関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 戦後日本における国家秘密法制の展開 中 村 克 明 キーワード: 自衛隊法・「防衛秘密」・「防衛秘密」保護規定・国家秘密法制・日米安保体 制・国民の知る権利 要 旨: 2001(平成13)年11月,自衛隊法の一部が改正され, 「防衛秘密」保護規定が 新設された。同規定は,防衛庁長官の判断であらゆる防衛事項を「防衛秘密」と して指定し,これを取り扱う者(民間業者も含まれる)が秘密を漏洩した場合, その者を重刑に処する点,防衛庁長官の秘密指定をチェックする仕組みが何ら 存しない点,テロ対策のいわばどさくさ紛れに制定された点等,多くの問題点 を有している。このような法令は政府・防衛当局が戦後長年にわたって求め続 けてきたものであったが,戦後のわが国における国家(防衛)秘密法制は大き く 5 期に区分することができる。その歴史は,戦前の国家秘密法令の廃止から 日米安保体制の下における新たな国家秘密法制の復活,展開,そして著しい強 化へと突き進んできた。今や,防衛情報に関する国民の知る権利はほとんど無 きに等しいものとなり,国民はその命運を政府・防衛庁の判断,決定に委ねざ るを得ない事態を迎えるに立ち至ったのである。 はじめに 2001(平成13)年11月,自衛隊法の一部が改正され,「防衛秘密」(以下 同様に,同法上の防衛秘密に関してはカギカッコを付する)保護規定が新 設された。これは,1985(昭和60)年 6 月に自民党により国会に提出され, 国民の知る権利(および国民主権,平和主義等)を侵害する危険な法案と して,マス・メディアをはじめ,諸学会,弁護士会,市民団体,労働組合 等から総批判を浴び,結局,同年12月廃案となった「国家秘密に係るスパ イ行為等の防止に関する法律案」 ,いわゆる国家秘密法案(スパイ防止法案, ― ― 1 戦後日本における国家秘密法制の展開 国家機密法案等とも略称される)の修正版ともいえるものである。 この「防衛秘密」保護規定には,後述するように多くの問題点が含まれ ているが,ここで特に指摘しておくべきは――国家秘密法案において問題 とされた諸点が何ら改善されていないにも関わらず――,マス・メディア からそれほど強い反対や批判が表明されなかったという事実である。確か に,この改正が「自衛隊の行動に“外国での戦争への参加”と“他国領域 における後方支援(兵站)活動”を付け加える新たな道」1)を開く「テロ対 策特別措置法案」との抱き合わせであったために,マス・メディアとして もそちらの方により多くの関心を払わざるを得なかったという事情がある せよ,自らの活動を根本的に制約することになるこの重大な規定に関して, わずかばかりの疑問を呈しただけで,しかもその制定後には何事もなかっ たかのように全く沈黙するに至っている今日のマス・メディアの姿勢には 不信の念を抱かざるを得ない。我々国民の知る権利をマス・メディアは一 体どのように保障していこうとしているのであろうか。まさにマス・メデ ィアのあり方が今,厳しく問われているといわなければならないであろう。 私は,国家秘密法案が具体的な政治日程に上るに至った1980年代中頃か ら国民の知る権利と国家秘密(保護)との緊張関係に強い関心を抱き,こ の問題に関する若干の研究を続けてきた。本稿ではその一端として,戦後 日本における国家秘密(ここでは,主として防衛[=国防,軍事]秘密を 対象とする)法制の展開を概観し,それが国民の知る権利(保障) (および 平和保障)にいかなる影響を与えてきたのか,また今後与えることになる のかについて考察することにしたい2)。 1 .第 1 期 戦後日本における国家秘密法制の展開は,大きく 5 期に区分することが できるであろう。そこで,以下,各期ごとにその特徴と問題点を明らかに することにしよう。 まず第 1 期であるが,この期はアジア太平洋戦争の敗戦とそれに引き続 く――アメリカ合衆国軍隊を中心とする――連合国軍隊による占領という 新たな事態の展開から1950(昭和25)年 6 月の朝鮮戦争勃発以前の段階ま でである。 日本政府は,1945(昭和20)年 8 月にポツダム宣言( 「米・英・中三国宣 ― ― 2 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 言」)を受諾し,無条件降伏した後も,国家秘密法令を廃止するつもりは全 くなかった3)。しかし,日本の非軍事化と反封建,民主化をめざす連合国 (最高司令官)総司令部(GHQ)は,「必要ナル一切ノ権限ヲ有スル最高司 令官ニ従属スル」(「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」)4)日本政府に 対し,具体的な法令名をあげて,明治以来,国民の知る権利,言論・出版, 報道の自由等を抑圧してきた国家秘密法令(を含む弾圧諸法令)の廃止を 指令したのであった。たとえば,1945(昭和20)年 9 月27日の「新聞言論 の自由に関する追加措置」によって,新聞紙法(明42. 5 . 6 法41) ,国家総 動員法(昭13. 4 . 1 法55),国防保安法(昭16. 3 . 7 法49),軍機保護法 (明32. 7 . 15法104),軍用資源秘密保護法(昭14. 3 . 25法25)など12法令 の廃止が,また10月 4 日の「政治的,公民的及び宗教的自由に対する制限 除去の件」によって,この12法令の他にさらに国防保安法施行令(昭16. 5 . 7 勅542) ,軍機保護法施行規則(昭12. 10. 7 陸令43,海令28) ,軍用資源秘 密保護法施行令(昭14. 6 . 24勅413) ,同法施行規則(昭14. 6 . 26陸・海令 3 ) 等の廃止(または即時適用停止)が指令されたのであった5)。 これらの「覚書」によって国防保安法,軍機保護法,軍用資源秘密保護 法,要塞地帯法(明32. 4 . 14法15)は1945(昭和20)年10月(国防保安法, 軍機保護法,軍用資源秘密保護法は13日[勅568],要塞地帯法は15日[勅 576] )に,国家総動員法は同年12月に廃止され,また陸軍刑法(明41. 4 . 10法 46),海軍刑法(明41. 4 . 10法48)は1947(昭和22)年 5 月に,新聞紙法, 出版法(明26. 4 . 14法15)は1949(昭和24)年 5 月にそれぞれ廃止され, 戦前の国家秘密法令は完全に姿を消していった。また戦争の放棄,国民主 権,基本的人権尊重を 3 大基本原理とする新憲法(=日本国憲法)の公布 (昭21. 11. 3 ) ・施行(昭22. 5 . 3 )によって,国家秘密法令はその法的基盤 も喪失するに至ったのである。 しかし,国際政治の冷戦体制への移行,すなわち1948(昭和23)年 1 月 におけるロイヤル米陸軍長官演説(“日本を極東における反共の防壁とす る” )により,ほぼ決定的となった占領政策の転換と,これに伴う国内政治 の,いわゆる「逆コース」の展開は消滅したはずの国家秘密法令の復活に 支援を与えることとなった。