国家と社会 - 統計研究会

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国家と社会
―東アジアの近世―
岸本
美緒
時代区分としての「近世」
「古代」
「中世」
「近世」
「近代」
「現代」などの時代区分用語は、歴
史学界のみならず、中学や高校の歴史教科書でも一般に用いられて
おり、多くの人々にとって耳慣れたものであろう。ただ、時代区分
の仕方は、国によって異なり、同じ用語を使っていても、共通の基
準があるとは限らない。時代区分の方法には客観的な正解はないの
で、便宜的に古い時代から適当に「古代」
「中世」などと名前をつけ
ていけばよいという考え方もあるが、グローバルな地域間比較の観
点からいうと、たとえばヨーロッパ史で一般に中世と称される時代
(西ローマ帝国の滅亡からルネサンスまで、5 世紀から14・15世紀
ころ)と日本で一般に中世といわれる時代(平安末期から戦国時代、
11世紀ころから16世紀)とは大幅に時代がずれており、なぜこれほ
どずれているのに両方とも「中世」という同じ名称で呼ばれるのか
を説明する必要が出てくる。
この問題を説明するには、おおむね二つの方法が用いられてきた
といえよう。一つは、国家や社会・経済などのあり方の「共通性」
を基準とするものである。その際にもっぱら基準とされたのは、ル
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ネサンス以降一般的になってきた「古代」「中世」「近代」の三区分
に基づくヨーロッパ史のモデルであり、古代については、都市国家・
帝国・奴隷制、中世についてはフューダリズム(主君が臣下に封土
を与え、臣下は主君に軍役奉仕するという形の主従関係)・農奴制、
近代については中央集権・国民国家・資本制・民主主義・科学技術
の発達、等の特質が指標とされた。日本中世の例でいえば、20世紀
初頭の日本の歴史学者は、平安末期以降の武士の時代にヨーロッパ
のフューダリズムと類似した状況を発見し、これを「中世」と名づ
けた。一方、日本の中国史研究者は同じころ、唐代末期から宋代初
期( 9 ∼10世紀)の国家・社会の変化にヨーロッパのルネサンス時
代と類似した中央集権化、都市・商業の発展、学問の刷新、といっ
1)
た特質を見出し、宋代以降の中国を近世 とする説を唱えた。第二
次大戦後、ヨーロッパにおける生産様式の発展モデルを基礎とした
マルクス主義の「世界史の基本法則」論が日本の学界で大きな影響
力をもつと、生産様式の「共通性」に基づいて時代区分しようとす
る動きが強まり、時代区分論争が盛んに展開された。
もう一つの時代区分の論理は、さまざまな地域が結びついて形成
する「システム」を基準とするものである。典型的な主張は、I・ウ
2)
ォーラーステインの「近代世界システム論」に見られるが 、ここ
で彼が「近代」の指標とするのは、それぞれの地域の国家や社会の
性格が「近代的」すなわち中央集権的であったり資本主義的であっ
たりすることではなく、その地域が16世紀以降成立・拡大してきた
世界システム―欧米の中核国家群を頂点として周辺地域がそれに
従属し、周辺から中核へと富が吸い上げられるシステム―に組み
込まれているかどうかということである。奴隷制であれ農奴制であ
れ、それが中核国家の資本主義経済と結びつき、その繁栄を支えて
いるならば、それは「近代世界システム」の一部分なのである。
上記の二つの時代区分の方法は、それぞれに難点をもつ。
「共通性」
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基準の場合は、ある時代を特色づけるとされるいくつかの指標がた
またまぴったりとあてはまればよいが、そうでない場合も多い。た
とえば中国の宋代以降をみると、中央集権的国家体制という点では
「中世」よりも「近代(近世)」に近いといえるが、主要産業たる農
業の生産のあり方をみると、資本主義的ではまったくなく中世農奴
制に近い、とする見解があり、
「近世」論者と「中世」論者との間で、
1950∼60年代に活発な論争が展開された。一方で、「システム」基
準の場合は、
