日本帝国と東アジア

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日本帝国と東アジア*
木村 光彦
まえおき
ゼミで福澤諭吉の『学問のすゝめ』を読んでいる。学生たちが、
「先生、こんなふるい文章、むずかしくて読めないです!」という
のでしかたなく、現代語訳のテキストを買わせた。あるとき、ひと
りの学生が「この本で福澤さんは、中国が……と言っています」と
いうので、変だなとおもい、原文をみるとその個所は「支那」と表
記されていた。当時、中国という国家は存在していなかったから、
福澤が支那(さもなくば清)と書いたのはとうぜんである。現代語
訳とはいえそれを中国といいかえるのは、
「徳川家康が東京に幕府を
ひらいた」というようなもので、奇妙である。現代では支那という
言葉は一種の軽蔑語とうけとられ、いっぱんにはつかわれなくなっ
ているが、歴史上の用語を抹殺するかのような風潮には疑問をかん
じる。かといって、支那、支那というと、某元政治家の仲間とおも
われ、まともな研究者から疎外されかねない。そこでここでは、民
国成立以後をふくめて、 China としるすことにする。この言葉は
支那と同根であるが、なぜかだれも文句をいわない。それどころか、
かの国自身、英語表記として使用しているのが可笑しい。ほんらい、
「中華人民共和国」をそのまま英語にするなら、People s Republic
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学際
第1号
of Great Gloryといった表現になるであろうに(漢字に不案内な外
1)
国人がこれをしったらさぞおどろくだろう)。 ついでに、ロシアで
はChinaをキタイという。カンのよいひとは気づくだろうが、これ
は契丹に由来する。契丹はいわゆる北狄(ほくてき、北方の蛮族)
だが、習近平は気にならないのだろうか。もっとも、専門家によれ
ば、現代の漢族は古代以来、くりかえし侵入してきた蛮族と中原の
農耕民・都市民が混血した人々の子孫だそうだから、かまわないの
かもしれない(そういえば、習氏の前任者の姓は胡だった)。
Ⅰ
以前、わたしの友人で韓国近代史専攻の韓国人教授が雑談のなか
でこんなことを言った。
「韓国の歴史上、中国の脅威をうけなかった
のは日本に支配された36年間[1910∼45]だけだよ。」この友人は
日本滞在経験がながく、知日派ではあるが、べつに親日派ではな
い。だから、かれがそう言ったのは、日本の支配を肯定してのこと
ではない。ただ研究者として、淡々と事実を指摘しただけである。
しかしこの指摘は興味ぶかい。大日本帝国の一地域となったこと
で、朝鮮はChinaの支配から完全に脱した。のみならず、ここから
はわたしのかんがえであるが、朝鮮(人)はむしろChina(Chinese)
の上にたつことになったのである。
第 1 に、朝鮮人は大日本帝国臣民として、帝国の保護をうけた。
帝国では、
(朝鮮内の)朝鮮人は選挙権がみとめられないなど、公式、
2)
非公式に日本人と同等にあつかわれなかった。 差別があったこと
はたしかである。しかしChinaでは、なんらかの事件にまきこまれ
たばあい、朝鮮人は帝国臣民の権利を主張できたし、帝国もそれに
応えた。その好例が万宝山事件である。これは、1931年 7 月に長春
北西の万宝山でおこった入植朝鮮人と地元農民(Chinese)の水路
あらそいである。このとき在長春日本領事は、駐在日本人警察官を
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現地に派遣し朝鮮人をまもった。一方、朝鮮内では、この事件をき
っかけにChineseにたいする排斥運動がおこり、数千人の朝鮮人が
各都市で、在住Chineseの店や家をおそう事態に発展した。とくに
平壌での破壊の規模はおおきく、多数の死傷者もでた。こうした行
為がなんらの歴史的背景なしにおこなわれたとはかんがえられな
い。長年にわたるChineseにたいする朝鮮人の反感があったにちが
いない。とくに平壌では、日清戦争のときにChina兵(いっぱんに
清国兵といわれるが、むしろ私兵)による略奪や暴行がひどかった
3)
