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第2部
「アトランチス大陸」の消滅
第8章「1917年の新しい年となった・・・・」
新年がやってきた。ロマノフ家の17人とっては悲惨な年となった。
マローズである。マイナス38度の極寒である。太陽はマローズの煙の中にある。ツア
ルスコエ・セローの綺麗な雪は、水銀を浴びせたかのように、光り輝いている。宮廷専用
馬 車 の ガ ラ ス は 、霜 で 覆 わ れ て い る 。大 宮 殿 に は 、毎 年 の 、皇 帝 の お 出 ま し 。* * * * * 。
ニコライの日記より:
「1月1日。日曜日。一日中、曇りで、静かで、暖かかった。3時頃、ミーシャがやっ
て 来 た 。閣 僚 、侍 従 武 官 団 、外 交 官 と の 面 接 の た め に 、彼 と 一 緒 に 、大 宮 殿 に 出 か け た 。」
1 9 1 7 年 初 め に は 、革 命 の 到 来 を 誰 も 疑 わ な か っ た 。豪 華 な ペ テ ロ グ ラ ー ド の 室 内 で 、
陰謀が熟していた。そして、宮廷でも。
大公の陰謀。ここでは、勿論、軍の大好きな人の名前、元最高司令官であった、大公ニ
コライ・ニコライビッチの名前が、浮かんでくる。チフリスにいる、皇帝の不興を受けて
いるニコラーシャの所に、16人の大公達から、使節が使わされた。国会からの陰謀者達
は、ニコライ・ニコライビッチと一緒に、公然とした交渉を開始する。国会議員、リボフ
侯の名前でもって、ニコラーシャにはすでに、公然と玉座を、同名の人への交替の提案を
す る 。( ニ コ ラ イ 二 世 か ら ニ コ ラ イ ・ ニ コ ラ イ ビ ッ チ へ * ) 迷 い な が ら 、 ニ コ ラ イ ・
ニコライビッチは拒否をした-宣誓に忠実であることを残した。
ウラジミロビッチ一族の大公達が活発に活動した。ラスプーチン殺害の少し前に、君主
制主義者のプリシュケビッチを、大公キリル・ウラジミロビッチの屋敷に呼んだ。プリシ
ュ ケ ビ ッ チ は 、日 記 に 書 き 残 し て い る 。「 大 公 の 屋 敷 か ら 出 て き た 時 、彼 と の 話 し 合 い で 、
私はしっかりと確信を持った。彼は、グチコフ、ロジャンコと一緒に、皇帝に関して、何
か 良 か ら ぬ こ と を 企 て て い る 。」 肝 心 な の は 、 こ こ で は 、 謀 反 の 話 し 合 い は 行 わ れ て い
なかったことである。大ロマノフ家の大半は、大公ニコライ・ミハイロビッチの口から思
わ ず 出 た 言 葉 を 思 い 出 す こ と が で き た 。「 彼( 皇 帝 著 者 )は 、私 に は 虫 が 好 か な い 。が 、
それにも関わらず、私は、彼を好きである!」
国 会 議 員 マ ク ラ コ フ :「 彼 ら は 、 国 会 が 火 薬 に 火 を つ け る こ と を 、 期 待 し て い た 。 私 達
が 、 彼 ら に 期 待 し て い る も の を 、 彼 ら は 私 達 に 期 待 し て い る 。」
国 会 議 員 の 部 屋 で は 、終 わ り の 無 い 会 議 が 続 く 。前 線 か ら 、ク リ モ フ 将 軍 が 戻 っ て く る 。
彼は、前線における軍隊の悲惨な状況を話す。結論:改革が必要。
この時期、19世紀と同じように、秘密のフリーメーソン支部において、反対派が大同
団結をする。フリーメーソンは、ロシアにおいて、1905年の革命後、活発となる。1
917年には、フリーメーソンは、社会の民主派の上層部、反ラスプーチン派と、団結を
する。状況の矛盾:1905年を前にして、警察が、ニコライ二世を、フリーメーソンを
使って脅かした時、ロシアでのフリーメーソンは、実質的に絶滅した。今、1917年を
前にして、フリーメーソンが力を発揮し始めた時、警察が、フリーメーソンについて知っ
ていることは少なかった。
後 に な っ て 、 ベ レ ツ キ ー ( 政 治 学 部 ・ 学 部 長 ) の 尋 問 後 、 ブ ロ ッ ク ( ? * ) が 、「 書
き 付 け 冊 子 」 に 、 書 い て い る 。「 ベ レ ツ キ ー に よ れ ば 、 何 の 政 治 的 な フ リ ー メ ー ソ ン は 、
そ の 時 は 全 く い な か っ た 。 オ カ ル ト 信 者 が 、 フ リ ー メ ー ソ ン と し て ま か り 通 っ て い た 。」
フリーメーソン支部の間には、皇帝の閣僚、将軍、国会議員、国政活動家、外交官、企
業 家 、が 存 在 し て い た 。財 務 大 臣 バ ル ク 、外 務 大 臣 パ ク ロ フ ス キ ー 、戦 争 大 臣 ポ リ バ ノ フ 、
フルコ将軍、クリモフ将軍、ルスキー将軍、ジュンコフスキー親衛隊司令官、その他。し
かし、彼らは革命を期待していたわけではなく、変革を期待していた。このように、ここ
では、反乱の話に限定されていた。
主 た る 反 乱 者 の 一 人 で あ っ た 、 国 会 議 員 の グ チ コ フ は 、 後 に な っ て 語 っ て い る 。「 絞 首
刑 に な る た め に 、 多 く の こ と を 計 画 し た 。 が 、 実 際 に 実 行 さ れ た 計 画 は 少 な か っ た 。」
グチコフは実行に動き始める。ペテログラードで、国会に忠誠である部隊の一部が集結
さ れ る 3 月 に 、政 変 を 行 う こ と を 、グ チ コ フ は 希 望 し て い る 。流 血 の 事 態 を 避 け る た め に 、
鉄道上で、皇帝列車を拘束し、列車内で、玉座の対伊の宣言を強制する、という計画を、
彼 は 立 て る 。 軍 の 誰 も 、 ク リ モ フ 以 外 は 、 グ チ コ フ の 陰 謀 に 賛 成 を し な か っ た 。「 私 は 決
し て ク ー デ タ ー に 参 加 し な い 。 私 は 宣 誓 を し た の で あ る 。」 国 会 の 代 表 者 ロ ジ ャ ン コ の こ
の言葉を、当時、多くが繰り返した。
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銀 行 家 プ チ ロ フ 、元 首 相 コ コ フ ツ ォ フ 公 爵 と 、レ ス ト ラ ン で の 食 事 後 、フ ラ ン ス 大 使 は 、
その日の食後の談話の内容を書き留めている。
コ コ フ ツ ォ フ :「 我 々 は 、 革 命 へ 進 む 。」
プ チ ロ フ :「 我 々 は 、 ア ナ ー キ ー へ と 進 む 。 大 衆 は 革 命 家 で は な い 、 彼 ら は ア ナ ー キ ー
で あ る 。 革 命 家 に は 、 再 建 の 意 志 が あ る が 、 ア ナ ー キ ー に は 、 た だ 破 壊 だ け が あ る 。」
判っていた、思考もしていた、ただ、破滅へと向かっていた。チェーホフの「桜の園」
の様に。
この時、ペトログラードの警備司令官は、内務大臣プロトパポフに、長文の報告書を提
出した。
1 月 9 日 :「 革 命 の 非 合 法 活 動 の 危 険 な 雰 囲 気 と 、 プ ロ レ タ リ ア ー ト の 一 般 的 な 洗 脳 。」
1 月 2 8 日 :「 ロ シ ア 政 府 に と っ て は 、 決 定 的 な 結 末 を は ら ん で い る 極 め て 重 要 な 出 来
事 は 、 間 近 で あ る 。」
2 月 5 日 :「 激 昂 が 増 大 し て い る 。 大 衆 の 静 か な 示 威 運 動 が 、 ア ナ ー キ ー さ を 持 っ た 過
度 な 行 為 に 移 り つ つ あ る 。」
内務大臣プロトパポフの、これら全ての報告は、無思慮から、放って置かれた。皇后が
語 っ て い た :「 ロ シ ア で は 革 命 は あ り 得 ま せ ん 。 神 が 許 し ま せ ん 。」
ニコライの日記から:
「1月29日。日曜日。昼に散歩をした。雪の中で少し仕事をした。6時に、クロポフ
老 人 を 接 見 し た 。」
クロポフは、ニコライの統治の始めに、すでに、ニコライの所を訪れていた。その時、
クロポフは、皇帝に、国民の権利について、語りたかったのであるが。今は、自分の崇敬
する皇帝を救うために、クロポフは、もう一度皇帝の所にやってきた。
革命後、クロポフは物静かな会計官として働き、1927年に亡くなった。クロポフの
アルバムに、あの時の接見のメモを残していた。クロポフは、宮廷の利己主義、政府の犯
罪的活動について、皇帝に話をした。ニコライは、奇妙な笑顔で、彼の話を聞いていた。
あたかも、クロポフが居ないかのように。クロポフは、自分の前に座っている疲れ切った
ような人物の、不可解な平静さに、怒りを覚えながら退出した。
この時、ニコライの若い時の友人であるサンドロは、皇帝に手紙を書いている。発送す
ることを決めていないまま、幾つかの応対について書く。
ニコライの日記から:
「2月10日。2時に、サンドロが来た。私が居る前で、寝室で、アリックスと長いこ
と 話 を し た 。」
アリックスは健康がすぐれていなかったので、サンドロをベットのところまで呼んだ。
サンドロは彼女の手に接吻をした。彼女の唇は、彼の頬に触れた。
サンドロは、見つめ合いながら彼女と話し合いたがった。しかし、ニコライが居る。ア
リックスは、二人きりで話し合うことを心配した。
サンドロは何を話したのか? 後になって、サンドロは、自分の追想記で、このことを
述べている。しかし、下司の知恵は後から。あの日サンドラがニコライに書いた手紙を、
正確に流用しよう。
サンドラの手紙の一部:
「ロシアの歴史の中で、最も危険な時期を、私達は生きている。皆はこれを感じている
:誰が理性的で、誰が情熱的で、誰が思慮深いかを。ロシア内部の何らかの力が、不可避
的な滅亡へと、貴方を導き、そしてロシアを導く。ロシアは、皇帝無しでは存在すること
ができない、ということを、確信を持って、私は「貴方とロシア」へ話す。しかし、覚え
ていて欲しい。皇帝は、1つの政府であることは、ロシアと同じである。正しくない場合
もある。全ての責任が、貴方一人にあるという、現行の状況は全く持って考えられない。
貴方の相談者達は、ロシアを、貴方を、全くの破滅へと導いていることを、緒事件が示し
て い る 。・ ・ ・ ・ 。 全 く の 絶 望 へ と 行 き な さ い 。 ロ シ ア が ど の よ う な 状 況 下 に あ る の か を
知っている、私達を混沌から導き出す方法採用するよう勧めている、声を、貴方は受け入
れたくはない。ということなら。今では、政府は、革命を準備している機関です。ロシア
の 国 民 は 欲 し て は い ま せ ん 、が 、政 府 は 全 て の 可 能 な 方 法 を 要 求 し て い ま す 。* * * * * 。
私達は、上流から来る、前例のない革命の光景を目の前にしています。下流からではあり
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ま せ ん 。」
サンドロは、アリックスに、家庭の仕事に限定するように、頼み込んだ。が、アリック
ス は サ ン ド ロ の 話 を 遮 っ た 。そ れ で も 、サ ン ド ロ は 願 い 続 け た 。ア リ ッ ク ス は 声 高 と な り 、
サンドロも、さらに声高となった。けんか腰の話し合いが続く。ニコライは、黙ってタバ
コを吸っていた。退出の礼をして、サンドロは去って行った。*****。サンドロは、
別れの挨拶として、アリックスの手に接吻をした。しかし、返答の接吻はしてもらえなか
った。
サンドロとの話し合いで、アリックスは1つのことを理解した。彼ら(サンドロ一派
*)は、彼ら(アリックスとニコライ *)に「修道者」の後見を依頼したプロトパポフ
を解任したがっている。アリックスは激怒した。国会を解散しなければならない。が、献
身的な国会議員は、玉座から離れないようにしながら。
しかし、この日、ニコライには、沢山の事を聞く羽目になった。
「 マ リ ア と 散 歩 を し た 。オ リ ガ の 耳 の 調 子 が 変 だ 。お 茶 ま で 、ロ ジ ャ ン コ を 接 見 し た 。」
いつも通り、簡潔に、出来事の順番に、ニコライは日記に書き込んだ。
ロジャンコとの話し合いは、威嚇的なものであった。普通は控えめであった、やせ気味
のロジャンコが、見違えるほど変わっていた。
ロ ジ ャ ン コ :「
人の変更、いや、人だけではなく、全ての管理システムの変更が緊
急 対 策 と な っ て い ま す 。」
ニ コ ラ イ :「 君 た ち 全 員 が 、 プ ロ ト パ ポ フ の 解 任 を 要 求 し て い る 。 彼 は 、 国 会 議 長 の 友
人であった。今となって、何故君たちは、彼を恨むのか?」
ロ ジ ャ ン コ :「 皇 帝 陛 下 。 私 達 は 大 事 件 を 目 の 前 に し て い ま す 。 そ の 出 口 は 、 も う 予 見
できません。私は、1時間半、貴方に、報告をしています。しかし、すでに、国会を解散
するという、最も危険な道を選択されたとか。そうすれば、3週間経たないうちに、全て
を吹き払ってしまう革命が起こり、貴方は統治することができなくなる。と、私は確信し
て い ま す 。」
ロジャンコが、皇帝の執務室にはいる時、従僕アレクサンドル・ボルコフに合った。ロ
ジャンコは、ボルコフに、皇帝の執務室には、自分だけにして欲しいと要請した。興奮し
た 国 会 議 長 が 、部 屋 か ら 出 て き た 時 、ボ ル コ フ が 話 し た :「 貴 方 は 、皇 帝 陛 下 の と こ ろ に 、
ち ょ う ど 2 6 分 居 ま し た 。」
ロ ジ ャ ン コ は 、自 分 を 待 っ て い た 先 駆 け に 、自 分 の 鞄 を 渡 し 、馬 車 ま で 持 っ て 行 か せ た 。
絶 望 的 に 手 を 振 る っ た :「 今 で は 、 も う ど う で も 良 い 。 今 で 、 全 て が 終 わ っ た 。」
し か し 、ロ ジ ャ ン コ は 正 し く は な か っ た 。彼 の 話 し 合 い は 、ニ コ ラ イ に 、影 響 を 与 え た 。
ニコライは、譲歩した。そして、直に、ゴリチン首相が、異常な幸福感と喜びを持って、
ツアルスコエ・セローから、帰宅した。ニコライは、突然、責任内閣制に関する問題を審
議することを希望したのである。国会に出席し、自分の意志を説明するつもりであること
を 、 ニ コ ラ イ は ゴ リ チ ン に 説 明 を し た :「 ロ シ ア の 国 会 に 、 責 任 制 内 閣 を 下 賜 す る こ と に
つ い て 。」
しかし、その日の夕方、ゴリチンは再び、宮廷に呼び出された。そこで、ニコライは、
自分は総司令部に出向く! と、ゴリチンに伝達した。
「皇帝陛下、何とおっしゃいました?」 ゴリチン首相は驚いた。
「 私 は 、 自 分 の 決 定 を 変 更 し た 。 今 日 の 夕 方 、 出 発 を す る 。」
この2つの出来事の間には、アリックスとニコライの話し合いがあったはずである。こ
の女は、ニコライに、1905年を繰り返すことを許さなかった!
この時期、ニコライは非常に疲れていた。
皇帝の絶望的な疲労を、年老いているゴリチンは感じていた。皇帝の希望によるこの驚
く べ き 総 司 令 部 へ の 出 向 を 、 後 に な っ て 、 ゴ リ チ ン は 、 説 明 を し て い る 。「 新 し い 声 明 、
勧 告 、 話 し 合 い 、 を 避 け る た め 。」
その通り、ニコライは避けた。皇后の激情を、ロジャンコを、国会の激怒を。皇太后、
親族、友人の要求を避けた。そして、国の要求を避けた。
ロ ジ ャ ン コ は 、自 分 の 回 想 記 に 書 い た 。自 分 の 報 告 を ニ コ ラ イ が 聞 い た 時 、ニ コ ラ イ は 、
突然窓際に立ち、
「 何 故 そ う な の か ? ミ ハ イ ル ・ ウ ラ ジ ミ ロ ビ ッ チ ( = ロ ジ ャ ン コ * )。 今 日 、 私 は
森に行った。そこは静かだ。そこで、全てのもめ事を、世間の雑事を、君は、全てを忘れ
ることができる。そこでは、気分は良くなった。そこは、自然に近い、神に近いところで
あ る 。」
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そ の こ と を 、ニ コ ラ イ は 、日 記 に 書 い て い た 。
「 小 川 で 、長 い 間 、足 を ば た ば た さ せ た 。」
疲れ切った一人ぼっちの人間、子供のように、水を足で跳ねとばしていた。今では、ニ
コライは、逃げ出したがっていた。森へ、何もない道を通って、遠出に。
ニコライは、ロジャンコに説明をした。出向は長くはない。3月1日には戻る。べービ
ー(=アレクセイ *)が一緒ではないこともあるので。しかし、アリックスは、このニ
コライの旅行を前にして、大変な目を味わうこととなる。
帝国には、あと10日間しか残されていなかった。
1917年2月22日。ニコライは、帝国における最後の旅行に出発をした。車中で、
ニコライはアリックスのいつも通りの手紙を見つけた。
ア リ ッ ク ス :「 2 2 . 2 . 1 7 。 私 の 大 事 な 人 ! 私 達 の 可 愛 い べ ー ビ ー 無 し で 、 貴 方
が一人で旅行するのを、私は、本当に心配をしています。本当に大変の時期を、私達は、
今、生きています。別離で、貴方に本当に思いをはせています。貴方があんなにも疲れ、
苦しんでいるのに、なたを愛撫してあげられないなんて。神は、貴方に、本当に思い十字
架を遣わしました。
他の世界にいる、私達の親愛なる友人は、貴方のために祈っています。彼はまだ私達の
近くにいます。彼の、慰めとなり、力づけとなる声を、聞きたいです。貴方、しっかりし
て下さい。それがロシアに必要なのです。貴方は、愛と親切を示す機会を、決して見逃す
ことはありませんでした。彼らに拳骨をお見舞いして下さい。何人かが、最近私に話した
「 私 達 を 鞭 打 ち の 刑 に し な け れ ば な ら な い ! 」、 と い う こ と を 、 彼 ら は 要 求 し て い ま す 。
何とおかしな事でしょう、これが、スラブ人の気性なのでしょうか。彼らは、自分自身を
心配するように、学ばなければなりません。父を崇拝している子供は、父を激怒させるこ
とを心配しなければなりません。疲れ切っている貴方の頭を、しっかりと抱きしめ、胸に
押しつけます。やって来る夜に、ただ一人ぼっち。貴方は居ない、アレクセイも居ない。
貴方を抱きしめている私の手を感じて下さい。貴方に優しくぴったり寄せ付けた私の胸を
感 じ て 下 さ い 。 永 遠 に 一 緒 、 何 時 も 離 れ な い 。」
ロ シ ア 、 拳 骨 と 鞭 。 こ れ は 本 当 に 古 い こ と で あ り 、 非 常 に 悲 し い 考 え で あ る 。「 多 く の
人 達 が 話 し た 。」 と 、 彼 女 が 語 っ た の は 、 正 し か っ た 。 ロ シ ア 皇 帝 の 言 葉 を ほ と ん ど 繰 り
返 し た 、 ロ シ ア の 君 主 制 主 義 者 の 語 り が あ る 。( フ ラ ン ス 大 使 パ レ オ ロ グ も 、 皇 帝 の 言 葉
を、自分の回想記に残している)
「西では、私達のことを知ってはいないし、ロシア自身が、ツアーリズムであることも
知ってはいない。皇帝達が、ロシアの基礎を作り上げてきた。最も厳しく、最も無慈悲で
あることが良いのである。イワン雷帝が無く、ピョートル大帝が無く、ニコライ一世が無
ければ、ロシアは無かった。ロシア国民は、彼らを厳しく統治する時、最も従順な国民で
ある。しかし、ロシア国民には、自身を統治する能力はない。ロシア国民のクツワを弱め
ると、彼らは無政府状態となってしまう。ロシア国民は、無制限の統治の中で、統治され
ることを期待している。鉄の拳、鞭、が頭の上に振りかざされた時、その時のみ、ロシア
国 民 は 全 う に 進 ん で い く 。私 達 は 、ロ シ ア 国 民 に 関 し て 、タ タ ー ル 人 に 恩 恵 を 受 け て い る 。
タ タ ー ル 人 が 、 私 達 の 残 し た 結 果 は 、 結 構 な こ と で あ る 。」
ニ コ ラ イ :「 自 分 は し っ か り し て い る と 感 じ て い ま す 。 が 、 一 人 ぼ っ ち で す 。 君 と べ ー
ビ ー に 、 電 報 に 関 し て 、 心 よ り 感 謝 し ま す 。 本 当 に 、 気 が 滅 入 っ て い ま す 。 お 大 事 に 。」
ア リ ッ ク ス :「 2 月 2 3 日 。 オ リ ガ と ア レ ク セ イ が 、 麻 疹 に 罹 り ま し た 。 オ リ ガ の 顔 は
全面、ブツブツのでき物で一杯です。ベビーは、口が大きく腫れ、咳がひどく、目も痛く
な っ て い ま す 。2 人 は 、暗 い 室 内 で 、横 に な っ て い ま す 。私 達 は 一 緒 に 朝 食 を 食 べ ま し た 。
そして一緒にゲームをしました。衣服を着替える必要もあるので、私達は夏用のスカート
と、白いガウンを着ています。麻疹が、他の人にも、避けられないものならば、他の人も
直ぐに感染して欲しいと、私は思っています。麻疹は、子供達には楽しいようです。それ
ほ ど 長 く は な い で し ょ う 。 ア ー ニ ヤ も 感 染 し て い ま す 。」
アレクセイは、陸軍幼年学校の生徒から、麻疹に感染した。後継者である皇太子の遊び
相手として、この学校から、生徒を、早引けさせていた。学校では、沢山の生徒が麻疹に
感染していた。皇后はこのことを知らなかった。麻疹はこのようにして始まり、アリック
ス以外の、家族全員を襲った。鉄の女アリックス。白いガウンを着て、皇后は、病気に罹
った子供達の間を動き回った。麻疹の伝染は直に治まった。報告は、小姓のボルコフを通
じて、今では、皇后が受理するようになっていた。こちらの方は、簡単な病気ではなかっ
た。この病気により、帝国の滅亡が始まった。
私は、ベルグラードから手紙をもらった。その時の最も若い幼年学校生徒の娘である、
オリガ・マカローバ・パポビッチが書いている。その幼年学校生徒から、不幸な皇太子が
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麻疹を感染させられた。
幼年学校の生徒の名前は、同じくアリョーシャ(アリョーシャ・マカロフ)といった。
総督アレクセイ・マカロフの息子である。アレクセイ・マカロフは、偉大なロシアの艦隊
司令官であったマカロフの親戚である。
革命後、アリョーシャは、気がつくとベルグラードにいた。そこで、セルビア陸軍の将
校となった。しかし、これを参事が待ち受けていた。ドイツがやって来た。幼い皇太子の
友達であったアリョーシャは、ナチスの強制収容所で、行方不明となった。
20世紀の人間の運命。
ニ コ ラ イ :「 総 司 令 部 。 2 3 . 0 2 . 1 7 。 晴 れ て い る が 寒 い 日 で あ っ た 。 長 で あ る ア
レ ク セ ー フ( 参 謀 長 著 者 )と 観 衆 が 私 を 出 迎 え て く れ た 。私 達 は 、3 0 分 ほ ど 話 し 合 い 、
その後、自分の執務室に行った。そこで、麻疹についての君の電報を受け取った。私は自
分の目を信じれなかった。予想外のことであった。このことは、君には、私の可愛い人に
は 、 本 当 に 寂 し く て 、 不 安 な こ と で し ょ う 。 * * * * * 。」
麻疹が、アリックスの気性を鎮静化し、彼女が、全情熱を傾けて仕事に取り組み、ニコ
ラ イ に 不 断 に お い て 圧 力 を か け る こ と を 止 め る 、と い う こ と を 、ニ コ ラ イ は 期 待 し て い る 。
「意志堅固な君主であれ、と君は書いている。これは全くその通りです。確信を持つこ
とを、私は忘れません。しかし、右だ、左だと、人に、何時も食ってかかる必要は全くあ
りません。冷静で確りした指摘や返答は、しばしば完全にそうの通りです。参考になりま
す 。」
2月24日、ペトログラードでは、ストライキが始まった。8万人の労働者がストライ
キに入った。飢えた行列は、パン屋の前に行列を作った。町には、パンがなかった。
ニ コ ラ イ :「 総 司 令 部 。 2 月 2 4 日 。 君 に 手 紙 を 送 る 。 ベ ル ギ ー の 国 王 と 王 妃 か ら 、 戦
争 の 記 念 に 、ア レ ク セ イ に 勲 章 が 贈 ら れ た 。ア レ ク セ イ は 、新 し い 十 字 架 を 喜 ん で い る 。」
ア リ ッ ク ス :「 2 月 2 4 日 。 私 の 大 事 な 人 ! ワ シ リ エ フ ス キ ー 島 と 、 ネ フ ス キ ー 通 り
が、昨夜無秩序でした。それで、貧困者達が、パン屋を占領しました。彼らは、フィリッ
ポフ・パン屋店を粉々に破壊しました。それに対抗するため、コサック軍隊が派遣されま
した。これらのことは、私が非公式に知ったことでした。オリガの体温は37.7℃、顔
は疲れ果てた様子です。アレクセイはよく寝ています。アレクセイの体温は37.7℃。
夜10時に、アーニヤと談笑するため、部屋を出ました。アーニヤは、多分麻疹に罹って
い ま す 。」
その通り、友人のアーニヤは、同じく麻疹に罹った。
「私は部屋から部屋へ、病人から病人へと、動き回っています。皆のために、蝋燭をつ
け て 回 っ て も い ま す 。」
ニ コ ラ イ :「 総 司 令 部 。 2 月 2 4 日 。 私 達 の と こ ろ で は 、 3 人 の 子 供 と 、 ア ー ニ ヤ が 、
麻 疹 に 罹 っ て 寝 て い る ! ツ ア ル ス コ エ ・ セ ロ ー の 部 屋 は 、消 毒 を し な け れ ば な り ま せ ん 。
君は、ペテルゴフへ移ることを希望はしていないのですか? 私が戻った時、これらの件
について、じっくり話し合いましょう。できるだけ早く。私の脳は、ここで、休息をとっ
ています。が、内閣の問題、やっかいな問題が。私には、これは有効であると、考えてい
ま す 。 が 、 た だ 頭 脳 の み に 。 心 は 、 別 離 で 苦 し ん で い ま す 。」
2月25日朝。国会議長ロジャンコが、首相ゴリチィンの所にやって来て、首相の辞職
を要求した。腹を立てたゴリチィンは、前もって準備してあった国会の解散指令を、ロジ
ャンコに見せた。指令は、大分前に皇帝が署名したものであった。ゴリチィンが、適当な
時期にそれを使用することができるようになっていた。しかし、ゴリチィンとロジャンコ
は、国会は従わない、ということを判ってる。というのは、すでに内閣の権力は存在して
いないからである。
ズ ナ メ ン ス キ ー 広 場 に は 、 群 衆 が 集 ま り 、「 共 和 国 万 歳 ! 」 と 、 叫 ん で い た 、 コ サ ッ ク
軍隊が、警官隊を追い散らしていた! 群衆は、軍隊と連帯していた。
ア リ ッ ク ス :「 2 月 2 5 日 。 大 事 な 大 事 な 愛 す る 人 へ 。 町 中 が 、 ス ト ラ イ キ と 無 秩 序 で
す。子供達も走り回り、声を上げて叫んでいます。彼らにはパンがありません。ただそれ
だけのために。それが、騒擾状態を作っています。労働者達は、他の労働者の仕事の邪魔
を し て い ま す 。天 気 が 本 当 に 寒 か っ た な ら ば 、彼 ら は 全 員 、家 に 戻 る と 思 い ま す 。し か し 、
国会が正しく働くようになれば、状況は良くなるでしょう。貴方が出立した時には、すで
に状況が悪かった、と私は感じています。一緒にいないのが辛いです。アーニヤが宜しく
といっています。今日の朝には、アーニヤの温度は38.6℃でした。オリガは、37.
6℃、タチヤーナは、37.1℃。べービーはまだ寝ています。私宛にアーニヤへの挨拶
を書いて下さい。彼女は喜ぶことでしょう。憂鬱な手紙で済みません。周りにはウンザリ
す る こ と ば か り 。 キ ス を し 、 永 遠 に 感 謝 し ま す 。 貴 方 の 古 女 房 よ り 。」
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25日の夕方、ニコライは、3日間首都で、荒れ狂った無秩序状態に関して命令を出し
た。26日には、ニコライは、軍大臣から、以下の大変な状況を知らせる電報を受ける。
兵士は、暴動者達を射撃するのを拒否している。そして、兵士達は、蜂起者側に移りつつ
あることを。
ニコライは、無秩序を早急に回復する手段をとるように、ペテルブルグ軍管区司令官ハ
バ ロ フ に 電 報 を 送 っ た 。( セ ル ゲ イ ・ セ ル ゲ ー ビ ッ チ ・ ハ バ ロ フ は 、 戦 時 中 に 、 後 方 勤 務
に 回 さ れ た 者 の 中 で 、 物 静 か で 凡 庸 な 人 物 で あ っ た 。)
日記より:
「2月26日。日曜日。10時に、礼拝式に出かけた。命令書を書き上げるのに間に合
った。アリックスに手紙を書いた。ボブルイスキー通りを通って、小礼拝堂に出かけた。
天 気 は 晴 れ て い る が 、 マ ロ ー ズ で あ っ た 。 夕 方 、 ド ミ ノ ゲ ー ム を し た 。」
非常時の時に、ニコライの奇妙な冷静さに気がつく。ニコライは夢を見ているのであろ
うか、生じている事態に、彼はほとんど興味がなかったのであろうか。
ア リ ッ ク ス :「 2 月 2 6 日 。 貴 方 の 手 紙 を 受 け 取 っ て 、 と て も 嬉 し い で す 。 手 紙 を 、 接
吻で、覆い尽くしました。更に、接吻をしてあげます。
町の無秩序について、多くのことが語られています(2千人以上の人らしいと、私は考
え て い ま す 。) こ れ に つ い て は 、 す で に 昨 日 書 き ま し た 。 私 は 鈍 い 人 間 で あ る こ と を 、
お 許 し 下 さ い 。パ ン の 配 給 切 符 制 を 行 う こ と が 必 要 で す( こ れ は 、各 国 で 行 わ れ て い ま す 。
砂 糖 も 。十 分 に 物 が 得 ら れ 、平 穏 で す 。) が 、私 達 の 所 で は 。何 と 馬 鹿 な こ と で し ょ う 。)
* * * * * 。 リ リ ー ( ア リ ッ ク ス の 女 友 達 、、 海 軍 将 校 で 侍 従 武 官 の 妻 。 ビ ル ボ ア が 麻 疹
で寝込んでいたので、最近、アリックスが一番親しくしていた人物。アーニヤと違って、
リリーは、真っ当な人格を持っていた。 著者)が、ニュースを得るために、御者達と話
を し て い ま す 。御 者 達 の 所 に 学 生 達 が や っ て 来 て 、朝 外 出 す る と 、銃 撃 さ れ る で あ ろ う と 、
御者達に語りました。何という駄目な見本でしょう! 勿論、御者達や電車運転士達はス
トライキをしています。しかし、彼らは語っています。1905年とは似ていない。と。
というのは、皆は、貴方を崇拝し、ただパンが欲しいだけなのです。何と暖かい天候なの
でしょう。子供達が、閉じた車内でさえ、スケートができないなんて、忌々しいです。し
かし、全ては良くなっていくものと、私は思っています。太陽は明るく輝いています。友
人(ラスプーチン *)の墓所では、私は、静かな気分を感じます。友人は亡くなりまし
た 。 私 達 を 救 う た め に 。」
ニ コ ラ イ :「 総 司 令 部 。 2 月 2 6 日 。 病 人 達 の 介 護 の た め に 、 疲 れ す ぎ な い よ う に し て
下 さ い 。夕 べ 礼 拝 堂 に 行 き 、貴 方 の た め 、私 の 愛 の た め 、子 供 達 の た め 、私 達 の 国 の た め 、
そして、アーニヤのために、心から祈りを捧げました。今日の朝、勤務中に、心臓に酷い
痛みを感じました。4時間ほど痛みは続きました。私は、どうにかこうにか立ち続けまし
た。私の額は、汗だらけでした。心臓がどきどきすることはなかったので、どうしてこう
なったのか、私には分かりません。しかし、その後心臓がどきどきし始めました。礼拝堂
で 、 跪 い た 時 に は 、 心 臓 の ど き ど き は 治 ま り ま し た 。」
2 月 2 6 日 、 ロ ジ ャ ン コ は 、 皇 帝 に 、 絶 望 的 な 電 報 を 発 送 し た :「 首 都 は 無 政 府 状 態 で
す。政府は麻痺しています。交通、食料、燃料は完全な破綻状態に行き着いています。軍
隊同志での撃ち合いが起こっています。通りでは、無秩序な射撃が起こっています。早急
に、国の信頼を得られる人物に依頼し、新しい内閣を作る必要があります。どんな遅延も
破滅へとなります。このような事態の責任が、皇帝陛下に帰さないことを、神に祈ってい
ま す 。」 電 報 は 夜 に 届 い た 。 し か し 、 総 司 令 部 の 司 令 官 ア レ ク セ ー フ は 皇 帝 を 起 こ さ な
かった。電報は、翌朝に皇帝に示された。
2 月 2 7 日 。 ロ ジ ャ ン コ は 、 2 つ め の 電 報 を 、 皇 帝 に 発 送 す る :「 状 況 は 悪 化 し て い ま
す。早急に、手段を講じなければなりません。明日では、遅すぎます。祖国と王朝の運命
を 決 め る 、 最 後 の 時 が 到 来 し て い ま す 。」
ペテログラードでは、秘密警察の建物が燃えている。群衆は、火災を消火させない。国
会の臨時委員会が開催されているタブリチェスキー宮殿に、群衆は移動する。様々な旗を
振り回し、音楽を奏でながら、彼らは、新しい政府に忠誠を誓う。この時、ハバロフ将軍
は、町を包囲する告示を、張り出すことを決定する。しかし、権力側は、糊も筆も調達す
ることができなかった!
管区裁判所が燃え、すでに、警官の生け捕りが始まっている。
この時について、ニコライの日記には、何とも奇妙な記述がしてある。
ア リ ッ ク ス が 、「 リ リ ー が 、 御 者 達 と 話 し て 得 ら れ た 」 と い う 、 自 分 の 情 報 を 得 て い る
とすれば、ニコライの方は、ロジャンコからの絶望的な電報を得て、全ての情報を得てい
たはずである。が、ニコライの驚くべき淡泊さは、何に起因していたのか? ニコライは
最後まで、疲れ切った中での冷淡さにあった。しかし、その時には、奇妙であるが、より
正 し く は 、 大 変 な こ と で あ る が 、「 心 臓 の 酷 い 痛 み 」 の 中 に あ っ た の か ?
- 121 -
こ の 謎 解 き を し よ う 。ニ コ ラ イ は 、首 都 を 後 に し た が 、暴 風 の 可 能 性 を 予 想 は し て い た 。
全ての人が、ニコライに、暴風の到来を繰り返して語っていたからである。しかし、ニコ
ライは、暴風と戦わないことに決めた。暴風が、激しく起こった時、ニコライは、首を長
くして、ただただ、それが収まるのを待っていた。
ニコライは、社会と争うことを希望していなかったし、それ以上に戦うことができなか
った。しかし、ニコライは知っていた。アリックスが、ニコライに平和りに譲歩すること
をさせないことを。このようなわけで、アリックスがいる限り、彼ら二人には、ニコライ
の譲歩を採用することはない。ラスプーチンと裏切りの噂が、アリックスを、極めてまず
い立場に置いた。ニコライには、2つの選択だけが残された:アリックスか、玉座か。ニ
コライはアリックスを選択した。不幸で、正常心を失っている妻を、これ以上酷くさせな
いために、また、死の病気に罹っている息子を、公然として治療をするために、ニコライ
は、家族との個人生活を選択した。ニコライは玉座を明け渡すことに決めた。ニコライの
心臓の酷い痛みは、この決定の結果であり、ニコライが自分自身に課していた苦悩の結果
であった。
後になって、総司令部司令官であるアレクセーフの行動を調べると、首都のパニック的
状況証拠を皇帝に知らせるのを、奇妙にも急いでいなかった。アレクセーフが、陰謀に参
加していたという疑いもある。アレクセーフは奇妙な人物であった。アレクセーフは平民
出身であり、立身出世を無し、ニコライの時には、実質的に、最高司令官であった。アレ
クセーフはラスプーチンの敵であった。ニコライは、アレクセーフに、総司令部に来るこ
と を 禁 じ た 。が 、ニ コ ラ イ は 、ア レ ク セ ー フ を 、ア リ ッ ク ス の 激 怒 に は 引 き 渡 さ な か っ た 。
二人の性格はよく似ている。自閉的で、言葉は少ない総司令部の司令官と皇帝。二人はお
互いに好意を持っていたし、理解もし合っていた。アレクセーフは、危険を知らせる電報
を急がなかった:アレクセーフは、ニコライの行動を見破り、黙って援助した。
しかし、採用した決定を、最後まで実行することが、ニコライにはできなかった。国会
が、状況を管理し、全ての人が確信している変革を準備することを、彼は待っていた。し
かし、直に、悪魔が町に出現したことを、ニコライは知る。電報で、ニコライは、大変な
状況を理解した:国会議員達は、状況を管理できていないことを。ニコライは、アリック
スと子供達のことが心配になり始めた。町の無秩序状態が、ツアルスコエー・セローに、
波及するかもしれない。ニコライは行動をし始めた。
2月27日、月曜日。ニコライは日記に書いた。
「ペテログラードでは、数日前から、無秩序状態が始まっていた。遺憾ながら、それに
軍隊が参加し始めた。嫌な感じがする-遠く離れており、得られる情報は断片的で良くな
いものばかりである。報告書をざっと目を通した。昼に、大通りを散歩した。昼食後、急
い で 、 ツ ア ル ス コ エ ー ・ セ ロ ー に 行 く こ と に 決 め た 。 1 時 間 で 、 汽 車 に 移 っ た 。」
ニ コ ラ イ :「 電 報 。 2 時 3 0 分 に 出 か け ま す 。 騎 馬 親 衛 隊 は 、 ノ ブ ゴ ロ ド か ら ペ テ ロ グ
ラードへ、遅滞なく移動する命令を得ました。軍隊における無秩序は、直に、鎮められる
よ う 、 神 が し て く れ ま す 。」
日記から:
「2月27日。火曜日。3時15分に、ベットに入りました。イワノフとの話が長引い
たのです。イワノフを、秩序回復のための軍隊と一緒に、ペテログラードに派遣します。
10時まで寝ました。5時に、マギレフを出発しました。天気はマローズですが、晴れて
い ま す 。 昼 に 、 ブ ヤ ジ マ 、 ル ジ ェ フ を 通 り 、 9 時 に 、 リ ホ ス ラ ブ リ に 着 き ま し た 。」
しかし、大好きなツアルスコエー・セローには、ニコライはたどり着くことはできなか
った。
「宮殿は、革命の海の中に沈んだ」
ベーラ・レオニドブナ:
「「 マ ス カ ラ ド 」 - 恐 ろ し い 戯 曲 。 1 9 4 1 年 の 宣 戦 布 告 の 日 は 、 モ ス ク ワ で は 、「 マ
ス カ ラ ド 」の 初 演 で あ っ た 。そ し て 、遡 っ て 、1 9 1 7 年 2 月 末 日 、帝 国 滅 亡 の 日 に 、「 マ
スカラド」の初演があった。
街灯はすでに消えており、ネフスキー大通りに沿っている、海軍省の脇だけが、投光器
で照らされていた。暗い明かりの中を、私達は劇場へと向かった。通りでは、銃撃が行わ
れていた。この演劇については、幾つかの噂が流れていた。アレクサンドリンスキー劇場
には、ペトログラードの演劇通が全員集まった。本当に不思議な光景であった。贅沢の権
化、宮廷への賛歌。舞台は、今まで誰も見たことがないような、不自然なほどの豪華さ。
巨大なガラス、黄金の扉。舞台は、宮廷のホールを表していた。これは、2月通り(?
*)の中に沈没し、闇へと去って行く、世界の舞台装置であったことを、その時は、私達
は分からなかった。
- 122 -
タ ブ リ チ ェ ス キ ー 宮 殿 で は 、国 会 が 休 む こ と な く 開 か れ て い た 。し わ が れ 声 の 発 言 者 達 。
国会で、プロトパポフ自身が、引き下がることを声明した、と私の知人は話した。国会で
は、プロトパポフが、憎むべき体制の崩壊を加速させるために、わざと悪く国政を運営し
た 、 と 全 員 に 演 説 を し た 。「 憎 む べ き 体 制 」、 全 て の 人 が 、 そ う 呼 ん で い た 。 プ ロ ト パ ポ
フは気取り屋であり、私から見ると、気違いじみていた。このように、革命は簡単に勝っ
た。皆が思っていた通りに。最初の月には、ロマノフ家のことは忘れていた。ネズロビン
スキー劇場で、戯曲「イユデイスキー皇帝」が上演されたのに、私は驚きを感じた。その
時 、エ ル ミ タ ー ジ ュ 劇 場 で 、こ の 戯 曲 が 上 演 さ れ て い た か ら で あ る 。ネ ズ ロ ビ ン( ? * )
が 、 全 て の 上 演 を 、 は し た 金 で 買 い 占 め た 。 そ し て 、 大 衆 に 、 皇 帝 家 族 は 、「 忌 ま わ し い
体制」下で、何を見ていたかを、露わにした。ついでながら、その上演で、私は、キリス
ト教徒アンナの役を演じた。3人の若者が、出続けたのを、私は覚えている。演出家の息
子達であり、劇中では、贅沢な服装をした端役を務めていた。ツアルスコエ・セローを逃
げ出した元将校の役であった。彼らは、豪華な制服を、新しい時代の最初の世紀の劇場労
働者の着替えた。ついでだが、私の友達は、ツアルスコエ・セローでの仕事を2月に辞め
て き た 。友 人 が 語 っ て い た :「 ア ト ラ ン チ ス 大 陸 の 滅 亡 、宮 廷 は 、革 命 の 海 の 中 に 沈 ん だ 。」
2 月 2 8 日 。冬 の 最 終 日 。ツ ア ル ス コ エ ・ セ ロ ー の 守 備 隊 が 蜂 起 を し た 。兵 員 数 4 万 人 。
ロジャンコは、宮廷に電話をした。今や、ロジャンコは、ウンザリするデブ男ではなか
った。国会の議長であり、蜂起した首都で、唯一の権力を持っていた。が、誰もその権力
を守ってくれてはいなかった。
アリックスに伝えてくれるように、ロジャンコは、ベンケンドルフと話した:アレクサ
ンドロフスキー宮殿を直ぐに脱出するように、と。
「 病 気 の 子 供 達 は 、・ ・ ・ 」、 ベ ン ケ ン ド ル フ が 話 す 。
「 宮 殿 が 燃 え た 時 、 病 気 の 子 供 達 を 運 び 出 す 。」、 ロ ジ ャ ン コ が 答 え た 。( 彼 の 声 の 中 に
あった:もし、もう少し早くに、君が私に耳を傾けていてくれたなら!)
「 私 は 何 処 に も 行 き ま せ ん 。何 が 起 こ ろ う と 。」皇 后 は 、ベ ン ケ ン ド ル フ に こ う 答 え た 。
こ の 時 、ツ ア ル ス コ エ ・ セ ロ ー の 駅 を 、蜂 起 隊 が 占 領 を し て い た 。汽 車 は 動 か な か っ た 。
それで、アリックスは警護隊の中から2人のコサック兵を、ペトログラードに派遣した。
遣わした。彼らが、今まで自慢していた制服を、オーバーで隠して。
町は完全に蜂起者達の手の中にある、という情報を持って戻ってきた。首都は、大衆で
溢れかえっている。至る所、旗、旗。町は赤旗で塗りつぶされている。監獄は開放され、
参加者達は、大声で批難を繰り返し、警官を捕まえている。
正に、2月28日に、宮殿に、やたらに打ち続ける銃声が鳴り響いた。ツアルスコエ・
セロー守備隊の、蜂起した兵士達が、祝砲を放ったものであった。この当たりでは未だ、
空 に 向 け て 。 楽 団 は 、「 ラ ・ マ ル セ ー ズ 」( フ ラ ン ス 国 家 * ) を 、 が な り 立 て て い る 。
正にこの日のための音楽である。宮殿から、500mの当たりで、最初の犠牲者が出た。
1人のコサック兵が殺された。恐怖の警告。しかし、まだ、自制が続いている。4万人の
蜂起した兵達は、宮殿には近づいて来てはいない。
宮殿の格子に沿って、皇帝の防衛隊の、コサック兵が、立派な馬に乗って、行き来して
いる。
宮殿の防衛を委ねている将軍レーシンと、将軍フォン・グロテンを、アリックスは、自
分の所に呼び寄せた。
アリックスの多面性:ビクトリア女王の孫、綺麗な王妃、永遠の愛人、専制の熱狂的信
者。そして、最後に、1917年には、古代の悲劇のヒロイン。*****。
9時に、宮廷のラッパ手が、警報を吹き鳴らす。アリックスは軍の閲兵を始める。
宮殿の主玄関前に、整列した:親衛隊の第二クバンスカヤ騎兵中隊、親衛隊の第三テル
スカヤ騎兵中隊。コザック護衛隊は、横列整列をした。
コザック隊と並んで、兵舎からやって来た、大公キリル指揮下の親衛乗組員大隊が並ん
だ。乗組員は数が少なくなっていた。夜ごと、乗組員の脱走が続いていたからである。
そして、最後に、寄せ集めの歩兵大隊と、高射砲中隊。自走台の上には、2つの武器。
これが、ツアルスコエ・セローの守備隊としての、アリックスの全ての軍隊であった。
宮殿の玄関では、街灯が灯っている。マローズの夜に、数百人の守備隊が、黙して立っ
て い る 。命 令 が 鳴 り 響 く :「 護 衛 隊 は 、駅 - 兵 舎 の 線 を 巡 回 確 保 す る こ と 。高 射 砲 中 隊 と 、
乗組員の機関銃は、宮殿に向かっている通りに沿って、射撃に適した位置を確保するこ
と 。」 ア リ ッ ク ス が 、 宮 殿 を 去 っ た 時 に は 、 す で に 、 深 夜 に 近 づ い て い た 。
- 123 -
厳しい寒さの中、肩に外套を引っかけ、雪をざくざくならしながら、アリックスは、隊
列の前を進んでいく。尊大な態度。革命劇中における、悲劇の女優。並んで、大公のマリ
ア。ただ一人の健康な娘。二人並んで、隊列の中を進んでいく。宮殿の警護室に、アリッ
ク ス は 、 将 校 達 を 集 め た :「 皆 さ ん 、 銃 撃 を し て は い け ま せ ん 。 何 が あ っ て も 。 私 達 の た
め に 、 血 が 流 さ れ る こ と を 、 私 は 求 め て は い ま せ ん 。」
これが、最近、無慈悲を大声で叫んでいたアリックスなのであろうか? その通り、ア
リックスは判っていた。1発の銃声、1個の火薬樽が、全てを水泡に帰することを。宮殿
を破壊してしまうことを。
次の日、アリックスが目を覚ました時、次の衝撃が彼女を待っていた。宮廷の花である
旗を広げて、兵舎から、大公キリル指揮下の親衛隊乗組員達が脱走をした。赤いリボンの
付いた制服と、肩章に皇帝の頭文字をつけて、皇帝の従兄弟は、タブルスキー宮殿に、自
分の部隊を連れて行った。国会に宣誓をするために。
そ の 通 り 、大 公 キ リ ル は 、1 9 0 5 年 に お け る 侮 辱 を 忘 れ て は い な か っ た 。* * * * * 。
その日の朝、乗組員達の後に続いて、鉄道大隊の中の中隊が、ペトログラードへと去っ
て行った。コサック兵200名、2つの武器と歩兵大隊だけが、アリックスの今の兵力と
なった。
アリックスは理解する:刻々と、宮殿の襲撃が迫っている。蜂起した守備隊は、何も怖
いものはない。
しかし、蜂起は宮殿には近づいてはいない。忘れ去られたかのようであった。しかし、
これは恐怖の前の凪であった。噂が広がっている:蜂起者達の大砲が、教会と宮殿を目標
にしている。今か今かと、ただ待つのみである。
昼には、アリックスは、不可避の厄災をほとんど忘れる。病気の子供達と、病気の友人
の間を、右往左往している。
夜、アリックスは寝つけない。宮殿の地下室に降りて行く。そこは、護衛隊のコサック
兵が暖をとって休憩していたところである。祈りによって、自分たちを励まし、しっかり
させることを試みる。朝まで、リリー・デンと、語り明かす。この間、アリックスはニコ
ラ イ に 、 電 報 を 出 し ま く る 。 電 報 は 、「 宛 先 不 明 」 と い う 嘲 る よ う な 注 意 書 き で 戻 っ て く
る。
全ロシアの支配者の現住所が、不明である。この事に、アリックスは、辛抱できない。
パーベルに手紙を出す。パーベルの息子は、ラスプーチンの殺害に関与したので、それま
で、パーベルは宮廷への出入りを禁止されていた。パーベルはやって来で、話した:ニコ
ライの乗った列車は拘束された。が、ニコライは元気である。と。
アリックスは、パーベルに、何か対策を講じるように、頼み込む:忠実な軍隊に当たっ
てみること。崩壊が近づいている! 信頼できる軍隊はもう全くない、崩壊は既に到来し
ている、ということを、パーベルはアリックスに話そうとしない。パーベルは、アリック
スを哀れむ。キリル、ミーシャ、そして自分たちが、国会に提出すべきマニフェスト計画
の立案者であった、ことを、アリックスに伝える。この計画では、皇帝は、国会に、責任
内閣を与える。アリックスは賛成する。ようやく! アリックスは理解した:譲歩が必要
なことを。3人の大公が署名したこのマニフェストは、すでに、誰も注意を向けていなか
った。国会では、完全違うマニフェストを待っている。
3月2日の夜、新しい衝撃が、アリックスを襲う。深夜1時頃に、イワノフ将軍が宮殿
に現れる。ニコライが命令を持たせて派遣したのである。室内で、老将軍はアリックスに
語 る 。道 は 封 鎖 さ れ 、列 車 は 蜂 起 者 に 囲 ま れ 、情 宣 ・ 説 得 が 行 わ れ て い る 。皇 帝 の 命 令 を 、
皇帝の上官達が拒否し、皇帝が列車から出ることを拒否した。誰も宮廷を助けには来れな
い、と。しかし、またもや、アリックスの夢想が始まる:アリックスは、老将軍に、他の
上官達と一緒に、アリックスを助け出すように哀願する。
将軍が去った後、アリックスは全てを理解した:今は、完全に無防備である! 暴動者
達は、何時でも駆け込んでこられる。アリックスは、再び、護衛隊の隊長を、パーベルの
所に派遣する。隊長は、大公の宮殿の塀の所にたどり着き、長い間呼び出しをする。返事
が得られなかったので、塀を乗り越える。大公の宮殿の正面玄関は、驚いたことに、解放
されていた。隊長は、空の宮殿内の長いホールをさまよい歩く。隊長は理解する:召使い
達は逃げ出した。ようやく隊長は、パーベルの寝室にたどり着く。一人の召使いが、ドア
の所で寝ている。多数の召使いの中で残った全てである。
隊長は、パーベルに説明をする:宮殿に、暴動者達が、今にでも押しかけてきそうであ
る。大公は何処かに電話をし、誰かと話し合い、アリックスに連絡するように頼む:国会
は、宮殿の安全を保証している、アリックスは心配することはない、と。
3月2日の朝、アリックスは、2つの長い手紙をニコライに書いた。護衛隊の2人のコ
サック兵は、手紙の入った小さな封筒を、ズボンの飾り筋の中に縫い込む。
- 124 -
「1917年3月2日。貴方が、この苦悩の中で、一人ぼっちで生き抜いている、と思
うと、私の心は張り裂けそうです。私達は貴方のことを全く知らないし、貴方の方も私達
のことを何も知らない。今、私は、貴方の所に、ソロビエフとグラモチンを派遣します。
各々に手紙を持たせています。1人でも貴方の所にたどり着くことを期待しています。私
は飛行機を派遣したかったのですが、関係する人達は、皆いなくなってしまいました。*
****。全ては不快です。状況はものすごい早さで進行しています。しかし、私は固く
信 じ て い ま す 。こ の 確 信 は 何 者 も 動 か す こ と は で き ま せ ん 。全 て は 良 く な る こ と で し ょ う 。
貴方が何かの書類、憲法や、そのような恐ろしい書類などに、署名しない前に、貴方が、
私と会うことができないように、彼ら(? *)がしたがっているのは、はっきりしてい
ます。軍の後ろ盾がなく、罠にかかったネズミのように、捕らわれ、一人ぼっちの貴方に
は、何ができるでしょうか? 自分たちの皇帝を拘束するなんて、これは、歴史上で聞い
たことがないほどの、本当に卑劣なことです。他の地方にいる軍隊に命令をし、貴方の周
りに集結させることができないのでしょうか? 貴方に譲歩を強制するならば、どのよう
な場合でも、貴方はそれをしてはいけません。そうすれば、彼らは不十分な成果しか得ら
れ ま せ ん で 。 貴 方 の 小 さ い 家 族 は 、 貴 方 の 父 を 辱 め ま せ ん ( ? * )。 大 切 な も の で す 。
私 は 、徐 々 に 、年 長 者 達 の 状 況 を 話 し て き ま し た 。以 前 は 彼 ら の 病 気 は ひ ど い も の で し た 。
彼らの前で、ふりをするのは非常に大変でした。べービーについては、私は半分ほどしか
話をしていませんでした。ベビーの体温は36.1℃。べービーはとても元気です。が、
貴方が動けない事に、本当に絶望をしています。リリーとは何時も一緒で、今、彼女はベ
ットで寝ています。マリアは私と一緒、頭の着いた私達のガウンを着て。ベンケンドルフ
老夫婦は、家に宿泊をし、アプラキシンは、ここから参謀本部へこっそり行っています。
私達全員は元気です。状況に打ちひしがれてはいません。ただ貴方のことが心配です。貴
方のために、言い様のない侮辱を受けています。聖なる受難者は・・・・。
昨日の夜、1時から2時半にかけて、イワノフが見えました。イワノフは、ドノを経由
して、貴方の所に達するつもりですが、それができるでしょうか? イワノフは、自分の
ためにも、貴方の列車を動かしたがっています。フレデリックスの家が燃えました。家族
は騎馬親衛隊の病院に逃げています。国会と革命家は、2つの蛇です。お互いに頭を食い
千切ることを、私は期待しています。そうすれば状況が良くなります。神が何かをしてく
れると、私は感じています。太陽の日がまぶしいです。ただ貴方かここに居てくれさえし
たら! 一人は良くないです、乗組員も私達を見捨てました。彼らの中にばい菌が巣くっ
ているということを、彼らは全く理解していません。しかし、貴方が解放されないと、知
った時、軍は激昂して、立ち上がります。
彼らが秩序を回復し、彼らが国会に何らかの役に立ったとしてみて下さい。彼らは大火
災を引き起こしました。どのようにして、今、その火を消せるのですか?子供達は、暗闇
の中で寝ています。エレベータが動かなくなって4日経ちます。電話も通じません。私は
今、玄関前に整列している兵士達に、挨拶に行きます。心臓の痛みは酷いです。注意も散
漫です。が、気持ちはしっかりして、やる気満々です。私には貴方以外に、相談する人は
いません。事態の和解が進めば、神は貴方を自由にしてくれます。ああ! 私の聖なる受
難 者 ( ニ コ ラ イ の こ と * )。」
追 記 :「 私 の 気 持 ち の 安 静 の た め に 、 も し 具 合 が 悪 い な ら ば 、 彼 (「 友 人 」 著 者 、 ラ
ス プ ー チ ン * ) の 十 字 架 を 持 っ て い て 下 さ い 。」
暗い寝室内で、子供達の健康は回復し始めていた。ビルボアは、高熱ながら、病気から
気を取り戻した。彼女の友人であり、ロシアの皇后である所で、未だ病気に伏していた。
そして、崩壊を目前にした宮廷内で、気を取り戻した。
3月3日、ニコライが退位したという噂が流れる。
アリックスは、再び、パーベルに連絡をする。ボルコフは、大公のために、宮殿に出発
する。
パーベルは、新聞に印刷された、退位に関する勅令の部分を、アリックスに持参する。
「 う そ 、 う そ 、 私 は 信 じ な い 。 全 て は 噂 で す 。 新 聞 の ね つ 造 で す 。」 ア リ ッ ク ス は 、 勅
令 を 読 む こ と を 拒 み 、 虚 脱 状 態 と な る 。 一 日 中 、 フ ラ ン ス 語 で 、「 退 位 ! 退 位 ! 」 と 、 呟
き続ける。彼ら(? *)は、最終的に、子供の相続財産を奪った。アリックスが守って
いた全てが、地に落ちた。アリックスは、良い妻であり続ける。ニコライを、全く非難し
な い 。「 ニ コ ラ イ と ア リ ッ ク ス は 、 良 い 夫 婦 で あ っ た 。」 ア リ ッ ク ス は 、 ニ コ ラ イ に 手
紙を書いている。
「3月3日。愛する人。私の心の温かい良い人。貴方のことを思って、私の心臓は血に
塗れています。人に気違いじみたことをさせる忌まわしい噂以外には、何も知ることがで
きなく、気が動転しています。手紙を持たせて、私が派遣した、2人の若者が、今日貴方
- 125 -
の所に着いたのか、知りたかったのです。ああ、神のご加護で、1行だけでも。この手紙
は、将校の妻が、貴方に渡します。貴方については、私は何も知りません。ただ、噂が、
心臓を耐え難くしています。貴方はきっと聞く・・・。
私達の4人の病人は、従来通り苦しんでいます。マリアだけが足を痛めていますが、安
心です。ただ、私の援助者は、やせ細り、感じていること全てを表せなくています。私達
全員は、従来通り、しっかりしています。めいめいが自分の不安を隠しています。貴方は
一人ぼっちで居ることを考えると、心配で心臓は張り裂けそうです。私かこれからも少し
手紙を書きます。道中彼女の身体検査をしない友限らないので、私の手紙が届くかどうか
分かりません。彼らは本当に常軌を逸しています。私はマリアと一緒に、近親の人達と直
に会うために、地下室を良く訪れています。これは非常に元気づけます。町では、専制と
祖国のために努力しているかのような振りをしながら、デキ(大公キリル 著者)は嫌ら
し い 振 る 舞 い を し て い ま す 。私 の 愛 、愛 ! 皆 が 寝 て い る 寝 室 に 運 び 入 れ た 聖 母 像 の 前 で 、
祈り、歌いました。非常に元気づけられました。良くなる、いや良くならなければなりま
せん。私は、自分の信念に揺らぎはありません。ああ、私の可愛いエンジェルさん、私は
本当に貴方を愛しています。私は何時でも貴方と一緒です。夜も昼も。貴方の可哀相な心
が、今何を体験しているか、私には分かります。神は慈悲をかけます、貴方に力と勇気を
恵みます。神は助け、これら異常な苦しみに報います。私達は皆、自分の立場で、私達の
愛する人のために戦います。リリーとカローバは、貴方に宜しくといっています。愛する
人は十字を切り、祈り、自分の信念を守る。********************
***************。
気が狂うこともできるでしょう、が、私達はそうはしません。私達は、輝く未来を信じ
ています。
パ ー ベ ル が 、私 に 全 て を 話 し ま し た 。私 は 貴 方 の 行 為 を 、全 く 良 く 分 か り ま す 。貴 方 が 、
戴冠式で誓ったことに何することに、署名ができなかった、ことは私は良く分かります。
私達は、お互いに良く理解し合っています。私達には言葉は入りません。そして、私は誓
います。帝国の名誉の元に、国民と軍により取り戻された玉座に、貴方が再び玉座に就く
の を 、 私 達 が 見 れ る こ と を 。」
ア リ ッ ク ス は 、翌 日 よ う や く 勅 書 を 読 ん だ 。そ の 時 、ニ コ ラ イ の 声 を 聞 く こ と が で き た 。
電話が通じたのである。ニコライは総司令部から、ツアルスコエ・セロに電話をかけた。
アリックスはニコライを激励し、優しい言葉を話した。
電話での話し合いの後、直に、ニコライからの電報を受け取った:
「総司令部。3月4日、朝10時。陛下(ニコライはアリックスを、従来通り、そのよ
う に 呼 ん だ 。 最 後 ま で そ う 呼 ぶ こ と に な る 。 著 者 )。 あ り が と う 。 優 し い 人 。 絶 望 し て
い ま す 。 貴 方 に 神 の ご 加 護 を 。 心 よ り 愛 し て い ま す 。」
3月4日の朝、アリックスは、ニコライへ最後の手紙、653番目の手紙を書く:
「3月4日17年。大好きで、愛している貴方へ! 貴方の優しい言葉を聞いて、どん
なに気が楽になり、嬉しかったことか。ただ、音が聞こえにくかったですが、全てを聞く
ことができました。そして、今日は貴方からの優しい電報を受け取りました。ベビーは体
を曲げてベットから乗り出し、貴方に接吻を伝えるよう願っています。4人とも暗い部屋
で寝ています。マリアと私は書きものをしていますが、カーテンが降りているかのように
何も見えません。ただ、今朝、私は勅書を読みました。私以外の人達は絶望しています。
彼らは、私のエンジェル(ニコライ *)を崇拝しています。軍の中には動きを始めてい
ま す 。ダ キ と 共 に 、私 は と て も 憤 慨 し て い ま す 。こ れ か ら 先 の こ と を 、私 は 感 じ て い ま す 。
私は、太陽の輝きを予見しています。
今、あちらこちらで、人々を逮捕しています。もちろん、将校もです。何が起こるのか
は、神は知っています:*****。敬礼をせず、上官の眼前でタバコを吸う。何が起こ
るのか、私は書きたくもありません。嫌なことに違いないからです。病人達は、他の部屋
にいるので、このことを知りません。病人達に話すのか心が重いです。ああ、神様! 勿
論、貴方の苦悩に対して、神は何倍も報います。私の愛する人、大事なエンジェル、貴方
が耐えていると思うと、心が痛みます。私の気を狂わせます。これについてもう書く必要
はありませんし、書くこともできません! 2人の卑劣漢を派遣して、貴方をどんなにか
侮辱したことでしょう! 今まで誰がそのようなことをしたか、私は知りません。貴方自
身 が 話 さ な か っ た の か も し れ ま せ ん が 。 私 に は 、 軍 が 立 ち 上 が る よ う な 気 が し ま す 。」
世紀の恋愛書簡は終わった。監禁生活が始まった。
ニコライは、電話で、否認(?退位宣言書 *)について短く話をしていた。監禁生活
となり、ニコライが戻って来て、アリックスは詳細を知ることとなる。ニコライの日記か
らそれを見てみよう。
- 126 -
「罠に入ったネズミのように捕らえられた・・・」
(否認の日記)
とにかく、ニコライは、ツアルスコエ・セローへ、列車で向かった。
「3月1日、水曜日。夜、ルバニとトシノが、蜂起者によって占領されていることが分
か っ た の で 、マ ー ラ ヤ ・ ベ シ ェ ラ か ら 元 に 戻 っ た 。バ ル ダ イ 、ド ノ 、プ ス コ フ に 向 か っ た 。
夜 に 停 車 し た 。」
朝、プスコフで目が覚めた時、列車は何処へも進まないことに、ニコライは知る。
「ガッチナもルガも、占領されていることが分かった。恥曝しで不名誉! ツアルスコ
エ・セローまではたどり着けない。可哀相なアリックスが、この間、一人ぼっちで、どれ
程 苦 し ん で い る か と 思 う と 、 私 の 気 持 ち と 感 情 は 、・ ・ ・ 。 神 よ 我 々 を 助 け た ま え 。」
ガ ッ チ ナ ( 宮 殿 * ) は 、 子 供 時 代 、 焚 き 火 を 焚 い た 庭 園 、・ ・ ・ 、 彼 ら の 永 遠 で 、 ゆ
るぎない世界。
「 3 月 2 日 、木 曜 日 。朝 、ル ス キ ー( 北 西 軍 と 北 方 前 線 の 司 令 官 著 者 )が や っ て 来 た 。
ロジャンコと、電話で長話をしていた。彼(? *)の言葉によれば、ペテログラードの
状況は、今や、国会の内閣は、何をするのにも無力である。労働者委員会の中の社会民主
党(労農代表者ペトログラード・ソビエト 著者)が、内閣に反抗している。私の退位宣
言 書 が 必 要 で あ る ・ ・ ・ 。」
全てが、急速に進行していた。大変な恐怖であった:子供と一緒のアリックスと、ドノ
駅 ( 何 と い う 名 前 で あ ろ う か ! )( ド ノ は 日 本 語 で 、「 底 、 ど ん 底 、 底 辺 」 の 意 が あ る
*)で、列車に閉じこめられているニコライ。ニコライはルスキーに宣言をする:分かっ
た、ニコライは退位宣言書に署名する準備をする。しかし、まず、各前線司令官に、ニコ
ライの退位に賛成するかどうかを、問い合わせてから。
日 記 か ら 、 3 月 2 日 ( 続 き ):
「ルスキーは、総司令部に、この交渉内容を伝えた。総司令官はアレクセーエフ。2時
半に、各部隊から返事が届いた。ロシアを救うため、前線における軍隊を鎮静化するため
に は 、 こ の 方 針 を と る こ と が 必 要 で あ る 、 と い う こ と で あ っ た 。 私 は 同 意 し た 。」
ペトログラードから、国会から、ニコライの退位の伝達使が、既に派遣されたことを、
ニコライは昼頃に知る。
「 こ れ ら 2 人 の 卑 劣 漢 を 遣 わ し た 後 、 私 は ど れ だ け 落 ち 込 ん だ か ! ・ ・ ・ 。」
遅い時間に、ニコライはプラットフォームに出て散歩をした。寒くて、全てのものが凍
り 付 い て い た 。 皇 帝 列 車 だ け が 、 明 か り で 照 ら さ れ て い た 。「 諸 氏 達 」( ニ コ ラ イ は 、 自
分の随員達を、薄笑いをしながらそう呼んだ)は起きていた。ただ、ただ待機してた。
闇の中から、1台の客車の付いた機関車が、進んできたのを、ニコライは見た。
彼らは、ニコライの客車に乗り込んだ。2番目に、シュリギンがいた。ニコライはシュ
リギンを知っていた:君主制主義者である。国会でのシュリギンの演説を、ニコライは当
時気に入っていた。が、1番目、1番目にいたのは、グチュコフであった。ニコライの永
遠 の 敵 ! 不 倶 戴 天 の 敵 ! ア リ ッ ク ス が 予 言 し て い た 、「 小 さ な 鉄 道 事 故 」 が 、 起 こ っ
た。ニコライの列車を停止させ、彼らはニコライに会いに来たのであった。
私達の世紀は既に60年代、レニングラード。10月の半世紀記念に関して、ドキュメ
ンタリー映画が準備されていた。撮影所「レンフィルム」のパビリオン。撮影用のサーチ
ラ イ ト は 消 え て い る 。埃 っ ぽ い 薄 明 か り の 中 に 、老 人 が い る 。禿 頭 、予 言 者 風 の 髭 、輝 き 、
若 い 目 、・ ・ ・ 。 こ の 老 人 に 会 う た め に 、 私 の 映 画 を 撮 影 し て い る 隣 の パ ビ リ オ ン か ら 、
私は入った。
老人はスターリンの収容所で、刑期を終えた。そして、今、フルシチョフの雪解けの日
々で、この老人に関するドキュメンタリー映画を撮影することが、監督フリードリッヒ・
エルミレルの頭に閃いた。その日、監督は、パビリオンで、老人と一緒になって、エピソ
ード「皇帝の退位宣言書」について話し合っていた。当時、この老人は、自分の本で、こ
の件について詳細に記述をしていた。そして、今、老人とグチュコフは、どのように皇帝
の客車に入っていったのかを、再び思い出していた。そこには、伯爵フレデリックが立っ
ていた・・・。皇帝が入ってきた。
老人は、当時のロシアのことを全て知っていた。この老人こそ、シュリギンである。
客車、壁は緑の絹、肩飾りをつけた老将軍-宮廷長官フレデリック伯爵・・・。
彼らは小さい椅子に座った:皇帝は、チェルケスク・コートを着ていた。皇帝に向かっ
て、グチュコフとシュリギンが座っている。
グチュコフが、話し始めた。勿体ぶって、長く。ニコライは黙って聞いていた。シュリ
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ギンが、皇帝を見る。目の下には弛み、茶色でシワシワで、カサカサの皮膚(眠れず、大
変 な 夜 )。
最後に、グチュコフは、退位の話に移った。彼の声は震えていた。グチュコフの興奮し
な が ら の 話 が 終 わ っ た 時 、 ニ コ ラ イ は 、 静 か に 、 か つ 落 ち 着 い て 話 し た :「 皆 さ ん 、 玉 座
を去ることに、私は決断をした・・・。今日の3時まで、息子を利用して、退位すること
ができると、私は考えていた。が、この決定を、弟のミハイルに変更することにした。皆
さ ん が 、 父 と し て の 感 情 を 理 解 し て く れ る こ と を 期 待 す る 。」
国会で作成され、グチュコフが持参してきた勅書案を、机から持ち捕り、出て行った。
ニ コ ラ イ が い な い 間 に 、来 訪 者 達 は 知 っ た : 皇 帝 は 、フ ェ ド ロ フ 医 師 の 診 断 を 知 っ て い た 。
医師は、アレクセイの健康の回復の見込みはない、と診断していた。
ニコライは客車に戻ってきた。机の上に、自身で書いた退位宣言書を置いた。この宣言
書は、電報として仕上げるために空白を入れたので、4枚となった。
「シュリギンは思い出している。私に草案を、本当に残念そうに見せてくれた。それを
私 達 は 頂 い た 。 ニ コ ラ イ の 別 れ の 言 葉 は 、 本 当 に 気 品 に 溢 れ て い た ・ ・ ・ 。」
「勅書」
「丸3年もの間、我が祖国を隷属させようとしてきた、外部の敵との偉大な戦いの日々
において、新たな大変な体験を、ロシアに遣わしたのは、神の思し召しである。始まった
国内の動揺は、長く続く戦争の更なる遂行に、不幸な影響を及ぼしそうである。ロシアの
運命、英雄的な軍の名誉、国民の幸福、親愛なる我が祖国の未来は、最後の勝利まで、戦
争の遂行を要求している・・・。決断したこの日、ロシアのためには、早めの勝利の達成
のための、国民の緊密な団結、国民の総力の結集を、我が国民に対して緩和することが、
私は、良心としての責務であると考えた。国会との意見の一致において、ロシア帝国の玉
座から退位をし、自身から最高権力を解除することが、幸福であると、私は、知るに至っ
た。私達の愛する子供と別れることを希望しないので、私の弟、大公ミハイル・アレクサ
ンドロビッチに、遺産を引き渡すこととする。ロシア帝国玉座への即位において、彼に幸
あらんことを祈る。国民の代表者達との、完全で揺るぎない団結のもとで、政府の仕事を
統 括 す る こ と を 、 私 の 弟 に 、 遺 言 す る ・ ・ ・ 。 * * * * * 。 神 よ 、 ロ シ ア に ご 加 護 を 。」
しかし、感無量であったにも関わらず、彼らは、彼(ニコライ *)に、少し嘘をつく
ように頼み込んだ。退位宣言書が引ったくられた、という推測が生じないようにするため
に、宣言書には、ニコライが宣言書に署名をした、その時の本当の時間ではなく、ニコラ
イ が 、こ の 宣 言 書 を 採 用 す る こ と に 決 定 し た 時 刻 を 書 く よ う に 、と 。ニ コ ラ イ は 同 意 し た 。
そ し て 、 署 名 を し た : 既 に 深 夜 の 時 間 で あ っ た の も 関 わ ら ず 、「 3 月 2 日 、 1 5 時 。」。
その後、また嘘があった:彼らは新首相リボフ公爵がニコライ自身によって任命された
ように、提案した。ニコライはこの提案を受諾し、任命の署名をした。
日 記 よ り 、 3 月 2 日 ( 最 後 ):
「参謀本部から、勅書を送った。夕方、ペトログラードから、グチュコフとシュリギン
が来訪した。彼らと話し合い、彼らに、署名し、作り直した勅書を渡した。深夜1時、体
験 し た こ と で 気 が 重 く な っ た ま ま 、 プ ス コ フ を 出 発 し た 。 周 り の 裏 切 り 、 臆 病 と 欺 瞞 。」
別離
(玉座から引きずり下ろされた皇帝の日記)
勅書に署名した後、ニコライは、ツアルスコエ・セローへ直ぐに、出発することができ
た。が、予想に反して、総司令部のあるモギリョフに戻ることになる。
破滅の後に、直ぐに、妻と子供達に会うのが、ニコライには辛かったのかもしれない。
ニコライは、平静の状態で、彼らに会いたがった。そして更に:ニコライは軍に別れを告
げなければならなかった。戦争が継続しており、ニコライは、最高司令官としての自分の
指命を最後まで成し遂げた。
そして、多分、ニコライは期待していたことがあった・・・。アリックスのいうことが
正しいのかもしれない:軍が、信頼できる軍が、蜂起をする。奇蹟が実行される・・・。
更に:ニコライは、母親との別れをしなければならない。
3月3日、ニコライは総司令部に戻った。今では、ニコライをどのようにして出迎えて
良いのか誰も知らない。しかし、アレクセーフは、今まで通りに出迎えることにした。皇
帝列車を受け入れるための特別パビリオンで、将校達が出迎えた。沈黙が流れた。セルゲ
イ・ミハイロビッチだけが、他の大公キリルの振る舞いに、無駄口をたたいただけであっ
た。
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皇帝列車が到着した。しかし誰も出てこない。その後、従僕の誰かが姿を現し、アレク
セーエフを呼んだ。アレクセーフは客車に入っていった。皆が待った。
よ う や く ニ コ ラ イ が 現 れ た : 茶 色 の 肌 、突 っ 張 っ た 頬 骨 、目 の 下 に は く っ き り と し た 隈 。
ニコライの後ろには、フレデリック公爵:いつも通り、しっかりと髭を剃り、ズボンを引
き上げている。皇帝(既に前皇帝!)は、出迎えの人と挨拶を交わしながら、いつも通り
ゆっくりと歩く。
3月3日、金曜日:
「長い時間熟睡した。ドビンスクから大分離れた当たりで目が覚めた。天気は快晴であ
るが、マローズである。ユーリア・チェザール(? *)について大分読んだ。8時20
分に、モギリョフに到着した。全本部員が、プラットフォームで待っていた。客車内に、
アレクセーフを迎え入れた。9時30分、建物に移った。アレクセーフは、ロジャンコと
連絡をしていた。ミーシャが、退位をしたらしい・・・。そのような卑劣な行為に、彼を
署名させることを、誰が思いついたのか、神のみぞ知る。ペテログラードでの無秩序は、
止 ん だ 。 た だ 、 そ れ が 続 く よ う に 。」
「新しい世界」が、やって来た。
玉座をミハイルへの譲渡し、退位したことは、うまく行かなかった。何もうまく行かな
か っ た 。「 新 し い 世 界 」 は 、 ロ マ ノ フ 一 家 を 必 要 と し て い な か っ た 。 グ チ ュ コ フ が 、 敢 え
て皇帝について言及した時には、労働者達が、グチュコフを八つ裂きにしそうであった。
3月3日、新しい退位宣言書を得るために、グチュコフとシュリギンを、車で送った。
自動車の屋根の下には、剥き出しの銃剣をつけた兵が、寝そべっていた。
まだ、2月27日のこと、ロジャンコは、ミハイルを、ガッチナ宮殿から、ペトログラ
ードに呼び出した。ロジャンコの依頼に従い、総司令部と直接連絡を取り、ニコライに、
国会に譲歩する-国会に責任のある内閣を創設する-ように、お願いをした。ニコライは
拒否をした。しかし、ミハイルはガッチナ宮殿には戻れなかった。鉄道が、蜂起者によっ
て占領されてしまっていたからである。夜に、ミハイルは、冬宮にたどり着いたが、朝に
は 、騒 動 の 真 ん 中 に い る 羽 目 と な っ た 。海 軍 工 廠 の の 建 物 か ら 、冬 宮 に 来 て い た 将 軍 達 は 、
ペテログラードを救うために、ミハイルに軍を指揮することを提案した。ミハイルは拒否
をした。百万通りにあるプチャーチン公爵の屋敷の部屋に、身を隠し、生きながらえるこ
とを選んだ。
百万取りにある部屋の控え室には、国会議員達のオーバーが、投げ捨てられていた(打
倒 さ れ た 体 制 ゆ え で あ る 。 オ ー バ ー も そ の 持 ち 主 も 直 ぐ に 居 な く な る )。
ミハイルが出てきた。背が高く、顔は青ざめて、非常に若々しい顔をしていた。順番に
発言をした。
ケレンスキーの厳しい声:
「 玉 座 を 引 き 受 け て も 、貴 方 に は ロ シ ア は 救 え な い 。私 に は 大 衆 の 雰 囲 気 が 分 か る 。今 、
君主制に対する大衆の厳しい批判がある。貴方が権力を持った時、貴方が個人的にどのよ
う な 危 険 に 会 う か 、 私 に は 隠 す 理 由 は な い 。 私 は 貴 方 の 命 の 保 証 は し ま せ ん 。」
その後、長い静寂が続く。ミハイルの声、ようやく聞けるような声:
「 そ の よ う で は 、 私 は で き な い ・ ・ ・ 。」
沈黙、そして、誰にも分かるすすり泣き。
ミハイルは泣いた。ミハイルは、君主制に終わりを告げる、運命にあった。300年。
彼において全てが終わった。
ケレンスキーの喜びの絶叫:
「 私 は 貴 方 に 深 く 敬 意 を 表 し ま す 。 そ し て 、 全 ロ シ ア 。」
「新しい世界」は、祝福の電報を、ミハイル・ロマノソフに送った。ボリシェビキが流
刑されていたツルハンスクからさえ、祝電が届いた。
ニコライは、知事の屋敷に住んでいた。毎日、総司令部の部屋との間を通っていた。そ
こは、アレクセーエフがニコライに報告をし、代理人の電報を読んだ場所であった。何も
なかったかのようであった。
ニ コ ラ イ の 日 記 か ら :「 3 月 4 日 。 土 曜 日 。 1 2 時 に 、 大 好 き な 母 を 出 迎 え に 、 プ ラ ッ
トフォームまで出かけた。母はキエフからやって来た。母を自分の所まで案内し、一緒に
朝食をとった。ずっと座りながら、長話をした。8時に、母親の所での食事のために出か
け た 。 1 1 時 ま で 、 母 親 と 一 緒 で あ っ た 。」
帽子に赤い徽章を付け、赤い腕章とリボンを一杯吊した書記や運転手達が、道を行き来
し て い た 。 終 わ り の 尽 き な い 集 会 、「 呪 わ れ た 体 制 」 に 関 し て 、「 世 界 中 で 最 も 自 由 な 国
の最も自由な市民」の話。
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後家の皇太后の客車に、彼らは集まった。身内:大公ボリス・ウラジミロビッチ(今で
は 、 平 民 の ボ リ ス ・ ロ マ ノ フ )、 王 子 ア レ ク サ ン ド ル ・ オ リ エ ン ブ ル グ ス キ ー ( 今 で は 平
民 の ア レ ッ ク )、 平 民 の セ ル ゲ イ 、 平 民 の サ ン ド ロ 、・ ・ ・ 。 ニ コ ラ ー シ ャ が 、 最 高 司 令
官のポストを受領する、と、その時には、彼らは信じていた。アレクセーフ、将軍達、皆
が彼(?ニコラーシャ ?)を望んでいた。
し か し 、「 新 し い 世 界 」 は 、 彼 を 望 ん で は い な か っ た 。 ニ コ ラ ー シ ャ を 拒 否 し た 。 臨 時
政 府 の 名 前 で 、 彼 に :「 人 民 の 意 見 は 、 ロ マ ノ フ 家 の 一 員 が 何 ら か の 職 務 に 就 く こ と に 、
全く、かつ頑固に、反対をしている。臨時政府は、貴方がロシアに対する愛の名で・・・
で あ る こ と を 、 信 じ て い る の だ が 。」
彼 は 嫌 み を 込 め て 電 報 で 答 え た :「 ロ シ ア へ の 愛 を 再 び 示 す こ と が で き る の は 、 私 の 喜
び で す 。 今 ま で 、 ロ シ ア は 、 こ の 件 に つ い て 疑 っ た こ と は あ り ま せ ん 。」
人 民 の 意 見 ・ ・ ・ 。 大 公 の 一 人 が 質 問 を し た :「 貴 方 の 名 前 は ? 」 答 え た :「 ロ マ ノ
フ 」。 事 務 職 員 は 同 情 し て 語 っ た :「 何 と も 耳 障 り の 名 前 で あ る こ と 」
新しい権力、勝利した群衆の権力が始まった。彼(?ニコライ *)の以前の権力は兵
士 - 労 働 者 と 兵 士 の 代 表 者 ソ ビ エ ト 。国 会 と 臨 時 政 府 - こ れ ら は 以 前 は 話 し 好 き - 今 で は 、
******。
**************************。
その間、アレクセーフは、皇帝家族の出発について交渉をしていた。ムルマンスクから
イギリスへ-が予定されていた。
ニコライは、アリックスの所へ戻るまでに、全てを片付けようとしていた。
し か し 、 他 の 事 態 と な っ た 。「 新 世 界 」 は 家 族 を 出 発 さ せ た が ら な か っ た 。
3 月 3 日 、 ニ コ ラ イ の 退 位 の 直 ぐ 後 に 、 労 農 代 議 者 ペ ト ロ グ ラ ー ド ・ ソ ビ エ ト は 、「 ニ
コライ二世とロマノフ王朝の他の人物の逮捕に関して」の決議を採択した。
臨時政府は譲歩した。ニコライは、彼らの全ての条件を、不平を言わずに満たしてあげ
たにも関わらず、彼ら(? *)は、ニコライを逮捕することにした。このように、彼ら
(? *)は「新世界」を恐れていた。
臨時政府の3月7日の議事録:
「審議した:退位した皇帝とその伴侶の自由剥奪について。
決定した:退位した皇帝ニコライ二世とその伴侶の自由剥奪を決定し、ツアルスコエ
・ セ ロ ー に 退 位 し た 皇 帝 を 護 送 す る 。・ ・ ・ 。」
ケレンスキーは、逮捕の理由を説明した:
「軍の後方部隊と労働者達は、最も興奮した状態にある。ペテログラード守備隊と、モ
ス ク ワ 守 備 隊 は 、ニ コ ラ イ に 敵 意 を 抱 い て い る 。・ ・ ・ 。モ ス ク ワ ・ ソ ビ エ ト の 総 会 で の 、
3月20日の私の発言を思い出して欲しい。その時には、死刑を要求の声が、私に向かっ
て直接上がった。私は発言した。私はマラトの役を請け負いたくはない。ロシアに対する
ニ コ ラ イ の 罪 は 、 公 平 な 裁 判 で 裁 く 、 と 。」
実 際 、 政 府 は 秘 密 に 伝 え た ( ? 誰 に * )、 と い う こ と を 、 ア レ ク セ ー フ は 、 彼 ( ? ニ
コライ *)に、伝えた:大衆の憤りを鎮めるために、これは一時的なものである。特別
に設置される次の委員会が、担当するであろう。委員会は、皇帝と、アリックスの裏切り
に関する噂のでたらめを示す。そして、その後に、良い道がある、イギリスへ。
3 月 8 日 、 水 曜 日 :「 マ ギ リ ョ ウ フ の 最 後 の 日 。 1 0 時 1 5 分 に 、 軍 へ の 別 れ の 声 明 を
書 き 上 げ た 。」
「熱烈に愛している軍の皆さんへ最後の別れをするに当たり、皆さんが義務を全うする
ように。献身的な我がロシアを守り給え。臨時政府に服従したまえ。貴方方の司令官の指
示を聞き給え:貴方方に神の恵みがあるように。聖なる殉教者が、貴方方を勝利に導きま
す 。 そ し て 、 常 勝 の 人 ゲ オ ル ギ ー が 。」
しかしニコライの最後の声明を公開することは、誰も敢えてしなかった。作成者は尋常
な立場の人ではなかったからである。
ニコライは、ロシアの幸運と和睦を願っていた。そのために、権力を手放し、ニコライ
自身が、新しい政府に誠実に勤めることを、自分の人民に切望した。
しかし、この瞬間から、ニコライは、君主制主義者の評判を落とした。
3月8日の日記の続き:
「10時30分、勤務員宿舎に行った。そこで、勤務全員と別れの挨拶をした。自分の
宿舎では、将校、護衛隊のコサック兵、混成部隊と別れの挨拶をした。私の心は、辛くも
破裂しなかった。12時に、列車に居る母親の所へ向かった。母親と、彼女の随員と共に
食事をした。4時30分まで、母親の所にいた。母親、サンドロ、セルゲイ、ボリス、ア
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レ ッ ク 、 と 別 れ の 挨 拶 を し た 。・ ・ ・ 。」
最後に一度、ニコライは全員を見渡した。ニコライには二度と再会することのない運命
となった。
「 4 時 4 5 分 に 、モ ギ リ ョ フ を 出 発 し た 。胸 を 打 た れ る 人 々 の 群 れ が 、別 れ を 惜 し ん で 、
付 い て き た 。 私 の 列 車 に は 、 国 会 か ら 4 人 の 役 員 が 同 行 し て い る 。・ ・ ・ 。 気 が 重 い 、 憂
鬱 で あ る 。」
「 同 行 し て い る 。」 ニ コ ラ イ は 、 自 分 の 逮 捕 を 、 デ リ ケ ー ト な 表 現 で 書 き 残 し た 。
皇帝の身分との決別
(逮捕者の日記)
政府の決定を承認する。
1.皇帝家族と、家族と残るもの全員は、隔絶された。
2.外部及び内部の警備隊が組織された。
3.家族の移動は、宮廷領域内だけが許可された。
4.特別調査委員会の審査において渡された、皇帝と皇后の所の書類の没収が規定され
た。
3月8日、アレキサンドル宮殿に、コルニーロフ将軍の車が、近づいてきた。ラブル・
コルニーロフは、貫禄のある髭を蓄えた名の知れた将軍であった。宮殿の正面玄関に車が
停車した。皇后の秘書である伯爵アプラキシンが、彼を出迎え、アリックスの所へ案内し
た。
「皇帝陛下が、逮捕されるということを、貴方に伝えなければならないという、大変な
責 務 が 私 に 降 り か か っ て き ま し た 。・ ・ ・ 。」
コルニーロフが退去した後、護衛隊の百人隊長ズボロフスキーを、自分の所に呼び出し
た。*****。
「私を始め、皆は裁判に従わなければならない。コルニーロフ将軍を、私は以前から知
っ て い る 。 彼 は 騎 士 で あ る 。 子 供 達 の た め に 、 今 は 平 静 で い る 。」
(ちょうど1年後の、1918年3月に、コルニーロフは、国内線の戦いでなくなる。
彼 の 遺 体 は 墓 か ら 引 き 出 さ れ 、 エ カ テ リ ノ ス ラ フ 近 郊 で 、 赤 軍 に よ っ て 焼 か れ た 。)
1917年3月8日に、ツアルスコエ・セローで、任務の引き渡しが指示された。皇帝
の以前の警備隊は、宮廷を後にしなければならなかった。悲劇の戯曲が続く:皇后と宮警
護隊は、別れを惜しんだ。皇后は、隊員達に、イコンと、家族からの小さな贈り物をあげ
た。将校達は、片肘を付いて、イコンを戴いた。その後、隊長ズボロフスキーを、奥の部
屋に連れて行き、病に伏している娘達との別れをさせた。ズボロフスキーは、大公達に低
くお辞儀をした。しかし、彼女たちは彼をいぶかしげに見ているのを、ズボロフスキーは
気 が つ い た 。 そ う な の で あ る 。 彼 女 た ち は 、 未 だ 、 な に も 知 っ て い な か っ た の で あ る 。・
・・。
皇后は、ホールに皆を集めた:
「今日6時までに、宮殿を去らない者は、全員逮捕されるでしょう。皇帝は、明朝に到
着 し ま す 。」
皇后には、子供達に現状を話さなければならない辛いことが待っていた。皇后自身が、
娘 達 に 話 を し た ・ ・ ・ 。 辛 い 話 で あ っ た ・ ・ ・ 。「 マ マ は 辛 そ う で し た 。 私 は 泣 き ま し た
・ ・ ・ 。 し か し 、 そ の 後 、 私 達 は 、 お 茶 を 飲 み な が ら 、 談 笑 す る よ う に 努 め ま し た 。」。
後になって、マリアが、アーニヤにそのように話した・・・。
アレクセイには、教師のジリヤールが話した。
「アレクセイ・ニコラエビッチ、貴方の父はこれ以上皇帝で居ることを希望していませ
ん 。」
アレクセイは、驚いて、ジリヤールを見つめた。何が起こったのか、ジリヤールの顔か
ら理解しようと努めた。
「 皇 帝 は 大 変 疲 れ て い ま す 。 最 近 、 皇 帝 に は 大 変 な 仕 事 が 沢 山 あ り ま し た 。」
「ああ、そうだったの! パパがここへ来ようとした時、列車が止まって動かない、と
ママが私に話していました。けど、パパは後になって、また皇帝となるの?」
「皇帝は、ミハイルに、玉座を譲りました。しかし、叔父のミハイルは、同じく、玉座
を 退 位 し ま し た 。」
「それでは、誰が、皇帝となるの?」
- 131 -
「 今 は 、 誰 も い ま せ ん 。」
アレクセイの顔は紅潮し、長い間黙っていた。しかし、自分のことについては質問をし
なかった。そして語った:
「皇帝が、これ以後居ないとすれば、誰がロシアを統治するのですか?」
親 切 な ス イ ス 人 に は 、 質 問 は 、 純 真 に 思 え た 。 が 、「 幼 児 の 言 葉 と し て は ・ ・ ・ 。」
アレクセイは、多くの人が質問するようなことを質問した:誰が皇帝になるのか? 何時
も皇帝の居た国で、誰が皇帝に?