「システム」に統合されていない地域をどのように時代
区分するかということは関心の外にあるので、
「システム」を超えた
時代区分の方法を構想することは難しい。したがって、本稿の表題
で用いている「近世」という言葉も、なかなか簡単には用いられな
い言葉なのである。
動乱から新しい秩序形成へ
本稿では、16世紀から18世紀の東アジア三国―中国・朝鮮・日
本―について、日本史で常用される「近世」という言葉を借用し
ているが、その理由は、これら諸地域の社会に「共通性」が見られ
るということではなく、またこの三者の間に緊密な「システム」が
成立しているということでもない。ここで注目したいのは、この時期
の東アジア諸地域が、16世紀の初期グローバリゼーションの生み出
した同じ衝撃のなかで変容を迫られ、類似の課題と取り組みつつ、
それぞれの社会を多様な形態で再編していったという点である。
16世紀は、世界的な動乱期であった。この時期の動乱の特徴は、
それが単なる武力抗争ではなく、大陸間を結ぶ交易の活発化と密接
に結びついていた点にある。ヨーロッパではこの時期、経済の中心
が内陸から大西洋沿岸へと移動していくが、東アジアでも、中国の
周辺地域で商業ブームが起こり、貿易の利益をめぐる激しい抗争の
中から、新興の軍事政権が生まれてくる。中国東北で勢力を伸ばし
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た女真人(満洲人)3)の政権は、その一つである。女真人はもとも
と、狩猟採集を主要な生業とする人々で、14世紀にはじまる明の時
代には、明の支配下で部族ごとに朝貢を行っていた。しかしその後、
16世紀の商業ブームのなかで、特産の薬用人参や毛皮のもたらす利
益をめぐって部族間の抗争が激化してゆく。その抗争の中で頭角を
現したヌルハチは17世紀初めに女真諸部族を統一し、その死後に国
号を「大清」とした満洲政権は、1644年、明の滅亡を機に中国本土
に侵入してほぼ全土を占領した。
満洲政権の統一過程を日本の織豊政権のいわゆる「天下統一」と
比較してみると、そこには多くの共通点が認められる。いずれもも
ともと明朝に朝貢していた周辺国家であること。軍事勢力の割拠す
る状況であったこと。16世紀に貿易が活発化し、急激な商業ブーム
を迎えたこと。その中で軍事勢力相互の抗争が激化し、有力なリー
ダーによって統一が行われたこと。さらに統一後の状況を見ると、
豊臣秀吉が中国支配をめざして行った朝鮮出兵が失敗してから約
40年後、清朝は朝鮮を屈服させて朝貢関係を結び、また中国支配を
も実現させた。片や失敗、片や成功ではあるが、満洲の統一政権と
日本の統一政権との同時代性および志向の共通性を窺うことができ
るだろう。日本では1603年に江戸幕府が成立して265年存続し、中
国では、1644年の清朝による占領後、その統治は267年続いた。す
なわち、16世紀後半の動乱の中で覇権を握った中国周辺部の二つの
新興軍事政権は、17世紀前半にその基盤を固め、その後二百数十年
にわたる長期の支配を開始することになるのである。
17世紀は、戦闘集団として拡大してきたこれらの政権が、安定し
た統治秩序の確立に向けて舵を切っていく試行錯誤の時代であっ
た。その直面した課題とは、たとえば、次のようなものである。第
1に、民族・宗教と国家統合の問題。これらの新興政権は、世界的
交易ブームの刺激を受け、様々な出自・宗教・文化をもつ人々の入
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り混じる周縁・海域世界を舞台として成長してきた。とすれば、新
たな国家統合を行っていくに際して、国家形成過程から引き継がれ
た国内の民族的・宗教的多様性をどのように処理していったらよい
のか。第 2 に、身分・社会団体と政治秩序の問題。戦争の時代には、
有能なリーダーのもとに忠誠を誓う戦闘員が集まって一心同体とな
って戦い、実力による下剋上も日常茶飯事であったが、平和な時代
には、身分の上下や社会団体の編成を明確にして、社会の安定化を
図らなければならない。とすれば、どのような形で新たな秩序を作
っていくのか。
清朝と徳川政権、そして日本と清朝による侵略を経て秩序の立て
