No.5(2009年5月) - 日本学术振兴会北京代表处

日本学術振興会北京研究連絡センター
Japan Society for the Promotion of Science
Beijing Office
メールマガジン
第 五 号
(2009年05月)
❖
◆
◆
◆
◆
目
次
学思エッセイ
学思ニュース
学思交流志
編集長のひとこと
編集長:福西 浩
発 行:日本学術振興会北京研究連絡センター
北京市海淀区中関村北四環西路33号
中国科学院文献情報中心616室
郵便番号:100190
Tel:(010)6253-8332
Fax:(010)6253-8664
E-mail: [email protected]
URL: www.jsps.org.cn
今月号「学思エッセイ」作者:
陳
沙
中国社会科学院世界経済政治研究所研究員
思い出の町:佐賀
もし『おしん』という日本のテレビドラマが中国でブームになっていなければ、
誰が佐賀のことを知っていたでしょうか。もし長野暹先生や遠藤三喜男先生のおか
げで文部科学省奨学金留学生として佐賀大学の経済研究科で研究をしていなければ、
私はたとえ『おしん』を見たことがあったとしても、佐賀のことを良く知らないま
までいたでしょう。
1986年1月30日、私は日本へ出発しました。北京から大阪、大阪から福岡と飛行機
を乗り続き、その後、迎えに来て頂いた長野先生(長野先生は、当時の佐賀大学経
済学部長でした)らと車で佐賀へと向かいました。出発から到着まで8時間くらいか
かりましたが、自分が既に外国にいるという意識はありませんでした。長野先生か
ら日本の第一印象を聞かれてはじめて日本にいることに気がついたのです。車から
外の景色を見てみたら、高速道路両側の木々が流れるように過ぎ去っていきました。
美 し い 緑 を 見 て 、 私 は 思 わ ず 「 本 当に 綺 麗 です ね ! 」と 感 動 を覚 え ま した 。
1.田舎らしくない田舎
佐賀市は佐賀県の県庁所在地で、人口は約17万、面積は104平方キロメートルあり
ますが、市の中心部の広さは北京の市街地と同じぐらいです。佐賀市は、昔の佐賀
城外堀を中心とし、周りに澄み切っている多布施川、八田江がゆっくりと流れてい
ます。東西方向と南北方向にJR線、それほど広くない国道264号線、207号線、208号
線、賑やかな中央通りや大財通りなど数え切れない通りが佐賀市の蜘蛛の巣のよう
な交通ネットを作り出しています。私が詳しい地域は佐賀大学のある佐賀市の南西
地方です。たまに用事で他の所へ行くとき、特に繁華街や商店街を離れて路地に
入ったとき、狭い道の両側に建てられた緑の蔭の下に静かに佇む日本家屋や、金色
の鯉が泳いでいるくねくねした細い川のある所を歩いていたら、道に迷ってしまう
ときもありました。まるで中国南方の小さな町に戻っているような感じがしました。
佐賀県はもち米、大麦、みかんを大量に生産し、南の有明海には豊かな漁業資源が
あります。特にトビハゼは佐賀人自慢の特産物です。佐賀市内には高い建築物があま
り多くなく、工場も300軒余りと少ないのです。1987年には6種類の主要工業製品の中
で、総生産額第一位は食品工業でした。佐賀市は「田舎らしくない田舎」と称されて
います。この「田舎」は、著しい経済発展を遂げている日本の代表的な「田舎」で
あって、玉屋、西友、ダイエーなどの店舗に並んでいる様々な商品は、東京や大阪と
比べても遜色がありません。小売のお店は2000軒以上もあり、一平方メートルの営業
面積に当たる顧客数は0.83人です。飲食店も800軒以上あり、サービスが行き届いて
おり、とても便利です。全市には車の保有台数が4万台以上あり、72.7%の世帯が自家
用車を持っています、それは日本の平均を上回っています。特に便利なのは、全市に
58軒もの金融機関があることです。平均すると955世帯に一つの金融機関がサービス
を提供することになります。給料の支給や各種費用(家賃、水道代、電気代など含
む)の徴収などの金融業務を代行します。誰でもキャッシュカードの発行を申し込む
ことができ、銀行、デパート、市役所、学校などに設置されたATMから現金を下ろせ
るのです。手続きも簡単で、列に並ぶこともなく、とても便利です。
2.純朴な佐賀人
日本人的な礼儀正しさは、その激しい競争意識から生まれた上辺だけの現象にすぎ
ないという指摘がありますが、佐賀人の純朴さは正真正銘なもので、本当に賞賛に値
するものです。一つのお店で買い物をした後もう一軒のお店に入るとき、買ったもの
を持って入る必要はまったくありません。自転車においたままでも大丈夫です。もち
ろん、盗まれる心配は全然ないというわけではありませんが、その確率はかなり低い
です。佐賀の人々は純朴で暖かく、人に優しいのです。初対面でもこの人なら心を開
