式子内親王の研究 - 원광대학교 홈페이지 CMS

式子内親王の研究 - その詠歌環境と詠風
呉 栄 植 | 円光大*20)
<목 차>
1. はじめに
2. 式子内親王の詠歌環境
3. 式子内親王の詠風
(1) 式子内親王と『新古今和歌集』
(2) 式子内親王と「ながめ」の歌
(3) 式子内親王と玉葉·風雅両集
4. むすびに
1. はじめに
式子内親王が生きた時代(1152?~1201)は、まさに戦乱の世であった。保
元の乱(1156)では、叔父である崇徳天皇が讃岐に流され、平治の乱(1159)以
降、平氏が政治の全面に登場するのである。さらに、治承三年(1179)には、
平清盛によって、父後白河院が幽閉されるという事件も起こる。そして、勢
力を誇り、驕りたかぶる平氏に対して反発する勢力が集まり、治承四年
(1180)源頼雅を先頭にする源氏が、式子内親王の兄以仁王を奉じて兵を挙げ
るが、宇治橋の合戦で以仁王は戦死する。その後、一谷の戦(1184)、壇ノ浦
の戦(1185)と源平の争いが激しく続き、結局平氏は全滅し、やがて日本最初
* 원광대학교 일어교육과 강사.
151
式子内親王の研究 の武家政権である鎌倉幕府が開かれたのである。このように、激しい動乱の
時代の中で、式子内親王は平家の興亡盛衰を見聞きし、またその動乱に巻き
こまれて不幸な境遇に陥っていく近親者をもち、世の無常やはかなさを痛感
したことであろう。単に式子内親王だけでなく、公家や歌人たちもなすすべ
もなく滅びていく王朝時代、新しく台頭した武家政権を受け入れるしかな
かった。そのような中で王朝文学、いや代表的な王朝文化の一つである和歌
の創作により励んだといえよう。つまり、この時代は和歌の世界においては
新しい創作が無限に生まれる可能性を秘めた時代であったのである。それに
より、『新古今和歌集』の主要歌人である西行·慈円·定家·家隆などの優れた
歌人たちが生まれた。式子内親王もそのような時代に育った歌人の一人で、
その時代と時代の詠風にどんな風に影響されながら自らの歌を詠んだのであ
ろうか。
そこで、本稿では式子内親王の生涯を簡略に紹介しながら詠歌環境を探っ
てみた上で、従来からその評価において一定していない新古今歌人としての
式子内親王について考察を試みてみたい。また「ながめ」を用いた歌、京極
派の歌風に通じる歌などを通して、式子内親王の周辺環境や時代背景、また
人生経験などの詠歌環境が、その和歌の世界にどのように影響を及ぼしたの
か、そして、式子内親王の和歌が新古今から玉葉·風雅へと移行していく中世
和歌史の中で、どのように位置づけられるのかを考察してみたい。
2. 式子内親王の詠歌環境
式子内親王の生年は、中山忠親の日記『山槐記』の記事1)により「院第
三女」であると知られるのみで、未詳である。父は後白河院、母は大納言従
三位藤原季成の娘成子2)で、同腹の兄弟に、守覚法親王、以仁王、殷富門
院、好子内親王、休子内親王がいる。それで同腹兄弟の系図3)や出生年を調
1)『山槐記』増補史料大成26-28所収、永暦二年四月十六日条、臨川書店、
1993年。
2)『本朝女后名字抄』群書類従第二十九輯、雑部巻第五百八所収、続群書類従完
成会、1959年。
152
오영식
べて推測してみると、その生年は仁平二年(1152)から久寿元年(1154)の間と考
えられる。
平治元年(1159)十月に、式子内親王はわずか六、七歳で三十一代賀茂斎
院となり、嘉応元年(1169)七月に病気のため退下するまで十一年間にわたっ
て奉仕した。斎院を退下した後、三条高倉の母と兄以仁王と同居し、高倉
宮4)と呼ばれた。その後父後白河院の法住寺殿内の萱御所に移ったので萱斎
院と呼ばれる5)。養和九年(1181)の頃には、御子左家の藤原俊成、定家父子が
御所に出入りしており、式子内親王は俊成に師事し、歌道に親しまれていた
ことが察せられる6)。
建久二年(1191)年、八条院とその猶子の姫宮(以仁王の娘、式子内親王の
姪)を呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去を余儀なくされた7)。
また、建久八年(1197)三月には蔵人橘兼仲夫妻と僧観心の陰謀事件8)がおこ
り、式子内親王はこの事件に巻き込まれることになる。この事件については
『愚管抄』「土御門の条」に記されており9)、それによると、兼仲の妻に故
後白河院が憑いて、「我を祝へ、社をつくり、国よせよ」などと言ったとい
うことで、その関係者は処罰されている。式子内親王もそのことに同意して
いたとして洛外に追放されそうになったが、取りやめになった10)。この事件
は式子内親王にとってつらい出来事であったであろう。そして、式子内親王
は出家し、法名を承如法と称するようになる11)。正治元年(1199)五月頃よ
り、身体の不調が見られるが、それについては藤原定家の『明月記』に簡潔
3)『皇胤系図』続群書類従第五輯上、第百六所収、続群書類従完成会、1959年。
4)『明月記』治承五年正月三日条、図書刊行会、1987年。
5) 注4)に同じ。
6) 前掲『明月記』に散見。
7) 前掲『明月記』建久二年八月廿二日条、「故斎院御八条殿之間、依思御付属事、
奉咒詛此姫宮並女院、彼御悪念為女院御病之由、種々雑人狂言、依之斎院漸
無御同宿」参照。
8) 後白河院の霊が託宣をしたと偽り、夫婦共に流罪となった。
9) 日本古典文学大系86、島原市公民館蔵本、岩波書店、1967年。
10)『皇帝紀抄』群書類従第三輯所収、巻第三十五、後鳥羽院の建久八年三月条
参照、続群書類従完成会、1960年。
11)『本朝皇胤紹運録』群書類従第五輯所収、巻第六十による。群書類従完成
会、1954年。
153
式子内親王の研究 に記されている12)。年末にかけてやや重くなったようで式子内親王の病弱な
様子が記されている13)。正治二年(1200)には、一時病気も回復されたよう
で、後鳥羽院の求めに応じて「院初度百首」、「三百六十番歌合」に出詠し
ている。そして九月頃に、弟君高倉天皇の孫である春宮、後の順徳天皇を猶
子としている。しかし、その後ほどなく病状が悪化されて建仁元年(1201)一
月二十五日没している14)。
以上の式子内親王の生涯をその詠歌環境という側面からみると、まず歴
史的に、保元·平治の乱、その後の平家の盛衰、様々な天災、鎌倉幕府の登場
など、平安末期から鎌倉初期にわたる内乱と暗黒の動乱期に生きた皇室出身
の一人の女性として、この内乱の世、動乱期という時代背景が、式子内親王
の和歌に投影されているだろうということは当然予測されることである。
次に、特に注目しておきたいことは、式子内親王が生まれながらもった
自らの境遇である「皇胤」としての生活と、それ故に若き日の十一年間を神
に仕えながら生活した「賀茂斎院時代」である。前述のように式子内親王は
平治九年十月、わずか六、七歳で斎院となり、十一年間賀茂神社で奉仕し
た。つまり当時の女性が少女から結婚適齢期の大人へと成長する最も感受性
の豊かで感覚の敏感な時期を斎院として生活したのである。今の思春期とい
える長い青少年期の斎院生活は、後の式子内親王の人間像、あるいは和歌の
自然描写などを論じていくためのポイントにもなるといえよう。なお、『賀
茂斎院記』15)の式子内親王の項には「能二倭歌一」の記事がみえる。賀茂斎
院三十五代のうち、「能二倭歌一」に類する記事は十六代の選子内親王の項
の「善二詠倭歌一」以外にはなく、式子内親王の詠歌活動は既に斎院時代か
ら始まり、しかもかなり評価されていたことがわかる。
