Untitled

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3
今日もパパが、ヒカリを生み出すために火花を散らす。
ぱちぱち、ぱちぱち。あれはたぶん、命の炎。冷たい金属のボディに命を吹き込む魔法のフラ
グメ ン ト 。
いま作っているのは何? ああ、それは腕ね。ヒカリの左腕になるものね。
まだ皮膚のコーティングもなんにも済んでいなくて、全体にぴかぴか銀色に光ってた。
ちちちち。きききき。
わたしは唯一自由がきく眼球だけで、パパの姿を追いかける。
いつも白衣のパパ。
夢ばかり追っていたパパ。
でもほら。
ようやく夢がかなおうとしているんだね。
――もう少しだ、がんばれヒカリ――。
作業台のボディに、未調整の腕を取り付けながら、パパが小さく呼びかける。
――お前にできるのは、無限の時間と無限の未来。
――とかくこの世は壊れやすい。
――でもそれでも。
――壊れぬための装備も与えよう――。
――お前が泣かずにすむように――。
大丈夫。聞こえてるよ。わかってるよパパ。
あなたはヒカリの完成を望んでいる。ずっとずっと、本当のヒカリに会えることを願っている。
あなたがその優しい目でヒカリを見るたび、いてもたってもいられなくなるの。
わかる?
一秒でも早く起動して、あなたに会いたい。ほんの一瞬でも、あなたにぎゅっと抱いてもらい
たい 。 今 度 こ そ 。
だから完成させて。
触れさせて。
会いたいよ――パパ。
ヒカリより
おれ
ころ
――先輩。これ、すげえどうでもいい話なんですけど、聞いてくれますか。
は
や
たぶんあれはですね、俺が小一か小二の頃だったと思うんです。うちのクラスでですね、ダン
一日中ダンゴのこと考えて暮らしてましたよ。ダンゴ命ですよ。七歳の青春ですよ。頼むから馬
で、もちろん土と砂の配分とか、混ぜるならどこの土がいいとか、そういうのは全部トップ
ゴ作るのが流行ってたんですよ。ダンゴ。
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
泥ダ ン ゴ 。
あら
ま
じ
め
その泥ダンゴをですね、当時の俺たち、死ぬっほど真面目に作ってたんですね。
……まあ予防線はそれぐらいにして。続きを話しましょうかね。
鹿とか言わないでくださいよ。全部ガキの頃の話なんですから。
か
ば
シークレットになります。俺はもう家でも授業中でも、窓のところに作りかけのダンゴ並べて、
なる ん で す 。
ですよ。最後はつるっつるの、ガッチガチなやつができあがりますよ。ボーリングの球みたいに
まず砂の粒子の粗いのと、細かい土を混ぜて錬って、また砂をかけて、乾燥させながら磨くん
みが
……いや、ダンゴって言っても、食う方のダンゴじゃなくて。土こねて作る方のダンゴです。
第一章
5
6
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
7
とにかくそんな時分だったんですね。俺たちの間で、『妖怪赤屋敷』のことが話題になったの
は。
妖怪って言っても、ゲームの方じゃなくて、ようは町外れにある薄汚い洋館ですよ。
ま
か
そこの敷地の土が、このあたりによくある黒土じゃなくて、下のローム層がそのまま出た赤土
だったんですね。ほんと、血の色みたいな真っ赤な地面だったんですよ。だから妖怪『赤』屋敷。
うわさ
にし はね
土とダンゴの情報で頭がいっぱいだった俺たちにとっちゃ、それだってすげー重要な情報です。
夏が終わる頃には、その屋敷の噂で持ちきりでしたね。『西羽川の向こうにある妖怪赤屋敷に
は、妖怪博士とその実験体が住んでいる。庭には妖怪博士が実験で殺した死体を埋めてるから、
やつ
それでいつでも土が赤いんだ(断定)!』って。
でも実は俺、そうやってクラスの奴らが赤屋敷のことを話題にするよりも前に、そこの土には
目を付けてて、中に潜りこんでたりしてたんですよ。ええ自慢と思ってくださってけっこうです
よ。ダンゴ命のダンゴ戦士でしたから。
そんな経緯もあったもんで、連中が噂する妖怪博士と実験体ってのが、なんのことはない普通
の人間だってのも、知ってたんです。
特に実験体の方なんて、あの頃の俺の何十倍も泣き虫の甘ったれで、物知らずの子供ですよ。
フツーのフツーです。
好奇心旺盛なクラスの奴らに見つかったら、まずオモチャにされるのが目に見えてたんですね。
俺としてはそんなの見たくなかったから、奴らがイタズラ半分で屋敷に入りこもうってのなら、
なんとかして追い返してやろうと思ったんです。当時でも信用できそうな連れのダチと一緒に、
連中が来そうな柵の前に落とし穴を掘って、草かぶって待ったんです。時間……そうですね。十
時間ぐらいそこにいましたかね。穴にかかったのは、なんでか背広のセールスマンと、巡回中の
おっさんたち、落ちながら叫びましたよ。
警官のおっさんだったんですけど。
ねこざき
「んぎゃあああああああああああああああああああああああああああ」
猫崎ユヅル、愛称ネコルは叫んだ。
しかしその切ない悲鳴は、目の前にいる大事な人の胸にだけは届かないのだ。
「あだ、あだ、あだだだだだだだっ」
か
「……まああ。すごおい、ネコル君。迫真の演技……」
すそ
くせ
「演技じゃないすよ、噛みつかれてんのがわかんないすか先輩!」
本当に。
え じき
ネコルが着ている学生服の裾や、頭頂部の癖っ毛は、わらわらと集まり続けるウサギやモル
ふ う りょう
かし
モット、ヤギたちの餌食になってしまっている。総勢十二匹による、ウサ・モル・ヤギ祭だ。
ここは私立風 涼 高校の校舎裏だ。その片隅には一本の大きな樫の木があり、下にはベニヤと
トタンで囲った飼育小屋が並んでいる。
ねら
樫の周りを簡易な柵で区切った運動場は、人一人が逃げ回るにも狭すぎた。奴らの狙いはこち
む
く
らが握るエサでありおやつであり、それを捨ててもなお、まだあるだろうと襲ってくるから始末
が悪 い 。
「く 、 く ん な 」
ひとみ
たば
ひさ え きり か
ネコルが言っても寄ってくる。強い意志を持って寄り切ってくる。くんくんくんくん。無垢な
や
鼻と純な瞳が束になって襲ってくる。
(先輩! 殺られる!)
なか
こちらが真剣になって助けを求めているというのに、飼育小屋の中にいる久遠霧香は、おっと
りのんびり掃除用のホースをかまえたままなのだ。
るだ け だ か ら 」
目がギラってますよ!」
「ふふ。大丈夫よう、ネコル君。ちょっとみんなお腹が減りすぎて、訳わかんなくなっちゃって
ほ ほ え
元から短めな設定の風涼高校の制服と相まって、実に素晴らしい眺めが拝めたりするのだが、ど
(せ つ な い )
しれ な い 。
おう せ
うしてかそこから先には進めた試しがない。あら嫌ねネコル君、わたしが一番好きなのは、部室
今も霧香がやわらかい髪を後ろで縛り、ホースからデッキブラシに持ち替え前屈みになれば、
しかし──。
は生物部に入り、人気の少ない飼育小屋は、貴重な彼女との逢瀬を実現できる場のはずだった。
ひと け
去年の春、出会いとともに拾われた三毛猫は、すでに里親が見つかっている。かわりにネコル
ネコルが喉の端まで出かかって、いつも言葉に詰まってしまう問いかけである。
のど
ウサギやヤギはともかく、あなたはどうなんでしょうね、実際のとこ。
で飼ってるカブトムシに決まってるじゃない。そう答えられたら、たぶん立ち直れないからかも
「あらっ。それってネコル君のこと、食べちゃいたいぐらい大好きってこと? 素敵じゃない」
「……俺のこと、固形飼料の一部ぐらいにしか思ってないんじゃないすかね、こいつら……」
のが、そもそものはじまりなのだ。
そう。思えば捨て猫にまとわりつかれて難儀していたネコルを、猫ごと助けて面倒みてくれた
ムシだのの世話に明け暮れていると知っていても、入部してしまったぐらいには弱い。
彼女が生物部なんて壮絶に地味な部活に一人で入って、捨て犬だの捨てウサギだの捨てカブト
スタイルに弱い。やわらかい綿毛のような声にも弱い。
そのお嬢様らしいふんわりふわふわの髪に弱い。ほっそりとしているくせに出るとこ出ている
少なくとも、ネコルは弱い。非常に弱い。
を砕けさせる魔力があると思う。
──三年A組、久遠霧香先輩の微笑みは、万物の毒を中和して、その場にたたずむ全人類の腰
にっこり。
「草食よ? ちなみに上から順に 重 歯目、げっ歯目、ウシ目」
じゅう し も く
「こいつらほんとに草食動物なんすか
!?
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
8
第一章
9
寄ってくるヤギ1号から頭をガードしながら、ネコルは今日も今日とて、切ないため息をつく
のだ 。
だん ご
「……なんで俺、こんな話することになったんだっけ……」
「お団子のこと?」
こ
ぱ
「ああそうです。ようするにですね、俺の中にいくらかあった英雄願望は、その事件のせいで
木っ端みじんに散ったんですよ」
話を元に戻そう。
今をさること九年前。偶然知り合った『実験体』を守るために、せっせと掘った落とし穴の底
には、泥水と犬のフンと、家庭用生ゴミなどを仕込んで入れてあった。
さんげき
そこに落ちてしまった、一般人と警察官。
しょかつ
惨劇の行く末は、推して知るべしというやつである。
から
「……もうね、問答無用で所轄の警察まで連行されたんですよ? がんがんに叱られて、親にも
めちゃくちゃ怒られましたし。家にあった完成ダンゴ全部没収されて捨てられて」
「あ ら ま あ … … 」
「張り倒されましたからね。妖怪赤屋敷も、すぐに出入り禁止っすよ」
想定では乱暴者のクラスメイトが入るはずだった穴の中に、黒服のおっさんたちが絡んで白目
をむいていた気まずさと恐怖ときたら。あれは今でも夢に見るというか、きっと一生忘れられな
い。
一夜にしてミスが学校中に知れ渡り、打倒するはずだった悪ガキ一同に、指をさされて大笑い
されたことも最悪だ。余計なおせっかいで痛い目を見て。かわりに得るものがあまりに少なかっ
たのだから、救いようがなかった。
その後のクラスで、泥ダンゴ作りブームが急速に過去のものとなり、次世代のカードゲームマ
スターやヨーヨー使いが新たなヒーローとして台頭していく中、ネコルの幼心に『俺って何?』
と深く傷ついた最初の事件なのである。
「うーん。でもねえネコル君。わたし思うんだけど……それでもネコル君は何度でも助けようと
たけ
「……なんなんでしょうね。別にテレビに出てくるような、かっこいいイケメンのヒーローにな
「は ? 」
霧香はデッキブラシ片手に、ふんわりと、綿菓子のように甘く笑った。
かっこいい?
思っちゃうだろうし、それに、そんなところがかっこいいんだと思うわよ?」
す」
さと
「そうですよ。その後のカードやヨーヨーのブームには乗り遅れた、猫崎ユヅル、七歳の悟りっ
「そ う ? 」
たわ け で す 」
ですよ。もう余計なことはしない。俺は俺なりに慎み深く暮らしていくのが正しいんだって悟っ
つつし
るつもりもなかったんですけど。それでも身の程っていうか、身の丈を知るには充分だったわけ
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
10
第一章
11
12
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
13
こ
こ
「だってわたし、よく知ってるもの。ネコル君、困った人を放っておけないの。生物部に入って
くれた時みたいにね」
「い や そ れ は 」
だれ
どちらかというと、あなたへの下心の方がより大きく。
いつでも誰でも、放っておけずに守ろうとするのは、あなたの方だろう。
「先 輩 。 俺 は ─ ─ 」
「とりあえずね、ネコル君のおかげでいじめっ子にからかわれずにすんだ女の子は、ほっとして
るんじゃないかしら。その妖怪赤屋敷の実験体ちゃん?」
ネコルは、軽く絶句してしまった。
「なんでそこまで知ってるんすか!」
は
「あっ、やっぱり! 女の子だったんだその子! 当たったわ当たったわ」
霧香はぴょんぴょん飛び跳ねている。
「――お、女だからって、それがどうだって言うんです」
「それは決まってるわ。恋よ恋! スイーツなラブ! 初恋の来た道。チャン・ツィイーを見て
甘酸っぱい気分になるあの感じよ。知ってる? チャン・イーモウ監督の名作」
誰だそれは。アグネス・チャンの親戚か。
霧香はひたすらご機嫌だ。
「きっと今頃は、すっごい美少女に成長してるに違いないわ、その実験体ちゃん。そうねそれが
いいわ。ねえ、風涼には来てないのよね。どこの学校にいるかぐらいわからない?」
「だからなんにも知らないっすよ。俺がいないうちにあの屋敷、もぬけの空になって取り壊され
まし た か ら 」
「あ ら 」
「引っ越してったんじゃないすか? 妖怪博士の親ともども」
「ロ、ロマンスは?」
ぶ ぜん
「知ったこっちゃないって言っていいっすか?」
てんまつ
自然、憮然とした口調になってしまった。
おも だ
なにせ妖怪赤屋敷にまつわる顛末は、この落とし穴の失敗を抜きにしても――思い出したくも
ない記憶に満ちているのである。
急に口数が落ち込んだネコルを前にして、霧香もやわらかな面立ちを曇らせた。
「……ごめんなさいね、ネコル君。わたしったら聞きすぎちゃったわね」
「いや……そこまでへこまなくてもいいんですけど……」
なんだか今にも涙ぐみそうだ。
――(a)
「ほんとにごめんなさい。初恋が実らないのだって定番なのに……」
別にいいですよ、今ここに先輩がいるから
なにも言わずに小屋へ踏み込んで抱きしめる ――(b)
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
15
ネコルが進むべき道はどちらだろう。早急にフラグがたつのはさあどちらだ。
かばん
今日こそカブトムシたちの上に行くのだと考えこんでいたら、反応するのが遅れた。
「……ねえ。ネコル君の鞄、何か鳴ってない?」
「は ? 」
いつのまにやら霧香が、小屋の外を気にしている。
見れば運動場の柵の入り口に、ヤギ1号とヤギ2号が群がっていた。
そこにはネコルの荷物であるメッセンジャーバッグが引っかけてあるのだが、彼らはその底に
噛みついているのである。
「う お お お お お 」
「バイブの音が気になるのよ」
「ちょ、こら何すんだよ! 放せヤギどもお!」
えさ
べええ。べええ。霧香の言う通り、ヤギは鳴いて人の鞄を破壊しようとしている。
餌をくれよと磁石のように群がる小動物たちをまたぎ越え、問題のヤギの間から、バッグを救
出。ほうほうのていで戻ってくる。
霧香も飼育小屋から、運動場に出てきた。
「ネコル君。携帯の電話、出なくていいの?」
なぎ
「いえ。べつにいいっす。どうせ用件はわかってるんで」
バスケットボール
そう。わかっている。おおかた凪のやつか、ルーシーあたりだろう。
まったく──昼間の球技大会で疲れ果てているというのに、この上さらに打ち上げに参加しろ
というのか、C組の皆の衆よ。
「なんかうちのクラスで、球技大会の打ち上げがあるみたいなんですよ。県道の『ひめまつ』借
り切 っ て 」
「いいわねえ。楽しんでくればいいじゃない」
「パスって最初から言ってありますから」
あくまで『言うだけ』であり、その主張が認められたわけではなかったことは、口にしなかっ
た。
それでも安売り二九八〇円のメッセンジャーバッグの中で、スマホは何度も震え続けた。
ぶるぶる震えるたびにモルモットはポップコーンのように飛び跳ね、ウサギはひたすら足の周
りを回り続ける。そして食うなヤギ。人の荷物や制服の裾を。バッグも霧香先輩も、お前たちに
はや ら ん !
「やっぱり行った方がいいんじゃないかしら?」
「………………みたいすね」
ほか
なにやら動物のテンションを上げている元凶になっていることを悟り、ネコルは認めざるをえ
なか っ た 。
仕 方 な く 鞄 を 開 け、 内 ポ ケ ッ ト か ら ス マ ホ を 取 り 出 す。 着 信 だ け で も 二 十 件。 他 に も
LINE の未読が山のよう。案の定だ。
「大丈夫よ、ネコル君。みんなネコル君のこと待ってるわ。楽しんできて」
かたまり
おおうなばら
……そういうのいいんですよと言っても、たぶんこの人は聞かないだろう。
いつでも善意の 塊 で、ネコルのことも、大海原のような優しい目でしか見ようとしない。
そういう、人だから。
し ぐさ
こちらをひたすらかじり続けていたヤギだのモルモットだのウサギだのをまとめて引き取って、
しゃがんだ両腕に抱き留めながら『バイバーイ』なんて仕草をさせている彼女を見ていると、ど
うにも腹の底が落ち着かなくなってしょうがなくなるのである。
たぶん恋心とか、ときめきとかせつなさとか、パンツが見えちゃってますよ的な性的な野望も
含めて。とてもとてもフクザツな心持ちなのである。
霧香と別れると、スマホの中身をあらためて確認した。
発信者は、ルーシーが七に、凪が三と言った割合だった。
通学の足が置いてある自転車置き場へと移動しながら、おおまかな内容をチェックした。
ルーシー『打ち上げ。きなさいよね。いい?』
――まずはこんな感じの、ルーシーから。相変わらず、断定口調で偉そうだ。
ルーシー『もしかして場所忘れてる? ひめまつだからね』
――だからわかってるってば。委員長。
ルーシー『はじまっちゃったじゃないのよ、ばか!』
さび
――ばかはないだろう、ばかは。
――凪からもかよ。
凪『おーいネコルー、ルーシーが寂しくて泣いてるよー』
ルーシー『なんか変なことナギが送ってない? 関係ないからねぜんぜん!』
ルーシー『すっごい腹たつ! ナギ殺す!』
――そうなのか?
凪『僕の方が可愛いもんねー』
と
ざっと流して行ってもこんな調子で、メッセージの内容はどんどんとハイテンションにエスカ
――この先を読んでいてもいいんだろうか、俺。
――おお、殺せ殺せどんどん殺せ。
――凪。一番お前が訳わからん奴だぞ。
凪『あはははは素直じゃないねー、可愛くないねー』
か わ い
――ああ、やっぱりそうか。おどろかすなよおい。
ルーシー『いまの打ったのナギだから! あたしじゃないから! スマホ盗ったのよ!』
――へ? ルーシー?
ルーシー『ごめん、やっぱり今の全部ウソ。あたしネコルのことが好きなの……』
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
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第一章
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レートしていくのだ。よもや打ち上げで飲酒が行われているとは、思いたくないが──。
半ば戦々恐々としながらたどりついた自転車置き場は、うらさびれた飼育小屋周辺とは打って
変わって、今から打ち上げに行きましょうという集団で混雑していた。
大会の後片付けも打ち上げも、霧香につきあってやりすごそうと思っていた身としては、少し
まぶしくて後ろ暗い光景に映った。
(…………わっかんねー……)
この先の展開も、霧香の本音も、何もかも。
ネコルは黙って人の間をすり抜け、自分の自転車を引き出す。
本当はロードバイクが欲しかったが、現状は荷物優先のママチャリだ。サドルにまたがり、斜
──たぶん自分は、不幸ではない人間だと思う。
めがけのメッセンジャーバッグを背中にずらすと、校門の外へと走りだす。
こうやって普通に町の高校に通って、クラスに友人もいて、好きな人も一応いる。
ただどうでもいいアホ話として霧香に語ったように、自分の中で突き放して、寄り添いたくな
い思い出がいくつかあるだけだ。
英雄なんて知らない。親切者の勇者になんてなりたくない。そう思ってしまうだけの、それに
ふさわしいだけの思い出が。
――ネコルくん、たすけて――。
「いやいやいやいや」
ネコルは走りながら首を横に振った。
本当にうっかりすると、今でも気合いを入れて押し込んでいたフタのネジが外れて、下からま
ずいものがにじみ出てくる気がするのだ。
よみがえ
霧 香 へ 語 っ た も の な ど、 た ぶ ん 事 件 の ほ ん の 上 澄 み だ。 あ の と き 本 気 で 心 を す り つ ぶ し た
『ピーちゃん』の泣き顔や泣き声、他に自分がやってしまったことなどが脳内に 蘇 って、湯豆
腐の上のカツオ節のように身もだえするはめになるから――。
ふと気づけば『ひめまつ』への分岐点は、とっくに通り過ぎてしまっていた。
──どうして? ネコルくん、なんで──。
人の気配がぐっと減り、あたりは右曲がりのゆるい下り坂へとさしかかる。
なく続き、左手は未整備の雑木林が斜面となって足下へ伸びている。一応、林側に落ちないよう、
右手には『にしはね歴史記念公園』の土台となる野面積みの石垣が、坂の下に向かって切れ目
の づら づ
ネコルは外れてしまった道筋を修正するため、さらなる脇道へとハンドルを切った。
(……やべ。どこだよここ)
──本当にどうしようもなかったのか、今でも時々考えるけどさ。ピーちゃん。
あれはどうしようもなかったから、しょうがなかったんだよ。ピーちゃん。
後ろ暗いカツオ節な過去を吹き飛ばそうと、せっせと自転車を漕ぎまくる。
ハンドルを握りながら、首を振りまくった。消え去れ幻影。もう終わったことだ。
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
18
第一章
19
20
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
21
さ
錆びたガードレールで区切られているが、それだけだ。陰気で寂しい裏道だが、打ち上げ場所の
『ひめまつ』がある県道へ戻るには、ここが一番の近道のはずである。
自転車が加速しはじめたとたん――妙なものを――見た――気がした――。
(… … ん ? )
公園の敷地の一部には、高台の見晴らしの良さを利用して、木製の展望デッキがもうけられて
いる。ネコルがいる道路側から見上げれば、石垣の高さも合わせて十五メートルほどの距離が
あった。デッキにはベンチや自動販売機が置かれ、休憩してくださいと施設的には訴えているが、
そこで休んでいる人を見たことはない、そんな感じの不思議なデッキの上に、人がいた。
しかも柵の外だった。
ネコルは坂の途中で、急ブレーキをかけた。勝手に心臓が鳴りはじめたのは、あらためて見た
その人物が、ふざけて度胸試しをしたがるような年頃には、見えなかったからかもしれない。
「と 、 飛 び 降 り ? 」
シルエットからしておかしかった。
今は五月も末だというのに、その人は分厚いロングコート姿で、展望デッキの柵の外に身を置
ゆう やみ
いてしまっているのだ。
髪が月の出はじめた夕闇にたなびくほど長く、その頭からは、アンテナのような二本の『ツ
ノ』が飛び出ていた。
そう。ツノ──なのだ。
メタリックな質感の、大きな黒いバイザーが、顔の上半分を覆っていた。形状としては、フル
フェイスのヘルメット、あるいはヘッドギアだろうか。ツノもその左右から伸びているようだ。
たこ
あたりを見回しても、この時間帯の裏道は図ったように誰もおらず、ばたばたと風にたなびく
のぞ
ロングコートと長いツノは、そのまま凧のようにその体を持ち上げて飛ばしてしまいそうな気が
した 。
上昇気流に乗って、ツノ付きのバイザーが高く跳ね上がる。一瞬、覗いたその素顔は――女の
子?
「あ ぶ な っ ! 」
突風でバランスを失ったのか、その頭が大きく傾いた。
ネコルは、思わずサドルに乗ったまま叫んでいた。
幸い、ツノほどには体は傾かず、右手が柵へと伸びて体重を支えてくれた。ネコルは心底ほっ
とし た 。
なんだかよくわからないが、妙な人もいるものである。
しばらくいても、それ以上飛び降りる気配がなかったので、ネコルは異様な風体に後ろ髪を引
かれながらも、自転車のペダルを踏み直した。
微妙に泣いていたような気もしたが――たぶん気のせいだろう。
エアは満タンのママチャリの車輪が、ぐんとアスファルト上を一周。
――ゴオン!