いてもいいという印象を受けた納富助教授は、なぜ佐賀に住みたいかを教えてくれま
した。納富先生はわかりやすいように、手で前の人を分けながら前へ進む様子を真似
しながら、東京と大阪の人はこうです。と説明し、佐賀にはそれほど激しい競争がな
く、牧歌的な田園生活が楽しめるとおっしゃっいました。
中国人は『おしん』を見て佐賀のことを知ったと聞いて、多くの日本人は嬉しいと
言いながらも、佐賀の人はおしんの姑のように人に冷たいのではないよ、とみんな口
を揃えて弁解していました。確かにそうでした。私は佐賀に来てから佐賀大学など各
方面の友人からいろいろと配慮をいただき、困ったことは何一つもありませんでした。
唯一の例外は私たちが武雄で開かれたパーティに参加した後、帰り道の列車での出来
事でした。一人の男性が、私たちの話し声が大きすぎで邪魔だと非難したのです。台
湾から来た黄さんは血気盛りの若者で、弁解しようとし、女性の紀さんは私を引っ
張ってよそへ行こうとしましたが、同行していた佐賀大学経済学部の職員は何もいわ
ずに見るだけでした。少し口論した後、事態はおさまりました。列車を降りるとき、
非難してきた男性が挨拶し、手をさし出してきました。そのとき、彼は体が不自由
であることがやっとわかりました。佐賀大学の職員は意味ありげに私たちの方を見
ました。許してやりなさい、というように感じ取れました。私はその男性と握手を
してから、友達のように一緒に駅を出ました。いわば「雨降って地固まる」なので
す。日本各地にいる外国留学生たちが5月にホームスティの行事で佐賀を訪れまし
たが、ほかの地方から来た中国留学生は皆、中国留学生に一番優しいのは佐賀の
人々である、と言っていました。私も東京や大阪に行ったことがあり、親切な日本
人に出会ったこともありますが、みんなの感覚は間違いないだろうと思います。
3.
佐賀大学
佐賀大学は国立大学であり、農学部、理工学部、経済学部、教育学部など四つの
学部があります。しかし、九州は三位か四位にランキングされ、それほど有名では
ありません。国立大学はかかる費用が少ないので、受験競争はかなり激しいのです。
受験結果が発表される日は、台風であろうと、大雨であろうと、受験生はほとんど
家族揃って大学へ行き、自分の受験番号を見つけたら、抑えめに(他人に迷惑だか
ら)歓声を上げたりします。ここ数年、佐賀大学は国際化を進めており、外国籍の
客員教授を招聘するだけでなく、留学生も受け入れています。留学生も受験しなけ
ればなりませんが、合格となる基準点は少し低く、合格した留学生の番号は掲示板
の最後に並べられるそうです。文部省の規定では、国立大学の留学生が40名を超え
ると、専用支給資金で留学生会館を建てることが出来ます。佐賀大学もこのために
専用の土地を用意していましたが、1987年当時、佐賀大学の留学生は20人あまりし
かいませんでした。そこで、その土地を空けておいたままで、もっと多くの留学生
を待っていました。留学生は日本人学生と同じように、佐賀大学の学生寮で一年間
しか住めず、二年目からは自分で宿泊先を探しなければなりません。家賃が高いう
えに、条件も学生寮と比べ物にならないので、留学生たちは一日でも早く自分たち
のための会館に住めることを願っていました。ここ数年は留学生がたくさん増えた
と聞いていますので、留学生会館も既に建てられたことでしょう。
佐賀大学はあまり広くはないのですが、教学用の施設と設備は揃っており、大学
構内にPCルーム、大学全体の図書館と各学部の専用図書館があり、室内体育館、
プール、テニスコートがあります。学生寮と運動場は構内を離れて南側に位置して
います。聞いた話によると、各学部の中で、一番実績があるのは農学部で、多くの
研究課題が日本でトップ地位を占めているそうです。その次が理工学部で、超伝導
のような先端研究が行われているそうです。この二つの学部は、いずれも修士課程
の大学院学生を育成することができ、農学部はまたほかの二大学と連携した博士課
程の設置を進めているそうです。経済学部の学生は、一年生と二年生の時は基礎課
程や共通課程の授業を受け、三年生と四年生の時は自分の専攻に合わせて選んだ教
授のゼミに参加し、教授の指導の下で勉強しながら研究を進め、同時にレクリエー
ションにも参加することになっています。これは中国の大学と随分違うので、好奇
心が沸きました。私は指導教官である山田助教授にゼミの傍聴を要請したことがあ
りますが、修士課程を終えた君には必要がない、と丁重に断わられました。実際、
佐賀大学の課程と授業方法は中国のものと異なります。そこには何かしらの要因が
あるかも知れませんが、私にはどうにも理解できませんでした。私は大矢野助教授
のゼミのレクリエーションに何回か参加したことがありますが、先生と学生は非常
