土佐のお姫様は今日も不機嫌

ー明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」からー
ひいさま
土佐のお姫様は今日も不機嫌
横松和平太
三の丸尚蔵館に早春のある日でかけて見た。ご存知の方も多いかと思うが、江戸城大手
門から皇居東御苑に入ってすぐ右手にある。入場無料なのがありがたい。東御苑には、天
守台、本丸御殿跡とか松の廊下のあったところとか、徳川幕府二百六十年の栄華の地を偲
せる所が多い。宮内庁三の丸尚蔵館は、葵の後に栄えた菊、天皇家に伝わる文化・美術品
(その一部だと思うが)を公開している。この日は「明治十二年明治天皇御下命人物写真
帖」展が目当てだった。
明治天皇御下命「人物写真帖」
明治12年(1879)11月、御年28歳の明治天皇が〝深く親愛する群臣の肖像写真を座右に
備えようと、その蒐集を宮内
宮内
かたろぐ
に命じられた〟ことに始まると型録に説明があった。時の
さねのり
は、侍従長を兼務していた徳大寺実則。命じられたのではなく、命じられるように
仕向けたのではないかと思う。大蔵
の大隈重信を説得して予算を獲得したのかも。何と
なれば、前年の明治11年(1878)に大蔵省印刷局に写真撮影所が設けられ、公の期間として
活動が開始されていたからである。組織が出来たからには仕事を作りたがるのが、今も昔
も変わらぬ官僚の体質ではなかろうか。本当に必要なものかどうかは疑わしい。
この写真帖は、ほぼ1年間の間に宮内庁主導で印刷局撮影所が撮影・写真帖の制作を進
め完成させた。現存する写真帖は39分冊、費用が幾らかかったのか不明だが全て宮内庁が
負担した超豪華なアルバムであった。収録された人物は皇族、華族、高位の宗教者、軍人
を含む諸官庁の高等官達総勢4531名である。所謂皇室の藩屏達の官位、役職、年齢、の
キャプション付き肖像写真が網羅されているようだ。 未だ肖像写真が珍しかったこの時代にあって、これだけの人達の同時点の姿をとらえて
いるのが貴重であった。馴染みのある人もない人も、この時の年齢関係と姿形を一覧でき
るのが面白い。このような写真帖は二度と作られなかったという。天皇が手元に置いて何
の役に立てたのか?不明である。やはり無駄と知りつつ進めた事業だったのだ。今日我々
下々の庶民の目にできるのが、せめてもの意義なのかも。
かたろぐ
展示会の型録は、制作過程から、全人名一覧を載せ、幕末から明治・大正期にかけて活
躍した主要な人物373名については、分野毎に事績と併せ写真を紹介している。
その中にはこれまで知られなかった貴重な写真もあった。じっと見てみると、色々と興味
深いことも浮かび上がってきた。この写真帖が撮影・制作されたのは明治12∼13年(1880)
のことである。この時点を定点として、近代日本の歴史がどう動いていたのか垣間見るこ
とも出来そうである。丁度この頃は、明治10年西南戦争で西郷隆盛が倒れ、翌11年には大
久保利通が暗殺されている。明治維新から十数年、時代は筆頭参議大隈重信(49歳)、伊藤
1
博文(40歳)達に引継がれようとしていた。幕末・維新に活躍した人で、この写真帖に入っ
た人もいれば、載っていない人もいる。そこをまず見てみたい。
収録された人物群像
写真として特異だったのは、この事業の中心人物の一人、いつも口がへの字のオジサン
大隈重信だ。この写真帖は皆明治12年末から約1年間の間にスタジオで撮影された写真が
集められたものだが、彼の写真だけは、締切までに提出されず過去に撮影したもので代用
されているのだ。再三に渡り宮
何故なのであろうか?まずは
ろうか?。彼は、西南戦争の
を預かっていた立場にあった。
させられたことへの抵抗だっ
権運動への対応として憲法の
内庁は督促した経緯がみられるのだが、
この事業に元々反対だったのではなか
出費で苦しい財政状態にあった大蔵省