革命は、専制を打ち倒すことはできなかった。なぜならば、専制は国民の地の中にあっ
たからである。新しい皇帝が、出現した。革命の皇帝が。しかし、今までの皇帝ではなか
った。
「皇帝が、これ以後居ないとすれば、誰がロシアを統治するのですか?」
16時に、革命兵士達が、皇帝警護隊として勤務に就いた。しかし、彼らはもう皇帝家
族を守ろうとはしなかった。彼らは皇帝家族の見張りを行った。百人隊長ズボロフスキー
は 、残 念 な 思 い で 、赤 い 腕 章 を つ け た こ れ ら 新 し い 警 備 隊 員 を 見 つ め た 。世 界 が 崩 壊 し た 。
ズ ボ ロ フ ス キ ー は 、 日 記 に 書 き 残 し て い る 。「 昔 は ・ ・ ・ 、 昔 は ・ ・ ・ 。 も う 何 も な い 。
酷 い の は 何 な の か 。 全 く 分 か ら な い 。( ? * )」
アリックスが逮捕された最初の夜は、退位させられた皇帝の到着するまえの最後の夜と
な っ た 。・ ・ ・ 。
マローズ、月。月明かりで、宮廷の庭の雪が輝いている。宮殿の深夜の静けさの中で、
毛布と敷布をかぶって、リリー・デンが、皇后の寝室の隣にある客間に降りていく。娘達
は、母親を一人にしておかないで欲しいと、リリーにお願いをした。乱れた髪をし、寝具
に着替えていたアリックスは、少女のような喜びで、リリーを、ソファーベットに招き入
れ る :「 あ 、リ リ ー 。ロ シ ア 婦 人 は 、自 分 で 寝 床 を 敷 け な い の で す 。私 が 子 供 で あ っ た 時 、
祖 母 が 、 ど の よ う に す る の か 、 私 に 教 え て く れ た の で す が 。・ ・ ・ 。」
ビクトリア王朝様式のベットが準備された。****。アリックスは、自分の寝室のド
アを開けっ放しにし、リリーが、一人ぼっちにならないように。月明かりが差し込む室内
で、2人きりで、自分の思いに耽ける。2人とも寝つけない。リリーは皇后の咳払いの音
を聞く。そして、新しい音がする:廊下を巡回する番兵の足音が。行ったり来たり、行っ
た り 来 た り 。・ ・ ・ 。
3 月 9 日 、朝 1 1 時 。ガ レ ー ジ か ら 自 動 車 が 出 発 し 、駅 に 向 か っ た 。皇 帝 専 用 ホ ー ム へ 。
列車が近づいてきた。兵士用の制服外套を着、毛皮帽をかぶってニコライが降りてきた。
黄色の皮膚が、頬骨を突っ張っていた。ニコライの後から、列車から、従者達が、ホーム
へ飛び出して来た。そして、周りを見ることもなく走り去っていった。これは、ありふれ
た恐怖の効果だけによるものではなかった。これは、ニコライに対する「カマリニア」の
偽 物 で は な い 関 係 の 、 初 め て の 示 威 で あ っ た 。・ ・ ・ 。
皇帝が自動車に乗った。皇帝と並んで、宮廷財務長官ドルゴルコフ、前の席には、彼の
伝令兵、護衛隊の騎兵曹長ピリペンコ(ドルゴルコフは1918年に、ピリペンコは19
2 0 年 に 、 銃 殺 さ れ る 。)。 命 令 が 発 せ ら れ た :「 前 皇 帝 に 、 門 を 開 け ろ 。」
門 が 開 け 放 れ た 。「 死 人 達 の 自 動 車 」 は 、 ツ ア ル ス コ エ ・ セ ロ 宮 殿 に 入 っ た 。
その時、皇后は、好きであったライラック色の室内にあった書類を燃やしていた。他の
部屋では、友人(アーニヤ *)への手紙を、焼却した。彼女は、多分、エルナの兄弟の
手紙を燃やしたに違いない。そして日記。**************。
しかし、とにかく、彼女は、今までの思い出を残すことに決めた。そして、日記の新し
い 書 き 留 め 方 を 考 え 出 し た : た だ 、出 来 事 だ け 、そ し て そ の 出 来 事 が 起 こ っ た 時 間 だ け を 。
これを日記の全てとすることを。何の評価も、何の感情も書き留めないこと。将来に思い
出すための、カンバスのように。
このような方法で、惨事の1917年初めからの起こった事柄を、新しい日記に、アリ
ッ ク ス は 書 き 留 め た 。入 金 - 出 金 簿 に 似 た 、帝 国 破 綻 の 日 記 は 、こ の よ う に し て 作 ら れ た 。
日記は、ロシア語と英語がまぜこぜになっている。日記が奪い取られても、読むのが難し
い よ う に す る た め 、ア リ ッ ク ス は 、し ば し ば 、ロ シ ア 文 字 と 英 語 文 字 を 混 ぜ 合 わ せ て い る 。
しかし、当時のアリックスの生活を知りながら、この日記を読むことは、非常に興味が
わくことである。例えば、記憶に値する3月1日の所を見てみよう。
「 3 月 1 日 。 1 1 時 。 ベ ン ク 。 お 茶 。」
これは、即ち、ベンケンドルフをお茶に招待をし、ペテログラードからの最新情報を話
し合った。
「O-38と9、T-38、A-36と7、アーニヤ-38」 これは、病気の子供達
- 132 -
とアーニヤの体温である。
「 イ ワ ノ フ - 1 - 2 . 5 夜 。」
これは、イワノフ将軍との、あの悲劇的な夜の会談についての記述である。
私達の興味を引く日にちのものがある。
「 3 月 9 日 。O - 3 6 .3 、T - 3 6 .2 、M - 3 7 .2 、A H - 3 6 .5 、A - 3 6 .
2 。」 こ れ は 、 病 気 の 子 供 達 と ア ー ニ ヤ の 体 温 で あ る 。」
「 1 1 . 4 5 - H が 来 た 。」・ ・ ・ 。 そ の 通 り 、 ニ コ ラ イ が 来 た 。
「 H と 昼 食 。」 ニ コ ラ イ と 。
「 遊 戯 室 で ア レ ク セ イ 。」 遊 戯 室 で 、 父 と 息 子 と の 対 面 。
皇帝の乗った車が到着した時、アリックスは、子供と一緒に遊戯室にいた。
「 1 5 歳 の 娘 の よ う に 、 彼 女 ( = ア リ ッ ク ス * ) は 、 宮 殿 の 廊 下 を 走 っ た 。」 彼 女
の友人(=アーニヤ *)は、後になって書いている。永遠の少女は、永遠の愛する人と
出会った。若くはない2人は、しっかりと抱き合った。
小姓のボルコフは、この出会いを見ていた。
「皇后陛下は、笑みを浮かべながら、皇帝陛下へと、駆けて行った。そして、2人は接
吻 を し 合 っ た 。」
ア ー ニ ヤ ・ デ ミ ド ワ は 、 彼 女 を 見 て い た 。「 2 人 き り に な っ て 、 彼 ら は 泣 い て い た 。」
より正確には、皇帝が泣いていた。ニコライ二世は、彼女の「子供」であった。
皇帝がようやく平静に戻ると、アリックスは、皇帝を、アレクセイの居る遊戯室へと連
れて行った。2人は、子供とあれやこれや尽きない話をした。今までの如く。
そ の 通 り 、 今 ま で の 通 り 。・ ・ ・ 。 息 子 と の 話 を 終 え て 、 ニ コ ラ イ は 、 好 き な 散 歩 へ と
宮 殿 を 出 た 。し か し 、今 ま で の よ う な 長 い 散 歩 の 外 出 は 、も う ニ コ ラ イ に は で き な か っ た 。
前皇帝が、銃床で小突かれながら、宮殿に押し返されるのを、アリックスとアーニヤは窓
か ら 見 て い た :「 陸 軍 大 佐 殿 、こ れ 以 上 は 駄 目 で す 。元 へ 戻 っ て 下 さ い 。こ れ は 指 示 で す 。」
( 陸 軍 大 佐 - こ れ が 今 の ニ コ ラ イ の 呼 び 名 で あ っ た 。)
ニコライは黙って宮殿に戻った。
日記より:
「3月9日、木曜日。早く、そしてつつがなく、10時半に、ツアルスコエ・セローに
到着をした。しかし、ああ、何という変わりようか! 通り、宮殿の周りには、番兵が、
玄関内には、将校が。二階に上がった。そこで、可愛いアリックスと大好きな子供達を見
つ け た 。ア リ ッ ク ス は 機 嫌 が 良 く 、健 康 そ う に 見 え た 。し か し 、皆 は 暗 い 室 内 に 寝 て い た 。
しかし皆は元気そうであった。が、マリアは最近麻疹に罹っていた。アレクセイの遊戯室
で、食事をした。従僕と散歩をしたが、遠くには行けなかったので、彼と庭で少し仕事を
し た 。・ ・ ・ 。
3 月 1 0 日 。私 達 の 置 か れ て い る 状 況 に も 関 わ ら ず 、よ く 眠 れ た 。皆 一 緒 で あ る こ と は 、
嬉しくあり、元気づけられる。書類を見て、整理し、そして焼却した。
3 月 1 1 日 。・ ・ ・ 。 朝 、 ベ ン ケ ン ド ル フ を 謁 見 し た 。 私 達 は 、 当 分 こ こ に 残 る こ と に
な る こ と を 、 彼 か ら 知 っ た 。 こ れ は 悪 く は な い 。 手 紙 や 書 類 を 燃 や し 続 け た 。」
ニコライは、まず最初に、自分の日記を取り出した:ニコライが全てを書いている。ニ
コライは自分の日記の没収の可能性を、考えたのであろうか? 勿論議論の余地はない。
しかし、ニコライは卑屈にはならなかった-隠す。
「 書 類 を 燃 や し た 。」 そ う 、 全 て を ! 私 は 、 こ の 記 述 に 関 し て は 、 ニ コ ラ イ が 大 好
きである!
実際、直に、ニコライの書類は、臨時政府の特別委員会によって取り上げられた。
「 3 月 1 4 日 。・ ・ ・ 。 今 で は 、 自 分 の 好 き な 読 書 を す る 十 分 な 時 間 が あ る 。 そ れ に も
関 わ ら ず 、 大 部 の 時 間 を 、 子 供 達 の 所 で 座 っ て 過 ご し て い る 。・ ・ ・ 。」
好 き な ツ ア ル ス コ エ ・ セ ロ ー で の 、 平 穏 な 生 活 。 し か し 、・ ・ ・ 、 逮 捕 の 生 活 。
「3月21日。司法大臣のケレンスキーが、突然訪れた。全部屋を見て回り、私達に会
いたくなった。5分ほど私と話した後、新しい警備司令官を紹介して、去って行った。ケ
レンスキーは、悲運なアーニヤを逮捕し、リリー・デンと一緒に、町に連行することを命
じ た 。」
友人との別離。小姓のアレクサンドル・ボルコフが、アレックスを車椅子に乗せ、連れ
てきた。アリックスはアーニヤを抱きしめた。2人は力ずくで引き離された。しかし、サ
ナはどうにか話すことができた:
「 あ そ こ 、 神 の 元 で は 、 私 達 は 何 時 も 一 緒 で す 。」 サ ナ は 天 空 を 指 し て 語 っ た 。
アーニヤを、車に乗せて連れ去った。
ア ー ニ ヤ は 、木 々 に 隠 れ て い く 宮 殿 を 、振 り 返 っ て 見 続 け る こ と で あ ろ う 。宮 殿 の 公 園 、
池、白い像、フェオドロフスキー寺院-全ては今では思いで、夢となった。この家族の家
- 133 -
・・・。12年間、彼は住んでいた、そして、彼女の家。彼女は大きな半円形の窓-皇帝
の部屋-を思い出すであろう。彼女は、ニキを、今では何と呼んでいるのであろうか。サ
ナも居なくなった。友情で彼女に授けた女王陛下が残る。
彼女が少女であった時、イリンスコエ宮殿で、女王陛下を見る:背が高く、膝まで届い
ている濃い金髪・・・。
冬 宮 で の 、「 歴 史 的 舞 踏 会 」 に お け る 女 王 陛 下 - モ ス ク ワ 皇 后 の 振 る い 服 を 着 て 、 何 と
も綺麗であった。彼らが知り合った最初の日:背が高く、毛皮で覆われた黒いビロードの
ドレスに身を包み、長い真珠の首飾りをつけた女王陛下。椅子の向こうには、ターバンを
着けた黒人・・・。
が、今は戦争である。看護婦としてのスカーフ。厳しい女王陛下の顔、そして堂々と。
皇后の細い唇はキッと閉まり、灰色の目は悲しそう・・・。
友人を牢獄へと連れ去った。
アリックスに悲惨であったもう1つの出来事がある:ラスプーチンの墓にある辻堂の下
から、兵士が宝石を見つけた、という噂が広がった。ツアルスコエ・セロー警備隊は、命
令を出した:ラスプーチンの遺体を、ツアルスコエ・セローから遠ざけること。警備隊の
一人、キセレフ陸軍中尉に、兵士達に思いとどまるよう説得しに出かけるよう、アリック
スは懇願した。同時に彼女は、できそうもないことをした:警護隊司令官コビリンスキー
は臨時政府と関係していた。彼は、墓を暴くことを禁止するように、頼み込んだ。
アリックスは狂気の境にいた。
皇 帝 に 親 密 感 を 持 っ て い た( 当 時 の 皇 帝 に 対 し て 革 命 の 主 導 者 達 の 持 っ て い た 永 遠 の 感 覚 )
ケレンスキーは、不運な墓を守るために、装甲車を派遣した。が、装甲車が着くのが遅か
った。
トラックに、ラスプーチンの遺体の入った棺が載せられた。外された蓋が、車輪の所に
転 が っ て い る 。「 修 道 者 」 の く し ゃ く し ゃ の 髭 を 生 や し て い る 、 薄 気 味 悪 く 、 薄 化 粧 を し
た顔は、天空を見つめていた。
棺と並んで、トラックの脇で、話し合いがもたれた。ボリシェビキの兵士エリンが発言
した。棺から取り出した木製の小さいイコンを彼は示した。イコンの脇には、皇帝一家の
全員のイニシャルが記されていた。皆は歓喜した。
その後、棺を乗せたトラックは、ツアルスコエ・セローへの道を急いだ。ビボルグスキ
ー街道の、ラスプーチンの友人で、チベット人医者であったバドマエフの豪華な邸宅がか
っ て あ っ た 空 き 地 の 所 ( 邸 宅 は 、 凶 暴 化 し た 群 衆 に よ っ て 燃 や さ れ た 。) で 、 棺 の 載 っ て
い る ト ラ ッ ク が 止 ま っ た 。・ ・ ・ 。
巨大な焚き火が燃え上がった。焚き火の中に、トタンでできている棺と、石油をかけら
れ た グ リ シ ュ カ ( = グ リ ゴ リ ー ・ ラ ス プ ー チ ン * ) の 遺 体 が 、 投 げ 込 ま れ た 。・ ・ ・ 。
取り出されたイコンは、ペテログラード・ソビエトに運ばれた。
こ の ソ ビ エ ト の 意 見 は 、「 新 世 界 」 の 意 見 で あ っ た 。
「修道者」の焼却後、直ぐに、アリックスは夢を見た。彼女がかってニキに書いた、切
断された腕の時よりも、もっと酷い夢であった。
グリゴリーが宮殿に来た-体中傷だらけであった。
「 貴 方 方 を 、焚 き 火 で 焼 く で し ょ う 。
全てを!」と彼は大声で叫んだ。その時、部屋は火でも燃え上がっていた。彼はアリック
ス に 逃 れ る よ う 手 招 き し た 。 ア リ ッ ク ス は グ リ ゴ リ ー の 所 に 飛 ん で 行 っ た 。・ ・ ・ 。 し か
し 遅 か っ た 。 部 屋 中 炎 だ ら け と な っ た 。 炎 は 既 に 彼 女 を 包 ん で し ま っ た 。・ ・ ・ 。 叫 び 声
で息が詰まりそうになりながら、アリックスは目を覚ました。
労農代表者ペトログラード・ソビエトの廊下には、灰色の兵士用外套と、機関銃用弾帯
を帯びた水兵用半オーバーが群がっている。
ソビエトを、最左翼の党が指導している。ソビエトは、ロシアの暴動の古来からの本能
に支えられている。伝染病のように、ソビエトは、あっという間に国中に伝搬した。臨時
政 府 に よ っ て 地 方 に 任 命 さ れ た コ ミ ッ サ ー ル は 、強 力 な ソ ビ エ ト の 前 に は 、無 力 で あ っ た 。
国内には、2つの権力が存在した:臨時政府とソビエト。
クリミアの自分の領地に、この時住んでいた、サンドロ(大公アレクサンドル・ミハイ
ロビッチ)は、平静さを失って書き残している:
「水兵(ソビエトの 著者)は、コミッサール(臨時政府の 著者)を信用していなか
った。水兵達のベルトに差し込まれている手榴弾を、コミッサールは恐怖を持って見つめ
て い る 。・ ・ ・ 。 水 兵 達 は 、 コ ミ ッ サ ー ル に 対 す る 蔑 視 を 隠 そ う と は し な い 。 そ れ の み な
ら ず 、 コ ミ ッ サ ー ル の 命 令 を 拒 否 さ え す る 。・ ・ ・ 。」
1917年4月に、スエーデンから、ドイツを経由して、レーニンがロシアに戻ってく
- 134 -
る。30名ほどの亡命していたボリシェビニキと一緒に。
ロシアと戦争をしていたドイツは、レーニンと、彼の同志達に、自国の領土を、障害な
く通過することを許す。アレクサンドル・パルブスという人物が、この旅行の許可を得る
ことに成功した。本当に不思議な人物である:世界革命に夢中になり、トロツキーに大き
な影響を与えていた社会民主主義者。同時に、ドイツとトルコの特務機関員。さらには、
天才的な商人、大富豪、ベルリンに宮殿、スエーデンに城を持っていた。そこでは、ヨー
ロッパ中に持っていた2号を集めての大宴会が催されていた。パルブスはこのような、不
思議な人物であった。が、彼の御陰で、レーニンはロシアに戻ることができた。
レーニンと一緒に列車に乗っていたのは、レーニンの妻ナデージダクルプスカヤ、イネ
ッサ・アルマンド、そして、レーニンの身近な同志達-ジノビエフ、ラデック、シュリャ
プ ニ コ フ ・ ・ ・ 。( こ の 列 車 の ほ と ん ど の 乗 客 は 、 2 0 年 後 、 ス タ ー リ ン に よ っ て 粛 正 さ
れ る 。) し か し 、 当 時 、 予 想 外 で あ っ た 勝 利 に よ る 幸 運 な 革 命 の 実 を 、 彼 ら は 、 ロ シ ア
において、利用することを急いだ。
戦 争 の 始 め 、 レ ー ニ ン と そ の 同 志 達 は 、「 敗 北 主 義 者 」 で あ っ た 。 こ の 戦 争 に お け る 、
祖国の敗北は、幸運をもたらす、と彼らは考えた。政府の崩壊と、長く待っていたロシア
における革命をもたらすと。彼らはドイツとの戦争を、国内戦争に転化することを夢見て
いた。その時、兵士は銃の向きを変え、ドイツ兵の替わりに、同胞-「搾取者」-を殺し
始 め る 。・ ・ ・ 。 ド イ ツ 国 内 を 、 ボ リ シ ェ ビ ニ キ に 通 過 さ せ る こ と を 、 ド イ ツ 政 府 に 許 可
させることに、パルブスが成功した理由が、ここにあった。
列 車 の 中 で は 、レ ー ニ ン と ク ル プ ス カ ヤ は 、心 配 し て い た : 遅 い 時 間 に 、到 着 し た 駅 で 、
馬車を拾うことができるのかと。
駅では、数千人の兵士と水兵、そして、ペトログラード・ソビエトの代表者達が、レー
ニンを出迎えた。出迎えに有頂天となったレーニンは、装甲車の上に立ち、演説をした。
・・・。
自分の生きている時における、ロシアでの革命の可能性に、まだ、自信がなかったが、
ペテログラードの地に、ようやくたどり着いたのにも関わらず、レーニンが大衆に、新し
い革命への呼びかけをした。権力は、ソビエトに移らなければならない。
レーニンは、新しい革命の平和的手段を宣言している、のは事実である:臨時政府は、
自発的に、権力をソビエトに委譲しなければならない。
しかし、装甲車の上に立って、レーニンはこのスローガンを宣言している。駅から、ボ
リ シ ェ ビ キ の 参 謀 部 が あ っ た 、ク シ ェ シ ン ス カ ヤ 邸 宅 へ は 、武 装 し た 水 兵 達 と 、装 甲 車 が 、
レーニンを送り届けた。
既に、7月には、クロンシュタットの水兵が、街頭デモをし、ボリシェビニキの力を示
威していた。
牢 獄 の 中 か ら 、 ア ー ニ ヤ は 、 こ の 様 子 を 恐 怖 を 持 っ て み て い る :「 こ の 夜 は 誰 も 寝 つ け
なかった。タブリツスキー宮殿の方に向かって、私達の近くの通りを、水兵の隊列が行進
を し て い た 。 何 か 、 恐 怖 を 感 じ た 。・ ・ ・ 。 彼 ら は 数 千 人 に も 及 び 、 汚 れ 、 疲 れ 切 っ て 、
凶 暴 で 怖 い 顔 つ き を し て い た 。 そ し て 、「 巨 大 な プ ラ カ ー ド を 持 ち な が ら 。「 臨 時 政 府 よ 、
去 れ 」、「 戦 争 よ 、 さ ら ば 」。 水 兵 達 は 、 し ば し ば 女 性 達 を 伴 い 、 狙 い を 定 め た ラ イ フ ル 銃
を持って、トラックに載ってやって来た。拘置所では、ベリャーエフ将軍と、拘束された
海軍将校達が、恐怖で右往左往していた。私達の守衛司令官は、もし水兵達が、拘置所に
来たならば、彼らを出迎え、武器を渡す。水兵はボリシェビキ側に付いているからだ。と
言 明 し た 。・ ・ ・ 。」 臨 時 政 府 は 7 月 声 明 を 出 し た に も 関 わ ら ず 、 こ の よ う な 状 況 か ら 、
将来がどうなるか分かるというものである。
しかし、ツアルスコエ・セローでは、何も知ることはできなかった。
平穏な生活。道を綺麗にした。溝の泥を取り除いた。落ち葉を燃やした。ルスコ(?
* ) が 教 え た 通 り 、 ニ コ ラ イ は 、「 自 分 の 庭 を 耕 し た 。」 こ れ は 子 供 時 代 へ の 戻 り で あ
った。当時は、子供であったニコライは、父と一緒に庭仕事をした。今は、彼と一緒に子
供達が庭仕事をした。
「 5 月 6 日 。 私 は 4 9 歳 に な っ た 。 半 世 紀 に あ と わ ず か 。」
し か し 、「 新 世 界 」 の 憎 悪 は 、 宮 廷 の 格 子 を 、 し ば し ば 突 破 し て き た 。
「6月3日・・・。丸太を挽き終わった。この時、アレクセイのライフル銃であること
が起こった:アレクセイが銃を持って遊んでいた。それを、庭を歩いていた狙撃兵が見つ
け た 。彼 ら は 、ア レ ク セ イ か ら 銃 を 取 り 上 げ 、警 備 室 に 持 っ て 行 く べ き か 、将 校 に 尋 ね た 。
・・・。彼は兵士のいうことを、敢えて拒否しなかった。真に素晴らしい将校である!」
ペテログラードには、皇帝と家族は逃亡した、という噂が広まった。
ツアルスコエ・セローに、社会民主党党員で、ソビエト代表であるムスチスラフスキー
- 135 -
が現れた。短い外套を着て一人で現れた(即ち、忌まわしい宮殿にあらあれる時には、革
命 家 は そ の よ う に し て い た 。)。 拳 銃 サ ッ ク か ら 拳 銃 が 突 き 出 て い た 。 委 任 状 を 示 し な が
ら 、 皇 帝 を 自 分 に 見 せ る よ う 、 要 求 し た 。 何 と な れ ば 、「 血 の ニ コ ラ イ 」 の 逃 亡 に つ い て
の噂は、労働者達と兵士達を、不安にしていたからである。
警 備 隊 は 憤 慨 し た :「 何 と 。 我 々 は 空 の 部 屋 を 警 備 し て い る の か ? 皇 帝 は 宮 殿 内 に い
る 。」 し か し 、ム ス チ ス ラ フ ス キ ー は 頑 固 で あ っ た : ニ コ ラ イ を 見 せ る よ う に 。彼 に は 、
この新しい革命劇が必要であった:つまり、皇帝下の牢獄で、逮捕された革命家達が、取
り調べの時に、引きずり出されたように、革命的労働者、兵士の特使としての彼の前に、
皇帝を連れ出すことであった。さもないと、革命的兵士達が、宮殿に押しかけよう。
ソビエトに譲歩した。決定がなされた:ムスチスラフスキーは静寂な宮殿内に入ってい
っ た 。ム ス チ ス ラ フ ス キ ー が 廊 下 の 交 差 点 の 所 に 立 つ 、そ の 脇 を 、ニ コ ラ イ が 通 り 過 ぎ る 。
宮殿の廊下内では、以前通りの生活が続いていた:金糸で刺繍された紫色のジャケット
と タ ー バ ン 着 用 し 、 外 出 用 三 角 帽 を か ぶ っ た 黒 人 、 大 男 の 従 僕 、 燕 尾 服 を 着 た 従 僕 、・ ・
・ 。 彼 ら の 最 後 に は 、「 新 世 界 」 の 人 物 、 ム ス チ ス ラ フ ス キ ー 、 汚 れ た 概 要 を 着 て 、 拳 銃
を持っている。ドアの鍵がかちっと鳴り、軽騎兵の制服を着て、ニコライが現れた。ニコ
ライは口ひげを手でいじくり回していた(心配している時や、息苦しい時に、何時もする
仕 草 で あ る )。 ム ス チ ス ラ フ ス キ ー を 見 な が ら 、 平 静 に 彼 の 脇 を 通 り 過 ぎ る 。 し か し 、 そ
の時、ニコライの目が明るき燃え上がるのを、ムスチスラフスキーは見た。ニコライは、
未だ侮辱には耐えられなかった。彼は、22年間、ロシアを統治してきた人物である。
皇帝家族は、ソビエトと臨時政府との闘争の中で、危険な状態にあった。
その時、決定がなされた:家族をペテログラードから連れ出す。
彼ら(皇帝家族 *)は夢見た:自分たちを、太陽の溢れているリバデアに送ってくれ
ることを。しかし、臨時政府にはその力はなかった。ケレンスキーは、効果的な決定を見
つけた:皇帝が、革命家達を流刑にした、シベリヤへ皇帝家族を送る。トボリスクが選ば
れた。奇しくも、そこは、彼女(アリックス *)の宿命の愛人「修道者」が生まれた場
所であった。ここに、隠された嘲笑と、腹黒い罠があった。
ケレンスキーには、分かっていた。アリックスは、自分の宿命としてこれを受け入れ、
不平を言わず、従うであろうことを。
出発の日と場所は、秘密にされた。皇帝家族に対する憎しみがあまりに大きいので、ケ
レンスキーは、ソビエトと大衆を気にしていた。
7月30日、アレクセイの誕生日。人気のなくなった宮殿内で、彼らは最後の祝宴のテ
ーブルを囲んだ。
日記より:
「7月30日。日曜日。今日、愛するアレクセイは、13歳になった。最近の大変な時
期に、神は、彼に、健康、忍耐、精神と肉体の丈夫さを与えてくれた。礼拝式に行った。
朝食の後、短い祈りを。その時、ズナメンスキー寺院から、聖母イコン画を持ってきた。
皆 で 、 聖 母 の 顔 を 見 な が ら 祈 り を 捧 げ る と 、 本 当 に 気 持 ち が 温 か く な っ た 。・ ・ ・ 。 林 道
で 少 し 仕 事 を し た : 1 本 の 松 を 切 り 倒 し 、2 つ に 切 断 し 始 め た 。本 当 に 暑 い 。* * * * * 。」
次の日に、出発が告げられた。しかし、時刻は秘密とされた。夕方、宮殿に、自動車が
やってきた。ケレンスキーが、ミハイルを連れてきたのである。
「7月31日・・・。ツアルスコエ・セロー滞在の最後の日であった。天候は素晴らし
かった・・・。食事後、出発時刻の通知を待った。全てが遅れていた。突然、ケレンスキ
ーがやって来て、ミーシャが直に現れると行った。実際、10時半頃に、ケレンスキーと
警護司令官に伴われて、やって来た。会えて非常に嬉しかった。しかし、余所者が居るの
で 、 余 り 話 し は で き な か っ た 。」
ミーシャとの出会いの時、2人の話を聞かないようにするため、ケレンスキーは、耳を塞
いだ様な仕草をしながら、隅に座っていた。
2 人 は 何 の 話 も し な か っ た :「 余 所 者 が 居 る の で 、 余 り 話 し は で き な か っ た 。・ ・ ・ 。」
2人は、向かい合い、お互いに無言で立ちつくしていた。もじもじし、互いに手を取り合
い 、 ボ タ ン に お 互 い に 触 れ な が ら 。 あ た か も 、 記 憶 に 留 め よ う と し な が ら 。」
彼らは永遠に別れた。
去る時、ミーシャは、子供達を許すように頼んだ。しかし、ケレンスキーは、許可をし
なかった。ロマノフ一家を弾劾することが、要求されていた。ケレンスキーはそれに務め
ていたのである。
日 記 、 7 月 3 1 日 ( 続 き ):
「彼(ケレンスキー*)が去った時、警備隊の兵員達が、私達の荷物を、円形ホールへ
引 き ず り 始 め た 。ホ ー ル に は 、既 に 、ベ ン ケ ン ド ル フ 、女 官 達 、娘 達 、人 々 が 座 っ て い た 。
私達は、トラックの荷物の引き渡しを待ちながら、ホールを行ったり来たりしていた。私
達の出発は秘密に守られた。予定の出発時刻後に、車や列車が予約されたようになってい
- 136 -
た。本当に疲れ果てた。アレクセイは眠たがった。そして、横になった。何度か、偽の警
報が鳴ったので、起き上がった。私達は外套を着て、バルコニーに出た。そして、再びホ
ールに戻ってきた。ほとんど夜が明けた。お茶を飲んだ。ようやく5時過ぎに、ケレンス
キーが現れた。ケレンスキーは出発してよいと話した。私達は2台の車に乗り、アレクサ
ンドロフスキー駅に出発した。何処かの騎兵部隊が、私達の後ろを駆けていった。朝日が
輝 く 中 を 、 私 達 は 、 道 路 へ と 動 き 出 し 始 め た 。・ ・ ・ 。 朝 、 6 時 1 0 分 、 ツ ア ル ス コ エ ・
セ ロ ー を 退 去 し た 。」
やって来る夜明けに、2台の車に乗って彼らが運ばれている間に、2つの問題を考えて
みよう。多分、この問題は、ニコライ自身が自分に課した問題でもあろう。
問題その1:外国の親族はどうか? 例えば、英国のジョージ、世界ではゲオルグ国王
であり、戦時のニコライの同盟者。また、ニコライに瓜2つである(2人の母親は姉妹で
あ っ た 。 * )。
彼 ら の 逮 捕 後 、す ぐ に 、英 国 大 使 は 、臨 時 政 府 に 、家 族 の 安 全 に 最 善 の 努 力 を 行 う よ う 、
警告を出した。そして、臨時政府は、準備として、家族の英国への出国に関する交渉を開
始した。家族の逮捕から数日間で、交渉がまとまった。それについて、3月23日に、英
国大使に通知をした。ビューケンネン大使は書いて知らせた「皇帝陛下政府と国王は、喜
ん で 受 け 入 れ よ う ・ ・ ・ 。」
これらは既に3月のことであった。が、今は7月の末・・・。英国の替わりに、シベリ
ヤへ行くことになる! 何故? ここで、見方によりいろいろな答えが出てくる。
一つの見方。英国首相ルロイド・ジョージは、ペトログラード・ソビエトの抵抗に、打
ち 勝 て な か っ た と い う こ と で 、 臨 時 政 府 を 非 難 し て い る 。 他 の 視 点 :「 ル ロ イ ド ・ ジ ョ ー
ジ 首 相 は 、英 国 の 左 翼 の 受 け を よ く す る た め に 、ロ マ ノ フ 一 家 の 受 け 入 れ を 避 け る よ う に 、
ゲ オ ル グ 国 王 に 進 言 し た 。」 こ れ も ま た 正 し い こ と で あ ろ う 。 何 と な れ ば 、 臨 時 政 府 と
英国は、交渉をし、あらゆる要望と、好意的な意向を表明していたからである。が、交渉
は、何もうまく行かないことをあらかじめ知っていながらである。というのは、その時、
皇帝家族に対する判決がなされていたからであった:皇帝と皇后の祖国と、同盟国の利益
に対する裏切りを告発する臨時委員会が作られていた。
ジョージ首相は、自身の国が、内政問題から、裏切り者と宣告することを決心した、彼
ら を 匿 う こ と が で き た の で あ ろ う か ? ケ レ ン ス キ ー は 、「 裏 切 り 者 」 と 「 呪 わ し い 旧 体
制」の具現化した、この皇帝家族を、どのようにして退去させることができたのであろう
か? 正に、この交渉は、どう考えても、1つの遊びであった。
デ ー リ ー ・ テ レ グ ラ フ が 書 い て い た :「 英 国 政 府 に は 、 皇 帝 と 、 皇 帝 の 妻 に 、 避 難 所 を
与えるつもりは全くないことを、私達は、心から、願っている・・・。これは、大革命を
成し遂げざるを得なくなっている、ロシア人の感情を酷く、かつ公然にも、傷つける。と
い う の は 、 我 々 の 最 近 の 敵 に 、 そ れ を ( ? 革 命 * )、 不 断 に お い て 、 売 り 渡 し て い た か
ら で あ っ た 。」
その後、ゲオルグ国王の依頼により、皇帝家族の避難に関するフランスとの交渉が、パ
リで始まった。共和国であるフランスは、これに合意するはずがない、ということを明確
に知っていながら、英国はこの交渉を行った。
更に、問題がある。ツアルスコエ・セローでの彼らの1ヶ月間にわたる監禁生活におい
て、1つん信頼できる陰謀も、彼らを解放しようとする1つの試みも、何故なかったので
あろうか? ・・・。なぜ?! 全ては明らかであった。当時、皇帝家族の不人気は最高
潮にあったのである。実のところ、非常に若い将校達の間で、口からの出任せや、酔っぱ
らいの話だけはあった。
7月4日、皇后の女官ナリシュキナ(マダム・ジジ-アリックスは彼女をそう呼んでい
た ) は 、 自 分 の 日 記 に 書 い て い た :「 パ レ イ 公 爵 夫 人 ( 大 公 パ ー ベ ル ・ ア レ ク サ ン ド ロ ビ
ッチの妻)が去って行くとき、若い将校達のグループが、深夜に彼らを車に乗せ、英国船
の停泊している港へ運ぶ、という思慮のない計画を立てた、という秘密を、彼女は語りま
し た 。 言 い 様 も な い 不 安 に 襲 わ れ ま し た ・ ・ ・ 。」
何故、不安に? 何故、計画が「思慮がない」のか?
何故ジジとパレイは知っているのか:皇帝家族は港まで行き着けず、途中で捕まり殺さ
れる、ということを。ついでながら、港には、英国船は居なかったので、何もできるはず
がなかった。
永遠のセンセーションの発明者である新聞だけは、皇帝夫妻-反逆者夫妻-の準備中の
逃亡について、お決まりの秘匿記事を書き続けていた。夫妻のツアルスコエ・セローでの
監禁時には、この「反逆」という言葉が、よく使われていた。
ニコライの日記から、3月27日:
「 礼 拝 式 の 後 、ケ レ ン ス キ ー が 来 訪 し た 。彼 は 、私 達 2 人 と だ け 、話 を し た が っ た の で 、
- 137 -
食事の時子供達と分かれて座った。うるさいソビエトを、刺激しないように彼は努力して
い る よ う で あ っ た 。 何 ら か の 乱 暴 を 回 避 す る た め に 、 従 う こ と と し た 。・ ・ ・ 。」
このように、臨時委員会は、動き始めていた。
委員会は、何度も開かれる。この委員会に、詩人のアレクサンドル・ブロックも出席し
ていた。ブロックは、委員会の書記であり、尋問を書き留めるために、ペテロパブロフス
キー要塞に来ていた。
取り調べの日々、ペテロパブロフスキー要塞の部屋は、冬宮の部屋を彷彿とさせるもの
であった。今までここにいなかった様な人達が居た:首相、国会議長、軍事大臣、秘密機
関長官・・・。ペテルブルグのお偉方が、この要塞に移住してきたようであった。
夜ごと、ブロックは、自分のメモに書き付けをした:
「 貴 方 は ロ シ ア を 何 処 へ 連 れ て 行 こ う と し て い る の か ? * * * * 。・ ・ ・ 。」
「マナセビッチ・マニュイロフ-不快極まりなく、背が低くく、髭を剃って・・・、首
相シュツルメル-大柄で、もの悲しげな老人・・・、他の首相ゴレミキン-完全な身心衰
弱者、何と老いぼれていることか、今にも死にそうである。有名な内務大臣プロトパポフ
・・・。軍事大臣スホムリノフ・・・。警察局局長ベレツキー-短い指、ており脂ぎった
手、テカテカした顔、口がまめ・・・。特別な目-細い、目に涙を浮かべ、泪が何時も光
っ て い る 。」
ブ ロ ッ ク が 衝 撃 を 受 け 、 彼 が 手 帳 に 書 き 残 し た 、 調 書 の 中 の 幾 つ か の 引 用 :「 ニ コ ラ イ
は 女 房 に 一 途 で あ り 、 妻 に 決 し て 背 か な か っ た 。・ ・ ・ 。」
「何の政治的フリーメーソンはいなかった。神秘主義者がフリーメーソンとして通用し
て い た 。」
最後に、ビルボアの尋問に関するブロックのメモ:
「私達は彼女の居る部屋に入っていった。杖で、怪我をした肩を支えながら、彼女はベ
ッ ト の 脇 に 立 っ て い た 。 彼 女 は お ま る を 使 用 し て い た よ う で あ る 。 * * * * 。( 昨 日 ま で
の 権 力 絶 大 の 「 友 人 」 の 現 在 の 心 配 事 - 著 者 )。 途 方 に く れ て 、 私 を 哀 願 す る よ う に 横 目
で見ながら、彼女は全てを話した。彼女はロシア美人であるための、全ての条件を持って
い た 。 が 、 今 は 見 る 陰 も な い 。」
「途方にくれて?」 「哀願して?」 しかし、この時、アーニヤは、ペテロパブロフ
スク要塞から、ロシアで最も危ない女性、皆から恨まれている皇后と、文通をすることに
まんまと成功する。
「代表者:-ラスプーチンは放蕩者で、忌まわしい人物である、ということを、貴方は
知っていましたか?
ビルボア:-皆がそう言っていました。私は個人的に、そうは思っていませんでした。
多分、彼は私がいる前では怖がっていたのかも? *****。
-貴方は、政治的なことに全く関与していませんでしたか?
-何故、私が政治に関与するのですか?
-貴方は、誰かを大臣にしてやるようなことを決してしませんでしたか?
-したことはありません。
-しかし、貴方は、大臣を皇后に引き合わせていたではないですか!
- そ の よ う な こ と は 全 く な い 、 と い う こ と を 貴 方 に 断 言 し ま す 。・ ・ ・ 。」
室内での出来事を全て見回しながら、ブロックは書いていた:
「誰も裁くことはできない。誇りを持っている人間が、侮辱の最中にいる時には、子供
のようになる。ビルボアのことを思い出せ-彼女は子供のように嘘をつく、誰かが彼女を
愛していたかのように。プロトパポフが、彼女を子供のように、本当に罪深い子供のよう
に、見ていたことを、思い出せ・・・。
そして、誰も裁けないことを覚えておけ。
哀 れ み の 泪 で ず ぶ 濡 れ に な っ た 心 。」
もし、当時、大衆が、自分の詩人の後に引き続いて、これを繰り返すことができたなら
( ? * )。
特別委員会は、最終的に、何を語ったのか?
特 別 委 員 会 の 幹 部 会 員 ア レ ク サ ン ド ル ・ ロ マ ノ フ ( お な じ み の 同 姓 者 で あ る ):「 た だ 、
何かで、皇帝を咎めることはできた-これは大衆を知らないということである・・・。い
つものことであるが、純真な人を誤解させるのは、嘘がつけ、粗野な人の場合より簡単で
あ る 。 皇 帝 は 、 文 句 な く 、 人 間 的 に 純 真 で あ っ た 。」
し か し 、 委 員 会 は 、「 純 真 な 人 間 」 と い う 判 断 を 、 公 表 す る こ と は な か っ た 。 勿 論 ( い
つ も の 如 く )、 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 。 1 月 後 、 ケ レ ン ス キ ー は 表
明 し た :「 神 に 誓 っ て 、 皇 帝 は 無 罪 で あ る 。」
社会が、これ(? 皇帝の件 *)を聞き逃してくれるために、誰も、熱心には行わな
かった。私は、繰り返す:彼ら(?皇帝一族 *)は、普通の人からかけ離れていた!
- 138 -
裏切りの罪をきせられ、大衆の血を浴びている「血に塗れた皇帝と、ドイツ人女性であ
る 彼 の 妻 」は 、そ の よ う な わ も と で 、ア レ ク サ ン ド ロ フ ス キ ー 宮 殿 の 門 か ら 、車 に 乗 っ て 、
出発し、駅に向かった。ケレンスキーが、皇帝家族のそのような秘密の出発を、何故お膳
立てしたかというのは、ケレンスキーは、大衆の怒りを恐れていたからである。大衆とソ
ビエトは、ペテログラードから皇帝家族を出すことを認めてはいない、ということを恐れ
ていた。
ア レ ク サ ン ド ル ・ ブ ロ ッ ク は 、 既 に 当 時 、 手 帳 に 書 い て い た :「 悲 劇 は 未 だ 始 ま っ て い
な か っ た 。悲 劇 は 全 く 起 こ ら な い か 、或 い は 、家 族 が 激 怒 し て い る 大 衆 と 顔 を 合 わ せ た 時 、
悲劇となろう(ボリシェビキと、私はいわない。なぜならば、これは正しい言い方ではな
いからである。このグループは表で活動しいる。その後ろには、沢山のボリシェビキが隠
れ て い る 。 彼 ら は 未 だ 現 れ て い な か っ た 。)」
家族は到着した。車は、アレクサンドロフスカヤ駅の近くの野原に、直接に止まった。
線 路 に は 、2 つ の 列 車 が 止 ま っ て い た 。列 車 に は 、皇 帝 と そ の 家 族 の 監 視 と 護 衛 の た め に 、
300人以上の兵士が乗っていた。兵士は全て、第1、第2、第4、近衛連隊から選ばれ
た、ゲオルギー勲章所持者達であった。全員が新しい立ち襟制服と外套を着ていた。これ
か ら の 仕 事 に 対 し て 、給 料 が 保 証 さ れ 、指 揮 官 に は 勲 章 が 約 束 さ れ て い た 。隊 の 指 揮 官 は 、
ケクスゴリムスキー近衛隊の連隊長エブゲニー・コビリンスキー。勇敢な将校-戦争の始
めから前線におり、何度も負傷していた。治癒しては前線に戻っていた。また負傷をし、
病院に収容された。1916年9月に、ツアルスコエ・セローの病院に入院していた。そ
の 時 、「 8 月 の 従 軍 看 護 婦 」 が 、 初 め て 、 負 傷 し て い る こ の 連 隊 長 と 知 り 合 っ た 。「 そ の
時 の こ と を 、 皇 后 は 、 ビ ル ボ ア に 書 き 送 っ て い る :「 私 達 は 、 病 院 に 、 彼 を 訪 れ ま し た 。
一 緒 に 写 真 を 撮 り ま し た ・ ・ ・ 。 そ れ か ら 彼 は - 素 晴 ら し い 軍 人 で す 。」 今 で は 、 元 の
傷痍将校は、彼ら(皇帝家族 *)の運命の主人となった。
夜明けの日の下で、人の列が、ワゴンに乗り込む。1つの列車には、警護隊が、もう1
つ の 列 車 に は 、家 族 と 随 員 4 5 人 が 。少 な く な い 人 達 が 、流 刑 を 共 に す る こ と に 同 意 し た 。
既に、3月始めには、ツアルスコエ・セローで、身近な人達が消え去っていた。皇帝官房
長官カリシュキン、皇帝保安隊司令官フォン・フラベ、侍従武官サブリン、レイフテンブ
ルグスキー王子、連隊長モルヅビノフ・・・。献身的な随員達は、逃げ去っていた。
家族と一緒に行く人達:宮廷財務長官ドルゴルコフ公爵、侍従武官長タチチェフ、数人
の皇后付き女官。ほとんどが宮殿に残された。さらには、医師のボトキンと、王女達の教
師でスエーデン女性のジリヤール・・・。
ケレンスキーは神経質になって、列車への積載を指揮している。延々と続く長持ち、ト
ランク、箱、家具・・・を積み込む。客車には、臨時政府のコミッサールマカロフが乗り
込む。彼が、流刑先へと家族に同行する(彼には既に経験があった:3月始め、彼は逮捕
し た 皇 帝 を 、 総 司 令 部 か ら ツ ア ル ス コ エ ・ セ ロ ー へ 連 行 し て い た の で あ る 。)
2つの列車は、赤十字の旗の下で、進むことになる。列車は、大きな駅は、窓にカーテ
ンを降ろして通過し、駅毎に、コミッサールマカロフは、ケレンスキーに電報を送る。警
護隊の兵達さえ、列車の行き先を知ってはいない。
ニコライとアレクサンドラ(ニコライの妻、アリックス *)は、列車で進む。ツアル
スコエ・セローからの出立は完了する。
連 隊 長 ア ル タ ボ レ フ ス キ ー ( 彼 は 、 警 備 隊 員 で あ っ た 。) は 、 詳 細 に 描 き 残 し て い た -
彼 ら が 、引 き 込 み 線 を は し ご し な が ら ど の よ う に 進 ん で い っ た か 、彼( ニ コ ラ イ * )が 、
彼女(アレクサンドラ *)を、どのように助けた(彼女の足は弱かった)か、客車に注
し深く運び入れたか、彼女は客車の高い踏み台にどのようにして登り上がったのか、彼が
客車の踏み台に、どれ程軽快に、威勢よく飛び乗ったか。
この客車は、何年も前に、将来の皇位継承者であった彼が、ウラジオストクで基礎を置
いた鉄道(シベリア鉄道 *)用の彼自身の寝台客車であった。いまは、この鉄道を、彼
は流刑先へと向かった。
夜明けの中、大量のトランクが積み込まれた。
侍従武官長イリヤ・レオニドビッチ・タチチェフ、宮廷財務長官ワシリイ・アレクサン
ドロビッチ・ドルゴルコフ、教師ピエール・ジリヤル、侍従医者エブゲニイ・セルゲービ
ッチ・ボトキン、皇后付き女官アナスタシア・ゲンドリコバ、ブクスゲビデン男爵夫人、
女性朗読家エカテリナ・シュネイデル、2人の友人-部屋付き女官アーニヤ・デミドワと
エリザベータ・エルスベルグ、子供の従僕イワン・セドノフ、後継者の扶育係ナゴルニイ
水兵、料理係ハリトノフ、そして、私達の旧知となっているアレクサンドル・ボルコフ、
達が列車の人となった。召使い、扶育係、転書係、理髪師、クローク係、等々-召使いの
列は、列車内で各自の場所に落ち着いた。
- 139 -
警備隊の兵士の中に、曹長ピョートル・マトベーフがいた。ニコライ・ロマノフの思い
で、という彼のメモが残されていた。
ピョートル・マトベーフのメモから:
「赤十字のマークを記した国際列車が、皇帝専用支線に到着するのを、私達は目撃した
:「 赤 十 字 任 務 」・ ・ ・ 。 こ の 列 車 が 何 処 へ 行 く の か は 、 誰 も 知 ら な か っ た 。 ペ ト ロ グ ラ
ー ド か ら 戻 り 、名 ば か り の 駅 を 通 り 、北 部 線 路 を 経 由 し て 、シ ベ リ ア の 森 へ 、皇 帝 を 運 ぶ 、
こ と だ け は 分 か っ て い た 。」
朝の太陽光で、窓を輝かせながら、列車は革命の中を動いていった。燃え上がっている
我々の革命の中を。
宮殿からの最後の手紙を、アリックスは、アーニヤに送っていた。車を待ちながら、ア
リックスは夜中に手紙を書いた。アリックスは****:
「 8 月 1 日 。私 達 が 何 処 へ 行 く の か 、、如 何 ほ ど の 期 間 な の か 、私 達 に 話 は あ り ま せ ん 。
ただ列車に乗ることだけを知っています。しかし、貴方が最近訪れた所だと、私達は思っ
ています-聖なるものが、私達をそこへ呼び招きます-私達の「友人」が・・・。親愛な
る人、私達の出発は、本当の苦悩です。全てを詰め込み、室内は空っぽ。本当に心苦しい
: 2 3 年 間 続 い た 私 達 の 家 庭 、天 使 で あ る 貴 方 は 、本 当 に 心 を 痛 め て く れ ま し た ・ ・ ・ 。」
家族全員は客車の窓脇に立ち、昇り行く太陽の下で、ツアルスコエ・セロー見つめてい
た。
1 0 月 6 日 、朝 。皇 帝 一 家 は い な く な る 。彼 ら と 共 に 、彼 ら の 過 ぎ 去 っ た 全 て の 人 生 も 。」
- 140 -
第9章「私達が安全で一緒にいられるのは、神の御陰である」
(逮捕者の)シベリアでの日記)
近づ離れずに連なっている2つの列車のうちの、1つの列車には、皇帝家族、随員、そ
の他。もう1つの列車には、警護隊兵士。列車はシベリアン向けて進んでいく。
ニコライの日記より:
「8月1日。素晴らしい寝台車に、家族全員が落ち着いた・・・。非常に蒸し暑く、埃
っぽかった。客車の温度は26℃。昼に兵士と共に散歩をした。花と実を集めた。
8 月 2 日 。・ ・ ・ 。 全 て の 駅 で は 、 司 令 官 の 要 請 で 、 窓 が 閉 じ ら れ た : ば か げ て い る 、
寂しい。
8月4日。ウラルを越えた。本当に涼しく感じた。早朝に、エカテリンブルグに到着し
た。この間中、兵士を乗せた2つめの列車は、私達にしばしば追いついた。その時は、古
い 知 り 合 い に あ っ た よ う な 気 が し た 。」
子供達とアリックスは寝ていた。しかしニコライは寝ていなかった。カーテンの降ろさ
れた窓の向こうには、エカテリンブルグの駅があった。
8 月 4 日 ( 日 記 の 続 き ):
「チュメニに遅く着くために、信じられない遅さで、列車は進んだ。11時30分に到
着。列車は桟橋の近くに止まった。そこで蒸気船に乗りうるる事になった。私達のことを
「ルーシ」と呼んでいる。荷物の積み替えが始まった。夜中中続いた・・・。アレクセイ
は ま た 寝 込 ん だ 。 い っ た い 何 と い う こ と だ 。」
チュメニで、彼らにあった・・・。
マトベーフの「手帳」から:
「ロマノフ一家の客車のドアが開くのを見ていた。最初にニコライが見えた。私は軍人
達の方を振り返った。ロマノフは客車から出ようとしている時、彼らが、直立不動の姿勢
で、敬礼をしているのを見た・・・。何という人の多さだ。革命の精神が、全く彼らには
貫 徹 さ れ て い な い 。」
朝 6 時 、 彼 ら は 蒸 気 船 「 ル ー シ 」 で 、 チ ュ メ ニ か ら 出 発 し た 。「 ル ー シ 」 の 後 に 、 2 隻
の蒸気船「コルミレッツ」と「チュメニ」が続いた。それら2隻には、召使い達と荷物が
載った。船隊は、ツーラ川を進む。
8月6日、船隊はトボル川に入った。
日記より:
「川は広く、岸は高い。朝は清々しかったが、昼には、太陽が姿を見せ、結構暖かくな
った・・・。
夕方、食事前には、グリゴリーの生まれ故郷である、パクロフスキー村
の 傍 を 通 っ た 、 こ と に 言 及 す る の を 忘 れ て い た 。」
死に向かっていた彼らの旅路の始めに、不死の「修道者」が再び、皇帝一族の傍に現れ
た。
小 姓 の ボ ル コ フ は 、 ア リ ッ ク ス が し み じ み と 話 し た の を 聞 い て い た :「 こ こ で 、 グ リ ゴ
リー・エフィモビッチは生活をしていた。この川で、彼は魚を捕り、ツアルスコエ・セロ
ー に い る 私 達 に 、 魚 を 送 っ て く れ た 。」 彼 女 の 目 に は 涙 が 浮 か ん で い た 。
彼 ら は ト ボ リ ス ク に 近 づ い た 。2 5 年 前 、若 く て 、幸 福 で あ っ た ニ コ ラ イ は 、蒸 気 船 で 、
こ こ へ や っ て 来 て い た 。・ ・ ・ 。
日 記 か ら ( 続 き ))
「岸には多くに人達が立っていた。つまり、私達の到着のことを知っていたのである。
悲 哀 の 思 い を 持 ち な が ら 、 寺 院 や 宮 廷 で の こ と を 思 い 出 し た 。」
マトベーフの手帳から:
「 岸 に 群 衆 が 群 が っ て い た 。 誇 張 で は な い 、 町 の よ う で あ っ た 。」
群衆は、皇帝、皇后、皇太子、そして4人の姉妹を見た。*******。
全ての教会が鐘を鳴らしていた。臨時政府のコミッサールは、町で教会の祈りの儀式が
始まったことに、非常に驚いた。しかし、実はこの日は、主の顕栄祭であった(ロシアの
旧 暦 8 月 6 日 が 、 そ の 祝 日 で あ っ た 。 * )。
日 記 よ り ( 最 後 ):
「蒸気船が係留されると、私達の荷物の積み込みが始まった。ワーリア(ドルゴルコフ
著 者 )、 コ ミ ッ サ ー ル と 司 令 官 ( ニ コ ラ イ は 、 警 護 隊 指 揮 官 コ ビ リ ン ス キ ー を 司 令 官 と
呼んでいる。 著者)は、私達や従僕達の住まいとなる家を調べるために、出発した。ワ
ーリアが戻ってきて分かった。部屋は空っぽ、全ての家具は無く、汚れて、全く住むこと
ができないことが。そのため、船に留まることとなった。寝るために必要な荷物が、戻る
のを待つこととなった。少しの夕食を食べ、部屋を整えるのが本当に下手であることに少
し 冗 談 を か わ し あ い 、 そ し て 、 早 め に 就 寝 し た ・ ・ ・ 。」
- 141 -
このようなわけで、彼らは船に留まった。しかし、彼らは結構この見知らぬ場所を喜ん
でいた。
8月6日、家族がトボリスクに到着した、というコミッサールの電報後、皇帝一家の出
発 に つ い て の 公 式 な 報 道 が な さ れ た :「 国 家 の 必 要 性 の 見 地 か ら 、 政 府 は 決 定 し た : 逮 捕
されている皇帝と皇后を、新しい滞在場所に移す。その場所として、トボリスクを指定す
る。前皇帝と皇后を、そこへ警護隊の管轄の元で移動させる。前皇帝と皇后と一緒に、同
じ条件で、トボリスクに、個人的な希望にしたがって、彼らの子供達と、彼らに身近な人
の も 派 遣 す る 。」
彼らが住む予定の知事公舎は、2月革命後、自由の家と呼ばれていた。この家は、同じ
名前の自由通りに面していた。言葉「自由」は、当時は、とても一般的に遣われていた。
自 由 の 家 は 、 彼 ら の シ ベ リ ア 監 禁 の 、 初 め て の 家 と な っ た 。( 駅 名 「 底 」、 蒸 気 船 「 ル
ー シ 」、・ ・ ・ 、「 自 由 の 家 」・ ・ ・ 、「 イ パ チ ェ フ の 家 」。 こ れ ら 全 て の 名 前 は 、 歴 史 の 皮
肉であろうか?)
自由の家は2階建てであった。家族は2階に住んだ。1階には食堂と、女中の部屋が配
置された。それらの中間に、従僕アレクサンドル・ボルコフと部屋付きの女中リーザ・エ
ルスベルグ。更に、半地下室もあった。そこには、荷物が運び入れられた。
家の1階は、皇帝専用旅行鞄、長持ち、トランクで一杯となった。戸棚に、長持ちが置
かれ、その上に写真の入ったアルバムが置かれた。そこに、黒革のトランクがあった。ト
ランクには、皇帝の日記と手紙が保管されていた。ここにあるのが、消え去ってしまった
今までの生活から残された、全てであった。他の人々は、家を清掃し、カーテンを吊し、
運んできた物を配置し、町で購入した家具を綺麗にした。彼らは、蒸気船の中で生活をし
た。ヨットのように、それに乗って遊覧もした。
日記より:
「8月8日。イルティシュ側を、10kmほど遡り、右岸に係留した。そして岸の散歩
に出かけた。灌木の茂みを突き抜け、小さい川を渡り、高い岸に登る上がると、綺麗な景
色 が 開 け た 。・ ・ ・ 。」
幸せな日々であった。
8月13日、彼らは、自由の家に移り住んだ。
タ チ ヤ ー ナ と 皇 后 は 、 馬 車 で 、 残 り の 物 は 徒 歩 で 行 っ た 。「 家 を 、 下 か ら 屋 根 裏 部 屋 ま
で見た。2階建てのようである・・・。沢山の部屋があるが、感じが悪い・・・。***
**。全てが古く、荒れ放題である。自分の荷物を、部屋と洗面所に並べた。洗面所の半
分 は 私 が 、 半 分 は ア レ ク セ イ が 。」
自由の家は、ノアの箱船を思い出させた:大きな食堂に、毎夕、存在しない帝国の皇帝
と皇后、存在しない皇帝の侍従武官長、存在しない宮廷の三等宮内官、存在しない皇后の
女 官 、 が 集 ま っ た 。 お 互 い に 存 在 し な い 称 号 で 呼 び 合 っ た :「 皇 帝 閣 下 ・ ・ ・ 、 伯 爵 閣 下
・・・」 皇帝の紋章の付いたメニュー表が、食事前に配られた。メニューの中身が質素
であるのは、どうでも良い。アレクサンドロフスキー宮殿でのように、皇帝の食卓に、侍
従 か ら 客 が 招 待 さ れ る : バ ー リ ア ( 公 爵 ド ル ゴ ル ー コ フ )、 イ リ ア ・ レ オ ニ ド ビ ッ チ ( 伯
爵 タ チ シ ェ フ )、ジ リ ッ ク( ピ エ ル ・ ジ リ ヤ ル 、知 事 )と エ ブ ゲ ニ ー ・ セ ル ゲ ー ビ ッ チ( 侍
医 ボ ト キ ン )。 想 像 の 舞 踏 会 、 不 思 議 な 仮 装 舞 踏 会 が 、 シ ベ リ ア の 家 で 、 開 か れ る 。 3 0
0年続いた帝国の最後の小島。
「8月14日・・・。一日中、1890年と1891年の旅行の写真の整理をした・・
・ 。」
ニコライは、消え去った世界の中で生きている。世界一周旅行の時、ニコライは、初め
て ト ボ リ ス ク を 見 て い た ・ ・ ・ 。そ し て 、再 び 彼 は ト ボ リ ス ク へ 来 る こ と に な っ た ・ ・ ・ 。
一周は、完結した。
トボリスクでの生活は、平穏に流れている。
「8月9日。朝、庭に、1時間ほど座り続けた。昼には、2時間ほど。庭に、ぶら下が
り 用 鉄 棒 を 作 っ た ・ ・ ・ 。」
この鉄棒は、エカテリンブルグまで、彼と同行することになる・・・。朝、ニコライは
この鉄棒で、ゆり動く。昼には、小さな庭園で遊ぶか、薪を切った。薪を切ることで、話
し合いが行われる。
「受難時に、このようなことは余り良くないか?」 ニコライが薪を切りながら話す。
「全く良くありません、皇帝閣下」 薪をきりながら、ドルゴルコフ公爵が話す。
ジリヤルとドルゴルコフは、皇帝の薪切りに、交替で参加している:1人が疲れると、
もう1人が薪を切る。ニコライは疲れ知らずに。ニコライは、好きな散歩を熱望していた
よ う に 、 体 を 動 か す の が 好 き で あ っ た 。 し か し 、・ ・ ・
「8月22日。本当に素晴らしい日だ。このような日に、岸辺や森の散歩ができないな
- 142 -
ん て 、 岸 辺 が 忌 々 し い 。 バ ル コ ニ ー で 読 書 を し た 。・ ・ ・ 。」
さて、ニコライに、好きな場所が現れた。
「毎朝、子供達とお茶を飲む・・・。一日の大半をバルコニーで過ごす。バルコニーは
一 日 中 太 陽 に 照 ら さ れ て い て 暖 か い 。」
バルコニーの前には、自由通りが広がっている。自由通りからは、皇帝家族が、談笑し
ている様子が、手に取るように見える:軍服を着て背が余り高くない人、白いドレスを着
た娘達、同じく白いドレスだが、着飾った婦人、レース製の日傘を持っている。
バ ル コ ニ ー へ 家 族 が 出 る こ と は 、何 も な い 静 か な ト ボ リ ス ク に お い て は 、結 構 な 光 景 で 、
良い出し物であった。
アヌチン(マグニトゴルスク)の手紙より:
「 家 族 は バ ル コ ニ ー に 現 れ た 。皆 は 、特 に 、娘 達 に 驚 い た 。彼 女 ら は 、男 の 子 の よ う に 、
刈り込んだ頭をしていた。ペテログラードでは、そのような髪型が流行っているのか、と
私達は思った。が、病気であったことは本当であったことを物語っていた。全ては素晴ら
し く 、 綺 麗 で 、・ ・ ・ 。 皇 后 は 、 し っ か り し た ご 婦 人 で あ っ た 。 が 、 若 く は な か っ た 。 私
の父は、この御老婆の所に、グリゴリーが見えないことに、驚いたようである。父は、ラ
スプーチンと一緒に、トボリスクのホテルで働いたことがあった。ラスプーチンは父の所
に 客 と し て 滞 在 し た こ と が あ っ た 。」
静 か な 、 静 か な 生 活 、 し か し 、・ ・ ・ ・ 。
「庭の散歩は、本当につまらない。ここでは、閉じこめられて座っている感じが、ツア
ル ス コ エ ー セ ロ ー の 時 よ り 、 も の す ご く 強 い 。」
このように、退屈な生活が流れていく。ここでは、全てが、出来事であった。
「8月24日。ウラジミル・ニコラエビッチ・デレベンコが、家族連れでやって来た。
こ れ は 、 日 々 の 中 で の 珍 事 で あ っ た 。」
デ レ ベ ン コ 医 師 は 、ア レ ク セ イ の 侍 医 で あ っ た 。し か し 、ア レ ク セ イ は 今 は 元 気 で あ る 。
アレクセイが、長期にわたって元気であることは、本当に珍しいことであった。医師と一
緒に、彼の息子のコーリャもやって来ていた。コーリャには、日曜日毎に、アレクセイと
遊ぶことが許された。
彼女は?
