第6講要旨

平成27年度明治大学・天童市連携講座「てんどう笑顔塾」第6講
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日時
平成27年8月29日(土)
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会場
天童市総合福祉センター3階「視聴覚室」
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テーマ
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講師
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内容
(1)
近代刑法学の鼻祖
明治大学法学部
教授
午前10時から正午まで
宮城浩蔵
村上
一博
氏
フランスへの留学
宮城浩蔵は、司法省法学校でボアソナード(明治政府が近代国家としての法
体系を整備するため招聘したフランスの法律家)のもとで学んだ後、明治9年
(1876 年)、フランスへ留学。パリ大学へ入学した。当時の宮城の学籍簿がフ
ランスに残されており、これを見ると成績は大変優秀なものであった。
しかし、パリ大学の卒業に必要な12単位のうち10単位までの受講記録し
か記載されていない。その後の足跡を調査すると、リヨン大学に転学し、明治
13年(1880 年)に法学士号取得論文を提出していることが分かっているが、
なぜパリ大学卒業前にリヨン大学へ転学したかについては分かっていない。
(2)
帰国後の経歴
明治13年(1880 年)にフランスから帰国した宮城浩蔵は、政府の要請で司
法省の検事に就任。その後、大審院判事、司法省参事官などを歴任し、約10
年にわたり新進のエリート司法官僚の道を歩んだ。この間、刑法、治罪法(刑
事訴訟法)草案の修正に従事したほか、民法、商法、訴訟法の法律取調報告委
員となった。とりわけ民事訴訟法の作成に尽力したと言われている。また、判
検事登用試験、代言人(弁護士)試験、高等文官(国家公務員)試験等の委員
も務めた。
このように、宮城は「東洋のオルトラン(フランスの刑法学者)」と呼ばれる
ように、一般的には刑法学者として知られ、その業績も高く評価されてきたが、
ボアソナードが法律全般に通じていたように、宮城もフランスで法律全般を学
び、帰国後は法制官僚として刑事、民事両方の草案作成や審査に関わっており、
刑法以外の分野においても多くの業績を残している。
(3)
明治法律学校の講義
宮城浩蔵は、明治14年(1881 年)に岸本辰雄、矢代操と共に明治法律学校
(明治大学)を創立した。開校当初、講義は創立者3人のみで行い、宮城は日
本刑法と治罪法を担当。当時は、日本語に翻訳された書物はほとんどなく、講
義はフランス語の原書を用いて行っていた。宮城の刑法の講義は人気が高く、
学生たちはこれを聞き流すにはもったいないと、自分たちが持っている講義の
筆記を集めて講義録を作成した。
このようにして出来上がったのが「刑法講義」である。予約申込みにより販
売されたが、すぐに売り切れ、約3万部が発売されたとの証言もある。
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(4)
代議士と代言人
明治23年(1890 年)、宮城浩蔵は明治法律学校教頭を後任に譲り、司法
省参事官も辞職。改進党系からの誘いを受け、第1回総選挙(衆議院議員選
挙)に山形県第1区から立候補し、見事当選した。勝利の要因としては、郷
土出身の明治法律学校卒業生のネットワークがあった。
同年、宮城は代言人免許を取得し、翌年には東京新組合代言人会の会長に
いしょく
ししょう
つん
選出されている。京橋区に事務所を開くと、
「委嘱 の詞訟 事件積 んで山をなす
に至れり」と表現されるほど大いに評判を呼んだ。
(5)
近代刑法の鼻祖
宮城浩蔵は、フランスの刑法理論を正確に理解し、明治法律学校において
講義を行っていた。
「共犯」や「教唆犯」を例に、宮城の考え方と現代の刑法
理論を比較してみると、一部異なるところはあるものの、大部分は同じと言
ってよい。
当時の日本には、「故意」「未遂」といった刑法に関する適切な用語が存在
しておらず、これらの用語を日本語で作るところから始めなければならなか
った。まさに何もない「ゼロ」から近代刑法を構築していったのである。
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