直後に背中で響いた轟音に、ネコルは再び急ブレーキをかけた。あわてて後ろを確認する。
(は ? )
『このさき学校・幼稚園あり』の警戒標識が、折れて半分なくなっていた。
本当だ。そしてその隣に、ひしゃげてへこんだ金属製の『ゴミ箱』が落ちていた。
ゴ ミ 箱 は ゴ ミ 箱 で も、 公 園 な ど に 設 置 さ れ て い る、 あ の 大 き な ゴ ミ 箱 で あ る。
『環境を大事
つぶ
に!』の金属プレートも付いている。中のゴミは半分以上入ったままで、入ったまま半分以下に
押し 潰 さ れ て い た 。
ネコルはなんとなく自転車から降りて、手を伸ばしてゴミ箱をつついてみた。
そこから腰を入れて持ち上げてみるが――クソ重い。
それはそうだろう。なにせ目の前で、ご立派な交通標識が吹き飛んでいるのである。吹き飛ば
す勢いで飛んできたのである。そう飛んできた。飛んできた。どこから――
るだろアホンダラァァァァ!
「神は死んだ―――――――――――――――――――――――っ!」
漕ぐしかなかった。死にたくなければ漕ぐしかなかった。
「神よ――――っ!」
ゴッド
降り注いでくるのだ。次々に、本当に次々に、
そそ
追いついてくるのがわかった。だって石垣の上から、さらなるベンチやゴミ箱や、放置自転車が
ネコルは倒れたままの自転車を起こし、必死に走りだす。そうすると向こうは公園内を走って
なんだかわからないが、逃げよう。うん、それがいい。
鼻先の道路に、岩が落ちた。ネコルの頭以上ある、公園の石碑だ。
せき ひ
いったい何が起きているのか、まるでわからない。意味不明・解析不能。なのに、今度はすぐ
「は……? は……?」
て転 が っ て い く 。
ベンチはネコルのいた場所を狙って、正確に落下してきた。アスファルトの上を、バウンドし
すんでで避ける。
「だああああ――っ!」
ネコルが顔を上げたとたん、二人がけの休憩ベンチが、視界いっぱいに広がった。
!?
し、乗っていたネコルの体はメッセンジャーバッグごと宙を舞い、そのまま柵向こうにあったド
そうしてニーチェを呪う猫崎ユヅル・愛称ネコル愛用の自転車はガードレールに正面から激突
のろ
ただし、目の前にはガードレール! その向こうには歩道だ! だから止まれないって言って
天にまします我らが父よ、今まさにその存在に感謝します!
減速できず、奇跡的にぶつかることなく突っ切った。
ようやく坂の終わりのT字路に出る。帰宅ラッシュで車の量が多い。しかしこちらはまったく
漕いで。漕いで。坂道だろうとなんだろうと漕いで。漕いで漕いで漕いで漕いで。
ありとあらゆるものが、飛来する鈍器の餌食になって吹き飛んでいるのである。
ちょっと振り返れば、街灯といい電柱といい、選挙用のにやけたおっさんのポスターといい、
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
22
第一章
23
ブ川へと落下したのだ。じゃっぽーんと。
***
『対象』は、川の中へと潜伏し、うまく難を逃れたようだった。
おぼ
見ようによっては、ただ落ちて流されているだけのように見えたが、あれはやはりかわされて
しま っ た の だ ろ う 。
「……にげられました」
さすがは組織が、自分を投下するだけのことはある。まだこちらへの警戒を解かずに、溺れた
まずは投擲モードにしていた身体機能を一度オフにして、抱えていた休憩ベンチを地面に下ろ
とうてき
ふりをしているのだから。
す。
こころ も と
これではヒカリ的に非常に 心 許ないの
振り返れば、自分を追ってきたらしい男が、切れた息を肩で整えていた。
「あまり無茶はしないでくれ、ヒカリ――」
「ツヅリ。ライフルの取り付けは許可されませんか?
です 」
ロ ッ ク
「だめだ。機内で『仕様書』は読んだだろう。今のお前には、第一種装備しか取り付けできな
い」
「まるでハリボテ。人間と変わらないです」
「女子高生になるんだから、それでいいんだよ」
ヒカリは、公園の柵の手前で、顔を上げた。仰角三十度。そのまま、全体の関節を固定。
男は、そんな直立不動で見上げるヒカリのバイザーを跳ね上げ、直接その目を見て言った。
「まずはね、生徒手帳を熟読しなさい、ヒカリ。校則を覚え、守ることを理解し、その上で崩す
ことを学ぶんだ。制服のリボンは少しゆるめに結ぶといいらしいよ」
「― ―
「それになんの意味があるのですか?」
「
***
(楽しんできなさい)」
Take it easy.
(命令を)」
Please.Command.
彼は、無造作にこちらへ近寄り直すと、ヘッドギアの上からその頭をなでた。
「―― Dr,TSUDURI.
(綴)」
男が、街灯の明かりに入る直前で振り返った。彼女は硬い口調で続けた。
つづり
見慣れた背広の背中が、ゆっくりと遠ざかっていくから。
理解しきれないこちらの状態を無視して、男は一方的に肩を叩いて歩きだす。
ステータス
そんなパラメータは、入力された覚えがない。
「モテ度が上がるらしい」
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
24
第一章
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26
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
27
くつ ぬ
ぬ
猫崎ユヅル・愛称ネコルが自宅玄関のドアを開けたのは、深夜十二時を回ってからだった。
履き古したスニーカーの靴底が、水を含んでがぼがぼと鳴った。玄関の沓脱ぎで、濡れそぼっ
たそいつを脱ぎ捨てると、靴底には黒緑色の水と一緒に、変な藻が入っていた。
「……ユヅルー、帰ったのー?」
奥の台所から聞こえてくるのは、姉のけだるい声だ。名は猫崎マヒル・愛称アヒル。
ふ
ろ
(夜中に食べると胃がフォアグラになるんじゃなかったのか、姉上よ)
そんな憎まれ口を叩く気力もなく、風呂場に直行して制服ごとシャワーを浴びた。
じゃばじゃばと、流れ落ちる水音と一緒に、パトカーのサイレンが、遠く聞こえた。
教えてニーチェ。誰でもいいけど。これは事件なのか? それ以前に現実なのか?
面倒だからと、打ち上げをさぼろうとしたバチが当たったのだろうか。
鞄のスマホは、もう電源さえつかなかった。
そして――翌日。
通学用の自転車が壊れてしまったので、仕方無くバス通学に切り替えた。
「… … っ へ ぶ し ! 」
ぜ
うつうつ
さっきから隣のつり革につかまっている女子中学生が、それとなく距離をとりはじめている。
か
こちらの風邪の気配に、恐れおののいたのだろうか、それとも鬱々とした顔つきが、怖すぎた
からだろうか。単純にドブくさかったという説もある。
(……………………あーはっはっは)
なぞ
悪いさ。どれもこれも悪すぎるさ。
謎の襲撃を受けたあと、ネコルは川に沈んだ。それはもう日もとっぷり暮れてから、底がどこ
にあるかもわからない市街地のドブ川を、じゃぶじゃぶと泳がされたのである。
落ちた後も上がる護岸が見つからず、帰り着いたのは深夜もいいところである。
今、バスの車窓から見える空はよく晴れ、入りこむ風は優しく、けれどネコルの体は風邪の気
かきだてばし
配に侵され、少々ドブくさかった。
『――次は、蠣館橋。蠣館橋――』
「… … 死 に て ー 」
中学生がまた半歩横にずれた。本気で死にたくなってくる。
にし
この停留所で降りる人間はいないらしく、また新しいテロップとアナウンスが車内に流れだし
た。
きた
『――次は蠣館西、蠣館西。私立風涼高校をご利用のお客様は、こちらがご便利です』
すぐに降車ブザーが鳴った。
蠣館橋に蠣館西。蠣館会館に北蠣館公園。
大昔はこの、町中いたるところにあふれる『蠣館』なる単語が、人の名前だと知らなかった。
28
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
29
かき の だて
ネコルたちの住む垣ノ立市は、すべてが蠣館の一族で成り立っていると言われている。
人口十万に届くか届かないかの地方都市。半分自嘲も入っているのだろうが、実際に街の産業
を成り立たせている企業を当たってみれば、例外はあれど八割が蠣館様関連の息がかかっていて、
むかしむかしの庄屋どんの頃から、ここの土地一帯は蠣館様のものだったそうだ。
時代が変わって蠣館村はS県垣ノ立市になりはしたが、その影響力はさして変わっていない。
市街地を取り囲む形で残る山や畑のほとんどは蠣館一族名義らしいし、彼らは広い土地の一部を
提供し、学園の運営にも乗り出している。ネコルも通う私立風涼高校もその一つだ。
地元のじいさまばあさまに、『風涼に通っている』と言いさえすれば、県内トップの県立高校
に通っているよりも通りはいい。実際は三番手のさらに滑り止めランクが関の山なのだが、大事
隣の市への交通手段が、山間の県道一本の垣ノ立市で、商店街が潰れずにいるのも郵便ポスト
やまあい
なのは偏差値よりも地元への貢献度なのだそうだ。
が赤いのも、すべてみな蠣館様のおかげだんべと言われれば、ネコルたちはお山の上にある蠣館
様の本家に手を合わせようというものである。
(ま、本気でするわけじゃないけどさ)
こちらとしては、何をしているかわからない名士の一族よりも、家からの自転車圏内に新古書
店以外の本屋がもう一軒ほどあってほしいと思うだけだ。ゲーセンでもいいのだけれど。
「へっぶし! へっぶし!」
もう何度目かわからないくしゃみを繰り返していると、バスが蠣館西のバス停へと到着した。
か わいそう
ここで乗客はネコルを含めて、半分以上が降りる計算だ。
あ
あ
下車する直前、可哀想な女子中学生が、気の毒なものを見るようにネコルのことを見送ってく
れた。「おだいじに」の声も。嗚呼ありがとう女子中学生。ありがとう。ありがとう。
人の流れに沿って並木道を歩きだすと、後ろから名前を呼ばれた。
「ネ ー コ ル ! 」
え
び はら
にしむら
鼻をすすって振り返れば、ルーシーと凪の二人が、仲良くご登校あそばしてくるところだった。
海老原凪に、ルーシー・西村・ストラットフォード。
前者とは幼稚園の頃から、後者とも小学校の途中から同じなので、幼なじみと言っていいのか
まゆ
もしれない。今も同じ高校の、同じクラスに放り込まれているのだ。
あれだけ言ったのに、なんで打ち上げ来なかったのよ! スマ
まずはルーシーの方が、こちらの顔を見るなり眉をつりあげる。
「こんの大ばか! タコばか!
ホも 切 っ て る し ! 」
「や、そんなこと言われてもさ……」
こちらはドブ川で死にかけていたのだ。
あま ぎ
「そうだよ、ネコル。昨日、すんごいおもしろかったんだよ。ルーシーの『悲しい酒』独演会。
最後は弾き語りの『失恋レストラン』を披露してくれてね、アンコールは石川さゆりの『天城越
え』。ほんとこういう粘着系の女に好かれると超うざいよ――」
「は あ っ ! 」
こ
ぎ れい
け
へきがん
ルーシーが金色のサイドテールを振り乱し、海老原凪の小綺麗な頭を蹴り飛ばした。小柄な凪
は、軽く地面に吹っ飛んだ。
「どうしてよりによって言うのがそれなのよ! ぼけ!」
盛り上がりはしたらしい。
おも しろ
凪の方は、性別を間違えそうな美少女顔の男で、ルーシーは外国人に間違えそうな金髪碧眼の
女だから、とても目立つ。ちなみに当人たちにその事実を告げると、反応がえらく違って面白
かったりする。凪は「あははー、女の子かー。よく言われるねー」と笑いながら復讐の方法を考
え、ルーシーはその場で平手打ちを続ける。
ネコルとしては、まあ両方ともお断りしたい反応だ。
「もっといろいろあるでしょう? 球技大会三位に甘んじることなく、次のイベントの市民展示
もがんばりましょうとか。動画で振り返る好プレーとか」
「僕は日常にお笑いを求めるんだ、ルーシー。そして君は笑える。心から」
「ごまかさないでよ!」
「でもずっとネコルのこと気にしてたのは本当だろ?」
「あ、た、し、は。単に、クラス委員として、全員参加を、目指したかっただけ! ネコルだけ
うそ
が特別じゃないし!」
「あーあ。嘘ついちゃってさー、もー。不毛だよねー」
「は あ っ ! 」
二撃目の回し蹴りは、凪が転がって避けた。
当の二人は、家も近いイトコ同士なので、ネコル以上に一緒にいることが多い。
いな
あんまり仲がいいので、ひょっとしてお前らつきあってるんじゃねーのと思うが、聞けばどち
らもそろって「NO」と言う。特にルーシーなど、泣かんばかりの勢いで否を叫ぶ。面倒くさい
ので、そういうことにしている。
「そ、そそそ、それにしてもあれね! ネコルがバスで来るなんて珍しいわね!」
「………… は、なに?
「ああ、自転車ぶっ壊れたし、スマホも――」
「だったらいいよな……」
「うわあ。すごいやルーシー。これは事件だよ。偏屈じじいで若年性老人のネコルが冗談を言う
率直な凪は、ますますおどろいたようだった。
降ってきて逃げていた? なにそれ。ネタ?」
頭にツノのついた人間を目撃したあと、空から公園ベンチとゴミ箱が
少し迷った末、ぼそぼそ事情を説明してやると、向こうは目を見開いた。
凪に怪訝な顔をされはしたが、事実なのだからしょうがない。
け げん
「泳 い だ ぁ ? 」
「かもしれない。泳いだし……」
「なんだいネコル。風邪?」
その先は出てこなかった。こちらのくしゃみの三連発のせいで。
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
30
第一章
31
ざれごと
日が来るなんて。学会で発表しないと」
か き しょう
「ナギの戯言はかけらも気にしなくてもいいけど……ほんとに大丈夫なの?」
ルーシーが、気遣わしげにネコルを見上げてきた。
こういう顔をしていると、『ハーマイオニー』などとあだ名されていた、蠣 小 時代のルーシー
を思 い 出 す 。
普通なら映画の中でしかお目にかかれないような、明るく澄んだブルーアイズに、輝くような
ハニーブロンド。体型もばりばりの白人系スタイルだから、そこそこファンがいるらしいことも
納得 だ 。
むち
いっかつ
もっとも、本人はそんなあだ名がつくことを嫌がっていたなと、昔なつかしな記憶を振り返っ
「――なんなのよ、その格好は! ふざけてるわけっ?」
ていたら、鞭のような一喝が響いた。
どうやら高校の正門で、風紀チェックがはじまっているようだ。
そこそこのんきな校風を謳う風涼高校だが、こうして気がゆるみやすい行事明けの朝などに、
教師が校門に立って目を光らせることは、珍しいことではないのだ。
校則違反でバイク通学をしてきた男子生徒や、華美なアクセサリーをしてきた女子生徒などが、
まつはた
ベルトコンベア上の果物の選別のようにより分けられて、校門脇に整列させられている。
凪がため息をついた。
「あーあ、カマ松につかまっちゃってるよ。だめだねありゃ。女の子?」
つぶや
声だけで察しがついたらしく、ネコルの後ろで呟いている。
たしかに最近の服装チェックの過激派と言えば、目の前の男性教師――生徒指導部の松旗が筆
頭だ。年の頃は三十がらみ。実年齢は不明。二年前にこの風涼にやってきた中途採用教師だが、
いわゆる『新学期・夏休みデビュー』を果たして髪の色や制服の丈を変えてしまった男女が、
学校に熱血指導ぶりをアピールしたいらしく、とにかく口うるさい。
この教師の水際作戦で自宅に帰されているのを、ネコルも何度か見てきたのだ。
「バカも休み休み言いなさい! 舐めた口きくと承知しないわよっ」
しかもこの松旗教師、こと女子に対しては特に粘着質で、受け持っている保健体育の授業で体
松で あ る 。
本気なの?」
なにせその少女は、他の『要チェック・デビュー済み少女』と違い、スカート丈自体などに問
しかし今回は少し……いつものカマ松のヒステリーにしても、毛色が違うのではないか?
松旗は、怒ると粘着な上に、オネエ言葉になった。ついたあだ名が、カマの松旗、略してカマ
な
「……これもボディの一部です。外すと駆動系が安定しないのです。大変です」
「その頭で授業を受ける気なの? バカなの?
「……ふざけていません。実にとても真面目です」
今も激しい叱責を受けているのは、男子ではなく女子生徒だ。
級に嫌われていると聞いてる。
操着を忘れた女子生徒に、制服のまま走り幅跳びの測定をさせたとして、女子の中ではメガトン
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
32
第一章
33
34
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
35
題は な い の だ 。
むなもと
細かなタータンチェック柄の布地には、綺麗なプリーツが寄せられ、紺のハイソックスに包ま
れた脚は、子鹿のように細かった。
キャメル色のブレザーは、入学したばかりのように新品同様。やや起伏の少ない胸元を、二年
の学年カラーであるグリーンのリボンが飾っている。ふんわりゆるく結んだリボンの形も、定番
を外 さ ず 悪 く な い 。
ただし、頭にヘッドギアをかぶっていた。
ボクシングなどに使う、シンプルなヘッドギアではなく、もっとずっと固くてパーツが多い印
象だ。顔の上半分は、ヘッドギアに付属した黒のバイザーのせいで見通せず、かろうじて形の良
左右をアンテナのようなツノが伸びているせいで、余計にロボでコップな印象が強かった。
い口許だけがさらされている。
「……な、なによあれ……コスプレ……?」
そで
ルーシーが呟く以上に、こちらは衝撃で口がきけなかった。
凪が制服の袖を引いてくる。
「……さっきのネタ、マジだったってこと?」
わからない。でも他に何があるだろう。
かじ
はん せん
あの顔半分を隠す黒いバイザーを跳ね上げれば、すべてがわかる。ような、気がした。
あの日。あの夜。長い黒髪が月明かりの下で、舵を失った帆船のようになびいていたこと。
いま し
戒 めの強いその顔に、かすかに涙の跡があった気がしたこと。泳いだこと。もがいたこと。そ
の先 も き っ と 全 部 。
しび
ごういん
「いいから外しなさい! でないと中へは入れないから!」
その瞬間、ネコルの内側にわき上がったのは、カチリと撃鉄を引き起こすような、激烈な――
痺れをきらしたらしい松旗教師が、とうとう強引にそのツノを引っ張った。
怒り で あ る 。
「… … め ろ 」
やめろやめろそいつに触るな。誰もそいつに触るな!
と ん ちゃく
自分でも、よくわからなかった。どうしてそこまで腹がたったのか。
「ネ コ ル ? 」
しかし、当の少女の方は、こちらの焼け付くような感情など、頓 着 しなかった。
ツノを引っ張られた格好のまま、地面の上を勢いよく前転する。さらには目の前に停めてあっ
た、校則違反摘発済みの原付バイクに取り付き、立ち上がりながら『担ぎ上げ』たのだ。
本当なのだ。
(は ? )
その時のカマ松のおどろいた顔。なんと表現すればいいだろう。
しかもヘッドギア少女は、自分の頭よりも高く持ち上げたバイクを、次のモーションで後ろに
ブン 投 げ た 。
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
37
バイクは勢いよくカッ飛んでいき、人間ではなく背後のプラタナスの並木の一本にぶち当たり、
茂みに落ちて部品を散らした。
堂々と飛んで壊れたバイクと、堂々と投げて壊した女子高生、ツノ付き。
間近でそれを体感した松旗が、背広のままま腰を抜かしている。
「もうだいじょうぶです。危機は適切に去りました」
「…………さった? なななな、なに、なにが?」
「敵を感知しました。でも逃げたようです。ばびゅん」
の
彼女は茂みの方向を見ながら呟き、顔を覆っていたバイザーを跳ね上げた。
みな一瞬息を呑むほどに整った色白の顔が、公衆の面前にさらされた。
か れん
まるで動くひな人形だ。やわらかな眉のライン。花びらのような唇。黒目がちの瞳。長い黒髪
。都市型作戦兵器『度会ヒカリ』カスタム。今日からこの学校を
0021-mw
わた らい
も相まって、作りの一つ一つが可憐で丁寧で、そして。
「 ―― 製 作 ナ ン バ ー
し
守り に き ま し た 」
オイルの染みがついた十本の指が、すべて同じ角度と速度で曲げ伸ばしをはじめる。
「ヒカえもんと呼んでください。ヨロシク」
***
――ドラはねえよな、ドラは。
二年C組の教室は、もっぱら朝に見た騒動の話題で持ちきりになった。
「ねえねえねえねえ! うちの学校にネコ型ロボットが来たって?」
「ロボコップの間違いじゃねーか?」
「つーかアレ本物? カブ素手で投げたんだろ」
「カマ松が腰抜かしたって」
「ツ ノ 」
「ヘ ッ ド ギ ア 」
「あたし見てなーい!」
「でもすっっっごい美人だったって!」
ああ本当なら、昨日の球技大会や打ち上げの話題で盛り上がっただろうに、誰も話題にしやし
ない 。
委員長のルーシーいわく、『球技大会三位』の好成績、
『次のイベントの市民展示もがんばりま
しょう』と乾杯したはずなのに。
「……一番気の毒なのは、バイクの持ち主じゃねーか?」
思わずネコルも、自席でぼやくともなく呟いてしまう。
大破したスーパーカブがどうなったかは、あいにくと聞いていない。まだ耳には、ボディが砕
な ごり
ける轟音の名残がある。
たけもと
「――実は、昨日の夕方、にしはね歴史記念公園の近くの路上に、公園のベンチやゴミ箱が、大
量に投げ落とされていた事件があったらしい」
クラスがぴたりと、一瞬で静かになった。
発言の主は、この組でも『情報通』を自称する男・茸本である。
「な に な に 茸 本 」
事件?」
びっ く り 秘 話 が 」
「事 件 ?
