2008 年 3 月 15 日(土)よりアップリンクXにてロードショー

アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
スイスの観光用 PR 番組の撮影と偽りビルマに潜入したカメラは
ジャングルの奥深く国境地帯へ少数民族の証言を求めて旅をする
監督:アイリーヌ・マーティー
製作:KAIROS-Film
原題:IN THE SHADOW OF THE PAGODAS THE OTHER BURMA
2004 年/スイス/Video/カラー/74 分/16:9/英語、ビルマ語、カレン語、シャン語、他
撮影:マティアス・ケリン 録音:クロエ・ポンポン・ルヴァンヴィル 編集:フェー・リーヒティ プロデューサー:フランソワ・ベルナート
協力:在日ビルマ人共同実行委員会(JAC)、ビルマ市民フォーラム、ビルマ情報ネットワーク、アムネスティ・インターナショナル日
本、
社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)、難民支援協会、アーユス仏教国際協力ネットワーク、アジア女性資料センター、
wam 女たちの戦争と平和資料館
配給宣伝:アップリンク
http://www.uplink.co.jp/burma/
2008 年 3 月 15 日(土)よりアップリンクXにてロードショー
配給・作品のお問い合わせ:アップリンク
東京都渋谷区宇田川町 37−18 トツネビル 2F
TEL:03-6821-6821 / FAX:03-3485-8785
http://www.uplink.co.jp
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
解 説
スイスの観光用 PR 番組の撮影と偽りビルマに潜入したカメラはジャングルの奥深く国境地帯へ
少数民族の証言を求めて旅をする。たどりついた先では幾千、幾万もの国内避難民や難民が過酷
な生活を強いられていた。彼らは軍事政権による強制移住や強制労働、拷問や殺害を含む様々な
人権侵害から逃れるため、日々ジャングルでの移動を続けながらひっそりと暮らしていた。迫害
に怯え、日々生き延びることさえままならぬ少数民族や反政府勢力武装組織の兵士たち。そして
兵士らに保護された子供たち。彼らは両親をビルマ軍に労働力として連行され、病気の親を目の
前で銃殺され、村を焼き払われ、川を渡りジャングルで 2∼3 日隠れた後、一ヶ月間ジャングル
を歩き難民キャンプへ逃れてきたのだった。
2007 年 9 月 27 日、取材中のジャーナリスト長井健司さんが銃弾に倒れたビルマ(ミャンマー)。
民主化運動の指導者アウンサンスーチーに対する軍政の弾圧に関して世界が注目する一方、少数
民族や宗教的少数派に対する抑圧の真実について語られることは少ない。これは私たちにはじめ
て届けられた、今なお国境地帯の山中で生き延びる彼らの、悲痛な叫びである。
世界の観光客を魅了し続けてきた 千のパゴダの輝く黄金の国 ビルマ(ミャンマー)。しかし
2007 年 8 月∼9 月、燃料価格の高騰をきっかけに民衆と僧侶が始めた平和的なデモは軍事政権に
よって弾圧され、殺害や投獄を含む深刻な事態となった。長井健司さんが自らの命と引き換えに
私たちに伝えようとした民衆の怒り、民主化への希望が軍によって絶たれた激動のビルマ(ミャ
ンマー)の現状は、今なお国際社会に波紋を呼んでいる。
だが、軍政による弾圧は今に始まったことではない。クーデターに次ぐクーデターにより 40 年
以上にもわたる軍事独裁を維持してきたビルマ(ミャンマー)では常に少数民族や宗教的少数派
が弾圧を逃れて国内避難民、難民と化してきた。また 1988 年、民主化運動に対する弾圧を逃れ
て反軍事勢力ゲリラを結成した活動家たちはジャングルの中で抵抗を続けてきた。
そうした人々
の証言を集めるべく、政府からの撮影許可がおりない危険を伴う状況下で撮影された本作は、今
なお迫害され続ける人々の悲痛な叫びを伝える貴重なドキュメンタリーである。
アウンサンスーチー、学生、僧侶、市民らによる民主化を目指す運動は比較的よく報道され
ますが、ビルマには忘れてはならないもうひとつの問題があります。軍政による少数民族へ
の圧迫と、その結果として発生する国内避難民たちの悲惨な状況、そして後を絶たない難民
の実情です。
多くの時間と労力をかけ、彼らの側の証言を集めて編集されたこの貴重な映像作品は、私た
ちがけっして見過ごしてはならない「もう一つのビルマ」を確実に伝えます。ひとりでも多
くの方に見て頂きたいと願います。
日本語字幕監修、解説
根本 敬(上智大学外国語学部教授/ビルマ近現代史)
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制作ノート / アイリーヌ・マーティー監督
経緯
初めて私がビルマを訪問したのは 1981 年の事です。世界旅行の一環としてこの国を訪れた若い
頃の私は、ビルマ人の親しみやすさに魅了されました。しかし他のアジアの国とは何かが違うこ
とは、その当初から感じ取ることができました。2 度目の訪問は 1998 年の事です。人々による
デモについて知ってはいましたが、この魅力的な国で起きていた残酷な現実については理解して
おりませんでした。この時の旅の途中で私は偶然とある男性に出会ったのですが、私はその男性
の父親に 81 年の最初の旅行で出会っていたのです。その父親は既に亡くなっていたのですが、
彼の息子は喜んで私を家に招いてくれました。そして民衆が受けている深刻な人権侵害の事実を
語ってくれたのです。私は、人々が日々受け続けている残酷な抑圧にショックを受けると同時に、
ジャーナリストとして、また映像作家として、それらの事実を私自身が全く把握していなかった
ことに激しく動揺しました。スイスに帰国し、私は調査をはじめました。また、ジュネーブの国
連を訪ね、当時の国連のラズスーマー・ララー(Rajsommer Lallah)特別調報告者と、ILO
(International Labor Organization、国際労働機関)の担当者達に会いました。そして軍事政
権による深刻な人権侵害が事実であることを確証しました。その時、私は映画を撮ることを決め
たのです。同じ年、私は調査を続けるため、再び観光客としてビルマへ入国しました。旅は、私
に証言してくれる人々を、そのことによって、私が危険な立場においているという事を私自身が
理解するためのプロセスでした。そこで軍部の手の届くことがない土地に住む人々を探すことに
しました。また、国連を通じて隣国に住む多数の難民についても勉強する一方、異なる様々なN
GO(非政府組織)とのネットワークを作りました。そして迫害を受けているのは政治的な活動家
だけではなく、多くの異なる少数民族もそうなのだということを徐々に知りました。そこで私は
再び現地へ向かうことにしました、今度はタイ・ビルマ国境地帯です。私はそこで数多くの難民
と出会い、人々の窮乏した暮らしぶりに心を痛めました。
私はその時、あることに気がつきました。それは、ビルマに関する映像のほとんどがアウン・サ
ン・スー・チ女史と彼女が率いる政党、国民民主連盟(NLD)に焦点を当てているものであり、
少数民族の苦しみと、彼らの生き延びようとする苦闘についての映像はほとんど存在しないとい
う事です。それが、彼らについての映画を描こうと考えた理由です。
政府からの許可が下りない中での撮影
