翻訳可能とは何か 道明 源太 2013 年 9 月 14 日 1 1 はじめに 今日、世界では 1000 を超える言語が話されているという。多くの言語には、その言語と密接に 関わる独自の文化・思想があり、その歴史が存在する。にも関わらず我々は、ある言語から別の言 語への翻訳は可能であり、情報の交換は可能であると信じている。翻訳が可能であると信じられる 理由の一つとして、いかなる人間も脳の構造は同じであることが挙げられる。「翻訳可能とは何か」 を考えることは、同時に、人間の脳の構造がどのようなものであるかを考えることに繋がる。 2 翻訳の構造 「翻訳可能とは何か」を考える準備として、翻訳の構造について簡潔に述べる。 2.1 翻訳の本質 翻訳は、主として、ある言語 L1 から別の言語 L2 に向かって為される。 翻訳 L1 −−→ L2 (1) 翻訳の目的は言語 L1 で表された原文の内容を言語 L2 の使用者へ伝達することであり、そのため には言語 L1 で表された記号(文章あるいは単語)を言語 L2 で解釈しなければならない。即ち、 記号(signum)を別の記号で解釈する ことが翻訳の本質である。 2.2 翻訳の分類 翻訳の本質が記号を別の記号で解釈することであるならば、(1) における L1 と L2 は異なる言語 である必要はなく、翻訳は次の 3 種類に分類される [1]。 • 言語内翻訳(言い換え:rewording) 言葉の記号を同じ言語の他の記号で解釈する。 • 言語間翻訳(本来の翻訳:traslation) 言葉の記号を他の言語で解釈する。 • 記号間翻訳(移し替え:transmutation) 言葉の記号を言葉でない記号体系の記号によって解釈する。またはその逆。 例えば、我々が他人の発言を取材・報告する場合に全く異なる単語や言い回しを用いることが言語 内翻訳である。また、目にしたもの(例えば、芸術、音楽、舞踊、映画、絵画など)を言葉に置き 換えることが記号間翻訳である。 2 2.3 言語間翻訳 原文中の単語一つ一つを互いに切り離し、「一語一対応」によって訳された文を逐語訳と呼ぶ。 言語間翻訳において、大抵の場合、逐語訳は不可能もしくはぎこちないものになってしまう。その ような場合、翻訳単位ごとに言語間翻訳が行われる。翻訳単位とは、その記号のまとまりが別々に 翻訳されることを許されないような発話の最小部分であり、「思考の単位」あるいは「語彙的単位」 である [2]。 起点となる言語 L1 から目標となる言語 L2 への翻訳を行うためには、次のような操作が行われ る。まず、翻訳単位ごとに、言語 L1 内で言い換え、即ち言語内翻訳を行い、その内容を理解する。 次に、その翻訳単位を言語 L2 へ翻訳する、即ち言語間翻訳を行う。最後に、言語 L2 に翻訳され た翻訳単位を繋ぎ合わせて全体として言語 L2 内の言い換え、即ち言語内翻訳を行う。 言語内翻訳 言語間翻訳 言語内翻訳 L1 −−−−−−→ L′1 −−−−−−→ L′2 −−−−−−→ L2 (2) このように、逐語訳では不十分な場合の翻訳を行うためには、言語内翻訳が欠かせない。 2.4 3 つの技術 上述の (2) は次の 3 種類の技術を要求する [3] *1 。 • 言語 L1 を読む技術(L1 での言語内翻訳) • 内容を理解する技術(L1 から L2 への言語間翻訳) • 言語 L2 を書く技術(L2 での言語内翻訳) 第 1 の技術によって内容の概念化が行われ、第 2 の技術によって内容の理解が行われ、そして、第 3 の技術によって内容の再表現が行われる。 2.5 基本構造 内容の概念化、理解、そして再表現という動作は翻訳の基本的な構造であり、言語内翻訳、言語 間翻訳、記号間翻訳いずれにも共通する。翻訳の本質は、記号 S1 を別の記号 S2 で解釈することで ある。それは、記号 S1 を概念 C1 に変換(概念化)し、概念 C1 を概念 C2 に変換(理解)し、概 念 C を記号 S2 に変換(再表現)することで達成される。 S1 概念化 S2 ↑ 再表現 ↓ C1 (3) 理解 −−→ C2 ここで、S1 及び S2 が同一言語であれば言語内翻訳であり、S1 と S2 が異なる言語であれば言語間 翻訳であり、S1 または S2 の一方が言語でない記号体系の記号であれば記号間翻訳である。 *1 ただし、[3] では『外国語を読む技術、内容を理解する技術、日本語を書く技術』と書かれている。 3 3 翻訳可能とは何か いよいよ本題に入る。 3.1 安易な結論 いかなる翻訳であれ、もとの記号 S1 と翻訳された記号 S2 は異なる記号であり、そこに必ず差異 が生じる。従って、中立的あるいは透明な翻訳など存在しない。このことから、翻訳可能とは何か に対する安易な結論が得られる。即ち、翻訳は不可能である、という結論である。 翻訳の不可能性を主張する立場は次の 2 つがある [2]。 • 根本的翻訳不可能性 あらゆる言語は決して他の言語に置き換えられない。 • 相対的翻訳不可能性 翻訳は原文を歪曲する。よって、翻訳は直接触れる手段がない場合の代替策に過ぎない。 3.2 翻訳不可能性の排除 根本的翻訳不可能性はいかなるメッセージも伝達できないという直感に基づいている。もし翻訳 が根本的に不可能であれば、他国の知識や考え方をうまく取り入れることができなくなる [3]。と ころが、科学技術であれ、経済の仕組みであれ、金融制度であれ、法律制度であれ、いずれも他国 からの知識や考え方をうまく吸収して、母語で考えた結果を加えてできあっている。これらがなけ れば現代社会は決して成り立たない。