から、しかりである。 日本の官憲は治安維持のためにこの騒擾を
おさえ、事後には裁判所が首謀者を罰したが、朝鮮人にとって、大
陸の王朝による報復をおそれることなくChineseを襲撃しえたの
は、以前には味わったことのない痛快事だったかもしれない。この
事件の翌年に成立した満洲国は五族(日本人、満洲人、蒙古人、漢
人、朝鮮人)協和を標榜したものの、よくしられるように、じっさい
には最上位に日本人がたち、権威・権力をふるった。そのつぎの地
4)
位を占めたのはだれか。帝国臣民たる朝鮮人である。 こうして朝
鮮人は古代以降はじめて、Chinaおよび朝鮮半島でChineseの上に
たったのである。この延長で、朝鮮人のなかに、日本人名を名乗る
ことによりChinaでさらに有利な位置を占めようとかんがえる者が
あらわれたとしても不思議ではない。いっぱんに、いわゆる創氏改
名は強制されたといわれるが、その背景はかならずしも単純ではな
い。
第 2 に、日本統治下の朝鮮では近代化がすすんだ。行財政制度の
整備にくわえ、水力発電所・鉄道・港湾・工場の建設と鉱山開発、
米作技術の向上、学校教育の普及はめざましかった。もちろん、そ
れがただちに貧困の解消をもたらしたわけではない。庶民の生活は
まずしかった。日本統治以前からそうだったのである。しかし、お
おくの民が飢餓で死ぬことはなくなった。まずしいながらもたくさ
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んの子供が学校にかようようになった。就学率、識字率は向上し
た。一部に誤解があるが、日本統治下で朝鮮語が禁止されたわけで
はない。朝鮮語は初等学校で必須科目としておしえられ、子供たち
はハングルをならった(ただし戦時期に朝鮮語は随意科目になっ
た)。とくに、女子の学校教育がおこなわれるようになったのは、朝
鮮王朝時代と顕著にことなる点である。1930年の国勢調査によれ
ば、農村の成人女性の大多数はハングルのよみかきができなかった。
これは前代の負の遺産である。それがおおきく変わり、若年女子に
学校教育の機会がひろがった。優秀な者は高等教育をうけ、さらに
は日本に留学することも可能になった。医療・公衆衛生面での進歩
もいちじるしかった。たとえば、政府(朝鮮総督府)は毎年、数百
万の朝鮮人に種痘を実施した。こうした一連の政策の結果、近代化
の点で朝鮮はChinaのはるか先をゆくことになったのである。
現代韓国では、戦前の日本の統治がどれほど過酷であったか、そ
れにたいして韓国人(朝鮮人)がいかに雄々しく抵抗したかを語る
のが正統な歴史とされる。心情的には理解できる。しかしわたしに
は、全体的にみて、むしろ朝鮮人が日本の支配につよく抵抗せず、
消極的にせよ受けいれたようにみえる。韓国併合前後、さらに1919
年には反日闘争がもりあがったものの、のちには沈静化した。のみ
ならず、戦時期には多数の朝鮮人が積極的にみずからを日本人化し
た。そのなかには、かつての反日・独立運動の指導者もいた。それ
はなぜだろうか。日本の統治がきわめてきびしく、 抵抗が不可能に
なったのか。そうではない。1919年の闘争− 3・1 運動以降、日本
はいわゆる武断政治から文化政治に統治の仕方をきりかえた。すな
わち、ソフト路線に転換したのである。逆ではない。日本は朝鮮で、
残酷な方法による処刑をおこなわなかった。山奥に強制収容所をつ
くって多数の思想犯を家族ともども送りこむこともしなかった(戦
後それをしつづけ今にいたっているのは、北朝鮮を支配する金一家
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である)。ふつうにかんがえれば、それなら闘争が容易になり、抵抗
運動がもっと活発化したはずだろう。じっさいには、そうならなか
ったのである。しばしば、それは日本政府の懐柔策が功を奏した
からだといわれる。それならば、その理由がさらに問われねばなら
ない(それほどかんたんに懐柔されるものだろうか?)。こうした
疑問の全面的解明は容易ではないが、帝国の一員として、China・
Chineseの上にたった朝鮮(人)という観点は、ひとつのヒントに
なるかもしれない。
Ⅱ