その戦後における復活の第一歩となったのは, 1948(昭和23)年11月における国家公務員法(昭22. 10. 21法120)の改正で あった。それは,同法第109条第12号の守秘義務(第100条第 1 項「職員は, 職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後と ― ― 3 戦後日本における国家秘密法制の展開 いえども同様とする」)違反に対する刑事罰(「一年以下の懲役又は三万円 以下の罰金に処する」)および第111条の「第百九条……第十二号……に掲 げる行為を企て,命じ,故意にこれを容認し,そそのかし又はそのほう助 をした者」に対する処罰の新設という,行政上における秘密保護の形で始 まった。 これに関連して注目すべきは,戦前,公務員(官吏)の同様の行為に対 し,刑事罰が科されるようになったのは日中戦争がすでに開始されていた 1938(昭和13)年の国家総動員法においてであった(それ以前の守秘義務違 反制裁は懲役処分のみであった)ということである6)。このため,法学者か らは――国民主権を明記し,戦争を放棄した――日本国憲法下において刑 事罰を科してまで守らなければならない秘密といったものが一体存在する のか,という強い疑義が唱えられているのである7)。なお,いうまでもなく この時期には陸海軍の解体,軍人の公職追放等によってわが国独自の軍事 力は存在しておらず,したがってわが国の防衛秘密保護という問題はまだ 発生していなかった。 ところで,この時期,国民は戦前の抑圧から解放され,思想,言論の自 由を獲得したが,しかし“解放者”であった占領軍は同時に抑圧者でもあ った。すなわち,占領下ではいわゆるプレス・コード,ラジオ・コードに よりマス・メディア等に対する検閲が行われ,占領軍の利益に反する言論 は「連合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令」 (1946[昭和21]年 6 月)により刑罰をもって抑圧された。「占領目的に有 害な行為」 ,すなわち連合国最高司令官の指令の「趣旨」に反すると「考えら れる」行為が無限定に規制の対象とされ,そのためたとえば広島・長崎へ の原爆投下の実情は占領終了まで公然と報道することは許されなかったの である8)。その他,軍国主義的・超国家主義的あるいは右翼的見解を絶賛し たりしたものは完全に発行禁止となったり,大幅な削除を余儀なくされ, 急進的共産主義的なもの,連合国の政策を支持しないもの,直接的または 間接的に連合国に批判的であったものなども,それぞれの理由で検閲によ る処分を受けたのであった9)。 以上のように,一旦は占領軍の指令によって完全に姿を消した国家秘密 法令であったが,占領政策の転換(=国内政治における「逆コース」の展 開)に伴って,早くも1948(昭和23)年11月には守秘義務違反に対し刑事罰 を科する国家公務員法の改正が行われ,国家秘密法制が復活するに至った ― ― 4 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) のである。 2 .第 2 期 第 2 期は,朝鮮戦争の勃発に伴い,連合国最高司令官マッカーサーが警 察予備隊の設置を指令した1950(昭和25)年 7 月から日ソ共同宣言が調印 され,わが国が国際連合に加盟した1956(昭和31)年(12月)で画される。 1950(昭和25)年 6 月の朝鮮戦争に際して,マッカーサーはわが国の治 安確保上の必要から日本政府に警察予備隊75, 000人の設置と海上保安庁職 員8, 000人の増員を指令した。これにより,同年 8 月警察予備隊が創設され (警察予備隊令[昭25. 8 . 10政260] ) ,事実上の再軍備が開始されることとな った。その後,アメリカはわが国を経済的に自立させ,自己の世界戦略の 一翼を担う国家として独立させるため,講和を急いだ。その結果,わが国は 1951(昭和26)年 9 月に「日本国との平和条約」 (対日平和条約) (昭27. 4 . 28条 5 )に調印し,翌年 4 月に独立を回復した。しかし,対日平和条約と 同時に調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」 (旧日 米安保条約) (昭27. 4 . 28条 6 )も発効し,アメリカ軍は引き続き,わが国 に駐留(全土基地方式)することとなった。 こうして開始された日米安保体制10)の下で,1952(昭和27)年 5 月にア メリカ軍の「機密」を保護対象とする「日本国とアメリカ合衆国との間の 安全保障条約第 3 条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」 (刑事特別法) (昭 27. 5 . 7 法138) ――なお,同法は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協 力及び安全保障条約」 (新日米安保条約) (昭35. 6 . 23条 6 )および「日本国 とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第 6 条に基づく施設 及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」 (日米地位 協定) (昭35. 6 . 23条 7 )の発効に伴って, 「日本国とアメリカ合衆国との間 の相互協力及び安全保障条約第 6 条に基づく施設及び区域並びに日本国に おける合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」と題名(お よび定義,用語)が改められた――が制定され11),アメリカ軍の秘密保持 という形でわが国に防衛秘密保護法が復活することとなった。 刑事特別法は, 「合衆国軍隊の機密」を「合衆国軍隊の安全を害すべき用 途に供する目的をもって,又は不当な方法で」「探知し,又は収集した者」 および「合衆国軍隊の機密で,通常不当な方法によらなければ探知し,又は ― ― 5 戦後日本における国家秘密法制の展開 収集することができないものを他人に漏らした者」を「十年以下の懲役」 b b に,またその陰謀・教唆・せん動した者を「五年以下の懲役に処する」とす るもので,これにより1953(昭和28)年以来多数の日本人が検挙・送検さ れ,起訴されるという事態が発生している12)。日本国内に駐留する(=国 家主権を侵害する)アメリカ軍の「機密」を守るために日本人が処罰され るというところに,日米安保体制下におけるわが国の従属的地位が明瞭に 示されている,ということができるであろう。ちなみに,警察予備隊は1952 (昭和27)10月改組増強され,保安隊(保安庁法[昭27. 7 . 31法265] )とな った(海上担当の警備隊も設置された) 。 続いて,1954(昭和29)年 6 月に「日米相互援助協定等に伴う秘密保護 法」(MSA 秘密保護法)(昭29. 