「……………………僕的な情報網によればですね、路上に散乱したベンチの壊れ具合や、公園か
た指紋はすべて一つ。目撃者も特になく、路上の遺留品を轢いて横転するような二次被害もな
ひ
ら現場へ投げこむのに必要な筋力から考えるに、複数人の犯行だと目されつつも、現場に残され
「……うっせーから早く話せよ茸本のくせに」
「ふっふっふ。知りたいですか? 知りたいですか? なんと! そこには語るも涙聞くも涙な
ト』だのと言った、役にもたたないうさんくさいネタをつかんでこなければ最高の男なのだが。
これで『西羽橋のたもとにイカ男が出た』だの『スーパーまるふくの店長の副業はエクソシス
さないよう重々しい顔をしているが、一休さんめいた丸顔の小鼻がぴくぴくとふくらんでいる。
茸本は親が地域の防災班長で、警察や消防署からの情報がよく流れてくるらしい。軽薄さを出
視線が群がる。男も女も。
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
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第一章
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
41
かったため、全部所轄の警察署内で処理されて、県警のおでましを待つまでもなく、そのままう
やむやになったそうです」
「えー、それって……今日の……」
「蠣館の本家が直々に出て、すべてオールクリアになったとかならなかったとか」
縮こまった必死の早口に、クラスメイトたちも言葉少なになる。
「……蠣館……蠣館か……」
「なら……うん、しょうがないのかなあ」
「ね え ? 」
「ロボ……十万馬力は基本だよね……」
「世界の危機とかそういう奴か? 実験体を借り受けたとか」
「僕的な予想によればですね、これは街の神体であるギョカイ様の呪いで説明できるものでして、
イカ男の出現率と関連付けられるかと――」
「聞いてないから茸本」
お前ら。蠣館の二文字がありゃなんでもいいのかと言いたい。
あれはどう見ても危ないヘンな女で、投げ落とし事件のいないとされる被害者というのは、た
ぶんではなくこの猫崎ユヅル・愛称ネコルである。
「でもさー、いーじゃんいーじゃん! ロボなんだろうと美人は美人じゃーん!」
てらうち
ああ、ついに身もフタもないアホ発言まで出やがった。
あき
発言したのは、クラス一のポジティブシンキング寺内君だ。
「まあ……そうだな。美人はいいな」
「美 人 は 重 要 だ な 」
「美人っつーより可愛い系?」
おとこ
彼は前向きだ。いついかなる時でも呆れるぐらいに前向きだ。テストが赤点だろうとなんだろ
しっ と
うと前しか見ない漢だ。そんな寺内君のオールグリーン発言を受け、今度は美人教の教徒(全員
野郎)が手をあげはじめる。「男子うぜー」「うっせー嫉妬すんな女子ー」女子陣と男子陣の平和
なケンカもはじまる。
「……ネコルはー、どうなわけー?」
ネコルの一つ前の席。
こちらと同じように、遠巻きに話題を聞いていた凪が、首を傾け尋ねてきた。
ほお
「あれは、本気で二足歩行な猫型ロボットの親戚なんだと思う? それとも美人だったら気にし
ませ ん 派 ? 」
「つーか、近づきたくない派」
「うわ。ネコルらし」
窓際の朝日をたっぷり浴びて、髪はさらさら頬もつやつや。こいつこそ性別をどっかに置いて
きた美少女じゃねーのと思わなくもない。肝心の中身は、可愛げのないハードロック好きだが。
尊敬する歌手はマリリン・マンソンらしい。
42
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
43
しかし後ろから百キロ越えの鈍器を投げつけられて宙を舞えば、誰でもそうなるはずだ。
「どしたのよ。なんかはじめは、すごい怒って突っ込もうとしてなかった?」
「い、いや。あれはとっさに……」
海老原凪は、いつも適当な口をきく割に、観察眼はかなり鋭い。どうやらあの場でのネコルの
変化を、めざとくチェックしていたらしい。
「とっさに? そうなの?」
「そ う だ っ て 」
じっさい自分でも、どうしてあそこでああも激昂したのか、よくわからないのだ。
もしや霧香が言っていたように、本当に自分は正義感あふれる英雄志願者で、相手がたとえ
ほが
十万馬力のロボ女でも、誰かれかまわず助けたくなる親切者なのだろうか。
(― ― 本 当 に ? )
それは違うような気がした。
だったら、なぜ?
なぜあの子には、あれだけ反応した?
「どうでもいいよ。俺が愛するのは、世界平和と霧香先輩だけだから」
「霧香先輩ねえ……ネコル、まだいいようにあしらわれてんの?」
「う う っ 」
心臓を刺されるセリフを親友に吐かれた。
「いい加減、あきらめた方がいいと思うけどな……」
「う、うるさいな。あしらわれてなんかないぞ。ちょっと向こうが天然で朗らかすぎるだけだ!」
「天然で朗らかすぎるねえ」
「うるさいって。こっちはいろいろがんばってるのに、気づかない先輩が悪いんだよ」
「気づかない先輩が悪い」
「ああ。ほんとに鈍感ってのは、救いようがないよな。犯罪だ犯罪」
なぜか海老原凪は、体感温度二十三度ぐらいの生ぬるいため息をついた。
「そのセリフね、間違ってもルーシーにだけは言わない方がいいよー」
「な ん で だ よ 」
「犯罪……たしかに犯罪っちゃ犯罪かもなあ……」
どうしてそこで、口うるさい委員長の名前が出るのか。ネコルにとっては、いたずらに居心地
の悪さがこみ上げてくるだけだ。
「つかさ、もういいだろ。どっちにしたって、俺たちには関係ないんだし」
「いっやあ。案外わかんないよー。ウチのクラスに転入してきちゃったりして。そのロボ子ちゃ
ん」
どこまで調子がいいんだよと言おうとした──その時だった。
教室のドアが開き、ちょうど噂に出ていたクラス委員長、ルーシー・西村・ストラットフォー
ドが、出席簿を持って教卓までやって来た。
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
45
こわ
彼女は職員室に顔を出していたはずなのだが、なぜか顔が強ばり、青ざめていた。
色が白いせいで、余計に普段の顔色との落差が目立つ。
「あれ、どしたのルーシー」
「……あの、うん、なんて言うかね……」
言葉を濁したその真意を、ネコルはすぐに思い知った。
おお き
ど
続いてのホームルーム。
担任の大城戸が言った。
「転入生を紹介する」
転入生が言った。
どこまで調子がいいんだ。世界。
「度会ヒカリなのです」
て ん じょう
心の中でつっこみを入れたくなるほど、あっけなく転入生はそこに、ネコルたちの日常である
教室の中に立っていたのだ。
ごついヘッドギア。メタリックなバイザーを半分だけ跳ね上げ、ツノは相変わらず天 井 に向
かって二本伸びている。そこから下の、女子に人気なキャメルブラウン『らぶりーできゃっちー』
な制服との対比が強烈すぎるその風体。
忘れられるわけがない。
「えー、度会さんはお父さんの仕事の都合でここ垣ノ立市にやってきたそうです」
「目的は、敵の排除なのです。組織からの指示をうけつつ、しばらく潜伏させてもらうことに
なっていると思います」
「外国暮らしが長かったそうなので」
「ツクバの研究所にいた期間もあります。製造されてから調整を受けた五年間です」
「慣れないことも多いかと思いますが」
0
0
「安心するといいと思います。この学校は狙われますが、あなたたちは一人も傷つかない。そう
ま ぎわ
いう風に、ヒカえもんは作られたと聞いています」
担任大城戸が、無言で度会ヒカリを見た。
まあ、普通はそうですよね。倫理を教える定年間際の老体に、これは刺激が強すぎますよね。
「…………席はそこです、度会さん。西村さんの横に。西村さん、面倒をみてあげてください」
かんぺき
しかし何事もなかったように続けた! こ、これが大人パワーか!
あまりの完璧スルーっぷりに、感動さえ覚えた。
もはや全方向つっこみどころだらけの度会ヒカリは、真新しい上履きの靴音も高く、教室の中
ま
さお
を縦断していった。てけてけてけと、きっかりそろった歩幅と速度で目指す机の脇まで移動する
い
す
と、右向け右。軍人さんも真っ青な、鋭い九十度角で体の向きを変える。
むんずと椅子の背をつかんで、着席。
きっ すい
いか
しかし生粋の軍人というよりは、ロボとかメカとかゼンマイ仕掛けと言ったセリフの方が、
しっくりくる動き方だ。どうしたって厳めしさが足りないし、動作もコマ送りでぎくしゃくして
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
47
しり
いる。女子なら気にするはずのスカートの裾は、半分尻にひいて半分椅子からはみ出たままだ。
綺麗な顔の、等身大のカラクリ人形のようだった。
「さあ。次は中間考査の追試の件だが――」
「あ の 、 先 生 」
はん だ
おずおずと手をあげたのは、そんなヒカリの後ろの席になった女子である。
出席番号三十一番。美術部の半田さんだ。
「ど う し た 、 半 田 」
つら
「……その、あの、わたしの前にあるこの……ツノ? っぽいコレがあると、黒板が……」
見えませんと言いたいらしい。
言うべきところはそこなのかと思うが、決死の告発を受けた担任教師は、ヒカリのごついヘッ
たしかに小柄で目もあまりよくない半田さんでは、板書するのも辛かろう。
ドギアと、そこから伸びるアンテナ二本、さらには淡々と小綺麗な唇を引き結んで座っている当
人のすまし顔を見比べた。
さすがに取りなさいと言うかと思いきや。
「……わかった。度会ヒカリさん。彼女と席を交換してやりなさい」
それだけかよ!
叫びたくなったのは、自分だけではないはずだ。
命じられたヒカリはと言えば、キキキ、と油が足らずにきしんでいるような速度で首を横に傾
コマンド
け、また戻した。そこから静止すること三秒、やっと命令の情報処理が終わったとばかりに、立
ち上 が る 。
「あ、ありがとう……度会さん……」
がたこんがたこん、半田さんとヒカリで、席の交換をはじめた。
「きにしないのです」
そうして頭にヘッドギアをかぶったゼンマイ美少女と、美術部の半田さんは、席の前と後ろを
入れ替え、ゼンマイ美少女は教室の一番後ろの席におさまった。
「えー、続けるぞ。考査の基準点に満たなかった生徒は、明日の放課後、指定の教室へ――」
ああもう、しびれるぜ、大人。
――ざわざわ。ざわざわ。
昼休みになっても、ネコルたちは遠巻きにヒカリのことを見守り続けた。
他にどうすればいいか、わからなかったからかもしれない。
いくら脳がお天気なC組の連中と言えど、晴れ渡るには限度があるのだ。
ゆが
授業を受け持つ教師たちは、そろってヒカリのヘッドギアをないものとして扱い、ヒカリは
はん ぱ
ずっと無言だった。ブレザーの背中に鉄板を仕込んだかのような歪みのない姿勢で、なおかつミ
ニスカの裾を半端に椅子からはみ出させながら、ずっとずっと座っていたのだ。
48
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
49
「……おい、ど、どうするよ?」
「どうするって言われても。なあ」
きんこう
教室の一番後ろに鎮座する異物と、それを遠巻きにして緊張する生徒一同。廊下の外にも、鈴
なりの人。いったいいつ誰がこの均衡を破るのか。そんな三すくみの状況で、痺れをきらして行
動に出たのは、クラス委員のルーシー・西村・ストラットフォードだった。
「あ た し 、 行 く ! 」
敢然と言って、ずんずんとヒカリの席に近づいていくのだ。勇者ルーシー様だった。
もう輝いて見えるどころの話ではない。
「――よおっし行けぇぇぇぇぇぇぇ!」
「俺は応援するぞ!」
「す る だ け だ が ! 」
「たいしょーファイッ!」
「あたしと結婚してえ!」
C組の声援が乱れ飛ぶ。
「は、はじめまして! あたしC組の委員長で、西村って言って――」
わざとらしいほど、にこやかな第一声。それに対し、ヒカリはまず顔を真横に向けた。そこか
らわ ず か に 上 へ 。
ややこしい手続きのようだが、これでちょうどルーシーを正面から見上げる形になる。
しゃべ
「―― How do you do? I'm pleased to meet you.What is IINCHOU?
」
それはいわゆる、実になめらかなアメリカ英語というやつだった。
なおも彼女は喋り続ける。NHK・FMのDJのように、おおよそ半世紀前は敵性言語だった
言葉を喋りまくる。早すぎて、ネコルレベルのヒアリング能力では理解できない勢いだった。
「……なあ。あれ、なんて言ってんだよ」
質問も入ってる?」
思わずネコルは、たまたま隣にいた茸本(英会話部庶務係)の袖を引いてしまった。
あいさつ
「いや、僕的にもなにがなんだか……挨拶?
つくづく役に立たない茸本も置き去りにし、なおもヒカリは喋っている。ものすごく本場っぽ
く、立て板に水の勢いで喋っている。
「……えと、その、あい、あいきゃんと、すぴ、すぴーく、いんぐり、いんぐり」
間近に猛攻を受けるルーシーの目は、もう完全にうるんで涙目だった。いっそ撃ってくれた方
がマシという顔をしていた。
ぜ り ふ
「―― WHY?
」
「どうせあたしは、英語ができないわよおおおおおおおおおおお!」
ばかちーん!
まるで四歳児のような捨て台詞を吐き、勇者ルーシーは泣きながら走り去ってしまった。
後に残されたネコルたちは、ついいつもの調子で突っ込んでしまう。
「……あのさ。だめだよ、あんた。ルーシーに英語使うなんて鬼門は」
50
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
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「…………そうなのですか?」
「英語だけ赤点なんだよ」
あ ん ぐ ろ さ く そ ん
ネコルに言われたヒカリは、顔のバイザーを半分下げた格好のまま、キキキと小首をかしげる
とい う か 傾 け る 。
わな
「……ヒカリは、なにかまちがえたでしょうか。彼女は九十九パーセント欧州系の白人に見えた
ので す 」
それは誰もが通る罠である。
「えー、僕的に説明しますとですね、彼女は生まれこそ英国ですが、日本人のご両親と養子縁組
され、三歳から日本で暮らしているせいで、日本語しかしゃべれないのですよえっへん」
また首が垂直に戻っていくヒカリ。カキカキ、コキンと。
「ふむ……ナルホド……理解しました……」
珍しく話を聞いてもらって満足げな茸本は置いておくとして。今ヒカリに言ったこと自体は、
き
まったく間違っていない。ルーシーは市内の大学で教鞭を執る養父母を持ち、見た目の割に英語
がしゃべれない。そのくせ道を訊こうとしてくる外国人観光客や、金髪フェチの変質者に絡まれ
かたく
て、あれでなかなか苦労をしていると聞いている
だが、きっかけはきっかけだった。あれだけ頑なだったヒカリとの壁が、この会話だけで崩れ
はじ め た の だ か ら 。
「ねえねえ。あたしたちも一緒していい?」
しんしん
同じように遠巻きにしてたクラスの女子連中が、ネコルたちがいいなら大丈夫だろうとばかり
に、ヒカリの周りに集まってきたのだ。
「ヒカリちゃんって呼んでいい? ヒカっちの方がいい?」
「うわすっごーい、髪きれいー」
「ツノ、外せばいいのに。なんで付けてるの?」
女子陣は女子陣で、せっかくやってきた転入生、しかも同性の女の子に、興味津々だったのか
もしれない。ヒカリのヘッドギアの下から伸びる黒髪や、宇宙からの電波もキャッチできそうな
二本のツノに、感心しながら触れはじめているのだ。
「外国から来たんでしょ?」
英語も日本語もうまいね」
「そうです。日本には、しばらく来ていません」
「へ え 、 そ う !
「五カ国語は常時コミュニケーションがとれるよう、セットされているのです。困難ではないの
です 」
しかも普通に話している。
「うそ。じゃあこの問題とける?」
怖い物知らずの女子陣は、いそいそと自分の教科書を取り出しはじめた。次の時間がリーディ
ングだったことも、忘れていなかったようだ。
ヒカリは、差し出された教科書のページを、無言でながめた。ちゅいーんと、どこかでドライ
52
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
53
ブが回る音がしたような気がした。
「『…… ブラッドはアンジーの嘘に気づいた。彼は彼女のことをひどくなじった。ひどいよアン
ジー。ボクのことは遊びだったのかい。アンジーは泣きながら弁明した。いつからかあなたの愛
が信じられなくなったの。そんなことはないさベイビー。そして二人は固く抱き合い――』
」
「ちょっ、ちょっちょっと速い! 書き取れない!」
「机 寄 せ よ う ! 」
そういうことになり、せっせと周りの机を寄せ集めはじめた。
なにやら指をくわえて事態を見ていたネコルたちも、ほら今のうちよとばかりに手招きされ、
周りを囲っていいことになる。なんだか訳のわからない英語講座がはじまろうとしている。
「いい? ゆっくりゆっくりお願いね」
「了解しました、です。では、いきます」
「うわー助かるよーヒカリちゃーん。オレ次当たるかもしれないんだわー」
かっさい
やたら感謝されている。
こ ひ な た
やんややんやの喝采の輪の中心に座るヒカリが、教科書を読み上げようと口を開き──。
「――小日向、いる?」
ますおか
そこに、長身のイケメンが現れた。
お隣のクラスの素敵男子こと増丘君(下の名前は忘れた)だ。教室のドア枠に寄りかかり、メ
ンズ・ノンノの表紙も飾れそうな決めポーズでこちらのアクションを待っている。
ゆう こ
そして小日向というのは、二年C組一番の恋多き美少女と名高い小日向祐子さんのことだ。
小日向さんの顔が、それは露骨に歪んだ。
「げ 。 増 丘 」
ついに『げ』がつくようになったか。
「な に か 問 題 が ? 」
「女の敵が現れたのよ、ヒカリちゃん」
じゃっ か ん
ヒカリに向かって、彼女は真剣に答えている。
そのまま 若 干キレ気味の顔で立ち上がると、当の増丘君のもとへと歩み寄る。その『俺はも
も
てる』オーラむんむんの腕をつかんで、無理矢理後ろの黒板へとつれていく。こちらがノートを
取っている間も、切れ切れに二人の会話が漏れ聞こえてくる。
ふたまた
「――だからあの時は俺が悪かったって。すねてないで機嫌直せよ祐子。な――?」
「なじゃないわよ! 呆れてるのよわたしは! 普通に二股かけたくせに!」
「だからそれは誤解だって――」
小日向さんが恋多き美少女なら、増丘君はイケメンだがだらしがない男だ。とうとう小日向さ
うざすぎ! いいから出てって!」
んがヒステリーを起こす。
「もういや! うざ!
「機 嫌 直 せ っ て 」
「触 ら な い で よ ! 」
そんな二人を、ヒカリは椅子に座ったまま、黙って見ていたのだ。
――いいや。見ているだけではない。なにか喋っている?
ネコルは、思わず身を乗り出し、うつむき加減のヘッドギアに耳をすました。
「――――――――侵入者排除。侵入者排除。警戒レベル3。武装制御解除。コード6、フェイ
ズ2 に 移 行 … … 」
意味などまるでわからなかった。ただ本能が叫べと言っていた。
「伏せろ増丘――――――――――――――――――っ!」
次の瞬間、ヒカリは使っていた机を両手でつかまえ、ノーモーションでブン投げた。
机。あんなに速く飛ぶもんだと思わなかった。縦方向にスピンのかかった僕たちの机。後ろの
黒板にめり込んでしまった僕たちの机。
増丘君は、可哀想に避ける途中でロン毛の一部を机アタックに持っていかれた。
しくしくしくと、泣きながら保健室へかつぎこまれた彼は、心の方にも大きな傷を負ったかも
しれ な い 。
もっとも、そんな彼の側には、噂通りに二股をかけていたもう一人の彼女さんが、「大丈夫?
アキラ君しっかりして」と献身的に付き添っていたというから、差し引きで言うならゼロからプ
ラスだろうか(やっと名前を思い出した。アキラだアキラ。死ねアキラ)
。
ぼうぜん
そしてC組の教室には、教科書や筆記用具が散乱し、黒板からは机が生え、けろりとしている
十万馬力美少女が残された。
「……なにが起きたの? いったい」
傷心の果て、泣いて校舎を一周して戻ってきた勇者ルーシーが、呆然とつぶやいている。
「ナ ギ ? 」
「度会さんがね、ほら」
「退 治 で す 」
「ネ コ ル ? 」
「退治ってあのね……」
ころでなんの不都合があるの?」
「この子はゴキブリを退治したのよ。黒くてうざくてしかもでかいの。スリッパが机になったと
薄い胸を心持ちそらし、まるで鬼退治でもしてきたかのように堂々としていた。
「……ルーシー。頼むから怒らないでやって。度会さんはね、わたしのためにやってくれたのよ」
それでもこの華奢で小さな女の子が、今ある惨状を作ったことには変わりないのだ。
きゃしゃ
いことには変わりないのだけれど。
モデル体型な小日向さんよりも頭半分低く、しかしヘッドギアとツノがあるからトータルがでか
度会ヒカリは、小日向祐子に付き添われて立っていた。こうして見ると、意外にチビっこい。
右に同じだ。当人に直接聞いてほしい。
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
54
第一章
55
「なんのって祐子、不都合だらけじゃ……」
いと
「ルーシー! あなただってよく言ってたじゃない。アレを退治するのに手段は選べない。アレ
わたしのスリッパなのよ!
核よりクリーンで愛 嬌 だってある
あ い きょう
を追い詰めるためなら核の投入も厭わないって! 言ってたわよねえ打ち上げの時も!」
「言 っ た け ど ! 」
「じゃあこれがスリッパよ!
わ! 可愛いじゃない! 捨てさせないからね!」
強力な味方である。議論の前提意見がすでに増丘君=ゴキブリで進んでいるところに、男の一
員としては恐ろしさを感じなくもない。しかもどういう脈絡で進んでいるのかもさっぱりわから
ない 。
小日向さんは真っ赤な目で、ヒカリの制服の袖にしがみつく。しがみつかれたヒカリの方は、
なんとなく満足げに見えなくもない。バイザーが下ろされているので、ゆるく結んだ口許だけが
見えている状態だが、それがまたほんのり赤くて、一級の職人が作った日本人形のようにきめ細
かく 整 っ て い た 。
(あ れ ? )
み けん
やっぱりこいつ……どこかで会ったことあるか?
一方ルーシーはと言えば、ひたすら眉間にしわを寄せて、そんなヒカリの姿を凝視している。
「……度会さん。祐子はこう言ってるけど、どう思う?」
「特になにもないと思います」
「その頭も、外せないの?」
「外せません。ボディの一部なのです」
「取 っ た ら ? 」
「ぱ ー ん 」
「ぱ … … 」
「だ め な の で す 」
ちゃん先生二十代後半が現れた。
くっ。下唇をかみしめるルーシー。かなり悩んでいるようだ。
でいく。シャツは裾を縛ってヘソをちら見せ、オレンジ色のカプリパンツから伸びるハイヒール
「ほうら。みんな席座って。席!」
のかかとが、くるりくるりと二回ほど回って、黒板の前で『決め!』になる。
お お は し あかね
彼女は今日も両手を高くあげた鼻歌スタイルで登場し、腰をふりふりサルサのステップを踏ん
五時間目の授業は、前述の通りリーディングである。その担当教諭である英語教師、大橋 茜
いきなり拍手とともに、教室前方の扉が開いた。
「はいはいはーい! ぐーっどスチューデンツ! みんなチャイムはとっくに鳴ったわよお!」
なら自然に還せだけど。でもここは人間の学校じゃないの……?」
かえ
この場合人? ヒト科ヒト目なの? もし違うなら余計にその特性は尊重するべき? 野生動物
「……………………身体的特徴で人を差別するのは、とってもとってもいけないことよね。でも
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
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第一章
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
59
ミュージカル部顧問としてもならす自慢の美声で、さあさあさあと、牛追いに追われるように
席へついたC組一同。先生は満足げに微笑む。
「 Good.
さあ、このクラスはどこまでやったかしらね――」
「先 生 」
ルーシーが、それでも手をあげた。
「どうしたの? 西村さん」
「……あの、後ろの机、引っ張っても抜けないんですけど、このままでいいんですか?」
黒板の中程にめり込んだままの机は、異様な存在感を保ってそこにあった。
茜ちゃん先生は、「あーはー?」と外国人くさいリアクションで顔をしかめた。
「気 に な る ? 」
「と て も 」
「代わりの机は運んできたんでしょう?」
「で も 」
「わかりました! だったらそこの男子! 猫崎くん!」
俺ですか?
現場に一番近い席の、ネコルが指名された。
「用具入れのバケツを出して。机の脚に引っかけて」
言われた通りに、残った机の脚に引っかけてみる。バケツがぶら下がったぐらいでは、黒板に
か びん
めり込んだ机はびくともしなかった。
「花瓶の花をバケツに飾って」
アール
ティー
ア ー ト
ー
ト
リピートアフターミー、ART!」
ア
やけくそのように、言われたことを実行した。茜ちゃん先生は満足げにうなずいて言った。
エイ
あ、あーと?
「A、R、T。芸術!