直しを図る朝鮮が直面していたのは、これら共通の課題であったと
いえる。しかし、以下に見るように、それらの課題に対するそれぞ
れの回答は、大きく異なっていた。ここでは、それらの回答のうち
どれが先進的であり、どれが後進的であるということよりも、これ
らの地域の人々が同時代の共通の課題に直面してそれぞれの回答を
模索した、という点に注目したい。つまり、中国や朝鮮の人々が17
世紀に直面していた問題は日本「近世」の人々が取り組んだ問題と
共通であったという観点から、これらの問題が発生し、その回答が
模索され、それぞれに個性的でありながらも一応の解決をみた一サ
イクルの時代を、「近世」という語で表現することとしたい。
エスニシティと国家統合
まず、民族・宗教と国家統合という点から、清代中国と徳川日本、
および朝鮮を比べてみよう。清朝は満洲人によって建てられた王朝
ではあるが、1644年に中国に侵入する以前から多民族的性格をもっ
た政権であった。清朝政権が成長した中国東北の辺境地帯では、女
真人、漢人、モンゴル人、朝鮮人など様々な文化・言語を持つ人々
が入り混じって交易を行っていた。ライバル集団や明朝の軍隊と戦
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って勝ち抜いていくためには、戦闘能力にたけ新式の武器をもつモ
ンゴル人や漢人の集団をも必要とあらば政権の内部に取り込んでい
くことが必要であった。ヌルハチは複数の言語を操ることができた
といわれ、またヌルハチの後継者であるホンタイジが即位した際に
は、その儀式は、満洲・モンゴル・漢それぞれから、それぞれの言
語で即位要請の上奏文が奉られるという形で行われた。
中国本土に侵入した後、清朝は圧倒的多数の漢人を支配すること
となったが、それは清朝の拡大の終点ではなく経過点に過ぎなかっ
た。18世紀になっても清朝の版図はさらに拡大していき、18世紀半
ばに最大となったその領域には、外モンゴルやチベット、東トルキ
4)
スタン(新疆) が含まれていた。多くの民族を包含して拡大を続け
てゆく清朝の国家統合のあり方は、外部との接触を制限して「内向
き」の国家統合を目指した日本や朝鮮とは対照的なものであった。
ただし、こうした拡大志向は、
「多様な民族をどのようにして満洲
政権のもとに服従させていくのか」という難題を生み出す。特に、
人口の圧倒的多数を占める漢人は、自らの文明を世界の中心と見な
いてき
し、その文明に浴さない周辺民族を野蛮な「夷狄」として蔑視する
華夷思想を受け継いできた人々である。彼らから見れば、言語・風
俗の異なる辺境出身の満洲人は、いかに有能であろうとも「夷狄」
であることに変わりはない。この問題に対する清朝支配者の対応に
は、いくつかの型があった。一つは、満洲皇帝自身が、国家を形成
する様々な民族の文化を高度に体現することによって、それぞれの
民族の支持を受けるという方向である。たとえば、17世紀後半から
18世紀初めに在位した康熙帝は、儒学をはじめとする漢人の学問・
芸術において漢人知識人をしのぐ能力を身に着けるとともに、満洲
人・モンゴル人の誇る武芸にも熟達することによって、それぞれの
民族の支配者たる資質をアピールした。康熙帝の孫の乾隆帝も、中
国の文芸のパトロンであるとともに武芸にも力を入れ、またチベッ
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ト仏教の熱心な保護者としてこれを後援した。もう一つの方向は、
華夷思想の解釈替えによって、「華」「夷」という語に含まれる価値
観念を払拭させるという方向である。康熙帝を継いだ雍正帝は、
「わ
が王朝は夷狄の名を忌避するものではない」と宣言した。彼によれ
ば、「華」「夷」とは内地出身か辺境出身かという出身地の違いにす
ぎないのであり、人としての道徳性とは関わりがない。言語や風俗
とは無関係に、天は仁義の心を持つ者を助ける。現に清朝がこのよ
うな広大な領土を支配しているということは、天命を受けた清朝の
支配の正当性を示すものである、とするのである。このように、清
朝は、多様な民族を包含する多文化的な状況の中に、支配の正当性