6 . 9 法166)と自衛隊法(昭29. 6 . 9 法 165)が制定された。MSA 秘密保護法13)は,第 1 条で同法における「防衛 秘密」 (同秘密は2001[平成13]年11月の自衛隊法一部改正に伴い, 特別 防衛秘密 という用語に改められた――以下,この呼称を用いる)を「左に 掲げる事項及びこれらの事項に係る文書,図画又は物件で,公になってい ないものをいう」と定義し,その 1 号では「日米相互防衛援助協定等に基 づき,アメリカ合衆国政府から供与された装備品等」を,2 号では「日米 相互防衛援助協定等に基づき,アメリカ合衆国政府から供与された情報」 をあげている。この「特別防衛秘密」の特徴は,刑事特別法の「合衆国軍 隊の機密」とは違って,わが国の防衛,すなわちわが国の防衛秘密として の性格を有していることである。同法は,このような秘密を「わが国の安 全を害すべき用途に供する目的をもって,又は不当な方法で……探知し, 又は収集した者」 (第 3 条第 1 項第 1 号) , 「わが国の安全を害すべき目的を もって……他人に漏らした者」(同条同項第 2 号)等を「十年以下の懲役」 に,その単純漏示にも「五年以下の懲役」を科すると(いう刑事特別法と 同様の重罰主義を採用)している。 なお,MSA 秘密保護法は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援 助協定」(MSA 協定)に伴って制定されたものであるが,同協定には「援 助」の「進ちょく状況を観察する」との名目で,日本国民を監視するアメリ カ政府要員を外交官待遇で置くことが認められている(附属書 F )14)。これ により,アメリカは日本国内において自由にスパイ活動を展開することが 保障されることとなったのである。 一方,自衛隊法15)はいうまでもなく――防衛庁設置法(昭29. 6 . 9 法164) ― ― 6 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) と並んで――「我が国の平和と独立を守り,国の安全を保つため,直接侵 略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務と」 (第 3 条第 1 項)する自衛隊(1954[昭和29]年 7 月設置)16)の根拠法となっているもの であるが,同法は第59条で服務規律として隊員の守秘義務を定め(同条第 1 項「隊員は,職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その 職を離れた後も,同様とする」 ) ,第118条第 1 号で「第五十九条第一項…… の規定に違反して秘密を漏らした者」および違反行為を「企て,教唆し, 又はそのほう助をした者」に対し「一年以下の懲役又は三万円以下の罰金 に処する」としている。 この規定は,直接には国家公務員法の規定をそのまま取り込んだもので あるが,その実質は同法が戦力不保持を規定した憲法第 9 条第 2 項違反を めぐる激しい論争の中で,政治情勢をにらみながら成立したという,戦後 史の歴史的事情と構造から公務員法制の擬制を取っているに過ぎず,同規 定は隊員に防衛秘密保持を強制する軍刑法の性格を有していると捉えるべ きであろう17)(なお,2001[平成13]年11月新設の「防衛秘密」保護規定に ついては,後述する)。 また,この時期に制定された防衛秘密保護法としては,1956(昭和31) 年 7 月に制定された「国防会議の構成等に関する法律」(国防会議法)(昭 31. 7 . 2 法166)がある。同法第 5 条第 2 項は, 「議長及び議員並びに議長又 は議員であった者は,その職務に関して知ることのできた秘密を他に漏ら してはならない」と規定していた(国防会議法は,1986[昭和61]年 5 月 に安全保障会議設置法[昭61. 5 . 27法71]が制定された18)ことにより廃止さ れたが,この規定は同法に引き継がれている)。 その他,1950(昭和25)年12月には地方公務員法(昭25. 12. 13法261)が 制定され,国家公務員同様,守秘義務(第34条第 1 項「職員は,職務上知 り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も,また,同様とす る」 )違反に対して罰則が科される(第60条「一年以下の懲役又は三万円以 下の罰金に処する」)こととなった。 以上みてきたように,戦力不保持(第 9 条第 2 項)を規定した憲法の下 で,それに反する再軍備が進展するに伴い,防衛秘密保護を目的とする特 別法が続々と制定され,防衛秘密法制が形成されるに至ったことがこの期 の特徴としてあげられるであろう。これにより,国民が接近することを刑罰 をもって禁止する防衛秘密の“聖域”化が進行することとなったのである。 ― ― 7 戦後日本における国家秘密法制の展開 3 .第 3 期 第 3 期は,岸信介内閣の下で「国防の基本方針」が決定された1957(昭 和32)年( 5 月)から三木武夫内閣による「防衛計画の大綱」 (1976[昭和 51]年10月)策定,「防衛費 GNP 比 1 %枠」設定がなされるに至った1976 (昭和51)年までである。 1957(昭和32)年 2 月に誕生した岸信介を首班とする内閣は,経済力お よび防衛力の強化をめざし,日本の国際的地位の向上(わが国は,同年10 月国連安保理事会の非常任理事国に選出された)を背景として,アメリカ との間で旧安保条約の改定を図った。こうした内外の政治情勢の中で,岸 内閣は「防諜法」の制定を企図した19)。同年 9 月,自民党治安対策特別委 員会小委員会は「諜報活動取締り等に関する法律案大綱」を作成し,同治 安対策特別委員会と政調会国防部会の了承を得てこれを発表した。その特 徴は,秘密の範囲として安保体制の秘密,特に日米共同作戦に関する約定 と自衛隊の機密事項が含まれていることで,刑事特別法と MSA 秘密保護法 の対象も包含されていた。また罰則については,戦時中の軍機保護法,国 防保安法等とほとんど変わらない類型(死刑と無期を除く)を持ち,刑事 特別法や MSA 秘密保護法を上回る「懲役十五年以下」が科されることにな っていた20)。しかし,この企図は時を同じくして沸き起こった安保改定阻 止(反対)を唱える世論の高揚(60年安保闘争)の前に挫折(ただし,旧 日米安保条約そのものは1960[昭和35]年 6 月,国民の強い反対を押し切 って改定され,現行の新日米安保条約が発効)するに至ったのである。 その後一時ストップしていたかにみえた国家秘密法制定への動きは,1963 (昭和38)年 7 月自民党安保調査会が,その中間報告の中で「国家機密保護 体制の整備」を強調したことで再び注目を集めることとなった21)。同年,防 衛庁内(自衛隊統合幕僚会議)で「極秘」に行われ,1965(昭和40)年 2 月 に野党議員(社会党・岡田春夫氏)により衆議院予算委員会で暴露された 「昭和三八年度統合防衛図上研究〈三矢研究〉」(三矢[作戦]研究)22)は, 国民に大きな衝撃を与えた。