自分が何を撮りたいのかが明確になってから、私はタイ・ビルマ国境を更に 4 度ほど訪れ、主に
カレン族とシャン族の難民に対する調査を進める一方で彼らとの信頼関係を築いていきました。
プロ用の機材を山ほど抱えた 4 人の撮影クルーが同じ旅程を往復することが容易でないことは
予めわかっていました。タイの当局とバングラデッシュ政府に対しては撮影許可を申請しており
ました。ビルマ・バングラデッシュ国境地帯の難民キャンプには多数のイスラム系難民が暮らし
ており、私は特にバングラデッシュのコックス・バザールを訪問したかったのです。しかし、結
局どちらの政府からも許可証はおりませんでした。そこで、新たに撮影旅行を準備し直さなくて
はなりませんでした。しかしその頃には、タイのキャンプに暮す難民たちは私の事をよく知り、
信頼関係を築いていたので私と撮影クルーが他の難民キャンプへ潜入できるよう全面的な協力
を保証してくれました。
最初の撮影旅行を実行するためにはそれなりの準備が必要でした。デジタル・ベータカムのカメ
ラを隠して運ぶためのバックパックや照明機材、
マイクを忍ばせるためのバックを特注しました。
大きな三脚はスーツケースの中に隠しました。ですから撮影クルーは機材の持ち込みに関してタ
イ当局に一切申告せず、通常の観光客としてタイに入国しました。タイ・ビルマ国境沿いの車で
の移動は現地の運転手に任せました。そしてタイのチェックポイントで車が止められた際はスイ
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スからのトレッキング客であると偽りましたが、全く問題ありませんでした。しかし、看守のチ
ェックがある難民キャンプの入り口はまた別の話しです。そこでは、私たちはキリスト教の宣教
師であると偽り、バックパックとスーツケースには難民の人々に上げるための衣料が入っている
ことにしました。そしてそこでも問題はありませんでした。ただし、一度だけ私たちの持ってい
たスイス製の時計とアーミーナイフでタイ人兵を買収したこともありました。
タイ・ビルマ国境の国境沿いに位置するキャンプへ入ることは非常に困難でした。タイ当局の人
間以外は出入りできない場所です。難民たちの手助けがなければ私たちがそうした場所に潜入す
ることは不可能でした。
友人となった何人かの難民は、私たちがキャンプに入れるよう手はずを整えてくれました。しか
しその日、国境付近の村に到着してから、問題が起きたので立ち入り禁止区域には入れないかも
しれないと彼らは伝えてきました。少し残念に思いながら夜を村の民家で過ごすことになりまし
た。ところが午前 3 時ごろ、私達は友人に起こされました。「さあ行くぞ、車が待っている」寝
袋から急いで飛び出し、トラックに機材を積んで出発しました。20 分程走った後、森の中に別
の車両が待機していました。タイ政府のトラックでした。私たちは一言も話すことを許されませ
んでした。荷物を移動し、私たち自身もトラックの荷台に乗り込むと毛布で覆われました。車は
ジャングルの中を走り出し、小川を越えました。私は我慢できなくなって毛布の端をめくって覗
いてみました。すると荷台には二人の武装した兵士が座っていました。約2時間後、トラックは
停車しました。何人かの者が車に駆け寄り、荷物を運び出すと同時に私たちに向かって「声を出
すな、ついて来い」とジェスチャーで示しました。しばらく歩くと、いよいよ最初の小屋が見え
てきました。中に入ってもすぐには口をきく事が許されませんでしたが、目指していた国境沿い
に位置する難民キャンプに到着したことはわかっていました。
一番のリスクは、難民キャンプの入り口を見張るタイ当局に見つかってしまう可能性があるとい
う点でした。私たちの時間は限られていましたが取材の準備は整っており、小屋に難民がやって
きて話しを始めたのです。少数民族の多くは全く英語を話さないため言葉の壁は非常に大きな問
題でしたが、友人ガイドの一人が通訳をしてくれました。2 日間の仕事を終え、私たちは潜入し
たときと同じルートをたどってキャンプから出ました。
ビルマでの合法的な撮影に関してもいくつかの問題がありました。タイ・ビルマ国境での撮影を
終えた後、私は観光客へ向けられたイメージとの対比を描くために、もう一度ビルマ国内を取材
しようと考えました。しかし、いかにして政府から撮影許可を得るのかが問題でした。私たちの
プロデューサーがたまたまスイスの大手旅行代理店の経営者の友人でした。
そこで彼を説得して
推薦書を書いてもらいました。彼の会社のための観光用のプロモーション映像を撮影する目的で
入国を許可してほしいという内容です。数週間後、当局から許可が下りました。3 週間の合法的
な滞在中、私達には 24 時間体制で軍政当局の観光省からのガイドがつきました。観光客にとっ
てビルマがどのようなイメージで見られているのかを撮影したかったので、
人権侵害について語
ってくれる人を探しているわけではありませんでした。
ですから私達は政治や人権問題に全く関
心を持っていないかのように振る舞う必要がありました。当然そのような態度に徹することは容
易ではありません、特に強制労働の現場を通過する際などには。そうした場所を撮影する際、私
たちがガイドに説明したのは、ビルマにおいて道路を移動することは可能で、しかもそれらは常
に補修されている上に、道路網は拡大されていることをスイス人に伝える、といった内容でした。
同様に、黄金の三角地帯(ヘロインの供給地として有名なタイ・ラオス・ビルマの国境地帯)地
域の撮影に関しては、シャン州でのトレッキング・ツアーを宣伝したい、という内容の説明でし
た。
反軍事政権武装組織に同行取材
反軍事政権武装組織との連絡調整は難民の人々が図ってくれました。一度、撮影クルーを置いて
私ひとりで国境地帯へ戻り、個人的に彼らと会いました。彼らと共にシャン州やカレン州を移動
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し、それぞれの民族グループの司令官や大佐と会って撮影許可を得る必要がありました。それぞ
れの場所で私は 2、3 日間滞在して調査を進める傍ら、私たちに話しを聞かせてくれる人たちを
探しました。そうした人を見つけ出すことは難しいことではありませんでした。なぜなら村に暮
らす全ての人がトラウマとなるような経験をしており、
そしてラングーン(ヤンゴン)から遠く離
れた反軍事政権武装組織の守る村で安心して暮らしていたからです。
国境地帯への往復とその地
域の難民との撮影は既に何度も経験しており、司令官や大佐達からも信頼と、撮影の承諾を得る
ことができました。そして数ヵ月後、私と撮影クルーは再び同じバックパックとスーツケースに
機材を隠し、観光客が足を踏み入れることの出来ない、タイ・ビルマ国境地帯にいました。時と
して私たちはタイのチェックポイントの兵士に賄賂を支払うこともありました。車の中から荷物
をつみ降ろさなくてはならないこともありました。特にシャン州でのチェックは厳しいものでし
た。またある時、私たちはメ・ホン・ソンを出発してようやくシャン軍のキャンプに到着した所、
その近くに 3000 人規模のタイ軍の部隊が配備されたばかりでした。ビルマ軍がタイ国境で発砲
したのが、タイ軍に対する宣戦布告と見なされたのです。後方にはタイ軍が、そしてキャンプか
らたった 2 マイル先の前方にはビルマ軍がいるという状況はとても嫌なものです。そこでは約 3
週間足止めをくらいました。特に夜になると銃声が鳴り響き、それはとても恐ろしい体験でした。