そんな感じのおぼつかない復唱。
「さあレッスン4! 課題はできてるかしら――」
茜ちゃん先生の号令により、強制的に授業が開始される。
ネコルは自分の席へと戻りながら、これでいいのかと叫びたくてたまらなかった。
つめ
(だって俺、死にかけたんだぞ。ベンチとかゴミ箱とか降ってきたんだぞ)
増岡君だって。黒板だって大変だぞ。
だけど小日向さんは綺麗な巻髪をかきあげ、爪磨きという名の内職の準備へ入ってしまうのだ。
凪は寝ている。ルーシーは死にそうな顔で宿題のページを開いている。
――どうしよう。
次の授業の先生も、おおむね似たような感じで、これはもう、茸本が言っていたギョカイ様と
やらの陰謀論も、あながち嘘じゃないのではと思う頃。本日最後の授業が終わった。
りんごんとのどかなチャイムが鳴り響く中、おもむろに立ち上がったのはルーシー・西村・ス
トラットフォードだった。
「おい、ルーシー――?」
「話しかけないで猫崎ユヅル」
ぶうんとサイドテールの金髪を振り乱し、後ろ向け後ろ。そこには小日向祐子のグループにか
まわれる度会ヒカリの姿がある。
クラス内でも目立つ『いけてる女子』の中心に、ヘッドギア付きの美少女が据えられている光
景を、なんと表現すればいいだろう。
ちょうど彼女たちは、ヒカリの歓迎会がどうのという話をしているようだ。
「……あれ。どうしたの、ルーシー」
あご
「祐子。ちょっとだけ黙ってて。あたしは度会さんに用があるの。ねえ度会さん」
言われた度会ヒカリは、ゆっくりと顎を持ち上げた。
こきこき、こきんと。
「な ん で し ょ う ? 」
「あたしはあなたが米国デトロイト出身ペンタゴンの特命大使で、サンタのトナカイを追う特殊
マ
ジ
任務を帯びていたとしても、たぶんどうでもいいのよ」
ルーシーの青い目は真剣だった。
――五時間目のはじまりから、六時間目の終わりのこの瞬間まで。彼女の脳内でいったいどん
な苦悩と葛藤と発想の飛躍があったのか。ネコルたちにはとうてい理解しようがなかった。
たぶん、最後の一歩がカタパルトとなり、そのまま成層圏へとぶっ飛んで行ってしまったのか
もし れ な い 。
「たしかにサンタは大事だけど! 世界をまたにかけて追う必要があるけど! でもね、ここは
日本で日本の学校なの! 英語が話せなくても仕方ないの! ここにいるうちはあたしの言うこ
泣くなよと言いたかった。
とを聞いてくれてもいいわよね? だってあたしC組の委員長だもん!」
「でも、任務があるのです」
「……ヒカリは、製作ナンバー 0021-mw
。都市型作戦兵器『度会ヒカリ』カスタムなのです」
「単三電池二本で動くんでしょう?」
キブリが出た時とか――そういう時なら、たぶん投げてもいいかもしれないけど。むしろ徹底的
ヒカリは、こきんと首を傾ける。
にやってほしいけど」
「教室の備品にだって限度があるのよ。どうしても撃退しなきゃいけない時――黒くてアレなゴ
投げてたら、この先とっても大変よ。社会に出た時苦労するわ」
先生方が何も言わなくてもね、少しずつでも 矯 正していかなきゃ。なんでもかんでもブンブン
きょう せ い
「……とにかくね、度会さん。あなたは普通の学校生活になじむ必要があると思うのよ。いくら
根に持つなよと言いたかった。
「いいじゃない。英語しゃべれるなら」
「ちがいます。そこまで省エネじゃないのです」
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
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第一章
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
63
「基準にぶれがある気が?」
「そこを学ぶのよ。あたしが委員長としての責任を持って、風涼のルールがなんなのか教えてあ
げる わ 」
ルーシーは、言いたいことを言い切ったように息をついた。
それを聞いたヒカリもまた、四十五度ほど傾けていた首を垂直に戻した。
なぜかネコルの前に座っている凪だけが、笑いながら顔を引きつらせていた。
「……どうかしたのか? 凪」
「ネコル。ちょーっとこの展開はやばいかもよ」
やばい?
「ちなみに、そこにいる二人が監督代行よ。どうすればいいかわからない時は、遠慮なく聞いて
やって。いろいろ手伝ってくれるはずよ」
「お い お い お い ! 」
ネ コ ル は 叫 ぶ が、 す で に ル ー シ ー の 中 で は 決 定 事 項 の よ う だ っ た 。
「どう?」とばかりにでか
い胸 を 張 っ て い る 。
「……あのひとたち、が?」
「そう。あたしのね、家来みたいなものよ。ほらネコル。凪も。ぐずぐずしてないで二人とも挨
拶しなさいよ。度会さん、猫崎ユヅルと海老原凪よ。ネコルとナギって呼べばいいわ」
ヒカリとネコルたちの間を、ルーシーの目と口は、忙しく行き来する。
いきなり引っ張り出された形のネコルたちは、心の中で頭を抱えるしかなかった。
「どちらが、ナギ?」
「あー、ははは。僕です。お手柔らかにね。ヒカリちゃん」
ヒカリはわざわざこちらの席まで歩いてきて、苦笑混じりの凪と、ぎこちない握手をかわした。
「ヨロシクなのです。度会ヒカリ・カスタムです」
次はネコルの番だった。
お と め ごころ
はっきり言うと、ネコルはこの少女のことがまだ怖かったのだ。
当たり前だろう。どんなに乙女 心 が十万馬力を支持し、大人が芸術だと言い張ろうと、ネコ
ルの体の方は、月夜の逃走劇を忘れない。忘れようがない。
おび
向こうはそんなこと、まるでなかったかのような顔をしているが――。
コマンド
「そんなに怯えないでください。昨日のミスは、すでに修正したのです」
ぎょっとして一歩ひいた。
「一般人を攻撃の対象にしてはいけない。命令にちゃんと入ってます。あの時はちょっと、敵を
ねえネコル。度会さんも。どうかしたの?
警戒 し す ぎ ま し た 」
かけられるルーシーの声が、ひどく遠く聞こえる。
かわりに耳に残るのは、ヒカリの少し舌足らずなソプラノ。
バイザー越しに目が合うと、うっすらと微笑んだような気さえした。
64
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
65
「……あらためてヨロシクです。ネコル。仲良くしてください」
カ ラ オ ケ?
マ ッ ク?
どっちも行く
ネコルは、覚悟して手を出すが、はじめの予想に反して、差し出された右手を握り返すと、や
わらかくてあたたかかった。
じ ゃ あ み ん な で 歓 迎 会 や ろ、 歓 迎 会!
本当に――本物の女の子のように。
「 よ ー っ し!
―― ? 」
小日向祐子たちが盛り上がっているが、それでもネコルは、自分自身の右手を、いつまでも見
つめ続けてしまった。
本当にいつまでも。
強引に連れ込まれた歓迎会の席で、わかったこと。
度会ヒカリは、カラオケがてんでできない。
嘘誇張で言っているのではない。
歌うのが無理なら、せめて鳴り物はどうだとタンバリンなどを渡してみたが、これがまたリズ
ム感のかけらもない『ぱっしょん(休符)ぱっしょん(休符)ぱっしょん(休符)』という一定
打撃しかこなすことができないことも判明してしまう。
「…………ごめん……このリズムでフォーチュンクッキーとか言われても無理。すごく無理」
それでもなんとかAKBを歌いきろうと思っていた小日向祐子が、ついに白旗をあげて降参し
た。それからわずか三分後、海老原凪が車酔いの風体でトイレへ逃げこんだ。歌い主のいなく
最後の方はもうみんなおもしろがって、この殺人タンバリンを聴きながら、一曲最後まで歌い
なった『 ROCK IS DEAD
』 の 不 気 味 な バ ッ ク コ ー ラ ス が、 ロ ッ ク で は な く 別 の 何 か を 殺 し た こ
とを 表 し て い た 。
通せるかという、過酷なデスマッチが繰り広げられたのだ。
今はルーシーが、都はるみを熱唱している。
「あんこぉおおおお、つばきのおおお――」
プロなみのコブシ。天へと伸びる高音。まるで関係なく打ちこまれるタンバリンの『ぱっしょ
ん』。
「こおおおいのはなあああ」
ぱっしょん。ぱっしょん。ぱっしょん。
しだいにルーシーの顔がきつくなってくる。そうだ。みなこの鉄壁のリズムに調子を崩されて
いく の だ 。
「猫崎君は、歌わないのー?」
小日向祐子が、隣に腰掛け話しかけてきた。
「歌っただろ、はじめに一曲」
「一分はがんばらないと、歌ったうちに入らないって」
ほ
て
小日向さんは、妙に火照った赤い顔で笑っている。ちょっと色っぽくていい感じだ。
そして言った。
「ねえ、なんかこの部屋暑くない?」
「暑 い か ? 」
「そう。暑いってぜったい。こんなに人いっぱいいるんだもの。冷房入れる?」
言われたネコルは、周りを見回した。
とりたてて用のない人間をかき集めた総勢十一人の二酸化炭素で蒸れきったボックス内は、店
と連絡を取るための内線電話はあっても、冷房のスイッチらしいものはない。
「店に言わないと無理なんじゃないか?」
彼女は飲み物の配達がひどく遅かったことを、根に持っているようだ。
「えー。ここの店員すっごく態度悪いじゃない」
「じゃなかったら――」
「そうだ――窓! 窓は?」
小日向祐子は、新しい考えに目を輝かせる。だが悲しいかな、窓際にいた連中が窓を開けよう
と思っても、当然のようにそこははめ殺しになっていた。
「防音なんだろ? こういうとこのって、勝手に開けられないようになってんじゃないか?」
「うそー。まじしょっくー」
小日向さんはすっとんきょうにうめいて、ソファに横倒しになる。あついあついとうめきなが
ら、両足をばたばたさせている。
「……ネコル。ここはあついのですか?」
「ああ暑いな。すげー暑いな」
横からなにやら口を挟まれるが、ネコルはだいぶ上の空だった。視線と思考は、小日向祐子の
まき
無防備なスカートの裾でいっぱいというか。
「ナルホド。わかった」
の』をサーチ中の顔だ。
あと五センチ。三センチ。いっそ薪だ! 薪をくべよう! 北風と太陽作戦だ。
「や め ろ ― ― っ ! 」
だめだ遅い間に合わない!
むんずとその手でつかみ取ったのは、空いたばかりのマイクスタンド。
彼女はいそいそと、何かを探しはじめる。わかる。わかるぞ。あれは完全に『投げていいも
た。
タンバリン係だったはずの度会ヒカリの小ぶりな頭が、はめ殺しの窓ガラスの方向を向いてい
(つ ー こ と は ? )
満ち足りた顔で汗を拭いている上、タンバリンの殺人リズムも、止んでいる。
ふ
そうしてふと気づけば、ルーシー・西村・ストラットフォードが、一曲歌い終わっていた。
ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
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ボーイ・ミーツ・ヘッドギア
第一章
69
***
「や ら れ ま し た ね 」
彼女はその時、運転席のシートを、限界まで倒していた。
だらしないと責められるいわれはないと思っていた。支給された軽自動車の内部は、積み込ま
あお む
れた機材と本来の狭さで、息がつまりそうなのだ。せめて天井までの距離を稼ごうと、シートベ
ルトを外して仰向けに寝そべるのは生存本能である。
同じく支給品の携帯電話を、耳元に押し当てる。
「いいですか。初日ですでに二人ですよ、二人。あやうく一人は戦線離脱させられるところでし
現にこの狭苦しい車の方も、ラジエーターに一撃をもらっていた。
たよ 」
凶器はカラオケボックスのマイクスタンド。一歩間違えたらガラスを突き抜けて、眉間に行っ
ていたかもしれない。
フロントガラスの向こうに見える、雑居ビル――ここ垣ノ立市内では珍しい、全国チェーンの
カラオケボックスが入った三階フロア――は、今さっき窓ガラスが一枚吹き飛んだところだった。
いきなり風通しが良くなった部屋の中から、「このバカ!」
「敵がいたって?」
「どこにいるんだ
コマンド
よどこに」「言い訳するなー!」と少年の叫ぶ声が聞こえてくる。仕掛けた盗聴器の感度は、良好
のよ う だ 。
電話の向こうから、ため息めいた吐息がこぼれた。
――腐っても都市型作戦兵器、というところかな。
「ええ。でしょうね。あれだけ機能を制限させられて、慣れない環境に置かれても、命令だけは
――厄介だな。同情するよ。
やっかい
忘れ な い よ う で す 」
「人ごとのような言い方はやめてください。現場で監視を続けるのが、組織の意向です。できる
ことなら、このまま直接の接触はせずにすませたいところですが──」
それが無理なことを薄々悟りながらも、それでも彼女は願わずにはいられなかった。
「ポンコツ、ポンコツ、ポンコツ女が――――――――っ!」
本当にのんきなものね、平和な少年。
あなたが望みがなんであろうと、現に敵はいるのよ。こうしてあなたのすぐ側に。
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
71
きり か
わたらい
おれ
霧香先輩。俺は今日も頭が痛いです。
度会ヒカリは、本人いわく人間ではないらしい。
つ
ゆ
製作ナンバーは 0021-mw
で、都市型作戦兵器『度会ヒカリ』カスタムなんちゃらで、大まじ
めに自分のことをメカメカしい機械だと言い張り、ヘッドギアで頭を隠してロボロボしい日常を
送っ て い る 。
「――なあ。実際のとこ、どうなんだと思う?」
ネコルは内心、またそのネタかよという顔をしてしまったかもしれない。
ふ う りょう
スマホのカレンダーは、六月に入ったばかりだった。
かき の だて
通っている風 涼 高校も衣替えになり、女子も男子も肌色の比率がぐんとアップ。まだ梅雨に
とで、スケッチブック片手に校庭を歩かされていた。
入る前の垣ノ立市上空はカラカラに晴れ渡り、美術の授業はグループに分かれての写生というこ
課題の提出は来週までだ。ネコルたち3班と4班の男子一同は、手元の鉛筆を動かすふりをし
ながら、暑い暑いとだべり続けることができるわけだ。
「……どうって、なにが?」
72
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
73
「決まってるだろ。ヒカリちゃんだよヒカリちゃん。ヒカえもん度会」
ネコルが答えるまでもなく、残りの仲間が話題に食いついてくる。
「んー。オレはもう決定だと思うけどな。人間じゃなくてロボットだよ」
「俺はまだ信じらんねーなー」
「ばっか。美少女でアンドロイドだぜ。本当の方がよくね? 萌えね?」
「だからその感覚がよくわかんねー」
みな好きなように言い過ぎである。
彼女が二年C組にやってきて、一週間が過ぎた。
その間に度会ヒカリは五十メートルを五秒ジャストで走りきり、視力がマサイ族なみであるこ
てらうち
とも判明し、その見た目を含めた非常識ぶりをどう受け止めるべきか、みな意見が分かれている
のだ 。
「僕的な予想はですね――」
「オレは人間だと思うなあ!」
あっけらかんと発言したのは、頭がオールグリーンの寺内君である。
「な ん で ? 」
「だってヒカリちゃん、さっきの体育見学してたし」
女子は今日からプールで……」
びっくり情報である。
「マ ジ で ?
のぞ
「そう。見に行ってみたらさ、プールサイドでぽつーんと体育座りしてたし」
「つかオマエ、バスケいないと思ったら、一人で覗きに行ってたのかよ!」
「このエロ魔! 痴漢! エロエロ魔!」
バカだアホだと総つっこみを受ける。
「や。でも見たら思うじゃん。あー、ヒカリちゃんも女の子なのねー。生理になったりするの
ねー と 」
最低な発言である。
「んで実際にそう聞いてみたんだけどね」
「「「「聞いたのかよ!」」」
プールサイドの金網に顔を近づけ、脳天気に尋ねる覗き魔でセクハラな寺内に、ヒカリは淡々
と答 え た と い う 。
ろうでん
「……漏電するから入れないって!」
はっはっはと笑うその後頭部に、いっせいに平手や靴底が飛んだ。
「けっきょくどっちなんだよ!」
「わかんないに一票かなあ」
またどつき回されている。
74
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
75
「ネ コ ル は ? 」
ぶ ぜん
ずっと一線を引いて沈黙を保っていたが、ここに来てついに話をふられてしまった。
「……どうでもいい」
消しゴムを動かす手は止めず、憮然と答える。すると寺内発言なみのリアクションが返ってき
た。
「え、なんでなんで? マジ? ヒカリちゃんどうでもいいの? 冷たくね?」
「あんなよく面倒みてんのにさ」
なぎ
「そうだよ、男じゃ一番話してんじゃねーの? なんでだよ」
「だからっ。あれは面倒みてるとか言うより──」
次の瞬間、ネコルの脳内に電撃が走った。
「止 ま れ 度 会 ! 」
敬遠球を投げるピッチャーの勢いで振り返る。別班の凪も叫んでいる。
「だめだヒカリちゃん! あのハゲはPTA会長だ! 不審人物じゃない!」
視線の先では、毛一本で軌道をそれた朝礼台が、植え込みのアジサイをなぎ倒すところだった。
つぶ
手前で昇降口を目指していたPTA会長は、おどろきのあまり三十センチばかりジャンプして
いる。良かったね会長、潰されなくて。
いきなり会長さんの血圧を上げてしまった度会ヒカリは、夏服から伸びる細腕をさらしながら
つぶ や い て い た 。
「……そうなのですか。実にオドロキです……」
「おどろきですじゃねーよ」
ネコルは後ろから駆け寄って、その固いヘッドギアをひっぱたいていた。
む やみ
もう少しでこのポンコツロボ娘は、校内の会合にやってきたPTA会長をあの世行きにすると
ころ だ っ た の だ 。
「何回いわせるつもりだよ。無闇にモノ投げるな。攻撃するな。あれのどこが敵に見えるんだ
よ! 」
「警戒レベルは2なのです。これより下には、外部の調整なしにさげられません」
い かく
「面倒ですなまったくもって!」
「ただの威嚇攻撃なので問題なしですすすすすすすス」
ぎゅうぎゅう頭のツノを握ってやる。ヒカリはまるで接触不良でも起こしたようにじたばたと
手足 を 動 か し た 。
「わ か っ た ? 」
よろしい。
「しゅう。わかりましたですネコル……」
凪と顔だけ見合わせると、またグループの輪の中に戻る。
も
待っていた連中は、お疲れ様とばかりに丁重に場を空けてくれた。放り出したスケッチブック
を畳み直しながら、心底ため息が漏れた。
76
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
77
「……なんでもいいよもう。俺のいる近くで面倒さえ起こさなきゃ……」
「や。でもよくやってると思うぞ。お前も凪も……」
けいがん
「うん。ほんと委員長さまさまって感じだよな」
「慧眼っていうの?」
──あの日。あのカラオケボックスでの一件がいけないのだ。
こ ひ な た ゆう こ
はた
あそこでうっかりヒカリを叱りとばす役目を負ってしまったばっかりに、なにかこうすること
が義務のような感じになってしまった。
言い出しっぺのルーシーよりも、いつも側でつるんでいる小日向祐子よりも、傍で見ているネ
コルたちの方が、事への対処が早いのだから始末に負えない。
「もー、ダメじゃないのーヒカっち。間違えちゃあ」
「次から気をつけてね。度会さん」
ふ
ろ
ヒカリも女子の群の中で叱られてはいるが、形ばかりで甘やかしすぎだ。お前らぬるい。沸か
して二時間後の風呂のようにぬるい。
「あいつらがもっとしっかりすればいいんだよ……」
「いやいや。ここは気合いを入れて、度会ヒカリ調教師の道を極めてもらわんとね」
「な ん だ よ そ り ゃ 」
「調教ってなんか響きがエロくていいな!」
アホの寺内は殴られた。もちろんネコルも殴った。
ま ぎわ
「──ネコル。ひとつ提案があるのです」
授業の終了間際、校庭から美術室に引き上げる段になって、ヒカリがとことこと近づいてきた。
かいきん
後ろに小日向グループを置いて、ネコルが何事かと立ち止まれば、ヒカリも直立。そのちんま
りした右手が、ネコルの開襟シャツをつかむ。
なんだちびっこ。少しは反省したっていうのか?
「な ん だ よ 」
「実に良案だという試算が出たのです」
「ん だ か ら な に ? 」
「ヒカリは、任務のために警戒レベルを維持しなければなりません。ネコルは、そんなヒカリを
見張りたい。試算の結果、警戒レベルを維持したまま授業を受ける方法を開発しました」
「ほ ほ う 」
「人間のフォーマットには『我慢』が標準装備されているはずです。ヒカリの仕様にはありませ
ん。だからネコルが我慢すればいいいいいイい」
これの標準装備が何か見てみたい。
もちろんツノ持ちの刑にしてやったとも。
***
きも
毎日毎日、心配して胆を冷やして追いかけてどつき倒して叱り飛ばして。
「とにかく変なやつなんですよ!」
我慢の限界が近づいていた。
ネコルは心のオアシス、霧香先輩に不満を訴えることしかできなかった。
ここはヒカリの魔の手が及ばない、生物準備室である。一応、生物部の部室として指定されて
いる の だ 。
壁際のスチールラックに並ぶ飼育ケースを霧香が点検している横で、ネコルは古ぼけた払い下
げの事務机に突っ伏し、気が済むまでぼやき続けていた。
たぐい
ちなみにこの部で(というかほぼ霧香単独で)飼っている生き物のうち、表の飼育小屋におさ
まらない虫や魚の類は、だいたいここか生物室のどちらかに置いてある。生物室の方に置いてあ
るブツは、比較的見た目がキレイめな金魚やハムスターなどで、近所の小学生が飼いきれなかっ
こ
たカブトムシの幼虫などを、霧香がここで飼っていると知っている者は少ない。
──一番訳がわからないのは、とにかくヒカリが懲りないことかもしれない。
あいさつ
あれだけネコルにどやしつけられれば、怖がるなり学習するなりしそうなものなのに、次の瞬
間にはけろりと挨拶をしてくるのだ。
ささや
ルーシーや小日向祐子と一緒にいても、朝に会えば真っ先にとことこと近づいてきて、ちびっ
き れい
こい手でシャツの端をつかみ、おはようございますネコルと、開口一番 囁 いてくる。
だれ
決して大きな声は出さないウィスパーボイスで、バイザー越しに綺麗なおひな様のような顔も
おもちゃ
すずめ
見えて、これはロボだと言い聞かせても、自分が誰を相手にしているのか見失いそうになる時が
ある の だ 。
今日の昼休みは、小日向たちが持ち込んだ玩具のポラロイドカメラで遊んでいた。
自分が撮られるのはごめんだったが、ポーズを取れば直立不動、窓から見える植え込みの雀を
「ごめんなさいね。だって最近のネコル君が話すことって、その女の子のことばっかりなんです
撮りたくて、邪魔な木をなぎ倒す得物を探すポンコツの前にはどうにもならず、その場でまとも
「あ の で す ね え ! 」
霧香が吹き出す気配がした。
「…………笑い事じゃないんですけど」
もの 」
すが ?
それはジェラシーですか? ジェラシーがジェラジェラですか? それならとっても嬉しいで
うれ
「……おっかしいな。俺の今期のテーマは貧乏くじを引かないじゃなかったのか……?」
使い果たすのではないだろうか。ばしゃばしゃと印画紙が床に落ちていた。
おとなしくシャッターを押すことは覚えたようだが、あの調子ではあっという間にフィルムを
な使い方を教えるはめになった。
ネコザキユヅル・メモリアル
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第二章
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80
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
81
霧香は相変わらず楽しそうだった。
さ い しょう
「まるで鉢かづき姫よねえ。ネコル君は宰 相 の君になるのかしら?