前斎院が退下した後、どのような生活を送っていたかについて詳しい史
料の残る例は少ないが、恐らく殆どは前斎院であっても通常の内親王や女王
とさほど変わらない生活を送っていたものと思われる。結婚についても完全
に禁じられていたわけではないが、やはり天皇·皇族以外の相手との結婚は望
12)
13)
14)
15)
154
前掲『明月記』正治元年五月一日条, 四日条, 十二日条参照。
前掲『明月記』正治元年十二月四日条参照。
前掲『明月記』建仁二年正月廿五日条参照。
群書類従第四輯所収、群書類従完成会、1953年。
오영식
ましくなかったとみられ、臣下と結婚した例は極めて少ない16)。式子内親王
もこのような事情はよく知っていたとみられることから、斎院を退下した後
も結婚は難しいということを感じていたのかも知れない。式子内親王の「忍
恋」の歌はひたむきな慕情からみて対象があると思われ、古来定家がその対
象とされてきた17)が、現在は法然上人という主張18)もある。対象が誰であ
れ、皇室の女性としてのプライドをもつが故に忍び、堪えるしかなかった式
子内親王の立場が恋歌の詠歌環境になっているということは明らかであろ
う。
ところで 、式子内親王が自ら斎院の頃を回想しながら詠じた歌 19)があ
20)
る 。
賀茂のいつきおり給て後、祭のみあれの日、人の葵を奉りて
侍りけるに書きつけられて侍りける 前斎院式子内親王
神山のふもとになれし葵草引わかれても年ぞ経にける
(千載集夏歌·147)
斎院に侍りける時、神だちにて 式子内親王
忘れめや葵を草に引きむすびかりねの野べの露の曙
(新古今集夏歌·182)
いつきの昔を思ひ出でて 式子内親王
時鳥そのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ
(新古今集雑歌上·1486)
三首ともに斎院時代への懐古の情の強さが伺われる。特に「忘れめや」の
歌や「時鳥」の歌では、葵で飾った斎館に草枕を結び旅寝をした露を帯びた
野の曙の景色、あるいは神館で旅寝をした時時鳥がかすかに鳴いた空といっ
16) 前斎院のうち天皇と結婚したのは、15代尊子、17代馨子、22代篤子内親王の3
人であり、臣下との場合、13代韶子、18代娟子内親王の二人である。23代か
ら最後の35代の前斎院は結婚していない。
17) 前掲『明月記』治承五年正月三日、同年九月二十七日条参照。
18) 石丸晶子『式子内親王伝』22頁など散見、朝日新聞社、1991年。
19) 歌本文の引用はすべて『新編国歌大観第一巻~第五巻』所収本の本文に拠った。
ただし、本文の表記は私意による。角川書店、1983年~1986年。
20) 以後、勅撰和歌集の歌集名は次のようにも表記する。例)『新古今和歌集』→
新古今集。
155
式子内親王の研究 た情景を忘れることはできないと詠んでいる。しかし、ここで忘れることが
できないのは情景だけではないだろう。その情景の中にいた、その時の自分
自身の感情や想いといったものも、忘れない懐かしい想い出となっている筈
である。
3. 式子内親王の詠風
(1)式子内親王と『新古今和歌集』
式子内親王の歌は、その家集である『式子内親王集』によってみること
ができる。『式子内親王集』は三種の百首歌と勅撰集中の歌で家集にないも
の六十余首とから成る。さらにこの家集のほかに、三百六十番歌合にある歌
で家集にも勅撰集にもない歌等を合わせて、現存している総歌数は四百十余
首となっている21)。
式子内親王は従来から新古今を代表する女流歌人として知られ、新古今
集に四十九首、女流歌人としては最も多数の歌が撰入されている。いわゆ
る、定家が好む歌を多数詠じているということであり、後鳥羽院の歌論書
『後鳥羽院御口伝』にも、「近き世にとりては大炊御門前斎院、故中御門摂
政 、吉水大僧正これら殊勝也 。斎院は殊にもみもみとあるやうによまれ
き」22)と記されており、これは新古今の艷風派的な表現態度の一つの特色と
いえる。これらのことから、多くの先学者によって「新古今歌人、式子内親
王」という位置づけは研究され、証明されてきた。谷山茂氏は、『新古今と
その歌人』において、式子内親王について、
もみもみと詠ずることは、たしかに艷風派の表現態度の一特色である。
しかし、前にも述べたように、寂風派の人々が、ひたすらに哀切の心を深
く求めて案じくだくときには、その表現もまた自らにしてもみもみとして
くることがあり得るのである。すなわち、詞をいたわらずしてまたさびた
21) 錦仁編『式子内親王全歌集』参照。桜楓社、1987年。
22)『日本歌学大系』第三巻所収、底本は宮内庁書陵部本、風間書房、1956年。
156
오영식
る寂風と、詞を飾りもみもみとある艷風との区別は容易になし得る。けれ
ども、心をふかく求めるがゆえに、姿をかざるつもりではないが、自らに
またその表現の単純でない寂風と曲折錯綜として複雑な表現をとる艷風と
の区別は、表現の上だけからはなかなかつけがたい。従って、内親王の歌
の表現がもみもみとあることのみをもって、艷風派としてしまうこともで
きないのである23)。
と述べている。さらに「式子内親王の歌には、皇胤としての『けだかさ』
がその恋歌にさえうかがわれる24)」と指摘し、「内親王の恋歌は妖艶ではな
く『忍恋』であり、けだかくもわびしい恋の歌である25)」と推察している。
内親王である上に斎院でもあり、世間一般の女性とはかけ離れた世界の中で
青春時代を過ごし、さらには戦乱の世という時代背景のもと、心を深く求め
る態度が培われていたのである。
では、具体的に、新古今集より式子内親王の撰入歌を取り上げ、その詠
風を吟味·考察していく。はじめに、谷山茂氏が指摘した「けだかくもわびし
い」という恋の歌について考察してみる。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
(恋歌一·1034)
この歌は『小倉百人一首』にもみえる式子内親王の代表作である。上句
において、忍ぶ恋に対する今にも糸が切れそうなほどに張りつめた内面の激
しさ、自棄的な悲愴な気持ちが美しく表現され、下句ではがらりと雰囲気が
変わり、忍ぶ恋に対する哀しさが表現されている。「玉の緒」は、もともと
は珠をつらぬいた緒、つまり紐のようなものをさすが、ここでは「いのち」
そのものである。忍ぶ恋における極限のところの激しさと哀しさの感情が、
見事に表わされているのである。同様に、心の内に秘めるがゆえに激しくな
る情熱が感じられる歌としては、同じく「忍恋」を詠んだ、
我が恋はしる人もなしせくとこの涙もらすなつげのを枕
(恋歌一·1036)
23)『谷山茂著作集五 新古今集とその歌人』所収、「高風派に属する人々 式子
内親王」154頁、角川書店、1983年。
24) 注23に同じ。
25) 注23に同じ、156頁。
157
式子内親王の研究 を挙げられよう。この歌は、平貞文の、
枕よりまた知る人もなき恋を涙せきあへずもらしつるかな
(古今集恋歌三·670)
を本歌としており、忍んでいる想いの極限に達した時の激しい感情が伝
わってくる歌である。また、せつない気持をしみじみと詠んだ恋歌もある。
忘れては打歎かるる夕べかな我のみしりてすぐる月日を
(恋歌一·1035)
しるべせよ跡なき浪にこぐ舟のゆくへもしらぬやへの潮かぜ
(恋歌一·1074)
「忘れては」の歌では、誰にも知られずに秘めて恋い続ける想いの深さ
をしみじみと詠じており、「しるべせよ」の歌は、藤原勝臣の、
白浪のあとなき方に行く舟も風ぞたよりのしるべなりける
(古今集恋歌一·472)