さいきんの研究成果によれば、1912∼39年、朝鮮の実質GDPの
年平均成長率は3.7%を記録した(金洛年編 2008: 315)。これは戦
前 の 世 界 水 準 に て ら す と 、 高 率 で あ っ た ( マ デ ィ ソ ン 1990:
166-71)
。鉱工業生産は、とくに北朝鮮でおおきく増加した。そこ
にはゆたかな天然資源が存在し、これを日本の企業・軍が開発した。
北朝鮮にはまず、以下のような鉱物資源があった:石炭、石灰石、
鉄、金、銀、銅、鉛、亜鉛、黒鉛、マグネサイト、タングステン、
モナザイト、バリウム、リチウム。おどろく向きもあるかもしれな
いが、北朝鮮の中心都市、平壌の地下にはぼうだいな量の無煙炭が
埋蔵されていた。日本海軍は艦船燃料用としていちはやくこれに注
目し、韓国併合以前、平壌鉱業所を設置し開発に着手した。同鉱業
所は1920年代には海軍燃料廠の一部門となり、煉炭を大量に生産し
た。金銀もほうふで、西部の雲山金山は東洋一の規模といわれた。
この金山を所有、採掘したのは当時の日本の代表的鉱山会社、日本
鉱業であった。モナザイトはウランをふくむ鉱物で、その発見は戦
時末期日本、さらには戦後北朝鮮の原爆開発とのかんれんで特記に
あたいする。つぎに、水力資源があった。朝鮮と満洲のさかいには
鴨緑江、豆満江の 2 大河川がながれていた。最初の電源開発は1920
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年代から30年代に、鴨緑江の支流、赴戦江と長津江でおこなわれた。
1937年には鴨緑江本流の開発がはじまり、当時としては世界的規模
の大ダム―水豊発電所―が建設された。
資源開発と輸送手段の整備は、北朝鮮の重化学工業発展の基盤と
なった。製鉄業では、はやくも1918年に三菱が平壌ちかくに製鉄所
をもうけた。これは高炉、平炉、圧延設備をもつ銑鋼一貫製鉄所
で、おもに海軍艦艇用の厚板・大形鋼を生産した。1930年代から40
年代はじめには、日本高周波重工業、三菱鉱業、日本製鉄、三菱製
鋼といった企業が北朝鮮各地に工場を建設した。このうち、日本製
鉄は東部の清津に高炉 2 基をきずき、銑鉄を生産した。原料鉱は、
当時東洋でも屈指の規模といわれた茂山鉱山の磁鉄鉱であった。日
本高周波はおなじく東部(城津)で、特殊鋼―戦時中はとくに銃
身鋼―を生産した。
戦時期には軍の指示で軽金属工業の発展がはかられ、航空機用の
アルミニウム、マグネシウム製造工場が数か所に設置された。
化学工業では1920年代後半から、安価な電力を利用して、一大事
業家の野口遵率いる朝鮮窒素が東部の興南に総合化学コンビナート
を建設した。それは化学肥料、とくに硫安の製造を主としたが、戦
時期には火薬・爆薬、航空機燃料など軍需生産に移行した。
セメント工業ではダム、港湾、道路など、たかまる建設需要にお
うじて、日本の主要メーカーが朝鮮に進出した。小野田、浅野、宇
部セメントの各社は平壌などに近代的大工場を建てた。兵器工業で
は、1918年に陸軍が平壌に工場をもうけ、戦時期にその設備をおお
はばに拡張した。ここでは弾丸と爆弾を製造した。
近年、戦時期の北朝鮮工業の発展は、これまでかんがえられてい
たよりはるかに広範、急速であったことが判明した(木村・安部
5)
2003)。それは、満洲の工業化とむすびついていた。 その象徴は、
水豊発電所の電力の半分が満洲むけだったことである。戦時期には
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鮮満一如といわれ、朝鮮・満洲一体の工業化の意義が強調された。
こうして帝国の工業力は大陸に拡張した。そこには日本内地より大
規模な施設が多数つくられ、兵器をふくむ重化学工業製品が大量に
生産された。支配地域の工業化は、ヨーロッパの植民地帝国にはみ
られない日本帝国のきわだった特徴であった。この結果、帝国崩壊
後、ぼうだいな工業設備が現地にのこされた。それは帝国の遺産と
して、そのごの東アジア政治経済のゆくえを左右することになった。
北朝鮮では農業も発展した。とくに米作が拡大した。古来、朝鮮
の中心的な米作地帯は南であったが、日本統治期、北朝鮮西部の平
野が米作地帯として重要性をました。同東部でも米作地がひろがっ
