helps to feel
the reality. So I’m fond of saying, ‘Maintain our everyday lives’, instead
of ‘Maintain our peace’.” [Unquote]
Inoue finds peace precisely in our “everyday lives”, that is, the way that
one usual day is followed by another. People who lost their homes for the
tsunami and people who have been forced to evacuate from their
hometowns due to the nuclear disaster have lost their “everyday lives.”
And it is they who feel that Japan is not peaceful any more though Japan
isn’t at war with any countries at present.
The last statement also comes from Bologna-Kiko. It’s about Japan, too:
[Quote] “People often say, let’s think about the future of Japan, but both
the words‘future’ and‘Japan’ are abstract nouns. Nothing comes from
chanting these abstractive words. That is why it’s important to give
concrete forms to these abstractive terms. But how? You only have to
watch Japanese children you come across every day. Every one of them
embodies the future of Japan. These children are the very future of Japan.
” [Unquote]
This statement of Inoue’s makes us realise that children are our hope and
that it is our mission to create the future in which children are able to live
- 96 -
with smiles on their faces.
I hope my talk shows how important it is for Japanese people to embrace
Inoue’s words.
As I have already mentioned, I decided to pursue my literary study under
the influence of the literary works of Hisashi Inoue. Let me say how happy
I am to have been given this chance of talking about Hisashi Inoue in the
city of Bologna he really loved.
Thank you very much.
- 97 -
- 98 -
2014.3.25発行
山 形 大 学
出 版 会
- 99 -