二階に上がり、廊下を進み、最初の大きな部屋が、アリックスの部屋であった。
一日の大半を、アリックスは、この部屋か、バルコニーで過ごす。アリックスは希に階
下に降りる、食事の時さえ。
部屋には、彼女の好きな本があった。アリックスは、沢山のしおりを挟んでいる自分の
聖 書 、 或 い は 「 良 い 本 」( 大 半 は 、 彼 女 が 持 参 し て き た 宗 教 の 本 。)、 を 読 む 。
その後、それらの本は、エカテリンブルグの家の、ゴミ箱の中で見つかることになる。
が、今は、トボリスク。ありふれた光景。暖かい天候なのに、石は焼けるように暑い、
子犬は伏している・・・。ピアノの音:タチヤーナが客間でピアノを弾いている。アリッ
クスは、相変わらず、友人(アーニヤ *)に手紙を書いている:
「 偶 に 、 ほ と ん ど 寝 れ ま せ ん 。・ ・ ・ 。 体 は そ れ ほ ど 悪 く は あ り ま せ ん 。 心 臓 も 少 し 良
さそうです。とにかく、安静を心がけて生活をしています。気分は酷いです。髪は急速に
白 く な っ て い き ま す 。」
高 価 な 代 償 が 、 ア リ ッ ク ス に 、 こ の 「 安 静 な 生 活 」 を 、 与 え て い る 。: ア リ ッ ク ス は 、
白髪が多くなり、痩せこけていった。
「私達は、皆から遠く引き離されて住んでいる。静かに生活し、大変なことを体験して
き て い る 。 が 、 こ れ に つ い て 語 る こ と は な い で あ ろ う 。 * * * * * 。」
「 大 変 な こ と 」。 そ れ に つ い て 、 友 人 へ の 手 紙 で 、 具 体 的 に 書 い て い る 。 ロ マ ノ フ 家 族
の周りでは、緊張が高まっていく。ミーシャが逮捕された。叔父セルゲイの暗殺を組織し
た元テロリスト、エスエル党員サビンコフは、軍事省の長である。彼の要求によって、ミ
ーシャ、ミーシャの妻、が逮捕された。ミーシャの妻は、伯爵夫人グラソーバである。そ
して、叔父のパーベルが。*****。
車輪が回転をした:昨日は、彼らは、爆弾犯を、牢獄に閉じこめた。今日は、爆弾犯達
が、彼らを牢獄に閉じこめる。新しい世界である。
この「大変な時」に、皇后はイワノフスキー寺院に出かけることを考え始めた。この寺
院で、彼らの王朝が始まった。この寺院で、王朝が終わることになっても。
伝説がある。1904年の末に、日本との戦争時、ニコライに、素晴らしいアイデアが
- 143 -
浮かんだ。当時、宗教機関で、ロシアへ古い総主教制の復活の問題が起こっていた。長い
熟考と、皇后との話し合いで、ニコライは、玉座を退位し、修道士の位に就くことを決め
た。そして、総主教に! というのは、あのロシアの混乱時期に、ニコライの先祖のフィ
ラレットが、総主教になったからである。しかし、宗教機関は、ニコライのアイデアを、
冷 た く あ し ら っ た 。・ ・ ・ 。
今は、ニコライがかって、修道院で生活をすることを夢見ていた、新たな混乱の時期の
頂点の日々にある!
ト ボ リ ス ク で 、精 神 上 の 君 主 と な っ た の は 、大 主 教 ゲ ル モ ゲ ン で あ っ た 。か っ て 、彼( ?
* ) は 、「 修 道 者 」 の 熱 心 な 崇 拝 者 で あ っ た 、 そ の 後 、 彼 ( ? * ) の 、 不 倶 戴 天 の 敵
となった。そのために、迫害し、流刑に処した。今では、新しい権力が、彼(?=ゲルモ
ゲン *)を、トボリスクの大主教に任命した。そして、今では、ゲルモゲンは、彼らの
期待の人となった:全ての迫害を忘れ、彼は神の手になる君主に使えることとした。
ゲルモゲンは、歓喜を持って、彼の考えに賛成した。
ボルコフを、女子修道院長の所に派遣した。
修道院では、ちょうど新しい建物を建設していた。女子修道院長は、皇帝一家を受け入
れる準備を開始した。しかし、この牧歌的な運命の変更が、実現されるような運命ではな
かった。9月に、臨時政府のコミッサールであるパンクラトフが到着した。考えは葬られ
た。
日記より:
「9月1日。臨時政府から、新しいコミッサールパンクラトフがやって来た。自分の部
下と一緒に、随員の家に住み始めた。彼は、身なりがだらしなく、陸軍准尉のようであっ
た。一見すると、労働者か、貧しい教師のようである。彼が、私達の書きものの検閲官と
な ろ う 。」
( 自 由 の 家 の 向 か い 側 に あ っ た 、 商 人 コ ル ニ ロ フ の 家 を 、「 随 員 の 家 」 と ニ コ ラ イ は 名
付 け た 。こ こ に 、随 員 達 - タ チ シ ェ フ 、ド ル ゴ ル コ フ 、ボ ト キ ン 医 師 、そ の 他 - が 住 ん だ 。
また、ボトキンの娘も、ここに住んだ。この娘は、後で、ここで起こったことを全て書く
こ と に な る 。)
コミッサール・パンクラトフは、ケレンスキーの思惑で、トボリスクに派遣された:パ
ンクラトフは、ニコライの帝政時代の大部分である14年間を、シリッセルブルグ監獄で
過ごした。そのようなわけで、パンクラトフを、皇帝の監視として派遣した。
ここで、アリックスは「新世界」を目の当たりに見ることになる。前科者が、神である
皇 帝 を 監 視 し て い る の で あ る 。・ ・ ・ 。 大 き な 毛 皮 帽 を か ぶ っ た 、 奇 妙 な 小 男 を 、 ア リ ッ
クスは一瞥もしなかった。手紙を戻しに、アリックスの部屋に入った時には、パンクラト
フは、何時も、軽蔑的に、嫌悪に満ちた、アリックスの顔を見ることになった。アリック
スが友人に書いた手紙を、この革命の監視官が呼んだ。いや、読むことができた。アリッ
クスは、この文通に生き甲斐を見いだしていた。
こ の 時 、ペ ト ロ グ ラ ー ド で は 、ペ ト ロ パ ブ ロ フ ス ク 要 塞 監 獄 か ら 出 獄 し た 、ビ ル ボ ア が 、
熱病に罹ったかのように、皇帝家族解放の手段を探し始めていた。ビルボアは、皇帝家族
の解放を夢見ていた。夢見ていただけではなく、実行に移した。そして、うまくことが進
んでいった。巨大なロシア帝国内において、ビルボアが、実際に家族の解放を試みた、唯
一の陰謀家であったのは、滑稽である。8月に、既に、ビルボアは、皇后付きの若い女官
リタ・ヒトロボに、秘密の手紙を持たせて、トボリスクにいる送り出した。この女官は、
ナスチャ・ゲンドリコバと大公オリガの友人であった。アーニヤは、いつもの如く、活発
であったが、彼女は、経験不足の陰謀家であった。アーニヤは、手紙の大事な秘密につい
て、リタにそれとなく漏らした。若いリタはめらめらと燃え上がる:陰謀家達は熱中しす
ぎ、想像が先走った。そして、リタは、完全に信頼して、秘密の計画を、自分の友人に話
し た 。皇 帝 家 族 を 救 出 す る ! し か し 、リ タ の 友 人 は 、自 分 か ら 他 の 人 に 話 し た 。そ し て 、
その人は・・・。
日記より:
「8月18日・・・。朝、通りに、リタ・ヒトロボが現れた。ペテログラードからやっ
て来て、ナスチャ・ゲンドリコバの所に滞在していた。夕方、彼女の所で捜査があったら
しい。これはいったいどうしたことだ!」
「 8 月 1 9 日 ・ ・ ・ 。ナ ス チ ャ は 、数 日 間 、通 り へ の 散 歩 の 権 利 を 剥 奪 さ れ た 。リ タ は 、
夕 方 の 蒸 気 船 で 、 戻 ら な け れ ば な ら な く な っ た 。・ ・ ・ 。」
彼 女 は 単 に 、「 戻 っ た 」 の で は な か っ た 。 ペ ト ロ グ ラ ー ド で は 、 彼 女 を 、 証 人 と し て 召
喚した。追求は過酷であった。組織の首謀者を捜した。が、何も見つからなかった。リタ
は、アーニヤを裏切らなかった。
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8月の末に、アーニヤは、ペトログラードを脱出することに成功した。アーニヤは、フ
ィンランドに向かった。途中、皇帝家族と連絡を取り合っていたが、直に、トボリスクに
いるアリックスは、アーニヤの不幸な逃避行について全てを知ることになる。
皇后の日記:
「 9 月 7 日 ・ ・ ・ 。 ア ー ニ ヤ が 、 ゲ リ シ ン グ フ ォ ル ス で 捕 ま っ た 。「 北 極 星 ( 元 皇 帝 の
専 用 ヨ ッ ト * )」 に 監 禁 さ れ た 。・ ・ ・ 。」
その通り。8月20日、ペテログラードからフィンランドに向かう列車に、ビルボアは
乗 っ た ( こ の 列 車 に は 、 グ ル コ 将 軍 、 バ ド マ エ フ 医 師 、 そ の 他 も 乗 っ て い た 。)。 革 命 兵
士の大群が、ゲリシングフォルスで、列車を取り囲んだ:列車に、大公が乗っているとい
う 噂 が 流 れ て い た の で あ る 。「 大 公 を 我 々 に 引 き 渡 せ ! ロ マ ノ フ 一 族 を 引 き 渡 せ ! 」
群衆は激昂している。
何という憎しみか! ブロックは正しかった:皇帝家族の将来は、臨時政府が存在して
いる時だけ、読み取れる。ゲリシングフォルス・ソビエトは、アーニヤを逮捕し、彼女を
「北極星号」に連行する。そこには、革命水兵本部が置かれていた。彼女を、寄生虫が蠢
いている船倉に閉じこめる。尋問の度に、彼女を一体ツバで汚れている甲板を引き連れ、
昔 、 彼 女 ら が ピ ア ノ を 弾 い て い た 客 間 に 入 れ る 。・ ・ ・ 。 ア ー ニ ヤ の 母 は 、 ト ロ ツ キ ー の
所に連れて行かれる。全能のペテログラード・ソビエトの指導者である彼は、バルチック
海軍水兵に影響を与えることができるただ1人の人物であった。ロシア革命の「花」であ
った。トロツキーは、要望を聞き入れた。革命の花は、アーニヤを、自由の身にする。
純白の皇帝専用ヨットの運命は・・・。80歳になるピチエンコが、書いている:
「 私 の 叔 父 は 、 こ の 船 「 北 極 星 号 」 の 将 校 で あ っ た 。・ ・ ・ 。 革 命 後 、 叔 父 は 、 ヨ ッ ト
と 一 緒 に 、 助 け て く れ た フ ィ ン ラ ン ド に 残 る こ と が で き た 。 そ こ で 叔 父 は 亡 く な っ た 。・
・ ・ 。戦 後 、北 極 星 号 は 、フ ィ ン ラ ン ド か ら ソ 連 邦 へ と 追 い 立 て ら れ た 。皇 帝 の ヨ ッ ト は 、
バ ル チ ッ ク 海 で 、 海 軍 の 射 撃 の 標 的 と さ れ た 。」
このように、皇帝専用ヨットも射撃していた。
アーニヤは、ペトログラードに戻る。そして、再び彼女は、皇后に手紙を書く。
哀愁を帯びたアリックスの手紙:
「私の愛しい人へ・・・。過去は終わりました。過去について、神に感謝しています。
私から誰も奪うことができない思い出で、これから生きていきます。若さはもう過去の物
となりました。私の近親者は皆遠くへ、遠くへ去りました。彼らの写真、ガウン、靴、小
皿 、 聖 像 、 等 の 物 で 囲 ま れ て い ま す 。・ ・ ・ 。 貴 方 に 何 か を 送 り た い の で す が 。 し か し 、
紛 失 す る の を 心 配 し て い ま す 。」
「私が、心から、貴方と一緒に、貴方の全ての苦しみを分かち合い、貴方のために、熱
心 に 祈 り を 捧 げ た こ と を 、 貴 方 は ご 存 じ で す ね 。・ ・ ・ 。 天 気 は 移 り 変 わ り や す い 物 で す
: マ ロ ー ズ 、 そ し て 晴 れ 、 そ の 後 、 雪 解 け 、 暗 く な り 、・ ・ ・ 。 長 い 散 歩 が 好 き で 、 そ れ
を 奪 わ れ た 人 に は 、本 当 に 苦 痛 な ほ ど 退 屈 な こ と で し ょ う 。時 は 流 れ て い き ま す 。・ ・ ・ 。
私 が 沢 山 の 人 と 別 れ て か ら 、 も う 1 0 ヶ 月 が 過 ぎ よ う と し て い ま す 。・ ・ ・ 。 貴 方 は 、 苦
悩 と 孤 独 の 中 に い る の で す ね ・ ・ ・ 。時 折 、膝 と 手 が 腫 れ ま す が 、一 寸 し た 風 邪 を 除 け ば 、
とても元気です。神様の御陰で、特に苦悩はありません。最近心臓が弱くなりました。沢
山の本を読んでいます。昔のことお思いながら生きています。過去の出来事は、本当に貴
重 な 思 い 出 で す 。・ ・ ・ 。 気 落 ち し な い で 下 さ い 。 貴 方 に 、 何 か 食 べ れ る 物 を 送 れ る と 良
い の で す が 。」
「全てのアルバムは、長持ちの中に入っています。アルバムがないと、寂しいですが、
ア ル バ ム を 見 て 、 昔 を 思 い 出 し て 悩 む よ り は 、 ま し で す 。・ ・ ・ 。 * * * * * 。 前 途 が 、
見 当 が 付 き ま せ ん 。・ ・ ・ 。 神 は 知 っ て い ま す 。 神 の お ぼ し め の ま ま に ・ ・ ・ 。 神 に 全 て
を委ねています・・・。息子に、ストッキングを編んでいます。アレクセイは、1組を願
っていました:穴だらけ。私の厚くて、暖かい・・・。冬を前にして、どれ程編んだか分
かりますか? 今では、私は自分のことは自分でしています:パパの手袋は、継ぎ接ぎだ
らけです。娘達のスリップは穴だらけです。ママの方は、白髪が一杯。昔のマリアのよう
に、アナスタシアは、本当に太りました。腰回りが大きくなり、足は短い。足がもっと成
長することを期待しています。オリガは痩せました。タチヤーナも。子供達の髪は不思議
なくらい伸びました。ショールのない冬を迎えることになります・・・。ノブゴロドと不
吉な数字17を思い出します・・・。そのために、ロシアは悲劇を被りました。なしたこ
とに、全ての物は報いを受けなければなりません。しかし誰も分かってはいません・・
・ 。」
(「 数 値 1 7 」 - ラ ス プ ー チ ン 殺 害 の 日 。 彼 女 は 信 じ て い た : 大 ロ マ ノ フ 一 族 と 大 祖 国
は 、「 数 値 1 7 」 の 罰 と し て 、 革 命 を 受 け る こ と と な っ た 。 し か し 、・ ・ ・「 誰 も 分 か っ て
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は い な い ・ ・ ・ 。」)
殺害された精神上の牧師(?ラスプーチン *)について書きながら、彼女は、監禁さ
れ て い る 国 の 牧 師 、 * * * * 皇 帝 に つ い て も 書 い て い る :「 * * * * * * * * * * * 。 私
は本当に年老いました。が、自分を国の母と感じており、自分の子供達のために、本当に
苦しみ、自分の祖国をどれだけ愛していることか、多くの惨禍や過ち・・・があったにも
関わらず。私の心から、愛を、そして祖国を引き離すことはできない、と貴方は知ってい
ま す 。 私 の 心 を 引 き 裂 く よ う な 、 皇 帝 に 対 す る 恩 知 ら ず の 行 為 に も 関 わ ら ず 、・ ・ ・ 。 神
様 、 哀 れ み を 、 そ し て 、 ロ シ ア を 救 っ て 下 さ い 。・ ・ ・ 。」
友人(=アーニヤ *)の抑えきれぬほどのエネルギー・・・。トロッキーの権力はす
ごかった。彼女は、新世界との関係が、うまく行くように努力をし続ける。今回は、偉大
なるプロレタリア作家、ゴーリキーと!
自分なりの考えを持っているアリックスには、友人の新しい知り合いを、全く理解する
ことができない。アリックスは、自分の手紙の中で、ゴーリキーを激しく批判する。しか
し、アーニヤは知っている:新しい時代、新しい名前。この新しい名前は、自分のこれか
らする危険な仕事において、役に立つはずである、と。
今 ま で 通 り 、 ア ー ニ ヤ は 、「 全 て か ら 見 放 さ れ た 皇 帝 家 族 」 を 、 放 置 し て お か な い 。 ア
ーニヤは活動をする。
焦 り を 持 っ て 、ア ー ニ ヤ は 、ボ リ ス ・ サ ロ ビ エ フ な る 人 物 と 知 り 合 い に な る こ と を 待 つ 。
この人物は、皇帝家族の後を追うように、直ぐにトボリスクに行っていた。
自 由 の 家 に 、コ ミ ッ サ ー ル ・ パ ン ク ラ ト フ の 時 代 が 訪 れ る 。「 こ び と 」と 、ニ コ ラ イ は 、
彼を嘲笑的に呼ぶようになる。
ケレンスキーは、パンクラトフに、はなむけの言葉を贈っている:
「貴方は本当にいろいろなことを体験してきました。貴方は、いかにも革命家らしく、
十分に、気高く、自分の課題をなすことができます。貴方と、貴方に委ねた保安隊は、臨
時 会 議 が 、ニ コ ラ イ の 運 命 を 決 め な い 間 、前 皇 帝 と そ の 家 族 を 、見 張 り 、守 る こ と で す 。」
革 命 家 パ ン ク ラ ト フ は 、シ ュ リ セ ル ブ ル グ 監 獄 で 、1 4 年 間 に わ た る 独 房 生 活 を 送 っ た 。
その後、シベリア流刑を受けた。情け容赦のない護送隊下での、流刑地までの行程、そし
て、流刑地ブリスクへの移住。そして、今は、彼は、皇帝の監督官!
皇后と違って、デリケートなニコライは、非のうちどころ無く、コミッサールには丁寧
で あ っ た 。 し か し 、 話 の 内 容 は 、 次 第 に 、 懇 請 と な っ て い く ( よ り 正 確 に は 夢 想 )。 ニ コ
ラ イ :「 何 故 、 貴 方 は 、 私 達 を 町 の 散 歩 へ 出 さ な い の で す か ? 私 が 、 逃 げ て い く 鳩 で あ
る、と心配しているのですか?」
パ ン ク ラ ト フ は 、 会 話 の 内 容 を 全 て 書 き 留 め て い た 。「 チ ビ ( = ニ コ ラ イ * ) は 、 密
の 嘲 笑 を 感 じ て い な い 。 彼 は 、 真 剣 に 返 答 を し て い る 。:
「 ニ コ ラ イ ・ ニ コ ラ イ ビ ッ チ 、私 は 、何 の 疑 い も 持 っ て い な い 。し か し 、逃 亡 の 試 み が 、
貴 方 と 貴 方 の 家 族 の 状 況 を 、 悪 化 さ せ た 。( * * * * * )」
「それにしても、政府は寛大ではないのですか? 私は、若い時に、トボリスクに来た
ことがある。トボリスクは本当に綺麗な町であるのを覚えている。この町を、家族と一緒
に 見 た い の で あ る 。」
しかし、コミッサールは、散歩を許可しなかった。
日記より:
「昼に、ボトキンが、ケレンスキーからの書類を受け取った。その書類から、私達に、
町の散歩が許可されたことを、私達は知った。嫌な奴の、パンクラトフが答えた。私達の
安 全 に 対 し て 、何 か 分 か ら な い 心 配 が あ る た め 、散 歩 な ど て ん で 問 題 に な ら な い 。・ ・ ・ 。」
パ ン ク ラ ト フ は 、 皇 帝 を が っ か り さ せ た く は な か っ た 。 パ ン ク ラ ト フ は 、 皇 帝 に 、「 何
か分からない心配」について、説明をしなかった:パンクラトフの職員達は、ロシア全土
からの手紙や電報で、仕事に追われていた。脅迫する物や、下品な物で。皇后とラスプー
チンの下品な絵などが送られてきていた。トボリスクからの少なくない手紙が、コミッサ
ールに、最も危惧をもたらした。前線から戻ってきた兵士達が、当てもなく町をぶらつい
ていた。皇帝のために血を流した、飢えて冷酷になっている兵士達が。パンクラトフは、
皇帝家族を町に出すわけには行かなかった。
このようなわけで、ニコライは、パンクラトフが嫌いであった。
随員達は、そのようなことを何も理解していなかった。ドルゴルコフもタチシェフも。
彼らは、皇帝が散歩をすることができるように、要求することを止めなかった。彼らは、
ケレンスキーの約束を示した・・・。その最中、随員達の町の散歩が、不平の声を引き起
こし始めていた。もし、ドルゴルコフ公爵が、町をぶらつくのを止めないと、奴を、手始
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めに殴る殺す。と、町に溢れている兵士達が、嘲笑しながら、コミッサールに警告を出し
ていた。皇帝が、町を歩き回ったら・・・。
本 当 に 優 し い パ ン ク ラ ト フ ( ケ レ ン ス キ ー の 見 込 み は 外 れ て い な か っ た 。) は 、 文 句 を
言わないニコライを心配した。ニコライは、パンクラトフに、意志の強靱さと、台無しに
なった14年間について尋ねた。今では、パンクラトフは、ニコライにとって、大家族の
父であり、未経験のきついであろう新しい人生の教師であった。パンクラトフは、ニコラ
イの子供達に愛着を感じ、シベリアでの流刑生活と放浪生活に関する自分の本を、子供達
にプレゼントした。彼らはそれを、声を出して呼んだ。パンクラトフは、アレクセイの地
理の先生さえ務めた・・・。が、とにかく、ニコライは、パンクラトフを好きにはなれな
かった。
ニ コ ラ イ は 忘 れ る こ と は で き な か っ た : こ の 人 物 は 革 命 家 で あ る 。彼 ら が 、叔 父 を 殺 し 、
最近のこの恐怖状態-動乱状態-を作り上げたのである。
このようなわけで、家族は、冬宮の新しい住人であるケレンスキーに、いろいろな心配
事があったが、懇請ができなかった。
ボトキン医師のノートには、*****、長い詩が残されている。詩は綺麗な書体で書
かれており、皇后の書体に似ている。その詩は以下の通りである:
******
******
******
******
トボリスク、1917年
更に:ニコライにとって、パンクラトフは、敢えて兵士を指揮している、ありふれた平
民であった。真の近衛兵のようであるニコライは、軍人としての振る舞い無くしては、人
に不平を言わなかった。
ニ コ ラ イ が 、「 子 人 」と 渾 名 を つ け た パ ン ク ラ ト フ に 対 し て 、態 度 を 変 え な か っ た の は 、
それ故であった。
警備隊の兵士達は、ニコライと同じように、優しいコミッサールを軽蔑していた。実質
的に、この時期、兵士達は、コビリンスキー連隊長に従っていた。
コビリンスキー連隊長は、コルニロフ将軍によって、ツアルスコエ・セローにおける司
令官に任命されていた。コビリンスキーは、自分は、2月革命と国会の献身的な支持者で
あることを売り込んでいた。
しかし、この時期、連隊長は、頻繁に替わっていた。いやいや、彼は(?コビリンスキ
ー *)は、自分の職務を全うしようとしていた、が、ニコライの不思議な魅力、彼の物
腰の柔らかさ、気遣い、魅惑的な少女達、不幸な皇后・・・。連隊長には、この家族の様
相はそのようなものであった。連隊長は、彼らの運命に対しての責任を感じ始めている。
家族との一緒の滞在期間中の最後に、連隊長は、ニコライに、十分な根拠を持って話し
た 。「 私 は 貴 方 に 敬 意 を 表 し ま す 、 皇 帝 閣 下 。」 連 隊 長 は 、 ニ コ ラ イ と 彼 の 家 族 に と っ
て、最も近しい人物となる。
このように、家族の警護を行う300人余りの兵士にいる静かな町で、警備隊の司令官
は、心底、皇帝の側にいた。
そして、ここに1つの謎が生まれてくる。
警 護 隊 の 指 揮 官 と 、 皇 帝 。 兵 隊 ( ニ コ ラ イ は 、「 良 い 兵 隊 」 と 呼 ん だ 。) は 、 家 族 か ら
沢山のプレゼントをもらっている。警護隊の大半の兵士は、良い兵隊であった。ボトキン
医 師 の 娘 が 書 い て い る :「 こ の 時 期 ( 8 月 か ら 1 0 月 革 命 の 時 ま で ) に 、 家 族 は 逃 げ 出 す
こ と は で き た 。」 そ の 通 り 、 警 護 隊 は 、 間 違 い な く 彼 ら を 助 け た で あ ろ う 。
静 か な ト ボ リ ス ク 、ゲ ル モ ゲ ン 大 主 教 の 影 響 - 全 て が 、逃 亡 の 成 功 を 助 け る 物 で あ っ た 。
ケレンスキーは、彼に開放のための条件を作ってもらうという、秘密の考えを持って、
ト ボ リ ス ク に 、 彼 を 派 遣 し た 可 能 性 が あ る 。( 家 族 の 逃 亡 が 、 ケ レ ン ス キ ー の 重 荷 を 負 っ
ていた人生を軽くしてくれたかもしれない!) このようなことで、ケレンスキーは、気
持ちの優しいパンクラトフを、皇帝家族のための監視に選んだのかもしれない。
が、結局、皇帝家族は、逃亡しなかった。しかし、何故?
警護隊隊長の副官は、アクシュータというものであった。彼は全部隊の経営を管理して
いた、よく知られていた人物であった。10月変革が起こり、新聞に、皇帝の開放に関す
る情報が現れると、トボリスクからの返事が新聞「イスベスチャ」に載る。そこには、ア
ク シ ュ ー タ が 、 警 護 隊 の 兵 士 の 名 前 で 手 紙 を 書 い て い る ( 1 9 1 7 年 1 1 月 7 日 )。
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2年後、国内戦争の最中、1919年に、白軍将校、ムスチラフ・グドビッチ伯爵が、
辺境の町エイスクにやって来た。
ここ、エイスクで、グドビッチ伯爵は、旧知の人と出会った。この人が、アクシュータ
であった。2人は、ツアルスコエ・セローでの勤務の時に知り合っていた。
アクシュータは、グドビッチを自分の家に招待し、トボリスクにおける皇帝家族の生活
について、一晩中語り明かした。アクシュータ、トボリスクからの皇帝家族の出発の全経
過について、詳細に書き残している。出発前に、家族はアクシュータに贈り物をしていた
:皇后-真珠のネックレスとダイアモンド、皇帝-自分の軍刀。これらの品は、トボリス
ク郊外の隠れ家に、アクシュータは隠した。この隠れ家については、今では2人だけが知
っ て い る : ア ク シ ュ ー タ と 、 尋 問 時 に 全 て を 話 し た デ ニ キ ン 将 軍 。( ア ク シ ュ ー タ は 、 ボ
リシェビズムの嫌疑で、トボリスクから帰還後、逮捕された。しかし、彼に何の疑いも見
つ け る 事 が で き ず 、 彼 は 解 放 さ れ た 。)
アクシュータの、夜の話の件を、我々は、皇帝の日記から検証する事ができる。
1918年4月2日(=新暦4月15日。旧暦を新暦にするには、単純には旧暦+13
日 で よ い * )、 ト ボ リ ス ク か ら の 皇 帝 の 出 発 を 目 前 に し て 、 家 の 探 索 が 行 わ れ た 。 こ の
探索の結果を、皇帝は日記に書いていた:
「4月2日。朝、将校と2人の兵士からなる委員会と一緒に、司令官が、私達の家の部
屋に入ってきた。この探索の結果、ワーリアとジリヤールからは軍刀の没収、私の所から
は 、 短 剣 が 没 収 さ れ た ・ ・ ・ 。」
皇帝、ドルゴルコフ大公、ジリヤール女史さえ、自分の誇りとして軍刀を持っていた。
しかし、皇帝からは軍刀は没収していない。すなわち、誰かが、皇帝に探索の事を前もっ
て知らせていた。それで、皇帝は、知らせてくれた本人に軍刀を保管してくれるように渡
した。この誰かとは、アクシュータ本人に違いない。
広大なシベリアの中に、捨てられたようなトボリスクから、出来たての町エイスクは絶
望なほど遠い。血みどろで混戦状態の国内戦中に、秘密を知っている2人の内のどちらか
が、隠れ家に行く事ができなかったのであろうか・・・。
このようなことから、アクシュータの証言を、私達は十分に信じる事ができよう。重要
な質問に対する、彼の返事に興味がわいてくる。グドビッチが、アクシュータに質問をし
た :「 な ぜ 、 君 は 、 皇 帝 に 逃 亡 す る よ う に 勧 め な か っ た の か ? 」
アクシュータは答えた。彼には、連隊長コビリンスキーと一緒に、皇帝を自由にする計
画 が あ っ た と 。 し か し 、 そ れ は 、 皇 帝 に 拒 否 さ れ た :「 ロ シ ア が 、 息 絶 え 絶 え と な っ て い
る、このような困難な時期に、一人のロシア人も、ロシアを捨てる事は許されない。私は
何 処 へ も 逃 げ 出 さ な い 。 こ こ で 、 自 分 の 運 命 を 待 ち 続 け る ・ ・ ・ 。」
そのような考の反映は、パンクラトフの「追想記」で、見いだす事ができる。その本中
で、パンクラトフは、大公の1人との対談について、語っている:
「特別会議が開かれ、私達を国外へ、追い出す、という事を、夕べパパが新聞で知りま
した。これは本当ですか?」
「新聞に何が書かれるかわかったもんじゃない!」
「いいえ。パパが言っています。私達はロシアに残るのが良い。たとえ、シベリアに送
ら れ て も 。」
アリックスは?
彼女は、温和しくしていたのであろうか? 全くない。しかし、寛容な警護下から、不
運な逮捕者のように、彼女は逃亡するつもりはない。彼女は、国民と軍によって、自由に
な る 事 を 信 じ て 待 ち 続 け る 。 彼 女 は 、 ま り よ り も ま ず 、 夢 を 見 て 生 き て い る 。「 3 0 0 人
の将校」に囲まれて、逃げ出すつもりである!
この「300人の将校」について、彼女はジリヤールに語っている。彼らは、チュメニ
に既に集合した。私達を助ける準備をしている。
こ の 神 話 は 作 ら れ た も の で あ っ た ・ ・ ・「 聖 な る 悪 魔 」に よ っ て 。そ の 通 り 、あ の 世 で 、
ラスプーチンは、再び彼女を惑わしていた。
秋に、トボリスクに、ボリス・ソロビエフが現れた。彼は、ビルボアが遣わしたのであ
った。家族の跡を追って・・・。
「どうにもやりきれぬほど退屈だ」
(皇帝がチェーホフを演ずる)
ニコライの日記に戻ろう。
時が経過していく・・・。ツアルスコエ・セローからやって来た、長く待っていたワイ
ン が 、 埠 頭 で 、 樽 に 注 ぎ 入 れ ら れ た 。( 甘 い も の に 集 ま る ハ エ の よ う に 、 ワ イ ン の 噂 を 聞
きつけた兵士達が、飛び集まってきた。自由の家に、兵士達が集まる事を心配し、また、
- 148 -
根の葉もない噂が出ないようにするため、パンクラトフはワインを全て投げ捨てさせた・
・ ・ 。)
日記より:
「全てのワインを、イルティッシュ川に投げ捨てることが決められた・・・。ワイン箱
を積んだ荷馬車の出発を、私達はお茶の時に、窓から見ていた。馬車には、手に斧を持っ
た コ ミ ッ サ ー ル 要 員 が 乗 っ て い た 。」
その時、ペテログラードで、コルニロフ将軍による、ケレンスキー政府を打倒し、権力
を 強 奪 す る 試 み が 失 敗 に 終 わ っ た :「 9 月 5 日 ・ ・ ・ 。 ペ レ ロ グ ラ ー ド で 、 大 騒 乱 が あ っ
た ・ ・ ・ 。 お そ ら く 、 コ ル ニ ロ フ 将 軍 の 企 業 で 、 何 も 起 こ ら な か っ た ・ ・ ・ 。( ? * )」
監禁生活では、これらの出来事は、淡々としたものであった。ワインを失った悲嘆の方
が大きかったのであろう。
1 0 月 政 変 ま で 間 近 い 、 9 月 1 7 日 ( ま た 1 7 の 数 値 で あ る ! )。 ニ コ ラ イ は 、 5 0 冊
目の日記を、最後まで、書き終えた。そして、51番目と記した、新しい日記帳を書き始
め る 。 半 分 ま で ・ ・ ・ 。「 ト ボ リ ス ク で 始 め た 。」
「 1 9 1 7 年 9 月 1 8 日 。 月 曜 日 。」
悲運の最期のノートは、この書き出しで始まっている。
「この年の秋は、ここでは、素晴らしい。今日は日陰で、15℃であった。本当に清々
しく、暖かい空気であった。昼に、ワーリヤと棒倒しゲームをした。長い間やっていなか
った遊びであった・・・。病気中のオリガが出て来て、アリックスとバルコニーに長い間
座 っ て い た 。パ ン ク ラ ト フ の 検 閲 を 通 る よ う な 手 紙 を マ マ( = ア リ ッ ク ス * )が 書 い た 。」
単調な生活が続く。彼らは好きな芝居で気分を紛らす。ジリヤル女史、勿論、娘達、そ
し て 皇 帝 自 身 が 、 俳 優 と な る 。「 芝 居 の 稽 古 を し た ・ ・ ・ 。 本 当 に 楽 し く 、 短 い 芝 居 を 演
じ た ・ ・ ・ 。 笑 い が 絶 え な か っ た 。」
チェーホフの「熊」で、ニコライは、大事な役に出演した。彼は、頬にえくぼのある未
亡 人 か ら 、借 金 を 返 し て も ら い に 行 っ た が 、彼 女 に 惚 れ 込 ん で し ま う と い う「 中 年 の 地 主 」
を演じた。
「 2 月 1 8 日 ・ ・ ・ 。私 達 の 芝 居「 熊 」を 演 じ た 。オ リ ガ 、マ リ ア 、そ し て 私 が 演 じ た 。
演 劇 の 始 め は 騒 が し か っ た 。 多 分 、 良 か っ た の で あ ろ う 。」
未 亡 人 を 演 じ て い る オ リ ガ の 前 に 、 ニ コ ラ イ は 跪 く 。「 今 ま で 愛 し た 事 の な い 程 、 貴 方
を愛しています:私は12人の女性を捨てました、9人の女性は私を捨てました。が、私
は 、 貴 方 を 愛 す る よ う に 、 1 人 の 女 性 も 愛 し て き ま せ ん で し た 。」
この彼の言葉で、ホールにいる皆が、笑い転げる。アリックスさえ笑う。最近では、ア
リックスは滅多に笑わない!
ト ボ リ ス ク の 自 由 の 家 に あ っ た 、チ ェ ー ホ フ の 金 色 で 綺 麗 に 飾 ら れ た 本( マ ル ク ス 出 版 )
に は 、「 三 人 姉 妹 」、「 桜 の 園 」、・ ・ ・ 等 が 印 刷 さ れ て い た 。
私は、彼らの声を、想像してみる-部屋のドアの陰には、皇后が住んでいる。暖炉が燃
えていても、寒い。シベリアのマローズである。ニコライは、近衛兵のように規則正しい
歩調で、室内を歩き回る。オリガとマリアは、演劇の練習をしている・・・。皇后は、い
つもの如く、椅子兼用の手押し車に、半分横になっている。本当に痛ましい様相をしてい
る。
オ リ ガ の 声 :「 今 日 、 エ ブ ゲ ニ イ ・ セ ル ゲ ー ビ ッ チ ( ボ ト キ ン 医 師 著 者 ) が 、 散 歩 中
に話をしました。この辺地の何処かに、戯曲「三人姉妹」を、チェーホフが書いた屋敷が
あるとか。
ア リ ッ ク ス の 声 :「 彼 は 多 分 、「 あ っ た 」 と 言 っ た と 思 い ま す 。 屋 敷 は 大 分 前 に 、 消 失
し ま し た 。」
オ リ ガ の 声 :「 パ パ は チ ェ ー ホ フ が 好 き で す よ ね 。 大 き な 戯 曲 の 「 三 人 姉 妹 」 を 、 私 達
に何故演じさせないのかしら?」
ア リ ッ ク ス の 声 :「 良 く な い 考 え 。私 は そ の 戯 曲 を よ く 知 っ て い ま す 。こ の「 三 人 姉 妹 」
は、みんな苦しみながら生活をし、未来を期待している、本当に悲しい戯曲です・・・。
彼 ら が 何 を 得 た の か ? 彼 ら が 今 そ れ に 満 足 を し て い る 事 を 期 待 し て い ま す 。」
オリガは微笑む。そして、また、マリアも微笑む。
オ リ ガ の 声 :「 チ ェ ー ホ フ 氏 に は さ ら に 戯 曲 が あ る 。 古 い 領 地 を 売 り ま す 。 そ こ に は 次
の よ う な シ ー ン が あ り ま す - 領 地 の 主 人 が 問 い ま す「 誰 が 私 達 の 領 地 を か っ た の で す か ? 」
そ の 時 、 主 人 の 元 下 男 の 息 子 の 男 が 、 彼 に 自 慢 げ に 叫 び ま す 「 私 が 買 っ た 。」」
皇 后 の 声 :「 こ の 戯 曲 は 、 非 常 に 時 に あ っ て い ま す 。 何 故 あ な た た ち に 演 じ さ せ な い の
ですか?」
マ リ ア の 声 :「 下 男 の 息 子 を 誰 が 演 じ る の で す か ? 」
「この役を、多くの人が演じています。下男の子供達の多くが、今では、領地を支配し
- 149 -
て い ま す 。 彼 ら は 未 だ 、 手 を 焼 い て は い ま せ ん 。」
「 そ こ に は 、 ま だ 、 中 退 し た 学 生 が い ま す 。」
「これら役に、貴方は、俳優を見つける必要はありません。全て、ペテログラードのコ
ミ ッ サ ー ル で 。」
「いいえ、ここにそのような人がいます・・・。学生服を着て、何時も廊下で、タチヤ
ー ナ と ぶ つ か ろ う と し て い ま す 。 私 自 身 が 、 見 て い ま す 。」 こ れ は 、 も ち ろ ん 、 冗 談 の う
まいアナスタシアの声。
私達は、学生服を着た学生という文句を記憶にとめた。私達は、以下の語句を思い出す
:学生服を着た若者が、1918年の冬に、ぶらついていた。
近衛兵の調子で語る皇帝の声。命令を伝達するような、予想外のアクセントを持った声
で :「 つ い で な が ら 、 皇 帝 閣 下 。 こ の 戯 曲 で 、 私 に も 役 が 務 ま る と 思 い ま す 。 私 は 、 こ の
戯曲をよく知っています。その中には、何時も不幸な目に遭っている人物がいます。可笑
し い ほ ど 、 全 て が 無 に 帰 し て い ま す 。 彼 の こ と を 皆 が 「 3 3 の 不 幸 」 と 呼 ん で い ま す 。・
・ ・ 。」
私は皇帝の声を聞く-そこ、暗闇の中で、消えゆく家の中で、消えゆく時間の中で。
「 ペ テ ロ グ ラ ー ド と モ ス ク ワ で 、 何 が 起 き た の か ・ ・ ・ 読 む の が 気 が 滅 入 る 。」
10月となった。
雪で覆われたトボリスクは、眠ったようにジッとしていた。誰もペテログラードでの出
来事を知ってはいない。ただ、突然、新聞の配送が停止した。この日、ニコライは、ゴー
ゴリの「1793年」を読んでいた。
「 1 1 月 1 0 日 。ま た 、暖 か い 日 。温 度 は 0 度 ま で 上 が っ た 。昼 に は 、薪 を 鋸 で 挽 い た 。
「 1 7 9 3 年 」 の 1 巻 を 読 み 終 え た 。・ ・ ・ 。」
ニコライは、この本を、勿論声を出しては読まなかった。しかし、アリックスは、その
本を見ずに入られなかった。そして、思い出さずにはいられなかった:ベルサイユ、**
**。
「11月11日。ペトログラードから新聞が届かない。電報も届かない。非常に大変な
時 期 に 、 こ れ は 薄 気 味 悪 い 。」
1 1 月 1 7 日( ま た 1 7 の 数 値 ! )、ボ リ シ ェ ビ キ に よ る 権 力 奪 取 を 、ニ コ ラ イ は 知 る 。
「11月17日・・・。2週間前に、ペトログラードとモスクワで、起きたことを新聞
で 知 っ て 、 気 が 滅 入 っ た ! 動 乱 の 時 代 よ り 、 極 め て 悪 く 、 恥 ず べ き だ 。」
コミッサール・パンクラトフはこの日、書き残している:
「彼は非常に意気消沈した。冬宮の地下ワイン倉庫が略奪されたことに、本当に本当に
意 気 消 沈 し た 。」
「ケレンスキー氏は、このようなわがままな振る舞いを止めることができなかったの
か?」
「多分、できなかった。群衆、ニコライ・アレクサンドロビッチ、彼が何時も群衆と一
緒 に い る 。」
「 何 と ? 」 皇 帝 は 、 突 然 問 い 返 し た 。「 ア レ ク サ ン ド ル ・ フ ェ ド ロ ビ ッ チ は 国 民 に 評
価されていた。あのように兵士達のお気に入りであったのに・・・。 宮殿を破壊し、そ
の後、財産の強奪を許とは。何が起きたのか?」
彼らはお互いに理解していなかった。古い革命家と皇帝。皇帝は地下室について話をし
た の で は な く 、 彼 は 、 俗 人 ど も の 、「 強 奪 」 と 「 わ が ま ま 」、 無 思 慮 で 、 無 慈 悲 な 暴 動 に
ついて話をしたのであった。
ジリヤルは思い出している。ツアルスコエ・セローでの監禁生活の初日、皇帝は奇妙な
程上機嫌であった・・・。ことを。また、ジリヤルはトボリスクでも書き残している。コ
ルニロフの全滅を聞いた時、そして、臨時政府の倒壊を知った時、ニコライは自分の退位
宣言書に後悔していたことを。
動乱の時代・・・。
家族の最後の新年がやってきた。
厳しいマローズがやってきた。アレクセイは、ありったけの着物でくるまれて、ベット
に横になっていた。部屋は氷で覆われるようになった。今では、暖炉のある母親の部屋に
皆が遅くまでいるようになった。
「つまらない! 今日は昨日のように、明日は今日のように。神様、私達をお助け下さ
い! 神様、御慈悲を!」 このように、アレクセイは、自分の日記に書き残した。
- 150 -
「1月2日・・・。今日は、灰色模様であるが、さほど寒くはない・・・。今日は、耐
え難いほど退屈!」 彼の父が書いていた。
机の上に、クリスマスツリーが立てられた。シベリアでのヨールカ、オモチャは無い。
1918年の厳しいヨールカ。彼らの最後のヨールカ。クリスマスには、お互いに小さな
贈り物を準備した。タチヤーナは、日記として手作りのノートを母親にプレゼントをした
:これは、マス目の付いたみすぼらしい便箋であった。これは、彼女によって縫い合わさ
れた、母親の好きな、青白でうす紫色をした布製(母親のマフラーの一部から)の表装の
中に、入っていた。
表紙には、母親の好きな記号である「鍵十字」を刺繍した。
紫色の表装のこの本を、私は開く。表装の裏面に、英語で、タチヤーナが書いている:
私の大好きな母へ、幸のある新年を期待します。貴方に神の祝福がありますように。神は
貴 方 を 何 時 で も 守 り ま す 。 貴 方 の 娘 よ り 。」
これで、アリックスは、自分の最後となる日記を書き始めることができた。が、当然彼
女には、最後の日記となるとの考えはあるはずもない。
新 年 の 夜 、 1 2 月 3 1 日 、 ア リ ッ ク ス は 書 い て い た :「 私 達 が 元 気 で 、 一 緒 に 入 れ ら る
事を、神に感謝します。この年、神は私達、私達に尽くしてくれた全ての人達、を守って
く れ ま し た 。」
伝説を信じると、この年は、彼らにとって悲運の年となるはずであった。
トボリスクの家で、ニコライは、セルゲイ・ニールスなる人物の本を読んだ。皇后のア
リックスが持参してきた本であった。ニールスの妻は、アリックスの知り合いであった。
ニールスの結婚の時、アリックスは、祝福の証として、彼らにイコンと、自分のイニシャ
ルの入ったサモワールを贈呈した。
ニ ー ル ス は 、宮 殿 に 出 入 り 自 由 で あ り 、何 で も 知 っ て い た 。自 分 の 本「 神 の 川 岸 で 」で 、
彼に、皇后の侍女ゲニンゲル女史が、話した伝説を記していた。
ガッチンスキー宮殿は、小さな長持ちが保管されていた:それは鍵が下ろされ、封印さ
れていた。殺されたパーベル一世の未亡人であるマリア・フェドロビナによって、その中
には何かが未だ納められていた。自分の夫の死後100年後に、ロシアを統治している皇
帝に、この長持ちを開けるよう、遺言をした。この期間の1901年が到来した。皇帝と
皇后-当時は、全く若い2人-は、興味ある散歩に出かけるように、長持ちを開けに出か
け る 準 備 を し た 。が 、2 人 は 戻 っ て き た 。侍 女 の 言 葉 に よ れ ば 、「 本 当 に 物 思 い に 沈 ん で 、
悲 し そ う で あ っ た 。」 ゲ ニ ン ゲ ル ( 女 性 * ) が 話 し た :「 そ の 後 、 皇 帝 と 王 朝 に と っ
て 悲 運 と な る 1 9 1 8 年 に つ い て 、 皇 帝 が 言 及 し た こ と を 、 私 は 聞 き ま し た 。」
こ れ は 凝 っ た 伝 説 の 公 算 が 強 い - し か し 寒 い 家 、・ ・ ・ 、 大 き な デ ー ブ ル の 上 の 何 も な
いヨールカ-彼らの最後の、このパーティで、1918年は、悲運の年となった。
「棺の上での遊び」
実質的に、この時には、既に始まっていた。
これは、新年を目前にした時に、起こった。
第一革命の年のクリスマスの最初の日、護送隊を伴って、皇帝家族が出席した、パクロ
フ寺院における、宗教祭は、盛大のもとに終わろうとしていた。その時、突然、満員の教
会内に、知古であり、未だ忘れていない言葉が、鳴り響いた。下級司祭が、厳かに大声で
叫 ん だ :「 皇 帝 閣 下 、 皇 后 閣 下 」・ ・ ・ 、 そ し て 、 続 け て 、 彼 ら の 子 供 の 名 前 を 、 そ れ も 、
全 て 以 前 の 敬 称 を つ け て 。 最 後 に 、 下 級 司 祭 の 低 音 が 力 強 く 鳴 り 響 い た :「 長 寿 を ! 」
トボリスクの寺院で、2月革命後初めて、皇帝家族の古式の「長寿を」が、大声で言われ
た。
教会はどよめきで答えた。護衛隊の情感とコミッサール・パンクラトフは、宗教祭が終
わるのを待って、下級司祭を呼び出した。下級司祭は、アレクセイ(元皇太子のアレクセ
イ で は な さ そ う * )の 父 の 司 祭 の 指 示 を 、引 き 合 い に 出 し た 。護 衛 隊 の 兵 士 は 激 怒 し た 。
「お下げ髪を引っ張って、奴を教会からつまみ出せ!」
次 の 日 、ボ リ シ ェ ビ キ が 支 配 し て い た ト ボ リ ス ク ・ ソ ビ エ ト は 、調 査 委 員 会 を 創 設 し た 。
パ ン ク ラ ト フ を 告 訴 し 、 管 理 体 制 を 強 め る こ と を 要 求 し た 。 初 め て 、 響 き 始 め た :「 ロ マ
ノフ一家を牢獄へ!」 司祭に対して、しかるべき処置を執った。しかし、主教ゲルモゲ
ンは、アレクセイの父を裁判に、引き渡さなかった。ゲルモゲンは、遠方のトボリスクの
修道院へ彼を送った。
こ の よ う に 、 全 て は 、 ロ マ ノ フ 家 の 歴 史 に 、 驚 く ほ ど 一 致 し て い る ・ ・ ・ 。「 ゲ ル モ ゲ
- 151 -
ン」の名前は、ロマノフ王朝の起源の所にある。動乱の時代、ゲルモゲン総主教は、ロシ
アからポーランド人を駆逐することを諦めた。そのために、彼は幽閉され、悶死する羽目
になった。
そして、300年を経て、同じ名前の主教-ゲルモゲン-が。ここ、トボリスクで、最
後 の ロ マ ノ フ 一 族 の と こ ろ で 。「 君 主 さ ん ・ ・ ・ 。 貴 方 は 、 ゲ ル モ ゲ ン 聖 人 の 名 を 受 け つ
い て い ま す 。 こ れ は 前 兆 で す 。」 未 亡 人 と な っ た 皇 太 后 が 、 ニ コ ラ イ に 書 い て い る 。 彼 女
は 、 決 断 力 の あ る 大 主 教 に 対 し て 、 決 断 力 の あ る 処 置 を 期 待 し た ( ? * )。
母の皇太后は正しかった。これは前兆であった:最後の前兆。歴史の輪は閉じた。
この時期、ロシア教会は、無関係の立場をとっていた。総主教チホンが偉そうに振る舞
っていた。
1918年の初め、彼は、ボリシェビキ達を破門にした。同じ時期に、ゲルモゲンを通
じて、総主教は、聖なるパンと、自分の祝福を、退位させられた皇帝に送った。そして、
沢山の牧師達は、総主教と似たように振る舞った(トボリスクのゲルモゲンもその中に入
っ て い た )。
彼らの多くは、赤色テロルの日々に、殺される・・・。しかし、今は、1917年。ま
だ、2月革命で確立された権力が残っていた。まだ、トボリスク主教の力は大きかった:
ゲルモゲンはアレクセイの父を、罪に問うことを拒否した。ゲルモゲンは、ソビエトに訴
え る :「 聖 書 に よ れ ば ・ ・ ・ 、 * * * * * 、 元 皇 帝 、 元 国 王 は 、 そ の 位 階 を 失 わ れ な い 。」
俗人には支配権のない神が与えた位階について、彼は書いた。
この時、ゲルモゲンは、皇帝家族が逃亡するのを助けたがっていた。シベリア、秘密の
小 道 、 要 塞 に 似 て い る 僻 地 の 修 道 院 、 隠 さ れ た ボ ー ト の あ る 川 、・ ・ ・ 。
し か し 、 ア リ ッ ク ス が ! 彼 女 は 、 家 族 の 運 命 を 、「 修 道 者 」( = ラ ス プ ー チ ン * )
の 宿 敵 に 、 委 ね る こ と が で き な い 。( こ の 地 で は 、 ラ ス プ ー チ ン は 、 教 会 か ら 異 端 児 扱 い
を受けていた。 *)
ア リ ッ ク ス は 、 ア ー ニ ヤ に 書 い て い る :「 ゲ ル モ ゲ ン は 、 毎 日 、 パ パ と マ マ の た め に 、
祈 り を 捧 げ て い る 。「 パ パ と マ マ 」 - ラ ス プ ー チ ン は 彼 ら ( = 元 皇 帝 と 元 皇 后 * ) を そ
う呼んでいた・・・。ゲルモゲンを、正当に評価しながら、さらには、賞賛しながら、少
な く と も ア リ ッ ク ス は 、無 意 識 に 、ゲ ル モ ゲ ン を 恨 ん で い た「 修 道 者 」を 思 い 出 す 。い や 、
彼 女 は で き な い ( ? * )・ ・ ・ 。
このように、ラスプーチンの件で、彼らは一致することができなかった。そのわけで、
皇 帝 家 族 を 助 け よ う と す る 試 み は 、う ま く 行 か な か っ た が 、こ の 替 わ り に 、「 聖 な る 悪 魔 」
は、彼らの所に、他の使者を遣わした。
1917年秋に、トボリスクに、ボリス・ソロビエフが現れた(アーニヤの手紙では、
ア リ ッ ク ス は 「 ボ ー リ ャ 」 と 呼 ん で い る 。)
ボ ー リ ャ の 父 は 、 宗 務 院 の 会 計 係 で あ っ た 。 母 は 、「 修 道 者 」 の 熱 心 な 信 仰 者 団 体 に 入
っていた。
後になって、自伝書を書いたボリスは、自分の体験した出来事について語っている。最
初、ボリスは、ベルリンで勉強をし、その後、インドに住んだ。インドでは、彼は神智学
者であった-著名なブラバトスカ(? *)の信奉者。
戦争の時、ボリスは、機関銃部隊が予備役となっていたので、ペトログラードにいた。
ボリスは、しばしばグリゴリー・ラスプーチンの部屋を訪れた。ここで、ボリスは、ラス
プーチンの娘である、バルバラとマトレナと知古となる。2月革命後、ラスプーチン・ク
ラ ブ の 常 連 は 、革 命 派 の タ ブ リ チ ェ ス キ ー 宮 殿 に 来 て い る ・ ・ ・ 。上 官 は 自 分 の 兵 士 達 を 、
国 会 に 宣 誓 を 誓 う た め に 連 れ 出 し た 。今 や 、ボ リ ス は 、国 会 の 軍 事 委 員 会 で 、尉 官 と な る 。
ラスプーチンの信奉者は、革命者となる。
この当時、友人(=アーニヤ *)は、皇帝家族のために、資金を集め始める。陰謀に
参加するよりは、お金を上げる方がよいと言うことで、皆はお金を喜んで寄付する。そし
て、それ以外に、金を集める必要がある:もし、事態が急変したら?!
ベンケンドルフ公爵とアーニヤの所に、皇帝家族のための金が大量に集まる。金が集ま
っ た 時 、ペ ト ロ グ ラ ー ド の 激 動 の 生 活 の 中 か ら 、ボ リ ス ・ ソ ロ ビ エ フ が 、飛 び 出 し て く る 。
ボリスの過去は、彼自身を物語っている。兵士達を、力でもって、国会への忠誠に連れ
出したのである、と言うボリスの話を、ビルボア(=アーニヤ *)は、不信を持ちなが
ら、薄笑いをしながら聞いた。彼女には弁明の余地はなかった。生き抜くために、何かを
しなければならなかった。ビルボアは、ボリスの行為を評価した。ビルボアは、ボリスに
賭けることに決める。
アーニヤには、人の性格を見分ける力があったのであろうか。自分の人生の大半を、ア
ーニヤは、皇后の性格を見分けることに費やした。ボリスは、アーニヤから、皇后への手
- 152 -
紙と、大金を得る。
秋には、既に、ソロビエフ(=ボリス)は、トボリスクにいた。ここで、彼は、皇帝家
族と連絡を行い始める。クリスマスの時に、皇帝家族の長寿を、声高々と唱えた、アレク
セイ。その彼の父自身が、ソロビエフの大事な代理人となる。この父は、自由の家で、度
々宗教行事を行っている。この父を通じて、ソロビエフは、皇后に、自分の手紙を渡す。
ここで、ソロビエフは間違いをおかす。皇后は、アレクセイの父に敬意を表していた。
が、アレクセイの父は、ゲルモゲン派である、ことを彼女は知っていた。それ故に、司祭
を通じて伝えた、ソロビエフの全ての提案は、非常な危険な物として受け取られた。皇帝
一 家 を 逃 亡 さ せ る と い う ソ ロ ビ エ フ の 計 画 に 対 し て 、皇 后 は 、何 の 情 熱 も 向 け ず 対 応 し た 。
ニ コ ラ イ は 、 皇 后 に 返 答 を し た ( 正 確 に は 、 皇 后 が 、 ニ コ ラ イ に 返 事 を 提 案 し た 。): 危
険を避けなければならない。自由になろうとするどのような試みも、子供達には、必ず危
険が伴う。
トボリスクから去って、ソロビエフは、自分なりの陰謀を考えついた。そして、明らか
に 、何 の 疑 い を 持 っ て い な い 、ア レ ク セ イ の 父 の 助 け を 借 り て 、実 行 し た 。単 純 な 司 祭( =
アレクセイの父 *)は、皇帝家族の長寿を声高らかに宣告したことは、貴方の功績でも
あ る と 言 う 、 ソ ロ ビ エ フ を 信 じ た 。( し か し 、 危 険 の な い 功 績 、 何 と な れ ば 、 ゲ ル モ ゲ ン
の 力 が 彼 を 守 っ て い る か ら 。)
この「長寿」の宣言の結果、ソロビエフは、ある成果を得た:家族の静かな生活は終わ
りを告げ、多くの人々が、彼らを逃亡へと駆り立て、彼の援助を探すことを余儀なくされ
るであろう・・・。再び陰謀? 最後の皇帝と一緒の巧みなこれらの陰謀。が、何度目の
ことか! しかし、基本的に、どれも似たようであり、単純。が、挑発である!
そして、ソロビエフは、ペトログラードに戻ってくる。そして、多分、皇后の不信と、
逃亡を組織できなかったことに、アーニヤはがっかりする。そして、アーニヤは、ソロビ
エフに、素晴らしいアイデアを与える(アーニヤは宮廷の自分の友人、即ち皇后のことを
よ く 知 っ て い る ):「 修 道 者 」 の 娘 と 結 婚 を す る こ と 。 こ れ は 、 ソ ロ ビ エ フ に 、 ア リ ッ ク
スの心の中への通行証となる。ソロビエフは、即座に結婚をする。
その後、チタで、白軍兵士に逮捕された、ソロビエフと彼の妻の所から、日記が押収さ
れ た 。 日 記 に 新 郎 が 書 い て い た :「 彼 女 と 生 活 を 共 に し て 、 綺 麗 な 体 に も 関 わ ら ず 、 彼 女
に要求をしなければならない。残念ながら、私の妻は、綺麗な体を、自慢することができ
な い 。つ ま り 、単 純 に 、肉 体 関 係 に お い て 、彼 女 は 私 に 奉 仕 す る こ と が で き な い の で あ る 。
彼 女 よ り 良 い も の は 沢 山 あ る ・ ・ ・ ・ 。」 関 係 は 明 ら か で あ る ・ ・ ・ 。
マトレナと一緒に、ソロビエフはシベリアの、パクロフスキー村に戻る。******
***。ソロビエフは、自由の家と連絡を取る。
ソロビエフを、全く予想もしていないものが待っている・・・。ソロビエフの後ろに、
ある影が立っている:彼の娘の夫は、彼らを助けたがっている。勿論、アリックスは、大
き な 兆 候 に 気 が つ い て い た 。 い つ も の 通 り 、「 修 道 者 」 の 名 前 は 、 ア リ ッ ク ス に 、 馴 染 ん
でいるファンタスチックな世界をもたらしていた:強力な軍隊が、彼らの所に、棺からグ
リゴリーを連れてくる。
彼女は、心から全く、ソロビエフを信用した。
無駄使いをしないアリックスが、彼らの解放のために、皇帝の宝石を、ソロビエフに、
惜しみもなく、苦労して送る。
ペテログラードで、ビルボアは、ソロビエフの援助に、1人の将校、セルゲイ・マルコ
フを遣わす。クリミア人である。セルゲイ・マルコフは、クリミア騎兵隊の将校であり、
その司令官は皇后であった。アーニヤは、マルコフの人物像は、ロマンチックなアリック
スの信頼を得るに違いない、ことを知っている:彼女の隊の将校は自分の皇后を助けてく
れる!
3 月 1 2 日 、 ア リ ッ ク ス は 、 日 記 に 喜 び を 書 い て い る :「 バ ル コ ニ ー に い る と 、 私 の も
と の ク リ ミ ア 人 将 校 、 マ ル コ フ が 通 り 過 ぎ る の を 見 た 。 シ ュ テ イ ン の よ う ・ ・ ・ 。」
アリックスが書いている、シュテインとは誰? これは、皇帝の日記から容易に知るこ
とができる。皇帝は、いつもの如く、全ての出来事を日記に書き留めていた(いかなる場
合 で も 書 き 留 め て い な け れ ば 、 い ら れ な い と 言 う こ と 。):
「 3 月 1 2 日 ( 2 5 日 ): モ ス ク ワ か ら 、 再 度 、 ウ ラ ジ ミ ル ・ ニ コ ラ エ ビ ッ チ ・ シ ュ テ
インがやって来た。私達の知人からの高額のお金、本、茶をモスクワから運んできた。私
がモギリョフにいた時、彼は副知事であった。今日は、彼は、通りを歩く通行人のように
見 え る 。」。
ア ー ニ ヤ と ベ ン ケ ン ド ル フ が 遣 わ し た シ ュ テ イ ン は 、大 金 を 運 ん で き た 。生 活 の た め の 、
そして、自由のための。
し か し 、 大 事 な の は 、「 私 の 元 ク リ ミ ア 人 ! 」。 ア ー ニ ヤ は 、 間 違 い な く 計 算 し て い た
- 153 -
: ア リ ッ ク ス が 有 頂 天 に な る こ と を 。 彼 ら は 団 結 し た 。「 修 道 者 」 の 派 遣 者 と 、 皇 后 自 身
が信頼している献身的なロシア将校の派遣者。ソロビヨフの定期の手紙の後、アリックス
は 夢 想 し 始 め る 。「 将 校 達 は 、 チ ュ メ ニ の 何 処 か に 集 合 し た 。」 と 。 近 い 、 解 放 は 近 い 。
ソロビエフと違って、セルゲイ・マルコフは、決してペテン師ではなかった。彼は、神
か ら 、「 見 捨 て ら れ た 皇 帝 家 族 」 に 、 献 身 的 で あ っ た 。( 彼 は 、 そ の 後 、 自 分 の 辛 い 本 を
そ の よ う に 名 付 け て い る 。)
ソ ロ ビ エ フ は 、セ ル ゲ イ ・ マ ル コ フ と 、ビ ル ボ ア の 元 か ら や っ て 来 た 、も う 1 人 の 将 校 、
セドフと相談を重ねる。彼(?セドフ が、以下を読むとソロビエフのようだが *)は
彼 ら に 、「 峠 越 え の 将 校 グ ル ー プ 」 に つ い て 話 す 。 こ の グ ル ー プ は 既 に 、 ト ボ リ ス ク か ら
チュメニまでの全道程に組織されていると。家族の逃亡時に、彼らは、皇帝家族を、順に
引き渡す予定であると。彼(? *)は、彼らに、ソビエトの電話を、自分が統制する、
と、また伝えた。意気高らかな、おおぼらの話は、説得力のある知識で終わる:ソロビエ
フ は 、 彼 ら に 、 船 で 、 皇 帝 家 族 を 運 び 去 る 、 そ の 船 長 を 提 案 す る 。・ ・ ・ 。
誰 が 船 長 の 役 割 を 実 行 し た の か 、ソ ロ ビ エ フ の ア イ デ ア は 秘 密 の ま ま と な っ た 。し か し 、
シュテインが持ってきた金、皇帝の貴金属は、自由の家から、ずる賢い奴に、移動し続け
る。
ア リ ッ ク ス は 、 自 分 の 信 念 を 、 他 人 に 感 染 さ せ る 。 分 別 の あ る ジ リ ヤ ル さ え 、「 ど ん な
場 合 に で も 対 応 で き る よ う に 準 備 を し て お く 。」 こ と を 決 め る 。
1918年3月に、自由通りで、鐘が鳴り響いた。鬨の声と口笛を出しながら、鈴をつ
けた勇ましいトロイカ馬車に乗って、武装した人達が通り過ぎた。アリックスは、それを
窓 か ら 見 て 、 感 激 し て 呟 い た :「 何 と 素 晴 ら し い ロ シ ア 人 で し ょ う ! 」 彼 女 は 思 っ た :
彼 ら が 来 た ! 強 い 軍 隊 が 、 3 0 0 人 の 将 校 達 が 。 こ の よ う な こ と は 、「 修 道 者 」 の 使 者
が、自分に書いて知らせていたではないか。
実は、その日、勇ましい赤軍が、トボリスク州に、ボリシェビキの権力を確立するため
に、オムスクから、やって来たのであった。この日で、皇帝家族の幽閉生活の、牧歌的な
時間は終わりとなった。馬の鈴の音、鬨の声、口笛と共に、10月革命後の世界が、静寂
なトボリスクに、入り込んできた。
このように、ラスプーチンは、死んだ後に、更にもう一度、皇帝家族を破滅させた。
「皇帝家族を解放するための、そのような将校グループは、全く存在しなかった! た
だ 、 陰 謀 だ け は あ っ た 。」 こ の よ う に 、 皇 帝 家 族 と 流 刑 生 活 を 共 に し た 、 エ ブ ゲ ー ニ ・
セルゲービッチの本当に可愛い娘であった、タチヤーナ・ボトキナが、自分の追想記で断
言 し て い る 。そ し て 、例 を 挙 げ て い る : 皇 帝 が 、ト ボ リ ス ク を 去 ら ざ る を 得 な く な っ た 後 、
彼女は、地方の司祭の1人に質問した。
「何故、貴方方の組織は、何も行わないのですか?」
「 ア レ ク セ イ ・ ニ コ ラ エ ビ ッ チ を 救 助 す る た め に 、 私 達 は 組 織 を 作 っ た 。」
し か し 、ト ボ リ ス ク か ら 、ア レ ク セ イ と 大 公 達( = 皇 女 達 )の 出 発 が 近 づ い た 。そ れ で 、
彼女は再度、同じ質問をした。
「とんでもない、私達は、正に、自分の本性をさらけ出すことができた。赤軍が私達全
員 を 捕 ま え た 。」
「 そ ん な に 沢 山 。」 ボ ト キ ン の 娘 は 、 悲 し そ う に 話 し て 終 わ っ た 。
ボトキナは、ソロビエフを、スパイと見なした。自由の家に、何度も何度も・・・。
しかし、ラスプーチンの娘婿に対して、誰が反論できたであろうか?
実際、ソロビエフは、ボリシェビニキのスパイであったのであろうか?
おそらく違う。直に、非常委員会とソロビエフが、仲が良くなっていったのである。疑
いを持たず、皇帝家族の参加した2つの陰謀があった。ボリス・ソロビエフの組織した、
皇帝家族を単に盗み出そうとするもの。更にもう1つの陰謀。それは、ソロビエフの嘘の
陰謀を、真実なものと見なし、ソロビエフの作り話を内容とするものである。それ(?
*)をなす事は、皇帝家族を、静かなトボリスクから急いで連れ出すことの必要性の、最
も重要な証である、からである。
この2番目の陰謀は、革命派のウラルの、赤色都市、エカテリンブルグで生まれた。
- 154 -
ニコラシャとニコライ。軍事演習にて(1
913年)
戦時中の家族
父と息子。総司令部にて、マギリョフ。
- 155 -
従軍看護婦。囂々と娘達
兵営での儀式
- 156 -
パ ス ハ ( 復 活 大 祭 )。 ニ コ ラ イ 二 世 が 、 復 活 大 祭 を 記 念 し て 、 下 級 兵 士 と 、 3 度 の
キスを交わす。
母 親 と 一 緒 に 、 パ レ ー ド の 馬 車 に 乗 っ て 。 ペ テ ル ブ ル グ 。( 1 9 1 6 年 )
- 157 -
マ ギ リ ョ フ 近 郊 に て 。( 1 9 1 6 年 )
頼 り の 2 人 組 の 1 人 。「 我 が 友 人 」。 グ リ ゴ リ ・ ラ ス プ ー チ ン
- 158 -
頼りの2人組のもう1人。アンナ・ビルボア。病院列車にて
戦争
皇后アレクサンドラ・フェドロブナの病院
- 159 -
ニコライ二世とマリア・パブロブナ大公。傷病者と一緒に。ペトログラード。
後継者アレクセイ。軍病院の訪問時。オデッサ。
- 160 -
ヨ ッ ト 「 シ ュ パ ン ダ ル ト 号 」。 セ バ ス ト ポ ー ル 。
従者を伴ってのニコライ二世。ペレミシュリ。
クラスノエ村にて
- 161 -
総司令部。左側、プストボイチェンコ少将、司令部の補給担当司令官。
右側、司令部責任者、歩兵大将アレクセーフ。
数 日 後 、 こ の 客 車 で 、 ニ コ ラ イ 二 世 は 、 退 位 宣 言 書 を 書 く 。( 1 9 1 7 年 )
- 162 -
第10章「同志」
2番目の陰謀。関係者:フィリップ同志。
1917年4月に、クシェシンスカヤの邸宅に、クロンシュタットの水兵の衛兵が立っ
た:ニコライの愛人の宮殿で、ボリシェビニキの集会が行われた。彼らを、軽蔑するよう
に 、「 ボ リ シ ェ ビ キ 党 員 」 と 呼 ん だ 。 し か し 、 詩 人 ブ ロ ッ ク が 、 彼 ら の 奇 妙 な 、 恐 ろ し い
唐を感じたのはだてではなかった。
最近まで、彼らは流刑生活を送っていたり、ヨーロッパの町々で、将来のない移民生活
をしていた。いまや、彼らは前面に躍り出てきた。
「 権 力 を 欲 し な い 党 は 、 党 と は 言 え な い 。」( ト ロ ッ キ ー )
この4月会議で、2人の旧友がであった。スベルドロフとゴロシェキン。彼らの写真が
ある。イサイ・ゴロシェキン-日のない生活と質の悪い食事でむくんだ顔。当然ながら、
髭 が あ る 。 そ う い え ば 、 レ ー ニ ン 、 ス ベ ル ド ロ フ 、 ト ロ ッ キ ー 、 カ ー メ ネ フ 、・ ・ ・ 、 皆
には髭がある。ゴロシェキンは40歳、革命の基準からすると、もう老人である。
彼は歯科医になるつもりであったが、職業的革命家となった。党での変名は「フィリッ
プ 同 志 」、「 ジ ョ ル ジ 」、・ ・ ・ 。 変 名 「 フ ィ リ ッ プ 」 は 彼 の 名 前 と も な っ た 。 1 9 1 2 年
か ら 、「 フ ィ リ ッ プ 同 志 」 は 、 ボ リ シ ェ ビ キ の 中 央 委 員 会 委 員 。 1 9 1 3 年 に 、 ニ コ ラ イ
が、王朝の300年祭を祝った時、ニコライの将来の殺人者は、警察に逮捕され、警察の
厳しい管理下の元で、ツルハンスキー地方に5年の流刑を受けた。1914年の9月に、
流刑先で、彼は、著名であったボリシェビキに出会った。ヤコフ・スベルドロフである。
スベルドロフの妻が、自分の追想記で書いている「スベルドロフとゴロシェキンは、信念
で も 友 情 で も し っ か り と 結 び つ い た 。」 1 9 1 7 年 2 月 、 2 人 は ツ ル ハ ン ス キ ー で の 流 刑
から解放された。
クシェシンスカヤの邸宅で開催された会議で、ウラル・ボリシェビキ指導者であるスベ
ルドロフは、中央委員会書記として、ペトログラードに残った。ウラルにおける彼の替わ
りとして、中央委員会の決定、及び、スベルドロフの推薦により、スベルドロフの旧友で
ある、フィリップ(ゴロシェキンの変名 *)同志が選ばれた。
このようなわけで、ゴロシェキンはウラルに派遣された。そこで、権力を掌握し、新し
い革命を組織するために。
エカテリンブルグで、ゴロシェキンは、疲れを知らずに働いた:労働者隊の武装化、赤
軍親衛隊本部の創設。ゴロシェキンは、バルチック海軍水兵であったパシュカ・ホフリャ
コフを、本部の責任者とした。
隣接するペルミの町は、蜂起の準備をしていた。そこへ、ゴロシェキンは、ボリシェビ
ニキである、ルコヤノフ兄弟を派遣した:兄弟の1人のミハイルはペルミ・ボリシェビニ
キの指導者、もう1人のフェドルは、労農赤軍を指揮していた。
10月の始め、ウラル代表として、ソビエト大会に出るため、ペトログラードに向けて
出立する。直に、エカテリンブルグへ、速達電報が届いた:10月25日、ボリシェビキ
は臨時政府を打ち倒した。
そ し て 、同 時 に 、エ カ テ リ ン ブ ル グ ・ ボ リ シ ェ ビ ニ キ と 、そ の 赤 軍 は 町 を 占 拠 し 始 め る 。
隣町のペルミでも、同じことが起こる。
関係者:マラトフ同志
ソビエトが、ウラルで勝利すると、赤色ウラルの首都であるエカテリンブルグの目は、
静かなトボリスクに向けられる。余り遠くないそこには、皇帝家族がいる。革命家の全く
の夢は、血のニコライに鉄拳制裁を! また、ペテルブルグから運んできた、大量のロマ
ノ フ 家 の 大 量 の 噂 が 、 流 れ て い た 。・ ・ ・ 。 ボ リ シ ェ ビ ニ キ の 指 導 者 の 誰 か が 語 っ た 、「 *
* * * * 。」 ゴ ロ シ ェ キ ン は 、 エ カ テ リ ン ブ ル グ で 、 計 画 を 練 る 。
ロ マ ノ フ 一 家 の 銃 殺 に 何 す る 、 私 の 最 初 の 論 文 が 、「 ア ゴ ン カ 」 に 印 刷 さ れ た 後 に 、 私
は短い手紙をもらった:
「貴方の興味を持っているテーマに関して、もう少し詳細に貴方に、伝えることができ
ま す 。」 署 名 は 、 ア レ ク サ ン ド ル ・ ワ シ リ ビ ッ チ 。 名 字 が な か っ た 。 そ し て 、 電 話 。
私は電話をした。
老 齢 の 声 :「 少 し 大 声 で 話 し て 下 さ い 。 電 話 の 調 子 が 悪 い の で す 。( 年 寄 り は 何 時 も 自
分の耳の悪さを棚に上げて、電話のせいにするものである。調査の間、私は、基本的に老
齢 の 方 と の 接 触 が あ り 、 私 は 何 度 も こ の 文 句 を 聞 い て い る 。)
私 :「 貴 方 の 手 紙 を 受 け 取 り ま し た 。・ ・ ・ 。 貴 方 と 会 い た い の で す が ? 」
- 163 -
彼 :「 会 え ま す 。 私 か ら 貴 方 の 所 へ 行 き ま す 。( 私 は こ の 言 葉 を 何 度 聞 い た こ と か 。 彼
らは、恐怖のスターリン学校を経験していた。私が彼の所へ行くことを、彼は希望してい
な い 。 彼 が 何 者 な の で あ る か を 私 が 知 っ て し ま う か ら で あ る 。 彼 は 心 配 を し て い る 。)
彼は私の所にやってくる。薄い白髪が頭にリング上に残っている老いぼれた老人。背広
に勲章板。
「私が貴方に話す・・・・、もぐもぐもぐ・・・・。私の名前を挙げてもらっては困り
ま す ・ ・ ・ 。」
私は話を遮り、大きな声で話す。彼は良く耳が聞こえない:
「心配ありません・・・。私は具体的に名を上げません。私は貴方の名前さえ知ってい
ま せ ん 。」
***********************。しかし、私もであるが、我が祖国
に生まれた人、全ては、わかっている:彼は恐れている。彼には、スターリン体制の恐怖
が、体の芯までしみこんでいる。
私は、貴方に、多分、少は興味があろうことを話します。というのは、それほど正確な
話 で は な い か ら で す 。・ ・ ・ 。 た だ 、 こ の 話 は 、 私 を 少 し 悩 ま せ て い ま す ・ ・ ・ 。 ひ ょ っ
としたら、貴方に必要な話ではなかろうか? 貴方が未だ生まれていない年、その年につ
い て 、 人 々 は ほ と ん ど 根 掘 り 葉 掘 り 聞 き 出 さ な か っ た 。・ ・ ・ 。 し な い 決 ま り で あ っ た ・
・・。少し知っている人物について、話しましょう。20年代初めの出来事です。この人
物は、ウラルからやって来た。私の兄有名な神経病専門医でした。彼は、兄の所へ、治療
に や っ て き ま し た 。 こ の 人 物 に は 、 中 央 委 員 会 働 い て い た 親 類 が い ま し た 。「 大 し た こ と
は な い 」、 当 時 そ う 話 し て い た ( ? 誰 が * )。 兄 に 電 話 を し た ( ? 誰 が * )。 彼 ( ? 誰
* ) を 、 部 屋 ( ? 誰 の * ) に 呼 ぶ た め に 。 そ し て 見 た ( ? 誰 が * )。 * * * * * 。
彼は私達の所にやって来た。夕方、お茶の時、兄は、彼について、父に話した。私は覚
えていました。子供の時の出来事でした。この人物は、ウラルの中央委員会で働いていま
した。危うく、皇帝銃殺を指揮するところでした。そして、それ以降、彼は精神を病んで
いました。春には、彼は何時も、精神病院に入院しました。春になりました。彼の病気は
更に悪くなりました・・・。兄は、彼を「スパイ」と呼んでいました。
彼は、私が質問するのを待っていたようだ。
私は質問をした。
「何故「スパイ」と、
」
「 ト ボ リ ス ク で ・ ・ ・ 。」
「多分。貴方はよく知っている。そこには大きな家があった。彼はそこの家で、大工と
し て 働 き な が ら 、 皇 帝 を 監 視 し て い ま し た 。・ ・ ・ 。 そ の よ う に 、 彼 は 兄 に 話 し ま し た 。
皇帝と皇后は、英語で話し合っていたので、誰もわかりませんでした。が、わかる必要が
ありました。それで、彼をそこへ・・・。その家では、警護隊の誰かが、彼を援助しまし
た 。・ ・ ・ 。」
彼は黙り込んだ。
「それから?」
「 そ れ 以 上 は 何 も な か っ た 。 兄 は 驚 い た 。 よ り 正 確 に は 、 私 達 の 父 が 話 し た :「 私 達 の
家 で 、 彼 は 生 気 を 失 っ て し ま っ た ほ ど 、・ ・ ・ 。 私 の 父 は 新 し い 政 権 に 、 そ れ ほ ど 敬 意 を
表 し て い ま せ ん で し た ・ ・ ・ 。」
「話して下さい。その時、貴方はこれらのことを書き残していたのですか?」
「何ですと? 誰がそのようなことを書き残します。この事について話すことを、私は
ずって悩んできました。銃殺の時のことを、彼は兄に話しました。しかし、兄は私達にさ
せ 、 語 り 伝 え よ う と は し ま せ ん で し た 。 た だ 、 1 つ だ け 言 い ま し た :「 血 が ほ と ば し り 出
た 。 全 て が 血 の 海 と な っ た 。」
(以上は、伝問の伝問の・・・、かつ代名詞が多用されているので、?が多い *)
何度も、書類と戦いながら、私はこの彼の不可解な性格を解いた。面白い格言「漁師に
は 、 獲 物 が 向 こ う か ら や っ て 来 る 。( 意 志 あ る と こ ろ に 道 あ り )」 に 、 確 信 を 抱 い て 。 私
は こ れ を 、「 書 類 が 呼 び 出 す 」 と 名 付 け る 。 そ し て 、 直 に 、 本 「 プ リ カ ミ エ ( ? 地 方 名
*)の革命家達」で、ゴロシェキン同志について研究していると、驚くような履歴書(伝
記書? *)に出くわした。
「ルコヤノフ(1894年生まれ)は、ペルムギムナジウムで勉学をし、1912年、
モスクワ大学法学部の学生となる。父、役人、県税務庁の上級監督官、母の手元に5人の
子供を残して死亡。1913年から、モスクワ大学のボリシェビニキ学生同盟の会員。兄
弟ミハイル、姉妹ナデジダとベーラ。全てボリシェビニキ・・・。
ペ ル ミ に 戻 り 、新 聞「 ペ ル ミ の 生 活 」に 所 属 し て い る ボ リ シ ェ ビ キ ・ グ ル ー プ に 入 っ た 。
・・・。ソビエト権力の勝利後、中央委員会で働き始めた。彼は、最初は県中央委員会代
- 164 -
表 、 そ の 後 、 1 9 1 8 年 6 月 か ら 、 ウ ラ ル 地 方 中 央 委 員 会 代 表 と な っ た 。」
このように、ロマノフ一家が銃殺された、7月には、エカテリンブルグにあったウラル
中央委員会は、我がフョドル・ルコヤノフが指導をしていた!