に仲がいいと感じ取りました。これは大矢野先生の活発で明るい個性と関係がある
でしょう。
私が佐賀大学にいた頃、ちょうど一人の教授が人事異動で離れていったため、部
屋が空いていました。この部屋と部屋の中に設置されていたクーラー、電話、パソ
コンは優遇措置として私専用に回されました。窓の外が駐車場で、雨の日はいつも
満車になり(その多くは学生の自家用車です)、遅くなったため車を止めるスペー
スがなくてうろうろする様子をよく目にしました。こういうときは「白鷺飛来無処
停」(飛んで来るシラサギ、止まる処無し)といった唐の有名な詩が頭に浮かんで
きました。
私の観察では、佐賀大学の学生は真面目に勉強しているし、課外活動もいろいろ
と楽しんでいました。日本が祝日が結構あるので、春休みや夏休みを加えると、遊
べる時間がたくさんあるのです。趣味を広げることができ、学生により設立される
クラブもいろいろあり、大学の方も便利を提供してあげるのです。立派な施設であ
る学生センターには、ホール、会議室、レストラン、本屋、小売店などが設置され、
大学生活協同組合(「生協」と略称)により管理されています。独立採算というこ
とで、大学生向けにアルバイト先を提供しています。レストランでの食事の基準価
格は240~330円で、普通の店より安く、売店も設けてある本屋は「生協」メンバー
に対し10%割引サービスを提供します。毎年開催される佐賀大学学園祭になると、
学内は揺れる旗、溢れる広告、各学部の売り場などで賑やかなフリーマーケットに
変身し、大学生たちは自分で作った商品を売ってグラブの経費を集めるのです。私
がつくった「宫保鶏丁」という中華料理、韓国の朴さんがつくった韓国風焼肉、マ
レーシアの留学生がつくった鶏肉カレーなどは、佐賀大学留学生会の名で学園祭に
出品されて人気となり、1万円も売り上げました。これらの活動は勉強に影響を与え
ないでしょうか。確かに、一部の人々は(特に戦前戦後の貧しい時期を経験したお
年寄)はこのことで頭を痛み、今頃の若者はがんばることを知らず、気楽すること
を考えるばかりで、将来はどうなるか、と心配しています。でも、私はあまり心配
しなくてもいいと思います。なぜなら、日本の社会はうまく組織された、効率の高
い社会であるからです。大学生たちは一旦社会に入ると、やむを得ずに融け込んで
いき、すぐ同化してしまうのです。したがって、受験地獄からやっと解放されたが、
大学を卒業してからはまた自分自身や家族の生活ために「給料運搬機」になるしか
ない大学生たちが、大学楽園と思うのも自然なことでしょう。
(長野暹教授、1987年に佐賀大学経済学部長を担当)
(納富一郎教授、2004年に佐賀大学
経済学部長を担当)
4.
切っても切れない日中の友情
九州は日本において中国と一番近い大きな島で、中国との付き合いは長い歴史があ
ります。佐賀は長崎や福岡のように中国と海をあけて眺めあうことができ、交通が極
めて便利であるわけではないのですが、意外にも中国と深い関係を持っています。
信じるか信じないかは別として、佐賀北部にある金立山には、雄大な神社が建てら
れ、祀られているのは、なんと秦の始皇帝のために不老不死の霊草を求めて東海へと
向かった徐福なのです。ここでは毎年記念祭典が行われ、日本民族のために文明の種
を持って来てくれた中国からの友好使者の功労を追憶しています。日本には徐福のお
墓が数箇所あると聞きましたが、佐賀の人々はそれでも記念団体をつくり、なお中国
の江蘇省との間で交流を始めたのです。
ある日の夜、佐賀大学から自宅へ戻る途中、私は何かの叫び声を聞き、立ち止まり
ました。近づいてみると、古い車の上に炭火のストーブが乗せられており、売られて
いたのはなんと「ヤキイモ」でした。故郷のことを思い出した私は、それほど安くな
いにもかかわらず、二つも買いました。外側はおいしそうな焼き色に仕上がり、中身
は香ばしくて甘く、北京の自由市場で売られるヤキイモに負けない味でした。
笑顔の優しい佐竹さんは、昔助けてくれたことのある倪さんの話になると、いつも
涙が止まりませんでした。1945年、まだ少女だった彼女が中国にいた父親のお見舞い
に行きましたが、ちょうど日本が敗戦した頃であり、家族全員が返還所に送られ、着
るものも食べるものもなく、困っていました。そのとき、父親の友人だった倪さん
(当時は東来順というお店の従業員でした)が出来る限り手助けをしてくれたおかげ
で、彼女の一家は無事に日本へ戻ることができたのです。彼女の父親と母親は生前にこ
のことを忘れたことが一刻もなく、可能ならば中国に行って直接お礼を言いたいといつ
も言ってました。幸運なことに、1987年に、友人の手伝いもあって、彼女はやっと倪さ
んの子孫を見つけ、願いを叶えました。