佐藤栄作首相(当時)も知らない内に行われ た同研究は,朝鮮半島に武力紛争が発生しわが国に影響が波及した場合を 想定し,その「非常事態に際するわが国防衛のための自衛隊の運用ならび にこれに関連する諸般の措置および手続きを統合の立場から研究し」たも のであったが,諸段階の作戦の他に「非常事態措置諸法令」についても詳 ― ― 8 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 細な検討が行われていた23)。たとえば,その内の「自衛隊の行動を容易な らしめるための施策」においては,戦前の国防保安法と軍機保護法を参考 法令として「国防秘密の保護,軍事秘密の保護」の必要性が強調されてい た。また,1966(昭和41)年に防衛庁法制調査官室が作成した「法制上, 今後整備すべき事項について」と題する文書の中でも, 「わが国の防衛上の 秘密を保持するため,国家防衛秘密の範囲を定め,所要の罰則を定める」 ことが述べられていたのである。 こうした自民党,防衛庁サイドの動向と併行して,刑法の中に機密保護 規定を設けようとする刑法改正作業も行われた。戦前の「改正刑法仮案」24) を下敷きとして,1961(昭和36)年に発表された「改正刑法準備草案」に は「機密探知罪」(第136条)をはじめ,包括的な機密保護規定が設けられ ていた。この規定は,防衛機密だけでなく, 「外交上の重大な機密」をも戦 時と同様,平時にも保護し,その探知・収集または外国への通報を処罰の 対象とするもので,戦前の間諜罪25)をさらに拡大したものとなっていた26)。 同草案に対しては,法学界や野党から強い批判が寄せられ,結局,1965(昭 和40)年から開始された法制審議会での論議においてこの規定は削除され ることとなった。その理由は,第 1 に平和主義を謳う現行憲法の下で刑罰 規定で保護すべき防衛上の秘密などは存在しないこと,第 2 に曖昧な「機 密」概念によって処罰範囲は無限定となり,国民の知る権利と言論の自由を 著しく制限すること,第 3 に実質上秘密裁判を予定せざるを得ないこと27) であった。 なお,この期に防衛庁が行った防衛秘密保護措置として,1958(昭和33) 年 7 月の「防衛秘密の保護に関する訓令」 (昭33. 7 . 7 防衛訓令51)および 同年11月の「秘密保全に関する訓令」 (昭33. 11. 15防衛訓令102)の制定をあ げることができる。 「防衛秘密の保護に関する訓令」は, 「防衛庁における防 衛秘密の保護のため必要な措置を定めることを目的とする」 (第 1 条)もの であり, 「秘密保全に関する訓令」は「日米相互防衛援助協定等に伴う秘密 保護法(昭和29年法律第166号)に規定する防衛秘密及びその他別に定める 秘密の保護に関するものを除き,防衛庁における秘密保全のため必要な措 置を定めることを目的とする」(第 1 条)ものである。この両訓令によっ て,防衛秘密は厳重に管理(保全)されることとなった。 ちなみに, 「秘密保全に関する訓令」は「秘密」を「その保全の必要度に 応じて,……機密,極秘又は秘のいずれかに区分する」 (第 5 条)としてい ― ― 9 戦後日本における国家秘密法制の展開 るが,この 3 区分の基準は必ずしも明確ではなく28),これにより防衛庁が国 民に秘密にしておきたいと考える「知識又は文書,図画若しくは物件」は いずれかの区分に該当させることが可能となったのである29)。これにより, 2001(平成13)年10月時点で,同訓令に基づいて指定された秘密(=「庁 秘」)は「機密」約2, 270件,「極秘」約11, 350件, 「秘」約121, 420件,合計 約135, 040件という膨大な件数に上っている30)。 このように,この期は第 2 期で一応整備された国家秘密法制を一層強化 していこうとする政府,防衛庁の動きが積極的に展開された時期であった。 しかし,多方面にわたる住民運動,市民運動の活発化に代表される国民の 政治・社会意識の高揚と,革新政党の伸張による政治勢力の変動等によっ て,新たな国家秘密(防衛秘密保護)法は制定されるには至らなかったの である。 4 .第 4 期 第 4 期は,防衛庁内で有事立法の検討が開始された1977(昭和52)年か ら国際社会における激変(東欧社会主義体制の崩壊[冷戦体制の終結] ,地 域・民族紛争の激化)と,これに伴う国内における政治体制の転換(55年 体制の終焉,政党の離合集散,連立[自社等]政権の成立と崩壊等) ,自衛 隊に対する従来の制約の緩和・撤廃(GNP 比 1 %枠,武器禁輸三原則,海 外派兵,日米防衛協力の本格的展開とそのための各種法整備等)が展開さ れつつある中で,海上自衛官による秘密漏洩事件が発覚した2000(平成12) 年 9 月までである。 この期は一方で,各地方自治体における情報公開条例の制定・施行,情 報公開法(平11. 5 . 14法42)の公布(施行は2003[平成15]年 4 月)という, 国民の知る権利に基づく行政情報の公開(=透明性)を確保するための法 令が制定・運用されることになった時期ということができるが,しかし他 方で有事立法研究の本格化, 「日米防衛協力の指針」 (日米旧ガイドライン) の締結(1978. 11. 27) , 「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」 (PKO協力法) (平 4 . 6 . 19法79)の成立31)等による自衛隊の海外派兵の常態 化,さらに冷戦終結後における安保再定義,新「日米防衛協力の指針」 (日 米新ガイドライン)の策定(1997. 9 . 23) , 「周辺事態に際して我が国の平和 及び安全を確保するための措置に関する法律」 (周辺事態法) (平11. 5 . 28法 ― ― 10 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 60)の制定32)といった日米共同作戦体制33)(=防衛力整備)の本格的展開に 伴い,歯止めなき軍事大国化への傾向が顕著になった時期ということもで きるであろう。 上述したように,防衛庁内における有事立法研究は防衛庁長官の指示で, すでに1977(昭和52)年から開始されていたが,翌1978(昭和53)年10月 の栗栖弘臣統合幕僚会議議長(当時)の,いわゆる超法規発言を契機とし て,当時の福田赳夫首相が改めて指示することによって,同研究は国民の 注目するところとなった。この有事立法論議の中で,福田首相は「有事の 際はこれはもう国がひっくり返るかどうかと,そういう際に国を売るとい うような行為があっては断じてならぬ」(参院予算委員会,1978[昭和53] 年10月11日)と述べて,国家秘密立法の必要性を強調したのであった。 また同年11月,日米政府間で正式に「日米防衛協力の指針」 (日米旧ガイ ドライン)が交わされたが,同ガイドラインは日米安保体制に第 3 の時期を 画したものであり,これにより日米安保は日米軍事同盟へと転換した34)と いわれる。