家で待つ息子の顔が頭に浮かび、二度と彼に会えないのではないかと心配でした。しかし、それ
でも日中は撮影を続けました。
ほとんどの難民が生まれて初めて撮影機材を目にします。そこで私たちは彼らにカメラのファイ
ンダーを覗いてもらい、ヘッドフォンで音を聞かせ、我々が持ち込んだこれらの最新技術に慣れ
てもらう事に時間を費やしました。ここではシャン語を話す通訳が必要でした。
治安状況は改善せず、結局私たちは歩いてジャングルを出てタイ側に戻ることになりました。茂
みに隠れながらの移動です。食料と水は底をついていました。
またABSDF(All Burma Student Democratic Front、全ビルマ学生民主戦線)への取材では、
まずメソットから車で国境を流れる河へ移動しました。そこには木製の簡単なボートが二隻、私
たちを待っていました。この時はビルマ軍だけでなく、いくつかの丘に駐屯地を設置していたタ
イ軍も注意する必要がありました。ABSDFの兵士の多くは 1988 年にヤンゴンを脱出した元
学生であったため、言葉の問題はそれほどありませんでしたが、それでもやはりビルマ語の通訳
が必要でした。
ベースキャンプでの 2 日間にわたるインタビュー取材の後、彼らはカレン族の反軍事政権武装組
織の兵士と偵察へ出ることになりました。そこで私たちは何時間にもわたる交渉の末、司令官か
ら彼らに同行する許可を得ることができました。日が暮れる頃、私たちは機関銃や砲弾で重装備
した兵士たちと共に出発しました。旅程は厳しく、斜面を登っては下り、食料と水は限られてい
ました。民間人と出会うことはなく、少し離れたところでは銃声が響いていました。地雷が埋め
られているため、細い道から一歩たりとも外れて歩くことは禁じられました。夜は簡易の小屋を
設営して反軍事政権武装組織の兵士と寝泊りを共にしました。
私は唯一の女性だったので特別に
一人用の小屋を与えられましたが、私はそれを断りました。翌日、日の暮れた頃、ビルマ軍とそ
のスパイが近くに来ているので、もうこれ以上一緒に進むことが出来ないと伝えられました。私
たちは、IDP(国内避難民)達を取材したいため、どうしても同行を続けたいと頼みました。
しかし彼らは、これ以上私たちが同行することはあまりにも危険であると同時に、今後、敵と遭
遇した際のことを考えると私達が彼らの足手まといとなりかねないと言われたため、受け入れざ
るを得ませんでした。数名の兵士にガイドしてもらってキャンプに引き返した私たちは、その数
日後タイ側に戻りました。私たちを待っていた車両でメソットの出発点に戻りました。
撮影チームはバンコクからスイスへ帰国しましたが、私は残りました。ビルマ国内のIDP(国
内避難民)の置かれた悲惨な状況を取材することを諦め切れなかったからです。そして遂に何と
か頼み込んで別の立ち入り禁止区域を見学することができました。仲間の難民と反軍事政権武装
組織の兵士にガイドを頼み、私は再び、戦いが続くジャングルへと入っていきました。ジャング
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ルの中で隠れながら生活する大小いくつかの避難民のグループに出会うことが出来ました。私に
とってそれは今までにないほど心を打たれる経験でした。女性や子供、若者や老人は植物の根や、
僅かな食料を食べながら身を潜めて生き延びていたのです。これらの食料がとても貴重であった
にもかかわらず、彼らは常に最初に私に差し出してくれたのです。しかし、私はその食事を受け
取るわけにはいきませんでした。私たちは予め自分たちの食料を備えてきていたので、それを彼
らと分けて食べました。多くの人がマラリアや悪性の結核の兆候である咳をしていました。彼ら
の話を聞くまでもなく、彼らの悲しい眼差しに私は幾度も涙しました。彼らの話しは想像を絶す
る暴力的な体験談ばかりでした。スイスに帰国して数ヶ月経ってからも、私は彼らの悲しい物語
を思い出しては眠れない夜を過ごしました。
このドキュメンタリーの役割
この映画の役割は、世界に向けてビルマで続いている深刻な人権侵害について知らせることです。
撮影を始めた頃、世界は全くこれらの問題に関して関心を示していませんでした。多くの人はこ
れほどまでに問題が深刻であることを信じようとしませんでした。スイスの国営放送も当初は私
の企画書に対して疑念を抱いていました。資金調達は非常に困難で、何名かの個人の寄付者が撮
影開始を可能にしてくれたのです。しかし映像を公開すると同時に状況は変わりました。スイス
政府からは素晴らしい手紙をもらい、また世界中の多くのNGOから感謝の意が伝えられ、彼ら
はジュネーブの国連のメンバーを対象に試写会を企画してくれました。そして国連ビルマ特使の
ララー氏とピネイロ氏、さらにはジュネーブの国際赤十字委員会はこの映画を重要な証拠映像と
して認めることを公表したのです。
また、この映画は数多くの世界の映画祭で上映されました。その都度、観客からは、こうした事
実を今まで知らず大変な衝撃を受けた、といった内容の手紙やメールを受けました。多くの人々
がこの映画を支持してくれましたし、中には国内避難民や難民のための食料援助という形で寄付
してくれた方々もいます。このような形で映画が人々に伝わることは私にとって幸せな事でした。
「任務を遂行できた」という気持ちにさせてくれました。なぜなら、この映画に協力してくれた
全ての人々、特にインタビューに応じてくれた人々に対して、この映画の目的は、ビルマの人々
の日常的な惨劇を世界に伝えることであると説明していたからです。
すると彼らの眼差しに一点
の希望の光が見えるのです。きっといつの日か国際社会の介入によって厳しい現状から解放され
るという希望の光です。
2007 年の 9 月末におきた市民デモ以後、この映画には新しい意義と価値が付加されました。あ
れ以来、いくつものヨーロッパのテレビ局が私の映画を流し、ビルマ問題に強い関心を示してい
ます。活字メディアによる取材も増え、公の討論会やビルマに関する講演会に呼ばれるようにな
りました。
世間でやっとビルマの問題が関心を集めるようになって私は感謝しています。もっと早くからそ
うあるべき問題であったのです。しかし、再び問題を風化させないことが今後の課題です。
(2007 年 12 月、スイスにて)
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証言集 (映画『ビルマ、パゴダの影で』より)
1988 年、私が暮らすワーカーに軍が重装備で攻撃してきました。多くの寺院は炎に包まれ、私
の弟子たちは皆逃げました。以来、この難民キャンプに住んでいます。当時、多くの僧侶が逮捕
され、そのまま刑務所に入れられた者もいます。幸い私は釈放されましたが、今も多くの僧侶が
拘束されています。
(タイ、ウンピエムマイの難民キャンプに暮らす仏教の僧侶)
植民地時代、日本による統治、そして独立から今に至るまで新たなイスラム寺院は建てられてい
ないだけでなく、多くの寺院が破壊されました。その中には 300∼400 年前のものもあります。
軍事政権発足以降、イスラム教徒の状況は変わりました。社会的、宗教的、政治的、経済的に地
位が低くなりました。しかし、最も悲惨なのは間違いなく現在です。
(タイ、ウンピエムマイの難民キャンプに暮らすイスラム系難民)
私たちカレン民族は静に暮らしていました。しかしビルマ軍は私たちを襲撃し、殴り、拷問しま