を本歌として、どうしてよいのかわからない恋路の不安を訴えている。哀
切な余韻のある作である。このようなしみじみとした余韻の残る歌として
は、「まつこひといへる心を」という詞書の、
君待つとねやへもいらぬまきのとにいたくなふけそ山のはの月
(恋歌三·1204)
も同様である。山の端にのぼっている月と、恋人を待つ女性の姿が美し
く、静かで哀感のある歌である。その他にも、
夢にてもみゆらむ物を歎きつつうちぬる宵の袖のけしきは
(恋歌二·1124)
あふ事をけふまつがえのたむけ草いくよしをるる袖とかはしる
(恋歌三·1153)
のように、なかなか逢うことのできない恋人への想いを「夢」や「袖」と
いった艷なることばと重ねて表現している。このように、これらの歌には
「忍ぶ」という感情と、それ故増々激しくなる情熱とが表現されており、そ
こに妖しい艷なる姿を認めることができる。式子内親王は、事実、皇胤ある
いは斎院としての立場上ごく自然な恋愛とは無縁であった。さらに、そのよ
うな境遇によって培われた心の奥深くをみつめる式子内親王の性格が、「忍
恋」の歌をうみ出したものと考えられる。しかし、その忍恋に苦しみながら
158
오영식
もその苦しみを表面に発散させてしまうのではなく、極限のこころでぐっと
堪えている様子が式子内親王の恋の歌には窺えるのである。自らの溢れるば
かりの感情を外に向けず、ひたすらに自分のなかにしまい込んでいく姿は哀
しくせつないものである。感情の発散を極限のところで堪えるという態度
は、谷山茂氏の指摘されている「皇胤としてのけだかさ」からくるものであ
ると考えられるが、それに加え、式子内親王の「皇胤としてのプライド」を
も認めるべきであろう。
十一年間という斎院時代は、生まれながらに備えた式子内親王の資質の
強化と自己変革の時期であり、また、自分自身の立場の「自覚」の時期でも
あった。なぜなら、式子内親王にとっての斎院時代の十一年という年月は、
人間が一生のうちで自己を形成する時期に当てはまるからである。自らの立
場を受容し、認知し、そしてその立場にプライドをもってこそ、感情の発散
を極限のところで堪える態度がうまれるのではないだろうか。そこに「強
さ」を、「気品」を、感じることになるのだ。しかし、また同時に、式子内
親王を一人の女性としてみた場合には、そのようなプライドをもたねばなら
なかった、そしてプライドをもつが故に忍び、堪えるしかなかった女性でも
あるのだ。そこには「せつなさ」を感じることになる。式子内親王の恋の歌
は、そのほとんどが題詠であるが、このような女性であったからこそ、その
歌には「激しさ」、「強さ」、そして「せつなさ」が感じられるのであろ
う。
ところで、新古今集の世界といえば、一言でいって「余情」「妖艶」の
世界である。言葉には直接表現されず、言外に漂っている気分や情調を尊重
する余情と、優美なるものを官能に訴える妖艶の世界である。美しく雅やか
な幻想、あるいは妖艶な情調に浸る思いを、客観的に対象化して表現しよう
とし、そこに象徴的な技法が生じてくる。本歌取によって歌の世界の幅を広
げたり、体言止めによって余情を残す、などといった修辞技巧がその特色と
してあげられる。様々な技巧を凝らして、妖艶な情調を心理的に複雑に構成
させようとするのである。その結果として絵画的、物語的、印象的、象徴的
な傾向の和歌となる。それらのことを踏まえた上で、次に新古今集の中の式
子内親王の四季歌について考察をこころみたい。
山ふかみ春ともしらぬ松の戸に絶々かかる雪の玉水(春歌上·3)
159
式子内親王の研究 この歌は、山が深いので、春が来たともわからない閑寂な松の戸に、絶
え絶えと落ちかかる雪解けの玉水を詠じている。まず、深山→山家→松の戸
→玉水と、遠景から近景への手法がすぐれている。また、山、松、雪、玉水
の色彩感とともに、その色もだんだん清潔になっていくのである。第三句ま
で、「山ふかみ」「松の戸」と、具体的に表現し、下句ではほのかに動きは
じめた春の気配を「たえだえかかる雪の玉水」と、抽象的表現へと転換して
いる作者の新古今調の技巧は見事である。また、この歌はその美意識におい
ても、いわゆる新古今的歌風である「客観的」「叙景的」「色彩感鮮明」
「繊細優美」「妖艶な絵画性」「閑寂で心細い」「余情」など、いくつの美
的情緒に評釈できる式子内親王の、あるいは新古今集の代表作の一つであろ
う。また、
いま桜さきぬと見えてうす曇り春にかすめる世のけしきかな
(春歌上·83)
の歌も、薄曇りの空が、ふと薄っすらと紅がかかったように見えた。式子
内親王の感性には、今、はるばると見渡すかぎりに桜が咲いた、という思い
が写し出されている。その思いが重なって、春の色に霞む素晴らしい眺めが
遠くまで広がっている。新古今調の三句切れの句法で難しい言葉もなく、式
子内親王の美しい感覚が、ゆったりと歌われている。
さて、「うたたね」の歌といえば、小野小町の、
うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは憑みそめてき
(古今集恋歌一·553)
以来、艶なものとされてきた。式子内親王の歌にも、「うたたね」を用い
た作が少なくない。そのような詞は、夢幻的な感じを釀し出す。そして、印
象的な、あるいは象徴的な歌をつくり出すのである。例えば、
窓ちかき竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢
(夏歌·256)
うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋の初風(秋歌上·308)
「窓近き」の歌は、風が吹き、竹の葉がざわめいた音に、短い夢から
ふっと醒めた女性の姿が美しく思い浮かぶ。体言止めにした「うたたねの
夢」に余情があり、歌全体を夢幻的な優美な雰囲気にしている。『和漢朗詠
集』の「夏夜」に撰集されている白居易の七言十二句の中の「風生竹夜窗閒
160
오영식
臥 月照松時臺上行26)」を踏まえており、慈円·定家·雅経·公継など、殊に前
句を踏まえた和歌が多い。また、「うたたねの」の作は、藤原敏行の、
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
(古今集春歌上·169)
を踏まえながら、三句切れ、体言止めの典型的な新古今調の作で、本歌の
「風の音」ではなく、うたた寝した明け方の、扇の風の趣きで、秋のおとず
れを感じたと詠じ、初秋の爽涼感を触覚的に捉えている。新古今集以後の勅
撰集入りの「うたたね」を詠んだ歌を挙げてみると、
袖の上に垣根の梅は訪れて枕に消ゆるうたたねの夢
(新後拾遺集春歌上·51)
夢の内もうつろふ花に風吹けばしづ心なき春のうたたね
(続古今集春歌下·147)
などがある。「袖の上に」の歌は、本歌は、後拾遺集の
わが宿の垣根の梅のうつり香にひとりねもせぬ心地こそすれ
(春上·55·読人不知)
で、和歌では珍しく、「垣根の 梅は 袖に 訪れる - うたたねの 夢は 枕に 消える」と、対句的な技巧を用いている。春のうたた寝。その
夢の中で、袖の上に垣根の梅が訪れて、その瞬間うたた寝の夢は枕に消えた
と詠じているのであろうか。あるいは、その頃はおしゃれに衣服に香を焚き
しめていたので、うたた寝の夢でも垣根の梅の香りがしたので、あの人が訪
れたかなと思いが走った瞬間、その驚きに目が覚めたとも受け取られる。い
ずれにせよ、春のうたたねに、式子内親王の秘めた思いが詠み込まれている
といえよう。続く「夢の内も」の作とともに、うたたねの夢は、はかなさ·や