天皇の御下命を持ち出され、渋々認可
たのかも?。それに、この頃は自由民
制定と国会の開設という重大な政治問
題を抱えていた。明治13年
(1880)2月には、参議全員に意見書を
出すよう有栖川宮左大臣の命
があったにもかかわらず、大隈だけは
3月になっても未提出だった。
憲法の考えを囲っては、プロシャ憲法
めぐ
をモデルとすべきとする、岩倉、伊藤、井上毅らの保守派と、大隈のようにイギリス流の
議会政治を目指すべきとする革新派の対立があった時である。結局この対立は、翌年の明
治14年(18881)の政変で大隈が追放される形で決着がつくことになる。最後は伊藤の日和
見による裏切りがポイントとなったが、明治政治史上最大の事件と云われ、所 は借り物、
見せかけの改革だったのだが、国のカタチ、方向に大きく影響を与えた。大隈はこの政局
をどう乗り切るかで頭が一杯で、肖像写真の撮影などはどうでも良かったのではなかろう
か?。で、とうとう苦肉の策として以前撮影した写真で間に合わせた、というところでは
なかろうか。
幕末・維新に活躍した人といえば、三傑とか十傑とか言われる人物がいる。三傑とは、
西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通である。明治12年の時点では全て故人となっているが、
木戸、大久保は写真帖に載っているが西郷は載っていない。逆賊だからであろう。十傑と
はあと誰を言うのかといえば、大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、小松帯刀、江藤新平、
横井小楠、岩倉具視の七人だそうだ。この時存命であったのは右大臣岩倉具視(56歳)だけ
であった。坂本龍馬や中岡慎太郎などは、この頃傑物とは評価されていなかった。一流の
人材達は志半ばにして倒れており、いわばしぶとく生き残った者達のアルバムとも言えそ
うだ。写真帖には珍しい人物の貴重な肖像写真も載っていた。例えば、永井荷風の父、永
井久一郎(29歳)の若き日の姿だ。大変なイケメンで内務省御用掛准奉任官の肩書だが元々
は漢詩人。この後、日本郵船に務め重役になった。荷風はこの父に頭が上がらなかったよ
ゆかり
うだ。荷風が終生尊敬した森鷗外縁の人達も多い。郷里津和野の元殿様亀井公父子、先輩
こ ろく
の西周、後に義父(後妻の父)となる赤松則良海軍少将、等だ。勝海舟(58歳)は息子の小六
共々載っている。無官だが正四位。中々
え無い御仁と見た。旧幕臣からは大久保一翁
(64歳)、山岡鉄舟(45歳)、榎本武揚(45歳)、前島蜜(44歳)達も入っていた。
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かつての海舟の上司だった永井尚志(64歳)、鉄舟の義兄の高橋泥舟(45歳)は、節を通し
てというか、官に関心が無かったようで写真帖にはいない。
幕末に四賢候と称された殿様がいた。どこがどう賢かったのかはさておき、
摩の島津
斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂、福井の松平春嶽の四人だが、この内、島津と
土佐は既に故人となっていたが、伊達、松平は健在。尾張藩の徳川慶勝、松平容保ら高須
四兄弟の他、親子、兄弟という組合せも多い。幕藩体制下の殿様達の多くが〝麝香間祗候〟
という名誉的な資格の華族として新体制に組み込まれていたことが顔触れを見て納得でき
た。公家を中心にして、華族は最高齢91歳から最年少8歳まで幅広い年齢層であった。
未収録の皇族達
明治天皇を取り巻く人物達のアルバムだから、皇族は当然全て写真があるのかと思った
が、実はそうではなかった。型録の解説によれば、「明治12年当時、皇室には、四親王家
と呼ばれた、伏見宮・有栖川宮・桂宮・閑院宮を含めて10の宮家があった。ー中略ー本写