このような意味合いを持つ日米旧ガイドラインにおいて,自衛 隊および米軍の秘密保全体制の強化が次のように説かれていた( 「Â情報活 動」)35)。 自衛隊及び米軍は,それぞれの情報組織を運営しつつ,効果的な作 戦を共同して遂行することに資するため緊密に協力して情報活動を実 施する。このため,自衛隊及び米軍は,情報の要求,収集,処理及び 配布の各段階につき情報活動を緊密に調整する。自衛隊及び米軍は, 保全に関しそれぞれ責任を負う。 この政府間レベルの約束により,わが国はアメリカに対し,情報保全の ための措置=国家秘密立法が義務付けられることとなったのである。 こうした動きを支援する形で登場してきたのが, 「スパイ防止法制定国民 会議」 (会長・宇野精一東大名誉教授[当時] )と, 「スパイ防止のための法 律制定促進議員・有識者懇談会」 (会長・岸信介元首相[当時] )であった。 前者は,地方議会での促進決議を積み重ねる,いわゆる草の根からの国会 包囲作戦の主役を演じ,後者は保守党系(自民党,民社党等)の国会議員 を中心に各界の有識者を結集したもので,両団体はその資金力,運動力を 背景に政府,与党に対し活発な働きかけを行ったのであった。 日米旧ガイドラインと外郭諸団体の強い要請に応え,自民党内にも国家 秘密立法に向けての積極的な動きがみられるようになった。同党安全保障 ― ― 11 戦後日本における国家秘密法制の展開 調査会特別小委員会は1980(昭和55)年 4 月に「防衛秘密に係るスパイ行 為等の防止に関する法律案」 (スパイ防止法第 1 次案)を,また同党安全保 障調査会法令整備小委員会は1982(昭和57)年 7 月に「防衛秘密に係るス パイ行為等の防止に関する法律案」 (スパイ防止法第 2 次案)を,さらに同 小委員会(箕輪登小委員長)は1984(昭和59)年 8 月に「国家秘密に係る スパイ行為等の防止に関する法律案(試案)」(スパイ防止法第 3 次案)を 作成し,国会上程に向け準備を整えていった。 この過程でさらに国家秘密立法への拍車をかけたのが,1983(昭和58) 年11月の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定に基づくア メリカ合衆国に対する武器技術の供与に関する交換公文」 (対米武器技術供 与に関する交換公文)の締結であった。同公文には「米国政府は,日本国 において定められている秘密保持の措置をとることに同意する」(第 5 条) という,一見するとアメリカに供与する武器技術について秘密を守ること をアメリカ側に要求しているようにもみえる規定があるが,しかしこの前 提とされているのは日本側もまたその種の武器技術については厳重な秘密 保護の措置をとるということである。わが国は,こうして武器技術供与の 面からも国家秘密立法を義務付けられることとなったのである36)。 これらの動向を受けて,自民党(中曽根康弘総裁[当時] )は日本は“ス パイ天国”である,との大々的なキャンペーンを展開する37)と共に,議員 立法で1985(昭和60)年 6 月,――スパイ防止法第 3 次案に若干の修正を 加えた――「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」を衆議 院に提出した。この国家秘密法案は, 「外国のために国家秘密を探知し,又 は収集し,これを外国に通報する等のスパイ行為等を防止することにより, 我が国の安全に資することを目的とする」 (第 1 条)ものであったが,その 国家(=外交・防衛)秘密の範囲が網羅的かつ漠然としていた上,これを 「外国に通報する目的をもつて,又は不当な方法で,……探知し,又は収集 した者で,その探知し,又は収集した国家秘密を外国に通報して我が国の 安全を著しく害する危険を生じさせたもの」を「死刑又は無期懲役に処す る」 (第 4 条)とする戦前の国家秘密法令にもあまり類型をみない重罰を科 するものとなっていた。しかも,ここでいう「外国に通報する」とは, 「外 国が知るうる状態に置く」38)ことだとされたから,たとえば国民が日常生活 において偶然に知り得た事柄を知人の外国人に何気なく話しただけでも, その外国人の行動如何によって「死刑又は無期懲役」に処される危険性が ― ― 12 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 十分考えられることとなったのである。 また同法案は,自民党の逐条解説書(自民党政調会編『スパイ防止法: その背景と目的』[1982(昭和57)年])が「仮にスパイ防止法案により取 材活動及び報道の自由が制約を受けることとなっても,それは国の安全を 確保するために受忍されるべき必要最小限度の制約であり,取材活動及び 報道の自由を不当に侵害するものではありません。……取材活動及び報道 の自由も絶対無制限のものではありません」 ( 「総論」問 6 の答)39)と述べて いたように,取材活動や報道の自由に対する公然たる規制を行おうとする ものであった。 先に述べたように,防衛庁における秘密保全管理体制は厳重であり,部 外者である一般市民が防衛秘密に近づき,これを探知,収集するなどとい うことはとても不可能である。スパイ事件の代表的事例としてよく取り上 げられる1980(昭和55)年 1 月の宮永スパイ事件(自衛隊法第59条[守秘 義務]違反で逮捕,同年 4 月 1 審有罪判決[懲役 1 年]確定)にしても, 宮永幸久退役陸将補が防衛庁中央資料隊と陸幕調査部の後輩( 2 等陸尉と 准尉)から情報を入手し,これをソ連大使館付武官(ユーリー・コズロフ 大佐)に渡していたというもの40)であって,防衛庁関係者だからこそ可能 となった事件である41)。それにもかかわらず,一般の国民を取締りの対象 とし,しかも死刑を含む重罰に処そうとするなど,筋違いも甚だしいとい わなければならない。与党の国家秘密法案上程の意図が重罰の威嚇をもっ て,国民から防衛情報(秘密)を隔離(=防衛に関する国民の知る権利を 剥奪)し,日米共同防衛体制をスムーズに展開させるところにあったこと は明瞭というべきであろう。 このような危険な内容,意図を持った国家秘密法案に対し,マス・メデ ィア,諸学会(有志声明),弁護士会(大阪弁護士会等),市民団体,労働 組合等,各方面から強い反対・批判が相次ぎ42),結局,同法案は同年12月 廃案となるに至ったのである。 ところで,国家秘密法案の提出から廃案に至る経緯において注目すべき は,同法によって最も影響を受けることになる(であろう)マス・メディ アの対応が当初きわめて鈍かった,ということである。国家秘密法案提出 前に朝日,毎日等の新聞はその社説において,同法案の危険性を強く訴え ていたが,提出後の紙面での扱いは一部の政党機関紙を除いて,意外なほ ど小さなものであった。