しら ね 」
お とぎぞう し
「……なんすかそれ。ハチカヅキ?」
鉢の下には何があるのか
「御伽草子は授業でやらなかった? 読みやすいから読んでみるといいわよ」
それはようするに自分で調べろということだろうか。
ネコル自身、一応文系クラスに所属してはいるが、教科書に載る以外の古典文学など触れたこ
ともない人間だった。
受験に必須らしい源氏物語のあらすじですら、図書室にあった『あさきゆめみし』ですませて
あご
ネコルは、再び事務机に顎を乗せ、ぽつりとつぶやいた。
しまったぐらいである。
め
つつみちゅう な ご ん
「……鳥毛虫の、心深きさましたるこそ心にくけれ」
「『虫愛ずる姫君』ね。 堤 中 納言物語。覚えててくれたの」
ほか
知っている。これははじめて霧香が教えてくれたタイトルなのだから。
鳥毛虫は、そのまま毛虫のことだ。他のお姫様が綺麗な蝶や花を愛でている横で、
『毛虫こそ
虫の出発点であり本質だ』と言って、毛虫の観察ばかりしていたお姫様の話。
霧香に少し似ているのだ。
「ネコル君はね、優しいのよ。自分は違うって言いたいみたいだけど、いつだってちゃんと人と
向き合おうとする心は大事なことよ。強い気持ちの持ち主よ。誰にもできることじゃないわ」
言葉で、頭をなでられたような気がした。
ほ
前に捨て猫を霧香に預かってもらった時も、似たようなことを言われた気がする。
褒め言葉はどんな時でも嬉しくて──それでもそんな言葉ひとつではしゃげるほど子供じゃな
いですよと反発したくなる気持ちも確かにあって。
ないまぜになった感情は、やはりこちらの顔つきを憮然とさせてしまう。
生きて動いてるって、それだけですごいって思わない?」
「……いろいろハクアイシュギっすよね。先輩って」
「そ う ?
優しい霧香先輩。親切な霧香先輩。
そもそも生きていない機械だった場合でも、彼女の慈愛の心は発揮されるのだろうか。
たとえば、度会ヒカリとかにも。
そうやって一瞬思い浮かんだ疑問は、また別のところから白紙に戻されることになるのだ。
その日の授業は、四時間目が自習だった。
昼休みがはじまる直前になったあたりで、ルーシーが教室中にプリントを配りはじめた。
「はいみんなー、独断と偏見で当番割り振ったから、ちゃきちゃき準備してね! さぼったら死
刑よ ! 」
いったい何事かと思えば、月末の市民展示会の担当表のようだった。
クラス一同、ついにこの当番がやってきたかという気分だった。
かきだて
いわゆる垣ノ立市民展示会は、十年ほど前から隔月で開かれている市民参加型の展覧会のこと
だ。市のカルチャースクールに通うおじさんおばさんの作品が蠣館会館のロビーに展示される他
は、近隣の文化系クラブも出品することもある。それはまったくかまわないのだが、なぜか当日
の入場ゲートを風涼高校が作成するという、変な伝統がある。
えあるゲート作成の当番は、不慣れな一年生でもなければ受験に追い立てられる三年生でもない、
「こないだ球技大会おわったばっかなのにー!」
(俺はなんだ……運搬係とゴミ係か)
資材の搬入や裁断は男子。その後の色塗りや細かな装飾は、主に女子の仕事らしい。そして運
ネコルは机に突っ伏したままプリントを天 井 に向け、自分の名前を見つける。
て ん じょう
ネコルたちのような二年生の役と決まっていた。
風涼のクラス編成は各学年六クラスで、順繰りに担当すれば隔月の一年を回せる。おかげで栄
ないのだよとネコルも言いたい。
文句をたれるクラスメイトに、ルーシーがざくざくと正論をぶつけている。そういう問題では
だから。夏休みや冬休みにゲート作りに登校したい? したくないでしょ?」
「文句言わない! 打ち上げでも言ったでしょ? 早めに終わらせれば、残りは楽に過ごせるん
「だ ー る ー い ー 」
ネコザキユヅル・メモリアル
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第二章
83
ぶの は ま た 男 子 だ 。
「いーい、ネコル? 寝てないでちゃんと参加しなさいよ」
上からぱっとプリントを引き抜かれた。ルーシーがこちらを見下ろしている。
今日はいつものサイドテールじゃなくて、ゆるい編み込みだ。金色のそれが、ラプンツェルの
三つ編みのようにつかめそうだった。
「………………面倒とか言ったら?」
「殺 す 」
「つーか、どっかの誰かの面倒みるので、マジメに眠いんだけど」
「ひっ、人のせいにしないでよっ。仕方ないじゃない」
「眠 い 。 寝 る 」
「うそ。さぼりの口実にしてるだけのくせに。実はけっこう楽しかったりするくせに」
なんだその言いがかりは。
とっさに言い返そうとするが、
「へー、ヒカリちゃん、飾り付け係になったんだねえ!」
凪のひときわ明るい声にかき消された。やつはヒカリに話しかけていた。
にこにこ笑っている凪を、机から立ち上がったばかりのヒカリが、例のごとく人形立ちで見つ
めて い る 。
「そうです。祐子やみちるたちと一緒なのです」
はん だ
「小日向さんと半田さんだね」
「そうとも言います。お花を作ります」
がんばってねと凪は続けた。
「これからさ、お昼とかどうするの?」
「… … お 昼 … … 」
「そう。昼ご飯だよ。いつも教室からいなくなっちゃうし。どこか食べにいってるの?」
「あはははー。なら味見と言わずに、みんなで食べようよ。いっぱい作ってきたから」
「違 う で す 」
包みの重箱で、また女子に悲鳴をあげさせた。
ルーシーが、目をしばたかせて呆然とつぶやいている。彼女と凪の家は、隣同士なのだ。
ぼうぜん
「……昨日、遅くまで台所に明かりがついてたと思ったら……」
そう言って凪が自分の机から持ってきたのは、どこのデパートのお節料理ですかという風呂敷
「やー、見たい見たい。ていうか味見したい! 超したい!」
「あ の 伝 説 の ? 」
「なにっ、凪君てば、お弁当作ってきたの?」
主に女子からだった。
うきゃあああああ! とすさまじい悲鳴が外野からあがった。
「そっか。じゃ、良かったら僕と一緒に食べない? お弁当作ってきたんだよ」
ネコザキユヅル・メモリアル
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ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
87
やつ
さして親しくない相手には、見た目通りの人当たりのいい態度をとる凪である。そのおかげで
び はら
でん がく
だ
し
勘違いなファンを作ったりもする奴なのだが、こんなところで点数を稼いでどうするつもりなの
だろ う 。
「おーい。ネコルもルーシーも食べるよね?」
「あ 、 う 、 う ん 」
「いいっていうなら……」
え
お互いうなずく。なし崩しに机を寄せることになる。
わからない。本気でわからないぞ海老原凪。
「はいっ。じゃあ、ぱぱーん!」
の
なま ふ
凪の号令のもと、しゅるりと風呂敷の結び目がほどかれ、重箱のフタが開けられる。
ネコルたちは息を呑んだ。
うるし
本格的な純和風料理だ。
漆 塗りの一段目は、鮮やかな野菜の煮物とエビの焼き物。二段目に豆腐と生麩の田楽。出汁
み
そ しる
巻き卵に大根と人参の生酢。三段目に五目稲荷がぎっしりかつ繊細に詰められている。
「インスタントだけどお味噌汁もあるよー」
「や。やー。なにこれ。お店の? お店のじゃなくて?」
女子が目の色を変えている。ネコルもひさしぶりの凝りように、かなりたまげてしまった。こ
の男 、 本 気 で あ る 。
そして、実際に食べてみれば二度びっくりだ。本当においしい。ネコルとしてはそれぐらいの
たくみ
感想しか出てこないが、見るべきところはそれだけではないらしい。
かんぺき
「匠の技よ、この飾り切り……お芋の面取り一つにも手を抜かない……」
「お願いっ。やっぱり凪くん料理部に来て! 今なら役員待遇! 厚遇しちゃうから!」
「カロリー計算も完璧……」
「むしろお嫁に来て!」
僕は高いよう、と凪はのんきに軽口を叩いている。
伝説。たしかに凪の料理は伝説的なのだろう。普段はめったにその腕を見せることはないが、
去年の風涼の文化祭で、クラスのカレー屋を改革したのは凪である。
市販のルーを使うかと思いきや、スパイスから本格的なインドカレーのレシピを持ち込んで、
ナンや飲み物のラッシーにも手抜かりはなく、伝説の男の心意気を見たとまことしやかに囁かれ
てい る ぐ ら い だ 。
「──どう、ヒカリちゃん、おいしい?」
はし
そして舌 鼓 を打つ輪の中で一人、黙々と取り皿に盛られた五目稲荷を食べている女、度会ヒ
し た づつみ
凪があらためて尋ねていた。
カリ 。
なぜだろう。なんとなく、超器用なロボットアームに箸を持たせてみましたというお遊び感を
感じ て し ま う の は 。
ヒカリは、黙って首を横四十五度の角度に傾けた。
「おいしいとはなんでしょう。ナギ」
「深淵な問題だねえ。気に入ってくれたら嬉しいって意味なんだけど」
ヒカリはそのまま、完全に硬直してしまった。
フリーズ。フリーズ。いつまでもフリーズ。電源でも切れたのか?
「……あらためて聞くけど、ごはんは食べるんだよね? ヒカリちゃん」
だんだんと、場の雰囲気がおかしくなっていくのがわかった。
いな
もしかしたら凪は、それを確かめたくて、こんな弁当なんぞを用意して持ってきたのかもしれ
ない 。
度会ヒカリは人間か否か。本当にロボットなのか──。
「……これは、ギタイです」
「擬態? 虫とかの?」
「そうです。人間型に備えられた基本機能のひとつなのです。栄養をとるふりをする。ギタイで
す」
ヒカリがかちかちかちと、右手で箸を動かしてみせた。相変わらず首は横に傾いたままだし、
口の端には稲荷寿司のご飯粒がついたままだったが、まったく冗談のつもりではないらしい。
「食べた食物は、どこに行くのかな?」
そ しゃく
「貯蔵タンクです。あとでまとめてチューブをつないで、外に排出します」
――うっ。
もろに噴き出す人間もいた。
すそ
『 チ ュ ー ブ ……』 と 今 食 べ て い る 出 汁 巻 き 卵 と 咀 嚼 後 の 形 状 を 思 い 浮 か べ て 、 食 欲 を な く し て
いる人間もいた。主に俺だ。
「見 ま す か ? 」
「やめろ――――――――――――――――っ!」
「ネ コ ル ? 」
「まず背中のハッチを開ききききききキ」
ない !
P
O
「なにが起きてるのでしょうか? ナギ」
口をおさえて必死に耐えるネコルを、ヒカリはまた首を傾けて見ていた。
ちょっと。最後の『場合』のところで、舌を八重歯で噛んだだけだ。お前に知らせるいわれは
か
「タイム(時)! プレイス(場所)!、オケージョングぁ!」
「甲状腺ペルオキシダーゼ――」
T
「ことわざよりも常識を優先だ! T・P・O! T・P・O!」
「百聞ハ一見ニシカズ?」
でまくり上げようとするので、あわててツノをつかんで止めてやった。
ヒカリが箸を置いて、おもむろに自分のブラウスの裾をつかみ、ヘソどころかブラのラインま
ネコザキユヅル・メモリアル
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第二章
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ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
91
「えーっと。ネコルが切ない目に、かな……」
「セ ツ ナ イ 」
くそこのポンコツ。いつか絶対分解してやると心に誓う。
だがそんなネコルの頭を、ヒカリは身を乗り出して抱き寄せてきた。
「大丈夫。元気を出してネコル」
ふんわりと。固まるネコルの頭をなでている。
耳元で囁かれる少し舌足らずのソプラノと抱擁は、一瞬でこちらから言葉を奪う。思考も奪う。
真っ 白 に 。
い
す
ネコルは、あわててヒカリの腕の中から、体を引き抜いた。教室の中だというのに、露骨なほ
「……お、お前に言われる筋合いはないだろ、ポンコツ」
ど椅子を後ろに引いてしまった。
「ネコルが元気になりました。良かったです」
ヒカリは平常運転だった。
そのまま、あらためて箸を持ち直す。また黙々と凪の作った五目稲荷を食べはじめている。
舌を噛んだ痛みよりもなによりも、いきなり女の子に抱きしめられたおどろきの方が大きかっ
ほ ほ え
たなんて。もちろんそんなこと口にはしない。絶対にしない。
頭の端で、ふわりと微笑む霧香の顔が浮かんだ。
そのまま昼休みが終わって席に戻る時、ルーシーと目があった。
「… … な に 」
ぶ っ ちょう づ ら
そういうセリフは、ケダモノを見るようなふてくされた仏 頂 面がなくなってから言ってほし
「別に。いい目見れて良かったわね」
いと 思 う 。
ぜ り ふ
相手が誰であろうと、女子に密着されりゃびっくりするし反応もするだろうと言いたいところ
から
だが、それを声高に主張すると、自分がしょうもないエロ変態になりそうでやめた。
か な た
ルーシーもそれ以上絡むつもりはないらしく、「当番。ぜったい参加してね」と捨て台詞を投
げてロッカーへと歩いていった。
そして授業がはじまれば、あとはもう眠りの彼方だ。
教室の一番後ろにいるヒカリの姿は、前を向いているかぎり見ることはないが、教師の指名を
受けて黒板の前に出れば、自然とその後ろ姿が視界に入った。
「度会。問2のBを」
よど
「……了解なのです」
きゃ しゃ
ヒカリが淀みのない速度でチョークを動かし、黒板上に方程式を展開している。
高校二年にしては小さく華奢な体だ。こうして遠目に見ていてもよくわかる。右腕を目一杯
使っても、黒板の下半分ぐらいしか使いきれていない。
92
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
93
つやのある黒髪は、背中を覆うほど長く、ウエスト周りの細さときたら、押しただけで折れそ
うなぐらいだ。けれどあの中には胃袋のかわりに金属製のタンクがおさまっていて、さっき食べ
た五目稲荷や豆腐の田楽が消化もされずにちゃぽんちゃぽんちゃぽん……。
つぶや
「超 シ ュ ー ル 」
ぼそりと呟いた独り言。みなネコルのことを見たが、寝たふりをしてやりすごした。
窓から吹き込む風が、うつぶせの髪をなでていく。ふと昼休みのヒカリの感触を思い出して、
余計に困ることになった。
***
放課後になれば、生物部に出るつもりだった。
ところが帰り支度をしていると、凪が寄ってきた。帰りに家に寄らないかというのだ。
「お 前 ん と こ ? 」
かばん
「そう。相談したいことがあるんだけどさ。荷物が邪魔なんだよね」
凪は鞄とサブバッグの他に、空の重箱も担いでいた。確かに猛烈に邪魔というか、これを持っ
て店に入れば、変な目で見られること請け合いだ。
家自体は同じ地区にあり、だからこそわざわざ顔を出すことも少なかった。特に高校に入って
からは生物部に入ってしまったので、余計に足が遠のいていたのも確かだ。
むね
「……わかった。ちょっと待てよ」
ネコルは霧香に部活を休む旨を LINE で知らせることにした。二人きりの弱小文化部など、
これで充分かたがつく。
返事はすぐにきた。
彼女のおだやかな口調がそのまま思い浮かんで、口許がゆるんでしまった。
「ほら。『わかったわネコル君。いってらっしゃい(笑)』だってさ。こういう時でも顔文字使わ
ないところが古風だよな」
「今はおのろけ聞いてる気分じゃないんだよ」
ざっくりとした切り捨て方は、少し凪らしくない気がした。
そんな海老原凪の家は、昔ながらの華道教室をやっている。
彼の家の中に一歩踏み込んだとたん、すっとんきょうな女性の声が響いた。
「――あーらあっ、ユヅル君じゃなーい。ひさしぶりねえ。大きくなっちゃって」
「いや、ど、どうも……」
ああそう、そうだ。この感覚だ。思い出した。
「またお教室の方にもいらっしゃいよ。なんなら一緒にやってく? 凪君も一緒に」
築何十年かの立派なお宅は、お師匠様たる凪のばあちゃんを筆頭に、四六時中アシスタントの
先生やら生徒さんやらが出入りしていて、今日も表の玄関には女物の靴や履き物がずらりと並ん
でい た 。
94
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
95
えんどう
古い板張りの廊下を歩いていけば、和室で稽古中のおばちゃん&お姉さんズが、こうやって親
しげに声をかけてくるから微妙に気まずい。
「遠慮しないでいいから。ほらこっちこっち! ――遠藤さん、早く場所空けて」
「困 り ま す っ て 」
「簡単よ。ちゃんと教えてあげるからね」
さ おり
「いやだから俺はですねっ」
「沙織さーん! 今日はそっちで遊ばないから。ネコルは僕の。あげないよ」
あい そ
「ええ? そうなの凪君。残念!」
「ま た ね え 」
凪がにこにこ愛想をふりまいて、こちらの腕をつかんで和室のトラップを突破する。後ろでは
「ざんねーん」といっそう意味深な笑い声をあげるおばちゃんたちがいる。
「……お前さあ。よくそういう口きけるよなあ」
適当にあしらうというか、余裕があるというか。
大昔はなよなよ繊細だった時代もあるのだが、気づけばこれだ。人が気疲れで死にそうなこと
を、平気でやってのける。
ひょう ひょう
「慣れだよ慣れ。ヒトは環境に適応できるよう最適化されるわけ」
「そ ん な も ん か ね 」
「そ ん な も ん だ よ 」
か わ い
可愛い顔にしたたかな精神。凪の 飄 々 とした軽口は、この超女系家族な環境に鍛えられたせ
こうばい
いもあるのかもしれない。
急勾配のきしむ階段を上がり、二階に上がったつきあたりが、凪の部屋だった。
じゅう た ん
ふすまを開けたとたんに飛び込んでくる、洋物ロックバンドの血みどろジャケットポスターは
見ないふりをして、敷いてある 絨 毯の上に腰をおろした。六畳ほどの和室は、今時ありえない
サイズのでかいコンポと海外雑誌のバックナンバーで埋まっている。
もっぱら聴く専らしく、楽器の沼にまでは手を出していないという話だ。
ぜいたく
凪は窓とカーテンを閉め、エアコンのスイッチを入れた。
「別に、開けときゃ涼しいんじゃねえの?」
さすがに六月に入ったばかりで、エアコンの使用は贅沢のような気がした。
だが、凪は平然と言った。
「隣、帰ってきたらまずいから」
カーテンの向こうを、親指で指さす。
にしむら
窓の向こうは柵一つ隔てて隣の敷地で、そちらの敷地の二階には、海老原家と縁続きである
ルーシー・西村・ストラットフォードのお部屋があるのである。
「……なに。そんな他言無用な話なわけ?」
「他言無用というかさ。ネコルぐらいにしか聞きようがない話なんだよ。ルーシーがこっちに
引っ越してきたのは、全部終わった三年の春だったし」
96
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
97
意味がわからない。
凪はネコルの向かいに腰をおろす。
「今日さ、どう思った?」
「何 が 」
「ヒカリちゃんのこと」
ネコルは、反射的に苦笑いすることしかできなかった。
「そりゃもう、度肝は抜かれたよ。チューブにタンクだろ? 変だ変だと思ってたけど、こりゃ
0
0
0
0
0
0
0
0
もう完全にポンコツのロボットで決定だよなって──」
「そうかな。僕はやっぱり人間だなって思ったよ」
凪は、ネコルが思ってもみなかった方法で、意識を反対側に引き戻してみせた。
「な あ 、 ネ コ ル 」
「な に 」
「彼女さ、『ぴーちゃん』なんじゃないの?」
――ぐらりと、視界が一瞬、揺れた気がした。
にしはね
ぴーちゃん。ぴーちゃん。
それは、西羽川の向こう側の話。虫の声と夏の木立が落とした黒い影。飛んでいった猿の話。
散った火花と妖怪赤屋敷の伝説。
「覚えてるよね。忘れたなんて言わせないよ。だってネコルは『ぴーちゃん』のことが好きだっ
たし、『ぴーちゃん』もそうだったんだ」
ほとんど叫ぶように、手を突きだして凪の話に割って入った。
「ち、ちょっと待てよ!」
ま
じ
め
「待てよ。お、落ち着け。落ち着いて話そうな凪。それが一番いい」
「落ち着いてるし動揺してないし真面目に話してるよ僕は?」
ああくそ、そんなのわかってるさ! そしてこっちは浮き足だってるさ!
「ネコルの言いたいことはわかるよ。いきなりこんなこと言ってんだしさ。まずは理由が聞きた
いとこだよね? 僕が彼女をぴーちゃんだと思った理由」
そうとも。言えるものなら言ってほしい。
度会ヒカリは、ポンコツのロボ娘で。頭にツノは生えて腹はタンクで人の話なんてまるで聞か
ない変なやつで、そのくせ触ってみると意外にやわらかくて。あたたかくて。
対して妖怪赤屋敷の『ぴーちゃん』は、もう何年も前に別れて引っ越していってしまったはず
で。
「顔が一緒だったってのが、一つかな……」
「顔 ? 」
「そう。僕ね、男はともかく女の子の顔は、割と忘れないんだ。家がこんな稼業やってるでしょ
98
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
99
う。親子二代とか三代で通う生徒さん見て、小さかった女の子がどんな風に成長してどんな顔に
なっていくかも、なんとなくわかる。僕が『ぴーちゃん』の顔を思い出してシミュレーションし
てみるとね、十年目でちょうど度会ヒカリの顔になるんだよ」
絶句するしかなかった。
そんなこちらの顔を、凪の美少女顔が笑わずにながめている。
ヘッドギアとか十万馬力とかツノ二本とか、そういう目立つオプション全部
「度会ヒカリ。度会ピカリ。略してぴーちゃん。ねえ、ネコル。僕ら最初から彼女のことが気に
な ら な か っ た?
取っ払って。それでも気づいたら目で追ってるんだよ。引力みたいに引きはがせないんだ。だか
まつはた
ら他より誰より、彼女の異常な行動に気づきやすいんだ──」
松旗に引き回されようとしていた彼女を見た時、思考が飛んだのはなぜだ?
嫌だと思っても、わざわざ止めに入ってしまうのはなぜだ?
なぜだ?
なぜだ?
なあ、なぜだ?
「やっぱり彼女が『ぴーちゃん』だからなんだよ」
さえぎ
「いや、待てよ凪!」
たまらずまた 遮 ってしまった。
み けん
閉めきった部屋の中は、エアコンの冷気でこうこうと冷えて乾いていく。
つら
ひどく混乱する頭をどうにかしようと、ネコルは親指で眉間を強く押した。部屋に飲み物が、
まったくないのが辛かった。
「…………わかった。百歩譲って、俺も度会ヒカリと『ぴーちゃん』の顔がよく似てるってこと
にする。それでも俺は、彼女と『ぴーちゃん』が同一人物だと断定することはできないと思う」
「理 由 は ? 」
「性格が違いすぎるだろ。あの子はもっと……」
「おとなしくて泣き虫で?」
「だ っ た ろ う ? 」
凪は少し考えこむ顔をした。
「……そのあたりはまあ、見解の相違ってやつかな。でもいいよ。そこはこっちも譲るけど、僕
はもう一つ気になる部分があるんだ」
「な ん だ よ 」
「箸 が さ 」
凪は、振り返って学習デスクの引き出しを開け、中から未使用の鉛筆を引っ張り出した。
「これが普通の箸の持ち方」
鉛筆を箸に見立て、四本の指を使って上下に動かしてみせる。海老原家のしつけの厳しさがう
かがえる、危なげない動かし方だ。
「で、これが今日ヒカリちゃんが持っていた箸の持ち方」
100
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
101
凪は、また持ち方を変えた。小指を除いた四本の指で支えていた二本の鉛筆を、今度は親指と
人差し指、中指の三本きりで握りこむように支えたのである。
ネコルは胆が冷えた気がした。
凪は、鉛筆を片手に冷静に続ける。
「僕らが教えたんだよ。あの持ち方」
──決定的な言葉を、聞いてしまったような気がした。
***
それは凪とネコルが小学校二年の七歳の頃で、すでにつるんで三年のベテランな『だちんこ』
ころ
思い出をさかのぼろうとすると、決まって浮かぶ風景がある。
だっ た の は 確 か だ 。
いつも気にしていたのは日曜朝の特撮と、給食のメニューと泥ダンゴ作り。
自転車を漕いで町外れの川を渡って、それだけでとんでもない冒険をした気分になったもので
ある 。
「――あっおい、ほのおーの、ひーろーがあ」
じゃじゃじゃん。じゃんじゃん。
歌い続ける目の前に広がるのは、緑。緑。緑。走るほどに深く濃くなっていく雑木林。
ねこざき
じゃ り
少年の名前は、猫崎ユヅル・愛称ネコル。学校で好きな時間は、体育と休み時間。進むうちに
アスファルトから砂利道に切り替わった町外れの私道を、子供用の自転車で軽快に走っていた。
「もえてうなれげきしょっとー」
じゃん。
そで
こぶし
「よわきをたすけー、あくをたおせー、こよいもたたかえー、げっきくーがー」
とおうっ!