上品で礼儀正しい高校教師の山下先生は、佐賀日中友好会の集会に出席する度に、い
つも意気軒昂として、私の一番の願いは自分の目で生まれたところを見ることです、と
中国語で言っていました。山下さんの父親は戦争前に北京の鉄道局で勤務したことがあ
り、住まいは昔の北京市内の一区三条胡同で、山下さんは同仁病院で生まれたのです。
私が帰国してから友人に頼んで調べた結果、今の東单三条にあたるそうですが、数十年
前と比べて大きく変わっています。山下さんの願いはまもなく叶うでしょう。
1986年から1987年にかけて、日本では中国ブームが起き、中国語の勉強が流行し、中
国語は英語に続く二番目に人気のある外国語となっていました。佐賀もその例外ではな
く、どの中国人の周りにも必ずレベルの異なる中国語愛好家が数人いました。これは中
国留学生の社交範囲を拡大しただけではなく、豊富な給料をもらえるアルバイトのチャ
ンスももたらしたのです。一番感動させられたのは浦部さんだったといってもいいで
しょう。浦部さんは佐賀大学の北側校門の向かいで食堂を経営していましたが、留学生
に対して格別に配慮し、いつも割引サービスをしてくれるか、おかずを多めにくれるか
していました。私の妻が彼に中国語を教えていましたが、話によると、少しでも時間が
あれば、台所でさえ本を読んでいたそうです。数ヶ月が経つと、浦部さんと私の妻(日
本語があまりわかりません)は中国語と日本語が混ざっている、二人しかわからない言
葉をつくりだしたのです。それで、笑い話になってしまう場合もありました。彼がこの
ような言葉を使ってお店でアルバイトをしている日本の女子大学生に指令を出したりす
るので、彼女はわからないままぼうっとするしかなく、やっと悟った浦部さんは大きな
声を出して笑ったりするのでした。
5.
お別れ
時間は飛ぶように過ぎ去っていき、一年あまりの研修はそろそろ終わりを迎えました。
最後のレポートを指導教官の久保山教授と長野先生に渡したら、私は一刻でも早く帰国
したい気持ちでした。だから、佐賀大学及び各方面の友人たちが何回もお別れの宴会を
設けてくれたとき、私は確かに「心ここにあらず」でした。友人たちに迷惑をかけない
ように、いちいちお別れの挨拶をした後、私と妻はわざと出発の時間を朝一番にしまし
た。しかし、いつも面倒を見てくれた日本の友人たちはそれでも駅に駆けつけてくれま
した。私と妻は恐縮と同時にとても感激しました。お別れの際、女性たちは涙を流し、
男性たちも感動の色を浮かべていました。列車がゆっくりと駅を走り出したとき、窓か
ら手を振りながら、私はある意味で佐賀と佐賀の人々とは離れることができないと感じ
ました。日本人はよく自分の出生地または卒業した大学を「出身」と名乗りますが、も
し私が日本人であるとしたら、おそらく佐賀または佐賀大学を自分の「出身」と名乗る
でしょう。
(かつての掲載暦:『外の世界~中国の学者が見た外国』
林堅編 中国人民大学出版社
1991年3月第1版
pp.184-191)
作者紹介:
陳
沙
1945年9月、江蘇省揚州市生まれ;
1968年8月、西安空軍工程学院ワイヤレ
ス専攻卒業;
1982年7月、中国社会科学院大学院世界
経済学専攻卒業;中国社会科学院世界経
済政治研究所総合統計研究室に就職;
1983年8月、経済学修士号取得;
1985年8月、研究室副主任、中国社会科
学院助理研究員;
(2004年、東京銀座にて)
1986年1月~1987年4月、文部科学省の奨学金を受け、佐賀大学経済研究科にて研究に従事
1988年10月、研究室代理主任、中国世界経済学会副事務局長;
1990年、研究室主任、中国社会科学院副研究員;
1993年、研究室主任を辞め、海南世界経済対中国投資諮詢公司総経理;
1997年、中国世界経済学会事務局長;
1998年、中国社会科学院研究員;
1999年11月~2000年2月、日本学術振興会
の援助を受け、三重大学にて共同研究;
2005年10月、定年退職;
2000~2006年、中国世界経済学会事務
局長兼法人代表;
2004年から中国多国籍企業研究会副会
長、2007年に顧問。
(作者ファミリー。2004年、東京上野公園にて )
作者の主な研究成果:
•「日本における人口増加及び経済発展に関する回帰分析」
『人口と経済』
1984年10月
•「世界経済モデルの理論的構造」、「世界経済モデルの構築」(訳文)
『グローバル学―研究と展望』
社会科学文献出版社
•「世界経済モデルの分析と中国経済」
『世界経済』
•「統計世界経済学ガイド」 『世界経済と政治』
1988年6月
1991年6月
1992年10月
•「日中合弁企業(製造業)の中国側の実態から見た日本の対中国直接投資」
『知る、理解そして協力―日中関係は如何にあるべきか』
上海社会科学院出版社 1993年10月