その主たる原因は,同法案の内容があまりにもひ ― ― 13 戦後日本における国家秘密法制の展開 どすぎることから“いくらなんでもこんな法案が国会を通るわけがない” といった楽観論がマス・メディアの間で優勢であったためだとされる43)。し かし,同法案が継続案件としては36年ぶりという記名投票によって継続審 議とされ,政府,与党(自民党,新自由クラブ[当時] )の法案成立にかけ る並々ならぬ熱意が明らかになるにつれ,初めのうち楽観的であったマス・ メディアも態度を一転し,法曹界や諸学会と並んで法案反対を明確に表明 することとなったのである。 こうして一度は廃案となった国家秘密法案であったが,自民党は翌1986 (昭和61)年 2 月,スパイ防止法制定特別委員会を設け,修正案づくりに着 手した。同年 5 月同委員会は修正案を決定し44),同党政務調査会で了承さ れたが,廃案となった国家秘密法案との相違点は概ね以下のようなもので あった。 ¸ 法案の名称を「国家秘密……」から「防衛秘密……」とする,すな わち「防衛秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」とする45) (ただし,「我が国の安全保障に係る外交上の……」という形で外交に 関する事項は依然として保護対象となっている) 。 ¹ 死刑を削除し,無期懲役を最高刑とする。 º 出版・報道の業務活動に関する解釈適用規定を新設する。 しかし,上述したような国内外における政治・社会情勢の大きな変化, 新たな政治課題の出現等により,政府,与党は修正案を国会に提出するに は至らなかったのである。 以上みてきたように,この期になると,政府,与党は日米軍事同盟体制 の更なる拡大,強化のために新たな防衛秘密保護立法を執拗に追い求める こととなるのであるが,その企図とは裏腹に国民の強い要求に圧されて情 報公開法を制定せざるを得なくなる(同法においても, 「公にすることによ り,国の安全が害されるおそれ……があると行政機関の長が認めることに つき相当の理由がある情報」 [第 5 条第 3 号]は「不開示情報」とされてい る)など,反対世論に対する一定の譲歩,後退を余儀なくされることとな った。もっとも,防衛庁は2000(平成12)年 9 月に発覚した海上自衛官に よる秘密漏洩事件(防衛庁防衛研究所勤務の海上自衛官・萩嵜繁博三佐が, 在日ロシア大使館付海軍武官のビクトル・ボガチェンコフ大佐に「戦術概 説」など秘密指定文書 2 件を渡し,逮捕された事件)を契機として,庁内 に「秘密保全等対策委員会」を設け,その秘密保全管理体制の一層の強化 ― ― 14 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) に乗り出したのであった46)。 5 .第 5 期 海上自衛官による秘密漏洩事件発覚後から自衛隊法の一部改正により「防 衛秘密」保護規定が設けられ,新たな事態を迎えるに至った今日が第 5 期 である。 秘密漏洩事件発覚からちょうど 1 年後,2001(平成13)年 9 月11日にア メリカで発生した同時多発テロ事件(= 9・11事件)の波紋はわが国にも 大きな影響を与えずにはおかなかった。日本政府(小泉純一郎首相)は, 同事件後開始されたアメリカによる“国際テロリズム撲滅”軍事行動支援 を目的47)とした「平成13年 9 月11日のアメリカ合衆国において発生したテ ロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のため の諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議 等に基づく人道的措置に関する特別措置法」 (テロ対策特別措置法) (平13. 11. 3 法113)を成立させると共に,自衛隊法の一部を改正し,――隊員の 守秘義務を定めた自衛隊法第59条は存置した上で――「防衛秘密」保護規 定を新設した(第96条 2 )48)。 新たに付加された自衛隊法別表第 4 には,¸自衛隊の運用又はこれに関 する見積もり若しくは計画若しくは研究,¹防衛に関し収集した電波情報, 画像情報その他重要な情報,º前号に掲げる情報の収集整理又はその能力, »防衛力の整備に関する見積もり若しくは研究,¼武器,弾薬,航空機そ の他の防衛の用に供する物の種類又は数量,½防衛の用に供する通信網の 構成又は通信の方法,¾防衛の用に供する暗号,¿武器,弾薬,航空機そ の他の防衛の用に供する物(船舶を含む)又はこれらの物の研究開発段階 のものの仕様,性能又は使用方法,À武器,弾薬,航空機その他の防衛の 用に供する物(船舶を含む)又はこれらの物の研究開発段階のものの製作, 検査,修理又は試験の方法,Á防衛の用に供する施設の設計,性能又は内 部の用途(通信網の構成又は通信の方法を除く)等が列記されているが,防 衛庁長官はこれらに「掲げる事項であって,公になっていないもののうち, 我が国の防衛上特に秘匿することが必要であるもの」を「防衛秘密」として 指定することができる,すなわち同長官はその判断 1 つで(指定の妥当性を チェックする仕組みは何ら用意されていない) ,ほとんどすべての防衛情報 ― ― 15 戦後日本における国家秘密法制の展開 を「防衛秘密」として秘匿することができることとなったのである49)。 同規定により,このような「防衛秘密」を「取り扱うことを業務とする 者」がそれを漏らしたときは 5 年以下の懲役に処され(第122条第 1 項) ,漏 洩を「共謀し,教唆し,又は煽動」した者も 3 年以下の懲役に処される(同 第 4 項) 。また漏洩の未遂(同第 2 項) ,過失による漏洩(同第 3 項) ,国外犯 (同第 6 項)も処罰の対象とされる。「防衛秘密を取り扱うことを業務とす る者」の中には,防衛庁の職員のみならず, 「国の行政機関の職員のうち防 衛に関連する職務に従事する者」,「防衛庁との契約に基づき防衛秘密に係 る物件の製造若しくは役務の提供を業とする者」も含まれるから,自衛隊 法第59条の守秘義務違反に対する罰則( 「一年以下の懲役又は三万円以下の 罰金」 )をはるかに上回る重罰が防衛庁以外の官庁の職員や民間業者に対し ても科されることとなったのである。確かに,国家秘密法案に比べれば, 罰則は軽減されているといえるが,しかし重罰であることには何ら変わり がない。こうした措置によって,――政府,防衛庁の企図する日米防衛協 力が効率化・円滑化するとしても――国民の知る権利や日常生活が計り知 れない打撃を被ることは必至といわなければならないであろう。 同規定はさらに, 「そもそも,このような自衛隊員の服務規律を超える新 たな秘密保護制度の新設という重大な措置を,自衛隊法の改正という方法 でなしうるかについては,根本的な疑問があ」り, 「自衛隊法という枠から 大きくはみ出す越権措置と断ぜざるをえ」50)ないものであること,「テロ対 策とは直接の関係がないにもかかわらず,テロ事件に乗じていわばどさく さ紛れに導入された」51)ものであること等,方法,手続き面においても,そ の正当性が疑われるものとなっているのである。 