自転車のサドルの上で、今も半袖の拳を突き上げのりのりだ。少年の頭の中では『超戦隊ゲキ
クーガ』の主題歌が鳴り響き、今の気分はゲキレッドなのだ。風で飛びそうになった野球帽をあ
わてて押さえつけ、後ろを走る相棒の様子を確かめる。
「ナギー。だいじょぶかー? つかれたかー?」
「…………生きてるけど。いいのかなあ。おこられないかなあ」
うわさ
だいぶ小さくなった凪の自転車から、そんな気弱な声が返ってきた。
ネコルの姉上であるマヒル嬢から、『妖怪赤屋敷』の噂を聞いたのは昨日のことだ。
『――いーこと、ユヅル。西羽川の向こうにはね、妖怪赤屋敷があるの。そこには怖ーい妖怪博
士が住んでてね、迷い込む人間を捕まえては実験台にしちゃうんですって』
かざ み どり
マヒルはネコルを怖がらせるために話をしたようだが、ネコルの食いつきは別のところにあっ
ま
か
た。何せその目印は屋根の風見鶏と、実験台の血で染まった庭の赤土なのだそうな。
そう、土! 真っ赤な土!
102
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
103
と
か れつ
もしその土を穫ってこれれば、大金星だ。新しい泥ダンゴが開発できて、シゲタたちに自慢で
きる 。
「がんばれよ、ナギ! シゲタに勝つんだ!」
「もう僕はいいよお……」
「ば か っ 」
蠣館小二年三組における泥ダンゴ作り番付は、苛烈を極めていたのだ。
西の横綱はネコルであり、その下の大関は海老原凪で不動だったが、最近は関脇シゲタ率いる
ひ きょう
一派の追い上げが厳しいのだ。向こうは凪が教室で乾燥させていた泥ダンゴにサッカーボールを
おとこ おんな
直撃させ、「わざとじゃないから」とうそぶく卑 怯 者である。
もとから凪のことを「 男 女 」といじって笑う奴らだったが、このままではすまされない。怒
りに燃えるネコルは凪を引き連れ、こうして来たこともない町外れまで自転車を走らせてきたと
いう わ け だ 。
ネコルは自転車から降りると、心細げに林の入り口を振り返っている凪の頭を、ぱこんと叩い
た。
「ぶった! グーでぶったねネコル!」
「おくびょうものはファミリーにはいらない」
「わ か ん な い よ う 」
ゴッドファーザー。
ネコルの父の聖典なのだ。
「… … す げ ー 」
「… … す げ ー 」
「… … す げ ー 」
「… … す げ ー 」
超すげー。
せみ
あれからまたさらに自転車を漕ぎ続け、ネコルたち二人は『妖怪赤屋敷』の前にいた。
頭の上で蝉が、じりじりと全てをすり潰すように鳴いている。
「みろよ、ナギ。やっぱりアヒルが言ってた通りだよ」
「う、うん。赤いよねボロいよね……」
そして薄気味悪いよね。
凪が横で付け足した気がした。
深い深い林を抜けた先にある、木造二階建ての西洋館は、時間を忘れたようなセピア色の情景
をもってそこにあった。
すき ま
問題の庭はひどく荒れ果て、林と花壇の境界がつかめないぐらいだ。
玄関までのアプローチを埋める飛び石の隙間からも、雑草がうねるように伸びている。建物自
がわら
体も、屋根 瓦 や羽目板が何個か欠落しているようなすさみようだ。
奥の方に鉄筋コンクリート製の離れらしき建物があり、おかげでここが現代の日本であること
さ
を忘れずにいられるレベルである(もっともこれもまた、決して真新しいというわけでもないけ
れど)。
とが
敷地はネコルや凪よりも何倍も高い鉄柵で囲われていた。柵の先端が錆び付いているものの、
どれも鋭く尖っている。
「突 入 」
「入 っ ち ゃ う の お 」
しい
越えたあと、するすると別の木によじ登って林の奥へと消えていくのだ。
とりあえず、騒動の元はここではなく、奥の離れの方で起きているようだ。
しるか。しるか。こっちに聞くな。
ネコルたちはその一連のアクションだけで一回転し、赤土の上に腹ばいになってしまった。
い腕。ぎらりと光る二つの眼。それらが目にもとまらぬ猛スピードで、ネコルたちの頭上を飛び
それは一見して、ゴリラやマントヒヒを思わせる、大型の猿に見えた。尾のない丸い背中。長
同時に鳥が飛び立ったばかりの茂みから、黒い影が飛び出していく。
しゃがれた老人の絶叫が響いた。
「退避ぃ――――――――――――――――――っ!」
「……な、なにあれ」
そんなネコルの背後の林で、いっせいに鳥が飛び立っていく。そして。
勝てる。目指すは絶対的な勝利。打倒シゲタだった。
土の材質に不足はなかった。それが何より嬉しかった。むしろ上等すぎる。これならいける。
(おーけー、いけるっ)
まっておいたビニール袋を取り出し、一心不乱に掘りまくった。
向こうのリュックにしまっておいた園芸用シャベルを取り出し、同じくこちらのリュックにし
荒れた庭を駆け抜け、お目当ての赤土が露出した地面にたどりつく。
「凪 、 シ ャ ベ ル ! 」
「待ってよネコル! 置いてくなんてひどいよ!」
そこはまさに、黄金の楽土。遅れて凪が降りてくるのも待ちきれず、ネコルは夢中で走った。
「う お お … … 」
ポーズで敷地の中へと着地した。
凪をなだめすかして、目についた椎の木をよじ登る。柵の上へと乗り移ると、ゲキレッドの
しに 来 た の だ 。
恐怖心は、目の前にある情景の驚異に勝てなかった。ネコルたちは、ここまでダンゴの土を探
うるさい。声が大きい。ネコルは凪の頭をはたいた。
!?
ネコザキユヅル・メモリアル
104
第二章
105
106
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
107
「生きているかねウノ君!」
ぎょう こ う
「生きていますよかろうじて!」
「それは 僥 倖だ!」
「なんでもいいからあれのスイッチ切ってください!」
「壊 れ た ! 」
言い争う人間の声もおさまらず、先ほどの大きな猿もどきが、いったいなんだったのかもわか
らな い 。
妖怪赤屋敷の、妖怪博士。子供を実験台にしてしまうマッドサイエンティスト。
マヒルが言っていたのは、冗談ではなかったのか。
ほ ふく
凪の弱音を通り越した空笑いを、聞いている場合ではない。とにかく逃げだそう。そうだ。そ
「あは、は、はははは…………ネコル。ぼく、ちびりそう……」
うし よ う 。
ネコルは半ベソの凪を引っ張り、出口に向かって匍匐前進をはじめるが、門までの距離がとに
かく遠い。だいたい戻るというのは、あの猿に似た生き物のいる木に登るということではない
か?
「ネ コ ル 」
「な に 」
「またあの猿みたいなのがいたらどうする?」
こいつ、思っていても口にしなかったことを!
「……さ、さささ、猿じゃねーよ。こんなとこにいるわけねーよあんなでけーの」
「じゃなに。なんなの」
だから泣くな。自分が聞きたい。
震え声で尋ねてくる凪が、とうとう本格的に泣きだす気配がした。
こうなると胸が痛くなるのはネコルである。もともと、ここに来ようと決めて誘ったのはネコ
ルなのだ。凪を助けたかったし、シゲタに鉄槌もくらわせたかった。自分は正義の味方のゲキ
レッドで、弱いものは守るし、臆病者になるわけにもいかないのだ。
そう思っているうちにも、また前方で茂みが動いた。凪がヒッと息を呑んだ。
「ね 、 ネ コ ル ぅ 」
「わかった。いーからそこにいろ、凪!」
ネコルは起き上がって、そのまま突撃した。武器は土を掘るのに使っていたシャベル一本。音
のした茂みに頭からつっこみ、目をつぶってシャベルを振り下ろした。
がつんと、鈍い音が響いた。
て ごた
(た 、 倒 し た ? )
手応えを感じたのは、シャベルの先端ではなく柄の方だ。どさりと足下に倒れる音がする。
どきどきしながら目を開ければ、そこにいたのは例の猿もどき――。
(じ ゃ な い よ ! )
人間だ!
人間の女の子だ!
「……いた。いたいよ……」
しりもち
ひどく舌足らずな、小さな鈴を鳴らすようにか細い声。
地面に尻餅をついて、小さな女の子が両手で顔をおさえているのだ。
女の子の顎の下で切りそろえた黒髪が、うなだれる首の角度にあわせてさらりと揺れた。
形の良い頭に、綺麗な天使の輪ができていた。白いひらひらのドレスを着ているが、おさえた
指の間から落ちる鼻血のせいで赤い水玉模様になりはじめていた。スカートの下から覗くつま先
は、エナメルのストラップシューズやサンダルではなく、マジックテープ式の運動靴。
いやいやそれよりも、大事なことがあるだろう。
(だいじょーぶですか?)
まず真っ先にそれを言って謝らなければならないのに、体中が凍り付いてしまって動けない。
「… … え っ と 」
「! 」
まゆ
女の子が、びくりと顔を上げた。
ネコルが思った以上に白い肌。眉のラインがやわらかくて、唇が花びらのように小さく赤くて。
マヒルが三月に飾る、おひな様に似ていた。小さな鼻から血は出ていたが、触れたらぱちんと消
えてしまいそうなぐらいに、可愛らしい女の子だった。
「… … … … 」
「… … … … 」
「… … … … 」
こちらが緊張してますます息を止めてしまえば、向こうもまた止まってしまう。鼻から血だけ
「… … … … 」
が流 れ 落 ち て い く 。
だいじょーぶ生きてる 」
「テ、ティッシュとか――」
「ネ コ ル !
け
凪が、また意味もなく騒ぎたてる。
「いや、俺たちはっ」
「あああ――――――――」
「ごめん! ほんとごめん! ごめんなさい!」
はじめて出会う女の子。冒険の末、荒れ果てた庭の中の白い小鳥。
「いや――っ。いや――っ」
「あれ、ネコル、その子だれ? 怪我してるの? わー、血だっ」
が
彼女は悲鳴をあげ、腰を抜かしたまま後ずさる。ネコルはたまらず近寄っていく。それを見た
後ろから凪も顔を出したとたん、ぎりぎりに保たれていた均衡が、一気に崩れた。
きんこう
「うきゃああああああああああ――――――――――――――っ!」
!?
108
ネコザキユヅル・メモリアル
第二章
109
110
ピーチャン・インザグリーン
第三章
111
「ねえネコル、どーかしたの?」
正義の味方にシャベルでしばき倒されて、鼻血を出しながら逃げ惑う女の子。
ぴーちゃん。
これがすべてのはじまりだったのだ。
「──ユヅル! ほら寝てるの起きてるのどっち!」
ぱん!
姉のマヒルの声と拍手が、こちらのまどろみを突き破った。
おれ
だれ
ねこざき
留守番のすることじゃないっての」
ふ
ろ
「電気は消えてるし! テレビはついてるし! 食器は出しっぱなしだし! お風呂は沸いてな
いし !
ここはどこ。俺は誰。
(……ここは家。俺の名前は猫崎ユヅル。愛称ネコル)
自分はリビングのソファに寝そべっている。
あのあと家に帰ってきて――共働きの両親は例によって家にいなかったので――一人で冷凍の
てんまつ
とが
夕食をかきこんですませた。そしてリビングで考えごとをしていたら、姉が大学から帰ってきた。
そんな顛末のようだった。
「アヒルに言われたくな」
ぃぐええ。ネコルの方がアヒル声になった。
横暴な姉は、鋭いエルボーを弟に一発くらわせた後、まさしく口をアヒル口に尖らせてキッチ
112
ピーチャン・インザグリーン
第三章
113
ンへ と 去 っ て い く 。
重苦しい浪人生活を抜けた猫崎マヒル・愛称アヒルは、予備校の暗黒時代を取り戻すように格
好が極彩色になっている。大学の方では心理学をやっているそうだが、本日お召しのショッキン
め じり
グピンクに鬼百合柄なワンピースを、どのように自己分析するのか聞きたいところである。
ネコルはのろのろと起き上がった。目尻に浮かぶ涙が、痛みのせいかまどろみのせいかよくわ
から な か っ た 。
なぎ
──彼女、ぴーちゃんじゃないの?
凪の声が、今でも脳内で繰り返されている。
「な あ 」
にしはね
ドスのきいた姉の声。一瞬やめておこうかと思ったが、途中でやめれば余計に機嫌をそこねる
「あ に よ 」
のだ 。
「……西羽川の向こうにさ、妖怪赤屋敷ってあっただろ? アヒ――マヒル姉が教えてくれて」
のぞ
彼女の怒りは、ぎりぎりの配慮で沸点を免れたようだった。
と ん きょう
「西 羽 川 ぁ ? 」
マヒルは頓 狂 な声を上げたあと、自分で開けた冷蔵庫を覗きこむ。
「……なんであたしがそんなこと……ああ何よ、小学校の時のあれ? あんたが落とし穴に落ち
て警察につかまった」
「落ちたんじゃない、落としたんだよ!」
「どっちもかわんないわよバカさと無謀さでは」
一緒じゃねえよ。
不本意ながら、猫崎家で語り継がれる伝説と言えば、この一件の方がずっと多い。
マヒルは冷蔵庫をあさり続けている。
「ほんとねー、あの件で手ぇ引いてくれてほっとしたわよ。母さん、あんたのせいで学校まで呼
び出されたのよ。あたしだってクラス中にからかわれて、すっごい恥ずかしかったし。ほんと
み
そ
男ってスリルとかそういうの好きなんだから――あ、ラーメンみっけ」
マヒルはそのまま野菜や肉を取り出し、味噌ラーメンを作るつもりのようだ。
生ラーメンの袋を開くがさがさという音を聞きながら、外野の感想なんてそんなものかと複雑
な気 分 に な っ た 。
少なくともマヒルは、ネコルが妖怪赤屋敷に関わるのをやめたのは、落とし穴で叱られたせい
だと思っているようだ。
だが現実は、少し違った。
たとえ親や警察に怒られ、学校でも立ち入り禁止の指令が出て、ダンゴ作りも下火になり、そ
きり か
れでも。あの屋敷に足を運ぶ気持ち自体は、変わらなかったのだ。
誰にも言っていないけれど――そう、霧香や凪にすら言っていないけれど――本当の理由は、
別に あ っ た 。
114
ピーチャン・インザグリーン
第三章
115
「……じゃあさ、あの一家が引っ越してった理由は?」
さら ち
「さあ。つーかあんたが知らないのに、なんであたしが知ってなきゃいけないのよ。屋敷が古
かったからじゃないの? すぐに更地になってたでしょう。あの三丁目の一帯って」
ですよねえ。
ころ
小二の夏に出会った『ぴーちゃん』。
頭の中は、まだあの頃と今を行き来して、混乱したままだった。
か れん
しゃべ
――その女の子は、自分のことを『ぴーちゃん』と名乗った。
本名の方は、よく知らない。見た目は可憐な日本人形だが、喋ると舌っ足らずの赤面性で、こ
さんげき
ちらが何か言うと、すぐにおろおろと顔を赤くした。
初対面の惨劇を差し引いても、おとなしい性格だったのだろう。
「ぴーちゃんは、ここの家の子なの?」
「……うん。そうなのね」
それでも好奇心は旺盛なようで、こちらに敵意がないと知るやいなや、子猫のようにすり寄っ
てきた。妖怪博士の実験体とは、とても思えない純粋さだった。
ネコルたちが持ち込んだシールや、泥ダンゴ作りのテクニックに、きらきらと澄んだ目を輝か
せる。立って並べば彼女の方が高いぐらいだったが、学校に行ったことはあまりなく、あの古い
屋敷の中に、父親と一緒に暮らしているのだと言った。
「お 母 さ ん は ? 」
そういう質問には、たいてい彼女ははにかんだ笑みを浮かべ、
「…… わかんない」とだけ答え
る。少しだけ申し訳なさそうな、困り顔もセットで。だいたいそれが、彼女のデフォルトだった。
聞いてわかることの方が少ないぐらいだった。
「きっとぴーちゃんはさあ、すごい病弱なシンソーノレイジョーなんだよ」
妖怪赤屋敷からの帰り道、そう推理したのは凪である。
「シンソーノレイジョー?」
「箱入りのお嬢様ってこと」
「ふ ー ん 」
自転車を押して歩きながら、凪に言葉の意味を教えてもらう。
はかな
ネコルは当時行動派のヒーローを目指していたが、ボキャブラリーなどは凪の方がずっと多
かっ た の だ 。
──深窓の令嬢。確かにあのおとなしくて儚げな子には、よく似合う。
やつ
『また来てね』と、はにかみながら門前で手を振った彼女を思い出すと、ふわふわと落ち着かな
い気分になった。たぶん、初恋という奴だったのかもしれない。
もっとも、当時の自分に自覚などなかった。
それでも一夏かけて、ダンゴをたくさん作って、友達作り。それはとても良いことのように思
116
ピーチャン・インザグリーン
第三章
117
えて、思いついた夜は、なかなか寝つけなかったのを覚えている。
それから数週間は、たしかにとても楽しかったのだ――。
***
「――おはようございますです、ネコル。ちーずです」
ふ う りょう
げ
た ばこ
そして今、ここにはポンコツロボ娘がいる。
わた らい
私 立 風 涼 高 校、 朝 の 下 駄 箱 ラ ッ シ ュ。 人 が 行 き 交 う 混 雑 地 帯 の ど 真 ん 中 で、 度 会 ヒ カ リ が
おもちゃ
玩具のポラロイドカメラをかまえる。
向こうがこちらに向かってシャッターを切ろうとしたので、黙ってレンズに指を突きつけた。
遅れて出てきた印画紙には、当然のようにネコルの指紋しか写っていない。
(ば ー か )
そんな度会ヒカリの頭には、金属製のツノが二本あり、ヘッドギア付属のバイザーが、顔の上
半分を覆っている。背は同年代の中では低い方で、髪は黒く長い。
あかね
共通点は、髪の色ぐらいだろうか。バイザーから覗く顔は整ってはいるが、ロボはロボ――そ
んな 気 も す る 。
「ネコル。今日の一時間目は、茜ちゃん先生のリーディングです。準備はしてありますか?」
本当にこれらのパーツを全部取っ払えば、凪が言うような人間になるのか? あの小さかった
ぴー ち ゃ ん に ?
「もしできていないのなら、ヒカリが特別に教えます。選択してください」
「度 会 」
ネコルは黙って、彼女のバイザーを引き上げようとして、
「な ん で す か ? 」
「ききききききききキュ」
「………………ポンコツだ」
かわりに頭上のツノを引っ張ってみた。
離して離してとジタジタしているヒカリのことを、真剣に見つめ倒してしまった。
「わかった。世話かけたな、度会」
「待ってくださいですネコル」
何事もなかったようにきびすを返すものの、ヒカリにシャツをつかみ返された。珍しく、せっ
ぱ詰まった声だった。
「な ん か 用 か ? 」
「用ではないです。理解ができません。なぜヒカリがこのような目に遭うのですか?」
聞くなよ。単につかんだ方が安心できそうな気がしただけだ。
それだけなんだよ。
118
ピーチャン・インザグリーン
第三章
119
はし
今まで以上に、彼女のことをよく観察するようになったのは、確かだと思う。
そ びょう
どうやら度会ヒカリの持ち方がおかしかったのは、箸だけにかぎらなかったようだ。シャープ
ペンシルの持ち方も一緒だった。
こ ひ な た ゆう こ
はん
今現在、ヒカリは生物室の隣のテーブルで、顕微鏡の中身を見ながら素 描 をしている。トイ
だ
は
カメラはともかく、バイザー越しではうまく接眼レンズを覗きこめないらしく、小日向祐子や半
田さんのアドバイスで、バイザーを完全に跳ね上げていた。
「そうそう、その調子だよピーちん。あたしプリント取ってくるからね」
ネコルは思わずむせた。前を歩いていく小日向祐子のベストを、とっさにつかんでしまう。
「な に 猫 崎 く ん 」
「……なんでピーちん?」
まるで『ぴーちゃん』みたいではないか。
「なんでって。ヒカリでピカリでピーちん」
「やめようそれだけは」
お願いだから。
「……別に、意味なんてないし。猫崎くん、変なの」
無理もないかもしれないが、小日向さんは不思議そうな顔で去っていく。
「……ネコル? どうかした?」
同じ班のテーブルにいたルーシーが、尋ねてきた。
「あっちの班になんかあるの?」
「い、いやだから! 何もないって!」
わざわざ身を乗り出そうとするので、たまらない。
「……そう? 暇ならレポートまとめてよ。誰が書いてもいいんだから」
「俺、字ぃ汚いけどいい?」
「あー役にたたないったら。ナギ!」
「右 に 同 じ ー 」
なにこのダメ二人は。ルーシーの広い額には、そう書いてある。実験班ごとに結果をまとめ、
授業の終わりに発表するのだ。
「やってらんないよねえ?」
ほおづえ
同意を求める凪もまた、ついさっきまで度会ヒカリのことを見ていたのかもしれない。
ネコルは実験テーブルに頬杖をついたまま、横目にまたヒカリの姿を追った。
つや
生物室の窓際には、霧香が面倒をみている金魚の水槽やケージが置いてある。その水槽のガラ
スを透かして差し込む、とろけるような午後の日差しに、ヒカリの黒髪が艶めいて光っていた。
普段まともに見ることの少ない、口から上の横顔は、正視するのに覚悟がいるレベルで整って
いる上、子供には見えない。
凪が言うような、失われた十年を補う技術など、ネコルにはないのだ。
120
ピーチャン・インザグリーン
第三章
121
(……俺たちが教えたって?)
きゃしゃ
固く伸ばした背筋で、夏服の華奢な体を支えているヒカリ。右手でシャープペンシルを握りこ
んでいる、少し変型の三本指。
ああ――でもたしかにそうだ。あの持ち方には覚えがある。
いわゆる妖怪赤屋敷の『ぴーちゃん』は、ネコルたちと同い年のようなのに、知らないことや
できないことが多すぎた。
たとえばネコルが好きなゲキクーガを知らなかったし、逆上がりどころか、鉄棒自体をしたこ
0
0
おかしいことを、おかしいと指摘してくれる人が、誰もいないようなのだ。
とが な か っ た 。
「ねえ。なんでぴーちゃんはいっつもその靴なの?」
ある時、凪が尋ねたことがある。
すそ
その日も庭の片隅で、三人ぐにぐにと泥ダンゴ作りにいそしんでいた。それと赤土だらけの指
でさすのは、ぴーちゃんが着ている高そうなエプロンドレスの裾である。
き れい
下から覗く足下は、いかにも町のスーパーで売っていそうな、安物の運動靴だった。
せっかくお姫様みたいな綺麗な服を着ているのに、もったいないと凪は主張した。
「……これ、変なの?」
まゆ
するとぴーちゃんの眉が、へたりとハの字に下がってしまった。
「どお? ネコルくん。変? 変なの?」
「あ、う、うん……ちょっとヘン……か……いやいやいや」
ああ、半ベソで脱がなくていいからぴーちゃん!