本 は 更 に 書 い て あ っ た :「 非 常 に 重 症 の 神 経 症 。 1 9 1 8 年 、 中 央 委 員 会 で 働 い て い た
時から既に罹病。病状が段々酷くなる。1932年、補給人民委員部に派遣される。19
34年から1937年、出版社「イズベスチャ」で働いた。その後、**人民委員部で。
1 9 4 7 年 死 亡 、 ペ ル ミ に 葬 ら れ る 。」
以上が彼の履歴書である。痩せて、神経質で、インテリらしい顔つき。
私は探し始めた。直に、スベルドロフスク市に住んでいるアブデーバさんから手紙をも
らった。私が行けない、スベルドロフスク市にあるKGBの博物館に保管されている、フ
ョ ド ル ・ ル コ ヤ ノ フ の 「 自 伝 」、 か ら の 抜 粋 を 、 彼 女 は 、 送 っ て き た 。 自 伝 は 、 フ ョ ー ド
ル自身が、1942年に書いたものであった。
「1918年一杯と、1919年初めには、中央委員会機関で働いた。最初は、ペルミ
中央委員会議長として、その後、ウラル地方中央委員会議長として。そこで、ロマノフ一
家 の 銃 殺 の 指 導 に 参 加 を し た 。・ ・ ・ 。 1 9 1 9 年 半 ば に 、 病 気 と な っ た 。 健 康 回 復 の た
め に 、 党 務 を 変 更 し た 。・ ・ ・ 。 し か し 、 健 康 は 回 復 せ ず 、 1 9 2 2 年 初 め に 、 ソ 連 邦 共
産 党 中 央 委 員 会 は 、 モ ス ク ワ の 病 院 に 私 を 入 院 さ せ た 。・ ・ ・ 。」
「スパイ」?! いいや、私達には、最後まで、そう断言する権利はない。これは余り
にもファンタスチックなことであり、三文小説の感がする。科学的ではない。しかし、と
にかく私達は予想することができよう・・・。
それどころか、自伝には、非常に興味のある抜け落ちがある:彼は、3月15日にペル
ミ 中 央 委 員 会 議 長 に 任 命 さ れ る 。1 9 1 8 年 初 め に は 、彼 は 何 処 で 、何 を し て い た の か ? 。
フ ョ ー ド ル ・ ル コ ヤ ノ フ の 党 内 で の 呼 び 名 は 、「 マ ラ ト フ 」 で あ っ た 。( ボ リ シ ェ ビ キ
グ ル ー プ の 中 で 、教 養 あ る 若 者 達 は 、フ ラ ン ス 革 命 に 憧 れ て い た 。し か し 、* * * * * 。)
このようなことで、私達は予想する:2月末に、エカテリンブルグから、マラトフ同志
-「スパイ-は、自由の家に派遣された。
これは、エカテリンブルグの計画-皇帝家族の逮捕-実現の始めであった。
ペトログラードは警戒を怠らなかった
皇帝家族は、ボリシェビキの人民委員会議に、大いに役に立った。皇帝家族は、彼らの
親類(英国とドイツ)とのゲームでは切り札となるはずであった。それ以外に、ロマノフ
家の全財産は、無防備の状態でトボリスクにあるはず。噂ではあったが。
既に、11月2日に、勝利したペトログラード軍事革命委員会は、ロマノフ家族の扶養
の問題について検討をした。委員会は、人民委員会議へ、ロマノフ一家を、トボリスクか
ら、革命の砦となっていたクロンシュタットへ、移動させる提案をした。そこはバルチッ
ク海軍水兵の管理下にあった。
ブ ロ ヒ ン ( モ ス ク ワ )( ? 誰 * ) の 手 紙 か ら 。
「皇帝一家の残忍な銃殺は、今では、異常で、怖いように思われる。私はだいぶの年寄
り で あ り 、* * * 。残 忍 、凶 暴 、激 怒 - 皆( ? 誰 * )そ う で あ っ た 。皇 帝 一 家 の 殺 害 は 、
この状況を補完しただけである。それ以上の何者でもない。私は、ウラジミル・ドミトリ
エビッチ・ボンチ-ブルエビッチを知っている。彼は、眼鏡をかけた心優しい民間人であ
り 、 家 族 に も 恵 ま れ て い た 。( 彼 の 兄 弟 は 、 皇 帝 の 将 軍 で あ っ た 。) 本 当 に 優 し い 彼 が 、
ス モ ー リ ヌ イ の 恐 怖 の 7 5 号 室 の 創 設 者 で あ っ た 。こ の 部 屋 は 、チ ェ ー カ ー( 非 常 委 員 会 )
の 先 物 と な っ た 。 彼 は 、「 革 命 に お け る 異 常 さ に つ い て 」、 革 命 派 水 兵 の 役 割 に つ い て 、
書きそして、話すことが大好きであった。私は、それらから、沢山のことを知った。すで
に、革命から大部時間が経っていた。白軍将校の銃殺を、どのようにして行ったか、等の
話に堪能した。心の中に、このような凶暴性を持ちながら、完全に平静に、つつがなく墓
場 に 行 っ た 。 い い や 、 恙 な く さ は 少 な か っ た か も し れ な い 。( も し 、 彼 ら に 対 し て 、 ス タ
ー リ ン 同 志 の 配 慮 が な か っ た な ら ば 。) 西 側 世 界 が 、 私 達 を 理 解 し 、 私 達 自 身 に 理 解 さ
せるためには、覚えておかなければならないことがある:当時は、皇帝家族の殺害は、残
忍なことではなかった。ありふれたことであった。ということを。私に知人のウラジミル
が書いた、水兵達での出来事を、教えよう。事件は1918年のある日のことで、本当に
平 凡 で 、個 人 的 な こ と で あ っ た 。ア ナ ー キ ス ト の 水 兵 達 が 、軍 艦「 レ ス プ ブ リ ッ ク 」か ら 、
3人の将校を、通りに連れ出した。ゼレズニャコフ兄が、水兵達を指揮している。半分酔
っぱらい、しょぼくれた目をしながら、彼は椅子に座っている。十字を切るまねをし、時
折 、 命 令 を す る :「 死 刑 、 死 - 刑 、 死 - - - 刑 。」
- 165 -
或いは、拘留した将校を、自動車に座らせ、彼らに提案をする:数千ルーブルの身代金
を払うか、それとも銃殺にするか。そしてから、不運な彼らを、吃驚仰天するようなペト
ログラードの家に運ぶ。彼らは、知り合いに金を出してくれるように頼み込む。払いが少
なければ、心配である。ここで、彼らを利用して儲けよう、と、 勇ましい水兵達は考え
ている。面倒な貢ぎ物の徴収に、 革命派の水兵達は、退屈をしていた。英雄達は、楽し
みに立ち寄る。女郎屋へ。革命兵士達が、女と遊んでいる間に、拘留している将校達が飽
きないようにするため、彼らは1人の将校のあごを、拳銃の銃床で砕いた。他にはうまく
行かなかった:女郎屋の女主人は、ジュータンが、血で汚れるのを嫌って、貸さなかった
( ? * )。 水 兵 達 の 女 郎 と の 時 間 が 終 わ る と 、 水 兵 達 は 、 再 び 時 間 を も て あ ま し た 。 彼
らは将校達を自動車に乗せ、何処かの人里離れた土地へ行った。そこで、出てるように命
じ た 。 将 校 達 は 、 出 て た 。「 外 套 を 脱 げ 。」 将 校 達 を 取 り 囲 ん で 、 革 命 兵 士 達 は 、 外 套
を奪い取った。その際、淫らな言葉で罵りながら。将校達は脱いだ。兵士達は、将校の1
人に、外套を車に運ぶよう命じた。彼は運んだ。しして、車では、銃撃の音が聞こえた。
そ し て 、兵 士 達 は 戻 っ た :「 お お 、ろ く で な し ! * * * * * * * * * * * * * * * * * 。」
座席の間に、横たわっている彼(? 将校の1人 *)を、足で踏みつけ、靴のかかとで
打ち据えた。これが娯楽であった。これらは、私の知り合いのウラジーミルの出版された
追 想 記 に 沿 っ て 、 ほ と ん ど 文 字 通 り 、 私 は 引 用 し て い る も の で あ る 。・ ・ ・ 。 貴 方 が 、 皇
帝家族の射殺、ミハイル・ロマノフの射殺を、残忍であると思う時に、この空き地での件
を 思 い 出 し て 欲 し い 。こ の 空 き 地 で は 、将 校 達 が 犬 の よ う に 殺 さ れ た 。空 中 で 十 字 を 切 り 、
「 死 刑 、死 - 刑 、死 - - - 刑 。」と 判 決 を 言 い 渡 し た 、あ の 上 級 兵 が を 忘 れ な い で 下 さ い 。
ついでながら、ゼレズニャコフは、十月革命の歴史で名をはせた名字です。軍艦「レスプ
ブ リ ッ ク 」 の 「 悪 い 」 水 兵 と 一 緒 に な っ た 、「 悪 い 」 ゼ レ ズ ニ ャ コ フ 兄 は 、「 良 い 」 ゼ レ
ズニャコフ弟の、本当の兄弟である。ゼレズニャコフ弟は、同じ軍艦「レスプブリック」
の「良い」水兵と一緒になって、最初で最後となった自由なロシアの国会である、設立会
議 を 追 い 散 ら し て い る 。 歴 史 と は そ の よ う な も の で す ! 「 死 刑 、 死 - 刑 、 死 - - - 刑 。」
こ の よ う な こ と で 、革 命 的 な ク ロ ン シ ュ タ ッ ト の 水 兵 達 は 、皇 帝 家 族 を 逮 捕 し た が っ た 。
当然、罪のない娘達も一緒に。そして、宝石類も一緒に・・・。 「死刑、死-刑、死-
- - 刑 。」 し か し 、 ボ リ シ ェ ビ キ の 人 民 委 員 会 議 は 、「 ロ シ ア 革 命 の 誇 り 」 を 、 不 信 を
持って、見ていた。
人 民 委 員 会 議 は 、「 そ の よ う な 移 行 ( ? * ) は 、 早 す ぎ る 」 と 、 見 な し て い る 。
ボリシェビキの実利主義者は、どのようにしたら、皇帝家族の利用価値があるかを、考
えている。新しい政府内には、フランス革命に夢中になったロマンチスト達が居る。ロマ
ンチスト達は、直ぐに、モスクワに家族を連れてくることを要求する。なぜなら、打ち倒
した専制君主を、人民裁判にかけるために。革命の第一の演説家レフ・トロッキーは、こ
の将来の裁判で、告発者として出廷することを熱望している。この時期、トロッキーは人
気があった。黒い長髪、空色の目、明瞭な演説。彼の敵対者は、毒々しさを持って語って
い る 「 ト ロ ッ キ ー は 永 遠 の 扇 動 者 だ 」。 正 確 に は 、 妬 み を 持 っ て 。 と に か く 当 時 、 ト ロ ッ
キーの人気は絶大であった。画家アネンコフが描いたトロッキーの顔-革命の顔-は根っ
からの革命家達の家には、掲げられていた。
「寝室に、キリストの替わりに、
彼らの将軍を掲げる。
画家アネンコフは、しばらしく、
彼 を 描 い た 。」
トロッキーは、全ての先進的な人達の目前で、哀れで、口べたの皇帝をやつける。これ
は、革命の凱旋式である! 皇帝を裁判にかけるアイデアは、勝つ。
次 の こ と は 言 え る :「 皇 帝 を 首 都 に 移 送 す る 」。 始 め に 、「 皇 帝 を ト ボ リ ス ク か ら 出 す
こ と 」。
元皇帝の兵士からなる330名の武装した警護隊が、皇帝の住んでいるトボリスクの家
を、見張っている。仕事は、全露中央執行委員会が請け負う。
関係者:「立派に軍務についた。」
全露中央執行委員会の長は、当時、ヤコフ・スベルドロフであった。
1918年1月、スベルドロフは、皇帝家族の警備部隊の代表者達を採用する。その中
の重要人物は、部隊の兵士委員会代表パベル・マトベーフ。
マトベーフ、革命初年における典型的な人物であった:権力を感じさせる、灰色の制服
外 套 。兵 士 委 員 会 の 代 表 と し て 選 ば れ た 、昨 日 ま で の 皇 帝 の 曹 長 は 、自 分 の 部 屋 の ド ア に 、
大 事 な 看 板 を 吊 し た 。「 ピ ョ ー ト ル ・ マ ト ベ ー ビ ッ チ 、 マ ト ベ ー フ 同 志 の 部 屋 」。 こ れ は
- 166 -
トボリスクの家の住民達を、楽しませてくれた。
しかし、曹長の急激な変身は、彼ら(? *)を、悲しませた。
マ ト ベ ー フ の 「 手 帳 」 か ら :「 臨 時 政 府 の 破 滅 の 最 初 の 知 ら せ を 、 私 達 は 、 1 1 月 2 0
日 に 得 た 。・ ・ ・ 。し か し 、パ ン ク ロ ト フ ・ コ ミ ッ サ ー ル ・ ・ ・ は 、ペ ト ロ グ ラ ー ド か ら 、
ボリシェビキ達を、既に大分前に追い出した・・・、と言うことを、確かめることに努力
をした。中央から、正確な更なる情報を得るためには、警護隊が信念を変え、遅れること
な く 、 ペ ト ロ グ ラ ー ド に 代 表 を 送 る こ と が 必 須 で あ る こ と を 示 す 、・ ・ ・ こ と に 、 私 は 成
功 し た 。」
ペトログラードから、マトベーフは、変心して戻ってくる。
「私達は、ペトログラードで数日間を過ごし、1月11日、道中における課題をもらっ
て、トボリスクへの帰路についた:どんなことがあっても、ソビエト権力の部隊を服従さ
せ、臨時政府のコミッサールを排除すること。文書による承認無しに、特に、全露中央執
行委員会と人民委員会議・・・の承認無しに、ロマノフ一家を引き渡してはならないと、
私達に、文書で指令があった。1月23日、トボリスクで、全部隊を集めた、全体会議が
あ っ た 。私 の 話 の 後 、部 隊 は 2 つ に 分 裂 し た : 1 つ は 、ソ ビ エ ト 権 力 へ 、も う 1 つ は 、「 右
派 」 で 、 ケ レ ン ス キ ー 権 力 へ ・ ・ ・ 。」
今は、夜毎、マトベーフは家から居なくなる。彼は、トボリスクのボリシェビキのソビ
エトに立ち寄り始めている。自分の部屋に、マトベーフは、大きな地球儀をおいた-「世
界 革 命 を ! 」。
ボリシェビキ党員、コガニチキー(? *)の追想によれば、ある夜の集会において、
12,3名の近衛兵の代表であった、マトベーフは、ソビエトに忠誠を誓う。彼ら(?
*)は直に、全員非業の死を遂げる。が、誰も皇帝家族に、生きて去らせることはできて
い な い 。 こ の た め に 、 警 備 の 交 替 毎 に 、 * * * * * 。( 原 文 の こ の 段 の 脈 略 が よ く わ か ら
ない *)
直に、兵士委員会は、コミッサール・パンクラトフを、追い出した。しかし、連隊長コ
ビリンスキー(? *)に反抗するまでは、未だ至っていない。
その後、自分の仕事について、ピヨートル・マトベービッチは、ボリシェビキのトボリ
ス ク ・ ソ ビ エ ト の 用 紙 に 書 か れ た 次 の よ う な 書 類 を 得 る :「 同 志 ピ ョ ー ト ル ・ マ ト ベ ー ビ
ッチ・マトベーフは、前皇帝と彼の家族・・・の警備に関する特別指命の部隊にいた、こ
とは本当であることを、確認する。さらに、立派に軍務についた。自分に課された兵士と
し て の 職 務 と 、革 命 の た め の 闘 士 と し て の 職 務 を 、文 句 を 言 わ ず に 実 行 し 、困 難 な 時 に も 、
ロ シ ア 革 命 の 時 に も 、 自 分 に 委 ね ら れ た 仕 事 を 、 や り 残 す こ と が な か っ た ・ ・ ・ 。」 署
名-ハフリャコフ、5月18日、トボリスク。
「 立 派 に 軍 務 に つ い た 。」 多 分 、 同 志 ピ ョ ー ト ル ・ マ ト ベ ー ビ ッ チ ・ マ ト ベ ー フ は 、
そ し て 、「 誰 が 、 ス パ イ を 家 に 導 き 入 れ た の か ? 」
「スパイ」の件に戻ろう。スパイをどのように派遣したのか? 私は、これの解明に試
みる-これがどのようであったか・・・。
ペルミから、赤色ウラルの首都へ、彼(? マトベーフ *)を、呼び出している。こ
こに、1月に設立されたウラル非常委員会の長に、ミハイル・エフレモフがなった。皇帝
の裁判下で、1905年に、終身懲役刑を宣言されたボリシェビキ。しかし、ウラル非常
委員会の、本当の指導者には1905年に、同じよう運命を受けた、ボリシェビキである
ヤコフ・ユーロフスキーがなった。将来の皇帝殺害者である。
関係者:ヤコフ同志
子だくさんの貧乏なユダヤ人一家。父はガラス工、母は裁縫師。
ロマノフ一家殺害後、ちょうど20年後となる1938年、クレムリン病院で、ヤコフ
・ユロフスキーは、悪性腫瘍で死ぬことになる。自分の遺言状で、彼は子供に、自分のこ
とについて書き残している:
「親愛なるジェーニャ、シューラ! 新暦の7月3日、私は60歳となる。私がどのよ
うに育ってきたか、私は、君たちに、自分のことを全く話すことはなかった。特に、私の
子供の時と、青年時代について・・・。
父の家族には、10人の子供がいた。子供が増える毎に、貧困が酷くなっていった。極
貧と隣り合わせをしながら、子供達は10歳から働き始めていたが、極貧から抜け出せな
か っ た 。 父 と 母 は 、 ヘ ト ヘ ト に な る ま で 働 い た 。・ ・ ・ 。」
仕立屋から、時計修理師の所へ、彼は見習いに出た。
「主人の時計修理師は、未成年労働者の苦悩の元で、富を築いていた。私は、腹一杯食
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べ る と 言 う こ と を 経 験 す る こ と な く 、彼 の 所 で 、1 9 歳 ま で 働 い た 。そ の 代 わ り( ? * )、
ス ト ラ イ キ 後 、 私 を 腹 一 杯 食 べ さ せ て く れ た 。( ? 誰 が ) * * * * * * * * 。」
ど れ ほ ど の 激 怒 、 ど れ ほ ど の 気 性 、 ど れ ほ ど の 憎 し み 、・ ・ ・ 。 が 、 死 の 病 に 苦 し ん で
い る 老 人 が こ れ を 書 い て い る 。・ ・ ・ 。
「 1 9 0 5 年 か ら 、 一 日 も 休 む こ と な く 、 私 は 党 の 仕 事 を し て き た 。」 か ら は 長 年 時
計修理師、宝石細工師として生活していた。彼はそれらの仕事を繁盛させていた。海外へ
の奇妙な出発、カトリックへの改宗。これらは全て、彼の主要な秘密活動のためのカモフ
ラージュであった。時計修理師、宝石細工師、写真屋として商売繁盛しながら、彼は、ボ
リシェビニキに、地下活動のための部屋を提供していた。1921年、彼は逮捕された。
が、彼は素晴らしい地下活動家であった。警察は、ただ間接的な証拠しか、提示できなか
った。そして、ユーロフスキーは、エカテンリンブルグに流刑となる。彼はそこで写真屋
を開いた。1915年、彼は軍に招集された。前線から解放され、准医師養成学校を終え
た。地方病院で、外科部に職を得た。
1917年2月がやってきた。病院は彼をソビエトに選出した。ゴロシェキンと一緒に
な っ て 、彼 は 、町 を ボ リ シ ェ ビ ニ キ で 掌 握 す る 準 備 を し た 。そ の 後 - 1 0 月 。ソ ビ エ ト は 、
ウラル政府となった。彼は、司法のコミッサールの代理人となった。これは、ボリシェビ
ニキの指導者達の普通の経歴であった。そして、最後に、1918年の初めから、チェー
カ ー に 努 め た ( 革 命 裁 判 所 に お け る 怖 い 調 査 委 員 会 代 表 )。
彼は、元エカテリンブルグの准医師で、写真屋。今では、人の運命の決定者-ヤコフ・
ユーロフスキー。
チ ェ ー カ ー は 、「 ホ テ ル ・ ア メ リ カ 」 を 借 用 し て い た 。 ユ ー ロ フ ス キ ー は 、 最 も 豪 華 な
3 号 室 に 入 っ て い た : ウ ラ ル の 商 人 達 の 贅 沢 を 象 徴 し て い る 、鏡 、ジ ュ ー タ ン 。階 下 に は 、
有名なレストラン。そこでは最近まで、彼ら商人達が、大いに楽しんでいた。
新しい権力下で、あっという間に無くなった:商人達と、食事。しかし、豪華なレスト
ランの素晴らしい臭いは、残っており、チェキスト達の心を乱していた。
3号室に、ユーロフスキーは、フョードル・ルコヤノフを迎え入れていた。その時、フ
ョードルは、執行委員会の若い次席代表であった。フョードルを、ペルミのチェーカー指
導 者 に 任 命 す る 予 定 で あ っ た 。・ ・ ・ 。
私は、彼らの会話を盗み聞きしよう:
「 お 前 に 会 え て 嬉 し い よ 、 我 が 息 子 よ 。」
ユーロフスキーは、多分そのような言葉で話を始めたに違いない。というのは、ユーロ
フスキーが、若い全チェキストを任命していたからである。ユーロフスキーは、勿論、教
訓を教えながら、会議を始めた。
「レーニンが、ジェルジンスキーをチェーカーの指導者に任命した時、レーニンは語っ
た :「 私 達 に は 、 こ の ポ ス ト に 、 す ぐ れ た 急 進 的 な 党 員 が 必 要 で あ る 。」 そ し て 、 学 歴
のある急進的党員・・・。全ウラルのそのようなチェーカー指導者を、私達は探している
・・・。君が知っている通り、フィン同志の(当時のチェーカーの首領エフレモフの党内
で の 偽 名 著 者 )は 、大 学 を 終 了 し て い な か っ た ・ ・ ・ 。私 に は 、何 の 学 歴 も な い ・ ・ ・ 。
ペトログラードでは、政府に教授・・・が入っている。君は大学の法学部で勉強してきた
・ ・ ・ 。 委 員 会 の 長 と し て は 、 我 々 の 「 大 衆 」( ユ ー ロ フ ス キ ー の 好 き な 言 葉 著 者 ) を
安心させるために、君のような人物が必要なのである。全体おいて、君の問題は解決され
た・・・。ペルミにおいて君は、全ウラルの指導者になることしかない。が、君に課題を
与えよう・・・。
あ ま り 学 の な い 人 で そ う で あ る が 、彼( ? ユ ー ロ フ ス キ ー * )は 議 論 が 好 き で あ っ た 。
そして、その後、課題に取りかかった。
「フィリップ同志(ゴロシェキン 著者)は、今、モスクワにいる。トボリスクにいる
ロマノフ家族の今後が、全露中央執行委員会の幹部会で決定されるであろう。提案するこ
とを決心している:トボリスクにおける、君主制主義者達の陰謀の存在を考慮して、ロマ
ノフ家族を、私達の所、エカテリンブルグへ移動させる。勿論、陰謀を証明する必要があ
る 。」
彼は少し黙り、そして、はっきりと付け加えた。
「*****。君は英語、ドイツ語ができる。それなので、彼ら(ニコライ夫婦 *)
が何を話しているか・・・、理解することができよう。そして、更に大事な仕事がある:
宝石。どれだけあるのか解明してくれ。全ては、働いている人民に戻さなければならない
も の で あ る 。」
ブレスト和平
トボリスクの話に戻ろう。家族の運命が決まるまでの間、雪で覆われた静寂な家の中で
は、以前通りの単調な生活が続いている。ただ、新聞を読むのが困難になってきていた。
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ニコライは、ロシア語の新聞と、外国の雑誌を手に入れている(ゴシップ記事の多いフ
ランスの新聞は、警備隊を夢中にさせていた。そのため、大部遅れてから皇帝の手元に届
い た 。)。 し か し 、 ニ コ ラ イ は 、 ち ょ う ど 良 い 時 期 に 、 新 聞 を 手 に 入 れ て い た 。 そ し て 、
注意深く出来事を調べだしていた。
このようにして、ニコライは、臨時会議の短い運命を知ることとなった。ボリシェビキ
政 府 は 、「 臨 時 労 農 政 府 」 と 呼 ば れ 、 国 会 - 臨 時 会 議 - の 召 集 ま で 、 統 治 す る 。 こ れ に つ
いて、ボリシェビキは、10月革命の時に、自身の命令で宣言をしていた。
1918年1月、この臨時会議-ロシアの国会で、初めての自由に選ばれた-が開会さ
れるはずであった。
しかし、ボリシェビキは、権力を手放すつもりはなかった。国会の開会について、ボリ
シェビキ政府は、会戦をする如く、準備をした。臨時軍事司令部を創設した。町は区域に
分割され、水兵と兵からなる巡視隊が通りを、管理した。臨時会議が開かれるはずであっ
た、タブリチェスキー宮殿には、ボリシェビキのウリツキイが警備司令官として任命され
た。臨時会議が開催された時、ホールには、ゼレズニャコフ弟を司令官とする戦艦「レス
プブリック」の水兵が配置された。彼らが、ロシア国会の歴史の停止という光栄を、担う
こととなった。臨時会議の初日の早朝、ゼレズニャコフ弟は、議長の所に立ち寄り、歴史
に 残 る 言 葉 を 語 っ た :「 警 備 兵 は 疲 れ て い る 。 私 達 は 、 こ れ 以 上 貴 方 方 を 警 備 で き な い 。
会 議 を 閉 会 せ よ 。」
レーニンは、追加的な「臨時政府」から、自分の政府を解放した。ボリシェビキ権力の
この力は、完全な無能力と、驚くほど一体化していた。ウリツキイが、臨時会議を放逐し
た時、彼は、大変な出来事を見て、身も心も凍った。というのは、街頭で(ボリシェビキ
の 水 兵 達 が パ ト ロ ー ル を し て い た 。)、 鬼 の よ う な 司 令 官 か ら 、 外 套 を あ っ さ り と 脱 が し
て盗んだもの達がいたからである。また、人民委員会議議長のレーニンは、自分によって
放逐された臨時会議を、誇らしげに見捨てた時、自分の外套のポケットが空で、拳銃が盗
まれていることに気がついた。そのことについて、盗まれたレーニンは、ウリツキイ司令
官に怒りを持って、話した。治安紊乱は、決して、1917年内には終わらなかった。1
918年3月に、レーンの政府は、ペトログラードからモスクワに移った。全ては継続し
ていた。1919年12月に、ソコリニキ(モスクワの1つの地区の名前 *)で、レー
ニンの妻が、夫のレーニンを待っていた。しかし、国の指導者のレーニンは、ソコリニキ
に、本当に苦労してたどり着いた。というのは、彼の乗っている車が、道路で、略奪者に
停車されたからであった。略奪者達は、レーニン、警備員、運転手から、武器や書類を奪
い 、更 に 、車 も 奪 い 取 っ た 。世 界 の 労 働 者 の ド ン が 、略 奪 者 に 言 っ た :「 私 は レ ー ニ ン だ 。
ほ ら こ れ が 私 の 書 類 だ 。」 意 外 な 返 答 が 帰 っ て き た :「 我 々 は 、 平 等 だ 、 お 前 は 誰 だ ! 」
以上の信じがたい恐怖の出来事や、動乱の時期における、これら強盗の小話などは、新
聞 や 手 紙 で 、 ニ コ ラ イ ま で 届 い て い た 。( 混 乱 や 無 秩 序 に も 関 わ ら ず 、 郵 便 は 機 能 し て い
た 。) し か し 、 長 年 、 国 会 と 争 っ て き た 者 ( = ニ コ ラ イ * ) に と っ て は 、 臨 時 会 議 ( =
国会 *)の放逐には、薄笑いを浮かべたであろうが、1918年の2月から3月におけ
る 、新 政 権 の 行 動 は 、前 最 高 司 令 官( = 皇 帝 = ニ コ ラ イ * )を 、本 当 に 、愕 然 と さ せ た 。
3月に、ドイツとの間に、ブレスト平和条約が締結された。ロシアは、戦争での敗北を
認めた。
この時、ニコライは2つの日付を日記に書く:2月1日から、国は「新しい暦」に移っ
た 。」( 2 月 1 日 を 、 2 月 1 3 日 に し た 。 暦 の 改 変 * ) ニ コ ラ イ は 、 皮 肉 た っ ぷ り に 、
書き残していた:
「暦を変え、外国と暦を合わせる指示を、手紙を得て知った。2月1日から・・・。誤
解 と 混 乱 で 終 わ ら な い こ と を ・ ・ ・ 。」
日記より:
「2月12(15)日、月曜日。今日、電報を受け取った。敵の軍隊が前進をし、我が
軍がそれを押しとどめられない、という理由で、ビリシェビキ、或いは、彼らは人民委員
会議と呼んでいるものが、ドイツ政府の出す屈辱的な条件の下で、平和条約を結んだ、と
い う こ と を 知 ら せ る 電 報 で あ っ た 。 何 と い う 悪 夢 だ ! ・ ・ ・ 。」
これは実際に、悪夢であって、幻覚であった!(? *)
プリバルチク、ポーランド、ベロルシアの一部分、カフカスの一部分、がロシアから無
くなる。父から受け継いだ帝国はもう存在していなかった。
ニコライは、占星術の記号の全性質を持った、典型的な子牛であった。動作が遅く、強
情で、内気で、口数が少なく、子供と家族に敬われていた。しかし、彼には子牛の2つの
性 質 は 、 取 り 上 げ ら れ て い た か も し れ な い : 力 と 怒 り を 爆 発 さ せ る 能 力 。「 い い か げ ん に
怒って下さい、陛下!」 彼の政府の一人が、哀願したが、無駄であった。
- 169 -
ニ コ ラ イ は 、 破 滅 を 運 命 づ け ら れ て 生 ま れ た 、「 子 牛 」 で あ っ た 。 沢 山 の 不 幸 を 背 負 っ
た聖ヨブであった。
ブレスト和平の情報を得て、ニコライは「子牛」としての激怒を感じた。
アリックスはニコライに相づちを打つ。友人(=アーニヤ *)へのアリックスの手紙
から:
「1918年3月3日。神よ、ロシアを救え給え・・・。屈辱と驚愕・・・。この事に
私 は 平 静 で は い ら れ ま せ ん 。 こ の 事 を 思 い 出 す 度 に 、 心 が 酷 く 痛 み ま す ・ ・ ・ 。」
レーニンは、大分前から、ブレスト和平を準備していた。ドイツとの和平は、古い軍隊
の解体に繋がるからであった。これは、権力を保持する条件の1つでもあった。それも容
易に、彼の党によって奇跡的もぎ取った権力を。ボリシェビキが、最初のロシアの国会を
放逐した時、レーニンは、予想していた-ブレスト和平を、臨時会議は決して受け入れな
いことを。
党員の多くは、この和平を、屈辱的であると見なしていた。ボリシェビキの2番目の指
導者であるトロッキーは、レーニンに反対であった。しかし、ボリシェビニキの緊急会議
で、レーニンは、反対派を打ち負かした。延々と続く、酷く疲れる討議と、評決で、レー
ニンは勝った! レーニンと一緒に、支持者であり、信頼できる実行者であった、レーニ
ン の 影 で あ っ た ス ベ ル ド ロ フ も ! ( ス ベ ル ド ロ フ が 亡 く な っ た 時 ( 1 9 1 9 年 * )、
レ ー ニ ン は 、「 新 し い ス ベ ル ド ロ フ 」 を 探 す こ と に 熱 中 す る 。 自 分 の 考 え を 、 文 句 を 言 わ
ずに実行してくれる人物を。そして見つける:スターリン。スターリンは、レーニンの新
しい影となった。しかし、今回はうまくは行かなかった:影が、自立して、最後には、主
人 を 打 ち 負 か し て し ま っ た 。)
しかし、ブレスト和平の話に戻ろう。そのようなわけで、和平は調印された。前皇帝に
は、今では、考えるための時間はいくらでもある。
彼は、神から宗教に帰依していた人間であったので、ニコライは直ぐに冷静となる。
彼は信じる:時が経過し、革命が、そして全ての惨事が、忘れられた時、歴史の展望が
開 か れ る 。歴 史 を 創 造 す る 神 の 考 え が ・ ・ ・ 。そ れ で 、ニ コ ラ イ が 、何 故 、熱 中 し て 、「 以
前 に は 知 ら な か っ た 」、「 戦 争 と 平 和 」 の 第 4 巻 を 、 読 む こ と に な る 。・ ・ ・ 。「 マ リ ア と
私 は 、 戦 争 と 平 和 に 読 み 耽 っ た 。」 ( 1 9 1 8 年 5 月 8 日 、 9 日 の 日 記 よ り )
皇帝とは、奴隷のような者である・・・。歴史の奴隷、神がそれを創造する。
しかし、アリックスは、怒りと当惑の中にいた:同盟国は? 彼らは、これを我慢して
いるのか? いや-いや、アリックスは感じている:何かが起こる。多分、この酷い和平
は、彼らの運命を変えることになるか?
アリックスは正しかった。すなわち、この時、モスクワで、彼らの運命が決められた。
古い友人同志の協定
1月、モスクワでの第7回大会で、ブレスト和平が協議された。この大会に、ウラル・
ソビエト代表のフィリップ・ゴロシェキンが出席する。
レーニンと一緒に、ゴロシェキンは、ブレスト和平に賛成をする。トロッキーに反対を
す る 、わ か っ て い な い も の に 反 対 を す る : 息 継 ぎ が 必 要 で あ っ た 。ど う で も 良 い 、そ の 後 、
我々は全てに反対をする。既に、原則は形成されていた:和平の妥結後に、その和平を、
そのうちのどのようにして破棄するかを、直ちに考え始める。政治とは、革命の名の下で
は、救いをもたらす嘘以外の何者でもなかった。
レーニン派の勝利の後に、ゴロシェキンは、ブレスト和平のもう1人の支持者である人
間と話し合いを持った。旧友であり、全露中央執行委員会議長であるスベルドロフと。こ
の話し合いは、ウラル出身者達が懸念をしていた、あの件に違いがなかった:皇帝家族の
エカテリンブルグへの移送について。
ゴロシェキンは、レーニンの路線、ブレスト和平を、支持したことに対する、見返りの
権 利 を 有 し て い る 。そ し て 、ゴ ロ シ ェ キ ン は 、友 人 で あ り 、旧 友 で も あ る ス ベ ル ド ロ フ に 、
支持を要請する。
スベルドロフはというと? スベルドロフは、きっと、状況を、彼(?ゴロシェキン
*)に説明をした。モスクワで決定がなされた:全能のトロッキーが、首都に、ニコライ
・ロマノソフの裁判を開く。そして、スベルドロフは、全露中央執行委員会議長として、
皇 帝 家 族 を モ ス ク ワ に 移 送 す る 全 て を 、 行 う こ と に な る 。(「 永 遠 の 扇 動 者 ト ロ ッ キ ー 」
は、この裁判を、自分の記念興業に転化するのを熱望している。しかし、トロッキーの記
念興業は、彼、全露中央執行委員会議長のスベルドロフにとって必要であったのか? そ
の 通 り 、昨 日 ま で の 同 志 の 間 に 、既 に 闘 争 が 始 ま っ て い た 。以 前 は 、党 内 の 分 派 の 形 成 は 、
思 想 で の 戦 い の 意 味 し て い た が 、 今 で は 、 権 力 で の 戦 い と な っ て い た 。)
ス ベ ル ド ロ フ と ゴ ロ シ ェ キ ン は 、以 心 伝 心 で お 互 い を 理 解 し て い た 。こ の よ う な わ け で 、
- 170 -
スベルドロフは、中央の路線をとることになる。が、ウラルが、あまりにも強行なので、
全露中央委員会は譲歩することになる。
スベルドロフの約束を得て、ゴロシェキンは、全露中央委員会幹部会に、トボリスクに
おける皇帝家族の無監視状態と、君主制主義者達の陰謀の危険性、について報告書を出し
た。ゴロシェキンは、皇帝家族を赤色ウラルの首都、エカテリンブルグに厳しい監視の下
で、移送することを提案した。
エ カ テ リ ン ブ ル グ に 戻 っ て 、ゴ ロ シ ェ キ ン は 、猛 烈 な 活 動 を 始 め る 。そ し て 、「 ス パ イ 」
と関係しているようにも見えた。
「 ス パ イ 」・ ・ ・ 。 私 が 、 自 由 の 家 で の 、 マ ト ベ ー フ を 説 明 し た 時 、 こ の 単 語 を 用 い て
い る 。皇 帝 家 族 が 、酷 く 窮 乏 し 始 め て い る 、こ と を 、「 ス パ イ 」は 知 る 。ソ ロ ビ エ フ は「 陰
謀」で、大金を手に入れた。そして、皇帝家族には、金が全く足りない。新政府は、皇帝
家族には、原則的に、金を与えない。コビリンスキー、タチシェフ、ドルゴルコフ、は、
トボリスクの商人達を回って、借金をして金を集める。最初は、商人達は喜んで金を貸し
てくれた:新権力は持ちこたえない、ことを期待していたからである。しかし、今では、
彼らは全く金を出さなくなる。
家では、大量の食事が提供され続ける。皇后の唯一の散歩は、アヒルとかもが、歩き回
っている家政用の小屋へ行くことであった。そこで、彼女は、料理人のハリトンと一緒に
う ま い 食 事 を し て い る 。食 事 は 、幽 閉 中 に お い て は 、娯 楽 で あ っ た 。皇 后 は 、よ く 食 べ る 。
残飯の臭いは、小屋中にを満たす。
しかし、今では、小屋はほとんど空っぽである。金がなくなった。マトベーフが驚いた
ことには、モスクワ政府は、皇帝家族に、兵士の配給食をあてがった。ニコライ・ロマノ
フは、兵士用食料配給切符を手にしたのであった
新しい貧しい食事は、まず、従僕達に降りかかった。従僕達は抗議をし始める:俸給は
ない。
日記より:
「 2 月 1 4 日 ( 2 7 日 )。 食 費 と 召 使 い の 数 が 、 極 め て 削 減 さ れ た 。・ ・ ・ 。 最 近 は 、
最小のお金を割り出しながら、私達は、やっとこことでやりくりをしている。
2 月 1 5 日 ( 2 0 日 )。 こ の よ う な こ と で は 、 従 僕 の 大 半 に 暇 を 出 す こ と に な ろ う 。 ト
ボリスクにいる従僕全員をの面倒が見れなくなってきたからである。これは、非常に残念
な こ と で は あ る が 。 し か し 避 け ら れ な い ・ ・ ・ 。」
こ の よ う な 日 々 に 、 自 由 の 家 に 、「 ス パ イ 」 が い た 。 勿 論 、 マ ト ベ ー フ は 、 皇 帝 家 族 を
助け、大工に家の修理もさせていた。
その夜、彼らは、初めて、倉庫を調べた。マトベーフは、大きな鍵の束を引き出した。
彼らは、無数の長持ちやトランクを開け始めた。***********。乗馬用の鞭が
一杯入ったトランクがあった。極小さな子供用長靴の入った長持ちがあった。明らかアレ
クセイ用。アレクセイが子供の時のものであろう。沢山のブラウス、下着・・・。金色で
文字が象嵌された、栗色の革製のトランクがあった。中は、書類・・・で一杯であった。
し っ か り し た 書 体 で 書 か れ て い る 黒 い ノ ー ト も 入 っ て い た 。 皇 帝 の 日 記 で あ っ た 。「 ス パ
イ 」は 感 じ た 。こ の 栗 色 の ト ラ ン ク は 、将 来 、ど れ 程 大 事 な も の に な る の で あ ろ う か 。と 。
そしてその後、去って行く「人々」に敬意を表して、ダンスパーティが行われた。酔っ
た従僕達は、一晩中、騒ぎ立てた。家族は自分の部屋に閉じこもった。
「時折、更に耐える力はない、と思う。」
日記より:
「 3 月 2 日 ( 1 5 日 )。 プ ス コ フ で 、 列 車 中 で の 、 去 年 の こ の 日 の こ と が 思 い 出 さ れ る
( 退 位 宣 言 書 著 者 )。 内 外 の 敵 に よ り 、 我 が 不 幸 な ロ シ ア は 、 ど れ だ け の 間 、 苦 し み 抜
か な け れ ば な ら な い の か ? * * * * * * * * * * * 。」
「 3 月 9 日 ( 2 2 日 )。 今 日 で 、 ア レ ク サ ン ド ロ フ ス キ ー 宮 殿 に 、 家 族 と 一 緒 に 幽 閉 さ
れ、ちょうど1年となる。我知らず、この大変な年が思い出される。これより先に何が私
達 を 待 っ て い る と い う の か ? * * * * 。 私 達 は 神 に 期 待 を か け る 。」
警 備 は 目 に 見 え て 変 化 し た 。マ ト ベ ー フ の 全 露 執 行 委 員 会 へ の 出 向 の 後 、
「良い兵隊達」
の大半を、ポストから外した。
「 1 月 3 0 日 。朝 の 散 歩 の 時 、故 郷 に 去 る 好 意 を 持 っ て く れ て い た 兵 隊 達 と 別 れ を し た 。
彼らは本当に渋々と、この冬の最中に去って行く。先が見えるまで、喜んで残ってくれた
で あ ろ う に ・ ・ ・ 。」
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マトベーフの追想記から:
「不穏分子が、白昼堂々と、右派の「猛者」に、賄賂を渡していた。何処なりと好きの
所 へ 立 ち 去 る よ う に 勧 め て い た 。・ ・ ・ 。」
「スパイ」の出現により、仕事は早くなった。コビリンスキーは、残った兵達と一緒に
仕 事 を や っ て の け た 。 そ し て 、 皇 帝 に 立 ち 去 る よ う に 要 請 し た :「 私 は 、 こ れ 以 上 、 貴 方
の 役 に は 立 て ま せ ん 。」 し か し 、 ニ コ ラ イ は 、 残 る こ と を 彼 に 頼 み 込 ん だ :「 私 達 は 我
慢 す る 。 そ し て 、 あ な た た ち も 、 暫 く 我 慢 を す る 。」
直 に 、「 ス パ イ 」 は 、 赤 色 ウ ラ ル の 首 都 へ 、 連 絡 を し た :「 警 備 の 雰 囲 気 が 変 わ っ た 。
今だ!」
関係者:ルハノフとアブデフ
セルゲイ・ルハノフは、有名なズロカゾフスキー金属工場(経営者の名前、ズロカゾフ
スキー兄弟による)で、機械工として働いていた。彼は、みすぼらしく、ニキビ面の、背
の 低 い 中 年 の 人 物 。彼 は 、全 て で 熟 練 し た 労 働 者 で あ り 、学 歴 の あ る 女 性 を 妻 と し て い た 。
彼女の名前はエキゾチックなアブグスタといい、教師であった。革命の前に、アブグスタ
の弟、アレクサンドル・アブデフが、工場にやってきた。ルハノフは、彼を自分の助手と
して、彼のために全ての仕事をこなした。というのは、アブレフは、ここの工場に働きに
来たのではなかった。彼は職業革命家であった。工場では、ビリシェビキの宣伝に従事し
ていた。そして、成果を上げていた。アブデフは、直に、ズロカゾフスキーの労働者達の
指導者となった。10月革命後、ただちに、彼の指導の下、労働者達は工場を占拠する。
ルハノフの昨日までの助手が、工場のコミッサールとなる。彼は地下に、前経営者を引き
ずり込んだ。牢獄に入れた、と話していた。が、それ以降、経営者の姿を誰も見ることは
な か っ た 。 ア ブ デ フ は ま じ め な 人 間 で あ っ た 。「 銃 殺 し 、 根 絶 す る 。」 1 9 1 8 年 に は
ありふれた言葉であった・・・。工場に、アブデフは、自分の武装部隊を創設した。
2 月 末 に 、ア ブ デ フ は 、「 ア メ リ カ ・ ホ テ ル 」に お か れ て い る 、チ ェ ー カ ー に 呼 ば れ た 。
チェーカーの指導者の1人である、パシャ・ホフリャコフが、アブデフを待っていた:こ
のバルチック水兵は、亜麻色の巻き毛で、赤ら顔の美男子であった。力が漲っていた、革
命の怒りという力が。
ここ、チェーカーで、ゴロシェキンが考えた計画が審議された:ズロカゾフスキーの労
働者と一緒に、ホフリャコフとアブデフは、秘密裏に、トボリスクに入り込む。古い権力
を打ち倒し、新しいボリシェビキ権力を設立する。その後、自由の家と連絡を取り、警備
隊の意向を考慮して、皇帝家族を、赤色ウラルの首都エカテリンブルグに移送する。
彼らは、小さいグループとして、夜に町(=トボリスク *)に入り込んだ。この後の
こ と に つ い て は 、 ア ブ デ フ 自 身 が 書 き 残 し て い る 。「 初 め て 、 斥 候 が 町 に 潜 入 し た 。 パ シ
ャ・ハフリャコフとターニャ・ナウモバである。彼らは、恋人を装った。この行動に、2
人がどれだけの幸せを感じたかは、想像することができる。2人はその後、結婚をした。
しかし、彼らの幸福は長くはなかった。情熱的なパシャ・ホフリャコフは、国内戦で亡く
なる。
その後、トボリスクに、16人からなるアブデフのグループが、入り込む。彼らは、町
を千人のボリシェビキが取り囲んでいる、という噂を広めることに成功した。吃驚したト
ボリスクの住民は、千人を数千人にして、噂を広めた。
しかし、アブデフのグループは遅れていた。
この騒動に、更に別の主張者が現れた。皇帝家族の牢番の名目で:西シベリアの革命都
市、オムスク。このオムスクの部隊も、皇帝家族と、皇帝の財産を目的に、トボリスクに
来ていた。
日記より:
「 3 月 1 4 日 ( 2 7 日 )・ ・ ・ 。 赤 衛 部 隊 、 今 で は 全 て の 武 装 部 隊 を そ う 呼 ん で い る よ
うであるが、の到着は、いろんな噂と恐怖・・・を引き起こした。司令官と、現警護部隊
は、混乱している。見張りは強化され、機関銃が夕方に運び込まれる。最近、*****
が 良 く な っ た 。」
夜、オムスク部隊は、自由の家に、部隊を入れさせるよう、力ずくで現警備隊に要求す
る。家は包囲された。しかし、コビリンスキーと警備隊は、機関銃を配置した。自由の家
は、現警護隊に、残された。
ゴロシェキンは、エカテリング部隊の援助に、更にもう1部隊を直ちに派遣した。しか
し、オムスク部隊は強かった。
日記より:
- 172 -
「3月22日(ニコライは再び旧暦をに戻った。これより、日記の最後まで、ニコライ
は 古 い 形 式 - 彼 の 世 界 の 形 式 - を 、 良 し と し た 。 著 者 )・ ・ ・ 。 朝 、 悪 党 の ボ リ シ ェ ビ
キ が 、 ト ボ リ ス ク か ら 出 て 行 く の を 、 庭 越 し に 聞 い た 。・ ・ ・ 。 口 笛 と 鬨 の 声 を 出 し な が
ら 、 鈴 を つ け た 1 5 台 の 馬 車 で 。 オ ム ス ク 部 隊 が 、 彼 ら を こ こ か ら 追 い 出 し た 。」
エカテリンブルグには、新しい状況が生まれる。町には、3番目の武装部隊が入ってき
た。ザスラフスキーのエカテリンブルグ部隊である。同時に、エカテリンブルグ部隊は、
ソビエトの権力を握る。ホフリャコフ-ソビエト議長、アブデフとザスラフスキー-最も
影 響 力 の あ る 彼 の メ ン バ ー 。( ? * ) エ カ テ リ ン グ ブ ル グ 市 民 か ら な る ソ ビ エ ト は 、 ト
ボリスクを統制し始める。しかし、彼らの思惑通りには行かなかった:彼らが町の権力で
あるにも関わらず、マトベーフの全努力にも関わらず、彼ら(? *)もまた、自由の家
に 入 れ な か っ た ( ? 誰 が * )。
コビリンスキーは、ソビエトに申し出た:我々は中央の指令により、ここへ派遣されて
来た。そして、中央に、皇帝家族を移送する。
そして、自由の家の周りで、電報の送受信が慌ただしく行われ始める:オムスク隊が、
「旧警護隊」に替わることを、許可するように、オムスク・ソビエトは、モスクワに、要
求電報を送る。トボリスク・ソビエトは、旧警護隊を、エカテリングブルグ・赤衛隊に替
えることを、モスクワに要求する。
同 時 に 、 ゴ ロ シ ェ キ ン は 、 モ ス ク ワ に 、「 ス パ イ 」 か ら 得 た 、 君 主 制 主 義 者 ソ ロ ビ エ フ
の 陰 謀 と 、 皇 帝 家 族 逃 亡 の 準 備 に つ い て の 、「 十 分 な 証 拠 」 を 送 っ た 。「 川 の 氷 が 溶 け る
如 く 。」 逃 亡 に 使 用 す る 船 「 マ リ ア 」 ま で 指 摘 を し て い る 。 し か し 、 モ ス ク ワ は 、 何 故
か沈黙している。
トボリスクでは、赤衛部隊が待機している-自由の家に近づくことができない。警護隊
は優秀な武器を持っており、さらに、兵は皇帝軍としての教練を受けている、ことを恐れ
ている。お互いに恐れている。
遂 に 、 モ ス ク ワ は 口 を 差 し 入 れ る こ と に 決 め た 。・ ・ ・ 。
- 173 -
第11章「秘密の任務」
この謎の多い歴史は、1918年4月始めに始まる。
新 聞 に 、「 血 の ニ コ ラ イ に 関 す る 、 モ ス ク ワ で の 来 る べ き 裁 判 に つ い て 」 の 記 事 が 掲 載
される。
4 月 1 日 、 全 露 執 行 委 員 会 は 、 秘 密 の 決 議 を 採 択 し た :「 2 0 0 人 の 部 隊 の 編 成 と 、 警
護の強化のための、トボリスクへの派兵。逮捕者達をモスクワに移送する可能性につい
て 。」 決 議 は 印 刷 さ れ な い こ と に な っ て い た 。 し か し 、 こ の 「 公 開 さ れ る べ き で は な い
決 議 」 は 、 ウ ラ ル の 人 に は 周 知 と な る 。( ス ベ ル ド ロ フ ? 勿 論 、 ス ベ ル ド ロ フ ! ) エ
カテリンブルグでは、憤激の嵐が!
そ の 結 果 、 ス ベ ル ド ロ フ に 「 譲 歩 す る 」。: 全 露 執 行 委 員 会 は 、「 前 回 の 決 定 へ の 付 則 :
1 .皇 帝 家 族 は 、ウ ラ ル へ 移 送 す る 。2 .こ の た め 、ト ボ リ ス ク へ 、増 援 部 隊 を 派 遣 す る 。」、
を採択する。
これら全てに関して、4月9日、スベルドロフは、公式の手紙を、エカテリンブルグへ
送る。
しかし、何故、モスクワで皇帝を裁判にかけようとしている全能の支持者達(トロッキ
ーその他 *)は、この付則に同意したのであろうか? 明らかに、スベルドロフは、血
気盛んなウラルの革命者達を鎮め、エカテリンブルグでの、皇帝家族の勝手な拘束を避け
るためである、と彼らに説明をし、彼らを説得した。
実 質 的 に 、 ト ボ リ ス ク に 派 遣 さ れ た 増 援 部 隊 は 、「 秘 密 の 使 命 - 皇 帝 と 家 族 の モ ス ク ワ
への移送-」を持っていた。
採択された付則は、皇帝家族を自身に要求する正当な権利を、エカテリンブルグの革命
家達に、今後は委任する。ということを、機略に富んでいるヤコブレフは、説明をしなか
った。
スベルドロフの2重の工作が始まった。この工作が、その後の研究者全員を、どれ程、
混乱させたことか。
秘密の指令の長に、ワシリイ・ヤコブレフを任命した。
コミッサール・ヤコブレフ・・・。ヤコブレフは、毛皮帽をかぶり、毛皮の長外套の広
げ た 裾 か ら 、 水 兵 服 が 見 え て い た 。・ ・ ・ 。 顔 は 、 イ ン テ リ 風 。・ ・ ・ 。 ボ ト キ ン 医 師 の
娘は、そのようにヤコブレフを記述していた。
何という経歴か!
ワシリイ・ヤコブレフ。これは、偽のパスポートに使われた多くの偽名の中の1つであ
る。本当の名前は、コンスタンチン・ミャチン。ウファに、1886年に生まれた。鉄道
修理工場で、組み立て工として、温和しく、平穏に、働いた。第一次ロシア革命は、彼に
は全く関係がなかった。19歳の組み立て工ミャチンは、戦闘部隊の一員となる。簡単に
言えば、テロリストに・・・。ボリシェビキ党首レーニンは、極めて鮮やかに、これら戦
闘 部 隊 の 当 時 の 問 題 を 見 極 め て い た :「 戦 闘 部 隊 を 設 立 せ よ 。 学 生 の 所 、 労 働 者 の 所 で 。
至る所で。可能な限り武装せよ。銃を持ち、ナイフを持ち、放火のための石油塗れの布き
れ を 持 ち 。・ ・ ・ 。 戦 闘 部 隊 は 、 直 ち に 訓 練 を 開 始 し な け れ ば な ら な い 。 あ る 部 隊 は 、 ス
パイ狩りに着手し、他の部隊は、蜂起用資金の没収のために、銀行を襲撃しよう。各部隊
は 官 憲 を や つ け る 訓 練 を し よ う 。・ ・ ・ 。」
そして、彼らは訓練をした。流れる血の中で、無慈悲で、凶暴な部隊は形成されていっ
た 。 銀 行 へ の 襲 撃 、 爆 弾 の 爆 発 、 官 憲 の 殺 害 、・ ・ ・ 。 ミ ャ チ ン は 、 誇 り 高 く 書 い た 。「 私
の 最 初 の 出 番 か ら 始 ま っ て 、 弾 丸 と 、 * * * * 綱 は 、 私 の 直 ぐ 後 に 続 い た 。」
しかし、党の兵の状況は、極めて曖昧なものとなった。1907年に、ボリシェビキの
大 会 で 、 テ ロ ル が 審 議 さ れ 、 徴 発 が 禁 止 さ れ た 。 し か し 秘 密 の こ と が 公 然 と な る の は 、、
ボリシェビキの歴史においては、希ではなかった。ロシアにおける第一革命は、失敗に終
わった。ボリシェビキは、熱病に罹ったようになって、国外で生きる手段、ロシア国内で
秘密のアジトを作る手段、を探した。対外的には、テロリズムを禁止しておきながら、ボ
リシェビキは、秘密裏にテロリズムを奨励した。
即ち、その当時、チフリス(ロシアの都市の1つ *)で、ヨシフ・スターリンは、郵
便局を襲撃をし、総額百万ドル以上の金を奪った。即ち、1907年当時、ミャチンは、
ウファ(ロシアの都市の1つ *)の軍事組織の司令官となっている。そして、じきに、
ミアス駅で、郵便列車が襲われた:ミャチン指揮下の兵達が、30kg余りの金を強奪し
た。犯人達の追跡が行われ、逮捕が行われた。ミャチンは、サマラ(ロシアの都市の1つ
*)に隠れた。官憲は、そこで足がかりを見つけたが、ミャチンは、銃撃をしながら、
逃げおおせた。
若い時からの、秘密活動が、この人間、ミャチンの性格を形成した。
- 174 -
ミャチンは、ワシリイ・ヤコブレフ名のパスポートを使用して、非合法に、外国と行き
来をする。イタリアのボロニヤへ、そして、カプリでは、彼は、マルクス主義学校を設立
し て い る 。( こ れ に は 、 皇 帝 の 金 が 使 わ れ た ! ( ? * )) ヤ コ ブ レ フ と 、 彼 の 同 志 達 は 、
国会での、権力に対する戦い方をわかっていない。彼らの学校では、地下活動-秘密裏に
行う、暗殺を行う-を教えている。この期間、彼は一度ならず、非合法に、ロシアの国境
を通過した。1911年、キエフの秘密アジトで、ヤコブレフは、出納官庁を襲う準備を
し て い た 。 し か し 、 警 察 が 手 が か り を つ か ん だ 。・ ・ ・ 。 ヤ コ ブ レ フ は 辛 く も 町 か ら 逃 走
することができた。ヤコブレフは、キエフから逃亡した。この時、キエフには、皇帝ニコ
ラ イ 二 世 が 、 盛 大 に や っ て 来 て い た 。( す な わ ち 、 そ の 時 、 皇 帝 の 目 の 前 で 、 ス ト ル イ ピ
ン が 殺 さ れ た 。)
そして、再び、非合法に、国境を越えた:ヤコブレフは、ベルリンに現れた。爆弾テロ
リストで収奪者は、ブリュッセルの「全電気会社」で、地味な電気設備工となる。
2 月 革 命 後 、ヤ コ ブ レ フ は 遅 れ る こ と な く ロ シ ア へ 帰 還 す る 。1 9 1 7 年 1 0 月 、彼 は 、
ボ リ シ ェ ビ ニ キ に よ る 権 力 奪 取 が 準 備 さ れ て い る 、ペ テ ロ グ ラ ー ド に い た 。町 に 、武 器 が 、
秘密に運び込まれる。ボリシェビキの蜂起の日、ヤコブレフは、水兵部隊と共に、大砲に
馬 乗 り に な っ て 、 ペ テ ロ グ ラ ー ド を 、 電 話 局 を 占 領 し に 進 ん で い く 。・ ・ ・ 。 冬 宮 に 集 ま
っていた臨時政府は、世界から断絶された。
ボリシェビキの勝利後、ヤコブレフは、ペテログラードの電報電話局のコミッサールと
なる。チェーカーが創設された、1918年には、ヤコブレフは、ボリシェビキ政府が、
「革命報復の剣」設立を委ねた5人の内の1人となる。1918年を通じて、ヤコブレフ
の名は、多くの政治事件の中に、見え隠れしている。
臨時国会が、ボリシェビキによって、追い散らされた夜、レーニンの指命を受けてヤコ
ブレフは、離れ業を繰り返す:タブリツスキー宮殿への電話を切断する。飢えたペテログ
ラ ー ド 市 民 に 、4 0 台 に 自 動 車 で パ ン を 届 け た 。こ の た め に 、果 て し な い 銃 撃 が 交 わ さ れ 、
多くの血が・・・。更に彼の成功した輸送:2500万ルーブルの金貨を、包囲されてい
るペトログラードから、ウフィムスキー銀行へ運んだ。そして、再び強奪、銃撃・・・。
1918年春早々に、このような人物が、スベルドロフの部屋に、出入りしていた。
ともかく、スベルドロフは、ヤコブレフを、トボリスクに派遣することを提案する。ロ
マノフ一家を移送するために。ヤコブレフをよく知っていたトロッキーは、ヤコブレフを
候補にすることに賛成をした:ヤコブレフは一度ならず、最も危ない仕事をうまくやって
のけていた。
しかし、ヤコブレフの経歴に、ウラルで長い間働いていたスベルドロフだけが知ってい
た 、あ る 問 題 が あ っ た : ウ フ ァ 出 身 の ヤ コ ブ レ フ と 、エ カ テ リ ン ブ ル グ の 武 装 勢 力 の 間 に 、
ある仲違いがあった。そのようなわけで、モスクワが、1918年に、ヤコブレフを全ウ
ラルの軍事コミッサールに指名した時、エカテリンブルグでは、ヤコブレフを、断固とし
て拒否した。彼らは、他の人物を指名するように要求した。それで、ウラル・ボリシェビ
キの長フィリップ・ゴロシェキンが軍事コミッサールとなった。ヤコブレフの委任状は、
取り消された。ヤコブレフトウラル出身者の間の相互の敵愾心は、新たな糧を得ることと
なった。
多分、そのために、全露執行委員会のずる賢い長は、ヤコブレフを、秘密の新しい任務
の長に就かせた。
スベルドロフは、コミッサール・ヤコブレフに、自分とレーニンの署名がなされた、全
露執行委員会の全権代表の委任状を、与えた。全ては、全権代表の使命に協力をしなけれ
ばならない。不服従には銃殺。しかし、全能の委任状中には、使命の内容について、何も
記されていなかった。
スベルドロフは、ヤコブレフに、口頭で課題を説明した:皇帝家族を、モスクワに移行
しなければならない。
スベルドロフは、ヤコブレフに、ヤコブレフの行動計画を尋ねる。ヤコブレフは、当時
の混乱している最中における、計画を示す:誰にも何も説明しないで、彼が皇帝家族をト
ボ リ ス ク か ら 連 れ 出 す ( こ れ は 政 府 の 秘 密 の 仕 事 で あ る こ と を 引 き 合 い に 出 し な が ら )。
氷結したトボル川を経由して、チュメニまで到達する。チュメニは鉄道がとっている。汽
車に乗り、エカテリンブルグへ向かう。ウラル側の敵対行動を引き起こさないようにする
ために。しかし、チュメニから先へ行くことができなくなり、ヤコブレフは、オムスク、
東の方へ、戻ることになる。エカテリンブルグと、今は敵対関係にあるオムスクを経由し
て、彼は、皇帝家族を連れて、モスクワへと向かう。状況が許されなければ、ヤコブレフ
は、皇帝家族を、自分の故郷のウファへ連行する。そこには、ヤコブレフを信頼している
人達がいる。そこからならば、容易に皇帝家族を、モスクワに連れて行ける。そうする必
- 175 -
要 が あ れ ば だ が 、・ ・ ・ 。
スベルドロフは、万が一のために、3番目の方法を考えている:全てがうまく行かない
場 合 に は 、ヤ コ ブ レ フ は 、皇 帝 家 族 を エ カ テ リ ン ブ ル グ に 移 送 す る 。し か し 、元 の 戦 友( ?
=ヤコブレフ *)は、自分(?=スベルドロフ *)を信じている:どのような危険な
場合でも、彼(?=ヤコブレフ *)は打ち勝ってきた。今回も彼は勝つ:皇帝家族は、
モスクワに来る。
ヤコブレフの部隊には、2人の電信兵が割り当てられている。ヤコブレフは、モスクワ
とスベルドロフと常に連絡を取らなければならなかった。電報には、約束語が使われてい
る :「 荷 物 」、「 ト ラ ン ク 」、 こ れ ら は 皇 帝 家 族 を 意 味 し て い た 。「 古 い 経 路 」 は モ ス ク ワ へ
の 道 程 、「 新 し い 経 路 」 は ウ フ ァ へ の 道 程 、 そ し て 最 後 に 、「 最 初 の 経 路 」 は エ カ テ リ ン
ブルグへの道程。
課題を抱えて、ヤコブレフは、部隊を集めるために、ウファに向かった。ウファは、彼
の生まれ故郷である。ここには古い友人がいる。地区のチェーカーは、信頼できる人を集
めて、彼のために部隊を組織する。大半は、ミアス(?土地名 前に駅名はあった *)
で 、 金 の 強 奪 に 参 加 し た 戦 友 達 で あ っ た 。「 ミ ア ス 強 盗 団 」 と 、 ヤ コ ブ レ フ は 、 愛 情 を 込
めて、部隊をそう呼んだ。
ウファへ、ヤコブレフは、エカテリンブルグのボリシェビキの指導者で、軍事コミッサ
ールであるゴロシェキンを呼び出す。
委任状を示しながら、ヤコブレフは、ゴロシェキンに、トボリスクにいる全てのエカテ
リング部隊を、自分の指揮下におくべき指令書を要求する:トボリスク・ソビエトの指導
者達-パーベル・ホフリャコフ、アブデフ、その他、を。ゴロシェキンには、そのような
指令書を、ヤコブレフに与えるつもりはあった。が、その前に、ゴロシェキンは、ヤコブ
レフに、ヤコブレフの行動の目的を明らかにすることを要求する-全露執行委員会は、皇
帝家族を、エカテリンブルグに移送することを約束していた。ヤコブレフは説明をする:
皇帝家族は、エカテリンブルグに連れて行かれる。と。全露執行委員会はそのように約束
をした。しかし、これについては、誰も知っているはずはなかった。特に、トボリスクで
は。何故、そのような秘密が? これについては、ヤコブレフには、十分信頼できる弁明
がある:さもないと、トボリスクにいるオムスク部隊が、反抗をし始め、革命軍同士の衝
突となる可能性がある。これ以外に、旧警護隊の兵士達が、反抗するかもしれない。彼ら
には、トボリスク・ソビエトから来た、エカテリンブルグ・ボリシェビキに対して、昔か
らの敵意がある。ヤコブレフが、エカテリング部隊の絶対服従について、ゴロシェキンの
命令を要請したのは、以上の事情からである。
ゴロシェキンは、ヤコブレフに、そのような書類の命令書を与える。
これは全て軍事行動であった。勿論、スベルドロフの旧友であるゴロシェキンは、ヤコ
ブレフの秘密指令の真の目的についての情報は十分にあった。彼は(=ヤコブレフ *)
は、任務の、十分な準備をした。
ヤ コ ブ レ フ が 、 自 分 の 部 隊 と 一 緒 に 、 ト ボ リ ス ク に 向 か っ て い る 時 、「 ス パ イ 」 は 、 何
をしているのか?
3月中旬、ホフリャコフとアブデーフが、自分たちの部隊と一緒に、町に進入した後、
彼(=スパイ *)は、ペルミに戻っている。とにかく、1918年3月15日、フェド
ル ・ ル コ ヤ ノ フ は 、ペ ル ミ ・ チ ェ ー カ ー の 指 導 者 に 任 命 さ れ る 。し か し 、4 月 末 に 、彼 は 、
再 び 、 町 か ら 消 え る - 「 富 農 の 暴 動 の 鎮 圧 へ 」。 そ し て 、 彼 は 、 自 由 の 家 に 戻 っ て く る 。
と い う の は 、ゴ ロ シ ェ キ ン が 、最 終 の 時 が 近 づ い て き て い る 、と 言 明 し て い る か ら で あ る 。
・・・。
自由の家では、日常生活が続いていた。
日記より:
「4月7日、土曜日・・・。9時に、夕べの祈りがあった。素晴らしい低音が鳴り響い
た 。」
いつも通り、土曜日には、夕べの祈りがあった。大きいホールには、電灯がぼんやりと
光っている。薄暗い中で、キリストのイコンが光っている。
アリックスは人気のないホールに入ってきて、自分で作った刺繍で、経机を覆った。そ
し て 、立 ち 去 っ た 。8 時 に 、ホ ー ル に 、修 道 院 か ら の 、司 祭 と 4 人 の 修 道 士 が 入 っ て 来 た 。
蝋 燭 に 、 火 を 灯 し た 。・ ・ ・ 。 ド ル ゴ ル コ フ 、 タ チ シ ェ フ 、 ボ ト キ ン が 経 机 か ら 左 側 に 整
列した。その後、宮廷の元女官達が現れた。
最 後 に 、壁 に あ る 極 小 さ な ド ア が 開 け ら れ た : 家 族 が 入 っ て い っ た 。
「素晴らしい低音」
- 176 -
合 唱 の 声 が 響 き 始 め た :「 至 高 の 神 に 栄 誉 あ れ 」。 家 族 は 膝 立 ち を し て 、 頭 を 垂 れ た 。
このようにして、彼らの婚約の20周年記念日、4月8日の大好きな日をの到来を迎え
た 。こ の 日 の 夜 、い つ も の よ う に 、彼 ら は 、思 い を は せ た 。兄 弟 の エ ル ニ 、ウ イ ル ヘ ル ム 、
ジ ョ ー ジ 、 エ ラ 、・ ・ ・ 。 彼 ら は 今 ど こ に ? 祖 母 の ビ ク ト リ ア 女 王 は 、 亡 く な っ て 久 し
い・・・。*******。コブルグスク宮殿で接吻をした。彼らは若く、本当に幸せで
あった。より正しくは、幸せすぎて、宙に舞っていた。鷹のように、空高く飛び上がるよ
う で あ っ た か ら 。・ ・ ・ 。
4月の8日である:この素晴らしい日に、ニコライは知ることとなった:ニコライに肩
章 を 着 け る こ と が 許 さ れ な く な っ た の で あ る 。 ニ コ ラ イ だ け で は な く 、「 子 供 ( = ア レ ク
セ イ * )」 も そ う で あ っ た 。 肩 章 は 、 幾 本 か の 紐 の 束 で あ っ た : ニ コ ラ イ は 、 父 の 姓 の
頭文字からできた肩章を着けていた。ニコライの息子は、ニコライの姓の頭文字の肩章を
着けていた。
マトベーフと「スパイ」は、如何ほどのじれったさで、ニコライが散歩に出かける時を
待ったことか、想像できる。散歩は、すでに、ありふれた儀式となっていた:マトベーフ
は 廊 下 を 歩 き 、 警 戒 を し て い る 。「 ス パ イ 」 は 、 部 屋 に 入 っ た 。
机の上に、いつも通りに、物が几帳面に配置されていた:ノート、彼の趣味の時計が幾
つか、そして日記。
「 ス パ イ 」 は 読 ん だ :「 4 月 8 日 。 日 曜 日 。 私 達 の 婚 約 日 の 2 4 周 年 ! 1 0 時 半 に 、
食事をした。その後、コビリンスキーが、私に、モスクワからの電報を見せてくれた。そ
れには、私とアレクセイから肩章を取り外すことの決定が明示されていた。それで決めた
:散歩中には肩章は着けない、室内だけで着ける。このような卑劣な行為をした彼らを、
私 は 断 じ て 忘 れ な い ! ・ ・ ・ 。」
「スパイ」は、わかった:皇帝は、日記に全てを書き残していることを。敵に日記が読
ま れ る 可 能 性 を 許 し さ え し て い た ( 彼 は 、 許 さ な い で は い ら れ な か っ た ! )。 敵 に 対 す る
彼の軽蔑が、日記には現れていた。
そ の 時 、「 ス パ イ 」 の 頭 に 、 ア イ デ ア が 閃 い た 。 し か し 、 ト ボ リ ス ク で 、 そ の ア イ デ ア
を実現することはできなかった。というのは、次の日に、状況が全く変わってしまったか
らである。
全権の到着
トボリスク・ソビエトのメンバーで、エカテリンブルグのボリシェビキである、アブデ
ー フ が 、1 9 1 8 年 4 月 の 朝 に 、ト ボ リ ス ク か ら 、故 郷 の エ カ テ リ ン ブ ル グ に や っ て き た 。
アブデーフは満足していた:彼は長い間待ちこがれていた書類を持参してきていた。この
書 類 は 、 君 主 制 主 義 者 で 、 ラ ス プ ー チ ン の 娘 の 夫 で あ る ソ ロ ビ エ フ の 陰 謀 に 関 す る 、「 ス
パ イ 」 に よ っ て 得 ら れ た 証 拠 で あ っ た ( ソ ロ ビ エ フ 、 そ の 他 の 、 皇 后 と の 間 の 書 簡 )。 ト
ボ リ ス ク ・ ソ ビ エ ト の 決 定 : ト ボ リ ス ク か ら の「 血 の ニ コ ラ イ 」の 逃 亡 の 恐 れ を 考 慮 し て 、
皇帝家族をエカテリンブルグに移送することを、ウラル・ソビエトに要請をする。
アブデーフが、ホームで自分の列車を待っていた時、武装部隊が列車から降りるのを見
た。知見のない武装部隊は、エカテリングブルグの部隊に、大きな不安を引き起こした。
彼は、15人の騎兵と、20人の歩兵を数えた。今は、ウラルとオムスクが敵意丸出しの
時 で あ っ た 。 彼 は 考 え た :「 オ ム ス ク の 部 隊 が 来 て い な い の は ? 」 彼 は 探 る こ と に 決 め
た。
彼は列車に近づいて、隊長に質問をした。毛皮の長外套を着、水兵ブラウスを着、毛皮
帽をかぶっている人の所に、彼は案内された。アブデーフは、トボリスク・ソビエトの証
明 書 を 、 彼 に 見 せ た 。 こ の 人 物 は 証 明 書 を 読 む と 、 非 常 に 元 気 づ き 、 説 明 を し た :「 私 達
は 貴 方 を 待 っ て い ま し た 。」 そ し て 、レ ー ニ ン と ス ベ ル ド ロ フ の 署 名 の 入 っ た 委 任 状 を 、
エカテリング部隊に見せた。そして、さらに、ゴロシェキンの署名の入った命令書も、そ
れ で は 、ト ボ リ ス ク ・ ソ ビ エ ト の 全 て の エ カ テ リ ン グ ブ ル グ ・ ボ リ シ ェ ビ キ に 、無 条 件 に 、
全露執行委員会の全権者ヤコブレフに隷属することを命令をしていた。
これらの部隊と一緒に、アブデーフをトボリスクに戻すことになった。
アブデーフとヤコブレフは、馬に乗って進む。ヤコブレフは、自由の家について、アブ
デーフに質問をする。アブデーフは元気なく答える:詳細は知らない、警護隊が家に入れ
てくれない。
20kmほど進んだところで、兵士の隊列に彼らは気がついた。最初に思った:白軍の
コザック兵だ! 幸運にも、銃撃をすることはなかった:双眼鏡で、赤軍の徽章と、帽子
に付いている赤い帯に気がついた。両方の騎乗者達は、お互いに駆け寄った。
エ カ テ リ ン ブ ル グ か ら ト ボ リ ス ク へ 派 遣 さ れ る 部 隊 で あ る こ と が わ か っ た 。・ ・ ・ ロ マ
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ノフ一家のために!