した。私たちカレン民族を人間扱いせず、滅ぼそうとしています。
(タイ、ウンピエムマイの難民キャンプに暮らすキリスト教の神父)
5 日ほど前にこのキャンプに着いた。今は無理だが、平和になったら故郷に帰るつもりだ。ビル
マ軍の兵士が来て男も女も見境無く拷問し、
家に火をつけていった。中には殺された村人もいる。
1975 年からビルマ軍による迫害を受けてきた。だからジャングルに隠れていた。ビルマ軍兵士
は私たちの畑や備蓄庫を焼き払い、一帯に地雷を埋めていった。
(タイ、メーコーカーの難民キャンプに暮らす難民の男性)
迫害から逃れる生活は 27 年になるよ。ビルマ軍兵士が去ると村に帰り、連中が戻ってくると逃
げる。彼等は来るたびに家や穀物を焼き払う。2000 年末は最もひどく、数人が殺され多数が負
傷した。
(タイ、メーコーカーの難民キャンプに暮らす難民の男性)
ビルマ兵に両親を殺された。兵士が来た時、父は母のために薬を買いに行こうとしていた。その
父を彼等は撃った。その後、兵士は家に押し入ってきて病気の母まで撃ち殺したんだ。
(タイ、メーコーカーの難民キャンプに暮らす難民の青年)
プローロークローからデコーロークローに逃げてきた。5 日間、家族と共に必死で逃げ続けた。
逃げる途中で多くの難民と合流し、国境を越え、キャンプに着いたときには 5 月末だった。ここ
には眠れる場所があるし、食べるものだってある。でも難民キャンプは私たちの村ではない。だ
からちっとも幸せとは思えない。私たちは将来が不安で仕方ないんだ。
(タイ、メーコーカーの難民キャンプに暮らす難民の父親)
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事件がおきた 1988 年、私はマンダレー医科大学の最終学年でした。チャウセーという故郷の町
で結成された学生自治会の活動に参加していました。88 年のデモ行進に参加していた私は逮捕
され、多くの人と共に拘束されました。その間、私たちは何度も拷問を加えられました。私たち
の認識では平和的な手段では目的を達成することが出来ません。だからジャングルに逃げ込み、
反政府勢力武装組織に加わったのです。そして全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)を結成し、戦い
を続けています。
(コータンゲー、全ビルマ学生民主戦線 ABSDF のリーダー)
全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)に入隊してまだ 2 日目ですが、民主化が実現するまで戦い続け
るつもりです。個人的には人を殺したくないし殺されたくもない。でも今が決断の時なのです。
絶え続けるのか、戦うのか。民主化を実現させ民族の人権を守るためには軍事政権を倒すしかあ
りません。そのためには他の武装組織と手を組んで戦う必要があります。
(全ビルマ学生民主戦線 ABSDF の兵士)
私たちはアウンサンスーチーを支持しています。
それでも武器を持って戦うことが現政権を倒す
唯一の方法だと信じています。私たちは武器を持ち戦っています。
(全ビルマ学生民主戦線 ABSDF の兵士)
しかし一方では人々のために社会的、政治的活動も行なっています。自由への戦いを家族は誇り
に思うでしょう。
(全ビルマ学生民主戦線 ABSDF の兵士)
我々カレン民族同盟(KNU)はビルマ国内において最初に生まれた反政府組織だ。その後、他の
民族と手を組むようになった。独裁政権を倒すために彼等と助言し合って戦っている。軍はビル
マ人だけで統治したいのだ。この国の権力を他の民族と共有することを拒んでいる。1977 年に
マウンエイ准将はこう発言した、「それほど遠くない将来、カレン民族は滅び去り、博物館の中
だけで見られるだろう」と。
カレン民族解放軍(KNLA)の目標はカレン民族を解放することだ。軍事政権が KNLA を完全に滅
ぼそうと躍起になっていることはよく分かっている。だが神はいつでも我々の味方だ。
我々は 1949 年から独裁者たちと戦い続けてきた。解放軍の兵士が常に敵を監視している。敵は
近くにいるはずだ。我々は敵であるビルマ軍と戦い、
村人に危険を知らせる。
村人に出くわすと、
ビルマ軍は必ず発砲する。相手が老人でも女や子供でも意に介さない。
(ボーミャー将軍、カレン民族解放軍 KNLA のリーダー)
3 年前、民主カレン仏教徒軍(DKBA)の兵士になった。村に来たビルマ軍に脅されたからだ。
「入
隊しなければ村を焼き、女は連れ去る」と。
武器を持つ理由がわからなかった。ある日、上官が言ったんだ。
「カレン民族同盟(KNU)が仏教
徒を排除したがっている」と。僕が聞かされたのはそれだけだった。
(民主カレン仏教徒軍 DKBA の脱走兵)
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DKBA の徴兵の方法は、まず村長に勧誘の手紙を送り、村長が返事を出さないと軍の司令官が村
に乗り込んでくる。そして村人たちに暴行したり、家を焼き払ったりする。新兵希望者が出るま
で決してやめない。
僕は村人を荷物運びとして連行した。大抵は男たちを選らんだ。でも男がいない場合は女を連行
した。
(民主カレン仏教徒軍 DKBA の脱走兵)
パトロールに出る時は国家平和開発評議会(SPDC)の兵士と同行しなきゃならない。そこではヤ
ーバという麻薬を渡された。最初、僕たちはやらなかった。日が経つと疲労が溜まってきた。睡
眠を禁じられる日などは無理やりヤーバをやらされるんだ。あのまま逃げず軍にいたら、今頃僕
は依存症になっていただろうな。
ヤーバは上官から渡された。ヤーバをやっていれば眠くなることもないし、全く疲れを感じない
と説明された。
(民主カレン仏教徒軍 DKBA の脱走兵)
軍での扱いはひどかった。もう耐えられないと思った。それが軍を脱走した理由だ。
(民主カレン仏教徒軍 DKBA の脱走兵)
彼等は夜中に来た。私たちは皆寝ていたが、皆起こされてこう言われた「俺たちのために食事の
支度をしろ」私が料理を作っている間に夫を連れて行った。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の女性)
よくやらされたのは柵の建設や水路を掘る作業だ。最後の労働は 15 日間続いた。その後逃亡し
た。逃げなければ今もあそこにいただろう。ポーターは 3 回もやらされた。1 回目は 29 日間も
開放してもらえなかった。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の男性)
ワンピンとノンパンが戦闘状態になった時、ポーターとして借り出されたんだ。私の体を荷物に
縛りつけ、連中の身を守るための盾にされた。ビルマ軍の兵士が俺の肩越しに銃を撃つんだ。気
が遠くなりそうだったよ。生きた心地がしなかった。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の男性)
夫を亡くした。ポーターの仕事から戻って 7 日後に死んだわ。血尿が出ていた。重たい荷物のせ
いよ。荷物運びを断ったら兵士に殴られたわ。子供がいるから行けないと言ったの。よく殴られ
たわ。つらかったけど逆らえない。殴られて歯が折れたときは気絶しそうだった。ものすごい力
でなぐるから。泣いても容赦しなかった。走って逃げることが出来る人は脱走に成功したでしょ