るせなさを背景に、優艶なものであることが想像させる。「うたたね」は、
前述の小野小町の名歌以来、『源氏物語』などの文学作品を通して、「艶な
るもの」とされてきた。式子内親王は「うたたね」の伝統的な美意識をふま
えながら新古今調を用いて余情の情趣を漂わせている。次に秋の歌を掲げて
みる。
秋の色は籬にうとくなりゆけど手枕なるる閨の月かげ(秋歌上·432)
26)『和漢朗詠集,梁塵秘抄』日本古典文学大系73、岩波書店、1965年。
161
式子内親王の研究 桐の葉もふみわけがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど
(秋歌下·534)
千たびうつきぬたの音に夢さめて物思ふ袖の露ぞくだくる
(秋歌下·484)
「秋の色は」の作は、「うとく」なる籬の秋の色と「なるる」閨の月影
を対照させ、秋の深まりの中の孤閨を詠んでいる。「桐の葉も」の作は、三
句切れにして桐の葉が落ちて「踏み分けがたく」なるまで、相当の時間の経
過が窺がわれる。その間、「人」は訪れなかったのである。余情あふれる秀
歌で、古来式子内親王の代表作の一つと言われている。「千たびうつ」の作
は、かぎりなく繰りかえし打つ砧の音で夢さめて、その夢の悲しさで涙があ
ふれ出て止まらないと詠じている。どんな夢であろうか。余情、優美な歌で
あり、初句「千たびうつ(砧)」は勅撰集にその例がなく新鮮ですばらしい表
現といえよう。なお、このような歌には、さらに清らかで物静かな雰囲気が
感じられる。前述の春の歌「山ふかみ」·「いま桜」の作には、清らかで穏や
かな春の自然の様子がよく表現されているが、冬の歌にも、
日数ふる雪げにまさる炭がまの煙もさむしおほ原の里(冬歌·690)
という歌があり、この歌にも、白い雪の清らかさと静寂、冬の澄んだ寒さ
といったものが感じられる。また、下句「煙もさむしおほ原の里」は、体言
止めにして冬の様子を絵画的·感覚的に捉えているといえる。
このように、式子内親王の新古今集の歌には自然を清らかに静かな心で
捉えて詠みあげている作がかなり多い。それは、斎院として紫野という緑多
い静かで美しい自然の中で暮すことになり、自然に四季の移り変わりの中に
身を置いたからであろう。また、戦乱の人の世とは対照的に自然はいつもの
ように静かに移り変わっていく。それ故、式子内親王の目に映った自然は一
層清新で、美しかったであろう。新古今集の式子内親王の歌は、そのような
自然の景物を妖艶な情調象徴と、本歌取、三句切れ、体言止めなどのいわゆ
る新古今調の特色が自由自在に使いこなされて趣き深く詠まれているといえ
よう。
ところで、斎院時代に養われたであろう自然の移り変わりを敏感に捉え
る感受性と、外に発散させることなく内に秘めた様々な思いの解放を歌に託
した式子内親王の和歌を、単に「新古今」という世界の中だけに位置づけて
162
오영식
よいだろうか。次節より、さらに具体的に式子内親王の歌を取り上げ、後
代、特に京極派との関連性や影響などを考察していくことにする。
(2)式子内親王と「ながめ」の歌
式子内親王の和歌を調べてみると、前述した「うたたね」「夢」といっ
た詞の他に、「ながむ」を用いた「ながめ」「ながむれば」などの詞が初期
作品から晩年にいたるまで三十首も使われていて注目される。そこで『式子
内親王集』より、「ながめ」を用いている歌を調べてみると、部立別には、
春八首、夏五首、秋十三首、冬一首、恋一首、雑二首となっている。これに
より、「ながめ」の用例は四季部がほとんどであり、特に秋の歌に多く用い
ていることが知られる。 そして、 「ながめ」の対象は、 そのほとんどが
「空」「月」「雲」などの自然である。
ところで、「ながめ」の使用法による技巧、形式の面から調べてみる
と、初句に用いている歌が十三首で最も多く、また、そのほとんどが「なが
むれば」となっている。初句に用いられる「ながむれば」は、非常になだら
かで落ち着きもあり、歌全体に、淋しい、あるいは美しい情趣をもそえてい
る。
この「ながむ」という動詞は、現在の意味では単に長い時間、ものをみ
わたすことである。しかし、古典の中における「ながむ」は、物思いに沈み
ながら、はっきりした対象もなくぼんやりと視線を投げているという意味で
用いられている。つまり、単に「見る」という動作の延長での視覚上の状態
を表わしているだけでなく、「物思いに沈む」といった感情、精神状態をも
表わしているのである。また、「ながめ」は歌の中では「長雨」に掛けて用
いられ、「ながむ」と同様、まま深い嘆き、物思いそのものを示す場合もあ
る。このように、「ながむ」が物思いに沈むという趣きで多く用いられてい
るのは古今集からであり、『源氏物語』にもかなり多く用いられている。し
かし中世、特に室町期以降には、視覚上の状態や動作のみを示すようにな
り、『平家物語』ではほとんど、月や空などを長い時間見る意に用いられ
て、現代語ではほぼ同じ意になっている27)。となると、式子内親王は平安末
期から鎌倉初期の歌人であるから、この両者が一体となった「ながめ」で
163
式子内親王の研究 あったといえよう。
式子内親王の「ながめ」の用例が四季部、特に秋歌に多いのは、「秋」
という季節やその情緒と「ながめ」という物思いに沈む精神状態とが式子内
親王にとってよく調和したものであったと思われる。そして、秋の自然や情
緒こそ、皇胤としての気品や斎院時代に培われた清らかさを備えた式子内親
王に、非常によく合致したものであったと思われる。「秋」と言えば何とな
く物思いにふけりがちな季節であることは、現代でも同じである。
この「ながめ」について實方清氏は、「『ながめ』は『あはれ』に根ざ
すもので、情熱が内向したものであり、女性的、静的傾向をもつ」とした上
で、「『ながめ』は激しい情熱の結果ではあるが、それが内攻しているため
に外見は甚だ穏やかな様相を示す。まさしく禁欲抑情の結果の状態である」
と述べている。激しい情熱の内攻というのは、前述の式子内親王の恋歌全般
から強く感じることができた。斎院として神に仕え、俗世間からはかけ離
れ、制限された神聖な世界で発散できなかった式子内親王の人間的な欲求や
感情が、「ながむ」という具体的な形をとって歌に表現されているのであ
る。式子内親王の四季歌には静かで穏やかな美しい自然が描き出されている
とともに、その自然の中でじっと物思いにふけりながら移り行く自然の様子
を見つめている式子内親王の姿が思い浮かべる。
そこで、次に「ながめ」を用いた作のうち優れている歌を挙げて吟味、
考察しながら、式子内親王の歌に託した心境や情趣などを探ってみたい。
ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりの夕暮れの空
(家集301、千載集春歌下·124)
千載集の詞書「やよひのつごもりによみ侍りける」によると、三月晦、
すなわち春の尽きる日に詠んだ歌で、「思ひやる」は「思いを馳せる」「思
いを晴らす」の両義を兼ねている。この歌は後撰集の題知らず、詠み人知ら
ずの歌、
をしめども春のかぎりのけふの又夕暮にさへなりにけるかな
(春下·141)
を本歌取の技法によって踏まえて詠んだ歌で、『伊勢物語』九十一段で
27) 中田祝夫編『古語大辞典』小学館、1984年。
164
오영식
は、
をしめども春のかぎりの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな
と、思う人に逢えぬままに春がいたずらに過ぎてゆくのを嘆く思いで歌っ
ている歌物語にしている。但し、式子内親王は初句に「ながむれば」を用い