これが、ウラル軍事コミッサールであったゴロシェキンの、初めての意外な出来事であ
った。ヤコブレフは酷い驚きを持って、理解した:エカテリンブルグは、***を掌握し
ている。
2つの部隊は一緒になって行軍をする。ヤコブレフは、2人のウラルの騎兵-アブデー
フと部隊の指揮官ブシャツキー-と一緒に、馬を進める。
吃 驚 す る 話 が あ っ た (「 ミ ア ス 強 盗 団 」 の 内 の 1 人 が 、 自 分 の 追 想 記 の 中 で 、 そ れ を 書
い て い た 。)
ブシャツキーはヤコブレフに、計画を示す:トボリスクから行程と家族を移動させてい
る途中、イエブレボ村当たりで、ブシャツキーの部隊が待ち伏せをし、ヤコブレフの部隊
を襲撃するように装う。あたかも、皇帝と家族の解放のために。そして、銃撃戦中に、彼
ら(?どちらの部隊 *)が、ロマノフ一家を始末する。エカテリンブルグ出身者(=ブ
シ ャ ツ キ ー * ) は 語 る 。「 迫 害 者 の 息 の 根 を 止 め な け れ ば な ら な い 。 面 倒 を 見 る こ と は
な い 。」
ヤコブレフは、返答をせず、ブシャツキーに自身の委任状を示した:全露執行委員会の
全権である彼に、全てが従属すること。ブシャツキーは、ただ笑っていた。それからの道
程中、彼らは黙して語らず。
このように、1918年4月22日、2つの部隊は、トボリスクの町に入った。
トボリスクでは、新しい思いがけない出来事が:ボリシェビキであるザスラフスキーを
隊長とする、エカテリンブルグからの別の部隊が、町で、ヤコブレフを待っていた。
このように、最初の日から、ヤコブレフは、2つのウラル出身部隊で囲まれることにな
っ た 。全 露 執 行 委 員 会 全 権 代 表 と の 出 会 い に 対 し て 、ゴ ロ シ ェ キ ン は 、用 意 周 到 で あ っ た 。
・・・。
ヤコブレフは、既に随員達が住んでいた、コルニロフの家に立ち寄った。その夜、ヤコ
ブレフは、トボリスク・ソビエトに出かけ、自分の委任状を提示した。
夜、ソビエトで、エカテリンブルグにいるトボリスク部隊は、ヤコブレフの短い話を聞
いた。彼は、自分の秘密任務の目的について、説明をした:皇帝と家族を、トボリスクか
ら移送すること。
本 質 的 な 問 題 が あ っ た 。「 何 処 へ ? 」 ヤ コ ブ レ フ は 答 え た 。「 委 任 状 に 書 か れ て い る
通 り で あ る 。 そ れ に つ い て 判 断 す る こ と は 、 委 任 状 に は 書 い て い な い 。」 ウ ラ ル 部 隊 の
指 揮 官 で あ る ザ ス ラ フ ス キ ー の 言 葉 を 、 ヤ コ ブ レ フ は 聞 い た :「 ロ マ ノ フ 一 族 に 、 こ れ 以
上手間をかける必要はない、彼らの息の根を止めなければならない!」
ヤコブレフは、きつい言葉で彼の話を遮った。
ヤコブレフの追想記から:
「 私 は 彼 に た だ 1 つ だ け を 話 し た :「 貴 方 の 全 て の 部 隊 は 、 私 に 従 属 し 、 私 の 任 務 を 実
行しなければならない! 貴方がわかってくれることを期待しているが?」 そして、ザ
ス ラ フ ス キ ー は ・ ・ ・ 口 の 中 で ぼ そ ぼ そ と 言 っ た :「 わ か っ た 。」」
最後に、ヤコブレフは、朝に、警護隊の交替をすることを命令した。このように、自由
の家の全ての警護箇所に、地元の赤衛兵が立つことになった。自由の家の新しい隊長に、
ヤコブレフは、アブデーフを任命した。これはウラル部隊に対する最大の敬意を示したも
のであった。
ヤコブレフだけが去って行った。ウラル部隊は決定を受け入れた。が、モスクワからの
全権代表を、注意深く見ていた。
その通り、ゴロシェキンは、彼の到着の準備をしていた。
トボリスク・ソビエトにおけるウラル部隊は、敵であるということがわかったので、ヤ
コブレフは、警護隊とコビリンスキーに、最大限の注意を払う必要があった。もし、うま
くいかないと、任務は失敗してしまう!
朝、彼(? *)は、自分の所に、コビリンスキーを呼び出す。
モスクワからのコミッサールの、不慣れながら優しい対応は、隊長に好感を持たせる。
皇帝と家族を連れ出しにやって来た、と、ヤコブレフは彼に説明をする。残念ながら、未
だ、経路の秘密を言うわけには行かない。しかし、隊長は、ヤコブレフは全てを知ってい
ると察知する。その時期は直ぐであることを。
コビリンスキーは、信頼して欲しいと繰り返す。ヤコブレフの任務を待ちかまえている
困難さについて、ヤコブレフに説明をする:アレクセイは重病である。アレクセイを搬送
するのは不可能である。
最後の時には、アレクセイは驚くほど健康であった。面白い遊びを考え出してもいた。
面白い遊びを考えついた:木のボートに乗って、階段を滑り、2階から外に出る。ボー
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トはものすごい轟音を出すので、家の住人達は耳を塞いだ。アレクセイは、自分が元気で
あることを示したかったようであった。他の遊びもあった。丸太で作ったブランコを揺し
た 。 ボ ト キ ン 医 師 の 娘 が 、 思 い 出 を 語 っ て い る :「 こ の よ う な 遊 び を 私 は 知 ら な か っ た 。
が 、 ア レ ク セ イ は 怪 我 を し 、 い つ も の よ う に 病 床 に 伏 し た 。」
幽閉状態の時、アレクセイはどのような怪我をしたのか、ボトキン医師が書き残してい
る。
「アレクセイは、怪我の影響による関節の痛みに耐えていた。怪我は子供の成長に伴い
不可避なものである。本当に酷い痛みを伴っていた。そのような時、昼夜かまわずに、ア
レクセイは、筆舌に尽くしがたい痛みに耐えていた。慢性の心臓病を抱えていた母親につ
いて語るまでもなく、アレクセイの近親者の誰もが、アレクセイほど悲惨ではなかった。
アレクセイの世話を長期でできる力もなかった。私の衰えた力も助けにはなっていない。
病人付きであったナゴルニイは、もし、交替で、アレクセイの教師であるギブス氏とジリ
ヤ ル 女 史 が 、ナ ゴ ル ニ イ の 助 け を し て く れ な か っ た な ら ば 、全 く 状 況 に 耐 え ら れ な か っ た 。
彼 ら は 、 授 業 の 日 に は 、 病 人 を 苦 痛 か ら 逸 ら す 努 力 を し て い た 。・ ・ ・ 。」
4 月 1 0 日 ( 2 3 日 )、 新 し い 警 備 司 令 官 ア ブ デ ー フ と 、 連 隊 長 コ ビ リ ン ス キ ー を 一 緒
に、ヤコブレフは、自由の家に現れた。そこでは、前日までに、彼らを出迎える準備がで
きていた。
日 記 よ り :「 4 月 9 日 。 モ ス ク ワ か ら の 、 臨 時 全 権 代 表 ヤ コ ブ レ フ の 到 着 を 知 っ た 。 彼
は、コルニロフスキー邸に逗留した。全ての手紙を燃やした。マリヤもアナスタシアも自
分の日記を燃やした。それで、ヤコブレフが今日、捜査に来るものと、子供達は、思いこ
ん だ 。・ ・ ・ 。」
4月10日。朝10時半。コビリンスキーと、従者を連れたヤコブレフが現れた。
娘達と一緒に、ホールで彼を出迎えた。私達は、彼を、11時に待っていた。そのため
に、アリックスは未だ支度ができていなかった。彼が入ってきた。髭を剃った顔をしてい
た。笑顔を浮かべ、はにかみながら、私が、警護隊と部屋に満足しているか、と質問をし
た。その後で、急いでアレクセイの所に近寄った。が、立ち止まらずに、部屋の検査を行
った。迷惑をかけていることをわびながら、下の階へと去って行った。彼は急いで、他の
階の部屋の検査をした。
30分ほどして、アリックスが現れるので、彼は再び現れた。再び、アレクセイの所に
急 い で 行 き 、 下 に 去 っ て 行 っ た 。 家 の 検 査 は 、 こ れ だ け に 止 ま っ た 。・ ・ ・ 。」
皇 帝 は 、日 記 に 、何 と も 優 し い 気 持 ち で 以 上 の こ と を 記 し て い た :「 迷 惑 を 詫 び な が ら 」、
「 笑 顔 を 浮 か べ な が ら 」。 帝 国 の 元 の 主 権 者 は 、 既 に 、 笑 顔 を 、 お 詫 び を 忘 れ て い た 。
チェキスト・ヤコブレフは、人間の扱いを心得ている。
こ の 日 、モ ス ク ワ か ら の コ ミ ッ サ ー ル は 、2 度 、病 人 の ア レ ク セ イ を 見 た 。ど う か し て 、
病人のアレクセイの移送ができないものかと、コミッサールは、熟慮した。そして、でき
そうもないと、理解した。任務は、より困難なものとなった。
自由の家の司令官に任命された、ウラル出身のアブデーフは、警護隊の交替をする。ツ
アルスコエ・セローから来ていた兵達に替わって、警備に、赤衛隊の兵士が立った。
片側には、軍服を着た、親衛隊の選りすぐりの美男子で背の高い隊員からなる小隊が
整 列 を し た 。 他 方 の 側 に は 、「 仲 間 」 か ら な る 赤 衛 隊 が 。 あ る 者 は 、 汚 い 短 い 外 套 を 、 あ
る者は、オーバーを、ある者は、色のさめた制服外套を、着ていた。長靴の替わりに、継
ぎ接ぎだらけのフェルト靴を履いていた。武器も各自バラバラであった。ある者は、肩か
ら機関銃弾帯を釣り下げ、ある者は、ベルダン銃を、ある者は、ナガン銃を・・・。隊列
は 、 驚 き で あ っ た : 赤 衛 隊 は 、 身 長 で は な く 友 情 で 整 列 し て い た 。・ ・ ・ 。
2つの部隊は、驚いてお互いを見合っていた。帝国の遺物と、革命軍-見られそうもな
かった世紀的な光景である。
「これはモスクワが・・・、と、私達は認識している。」
次の日は、ヤコブレフは、自由の家には来なかった。
日記より:
「4月11日。今日は良い天気である。比較的暖かい。温室の屋根の上に、長い間座っ
て い た 。 そ こ は 、 太 陽 が 存 分 に 暖 め て い る 。 丘 の と こ ろ で 、 深 い 溝 の 清 掃 に 従 事 し た 。・
・ ・ 。」
皇帝が溝の掃除をし、温室の屋根で物思いに耽っていた時、ヤコブレフには大変な仕事
が待ち受けていた-皇帝の警護隊との応接である。温和しく赤衛隊と職務を交替したが、
夕 方 に は 彼 ら は 既 に 不 平 を 口 に 出 し 始 め た 。・ ・ ・ 。
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警護隊を集め、ヤコブレフは、彼らのご機嫌を取るのに努力をした。そして、ソビエト
権力において、6ヶ月間では得られないような恩賞を、彼らに厳かに与えた。また、嬉し
いことも教えた:彼らの仕事は、終了し、自宅に戻ることができることとした。夕方、ヤ
コブレフは、警護隊の兵士委員会の会議を招集する。この会議で、彼は自分の目的を説明
す る : ト ボ リ ス ク か ら 、 皇 帝 と 家 族 を 移 送 す る こ と 。 し か し 、「 何 処 へ ? 」。 ヤ コ ブ レ フ
は次のような文句で答えた「それについては、私は判断することができない。不平が出始
めた。そして、彼は屈服した:護衛に、前の警護隊から、8名の兵士を入れることを提案
し た 。 彼 ら は 、 指 定 さ れ た 場 所 ま で 、 ニ コ ラ イ と 家 族 を 伴 う こ と に な る で あ ろ う 。「 皇 帝
と 家 族 が 安 全 で い ら れ る 、 と い う こ と を 彼 ら が 確 信 で き る よ う に す る た め に 。」
モスクワにおいて、既に、ヤコブレフに話がされていた:委員会議長マトベーフは信頼
することができる。
マトベーフの「メモ帳」から:
「ヤコブレフは、自分のところに私を呼び出し、質問をした:私が、秘密の軍事課題を
成し遂げることができるか? 私から確信的な返答を得て、ヤコブレフは、私に話した。
元皇帝をモスクワに移送するという課題が、ヤコブレフに与えられていたことを。ニコラ
イ・ロマノフ一家の道中に同行するために、ヤコブレフは、私の隊から8名を選び出すこ
と を 、 私 に 提 案 し た 。」
さて、マトベーフは、聞いた驚くべき情報を、友人である「スパイ」に伝えたのであろ
うか?
夕方、ヤコブレフは、コビリンスキーと、連隊長との話し合いで、ヤコブレフは、大事
な会合を持った。ヤコブレフは、1手進める:モスクワでの裁判のために、皇帝を移送し
なければならない。勿論裁判などはありはしない。皇帝と家族を、北欧に送り出す。とい
うことを、コビリンスキーに話した。ヤコブレフは、この秘密を言いふらさないとの約束
を、連隊長から得る。しかし、連隊長は言いふらすであろうことを、ヤコブレフはよく知
っていた。ヤコブレフにとっては、この件が言いふらされている必要があったのである。
家族、皇帝、従者達を安心させるために。全てが順調に進むために。
その夜、コビリンスキーは、コッソリと、ボトキン医師にこの情報を伝えた。ボトキン
は、自分の娘に。
ボトキンの娘は書き残している:父は私に大事なことを教えてくれました・・・。ヤコ
ブレフはレーニンの命令に従ってここへやって来ていました。それは我が皇帝をモスクワ
での裁判にかけるために連行することでした。問題は、彼ら(?誰らの *)の部隊が支
障 な く 解 放 す る か 、と 言 う こ と で し た 。 裁 判 と い う 、大 変 な 言 葉 で あ っ た に も 関 わ ら ず 、
この話は皆喜んでいました。というのは、裁判は全くなく、外国への出国である、と信じ
たからです。多分、ヤコブレフ自身がこのように話し、コビリンスキーも嬉しそうに話し
ま し た :「 何 の 裁 判 。 裁 判 な ど は な い 。 彼 ら を 直 接 モ ス ク ワ か ら 、 ペ ト ロ グ ラ ー ド に 移 送
す る 。 そ し て 、 フ ィ ン ラ ン ド へ 、 ス エ ー デ ン へ 、 ノ ル ウ エ ー へ 。」
しかし、皇帝に、コビリンスキーはこの件全てを伝える間がなかった。
4月25日、早朝、ヤコブレフが、再び自由の家に現れた。
ヤコブレフはニコライに説明をした:自分は皇帝をトボリスクから連れ出さなければな
らないが何処へ行くか明らかにする権利を持ってはいないと。
ニコライは呆然とした。ニコライはこのようなことを全く予想もしていなかった。去っ
て 行 っ た パ ン ク ラ ト フ の 替 わ り に 、 新 し い コ ミ ッ サ ー ル と し て ヤ コ ブ レ フ が 、「 帽 子 を か
ぶった小人」が、来ただけだと、考えていたからである。問題が起きた:ニコライは立ち
去ることを拒否した。アレクセイの病気が酷く、動かすことができなかったからである。
ヤコブレフは、司令官室に降りていく。その部屋には、アブデーフとホフリャコフがい
る 。 ヤ コ ブ レ フ は 困 惑 し て い た ( 新 し い 行 動 ! )。 ヤ コ ブ レ フ は 、 ど う す べ き か 、 ウ ラ ル
出身者達と相談をする。ヤコブレフは、とにかく、自分の任務に、ウラル出身者達を参加
させることを試みる。
そして、再び、ヤコブレフは、皇帝の部屋に上がっていく。ヤコブレフは説明をする:
反抗は無駄であり、ニコライが気持ちよく納得してくれなければ、ニコライを力でもって
移送すると。勿論、丁寧に、申し訳をしながら。ヤコブレフは、ニコライに、1人で移動
す る こ と を 提 案 す る 。「 1 人 で ! 」、 勿 論 、 皇 帝 の 頭 の 中 に は 、 ア レ ク セ イ の こ と が あ っ
た。出て行く! 自分がいなくなれば、家族は、確実に、解放されよう! そして、ニコ
ライは同意する。
ヤ コ ブ レ フ は 、出 発 の 準 備 の た め に 立 ち 去 る 。出 発 は 直 ぐ 、夜 明 け に ! ヤ コ ブ レ フ は 、
出発の噂が、直ぐに広まるであろうと、理解をしていた。
ニコライは家族の元へ戻る。そこでは、ニコライが予想もしていない事が待ち受けてい
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た:アリックスは、皇帝がモスクワへ移送されることを、すでに、コビリンスキーから聞
いて、驚愕していた。アリックスは直ぐに思い出した:ブレスト和平を。裁判なんて、勿
論、嘘だ。ニコライに、この恥辱の和平に署名をさせるために、ニコライを、モスクワへ
移送するのであろう。あの恥ずべき書類を権威あるものとするために、ニコライが必要な
のである。多分、ドイツが要求をしているのであろう。というのは、皇帝が署名した平和
だけが、価値があるからである。それだから、自分(=アリックス *)を残して、ニコ
ライだけをモスクワに連れて行くのである! 自分がいなければ、ニコライに、酷い決定
を無理強いさせることであろう。断じてこれは、許せない。病人の子供の母親としての責
務があり、また、皇后としての責務もある。国民と神に対する責務もある。
ニコライは散歩に出かけた。しかし、弱い足で5分と立っていられないアリックスは、
その間中、ニコライの部屋の中をうろうろしていた。思いが乱れて考えがまとまらなくな
った。そして、アリックスは頭がおかしくなった。
「これは、私の人生で始めてのことだ。どのようにして良いか、全く私は分からない。
今までは、神が私に道を教えてくれていた。しかし、いまは、神の啓示を聞くことはでき
な い 。」
皇 帝 が 、 散 歩 か ら 戻 っ て く る と 、 ア リ ッ ク ス は 断 固 と し て ニ コ ラ イ に 言 っ た :「 私 も 一
緒 に 行 く 。」
その後、アリックスはアレクセイのところへ行った。平静さを取り戻し、ゆっくりとア
レクセイを抱きしめた。
「皇帝と私は、出発しなければなりません。しかし、願い出れば、貴方と姉妹達は、私
達 の と こ ろ へ 来 れ ま す 。」
「夜には、勿論、誰も寝れなかった。」
夜、アレクセイは痛みで、声を上げ、アリックスを呼んだ。しかし、アリックスは、ア
レクセイの部屋には行かなかった。別れを告げるのが辛かった。アリックスは号泣しなが
ら 、 繰 り 返 し た :「 い い え 、 こ ん な 事 が で き る は ず が な い 。 何 か が 起 こ る に 違 い な い ・ ・
・。いいや、私は信じる。朝には何かが起こる・・・。神は流氷を遣わし、この旅ができ
な く な る ・ ・ ・ 。」
し か し 、ア リ ッ ク ス は 、段 々 と 冷 静 に な っ た 。ア リ ッ ク ス は 最 終 的 に 判 断 を 下 し た 。が 、
アレクセイは泣きながら、彼女を呼んでいた。
アリックスは、家族を分けることにした。夫と2人切りで行くことはできなかった。娘
の内の誰を連れて行く? タチヤーナは、しっかりしている。アレクセイの世話を任せら
れ る し 、家 政 も で き る 。オ リ ガ は 、体 が 弱 い 。チ ュ メ ニ ま で は 3 0 0 k m も あ る 。そ し て 、
吹きさらし・・・での移動。アナスタシアは、余りにも幼い。アレクセイは、アナスタシ
ア が 好 き で あ る 。・ ・ ・ 。
マリアが語る:
「 私 が 行 き ま す 。」
このように、以上の場面を、目撃者達が語り伝えていた。
しかし、アリックスとニキ(=皇帝 *)は、日記に、この状況を書き残していた。
ニキ:
「 4 月 1 2 日 ( 2 5 日 )。 木 曜 日 。 朝 食 後 、 ヤ コ ブ レ フ が 、 コ ビ リ ン ス キ ー と 一 緒 に や
って来た。そして、私を連れ出す命令を得たと説明をした。が、行き先を話さない。アリ
ックスは、私と同行することに決心した。マリアも連れて行くことにした:文句の言い様
はなかった。他の子供達は残るが、病人のアレクセイは、最近特に病状が酷い。今、必要
最低限の物の荷造りを始めた。ヤコブレフ自身は、子供達のこともあるので、戻ってくる
と 話 し て い た 。 夕 方 、 そ し て 夜 と 、 皆 気 が 沈 ん で い た 。 勿 論 誰 も 寝 れ な か っ た 。・ ・ ・ 」
アリックス:
「子供と残るか、それとも彼(ニコライ)に同行するか、私は決断をしなければならな
い。私は彼に同行することを選んだ。彼は私に大きな期待をかけていたからである。何処
( 私 達 は 、 モ ス ク ワ と 思 っ て い る ) へ 、 何 の た め な の か 、 は 知 ら な い の で 、( 彼 を 一 人 だ
けにするのは)不安が一杯であった。凄い苦痛! 夜のお茶の後、全ての人、従僕達を立
ち去らせ、子供達と一緒に、夜中中、みんなで座っていた。アレクセイは寝入っていた。
3時、私達はアレクセイのところに行って、出発まで、座っていた。朝4時15分、旅に
出 発 し た 。」
ヤコブレフはこの夜は寝ていなかった。アブデーフが、町中を動き回り、馬と馬車を探
している間、ヤコブレフは、出発の準備をしていた。戦のようであった。ヤコブレフは、
ウラルの第2部隊の指揮官、ブシャツキーを、自分のところへ呼び出した。
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ヤコブレフの追想記から:
「私(?ニコライ *)は、トボリスクからの道中の警護を貴方に委ねる・・・。私の
通行の警護は、貴方の職務である。貴方と貴方の部隊は、安全のために首をかけなければ
ならない・・・。もし何かが起きたならば、貴方が最初に銃撃されるであろう。ブシャツ
キ ー は タ オ ル の よ う に 、 私 ( ? ヤ コ ブ レ フ * ) の 前 に 立 っ て い た 。」( ? 」 記 号 は こ
の位置なの? *) ブシャツキーは、だいぶへばっていた。
最も絶望している「ミアス強盗団」の仲間の1人に、ヤコブレフは、トボリスクからの
出発を警護することを委ねる。ヤコブレフは、トボル側を渡河しなければならない。**
********。最も危ないのは、ザスラフスキーのウラル部隊。
明け方。玄関に、準備できた馬車が止まっている。長い棒に吊された、編んだ籠からで
きている、シベリア仕立ての馬車「コシェバ」である。座席はない。床に座るか、横にな
るしかない。
指揮官アブデーフが、町で見つけることができた、1台だけ屋根付きの馬車があった。
それには、皇后を乗せなければならなかった。そこにマットレスを置き、その上に干し草
を投げおいた。
朝5時に、荷物の積み込みが始まる。ヤコブレフの追想記から:
「家の至る所から、すすり泣きの声がした。ニコライの娘達と、全ての従者達は種付き
の玄関のところに出て来ていた。ニコライは一人一人のところへ行き、激しい仕草で、娘
達に十字を切った。ニコライの傲慢な妻は、涙を堪えていた。彼女の仕草は語っていた:
赤 い 敵 の 前 に 、 弱 さ を 見 せ て は な ら な い 、 と 。」
彼らには、道程は大変で長いものであった。困難な悪路では、橇を、車輪に替えながら
( 多 く の 箇 所 で 、 太 陽 の 下 で 、 雪 が 消 え て い た 。)、 そ し て 、 車 輪 を 橇 に 替 え な が ら 進 ん
だ 。チ ュ メ ニ ま で 3 0 0 k m を 。そ れ か ら 先 を 汽 車 で 。コ ミ ッ サ ー ル の ヤ コ ブ レ フ 自 身 も 、
彼らを何処へ移送するのか、わかっていない。
皇帝一家は分かれて馬車に座った。アリックスは、皇帝と一緒に乗りたかった。が、ヤ
コ ブ レ フ は 、断 固 と し て 拒 否 し た : 前 皇 帝 と 一 緒 に 自 分 が 乗 る と 。ア リ ッ ク ス は 、黙 し て 、
マリアと一緒に乗った。ただただ押し黙って、悪路を進む。
3人の召使いが一緒である。皇帝の近侍のチェモルドフ、女中のデミドワ、下男のセド
ニ ェ フ 。馬 車 に は 、ド ル ゴ ル コ フ( 従 者 か ら )と 、ボ ト キ ン( 医 師 )が 乗 っ た 。こ れ ら は 、
ヤコブレフが許可したものである。
皇后は、自分たちを見送らないよう、ジルヤルに頼んだ。彼は、暗い部屋で、眠ってい
るアレクセイの脇で座っている。
ロシアの皇帝を最後まで信じていた、この変なスエーデン人は、自分の日記で、叫んで
いる:
「誰かが、皇帝家族を救出するという試みは、果たして可能であったのであろうか?
ど こ で ? 本 当 に 、自 分 の 皇 帝 を 、ま だ 、信 用 し て い る も の は 残 っ て い た の で あ ろ う か ? 」
そ し て 、今 、ジ リ ヤ ル は 理 解 し た :( 皇 帝 一 家 解 放 の た め の * )何 の 陰 謀 も な か っ た !
こ の 時 、も う 一 人 の 生 き 証 人 、ボ ト キ ン 医 師 の 娘 、が 、隣 の 家 か ら こ の 様 子 を 見 て い た 。
この日が、彼女が父を見た最後となった。ボトキンは別れに際して、娘に十字を切り、
キスをした・・・。彼女は、外套を着、フェルト帽をかぶって、道を横切っている父を見
た。前には、彼女の父(=ボトキン *)は、将軍の制服を着ていた。しかし、肩章を取
り外すようにとの命令の後、ニコライの頭文字を手放したくなかった。そして、制服外套
を、平服外套に替えた(そして、直ぐに替えた。作家チェーホフの「3人姉妹」中におけ
る ツ ゼ ン バ フ 男 爵 の よ う に 。)
夜には、******。明け方、彼女は、自由の家の玄関に馬車を見る。父親は、ドル
ゴ ル コ フ 公 爵 の ウ サ ギ の 毛 皮 外 套 を 着 て い た 。( 父 親 の 大 き な 毛 皮 外 套 で 、 皇 后 と マ リ ア
を包んだ。彼女らには、厳しい朝のマローズに耐えられ、氷の上を疾走する馬車の上で、
肌 を 突 き 刺 す よ う な 風 に 対 す る 体 に あ っ た 外 套 が な か っ た 。)
朝 6 時 ・ ・ ・ 。最 後 に 、彼 女 は 父 の 顔 を 、可 愛 い マ リ ア の 顔 を 、皇 后 の 悲 し そ う な 顔 を 、
見。そして、冷静なニコライの顔を・・・。
馬車が動き出した。自由の家の廊下を、ジリヤルの3人の教え子達が、駆けた。3人と
も慟哭しながら。
最後の旅(拘留者のシベリア日記の続き)
皇帝と全露執行委員会全権の乗っている馬車に併走して、アブデーフは馬で駆けた。馬
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車の前には、3台の機関銃を持った赤衛隊が。騎兵部隊が、一団の前後に付いていた。前
方を、馬に乗った斥候が駆けていた。
このように、勇ましい騎兵隊(全人生において、騎兵隊は、始めは、皇帝を警護してい
た 。 が 、 今 で は 、 皇 帝 を 見 張 っ て い た 。) に 伴 わ れ 、 荒 い シ ベ リ ア の 馬 の 乗 っ て 、 皇 帝 の
最後の旅が始まった。
道は大変であったが、ニコライは退屈した。が、アリックスのことを気にかけていた。
アリックスは? アリックスは黙したままであった。馬車の揺れ・・・で気が滅入って
いた。豪華なヨット、カサカサ軽快な音の鳴るスプリングの付いた4輪馬車。全ては、こ
のみすぼらしい馬車で終わった。
み す ぼ ら し い 馬 車 、 馬 車 、・ ・ ・ 。 こ の よ う な 馬 車 が 、 彼 ら を 、 急 い で 運 ん で い く 。
ニコライとヤコブレフ。元兵士と元皇帝は、何について語ったであろう
か。彼らを乗せていた馬車の御者が、後日語っていた。2人は、道中ずっと、政治課題で
口 論 し て い た 。 ヤ コ ブ レ フ が 語 る 、「 皇 帝 を 信 じ て い た 」。 し か し 、 皇 帝 は そ れ に 動 じ な
い。
しかし、前皇帝と、冗談も交わし会いながら話していて、全露執行委員会全権は全く他
の元を、真剣に考えていた。
ト ボ リ ス ク か ら チ ュ メ ニ ま で の 全 路 程 に お い て 、ヤ コ ブ レ フ が 指 示 し た 警 備 兵 が 立 っ て 、
馬車の到着を待っていた。が、警備兵の数は極めて少なかった・・・。先を進んでいるブ
シャツキーは、どのような行動をとるのか? *****。渡河地点に残された人達は、
多人数のザスラフスキーの部隊を抑えることができるのであろうか? ヤコブレフはわか
っていた:ウラルの2つの部隊が、前方と後方から、ヤコブレフを包囲するように動いて
いた。それが現実であった! そして、彼は、推測した: 彼らは敢えて襲撃をするであ
ろうか。
ニコライの日記から:
「 4 月 1 3 日( 2 6 日 )。金 曜 日 。朝 4 時 に 、愛 す る 子 供 達 を 別 れ を し 、馬 車 に 座 っ た 。
私とヤコブレフ、アリックスとアーニヤ、バーリャとボトキン。私達と一緒に行く他の人
:ニュータ・デミドワ、チェモヂュロフとセドノフ。8人の狙撃兵と、10人からなる赤
軍の騎兵隊。寒い天候である。道は悪路であり、凍った轍の跡で、馬車は激しく揺れる。
深い水深のイルティッシュ川を渡河し、4回ほど馬の付け替えをし、宿泊先であるイエブ
レ ボ 村 に 到 着 し た 。 大 き な 綺 麗 な 家 に 入 り 、 各 自 の 寝 床 で し っ か り と 寝 入 っ た 。」
皇后は自分の日記に書いていた:
「 馬 車 で の 旅 行 ・ ・ ・ 。 死 ぬ ほ ど 疲 れ た 。 頭 が 割 れ る よ う に 痛 ん だ 。」
明け方、旅行は継続された。イエブレボ村では、冷たい水が、氷の上に現れていた。出
ていた。頬を切るような風であった。馬車は、水の中に入った。アリックスは、水の中を
行くのを拒否した。村から、板を持ってきた。礼儀正しいバーリャ(かっての、冬宮での
ダンスバーティーのように)と、優しいボトキンの2人が、手で支えた板橋を作り、皇后
とマリアが渡りきった。その日、パクロフスキー村に到着した。
ア リ ッ ク ス は 、「 私 達 の 友 人 」 の 家 を 見 た 。 幸 せ で あ っ た : 将 来 の 成 功 の 兆 候 と 約 束 。
日記に書いた:
「 4 月 1 4 日 ( 2 7 日 )、 土 曜 日 ・ ・ ・ 。 馬 車 で の 旅 行 ・ ・ ・ 。 1 2 時 頃 、 パ ク ロ フ ス
キ ー 村 に 到 着 し た 。 馬 を 交 換 し た 。 私 達 の 友 人 の 家 の 前 に 長 い 間 止 ま っ て い た 。・ ・ ・ 。
友 人 の 親 類 達 が 見 え た 。 窓 か ら 私 達 を 見 て い た 。」
墓場にいる「聖なる悪魔」は、このように、皇帝一家を祝福した。
これで、チュメニまでの最後の区間が残っているだけとなった。もし、ウラル部隊が襲
撃をするならば、この区間が考えられる。ヤコブレフの部隊は、警備に立っていた兵を加
えたので多人数になっていた。全権ヤコブレフは、戦の準備をした。しかし、ヤコブレフ
が驚いたことには、何もなしで済んだ。
ニコライの日記より:
「4月14・・・。軍事的警戒を怠りなく、後半の区間をゆっくりと進んだ。月明かり
の中、8時過ぎにチュメニに到着した。町への到着に当たり、私達の馬車を騎兵中隊が取
り囲んだ。余り綺麗ではなかったが、列車に乗れて良かった。私達も、私達の荷物も、も
のすごく汚れていた。着物を脱がないままで、そのまま熟睡した。私は、ベットの上に、
ア リ ッ ク ス 、 マ リ ア 、 ニ ュ ー タ は 別 々 に 並 ん で 。」
チ ュ メ ニ で 、ヤ コ ブ レ フ を 、2 5 0 人 か ら な る 彼 の 部 隊 が 、待 っ て い た 。ヤ コ ブ レ フ は 、
道中で初めて、やっと、安堵の胸をなで下ろした。ウラルの2つの部隊には、全く違った
課題があった、ということを、ヤコブレフは知らなかった。ウラル部隊は、ただ見守り、
- 183 -
列車まで彼らを案内しなければならなかった。**************。
関係者が、出発の準備をした。
列車狩り
家族は特別の客車に入った。
中央のコンパートメントには、ヤコブレフとアブデーフが入った。彼らの右側のコンパ
ートメントには、ニコライとアリックス。左側には、マリアとニュータ・デミドワが。
皇帝家族が、コンパートメントで、どのようにしているかを、ヤコブレフは、電信兵を
通じて、直結線を用いて、電報を送信した。
ヤコブレフの後に続いて、アブデーフが列車を出ようとした。が、ヤコブレフの狙撃兵
が、アブデーフを外に出さなかった。
ヤ コ ブ レ フ は 、モ ス ク ワ と 連 絡 を 取 っ て い た 。情 報 を 、ス ベ ル ド ロ フ に 送 っ て い た :「 経
路 は 前 の ま ま で す 。 経 路 を 変 え た の で す か ? 直 ぐ に 、 チ ュ メ ニ ま で 連 絡 を ・ ・ ・ 。」
数 時 間 後 、モ ス ク ワ か ら 返 答 の 電 文 が 届 い た : 経 路 は 元 の ま ま 。荷 物 を 運 ん で い る の か 、
運 ん で い な い の か ? 連 絡 を さ れ た し 。 ス ベ ル ド ロ フ 。」
ヤ コ ブ レ フ は 伝 え た :「 荷 物 を 搬 送 中 。」
ヤコブレフは列車に戻る。列車は動き出した。近くの待避線間に到着した時、ヤコブレ
フは命令を出した:新しい機関車を連結し、進路を変更する。アブデーフは、直ぐに理解
した:列車はエカテリンブルグには行かない、と。明かりを消して、列車は東の方向へと
動いていく。オムスクの方向へ。
「列車は何処へ行く?」 ウラル部隊は返答を要求する。
ヤ コ ブ レ フ は 説 明 を す る :「 ロ マ ノ フ 一 族 の 根 絶 」 を 掲 げ て い る ウ ラ ル 部 隊 が 、 道 中 で
襲撃を準備していた、事がわかった。それ故、ヤコブレフは、予定の経路で、エカテリン
ブ ル グ へ 、 家 族 を 移 送 す る の を 心 配 し た 。・ ・ ・ 。 ヤ コ ブ レ フ は 、 他 の 回 り 道 経 路 で 、 エ
カテリンブルグへ向かうことを決定した。オムスク経由で。
アブデーフは勿論信じない。アブデーフは、家族はエカテリンブルグへは行かない、と
理解する。では、どこへ?
家族は目が覚める。
日記より:
「 4 月 1 5 日 ( 2 8 日 )。 日 曜 日 。 皆 か な り よ く 眠 れ た 。 駅 の 名 前 か ら 推 測 す る と 、 列
車はオムスクの方向に進んでいる。私達を、オムスクから先、何処へ連れて行くのか、推
測し始めた。モスクワ、それとも、ウラジオストク? コミッサールは、勿論、何も話さ
なかった。マリアはしばしば、狙撃兵達のところへ行っていた。彼らの部署は、列車の最
後部にあった・・・。駅では、窓が隠された。祝日のように、沢山の住民達が集まったか
ら で あ る 。 お 茶 付 き の 冷 え た 食 事 の 後 、 早 め に 床 に つ い た 。」
マリアは、狙撃兵達から、何も知ることはできなかった。ヤコブレフが、狙撃兵達にも
何も語っていなかったのである。
夜、彼らが寝入っていた時、重要な出来事が起こった。
ヤ コ ブ レ フ は オ ム ス ク に 必 死 に な っ て 向 か う 。 し か し 、・ ・ ・ 、 彼 は 大 事 な こ と を 知 っ
ていない:秘密の任務の本当の目的に関してスベルドロフから情報を得た、ゴロシェキン
は、既に、オムスク・ソビエトと妥協していた。ということを。いつもの如く、首都に対
する敵意が、地方を仲直りさせた。ヤコブレフが、勝利感を味わいながら、オムスクに向
かっている間に、エカテリンブルグから電報が出された。
モ ス ク ワ へ :「 エ カ テ リ ン ブ ル グ か ら 4 月 2 8 日 。 コ ミ ッ サ ー ル ・ ヤ コ ブ レ フ は チ ュ メ
ニから、ロマノフを連れ出しました。ロマノフを列車に乗せ、エカテリンブルグに向かい
ました。皇帝の半分ほどを進んだところで、方向を変更し、元に戻りました。現在、ニコ
ライを乗せた列車は、オムスク近郊にいます。何の目的で、方向を変更したのか、我々に
はわかりません。我々は、そのような行為は、変節であると見なします。合意した、4月
9日の貴方の手紙からは、ニコライはエカテリンブルグにいなければならない。これはど
うしたことか? 地区ソビエトと、党地区委員会によって採択された決定に従い、ヤコブ
レフを引き留め、行程を止め、逮捕し、エカテリンブルグまで、ニコライと一緒に連行す
る 命 令 を 出 す よ う に 。・ ・ ・ 。」
同時に、オムスク、その他の箇所に、ヤコブレフが命令違反をしている、という電報が
既に届いていた:
- 184 -
「コミッサール・ヤコブレフの行動を判断すると、ヤコブレフには、革命への直接の変
節が見られることが、一致した見解である。全露執行委員会議長の正確な命令に反して、
不明の目的を持って、前皇帝を革命ウラルの領域から連れ出す試みは、コミッサール・ヤ
コブレフを、革命家の列外とする、行為そのものである。ウラル地区ソビエトは、全革命
組織、特に、オムスク・ソビエトに、列車を停止させるために、武力の適用も考慮した、
緊 急 特 別 の 処 置 を 執 る こ と を 提 案 し た 。・ ・ ・ 。」
直ぐに、ヤコブレフは、これらウラルの電報の内の1つを手にすることになる。彼の旅
程はオムスクで停止しなければならないことを知り、そして、ヤコブレフ自身が逮捕され
た。
ヤコブレフは、狼狽えた。ヤコブレフは、アブデーフのコンパートメントに飛び込み、
小 躍 り し て 喜 ん で い た ア ブ デ ー フ に 怒 鳴 っ た :「 彼 ら は 、 君 の 何 な の だ 。 皆 、 頭 が お か し
くなったのか?」 しかし、もう遅かった。
列車は、オムスクに近づく。オムスクには、既に、赤衛隊が待っている。
ヤコブレフは、一か八かの賭に出る。オムスク近くの、ルブリンスカヤ駅で、列車を停
車させ、機関車を切り離す。電信兵と一緒に、灼熱のオムスクへ向かう。
ヤコブレフの追想記から:
「 列 車 を 停 止 さ せ 、 我 々 が ホ ー ム に 出 た 時 、 沢 山 の 群 衆 が 我 々 を 取 り 囲 ん だ 。」
裏 切 り 者 の 噂 に 熱 狂 し た 、武 装 し た 群 衆 の た だ 中 に 、ヤ コ ブ レ フ は 、一 人 で 立 っ て い た 。
ヤコブレフは、死の一歩手前にいた。が、彼の人生でこのようなことは、何度か経験済み
で あ っ た 。・ ・ ・ 。
「私は、群衆に大声を上げて説明をした:私は、全露執行委員会の臨時コミッサールの
ヤコブレフだ! 私は、オムスク・ソビエト議長と会わなければならない!」
そして、今までで初めて彼に都合良く事が進んだ・・・。
私の知人のコサリョフが、オムスク・ソビエト議長であった・・・。かって、イタリア
で、党学校で一緒であった、古い友人であるとわかった。私は、コサリョウフに、事情を
大まかに説明をし、私と一緒に、電報に出ることを勧めた:そこで、私達はスベルドロフ
を呼び出す。まず第一に、彼から、私はこれからの指示をもらう。次に、コサリョフが、
私 が 中 央 の 命 令 書 に し た が っ て 行 動 し て い た こ と を 、 確 認 す る 。・ ・ ・ 。 私 達 が 電 報 に 罹
り き り に な っ て い る 間 に 、 至 る 所 で 、 武 装 部 隊 が 見 ら れ る よ う に な っ た 。」
こ の よ う に 、 ヤ コ ブ レ フ は 、 旧 友 を 納 得 さ せ る こ と は で き た 。 が 、・ ・ ・ 。 命 が け で や
っ た こ と が 、無 駄 で あ っ た こ と を 、ヤ コ ブ レ フ は 電 報 で 知 る こ と に な っ た 。そ の 時 に 既 に 、
エカテリンブルグとモスクワとの間の長い電報は、終わっていた。最初のエカテリンブル
グへの電報で、モスクワは、すべきことを答えていた:スベルドロフは伝えていた、ヤコ
ブ レ フ は 東 に 進 む 、・ ・ ・ 彼 の 命 令 通 り で あ る !
しかし、ゴローシェキンは知っている:活動的でなければならない。最後まで、我慢強
くなければならない。
彼 は そ う で あ っ た 。 最 後 ま で 。 ウ ラ ル 部 隊 の 脅 迫 的 な 電 報 が 、 直 ぐ 後 を 追 っ た :「 4 月
9日の電報で、スベルドロフ同志は声明した、ロマノフはエカテリンブルグに移送される
であろう、それは地区ソビエトの責任下で行われる。我々の知らない原因で、今日、列車
がウラルから、逃げ出そうという状況を見て、我々はスベルドロフに伝えた。スベルドロ
フの返答は、我々を非常に驚かせた。ヤコブレフが、列車を東方に進めたは、スベルドロ
フの命令に従っていた、ということである。スベルドロフは、ヤコブレフに妨害を加えな
い よ う に 要 請 し て い る ・ ・ ・ 。」
更に、ウラル部隊は、脅かしをかけた直接に脅かした。
「状況の唯一の解決策は、列車の向きを反転させ、エカテリンブルグの方へ向かわせる
命令を、オムスクにいるヤコブレフ宛に伝送すること、である。そうしないと部隊同士の
衝突が起こるであろう。というのは、ニコライをシベリア鉄道上で引き回す必要はなく、
エ カ テ リ ン ブ ル グ で 、 厳 し い 監 視 下 に お け ば よ い 、 と 我 々 は 考 え て い る か ら で あ る 。」
その通り、彼らウラル部隊は頑固であった。今や、スベルドロフは譲歩をせざるを得な
い。
そ し て 、 モ ス ク ワ は 同 意 し た 。 勿 論 、「 ロ マ ノ フ 一 家 の 安 全 に 万 全 を 記 す る こ と 、 の 条
件 下 で 。」 そ し て 、「 相 応 す る 保 証 」 を 、 与 え る こ と が 。 保 証 は 同 時 に 与 え ら れ た 。
ヤコブレフが、自分の電信兵を、電信機の前に座らせた時、モスクワから、スベルドロ
フ の 命 令 書 が 届 い た :「 遅 滞 す る こ と な く 、 方 向 を 変 え 、 チ ュ メ ニ に 向 か う こ と 。 ウ ラ ル
部 隊 と 話 が つ い た 。 処 置 を 講 じ 、 保 証 を 与 え た ・ ・ ・ 。」
ヤコブレフは唖然とした:即ち、全てが無駄であった。ヤコブレフはモスクワと長い電
報を交わしあった。ヤコブレフは、エカテリンブルグを拒否する明確な理由を、スベルド
ロ フ に 伝 え る :「 疑 い も な く 、 私 は 、 中 央 の 命 令 に 、 完 全 に 忠 実 で す 。 私 は 、 言 わ れ た 場
- 185 -
所に、荷物(=ニコライなどのこと *)を運んでいます。しかし、全く危険であると言
う こ と を 、 人 民 委 員 会 議 に 、 も う 一 度 知 ら せ る こ と が 、 自 分 の 職 責 と 考 え て い ま す 。・ ・
・。更にもう1つの理由があります:貴方が、シムスキー管区(これはファ県で、ヤコブ
レフの故郷 著者)に、荷物を搬送するならば、貴方は、自由に、荷物をモスクワへ、或
いは希望する場所へ、移送することができるでしょう。もし、荷物が最初に予定されてい
の経路(即ち、エカテリングブルグへ 著者)で移送されるならば、そこから、荷物を引
き出すことは難しいと思われる・・・。とにかく、荷物は非常に危険な状態入ることは、
疑いがありません。このようなことから、最後として、貴方に、予告します。そして、将
来 の 結 果 に 対 す る 全 て の 倫 理 的 な 責 任 あ る 地 位 を 降 り ま す 。・ ・ ・ 」
しかし、ヤコブレフが驚いたことに、スベルドロフは耳をかさない:モスクワの決定は
前の通りである。ヤコブレフは、家族をエカテリンブルグに送り届けなければならない。
同じ蒸気機関車に乗って、ヤコブレフは、列車に戻る。列車は、逆方向に動き始める。
ニコライの日記より:
「 4 月 1 6 日 ( 2 3 日 )。 朝 、 列 車 が 逆 方 向 に 進 ん で い る の に 気 が つ い た 。 オ ム ス ク で
は、我々を通過させたくないことがわかった。その後、少し自由になった。2度ほど散歩
をした:1度は、列車の周りを。2回目は、ヤコブレフと一緒に、野原を十分遠くまで。
良 い 気 分 で あ っ た 。・ ・ ・ 。」
ニコライは良い気分にあった。というのは、ニコライは、汽車が反転した理由を未だ知
らなかったからである。ニコライには、その理由は秘密にされた。
マトベーフのメモ帳から:
「 反 転 の 原 因 は 、 橋 の 損 傷 で あ る と 、 説 明 が な さ れ た 。」
ニコライは、自分たちはモスクワへ行くものであると、信じ続けていた。彼の好きな散
歩 が で き る と い う 意 味 で は 、少 し 自 由 な 旅 行 が 続 く 。「 ヤ コ ブ レ フ と 一 緒 」と 、日 記 に は 、
少し嘲笑気味に書き残している。
彼らは、客車を行き来して、話し合いを持っていた。何について? 権力について?
大衆について? 革命について? それとも、ニコライの好みの話題について:人間同士
は啀み合い、お互いを、悔しがらせること。広大な緑と、流れゆく雲を持った永遠の空の
ある農村での素晴らしい生活について。
最後の皇帝の、最後の散歩は、このようなもので終わった。
しかし、朝、目が覚めて、ニコライは全てを理解した・・・。ニコライは、駅の名前を
見た:エカテリンブルグに近づいている・・・。
ヤコブレフは、客車の窓のカーテンを降ろすように命令を出した:赤色ウラルが、彼を
ど の よ う に 出 迎 え る か 、ヤ コ ブ レ フ は 疑 い を 抱 い て は い な か っ た 。皇 帝 は 感 づ い た 。既 に 、
汽車から道路への通路では、信じられない光景が起こっていた。マトベーフは見た。彼の
コンパートメントにニコライがやって来てた。直ぐに出て行った:皇帝は、黒パンを食べ
ていた。マトベーフが驚いたことは、ニコライが、笑みを浮かべながら、彼と対面したこ
とであった。
マトベーフのメモ帳から。
「「 申 し 訳 な い 、 ピ ョ ー ト ル ・ マ ト ベ ー ビ ッ チ 。 私 は 、 君 の 許 可 な く 、 黒 パ ン を 千 切 り
と っ て し ま っ た 。・ ・ ・ 。」 私 は 、 ロ マ ノ フ に 、 白 パ ン を 渡 し た 。 白 パ ン は 、 私 の 同 僚
が、ある駅で買ったものであった。テーブルの上に置いてあった黒パンの耳は、完全に乾
いて硬くなっていたのを、私が知っていたからである。駅で、犬にあげるためにそれを集
め て い た の で あ っ た 。・ ・ ・ 。」
犬にあげる予定の黒パンの耳を囓っている、全ロシアの皇帝?・・・。
いや、かような場面では、全くセンチメンタル的な事ではない。
「 私 は 、 ロ マ ノ フ が 非 常 に 興 奮 し 、 乾 い た パ ン の 皮 に か じ り つ い て い る の を 見 た 。・ ・
・ 。」
エカテリンブルグに近づくにつれて、ニコライは段々不安になってきた・・・。彼はア
リックスを驚かせたくはなかった。彼女を安心させた。
「 ニ コ ラ イ が 語 っ た :「 私 は 、何 処 か 適 当 な と こ ろ に 行 き た い 。ウ ラ ル だ け は ご め ん だ 。
新 聞 か ら 判 断 す る と 、 ウ ラ ル は 私 に 対 し て 、 厳 し い 雰 囲 気 が あ る ・ ・ ・ 。」
古い警護隊の「良い狙撃兵達」が、何かを実行するであろう、ということに、ニコライ
は未だ期待を持っていた。
朝の8時40分に、客車は、第1エカテリンブルグ駅の長い線路の中央に、停車した。
列車は、プラットホームから数番線離れた線路上に立ち止まった。
降ろされているカーテンの陰から、ニコライは見た:早朝にも関わらず、プラットホー
- 186 -
ムには、荒れ狂っている群衆が満ちあふれていた。
イパチェフ邸が彼らを待っていた・・・
4月30日の早朝、ウラル・ソビエトの車庫の運転手である、フョードル・サモフバロ
フに、車を、ボズネセンスキー大通りとボズネセンスキー路地のところの、家の角まで、
車を配車するようにとの命令が出された。この家は、今まで、技師であるイパチェフのも
の で あ っ た 。し か し 、ご く 最 近 に な っ て 、ウ ラ ル ・ ソ ビ エ ト の 命 令 に よ っ て 、家 の 主 人 に 、
自分の家を手放すように命令が出されていた。家には高い塀が巡らされ、警護隊が立って
いた。直ぐに、町中に、驚くような噂が広がった:この屋敷に、皇帝家族が住むらしい。
屋敷の周りは、群衆で一杯となった。
イ パ チ ェ フ ス キ ー 邸 の 玄 関 か ら 、ウ ラ ル の コ ミ ッ サ ー ル で あ る ゴ ロ シ ェ キ ン が 出 て 来 て 、
サモフバロフの車に向かった。ゴローシェキンは、第1エカテリンブルグ駅に、自分を乗
せていくように、サモフバロフに命じた。駅に着くと、ゴロシェキンは、車に待っている
ように命じて、何処かに駆けて行った。その後、戻ってきて、貨物駅である第2エカテリ
ングブルグ駅に向かうよう、サモフバロフに命じた。
これらの行動は、イパチェフの家の前にいる群衆を解散させるための、ゴロシェキンの
策略であった。
住居コミッサールであったジリノフスキーの「回想記」から:
「 第 1 エ カ テ リ ン グ ブ ル グ 駅 に 、 車 を 出 し て 、 私 達 は 、 群 衆 を 欺 す こ と に し ま し た 。」
その後、そこから、第2エカテリングブルグ駅に向かう。何処かで、ロマノフ一家を受
け取る。そのように行われた。群衆は、車の後を追って、第1エカテリンブルグ駅に向か
ったて、去って行った。
群衆は大騒ぎをしていた・・・。
ヤコブレフの追想記から:
「どえらい騒ぎとなっていた。恐喝の怒声が飛び交っていた・・・。無秩序の群衆は、
私 達 の 列 車 に 向 か っ て 動 き 出 し た 。・ ・ ・ 。 プ ラ ッ ト フ ォ ー ム に い た 警 備 隊 は 、 群 衆 の 押
し 寄 せ る 圧 力 に は 、 余 り に も 無 力 で あ っ た 。・ ・ ・ 。
「 ロ マ ノ フ を 客 車 か ら 引 き 出 せ 。 俺 が 奴 の 顔 に 唾 を 吐 き か け て や る 。・ ・ ・ 。」
「 機 関 銃 を 準 備 せ よ 。・ ・ ・ 。」
実際そうであった。群衆は跳び下がった。我々に向かって、恐喝する罵声が浴びせられ
た 。・ ・ ・ 」
こ の 時 、 群 衆 に 向 か っ て 、 駅 長 が 指 示 し た 貨 物 列 車 が 進 ん で き た 。・ ・ ・ 。 群 衆 が 、 急
に退いた。長い貨物列車が、客車と怒り狂っている群衆を壁で分けることになった。
ヤコブレフの追想記から:
「悪口雑言が飛び交っていた・・・。群衆は貨車の緩衝器を抜けてきた・・・。私達は
場所を引き払い、駅の無数にある線路の中に姿を消した。15分後、第2エカテリンブル
グ 駅 は 、 安 全 に 戻 っ た 。」
ニコライの日記から:
「4月17日。火曜日。また、驚くような暖かい日だ。8時40分に、エカテリンブル
グに到着した。3時間ほど停車した。ここのコミッサールと、私達についていたコミッサ
ー ル の 間 で 、 大 き な 摩 擦 が 起 こ っ た ・ ・ ・ 。」
荒れ狂っている群衆についての言葉はない!
第2エカテリンブルグ駅では、出迎えの準備ができていた。40名ほどの赤衛隊が、列
車を素早く取り囲んだ。プラットホームには、ウラルソビエトの3名の指導者達がいた。
白い帽子をかぶった、27歳のアレクサンドル・ベロバロドフ。元は、電気修理工であ
っ た 。今 は 、ソ ビ エ ト 議 長 。彼 は 、赤 色 ウ ラ ル の 革 命 政 府 代 表 と 呼 ば れ る 方 を 、好 ん だ が 。
フ ィ リ ッ プ ・( イ サ ン ・ ) ゴ ロ ー シ ェ キ ン 。 ウ ラ ル ・ ボ リ シ ェ ビ キ 代 表 。
更にもう1人、ソビエトの有力な人物でボリシェビキの、ボリス・ディヅコフスキー。
皇帝の将校の息子、ペテルブルグで育ち、カデット学校で勉強をし、ジュネーブの大学の
卒業生。優秀な鉱山技師であった。
彼らは、皆、決断力に富んだ若者であった。
この時、旧警護隊の狙撃兵達が蜂起した。彼らは、ロマノフ一家を何が待ち受けている
か、判ったからである。狙撃兵達は、客車のドアのところに立ち、誰も通さなかった。そ
の時、ヤコブレフは、最後のチャンスを賭けてみた。
コミッサールとは、与えられた課題を最後までやるものである。ヤコブレフは、再びモ
スクワとの連絡を要求する。
1時間半ほど、やり取りが行われた。3人は疲れ切った。3人は、待つことにうんざり
- 187 -
し た 。そ し て 、彼 ら は 言 明 す る : 彼 ら を 客 車 に 入 れ な い な ら ば 、赤 衛 隊 は 列 車 を 銃 撃 す る 。
ヤコブレフは、狙撃兵達を抑えた。
(8人の狙撃兵が武装解除され、夕方には、エカテリンブルグの牢屋に入れられた。そ
こ か ら 、 大 変 な 苦 労 を し て 、 ヤ コ ブ レ フ は 彼 ら を 連 れ 出 し た 。)
客 車 に 、 ベ ロ バ ロ ド フ が 入 る 。 全 権 代 表 と の 、 簡 単 な 挨 拶 の 後 、 ベ ロ バ ロ ド フ は 、「 受
領」の書類に署名をする。ヤコブレフは、客車から、皇帝を連れ出す。
1 0 年 後 、 画 家 プ チ ェ リ ン は 、 地 方 革 命 博 物 館 の た め に 、「 ロ マ ノ フ 一 家 の ウ ラ ル へ の
引き渡し」という題の絵を描いた。正に引き渡しであった。理由があって、ヤコブレフの
電 報 中 で は 、「 荷 物 」、「 ト ラ ン ク 」 の 言 葉 が 、 皇 帝 一 家 を 示 し て い た 。 彼 ら を 正 に 、 荷 物
のように取り扱った。貨物駅で、受領証まで。これらの点に、ウラルの革命家達の強烈な
ユーモア(? *)があった。
こ の 日 、エ カ テ リ ン ブ ル グ 貨 物 駅 に 、立 っ て い た 人 の う ち 、後 に 殺 さ れ た 人 : ニ コ ラ イ 、
妻、娘。彼らは、2ヶ月と少しで、銃殺されることになる。彼らを迎え入れた人、ゴロシ
ェキン、ベロバロドフ、ディヅコフスキー、は、20年後にはまた殺されることになる。
彼らは、自動車に別れて乗った。1台には、ニコライ、イパチェフスキー邸、或いは、
特別使命の家、の司令官に任命されているウラル出身のアブデーフ。公式文書では、アブ
デーフは、イパチェフの単語を用いず、特別使命の単語を用いた。ニコライと並んで、ベ
ロバロドフ。元皇帝は、今のウラル政府の要人と並んでいる。もう1台には、ディヅコフ
スキー、ゴロシェキン、マリアと皇后。
そして、後ろには、赤衛隊の兵士の乗ったトラックが。ニコライ自身は、運命の皮肉を
感 じ て い た 。な ん と も 、古 き 良 き 時 代 と 似 て い る こ と か 。駅 で は 、州 の 指 導 者 達 が 出 迎 え 、
兵士達が、家まで付きそうとは。
ニコライの日記から:
「列車は、他の貨物駅に移動した。およそ1時間半の停車後、列車から出た。ヤコブレ
フ は 、私 達 を 、地 方 コ ミ ッ サ ー ル に 引 き 渡 し た 。私 は 地 方 コ ミ ッ サ ー ル と 一 緒 に 車 に 乗 り 、
何 も な い 通 り を 進 み 、 私 達 の た め に 準 備 さ れ て い る イ パ チ ェ フ の 家 に 向 か っ た 。」
皇后の日記から:
「3時に、私達に、列車から降りるようにとの指示があった。ヤコブレフは、私達を、
ウラル・ソビエトに渡さざるを得ない。ウラル・ソビエトの代表は、私達を、自動車に招
い た 。 兵 士 達 の 乗 っ た ト ラ ッ ク は 、 私 達 の 後 に 続 い た 。」
このようにして、ヤコブレフと皇帝は別れた。
ウラル人はまじめな人間である。最初彼らは、明らかに、ヤコブレフを、狡猾なコミッ
サ ー ル と し て 、 信 じ て い な か っ た 。 ス ベ ル ド ロ フ に 仲 裁 を 求 め た 。「 ヤ コ ブ レ フ が 為 し た
こと全ては、私の命令を遂行するために、行ったことである。ヤコブレフを完全に信じて
良 い 。 ス ベ ル ド ロ フ 。」
ゴロシェキンは、熱烈なウラル人をなだめる術を理解した。4月30日朝、ウラル・ソ
ビ エ ト は 、ヤ コ ブ レ フ の 報 告 に 耳 を 傾 け た 。自 分 た ち で 決 議 を 出 し 、ウ ラ ル ・ ソ ビ エ ト は 、
全権代表の名誉を回復させた。
彼は誰だ?
ヤコブレフの履歴書には、更に驚くような方向転換がある。
5月末に、パボリジェ、南ウラル、シベリア、で、ボリシェビキに反対する、チェコ軍
団の反乱が起こった。
チェコ軍団との戦争のために、元帝国の将校で、社会革命党員であるムラビヨフを司令
官とする東方軍団が設立される。ウファとオレンブルグ地方における軍の1つの指揮が、
ヤコブレフに委任された。
しかし、7月10日、ボリシェビキに対して、ムラビヨフは、反乱を企てた。そして、
カザンで捕まえられ、処刑された。その時、ヤコブレフは、前線を放棄し、秘密裏に、白
軍 に 占 領 さ れ て い た 生 ま れ 故 郷 の ウ フ ァ に 戻 る 。 こ こ で 、 ヤ コ ブ レ フ は 、「 ボ リ シ ェ ビ キ
の 理 念 は 不 要 に な っ た 。」 と 宣 言 し 、 白 軍 に 加 わ っ た 。
ヤコブレフは、赤軍の兵士達に、アピールを出す:
「私はこの手紙で、諸君達の無責任な指導者達にではなく、一兵卒である諸君達に訴え
る。君たちの指導者達は、自分達の勝手気ままに、私達の悲惨でめちゃくちゃな祖国の運
命 を 支 配 し た 。・ ・ ・ 。
大衆は、ぶつぶつ不満を言い、抗議をし、臨終の痙攣にもがき苦しんでいる。反乱が勃
- 188 -
発する・・・。悲惨な国内戦が続いている。明日に日を信じるような、まともな人間はロ
シアにはいなくなった・・・。帝国の最後の日と同じように、大衆の我慢の限界を過ぎて
いる。ソビエト権力に、全ての人々が憤慨している。自己責任の困難さで、君たちを押し
つ ぶ し て い る 、 ソ ビ エ ト 権 力 は 。 倒 れ る 。・ ・ ・ 。 元 ボ リ シ ェ ビ キ ・ ウ ラ ル - オ レ ン ブ ル
グ 前 線 司 令 官 ヤ コ ブ レ フ 。」
予想外の最終章が続く:白軍に寝返ったヤコブレフを、白軍諜報機関の地下室で、慌た
だしく銃殺をする。全露執行委員会全権代表の最後はそのようなものであった。このこと
は、多くの読み物の中に書かれているので、よく知られている。
し か し 、 私 達 は 慣 れ て お く 必 要 が あ る : こ の 本 に 登 場 す る 人 物 は 、 時 折 生 き 返 る 。「 白
軍 に 銃 殺 さ れ た 」ヤ コ ブ レ フ は 、実 は 生 き て い た ! 特 別 重 要 な 事 件 に 関 す る 判 事 で あ り 、
秘 密 文 書 を 手 に す る こ と が で き た( 本 質 的 に 、ペ レ ス ト ロ イ カ 以 後 )、レ シ ュ キ ン 少 佐 は 、
秘密とされていた「ヤコブレフ文書」からの抜き書きを公刊した。
ヤコブレフは、中国で、ストヤノビッチの名の下で、幸運にも20年代を生きていた。
銃殺などは行われなかった。1919年、ヤコブレフは、あっさりとロシアから中国へ逃
亡 し た 。し か し 、ヤ コ ブ レ フ は 、1 9 2 7 年 に 、中 国 か ら ロ シ ア へ 戻 る こ と に 決 心 を し た 。
勿論、彼は、かって自分が組織した機関に自首する。長い審査の結果、彼に判決が出され
た。革命での功績が、彼を銃殺から救った。ヤコブレフは、悪名の高いソロベツキー収容
所送りとなった。その後、白海・バルチック海運河の建設に使役された。
し か し 、 レ シ ュ キ ン 判 事 は 、 自 分 の 論 文 で 、「 ス ト ヤ ノ ビ ッ チ と 同 じ く 、 ミ ャ チ ン を 裁
判 に か け て い た 」、 1 9 2 9 年 当 時 、 モ ス ク ワ で 高 い 地 位 に い た 、 元 チ ェ キ ス ト の 証 言 を
引用している。そして、ソビエトの調査機関の指導者であったアルチュル・アルチュゾフ
の次のような話を聞いた:
「国内戦では、任務のために、反逆者として、自分の名前を汚した犠牲者が多かった。
・・・。例えば、コスチャ・ミャチン。彼は、チェーカーの同意の下に、コルチャック側
に逃亡した。彼は中国に渡り、ストヤノビッチと同じように、多くの仕事をした。これに
ついては、未だ話をする時ではない。我々の諜報活動を駄目にしてしまうので。ミャチン
は模範的な定置諜報者であった。類は友を呼んだ。ストヤノビッチは戻らざるを得なくな
った。現在、彼は裁判にかけられている。が、一応形式である。我々は、直に彼を正しい
も の と 認 め 、 彼 に 勲 章 を 与 え る 。」
実 際 、 2 年 後 、 ヤ コ ブ レ フ を 、 期 限 前 に 自 由 の 身 と し た 。「 白 海 ・ バ ル チ ッ ク 海 運 河 に
おける骨身を惜しまぬ労働」から。
裏切りは本当にあったのか? 犯罪はあったのか? 真からのボリシェビキであったの
か? 信用できるチェキストであったのか? コスチャ・ミャチンは。 しかし、恐ろし
か っ た 1 9 3 7 年 、ス タ ー リ ン 圧 政 の 最 盛 期 、ヤ コ ブ レ フ は 全 て の 仕 事 か ら 追 放 さ れ た 時 、
彼 は ス タ ー リ ン 宛 に 必 死 の 手 紙 を 書 い た 。そ の 手 紙 の 中 に は 次 の よ う な 文 章 が あ っ た :「 同
じ罪で、私が再び処罰を受けるというのは、許されることですか?」
即ち、何らかの犯罪はあった? そして、それに対する処罰はあったのか? ヤコブレ
フの妻オリガが、自分の「追想記」で、犯罪について書いている。
3つの名前を持つこの謎の人物は、また、再び全てを混乱させた。彼は結局、どのよう
な人物であったのか?
信頼できるボリシェビキ? 模範的なチェキスト? それとも?
2つの勢力の中で、賭け事のような行動を、彼は行った。が、彼の熱狂的な行動は、自
分の秘密の任務の後、ヤコブレフは、ボリシェビキ内で、最終的に失望で終わった。彼は
判 っ た : 最 高 目 標 は 、 権 力 の た め の 下 劣 な 戦 い に 交 替 し て し ま っ た 、 と 。・ ・ ・ 。
しかし、ヤコブレフが白軍に逃亡した後、ヤコブレフは、気がついた。白軍は、元の赤
軍のコミッサールの彼を、全く信用せず、彼を憎んでいた。ヤコブレフの妻が、自分の回
想記の中で、語っている。夜、彼はよく眠れませんでした。悩んでいるようでした。口癖
に 言 っ て い ま し た :「 俺 は 何 を し て き た ん だ ! 」
そして、当時、この奇妙な人物は、自分の運命について、新しい転換を模索した:ヤコ
ブレフは、白軍から中国へと逃亡した。中国において、ヤコブレフは、著名な中国の革命
家スン・ヤトセンの相談相手となる。この革命家は、明らかに、ソビエトの諜報機関と接
触があった。
このようにして、ヤコブレフは、ロシアへの帰国の手段を模索した。しかし、彼は間違
っていた:彼は余りにも有名な人物であった。それ以上に、祖国には彼の敵が余りにも多
くいた。
彼の裏切りは許されなかった。気がつくと、収容所にいた。彼は、政府に、解放してく
れるように長い懇請状を書く。革命前の彼の功績を思い出しながら。即ち、その時、彼は
自分の追想記「ロマノフの最後の道」を書き上げる。収容されている中で、書かれたもの
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は、自分の功績を思い出す試みの一つとなった。しかし、この時、トロッキーは既に、祖
国 か ら 追 放 さ れ 、 ト ロ ッ キ ー 主 義 は 壊 滅 し て い た 。・ ・ ・ 。 皇 帝 を モ ス ク ワ に 移 送 し 、 裁
判にかけるという、トロッキーが望んでいたことを、書くことを、当然、ヤコブレフは心
配する。このかわり、ヤコブレフは、ウラル部隊を巻き込んだ、嘘を繰り返す:自分は、
最初から、皇帝を、エカテリンブルグに運んだ、と。ヤコブレフに反論できる、スベルド
ロフはもう亡くなっている。しかし、ウラルで、ヤコブレフの元同伴者であったマトベー
フ が 、 自 身 の 「 メ モ 帳 」 を 書 い て い た の を 、 ヤ コ ブ レ フ は 知 っ て い な い :「 ヤ コ ブ レ フ は
私を自分の所に呼び出し、任務を与える:軍事秘密任務を、私が遂行できるかどうかと。
私から確言を得ると、ヤコブレフは語った、元皇帝をモスクワに移送する任務が自分に課
さ れ て い る と 。」
ヤ コ ブ レ フ の 追 想 記 中 に は 、 最 も 重 要 な 質 問 に 対 す る 答 え は な い :「 何 時 、 ボ リ シ ェ ビ
キ の 思 想 を 捨 て た の か 。」 こ の 時 期 が 、 皇 帝 を 連 行 し て い た 後 で あ れ ば 、 全 て は 理 解 で
きる。が、もし、時期がその前であったとしたら?
ヤコブレフの任務旅行は、全く新しいものとなる。彼の物腰の柔らかさ、心おきない会
話 、・ ・ ・ 。 そ し て 、 最 後 に は 、 ヤ コ ブ レ フ の 署 名 の 付 い た 、 謎 め い た 電 報 を 、 ト ボ リ ス
ク で 、 皇 女 達 が 受 け 取 っ た :「 旅 は 恙 な く 進 ん で い ま す 。 貴 方 方 に 、 神 の 恵 み が あ り ま す
よ う に 。 ア レ ク セ イ の 健 康 は ど う で す か ? ヤ コ ブ レ フ 。」 ボ リ シ ェ ビ キ か ら の 言 葉 と し
て、全く予想できなかった言葉であった!
勿論、これは皇帝の電報である! ニコライ二世の最後の電報に、ヤコブレフは自分の
署名をして、発送した。自分の署名をして、ボリシェビキのコミッサールが、血のニコラ
イの電報を発送した?!