う。それが出来ない人は、私のように殴られる。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の母親)
親と一緒に来た子もいます。しかし多くの子は孤児でシャン州軍の兵士が連れてきます。ビルマ
軍兵士に両親を殺され村を焼き払われた子たちです。重労働の末、親を失った子たちもいます。
シャン語は消滅寸前です。シャン語の授業をビルマ軍が禁じたせいです。でもここでは教えます。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の教師)
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仕事がない時は夜明けに起床し、みんなのために料理や掃除をするの。6 人で 14 人分の食事を
準備する。支度は朝の 3 時から。昼食は午後 1 時から。仕事が無いときは別に何もしない。夜に
は洗い物があるし、昼は宿題がある。
大人になったら教師になって故郷で教えたい。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の孤児の少女)
10 日前から先生の家に泊まっている。キャンプまではジャングルを1ヶ月ぐらい歩いてきた。
上り坂のときは泣いたけど、下り坂は平気だった。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の孤児の少女)
キャンプに来て 2 年になる。両親は農民だった。僕が 8 歳の時、ビルマ軍兵が来て父さんは連行
され、戻ってこなかった。シャン州軍兵士の妻という理由で母さんは告発された。政府の人たち
がやってきて村道の西のほうに母さんを引っ張っていき殺したんだ。
勉強ができることは幸せだと思うよ。勉強したおかげで読み書きを覚えた。でも嬉しくない。親
がいないんだから。両親が僕にしてくれたことへの恩返しもできないなんて。親孝行もできない。
「ありがとう」も言えないんだ。
昔そうだったように、もう一度このシャン州が平和になってほしい。ビルマ軍から逃げる生活は
もう嫌だ。将来の夢はシャン州軍兵士。ビルマ軍に迫害されているから。教育を許されず、帰る
故郷もない。親も殺された。復習したい。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の孤児の少年)
家族は僕とお兄ちゃんと二人だけ。父さんと母さんをビルマ人が撃ったとき、僕とお兄ちゃんは
田んぼにいた。遠くにいたから助かった。父さんたちは逃げようとしたけど 2 人ともビルマ軍兵
士に撃たれた。それから僕の家を焼き払った。弾はお父さんのおでこと、おなかに当たった。母
さんは首と目を一発ずつ撃たれた。母さんは枝に覆われ頭を南に向けて倒れていた。緑色のブラ
ウスを覚えている。父さんたちが死んだのを見て、僕は川を渡ってジャングルに 2∼3 日隠れて
た。そこへ叔父さんやシャン州軍の兵士が来た。僕は両親が殺されたことを叔父さんに話した。
その後、しばらくしてここに来た。
将来はシャン州軍の兵士になりたい。ビルマ軍の兵士が憎いから。両親を殺したんだ。兵士にな
ってビルマ軍を撃つんだ。
両親には生きていてほしかったさ。でも、もういないんだから会えない。
(タイ、ロイタイレン難民キャンプに暮らすシャン民族の孤児の少年)
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
監督プロフィール/フィルモグラフィー
アイリーヌ・マーティー Irene Marty
1958 年 9 月 27 日、スイスのアルトドルフ生まれ
2 人の姉妹と 3 人の兄弟と幼少期をスイスで過ごし、大学卒業後に世界旅行に出る。
1979 年、カリフォルニアのサンフランシスコに移り、アメリカとアジアでドキュメンタリーを製作するZDFテレ
ビのアシスタント・プロデューサー兼助監督を務める。その後、アメリカの映画業界でプロダクション・マネー
ジャー兼、助監督としてキャリアを積み、1985 年に帰郷。
スイス国営放送局にて生放送のエンタテインメント及び情報番組のディレクターとしてのトレーニングを 2 年
間受け、1990 年に KAIROS-Film を設立、その後はフリーランスの監督、ライター、プロデューサーを務め
る。2005 年には aproposfilm を設立し、代表および監督、作家として活躍。
KAIROS-Film 設立以来、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジアで様々な作品を撮っている。
1990/1991
KARIBU-Swiss Development aid in Africa(ドキュメンタリー/45 分)
BUGURUNI-Place of hope(15 分)
OASE HANDENI-The Maasai(10 分)
1992/1993
GRAND CANYON-A radiant monument…?(ドキュメンタリー/52 分)
THE KOKAIN-CARTELL-The white powder of South America(ドキュメンタリー/30 分)
THE RED POLYA-Whale fishing in Russia(ドキュメンタリー/45 分)
1994/1995
Along an old Eskimo route(10 分)
The frozen melodies of TSCHUKOTKA(10 分)
Animals of our planet animals of the Alps(TVシリーズ/12 分 x13 回)
DAVOS-SCHATZAPL-Trophy (ドキュメンタリー/60 分)
FING RS- artifical finger nails (コマーシャル/6 分)
From the ox-cart to the solar mobile-The developing of mobility(TVシリーズ/15 分x12 回)
Xian-the life of an Elephant-baby(18 分)
1998
Adventure ZOO(PR映像)
1999
Mingalaba-school of deaf in Rangoon(15 分)
2000
Life with Diabetes(短編)
2001-2004
『ビルマ、パゴダの影で』 In the shadow of the pagodas-the other Burma(ドキュメンタリー/
52 分・74 分)
2004-2005
Conspiracy?(ドキュメンタリー/26 分)
2005-2006
Deported-the unbelievable story of Stanley Van Tha(ドキュメンタリー/52 分)
2007
On the road to the world record(ドキュメンタリー/52 分)
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
『ビルマ、パゴダの影で』が上映された世界の映画祭
2004 年
3月
3 月-4 月
5月
8月
9月
10 月
11 月
11 月
11 月
12 月
パリ・アリアンス・シネ/フランス
ボローニャ・ヒューマンライツ国際映画祭/イタリア
ウェスト・ハリウッド・アムネスティー国際映画祭/アメリカ
サンフランシスコ・アムネスティー国際映画祭/アメリカ
ソルトレイク・シティー映画祭/アメリカ