このような重大な問題を有する「防衛秘密」保護規定が,有事立法の一 環としての性格を有することはもちろんであるが,その後2003(平成15) 年 6 月,有事(=戦時非常事態)52)に対処するための「武力攻撃事態等にお ける我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」 (武 力攻撃事態法) (平15. 6 . 13法79) ,改正安全保障会議設置法,改正自衛隊法 の,いわゆる有事関連 3 法が成立した53)。この内,武力攻撃事態法では「武 力攻撃事態の認定によって政府は,地方公共団体や指定公共機関に対して も『対処措置』に関する指示や直接執行・代執行を行うことも可能となる し,国民の権利の自由の制限も可能となる」が,「『指定公共機関』にいか なる法人が含まれるかは,完全に『政令』に委ねられ」 , 「NHK のみならず, ― ― 16 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 民放や新聞社も含まれる可能性が否定」できなくなり,これによってかつ ての「大本営発表」と同様,政府による言論統制・情報操作の危険性が「少 なからず生ずることにな」54)ったのである。 2004(平成16)年 1 ∼ 2 月にかけて発生した陸海空 3 幕僚長の定例記者 会見廃止問題(結局,撤回。その後,防衛庁は新たに審議官級の報道担当 官を設けると発表した55))やイラクに派兵された自衛隊の活動に関する報 道自粛要請問題等は,防衛庁の情報統制に関する高姿勢を露骨に示すもの であった。 以上のように,自衛隊法における第96条の 2 の新設(および武力攻撃事 態法)により,わが国の防衛に関する情報は政府,防衛庁が発表するもの, あるいは観測気球的に特定のマス・メデイアに流されるもの以外,我々国 民は(国会議員でさえ)ほぼ全面的に知り得ない状態に置かれることとな った。防衛力(の拡大)に対する政治(政府,国会)の優越,すなわちシ ビリアン・コントロール(文民統制)がほとんど機能していない(=形骸 化している)わが国においては,国民は自分たちの命運を防衛庁・自衛隊 の判断,決定に委ねざるを得ない(きわめて危険な)事態を迎えるに立ち 至ったのである。 むすびにかえて 与野党(自民党,公明党,民主党等)を問わず憲法改正論議(改憲,論 憲,創憲,加憲等)が華やかである。その中には国民の知る権利の保障を 明確にするために,憲法の改正を掲げている意見も見受けられる56)。しか し,国民の知る権利のみに関していえば,これは憲法第21条(第 1 項)の 表現の自由から当然に導き出されるものであって,何も改正しなければ明 確にならないような権利ではない。 問題は,やはり第 9 条(戦争の放棄,軍備[戦力] ・交戦権の否認)であ ろう。海外にまで兵力(部隊)を派遣し,予算規模,装備等の実態におい てアメリカ(軍)に次ぐ世界第 2 の軍事力となった自衛隊の現状57)と,非 武装(中立)平和主義を謳った憲法58)との乖離はもはや限界に達している, といわなければならない。この現状をどう判断するかはきわめて重大かつ 高度な政治問題であって,軽々に論ずべきことではない。ただ,ここではっ きりいえることは現状を追認するために憲法を改正し,自衛隊(自衛権59)) ― ― 17 戦後日本における国家秘密法制の展開 の存在と共に国民の知る権利(保障)を明記したとしても,それによって 現在以上にわが国の防衛に関する情報が公にされることになるのかといえ ば,そのようなことは決してない,むしろその逆になる可能性が高い,す なわちもともと秘密主義で貫徹している軍事力が正式に軍隊と承認されれ ば,国民の知る権利など度外視して,その傾向をますます強化させるに至 ることは――戦前の経験から推しても――明瞭である,ということである。 “国防,軍事に関する事項に秘密が多いのは当然”という態度に終始する のではなく,国民の知る権利に基づいて防衛情報をできる限り(誠意を持 って)国民に公開することにより,その批判を仰ぎながら,防衛体制(=日 本の安全保障体制)を民主的(=官僚・制服主体から国民主体)に再構築 していくという謙虚な姿勢が今,政府,防衛庁に求められているのではな いだろうか。 注 1 )前田哲男編集『現代の戦争』 (岩波小辞典)岩波書店,2002,p. 71 2 )図書館情報学(情報社会関係論)が従来,この問題をほとんど研究対象とし てこなかったのは,大きな間違いであった。 “図書館”という文言はあくまで も単なる“例示”に過ぎないのであって,この学問が追求しているのは“情 報”一般に関する様々な問題の解明なのである。 “図書館”あるいは“図書館 現象”などに拘っていたのでは,図書館情報学(情報社会関係論)の発展は 全く望めないであろう。 3 )吉岡吉典『いまなぜ国家機密法か』新日本出版社,1985,pp. 130−131 4 )同文書の原文については末川博・家永三郎監修;吉原公一郎・久保綾三編『日 米安保条約体制史:日本現代史資料:国会論議と関係資料』1,三省堂,1970, pp. 492−501参照。 5 )塚本三夫『実録侵略戦争と新聞』新日本出版社,1986,p. 56 6 )中山研一・斉藤豊治『総批判国家機密法』法律文化社,1985,p. 16 7 ) 6 )の文献,p. 24 8 )三輪隆「戦後秘密保護法制の展開と八五年法案」『法と民主主義』no. 205 (1986. 3 ),p. 33 9 )フランク・ジョセフ・シュルツマン「連合国日本占領期の刊行物と未刊行資 料」『国立国会図書館月報』204(1978. 3 ),p. 16 10)日米安保体制(および日米安保条約)に関する文献はきわめて多いが,研究 書としては研究者懇談会編著『新安保条約』(三一新書;222)三一書房, ― ― 18 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 1960,長谷川正安[ほか]編『安保体制と法』(新法学講座; 5 )三一書房, 1962,渡辺洋三『安保体制と憲法』労働旬報社,1965,後掲11)の文献,寺 沢一『安保条約の問題性(増補改訂版)』有信堂,1969,深瀬忠一・山内敏 弘編『安保体制論』(文献選集日本国憲法;14)三省堂,1977,渡辺洋三・ 大江志乃夫編著『核時代のなかの安保体制』(労旬教養選書)労働旬報社, 1981,『これからの日米安保』(総合特集シリーズ;38)(『法学セミナー増 刊』)日本評論社,1987,渡辺洋三『日米安保体制と日本国憲法』労働旬報 社,1991,憲法研究所・上田勝美編『平和憲法と新安保体制』法律文化社, 1998等が,また資料集としては(やや古いが)渡辺洋三・岡倉古志郎編『日 米安保条約:その解説と資料』労働旬報社,1968,渡辺洋三・吉岡吉典編 『日米安保条約全書』労働旬報社,1968,末川博・家永三郎監修;吉原公一 郎・久保綾三編『日米安保条約体制史:日本現代史資料:国会論議と関係資 料』(全 4 巻)三省堂,1970−1971,有斐閣編『憲法第九条:いま,ふたた び平和を考えるとき(改訂版) 』有斐閣,1986等が有益である。 