革命、ナポレオン******。3つの名前を持つヤコブレフは、自分自身で、3番目
の陰謀を企てたのかもしれない。それは、スベルドロフの陰謀があった。ゴローシェキン
の陰謀があった。が、彼の陰謀は絶望的であった。ヤコブレフは、オムスクの後、自分の
列車をモスクワに向けて行くつもりはなかったのかもしれない。興味ある記述が、皇后の
日 記 の 中 に 、 ち ら つ い て い た :「 4 月 1 6 日 ( 2 9 日 )、 列 車 で 。・ ・ ・ 。 オ ム ス ク の ソ ビ
エト代表が、私達がオムスクを通過することを許さない。私達を、日本に移送することを
恐 れ て と か 。」
真実は、ほのめかしにあった? 自分の目的について、秘密の任務を帯びていた全権代
表(=ヤコブレフ *)は、妻にだけは、ほのめかしたのかもしれない。そのように、推
測すれば、皇帝家族を伴った彼の行動がわかるのでは? ・・・。
しかし、不可避の結末が、革命を実行してきた彼らを、待っていた。1938年9月1
6 日 、最 後 の 皇 帝 の 同 行 者 で あ っ た 謎 の 多 い 、ヤ コ ブ レ フ 、ミ ャ チ ン 、ス ト ヤ ノ ビ ッ チ は 、
逮捕され、スターリン下の収容所で永久に姿を消した。ヤコブレフは、自分と一緒に秘密
を持ち去ってしまった。
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第3部
イパチェフ館の夜
第12章「最後の館」
町 中 の 、最 も 高 い 丘 の 上 に 、ボ ズ ネ セ ン ス キ ー 教 会 が そ び え 立 っ て い る 。教 会 と 並 ん で 、
幾つかの建物が集まって、ボズネセンスキー広場をつくっていた。
教 会 の 真 正 面 に 、1 軒 の 建 物 が あ っ た : 低 く 、ズ ン グ リ し て 、白 く 、厚 い 壁 を し て い る 。
正 面 全 体 に は 、石 の 彫 刻 が 施 さ れ て い る 。低 い 正 面 を し た 家 は 、広 場 と 教 会 に 面 し て い た 。
長い側面は、斜面に沿って、ボズネセンスキー通りに沿って、下っていた。この家の1階
と、半地下階の窓は、地面からようやく顔を見せていた。
これら半地下室の窓のうちの1つが、2本の木の間にあった。この窓こそが、あの部屋
・・・の窓であった。
しかし、家の中に入り、下っていくと、この事は全く判らない。家は、殆ど屋根まで、
高い塀で囲われていた。2階の窓の上部が、辛くも見えるだけであった。
家の周りには、警備隊が立っていた。
家の元の持ち主である、技師のイパチェフは、運が悪かった。ソビエトの中の、実力者
の1人であるピョートル・ボイコフは、鉱山技師の息子であった。そして、イパチェフの
家をよく知っていたのである。厚い壁を持った、この家を何度となく訪問していた。警備
には、都合の良い構造をしていたのである。
4月末に、イパチェフはソビエト本部に呼び出され、24時間以内に、自宅を明け渡す
よ う に 命 令 を さ れ た 。 そ の 時 に は 、 自 宅 は 、「 直 ぐ に 返 却 す る 」 こ と が 約 束 さ れ た の だ が
(イパチェフは、その時には、この言葉が、全く宛にならないことを、理解できるはずも
な か っ た 。) 全 て の 家 具 類 は そ の ま ま と し 、 他 の も の は 、 倉 庫 に し ま い 込 む よ う に 命 令
された。
コ ン ク リ ー ト 製 の 倉 庫 は 、1 階 に あ っ た 。殺 害 の 部 屋 と な っ た 、半 地 下 室 と 並 ん で い た 。
2台の自動車が、塀に沿ってやって来て、薄板製の門の所に到着した。
門 が 開 か れ た 。2 台 の 自 動 車 は 中 に 入 っ て い っ た 。こ の 後 、ニ コ ラ イ も 、ア リ ッ ク ス も 、
彼らの娘も、この門から出ることはなかった。
舗装された中庭を通り、彼らを本宅まで連行した。玄関には、木製の彫刻のある階段が
あり、2階まで続いていた。
階 段 の 所 に 立 っ て 、 ベ ロ バ ロ ド フ が 説 明 を し た :「 全 露 執 行 委 員 会 の 命 令 に 従 い 、 前 皇
帝ニコライ・ロマノフと、彼の家族を、ウラル・ソビエトの管理に委ねる。今後、赤手林
ブルグでは、拘留状態となるであろう。裁判まで。家の司令官に、アブデーフ同志が任命
さ れ た 。 全 て の 要 請 と 希 望 は 、 司 令 官 を 通 し 、 ウ ラ ル 執 行 委 員 会 に 出 す よ う に 。」
その後、2人のウラルの指導者達-ゴロシェキンとベロバロドフ-は、自動車に乗って
去って行った。皇帝家族は、司令官とディドコフスキー(? *)の随伴の元、彼らの新
しい住居を見て回った。
ニコライの日記より:
「三々五々に、私達は到着した。私達の荷物も。が、ワーリャ(=ドルゴルコフ *)
が 、 未 だ 到 着 し て い な い 。・ ・ ・ 。」
その通り、荷物は徐々に届いた。それらと共に、ボトキンと近侍達が。しかし、ドルゴ
ルコフは来なかった。ワーリャは駅から直接連行された。何処へ?・・・。
その後、ドルゴルコフの所で、2丁の拳銃と大金が見つかった、という噂が立った。こ
れ に つ い て 、「 元 の 警 護 隊 」 の 戻 っ て き た 狙 撃 兵 達 が 、 ト ボ リ ス ク で 伝 え た 。 何 故 、 ド ル
ゴルコフの所に拳銃があったのか? しかし、ともかく、ニコライは、ドルゴルコフを見
ることはない。ドルゴルコフ公爵は、永遠に消えてしまった。
が、ドルゴルコフ公爵の痕跡は、探査者ソコロフに、パリで与えられた、ゲオルギイ・
リボフの証言に見ることができる。
またもや歴史の皮肉が:最後の皇帝を引きずり下ろし、逮捕した、臨時政府の首相であ
ったリボフ公爵は、10月政変後、ボリシェビキによって逮捕された! 更に、1918
年には、リボフ公爵は、エカテリンブルグの刑務所に入れられた。そこは自宅の近くであ
った。1年前に、自分が逮捕した皇帝の入っていた刑務所であった。この前首相は、刑務
所での、知人、ドルゴルコフ公爵との出会いについて述べている。ドルゴルコフは、自分
の 所 に あ っ た 皇 帝 の 資 金 が 、「 コ ミ ッ サ ー ル 達 」 に よ っ て 、 取 り 上 げ ら れ た こ と を 、 嘆 い
て い た 。そ の 嘆 き 話 も 長 く は な か っ た 。直 に 、ド ル ゴ ル コ フ は 、「 モ ス ク ワ に 移 送 さ れ た 」
からである。しかし、実際には・・・。
皇 帝 家 族 の 銃 殺 に 参 加 し た 、 チ ェ キ ス ト の 息 子 で あ る メ ド ベ ー ヂ ェ フ の 話 か ら :「 若 い
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チェキスト、グリゴリイ・ニクーリンが、ドルゴルコフを銃殺した。ニクーリン自身がそ
う語った。私はもう全てを詳細に覚えてはいない。ニクーリンは、ドルゴルコフをトラン
クに入れて、森の中に運び去った、のを覚えている・・・。その後、このトランクを運ぶ
時 、 皆 は 、 悪 口 雑 言 を 浴 び せ た 。」
冬宮での、輝かしいダンスパーティで、礼儀正しく、ダンディな、この人物は、このよ
う に し て 、 殺 さ れ た 。・ ・ ・ 。
ニコライの日記から:
「 家 は 、立 派 で 綺 麗 で あ る 。私 達 に 4 部 屋 が 割 り 当 て ら れ た : 角 に あ る 寝 室 、手 洗 い 所 、
庭に面した窓があり、町の低い方がよく見える食堂、最後に、ドアの替わりに出入り用の
門のある広いホール。
次 の よ う に 、割 り 当 て た : ア リ ッ ク ス 、マ リ ア と 私 は 、寝 室 に 3 人 で 。手 洗 い は 共 通 で 。
食堂には、デミドワ。ホールには、ボトキン、チェモヅロフとセドノフ。風呂と水洗トイ
レ に 行 く た め に は 、歩 哨 の 脇 を 通 ら な け れ ば な ら な い 。家 の 周 り に は 、窓 の 高 さ よ り 高 い 、
非 常 に 高 い 板 塀 が 巡 ら さ れ て い る : 至 る 所 に 歩 哨 が 立 っ て い た 。 中 庭 に も 。」
ここで、最後のドラマが展開をする。王朝の最後のドラマが。
最後の舞台装置
皇帝と皇后は、4つの窓のある、角の広い部屋で生活することになる。2つの窓は、ボ
ズネセンスキー大通りに面している。窓からは、教会の尖塔の上の十字架が見えるだけで
ある。他の2つの窓は、人通りのないボズネセンスキー路地に面している。色あせた波状
のフリーズがあり、薄黄色の壁紙のある室内は結構明るい。
絨毯の敷かれた床の上には、机、電気スタンド、トランク机。窓の間には、本棚。アリ
ックスはそこに本を並べた。2台のベット(その内の1台には、アレクセイがトボリスク
か ら 移 送 さ れ た 後 、 ア レ ク セ イ が 横 た わ る こ と と な る 。) と 、 ソ フ ァ ー ベ ッ ト が あ る 。
ア リ ッ ク ス の 化 粧 台 は 、 鏡 付 き で 、 両 側 に 2 つ の 電 灯 が つ い て い る 。 机 の 上 に は 、「 皇
帝の宮廷用薬箱」の記載がされた小瓶。今では、この記載が、奇妙に見える。
ひび割れた大理石板製の洗面台、洋服ダンス。今では、このタンスだけに、皇帝と皇后
の 全 て の 服 が 収 ま っ て い る 。・ ・ ・ 。
ボズネセンスキー路地には、更に、もう1つの人の入っていない大きな部屋が面してい
る。この部屋には、机、椅子、そして、姿見がある。この部屋に、その後、4人の皇女達
が住むことになる。彼女たちは5月にやってくる。そして、彼女らに適当なベットが運び
込まれるまでの間、彼女らは、床に敷いたマットレスの上で寝ることになる。
これらの部屋は、あの半地下室のちょうど真上に位置していた。
皇女達の部屋に隣り合っている、庭に面した食堂には、アンナ・デミドワが休んだ。大
きいホール(客間)には、ボトキン、チェモヅロフ、セドネフ。
さらに、閉鎖されている、もう1部屋があり、アレクセイ用に予定されていた。
皇女達の部屋の斜め向かいには、司令官室。司令官室には、金の縁取りのされた壁が張
られ、鹿の頭部の剥製が置かれていた。司令官室の隣には、守衛のための部屋が割り当て
られた。
手 洗 い 所 の 飾 り 付 け を 終 わ っ た ( 皇 帝 は こ の 箇 所 を 「 水 洗 便 所 」 と 名 付 け た 。) イ パ
チェフが残した便器は、警備兵達で汚されることになる。手洗い所に描かれた卑猥な絵の
中 に は 、皇 后 と ラ ス プ ー チ ン を 示 す も の が あ っ た 。卑 猥 な 言 葉 も 書 か れ た 。そ れ ら の 中 に 、
紙 に 書 か れ 、 ピ ン で 壁 に 留 め ら れ た も の が あ っ た :「 * * * * * 。」「 椅 子 を 、 元 の 通 り 、
綺 麗 に 使 う よ う に 、切 に 、お 願 い し ま す 。」 こ れ は 、元 皇 帝 と ボ ト キ ン の 共 作 で あ っ た 。
部 屋 に 入 る と 、ア リ ッ ク ス は 、右 側 の 窓 辺 に 近 づ き 、側 柱 に 、鉛 筆 で 、自 分 の 好 き な 印 、
「 カ ギ 十 字 」 と 、 到 着 日 を 書 い た : 1 7 ( 3 0 )。
他の「カギ十字」を、アリックスは、呪いのように、ベットの上の両側に直接描いた。
このベットで、アレクセイは寝ることになるのだが。
4 月 1 7 日 ( 3 0 日 )。 状 況 を 知 ら な い ま ま に 、 ア リ ッ ク ス は 、 最 後 の 皇 帝 と 共 に 、 最
後の陰謀の開始の日を、書き残していた。
陰謀は直ぐに始まった。
最後の陰謀(拘留者のウラルにおける日記)
届いた品物を、廊下に引き出し、元幼年学校の生徒であった、現在、ウラル執行委員会
の委員であるディトコフスキーと、元組み立て工であり、現在、司令官であるアブデーフ
が検査を開始した。
トランクを開け放し、注意深く検査をした。アリックスの個人旅行鞄を検査した。アリ
ックスが、ツアルスコエ・セローから持参してきていたカメラを没収した(これは覚えて
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お く こ と ! )。 司 令 官 ア ブ デ ー フ が 、 自 分 の 「 追 想 記 」 に 書 い て い る よ う に 、「 エ カ テ リ
ンブルグの詳細な見取り図」も、没収した。皇帝一家がモスクワに行く予定であったとし
た な ら ば 、ア リ ッ ク ス の 鞄 の 中 に 、町 の 見 取 り 図 が 入 っ て い た の で あ ろ う か ? と に か く 、
そこにあったのであろう。ドルゴルコフ公爵から2丁の拳銃が「発見」されたように。
薬瓶も開けられた。アリックスの移動用薬箱もひっくり返された。
ニコライの日記より:
「 4 月 1 7 日 ( 3 0 日 )。 検 査 は 、 税 関 の よ う に 細 か か っ た : ア リ ッ ク ス の 薬 の 小 瓶 の
中まで。これは私を腹立たしくさせた。私は、コミッサールに、厳しく自分の意見を述べ
た 。・ ・ ・ 。」
アリックスはこの検査の理由を分かってはいない。アリックスは神経質になり、憤慨す
る :「 * * * * * ! 」 彼 女 の ア ク セ ン ト は 、 検 査 を 行 っ て い る 物 達 に 、 笑 い を 引 き 起 こ
し た : 前 皇 后 の 無 力 の 怒 り が 可 笑 し か っ た 。革 命 家 の「 ケ レ ン ス キ ー 氏 」の 名 前 さ え 出 し 、
少 な く と も 彼 の 方 が 紳 士 的 で あ っ た と 、ア リ ッ ク ス は ぶ つ ぶ つ と 言 い な が ら 、怒 り 続 け る 。
「 紳 士 的 」 と い う 言 葉 は 、 元 組 み 立 て 工 の ア ブ デ ー フ を 、 本 当 に 可 笑 し く し た 。・ ・ ・ 。
遂 に 、 ニ コ ラ イ が 辛 抱 を 切 ら し た 。 ニ コ ラ イ は 言 う :「 今 ま で 、 私 達 は 、 礼 儀 正 し い 人 達
と一緒であった!」 この言葉は、君主として育ってきた人間の、怒りの最も激しい表現
であった。
その後、この検査は、どうなったのか?
赤色ウラルの首都における、新しい生活の状況を、彼らに見せびらかすために? しか
し、ほんの僅かだけを。
宝 石 類 が 捜 索 さ れ た 。 伝 説 と な っ て い る 皇 帝 の 宝 石 ・ ・ ・ 。「 ス パ イ ( ? * )」 は 警
戒 を 怠 ら な か っ た 。 他 人 が い る 時 に は 、 宝 石 に つ い て 話 を す る 時 、 ア リ ッ ク ス が 、「 薬 」
と言う単語を使用していたことは、トボリスクでは有名であった(エカテリンブルグから
娘 達 へ の 手 紙 の 中 で 、 ア リ ッ ク ス は 、 宝 石 の こ と を そ の よ う に 呼 ぶ よ う に な る 。) 警 備
隊が、薬の入った小瓶を、かくも念入りに調べたのは、その様な訳であった。しかし、何
も見つけられなかった・・・。
今や明らかになった:宝石はトボリスク残っている。
厳しい検査の第3の理由があった。この理由も重要であった。エカテリンブルグへの家
族 の 到 着 日 か ら 、「 君 主 制 主 義 者 の 陰 謀 」 の 証 拠 固 め が 始 ま る 。 そ れ 故 、 証 拠 と し て カ メ
ラを没収した。皇后の持ち物から、エカテリンブルグの見取り図も没収した。これも証拠
で あ る 。ワ ー リ ア か ら 取 り 上 げ た と い う 、2 丁 の 拳 銃 の 噂 も 、ま た 証 拠 と し て 付 け 加 え る 。
エ カ テ リ ン ブ ル グ 駅 か ら 、皇 帝 を 巻 き 込 ん だ 最 後 の 陰 謀 が 始 ま っ た : 私 達 を こ の 陰 謀 を 、
「君主制主義者の陰謀」と命名する。
陰謀。その加担者達は、銃殺に値する!
「正しい罰」は、最初から決まっていた・・・。
ニコライの日記より:
「 4 月 2 1 日 ( 5 月 4 日 )・ ・ ・ 。 朝 中 、 娘 達 に 手 紙 を 書 い た 。 こ の 家 の 見 取 り 図 を 描
い た 。」
トボリスクにいる子供達に、将来の住居の様子を、ニコライは知らせたい。この狭い家
を 見 て 、 そ の 準 備 を 、 ニ コ ラ イ は す る 。 し か し :「 4 月 2 4 日 ( 5 月 7 日 )・ ・ ・ 。 一 昨
日 、子 供 達 の た め に 私 が つ く っ た 、手 紙 に 入 れ た 、家 の 見 取 り 図 を 、司 令 官 ア ブ デ ー フ は 、
引 き 出 し た 。 彼 は そ れ を 没 収 し 、 こ れ は 発 送 を 禁 止 す る 、 と 語 っ た 。」
自 身 の 「 回 想 記 」 で は 、 こ の 件 に つ い て 、 ア ブ デ ー フ は 、 別 の 書 き 方 を し て い る :「 あ
る時、私による手紙の検閲で、ニコライ・ニコライビッチ宛(! 著者)の、ある手紙に
注意が向いた。封筒の裏面を精査すると、薄い紙片を見つけた。それには家の見取り図が
描 か れ て い た 。」 さ ら に 、 ア ブ デ ー フ は 書 い て い る 。 ニ コ ラ イ を 司 令 官 室 に 呼 び 出 し た
こ と を 。 嘘 を つ き 、 否 認 し 、 司 令 官 に 赦 免 を 願 い 出 た こ と を 。・ ・ ・ 。 こ れ は 単 な る 虚 構
ではない。封筒の裏面に隠されていたという家の見取り図は、更にもう1つの「反駁でき
な い 証 拠 」 と な る 。 こ の よ う に 、「 驚 く べ き ニ コ ラ イ 、 正 体 の ば れ た ニ コ ラ イ 、・ ・ ・ 」
がつくられた。********。
そして、トボリスクから子供達がやってくる。彼らと一緒に、宝石がやってくる。
「小窓を開けて、新鮮な空気を吸った」
「 4 月 1 7 日 ・ ・ ・ 。守 衛 は 食 堂 近 く の 2 つ の 部 屋 に い た 。浴 室 と 便 所 に 行 く た め に は 、
彼らの脇を通り抜けなければならなかった」
し か し 、 既 に 、 4 月 2 0 日 に は 、 守 衛 は 、 下 の 部 屋 に 移 っ た 。 そ こ に は 、「 あ の 部 屋 」
があった。かって豪華な宮殿暮らしをしていた家族は、ようやく、この新しい生活になれ
- 193 -
るようになった。彼らに「羞恥心の思い」を強いることがなくなったのは、嬉しかった。
「トイレと風呂に行くのに、守衛の前を通らなくても良くなった。さらに、タバコの悪臭
の 中 を 食 堂 に 行 か な く て 良 く な っ た 。」
イ パ チ ェ フ の 家 に 彼 ら が 到 着 し た そ の 日 に 、 ウ ラ ル ・ ソ ビ エ ト の 決 定 に 従 い 、「 う わ べ
の肩書きで呼ぶことが廃止」された。召使いが、ニコライを「閣下」と呼んでいないか、
アブデーフは、注意を怠らなかった。今や、元皇帝ニコライは、ニコライ・アレクサンド
ロビッチ・ロマノフと呼ばれることになる。
「 4 月 1 8 日 ( 5 月 1 日 )。 5 月 1 に に に 関 係 し た も の で あ ろ う か 、 行 進 曲 ら し い も の
が聞こえた。庭に出ることは、今日は許されなかった。風呂で洗濯をしたかったが、水が
出なかった。私は清潔好きなので、これでは本当に陰鬱だ。天気は素晴らしい、太陽は明
る く 輝 き 、 開 け た 小 窓 の 所 で 、 空 気 を 吸 っ た 。」
ちょうど1年前、ツアルスコエ・セローで、逮捕された元皇后は、この日のことを、激
怒 し た 言 葉 で 記 し て い る :「 1 9 1 7 年 4 月 1 8 日 。 外 国 で は 、 5 月 1 日 。 こ の た め 、 我
が国の木偶の坊達は、この日を、通りを行進して祝うことに決めた。歌や、楽曲や赤旗を
持 っ て ・ ・ ・ 。」
そもそも、牛というものは、赤色が嫌いである。
さ て 、 ニ コ ラ イ は 、 既 に 、 イ ラ イ ラ し な い 方 法 を 覚 え て き た :「 開 け た 小 窓 の 所 で 、 空
気 を 吸 う 。」 こ れ で 幸 せ 。「 風 呂 で 洗 濯 を す る 。」 こ と は 、 か な わ ぬ 夢 と な る 。
しかし、段々、うまく行くようになった。散歩にも出られるようになった。2時間だけ
だが。ドルゴルコフは戻ってくる、とニコライはまだ信じていた。また、ニコライの信頼
をおいていた知人等に関して、ニコライは本当に心配をしていた:
「 4 月 2 0 日 ( 5 月 3 日 )。 噂 で は 、 ワ ー リ ア は ま だ 解 放 さ れ て お ら ず 、 審 査 が 行 わ れ
て い る ら し い 。 そ の 後 、 ワ ー リ ャ は 解 放 さ れ る ! と か 。 * * * * * * * * * * * 。」
この時期の、ニコライの生活は、ウラル労働新聞の編集長ボロビエフという者が、書き
残している。革命家としての階級的な視点を残しながら書いている:
「司令官以外に、当初は、イパチェフ邸には、地区執行委員会の委員が交代で、当直に
つ い て い た 。 員 数 外 で 、 私 が そ の 様 な 当 直 に つ く 機 会 が あ っ た 。・ ・ ・ 。 逮 捕 者 達 は 、 私
達にどのような態度をとっているのか気にはなっていた。ニコライは、うつろな視線で私
を見ていた。黙ってうなずいた・・・。マリア・ニコラエブナは、逆に、愛想を持って、
私 を 見 て い た 。何 か 質 問 を し た そ う で あ っ た 。が 、寝 起 き の 顔 に 気 が つ き 、微 笑 み な が ら 、
顔を窓の方にそむけた。
アレクサンドラ・フェドロブナは、憎々しげな女であり、慢性の偏頭痛と胃弱を患って
いた。私を一瞥もしなかった。頭に湿布を巻いて、ソファーベットに横たわっていた。
一日、私は警備司令部にいた。目の前に、警備報告書があった。散歩(逮捕者達に、初
め て 、 1 日 2 回 の 散 歩 が 許 可 さ れ た 。) の 時 、 ニ コ ラ イ は 、 歩 兵 式 の 歩 幅 で 、 道 の 長 さ を
測っていた。
ア レ ク サ ン ド ラ ・ フ ェ ド ロ ブ ナ は 散 歩 を 断 っ た ・ ・ ・ 。」
勤務の最後に、元皇帝は、ボロビエフにウラル労働新聞を予約購読したいと申し出た。
ニコライは、もう2週間も、新聞を読んでいなかった。非常に、読みたがっていた。ボロ
ビエフは予約購読を請け負い、元皇帝に、購読料金を支払うように申し入れた。
ウラル労働新聞に、元皇帝の銃殺に関する最初の声明が掲載されることになる。
「5月1日。火曜日。トボリスクから手紙をもらって嬉しかった。私はタチヤーナから
も ら っ た 。 朝 中 、 み ん な で 手 紙 を 読 み あ っ た 。・ ・ ・ 。 1 日 に 1 時 間 だ け 散 歩 が 許 可 さ れ
る と 、 ボ ト キ ン を 通 じ て 、 今 日 連 絡 が あ っ た 。 疑 問 :「 何 故 ? 」 「 刑 務 所 管 理 と 同 じ な
た め ・ ・ ・ 。」
5 月 2 日 。「 刑 務 所 管 理 」 が 続 く 。 朝 、 年 配 の ペ ン キ 屋 が 、 私 達 の 部 屋 の 全 て の 窓 に 、
石灰を塗った。霧の中にいるようだ・・・。
5 月 5 日 。 室 内 は 薄 暗 い 。 退 屈 で あ る ・ ・ ・ 。」
自分の50歳の誕生日を前にして、ニコライはこのように書いていた。
衛兵
家 の 中 で は 、チ ェ ー カ ー か ら の「 ラ ト ビ ア 兵 」と 若 い 労 働 者 達 が 、拳 銃 と 爆 弾 を 持 っ て 、
階段の所で、警備をしている。労働者は、アブデーフが地元のズロカゾフスキー工場から
選び出した者達である。ロシア革命に参加した、オーストリア-ハンガリーの捕虜と、ラ
ト ビ ア 出 身 の 狙 撃 兵 を 、「 ラ ト ビ ア 兵 」 と 呼 ん で い る 。 ラ ト ビ ア 兵 は 無 口 で あ っ た 。 彼 ら
- 194 -
の会話を労働者達は理解できない。
家 の 内 部 の 警 護 兵 達 は 、 1 階 の 部 屋 に 住 ん で い る 。「 あ の 」 部 屋 と 並 ん で い る 。 警 護 隊
の一部は、向かい側にある「パポフの家」に住んでいる。家の呼称は、前の所有者の名で
呼んでいる。
外の警護-家の周り-は、工場の労働者達が担当している。
家の前に車が。アブデーフは、運転手として、自分の姉妹の夫である、セルゲイ・ルハ
ノフを指名した。彼ら(? *)の長男を、警護隊に採用した。皇帝の警備は、うらやま
しい仕事であった。給料が支払われ、食糧が供給されたので、生きて行けた:国内戦時に
は 、 死 ぬ ほ ど で は な か っ た 。・ ・ ・ 。
アブデーフ自身は、家には住んでいない。夕刻には、自分の住まいに戻っていく。家に
は、彼の補佐として、同じく工場労働者のモシュキンが残る。
モシュキンは、陽気な酒好きである。司令官がいなくなると、モシュキンは、娯楽をし
始める。警備兵室から、そこに運び入れたピアノが鳴り響く。アコーディオンのもとで歌
を歌う。夜中中楽しむ。警備兵達は酒を飲んで騒ぐ・・・。
朝9時に、アブデーフが現れる。アブデーフは、この仕事を気に入っている。が、元組
立 工 で あ っ た こ と は 、一 度 な り と も 忘 れ な い 。そ れ で 、ア ブ デ フ は 、組 立 工 を 遇 し て い る 。
今 は 、 彼 の 得 意 絶 頂 の 時 で あ る 。・ ・ ・ 。 皇 帝 家 族 の 要 請 を 、 彼 に 伝 え る と 、 彼 は 答 え る
:「 全 く 駄 目 だ ! 」 そ し て 、 狙 撃 兵 達 の 印 象 が ど の よ う な も の か 、 勝 ち 誇 っ た よ う に 見
る。皇帝家族達の部屋から戻ると、司令官室で、彼に要請された件、彼が拒否した件を、
列挙する。
司 令 官 ア ブ デ ー フ 、ウ ク ラ イ ナ 人 の 警 備 兵 、出 目 金 の 男 - 皇 帝 に 日 記 に 、新 し い 名 前 が 。
彼 ら は 交 替 さ せ た 。 ビ ッ テ 伯 爵 、 ス ト ル イ ピ ン 、 ヨ ー ロ ッ パ の 君 主 達 、・ ・ ・ を 。
「 4 月 2 2 日 。 夕 方 、 ウ ク ラ イ ナ 人 達 と 、 ボ ト キ ン と 、 長 い 話 し 合 い を 行 っ た 。」 * *
****。
「 ウ ク ラ イ ナ 人 の 替 わ り に 、 私 の 敵 「 出 目 金 男 」 が 座 っ た 。」( 以 前 に は 、 彼 ( = ニ コ
ラ イ * ) に は 、 敵 - ウ イ ル ヘ ル ム 皇 帝 - が い た 。)
ここで止めよう。
ニコライの、終わりから2番目の、50番に当たる日記を読み終えて、総括をすること
ができよう:
ニコライを、真から煩わしたもの、ニコライを本当に不安にさせたもの、そして、ニコ
ラ イ の 心 の 中 の 激 し い 動 揺 は 、個 々 の 文 章 の 中 に 、ち ら つ い て い る 。・ ・ ・ 。い や 、い や 、
ニ コ ラ イ は 、文 才 は あ っ た 。母 親 へ の 彼 の 手 紙 や 、退 位 宣 言 書 を 思 い 出 せ ば 、十 分 で あ る 。
ニコライの日記の形式は単純である。短い文で、平静な文中に、私達は、私達の主人公
を知覚することを習得する必要がある。
ニ コ ラ イ は 控 え め で あ り 、 口 数 が 少 な か っ た 。・ ・ ・ 。 塗 り つ ぶ さ れ た 窓 に つ い て 、 ア
ブデーフ、ウラル兵との話を書き止めている。ついでに触れたかのように、極短く:
「 朝 と 夕 方 、 い つ も の 通 り 、 声 を 出 し て 、 福 音 書 を 読 ん だ 。」
「そして、春には、キリストは、復活しなかった。」
エカテリンブルグへの彼らの強制移動は、受難週の日々と一致していた。
1 9 1 8 年 の 復 活 大 祭( = パ ス ハ 4 月 か ら 5 月 の 間 日 程 不 定 * )が 近 づ い て き た 。
祖 国 を 血 で 溢 れ さ せ た ・ ・ ・ 。「 血 に 濡 れ た ロ シ ア ・ ・ ・ 。」
受難者(多分キリスト *)の偉大なるこれらの日々に、十字架に架けられる時が近づ
いてきた時に、彼ら(=皇帝一家 *)は、イパチェフの家に入った。神秘主義者の我ら
が主人公(=ニコライ *)にとって、その様な期間に、イパチェフの家に出現したこと
は、十分に意味があった。ニコライは、その前兆を感じ取らなければならなかったのであ
る。
パスハ期間の第3日目に、モスクワから、皇后の妹のエーラがやって来た。最初、エー
ラ と 、彼 女 の 住 み 家 で あ る マ ル フ ォ ・ マ リ ン ス キ ー 修 道 院 に は 、新 政 権 は 関 わ ら ず に い た 。
エ ー ラ は 、 最 後 の 手 紙 の 内 の 1 つ で 、 書 い て い た :「 私 達 は 、 ま だ 、 棘 の 冠 を か ぶ る ま で
に は 至 っ て い な い こ と は 、 は っ き り し て い ま す 。・ ・ ・ 。」 彼 女 の 好 ん だ 考 え :「 侮 辱 と
苦 悩 は 、 私 達 を 神 へ と 導 く 。」
そして、エーラの、十字架への道が始まった。パスハの時、逮捕したエーラを、エカテ
リンブルグへ移送した。エーラは、そこのノボチフビンスキー修道院に住んだ。直にそこ
から、皇帝家族に食料を運ぶことになる。しかし、5月末には、エーラは更に、150k
m程離れた、遠方の、アラパエフスクという小さな町に、移送された。ここに、ペテログ
ラードから移送されたロマノフ一族が集められた:ニコライの少年時代の友達であったセ
ルゲイ・ミハイロビッチ、コンスタンチン大公の3人の息子。彼らにパーベル大公の息子
- 195 -
で17歳の詩人であるパーレイ公爵、が加わった。
パスハでは、彼らは、エーラから土産をもらった。勿論、手紙。
棘の冠は、エーラの大事なテーマであった。彼女は、パスハの間、これについて、彼ら
の書くことができなかった。ニコライと、彼の父に尊敬されていた、ヨハン・クロンシュ
タ ッ ト ス キ ー が 、 説 教 を し て い た :「 不 幸 や 苦 悩 を 耐 え た 、 キ リ ス ト は 、 神 の 慈 悲 と 英 知
に、全く疑いを持っていない。苦悩の中に現れる神のご意志を、どこまでも、見抜かなけ
れ ば な り ま せ ん ・ ・ ・ 。 あ の イ サ ク は 、 神 の た め に 犠 牲 を 払 っ て い ま す ・ ・ ・ 。」
「 苦 悩 の 中 に 現 れ る 神 の ご 意 志 を 、 ど こ ま で も 、 見 抜 か な け れ ば な り ま せ ん 。」 そ の
通り、ニコライは、この期間に、深く考えなければならなかった。
当時起こっていた、重要な出来事が、それらの見解と一致した。
日 記 か ら :「 5 月 6 日 ・ ・ ・ 。 5 0 歳 ま で 生 き て き た 、 自 分 な が ら 不 思 議 だ ・ ・ ・ 。」
ロマノフ一族のものが、50歳まで生きながらえるというのは、珍しい。ロマノフ王朝
では、皇帝は短命であった。神がニコライに、このような長命を授けた・・・。自身の国
に拒否をされたニコライに、何故、神は授けたのか? *********。
棘の冠?
********************。
贖罪は?・・・。多分、贖罪のために全人生を? 「神の意志を、少しでも推量せ
よ」!!!
日々は、ゆっくりと、単調に過ぎていく。鈍調で、辛抱強い「子牛」は・・・。いや。
「子羊」は?
アリックスの方はどうなっているのか?
彼女は窓にペンキが塗られて薄暗くなった室内のベットに横たわっていたり、車付きの
椅 子 に 座 っ て い た り 。 頭 に 包 帯 を 巻 い て ( 偏 頭 痛 で あ っ た )。 皇 后 を 散 歩 に 連 れ 出 す の は
希となる。アリックスは空想をし、宗教本を読み、刺繍をし、絵を描く。彼女の小さい水
彩絵具は、家中に散らばっている。
神の手になる君主を、警備している下銭の者達を、アリックスは本当に軽蔑をする!
し か し 、 警 備 兵 は と い う と 、 皇 后 に 敬 意 を 表 し て い る 上 に 、 皇 后 を 恐 れ て も い る 。「 皇 帝
は 、 た だ の 人 間 で あ っ た 。・ ・ ・ 。 が 、 ア レ ク サ ン ド ラ ・ フ ェ ド ロ ブ ナ は 、 並 の 女 で は な
か っ た 。 や は り 皇 后 で あ っ た ! 」( そ の 様 に 、 後 に 、 警 護 兵 達 が 語 っ て い る 。)
ア リ ッ ク ス は 、 解 放 さ れ る こ と を 、 第 1 に 期 待 し て い る 。「 修 道 者 」 が 、 彼 ら を 守 っ て
いるはずである。途中、彼の村が目の前に現れたのは、訳があってのことである。
実際、彼らを解放する軍隊が、すでに近くまで来ている。ロシア全体が戦火の最中にあ
ることを、アリックスは知っている。きたで、南で。西で、東で。国内戦である。
ト ボ リ ス ク の 家 に い る 娘 達 と の 文 通 で 、ア リ ッ ク ス は 半 分 暗 号 め い た 文 章 を 用 い て い た 。
「 本 当 に 必 要 な 時 の 薬 を 、 エ カ テ リ ン ブ ル グ ま で 持 参 し て 下 さ い 。」 ト ボ リ ス ク の 友 人
達は、宝石類は、赤色ウラルの大変な首都に運び入れないで、トボリスクの信頼できる人
に預けるように要請したが、アリックスは聞き入れなかった。何となれば、解放がちかず
いている、と信じていたからである。そのため、宝石類が必要であった。
トボリスクでは、タチヤーナの指示の下で、子守のサーシャ・テグレバと、彼女の手伝
い リ ザ ・ エ ル ス ベ ル グ が 、宝 石 類 を 移 送 す る 準 備 を 始 め る : 宝 石 類 を 偽 装 す る 。宝 石 類 を 、
胴回りに縫いつける:2枚の胴回りを重ね、その間に宝石類を縫い込む。
ダ イ ヤ モ ン ド と 真 珠 は 、 ボ タ ン の 中 に 隠 し 、 ビ ロ ー ド の 帽 子 の 中 に 縫 い 込 む 。・ ・ ・ 。
し か し 、全 部 の 宝 石 類 を 運 び 出 す こ と は で き な い 。「 ロ マ ノ フ 家 の 宝 石 」の あ る 部 分 は 、
トボリスクの「献身的な友人」の所に、残る。皇帝家族が亡くなって、15年後、それら
は再び姿を現す・・・。
合同国家政治保安部のスベルドロフ関係古文書からの抜き書き(これらの文書を、ある
人 物 が 、 私 に 教 え て く れ た 。 こ の 本 で は 、 こ の 人 物 の こ と は 「 客 」 と し て 登 場 す る 。):
「前皇帝ニコライ・ロマノフ一家の財宝探査に関する資料:
極 秘 ・ ・ ・ 。長 期 に わ た る 調 査 の 結 果 、1 9 3 3 年 1 1 月 2 0 日 、ト ボ リ ス ク に お い て 、
皇帝家族の財宝を没収した。これらの財宝は、皇帝家族がトボリスクにいた時、皇帝家族
の近侍チェモヅロフによって、トボリスク・イワノフスキー修道院の女史修道院長ドルジ
ナ の 委 員 長 に 渡 さ れ 、 保 管 さ れ て い た も の で あ る 。」
この修道院こそが、皇帝家族が、それ以後の生活を夢見ていた場所であった。
「死を目前としたドルジナは、財宝を、自分の手伝いであった、管長マルファ・ウジェ
ンツオバに渡した。彼女はこれら財宝を、修道院の井戸、修道院墓地、その付近に、隠し
た 。」
しかし、修道院が閉鎖された後、修道士達が追放された時、マルファには、皇帝の財産
を隠す場所がなくなった。皇帝家族を殺した物達が、権力をとらないようにすることを、
- 196 -
彼 女 は 決 心 を す る 。・ ・ ・ 。
「 1 9 2 5 年 か ら 1 9 2 9 年 の 期 間 、マ ル フ ァ は 財 宝 を 川 に 投 げ 捨 て る つ も り で あ っ た 。
しかし、元トボリスクの漁業経営者コルニロフによって、この考えを思いとどまることに
な っ た 。 彼 の と こ ろ が 、 財 宝 の 一 時 の 保 管 場 所 と な っ た 。」
コルニロフの家には、皇帝の従者が住んでいた。
マルファが、皇帝の財宝について、誰かに相談をしたのであろうか、それとも、うっか
りと話してしまったのであろうか。どちらかであることは明らかである。しかし、マルフ
ァは、新しい時代が到来し、財宝に関して話をしてはいけない、ということを理解してい
なかった。
「その年の10月15日に逮捕されたマルファは、皇帝の財宝の保管について、白状を
し た 。 そ の 場 所 も 示 し た 。 示 さ れ た 場 所 に は 、 財 宝 は な か っ た 。」
マルファは、自分に委託された皇帝の財宝を助けるために全力を傾けた。しかし、彼女
には大分前から、尾行がついていた。
「スパイの嫌疑で、コルニロフが逮捕された。トボリスクに移されたコルニロフは、財
宝の今の隠し場所を示した。コルニロフの指示に従い、木の桶の中におかれた、大きな2
つのガラス製の壺の中に入っている財宝が没収された。それらは、コルニロフの家の地下
室 に 埋 め ら れ て い た 。」
コ ル ニ ロ フ の 家 の 床 下 か ら 、 皇 帝 の 財 宝 が 掘 り 出 さ れ た 。「 没 収 し た 財 宝 に つ い て 」 と
したチェキストの写真集がある。それに記載がある:
「全部で154点の物品が没収された。総価格は3270693ルーブル(金貨で)と
50カペイカ。没収された中身:
1 . ダ イ ヤ モ ン ド の ブ ロ ー チ ( 1 0 0 カ ラ ッ ト )。
2.44カラットと36カラットのダイアモンド付きの3個のヘアピン。
3.70カラットのダイヤモンド付きの半月形のもの。調査によれば、このものは、ト
ルコのサルタンが、皇帝に贈呈したものである。
4.皇后、その他の4個の冠。
この成功した探査は、皇帝の財宝に対する、更なる意欲をかき立てる。
1932年から1933年にかけて、ロマノフ一族の幽閉に関係したものたち全員の探
査が行われた。
レニングラードで、一斉捜査が行われた時、それについて、エリザベータ・エルスベル
グの親類が書き残していた:
「 銃 殺 さ れ た 料 理 人 ハ リ ト ノ フ の 親 類 を 捜 し 出 し 、 尋 問 を し た 。・ ・ ・ 。 ゲ ン ド リ コ バ
伯 爵 夫 人 の 教 師 で あ っ た 、 ビ ク ト リ ア ・ ウ ラ ジ ミ ロ ブ ナ ・ ニ コ ラ エ ブ ナ を 調 査 し た 。」
しかし、全ては失敗であった。
最後に、銃殺された連隊長コビリンスキーの後家を、小さい町オレホボ・ズエボで、探
し出した。この女性は、この町に隠れるようにしながら、14歳の子供イノケンチアと一
緒に生活をしていた。彼女はこの地の工場「カルボリト」で働いていた。皇帝の軍刀と皇
帝の財宝について彼女は語った。彼女の夫が、家に持って来、噂では、その後、どこかの
タ イ ガ の 中 に あ る 離 れ 家 に 隠 し た と い う も の で あ っ た 。( 大 尉 ア ク シ ュ ー タ は 正 し い こ と
を話していた-皇后の宝石類と皇帝の軍刀を、タイガに隠した!)
国家政治保安部は、コビリンスキーの件から、ペチェコス姉弟の跡を追う。1918年
当時、トボリスクの彼らの所に、コビリンスキーが住んでいたのである。コビリンスキー
の証言からすれば、彼らは、秘宝について知っていた。最初、アネリャ・ペチェコスを逮
捕 し た 。明 ら か に 、厳 し い 尋 問 が 行 わ れ た 。耐 え き れ な い こ と は 、ア ネ リ ャ は 判 っ て い た 。
「1934年7月8日。ペチェコス・アネリャ・ビケンチェブナは、刑務所で亡くなっ
た 。 鉄 の 塊 を 飲 み 込 ん だ の で あ る 。」
逮捕された、アネリャの弟は、窓から飛び降りたが、死までは至らなかった。
ペチェコス姉弟が、死ぬことを恐れておらず、秘密も判らないことから、国家政治保安
部は、ペチェコス弟を、釈放することに決める。が、常時観察の対象ととする。この観察
は、10年以上にもわたった。弟が死んでようやく終わった。
しかし、探索は継続された・・・。死んだ近侍チェモルドフを知っている人達を、尋問
した。レストラン経営者グリゴリ・サラヅヒンの家でなくなった老人は、噂によれば、財
宝を持っていた。等が明らかとなった。
サラヅヒンの逮捕はできなかった:すでに、1920年に、思慮の足りないチェキスが
彼を銃殺していたからであった。
しかし、新しい手がかりをつかんだ。
皇 后 が 、 神 父 ア レ ク セ イ ・ ワ シ リ エ フ に 、「 ダ イ ヤ モ ン ド と 重 さ が 1 プ ー ド ( 1 プ ー ド
=16.4kg *)は下らない金製品の入ったトランクを、運び出して隠して欲しい」
と 、 頼 ん だ 、 と い う こ と で あ っ た 。」( ア レ ク セ イ ・ ワ シ リ エ フ と は 、 教 会 の ミ サ で 、 皇
帝 一 家 の 「 長 寿 」 を 唱 え た 、 あ の 本 人 で あ る 。)
- 197 -
そして、また失敗。神父アレクセイ・ワシリエフは、恙なく過ごし、1930年に最後
を迎える。
神父の子供達が尋問された。しかし、彼らは何も知らなかった。神父アレクセイは、確
実に、皇帝のトランクを何処かに隠した・・・。
皇帝の紋章の付いた焦げ茶色の革製のトランクは、1プード以上の財宝の入ったまま、
古いトボリスクの何処かの家の地下に、今でもまだ隠されていよう。シベリヤのタイガに
は、皇帝の軍刀と、ロマノフ家のダイヤモンドが眠っている・・・。
そ れ は そ れ と し て 、 1 9 1 8 年 の ト ボ リ ス ク に 戻 ろ う 。・ ・ ・ 。
さて、我らが「スパイ」は何処に? 勿論、トボリスクに。何となれば、そこには、財
宝 が 。 財 宝 は 手 に 入 れ な け れ ば な ら な い 。「 赤 色 ウ ラ ル の 労 働 者 達 に 。 誰 か の 手 で 、 汗 と
血 で も っ て ・ ・ ・ 。」
トボリスクには、我々の古い知り合いである、終生使えた召使いアレクサンドル・ボル
コフがいる。
ト ボ リ ス ク を 去 る 時 、ニ コ ラ イ は 、自 分 の 軍 務 の 古 い 教 師 を 抱 き 寄 せ 、命 令 を し た :「 子
供 達 を 守 れ 。」 が 、 召 使 い に は 皇 帝 の 命 令 を 実 現 す る の は 簡 単 で は な か っ た 。 今 で は 、
トボリスクに残っている家族を、ソビエトと、その指導者-蒸気船「アレクサンドル三世
号」の元火夫、現在ではトボリスクの町長-パシャ・ホフリャコフが、差配している。彼
は、自由の家から赤色ウラルの首都へ、皇帝の子供達、残っている随員達を、移送する準
備をする。彼らの殆どは、これが最後の旅となる。
家 の 内 部 は 、赤 衛 隊 を 引 き 連 れ て い る コ ミ ッ サ ー ル ・ ラ ヂ オ ノ フ が 仕 切 っ て い る 。後 に 、
サ ー シ ャ ・ テ グ レ バ が 、 白 軍 の 判 事 ソ コ ロ フ に 話 し た :「 ホ フ リ ャ コ フ に つ い て は 、 何 も
悪 い こ と は 話 せ な い が 、 ラ ヂ オ ノ フ は 悪 党 で あ っ た ・ ・ ・ 。」
こ の ラ ヂ オ ノ フ を 、 ブ ク ス ベ ル ゲ ン 男 爵 夫 人 ( ? * ) は 、 わ か っ た 。( ? * ) ド
イ ツ と の 国 境 の 駅 ベ ル ジ ュ ボ ロ ボ で 、ラ ヂ オ ノ フ を 見 か け た 、と ソ フ ィ ア ・ カ ル ロ ブ ナ( ?
*)が断言した。ラヂオノフに瓜二つの憲兵が、彼ら(? *)のパスポートを検査し
た。
コ ビ リ ン ス キ ー が 、 ラ ヂ オ ノ フ に つ い て 語 っ て い る :「 彼 に は 、 元 々 憲 兵 の 臭 い が あ っ
た ・ ・ ・ 。 血 に 飢 え た 、 残 虐 な 憲 兵 で あ っ た 。」
しかし、両人(? *)とも、間違いが幾ばくかある。
ベルギン(トベーリ市)の手紙から:
「若い時で、50年代のことである。私はリガに住んでいた。大学教授の部屋を借りて
いた。彼は古参のボリシェビキで、ヤン・ズビッケといった・・・。彼は驚くような経歴
の持ち主であった。彼は職業革命家であり、党の仕事を忠実に実行した。彼は、皇帝の秘
密警察内部まで入り込むことができた・・・。1918年に、コミッサール・ヤンは、ト
ボリスクのロマノフ一家の元に派遣された。そこで警備隊を指揮した。皇帝の子供達の移
送 も 担 当 し た 。・ ・ ・ 。 ヤ ン は 、 1 9 7 1 年 に 、 リ ガ で 、 9 1 歳 で 亡 く な っ た 。 老 衰 で 、
一人住まいであった。彼は、胸にありとあらゆるバッチを吊して町の中を散歩した。彼は
は 、 バ ッ チ を 勲 章 と 思 っ て い た 。・ ・ ・ 。」
1918年当時は、憲兵で革命家である彼は、若く、献身的であった。
祈祷式の時、*********************************
****************************************
****************************************
*****。
そうこうしているうちに、川の氷が解氷し、アレクセイが健康を取り戻した。
「子供は良くなっている。が、まだ、伏し勝ちである。*******。どれだけ大変
か、貴方はわかっているはずです。段々明るくなってきています。が、緑はまだ全くあり
ま せ ん 。 イ ル テ ィ ッ シ ュ 川 は 、 酷 い 状 態 に な り ま し た 。 夏 の 天 気 ・ ・ ・ 。 神 の 恵 み を 。」
( こ れ は 、 ト ボ リ ス ク か ら の オ リ ガ の 最 後 の 手 紙 の 内 の 一 つ で あ る 。)
パスハの時のことを、トボリスク・ソビエトが知ることとなった。信徒の行列の時、大
主教ゲルモゲンが、ボリシェビキに呪いを祈祷し、信徒と一緒に、知事邸に行き、アレク
セイを解放する考えがあったことを。
これは、エカテリンブルグへ、急いで残りの皇帝家族を送るための理由を得るための、
ソビエトのお決まりの陰謀であったのだろうか? それとも、寡婦で暮らす皇后(ニコラ
イの母
*)が手紙に書いているが、牧師(? *)が、実際に実行しようと考えたの
であろうか? 300年前、同じゲルモゲンという名前の者が、追放することを夢見たよ
- 198 -
うに、現大主教は町からボリシェビキを追放することを夢見たのであろうか?
とにかく、チェーカーは心配をしていた。行進の時、チェキストが、信者達に混じって
いたことを。その日は、今までで一番暑かった。太陽は容赦なく照りつけ、信者達-全員
が若くはない人-は、段々行列を離れていった。信者が去って行くにつれて、大主教の周
りにはチェキストしかいなくなった。
最後に、大主教を取り巻き、彼を逮捕した。
「その後、我々は、川の中程までゲルモゲンを連れて行き、鉄製の車輪を彼に結びつけ
た 。 そ し て 、 彼 を 川 に 突 き 落 と し た 。 川 底 へ と 沈 ん で い っ た 。・ ・ ・ 。」
チェキストであったミハイル・メドベデフの話によれば、その様に、彼に、パベル・ホ
フリャコフが話した。自分の死の直前に、話した。
トボリスクからの出発。
汽船「ルーシ号」で、大量のロマノフ家のトランクを運んだ。このルーシ号は、先に、
それらのトランクをトボリスクに運び入れていた。今や、ルーシ号は、逆に、トランクを
チュメニに、汽車へと運ぶ。汽船上には、多くの人達が乗り込む。皇帝の従者や警護兵達
が。この人達を、各船室へと割り振る。
ルーシ号内では、ラヂオノフの奇妙な行動が続いていた:アレクセイと扶育役ナゴルニ
イを、夜毎、船室に閉じこめるのである。
大公達(=娘達 *)には、夜に、自室のドアを閉めることを、厳禁した。ドアの所に
は、番兵を立たせた。娘達の船室の開け放たれたドアの所で、番兵達は楽しんでいた。
ア レ ク サ ン ド ラ ・ テ グ レ バ ( 検 査 官 ソ コ ロ フ へ に 証 言 よ り ):
「汽船では、ラヂオノフは、大公達に、船室のカギを下ろすことを禁止しました。が、
アレクセイとナゴルニイのキャビンは、外からカギをかけた。ナゴルニイは大騒ぎさえ引
き 起 こ し た 。「 何 と 破 廉 恥 な こ と か ! 病 人 は 子 供 で あ る ! ト イ レ に 行 く 必 要 だ っ て あ
る 。」 ナ ゴ ル ニ イ は 、 ラ ヂ オ ノ フ に 勇 敢 に 立 ち 向 か っ た 。 ま た 、 自 分 の 将 来 の 運 命 を 予
感 し た よ う で あ っ た 。」
汽船「ルーシ号」は、順調に進んでいく。赤衛兵達は、飛んでいる鳥をめがけて、銃を
連射をした。機関銃で射撃をした・・・。
機 関 銃 が だ だ だ っ と 威 勢 の 良 い 音 を 立 て 、カ モ メ が 落 ち る 。皆 が 楽 し ん で い る 。自 由 だ !
革命が起こってからの2年目、乱暴な射撃をしながら、静寂な岸に沿って、理性のかけ
らもない、名前が「ルーシ」である汽船は進んでいった。
サルチコフ(キエフ)の手紙より:
「 エ カ テ リ ン ブ ル グ に 関 す る 貴 方 の 記 事 を 読 み ま し た 。( 雑 誌 「 ア ガ ニ ョ ク ( = 灯 火
* )」 に 掲 載 さ れ た 私 の レ ポ ル タ ー ジ ュ 「 エ カ テ リ ン ブ ル グ に お け る 銃 殺 」 の こ と を 言 っ
ている。 著者) 2回に分けて読みました。本当に残忍なことばかりで、心が痛みまし
た 。・ ・ ・ 。 貴 方 に 知 ら せ た い と 思 い ま す が 、 正 し い こ と か は 、 私 に は 分 か り ま せ ん 。 そ
れ ら に つ い て は 、貴 方 が 確 か め て 下 さ い 。私 達 の 家 に は 、老 人 が い ま し た 。赤 衛 兵 で し た 。
叔父のレシャ・チュビリン、またはチュビレフといいました・・・。彼は1962年にな
くなりました。それほど遅くもありませんでした・・・。彼は、若い時に、汽船で、皇帝
の子供達と一緒に、トボリスクから移動した、と語っていました。彼らの移動に伴う警備
でした。彼はその様な荷物のことを話していました。*****。皇女達は、船室のドア
を開けたまま夜を過ごさなければならなかった。兵士達は、夜に、彼女たちの船室にはい
ることに決めました。勿論、この内容は、叔父は、話すことがそのたびに違ってはいまし
たが:年配者が彼らを止めました。彼らは酔っぱらって、寝入ってしまいました。
多分、これもまた「スパイ」?
私はスパイについてずっと考え続けている・・・。そして、ぼんやりと見える・・・。
月並みな歴史
4 人 の 魅 力 的 女 性 が 監 禁 さ れ 、 そ し て 彼 ( ? * )。 全 く 若 い 。 全 て の 低 劣 な も の 、 野
蛮 な 男 達 の 制 裁 、 チ ェ ー カ ー の 地 下 室 の 後 で - 純 真 で 、 チ ャ ー ミ ン グ な 少 女 ・ ・ ・ 。( ?
*) 人を惹き付けるアナスタシア。彼(? *)は彼女(=アナスタシア *)を気
に入った。しかし、彼を?・・・。揺るぎない革命家、マラトフ(? *)同志にふさわ
しく勿論、タチヤーナ。革命を憎悪している。最も綺麗で、最も自尊心が高い。彼は、廊
下で彼女に会うことを試みる。そして、彼女の見下し、軽蔑する視線。
「 ス パ イ 」・ ・ ・ 。 い や 違 う 。 彼 は 自 分 の 職 責 を 実 行 し た 。 彼 は 自 分 自 身 の 気 が ゆ る む
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の を 許 さ な か っ た 。皇 女 達 は 、彼 に は「 暴 君 の 娘 達 」と 思 わ れ た 。彼 は 自 分 に 打 ち 勝 っ た !
彼は、どのような気持ちで、荒々しい赤衛兵も乗っている統制のとれていない船で、ト
ボリスクから進んだのであろうか・・・。後継者の流れる血を・・・。従者達と共に、エ
カテリンブルグでは、チェーカーが、待ちかまえていた! 我々の革命は極めて厳しい!
船 上 で 、警 護 隊 の 兵 士 達 が 、娘 達 に 悪 戯 を し よ う と い う 相 談 を し て い る の を 、「 ス パ イ 」
が 聞 い た 。・ ・ ・ 。 両 親 の 哀 願 に も 関 わ ら ず 、 家 か ら 引 き ず り 離 し て 招 集 し て き た 多 く の
兵 士 達 が 、 若 さ ゆ え の 力 を 発 揮 し 、 娘 達 に ま で 狼 藉 を 働 い た と し た ら 、・ ・ ・ 。 そ し て 、
結局。彼は持ちこたえられなくななった。夜に、船室にカギを下ろすように、ラヂオノフ
に命じた。
エカテリンブルグ
チ ュ メ ニ で 、特 別 列 車 が 彼 ら を 待 っ て い た 。娘 達 、ア レ ク セ イ 、彼 の 扶 育 役 ナ ゴ ル ニ イ 、
元 副 官 タ チ シ ェ フ 、元 宮 廷 朗 読 家 シ ュ ネ イ デ ル 老 婦 人 、女 官 ゲ ン ド リ コ フ 伯 爵 夫 人 、ら を 、
2等の客車に入れた。
残 り の 全 て の 人 々 - ジ リ ヤ ル 、小 姓 ギ ブ ス 、皇 帝 の 召 使 い ト ル ッ プ 、侍 女 ツ テ リ ベ ル グ 、
ブクスゲブデン男爵夫人、子守テグレバ、彼女の補佐エルスベルグ、料理人ハリトノフ、
料理見習いセドネフ-アレクセイの友達-、他の友達、らは、4等の客車に入れられた。
列車は、夜に、エカテリンブルグに到着した。5月9日、聖なるニコルの日であった。
列車は、待避線に入っていった。雨がしとしと降り、外套が弱々しく灯っていた
日記より:
「5月9日。子供達が今どこにいて、何時やって来るのかは、誰も知らない。知らない
ことで、退屈している。
5月10日。朝、連続して説明があった。子供達は町から数時間の所にいる。その後、
駅 に 到 着 し た 。 駅 に 2 時 間 ほ ど 待 機 し た 後 、 家 に 到 着 し た 。・ ・ ・ と 。」
朝 、列 車 に 馬 車 が 横 付 け さ れ た 。4 等 車 に 乗 っ て い る も の た ち は 出 る こ と を 禁 じ ら れ た 。
ジリヤルとボルコフは窓から見た。そぼ降る雨の中で、皇女達が自分のトランクを引きず
り、ぬかるみに足を取られているのを。タチヤーナは、行列のしんがりを務めていた。他
のものたちが遅れないように気を使っていた。タチヤーナは、自分が年長者であることを
自覚していた。2つのトランクを引きずり、子犬を連れていた。
その後、客車の窓の脇を、扶育役のナゴルニイが、急いで馬車にアレクセイを運んだ。
ナゴルニイは、皇女達がトランクを運ぶのを助けるために、戻ろうとした。が、兵達は彼
をはねつけた:彼女たちは自分でしなければならない! と。ナゴルニイは我慢できず、
何か反論した。元水兵が間違っていたのは、この権力には、反論してはならないというこ
と で あ っ た 。こ の 権 力 は ぴ り ぴ り し て い た 。そ し て 、自 己 満 足 的 で あ っ た 。唯 一 の 報 い は 、
命であると認めていた。不注意な言葉も、死で報いることになる。彼が返事をしても良い
のは、エカテリンブルグのコミッサール・エルマコフだけであった。やはりその通り、直
ぐに、ナゴルニイをチェカーに連行する。
30年代に、ピオネールキャンプで、元コミッサール・ピョートル・エルマコフは、若
者 を 前 に し て 語 っ た 。「 元 後 継 者 の 扶 育 係 で あ っ た 、 皇 帝 の 従 僕 」 を 、 ど の よ う に し て 銃
殺したかを。
ニコライの日記の続き:
「5月10日。4週間の別離と不案内の後、彼らに再び会えて、抱けたことは、本当の
喜びであった。お互いに質問し答え会い、尽きることがなかった。彼らは、トボリスクで
苦 労 を し 、 3 日 間 の 旅 で 苦 労 を 味 わ っ た 。」
皇帝の従僕の最後
ニコライが子供達と出会っていた頃、客車から、従僕達が下車した:タチシェフ、ゲン
ド リ コ バ 伯 爵 夫 人 、ボ ル コ フ 、セ ド ネ フ 、ハ リ ト ノ フ 、女 官 、子 守 、そ の 他 。馬 車 に 乗 る 。
ボルコフが、その後に語っていた:
「ラヂオノフが客車に近づいて来た:
出 ろ 。 今 、 出 発 す る 。・ ・ ・ 。
大きなジャム瓶を持って、私は出た。しかし、彼らは、瓶を残しておくように命令をし
た 。 私 は そ の 瓶 を も ら え な か っ た 。」( 彼 は ど れ だ け の も の を 失 っ た の か 、 全 て 忘 れ て い
る ! た だ 、 ジ ャ ム 瓶 だ け は 覚 え て い た 。)
- 200 -
馬車が動き出した。先頭の馬車には、赤色ウラルの長であるアレクサンドル・ベロバロ
ドフ。
馬車は、エカテリンブルグ市内を進む。直にボルコフは、教会の高い鐘楼を見た。屋根
まで届く高い塀で囲まれた家に、馬車が着いた。ここで、ハリトノフとセドネフが降ろさ
れた。残りの者達は、更に遠くへと移送される・・・。
ようやく、馬車の列は、ある家に到着した。ここで、ベロバロドフ同志が降り、慇懃に
命令を出した:
「開門、逮捕者を移送してきた!」
今では、エカテリングブルグ監獄の囚人である、皇帝の宮殿の元副官のタチシェフ伯爵
が、監獄の事務所で、冗談を言った。
「 本 当 を 言 え ば 、 * * * * * * * 。」
「 私 は 、 帝 政 の 御 陰 で 、 監 獄 で 生 ま れ た 。」
元電気修理工で、今では、ウラル政府の長が、話題を受け継いだ。
どうも、これはたとえ話であった。ありふれた革命的な修辞の:監獄が私を革命家とし
て産んだ、という。なんとなれば、サーシャ・ベロバロドフは父の家で幸せに生まれてい
た。その様な文句には、注意を払う必要がある。というのは、
ベロバロドフは、父の家で生まれた。が、彼は、ソビエトの監獄で死ぬこととなる。
タチシェフとボルコフは、ある部屋に座った。その間、一度ならず、伯爵(=タチシェ
フ *)は事務室に呼ばれた。彼(=タチシェフ *)は幸運にも戻ってきた:彼を解放
することがようやく決まり、ウラルの首都から出ることになった。送別が行われた。永遠
の 皇 帝 の 従 僕( = ボ ル コ フ * )は 、永 遠 の 皇 帝 の 将 軍( = タ チ シ ェ フ * )を 抱 擁 し た 。
タチチェフは、自前の豪勢な外套を着た。この外套は、人生で、残されたただ1つの財産
で あ っ た 。( 残 念 な こ と だ が 、こ の 新 し い 時 代 に 、そ の 様 な 外 套 を 着 る べ き で は な か っ た 。
厳 し い 革 命 時 、 そ の 様 な 豪 華 な 外 套 は 全 く 合 っ て い な い 。) そ れ 以 来 、 誰 も 、 イ リ ヤ ・
レオニドビッチ・タチシェフを見ることはなかった。
ボルコフの方は?
自分の主人達より長生きをした:直ぐに、ボルコフは、別の監獄に移送された。白軍が
エカテリンブルグを奪還した時、ボルコフはペルミの監獄にいた。
ある時、部屋から物を持たせて、ボルコフを呼び出した。ボルコフは、ツアルスコエ・
セ ロ ー で の 旧 知 の 人 に 出 会 っ た 。若 い ゲ ン ド リ コ バ 伯 爵 夫 人 と シ ュ ネ イ デ ル 老 婦 人 で あ る 。
11人からなる集団をつくった。全員が宮廷関係者であった。そして、監獄から彼らを連
れ出した。転送中継用の監獄へ連れて行き、その後に、モスクワへ移送する、と説明がさ
れた。
なんと、モスクワへ、である。私達は、一度ならず、それが何を意味しているかは、既
にわかっている。
彼らは大分歩いた。シュネイデル老婆は足がよぼよぼであった。彼女の手には、小さい
籠がぶら下がっていた。ボルコフが手に取ってみると、籠の中には、2本の木のさじと、
小さなパンの塊が入っていた。あの2人の皇后の教師の全財産であった。
町中を通り、街道に出た。ここで、護衛兵達が、突然、丁寧になった:トランクを運ぶ
のを手伝うことを申し出たのである。夜であった。明らかに、彼らは、将来のことを考え
出していた。闇の中で、獲物の分配をしたくはなかった。ボルコフは全てを理解した。ボ
ルコフは、闇の中に駆け込み、一目散に逃げ出した。追いかけるように、いい加減な射撃
音 が 鳴 り 響 い た 。彼 は 逃 げ た 、逃 げ た 、一 目 散 に ・ ・ ・ 。老 兵 ボ ル コ フ は 、逃 げ お お せ た 。
ボルコフのツアルスコエ・セローでの知り合い-若いゲンドリコバ伯爵夫人、宮廷朗読
家エカテリーナ・シュネイデル-は殺された。その後、彼らの遺体を、白軍が発見をして
いる。魅力あるナスチェンカ(=アナスタシア *)の頭蓋骨は打ち砕かれていた。銃尻
で 殴 り 殺 し た 。 弾 丸 を 惜 し ん だ の で あ る 。( ? 突 然 の 文 章 * )
ニコライの日記の続き:
「5月10日。到着した者の内、コックのハリトノフと甥のセドネフ(子供で、コック
見習い 著者)だけを通した。ベットや必要な品物が、駅から届くのを、夜まで待った。
娘達は床の上で寝ていた。アレクセイはマリアのハンモックで寝ていた。夕方、アレクセ
イ は 冗 談 の つ も り が 、 膝 を 痛 め て し ま っ た 。 そ れ で 、 夜 中 中 、 強 い 痛 み に 苦 し ん だ 。・ ・
・ 。」
このように、イパチェフの家での最初の日に、アレクセイは病臥してしまった。アレク
セイは、最後の日まで起き上がることはなかった。
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それはそれとして、ジリヤル、小姓ギブス、ブクスゲブデン男爵夫人、リーザ・エルス
ベ ル グ た ち は 、 待 避 線 で 、 夜 を 過 ご し た 。( こ こ の 暖 房 貨 車 に は 、 数 千 人 の 家 の な い 人 達
が 集 ま っ て い た ・ ・ ・ 。) 何 故 彼 ら を 大 切 に し た の か ? 1 つ に は 、 明 ら か に 、 ド イ ツ
名が助けた。とにかく、ドイツとのブレスト和平が存在した。他には、ジリヤールとギブ
スは出身が外国であったから。
何故、子守のテグレバをいたわったのか?
彼女はスイス人と親しい関係にあった。明らかに、彼女をいたわった人物は、このこと
を 知 っ て い た 。・ ・ ・ 。 こ の 人 物 は 、 私 に は 、 あ の 「 ス パ イ 」 だ と 思 う 。・ ・ ・ 。 勿 論 、
フランス語を知っている彼は、話し好きのスイス人とトボリスクで、仲良しになったに違
い な い 。 そ し て 、 仲 を 壊 さ な い こ と に 決 め た 。・ ・ ・ 。 し か し 、 全 く の 当 て ず っ ぽ う 。
暖 房 列 車 内 に は 、 数 千 人 の 闇 屋 の 中 に 、 群 衆 の 中 に 、「 宮 廷 の 残 党 」 が い る 。
ロシア皇帝に献身的な、スイス人ジリヤルは、皇帝家族の元へ戻る許可を得ようと努め
る 。 し か し 、 ジ リ ヤ ー ル に 繰 り 返 し 返 事 が さ れ る :「 貴 方 の 奉 仕 は 、 も う 必 要 と さ れ て い
な い 。」 ジ リ ヤ ー ル は ア メ リ カ 大 使 に 助 け を 求 め に 行 く 。 し か し 、 大 使 は 、 敵 の 名 の 下
で逮捕されるのが関の山である。何もしない方がよい、と説明をする。これは、彼らが、
ロシアでの仕事に介入することを心配している時の、決まり文句であった。
あ る 夜 、 彼 ら の 暖 房 列 車 に 、 機 関 車 が 連 結 さ れ 、「 宮 廷 の 残 党 」 の 乗 っ た 客 車 を 、 エ カ
テリンブルグからチュメニに引き去る。エカテリンブルグのチェーカーは、彼らをなめて
いた。
日記より:
「5月12日・・・。警備司令部の驚くような長時間の検査の後、子供達は自分の荷物
を 、 幾 つ か 手 に し た 。・ ・ ・ 。」
こ の よ う に 、 皇 帝 家 族 は 到 着 し た 。「 処 方 薬 」 が 到 着 し た 。
宝 石 類 は 、小 箱 の 中 に 入 っ て い た 。そ し て 、そ れ ら の 宝 石 は 、ロ マ ノ フ 家 の 女 性 達 の 手 、
耳 、 首 を 再 び 飾 っ た 。 宝 石 、「 苦 労 し て 制 作 し 、 そ の 後 、 血 の ・ ・ ・ 。」 今 や 、 宝 石 類
を取り上げることだけが残っていた。人民の手に戻す。この瞬間から、状況の進展が早ま
った。
「5月13日。アレクセイ以外は、皆よく眠れた。アレクセイには痛みが続いていた・
・・。まるで最後の日のように、デレベンコがアレクセイを診察しに来た。今日、デレベ
ン コ は 男 を 伴 っ て き た 。 私 達 は そ の 男 を 医 者 と 思 っ た 。」
そ の 日 、 家 族 の 部 屋 に 現 れ た 、「 医 者 の よ う な 」 男 は 、 チ ェ キ ス ト の ヤ コ フ ・ ユ ー ロ フ
スキーであった。
彼 ら (「 我 々 は 、 鋼 鉄 の 手 で 、 人 類 を 幸 福 へ と 追 い 立 て る 」)
このスローガンは、ソロベツキー収容所に掲げられていた。
イパチェフの家の地下室で起こった非人間的な件に関して、これは、ユーロフスキー、
その他の人間が殺人者であり、残虐者であったからである。との説明の仕方が1つとして
ある。他の説明として、家族の射殺に、ロシア正教の皇帝に対する、ユダヤ人の血の復讐
が あ る 、 と の 説 明 が あ る 。( ゴ ロ シ ェ キ ン 、 ユ ー ロ フ ス キ ー の 復 讐 : ユ ダ ヤ 人 と し て 、 チ
ュ チ ュ カ エ フ 、 サ フ ァ ロ フ 、 他 の 純 ロ シ ア 人 を 書 き 加 え る 。) 事 件 が 起 き た こ と を 説 明
することは、実際に容易である。ユダヤ人のポグロム(=大量殺戮 *)に対して、日常
における侮辱に対して、復讐!
この件がそうであったとしても、書くのがおぞましいほどのことであったとしても、
・・・この事件の中には、何らかの理解できる知性があったに違いない。
し か し 、 全 て は 全 く 違 っ て い た 。・ ・ ・ 。
クレムリンの病院で、死を目前にして、ユーロフスキーは自分の最後の手紙に書いてい
る。
「 私 達 の 家 族 は 、父 の 宗 教 へ の 入 れ 込 み 以 上 に 、飢 餓 に 苦 し ん で い た 。・ ・ ・ 。祝 日 も 、
平日も、子供達は祈りを捧げなければならなかった。私の最初の反抗が、宗教に対して、
民族の伝統に対して、であったのは、驚くに値しない。私は、貧乏と自分の主人(=父
* ) を 憎 む と 同 時 に 、 神 と 祈 り を 憎 ん だ 。」 そ の 通 り 、 ユ ー ロ フ ス キ ー は 自 分 の 父 や 、
神を憎んでいた。
ユーロフスキーとゴローシェキンは、ユダヤ人であることを拒否した。そして、彼らは
全く違った人民として生きた。この人民は、全世界中に生きていた。言うならば、全世界
労働者階級。ユーロフスキー、ニクーリン、ゴローシェキン、ベロバロドフ、ラトビア人
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ベ ル ジ ン 、・ ・ ・ 、 ら の 大 衆 。「 世 界 に 、 ロ シ ア が 、 ラ ト ビ ア が な け れ ば 、 1 つ の 人 類 社
会 と な る 。」 こ の よ う に 、 詩 人 ウ ラ ジ ミ ル ・ マ ヤ コ フ ス キ ー は 誇 り 高 く 書 い て い た 。
彼らの設立した党は、全地球上に、これら大衆の政府を確立することを約束した。そし
て、その時には、人類の永遠の幸福が到来するするはずであった。
しかし、この実現は、悲惨な闘争を通じてしか、行えなかった。彼らは、血と弾圧を、
歴史の産婆と呼んだゆえんである。
ある時、革命家のネチャエフとトカチェフが論じた。幸福な未来をつくるためには、旧
社会の人のどれだけを、抹殺する必要があるか。そして、結論に達した:どれだけの人が
「残る人」となるのかを、考える必要がある。
「 不 良 品 取 り 除 き の 方 法 ・ ・ ・ 資 本 主 義 時 代 の 資 料 か ら 」( ブ ハ ー リ ン )
そして、彼らはこの仕事に、不良品取り除き方法を採用した。生きている人間を資料と
して・・・。
「 * * * * * * * * * * * * * * 。」( ト ロ ッ キ ー )
そして、彼らは終えた。不屈の階級的妬みが彼らの考えを支配していた。
監獄の中で、大公パーベルの息子で、17歳になる詩人パレイは問いていた。
「窓の所を、何時もの番兵が巡回をしている。
人は単純ではない、他人を監視する、
いや、不倶戴天の敵、陰気で、愚鈍なラトビア人、
息をしている囚人に、冷たい敵意を持って。
何 の た め ? 何 の た め ? 思 考 が 心 を 振 り 切 っ て い る 。・ 」( や は り 詩 は 難 し い * )
チェカーのラチスが、雑誌「赤色テロル」に書いている:
「被告が、ソビエト権力に反対する言葉を言ったり、行為をおこなった、という資料や
証拠を探し出す必要はない。第1の問題は、被告はどの階級に属しているか、である。こ
の問題が、被告の運命を決めなければならない。この考えにこそ、赤色テロルの本質があ
る 。」
特権階級のシンボルであるロマノフ一家の殺害は、赤色テロルの秘密の告示であったに
違いない。階級間の世界戦争。
「彼らの後継者達に、犯罪を止めさせるためには、少なくとも100人以上のロマノフ
家 の 首 を 切 り 取 ら な け れ ば な ら な い 。」( レ ー ニ ン )
エカテリンブルグの駅に、足を踏み入れた時、皇帝とその家族の運命は、既に決まって
いたと言うことである。
1918年当時のヤコフ・ユーロフスキー・・・。首が短く、頬骨の出っ張った顔。ゆ
っ た り と し た う ま い 話 し 方 。黒 革 の ジ ャ ン パ ー を 着 、黒 い ち ょ び ひ げ に 、黒 髪 。彼 は 正 に 、
「黒い男」であった。ニコライが、旧暦で、日記を書いている、ということを、ユーロフ
ス キ ー は 、「 ス パ イ 」 か ら 既 に 知 っ て い た 。 ユ ー ロ フ ス キ ー が 、 旧 暦 の 1 3 日 に 、 皇 帝 一
家が幽閉されている家に来たのは、それ故であった。神秘主義者の皇帝は、迷信を信じて
いるのを、ユーロフスキーは知っていた。それで、ユーロフスキーは、彼らの所に「黒い
男 」 と し て 、 悪 魔 の 数 値 の 日 に ち に 、 恐 る べ き 前 兆 の よ う に 、 来 る べ き 復 讐 の よ う に 、・
・ ・ 、 現 れ た 。 ユ ー ロ フ ス キ ー は 、 医 者 の 外 見 を し て 、 家 族 の 室 内 に 入 っ た 。、 外 科 の 准
医師であったユーロフスキーには、医者を装うことは苦でもなかった。医師のデレベンコ
さ え 信 じ た 。 後 に な っ て 、 デ レ ベ ン コ が 話 し て い る 。「 黒 い 男 」 は 、 後 継 者 ( = ア レ ク セ
イ *)の足を、専門的に診察をすることができた、と。実際には、これは、正に革命的
なシンボルであった。未来の先生マルクスの名の下で、彼らに委ねられた、偉大なる使命
を 実 現 し な が ら 、 彼 ら は 、 銃 で も っ て 、 こ の 世 界 を 治 療 し た :「 時 代 遅 れ と な っ た 階 級 の
最 後 の あ が き を 加 速 せ よ ・ ・ ・ 。」 こ の 輝 か し い 未 来 の 名 の 下 で は 、 皇 帝 家 族 は 抹 殺 さ
れなければならなかった。
ロマノフ一家は、終末への準備をし始める。
5月14日。ニコライの日記から:
「私達の窓の下で、番兵が、私達の家に向けて射撃をした。夜10時以降になって、窓
の所で誰かが動いた、ということであった。私が思うには、番兵達が何時もやるように、
銃 で ふ ざ け た の で あ ろ う 。」
私 は 、 古 文 書 館 で 、 大 き な 黒 色 の ノ ー ト の 束 を め く る 。 警 備 日 誌 で あ る 。:
「6月5日。9番警備室で、番兵ダブリニンが、安全装置に遊底を置きながら、うっか
り 銃 を 撃 っ た 。 弾 丸 は 天 井 に 当 た っ た 。 害 は な か っ た 。」
「 6 月 8 日 。 番 兵 の 取 り 扱 い 不 注 意 か ら 、 爆 弾 が 破 裂 を し た 。 死 傷 者 は な い 。」
た わ い な く 、 勝 手 に 、「 仲 間 」 は 武 器 を 取 り 扱 っ た 。 皇 帝 の 日 記 の 通 り で あ っ た 。
しかし、番兵の「悪戯」は、直ぐに、皇帝の娘達の話に転化した。窓から誰か色目を使
ったとか、*******、等々。このようなことについて、アブデーフが、自分の回想
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記に書き残していた。
************。
家から、元気な扶育役のナゴルニイと従僕のセドノフを連れ去った。
日記の続き:
「5月14日。お茶の後、地区ソビエトでの尋問のために、セドネフとナゴルニイを連
行 し て い っ た 。」
この日、イパチェフの家の所をぶらついていて、ジリヤルは、赤衛兵が、ナゴルニイと
セドネフを、馬車に乗せるのを見ていた。彼らは黙って目を交わした。が、スイス人のジ
リヤルが見ていたことは、漏らさなかった。それ以上に、彼ら2人は戻ってこなかった。
「5月16日。まだ明るい8時に、夕食をとった。アリックスは、偏頭痛のため、早め
に 横 に な っ た 。 セ ド ネ フ と ナ ゴ ル ニ イ は 、 全 く 消 息 が 不 明 で あ る 。・ ・ ・ 。」
チェーカーは努力をしていた。イパチェフの家の家捜しを何度もし、皇帝家族の周りに
いる仲間を減らしていた。決めた夜におけるある仕事を、軽減するためであった。あの夜
が近づいてくる、近づいてくる!
殺人の最初の試み
家族達は、日常の生活をし、各自、日記を書いていた。
ニコライ:
「5月20日。11時に、宗教儀式を行った。アレクセイはベットに横になって参加し
た。天気は絶好であったが、暑い日であった・・・。座りっぱなしでやりきれない。閉じ
こめられているので、庭に出ることもできない。良い風が吹いている時は、散歩をしたい
のだが。監禁状態!」
アリックス:
「 5 月 2 3 日 ( 6 月 5 日 )、 水 曜 日 。 6 時 半 に 起 床 し ま し た 。 が 、 時 計 で は 8 時 3 0 分
( こ の 日 、 時 計 を 新 し い 時 間 に 切 り 替 え た 。 著 者 )。 良 い 天 気 。 子 供 は 寝 て い な い 。 子
供は足を痛がっている。多分、ウラジミル・ニコラエビッチ(=医者デレベンコ 著者)
が、診察時に、足に触れたからでしょう。エブゲニイ・セルゲービッチ(=ボトキン 著
者)が、1時間かけて、子供を、車椅子乗った私の所に運んだ。2人一緒に、日光浴をし
た。子供がベットに戻った時、痛みが酷くなった。多分、着替えと、散歩時の乗り回しの
せいでしょう。3時にランチを頂きました。彼らは、私達の窓の前の塀を、強化し続けて
い ま す 。 塀 か ら は 、 木 の 上 端 が よ う や く 見 れ ら る だ け で す ・ ・ ・ 。」
こ の よ う に 、「 彼 ら は 、 私 達 の 窓 の 前 の 塀 を 、 強 化 し 続 け て い ま す 。」 何 の た め の 準
備?