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「ご め ん な さ っ 」
は
「運動靴じゃない靴はないの? ぴーちゃん」
「ご め ん な さ っ 」
泣きながらマジックテープを剥がしはじめるぴーちゃんに、凪がフォローを続けた。
「たとえばほら、こういうのとかさー」
言って赤土の地面に、女の子用の靴を描きはじめる。
そうしてできあがったのは、つま先が丸くて、ストラップのついたバレエシューズだ。たしか
に今履いている運動靴よりはよく似合う。
女所帯の凪は、この手の女物のボキャブラリーをよく知っていて、そして生け花屋の息子らし
く、美意識もいっぱしに激しかった(これはたぶん今でもだ)
。
「……それなら、あるかも……」
「ほ ん と ? 」
「でも、いっぱいありすぎてわかんない。あの中」
122
ピーチャン・インザグリーン
第三章
123
そう言って指さしたのは、背後にあったオンボロ妖怪赤屋敷の本体である。
か わ い
ここに通いはじめて、一週間が過ぎていた。正直ネコルは、ぴーちゃんが何を履こうが可愛い
ものは可愛いのだと恥ずかしげもなく思っていたが、いい加減、庭で遊ぶだけにも飽きていたの
だ。
」
「よーっし、じゃあ探検だぴーちゃん!」
「探 検
「うんっ、ネコルくんすごい! がんばって!」
「……ぴーちゃん、あそこ自分ちなんじゃないの?」
凪のつっこみは、あえて無視した。
「出 発 ! 」
さあさあ進め。進め。ずんずんと。
ほか
生まれてはじめて入った妖怪赤屋敷の中は、暗かった。
ドアノブに取り付いてやった。
「毒 針 が で る ぞ ー 」
おおうそ
「え っ 、 う そ お っ 」
そうして大嘘をこいてまで開けた部屋の中は、誰かの寝室のようだった。
「す げ ー 」
ベッドが目に飛び込んでくる。
後 か ら び く び く 遅 れ て 入 っ て き た ぴ ー ち ゃ ん が、 壁 の ラ イ ト を 付 け れ ば、 大 き な 天 蓋 付 き の
てん がい
ネコルは必死になって追い抜いた。二人がドアを開けようとしたので、
「危ない!」と叫んで
自分が先頭を行くと決めていたのに、これでは示しがつかないではないか。
段を登っていってしまう。
ぴーちゃんは小さな声で凪と喋っていて、ふと振り返れば誰もいない。二人そろって手前の階
「そう。パパの助手さん」
「ウ ノ さ ん ? 」
「お掃除ね、ウノさんとぴーちゃんしかやらないから、たいへんなの」
「なんかくしゃみ出そう」
ける し か な か っ た 。
われてしまっている。布の下から覗く脚の部分などから、あれは箪笥だなソファだなと見当をつ
た ん す
だが、閉めきっている部屋がとても多い。居間や廊下の家具は、ほとんどが埃よけの白い布で覆
階段の手すりに施された透かし彫りや、ドアノブの意匠など、本来の作りはかなり豪華な感じ
埃 っぽい。
ほこ り
電気がついている部屋はごく一部で、他はろくに掃除も入っていないようだ。匂いもどこか
にお
「ああそうさ。センジンは俺でいくぞ。シンガリはナギ。ぴーちゃん、はぐれるなよ」
!?
「す げ ー 」
超すげー。
こ びん
まるで博物館の展示品だ。分厚いカーテンは閉め切られ、ベッドの方も、誰かが寝起きをして
いる気配は皆無だ。ドレッサーに置かれた小瓶や小物がそのままなところを見ると、完全に死ん
だ部屋というわけでもないらしい。
ぽかんと口を開ける、ネコルと凪の男子陣。ぴーちゃんはとことこ歩いていって、続きのドア
を開ける。そちらは部屋というより、収納スペースのようだ。中に大量の服と靴がしまってある
のが見えた。それこそ、あふれんばかりの勢いで空間を埋めている。
「……こ、これね、このお部屋ね、ママの部屋。ぴーちゃんのお洋服はね、みんなママが用意し
てくれたの。ここのもぴーちゃんがつかっていいんだって。ここにあるお靴で、ぴーちゃんに履
けるもの、あると思う?」
彼女はカーテンのようにつり下げられたドレスの間に分け入り、振り返った。カーペット敷き
の足下には、古い紙の靴箱が積み重なり、中にはヒールが五センチはありそうなエナメルの靴や、
ビーズのサンダルがしまわれていた。
正直、そこにあった靴はどれもハイティーンから成人用で、小さなぴーちゃんではあと十年は
しないと履きこなせないような代物に見えたが、はにかみながらも期待でいっぱいなのがいじら
しくて、ネコルはきゅーっと心臓をつかまれてしまったのだ。
しかしその高まりを口にするより前に、ぴーちゃんがびくりと肩を震わせた。
(な に ? )
どうやら表の階下から、人の声が聞こえてくるのが気になるようだ。
はじ
玄関ホールに、誰かがやってきたのだろう。
次の瞬間、ぴーちゃんが弾かれたように駆けだした。
「ちょ、ぴーちゃん!」
「パ パ ぁ ! 」
くれ て い た 。
階段の手すりに取り付き、ぴーちゃんが声を上げる。パパ。パパ。パパ。
くし
下のホールにいたのは、白衣姿の老人だった。
(妖 怪 博 士 ? )
「先生! ちょっと待ってくださいって」
「――おいウノ君! やはりあれでは駄目だ。ぜんぜんだ。アプローチを変えねばならん」
可愛いぴーちゃんが、何度も「パパ」と呼んでいるにもかかわらず、その白衣の老人はぐるぐ
激しくかきむしるものだから、ますますおさまりが悪くなる。白衣の襟が、きちんと折れずにめ
えり
白髪が頭の半分以上の灰色の髪は、櫛を通した気配もないほどぼさぼさで、痩せた指がそれを
や
おとなしい彼女にしては異例の素早さで、ホールめがけて走りだす。ネコルも凪も、何事かと
るとホールの中を歩き続け、こちらを見上げすらしなかった。
追い か け る 。
ピーチャン・インザグリーン
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第三章
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
127
かきだて
「蠣館の連中もわかっちゃおらん。ここでHK ―Lの成果をあせってはなんの解決にもならんと
いうのに。なあ、そう思わんかねウノ君よ!」
「わかってますが、先生」
老人に一歩遅れて、別の男がホールに駆け込んでくる。
そちらも同じように白衣を引っかけてはいるが、まだ二十代も前半の青年だ。ジーンズにス
ニーカーなので、余計に学生の印象が強くなる。おろおろと落ち着きなく、わめく老人の後をつ
いて 回 っ て い る 。
「とにかく一眠りしたら続きだ続き。よろしく頼むよ」
「先 生 ! 」
若い男は、足早に過ぎ去る老人を引き留めようとするが、やがて――あきらめたようにため息
をついた。そのまま頭上を振り仰ぐ。
つまり――ネコルやぴーちゃんが立つ、二階の階段を見据えたのだ。
「……やあ、ぴーちゃん」
「ウ ノ さ ん … … 」
「お昼、まだだろう。台所にお弁当が買ってあるから。そこのお友達も一緒に食べるといいよ」
自分たちのことが、とっくに筒抜けになっていたということは、けっこうショックだった。
その男は、人の良さそうな笑みを浮かべるも、けっきょく老人の後を追っていってしまった。
ネコルは、おそるおそる後ろから、そうやって立ちつくすぴーちゃんの顔色をうかがった。
わ
ら
「……ウノさん、言ってたし。ごはん食べにいこ? ね?」
彼女は眉をハの字にしたまま、泣きそうな顔で微笑っていた。一生懸命、『がまん』していた。
──嫌だなんて、誰が言えただろう。
そのまま三人そろって台所に行き、男がコンビニで買ってきたらしい幕の内弁当を見つけた。
メインディッシュが焼き鮭と煮物の弁当なんて、およそ子供向けではないラインナップだ。そ
れでも続きの食堂に弁当を持っていって、みんなで食べた。それが今できる精一杯だった。
ぴーちゃんは、大理石のはまった立派なテーブルに顔を映し、弁当を食べながらぽつりぽつり
と喋 り 続 け た 。
なんでも彼女の『パパ』はもともと、遠くの学校の偉い先生だったけれど、ママと一緒に蠣館
にやってきたらしい。ママはパパの自慢のママだったそうな。
「……ぴーちゃんのパパね、今はウノさんと一緒の研究がいそがしいの。ぴーちゃん邪魔しちゃ
いけないって、いつも言われてる」
「ふ ー ん … … 」
やはり、あの妖怪博士らしい老人が、彼女の父親なのか。まるで似ていないので、何かの間違
いだと思おうとしていたのに。
「なんの研究してるの?」
「んっと……よくわからないけど……ママの研究かな……あっと」
ネコルたちの前で、ぴーちゃんは里芋の煮物を取りこぼした。割り箸をフォークのように突き
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
129
じゅう た ん
刺して使う彼女は、大きくすべりやすい里芋が食べづらいらしい。
「あっと、あっと、あああ……」
ごろごろごろりん。とうとう芋が、テーブルを通り越して 絨 毯の床に落ちた。
え とく
長い長い沈黙が食堂に広がる。またハの字眉の泣きべそがはじまる。
見かねてネコルたちが、箸の使い方を教えてやった。
きょう せ い
絨毯で空を飛ぶような悪戦苦闘の末、なんとか彼女が会得したのは、少し変型の三本指遣い。
ちょっと変だろうと思うものの、それ以上 矯 正することもできなくて。
「――うん、いいよぴーちゃんそれで!」
「い い ん だ ネ コ ル 」
え
び はら
ほんとにほんと? ネコルくん」
ボソームとリソソームの体内における役割について書かれた図録を凝視する。
す
ネコルはまず大きく頭を振ると、期末テストにでものぞむような真剣さで椅子を引き直す。リ
い
落ち着くのだ。たかだかこれぐらいの偶然の一致、あっても何もおかしくはない。
「はい、どの班もプリント書けたら持ってきて――」
ろう 。
落ち着け。早まるな血迷うな猫崎ユヅル・愛称ネコル。まだそうだと決まったわけではないだ
(いっ、いや待て! 待て待て待て!)
うか。今日までずっと──。
あれから誰に指摘されても、直せと言われても、頑なにこちらの言うことを守って来たのだろ
かたく
かりかり、かりかり、記憶の中とよく似たつたない指づかいのままで、文字をつづっている。
そして今、度会ヒカリが、風涼高校の生物室の片隅で、シャープペンシルを握っている。
―― 。
あの場で言った『ママの研究』の真偽だけは、けっきょく最後までよくわからなかったけれど
にっこり笑って、おいしそうに食べていたのだ。
夏休みのお祭りの焼きそばも、いつも台所に用意されていたノリ弁もシャケ弁も。ひかえめに
ぴーちゃんは以後、そのスタイルで食事をすることになる。
目をきらきらとうるませたぴーちゃんが、ネコルは可愛くてならなかった。
「ゲキレッドだからな!」
「ありがとうね、ネコルくん」
「おっけー。気にするな! なんでも食っちゃえ!」
「ほ ん と ?
ちゃんはネコルだけを見ていた。
あーあ、僕知らないよー。躾に厳しい海老原家の凪は、そんな感じの顔をしていたが、ぴー
しつけ
ただでさえへこんだ彼女を、可哀想な目にあわせてどうする。堂々と胸を張ってやった。
か わいそう
「箸が変でもニンゲンは死なない! そーいうことだ!」
!?
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
131
その時だった。
「──総員、ただちに伏せ――――――――――――――――っ!」
唐突に、その度会ヒカリが叫んだ。
――とっさに全員が頭を下げ、横目に彼女の方向を仰ぎ見れば、向こうは制服のスカートをひ
るがえし、作業テーブルの上に飛び乗ったところだった。
「──警戒レベル4。アクティブ・モードへ以降。追尾開始──」
「お、おい度会──」
完全無視。
け
ヒカリはバイザーを下げ、西向きの窓へ向き直る。赤いラインの入った上履きが、実験テーブ
ルを蹴った。タン! と隣のテーブルへと飛び移る。空気をはらんでひるがえるプリーツスカー
ト。目に焼き付くような太ももと、白い下着のコントラストが鮮やかだった。踏み切りと着地の
衝撃で、書きかけの授業プリントが床に落ちていく。ミジンコのようなリボソームの図。
彼女は窓に面した流しに足をかけるやいなや、置かれた金魚の水槽を飛び越し、窓の外へと身
を躍 ら せ た 。
「わ、度会さ───ん 」
す!」と振り払うしかなかった。
ごっ、と嫌な音がした。
「ちょっ、ごらあああああ!」
か
ま る で 獲 物 を 狩 り 出 す 獣 で あ る。
「みんな授業中なんですよ
彼女はすでに得物として、金属製のライン引きを握りしめていた。これを使って何をするかと
校庭の西、植え込みの近くにヒカリがいた。
「度 会 ! 」
もなったが、後のフォローは凪がしてくれるはずだ。信じて昇降口へとダッシュする。
なんだか思ったよりも、振り払う腕の勢いが強かった気がする。結果的に肘鉄をくらわす形に
ひじてつ
かったふりをして素通りしようとしたが、腕をつかまれたので「すいません、いま忙しいんで
授業のない時の奴は、サッカーの監督でも目指しているのか、大抵が背広だ。いっそ気づかな
途中の廊下で、あろうことかカマ松こと松旗に会った。
まつはた
「──そこ。待ちなさい。授業はどうした──」
い。一番手近にある、昇降口を目指した。
う!」と新任の生物教師が叫んでいるが、これを放置するリスクの方が絶対に高い。賭けてもい
今 の 彼 女 を 放 っ て お け る か?
凪が叫ぶまでもない。ネコルもまた生物室を飛び出した。
「行 く よ ネ コ ル ! 」
さと走っていくのだ。
どこかの女子が、悲鳴混じりに叫んだ言葉が、すべてのような気がした。本当にすたこらさっ
!?
考えると、頭痛がしてくる。
「ネ コ ル 」
せ り ふ
「お前、なにしてるんだよ。いきなり抜け出すなんて──」
「それはヒカリの台詞です。ヒカリはあそこで伏せていろと命じました」
ねら
がしゃんと、ライン引きの取っ手を持ち上げる。
「……何か狙ってるのか?」
「小型の未確認物体です。高音域のノイズを出しながらずっと校庭内を移動しているのです。今
は植え込みの端……木の上……屋根からまた地面の上……」
「お い ! 」
ヒカリがライン引きをブン投げ、サッカーのゴールネットを貫通。植え込みに粉が舞った。
「このアホが――――!」
「だめです。外しました」
かなり混乱しているようだ。
けむ
昇降口付近では、あの松旗が、凪の体を引きずりながらわめいている。しがみついている凪も
必死だ。あれこれ屁理屈をこねて、煙に巻いている。そうだその調子だロックンロール。
なんとか今のうちに、ヒカリを教室へ連れ帰らないといけないのだろう。
「本当に敵がいるのか?」
「います。でも、こんなパターンはヒカリ的にはじめてです。不規則の高速移動……どの計算か
ら も 外 れ て い ま す。 あ あ ま た で す。 今 度 は 倉 庫 の 中 で す。 ど う し て あ ん な 中 に 入 っ て に ゃ ー
にゃー鳴けるのです……」
にゃーにゃー?
ネコルは、バイザーの奥で真剣におののいているらしいヒカリの姿を見返してしまった。
「……おい、度会。ちょっとそこにいろ」
「ネコル。どこに行くのです?」
小型の未確認物体。高音域のノイズ。植え込みに立木に屋根にと柔軟に移動できる運動能力
「めええ――――(ヤギ1号&2号)」
道具入れの中に、必要なものがまだあることを確認。目的のブツを抱えて、来た道を引き返す。
「あとでエサやるから! 今は我慢しろ!」
「きゅいい――――(モルモット群体)」
小動物たちは、全力で無視する。
行き先は、放課後の定番、校舎裏にある飼育小屋だ。つくなりこちらの姿を見て騒ぎはじめる
ヒカリに「動くなよ」ともう一度だけ叫び、走りだした。
うまくすれば、この問題は自分だけでもかたがつけられるはずだ。
間違いない。ネコルは倉庫を一瞥したあと、確信する。
いちべつ
「………………………(ウサギに声帯はないので足踏みで主張)」
── 。
ピーチャン・インザグリーン
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第三章
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コマンド
幸いヒカリは、まだ命令をきいたままというか、倉庫の前でフリーズしきったままだった。
「よしよし。まだ動いてないな」
「――ネコル。入るなら、ヒカリが先です。扉はあれで飛ばします」
「いいからじっとしてろよ。また獲物に逃げられるぞ」
大まじめに朝礼台を指さすヒカリを、ツノを引っ張り押しとどめる。ヒカリは大ざっぱに飛ば
そうなどとのたまっているが、鉄の扉はわずかに開いていた。ほんの十五センチほどではあるが、
中とのコミュニケーションは充分取れる。
何もここで必要なのは、重機でもナパーム弾でもないのである。
「ほら来い、ちびすけ。来い──」
すき ま
いるのはうまい缶詰と缶切り。相手の空っぽの腹。それだけだ。
ネコルはそっと扉に近づいた。わずかにできた隙間に、フタを開けた缶詰を差し込んで置く。
目をこらせば薄暗い倉庫の中に、思惑通りの小さな影が動いていた。もう少し待って、扉を少し
だけ 開 け る 。
ひざ
そうとも。だてに生物部で一年も、霧香の下についているわけではないのである。
「― ― お っ と 」
もう少し警戒するかと思いきや、向こうは一目散に駆けつけてきた。ネコルの膝と脳天をカタ
パルトに、背後へジャンプ!
「ふ わ あ ! 」
ヒカリが後ろで叫んでいる。振り返ればヒカリが地面にカエル座りをし、ヘッドギアのツノに
猫が一匹取り付いて、じゃれついているところだった。
ヒカリが勘違いしたのが、これなのだ。
やっと子猫から抜け出したばかりと言った頃合いの、小さな痩せたサビ猫である。きっと表の
公園あたりから迷い込んできたのだろう。首輪はなく、薄汚れ具合からしても、野良猫になった
ばかりなのかもしれない。
「 確 か に あ の 麺 は 茹 で て る だ け で 焼 い て な い で す け ど、 そ ん な こ と 言 っ た ら 無 果 汁 の オ レ ン ジ
「はっ。いい格好だな、お前ら――」
だ以上焼きそばを名乗ってもいいと思うんですがどうですかね、僕の焼きそばカップ麺救済策ま
凪の屁理屈も、機関銃の勢いで続いている。
ちがってますかね。そもそも」
ジュースだってオレンジを名乗れないじゃないですか、よってあれは焼きそばの精神を引き継い
「カップラーメンの焼きそばが焼きそばか茹でそばかなんて、どーだっていいじゃない!」
ゆ
「いやいやいや、そんなこと言わずにもーちょっとだけおつきあいしてくださいよ松旗先生」
腕に凪をしがみつかせたまま、額の血管が浮き出気味で、声がオネエになってしまっている。
そこに松旗が登場だ。
「――ああもう、しつこい! いい加減離しなさいってこの子は! 歩けないじゃないの!」
なんともお間抜けな一人と一匹ではないか。思わず頬がゆるみそうになった。
ピーチャン・インザグリーン
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第三章
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
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そしてそんな二人が見たのは、頭の上でサビ猫をにーにー言わせる度会ヒカリである。
「ア ナ タ … … 」
「……騒がせてすみません! 逃げた猫を探してました!」
ネコルは、思わず間に入って直立不動になった。
だが、向こうはネコルのことなど見ていなかった。見ているのはあくまでヒカリのみだった。
いい加減にしないと次はないわよ!」
「まったく――またアナタなの、度会ヒカリ! バカな騒動も休み休みしなさいよ。聞いてる
聞く 気 な い
!?
おお き
ど
ぼうぜん
し ぐさ
あいさつ
ぱっと手を離す。乱暴きわまりない仕草だ。しかし猫は猫らしく、綺麗に身をひるがえして着
「お 、 お ろ す 」
「……抱くかおろすか、どっちかにしたらどうだ?」
強調されるらしい。どうやらオスのようだ。
だらりと後ろ足二本と長い尻尾が垂れさがったままの猫というのは、必要以上に胴長っぷりが
しっ ぽ
当人は野良猫を胸に抱きながら、まだ呆然としているようだった。
ネコルはヒカリの方向を振り返った。
「ったく。これから大変だぞ。おい、聞いてんのか度会――」
「いや~、参ったね……カマ松に目ぇ付けられるって……」
「…………あ、あせった……」
あの教室は確か――霧香のいるクラスだ。倫理の授業中だったのだろうか。
再び三階を見上げれば、大城戸の好々爺ぜんとした顔は、すでに窓際から引っ込んでいた。
こうこう や
けっきょく松旗は、舌打ち混じりにきびすを返して去っていく。
いくら腹がたつ生徒が目の前にいても、年配の学年主任の言うことには逆らえないのだろうか。
あくまで大城戸は、世間話をするがごとく、朴訥としていた。
ぼくとつ
「職員会議の決定を尊重することは、示しよりも重要なことだと思いますよ」
「いやしかし……私としても、これを放っておくのは示しが……」
松旗の日に焼けた口許が、激しく引きつった。
ら、この場はおさえてやってくれませんか」
「私のクラスの生徒が、ご迷惑をかけているようで。すみません。後でよく言ってきかせますか
「お、大城戸さん――」
三階の教室から、担任の大城戸が顔を出しているのだ。
(先 生 )
みな天を仰ぐ。それはひどくのんびりとした、日常の挨拶のような声だった。
と」と男の声が降ってくる。
その後もヒカリに向かってまくしたてようとする松旗だったが、頭上から「松旗さん、ちょっ
噴火の勢いで怒鳴られた。
「アンタには聞いてなあい!」
「わかってますもちろんです!」
!?
地した。そのまま茂みにでも逃げていくかと思いきや、まだにーにーとヒカリのつま先あたりに
まとわりついている。
「……ヒカリは……てっきり、敵だと……」
「猫 だ よ バ カ 」
「ネ コ ル … … 」
平坦な声のくせに、途方にくれているのが丸わかりで、触れていいのか悪いのか、おぼつかな
い手つきがどうしようもなくリアルで困ってしまった。
ヒカリの白い手が、おそるおそるサビ猫の頭に触れた。まるでエレベーターのボタンを押すよ
うな仕草だった。けれど触れた先が、やわらかい毛並みとあたたかい体を持つ猫であることに気
づいたのか、ぱっと感電したように引っ込めてしまった。
「無 理 で す 」
「お前なに言ってるんだ」
「ダメです。こんな想定外の機能は搭載されていません」
「は あ ? 」
「逆に聞きます。ネコルの頭には入っているのですか? こういう場合にどう行動すればいいの
か、正しいマニュアルが記されているのですか? こんなに小さくてもふもふのもふもふでシッ
ポも腹も全部もふもふなんです。もふもふ」
「しらねーよそんなの。つーかお前、俺の頭はさんざんなでくり回しただろうが」
「それとこれとはぜんぜん別です」
別なのかよ。
ネコルはもうばかじゃねえかとあきれ果て、じっさいそう言いたかったのだ。なのに。
あご
まずはヒカリの手をつかみ、甲の匂いをサビ猫にかがせ、そこから顎をなで、頭をなでるよう
「これで、こうする! できるだろ」
仕向ける。そうすればヒカリの手つきはより優しく、生き物をなでるのにふさわしいものになっ
そんな姿を見ながら、ネコルの心臓もまた鳴っていた。
てい く の だ 。
こうしてヒカリの側にいて感じるのも、機械よりは人間のそれなのだ。ついさっきつかんだ彼
て
ヒカリにとって自分は、別枠。それならその理由は?