バルセロナ・ヒューマン・ライツ映画祭/スペイン
シアトル・アムネスティー国際映画祭/アメリカ
バンコク外国人記者クラブ/タイ
エドモントン・グローバル・ビジョン映画祭/カナダ
ブダペスト・アフリカ‐アジア・フォーラム/ハンガリー
2005 年
1月
3月
3 月-4 月
4月
6 月-7 月
8 月-9 月
9月
9 月-10 月
11 月
11 月
ソロサーナー・フィルムタージュ/スイス
ジュネーブ人権映画祭/スイス
パリ人権映画祭/フランス
シンガポール人権映画祭/シンガポール
ボゼン人権週間/イタリア
ソウル人権映画祭/韓国
ベニス人権映画週間/イタリア
カトマンドゥ、フィルム・サウス・エイジア 05/ネパール
ハウス・オブ・ワールド・カルチャー/ドイツ
ローマ・インコントリ・コン・イル・シネマ・アシアチコ/イタリア
2006 年
7月
シューティング・レフト・台北アジア映画祭/台湾
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
基礎情報
正式国名
ミャンマー連邦 Union of Myanmar
面積
約 67 万 8500km2(日本の約 1.8 倍)
人口
5322 万人−2004 年ビルマ(ミャンマー)政府統計
首都
ネーピードー Naypyidaw(2006 年 10 月にヤンゴンより遷都)
元首
タン・シュエ国家平和開発評議会議長
政体
軍政。国家平和開発評議会(SPDC:the State Peace and Development Council)
民族構成
ビルマ族約 70%、シャン族 8.5%、カレン族 6.2%、ラカイン族 4%、華人 3.6%、
モン族 2%、インド人 2%など(現政権の発表によると国内には 135 の民族が居住)
宗教
国民の 85%が仏教徒(主に南方上座部仏教)
、キリスト教徒 4.9%、イスラム教 4%、
ヒンドゥー教、アニミズムなど
<国名の呼称について>
1989 年 6 月 18 日、軍事政権は国名の英語表記を Union of Burma(ビルマ連邦)から Union of
Myanmar(ミャンマー連邦)に改称した。これに対し、国連や関係国際機関は、軍事政権が代表
権を持つため「ミャンマー」を承認。アメリカ、イギリス、オーストラリア政府などは「Burma」
とし、EU は「Burma」と「Myanmar」を併記している。日本政府も軍事政権を承認し、日本語の
呼称を「ミャンマー」と改めた。
日本のマスコミは外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めるか否かによって「ビルマ」を使い
続ける事もある。国際的に軍事政権の正当性を否定する際は、改名が軍事政権による一方的なも
のだとし変更を認めていない。また主要な人権団体は「Burma/ビルマ」の呼称を続けている。
<地理>
7 つの管区と 7 つの州に分かれる。管区は、主にビルマ族が多く居住する地域の行政区分。州は、
ビルマ族以外の少数民族が多く居住する地域となっている。
管区
エーヤワディ管区
ザガイン管区
タニンダーリ管区
バゴー管区
マグウェ管区
マンダレー管区
ヤンゴン管区
州
カチン州
カヤー州
カレン州
シャン州
チン州
モン州
ラカイン州
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
ビルマ(ミャンマー)近現代略年表
1886 年
1942 年
1946 年
1947 年
1948 年
1962 年
1988 年
1989 年
1990 年
1991 年
1993 年
1995 年
1996 年
1997 年
2000 年
2002 年
2003 年
2004年
2005年
2006年
2007 年
2008 年
全土が大英帝国の植民地に
日本軍による占領
アウンサン将軍ら一斉抗日蜂起。英領復帰
アウンサン将軍暗殺される
英国から主権を回復、ビルマ連邦として独立
ネウィン国軍総司令官がクーデターで政権奪取、軍事政権開始
全国的な民主化運動の盛り上がりでネウィン政権が崩壊するが軍のクー
デターでソウ・マウン参謀総長を議長とする国家法秩序回復評議会
(SLORC)が全権掌握。民主化運動側は国民民主連盟(NLD)を結成し、
アウンサンスーチーが総書記長となる
国名をユニオン・オブ・バーマからユニオン・オブ・ミャンマーに改称
軍政がアウンサンスーチーを自宅軟禁(1 度目)
総選挙でNLDが圧勝するが軍は政権移譲を拒否し民主化運動を弾圧
アウンサンスーチーがノーベル平和賞受賞
新憲法制定に向けた国民会議始まる
アウンサンスーチーの自宅軟禁解除、NLDが国民会議をボイコット
軍政が国民会議の審議を中断
SLORC が国家和平開発評議会(SPDC)に改名。ASEAN 加盟
アウンサンスーチー、再度自宅軟禁(2 度目)
アウンサンスーチー、自宅軟禁解除
アウンサンスーチー、全国を遊説
遊説先で暗殺未遂事件、身柄拘束、自宅軟禁(3 度目)
国民会議を 8 年ぶりに再開。NLD は不参加
7 月、ASEAN 議長国就任(2006 年予定)を延期(辞退)する
首都をヤンゴンからネピドーに移転
9 月、国連安保理がビルマ問題を正式議題として採択
1 月、国連安保理でビルマ(ミャンマー)非難決議案に中ロが拒否権行使
4 月、北朝鮮と国交回復
8∼9 月、燃料値上げを機に 88 年以来最大の民主化運動。
全国で大規模デモ頻発
9 月 18 日、ヤンゴンで僧侶と市民ら合わせたデモ
27 日、軍の発砲によるデモ鎮圧
取材中のビデオ・ジャーナリストの長井健司さん銃殺
1 月 11 日に首都ネピドー、13 日にとヤンゴン、16 日にバゴーで相次ぐ爆
破事件勃発
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
キーワード
協力:アムネスティ・インターナショナル日本、ビルマ市民フォーラム、ビルマ情報ネットワーク
アウンサンスーチー
ビルマ
(ミャンマー)
の 1990 年総選挙で議席の 82 パーセントを獲得した国民民主連盟
(NLD)
の書記長。イギリスからの独立を主導した「建国の父」アウンサン将軍の長女として19
45年6月19日、ラングーン(ヤンゴン)に生まれる。1988 年、病気の母を看護するため
に帰郷したビルマでは学生を中心に始まった反政府運動(8888 民主化運動)が激化。戒厳
令下の 8 月 26 日に、彼女はシュエダゴン・パゴダ前集会で 50 万人に向け演説を行う。翌
1990 年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加するが、民
主化勢力を恐れた軍事政権の手によって拘束、1989 年から 1995 年まで自宅軟禁の状態に置
かれる。非暴力民主化運動のシンボルとして世界が注目するなか、1991 年にノーベル平和
賞を受賞。自宅軟禁解放後も民主化運動を継続し、2000 年 9 月から 2002 年 5 月まで再び自
宅軟禁状態に置かれる。
さらに 2003 年 5 月末にビルマ北部で起きた襲撃事件をきっかけに、
拘束され、現在も 3 度目の軟禁状態にある。
8888 民主化運動と学生グループ
ビルマで 1988 年 8 月 8 日に学生がラングーンで最初のデモを始めたことから始まった平和
的な民主化要求運動。当時の軍事政権、国家法秩序回復評議会 (SLORC) の武力弾圧により
運動は 19 月 18 日に終息。学生と僧侶を含む数千人の市民が軍により殺害された。