•「戦後日本の総合国力の強化とその評価」
『太平洋学報』
1995年12月
•『世界経済モデル-理論、方法とその応用』
国家社会科学基金支援プロジェクト
1995年12月
•「中国の省レベルのインフラに対する日本投資:背景とルートを分析して」
『現代中国経済の構造分析』
長野暹編
九州大学出版会
1996年2月
•「アジア金融危機の中の日本」
『対外学術交流情況』 中国社会科学院外事局
1998年6月5日
•「世紀の変り目における中国の総合国力向上に関する戦略的思考」
『鄧小平理論と世紀の変り目における中国の国際戦略』
人民出版社
2000年10月
•「21世紀初期における日本の総合国力」
『国際金融』
(日本)財団法人外国為替貿易研究会
2005年6月15日
•「国際移民の新動向とわが国の採用すべき国際移民政策」
『世界経済調研』
中国社会科学院世界経済政治研究所
2005年10月
•「中国の総合国力:現状、ビジョンと予測」
『世界経済理論と情勢の新たな発展』
中国科学技術大学出版社
2006年1月
特集記事:第2回日中科学フォーラムに「四川大地震と防災科学技術 」に参加して
3 月 9 日~ 10 日、国家自然科学基金委員会と中国地震局地球物理研究所の協力
を得て、日本学術振興会と中国地震局が共催した第 2 回日中科学フォーラム「四川
大地震と防災科学技術 」が 北京にて開催されました。フォーラムの後、本フォーラ
ムに参加された何名かの日本人研究者からご感想、ご意見を寄せていただきました。
ここで、読者の皆様に紹介いたします(名前のローマ字のアルファベットで掲載)。
本フォーラムの開催を支持してください、そして率直な意見や感想などを寄せてく
ださった研究者たちに深甚なる謝意を申し上げると共に、これらの意見を謙虚に受け
取り、改善していきたいと考えています。
日中科学フォーラムに参加して
東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻助教授
池田安隆
2008年の汶川地震はプレート内部で起こる地震としては世界最大級の規模(モーメン
ト・マグニチュード7.9)であった。ところが、この地震を起こした龍門山断層帯は、活断
層としてはあまり警戒されていなかった。私を含めてこの地域の活断層を研究してきた者
が共通に感じたことは、何故此処でこんなに大きな地震が起きたのかという疑問である。
今回日中科学フォーラムに参加して、中国の研究者がおそらく総力を挙げて行ったであろ
う調査の結果が次々に紹介されるのを聞くにつれ、益々この疑問は大きくなった。
龍門山断層帯と言う名前は象徴的である。この断層の主たる活動期は古く(三畳紀後期
から白亜紀)、恐竜が闊歩していた時代である。この時期龍門山断層帯は長期間にわたっ
て活動し、ちょうど現在のヒマラヤ南縁に匹敵する長大な断層帯に成長していった。白亜
紀以降その活動は衰え、現在まで数千万年間にわたって目立った活動はなかった。龍門山
断層帯は、活動度(平均すべり速度)が比較的低く地震発生頻度も小さいが、ひとたび動
き出すと止まるところを知らず大規模な破壊に発展するという、地震防災上極めてやっか
いな挙動をする断層であるらしい。
地震防災という視点から離れて、純粋に科学的観点からみても、今回の地震は興味深い。
三畳紀後期から白亜紀における山脈と盆地との境界は、現在のチベット高原の縁とは必ず
しも一致ない。両者が一致しているのは四川盆地の北西縁だけである。それより南西では、
かつて長期間にわたって安定大陸だったところまで巻き込んで、チベット高原が南東へと
拡大しつつある。チベット高原がどうやって拡大してきたか、そのメカニズムは未だ十分
理解されていない。何故ここでこんな大きな地震が起きたのかを解明するには、一見無関
係に見えるこの大問題を解くことが必要である。今回の日中科学フォーラムを契機として、
こういう問題に取り組む協力関係も築きたいと考えている。
第二回日中科学フォーラムに参加して
気象庁地磁気観測所所長、日本地震学会副会長 石川有三
3月9、10日と北大博雅会議中心で開かれた四川大地震に関するフォーラムに参加し
ました。日本側では発表論文を公募したので、多くの分野の専門家が参加していまし
た。そのため日本で行われている関連研究の主なものが紹介されたように感じました。
しかし、残念だったのは、中国側の発表が関係者が多忙のため必ずしも期待された
ものが行われなかったこと、また日本の研究がまとまって紹介される機会であったに
もかかわらず中国側聴講者がそれほど多くなかったことでした。特に地方からの参加
者が少なく、例外的に山西省地震局から来ていた知人に尋ねたところ、開催が余り伝
わっていないとのこと。昨年12月に北京で開かれた中国地震学会では200人近い参加