を見出そうとしていたといえる。
一方、民族問題に関し日本が選択した方向は、清朝中国とは対極
に立つものであった。海外との交流が盛んだった江戸時代初期に
は、日本でも漢人や朝鮮人を含む「諸民族雑居」の状況が見られた
が、17世紀30年代を境にその雑居状況は急速に消滅していく。そう
した閉鎖的な傾向は、日本人の海外渡航禁止などを定めたいわゆる
「鎖国令」やキリスト教徒に対する厳しい弾圧といった問題にとどま
らず、外国人との婚姻や混血児に対する嫌悪感としても現れる。日
本に止まりたい外国人は、言語や風俗の面でも日本人化することが
求められ、日本という国の内と外には、はっきりした境界線が引か
れることとなった。
このことは必ずしも日本が周辺諸国とまったく関係を絶ったとい
うことではなく、長崎でのオランダ・中国との交易のほかに、琉球
を通じての中国との関係、対馬を通じての朝鮮との関係、松前を通
じてのアイヌとの関係、などが存続したことは、よく知られている。
朝鮮・琉球・オランダなどの使節の行列は、将軍の国際的な権威を
示すものとして演出された。徳川政権は、自らを中心とするもう一
つの華夷秩序を作り上げようとしたのである。しかしその秩序像は、
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外部の情報から相対的に遮断された日本という限られた範囲でのみ
成り立つ、内向きの世界像であった。
朝鮮は、1627年と1636年の 2 度、満洲政権の侵略を受けて清へ
の臣属・朝貢を誓約させられた。この事件は、豊臣秀吉の朝鮮侵略
に比べて実質的被害は軽かったが、従来夷狄と見なして軽視してき
た女真人に屈従を強いられた衝撃は大きかった。その後、明が滅び
清が中国本土を征服すると、朝鮮の知識人の間では、夷狄の支配下
に入った中国はすでに中華ではなく、朝鮮こそ中華文明の継承者と
して清朝より文明的に優位に立つとする、
「小中華」思想が高揚する
こととなった。
朝鮮は、清朝に朝貢しつつも、清朝と異なり中華的儀礼風俗を純
化することによって、国家統合の基礎となる民族的なアイデンティ
ティを保持したのである。日本においても朝鮮においても、この時
期、中国の影響力から離れ、自らを中心とする意識に基づく新たな
国家の枠組みが作られていったといえる。しかし、日本の場合、そ
の中心性は、武力の強さや日本古来の神の加護、あるいは万世一系
の天皇といった日本独自の価値に支えられる場合が多かったのに対
し、朝鮮の場合は、中華文明との一体化によってその中心性を証明
しようとした点に特徴がある。東アジアの諸国家は、それぞれ独自
の方法で従来の華夷思想を解釈替えし、国家的アイデンティティを
構築するとともに、政権の権威を高めようとしたのである。
社会集団と身分秩序
16世紀の東アジア諸地域をゆるがせた経済活動の活発化、社会の
流動化は、往々にしてこれら諸地域の為政者や知識人によって、旧
来の秩序の崩壊という切迫した危機感をもってとらえられた。17世
紀は、それぞれの地域において新たな秩序形成の模索が行われた時
期であり、税制など国家の統治政策から家・村落といった社会の基
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層的編成、さらに思想界の諸潮流に至るまで、社会の多様なレベル
における秩序化の動きは、相互に絡み合いつつ、それぞれの地域特
有の社会のあり方を定着させていった。ここでは特に、家と身分の
問題について中国、朝鮮、日本を比較してみよう。
同じ「家」という漢字を当てても、日本のイエ、朝鮮のチプ、中
国のチアなど、それぞれには無視できない意味の違いがある。近世
日本のイエ観念の特徴は、イエと職業・社会的地位が密接に結びつ
いていたことである。武士のイエに生まれた者は武士としての身分
と職を継ぎ、百姓のイエに生まれた者、町人のイエに生まれた者も
それぞれその職業と身分を継承する。それぞれの階層の中にも、ま
た細かい区別がある。むろん、身分間の移動がまったく不可能だっ
たわけではないが、徳川政権のもとでは、こうしたイエの集合とし
て社会を編成する原則がつくられ、それによって、秩序の安定化が