真帖には、9宮家の当主とその親王妃15名が収められているが、桂宮第12代淑子内親王
や、明治11年に親王宣下を受けた有栖川宮威仁親王は含まれていないなど、当時の皇族方
すべてではなく、その事情は明確でない。」とあった。
すみこ
その事情とは何かが気になり、少し調べてみた。まず、桂宮淑子内親王である。この人
は仁孝天皇の娘で、暗殺説が囁かれる孝明天皇や皇女和宮の異母姉にあたる。異母弟桂宮
節仁親王の没後、当主不在の桂宮家を継承したが、女性として初、しかも唯一の世襲親王
家の継承例という。没年は明治14年10月、53歳であった。この後桂宮家は継嗣不在のた
め断絶した。死因は確かめられなかったが、おそらく病弱で、写真帖制作事業が始まった
明治12年末から翌13年頃には病床にあったのではなかろうか?。現在の京都二条城本丸
御殿は桂宮邸を一部移築した建物であり、そこに住まっていた。大変人見知りの激しい性
格で、御所の庭を散歩する時にも輿に乗り、御 の間からかいま見るという行動をとって
いたと伝わる。とても神経質で繊細な人物像が想像できる。当時の写真撮影は時間もかか
り大変だったらしいから、とても耐えられなかったであろう。ましてスタジオに出向くな
ぞ出来なかった。よって写真帖には不参加、世の中に写真は存在しないのでは。
たけひと
未収録のもう一人の人物、有栖川宮威仁親王にはどんな事情が
たかひと
あったのか?この人は有栖川宮第8代幟仁親王の第4王子で、維新政
たるひと
府軍の東征大総督として江戸城を接収した熾仁親王の弟にあたる。
明治11年に親王宣下を受けたのは、兄に子がなく有栖川宮家の後継
者に指名されたからであった。では、何故写真帖に収録されていな
いかといえば、おそらくこう言うことではなかろうか。この王子は、
若き日より海軍軍人を志すよう命じられていた。明治12年、政府よ
りイギリス海軍シナ艦隊旗艦〝Iron Duke〟号に乗込み約1年間の艦
上勤務を命じられたという。明治13年に一旦帰国するが、その年12月には18歳で結婚、
少尉として三年半の英国留学が始まっている。写真帖制作事業のあった明治13年は、彼は
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洋上勤務、結婚、海外留学準備に忙殺され、写真撮影どころでなくパスさせてもらった、
と推察したい。写真帖には未収録であったが、こんな写真があったので紹介しておきたい。
超イケメンである。しかし、この人には子供がなく没後有栖川宮家は断絶している。
人物写真帖の女性達
アルバムには4,531名の肖像写真が収録されているが、女性の写真はたったの6人だけ
だった。いずれも皇族関係者である。女性の地位が今日と比べて格段に低かった時代だか
ら、当然といえば当然だが余りにも少ないのだ。6人とは次の女性達であった。東伏見宮
親王妃頼子、有栖川宮親王妃薫子、伏見宮妃年子、北白川宮妃光子、華頂宮妃郁子、それ
と日蓮宗尼僧、京都瑞龍寺門跡の村雲日栄尼である。この人は伏見宮邦家親王の第八皇女
とあった。各親王妃の素姓を見てみれば、旧大名のお姫様達が多い。越後新発田、筑後久
留米、土佐高知、陸奥盛岡各藩の出である。天皇家を除いては当時の貴族は、格式はある
ものの皆貧乏であり何かともの入りな生活のため、まだ裕福とみえた大名家から嫁を貰っ
たものだと云う。写真を見れば、いずれの女性も美人で、エレガント
でたおやかな表情をしていた。だがひとりだけはよく見れば、美人で
はあるが個性的な表情をしていた。毅然とした顔とも思えるが、眼に
きつい意思があった。〝どうして私が写真を撮られなきゃいけないの
よ〟〝私いやよ、不愉快だわ!〟とでも言ってそうな顔であった。
私には、とても不機嫌に見える表情と思えたのだ。
これがその写真である。説明書きによれば「能久親王妃光子、22歳
(1859-1920)、 旧土佐高知藩主山内豊信第一女子。明治11年に成婚し