者がいたので、それから考えると大変残念に思いました。ほかには宴会時のスピーチ
が長かったのは閉口しました。
日程では、私自身は早い到着便と遅い帰国便で現地滞在時間を長くし、旧知の友人
に会ったり、別の要件の打合せをしたりと有効に活用させて貰いました。私自身は中
国と30年間の付き合いですが、今回が初めてだというDr. Christine Smyth さんは、
最終日にバスで天壇公園まで行ったそうです。そのときバスの車掌さんが年寄りが乗
車してきたら座っている若い人を強制的に立たせて座席を譲らせていたの見たそうで、
年寄りを大事にしている国だ、と感心していました。日本人には耳が痛い話でした。
第二回日中科学フォーラムに出席して
東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授
東畑郁生
2009年3月9日と10日に北京で開催された第二回日中科学フォーラムに出席し、主に
四川の汶川地震の被害からの重建を念頭において、発表を行ないました。私の専攻分
野は地盤の工学なので、発表の内容は、斜面の災害に関するものでした。四川省の地
震災害は既に発生が完了し、これからは重建だけが課題である、と思っている人がほ
とんどでしょう。しかしそれは間違いです。
地震によって攪乱された山地斜面はかなり不安定になっており、これから強い雨が
降るたびに、土砂が流れ出してきて斜面の下部を通る道路を危険に曝し、また河道に
流入した土砂は下流地域の川床を上昇させて堤防の能力を小さくすることでしょう。
つまり、これからも山地斜面の災害が起こり続けるはずなのです。実際過去の地震で
そのような事態が何度も起こってきたことを、日本の18世紀初頭の地震、台灣の集集
地震、パキスタンのカシミール地震などを例として、説明しました。
また、被害地域が極めて廣大なので、乱された斜面すべてを穏定化する高価な
工事を広く実施することは不可能です。重要な道路沿線だけでも危険な斜面は無
数にあると思います。このような状況の中で、郷鎮の活動にとって本質的に重要
な道路交通の安全を確保するために、簡単な覆道rockshedの設置、斜面からの土
砂崩落を直前に検知して交通を停止する警戒システムの設置が重要である、とい
うお話もしました。警戒システムに使われるセンサーは、安価であることが必要
です。なぜなら、廣い斜面のどこが崩壊するのかは事前にわからないので、その
すべてにセンサーを設置しなければならないからです。センサーの個数が多いの
で、一個当たりの価格が廉いことが重要です。私の研究室ではそのようなセン
サーを製作し、実際に山地の観測をしていますので、その紹介もしました。
2008年の汶川地震における山地斜面の災害は、その被害面積の広いことで、他
に例を見ません。この広さのために、従来の地震で実施された斜面復旧とは異な
る原理と思想で重建に取り組むことが必要です。そのために、国際的な英知を結
集して問題の解決に取り組むことが重要である、と思います。
第2回日中科学フォーラムを終えて
早稲田大学理工学術院教授
濱田政則
第2回日中科学フォーラム「汶川地震と防災科学技術」では、3分野「地震学的・地質学
的特徴」、「構造物被害および斜面崩壊と復旧」、「被災社会の復旧・復興」、に関して
の調査・研究成果の発表と討議が行われ、討議結果を踏まえ共同議長サマリーが作成され
た。この議長サマリーでは、ⅰ)今後のアジア地域の地震災害軽減に向けての日中協力の
体制、ⅱ)共同研究の推進の方策、ⅲ)人的交流促進の方法、についての提言がまとめら
れた。
提言は日中両国政府、関係機関および地震災害軽減に関与する技術者、研究者に発信さ
れるものである。今後提言内容が具体化されるために一層の努力を傾注したい。日中両国
における地震災害分野の関係者にはこの提言に盛り込まれた基本的方向性を理解して頂き、
さらなる協力を頂くことを期待している。
国際化拠点整備事業「グローバル30」
日本の大学の国際化に向けて、文部科学省は以下の目的のため国際化拠点整備事業
「グローバル30」(日本の大学が対象)を実施する。グローバル30の審査・評価は
日本学術振興会が行う。今後、本事業により日本の大学と世界各国の大学との交流促
進が期待される。
グローバル30実施の目的:
・高等教育の国際競争力の強化
・留学生等に魅力的な水準の教育等を提供
・留学生と切磋琢磨する環境の中で国際的に活躍できる高度な人材の養成
・各大学の機能に応じた質の高い教育
・海外の学生が日本に留学しやすい環境を提供する国際化拠点の形成
詳しくは、下記ウェブサイトをご覧ください(日本語のみ)。
http://www.jsps.go.jp/j-kokusaika/index.html
希平会定例会合開催
4月24日(金)午前、希平会