図られたのである。
その対極をなすのが、中国の漢人の社会である。中国の帝政時代、
特に宋代以降は、皇帝に連なる宗室などを除き、血縁関係によって
官職・身分が世襲されることは稀であった。中国社会の支配層と見
なされる官僚・紳士(紳士とは一般に、科挙資格保有者や官僚経験
者をいう)の地位は、科挙に合格することによって個人が得るもの
であって、家(血筋)に付着したものではない。官僚・紳士と庶民
との間には厳然たる差別があるが、それは、その家系に生得的に付
着したものではなく、むしろ人々が努力して身につけた能力による
差別とされるのである。同じ家に生まれた兄弟が、その能力に応
じ、ある者は官僚に、ある者は農民に、ある者は商人になるといっ
たことは、中国の漢人社会では、正常な状況と見なされた。
清朝統治のもとで、このような漢人社会の性格はどのように変化
したのだろうか。清朝政権の中核をなす支配層は、満洲人および中
国本土占領前から清朝に服属していた漢人やモンゴル人の集団であ
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り、彼らは「八旗」という組織に編成されていた。この「八旗」は、
世襲的身分集団であり、国家から給与を受ける代わりに、農業や商
業など一般の職業に就くことを禁止されていた。一方で、漢人社会
について見ると、清朝は、明朝など過去の漢人王朝にも増して、自
由な階層移動を促進する政策を取った。清初には、戸籍により職業
や身分(賤民など)を固定化する制度が一部に残っていたが、それ
も雍正帝の時代に撤廃された。このように、清朝の統治体制は、世
襲的身分集団を支配層の中核としつつ、人口の大部分を占める漢人
社会については階層的流動化を積極的に容認するという、複合的な
システムをなしていた。
近世日本と清代中国の漢人社会との中間的な性格を示しているの
が、同時期の朝鮮である。この時期に特権階層として定着してきた
やんばん
朝鮮の士族(両班)についてみると、両班の家は、近世日本のイエ
のように法制的に固定化された世襲の身分を持っているわけではな
い。といって、個人の地位は生まれた家とは無関係に科挙などで認
定された個人の能力によって決まるというものでもなく、両班の家
に生まれたということ自体が、特権階層としての社会的認知を受け
る資格となる。両班の基準は曖昧であり、科挙の合格状況や士族的
な生活スタイルなどを総合的に勘案して地方社会で両班として認知
されれば、その家は両班ということになるのである。このような両
班の身分としての曖昧さが、儒教的規範の厳格な遵守によって両班
の格を守り、社会的認知を取り付けようとする朝鮮両班独特の努力
を生み出していたといえよう。前述した「小中華」思想とも相まっ
て、儒教的儀礼は朝鮮社会の隅々に浸透し、その遵守が社会的威信
の基礎となるような朝鮮特有の伝統社会のあり方を作り出していっ
た。
われわれが「伝統社会」としてイメージするそれぞれの国家・社
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会の特質は、
「近世」の諸課題に直面してそれぞれの地域の人々が解
答を模索した結果として形成されたものである。19世紀以後、東ア
ジアの国家・社会のあり方は大きく変容していくが、今日でもわれ
われは、他国の人々の国家観・社会観の中に、そうした個性的な「伝
統社会」の片鱗を垣間見ることがあるのではなかろうか。
〈註〉
1)20世紀初頭の当時には、「近世」と「近代」はいずれもmodernの訳語
として用いられ、特に区別されていなかった。
2)I.ウォーラーステイン(川北稔訳)
『近代世界システム』Ⅰ・Ⅱ、岩
波書店、1981年。
3)ジュシェン(女真)人は、1636年に国号を「大清」とし、その前後に、
民族の自称をジュシェンからマンジュ(満洲)に変更した。
4)18世紀半ば、乾隆帝は西北のジュンガルを滅ぼして東トルキスタンを
平定し、
「新しい領土」という意味でそこに「新疆」という名称を与え
た。
(きしもと
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みお
お茶の水女子大学教授)