抗議行動のリーダーとなった学生たちの多くは投獄され、長期にわたる拘束中に拷問を受
けた。釈放されてからも軍政の監視下に置かれ、一挙一動が当局に報告されていた。
全ビルマ学生民主戦線(All Burmese Student Democratic Front: ABSDF)
8888 民主化運動の中心を担った学生たちの一部は、軍事政権の成立前後、逮捕・弾圧の危
険を感じ取り、タイ・ビルマ国境地帯に脱出し、そこで 1948 年以来反政府闘争を続けてい
るカレン民族同盟(Karen National Union: KNU)を筆頭とする少数民族武装勢力と合流、
全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)を結成。
カレン民族同盟(Karen National Union: KNU)
カレン民族解放軍(Karen National Liberation Army KNLA)
カレン民族同盟(KNU)は少数民族のカレン民族による反政府運動。ミャンマーの反政府武
装組織としては最大の規模を誇り、ミャンマーとタイ国境地域に解放区・コートレイ
Kawthoolei を持つ。カレン民族同盟とミャンマー(ビルマ)連邦政府との武装闘争は 1948
年までさかのぼることが出来る。カレン民族同盟は武装闘争の過程で軍事組織としてカレ
ン民族解放軍(KNLA)を結成している。KNU は 1976 年から 2000 年までボー・ミャ議長が最
高指導者として君臨していた。KNU の主な活動資金源は、ミャンマーとタイの国境地帯で闇
市場での密貿易を管理することによって得ていた。1988 年軍事政権に対する反政府暴動後、
ミャンマー軍事政権は中国に接近し援助を得たことで軍事力を強化した。これに先立つ
1992 年から軍事政権は少数民族武装勢力へ停戦か戦闘継続かを選択させ、多くの少数民族
と停戦に合意していった。1994 年に連邦軍の攻勢により、KNU の勢力圏は縮小した。また、
KNLA の一部の仏教兵士は、民主カレン仏教徒軍(DKBA)を称し、軍事政権側へ離反した。
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
連邦軍の攻勢後も KNU と KNLA はゲリラ部隊を作り連邦軍との間で武装闘争を継続するとと
もに、ミャンマー・タイ国境地帯に根拠地を設営し一定の支配領域を確保した。現在、タ
イ国内の難民キャンプには内戦を逃れた約 12 万人のカレン民族が生活している。軍事政権
(国家平和発展評議会)との間で和平交渉を継続しているが、実質的には軍事政権側の圧
力と国際社会の支援の薄さによって KNU は劣勢を強いられている。現在はビルマ連邦国民
評議会に参加している。
ビルマ(ミャンマー)の人権状況
長年抑圧的な軍事政権が続いているビルマの人権状況は劣悪である。
人びとは、許可無くFAXを所持することも、インターネットを使用することも、5 人以上
の集会を開くこともできない。メディアなどの「表現の自由」
「報道の自由」は極端に制限
されており、あらゆる政治的活動が禁止されている。公共の場で「アウンサンスーチー」
の名を口にすることすらできない。彼女が総書記を務める NLD(国民民主連盟)は政党とし
ての存在こそ許されているが、国内で活動することはほとんど不可能である。当局への密
告者は街のいたるところにおり、密告され、疑いがもたれると、公正な裁判もなく 7 年以
上の禁固刑に処せられてしまう。逮捕されれば拷問が待っている。家族も脅威にさらされ、
不当に殺されることもある。ビルマでは、そのようにして不当に逮捕された政治囚が未だ
に1000人以上も拘留されている。彼らの拘留されている刑務所の環境は劣悪であり、
拘禁中に病気で死亡する例も少なくない。
2007 年9月のデモ弾圧
2007 年 8 月 15 日に燃料費が最大 5 倍に大幅値上げされ、それにともなって物価も上昇、国
民生活を直撃した。国民の間には、かねてから軍事政権の経済失政や生活環境の悪化に不
満が募っており、人びとの尊敬を集める僧侶たちが国民の声を代弁する形で抗議行動に出
た。9 月 5 日、中部パコクで燃料費値上げに抗議するデモを行った僧侶たちに対し兵士が威
嚇発砲し、拘束の際に僧侶に暴行、負傷させた。僧侶たちは軍政に謝罪を要求し、謝罪期
限が過ぎた 18 日から数千人規模のデモを各地で開始。デモは各都市に広がり、僧侶の主導
のもと学生や一般市民が参加し始めた。デモの要求内容は燃料費値下げ・生活改善から、
次第に政治色を強め、アウンサンスーチーとの対話や軍政そのものの退陣にまで及んだ。9
月 24 日にはヤンゴンでのデモが十万人に達しました。これに対して軍政当局は、9 月 25 日
に夜間外出禁止令を出し、治安維持部隊による夜間の僧院の急襲を皮切りに、ヤンゴンや
マンダレーなど多くの都市で暴力的な弾圧を開始。9 月 25 日だけで約 300 人が逮捕され、
数人が死亡したと報告されているが、その後も死傷者、逮捕者は増え続けた。このように
弾圧を受けながらも、デモは連日続けられた。
日本人ジャーナリストの長井健司さんは取材中に至近距離から射殺された。
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
「もうひとつのビルマ」を知ることの意義
根本 敬(上智大学外国語学部教授 / ビルマ近現代史)
作品のタイトルが監督の思いを率直に表している。パゴダとは上座仏教国における仏
塔のことで、国民の 90%近くを上座仏教徒が占めるビルマでは、常に文化や歴史の象徴
として紹介される。仏塔は本来、ゴータマ・シッダールタ(仏陀)の遺髪などが納めら
れていると解釈され、信徒たちは出家者の修行の場である寺院に赴いて僧侶の世話をし
たり説法を聞いたりするほかに、在家信徒の信仰の場であるパゴダにも日常的に訪ねる。
パゴダは農村部や都市部を問わずビルマの各地に存在し、そこでは境内にひざまずいて
熱心に祈りをささげる人々を常にみかける。いくつかのパゴダは国際的にも知られる観
光名所となっている。
しかし、パゴダに象徴される「麗しい」ビルマも、その影には「もうひとつの」側面
が存在する。それは仏教国のイメージからは程遠い「醜い姿」のビルマである。「醜い
姿」といってすぐに思い浮かぶのは、軍政による人権侵害、民主化への不熱心、そして
アウンサンスーチーに対する不当な扱いなどであろう。しかし、この作品がとりあげて
いる「醜い姿」のビルマとは、軍事政権に圧迫されたために村々を追われ、時に焼き討
ちや暴行に遭い、山々の中のジャングルを逃げ回る主に少数民族からなる国内避難民た
ちや、彼らの最終的な行き先でもある陸の国境を越えたタイ側のキャンプに住む難民た
ちの深刻な現実のことを指す。
キャンプ在住のビルマ難民に関しては、国際 NGO や国連の難民高等弁務官事務所
(UNHCR)などが支援しているとはいえ、帰国の展望が持てず、第三国に定住する方向
も定まりにくく、置かれている状況はけっして良いといえない。その数はすでに 20 万
人を大きく超えている。この作品の原題(In the Shadow of the Pagodas)に「もうひ
とつのビルマ」(The Other Burma)という副題がついているのは、こうした事実を端的
に表したいアイリーヌ・マーティー監督の意向が反映されているからである。マーティ
ー監督はビルマの国内避難民や流出難民の側に立って、リスクを伴う何度にもわたる現