て、晩春の最後の日、物思いにふけるさまを余情深く詠じている。その他に
も、式子内親王の和歌には「ながむれば」を初句に置いた歌がかなり多い。
詠むれば月はたえ行く庭の面にはつかに残る蛍ばかりに(家集28)
詠むれば衣手すずし久方のあまの河原の秋の夕暮
(家集38、新古今集秋歌上·321)
ながむれば嵐の声も波の音もふけひの浦の有明の月(家集191)
木の葉(家集)
ながむれば木の間移ろふ夕月夜ややけしきだつ秋の空かな
(家集238、風雅集秋上·444)
はてイ
ながむればわが心さへ程もなく行方もしらぬ月のかげかな(家集151)
以上の「ながむれば」の作は、「空」と「月」を眺めながら、時間の推
移による情景、心の変化を詠じているといえよう。特に、「詠れば衣手涼
し」の作は、まだ星の見えない夕空をながめ、天の川に思いを馳せる、爽や
かな涼感に焦点をしぼった清新な七夕の歌であり、「ながむれば木の間移ろ
ふ」の作は、月光によって木の間の影が、時間の推移にともなう月の移動に
つれて移ってゆく趣きを感覚的に詠じている。
次に、初句以外に「ながむ」を用いている歌を吟味してみよう。
なごり(家集)
くれて行く春ののこりを詠れば霞の奥に有明の月
(家集118、玉葉集春下·286)
久方の空行く月に雲消えてながむるままに積もる白雪(家集150)
更くるまでながむればこそ悲しけれ思もいれじ秋の夜の月28)
(新古今集秋歌上·417)
以上の三首は、叙景歌、もしくはどちらかというと叙景歌といえよう。
「くれて行く」の歌は、春が過ぎようとしている自然の中に身をおいている
式子内親王の姿と、霞の果ての夜明けの月がよく調和して、美しい夕暮れの
28) 家集には見えない。前掲『式子内親王全歌集』の補遺にみえる。
165
式子内親王の研究 爽やかな情調が漂っている。「久方の」の作は、「前小斎院御百首」の秋の
歌で、大空を行く月をじっと眺めていると、月にかかっていた雲がいつの間
にか消え、月の光が地上をさして、地面がまるで白雪の積もったようである
と、「雲」と「月」と「地面」の動きを時間の推移によって感覚的に詠じて
いる。「更くるまで」の作は、秋の月の哀れにひかれて夜更けまで眺めて、
寂しさと悲しさに耐えられなくなった心境を詠んだ余情のある歌で、叙景を
眺める推移によって趣きが叙景から抒情へと変わっていく。藤原清輔の、
今よりは更けゆくまでに月は見じそのこととなく涙落ちけり
(千載集雑歌上·994)
と趣きが似ている。あるいはこの歌をふまえて詠んだのかも知れない。
次の三首は、どちらかというと抒情的な歌であろう。
ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅は我を忘るな
(家集209、新古今集春歌上·52)
おもほえずうつろひにけりながめつつ枕にかかる秋の夕露(家集43)
時鳥鳴きつる雲をかたみにてやがてながむる有明の空
(家集224、玉葉集夏·332)
まず、「ながめつる」の作では、物思いにふけっている今日という日が
昔という過去になっていく日々の時の流れがはっきりと感じられる。時間の
流れの中で静かに自然と向き合っている作者の孤独でこころぼそい姿が浮か
び、哀感のある余情が感じられる。「おもほえず」の歌は、自分では気がつ
かないうちに、心が秋の色に変わってしまい、秋の夕べの寂しさに知らず知
らずに枕を濡らしている心情を詠じている。「ながめつつ」という表現は、
じっと物思いにふけって眺めている様子を端的に表しており、やはり時間の
推移により歌の趣きが一層深くなっているといえよう。「時鳥」の下句「や
がてながむる有明の空」という表現は、物思いにふけりながら空を見つめて
いると、いつの間にか時間が過ぎ、夜が明けて明るくなってきた空の様子を
詠じている。時鳥の声のした方に浮かぶ雲を忍ぶべき人の記念としている。
過ぎていく時間の中では、自らの想いも「記念」という過去のものとしてい
く。人間の心の中の様々な物思いの感情とは関係なく時は過ぎ、必ず夜は明
け、次の日の朝がやってくるのである。そして、四季もまた移り変わってい
くもののである。そのような時間の推移を、式子内親王は自らの心を深くみ
166
오영식
つめる態度を持っていたからこそ、しっかりと捉えられたであろう。次の二
首は本歌取の歌である。
秋風(新古今)
それながら昔にもあらぬ月影にいとどながめをしづのをだまき
(家集53、新古今集秋歌上·368)
春風ぞ吹く(家集)
花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる
(家集219、新古今集春歌下·149)
まず、「それながら」の作は、「昔と同じものでありながら、昔とはち
がって感じられる月影、いよいよ物思いにふけって眺め入ってしまった、く
り返し飽きもせず」と通釈される。新古今集では第三句が「秋風に」とある
が、家集の「月影」の方が下句とうまくつり合い、物思いにふけっていく様
子がよく表われていると言えよう。本歌は、
いにしへのしづのをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな
(『伊勢物語』第三十二段)
であり、在原業平の
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
(古今集恋歌五·747)
も参考になったであろう。「花は散りて」の作には、行く春のわびしさ
が、しめやかにふる春雨で象徴的にうたわれている。これは、
暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき
(『伊勢物語』第四十五段)
を本歌としている。恋の歌を春に変え、「そのこととなく」を「花」の縁
で「その色となく」と改めて、花の散った後のさびしさ、むなしさに、重い
病になやむ式子内親王の状況や心境を歌に託しているようである。
ところで、「ながめ」を用いた式子内親王の歌三十首のうち、勅撰集に
十七首29)も撰集されている。つまり、「ながめ」を用いた歌の中で、半数以
上が選ばれており、特に新古今集と玉葉集に多く選ばれていて注目される。
そこで、新古今前後の主な女流歌人たちの勅撰集入集歌を調べてみる
29) 勅撰集別の撰入歌数は、新古今集八首、玉葉集四首、千載集・続拾遺集・続後
拾遺集・新続古今集・風雅集に一集ずつである。
167
式子内親王の研究 と、宮内卿二首、和泉式部六首、俊成女〇首であった。即ち、式子内親王は
他の女流歌人と比較して「ながめ」を用いた歌が多く、勅撰集にも多く撰集
されている。これは式子内親王が「ながめ」の境地を好み、「ながめ」に
よって表現される自然の移り変わりや時間の推移というものに敏感に反応し
たのはもちろん、その眺める対象や移り変わりに、時には心をよせて、時に
は物思いにふける心境を託したのではなかろうか。そうして詠じられた多く
の「ながめ」の歌が、新古今的な作として、また玉葉·風雅の世界に通じる作
として高く評価されたのであろう。
式子内親王はその自らの境遇によって、うちに秘めた激しい感情を心の
奥深くでみつめつつ、自分の内面の様々な物思いとは対照的に季節の変化に
よって静かに移り変わっていく自然を清らかに捉える態度を養われた。欲求
と理性のバランスを崩すことなく、内外による様々な思いを歌にたくして生
きたのである。つまり、「ながめ」の歌は、そのような式子内親王の心情を
具体的な形として表わしたものの一つであり、自然や物事を時の推移によっ
てみつめる歌人としての姿勢を表わすもので、その心情を読み取ることがで
きる歌群と言えよう。