この事実から直ちに根本的翻訳不可能性は排除される。 では、相対的翻訳不可能性は排除されるであろうか。翻訳される前の記号 S1 と翻訳された後の 記号 S2 は異なる記号であり、そこに差異が生じることは紛れもない事実である。従って我々は、 あらゆるメッセージの中にあるものが全て伝達できるという確信を持つことはできない。即ち、相 対的翻訳不可能性を完全に排除することは困難である。 今や我々は、「いかなるメッセージも伝達できない」という直感も、「あらゆるメッセージの中に あるものは全て伝達できる」という確信も、持つことができない。我々は、これらを対置するので なく、 「 (伝達され得ない部分があったとしても)何かが伝達され得るのだ」という考えに立つべき である。 現代言語学は、「何かが伝達され得るのだ」という考えに立って、この何かの性質や度合いを追 求・分析している [4]。従って、伝達可能さらには翻訳可能について、現代言語学から考えること は有意義である。 4 3.3 言語記号による伝達の可能性 ある言語記号 S によって、話し手から聞き手に伝達されることは何であろうか。 話し手はある概念 C を言語記号 S として表現する。このとき、話し手の経験に強く依存する。 一方、聞き手は言語記号 S をある概念 C′ として概念化する。このとき、聞き手の経験に強く依存 する。 話し手の様々な経験 聞き手の様々な経験 C −−−−−−−−−−→ S −−−−−−−−−−→ C′ (4) 話し手の経験は様々であり、また聞き手の経験も様々である。 ここで、同一の物理現象から生じる経験は個人区別に依らず同一であるとするならば、数ある話 し手の経験と数ある聞き手の経験には類似の経験が存在すると仮定できる。話し手聞き手の双方の 経験が類似していると仮定できるならば、話し手の概念 C と聞き手の概念 C′ が同一であると考え て良い。このとき、(4) の過程は伝達として機能し、伝達は可能となる。 話し手のある経験 聞き手のある経験 C −−−−−−−−−→ S −−−−−−−−−→ C (5) ここで、話し手のある経験と聞き手のある経験は同一の物理現象から生じているとみなす。 つまり、伝達可能であるとは、言語記号 S の意義が話し手聞き手の双方から公的に照合できる物 理的現象を参照することによって決定できるということである [4]。そして聞き手は、話し手の用 いた言語記号 S について(話し手の特殊な経験に基づく諸特徴ではなく)社会的に必要な諸特徴だ けしか捉えていないということを知っている。 例えば、話し手が「リンゴ」という言語記号を用いたとき、話し手は美味しいリンゴを食べた経 験や味の落ちたリンゴを食べた経験を持っているかもしれないが、聞き手はそのような特殊な経験 に基づく特徴を取り除き、社会的に必要な諸特徴だけを持った「リンゴ」として捉えるのである。 それを可能とする根拠は、同一の物理的現象から生じる経験は個人区別に依らず同一であるという ことに他ならない。 3.4 翻訳の可能性 翻訳の基本構造は (3)、即ち、 S1 ↓ S2 ↑ 再表現 C1 −−→ C2 概念化 理解 である。ここで、記号 S1 から概念 C1 への概念化を可能とするものは、S1 に社会的に必要な諸特 徴だけを持たせる物理的現象の存在である。同様に、記号 C2 から概念 S2 への再表現を可能とす るものは、S2 に社会的に必要な諸特徴だけを持たせる物理的現象の存在である。 もしこれらの物理的現象が同一であれば、C1 から C2 への理解は可能となり、翻訳可能である と結論付けられる。即ち、翻訳可能とは、社会的に必要な諸特徴だけを持たせる同一の物理的現象 が存在することである。 5 しかし、一般にはこれらの物理的現象が同一であるとは限らない。特に言語間翻訳や記号間翻訳 ではそれが顕著となり、ほとんどの場合、概念 C1 の範囲と概念 C2 の範囲は一致しない。このよ うな場合には、別の概念 C′2 を持ち出して、記号 S′2 を用いることで翻訳を補完することで、翻訳 可能となる。それでも不十分であれば、S′′2 、S′′′ 2 、· · · 、と付け足すことができる。つまり、翻訳可 能であるとは、記号 S1 に対して、記号 S2 、S′2 、S′′2 、S′′′ 2 、· · · 、などの「おびただしい説明」を付 けることができるということである。 特に日本における翻訳では、必要であれば「おびただしい説明」によって読者に知識や情報を伝 えてきた伝統がある [3]。時として翻訳書には、本文の訳だけでなく、それよりも分量の多い訳注 が組み合わされる。即ち、解説書や研究書を書くのも翻訳者の当然の責務だと考えられてきたので ある。 3.5 翻訳可能とは 翻訳可能とは、次の 2 つの特徴に帰着される。 • 社会的に必要な諸特徴だけを持たせる物理的現象の存在 •「おびただしい説明」によって翻訳を補完できること 参考文献 [1] ローマン・ヤコブソン著, 川本茂雄 田村すゞ子 村崎恭子 長嶋善郎 中野直子共訳, 『一般言語 学』, みすず書房, 1973. [2] ミカエル・ウスティノフ著, 服部雄一郎訳, 『翻訳 その歴史・理論・展望』, 白水社, 2008. [3] 山岡洋一著, 『翻訳とは何か ― 職業としての翻訳』, 日外アソシエーツ, 2001. [4] ジョルジュ・ムーナン著, 伊藤晃 柏岡珠子 福井芳男 松崎芳隆 丸山圭三郎共訳, 『翻訳の理 論』, 朝日出版社, 1980. 6
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