たが、18年に離婚。」とあった。とすれば、この写真は、結婚3年目
とよしげ
の頃のものである。山内豊信(1827-1872)とは、武市半平太や坂本龍馬、後藤象二郎達の
主君であり幕末四賢候の一人。公武合体派の中心人物として活躍した山内容堂公である。
それにしても、彼女はどうしてこんな不機嫌そうな顔をしているのか?、お姫様として生
まれ、皇族に嫁ぎ、何不自由なく暮らしていたはずなのに!やがて離縁される不安でもあっ
たのか(事実5年後に離婚)?。後継ぎを産めない女性は人ではなかった時代である。そう
思い出したら、彼女を取り巻く人生が知りたくなっていた。
容堂公とその家族達
とよしげ
この写真が、彼女の父親である土佐高知藩第15代藩主の山内豊信
だ。このお殿様は、山内一豊以来の本家の出ではなく、分家からお家
断絶を防ぐ為に中継ぎとして当主となっている。本流でない為に冷遇
されたこともあってか、安政6年(1859)早々と本家の豊範にその座を譲
り、隠居して容堂と号した。まだ32歳の若さであった。正妻は三条正
子(烏丸光政女、三条実万養女)、で朝廷方にも人脈があった。「酔え
や
ゆ
ば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄された公武合体派として隠居してから
も幕末の政局で活躍。しかし肝心な処で決め切れなかった。大酒飲み
で女好き、感受性が強く美意識高く漢詩も愛した。自ら〝鯨海酔侯〟
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と名乗り、別邸には〝酔擁美人楼〟なる額を掲げ、放蕩したという。光姫の母親は〝お鯉
尾〟(水上氏)と言った。何人かいた側妻のひとりである。容堂が私淑した幕府筆頭老中・
阿部正弘の元々側妻であった女性である。阿部正弘は激動の幕末を数々の改革で乗り切ろ
うとした有能な人物であったが、安政4年(1857)38歳の若さで病死している。一種の過労
死であろう。彼の死後、周囲の反対を押し切って側妻に望んだと云う。安政6年(1859)5
月、長女として光姫が生まれた。沖野氏の娘から生まれた長男郁太郎は既に病死していた
とよただ
のかどうか?。次男豊尹は慶応3年(1866)生まれで光姫の7歳年下、やがて跡取りとなるが
母は〝お勢〟(大橋氏)だ。慶応4年(1867)に三女辰姫がお鯉尾から生まれたが幼死。後年小
松宮依仁親王妃となった妹の八重姫は明治2年(1869)生まれで〝お勢〟の子である。晩年
の愛妾として知られた〝お愛〟との間には子はいなかった。〝お鯉尾〟とは、
た下屋敷で暮らしたようなので、ここで光姫も生まれたのか。
洲にあっ
土佐のお姫様
『ロングフェロー日本滞在記』という本がある。この本は、アメリカの向こうでは高名
な詩人にして学者の父と富豪の娘を母を持つ青年が明治初年にニッポンに遊びに来た時の
記録とコレクションを紹介したものである。1861年(明治4)から21ヶ月滞在し、北は蝦夷
地から横浜、江戸、箱根、奈良、京都、大阪、神戸、南は長崎へと旅行した。イザベラ・
バードより7年前に蝦夷地に探検しているのだ。富士山にも登り、天皇にも謁見したとい
う。チャールズ・A・ロングフェローという当時27歳のこの青年は、カネとヒマがたっぷ
りあったらしく、横浜や江戸で屋敷を借りて暮らした。自分では写真は撮影しなかったが、
350枚余りの写真を持ち帰った。写真の中には自ら侍の扮装をしたり、背中一面に刺青を
した姿もあった。中々茶目っ気のある明るい性格だったようだ。写真師を雇い写真を撮ら
せたり、彼らが西洋人相手に土産物として販売した写真を買い込んだものらしい。浅草に
あった写真師内田九一のスタジオで撮影されたり、内田が出向いたりして撮られたものと
推定されている。手紙や日記も収録されている貴重なコレクションなのだ。