(3)式子内親王と玉葉·風雅両集
式子内親王の位置づけを考察するために、初めて撰入された千載集以下
の勅撰集における式子内親王の部立別の撰入歌数をまとめてみると次の
〈表〉のようである。
168
部 立 別
撰入
歌数
春
夏
7千 載 集
9
1
1
1
8新古今集
49
6
6
12
4
9新勅撰集
14
4
2
10続後撰集
15
2
勅撰集名
2
秋
旅
恋
雑
釈
教
神
祇
2
1
1
1
2
11
6
1
2
1
2
2
1
1
1
8
1
冬
賀
1
1
오영식
11続古今集
9
1
2
12続拾遺集
5
1
2
13新後撰集
5
14玉 葉 集
15
3
15続千載集
2
1
16続後拾遺
5
17風 雅 集
14
18新千載集
3
19新拾遺集
3
20新後拾遺
4
1
21新続古今
4
1
計
156
20
1
1
1
1
1
3
2
3
2
1
1
2
2
1
1
1
4
4
6
1
2
1
1
1
1
1
1
1
1
19
31
2
1
1
1
1
14
4
2
8
34
20
5
1
〈表〉式子内親王の勅撰集別撰入歌数及び部立別入集状況
この〈表〉でわかるように、式子内親王は文治四(1188)年成立した千載集
に初めて九首を撰入されて以来、同じく千載集初出歌人である寂蓮·慈円·藤
原良経·二条院讃岐·藤原家隆·藤原定家らと共に次の新古今集の主要歌人と
なった。その九首のうち、
はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにまよふ夢のかよひち
(千載集恋一·677)
の歌は、すでに新古今集の特色や歌風に近い趣きを漂わせているといえ
る。新古今集の撰入歌数順の主要歌人は、西行94、慈円91、良経79、俊成7
2、式子内親王49、定家47、家隆43、寂蓮35、後鳥羽院33、貫之32、俊成女2
9、和泉式部25、人麿·雅経22、有家·経信19など、当代歌人が多いが、特に式
子内親王の撰入歌数は五番目であり、女流歌人の中では断然多い。
その後も新勅撰集では貫之·西行と共に十四首で、十三人目に多い撰入で
あり、続後撰集でも十五首が撰入され、基俊と共に十五人目である。この両
集については、この当時の新古今風の和歌の世界の勢い·流れであったといえ
よう。しかし、続古今集を経て続拾遺集·新後撰集では各々五首に激減してい
る。ところが、次の玉葉集では撰入歌数が突如十五首と増加し、その後の続
169
式子内親王の研究 千載集·続後拾遺集では再び極端に減り、風雅集においてまた十四首が撰ばれ
てかなり増えている。このように玉葉集·風雅集におけるひときわ多い撰入歌
数は注目すべきであろう。ここに、新古今歌人式子内親王の詠風と玉葉·風雅
両集の世界との接点を推察することができると思われる。
京極派によって撰集された玉葉·風雅両集の世界とは、京極派歌人の目指
す和歌理念であり、詠風であろう。新古今歌風を築いた和歌師範御子左家
が、藤原為家没後、細川庄の所領争いなど遺産相続に端を発して、息子の為
氏(1222~1286)、為教(1227~1279)、為相(1263~1328)が、それぞれ二条·京
極·冷泉の三家に分裂した。為氏を祖とする二条派が歌の家の嫡流として為家
の歌風を継承していったのに対し、為教を祖とする京極派、為相を祖とする
冷泉派は新しい方向を模索しながら二条派と長く紛争を続けたのである。
三家分裂以降、二条派が大覚寺統、京極派が持明院統と結託し、撰集の
沙汰があるたびに、互いに自派の立場を主張し、撰集権を獲得しようと先鋭
に対立した。その結果、紆余曲折を経て京極派が成立させたのが玉葉·風雅集
なのである。
京極派の歌風は「心」を第一として詞に捉われず、客観的な事物に自己を
投入して自然の生命を摑もうとするのである。故に、その歌風は、分裂して
形成された三派の中では最も革新的といえる。大坪利絹は『風雅和歌集論
考』30)の中で、福田秀一氏の「京極派歌風の要点」31)より、京極歌風の特質
を分類、要約している。それによると、
一.題材
⒜ 叙景と抒情をよく分離している。即ち叙景歌は自然の観照に、抒情歌は感情
の観照に、それぞれ徹しているものが多い。
⒝ 光線や明暗の感覚を捉えたものが多く、その中でも薄明(曙や夕暮れ、或い
は霞や雲を通る光、林を洩れ来る光、星の光等)を好んで詠んでいる。
⒞ 色彩感覚の鮮やかな歌も多い。
二.発想
⒜ 風景や感情の時間的な推移や経過を歌ったものが多い。
30)『国語国文学研究叢書』第28巻、桜楓社、1979年、24-25頁。
31)『中世和歌史の研究』角川書店、1972年、416-417頁。
170
오영식
⒝ その結果でもあるが、対象を動的に把握したものがある。
⒞ 対象(自然や感情)やその動きを、対比的、対照的に捉えたものが多い。
三.手法
⒜ 対象の本質を凝視し、写実に徹しようとしたものが多い。
⒝ 感覚的に鋭いものがある。
⒞ 閑寂な詩趣を詠じたものが多い。
四.表現
⒜ 係り助詞「ぞ」の頻用が目立つ。
⒝ いわゆる双貫句法(対比、列挙の句法)を用いたものも多い。
⒞ 万葉の語句を採ったものが多い。
とまとめられている。このような詠風は、歌道家を代表する御子左家の分
裂により互いに相手を意識し、歌論、歌風において独自性を求めたこと、皇
統も大覚寺統と持明院統と分れ、各々二条家と京極家と結託したこと、この
時代が南北朝の動乱期であったこと等が大きな要因となって生み出されたも
のと考えられる。歌道家の混乱、政治的緊張感、戦乱の世の中という時代だ
からこそ、京極の歌人たちは心を深く求め、移り行く時間の中で自然を静か
にみつめ、そして自然の生命を感覚的に捉えようとしたのである。
このような京極派の詠歌環境や詠風は、式子内親王のそれと似通った点
が多い。特に、京極派歌人の「風景や感情の時間的な推移や経過を歌い、対
象を動的に把握する」という発想や、「閑寂な詩趣を詠じたものが多い」と
いう手法は、前述した式子内親王の「ながめ」の歌全般にみられる趣きであ
る。式子内親王の生きた時代もまた、源平の争いという政治的に極めて混乱
の時期であり、式子内親王もその戦乱の世に巻き込まれていたのである。そ
のような事情が、南北朝の争乱の中から生まれた京極派和歌の詠風との共通
点であり、玉葉·風雅の両集で式子内親王の歌を好んで撰んだ理由ではなかろ
うか。
ところで、式子内親王の歌の中には、「ながめ」を用いた歌以外にも時
間的な推移の中で自然の微妙な変化を捉えたものが多数ある。
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山に日ぐらしのこゑ
(家集314、新古今集夏歌·268)
あれくらす冬の空かなかきくもりみぞれよこぎる風きほひつつ
171
式子内親王の研究 (家集261)
(風雅)木の葉
時雨れつつ四方の紅葉ば散りはてて霰ぞおつる庭の木かげに
(家集260、風雅集冬歌·803)
いづ方へ雲ゐのかりのすぎぬらん月はにしにぞかたぶきにける
(家集49、玉葉集秋歌下·701)
「夕立の」の作では、夕立雲が速くながれていく様子と、夏の日が落ち
ていく様子、そして鳴き続ける蝉の声によって夏の一日の時間的な経過が詠
まれ、夕立の過ぎ去った夏の日の夕方の涼しい情景が感覚的·絵画的に詠まれ
ている。「あれくらす」の作、第五句と「時雨れつつ」の作、初句の「つ
つ」を用いた表現は、式子内親王の歌全般にわたって多く見られる。「つ
つ」という接続助詞には、動作·作用がくり返し行われる意、動作·作用が引
き続いて行われる意、二つの動作·作用が同時に行われる意などと共に、(文