た。それを可能にしたのは、北朝鮮同様の寒冷地帯、わが国東北地
方の米作技術―秋田県で開発された品種、陸羽132号など―の
導入であった。日本統治期、おおくの北朝鮮農民が満洲に移住し
た。かれらは、獲得した米作技術を満洲に移植した。前述の万宝山
事件はこうした事情を背景におこったものである。朝鮮人がもちこ
んだ米作技術は戦後に継承され、遼寧省、吉林省、黒龍江省が良質
なジャポニカ米の生産地に成長するのに貢献した。
Ⅲ
1945年 8 月15日、日本帝国は事実上、崩壊した。このできごとは
明治維新以降の帝国の興隆に匹敵するほど、東アジアにおおきな衝
撃をあたえた。それはおそらく、崩壊させた米国政府の想像以上の
ものであった。衝撃は多岐にわたるが、ここではとくに国際共産主
義運動とのかんれんについてのべたい。一言でいえば、米国は日本
帝国を解体したことで、「共産主義という妖怪」(マルクス゠エンゲ
ルス)を東アジア全体の野に放ったのである。
6)
戦前、日本共産党にはおおくの在日朝鮮人党員がいた。 かれら
はとくに、末端の党活動をになった。同党幹部の大半は1930年代に
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転向したが、非転向をとおした幹部は日本の敗戦まで獄中ですごし
た。米占領軍は、不当に拘留された思想犯として、かれらを釈放し
た。このとき、府中刑務所前では多数の朝鮮人党員が、出所する徳
7)
田球一、志賀義雄、金天海ら幹部をでむかえた。 自由になった共
産党員は、スターリンが1947年に組織したコミンフォルムの指示を
うけ、活動を展開した。それは、麻薬密売、物資略取、密貿易など
の不法行為におよんだ。小論で注目したいのは、こうした動きが朝
鮮、China内の動きと密接にむすびついていたことである。
朝鮮ではソ連軍が38度線以北を占領し、そのもとで共産党(1946
年 8 月以降、北朝鮮労働党)政権がつくられた。以南では日本の支
配がくずれるや、共産主義者が活発に動きはじめた。かれらは1946
年11月、南朝鮮労働党(略称、南労党、1949年に北朝鮮労働党と合
併し朝鮮労働党)を結成した。朝鮮と日本の共産党員は、日本海を
不法に往来した。日本共産党員は、みずからが使う船を人民艦隊と
よび、朝鮮およびChinaとのあいだで密貿易・密出入国をくりかえ
した。日本に上陸した南北朝鮮の共産党員は工作員として活動し
た。1948年、南労党は済州島で島民をまきこんで、米軍政府にたい
して武装蜂起した(4・3 事件)。つづいて、軍隊内部の南労党員が
8)
反乱をおこした(麗水、順天事件)。 政府はその鎮圧に成功したが、
南朝鮮では共産主義者のこうした反政府活動にくわえ、保守派内の
主導権あらそいのために、社会的に不安定な状況がつづいた。経済
的困難も深刻だったので、たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本に
ひそかに入国した。その正確な数は杳としてしれない。1946∼49
年、検挙・強制送還された密入国者数は 5 万人ちかかった(森田
1968)。未検挙者をその 3 ∼ 4 倍とみると密入国者総数は20∼25万
人にたっする。済州島からは 4・3 事件後、2 万人が「日本に脱出し
9)
た」といわれる。
満洲ではソ連軍が、工場設備、原材料在庫品など帝国の物的遺産
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(および人的資源)を戦利品として大量に母国にはこんだ。その波が
おさまると、つぎは国民党と共産党がこの遺産の争奪戦をくりひろ
げた。毛沢東は戦時中、日本軍と国民党軍をたたかわせ、その間隙
10)
をついて勢力を拡大した。 毛は可能なあらゆる手段をとった。
いまにいたるまで極秘事項だが、「アヘンは革命的役割をはたし
うる」とし、資金獲得のためにアヘンの製造・密売さえおこなっ
11)
た。 日本がやぶれると、毛は満洲制圧を重要戦略目標に設定し、
いちはやく満洲に侵攻した。そこには日本軍の兵器が大量にのこっ
ていた。のみならず、全Chinaで重化学工業地域はほかになく、満
洲を獲ることは兵器生産に不可欠であった。紆余曲折をへてけっき