この時、ニコライは病気であった。部屋で安静に座っていた。ニコライは散歩が好きで
あっただけではなく、歩き回ることも好きであった。が、ニコライには遺伝的な痔疾があ
った。状態が悪化していた。
ニコライ:
「5月24日。一日中、時の腫れ物による痛みに苦しんだ。湿布をあてがうのに便利な
よ う に 、ベ ッ ト に 横 に な っ て い た 。ア リ ッ ク ス と ア レ ク セ イ は 、半 時 間 ほ ど 外 気 を 浴 び た 。
そ の 後 で 、 私 は 1 時 間 ほ ど 。 天 気 は 素 晴 ら し い 。」
アリックス:
「 5 月 2 5 日 ( 6 月 4 ( ? 7 * ) 日 )、 金 曜 日 。 素 晴 ら し い 天 気 。 N ( = ニ コ ラ イ
* )) は ベ ッ ト で 横 に な っ て い る 。 痛 み の た め に 夜 寝 て い な い の で 。 パ パ ( = ニ コ ラ イ
* ) は 、 静 か に 横 に な っ て い る 時 が 、 よ ろ し そ う 。・ ・ ・ 。 ウ ラ ジ ミ ル ・ ニ コ ラ エ ビ ッ チ
は 、 今 日 も 来 な か っ た 。・ ・ 。」
医師デレベンコが、アレクセイの下へ行くのを禁止する。
ニコライ:
「5月27日。ようやく起き上がり、ベットを後にした。夏のような日である。2列に
な っ て 散 歩 を し た 。 緑 が 素 晴 ら し く 、 み ず み ず し い 。 匂 い も ま た 良 い ・ ・ ・ 。」
そして、再びニコライは感ずる:何かが起こった、何かが起こる、ほら、ほら!
「5月28日・・・。最近、外部との関係が変わってしまった・・・。看守達は私達と
話そうとしない。私達と一緒だと気ずまりするように。何か、不安か危険を感じているよ
うだ。全く理解できない!」
しかし、イパチェフの家の外は、全てがはっきりしていた。5月の半ばに、ボリシェビ
キに反対する暴動が起こった。戦争捕虜である、チェコ軍団が起こした。このチェコ軍団
に、一部のコサック軍団が加わった。チェリャビンスクが落ちた。今、赤色ウラルの首都
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を目指して、チェコ軍団が進軍し始めた。
町 で は 、 チ ェ コ 軍 団 を 待 っ て い た 。 5 月 2 8 日 ( 新 暦 の 6 月 1 0 日 )、 町 は 酷 い 無 秩 序
状 態 と な っ た 。前 日 の 6 月 8 日 、ア ル ダ ト フ 准 尉 が 、自 分 の 部 隊 と 共 に 、白 軍 に 寝 返 っ た 。
今では、町のウラル・ソビエトを守るものは、コミッサール・ピョートル・エルマコフを
長とする労働者からなる部隊とのみなった。ものすごい群衆が、反ボリシェビキのスロー
ガンを叫びながら、ウスペンスキー広場に集結した。部隊を率いるエルマコフ、チェキス
トを率いるユーロフスキー、そしてコミッサール・ゴローシェキンは、苦労をして、反乱
参 加 の 群 衆 を 蹴 散 ら し た 。 彼 ら に は 、 忠 実 な 兵 が い な か っ た 。 赤 衛 隊 は 、「 暴 君 ( = ニ コ
ラ イ * )」 と そ の 家 族 の 警 備 に 当 た っ て い た 。・ ・ ・ 。
ニコライ:
「5月31日。昼に、何故か、私達は、庭に出れなかった。アブデーフがやって来て、
ボトキンと長い間はなしをしていた。ボトキンの話によれば、アブデーフと地区ソビエト
は、君主制主義者達の進出を危惧しており、そのために、多分、早急に出立しなければな
らない。多分モスクワに。ボトキンは、出発の準備を請願した。急いで旅立ちの準備を始
めた。が、静かに。アブデーフの特別の願いにしたがって、警備兵達の注意を引かないよ
うにするためであった。夜11時頃、アブデーフが戻って来て、数日間はまだ留まると語
った。そのため、6月1日には、私達は、寝床をつくらないで、ビバーク状態で寝た。よ
うやく、夕食後、アブデーフが、少し笑顔を見せながら、ボトキンに説明をした。君主制
主義者達は逮捕さ、危険は通り過ぎた。と。そして、私達の出立は取り消された。結局、
準 備 は 無 駄 に 終 わ っ た ・ ・ ・ 。」
皇后は、この日のことを、無関心に書き残している:
「 5 月 3 1 日 ( 6 月 1 3 日 )。 朝 の 祈 り 、 日 が 一 杯 の 朝 。 2 時 4 5 分 、 散 歩 を し な か っ
た 。 ア ブ デ ー フ が 、 何 時 で も 集 ま れ る よ う に し ろ と 言 う こ と で あ っ た 。・ ・ ・ 。
夜 、 ア ブ デ ー フ が 再 び 来 た 。 そ し て 話 し た : 数 日 よ り 早 く は な ら な い 。」
奇妙な話。更に、最近、ウラルソビエトは、鉄道でロマノフ一家を移送するのは危険で
あ る と し て 、モ ス ク ワ と 喧 嘩 を し て い た 。が 、今 、君 主 制 主 義 者 達 に 驚 い て 、ウ ラ ル 側 は 、
皇帝と家族をモスクワへ移送したがった。さて、チェコ軍団が、町に近づいてきている。
町 は 騒 々 し く な り 、エ カ テ リ ン ブ ル グ の 周 り の 大 地 は 熱 く な っ て い る 。全 て は「 血 の 暴 君 」
への心配のため?
ウラル側のこの突然の心配事は、何ら信用できない。モスクワへの旅行の準備とは、何
と奇妙なことを。
トボリスクへの道中、コミッサール・ヤコブレフと、皇帝家族のためにやって来た、エ
カテリング部隊司令官ブスヤツキーの間の行われた話し合いを、思い出すべき時が来た。
ウ ラ ル ・ ソ ビ エ ト の 使 者 ブ ス ヤ ツ キ ー は ヤ コ ブ レ フ に 、 無 邪 気 に 提 案 を し た :「 ロ マ ノ フ
一族の旅行時に、道中で、襲撃を粧い、彼らを抹殺する!」
旅行時に抹殺?
ミーシャの最後の旅行
思いやりのあるウラル側のモスクワへの旅行の提案を、ニコライが、もし知っていたな
らば、過ぎ去った夜に、何が起こったであろうか!どのような「旅行」となったであろう
か! しかし、しかし、死ぬまで、ニコライは何も知ってはいない・・・。新暦の6月1
3 日 の 夜 に 、 ペ ル ミ の 商 人 コ ロ リ ョ フ の 元 ホ テ ル に 、 3 人 見 知 ら ぬ も の が 現 れ 、「 大 公 ミ
ハイルと彼の秘書ジョンソンの連行に関する、チェーカーの命令書」を提示した。
ガッチン宮殿からの追放後、ミハイルはペルミに住んでいた。モスクワから、ペルミ・
ソ ビ エ ト へ は 、 何 度 も 挙 げ ら れ た よ う に 、 ミ ハ イ ル は 「 国 民 の 全 て の 権 利 を 利 用 し た 。」
ミハイルと一緒に、ホテルには、彼の秘書である、英国人のブライアン・ジョンソン、
小 姓 、 運 転 手 も 住 ん で い た 。( ミ ハ イ ル 大 公 は 大 の 自 動 車 好 き で あ っ た 。 自 分 の 新 妻 と 一
緒 に 、 ア ル プ ス の 道 を 走 る と い う 剛 胆 な 旅 行 を 思 い 出 す だ け で 十 分 で あ る 。) し か し 、
そ の 日 、 ミ ハ イ ル は 、 全 く 別 の 旅 行 を 行 う こ と と な っ た 。・ ・ ・ 。 見 知 ら ぬ 武 装 し た 一 団
が、大公の部屋に駆け上がってきた。彼らは階下に降りた:彼らと並んで、背の高いミハ
イ ル 、 ミ ス タ ー ・ ピ ッ ク ビ ッ ク に 似 て い る 太 っ て い て 背 の 小 さ い 人 物 ( ? * )、 ミ ハ イ
ルの秘書の英国人ジョンソンがいた。3人を伴い、彼らは2台の馬車に乗った。そして、
去って行った。
大公の小姓チェリシェフが、ペルミの監獄で一緒であった、小姓ボルコフに、部屋で起
- 205 -
こった全てを話した。
到着した物達は、ミハイルを刺激した。ミハイルは彼らに同行することを拒否した。そ
し て 、 重 要 な 地 位 の 、 あ る ボ リ シ ェ ビ キ を 呼 び 出 す こ と を 要 求 し た :「 私 は 彼 を 知 っ て い
る が 、 君 た ち は 知 ら な い 。」 そ の 時 、 彼 ら の 長 が 悪 態 を つ き 、 肩 を ひ っ 捕 ま え た :
「あんたはロマノフ家のものだ。俺たちは全くうんざりしているのだ!」
そ の 後 、 ミ ハ イ ル は 黙 っ て 、 服 を 着 た 。 小 姓 が 話 し か け た :「 旦 那 様 、 薬 を 持 参 す る の
を 忘 れ な い で 下 さ い 。」 や っ て 来 た 者 達 は 、 再 び 悪 態 を つ き 、 薬 を 持 参 す る こ と を 許 さ
なかった。
朝、チェーカーが説明をした。大公を逮捕する何の委任状も出していない、大公は誘拐
さ れ た 。 と 。 チ ェ ー カ ー は 、 モ ス ク ワ に 電 報 を 出 し た :「 今 日 の 夜 、 兵 士 を 装 っ た 未 知 の
人物達が、ミハイル・ロマノフと、彼の秘書ジョンソンを誘拐した。捜査はまだ結果を出
し て い な い 。 で き る だ け の 努 力 を 傾 け て い る 。」
直に、明らかになった。正体不明の者達の中に、モトビリフィンスキー・ソビエトのミ
ャ ス ニ コ フ と 、警 察 署 長 イ ワ ン チ ェ ン コ が い た 。彼 ら は 、ミ ハ イ ル と 彼 の 秘 書 を 連 れ 去 り 、
銃殺した。行った行為は、労働者階級の復讐行為であると説明がされた。
ペ ル ミ ・ チ ェ ー カ ー と 、 モ ス ク ワ は 、 こ れ を 、「 無 政 府 主 義 者 の リ ン チ 」 と 呼 び 、 そ の
様 な 行 為 に 対 し て 、 明 確 な 不 同 意 を 表 明 し た 。・ ・ ・ 。
本当に、これはリンチであったのか?
目撃者に、発言を許してみよう。
1965年、モスクワにおいて、功労者で、 労働赤旗勲章所持のアンドレイ・ワシリ
エビッチ・マルコフが高齢で、亡くなった。
ペルミのボリシェビキの伝記を集めていた、ペルミ党古文書館館長のアリキナの求めに
応じて、生きてきた人生中における最も重要な行動について話して聞かせるために、亡く
な る 1 年 前 に 、マ ル コ フ は 、ア リ キ ナ に 会 っ た 。話 の 前 に 、老 人 は 、手 に と っ て 、彼 女 に 、
銀時計を見せた。時計は、ゆで卵を切断したような目を見張るような形状をしていた。マ
ルコフは語った:この時計は修理は不可能である。何せもう100年以上も経っているの
で。その後、自分の経歴を語り始めた。
「ミハイロフ殺害の主組織者は、ミャスニコフであり、自分の所に、補助として、警察
署長のイワンチェンコと、彼、マルコフを招聘した。と、マルコフは話した。しかし、武
装の3人だけでは少ない。それで、更に2人、ジュジゴフとコルパシコフを呼び出した。
「夕方の7時頃、2台の屋根付きの馬車に乗って、ペルミに向かった。マルコフは思い出
しながら語っている。チェーカーの玄関に、馬車を止め、地区チェーカー代表のマルコフ
(別人のマルコフ *)にことの子細を報告した。ここで、最終的に、ミハイル・ロアの
誘拐計画が練られた・・・。マルコフ代表はそのままチェーカーに残り、ミャスニコフは
歩いて「王立ホテル」に去って行った。我々4人のうち、イワンチェンコとジュジゴフは
先 頭 の 馬 車 に 、コ ル パ シ コ フ と 私 は 後 方 の 馬 車 に 乗 っ た 。夕 方 の 1 1 時 頃 、「 王 立 ホ テ ル 」
の玄関に着いた。ジュジゴフとコルパシコフが、ホテル内に入っていった。私とイワンチ
ェ ン コ は 、 予 備 隊 と し て 通 り に 残 っ た 。」
大 公 の 従 僕 が 、 ボ ル コ フ に 話 し た 通 り の こ と が そ れ 以 後 に 起 こ っ た : ミ ハ イ ロ フ は 、闖
入 者 と 行 く こ と を 拒 否 し た 。 電 話 で 、 チ ェ ー カ ー 代 表 マ ル コ フ (「 重 要 な ボ リ シ ェ ビ キ 」)
を 呼 び 出 す こ と を 、 必 死 に 要 求 し た 。 自 由 滞 在 し て も 良 い と い う 命 令 書 も 持 ち 出 し た 。・
・・。
ミ ハ イ ル が 、自 分 の 権 利 を 守 り 抜 い て い る 間 に 、 通 り で 待 っ て い た 予 備 隊 は 、 待 ち き れ
なくなっていた。
「 ナ ガ ン 歩 兵 銃 と 手 榴 弾 を 持 っ て 、私 は ホ テ ル の 中 に 入 っ て い っ た 。 下 準 備 と し て 、 廊
下にあった電話線をもぎ取った。ミハイル・ロマノフはがんばり続けていた。病気だと言
い出し、医者と代表マルコフを要求していた。その時、私は要求した*******。
その後、ミハイルは、出かける支度をし始め、何か持参すべき物があるか質問してきた。
ミ ハ イ ル は 、秘 書 の ジ ョ ン ソ ン を 同 行 す る こ と を 願 い 出 た 。 こ れ は 我 々 の 計 画 の 内 で あ っ
た。我々はミハイルに許した。ミハイル・ロマノフは合羽を羽織った。ジュジゴフは、ミ
ハイルの襟首を捕まえ、外に出るように要求した。ミハイルはその様にした・・・。ジョ
ン ソ ン は 素 直 に 、 後 に つ い た 。 ミ ハ イ ル ・ ロ マ ノ フ を 馬 車 に 乗 せ た 。 ジ ュ ジ ゴ フ が 、御 者
の 替 わ り に 座 っ た 。 イ ワ ン チ ェ ン コ は ミ ハ イ ル ・ ロ マ ノ フ と 並 ん で 座 っ た 。」
大 胆 に も 、大 公 の 襟 首 を つ か ん だ 。武 器 を 持 た な い 2 人 に 対 し て 、武 装 し た 5 人 の 男 達 。
( 従 僕 が 証 言 し た よ う に 、 肩 で は な い 。) 死 へ 、 襟 首 を つ か ん で !
「モトビリハ村から、5km程の所にあった、石油倉庫まで行った。倉庫から更に1k
m 進 ん で 、 右 折 し 森 の 中 に 入 っ て 行 っ た 。・ ・ ・ 。 道 中 、 誰 に も 会 わ な か っ た 。( 夜 で あ
っ た 。) 2 0 0 m ~ 3 0 0 m 進 ん だ と こ ろ で 、 ジ ュ ジ ゴ フ が 叫 ん だ :「 這 い 出 ろ 。」 私
- 206 -
は、急いで馬車から飛び出し、ジョンソンに降りるように命じた。ジョンソンが馬車から
降りたところで、私はジョンソンのこめかみを撃った。ジョンソンは、よろめきながら倒
れ た 。コ ル パ シ コ フ も ジ ョ ン ソ ン を 撃 っ た 。が 、彼 の 拳 銃 は 弾 詰 ま り を 起 こ し た 。こ の 時 、
ジュジゴフは、ミハイルを同じく銃撃したが、ミハイルに傷を負わせただけであった。ミ
ハイルは手を広げながら、私の方に向かってきた。秘書(=ジョンソン *)との離別の
挨 拶 を 乞 い な が ら 。ジ ュ ジ ゴ フ の 方 も 、ナ ガ ン 拳 銃 の ド ラ ム が 詰 ま っ て い た 。( 彼 の 場 合 、
弾 丸 は 自 製 で あ っ た 。) 私 か ら の 至 近 距 離 で 、 ミ ハ イ ル の 頭 に 2 度 目 の 射 撃 を し た 。 ミ
ハ イ ル は 、 そ の ま ま 崩 れ 倒 れ た 。・ ・ ・ 。
死体を埋めなければならないが、明るくなって来た。道路の傍である。私達は、死体を
少し脇に引きずり移動させ、小枝を被せて隠してから、モトビリハ村へと去った。死体を
埋 め て 隠 す た め に 、 ジ ュ ジ ゴ フ と 1 人 の 信 頼 で き る 警 官 が 、 他 の 夜 に そ こ へ 出 か け た 。」
背が高く痩せたミハイロフは、銃弾を受けて、ぎこちなく手を広げ、別れの祈りを捧げ
ながら、逃げ出す。が、彼への返答は、更にもう1つの弾丸!・・・。
殺 害 の 後 で 、 マ ル コ フ は 、 殺 し た ジ ョ ン ソ ン か ら 時 計 を 奪 っ た 。「 記 念 と し て 」、 と マ
ル コ フ は 、 党 古 文 書 館 館 長 の ア リ キ ナ に 語 っ た 。・ ・ ・ 。 殺 害 し た 物 か ら 時 計 を 奪 う と い
う、ボリシェビキの殺害の風習を、私達は思い出す。
( 1 9 9 0 年 の 雑 誌 「 ア ガ ニ ョ ク 」 の 第 2 号 に 、 私 は 初 め て 、「 皇 帝 の 弟 ミ ハ イ ル ・ ロ
マノフの殺害の参加者達」の写った集団写真を公表した。1920年に、彼らが、感謝し
て い る 後 継 者 達 の た め に 記 念 と し て 残 す こ と を 決 め た 。)
そ の 様 な「 自 前 裁 判 」に 、地 区 チ ェ ー カ ー の 指 導 者 達 、警 察 官 達 、ソ ビ エ ト の 指 導 者 達 、
・ ・ ・ が 参 加 し た 。 話 し 合 い の 後 で 、 ア リ キ ナ が 興 味 あ る こ と を 書 き 残 し て い た 。「 ア ン
ド レ イ ・ ワ シ リ エ ビ ッ チ ・ マ ル コ フ は 、最 後 に 話 し て い た 。ミ ハ イ ル ・ ロ マ ノ フ 銃 殺 の 後 、
彼はモスクワに出かけた。スベルドロフの紹介で、レーニンに会議で会えた。そして、会
議 で こ の 件 に つ い て 話 し た 。・ ・ ・ 。」 こ の 出 会 い の 件 を 、 レ ー ニ ン の 伝 記 か ら 探 し 出
すのは無駄であろう。その様な出会いは、歴史として残されているはずがない。
自前裁判の説を仕上げよう。このように:6月13日の夜に、ミハイルの「旅行」が行
わ れ た 。 そ し て 、 次 の 夜 に は 、「 次 の 旅 行 」 が 行 わ れ る こ と に な っ て い た 。 ニ コ ラ イ と 家
族の。
そ の 通 り 、 こ れ は 一 連 の 行 動 で あ っ た :「 長 い 剣 の 夜 ( ? * )」 - 皇 帝 兄 弟 の 抹 殺 -
が予定された。
ミハイルの「個人的な」旅行が行われたのを、いま、私達は知った。
ニコライと家族の「集団的な」旅行はどのように行われたのか、予想することができよ
う。
1ヶ月後、エカテリンブルグで行われた脚本に沿って、ロマノフ一族の、もう1つのそ
の様な「旅行」が行われた。皇后の妹エーラ、大公セルゲイ・ミハイロビッチ、大公コン
スタンチンの息子達ヨアン、イーゴリ、コンスタンチン、若い公爵パレイと彼の従僕達。
彼らは、アラパエフスク町の外れにあるナポリナヤ小学校の建物に監禁されていた。7月
18日、彼らが、赤衛隊と一緒に、落ち着いて馬車に乗ったのを、この地のコックが見て
い た : 明 ら か に 、 彼 ら に は 、「 旅 行 」 に 行 く 、 安 全 な 場 所 へ 行 く 、 と 伝 え て い た か の よ う
であった。
ア ラ パ エ フ ス ク 町 か ら 遠 く な い 、無 名 の 坑 道 の 所 に 、馬 車 は 停 止 し た 。ロ マ ノ フ 一 族 を 、
銃床で殴り始めた。老齢の公爵夫人を殴った。ニコライの子供時代の友達で、クシェシン
スカヤの崇拝者であるセルゲイ・ミハイロビッチは、勿論、反抗した。そのため、セルゲ
イは、銃弾をみまうこととなった。彼らの内の1人は、死んだ状態で、坑道に投げ捨てら
れ、他の人達は、生きたまま坑道に投げ捨てられた。そして手榴弾も投げ込まれた。坑道
に、枯れ枝、倒木を投げ入れ、そして火をつけた。地元の人達は、地中からの、祈りの歌
声 を 長 い 間 聞 い た と い う 。( 素 晴 ら し い 伝 説 ? ) 苦 し み で 死 に そ う で あ っ た 老 齢 の エ ー
ラには、力が残っていた。坑道の闇の中で、煙の中で息をしながら、怪我をしているエー
ラは、瀕死のヨアンの所に、にじり寄って行った。彼の頭に包帯を巻いた。彼女は最後ま
で、マルフォ-マリンスカヤ僧院での誓いを実行したのであった。
アラパエフスク町を占領した白軍は、埋められた坑道内に、彼らの遺体を発見した。遺
体 の 検 査 は 、「 旅 行 」 の 結 末 を 物 語 っ て い た 。
白軍に捕まったチェキストが証言した。ベロバロドフとサファロフの署名の付いたエカ
テリンブルグからの電報にしたがって、この行動が行われた。と。
その様な秘密の電報が、ミハイル殺害の場合にもあったのは、明らかである。
ミハイルの場合と同じように、チェーカーは、アラパエフスク町で、殺害された者達の
「逃亡の試み」があったと脚色をした。
1918年7月19日の電報。モスクワ。ソビエト人民会議。アラパエフスクより。
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「報告をします。アラパエフスク町で、ロマノフ家一族を監禁している場所を襲撃し、
彼らを連れ出したことを知りました。私の短い尋問及び、現場の視察から、襲撃者達は部
屋に押し入り、ロマノフ一族全員、従僕を解放し、自分たちと一緒に連れ去りました。部
隊 を 派 遣 し ま し た が 、 強 盗 ど も は 、 逃 亡 す る こ と に 成 功 を し ま し た 。・ ・ ・ 。 残 さ れ て い
る 部 屋 を 捜 査 す る と 、 一 族 の 荷 物 は 梱 包 さ れ 、 並 べ て 置 か れ て い ま し た 。・ ・ ・ 。 襲 撃 と
逃亡は、前々から計画されていたものと、推測されます。政治委員コベリャンコ」
モスクワへの皇帝家族の「旅行」が、準備されていた。
ロマノフ一族の殺害には、基本的に同じシナリオができていた。そして、何時でも挑発
があったとした。
革 命 家 達 は 、オ フ ラ ン カ( = 帝 政 時 代 の 秘 密 警 察 * )の 挑 発 と 共 に 成 長 し て き て い た 。
そして、革命に成功し、革命家達は、合法的手段に移行した。そして、不巧の全ロシア機
関-オフランカ-が、不死鳥のように、灰の中から蘇った。今ではそれを、チェーカーと
ヨ ブ 。チ ェ ー カ ー は 自 分 の 創 設 者 よ り 、強 力 と な る 。創 設 者 を 抹 殺 す る 。1 9 1 7 年 に は 、
革命家達は、オフランカを抹殺した。そして、1937年には、チェーカーは革命家達を
抹殺する。
そ し て 、 準 備 の 最 中 に 、 突 然 、 ア ブ デ ー フ が や っ て 来 た 。 皇 帝 家 族 に 、「 旅 行 」 の 中 止
を言い渡した。
何が起きたのか?
「 旅 行 」は 、地 方 ウ ラ ル の 中 の「 ヤ コ ブ レ フ 派 」の 決 定 で あ っ た 、公 算 が 強 い 。し か し 、
彼 ら が 、ロ マ ノ フ 一 族 の 殲 滅 を 考 え た 時 点 で は 、彼 ら は 、「 自 立 」し て い た 。モ ス ク ワ は 、
彼らにすれば、遠方過ぎた。彼らは、誇りを持って、自身を「ウラル政府、ウラルソビエ
ト人民委員会」と呼んでいた。
本質的に、彼らの長ベロバロドフが、決定を採択した。しかし、もう一人がいた。この
人物なくして、ベロバロドフは、何もできなかった:ウラルボリシェビキの長で、ウラル
軍事委員であるゴロシェキンである。
ベロバロドフは、感情的で凶暴であり、若かった。ゴロシェキンは、彼より少し年上で
あった。より身長深い人間であった。ゴロシェキンは、前線と直接コンタクトがあった。
彼ら(? *)が、労働者階級の復讐である、ロマノフ一族の根絶を考え出した時、状況
は、まだ、それほど酷くはなかった。が、今、軍事委員であるゴロシェキンは、正確に知
っていた:エカテリンブルグは、直ぐに陥落する。彼ら(=皇帝一族 *)を待避させな
ければならない。モスクワだけが、可能な待避先であった。昨日までは、モスクワを、嘲
り 、軽 蔑 を し て い た 彼 ら に と っ て 、今 日 は 、モ ス ク ワ は 、唯 一 残 さ れ た 救 い の 島 で あ っ た 。
いや、モスクワなしに、レーニンの許可なしに、旧友のスベルドロフの許可なしに、重要
な件には、手を着けてはならなかった。皇帝家族の抹殺は、自身で、それを下すにはあま
りにも危険であった。
明らかに、最後の瞬間に、ゴロシェキンは決定を取り消す・・・。ゴロシェキンは、ま
ず、モスクワの合意を取り付けることを決める。が、試験球を転がしてみる:皇帝の弟で
あるミハイルの抹殺に、モスクワがどのように反応するか、を見る。
(ついでながら、ミハイル殺害の組織者であるミャスニコフ、明らかにこの事を理解し
ていた。彼は、実験用のウサギにはなりたくなかった。ほら、彼らが、ミハイルを、ホテ
ルから連行した時、何故か、ミャスニコフはいなかった。マルコフの証言によれば、殺害
時 、彼 は い な か っ た 。ミ ャ ス ニ コ フ は 機 転 の 利 く ・ ・ ・ 男 で あ っ た 。革 命 後 の 最 初 の 年 に 、
反対をする労働者側に立ち、レーニンとも喧嘩をした。スターリンの「大テロル」が始ま
った時、彼は外国に逃亡することに成功した。幸運にもパリで生きながらえ、そこで、我
が国の辛い革命のことはすっかり忘れた。が、無駄であった。彼がミハイルを力で連れ去
ったと同じように、今度は、スターリンの息のかかったチェキスト達が、彼をパリから誘
拐した。忘れっぽいこの哀れな人物を祖国に連れ帰った。彼がミハイルに行ったように、
スターリン派は、彼を裁判なしで銃殺をした、犬のように。ブチリスコイ監獄にいた彼の
妻 に 、 1 9 4 6 年 に 、 こ の 件 を 公 式 に 伝 え た 。)
或いは?
或いは、これら全ては、モスクワで考えられていた? つまり。ロシアの玉座の後継者
2人をどのように抹殺するかを。しかし、今、ボリシェビキ政権の日数を数えると、驚き
ばかりである。今のところ、ミハイルだけにすることにした。外国がそれをどのように見
て 、 ど の よ う に 反 応 す る か 。・ ・ ・ 。 一 方 、 皇 帝 家 族 は 、 当 分 の 間 、 強 国 と の 外 交 交 渉 の
切 り 札 と し て 残 す 。・ ・ ・ 。
とにかく、準備してきた子皇帝家族の抹殺は、一端脇に置かれた。が、ウラルのボス達
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は、馴染んだ方法をとることに決定した。
再 び 、 日 に ち が ダ ラ ダ ラ と 流 れ る 。・ ・ ・ 。
「6月3日。1週間読み続け、今日、シリデラの「パーベル一世皇帝の歴史」を読み終
わ っ た 。 本 当 に 面 白 か っ た ・ ・ ・ 。」
不幸な自分の先祖の歴史を読んだ時、ニコライは何を考えたのであろうか? 1916
年、軍最高司令官となった時、彼の母親の予言については? それとも、消えてしまった
人生に関する本を、ただ単に読んだだけなのか。********。
「 6 月 5 日 。愛 す る ア ナ ス タ シ ア は 1 7 歳 に な っ た 。娘 達 は 、コ ッ ク の ハ リ ト ン の 所 で 、
食 事 を 作 っ た 。 毎 夕 方 、 粉 を こ ね る 。 毎 朝 、 パ ン を 焼 く 。 悪 く は な い 。」
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第13章「逃亡」
最後の策謀の終了
これは6月に起こった。
私は皇帝家族の朝・・・の様子を想像してみる。彼らは起床する。早い起床である。彼
らにとっては、苦痛である。しかし、朝には、司令官アブデーフが、部屋にやってくる。
「 逮 捕 者 達 の 存 在 を 確 認 す る 。」 た め に 。
ニコライは、窓辺に立っている。ニコライは、小さな書類をじっと見る。
司令官の許可により、ノボチフビンスキー修道院から、皇帝家族達に、食事が運ばれる
事が始まった:女史修道院長の施しにより、クリーム、卵、瓶に入った牛乳、が。これら
修道院からの瓶のうちの1本に、ニコライは、手紙を見つけた。
鈍い光が、石灰で塗りつぶされた窓から漏れている。まだ朝である。まだ暑くはない。
が、そのうちに暑さがやってくる。室内は、堪えられなくなる。窓を開けることは許され
て い な い 。か っ て 、ニ コ ラ イ は 、多 く の 帝 国 、日 本 、ド イ ツ 、オ ー ス ト リ ア ・ ハ ン ガ リ ー 、
と戦争をした。今では、ニコライは、部屋の窓を開けるために戦っている。司令官のアブ
デーエフと。
「6月9日。土曜日・・・。今日、お茶の時、6人の人がやってきた。多分、地区ソビ
エトの関係者。窓の開き具合を調べた。この問題の解決に、2週間もかかった! 時折、
いろんな人がやってきて、黙って、私達の方を、窓を見渡していた。町中の庭からの匂い
が 素 晴 ら し い 。」
しかし、今、ニコライは、窓のことも、庭の匂いのことも忘れた。ニコライは、手に入
れた手紙を、熟読する。牛乳瓶の蓋に、巧みに押し込まれた紙切れであった。
塗りつぶされた窓を通ってくる、朝のぼんやりした光の中いる、最後の皇帝の様子を想
像しながら見てみよう。
彼は、力強く筋肉質の体をしている。しかし、強制された監禁状態の中で、ニコライは
少 し 太 っ た 。身 長 は 高 く は な い( 警 備 兵 達 は 、ニ コ ラ イ の 身 長 に 、非 常 に 吃 驚 を し て い る 。
彼 ら の 単 純 な 考 え に 従 え ば 、 皇 帝 は 偉 大 、 即 ち 背 が 高 く な け れ ば な ら な い か ら で あ る 。)
父、巨人の叔父、弟のミーシャ(=ミハイル *)と比較すると、ニコライはやはり小
さ い 。( か っ て 、 ブ ル テ ン ブ ル グ ・ シ ュ ツ ッ ト ガ ル ト ス キ ー の 王 女 で 、 パ ー ベ ル 一 世 の 妻
が、ロマノフ家に、美貌と、自分の一族の格好をもたらした。それ以来、背の高い人が生
ま れ 始 め た 。 ア レ ク サ ン ド ル 一 世 、 ニ コ ラ イ 一 世 、 ア レ ク サ ン ド ル 三 世 。) 今 、 ニ コ ラ
イが1人でいる時には、ニコライは全く小さくはなく、普通の背丈である。彼の立派な体
格は、全く均整がとれていない:筋肉質の道は、少し大きく、丈夫な足は、少し短足であ
る。小柄で、端正のとれた頭にしては、首は極めて太い。
大 き く な い 鼻 で 、人 当 た り の 良 い 顔 。赤 毛 の 口 ひ げ 。黄 色 が か っ た 顎 髭 。最 後 の 時 に は 、
彼 の 顔 は 、 顎 髭 で ぼ う ぼ う と な っ た 。 し か し 、 ア リ ッ ク ス の 願 い で 、・ ・ ・ 。
アリックスの日記:
「 6 月 7 日 ( 2 0 日 )。・ ・ ・ 。 私 は ニ キ の 髪 を 刈 っ た 。」
アリックスは、前の通り、ニキの髪を刈ることができた・・・。
今では、昼の明るい日差しの元では、ニコライの髭には、白いものが目立つようになっ
てきていた。素人の手で切った皇后の頭には、既に、目立つ白髪が。
ニコライの目は変わりやすい。灰色で空色の時、空色の時、時折、緑がかった敵意のあ
る 目 に 、・ ・ ・ 。「 魅 力 的 な 目 」、「 ガ ゼ ル の 目 ( = 大 き な く り く り し た 目 * )」、 著 名 は
弁 護 士 コ ニ( ? * )は 、そ の 様 に 話 し て い る 。ニ コ ラ イ の 目 の 謎 は ・ ・ ・ 。ニ コ ラ イ は 、
何時も自分を少し子供だと感じていた。大男の父、叔父、弟に対して? それとも、彼と
一緒にいた女性(=アリックス *)の力に対して? これが、将来の苦悩に対する絶え
間ない予感と関係した、彼の幼児性である。受難のヨフの感覚。これら全てが、彼の眼差
しに現れていた。助ける者のいない「受難に向かう子牛」の眼差しが。
年月が経ち、パリのマチリダ・クシェシンスカヤは、だいぶ年をめした。マチリダは、
不 思 議 な 女 性 と 会 っ た 。 自 分 を 彼 ( = ニ コ ラ イ * ) の 娘 と 行 っ て い る の で あ る 。「 奇 蹟
に も 、 助 け ら れ た ア ナ ス タ シ ア 。」 ジ ャ ー ナ リ ス ト の 質 問 の 答 え て 、 次 の よ う に 語 っ た
:
「 こ の 女 性 に は 、 彼 の 目 の 中 に 見 た 、 彼 の 眼 差 し あ り ま し た 。・ ・ ・ 。 彼 は 決 し て 忘 れ
る こ と が で き な か っ た ・ ・ ・ 。( ? * )」
「貴方は、この目を知っていたのですか?」
「 良 く 、 非 常 に 良 く 。」
90歳になる老婆は、吃驚するような優しさで、囁くように話した。
今では、ニコライの顔は黒ずんだ。日焼けで荒れた。首周りは赤くなった。輝くような
目 の 下 に は 、 目 の 隈 が 。・ ・ ・ 。
ニコライは、兵士の歩調で、室内を行ったり来たりする。親衛隊での癖が、抜け切って
- 210 -
い な い 。物 思 い に 耽 る 。よ う や く 、黙 っ て 、ニ コ ラ イ は ア リ ッ ク ス に そ の 手 紙 を 差 し 出 す 。
が、アリックスは、読む間がない。
「逮捕者達の確認」に、司令官アブデーフが入ってくる。ニコライは机から、司令官に
向かって出て行く。謁見の時に、訪問者を何時も出迎えた時のように。机の前に立つ。こ
のように、ニコライは最近、元ズロカゾフスキー工場の組立工(=アブデーフ *)を出
迎える。
アブデーフは、何時も朝は、陰気であった。彼は夜に。沢山の仕事を抱えていた。室内
に は 、 窓 を 閉 じ て い る の で 、 焦 げ た 酒 の 匂 い が 漂 っ て い る 。・ ・ ・ 。
ニ コ ラ イ は 飲 ん だ く れ に は 、我 慢 が で き な い 。彼 の 個 人 的 な 大 酒 に 関 す る 伝 説 が あ っ た 。
この動作の鈍いニコライは、昼食毎に、ロマノフ家に伝わる男の伝統
として、ウオッカグラスを飲み干した。時折、夕食時には、フランスワインを。このワイ
ンの入った樽は、トボリスクで、既に廃棄された。
落ち着いた、静かな声(ニコライの閣僚の誰も、聞いたことはなかった、語気を強めた
声 。) で 、 ニ コ ラ イ は 、 司 令 官 に 挨 拶 を す る 。
そして、アブデーフは去って行く。
「深夜に、警笛を待て。これが合図である。」
アリックスは、謎の手紙を読む。手紙はフランス語で書かれており、訝しげな間違いが
あった。しかし、彼女は直ちに手紙を信用する。間違いとは? つまり、貴族でない者が
書 い て い る 。 * * * * * * * * * 。 彼 ら が く れ た 。 国 民 の 中 の 、「 素 晴 ら し い ロ シ ア 人 」
が 書 い て い る 。 ア リ ッ ク ス は 、 熱 中 し て 長 ら く 待 っ て い た 手 紙 を 読 む :「 私 達 は 、 ロ シ ア
軍 の 将 校 団 で す 。・ ・ ・ 。」
こ の よ う に 、 皇 帝 家 族 に 逃 亡 を 促 す 手 紙 で あ っ た :「 ロ シ ア 軍 の 将 校 団 は 、 貴 方 方 の た
め に 準 備 が で き て い ま す 。」 ア リ ッ ク ス が 、 こ の 言 葉 に 、 ど れ 程 感 激 し た こ と か 。 偏 頭
痛はさっぱりととれた。アリックスは、依存のように口数が多くなった。その通り、来る
べきものが来た。彼らは皇帝家族を忘れてはいなかった! 何と素晴らしいロシア国民で
あ る こ と か ! 彼 ら は 、 自 分 た ち の 皇 帝 の 開 放 の 準 備 を し て い る 。「 友 人 ( ラ ス プ ー チ ン
* )」 は 、「 エ ン ジ ェ ル 軍 団 」 を 派 遣 し た 。
アリックスは、ニコライに返事をするように哀願をする。ニコライは、何時のの如く、
冷静に、受け入れる。その通り、ニコライは返事を書く。このようにして、秘密のメモが
できあがる。
修道院からの瓶で送られる定期的になったメモで連絡があった。
「貴方の友人達は、寝ていません。長い間待ちこがれていた時が、訪れました。神のご
加護と、貴方の冷静さで、私達の目的が、何の危険もなく、達成されることを希望してい
ま す 。」
そして新しい手紙。
「閣下が窓を開けることができるようにするためには、貴方の居る部屋の窓を、こちら
から開ける必要があります。私の方に、その窓を正確に示して下さい。もし、皇太子が移
動できない時には、状況は非常に困難となります・・・。皇太子に麻薬を打って、1時間
から2時間眠らせることができないでしょうか? これは医者の処方です。静粛に事が進
ま な け れ ば 、 私 達 は 、 何 事 に も 着 手 で き ま せ ん 。 成 功 も お ぼ つ き ま せ ん 。」
デユーム(? *)の小説で、ロマンチストのマリア・スチュアルト(? *)が牢獄
から逃亡したことを思い出させる逃亡であった。
し か し 、 窓 を ど の よ う に し て 開 け る ? 突 然 、「 年 配 者 」 の 命 令 で 、 窓 が 開 く と き が あ
る 。「 6 月 1 0 日 。 三 位 一 体 の 記 念 日 で あ る 。・ ・ ・ 。 い ろ い ろ な 催 し で 記 念 さ れ た : 私
達の所では、朝、窓1を1つ開けた・・・。部屋の空気は綺麗になった。風が心地よい・
・ ・ 。」
元軍最高司令官(=ニコライ *)は、牛乳瓶で、定期的となった手紙を送り出した。
戦争での作戦計画を思い出させるような手紙を。
「通りに面している、角から2番目の窓は、この2日間開いています。夜さえ。主玄関
の周りの7,8個の窓は、何時も開いています。その部屋は、司令官と、彼の部下達が使
用しています。その時には、彼らは建物内部の警護に従事しています。彼らは13人、拳
銃と手榴弾・・・で武装しています。司令官と、彼の部下達は、彼らが希望する時、何時
でも私達の部屋に入ってきます。夜の警備は、1時間に2回ほど、家の周りで行われてい
ま す 。・ ・ ・ 。 バ ル コ ニ ー に は 機 関 銃 が 1 台 、 バ ル コ ニ ー の 下 に は 、 も う 1 台 に 機 関 銃 が
・・・。警告の場合に。私達の窓の向かい側、通りの所の小さな建物には、警備隊がいま
す。50名ほどです。各見張り所から、司令官室のベルを鳴らすことができます。警備隊
室 と そ の 他 の 間 に は 、 電 話 が 施 設 さ れ て い ま す ・ ・ ・ 。」
- 211 -
このベルが、あの夜に、彼らの最後の夜に、鳴る。
ニコライは、次の言葉で、終えている:
「 私 達 は 、 味 方 と 一 緒 に な れ る の か 、 教 え て 下 さ い 。」
いつもの如く、自分の日記に、ニコライは、具体的に全てを記していた。この陰謀の秘
密を素直に打ち明けるかのように:
「6月14日:私達の愛するマリアが、19歳になった。気候は暑くなった。日陰で2
6度もある。室内は24度。耐え難い!・・・。明らかにするように。酷い夜を過ごして
いる。着物を着たままで、目を覚ましている。全ては、昼に私達が2つの手紙をもらった
こ と か ら 始 ま っ た 。続 け ざ ま に 。そ れ ら は 私 達 に 連 絡 を し て い た 。* * * * * * * * * * 。
しかし、日が経っても、何も起こらなかった。待つことや確信がないことは、非常に苦痛
であった。
皇 帝 家 族 の 逃 亡 と 解 放 の た め の 君 主 制 主 義 者 の 陰 謀 に 関 し て 、全 世 界 に 証 言 す る 記 述 が 、
ニコライに日記の中に、彼の手で記載されていた。
アリックスは用心深かった:彼女の日記の、6月14日の箇所には、これに関する言葉
はない。しかし、彼女は待った。次の夜も待った。夜の静けさに、耳を澄ました。
しかし、誰かが、彼らをあざ笑ったかのようであった:陰謀の参加者の忍び寄るさらさ
らという足音の替わりに、開かれた窓の所から、アリックスは、他の声を聞いた:
「 6 月 1 5 日 ( 2 8 日 )、 金 曜 日 。 夜 、 私 達 の 窓 の 下 で 、 各 自 の 窓 の 所 で の 行 動 に 注 意
す る よ う 、 番 兵 に 厳 し い 命 令 を 下 し て い る の を 、 私 達 は 聞 い た 。・ ・ ・ 。」
70年後、私は、古文書館に座っている。
「 前 皇 帝 ニ コ ラ イ 二 世 の 家 族 に 関 す る 文 書 1 9 1 8 - 1 9 1 9 」( Ц Г А О Р ( = 国 立
1 0 月 革 命 中 央 古 文 書 館 )、 ф . 6 0 1 、 о п . 2 、 е д . х р . 3 5 ( = 多 分 、 こ の 古 文 書 館
の 検 索 番 号 類 * ))。
7 0 年 も の 長 い 間 、こ の 薄 い フ ァ イ ル は 、日 の 光 を 浴 び る こ と は な か っ た 。秘 密 解 除 後 、
この文書を直ぐに見れた、最初の人物の1人が、私であった。その驚くような内容に、私
達は、一度ならず戻ることになろう。
ファイルの中程に、イパチェフの家に、牛乳瓶に隠して送付した手紙があった。ロマノ
フ家族銃殺の理由の一つとされたものである。
最 後 の 手 紙 に は 、「 将 校 」 の 署 名 が あ る 。 手 紙 は 、 フ ラ ン ス 語 で 、 稚 拙 な 書 体 な が ら 、
几帳面に、書かれている:
「私達はロシア軍の将校団です。私達は、皇帝と祖国に対して、良心と義務を失ってい
ま せ ん 。・ ・ ・ 。
私達は、貴方に、私達のことに関して、詳細に報告をしていません。その理由は、貴方
がご存じの通りです。しかし、ドとタ(ドルゴルコフとタチシェフ 著者)は、既に救出
され、私達を知っています。
開放の時間が近づいて来ています。簒奪者達の余命は幾ばくもありません。とにかく、
チェコ軍団が、エカテリンブルグに段々近づいて来ています。チェコ軍団は町から数km
の 所 ま で 来 て い ま す 。・ ・ ・ 。 ボ リ シ ェ ビ キ は 、 最 後 の 時 に は 、 あ ら ゆ る 犯 罪 を す る 、 と
いうことを忘れないで下さい。時が来ました、行動しなければなりません。深夜の呼び笛
を待って下さい。それが合図です。将校」
し か し 、「 既 に 助 け ら れ た 」 は ず の 、 ド ル ゴ ル コ フ と タ チ シ ェ フ は 、 そ の 時 に は 、 名 も
ない墓の下に葬られていた。
この好意ある人物は、何とも奇妙な嘘を言っている。このことから、ロマノフ一家は、
ドルゴルコフとタチシェフの運命について、何も知っていない、ということを、手紙を書
いた人物は、よく知っていたということを物語っている!
ある時、私が、疑念だらけで疲れ切った時に、電話をした。落ち着いた老人の声が、丁
寧 に 自 己 紹 介 を し た :「 ウ ラ ジ ミ ル ・ セ ル ゲ ー ビ ッ チ ・ ポ ト レ ソ フ 、 収 容 所 で 1 9 年 間 過
ご し ま し た 。」
82歳のウラジミル・セルゲービッチが私に語った:
「私の父は、革命まで、カデット党員で、ある有名な新聞「ルスコエ・スロバ」の執筆
者 で し た 。 匿 名 セ ル ゲ イ ・ ヤ ブ ロ ノ フ ス キ ー を 名 乗 っ て い た 有 名 な 演 劇 評 論 家 で し た 。・
・ ・ 。( 何 と も 、 世 界 は 狭 い も の で あ る 。 既 に 紹 介 し た ベ ー ラ ・ レ オ ニ ド ブ ナ は 、 何 度 も
こ の 名 前 を 、 私 に 語 っ て い た の で あ る 。 * * * * * 。)
「飢餓の年であった1918年に、父は、講演でシベリア周回旅行に出かけた。半分飢
えていた父の講演から得たものは、飢えた人々に利用された! 父の最後の講演は、エカ
テ リ ン ブ ル グ で あ っ た 。・ ・ ・ 。
- 212 -
そして、直に、父がいない時、私達の家に、チェキストがやって来て、家捜しをした。
エカテリンブルグのチェーカーが、ニコライ二世の解放目的の陰謀に参加したということ
で、当事者不在で銃殺刑の刑を下した、と母が語った。
父 が 帰 宅 し 、全 て を 知 っ た 時 、父 は 非 常 に 憤 慨 し た :「 彼 ら は 気 が 狂 っ た の か ? 私 は 、
断 じ て 、 皇 帝 の 陰 謀 に 参 加 す る は ず が な い 。( 父 は カ デ ッ ト 党 員 で あ り 、 2 月 革 命 の 支 持
者 で あ っ た 。) 私 は ク リ エ ン コ ( 当 時 、 上 級 裁 判 所 長 官 ) の 所 へ 出 か け る ! 」
父は、チェコ人の典型的な知識階級であり、理想主義者であった。しかし、ボリシェビ
キは聞く耳を持たない。彼らは銃殺するはず、ということで、母は彼を説得することがで
き た 。父 は モ ス ク ワ か ら 逃 げ 出 す こ と に 同 意 し た 。そ し て 、父 は 白 軍 に 加 わ っ た 。そ の 後 、
亡命者となり、パリへ。極貧の中でなくなり、白軍のための墓地に葬られた・・・。
父が陰謀に参加したということで、私を1937年に逮捕した。それについては、私に
は 何 の 記 憶 も な か っ た 。 私 は 、 1 9 5 6 年 に 、 牢 獄 か ら 、 よ う や く 解 放 さ れ た 。」
このように、偽の陰謀参加者! エカテリンブルグのチェーカーの間違いは何処にあっ
たのか? それとも。それとも、これは故意に為され、それ故、真の陰謀参加者は存在し
なかったのか?
これに、迫害者自身が答えていた。
皇 帝 家 族 の 銃 殺 に 参 加 し た チ ェ キ ス ト ・( M . A .) メ ド ベ ー デ フ 、 の 息 子 で あ る 、 歴
史 家 ( M . M .) メ ド ベ ー デ フ の 手 紙 か ら 、 彼 ら の 驚 く べ き 供 述 に つ い て 、 私 は 知 っ た 。
( こ の 手 紙 は 、 私 の 多 く の 講 演 会 の 出 だ し と な っ た 。)
陰 謀 の 秘 密 (「 特 殊 任 務 」)
1964年に、モスクワ・ラジオに、2人の老人が出演した。
彼 ら は 、皇 帝 家 族 の 銃 殺 に 参 加 し た 全 員 の 中 で 、ま だ 生 き 残 っ て い る た だ 2 人 で あ っ た 。
老人のうちの1人は、グリゴリー・ニクーリン。公爵ドルゴルコフの殺害者、皇帝家族
銃 殺 の 参 加 者 の 中 で の 重 要 人 物 。 も う 1 人 は 、 ロ ジ ン ス キ ー 。( つ い で な が ら 、 他 の 幾 つ
かの書類にも、彼はロジンスキーとだけ記されている。何とまあ奇妙な履歴であること
か!)
ロジンスキーは、皇帝家族銃殺には参加しなかったが、1918年当時には、ウラル・
チェーカー要員であった。
ラジオへの招待は、歴史家ミハイル・メドベーデフが行った。歴史のために、彼らの証
言を書き残しておく必要があることを説得するのに、大変な苦労をした。同じように、権
力側を説得するのにも、大変な苦労をした:直接、フルシチョフへの要請の後、ラジオで
の録音が許可された。メドベーデフが質問をしたが、対談には「ソ連邦共産党中央委員会
代表」が参加した。
この録音は長いものであった。私達は、それに触れてみよう。しかし、いま、私達は、
チェキスト・ロジンスキーの供述に興味がある。彼は、特に、次のように、打ち明けてい
る:
「 ニ コ ラ イ ・ ロ マ ノ フ が 信 じ た 、「 将 校 」 の 署 名 の あ る 手 紙 は 、 チ ェ ー カ ー で つ く ら れ
た 。 そ の 作 者 は 、 ソ ビ エ ト 執 行 委 員 会 の 委 員 で あ る ピ ョ ー ト ル ・ ボ イ コ フ で あ っ た 。」
ピ ョ ー ト ル ・ ラ ザ レ ビ ッ チ ・ ボ イ コ フ( 1 8 8 8 年 - 1 9 2 7 年 )の 党 で の 渾 名 は 、
「イ
ン テ リ ゲ ン ト ( = イ ン テ リ * )」 で あ っ た 。 革 命 活 動 の た め に 、 最 初 、 ギ ム ナ ジ ウ ム 学
校を除籍され、その後、ペテルブルグ鉱山学校からも除籍された。亡命をし、スイスに住
んだ。ジュネーブ大学を卒業し、1917年8月に、ロシアに帰国し、ボリシェビキに加
わった。1918年に、赤色ウラルの配給人民委員となった。1924年から、ソ連邦の
ポーランド大使になった。彼はついていた。が、彼は、1938年までは生きながらえな
かった。1927年に、ポーランドで、君主制主義者に殺された。ロマノフ一家銃殺参加
のかどで。
ロジンスキーの言によれば、ジュネーブ大学の卒業生が、あの手紙を書いた。
し か し 、 ボ イ コ フ の 文 字 は 汚 す ぎ た 。( 多 分 、 単 純 に 、 自 分 が 挑 発 者 と し て の 証 拠 を 残
す こ と を 、 嫌 っ た 。) ボ イ コ フ は 、 ロ ジ ン ス キ ー に 書 き 写 す こ と を 提 案 し た 。 チ ェ キ ス
トの中には、文字の綺麗な者はいた。ロジンスキーはその者に書き写させた。自分の言葉
の 信 憑 性 に 疑 い を も た れ な い よ う に す る た め に 、そ の 時 、ロ ジ ン ス キ ー は 、ラ ジ オ な が ら 、
自分の書体を書き残した。
私が、この本を書き終わろうとしていた時、メドベーデフ(=父の方
ける可能性のあるものを手にした。
- 213 -
*)の話を裏付
元中央党古文書館で、秘匿在庫の中に、ラジオの録音の速記録が保管されていた。さん
ざん苦労して、速記録の秘密が解除され、私をそれを読むことができた。
ミハイル・メドベジェフ(=父の方 *)は、真実を語っていた。
その時、ラジンスキーが語った言葉は次の通りである:
「私達は、文通を始めることを企むことにした。******。それには、誘拐が準備
されているという証拠が必要であった。ベロバロドフ、ボイコフと私が集まった。頭に浮
か ん だ こ と か ら 、脚 本 を 作 っ た 。そ し て 、ボ イ コ フ が フ ラ ン ス 語 で 、こ の 手 紙 を 口 述 し た 。
私 が 書 い た ・ ・ ・ 。 そ の 様 な 訳 で 、 手 紙 は 私 の 書 体 で あ る 。」
こ の 事 件 で は 、 全 て は 、 驚 く ほ ど 、 考 え 抜 か れ て い た 。「 心 配 し た 」 ウ ラ ル 側 が 、 ロ マ
ノ フ 一 族 に 、突 然 持 っ て 行 く こ と を 許 可 し た 、修 道 院 か ら の 食 事 か ら 始 め な が ら 。そ し て 、
修 道 院 は 、 ロ マ ノ フ 一 家 に 、「 大 規 模 な 君 主 制 主 義 者 に よ る 陰 謀 の 書 類 」 が 、 届 け ら れ る
ルートとなった。
ことは非常に巧みに行われた。6月の始めに、エカテリンブルグに、イワン・シドロフ
なる者(明らかに偽名)がやって来た。皇帝家族の信頼している友人トルストから、大金
を預かって。デレベンコ医師を通じて、シドロフは、ノボチフビンスキー修道院と連絡を
取った。同時に、同じデレベンコ医師を通じて、司令官アブデーフとも連絡を取ることが
できた。その後、突然、哀れみを持つようになった司令官は、食事を修道院から運ぶこと
を許可した。このようにして、修道院は、皇帝家族にとって、外部の人と連絡を取れるも
のとなる。修道院であったが故に、皇帝家族は、この修道院から届く手紙に、信用を置く
羽目になった。
閉じられた窓から、どれだけ周りの状況を把握できようか!
閉じられた窓-堪えられない蒸し暑さ。この毎日の体験が、怒りを引き起こしていたに
違いない。逃亡への家族の同意を加速を、促したに違いない。
その後、純朴なアブデーフが、突然、驚くほどの警戒心を示すようになった:修道院か
ら届けられる全ての食べ物を注意深く検査をした。そして、書き付けを「発見」した。誰
か に よ っ て 待 ち こ が れ て い た 最 終 場 面 と な っ た : 日 記 に は 、逃 亡 に 関 す る ニ コ ラ イ の 記 述 。
今 や 、「 君 主 制 主 義 者 の 陰 謀 」 が 存 在 す る こ と に な っ た 。
以上の姑息なことを考えついた人物は全て知っていた。ニコライの日常を知っていた。
ニコライが、自分の日記に全てを書き残していることを。
ニコライの日記中の記載がなければ、この作戦は完遂しなかった。日記中の記載は、最
初から予想されていたものであり、反駁しがたい証拠であった。
いや、直情的で、苛酷なユーロフスキーには、これらは向かない。ニコライを知り尽く
した頭の良い人物が、ここで動いていた。
その通り、我々の「スパイ」の可能性が大である!
トボリスクからの到着(?何処へ *)後、彼はペルミに住んだ。そこで、ペルミ・チ
ェーカーを指導した。が、6月には既に、彼はエカテリンブルグにいた。6月の末には、
新たな高度は職務を整え挙げた。
ソロキナ(? *)の手紙から:
「私の父は、郷土史研究家で、フョードル・ルコヤノフに関する論文を研究していまし
た 。 彼 ( = フ ョ ー ド ル *) の 書 類 の 中 に 、 ス ベ ル ド ロ フ ス ク 市 の K G B 博 物 館 が 出 し た 冊
子 が 残 っ て い ま し た :「 ル コ ヤ ノ フ 。 1 9 1 8 年 3 月 1 5 日 か ら 、 ペ ル ミ ・ 地 方 チ ェ ー カ
ー代表。1918年6月21日から、ウラル・チェーカー代表。皇帝家族に関する全露中
央執行委員会の特別委員会を指導した」
ルコヤノフは、皇帝家族に関する全露中央執行委員会の特別委員会を立派にやりこなし
た。
私 は 、ル コ ヤ ノ フ の 勝 利 し た 時 の 喜 び よ う を 思 い 浮 か べ る : 皇 帝 家 族 は 散 歩 に 出 か け た 。
ルコヤノフは、ニコライの日記を盗み読んだ。ルコヤノフは用意周到であった。望遠鏡で
星 を 見 、星 を 数 え 上 げ る 天 文 学 者 の よ う な 感 覚 で あ っ た ろ う 。い つ も 通 り 、我 が「 ス パ イ 」
が、皇帝の日記を元在ったところに、几帳面に戻した時、彼は歓喜した。彼が、家族に死
を宣告したと。皇帝、皇后、マリア、他の娘、そして、病気の息子に。********
***。
このように、ニコライは信用していた。純朴に。殆ど馬鹿のように。自分の日記に、こ
の悲運を招く書き込みをしてしまった。
しかし、ニコライは、本当に信用していたのであろうか?
誰がやったのか?
- 214 -
この時には、チェコ軍団は、エカテリンブルグ市内に入っていた。皇帝家族の解放のた
めに、白軍が、どのように猛然と、エカテリンブルグに進撃したか、後になって、沢山書
かれることになる。
それはそれとして、軍団は奇妙な「進軍」をした。チュメニは陥落し、周りの大きな町
も全て確保した。が、エカテリンブルグだけが残っていた。
エカテリンブルグを、南から迂回した:既に、キシュチム、ミアス、ズラトウスト、シ
ャドリンスクは占領した。何の、猛然とした進撃はなかった:町の包囲環を、ゆっくりと
縮めていき、ゆっくりと窒息させていった。全く急いでいるようではなかった。
この時、エカテリンブルグには、数百人の武装した赤衛隊がいた。また、町には、多く
の皇帝の将校達もいた。参謀本部付属アカデミーが、ペトログラードから、ここに避難し
て 来 て い た の で あ る 。・ ・ ・ 。 イ パ チ ェ フ の 囚 わ れ 人 を 解 放 し よ う と す る 確 か な 試 み は 、
一つもなかった!
皇帝家族は、評判が悪かったのである。
その通り、ボリシェビキを打倒して、チェコ軍団とシベリア軍団は、決して皇帝権力を
復 帰 さ せ て は い な い 。 臨 時 会 議 権 力 ・ ・ ・ 、 サ マ ラ の 政 府 は 、「 臨 時 会 議 委 員 会 」 と 呼 ば
れていた。
ラスプーチン心酔者で、国民に恨みをかっている妻、大変な血が流れている戦争、裏切
り の 噂 、・ ・ ・ 。 打 倒 さ れ た 皇 帝 は 、 実 質 に お い て 、 全 く 嫌 わ れ て い た 。 皇 帝 ま で 開 放 し
たとすれば、解放者の間に、重大な問題を生起したであろう。
この大変な時に、前皇帝は多くのことを理解した:その1番のこと:前皇帝が生きてい
ることを、誰も必要としていない。ということを。
で は 、 死 ? 「 そ の 様 な 犠 牲 は ま か り 成 ら ん 。 私 は 犠 牲 を 払 わ な か っ た 。」( 退 位 前 の
皇 帝 の 言 葉 。)
更に:彼を殺し、彼らは、皇帝家族を解放する。これは1つの道であった。
彼の死-結構なこと?
勿論、分別あるニコライは、皇太子の単語に間違いのある、未熟なフランス語学力を持
っている「ある将校」が誰であるかを、知っていた。
ニコライの全人生はゲームであった:政治の世界、母親、クシェシンスカヤ、アリック
ス、ビルボア、ラスプーチン。今回は、彼の番であった。彼自身で、今回のゲームを演じ
た 。「 将 校 」 に 手 紙 を 送 り 、 そ れ を 、 日 記 に 書 き 留 め て お く 。 正 に そ れ に よ り 、 自 身 に 判
決 を 下 す こ と を 、 知 っ て い た 。 彼 ら は 、 手 紙 と い う 餌 を 投 げ た 。 そ し て 、 罠 に は め た 。・
・・。
モスクワ、1918年7月
こ の よ う に 、 6 月 末 に 、 ウ ラ ル ・ ソ ビ エ ト は 、「 君 主 制 主 義 者 の 陰 謀 」 の 証 拠 を 得 た 。
ゴロシェキンは、モスクワに出発した。
モスクワは、ウラルからの情報を、恐怖を持って待っていた:エカテリンブルグは、ど
れだけの期間、持ち堪えるのか?(白軍が間近までの進軍してきているので *) 今後
どうなるのか? 「ペテルブルグから、最大限の労働者を動員する。でなければ、我々が
飛 び 立 つ 。 チ ェ コ ス ロ バ キ ア 人 の 情 況 は 、 大 変 悪 い 。」( レ ー ニ ン )
そ の 通 り 、 彼 ら は 「 飛 ん で い く 。」 一 日 の 猶 予 も な か っ た 。 破 滅 が ボ リ シ ェ ビ キ を 包
み つ つ あ っ た 。太 平 洋 か ら 、全 シ ベ リ ア で 、そ し て ウ ラ ル で 、彼 ら の 権 力 が 倒 壊 し て い た 。
ウクライナは、ドイツが支配し、ボリシェビキに反対する義勇軍が組織される。北で、
ムルマンスクへは、イギリス人が上陸する・・・。そして、飢饉。
モスクワに到着したゴロシェキンは、渦中の中に入った。大変なことが、毎日起きてい
た。
7月4日、第5回ソビエト会議が開催された。かって、この大会で、皇帝を裁判で裁く
問題を決定することが提案された。しかし、今は裁判どころではない!。革命党内の論戦
が 行 わ れ る 。「 裏 切 り の ブ レ ス ト 和 平 」 の 後 、 政 府 を 捨 て た 、 左 派 の エ ス エ ル は 、 レ ー ニ
ン に 戦 い を 挑 む 。「 ロ シ ア 革 命 の 聖 女 」 と 呼 ば れ 、 有 名 な テ ロ リ ス ト 、 マ リ ア ・ ス ピ リ ダ
ノバは、ボリシェビキに反対する激烈な演説を展開する。
7月6日、ドイツ大使館の建物で爆発があった。2人組が、大使館の塀を乗り越え、待
っていた自動車に乗って、走り去った。左派エスエルによって、ドイツ大使ミルバフ伯爵
が死亡した。
「 エ ス エ ル は 、 ブ レ ス ト 和 平 を 破 壊 す る こ と を 試 み た 。」 政 府 の 公 式 な 見 解 で あ る 。 そ
して、非公式的には:これら全ては、危険な反対派を始末するために、ボリシェビキによ
って行われた、挑発活動である。ミルバフ大使殺害のちょうど後、ボリシェビキは、会議
で、全ての左派エスエルを逮捕する。返答として、エスエルは電報局、電話局、チェーカ
ーの建物を占領する。その時、レーニンは、ラトビア人からなる狙撃兵を動かす。ボリシ
- 215 -
ェビキの打撃部隊であった。蜂起は鎮圧された。このように、首都は、革命派の党間の激
烈 な 争 い の 中 に あ っ た 。・ ・ ・ 。
国中に、ストライキの炎が燃え上がっていた:7月7,8日、ヤロスラブリ、リビンス
ク、ムロムで、将校の反乱。7月11日、進撃してくるチェコ軍団に対抗するはずの参謀
本部付きの軍隊が、反乱を起こした。
惨禍と血の環境・・・。首都には、黙示録の兆候が現れた。
赤色テロルが近づいてきた。ペトログラード・チェ-カーの長である、ボリシェビキの
ウ リ ツ キ ー の 殺 害 と 、エ ス エ ル 党 員 カ プ ラ ン の レ ー ニ ン 銃 撃 の 後 、数 ヶ 月 後 に 、公 式 に は 、
赤 色 テ ロ ル が 宣 言 さ れ た 。が 、暑 い 夏 に は 、す で に 、赤 色 テ ロ ル は 始 ま っ て い た 。・ ・ ・ 。
1918年11月、クレムリンの獄舎に入っていた左派エスエル党党首マリア・スピリ
ダノバは、ボリシェビキに宛てた、自分の公開書簡で、革命は情けなかったとして総括を
し て い る :「 ソ ビ エ ト 権 力 が 、 ソ ビ エ ト の も の で は な く 、 ボ リ シ ェ ビ キ だ け の も の と な っ
た時、コサック兵による皇帝の警護、トルコ親衛隊によるサルタンの警護・・・と同じよ
うに、ラトビア兵によるレーニンの警護を強化することが必要となった。そして、同じく
赤色テロル・・・も必要となった。レーニンの左腕の怪我のために、数千人もの人を殺し
た。ヒステリーのように殺しまくり、裁判も審査も照会も、法的らしいこともとらず、殺
しまくった。道徳的な考えは言っていられなくなった。レーニンは生き延びた。しかし、
つまり、その時、ボリシェビキが主導する革命から、最後の生きた精神が、飛び去ってし
ま っ た 。」
歴史の皮肉:皇帝との戦いで主たる力を発揮したエスエル。そして、そのエスエルは、
1 9 1 8 年 夏 に は 、 皇 帝 自 体 を 処 理 す る 力 と な っ た 。・ ・ ・ 。
赤 色 テ ロ ル が 、「 革 命 の 生 き た 精 神 」 を 殺 し た と い え ば 、・ ・ ・ 。 い や 、 赤 色 テ ロ ル は 、
革 命 で 学 習 し た 。 ベ ー チ ェ ー カ ー を 設 置 し 、 レ ー ニ ン は ジ ャ コ バ ン 党 員 に 、「 無 謀 な 反 革
命 党 員 」 を 教 え 込 む 、 新 し い フ キ エ ・ テ ン ビ レ ( ? * ) に 、 憧 れ た 。( こ こ か ら 昔 の フ
ランス革命の話が入ってくる。 *) クレムリン中の革命家達は、18年を、18世紀
のフランス革命時の大変な日々と重ね合わせて見ていた。当時、フランス全土は、干渉の
業火の中で燃えていた。イギリスは、ツロンを占領した。オーストリアは、ライン川に沿
って、軍事行動を起こした。フランスの第2の都市、リオンには、共和制に反対する蜂起
が起こっていた。その時、ジャコバン党党員達は、返答を下した・・・。
早朝、リオンの監獄から、60人の若者が引き出された。彼らから10m離れたところ
に大砲が配置された。繋がれたまま、彼らは砲弾で打ち砕かれた。手、足。肉片が、辺り
一帯に飛び散った・・・。血に塗れ、ぴくぴく震えている人体・・・。夕方には、同じ川
岸で200人が犠牲となった。
「我々は、汚い血を僅か流しただけである。人類の名の下に、義務の完遂のために・・
・。我々が、敵を、完全に、残虐に、素早く殺さなければ、我々は、宴面と敵を殺し続け
る こ と に な る で あ ろ う 。」 こ の 言 葉 は 、 裁 判 長 で あ っ た 、 国 会 議 員 ジ ョ ジ ェ フ ・ フ シ ェ
の も の で あ る 。彼 は 、後 に 、ナ ポ レ オ ン 、及 び 、信 仰 の 厚 か っ た 国 王 リ ュ ド ビ ッ ク 1 8 世 、
の 閣 僚 を 務 め た 。 1 9 1 8 年 を 生 き て い る も の に は 、「 人 類 に た め の 血 」 の 文 句 は 、 容 易
に 理 解 で き た 。・ ・ ・ 。
しかし、ジャコバン党党員に心酔した生徒達(=ロシアのボリシェビキ *)は、ギロ
チ ン の こ と を 忘 れ て い た 。ギ ロ チ ン は 、彼 ら フ ラ ン ス の 先 生 達( = ジ ャ コ バ ン 党 党 員 * )
の 首 を 、 こ と ご と く 切 断 し て し ま っ た こ と を 。・ ・ ・ 。
ゴロシェキンは、モスクワと何について話し合ったのか?
1918年のことに戻ろう。ゴロシェキンはモスクワを訪れた・・・。
将来において、ウラルの皇帝殺害者達は、全員一致した自分の答えをするようになる:
モスクワでゴロシェキンは、エカテリンブルグの保持だけを審議した。皇帝家族の運命に
ついては話していなかった。ロマノフ家の処罰の決定は、ウラル・ソビエトが独自で行っ
た。
論理的に考えてみよう:これは嘘である。皇帝とその家族の運命に触れることなく、エ
カテリンブルグの明け渡しを、モスクワで審議することが、ゴロシェキンはできたのか?
エカテリングブルグが、陥落した時、彼らと一緒に、何を為すかを決めなかったのか?
前線から戻ってきた、トロッキーは、スベルドロフとの話を、日記に書き留めていた。
「それで、皇帝は何処に?」
「 勿 論 、 銃 殺 し た 。」( ス ベ ル ド ロ フ の 落 ち 着 き 払 っ た 勝 利 感 : 裁 判 な ど は 必 要 な い 。
著者)
「家族は何処に?」
- 216 -
「 家 族 は 彼 と 同 じ だ 。」
「全員?」
「 全 員 。 何 か ? 」( こ こ で 再 び 、 ス ベ ル ド ロ フ の ほ く そ 笑 み が あ っ た : 情 熱 家 の ト ロ ッ
キーは、皇帝家族に、何か哀れみを持ったのか? 著者)
「 そ れ を 、 誰 が 決 定 し た の か ? 」( 激 怒 : ト ロ ッ キ ー は 自 分 に 相 談 す る こ と な く 、 誰 が
敢えてその様なことを決めたのか知りたがった。 著者)
「我々がここで決めた。皇帝を、生きた象徴として残すことは、まかり成らぬとイリッ
チ ( = レ ー ニ ン * ) が 、 考 え た 。 と く に 、 こ の よ う な 困 難 な 状 況 下 で は 。」
怒 り が 治 ま り 、 ト ロ ッ キ ー は 革 命 の 大 変 な 時 期 に 語 っ て い る :「 我 々 は そ の う ち 消 え て
い な く な る 。 が 、 ド ア を た た き 開 け た 。 世 界 は 震 え あ が っ て い る 。」 こ の 卓 越 し た 革 命
家の決定を、評価しない訳には行かない:
「本質において、この決定は必要であった。皇帝家族の処罰は、敵を怯えさせ、怖がら
せ、敵の希望を打ち砕くためには、必要であった。我らが部隊を奮い立たせ、後退などあ
り得ないことを示すためにも。前方にあるのは、完全な勝利か、或いは完全な滅亡か・・
・。労働者及び兵士の大衆は、他の何の決定も理解しようとはしていないし、受け入れも
し な か っ た 。 こ の こ と は 、 レ ー ニ ン は 良 く 感 じ て い た 。」
このように、トロッキーから見ると、全てはモスクワで決定された。即ち、ゴロシェキ
ンは、その件についてモスクワで話し合った?
しかし、これは、トロッキーの証言だけである。歴史は、書類など確かな証拠を必要と
する。最初、その痕跡があった。
コ ロ ト フ ( ? * )( レ ニ ン グ ラ ー ド ) の 手 紙 か ら :
「貴方が興味を持たれているテーマに関する、興味ある詳細を貴方にお知らせすること
ができます:私の叔父はしばしば私に話をしていました。ジノビエフが、皇帝射殺の決定
に参加していたと。そして、中央からエカテリンブルグに送られた、電報に従って、皇帝
は射殺されたと。叔父は信じることができます。叔父は仕事柄、沢山のことを知っていま
した。叔父は話しました。自分自身も射殺に参加していたと。叔父は、射殺のことを「背
中 を 突 く ( ? * )」 と 呼 ん で い ま し た 。 こ れ は 文 字 通 り だ と 思 い ま す : 死 刑 を 宣 告 し た
ものを、壁に顔を向けるように回らせ、その後、後頭部に拳銃をぴったりつける。引き金
を引くと同時に、背後から彼らを突っつきます。着衣に、血が付かないようにするためで
す 。・ ・ ・ 」
電報
電報は発見された。抹殺されていなければならなかったにもかかわらず。血が大声で叫
んでいる・・・。
この電報は、私の目の前にあった! 暑苦しい7月の昼に、私は十月革命古文書館にい
た。そして、72年前に発送されたこの電報を目にした。電報は、古文書の書類として、
地 味 な 名 前 を つ け ら れ て い た :「 裁 判 機 関 と チ ェ ー カ ー の 組 織 と 活 動 に 関 す る 電 報 。 最 初
は 1 9 1 8 年 1 月 2 1 日 、 最 後 は 1 9 1 8 年 1 0 月 3 1 日 。」 こ れ ら の 名 前 と 日 付 の 背
後には、赤色テロル。銃殺に関する電報の間に、間違いだらけの文章が書かれた汚い紙。
が、この紙の双頭鷲が目に飛び込んだ! 皇帝の紋章である!