これらの中に、山内容堂と知り合ったことで集めた、と思える何枚かの写真があった。
どこで知り合ったかと云えば、箱根・宮ノ下の老舗奈良屋旅館である。時は明治4年
(1871)7月10日のことである。米国領事シェパードと一緒だったロングフェロー達は、土
佐公から夕食に招かれたと日記にある。
〝連れて来た女たちに、歌や音楽、踊りなどを披露させた。ノミ、ノミ、ノミ! (中略)
僧侶による音楽の「もてなし」、ひどい騒音だ。良い人たちなのだが。〟
今でも評判の日本の「おもてなし」だが、イザベラ・バードも書いているように、音楽
だけは西洋人には評判が良くなかったようだ。この頃容堂公は、愛妾お愛とお抱え絵師等
を伴い七十余日箱根に静養の夏を過ごしに来ていたのだ。この当時、箱根への湯治と云え
ば箱根七湯一 り七日を三 り三週間かけるのが普通だったらしいが。二月以上とは、鯨
酔海公はさすがに豪快だ。この夏の出会いの後、江戸に戻ってからも容堂公と交遊したら
しく、コレクションの写真には容堂公の写真の他に、武家屋敷の庭園でくつろぐ家族たち
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の写真があった。この写真は容堂から頂いたのか、それとも写真師から買ったのか?彼等
には肖像権という考えは無かったのだろう。容堂
は翌明治5年(1872)1月には脳
血で倒れ、6月に
は死去している。酒の飲み過ぎとストレスが原因
だろう。よって明治4年(1871)に撮影されたと考
えられる。このアルバムへの書込みによれば、写っ
ている日本人は、Young Prince&Princess of
Tosa、Princess's mother とある。小さくてよく
分からないが、石橋の左側で腰掛けている若い男
がPrince、真ん中に立つ女
性2人がPrincess、右側
に座っている女性か、右
端の女性がそのMotherと、最初は思えた。明治4年(1871)時点で
の家族の推定年齢からすれば光姫12歳、豊尹5歳、八重姫2歳のは
ずである。だが、2歳の子はここにはいないと思えるので、真ん
中の手を繋いでいる2人がPrince&Princessと云うことになる。
Princeと思えた若い男は家臣のようだ。Motherというのは、恐ら
くお鯉尾とお勢、或はお鯉尾の下女ではなかろうか?この写真で
は小さすぎて解らないので、光姫の写真が他にないかとアルバム
写真を更に見てみたらあったのである。それがこの写真である。御年12歳のお姿があっ
た。顔かたちは容堂公とどことなく似ていて品がある。容堂の繊細で神経が細いところを
受け継いでいるような表情でもある。母〝お鯉尾〟は大変な美人であったようだが、光姫
もすでに可愛らしくも美しい。が、眼の表情がややキツイ。後年の北白川宮妃の写真を思
わせる。彼女は、幼き頃から不機嫌顔だったのである。写真の台紙にはOhi sama Prince
ひいさま
of Tosaと書いてある。Ohi smaはお姫様のことであろう。翌明治5年(1872)の容堂の死に
伴い、残された側妻達はどうなったか?である。(生妻は既に死去していた)。お愛のよう
に子供の居なかった者は山内家を出され、子供の居た者は断髪し尼となり家に残された。
光姫の母お鯉尾は妙秀、次男と八重姫を産んだお勢は妙吟と名乗り、明治8年(1875)に山
内家に入籍し扶養された。しかし、明治12年(1879)に山内家を離縁、追放された。1月14
日付けの山内家の文書によれば、「於光生母妙秀事、是
扶持遣シ居ル所、此度不都合有
之、本日ヨリ出入差止、兼テ遣ス扶持取上ケ禁足申付ル…」とある。その後の彼女の足跡
は不明である。彼女の不都合な真実とは、家臣との不義密通事件であったらしい。前年の
明治11年(1878)には娘の光姫が嫁いでいたこともあり、気が緩んでいたのか?或いは女盛
りを持て余していたのか?