ょく毛はこの戦略に成功し、勝利者となった。
毛の勝利は東アジア全体の共産主義運動をいっそう高揚させた。
1949年夏から50年春にかけて、Chinaの人民解放軍に属していた朝
鮮人兵士数万人が北朝鮮にはいり、北朝鮮軍(人民軍)の中核とな
った。同軍は1950年 6 月25日、38度線をこえ韓国軍を奇襲した。
こうしてはじまった朝鮮戦争は、金日成、スターリン、毛沢東が組
んでおこなった国際共産主義運動の一大攻勢にほかならなかった。
日本共産党はこれに呼応し、わが国で火炎ビン闘争、山村ゲリラ活
動など武装闘争を展開した。1952年 5 ∼ 7 月、東京、大阪、名古屋
で騒擾事件がれんぞくしておこり、世間に動揺をあたえた。これら
12)
の騒擾には、実行部隊として在日朝鮮人共産党員が多数参加した。
このように、朝鮮戦争は日本国内にもひろがったのである。
米国はこの攻勢を十分みとおせず、うけみであった。日本では米
軍の力がつよく、政府も治安対策を徹底したので、ちいさな混乱で
おさまった。しかし米軍は、朝鮮半島では北朝鮮軍を撃破したのも
つかのま、つぎは、志願軍という名のChinaの正規軍と死闘を演じ
なければならなかった。この間、スターリンは、勝てばもうけもの、
負けても失うものはないという有利な状況に身をおくことができた。
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1953年 3 月、スターリンが死んだ。これを契機に同年 7 月、朝鮮
戦争は、双方痛みわけという形で一幕をとじた。しかし北京とモス
クワが主導する国際共産主義運動がおさまったわけではない。韓国
はつねに、北朝鮮の攻勢―対南革命工作―にさらされた。日本
統治下、朝鮮は戦時末期をのぞき、軍事費を負担しなかったが、韓
国にとっては年々多額の軍事・治安対策費が必須となった。米国は
この韓国を軍事的にささえるだけでなく、1960年代にはベトナム
で、共産主義者とふたたび直接戦火をまじえる事態におちいった。
ベトナムの共産主義者は、民族解放闘争の看板をかかげて西側の
人々、とくに知識人をひきつけ、支持を獲得した。米国はけっきょ
く、敗退した。
このようにみると、米国はなんのために、多大な犠牲をはらって、
日本帝国をあれほど徹底的につぶしたのかよくわからなくなる。米
国はたしかに、帝国を忠実な同盟国―というよりむしろ家来―
とし、とおい未来はべつとして、帝国を 2 度と米国にさからえない
国家に改造した。同時に、西太平洋の覇権を得、米国の海にした。
しかし米国は、Chinaでの権益獲得に失敗した。のみならず、その
ご、東アジア、また東南アジアで共産主義とたたかうというコスト
を支払わねばならなくなった。要するに、日本帝国は東アジアにお
13)
ける反共の防壁だった。 それをくずした結果、米国はあらたな物
的、人的負担を強いられたのである。
日本はどうか。米国の庇護のもと、戦前のような多額の軍事支出
や徴兵をまぬがれた。植民地経営も不要となり、政府、国民は経済
成長に専念することができた。その結果、生活水準は急速に向上し
た。帝国の解体は国民に幸せをもたらしたといえよう。しかし国民
のおおくは、第 1 に、福澤のいう「独立の気力」をうしなったよう
にみえる。
『学問のすゝめ』で福澤は、一身独立して一国独立、国の
威光を落とさないためには命もすてるべきとくりかえし述べてい
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る。わが国では現在、こうした気力はむしろ危険視される傾向にあ
る。第 2 に、あらたな対外危機の進行に気づかなかった。1955年、
自民党・(統一)社会党の 2 大政党が成立し、いわゆる55年体制が
スタートした。このできごとは戦後政治史のどの本にも書いてある。
対照的に、無視ないし軽視されているのが、同年まったく別種の政
治組織、朝鮮総聯(以下、総聯)が結成されたことである。このと
き、日本共産党の在日朝鮮人党員がいっせいに党をはなれ、この新
組織の幹部になった。離党は党の指示によるものだったが、背後に
は北朝鮮およびChinaの共産党 との合意があ っ た(木村・安部
2008: 44-45)。これ以降、総聯は朝鮮労働党直属の工作機関として