これが、あれ(女性名詞だが? *)であった。双頭の鷲の紋章で飾られている皇帝専
用の電報として残されている用紙に、あの電報があった。皇帝家族の来るべき処罰に関す
る連絡の電報。これはなんだ、再び、歴史の皮肉であろうか、それとも、人の皮肉であろ
う か ? ( ? * )。
電 報 テ ー プ の 塊 の 電 文 の 一 番 上 に 、住 所 が あ っ た :「 モ ス ク ワ レ ー ニ ン に 」 下 に は 、
鉛 筆 で の 記 入 が :「 受 領 1 6 . 7 . 1 9 1 8 年 2 1 時 2 2 分 。 ペ ト ロ グ ラ ー ド か ら 」
このように、7月16日21時22分に、この電報は、ペトログラードからモスクワに
届いた。
電 報 は 長 い 経 路 を 通 っ て い た 。 電 報 は 、 エ カ テ リ ン ブ ル グ か ら 、「 ス ベ ル ド ロ フ へ 、 コ
ピーをレーニンへ」として発信された。当時、レーニンの最も近しい同志であった、第二
の 都 市 、ペ ト ロ グ ラ ー ド の 長 で あ る ジ ノ ビ エ フ を 経 由 し て 、電 報 を 送 っ た 。そ し て 、既 に 、
ジノビエフは、ペテログラードから、エカテリンブルグの電報を、レーニンに転送してい
た。
我々に既知のゴロシェキンと、ウラル・ソビエトの幹部の一人であるサハロフが、絵カ
レリンブルグからこれらの電報を送った。文面は以下の通りである:
「モスクワ、クレムリン、スベルドロフへ、コピーをレーニンに。エカテリンブルグか
ら、直接、次のことを伝えます:モスクワへ知らせて下さ:フィッリポフと予め決めいて
い た 裁 判 を 、 軍 事 情 況 か ら 、 待 っ て い る こ と は で き ま せ ん 。・ ・ ・ 。 も し 、 そ ち ら の 意 見
が反対でなければ、直ぐ行います。手順を無視して(=緊急に *)伝えて下さい。ゴロ
- 217 -
シ ェ キ ン 、 サ ハ ロ フ 。 こ の 結 論 に 関 し て 、 エ カ テ リ ン ブ ル グ と 連 絡 を 取 っ て 下 さ い 。」
そして、ジノビエフの署名が。
ゴロシェキンの党内での変名が「フィリップ」であることを知っていれば、皇帝家族の
銃 殺 ま で 、 残 り 時 間 が 僅 か の 時 に 、 発 信 さ れ た 、 こ の 電 報 の 符 丁 が 良 く 分 か る 。「 フ ィ リ
ッ プ と 予 め 決 め て い た 裁 判 」。 狡 猾 さ が な け れ ば 、 ゴ ロ シ ェ キ ン と 取 り 決 め た ロ マ ノ フ 家
の 処 罰 に 、 こ の よ う な 暗 号 を 、 使 う 必 要 性 な ど は な い 。( ニ コ ラ イ 皇 帝 を 裁 く つ も り で あ
っ た 。 し か し 、 本 質 に お い て 、 圧 制 者 に 対 す る 革 命 裁 判 で あ る 。 結 局 は 圧 制 者 の 死 刑 。)
エカテリンブルグの軍事情況は、絶望的であった。近日中に、陥落は必須であった。
天保の内容は以上の通りであった:ジノビエフを通じて、エカテリンブルグのウラル・
ソビエトは、モスクワにいる、スベルドロフとレーニンに連絡をする。エカテリンブルグ
の軍事情勢は悪化をたどっており、町の放棄が近づいている。ゴロシェキンと前もって取
り決めていた皇帝家族の処刑は一刻の猶予も許されないと。しかし、もし、モスクワ側に
反対の意志があれば、モスクワ側は、その意志を遅滞なく伝達したはずである。
この電報の後、ゴロシェキンの任務について、モスクワで、疑いなく話し合いがされた
はずである:話し合いで、エカテリングブルグの運命の問題を審議し、家族処刑の取り決
めをした。
2人の旧友
皇帝家族の件に少なくない関係を持った人物として、電報では更に2人に言及している
・・・。ウラル・ソビエト幹部の写真:ゴロシェキンとベロバロドフと並んで、眼鏡をか
けた典型的なインテリが立っている。これが、ソビエト議長のサハロフである。
サハロフ・ゲオルギイ・イワノビッチ、技師の息子、1891年生まれ。彼には、マル
キ ス ト と し て 育 っ た 典 型 的 な 経 歴 が あ る : 流 刑 、ス イ ス へ の 亡 命 ・ ・ ・ 。即 ち 、こ の 時 に 、
サハロフと共に、グリゴリイ・ジノビエフも育っていた。ボリシェビキ中の階級では、レ
ーニン、トロッキーに次ぐ人物であった。
彼らは、スイスで親しくなった。ジノビエフは、レーニンに、サハロフを紹介した。2
月革命の直ぐ後、ジノビエフの助力で、サハロフはレーニンと共に、ペトログラードに到
着した。いわゆる有名となった「封印列車」で。
そして、10月革命に勝利した:1917年9月から、サハロフは、ウラル・ソビエト
代表となった。エカテリンブルグにおけるサハロフの活動は、ペトログラードにおける彼
の あ こ が れ で あ る ジ ノ ビ エ フ の 活 動 を 思 い 出 さ せ る 。・ ・ ・ 。
白軍に包囲されたペトログラードに、ジノビエフは、人質作戦を展開する。白軍の進撃
に対する返答として、ペトログラードにやって来たスターリンと共に、ジノビエフは、凄
惨な人質作戦を行った:白軍将校、聖職者、その他の人質を深夜に銃殺した。1919年
には、ジノビエフのもう1つの血の返答があった。ベルリンにおける、ドイツ共産党員、
カール・リフネフト、ローザ・リュクセンブルグの殺害に対して、ペトロパブロフスク要
塞で人質を殺害した:4人の大公達-ロマノフ家のニコライ・ミハイロビッチ、ゲオルギ
イ・ミハイロビッチ、パベル・アレクサンドロビッチ、ドミトリイ・コンスタノビッチ-
を 。つ い で な が ら 、こ の 国 際 連 帯 と も い え る 行 動 の す ぐ 後 に 、レ ー ニ ン は 、ジ ノ ビ エ フ が 、
コ ミ ン テ ル ン を 指 導 す る よ う に 、 推 薦 を し て い る 。。
勿論、最初から、ジノビエフはウラルの考えを支持している。つまり、ロマノフ一族の
銃殺を。エカテリンブルグへの白軍の進撃に対する返答は、ジノビエフの論理に合致して
いた。更に:ジノビエフは、裁判を不要と見なしている。ジノビエフは、トロッキーを妬
んでいる。権力争いにおいて、自分の競争者に対して、教養あるマルキストであるジノビ
エ フ は 、 書 き 残 し て い る :「 党 は 、 ト ロ ッ キ ー の 面 を 、 長 い 間 、 殴 り た が っ て い る 。」
旧友である2人の全人生は、お互いに密接に関係し合っていた。1919年に、ジノビ
エフが、コミンテルンを指導していた時、サハロフを、部局の長として採用している。レ
ーニンの死後、ペトログラードの長であったジノビエフは、自分の背後を固める。信頼で
きるサハロフを、党新聞「レニングラードスカヤ・プラウダ」の編集長とする。そして、
スターリンが、ジノビエフの「背中を突く」ことで、報復を果たした時、サハロフは、関
係を清算しなければならなかった。
パ ジ ャ ル ス キ ー ( ロ ス ト フ ・ ナ ・ ド ヌ ー )( ? * ) か ら の 手 紙 よ り :
「雑誌「アガニョク」に貴方の記事「エカテリンブルグにおける銃殺」が掲載されまし
た。そこには、サハロフの写真がありました。貴方には資料がありそうなので、多分、彼
にその後何があったか、私に話すことができるでしょう。説明をします。1941年に、
サラトベで、私は、サハロフと一緒に写真を撮りました。本当に目立つ個性を持った人で
- 218 -
し た 。 彼 の 言 葉 か ら : レ ー ニ ン 時 代 、 秘 書 を や り 、 移 民 局 で 図 書 館 司 書 を や り 、・ ・ ・ 、
党大会の代議員をやり、新聞の編集長をやった。その後、長年、1937年前後における
殆 ど 全 て の 「 事 件 」 の 目 撃 者 で あ っ た 。 * * * * * * * 。」
「モスクワと予め決めている・・・」
モスクワにいて、ウラルのジャコバン党員(喩え *)の絶大な支持を、スベルドロフ
とジノビエフはし、ロマノフ一族に対する制裁を夢見ていた。ゴロシェキンの大事な打ち
合わせ、即ち、レーニンとの打ち合わせの支持。
この打ち合わせはできなかったのか? ゴロシェキン-チェーカー、レーニンの言葉に
よれば、全ボリシェビキ権力の運命が決められる、崩壊寸前のウラルの指導者、皇帝家族
の主人-はできたのか。レーニンによって受け入れられなかったのか? レーニンの年代
記には、この出会いは書いていない。ただ、当然ながらの不本意が論証されている。
皇帝家族に関する2つの問題を、レーニンとの出会いで、ゴロシェキンは決定しなけれ
ばならなかった:第1-もし、エカテリンブルグが陥落したならば、皇帝をどうするか、
・ ・ ・ 、 の 取 り 決 め 。 こ れ に は 迷 い は な か っ た 。 ゴ ロ シ ェ キ ン が 誘 導 し た 、「 君 主 制 主 義
者達の陰謀」という、世界にも提示できる、議論の余地のない証拠があった。そして、第
2-家族に関する取り決め。
シ ュ ミ ッ ト ( ? * )( ウ ラ ジ オ ス ト ク ) の 手 紙 か ら :
「 雑 誌 「 3 0 日 」( 1 9 3 4 年 、 第 1 号 ) で 、 ボ ン チ ・ ブ リ ュ エ ビ ッ チ が 、 若 い レ ー ニ
ン の 言 葉 を 、思 い 起 こ し て い る 。ド ス ト エ フ ス キ ー の 作 品「 悪 霊 」の 主 人 公 の う ち の 一 人 、
ネ チ ャ エ フ の 素 晴 ら し い 返 事 に 、 レ ー ニ ン は 、 感 激 を し た 。「 王 室 の 誰 を 殺 さ な け れ ば な
ら な い か ? 」 と い う 質 問 に 、 ネ チ ャ エ フ は 明 瞭 に 答 え る 「 全 員 」。「 そ の 通 り 、 ま さ に ロ
マノフ家に当てはまる、何と単純なことか、天才だ!」 レーニンは、ネチャエフに感激
し た 。「 革 命 の 大 物 」、「 情 熱 的 革 命 家 の 一 人 」、 レ ー ニ ン は 、 ネ チ ャ エ フ を そ う 呼 ん だ 。
打 倒 さ れ た 皇 帝 は 、子 供 達 の 前 に 、苦 悩 の 陰 を 投 げ か け て い た 。ア レ ク セ イ と 姉 妹 達 は 、
勿 論 、「 生 き た 旗 印 」 と な る こ と が で き た 。 ネ チ ャ エ フ の 素 晴 ら し い 返 事 を 評 価 し た レ ー
ニンは、このことを考えないことができたのか。
このように、自分自身に死刑を宣告しながら、ニコライは、家族全員に判決を下した。
(? *)
明らかに、同時に、エーラとアラパエフスクでの幽閉者達の運命は、決められた。そし
て、もちろん、デリケートな問題について予め決めた:銃殺について、どのように告示す
るか。多分、その時には既に決定されていた:公式報道は、ニコライにだけ触れることと
す る 。 そ し て 、「 家 族 は 安 全 な 場 所 に 避 難 を し た 。」 多 分 、 こ の 言 葉 は 、 ジ ノ ビ エ フ に
よるものであろう。
家族の銃殺は、当分秘密にしておく必要があった、しかし、公然の秘密に。トロッキー
は正しかった:レーニンは知っていた-流血の行為を伴った制裁の脅威は、大変な革命の
日々において、ボリシェビキの隊列を団結させるに違いない。
革命政権の崩壊を予見しながら、政府は、勿論、銃殺に関係したくはなかった。処刑の
決定は、エカテリンブルグの方から出て来たに違いない。このは有効であった:皇帝を処
刑したウラル側には、2つの道しか残されていなかった。白軍に対しての勝利か、死か。
しかし、血まみれの理想家であるトロッキーとジノビエフと違って、レーニンは、実利
主義者であった。皇帝と家族の処刑は、ある場合にだけ行わなければならない:エカテリ
ン ブ ル グ が 陥 落 し た 場 合 。他 の 場 合 に は 、ロ マ ノ フ 一 族 は 生 き た ま ま 残 し 、将 来 に お け る 、
外国との取引の切り札に利用する。
明らかに、当時、家族の処刑の動きの兆候は、凶暴なウラル側から出て来てはいけなか
った。それは外から与えられければならなかった。誰によって? これは後で、私達は知
ることとなろう。
この会議の結果はその様でなければならなかった。レーニンは、例外性を感じていた:
7月、革命家にとって大変な月。かって、7月には、ロベスピエール(フランス革命時の
革 命 家 * ) が 処 刑 、 5 人 の デ カ ブ リ ス ト が 絞 首 刑 と な っ た 。・ ・ ・ 。 こ の 7 月 に 、 復 讐
の時がやってきた。レーニンの兄を殺した皇帝の息子へ。ロシア皇帝に対する、長年の革
命 家 の 狩 猟 が 、 よ う や く 終 わ ろ う と し て い た 。・ ・ ・ 。
明らかに、皇帝の運命の判断は、レーニンに、ある連想を引き起こした。そもあれ、こ
れ ら の 日 々 に 、 周 り の 全 て が 崩 壊 し て い く 中 で 、 レ ー ニ ン は 突 然 、「 皇 帝 及 び そ の 関 係 者
- 219 -
の 記 念 碑 類 の 撤 去 命 令 」 の 実 行 に 関 心 を 持 っ た 。( 7 月 9 日 に 、 レ ー ニ ン は こ の 問 題 を ソ
ビ エ ト 人 民 会 議 の 課 題 と す る こ と を 、 執 拗 に 求 め た 。)
レーニンは、異様な執拗さで、ロマノフ一族の石像と、格闘したと云うことである。
クレムリン司令官マリコフの追想記から:
「このような醜悪なものが、まだ撤去されていなかった・・・。レーニンは、セルゲイ
・ ア レ ク サ ン ド ロ ビ ッ チ 大 公 の 殺 害 現 場 に 立 て ら れ た 記 念 碑 を 指 し 示 し た 。・ ・ ・ 。 イ リ
ッチ(=レーニン *)は巧みに輪を作り、記念碑に投げ架けた。その後を、他の者達が
引き受け、記念碑はロープで四方からがんじがらめにされた。レーニン、スベルドロフ、
ア バ ネ ソ フ 、・ ・ ・ 、 全 露 中 央 執 行 委 員 会 の メ ン バ ー 、 ソ ビ エ ト 人 民 会 議 の メ ン バ ー ・ ・
・ 、 が 、 ロ ー プ を 取 り 付 け 、 力 一 杯 引 っ 張 っ た 。 記 念 碑 は 台 座 の 上 で 倒 れ た 。・ ・ ・ 。」
(何と幻想的な光景であろうか!)
レーニンの死後も、この伝統は続いている。クレムリンのボズネセンスキー寺院の破壊
の 際 に 、王 妃 達 の 石 棺 を 暴 き 出 す 。遺 体 か ら 着 物 を は ぎ 取 り 裸 に し 、馬 車 に 山 積 み に す る 。
イワン広場を馬車が通過する。1台の馬車には、イワン雷帝の母と妻、初代ロマノフ家の
妻達、ピョートル大帝の母、が。それらを、裁判所の地下室に、突き落とす。
ついでながら、70年を経て、レーニン記念碑の台座の撤去が始まっている:何という
歴史の皮肉か!
1918年に戻ろう。モスクワでは、大変な7月が終わった。ゴロシェキンはエカテリ
ン ブ ル グ に 戻 っ た 。レ ー ニ ン は 町 を 後 に し た 。休 暇 で 、レ ー ニ ン は ク ン チ ェ ボ に 向 か っ た 。
妻と娘を同伴して。レーニンは、休息に入った。
- 220 -
第14章「暗殺の準備」
最後の2週間
ゴロシェキンの帰りを待っていた、エカテリンブルグで、既に、ロマノフ家の最後に向
けての準備が行われていた。
7月4日、司令官の交代が行われた。アブデーフは変更され、チェキストのヤコフ・ユ
ーロフスキーが司令官となった。同時に、イパチェフの屋敷内の、全ての衛兵が交替させ
られた。しかし、アブデーフが連れてきたズロカゾフスキー工場の労働者からなる外部の
衛兵はそのまま残った。
家 付 き の 自 動 車 の 運 転 手 で あ っ た ア ブ デ ー フ の 妹 の 夫 、セ ル ゲ イ ・ ル ハ ノ フ は 、残 っ た 。
家の内部には、見知らぬ、金髪で無口の若者達が現れた。彼らは、チェーカーから派遣
された新しい「ラトビア人」であった。彼らは、下の階に詰めた。そして、私の部屋を。
(? *)
ニ コ ラ イ は 直 ぐ に 感 じ た :「 黒 い 人 物 」 が や っ て 来 た 。 直 ぐ に ・ ・ ・ 。 彼 の 陰 謀 、 彼 の
罠が動き出し始めた。
ユーロフスキーは、解放者の振りをして、イパチェフの家に入った。ユーロフスキーは
元医者であった。が、今では、破廉恥な強盗もする闘士であった。
ユーロフスキーは、元の衛兵達の限りない盗みについて説明をする。庭で、埋められた
銀製スプーンを探し出した。それらは、慇懃に、家族に戻された。
し か し 、 つ い で に 、 財 産 を 書 き 写 し た 。 本 質 的 に 、「 着 服 」 の 大 き さ を 知 る た め に 。 こ
の書き写しは、宝石類から始まった。
「ロマノフ家は、逮捕されている。彼らは、もちろんのことながら、財宝を持っていて
は な ら な い 。 全 て の 逮 捕 者 達 を 同 じ よ う に 。 当 分 駄 目 で あ る 。」 ユ ー ロ フ ス キ ー は そ の
様 に 説 明 を し た 。 こ の 「 当 分 」 は 、 熟 練 し た チ ェ ー カ ー の 話 し 方 の う ま さ 所 以 で あ る 。・
・ ・ 。 当 面 、「 最 終 局 面 」 と は な ら な い 。 と い う こ と で あ る 。
しかし、皇帝は理解した:彼の運命は未だ決まっていない。そして、勿論、信じた。
内 気 で 、 人 を 信 じ や す い 、 こ の 人 物 は 、 大 革 命 の ス ロ ー ガ ン を 知 ら な か っ た :「 略 奪 さ れ
た も の は 強 奪 せ よ 。」 ニ コ ラ イ に は 全 く 理 解 で き な い 権 力 に 対 し て 、 始 め て の 理 解 が 起
こった、ように、ニコライには思えた。町が陥落する。彼らはニコライの命を奪うことを
決定した。しかし、この際、本質的に、彼らは、家族に、家族のものである財産を、その
ま ま 引 き 渡 さ な け れ ば な ら な い 。家 族 は 、こ の 後 何 処 で 生 き て い か な け れ ば な ら な い の か 、
どう生きていけばよいのか、はっきりしない。ニコライは家族の長である。家族の将来を
考えなければならない。ニコライはこの秘密の紳士協定を喜んだ。
日記より:
「6月21日。今日、司令官が交代した。食事の時、ベロバロドフと、数人がやって来
た 。そ し て 説 明 を し た 。ア ブ デ ー フ の 替 わ り に 、医 者 で あ る ユ ー ロ フ ス キ ー を 任 命 し た と 。
昼に、お茶まで、彼らは、補佐人と共に、我々と子供達の金製品の目録をつくった。大部
分(指輪、ブレスレット)を、彼らが持ち去った。私達の住んでいる家に、好ましくない
事件が起こった。アブデーフは、物置の長持ちから、自分の部下達が強盗をするのを、止
め る こ と が で き な か っ た こ と で 、 残 念 な が ら 、 有 罪 と な っ た 。 と 説 明 さ れ た 。」
ユーロフスキーは、家族の自分に対する信頼度を値踏みした。この信頼を損なわないよ
うにするために、家宅捜査さえ止めた。その際、今はやらないが、後でやるようになるか
もしれないと言った。
し か し 、ア リ ッ ク ス は 、新 し い 司 令 官 ユ ー ロ フ ス キ ー を 信 用 し な か っ た 。ア リ ッ ク ス は 、
ユーロフスキーの言葉を1つも信用しなかった。自分の価値ある品全てを、先見の目で隠
し逐えたことに、幸福感を感じていた。
アリックスは日記に書いた:
「 6 月 2 1 日 ( 7 月 4 日 )、 木 曜 日 。 ア ブ デ ー フ が 交 替 さ せ ら れ 、 私 達 に 、 新 し い 司 令
官 が 配 属 さ れ た ( か っ て 、 彼 は こ こ へ 来 た こ と が あ っ た 。 子 供 の 足 を 診 察 し た 。)。 下 品
で、嫌な、他の者と比べると、非常に礼儀正しい、若い補佐役を連れて。建物内の衛兵全
員が交替した・・・。何故か、彼らは私達に、私達が持っている貴金属類全部を、提出す
るように命令をした。若い補佐役が、注意深くそれらの品名を書き写し、何故か、品々を
没 収 し て し ま っ た ( 何 処 へ 、 何 故 、 ど れ く ら い の 期 間 、 全 く 知 ら せ な い 。) た だ 、 2 個
の ブ レ ス レ ッ ト が 残 っ た だ け 。 私 が 外 す の を 拒 否 し た か ら 。」
「 非 常 に 礼 儀 正 し い 」、 司 令 官 の 「 若 い 補 佐 役 」 は 、 ア リ ッ ク ス に は 、 好 ま し い 若 者 の
ように見えた。この若者は、目がパッチリし、綺麗な立襟のルバシカを着、皇后(=アリ
ックス *)が聞いたら喜ぶような名前、グリゴリーを持っていた。この人物はグリゴリ
ー・ニクーリン。数日後に、アリックスの息子を銃殺することになる。
ニ ク ー リ ン の 履 歴 書 ( 革 命 博 物 館 に 保 管 さ れ て い る 。) か ら :
- 221 -
「両親は小市民。父は、石工、煉瓦工。母は、主婦。学歴は低く、2年生を終了しただ
け。
1909年から、石工として働いた。その後、ダイナマイト工場で働いた(この工場は
戦 時 に 既 に あ っ た 。 軍 役 が 免 除 さ れ た 。) 工 場 の 閉 鎖 と 共 に 、 1 9 1 8 年 3 月 か ら 、 ウ
ラ ル 地 区 の チ ェ ー カ ー で 働 い て い る 。」
ユーロフスキーの目は、直ぐにニクーリンに向いた。ニクーリンは酒は飲まなかった。
チェーカーにいる元労働者の中では、希であった。そして、大事なのは、ニクーリンは、
自分を信頼させる術を心得ていた。ユーロフスキーは、ニクーリンを気に入り、ニクーリ
ンを「せがれ」と、愛情を込めて呼んだ。ユーロフスキーが司令官になった時、ユーロフ
スキーは、ニクーリンを、自分の補佐役とした。
アリックスの日記:
「 6 月 2 2 日 ( 7 月 5 日 )。 司 令 官 が 、 私 達 の 宝 石 類 を 持 っ て 、 私 達 の 前 に 現 れ た 。 宝
石類を私達の机の上に置いた。そして、今後、確認しに、毎日来るという。私達が、宝石
箱 を 開 け な か っ た た め に 。( ? * )」
しかし、彼(=ニコライ *)は、新しい司令官を信用した。
「6月23日。土曜日。夕べ、司令官ユーロフスキーは、没収した全ての貴金属類の入
った箱を持ってきた。中身を確認するように言った。私達のところの保管庫に入れ、私達
の 前 で 封 印 を し た 。・ ・ ・ 。 私 達 か ら 盗 み を 働 き な が ら 、 私 達 を 警 護 し て い た の は 、 ど の
よ う な 人 物 で あ っ た の か 、 ユ ー ロ フ ス キ ー と 彼 の 補 佐 役 は 聞 き 取 り 始 め た 。・ ・ ・ 。」
「6月25日。月曜日。私達の生活は、ウーロフスキーに替わっても何も変わらない。
ユーロフスキーは、封印の確認に寝室まで入ってくる。そして、開いている窓をのぞき込
む・・・。建物内部では、新しいラトビア兵が、警護している。外では、兵と労働者の混
成で警備が行われている。噂では、アブデーフの部下が、逮捕され裁判にかけられている
と は 。私 達 の 荷 物 の 入 っ て い る 納 屋 が 、封 印 さ れ た 。こ れ が 1 月 前 に 為 さ れ て い た な ら ば 。
夜 、 雷 が あ っ た 。 少 し 寒 く な っ た 。」
雷の多い夏。ニコライは、しばしば雷について、日記に書いている。天空を走る稲光、
地表の雨水。大量の雨水。このような夏道では、ぬかって通行困難である。このような道
をトラックで進むのも困難である。彼らの遺体を乗せたトラックも・・・。
それはそれとして、家では、最後の件のための準備が進んでいた。ニコライは、これに
は注意が向いていなかったが、アリックスは書き止めていた:
「 6 月 2 5 日 ( 7 月 8 日 )。 昼 食 は 1 時 3 0 分 で あ っ た 。 私 達 の 室 内 の 電 気 を 修 理 す る
必 要 が あ っ た か ら で あ る 。」
このように、貴金属類は登記され、電気は修理された。
次 の 夜 に 、 1 9 1 8 年 6 月 2 6 日 ( 7 月 9 日 )、 ボ ト キ ン 医 師 は 、 自 分 の 手 紙 を 書 き 始
めた。説明できない恐怖、不可避なものが差し迫っている、幻覚、そして、恐ろしい家の
空 気 の 中 に 、 生 き 埋 め に さ れ て い る 憂 鬱 。・ ・ ・ 。( ? * )
「私は死んだ、しかし、未だ葬られていない」
(最後の手紙)
銃殺後、ボトキン医師の室内で、ユーロフスキーは、最後の宮廷付き医者の書類を手に
した・・・。
私 ( = 著 者 * ) は 、 そ れ ら を じ っ く り 見 る :「 1 9 1 3 年 の 医 者 向 け 暦 」。 1 9 1 4
年、12月、戦争での、彼の息子、ドミトリーの戦死に関する、参謀本部からの通知書。
そ し て 、 彼 の 手 紙 が ( 彼 は 同 級 生 に 書 い た 。 遠 い 1 8 8 9 年 卒 業 の 。)。 ボ ト キ ン は 手
紙を7月3日に書き始めた。明らかに、翌日は、一日中手紙を書いた。その後、この長い
手 紙 を 、柔 ら か く 細 い 字 で 、書 き 直 し た 。ボ ト キ ン は 、最 後 の 日 ま で 書 き 写 し を し て い た 。
誰 か が 、 彼 に 書 き か け で 、 手 紙 を 中 断 さ せ た 、 そ の 時 ま で 。・ ・ ・ 。
「親愛なるサーシャへ。この手紙を書く最後の試みをしています。*********
****************************************
* * * * * * * * * * * * * * 。本 当 の こ と を 言 う と 、私 は 死 ん で い ま す 。子 供 の た め に 、
仕 事 の た め に 、・ ・ ・ 死 に ま し た 。私 は 死 に ま し た 。が 、未 だ 葬 ら れ て い ま せ ん 。或 い は 、
生きたまま埋められてしまいました。とにかく:結果は殆ど同じです・・・。
*********。
*この当たり、約30行、脈絡がわからない文章が続くので、途中の翻訳を諦める
*
- 222 -
*******。私は医者としての責任を最後まで行うために、自分の子供達を孤児にし
てしまうことに、動ずることはありません。アブラハムが、神の要求に動ずることなく、
自 分 の た だ 1 人 の 息 子 を 生 け 贄 と し て 捧 げ た よ う に 。」
ニコライの日記より:
「6月28日。金曜日。朝、10時半頃、二人の労働者が開いた窓のところに近づいて
来た。ユーロフスキー側の断りもなく、思い鉄格子を持ち上げ、窓枠にそれを固定した。
このようなやり方は私達は全く気に入らない! ソリチコフ(? *)の第8巻を読み始
め た 。」
この鉄格子が終局であった:この中で、あの恐ろしいことがあった。室内に入り、この
暗い鉄格子を見ると・・・。
ニコライは、アリックスと子供達のために心を痛めた。が、アリックスは、大変な監禁
生活を生き抜いてきていた:
「 6 月 2 8 日 ( 7 月 1 1 日 )。 金 曜 日 。 1 0 時 に 、 私 達 全 員 を 視 察 ・ 確 認 す る と 、 コ ミ
ッサールが要求してきました。私達を20分間引き留めました。朝食の時には、私達に、
多めにチーズとクリームをとることを許可しませんでした。
連れてこられた労働者達が、ただ1つ残されていた開いた窓に、外から鉄格子を填めま
した。明らかに、私達が逃げ出すか、外の衛兵と接触をとることに対する、これはいつも
の 不 安 か ら で す 。 強 い 痛 み が 続 い て い ま す 。 一 日 中 ベ ッ ト に 横 に な っ て い ま し た 。」
そ の 通 り 、「 黒 い 人 物 」 は 、 こ の 日 、 彼 ら に 、 2 つ の シ ョ ッ ク を 持 っ て き た 。 最 終 的 に
は、これら、修道院から送られてくるクリーム、チーズ、卵は、アレクセイの退屈さを紛
らわせるものとなった。
「 退 屈 だ ! 」、「 な ん て 退 屈 な ん だ ! 」 こ の 叫 び は 、 ア レ ク セ イ の 日 記 に 、 満 ち 溢 れ
ていた。そして、今度は鉄格子が!
しかし、ユーロフスキーは、自分の職務を淡々とこなしていた。
家族の人生は数日しか残っていない。ユーロフスキーは、家族を世界から隔離し始めて
いた。ユーロフスキーは、修道院を危惧した。ユーロフスキーは、家族に「将校」からの
手紙を渡すことを思いついた。*******。町は無権力状態になっていた。ユーロフ
スキーのところには小部隊だけが残っていた。
消えてしまった死刑の決定
6月12日、鉄格子を取り付けた次の日、となった。モスクワから戻って来たゴロシェ
キンは、ウラル・ソビエトの執行委員開会後を招集した。
モスクワとの合意について、忠実なゴロシェキンは何も語らない。合意内容ついては、
ただ、ウラル・ソビエトの幹部だけが知っていた。ウラル・ソビエトの平委員達は確信し
ていた:今日、彼らは、皇帝一家の運命に関する決定を下さなければならない。白軍が迫
っている。この決定が、自分の人生において、どのような意味を持っているかを、各自は
わかっていた。
それでもやはり、この決定を、全員一致で採択した。死刑に関するウラル・ソビエトの
決定を・・・。
イパチェフの家の司令官に特別に任命された、ヤコフ・ユロフスキーに、決定の実行が
委ねられた。家の名前は、何とも恐ろしい語呂合わせ(? *)の形で、響き始めた!
「 ル イ 1 6 世 の 庇 護 者 の 話 よ り 」:
「いつか、子孫は全国民と一人の人物の間の偉大なる裁判の全書類を集めることにな
る 。」
さて、私達は、我らが君主の非業の死に関する書類を集めることに務めよう。
ロマノフ家の死刑に関するソビエトの決定は?
それは消えてしまった! しかし、現在では、書類は簡単には消えてしまわない。
何故、決定の書類は消えてしまったのか? このことを理解するために、そのテキスト
を復元することを試みよう。
ユ ー ロ フ ス キ ー 自 身 の 言 葉 。 自 身 の 「 メ モ 帳 」 に ユ ー ロ フ ス キ ー は 書 い て い る :「 彼 ら
の親戚が、ソビエト・ロシアに進撃をし続けている現状に鑑み、ウラル執行委員会が、彼
ら を 銃 殺 す る こ と を 決 定 し た 。・ ・ ・ 。」
このテキストは、革命の早期の時の修辞的文章とは、似てもにつかない。
ロマノフ家の死刑に関するウラル・ソビエトの公式電報に注意を向けてみる:
- 223 -
「敵軍のエカテリンブルグへの接近、前皇帝とその家族を誘拐するという、白軍の大陰
謀の摘発ということに鑑み、7月16日夜に、ウラル・ソビエト幹部会の決定により、ニ
コライ・ロマノフを銃殺をした。家族はしかるべきところに避難させた。これから次のよ
う な こ と が 出 て く る ( ? 文 章 の 繋 が り が お か し い * ): 赤 色 ウ ラ ル の 首 都 へ の 反 革 命
暴徒の接近と、王位にあった迫害者が、人民裁判を回避する可能性を(皇帝とその家族を
誘 拐 を 試 み よ う と す る 、白 軍 の 陰 謀 が 露 見 し た 。発 見 さ れ た 種 類 は 公 表 さ れ る で あ ろ う )、
鑑み、革命精神を実行している地区ソビエト幹部会は、前皇帝ニコライ・ロマノフの銃殺
を 決 定 し た 。 ロ シ ア 人 民 に 対 す る 無 数 の 血 の 弾 圧 に 罪 が あ る と し て 。・ ・ ・ 。」
何とよく似ていることか!
読者(? *)クルグロフ(? *)の手紙より:
「私の父のところに、彼(? *)によって書き写された、皇帝銃殺決定のテキストが
保 存 さ れ て い ま す 。 そ れ は 、 町 中 に 張 ら れ ま し た 。 次 の よ う な 内 容 で す 。」:
「労働者・農民・赤軍代表ソビエトのウラル執行委員会決定。チェコ軍団暴徒達が、赤
色ウラルの首都エカテリンブルグを脅かしている情況を考え、隠していた王位にあった迫
害者が、人民裁判を回避する可能性があることを考慮し、人民の意志を執行するために、
執行委員会は、数限りない血の犯罪に罪があるとして、前皇帝ニコライ・ロマノソフを銃
殺 す る こ と に 決 定 を し た 。」
電報の内容と殆ど一致している。
これが、消された決定のテキストの内容である。
このように、銃殺の夜にユーロフスキーが読み上げた紙の一片は、ウラル・ソビエトの
公的な決定とは全くの関係を持っていなかった。お粗末な文章の内容においても、職務の
核 心 に お い て も 。 ユ ー ロ フ ス キ ー は 、「 ロ マ ノ フ 一 族 」 の 死 刑 を 宣 言 を 読 み 上 げ た 。 が 、
公 的 な 決 定 は 、「 ロ マ ノ フ 」 の 死 刑 だ け で あ っ た の で あ る 。
そ し て 、地 下 室 に 、ニ コ ラ イ と 並 ん で 立 た せ ら れ た 1 0 人 に 人 達 は 、不 法 に 銃 殺 さ れ た 。
そのために、決定が消されなければならなかったのである!
このように、モスクワとの合意を、ゴロシェキンは直ちに実行し始める。このようにし
て、伝説が生まれた:1つの決定は、世界向けに。もう1つの決定は、秘密にして、実行
者向けに。
世界向けの決定は、ウラル・ソビエト幹部会の全委員の副書が、厳かにされた:ディド
コ フ ス キ ー 、 ト ル マ チ ェ フ 、 ゴ ロ シ ェ キ ン 、 サ ハ ロ フ 、・ ・ ・ 。
革命博物館に残されている写真。その中に、署名をしたウラル・ソビエト幹部会委員が
写っている:みんな若い、全員パパハをかぶっている。10月革命の新しい将軍達。中央
に : * * * * * * * * * * 。 裏 面 に 、 厳 か に 贈 ら れ た 銘 文 :「 ウ ラ ル 労 働 者 の 第 一 軍 司 令
官 に 、 革 命 の 誠 実 な 兵 士 、 ベ ル ジ ン へ 」。
ラトビア人の革命家レインゴリド・ベルジンは、その日々、白軍のチェコ軍団との前線
を指揮していた。赤色ウラルの首都の運命は、彼にかかっていた。
「外部からの情報は全く入ってこない。」
ニコライの日記から:
「 6 月 3 0 日 ( 7 月 1 3 日 )。 ア レ ク セ イ が 、 ト ボ リ ス ク か ら 来 て 初 め て の 風 呂 に 入 っ
た。彼の膝は、回復していた。が、膝を完全に曲げることはできない。天気は暖かく、悪
く は な い 。 外 部 か ら の 情 報 が 全 く 入 っ て こ な い 。」
死刑の決定後の翌日に、何かを感じたかのように、この絶望的な言葉で、ニコライは日
記を終えた。ニコライによって、年末まで、几帳面に番号の打たれたページは、空白のま
まとなる。
この日々、アリックスはただただ待っていた。突然沈黙した「ロシア軍将校」の新しい
情 報 を 待 っ て い た 。 窓 の 外 の 音 に 、 耳 を 傾 け た 、 た だ た だ 耳 を 傾 け 続 け た 。・ ・ ・ 。
アリックスの日記:
「 6 月 2 9 日 ( 7 月 1 2 日 )。 大 砲 の 音 が 絶 え 間 な く 聞 こ え る 。 歩 兵 の 歩 く 音 と 、 2 回
ほど騎兵隊の進む音、この2週間に聞いた。楽隊の行進が聞こえた。オーストリアの捕虜
の も の だ 。彼 ら は チ ェ コ 軍( 私 達 の 元 軍 事 捕 虜 で あ っ た )に 対 抗 す る た め に 進 軍 し て い く 。
彼らは部隊と一緒に、シベリアを進んでいく。負傷者が、毎日、町に送られてくる。
6 月 3 0 日 ( 7 月 1 3 日 )。 6 時 3 0 分 。 息 子 が 、 ト ボ リ ス ク の 時 以 来 始 め て 風 呂 に 入
った。風呂で一人で入り、一人で出る、ことができた。一人でよじ登ったり、ベットから
這い出たりもできた。が、まだ、片足だけでしか立てない・・・。夜中じゅう、雨であっ
た 。 夜 中 に 、 3 回 拳 銃 の 音 を 聞 い た 。」
- 224 -
最後の3日間
このように、彼らの最後の3日前に、ニコライは日記を中断した。が、アリックスは続
けた。アリックスは最後まで、彼らの作り話を信じた。
「 7 月 1 日 ( 1 4 日 )。 日 曜 日 。 素 晴 ら し い 夏 の 朝 。 ゆ っ く り 目 覚 め た ・ ・ ・ 。 1 0 時
30分、大きな楽しみがあった、礼拝式を行った。若い聖職者は私達のところに、既に2
回 も 来 て い る ・ ・ ・ 。」
日曜日となった。国の若いリーダーで、無神者であるレーニンは、クンチェボの別荘で
休息した。国の元のリーダーであった、有神者のロマノフは、礼拝の許可をもらった。
家族が要請した、聖体礼拝式を、神父スタロジョフが執り行うよう招待した。スタロジ
ョフは、かって、一度、イパチェフの家で、式を執り行ったことがあった。ユーロフスキ
ーは、2度目として、彼を招待することに同意した。
司令官室は、汚れて、ゴミだらけであった。ピアノの上には、手榴弾と爆弾が置いてあ
った。ベットには、勤務後の、グリゴリイー・ニクーリンが、服を着たまま、寝ていた。
ユ ー ロ フ ス キ ー は 、ゆ っ く り と 茶 を 飲 み 、パ ン に バ タ ー を つ け て 食 べ て い た 。聖 職 者 達 が 、
聖服を着てから、ミサが始まった。
スタロジョフ神父が、体を温めるために、いつも手を揉んでいるのを見て、ユーロフス
キーが質問をした。
「君はどうしたのだ?」
「 私 は 肋 膜 炎 を 患 っ て い ま す 。」
「 私 も 肺 を 病 ん で い た こ と が あ っ た 。」
ユーロフスキーは、神父に助言を与え始めた。ユーロフスキーは准医師であり、診察助
言が好きであった。それ以外に、ユーロフスキーだけが、肝心な時を知っていた:仕立屋
の弟子であり、貧しいユダヤ人家庭に育ったユーロフスキーは、最後の皇帝に、最後の祈
りをすることを許す。最後の時、ユーロフスキーだけが知っていた。
スタロジョフ神父がホールに入った時、家族は既に集まっていた。アレクセイは、車椅
子に座っていた。大分大きくなっていたが、蒸し暑い室内で、長期にわたって病んでいた
ので、顔は青白かった。アリックスは、紫色のドレスを着ていた。ドレスは、神父が初め
ての祈りの時に見たものと同じであった。アリックスは、アレクセイと並んで、椅子に座
った。ニコライは立っていた。ニコライは、キムナスチョルカを着ていた。軍用ズボンと
長靴を履いていた。娘達は、白いカーディガンと黒色のスカートをはいてた。娘達の髪は
大 分 伸 び 、肩 ま で 達 す る ま で に な っ て い た 。( 麻 疹 の た め 、彼 女 ら は 丸 坊 主 に な っ て い た 。
本文参照。*) アルカ(=門 *)の後ろに、ボトキン医師、従僕達、見習いコックの
セドノフが立った。
聖 体 礼 拝 式 の 位 に 応 じ て 、 祈 り を 捧 げ な け れ ば な ら な い 「 安 息 は 聖 な る も の と 共 に 」。
なぜか、補佐役が、突然唱え始めた。
家族全員が、後ろで、黙って跪いたのを、神父は感じた。家族は跪いて、この言葉「安
息は聖なるものと共に」を受け入れた。
勿 論 、 ニ コ ラ イ は 、 初 め て 跪 い た 。 皇 帝 の 運 命 は 、「 神 の 御 心 次 第 ( ? * )」 あ る こ
とを、皇帝であるニコライは、常に知っていた。
そして、ニコライは知っていた:もうすぐ! 本当にもうすぐだ。
帰り道で、補佐役は、スタロジョフ神父に語った:
「 家 族 に 、あ そ こ で 、何 か が 起 こ っ た ・ ・ ・ 。家 族 は 、何 か 他 の も の の よ う で あ っ た 。」
思いやりを示す司令官
この日々、ユーロフスキーは、家をしばしばあけた。コミッサールのエルマコフと一緒
に 、エ カ テ リ ン ブ ル グ か ら 、2 0 k m 離 れ て い る コ プ チ ャ キ 村 に 出 か け て い た 。そ こ に は 、
村の近いところに、深い森があり、廃坑があった・・・・。
ユーロフスキーは知っていた。ロマノフ家族の銃殺は、始めである。その後、大変な仕
事が待っている:見つけられないように、後始末をすることである。
「 家 族 は 、 然 る べ き 所 に 避 難 し た ・ ・ ・ 。」 ユ ー ロ フ ス キ ー と エ ル マ コ フ は 、 こ こ で
適当な場所を探し求めた。
アリックス:
「 7 月 2 日 ( 1 5 日 )。 月 曜 日 。 曇 り の 朝 、 大 分 経 っ て か ら 、 太 陽 が 顔 を 出 し た 。 大 き
な部屋のソファーベットで昼食をとった。その間、私達の所にやってきた女性達が、床の
掃除をした。その後、再びベットに横になり、マリアと本を読んだ。いつもの通り、夫達
は2度目の散歩に出かけた。朝中、タチヤナは、私に、聖書を読んで聞かせた。ウラジミ
ル ・ ニ コ ラ エ ビ ッ チ( ? * )は 、再 び 来 る と は 思 っ て は い ま せ ん 。6 時 3 0 分 、息 子 が 、
2回目の風呂に入った。10時15分、ベットでトランプが始まった。夜、大砲の地鳴り
- 225 -
の す る よ う な 射 撃 音 が 聞 こ え た 。 幾 つ か の 射 撃 音 は 革 命 側 か ら の も の 。」
ウ ラ ジ ミ ル ・ ニ コ ラ エ ビ ッ チ 。デ レ ベ ン コ 医 師 の こ と で あ る 。こ の 最 後 に 当 た る 日 々 に 、
彼が来ることを、司令官は許可しなかった。より正しくは、その日々の少し前に。
その少し前に、床を掃除した女性達が、その後、語っていた。全ての床を、掃除するよ
う に 命 令 さ れ た と : 家 族 の 部 屋 へ 、下 の 1 階 の 警 備 隊 の 部 屋 へ 。彼 女 ら は 床 の 掃 除 を し た 。
そして、あの部屋へ。
電気を修理し、鉄格子を取り付け、床を清掃した・・・。全てユーロフスキーの考えた
ことであった。
監視兵の当直日誌の記載は、これらの日々で完了した:
「 7 月 1 0 日 。部 屋 の 換 気 の た め に 、窓 を 開 け て 欲 し い と の ニ コ ラ イ ・ ロ マ ノ フ の 申 請 。
これは拒否された。
7月11日。家族の日常の散歩があった:タチヤナとマリアは、写真を撮ることを願い
出 た 。 こ の 件 は 勿 論 、 司 令 官 に よ っ て 拒 否 さ れ た 。」
その通り、家には未だカメラがあった。イパチェフの家に着いた時、アリックスから没
収したカメラがあったのである。そのカメラは、元写真家であったヤコフ・ユーロフスキ
ーの司令官室にあった。
チェキスト・ミハイル・メドベジェフ(? *)の息子:
「 父 が 話 し ま し た 。 こ の 日 あ た り に 、「 ア メ リ カ ・ ホ テ ル 」 で 、 ヤ コ フ ・ ユ ー ロ フ ス キ
ー主催の会議が行われた。銃殺への参加は、志願であった。そして、志願兵達が、彼の部
屋に集まった・・・。苦しませないために、心臓をねらうことが、打ち合わされた。そし
て、誰が誰を担当するかが、検討された。皇帝は、ピョートル・エルマコフ自身が担当し
た。エルマコフには、銃殺後の遺体を秘密裏に処理することを助けてくれる兵達がいた。
最も大事なこと。エルマコフは、政治流刑囚であった。このことは、革命家の中で、最
も名誉のある称号であった。革命のために、苦役に服した人!
ユーロフスキーが皇后を担当し、アレクセイは、ニクーリン、マリアは父に託された。
彼 女 は 一 番 背 が 高 か っ た 。」
(ミハイル・メドベジェフは、自分が侮辱されたと考えても不思議ではない。革命家と
して名誉の称号、政治犯を持っていたからである。ミハイル・メドベジェフは、職業的革
命家、元水兵、皇帝の監獄の囚人。彼の本当の名前はクドリン;メドベデフは、バクーで
の党活動の際に、無数のパスポート中での1つの党での変名である。1918年から、彼
は チ ェ ー カ ー で 働 い た 。 こ れ は 、「 古 い 」 革 命 家 の 中 で は 、 度 々 で は な か っ た 。 彼 ら は チ
ェーカーで働くことを拒否したのは当然であった:皇帝との戦いの旧戦友であるエスエル
党 員 を 逮 捕 す る こ と を 拒 ん だ の で あ る 。)
残りの娘と召使い達は、チェキストで、同名のパーベル・メドベジェフ、イパチェフの
家の警護隊指揮官、更にもう一人のチェキストアレクセイ・カバノフ、チェーカーからの
6人のラトビア兵、の担当となった。
ユーロフスキーは話をつけた:深夜ちょうどに、玄関にトラックを入れる。トラックに
乗って、エルマコフがやって来る。このトラックは、ソビエトの車庫から確保する。そし
て、運転手を交替させる。
イ パ チ ェ フ の 家 の 自 動 車 運 転 手 で あ る セ ル ゲ イ ・ ル ハ ノ フ が 、ト ラ ッ ク の 運 転 手 と す る 。
このトラックで、彼らの遺体を運び出す。
町中は騒々しかった。ユーロフスキーは、合い言葉を決めた。執行日の合い言葉は「ツ
ル ボ チ ス ト ( = 煙 突 掃 除 人 * )」。
彼らは、革命的な文字修飾が好きであった。即ち「ツルボチスト」は、煙突掃除人のこ
と で あ り 、 汚 れ た 歴 史 の 煙 突 を 掃 除 す る 人 の こ と を 意 味 し て い た 。・ ・ ・ 。
今や、残されているのは、何処で処刑をするかであった。司令官には迷いはなかった。
倉庫に並んで、部屋があった。司令官はその部屋を記憶していた:部屋からは、人気の少
ないボズネセンスキー路地に出ることができた。部屋の窓には格子があった。窓は山の斜
面に面していた。このように、部屋は半地下室であった。部屋の灯りが点いたとしても、
高 い 塀 の た め に 、 通 り か ら は 全 く 気 づ か れ な そ う も な い 。・ ・ ・ 。
時間の余裕はなかった。ことは全て夜中にやることになる。ユーロフスキーは、修道院
から、ミルクと卵1籠を持ってくることを修道士に許可をした。アレクセイのために。*
****。彼の思いやりであった。
最後の日
- 226 -
7月16日、最後の日である。彼らは朝9時に起床した。いつものように、父と母の部
屋に集まり、祈りを捧げた。
以前は彼らは、良く聖歌歌っていた。が、最後の日には、歌は無かった(守備兵がそう
記 し て い る 。)。
朝9時、いつもの如く、家に、司令官ユーロフスキーがやって来た。10時に彼らはお
茶にした。ユーロフスキーが立ち寄り、逮捕者の確認をする。
この時、卵とミルクを持ってきていた。それをアリックスにつげた。ユーロフスキーは
この自分のアイデアを喜んでいた。とにかく、彼は気分上々である。
この日、いつもの通り、彼らに1時間の散歩を許可した。そして、いつもの通り彼らは
散歩をした。朝の1時間を、食事まで。
彼らの散歩を、警備兵のヤキモフが見ていた。皇帝と娘達だけが見えた。皇后とアレク
セイは見えなかった。と彼は語っている。
アリックスは、散歩には出なかった。一日中部屋にこもっていた。
ユーロフスキーのメモ帳から:
「7月16日、ロマノフ家根絶に関する命令を内容とした約束の言葉で書かれた、テル
ミから電報が届いた。夕方6時、フィリップ・ゴロシェキンは、文書で、命令を実行する
よ う 指 示 し た 。」
電報では何が? 「命令」の言葉は、どこから? 誰が、命令を、全ウラル地区の軍事
コミッサールのゴロシェキンに、伝達したのか?
銃殺の機構
それより前の、6月末に、モスクワに、ニコライ二世銃殺の嘘の噂が流れた時、ソビエ
ト 人 民 委 員 会 名 で 、 ウ ラ ル に 質 問 が 出 さ れ た 。 得 ら れ た 返 答 、「 ニ コ ラ イ ・ ロ マ ノ フ 銃 殺
に 関 す る 全 て の 情 報 は 、 煽 動 で あ る 。」 署 名 が な さ れ て い た :「 北 ウ ラ ル ・ シ ベ リ ア 前
線 司 令 官 ベ ル ジ ン 」。
ムラビエフの裏切り後、ウラルの権力は、直接ラトビア人の革命家の手にあった。進撃
してくるチェコ軍団に対抗している前線の司令官、レインゴリド・ベルジンの手に。明ら
かに、ベルジンは、モスクワから、家族銃殺の機構の始動を受けていた。ベルジンは、エ
カテリンブルグの運命が決まる前に、ウラル・ソビエトは銃殺を行わない、という保証人
でもあった。点で、これは筋にかなっていた。ベルジンは、銃殺は不可避であると、正確
に 認 識 し て い た 。ベ ル ジ ン は 司 令 官 で あ り 、軍 事 コ ミ ッ サ ー ル に 命 令 を す る こ と が で き た 。
そして、7月16日、町の情況は、絶望的であると認識し、ベルジンは、自分の命令を与
えた。未成年の子供達も数に入れた、11人の死に対する準備をするようにとの。
1938年に、レインゴリド・ベルジンは、スターリン下で殺される。
黙示録を前にして
夜の7時。
この時間、ロマノフ家族はお茶を飲んでいた。最後のお茶を。朝での出来事。コック見
習いのセドネフを呼んだ。アリックスは、非常にそわそわしていた。どうしたのか、調べ
るようにボトキンを使わした。説明があった:コック見習いは、叔父と用事があった。直
ぐに戻ってくると。
ベルジンの命令を受け、用心深いゴロシェキンは、モスクワに、電報を出す。絵カレリ
ンブルグは陥落寸前となり、モスクワと予め決めていた家族処刑が、一刻の猶予も許され
ない、ということを。
「もし、そちらの意見が、対立していないならば、直ちに、何もとりあえず、連絡され
た し 。」
彼は、モスクワの直接の同意を取り付けることを欲した。彼はこの電報を、ジノビエフ
を経由して送った。ジノビエフが、銃殺の最大の支持者であった。ゴロシェキンはわかっ
ている、ジノビエフは、以前の死刑の決定を変更することはないと。ジノビエフは、電報
を、モスクワのレーニンに転送した。
21時22分、電報はモスクワに着いた。押された印から明らかである。
エカテリンブルグは、返答をもらったのか? それとも、良くあったように、モスクワ
は黙殺し、それが承認の意となったのか?
- 227 -
レーニンの答えは?
1 9 5 7 年 8 月 1 1 日 の 新 聞「 ス ト ロ イ チ ェ リ ナ ヤ ・ ガ ゼ ー タ( = 建 設 新 聞 * )」に 、
題名が「レーニンのソビエトについて」と題するレポルタージュが掲載された。そのよう
な題名の論文に触れることは、多くの読者には無かったことであった。*******。
論文の主人公は、モスクワ建築研究所の助教授である、アレクセイ・フェドロビッチ・
アキモフという人物であった。アキモフは革命に従事した過去があった。それについて、
論文著者が、書いたのである。1918年4月から、1919年7月まで、アキモフは、
クレムリン警護の職務に就いていた。最初は、スベルドロフを、その後、レーニンを。
1918年夏・・・に、アキモフの所で起こった出来事が、新聞に書かれている。
「 し ば し ば 、ア キ モ フ は 、レ ー ニ ン の 受 付 、或 い は 、レ ー ニ ン の 執 務 室 に 通 ず る 廊 下 で 、
警備に任務に就いた。が、時折、別な任務が彼に与えられることがあった。例えば、放送
局や電報局に、急いで向かい、特別に重要なレーニンの電報等を伝達した。その様な場合
には、電報の原本だけではなく、電報のテープを持ち帰った。レーニンの、その様な電報
の内のある一つを伝達した後、電信士が、電報のテープは君には渡さないで、自分で保管
す る 、 と ア キ モ フ に 語 っ た 。「 拳 銃 を 取 り 出 し 、 自 分 の 要 求 を 通 し た 。」 ア キ モ フ は 思 い
出して語っている。しかし、30分後、電報の原本と、電報テープを持って、アキモフが
ク レ ム リ ン に 戻 る と 、 レ ー ニ ン の 秘 書 が 、 意 味 深 長 に ア キ モ フ に 語 っ た 。「 レ ー ニ ン 同 志
の 所 に 行 っ て く れ 。 レ ー ニ ン 同 志 が 君 に 会 い た が っ て い る 。」
アキモフは、軍人の歩調で、レーニンの執務室に入った。しかし、レーニンは、厳しく
彼 を 立 ち 止 ま ら せ た 。「 君 は あ そ こ で 、 嫌 が ら せ を や っ た そ う で す ね 。 何 故 、 電 信 士 を 脅
迫 し た の で す か ? 電 報 局 に 戻 り 、 電 信 士 に 謝 り な さ い 。」
我が国の革命の首領の思いやりを証明している、この論文中に、非常に奇妙な部分があ
った:言葉はない。が、アキモフが、拳銃で脅して、電信士から力づくで取り上げた「特
別 に 重 要 な 電 報 」 が 、 こ れ で あ っ た 。( ? 過 推 断 * )
工 場 「 プ ロ グ レ ス 」 の 博 物 館 館 長 ラ ピ ク の 手 紙 よ り ( ク イ ビ シ ェ フ ):
「私達の博物館には、アキモフと、私達の工場の熟練労働者であったスミシュリャエフ
との会談のタイプライター記録があります。スミシュリャエフは、彼(?あれ ? *)
の歴史の資料の探査を行っていました。
1968年11月19日に行われた会談の議事録に、アキモフの言葉で、次のように書
かれていた:
「 ツ ー ル ( 記 載 の 間 違 い 。 正 し く は ウ ラ ル 著 者 )・ 地 方 委 員 会 が 、 ニ コ ラ イ 家 族 の 銃
殺を決定した時、ソビエト人民委員会と全露中央執行委員会は、この決定を支持する電報
を書いた。スベルドロフは、私に、この電報を、電報局に持って行かせた。当時、電報局
はミャスニツキー通りにあった。その時言われた。十分注意して持って行くように。これ
は 即 ち 、電 報 の コ ピ ー だ け で は な く 、電 報 テ ー プ も 持 ち 帰 ら な け れ ば な ら な い 、と 考 え た 。
電信士が、電報を出した時、私は、彼に、コピーとテープを出すように要求をした。彼
は私にテープを渡さなかった。その時、私は拳銃を抜いて、電信士を脅かした。彼からテ
ープを受け取ると、私は立ち去った。私がクレムリンに着くまでに、レーニンは私の振る
舞 い を 既 に 知 っ て い た 。 ク レ ム リ ン に 到 着 す る と 、 レ ー ニ ン の 秘 書 が 、 私 に 話 し た :「 お
前 を レ ー ニ ン 同 志 が 呼 ん で い る 。 多 分 、 お 前 に 大 目 玉 を 食 ら わ す だ ろ う 。」・ ・ ・ 。」
こ の よ う に 、 皇 帝 家 族 の 死 刑 に 関 し て 、「 決 定 は 支 持 す る 」 と い う 内 容 の 電 報 は 、 人 民
会議と全露中央執行委員会(レーニンとスベルドロフがいた)から、エカテリンブルグに
届いた。
エ カ テ リ ン ブ ル グ で は 、こ の 時 、深 夜 と な っ て い た 。ゴ ロ シ ェ キ ン は ト ラ ッ ク を 出 し た 。
これが、2時間ほど遅れた理由であった。1時半頃には、エルマコフの乗ったトラックが
やってきた。この遅れについて、ユーロフスキーは、自分のメモに、悔しさを滲ませて書
いている。
エカテリンブルグで、電報の到着を待っている間、皇帝家族は寝る準備をしていた。ア
レクセイはこの夜は、夫婦(=皇帝と皇后 *)の部屋で寝た。寝る前に母親は、一日の
出来事を、日記に詳細に書き留めた。最後の日のことを。
「 7 月 3 日 ( 7 月 1 6 日 )。 曇 り の 朝 。 遅 く な っ て か ら 、 太 陽 が 可 愛 い 顔 を 出 し た 。 息
子 は 少 し 風 邪 を 引 い た 。皆 は 、朝 の 3 0 分 の 散 歩 に 出 か け た 。オ リ ガ と 私 は 、薬 を 飲 ん だ 。
タチヤナは聖書を読んだ。皆が去った時、タチヤナは私と残り、予言者アブデイとアモス
の 本 を 読 ん だ 。」
予言者アモスの本から(著者が、皇帝家族の現状に関係していそうな所を抜き出したも
の の よ う で あ る 。 難 し い 。 途 中 で 止 め る こ と に す る 。 * ):「 神 が 語 り ま す 。 皇 帝 は 捕
虜 と な り 、 皇 帝 と 共 に 彼 の 一 族 郎 党 も 。」( 1 : 1 5 )( 多 分 、 本 中 の 番 号 * )
「神は約束されました*************。***する時に、貴方方に、その
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日 が や っ て く る と 。」( 4 : 2 )
「これ故に、知性あるものは、この時には、黙して語らない。何となれば、この時は、
悲 惨 な 時 で あ る か ら 。」( 5 : 1 3 )
「神は語ります。ほら、私が地に飢餓-パンの飢餓ではない-をもたらす時がやって来
る。私は水を求めず、ただ、神の言葉を聞くことを熱望する。海から海へ、北から東へと
放 浪 す る で あ ろ う 。 神 の 言 葉 を 探 し な が ら 。 し か し 、 見 つ け ら れ な い 。」( 8 : 1 1 - 1
2)
*******************。
これらの聖書の厳しい言葉を聞いて、タチヤナは突然黙り、考え始めた。
「いつもの通り、朝、コミッサールは私達の部屋にやって来た。1週間の間を開けて、
再び、アレクセイのために卵を持ってきた! 8時、朝食。
突然、レシュカ・セドノフが、自分の叔父に会うために呼び出されて、いなくなった。
も し 、こ れ ら 全 て が 本 当 で 、戻 っ て く る レ シ ュ カ を 、私 達 が 再 び 見 る こ と が で き た な ら ば 、
驚 き で す 。」
その通り、タチヤナは、いつも通り、コミッサールを信じなかった:彼らが連れ去った
人々、皆が跡形もなく消えてしまったことをタチヤナは思い出した:セドネフ、ナゴルニ
イ 、・ ・ ・ 。
「 ニ コ ラ イ と ト ラ ン プ を し た 。 1 0 時 3 0 分 、 ベ ッ ト へ 。」
この時間に、パポフの家に、2人のほろ酔い加減の警護兵がやってきた。狙撃兵のプロ
スクリャコフとスタロフである。
夕 方 、 給 料 が 支 払 わ れ た ( 覚 え て お く よ う に 。)。 彼 ら は 知 り 合 い の 警 官 の 所 で 一 杯 引
っかけ、良い気分で、パポフの家にやってきた。しかし、そこでは、警護司令官のメドベ
ジェフがいた。何故か、メドベジェフは気が荒くなっており、2人を罵りながら、家の玄
関の所にある、浴室へと追い立てた。夜は暖かかった。彼らは横になり、寝入った。
一方、警護兵のヤニコフは巡視をしていた。7番番所の所に、狙撃兵のデリャビンが立
っ て い た 。玄 関 控 え 室 の 窓 の 所 の 庭 に あ っ た 、8 番 番 所 に は 、狙 撃 兵 の ク レ チ ェ フ が い た 。
ヤキモフは、職務を交替し、休みに行った。
ア リ ッ ク ス は 、 日 記 を 書 き 終 え た 。 気 温 が 記 さ れ て い た 「 1 5 度 」。 こ れ が 最 後 の 言 葉
となった。
彼らは寝る前に祈りを捧げた。娘達は既に寝入っている。
11時に、室内の灯りが消された・・・。
イパチェフの家に面している、パポフの家で。この家の2階に警護隊が住んでいた。1
階には、町の極ありふれた住民が生活をしていた。夜遅く、二人の人物が目を覚ました。
家の外から、鈍い銃撃音、が、連射である。イパチェフの家の塀の内側から。
二人はゆっくりと、お互いに囁き合った:
「聞いた?」
「 聞 い た 。」
「わかった?」
「 わ か っ た 。」
この年には、危ない生き方を皆がしていた。人々は注意深くなっていた。彼らは、その
ようなことを、よく理解していた:注意深く生きること。そして、それ以上、お互いに、
何も話さなかった。朝まで、自分たちの部屋に、身を隠していた。
その後、彼らは、白軍の調査官に、7月17日夜に自分たちが話し合った内容を、話し
た。
7月17日。朝、イパチェフの家で
曇った朝であった。しかし、昨日のように、再び、天気が良くなり、庭は花の匂いで包
ま れ た 。「 庭 の 香 り 」 と 、 彼 ( ? ニ コ ラ イ * ) は 書 い て い た 。
まず第1に、イパチェフの家の周りを、警備兵達が走り回っていた。朝には、修道院か
ら、女修道士が再びやって来て、前日のように、卵とクリームを持ってきた。しかし、今
回は、女修道士は家に入ることができなかった。玄関で、司令官付の若い補佐兵ニクーリ
ン が 彼 女 を 出 迎 え た 。 彼 は 、 食 料 を 受 け 取 ら ず 、 言 っ た :「 帰 れ 、 こ れ 以 後 何 も 持 っ て く
る な 。」
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衛兵ヤキモフは、朝早く、イパチェフの家に到着した。家の中には、ラトビア兵は既に
居 な か っ た 。 門 の 所 に 、 警 備 兵 が 立 っ て い た だ け で あ っ た 。「 非 常 事 態 」 で 、 ラ ト ビ ア 兵
は 朝 早 く に 出 兵 し 、我 々 二 人 だ け が 残 っ て い る 、と ヤ キ モ フ に 、警 備 兵 が 語 っ た 。し か し 、
昨日の出来事の後、下に寝ることを彼ら(? *)は嫌がり、2階の司令官室に、今は寝
ている。ヤキモフは、司令官室に行き、娘達の野外ベットの上で寝ているラトビア兵を見
つけた。司令官室には、ユーロフスキーは居なかった。机の向こうに、ニクーリンとメド
ベジェフが座っているだけであった。机の上には、沢山の宝石類が置いてあった:宝石類
は、蓋の開いた小箱に入っており、テーブルクロスの上も雑に置かれていた。メドベジェ
フとニクーリンは、何か疲れ切って、打ち拉がれているようであった。二人は何の話もし
ないで、沈黙して、宝石類を箱に積み上げていた。皇帝家族の部屋への入り口のドアは、
閉じられていた。
ドアの脇には、犬のジョン(=皇帝家族の愛玩犬 犬種スパニエル *)が、ドアに鼻
を押しつけて、温和しく立っていた。主人達を待っていた。しかし、いつもは、声がして
いた家族の部屋からは、今は、全く何の声も聞こえてこなかった。
衛兵のヤキモフは、後になって、白軍の調査官に、その様に話していた。
7 月 1 7 日 、 内 容 に 不 案 内 の 、 ソ ビ エ ト 執 行 委 員 会 委 員 ベ ロ バ ロ ド フ の た め に 、「 * *
* * * 銃 殺 に 関 す る 連 絡 」 の 名 前 で 、 全 く 滑 稽 な ス ト ー リ ー が 演 じ ら れ た 。( ?
* )。
事 情 に 疎 い 者 の 中 に 、「 ウ ラ ル 労 働 」 新 聞 の 編 集 長 、 ボ ロ ビ エ フ が い た 。 自 分 の 追 想 記
の 中 で 、 こ の ス ト ー リ ー を 、 ま じ め に 書 い て い た :「 朝 、 地 区 ソ ビ エ ト の 幹 部 会 で 、 新 聞
の た め に 、 ロ マ ノ フ 家 銃 殺 に 関 す る 公 式 報 道 の テ キ ス ト を 手 に し た 。「 未 だ 、 誰 に も 見 せ
て は な ら な い 、 銃 殺 に 関 す る 報 道 内 容 は 、 中 央 と の 合 意 が 必 要 で あ る 。」、 と 私 に 話 し た 。
私はがっかりした。新聞に関係した人なならば、かような希にしかない事件を、自分の新
聞で、自慢するため、一刻を争い、どれだけ私が急いでいたかわかろう:皇帝の死刑など
の情報は、毎日あるものではない!
私 は 絶 え 間 な く 電 話 を し た 。公 表 に 関 し て の 合 意 が 、モ ス ク ワ か ら 得 ら れ て い な い の か 、
問い合わせた。私の忍耐は、今でも事切れそうであった。ただ、次の日、7月18日に、
ス ベ ル ド ロ フ と 、直 接 連 絡 す る こ と が で き た 。ス ベ ル ド ロ フ と の 交 渉 の た め に 、電 報 局 に 、
ベロバロドフと、幹部会のメンバー、がやって来た。私はとうとう我慢できず、私も出か
けた。電報局のコミッサール自身が、電信機の前に座っていた。モスクワに電報を送らな
け れ ば な ら な い 、 と 、 ベ ロ バ ロ ド フ が 、 彼 ( コ ミ ッ サ ー ル * ) に 話 し 始 め た 。」
(白軍の進撃と、君主主義者の陰謀の結果、ウラル・ソビエトの決定に従って、ニコラ
イ・ロマノフを銃殺し、彼の家族は、それなりの場所に避難した、とモスクワに伝達され
た し 。)
以下の内容が、伝達された:
「エカテリンブルグにいて劣勢が近づいていることと、前皇帝とその家族を誘拐すると
いう、白軍の大陰謀を、チェーカーが暴いたことに鑑み、*****、地方ソビエトの決
定に従い、ニコライ・ロマノフは銃殺されました。彼の家族は然るべき所に避難していま
す 。 こ れ ら の こ と か ら 、 こ ち ら か ら 、 次 の よ う な 通 知 を 送 り ま す :「 ウ ラ ル の 赤 色 都 市 へ
の 反 革 命 暴 徒 の 接 近 と 、 王 位 に あ っ た 迫 害 者 が 、 人 民 裁 判 を 回 避 す る 可 能 性 、・ ・ ・ 、 に
鑑 み 、 地 方 ソ ビ エ ト 幹 部 会 は 、 革 命 精 神 を 実 行 し つ つ 、 無 数 の 血 の 弾 圧 、・ ・ ・ 、 に 罪 の
あ る 、 前 皇 帝 ニ コ ラ イ ・ ロ マ ノ フ を 銃 殺 す る こ と に 決 定 し ま し た 。」
この後、モスクワからの返事を待った。私達は、息を殺しながら、カチカチと打ち出さ
れ る ス ベ ル ド ロ フ の 返 事 の 電 報 テ ー プ に 、 よ ろ め い た ( ? * ):
「全露中央執行委員会幹部会に、貴方方の決定を、今日、報告する。決定が是認される
ことに、疑念はない。銃殺に関する通知は、中央権力を経由しなければならない。公開に
対 す る 返 答 を 得 る ま で 、 自 制 さ れ た し 。」
私 達 は 安 堵 の 胸 を な で 下 ろ し た 。 専 断 の 問 題 は 、 片 が 付 い た と 見 な す こ と が で き た 。」
7月17日のその日の、夕方9時に、事情に詳しいソビエトの委員が、全露中央執行委
員会幹部会の事情に詳しい委員宛に、次のような暗号電報を発信した:
「モスクワ、クレムリン、ソビエト人民委員会書記ゴルブノフへ***。スベルドロフ
に伝達のこと。主人と同じように、家族全員は同じ運命となった。公式には、家族は避難
中 に 犠 牲 と な っ た も の と す る 。」
その後、この電報を、白軍が、エカテリンブルグの電報局の事務室で押収した。白軍の
調査官ソコロフが、電文を解読した。
し か し 、 朝 早 く 、 彼 ら ( ? * ) は 党 首 脳 部 ( ? * )・ ・ ・ に 、 自 分 た ち の 活 動 報 告
をしていた。
1 9 8 9 年 に 、 雑 誌 「 ア ガ ニ ョ ク ( = 灯 火 * )」 に 、 私 の 初 め て の 論 文 が 掲 載 さ れ た
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後、極めて興味深い手紙をもらった。
手紙の匿名の差出人が書いていた:
「 レ ー ニ ン 財 団 の 中 央 党 古 文 書 館 で 働 い て い た 当 時 、 私 は 、「 ソ ビ エ ト 人 民 委 員 会 総 務
部」の公印の押された空の封筒を見ました。
封筒には、以下の署名があった:
「 秘 密 。 エ カ テ リ ン ブ ル グ か ら レ ー ニ ン 同 志 へ 。 7 月 1 7 日 、 昼 1 2 時 。」
この署名から、簡単にわかる。封筒の中には、何か秘密の電報が入れられていた。電報
はエカテリングブルグから、7月17日早朝、即ち、虐殺の直ぐ後、に送信された。封筒
に は 、 レ ー ニ ン 自 身 の サ イ ン が あ っ た :「 受 け 取 っ た 。 レ ー ニ ン 」。 し か し 、 封 筒 の 中 の
電 報 自 体 は 無 く な っ て い た 。 空 の 封 筒 だ け が 残 さ れ て い た ・ ・ ・ 。」
手紙を受け取った当時、私はこの手紙の裏をとることはできなかった。党古文書館に、
私 は 入 れ な か っ た か ら で あ っ た 。・ ・ ・ 。
新しい時代である。私は、元共産党中央古文書館内にいる。
私の目の前には、レーニンのサインと受け取りが記された秘密電報の入っていた、あの
空の封筒がある。
前もって、電文は回収したのであろうが、あの銃殺に関する指令を出した、当人の住所
に、エカテリンブルグから、皇帝家族銃殺の後の朝に、送り届けられた、この電報の内容
を推測することは難しくはない。
この残された殺人の証拠に、中身はないが、明瞭な署名が記されているのしてある、空
の封筒に、何か恐ろしいものを感ずる。
翌日(警護隊)
7月18日。夕方、スベルドロフは、ソビエト人民委員会会議へ現れた。ソビエトは、
レーニン議長の下で開かれた。健康保全人民委員会報告が読まれた。スベルドロフは、レ
ー ニ ン の 後 ろ に 座 り 。 レ ー ニ ン に 耳 元 で 何 か を 囁 い て い た 。 レ ー ニ ン が 発 言 し た :「 ス ベ
ル ド ロ フ 同 志 が 、 緊 急 報 告 を 希 望 し て い る 。」
そして、エカテリンブルグから公式に伝えてきた全てを、ソビエト人民委員会に報告し
た:皇帝は逃亡を図った。そして皇帝は銃殺された。家族は然るべき所に避難した。その
他。
「全露中央執行委員会会議の議事録第一号からの抜粋。
報 告 が あ っ た : ニ コ ラ イ ・ ロ マ ノ フ 銃 殺 の 報 告 ( エ カ テ リ ン ブ ル グ か ら の 電 報 )。
決定された:審議の結果、次の決議が採択された:全露中央執行委員会は幹部会の名前
で、地方ソビエトの決定を妥当なものと判断する。スベルドロフ、ソスノフスキー、アバ
ネソフに、印刷などのために対応する通知の作成を委任する。全露中央執行委員会で有す
る書類など(日記、手紙)を公開する。検討のため、スベルドロフに特別委員会の設定を
委ねる。
審議の時、レーニンは黙っていた。その後、会議は続いた。
このレーニンの沈黙の中に、銃殺事件への非難を見いだす試みがなされた。が、多くの
点でレーニンに罪があるとすることも可能である。ただ、レーニンという頭領は、不同意
な時には、黙して語らずの性格であった。
銃殺の承認後、再び健康保全の問題の審議となった
7 月 1 8 日 、以 前 の 通 り 、イ パ チ ェ フ の 家 の 周 り を 、警 備 兵 が 巡 回 を し て い た 。こ の 日 、
町に、司令官ユーロフスキーと、コミッサール・ゴロシェキンが現れ、そして、いつの間
にか居なくなった。
7月19日。エカテリンブルグ。朝、ユーロフスキーが町に戻ってきた。エカテリンブ
ルグの陥落は、時間毎に迫っていた。ユーロフスキーは急いでいた。
7月19日。イパチェフの家に、馬車が横付けにされた。ユーロフスキーが出て来て、
荷物を馬車に積み始めた。馬車の御者が、それを手伝った。後に、白軍調査官に、御者は
自分の見たことを語った。ユーロフスキーには7個の荷物があった。1つは、非常に大き
く、黒色のトランクであった。蝋で封印されていた。これは、ロマノフ家の資料コレクシ
ョンであった。
7月19日、ユーロフスキーはモスクワに出発した。急いでいた。イパチェフの家の机
の 上 に 、 全 財 産 の 入 っ た 自 分 の 財 布 を 忘 れ て い た ほ ど で あ っ た 。( 道 中 、 ユ ー ロ フ ス キ ー
は こ れ に つ い て 、電 報 を 打 っ て い る 。こ の 電 報 を 、白 軍 が 電 報 局 の 事 務 室 で 見 つ け て い る 。)
現金さえ残されていた・・・。ユーロフスキーは、町から自分の母親さえ連れ出せなか
った。母親は、白軍に逮捕されたが、幸運にも、白軍には、年老いた母親を銃殺するとい
う階級的な意識はなかった。母親は、自分の息子のエカテリンブルグへの凱旋帰還を待つ
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ことになる。
同じ7月19日、モスクワは、ニコライ・ロマノフ銃殺を公式に発表した。
7月20日。エカテリンブルグ。町から、事件に関与した別の主要人物が、退去した。
司令官補佐のグリゴリイ・ニクーリンである。
革命博物館には、ウラル政府の用紙に記され、その日に、ニクーリンに渡された、恐ろ
しい証明書が保管されている:
「次の町ペルミに向かう、2台の客車に積まれている、特殊任務の荷物保管のために、
ウラル・ソビエトを指揮することを、同志ニクーリンに委ねる。全ての鉄道機関、町の権
力及び軍権力は、ニクーリン同志に、完全な援助をしなければならない。
荷物の積み卸しの手順と場所は、ニクーリン同志に伝えてある。彼の手元にある命令書
に 従 う こ と 。 ウ ラ ル ・ ソ ビ エ ト 議 長 ベ ロ バ ロ ド フ 」。
これら2台の客車に乗せて、イパチェフの家に置いてあった財産を運んだ。
そして、ニクーリンは、汚い袋に、ある物を詰めて、別に運んだ。
道中は大変であった。国中に、強盗団が溢れかえっており、容赦なく列車強盗を行って
いた。ニクーリンは、ペルミからは、農民の闇屋の服装をしたのはそのためであった。
彼の汚い袋を持ち続けるのは危険であった。この袋が、彼に死をもたらす可能性もあっ
た 。・ ・ ・ 。
1964年に、老人となったニクーリンが語っていた。この袋(偽装のため)で、エカ
テリンブルグから、イパチェフの家にあった小箱に入っていた、ロマノフ家の宝石類を運
ん で い た 。・ ・ ・ と 。
7月20日。イパチェフの家は空になった。警備は解除され、警備兵は直接前線に出向
いた。彼らは血の一滴まで戦うこととなる。捕虜となることは絶対にできなかった。イパ
チェフの家の後、彼ら(? *)のために白軍捕虜(? *)が殺されることになった
町の劇場で行われた、最後の会議で、コミッサール・ゴロシェキンは、厳かに、ニコラ
イ・ロマノフ銃殺について報告した。町中至る所の広告塔に、皇帝銃殺と「家族の然るべ
き所への非難」の公式報告が張られた。
7月23日になって、新聞編集長ボロビエフに、長い間待っていた報道を、ウラル労働
者新聞に、印刷することが許可された。サハロフの論文と共に。サハロフは書いた:
「今回、ブルジョワ式の訴訟手続きに違反した。王位にあった人物の死刑の、伝統的で
歴史的な儀式が遵守されなかった。しかし、そうだとしても、労働者・農民権力は、今回
の場合において、最大の民主主義を示した。全ロシアの殺人者に対して、労農権力は、例
外 を つ く ら な か っ た 。 元 皇 帝 を 、 あ り ふ れ た 悪 党 と 同 じ も の と 見 な し て 銃 殺 し た 。」
そ う い え ば 、 救 世 主 キ リ ス ト は 、「 極 あ り ふ れ た 悪 党 」 と し て 、 十 字 架 に 架 け ら れ た 。
「血のニコライなどは、偉大ではない・・・。全権力を手にした労働者・農民は、自分
た ち の 敵 に 語 る こ と が で き る :「 お 前 達 は 、 帝 国 に 本 営 を 構 築 し た か ? ( ? * ) 本 営
は打ち砕かれた。王位にあったものの空っぽの首を、報復として、受け取れ!」 (これ
らの言葉から、評論家サハロフは、明らかに、ユーロフスキーは皇帝の首を切り取り、モ
ス ク ワ に 持 参 し た 、 と い う 伝 説 に 言 及 し た こ と が わ か る 。)
7月21日。技師イパチェフは、ソビエトに呼ばれた。イパチェフに、自分の家のカギ
が返却された。
ゴミだらけとなり、7月17日夜の惨劇が残っている、恐ろしい状態となった自分の家
に入った時、イパチェフは何を感じたであろうか?
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拘 留 中 の 「 連 隊 長 」。 ツ ア ル ス コ エ ・ セ ロ ー 。( 1 9 1 7 年 )
もう皇后ではない・・・。
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病気と革命の後で
丸太を切る。ニコライとジリヤル。
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1918年トボリスク。
気に入っていた温室の屋根で。
全露中央執行委員会特命全権。ミャーティン・ヤコブレフ
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赤色ウラルの指導者達。左から右へ、
トルマチェフ、ベロバロドフ、サハロフ、ゴロシェキン。
通りから見たイパチェフの家
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イパチェフの家の食堂
イパチェフの家の半地下室。ここで、皇帝家族が銃殺された。
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ミハイル大公銃殺の参加者達
左、イパチェフの家の司令官ヤコフ・ユーロフスキー、
右、チェーカー・グリゴリイ・ニクーリン。
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左、警備兵パベル・メドベジェフ、
右、コミッサール・ピョートル・エルマコフ
上、ロマノフ家最後の旅行の運転手、
下、ウラル・チェーカー議長フョードル・ルコヤノフ。
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皇太子アレクセイ。最後の写真のうちの一様。
?
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エカテリンブルグ市の法医学鑑定局
においての、ニコライ二世(?)と
ア レ ク サ ン ド ラ ・ フ ェ ド ロ ブ ナ( ? )
の頭蓋骨を用いた最新復元
大公オリガ(?)
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