い
女の手首は、火照って汗さえかいているような気さえした。
ほ
ここにいるチビ猫は、機械にじゃれついているなんて思っていないだろう。
「………ふわふわ……」
なで て い た 。
ネコルがガイドの手を離してもなお、小さな生き物に魅入られたように、まん丸い腹のあたりを
み
その変わりようを前に、ヒカリの肩が強ばるが、それでもなでること自体はやめようとしない。
こわ
凪の笑い声が響く中、彼女の膝元で、チビ猫がごろごろと鳴いた。そのまま腹まで見せている。
「あっはっは。仲良しみたいだねー」
ピーチャン・インザグリーン
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第三章
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(ぴ ー ち ゃ ん )
やっぱり、君はそうなのか――?
***
うわさ
夏休みが終わった頃、蠣館小学校二年三組では、一つの噂が流れはじめていた。
妖怪赤屋敷のことである。
この噂がクラスに上陸するのは、ある意味止められない流れだった。そもそもネコルや凪も、
上級生である姉のマヒル経由で屋敷の話を聞いていたのである。
川の水が、上流から下流に流れるように、西羽川の向こうに広がる雑木林や、その中の土や妖
怪博士や、ぴーちゃんのことも噂にのぼるはずだった。
阻止したいと思うのが、人情だろう。人の道というやつだろう。
無責任なからかいや悪意に、あの繊細で泣き虫なぴーちゃんが耐えられるはずがない。
ちらちらと林の入り口に姿を見せはじめたクラスメイトを前にして、ネコルや凪もためらわな
ざ
た
かったのは、ぴーちゃんを守りたかったからだ。
すき
けっきょく警察沙汰にもなり、親からも学校からも怒られた。
それでも隙を見て妖怪赤屋敷に顔を出した時、ぴーちゃんは門の前でネコルたちを待っていて
くれ た 。
「……も、もう来てくれないかとおもった」
ばんそうこう
ドレスと運動靴のアンバランス。泣きだしそうなハの字眉はいつも通り。
いっさい
ずっとずっと心細かったのだろう。ネコルが両親に叱られてできた頬の絆創膏を、彼女は何度
もなでて、「ごめんね」を繰り返した。たどたどしく、震える心そのままに。
「――心配ないよ。俺たちは仲間だよ」
「ほ ん と ? 」
(図 書 館 、 か )
たいげんそう ご
「ほんとさ。ゲキレッドは困った子を助けるんだ」
いた 。
は試験勉強に利用するだけだった閲覧席を素通りし、より近寄ることのない『古典文学』の棚の
ほとんど常連だけがたむろしているような雑誌コーナーの前で、しばしの葛藤。それでも普段
放課後になると、部活でヤギやモルモットの世話をしに行くより前に、校内の図書室へ寄って
今でも考える。どうしてあんなことになったのか。
ただ少し、ネコルの方に言うだけの資格がなかっただけだ。
だ。
力強い大言壮語。まぶしいぐらいの英雄志願。あの時出した言葉に、嘘は一切なかった。本当
ピーチャン・インザグリーン
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第三章
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いわなみ
ちく ま
前に た つ 。
し ん ちょう
岩波に筑摩に新 潮 に。
なまつば
の
こけ
お とぎぞう し
木製の棚いっぱいに広がる地味なレンガ色や苔色の全集が、無言でガンを飛ばしてくるような
さ い しょう
気がした。軽く生唾を呑みこみながら、霧香の言っていた『御伽草子』がないか探しはじめる。
前に霧香が、言っていたのだ。
――まるで鉢かづき姫よねえ。ネコルくんは宰 相 の君かしら。
少しでも今の迷いを晴らすものがあるなら、賭けてみたかった。
つぶ
あの三人の日々が本格的に終わった時のことを思い出すと、今でも胸がつまるような気分にな
る。豆腐の上のカツオ節を通り越し、その豆腐そのものを、指で握り潰してしまいたくなる。
季節はめぐり、教師や親に叱られても、それでも隠れて妖怪赤屋敷に通う日々が続いていた。
ぜ
すべてはそう、ぴーちゃんの何気ない一言から崩れはじめたのだ。
つぶや
「──ネコルくん。パパたちがおかしいの」
ぴーちゃんが、ぽつりと呟いた。
「… … パ パ ? 」
「ウノさんと、ケンカしてた。お前はハモンだっていってた」
一夏かけて、ぴーちゃんは日に焼けた。
か
町のお祭りにも、川遊びにも行った。ちょうど凪はおたふく風邪をこじらせて三日目で、妖怪
赤屋敷の荒れた庭には、ネコルと彼女しかいなかった。
あの妖怪博士がどうかしたのと、ネコルはもう少しで口にしそうになってしまった。
ぴーちゃんのパパは、ネコルたちにとって、常に不可解な壁のようなものだった。
何度もこうして庭や屋敷の中に潜りこんでいれば、うっすらとした気配ぐらいはわかるものだ。
彼は助手の青年と一緒に、何か大がかりなもの──たぶん工学寄りの何かだったと思う──を、
て耐 え て い た 。
屋敷の離れで作っていたのだ。それがぴーちゃんいわく『ママの研究』になるのだろうか。
もし れ な い 。
んな思いを抱えていたのは確かだ。
ぴーちゃんはいい子で、可愛い。だけど、パパの方はよくわからない。もっというと怖い。そ
思っていたよりもあの当時の空気は不安定で、妖怪博士も激しやすい心根の持ち主だったのか
いる庭の反対側にまで響いていた。その時のぴーちゃんは、ネコルたちの側でずっと耳を押さえ
れる高い音が響き、もうデータは渡さない、出ていけ裏切り者という怒鳴り声が、ネコルたちの
たまに屋敷に人が訪ねてくることもあったが、先日は激昂しながら追い返していた。灰皿が割
は助手の青年にほとんど任せきりのようだった。
りの、機関銃のような喋りはよく聞こえた。ぴーちゃんをかえりみることはほとんどなく、世話
ネコルたちの行動半径に出てくることはほとんどなかったが、思いついたら止まらないとばか
ピーチャン・インザグリーン
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第三章
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
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「……だ、大丈夫だよぴーちゃん。きっとまたすぐに仲直りするって」
「ううん。だめだよ。ウノさん、それならぴーちゃんをひきとるっていってた。パパはすごいお
こって、そんなことをしたらゆるさないって。ぴーちゃんはいっしょにつれてくって」
なぐさめる言葉に、ぴーちゃんは首を横に振った。
「ねえ、どうしよう。ぴーちゃんどこにいくんだろう。ネコルくんやナギちゃんとバイバイしな
きゃ い け な い の ? 」
かすかに震えながら、こちらの目を見て訴える彼女を、これ以上どうなぐさめればいいかわか
らなかった。目の前の彼女がいなくなるかもしれないという現実に、自分の視界の方が暗くなっ
てし ま う 。
「ネ コ ル く ん 」
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そしてまた、彼女も救いが欲しくて必死だったのかもしれない。ぴーちゃんは、ネコルの手を
きゅっとつないだまま言った。ねえネコルくん。いっしょににげてくれる?
***
「……あった。御伽草子」
ネコルは棚の上段から、全集の一冊を抜き取った。
分厚い苔色の書籍は、背表紙の日焼けに比べて中の紙質が新品同様だった。触れただけで切れ
そうな手触りからしても、ろくに触った人間がいないことが丸わかりだ。
ぺらぺらと立ち読みをはじめて、顔が引きつっていくのを止められなかった。これは誰も手に
とらないわけだ。いくつか注釈がついているものの、載っている文章自体は原文のみ。前を読ん
でも後ろを読んでも、現代語訳がどこにもない。ありをりはべりいまそかりの古文を一から読み
下せ と い う こ と だ 。
(勘弁してよほんとにこれしかないのか……?)
絶望的な気分になりながらページをめくっていく。
うるし
ふと――目にとまる挿し絵があった。
え づら
それは一抱えはある大きな黒い漆の鉢を、すっぽり頭にかぶって、顔が半分見えなくなってい
る、異形の姫君の図。思わずなんじゃこりゃと言いたくなる絵面である。
かぎばな
「これが……鉢かづき姫……?」
ひさ え
周りが絵巻物ぜんとした、鉤鼻に引き目の登場人物ばかりなだけに、余計に姫の異様な風体が
際だ っ て い る 。
この鉢の化け物が、ヒカリにそっくりだと?
確かに言いえて妙だと思いつつ、釈然としない思いも消えなかった。あの人は、久遠霧香は、
人の悪口めいたことを言わない人だ。
かなり迷った末、カウンターでその本を借りた。
(読めなかったら、先輩に聞くさ……)
かばん
鞄を本でいっそう重くさせながら、図書室を出る。
そのまま飼育小屋に顔を出すため、昇降口を出てから校舎裏に向かって歩きだす――と。
小日向祐子やルーシーのグループが、一カ所にたまっているのが見えた。
花壇の端に集まって、やけに険しい顔をつきあわせている。
「──あ、ネコル君ネコル君!」
ほらあっ
向こうの方も、こちらに気がついた。小日向祐子が手招きをしてくる。なぜかその両手にはヒ
マワリの造花が握られているが、無視をするわけにもいかない雰囲気だった。
鞄を持ち直して、輪に近づいた。
「……それ、なんなの?」
ちゃきっと耳元に、花を飾るポーズ。特に意味はないらしい。
「入場ゲートに飾る花デース。さっきまで教室で作ってたの。飾り付け係だから」
「……なんかあったのか?」
「あったっていうか。あのねあのね、ヒカリっちがカマ松に捕まっちゃったのよ!
ち! 」
ぎょっとしたどころの話ではない。
ヒマワリ付きの小日向祐子に誘導されるまま、ネコルは目の前の花壇を登らされた。そこから
見て取れるのは、向かいにある二十五メートルプールである。
すだれと金網のフェンスの隙間から、中の様子が覗きこめるというわけだ。
プールには、なみなみと塩素入りの水が満たされていた。緑色のプールサイドには、紺色のス
クール水着を着た女子が数名集まっている。その中から一人離れて、同じスクール水着姿の度会
ヒカリが、飛び込み台の前にしゃがみこんでいた。
あんな場所でも頭にツノを生やしてバイザーで顔を隠して、メカメカしているのはヒカリだけ
だ。
「一応、そう変な話じゃないんだけど」
ネコルの隣に上がってきたルーシーは、もう少し冷静なようだった。
「度会さん、ずっとプール授業休んでるから。補習に出ろって、松旗先生に引っ張られていった
わけ 」
「でもルーシー! あの子水に入ったら動けなくなるって、言ってたじゃない」
「それを聞いてくれる先生だけじゃないってことでしょう」
「なによそれえ。意味わかんなーい。ただのいじめじゃん」
小日向祐子は吐き捨てるように言って、きめの細かいナチュラルメイクの頬をふくらませる。
し な い
い かく
そうしている間も、Tシャツと競泳水着姿で指導中の松旗が、ヒカリに向かってしきりに説教
を続けていた。手元の竹刀は、どう見ても威嚇用だろう。
意地になってるだけよねえ」
「……たぶんカマ松って、度会には何度か恥かかされてるから……」
「やっぱりそう思うネコル君
こうして見ているだけでもわかる――松旗教師の勝ち誇った横顔は、ようやく優位に立てる状
!?
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
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況に酔いしれているように見えた。
竹刀がプールサイドを叩く。
「――ほらほら度会、どうした。タイムが測れていないのはお前だけだぞ? 他の生徒はみな終
わった。私の授業で逃げ得は許さないからな!」
ぐせ
度会ヒカリは、そこまで一方的に怒声を浴びせられても、うつむいたまま動かない。動けない。
警戒警戒と騒ぐくせに、自分の身も守れないのかよ、ポンコツが――。
しずく
その気になれば十万馬力で原付も投げる非常識女のくせに、いつもの口癖はどうしたんだと言
いた く な る ほ ど 。
ヘッドギアからこぼれる黒髪が、重く湿って雫を垂らしていた。スクール水着も、上半身の色
が変わっている。シャワーぐらいは、無理矢理浴びせられたのかもしれない。
「だめっ。見てらんない。ぜったい止めてあげなきゃ可哀想だって!」
ここは断固として抗議するべきだと主張する小日向祐子と、様子見でためらうルーシーと。
自分は──どうするべきだろう。
相手はカマで理不尽でも、れっきとした教師だった。いつもの自分ならとっくに手を引いてい
度会ヒカリ!」
る。そうやってここから動こうとしない理由を、いくらでも積み上げて。ごまかして。
「さあ、さっさと入れ! 入るんだ!
おび
ああそうだ。あの時だってそうだったのだ。
怯えたぴーちゃんが、ネコルにしがみつくようにして言った。ねえネコルくん、いっしょにに
げてくれる? 言われた自分は──。
妖怪赤屋敷のぴーちゃんはひどく泣き虫だし、知らないことやできないことが多かったが、冗
「……はなれたくない。一緒にいたいよ。たすけてよ……」
談だけは言わない子だった。
だからわかった。これは本気の願いなのだと。ネコルと一緒に逃げてもらいたいのだと。
ここで彼女の期待を裏切ることは、格好悪いことだということだけはわかった。実際、何度も
自分で言ったのだ。困ったことがあれば助けてあげるし、ゲキレッドは弱い人間を見捨てない。
彼女は言った通りにネコルを頼ってきた。それだけの話なのだ。
それだけの話なのに。
「… … で も 」
「で も ? 」
「明日は、ゲキクーガが……」
うら
ぴーちゃんの眉が、ますます下がった。あわててネコルは口をつぐんだ。首を横に振った。
どうしてこんな時にかぎって、凪が一緒にいないのだろう。恨んだところで答えは出てこない。
ネコルは覚悟をきめて、うなずくしかなかった。
「……わかった。いこう。逃げようぴーちゃん」
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
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「ほんと? ありがとう!」
はじめての家出となった。
こ づか
家に戻ってリュックサックにわずかな小遣いと、余っていた菓子を詰め、赤屋敷を出発する。
変装がわりの野球帽をかぶった『ぴーちゃん』の手を引き、とにかく屋敷から遠くにいこうと
本当に、振り返ってみてもままごとのような逃避行である。
歩き 続 け た 。
もちろん、そんなままごとがうまく行くはずがない。
道行きが順調だったのは、日没までだった。
その頃になると、町の集落からも外れはじめる。あたりは宅地化されていない『蠣館さま』所
有の山並みと、誰もいない畑と農道が延々と続く。外灯の数も、極端に減ってくる。
木々の葉ずれや、見知らぬ物音に怯えるたび、ぴーちゃんの手が不安げにこちらを握り返して
くるが、本当はネコルの方も怖くてたまらなかったのだ。
だって、逃げると言ってもどこへ? どこまで?
今夜
このまま県境に向かって歩き続けて、家への帰り道がわかる限界値を越えてしまえば、まった
やみ
く見たこともない土地を進むことになる。明日は日曜日で、その次の学校は? 家族は?
の夕飯は? いつまで続ければいいのかすらわからないのだ。
終わりがないのだという事実が、ここに来てリアルさを増してくる。あたりの黒い闇に潰され
そうなぐらい、心細かった。
のど
家に帰りたい──喉の渇きと一緒にそう思う。本当なら今頃、市街地の自宅で、マヒルとのん
きにお笑い番組を見ているはずなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
自分や相手をなだめるための菓子が尽きると、残るのは空元気で絞り出す言葉だけだ。
「大丈夫だよぴーちゃん。心配すんなって」
うと
明るく同じ言葉を繰り返してはいるが、心の消耗は速かった。こちらが進む道を間違えるたび、
何も言わずにこちらを見つめる彼女の存在が疎ましくさえなる。責められているような気分にな
る。
ちくしょう――誰のためにがんばってるんだよ。みんなみんな、ぴーちゃんのためじゃないか。
「ネ コ ル く ん 」
「な に ? 」
「お 歌 う た っ て よ 」
は?
「お歌。ほら、いつもネコルくんがうたってる、ヒーローの――」
「うるさい、そんなのじぶん一人で歌え!」
たまらず声を荒げていた。
静かな夜の農道が、ますます静かになった。でももう泣かれるのも、ぐずられるのも、わがま
まを聞くのもまっぴらだった。あたりが暗すぎて、目の前にいるぴーちゃんの顔もよく見えない。
言ってしまった言葉も取り消せない。
「ぴ ー ち ゃ ん ! 」
怒鳴られたぴーちゃんが、なにも言わずにきびすを返した。
ひ
一目散に走るぴーちゃんは、横合いの林道から走ってきた車の存在に気づかない。
そのまま彼女は、車に轢かれる寸前で、道に尻餅をついた。
「ぴ、ぴーちゃん、ぴーちゃん、大丈夫 」
にも、そのどれでもないように見えるのだ。
しわ
「――ぴっ、ぴーちゃんは、帰りたくないって言ってる」
気持ちは泣きだしたいほどだったが、ほんの一分の反抗心は残っていた。
さげす
ただ斜め後ろからヘッドライトを浴びて、こちらを静かに見下ろしているだけなのに。言いよ
痩せて高く浮き出たほお骨や、深く刻まれた眉間の皺が、怒っているようにも蔑んでいるよう
み けん
の前にいるはずの人間の感情を読むことが、まったくできないことが不思議だった。
はじめて正面から、その男の顔を見た気がした。気性の激しい老人だと思っていたが、いま目
それこそが、あの妖怪赤屋敷の妖怪博士だった。
「私の娘を、返してもらおうかね、坊や」
同時に急ブレーキで止まった車の助手席から、男が顔を出した。
うのない圧迫感に喉の奥が詰まりそうになる。
吹き飛んだ野球帽を踏みつけて、ぴーちゃんの脇に立つ。
ネコルは、大あわてで彼女のもとに駆け寄った。
!?
ピーチャン・インザグリーン
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第三章
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ピーチャン・インザグリーン
第三章
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そうだ。そうとも。
だから自分が連れ出したのだと、言い訳のように。
「そうらしい。それはよくわかるが」
同じ車の中から、また新しい人が出てきた。ネコルが知らない顔の、大人たちだった。
放心したように手足を投げ出すぴーちゃんは、あっという間に彼らに抱えあげられてしまう。
「ぴ ー ち ゃ っ 」
「もういい。無理はしなくていい、少年」
無理? 無理なのか?
「そうだろう。私にはわかるよ、坊や。見たところ君は、背負ってきた荷物の置き場所を探して
いたようだ。あがくことにも、立ち向かうことにも疲れた人間の目だ。ごくごく平凡な、人間ら
しい感情だ。つまらんがとても正しい。間違ってはおらんよ、少年」
ば
か
――いいのか、これで。
そんな馬鹿なという思いと、ああこの妖怪博士の言う通りじゃないかという思いと。二つの心
の声 が 交 錯 す る 。
しわがれた魔法使いの声だけが、現実世界に響いてくる。
「だからこの娘は、私がかの地で育てよう。他にかわりがいない以上、仕方ない」
ネコルにはどうすることもできなかったのだ。疲れて、膝は震えて、周りは夜で、一度くじけ
てしまった心は戻らないのだ。妖怪博士が指摘したように、自分は大したことない人間なのだと、
身をもって思い知ってしまったのだから余計に。
「……ネコルくん。たすけて」
無理だよ。もうダメだよ。
抱えられて中空から伸びた右足が、人形のような足首とマジックテープ式の運動靴が、視界の
端に映っているけれど。
「ネコルくん。どうして?」
切れ切れに響いたか細い呼び声が、これ以上届かぬよう心で耳をふさいだ。あれだけ理不尽に
怒鳴ってもなお、ネコルにかけられたぴーちゃんの声は、やわらかかった気がする。それでもネ
コルは、それ以上聞けなかった。耳をふさいで聞くのをやめた。
逃げたのは自分だったのだ。
か弱い彼女を、引き受けきれずに放り出した。後から来た博士に押しつけた。
彼女はそのまま、博士の乗ってきた車に乗せられ、二度と会うことなく、街からも去っていっ
た。
凪のおたふく風邪復帰を待たず、妖怪赤屋敷も跡形もなく壊された。ネコルに後悔する暇さえ
与えないつもりだったのかもしれない。
くる
降り積もったのは、狂おしいほどの後悔だ。
そして今、度会ヒカリがプールサイドで動けなくなっている。松旗の怒声や嘲笑を浴びながら、
たった一人で助けも求められずにしゃがみこんでいる。
「な あ 、 ル ー シ ー 」
「な に ? 」
にしむら
古典のあれ?」
「鉢かづき姫って、どんな話か知ってるか?」
「は ? 鉢 か づ き ?
「そ う そ れ 」
戸惑いはしても、ルーシー・西村・ストラットフォードは基本的に人が良く、そして頭の良い
人間だった。こちらの突飛な質問にも、律儀に考えて答えてくれた。
「たしか──って感じの話だと思ったけど……」
「そっか、サンキュ」
「ねえ、いきなり何して──ちょっとネコル!」
ネコルは、そのまま花壇を飛び降りていた。
大股で向かいのプールにたどりつくと、コンクリートの壁を蹴り、フェンスに手をかけ、みし
みしとよじ登ってまたぎ越える。プールサイドへと飛び降りる。
いきなり表から侵入してきた男子生徒というのは、さぞかし異様だったろう。
端に固まっていた水着の女子は小さく声をあげ、花壇の周辺で成り行きを見守っていた野次馬
も、またあらためて騒ぎだす。
ネコルは土足のまま、同じ歩幅で歩きだした。肩越しの西日は暑く、胸がひどく熱かった。腹
の底で強くうずまいている感情に、名前をつけることはできなかった。
「――何だ? お前は」
へ
ど
松旗が聞いてきた。低い声音はまだ威厳を保って、カマな地金が出てきていない。
足下でへたっているヒカリがいても、恥じるどころか誇るような態度に反吐が出た。
「何をしている、と聞いているんだが?」
その手からヒカリを引きはがしていた。
答えようとしないネコルを見て、向こうは不快そうに唇を曲げた。
な水 柱 が あ が っ た 。
周りの音がかき消えて、耳鳴りがずっとずっと続いている。
まるで花火だ。
松旗は大きくバランスを崩し、横に広がるプールの中へと落下した。飛び込みの腹打ちのよう
オネットのように、ヒカリの体が引きずられかけるヒカリを見た瞬間、ネコルは松旗を押しのけ、
松旗の右手が、歩きながらヒカリの二の腕をつかみあげた。そのままだらりと糸の切れたマリ
「それをしないから悪いんだ。ほら度会、いつまでも休んでいないで動け――」
「……たかがタイム測るだけだろ?」
い。私も忙しいんだ――」
「……ともかく、用がないなら、さっさと出ていくんだな。土足であがりこんでいい場所じゃな
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第三章
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胸の中がまだ熱い。心臓が強く脈打っている。
(――鉢かづき姫っていうのはね、ネコル)
(――たしか亡くなったお父さんかお母さんに鉢をかぶせられて取れなくなった、可哀想な女の
子の 話 な の )
(――取れない鉢を抱えて困ってる女の子を、最後に見いだして助けてあげたのが宰相の君)
(それがどうかしたの?)
にら
Hazuki Takeoka 2016 Printed in Japan
し ぶ き
本作品はフィクションです。この作品に登場する人物、団体、地域
等は、実在するいかなる個人、団体、地域とも関係ありません。
本書の無断複製並びに無断複製物の譲渡及び配信は、著作権法上で
の例外を除き、禁じられています。
どうもしない。何もしない。
者 ― 竹岡葉月
イラスト― 成瀬ちさと
発 行 所― 合同会社白好出版
〒 170-0013 東京都豊島区東池袋 1-33-3
池袋シティハイツ 506 号
TEL. 03-5927-9610
FAX. 03-5927-9611
装
丁―株式会社木村デザイン・ラボ
やがて松旗が、水底から飛沫をあげてあがってくる。刺すような目でこちらを睨んでくる。
著
初版 WEB 公開
「――ぶばあっ、な、な、なあにするのよう!」
2016 年 6 月 17 日
一言、いった。
かき だて き たん
鉢かぶっちゃった姫~蠣館奇譚~
「こ い つ に 触 る な 」
続きは発売中の書籍にてお楽しみ下さい。
――胸のつかえが少しおりた気がした。
試し読みはここまでです。