明治13年(1880)撮影の人物写真帖の光姫の顔が不機嫌そうなのは無理も無いのだ。父親は
若くして病死、母親はお家追放と、不幸が続いた後だったのである。嫁いだところは窮屈
な宮家だ。幸せそうな表情はつくれなかったのだ。
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北白川能久親王
ひいさま
土佐のお姫様光姫は明治11年(1878)、北白川能久親王妃光子として山内家より嫁いだ。
この能久親王(1847∼1895)という人は、実に波瀾万丈の人生をおくったお方だった。
子沢山の伏見宮邦家親王の第9王子だが、12歳で一度出家させられ慶応3年(1867)上野の寛
永寺に入り〝輪王寺宮〟と通称された。輪王寺宮といえば戊辰戦争の時、上野に立て籠もっ
た彰義隊に擁立され、敗北により東北に逃れ奥羽越列藩同盟の盟主されたことで知られる。
新政府軍への降伏により京都で朝敵として蟄居させられたが、明治3年(1870)伏見宮家に
復帰する。この年、23歳でプロイセンに軍事留学し、明治5年(1872)には北白川宮家を相
続した。留学中の明治9年(1876)、ドイツの貴族の未亡人とかってに婚約し現地の新聞に
発表、明治政府に許可を申し出た。つまり既成事実で押し切ろうとしたのだ。岩倉具視ら
政府は反対し、婚約は破棄させられ、明治10年(1877)7月に帰国、再度の謹慎生活に入
る。翌年予て婚約中であった山内家の光子嬢を妃に迎えることになった。恋に生きられな
かった貴公子だったのである。だからであろう、人物写真帖の光子妃が不機嫌だったのも
無理はない。二人の間に愛は無かったのだ。元々病弱で少女のように華奢だったという。
二人の間に後継ぎも子供も生まれなかった。結局、結婚7年目の明治18年(1885)光子妃は
病弱を理由に離縁されてしまう。明治13年人物写真帖の光子妃の不機嫌な顔は、この日の
来ることを予感していたのだろう。幸せな表情は無理だったのである。
能久親王は、その後陸軍の軍人として陸軍中将にまで昇進した。日清戦争によって割譲
された台湾の反乱事件の征討近衛師団長として出征。現地でマラリアに罹り病死している。
明治28年(1895)満48歳、異国の地での不運の死により英雄視され国葬となった。
親王は離婚後、島津久光の養女(実父は伊達宗徳)富子と再婚。多くの子孫を残した。
第3王子の成久王はプレイボーイとして知られ、パリ留学中に自動車事故で亡くなったこ
とで有名だ。品川のかの新高輪プリンスホテルは北白川宮家の旧邸宅の跡地である。
山内家に戻ったであろう光子は、どこでどう生きたのか?知ることが出来なかった。
ただ、没年は1920年(大正9)とあるので、61歳頃まで生きたと知れるのだが。
オハナさん
この写真の女性は、あのヤングフェローの写真帖の中にあった〝オハナ〟さんと書かれ
ひと
ていた人物である。彼氏の愛妾であった女である。日本
で初めて笑顔で写った女性の写真という。芸妓のような
ひと
庶民であるが、心からの笑顔を見せていた女もいたので
ひいさま
ある。あの土佐のお姫様の不機嫌な顔と比べられずにい
られない。お姫様と生まれても、籠の鳥の生活を強いら
れ、果ては子無きを持って離縁させられたという理不尽
さ。主家の家臣と道ならぬ恋故追放されたという母〝お
鯉尾〟の奔放さ。明治初年の女達、実に人生いろいろで
あった。
(了)
7
参考資料:
『グローブトロッター』 中野 明 著 (2013年)
『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』宮内庁 三の丸尚蔵館 編 (2013年)
『皇族に嫁いだ女性たち』 小田部雄次 著 (2009年)
『ヤングフェロー日本滞在記』チャールズ・A・ヤングフェロー著、山田久美子訳 (2004年)
『皇族』広岡裕児 著 (1998年)
『山内容堂のすべて』山本 大 編/「山内容堂をめぐる女たち」(小石房子) (1994年)
Wikipediaより
「山内容堂」「北白川宮能久親王」「桂宮淑子内親王」「有栖川宮威仁親王」「維新の十傑」他
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