地取材と撮影を通じて、1990 年代後半から 2003 年前後までの状況を、彼らの証言を中
心に映像でまとめている。そのことを通じて、国際的に知られることの少ない「もうひ
とつのビルマ」を直視した貴重なドキュメンタリーを完成させている。
もっとも、ビルマ近現代史を専門とする人間から見て、いくつか誤解を生じかねない
曖昧な表現方法や、解釈の単純化、説明の誤りが見られるのも事実である。たとえば、
危機的状況に置かれているアラカン州西北部に住むイスラム教徒のロヒンギャー民族
の問題を訴えるシーンで、画面に映し出されているのは同州在住の彼らとは異なる別の
イスラム教徒たちの礼拝風景である。またシャン州の市場を映した場面で女性しか目に
入らないことを問題視して「男たちはいったいどこへ?」という、あたかも男性が何ら
かの政治的理由で姿を消してしまったかのような説明をしているのも気になる(ビルマ
の市場は日常的に「女性の世界」である)。さらに、旧王都マンダレーの王宮跡にビル
マ国軍が駐屯地をつくった時期を軍政下にはいってからと説明しているのも誤りであ
る(王宮跡には英国植民地期から植民地軍が駐屯し、独立後も早期からビルマ軍が駐屯
地としてその一部を利用していた)
。しかし、これらの問題点が作品全体の価値を貶め
るということはなく、監督が伝えたい「もうひとつのビルマ」の本質は、この作品にし
っかり表現されている。
昨年(2007 年)9 月後半に起きたビルマにおける僧侶と市民による非暴力デモに対す
る封じ込めでは、ビルマ軍政は軍部隊を動員してデモ隊に実弾による水平射撃をおこな
わせ、関係僧院を襲撃、僧侶を数千人逮捕し、強制還俗させるといったバランスを逸し
た強硬策を講じた。この背景には、軍事政権による国民全体に対するぬぐい難い蔑視と
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
不信感が存在する。国民を「敵」とみなす感覚が基本にあるからこそ、あのようなこと
ができるのである。ビルマで軍が政権を実質的に奪取したのは 46 年前の 1962 年 3 月に
まで遡るが、このとき以来、ビルマ国軍は議会制民主主義を否定するようになり、それ
を支える認識は「国民は党利党略に走る政党に騙されやすく国益を考えようとしない存
在だから」というものであった。彼らの歴史を少しだけ辿ってみよう。
1948 年 1 月に英国植民地から独立を達成したとき、ビルマは少数民族の自治権を一
定程度認める連邦制と、複数政党制に基づく議会制民主主義を採用、社会民主主義的国
家としてスタートを切った。その際、国防(軍事)は憲法によってシビリアン・コント
ロール(文民支配)の下に置かれた。しかし、独立直後にビルマ共産党とカレン民族同
盟(KNU)による反政府武装闘争がはじまり、左翼的イデオロギーの微妙な違いや利権
をめぐる対立などから軍の中にも分裂が生じ、新生国家はすぐに内戦状態に突入した。
それにくわえて 1949 年末から、中国国民軍(蒋介石軍)の残党が東北ビルマに侵入、
ビルマ国軍は国情の安定回復のために相当な犠牲を出した。こうした危機において敏速
な対応をおこなえなかった議会に対し、国軍は急速に失望感を抱くようになり、国防に
おけるシビリアン・コントロールを排除するようになった。また、選挙のたびに政党が
組織動員をおこなって国民に無責任な公約をばらまくのを見て、それらに「踊らされる」
国民への蔑視を強めた。少数民族問題に関しては、とりわけ英国との親しい関係を有し
たキリスト教徒カレン人に敵意を強め、彼らが中心となる KNU の反政府武装闘争に対し、
全面封じ込めの姿勢で臨んだ。
ビルマ国軍は 1962 年にクーデターを敢行、その後 26 年間「ビルマ式社会主義」とい
う名の中央集権体制を構築し、この間に政治・行政・経済・教育・文化のすべての分野
において軍が直接関与する体制を築き上げた。政治においては軍がつくったビルマ社会
主義計画党(BSPP)による一党支配を貫き、行政においては各省庁の大臣官房(副大臣・
事務次官・官房長)と局長ポストに軍人が天下って支配し、経済においては企業や商店
の国営化を実施して「人民所有」という名の実質的「軍人所有」を実行、教育において
は私立学校の全面国有化とカリキュラム一元化をおしすすめ、国軍中心史観に基づく愛
国教育も推進した。文化においては人的交流の「鎖国」をおこなって外国の影響を最低
限に抑え、ビルマ文化の「純粋培養」を試みた。少数民族については、多数派を構成す
る仏教徒ビルマ民族・文化を核心としたうえで少数民族と彼らの文化を「周辺」に位置
づけ、公教育における民族固有言語の教育も認めなかった。
「ビルマ式社会主義」は 1988 年に全国的な民主化運動によって崩壊するが、国軍は
国民の民主化への希望を無視し、社会主義を捨てたものの政権から降りなかった。これ
が現在まで続く軍事政権(軍政)である。軍政は経済の国有化こそ断念し市場経済に切
り替えたが、市場本位ではない恣意的な経済介入を続け、いまだに数多くの国営企業を
残して軍人の天下りポストを確保している。そのほか社会主義時代の特徴を多くそのま
ま引き継いでいる(官僚機構の支配など)
。政治においては 1990 年 5 月に総選挙を実施
したものの、圧勝したのがアウンサンスーチー書記長率いる国民民主連盟(NLD)であ
ることがわかると、ただちに政権移譲を拒絶して選挙結果そのものを反故にした。
こうしたなか、一般国民は軍政に対する不満を堆積させながらも、なかなか否(NO)
を言う勇気は持てないでいる。希望の星のアウンサンスーチーも通算 12 年以上 3 度の
自宅軟禁措置によって自由を束縛されている。国際社会は当然、表現の強弱はあるにせ
よ、彼女の解放と軍政との対話実現を要求しているが、軍政はそれに応じる姿勢を見せ
ていない。
この間、一貫して「影」の中の「影」に押し込められてきた人々が、少数民族からな
る国内避難民と、タイやバングラデシュに流出した難民たちである。それぞれさまざま
な理由によってビルマ国軍によって迫害を受け続けているが、そこに共通する基本的理
由は、彼ら少数民族が軍政によってコア(核心)となる多数派ビルマ民族の「周辺」に
アップリンク/2008 年 3 月 15 日公開『ビルマ、パゴダの影で』プレス資料
位置づけられていることにある(ロヒンギャー民族の場合は「周辺」ですらなく「不法
移民」扱いである)。コアのビルマ民族に対してすら蔑視や不信の目で見る国軍からす
れば、「周辺」に位置づけられた諸民族はなおさらのこと軽視し、容易に抑圧や搾取の
対象となる。多数派ビルマ民族が運営する国家に不信感を抱いている場合が多い少数民
族の側にとっても、軍政への武装抵抗は簡単にやめることはできない。1990 年代前半
以降、17 の武装勢力が軍政との停戦協定に応じているとはいえ、KNU はいまだ戦闘中で
あるし、そのほかの勢力も停戦協定を和平協定にまで発展させることには二の足を踏ん
でいる。
忘れてならないことは、国内避難民が今日も発生しているという事実である。そして
彼らは必死に国境を目指す。最低限の生活用品のみ抱え、母たちは子を抱きながら、ジ
ャングルの中で粗末な食事と不衛生な水だけを頼りに、国境を目指している。どうした
らこうした人々の再生産をやめさせることができるだろうか。答えはすぐには見つから
ないかもしれないが、そのことを考えるためにも、まずはこの作品を真摯に見てほしい。
問題の所在だけは明確に伝わってくるはずである。