末にあって)詠嘆の余情を込めて、反復継続の意を表す32)。「あれくらす」
の歌の「風きほひつつ」は、まさにその例で、風が吹き続けるという動作の
継続、時間の経過という玉葉·風雅的な面と、余情をもたせるという新古今的
な面とが同時に調和した作といえる。「時雨れつつ」の歌は、時雨がしとし
とと降り続ける中での静かで寂しげな冬の情景が描かれている。閑寂な雰囲
気の漂う歌で、第五句「庭の木かげに」は風雅集では「庭の木の葉に」と改
作している。「いづ方へ」の歌は、「かり」と「月」を時間の経過と共に対
象を動的に描写して更け行く秋の閑寂な趣きが感じられる。
この他にも、式子内親王の家集には、前述した福田秀一氏の京極派歌風
の要点につながる作が多く見られる。
①花はいさそこはかとなく見渡せば霞ぞかをる春の明ぼの(家集11)
②春風やまやの軒ばをすぎぬらんふりつむ雪のかをる手枕(家集6)
③名残なく雲のこなたははれにけり外山へかかる夕だちの程(家集31)
④夕霧も心のそこにむせびつつわが身ひとつの秋ぞ更けゆく(家集46)
⑤いかにせむ千草の色はむかしにてまた更になき花の一本(家集57)
⑥槙の屋に時雨は過ぎて行くものをふりもやまぬや木葉なるらん (家集58)
⑦今朝みつる花の梢やいかならん春雨かをる夕暮のそら(家集112)
32) 注27)に同じ。
172
오영식
⑧鳥の音も霞もつねの色ならで花ふきかをる春の明ぼの(家集114)
⑨春秋の色のほかなるあはれかな蛍ほのめく五月雨のよひ(家集128)
まず、①の歌は、霞が香っている春の曙という表現を用いているが、実
際には霞は香らないものであるから、京極派の特徴の一つである感覚的写実
の表現といえよう。②の歌も春風が軒端を通り過ぎ、枕元に雪の香りがする
ことだと感覚的に詠んでいる。③の歌は此方と外山、つまり近景と遠景を描
写しており、玉葉·風雅的な歌といえよう。④の歌は、大江千里の、
月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど
(古今集秋歌上·193)
という、「千千」と「一」を対比した知的抒情の歌をふまえている。秋が
私一人におとずれたように思われるという表現では、式子内親王の深い孤独
感が感じられる。⑤の歌は荒涼たる冬枯れの情景を詠んだ作で、第五句の
「花の一本」のような「〇〇の一〇〇」という形の表現は玉葉·風雅に、例え
ば「雁のひとつら(風雅137·543)」「雲のひとむら(玉葉413·643)」「鳥の一声
(玉葉2209、風雅1644)」など、多く見られる。⑥の歌は時雨を詠んでいる。
時雨はいつまでも降るものではない。通り過ぎていくものである。そのため
式子内親王は時雨を哀れなもの、寂しいものとしてとらえた。⑦の歌では、
花の咲くころの春雨なので、その春雨もほのかな香りをただよわせている
と、春の夕暮の空を詠じている。これは感覚的写実の歌であり、新古今のこ
ろに芽生えた玉葉·風雅的な歌で、式子内親王の感覚的写実の詠風が玉葉·風
雅の世界で継承·発展されたともいえよう。⑧の歌は、「鳥の音」と「霞」と
いう双貫句法を用いている。また鳥の音も霞も平生の声や色と変わるのは花
が咲きかおるためであるよと詠じて、春の明け方の情景を感覚的にとらえて
いる。⑨の歌は、春と秋には花や紅葉など何をとっても華やかな趣きがある
が、それとは別の深い情趣があることだよ、蛍が明滅している五月雨の宵
は、と詠んでいる。式子内親王は花や紅葉という通念の情趣ではなく、視覚
的で、動的な新しい趣きを発見したことであろう。この歌は、藤原定家の、
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮
(新古今集秋歌上·363)
をふまえた歌であろう。定家は春の桜も秋の紅葉も、と詠んでいるが、式
子内親王は春秋の色と表現したのである。このような新しい情趣を求めた歌
173
式子内親王の研究 は、後の玉葉·風雅の世界へ続いているといえるであろう。
要するに式子内親王の歌にはその生きた時代と環境を反映している歌、
それより暗く悲しい心情、身の行末などを詠じた歌、古今から千載の世界に
通じる歌、そして当然新古今的な歌が多く詠じられている中で、いわゆる京
極派歌人の表現上の特徴といえる「京極派の歌風」に通じる歌も多く詠まれ
ていることが確認できた。即ち、新古今を代表する女流歌人、式子内親王の
和歌の世界に玉葉·風雅の京極派和歌の世界が既に芽生えつつあったといえる
のである。
4. むすびに
新古今を代表する歌人である式子内親王の歌に京極派の歌風を見ること
ができるということは、即ち、式子内親王の歌が新古今の世界にも玉葉·風雅
の世界にも通じていることを示していることでもあるだろう。そして、さら
に和歌史の立場からいうと、新古今時代から、二条·京極·冷泉の三派に分裂
して展開されていく新しい中世和歌史の展開において、式子内親王の歌風
は、新古今集から玉葉·風雅集へと移行していく一派、京極派歌風の流れの中
に位置づけられると言えるのである。谷山茂氏は「和歌史 中世」において、
「(京極派為兼は)広くは古典主義的立場にたち、遠く『万葉』の世界にまで
かえりみて、その『葉』の心の伝統は、『古今』や『新古今』、御子左三代
の歌風の中にさえも受けつがれていることを確認し、その世々の万葉的系譜
に立脚しながら、中世和歌の古典主義的な歩みの中に、せっかく生新な自然
観照の方法などを導入したのである33)」と論じている。また、大坪利絹氏
は、風雅集において千載集や新後撰集の初出歌人や歌数が多いことを指摘
し、「風雅集序文に見える新古今憧憬精神の一つの具現であるだろう34)」と
推察している。さらに、谷山茂氏も「御子左家中心に樹立された中世古典主
33) 和歌文学講座2『和歌史·歌論史』所収、和歌文学会編、桜楓社、
1969年、85-86頁。
34)『風雅和歌集論考』国語国文学研究叢書第28巻、桜楓社、1979年、64頁。
174
오영식
義をいかにして徹底させ、いかにして修正し、そしていかにして完成すべき
かという内部批判」の中で、風雅集は「中世古典主義の在り方を集約し、真
の古典主義はもはや三家三派の対立や抗争を越えたところで守らねばならな
いこと」をその序において堂々と開陳していると論じている。
このように、新古今の世界と玉葉·風雅の世界との関連が指摘されるにお
いて、特に式子内親王の詠風はその和歌史の流れを示すものの一つとして位
置づけられると言えよう。つまり本稿において式子内親王の歌を吟味·考察し
た結果、式子内親王の歌は、まさに新古今的でありながら、玉葉·風雅の世界
と共通する自然の移り変わりや心理の動きなど、時間的経過をうたう叙事性
をももっていた。そして、そのことは、特に式子内親王の「ながめ」の歌に
よって示され、静かで清らかな自然観照の歌の世界を形成したのである。京
極派歌風の根本理念は、「心」の絶対尊重と「詞」の完全な自由化である。
式子内親王は新古今歌人の中でとりわけ「心」を深く求める態度を持ちつづ
けた歌人であり、それは「斎院」という特殊な境遇の中で強化され、形成さ
れたものであった。さらに、源平の争乱という政情の混乱の中を生きなが
ら、様々な思いを心の内に秘めつつ取り巻いている自然を歌に詠じたのであ
る。これが、京極派の和歌理念と共通点を見出す要因であるといえよう。
要するに、式子内親王が時間的推移の中で静かに自然を見つめて写実す
る京極派的な詠風を身につけていたのは、式子内親王自身の境遇であり、特
に自己の人格が形成される青春時代に斎院として賀茂神社に奉仕したこと、