機能した。日本経済が成長するとともに総聯は傘下に、ゆたかな資
金と人材、とくに、優秀な研究者・技術者をえた。他方、北朝鮮は
経済開発に失敗した。日本統治期に形成された重化学工業は、設備
更新ができず年々おとろえた。技術は、軍事関連をのぞき、退化し
た。たとえば、信じがたいかもしれないが、前述した煉炭さえ満足
につくれなくなった。北朝鮮の経済規模はだれも正確には測れない
が、かりに1990年代、人口が1,500万人、1 人あたり所得が日本の
1/50∼1/100だったとすれば、その規模は日本の15∼30万人都市
―武蔵野市や奈良市ていどにすぎない。そのような国が核ミサイ
ルを開発するには、国民生活を犠牲にするだけでは足らない。外部
から資金、資材、部品をえなければならない。北朝鮮はそのために、
パキスタンなど国際ネットワークとともに、総聯をフルに利用した
―総聯は資金・財・技術の提供におおきな役割をはたした(木
村・安部 2008)。異常な努力の結果、北朝鮮の核ミサイル開発は
着実にすすんだ。こうして日本は北朝鮮のミサイル射程距離内にお
かれることになったのである。
他のあらたな対外危機はChinaによるものである。毛沢東は1964
年、核開発に成功した。詳細は不明だが、その工業基盤として毛が
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利用したのは、帝国が満洲にのこした遺産であった。さらに、戦後
日本がきずいた工業力の利用は毛にとって、軍事開発の加速に欠か
せなかった。この点で日本との国交正常化はとうぜんの戦略であっ
た。そのご鄧小平が改革・開放政策をとり、日本からの資金・技術
導入を梃子に経済を高度成長路線にのせたことは再言におよばない
であろう。こうして可能となった軍事力強化とくに海軍力の拡充が
現在、日本の領土・領海への脅威となっていることも、再言の要が
ない。
戦後おおくの日本人は、かつて日本帝国が東アジアで為したこと
を全面的に罪悪視してきた。しかし現実世界は単純なものではな
い。しばしば、よかれとおもって為したことが他の人々をきずつけ
る。逆に、我欲が他をたすけることもある。一定の史観、価値観に
しばられない自由な発想が大事だとおもう。それこそ、歴史のダイ
ナミズムの理解と、現在・将来にたいする洞察をうむ。その意味で、
日本帝国の総括はまだおわっていないし、むしろこれからあらたな
14)
発想でおこなわれねばならないとかんがえる。
〈註〉
*
小論の作成には、元日本共産党員で朝鮮問題研究家の坂本氏、南氏、
元南労党幹部の朴甲東氏の情報が大変やくにたった。猪木武徳教授(青山
学院大学)
、西澤治彦教授(武蔵大学)は、草稿にていねいなコメントをよ
せてくださった。記して、これらのかたがたに謝意を表する。
1)中国語で華は「優れた、華麗な」を意味し、花はふくまない。
2)1925年に改正、成立した普通選挙法では、内地居住の帝国臣民(朝鮮
人、台湾人をふくむ)で25歳以上の男子に選挙権がみとめられた。こ
れにより衆議院議員になった朝鮮人として朴春今が有名である。
3)公平のためにしるせば、日本兵の破壊、略奪行為もあった。これは、
1895年末に平壌をおとずれた英国人旅行家、バードが書いている(バ
ード 2003: 403-04)
。一部の研究者はかつて、朝鮮内の襲撃事件は満
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洲侵略、朝鮮支配の強化のために日本側がくわだてたと主張した。最
近の李の研究(2012)はこれを否定し、平壌事件の遠因として朝鮮人・
Chinese間の商売上および労働現場での対立を指摘している。しかし李
は、日清戦争中のできごとをふくめた歴史的な考察はおこなっていな
い。
4)満洲国には国籍法がなかったので、在満朝鮮人が法的に満洲国人にな
ったわけではない。かれらは在満日本人と同様、実際上、日本帝国臣
民と位置づけられた。
5)満洲の工業化については、山本(2003)を参照されたい。
6)日本共産党は定期的に党史を刊行しているが、この事実にはどの刊も
まったくふれていない。
7)金天海は朝鮮人の党幹部で、1950年に北朝鮮にわたったが、60年代に