(日中高等教育交流連絡会)の定
例会合が紫光国際交流中心(UNIS
center)にて開催された。
今回の希平会は、以下の話題を
中心に行われた。
1.人事異動に伴う新会員の紹介
2.各大学・機関の状況報告
3.大学説明会
清華大学日本研究センター設立大会
4月10日(金)に、清華大学日本研究センター
設立大会及び懇親レセプションが清華大学にて
開催された。李肇星全国人大常委会外事委員会
主任、井頓泉中国人民対外友好協会副会長兼中
国日本友好協会副会長、楊振亜前駐日大使;御
手洗富士夫日本経団連会長、宮本雄二日本大使
館 特 命 全 権 大 使 、 日 中 友 好 会 館理事長村上立
躬;顧秉林清華大学長、胡和平党委書記等関係
者ら160人余りが参加した。日本学術振興会北京
研究連絡センターからは福西浩センター長及び
鶴尾寧副センター長が出席した。
アジア太平洋地域国際教育連盟(APAIE)
2009年次総会開催
4月15日(水)~17日(金)までの3
日間、中国人民大学世紀館にてアジア
太平洋地域国際教育連盟APAIE (AsiaPacific Association for
International Education)の2009年次
総会が開催され、日本学術振興会北京
研究連絡センター鶴尾寧副センター長
及び池見直俊国際協力員が出席した。
今回のAPAIEではヨーロッパ、アメリ
カ、アジアの国・地域から80大学が出
本設立大会は清華大学主楼で行われ、顧秉林 展しており、日本からは神戸大学、慶
清華大学長、御手洗富士夫日本経団連会長、宮 応義塾大学、立命館大学、立命館アジ
本雄二日本大使館特命全権大使、井頓泉中国人
ア太平洋大学、名古屋大学が出展した。
民対外友好協会副会長兼中国日本友好協会副会
APAIEは大学生にも開放しており、留学
長により祝辞が述べられた。その後行われた懇
親レセプションでは、李肇星全国人大常委会外 に興味のある学生が各大学のブースで
大学の説明について熱心に耳を傾けて
事委員会主任から挨拶が述べられた。
いた。学生は3日間でのべ1000人余り出
清華大学日本研究センターでは、経済金融、 席した。このようなイベントへの出展
環境、エネルギーといった様々な分野において により、中国における日本の大学の認
日本に関連する研究を重点的に行い、政策提言 知度が上がり、中国における日本への
にかかわる研究を積極的に展開すること、また、 留 学 生 増 加 が 大 い に 期 待 さ れ る 。
日中両国間の協力交流レベルを高め日中両国人
民の相互理解を増進することを目標としており、
今後の日中の研究交流の促進が期待される。福
川伸次前日本通商産業省事務次官が日本側理事
長、謝維和清華大学副学長が中国側理事長に任
命された。曲徳林清華大学教授が日本研究セン
ター初代主任に任命された。
第6回日中科学技術政策セミナー報告
4月13日(月)-15日(木)に沖縄県名護市の万国津梁館で第6回日中科学技術政策セ
ミナーが開催された。万国津梁館は2000年の九州・沖縄サミットのメイン会場に使
われた施設である。会議の目的は、日本側の文部科学省および関係機関の政策責任
者と中国側の中国科学院の政策責任者が意見交換を通して両国の科学技術政策の立
案と科学技術基盤整備の促進に役立てると共に、両国のネットワークの強化を図る
ことである。
参加者は中国側が17名、日本側が21名の合計38名である。中国側の主な参加者は
施尔畏・中国科学院副院長、鄧麦村・副秘書長、王毅・科学技術政策与管理科学研
究所副所長、陳和平・高能物理研究所所長、樊建平・深圳先進技術研究院院長、徐
洪杰・上海応用物理研究所所長、封松林・上海微系統与信息技術研究所所長、揚桂
山・南京地理科学与湖泊研究所所長、邸華盛・国際合作局副局長である。一方、日
本側の主な参加者は、有馬朗人・日本科学振興財団会長、坂田東一・文部科学省審
議官、岩瀬公一・科学技術・学術統括官、林幸秀・宇宙航空研究開発機構副理事長、
和田智明・科学技術政策研究所所長、土肥義治・理化学研究所理事、高橋文明・科
学技術振興機構審議役、村田直樹・日本学術振興会理事である。
セミナーでは、議題1「科学技術政策・地球規模課題に対する取り組み」、議題
2「研究者のキャリアパス」、議題3「ビッグサイエンスにおける取組」、議題4
「研究者の国際流動性」について日中双方から詳しい報告あり、活発な質疑応答が
なされた。日本側の発表者の多くが、科学技術レベル、予算、研究者数、研究体制
等に関して日中の比較結果を報告し、急速に発展する中国の科学技術の姿を明らか
にするとともに、地球規模の環境、エネルギー等の課題解決のために、また世界の
研究者に貢献する超大型実験施設のアジアへの誘致のために日中が連携することの