皇室の女性という現実に甘んじて生涯を独身で生き抜いたことによるもので
あると思われる。岩佐美代子氏は京極派の写実歌について、「歌を詠む場合
にも風景のうわべだけを詠まずに、情景歌において『心』の導入35)」がある
と述べている。また、京極派の詠風が南北朝の争乱を背景にして生まれたも
のであるということについて、「人事をからませぬ純粋な自然観照歌を特色
とする京極派」ではあるが、「うたう対象は自然であっても、その中から何
をたとえ、いかにうたうかを選択し決定するのは人間である。その人間の心
を陰に陽に支配するのは、やはり現実に自ら生きている社会のあり方であろ
う36)」と述べている。このことも、やはり式子内親王にあてはめることがで
35)『京極派歌人の研究』笠間書院、1979年、114頁。
175
式子内親王の研究 き、式子内親王にとって自ら生きている社会とは、皇胤としての立場であ
り、斎院として少女から大人の女性になった青春時代であり、源平の争乱の
世であったのである。
多くの読者が式子内親王の歌に魅了されるのは、内に激しさを秘めつ
つ、それが表面では静かで穏やかな様相を示しているが故に感じられる「あ
はれ」があるからではあるまいか。様々な思いを心の内に秘め、気だかく、
清らかに生きた式子内親王は、十一年にわたる斎院生活、その後も内親王と
いう身分は、一人の女性としての式子内親王の生活と感情を強く拘束し、ま
た自らの立場を自覚させたのであろう。そのような環境の中での様々な思
い、何時しか芽生えた恋慕の情を他でもない歌に昇華させた優れた歌人とい
えよう。
36) 注35)に同じ。132頁。 176
오영식
[参考文献]
『賀茂斎院記』群書類従第四輯所収、群書類従完成会、1953年。
『明月記』図書刊行会編、1987年。
『本朝女后名字抄』群書類従第二十九輯 雑部巻第五百八所収、続群書類従
完成会、1959年。
『本朝皇胤紹運録』群書類従第五輯所収、群書類従完成会、1954年。
『山槐記』増補史料大成26-28所収、臨川書店、1993年。
『式子内親王全歌集』改訂版 錦仁編、桜楓社、1987年。
『新編国歌大観一~五巻』新編国歌大観編集委員会、角川書店、1983~1987
年。
『御鳥羽院御口伝』日本歌学大系第三巻所収、風間書院、1968年。
『愚管抄』日本古典文学大系86、岡見正雄·赤松俊秀校注、岩波書店、1967
年。
『日本歌学大系』第三巻所収、佐佐木信綱編、風間書房、1956年。
『皇胤系図』続群書類従 続群書類従完成会、第五輯所収、1959年。
谷山茂『谷山茂著作集五 新古今集とその歌人』角川書店、1983年。
田中祝夫編『古語大辞典』小学館、1984年。
大坪利絹『風雅和歌集論考』国語国文学研究叢書第28巻、桜楓社、1979年。
馬場あき子『式子内親王』ちくま学芸文庫 筑摩書房、1992年。
佐佐木信綱編『日本歌学大系 第四巻』風間書院、1968年。 岩佐美代子『京極派和歌の研究』笠間書院、1974年。 岩佐美代子『京極派歌人の研究』笠間書院、1979年。
井上宗雄『中世歌壇史の研究南北朝期』明治書院、1965年。 福田秀一『中世和歌史の研究』角川書店、1972年。
久松潜一·実方清編「式子内親王」日本歌人講座『中世の歌人』所収、弘文
堂、1968年。
西畑実「式子内親王論」『大阪城南女子短期大学研究紀要』2、大阪城南女
子短期大学、15-25頁、1967年5月31日。
小田剛「式子内親王の三つの百首について」『古典文藝論叢』2、文藝談話
会、35-52頁、2010年3月20日。
177
式子内親王の研究 국문초록
쇼쿠시나이신노의 연구
-그의 영가(詠歌)환경과 영풍(詠風)
오영식(원광대)
산 깊고 깊어
山ふかみ
봄이 온지 모르는
春ともしらぬ
소나무 문에
松の戸に
간간이 떨어지는
絶々かかる
눈 녹은 물방울이여
雪の玉水
이 노래는 와카(和歌)문학의 정점을 이룬 가집으로 평가되는 일본 중세
의 최고의 친찬집(勅撰集) 󰡒신코킹와카슈(新古今和歌集)󰡓의 대표적인 가
인(歌人) 쇼쿠시나이신노(式子内親王)의 만년의 작품이다. 3구의 󰡐소나무
문󰡑은 고가(古歌), 또는 모노가타리(物語) 등에서 현세에서 벗어나 한적한
은둔자의 생활을 나타내는 가어(歌語)로 전통적인 은자의 심적 계보를 계
승하고 있다. 기교에 있어서는 심산, 산가, 소나무 문, 물방울과 같이 원경
에서 근경, 정(靜)과 동(動)으로의 전개수법이 뛰어나며, 또 산, 소나무, 눈,
물방울의 색채감과 함께 그 색 또한 깨끗하고 맑아지는 느낌이다. 그래서
미의식에 있어서도, 󰡐서경적󰡑 󰡐섬세 우미󰡑 󰡐회화적󰡑 󰡐한적 쓸쓸󰡑
󰡐여운이 깊음󰡑등, 여러 가지 미적 정서로 평석할 수 있는 󰡒신코킹와카
슈󰡓의 대표작중 한 수이다.
쇼쿠시나이신노는 호겐(保元)·헤이지(平治)의 난, 그 후의 헤이게(平家)
의 흥망성쇠와 가마쿠라막부의 등장 등, 헤이안말기부터 가마쿠라초기에
걸친 내란과 암흑의 동란기를 산 황실출신의 여류가인이다. 이와 같은 내
178
오영식
란과 동란의 외부적인 시대배경이 부왕(後白河院)의 유폐, 오빠(以仁王)의
전사 등, 황실과도 밀접한 관련이 있기 때문에 쇼쿠시의 사상과 그의 와카
에 적지 않은 영향을 끼쳤을 것이라는 것은 말할 필요도 없을 것이다. 그
리고 또 한 가지 주목되는 것은 쇼쿠시가 태어나면서부터 결정된 황족으로
서의 생활과 황녀였기 때문에 불과 6, 7세에 사이인(가모신사에서 봉사하던
미혼의 황녀)이 되어 아동기와 청년기의 11년을 가모신사에서 무녀로 신을
섬기며 생활한 󰡐가모사이인(賀茂斎院)시대󰡑이다.
그래서 본고에서는 쇼쿠시의 생애를 간략하게 소개하면서 영가(詠歌)환
경을 살펴본 다음 신고킹가인으로서의 쇼쿠시의 영풍(詠風)에 대하여 살펴
보았다. 또한 쇼쿠시의 주변 환경이나 시대배경, 또는 인생경험이 그의 와
카에 끼친 영향, 그리고 신고킹에서 교쿠요(玉葉)·후가(風雅)로 이어지는
중세와카사에서 쇼쿠시의 작품이 어떻게 평가되고 어떤 위치를 차지하고
있는지를 고찰하였다.
쇼쿠시의 와카를 음미 고찰해보면 분명 신고킹적이면서도 자연의 변화나
(그에 따른) 심리적인 움직임 등, 시간적인 경과와 추이를 노래하는 면에서
후대의 교쿠요(玉葉)·후가(風雅)의 세계와 공통된다. 특히 쇼쿠시의 󰡐나가
메(ながめ)󰡑를 사용한 와카 등에서 조용하고 청정한 자연관조의 작품세계
를 형성하고 있다. 쇼쿠시는 󰡐고코로(心)󰡑를 깊이 추구하는 가인이었으
며, 그것은 󰡐사이인󰡑이란 특수한 환경과 입장에서 형성되어 심화된 것이
다. 더욱이 겐페이(源平)의 난이라는 극도로 혼란한 소용돌이 속에 살면서,
온갖 생각과 상념을 마음 속 깊은 곳에 감추고 둘러싸고 있는 자연환경을
와카로 읊었던 것이다. 이것이 신고킹조와 신고킹의 가풍을 충분히 발휘한
대표적인 신고킹가인으로 평가받으면서도 후세의 교고쿠(京極)파의 와카이
념과 공통점을 찾을 수 있는 요인이라 말할 수 있을 것이다.
▣ 주제어: 신고킹슈, 와카, 쇼쿠시나이신노, 여류가인, 교고쿠파
▣ キーワード: 新古今集, 和歌, 式子内親王, 女流歌人, 京極派
접수일자: 2013. 4. 30 수정일자: 2013. 6. 21 게재결정: 2013. 6. 24
179