は消息不明となった。なお、宮本顕治は網走刑務所から出所した。宮
本は思想犯(治安維持法違反)としてだけでなく、刑法犯としても収
監されていた(いわゆるスパイ査問事件で傷害致死罪にとわれた)
。
8)朴正煕は兄の影響で南労党員となり、この事件直後に逮捕されたが、
仲間の情報を提供することで釈放されたといわれる。
9)在日韓国・朝鮮人からしばしば、
「潜水艦に乗ってきた」という言葉を
きく。これは密入国を意味する。
10)毛沢東は1966年、北京を訪問した日本共産党の幹部に、
「戦争で1億や
2億[の人口]が犠牲になったとしてもたいしたことはない……日本が中
国に侵略したことによって中国の人民は団結してたたかうことができ
た。だから日本に感謝している」とのべた(小島優編 1989: 193)。こ
れは、冗談めかした言葉ととるべきではない。毛は同趣旨のことを、
他の訪中日本人にものべていた。盧溝橋事件が共産党による策謀であ
ったという主張は、毛のこうした発言をひとつの根拠にしている。
11)これはウラジミロフの本(1975: 43-44、140、202)にしるされている。
この人物はコミンテルンが派遣した工作員で、戦時中、毛沢東と行動を
ともにした。わが国の左派系歴史研究者も何人かこの事実に気づいた
が、
「困難な抗日戦の中で起った逆行的現象」などと評し、あえて問題
視していない(江口 1988)。しかしこれは、一時的な異常事態といっ
たものではなかった。終戦後、よくしられるように、わが国で麻薬の
乱用が深刻な社会問題になった。当時の厚生省麻薬課長が刊行した本
(久万 1960)等によれば、中共は戦後も大量にヘロインを製造してお
り、その対日密輸には朝鮮人、Chineseがふかくかかわっていた。
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12)のちの作家、金達寿はその一員であった。日本人党員では、現在、強
気の経済評論家として著名なH氏が河北(河内北部)解放戦線の小隊長
の地位にあり、大阪の闘争(吹田・枚方闘争)にくわわっていた。
13)1930年代にはいって政治の実権をにぎった軍部(とくに、いわゆる統
制派)は、ナチスも同様だが、思想面では全体主義(反自由主義)
、経
済面では統制強化・計画化(反市場・反利潤)
、制度面では私有財産の
制限政策を推進した。その結果帝国は、反共を国是としながらも実質
的に社会主義の道をすすみ、戦時末期にいたると、その体制は一見、
共産国家ソ連と区別がつかないほどになった。これはさらにろんずべ
き点だが、小論では指摘するのみにとどめる。
14)小論は共産主義運動のいくつかの側面に言及したが、この運動につい
ては実証研究がひじょうに不足している。共産党はいわば、秘密工作
のプロ集団であるから、旧ソ連をふくめ、もし世界の共産党のおこな
ったすべてのことがあかるみにでるならば、近現代の歴史はおおきく
書きかえられるだろう。
〈参考文献〉
ウラジミロフ、P.(1975)
『延安日記』上巻、サイマル出版会。
江口圭一(1988)
『日中アヘン戦争』岩波新書。
木村光彦・安部桂司(2003)
『北朝鮮の軍事工業化』知泉書館。
木村光彦・安部桂司(2008)
『戦後日朝関係の研究』知泉書館。
金洛年編(2008)
『植民地期朝鮮の国民経済計算』東京大学出版会。
久万楽也編(1960)
『麻薬物語』井上書房。
小島優編(1989)
『日中両党会談始末記』新日本文庫。
塚瀬進(1998)『満洲国』吉川弘文館。
バード、I.(2003)『朝鮮紀行』講談社学術文庫。
マディソン、A.(1990)『20世紀の世界経済』東洋経済新報社。
森田芳夫(1968)
「戦後における在日朝鮮人の人口現象」
『朝鮮学報』第47
号。
李正煕(2012)『朝鮮華僑と近代東アジア』京都大学学術出版会。
山本有造(2003)
『「満洲国」経済史研究』名古屋大学出版会。
脇田憲一(2004)
『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』明石書店。
(きむら
みつひこ
©2016 Institute of Statistical Research
青山学院大学国際政治経済学部教授)