重要性を指摘した。これに対して中国側の発表者は、最近完成した様々な大型実験
施設や世界トップレベルの人材を確保するための様々な政策(欧米で活躍している
中国系研究者の帰還政策など)を紹介した。さらに環境問題に関しては、深刻化し
つつある水問題や環境汚染問題の現状とそれを解決するための政策を提案した。
最後に有馬会長と施副院長がセミナーのまとめを行い、日中両国のためだけでな
く世界の科学技術の発展のために日中が協力することの重要性を強調し、参加者全
員もその決意を新たにした。来年の第7回日中科学技術政策セミナーは中国で開催
される予定である。
4月22日、日本学術振興会(JSPS)海外研究連絡センター長会議が東京で開催され、
北京連絡センター長として参加した。JSPSは現在世界の10ヵ所(ワシントン、サンフラ
ンシスコ、ロンドン、ボン、ストラスブール、北京、バンコク、カイロ、ナイロビ)に
海外センターを設置し、相手国の学術振興機関との交流事業の推進、海外学術動向に関
する最新情報の収集、日本の大学の国際化支援等を行っている。今回の会議では各セン
ターが他センターの参考となる活動例を2件ずつ報告した。北京研究連絡センターから
は、「日中学術交流研究者ネットワークの構築」と「日中学術交流情報ネットワークの
構築」の2件を報告した。
研究者ネットワークの構築では、このメールマガジンのニュース欄に掲載した「アジ
ア学術セミナー:大強度陽子加速器における科学の最前線」(昨年10月に北京で開催)
と「第2回日中科学フォーラム:汶川地震と防災科学技術」(今年3月に北京で開催)に
ついて紹介した。これらの企画はそれぞれ「加速器科学」と「地震防災科学技術」に関
係する日中の広範囲な研究者ネットワークを創り出すことに成功した。一方、情報ネッ
トワークの構築では、中国語、日本語、英語の3ヶ国語で運営している北京センターの
ホームページとメールマガジン「学思」を紹介した。こうした新しい試みは北京セン
ターが他センターをリードしており、大きな注目を集めた。
センター長会議で小野理事長は、JSPS海外センターが5つの重要ミッションをもって
いることを強調した。すなわちセンターは、1)相手国との学術交流を担う「学術の大
使館」、2)学術情報の「広報センター」、3)海外学術動向の「調査センター」、
4)日本の大学国際化の「支援センター」、5)JSPS事業参加者の「交流センター」の
役割を担っていると。メールマガジン「学思」はこれらの5つのミッションに共通する
「コミュニケーション場」として読者の皆様との交流をさらに深めたいと考えている。
福西
浩
『学思』は日本学術振興会北京研究連絡センターが発行するコミュニケーション
誌です。
「学びて思い·思いて学ぶ」とは、学問をする際の要諦であり、知識や技術のみ
ならず、「学びて思い·思いて学ぶ」中から醸成された深い洞察力や確かな見識を
持つ「真の教養人」の活躍を手助けしたい、というのはわれわれの願いです。
学術の最前線で活躍されている方々、自分自身の中国や日本での留学、生活経験
をみんなの役に立てたい方々、中国や日本についてもっと知りたい方々、日中友好
のために活動したい方々、学術分野に限らず、政治、経済、社会、文化などさまざ
まな分野であなたが見たこと、身をもって感じたこと、関心を抱くこと、ぜひ聞か
せてください。巻頭の「学思エッセイ」にて掲載させていただきます。
原稿は住所・氏名・ご連絡先を明記した上で日本学術振興会北京研究連絡セン
ターまでご送付ください。また本文中の固有名詞及び文責者はフルネームで明記し
てください。原稿に不明な点がある場合などに編集部より確認が取れるご連絡先も
合わせてご記入ください。
著作権についての説明:『学思』に転載される全ての文章及び「学思エッセイ」
にて掲載される文章の著作権は、原稿執筆者に帰属するとする。いかなるものも、
その転載、掲載、ウェーブページによる公衆送信、複写して配布等を必要とする場
合は、原稿執筆者の許諾を得なければならない。また、コラム「学思エッセイ」は、
日中交流に携わる方々に自由に感想を発表していただくために設けたコミュニケー
ションの場ですので、原稿料は支払わないものとする。ご了承、ご理解をお願いい
たします。詳細については、日本学術振興会北京研究連絡センターメールマガジン
『学思』利用規約をご参照ください。
お問い合わせ·原稿送付先: 日本学術振興会北京研究連絡センター
北京市海淀区中関村北四環西路33号
中国科学院文献情報中心616室
郵便番号:100190
Tel:(010)6253-8332
Fax:(010)6253-8664
E-mail:[email protected]
URL: www.jsps.org.cn
みなさまのたくさんのご投稿を
心よりお待ちしております!