11)同法については,九州安保研究会「刑事特別法」民科法律部会編『安保条約: その批判的検討』 ( 『法律時報(臨時増刊) 』第41巻第 6 号[1969.5] ) ,pp. 255− 270参照。 12) 3 )の文献,p. 68 13)同法については,桜木澄和「秘密保護法」11)の文献,pp. 242−246参照。 14) 8 )の文献,p. 34 15)防衛庁設置法,自衛隊法等の防衛関連法令を包括的に解説したものとして(古 い文献だが) ,田上穣治・杉村敏正『警察法・防衛法』 (法律学全集;12)有 斐閣,1958,行財政問題調査研究会編『防衛二法の解説』全国会計職員協会, 1986等をあげることができるであろう。 16)自衛隊および日米安保条約等の「平和主義関連裁判」については山内敏弘・ 太田一男『憲法と平和主義』 (現代憲法大系;2 )法律文化社,1998,pp. 72− 225等参照。 17)古川純「国家秘密法」『軍事民論』44(1986. 4 ) ,p. 19 18)同法については,林茂夫『「国際貢献」の旗の下,日本はどこへ行くのか: 安保・防衛政策を徹底分析する』高文研,1993,pp. 45−53参照。 19)同法案については,福島新吾『非武装の追求:現代政治における軍事力』サ イマル出版会,1969,pp. 83−114参照。 20)軍事問題研究会編『有事立法が狙うもの』三一書房,1978,p. 92 21)20)の文献,p. 92 22)同作戦研究の詳細は,林茂夫編『全文・三矢作戦研究』 (有事体制シリーズ;2 ) 晩聲社,1979参照。 23)小林直樹『憲法第九条』 (岩波新書[黄版];196)岩波書店,1982,p. 81 ― ― 19 戦後日本における国家秘密法制の展開 24)「改正刑法仮案」の条文については,日本社会党・社会文化法律センター編 『学習討論資料国家秘密法』晩稲社,1985,p. 58等参照。 25)戦前の刑法における間諜罪の条文については,24)の文献,pp. 57−58等参照。 26) 6 )の文献,p. 26 27) 6 )の文献,pp. 26−27 28)「秘密区分の基準」 (第 5 条)は,以下のようである。 ¸ 「機密」とは,秘密の保全が最高度に必要であつて,その漏えいが国の安 全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。 ¹ 「極秘」とは,機密に次ぐ程度の秘密の保全が必要であつて,その漏えい が国の安全又は利益に損害を与えるおそれのあるものをいう。 º 「秘」とは,極秘に次ぐ程度の秘密の保全が必要であつて,関係職員以外 の者に知らせてはならないものをいう。 29)山内敏弘「軍事機密と情報公開」 『ジュリスト』no. 742(1981. 6 . 15),p. 54 30)小池晃参議院議員「153−参−外交防衛委員会− 3 号」(2001年10月25日) http://www.a-koike.gr.jp/hilight/2001/gijiroku/2001. 10_25_1. html(2004年 3 月16日入手) 31)PKO協力法については,緑風出版編集部編『PKO 問題の争点:分析と資料 (増補版)』緑風出版,1992,16)の文献等参照。 32)日米新ガイドラインと周辺事態法については,山内敏弘編『日米新ガイドラ インと周辺事態法:いま「平和」の構築への選択を問い直す』法律文化社, 1999等参照。 33)日米共同作戦については,藤井治夫『日米共同作戦の徹底研究:トップ・シ ークレット』光人社,1992参照。 34)山内敏弘「国家秘密法を批判する」 『軍事民論』43(1986. 1 ),p. 51 35)22)の文献,p. 135 36)34)の文献,p. 52 37)“スパイ天国論”が何ら根拠を持たない議論であることについては,たとえ ば山内敏弘「憲法原理の破壊と虚偽の『スパイ天国論』 :国家機密法案を批判 する」『破防法研究』no. 57(1987. 2 ),pp. 21−23参照。 38) 3 )の文献,p. 42参照。 39)24)の文献,p. 38 40)同事件については,1 )の文献,pp. 112−113参照。 41)なお,「秘密」に関する戦後の判例については,金井清吉「秘密をめぐる戦 後判例の紹介」『法と民主主義』no. 205(1986. 3) ,pp. 37−39参照。 42) 6 )の文献,pp. 247−267等参照。 43)34)の文献,p. 51 44)斉藤豊治『国家秘密法制の研究』日本評論社,1987,p. 89 ― ― 20 関東学院大学文学部 紀要 第101号(2004) 45)修正案の名称はその後さらに,「防衛秘密を外国に通報する行為等の防止に 関する法律案」へと変更されたようである。44)の文献,p. 91 46) 1 )の文献,p. 113 47) 1 )の文献,p. 71 48)この改正により,自衛隊の行動として従来の防衛出動,治安出動(命令出動, 要請出動) ,海上警備行動,災害派遣等に加えて,新たに警護出動が設けられた。 警護出動については,1 )の文献,p. 73参照。 49)山内敏弘「平和憲法の理念と『テロ対策特別措置法』 」 『軍縮問題資料』no. 256 (2002. 2 ),p. 13参照。 50)メディア総合研究所「自衛隊法改正による『防衛秘密』保護制度の導入に反 対する」http://www.mediasoken.org/page031.ht(2003年11月 3 日入手) 51)49)の文献,p. 14 52)政府のいう“有事”の意味については,山内敏弘「有事立法」清宮四郎[ほ か]編『新版憲法演習 1(総論・人権 1 ) 』 (有斐閣ブックス)有斐閣,1980, p. 70参照。 53)有事関連 3 法(案)については,自由法曹団編『有事法制のすべて:戦争国 家への道』新日本出版社,2002,山内敏弘編『有事法制を検証する:「 9 ・ 11以後」を平和憲法の視座から問い直す』法律文化社,2002,全国憲法研究 会編『憲法と有事法制』 ( 『法律時報増刊』 )日本評論社,2002,小池政行『戦 争と有事法制』(講談社現代新書;1699)講談社,2004等参照。 54)山内敏弘『人権・主権・平和:生命権からの憲法的省察』日本評論社,2003, p. 354 55)朝日新聞,2004年 2 月27日。 56)今日提出されている様々な改憲案については,渡辺治編著『憲法「改正」の 争点:資料で読む改憲論の歴史』旬報社,2002参照。 57)田岡俊次『図解日本を囲む軍事力の構図』中経出版,2003,pp. 231−244参照。 58)日本国憲法における非武装(中立)平和主義の意義については,横田喜三郎 『戰爭の放 』國立書院,1947,小林直樹『日本における憲法動態の分析』岩 波書店,1963,全国憲法研究会編『憲法第九条の総合的研究』(『法律時報臨 時増刊』第38巻第 2 号[1966. 1]) ,深瀬忠一『恵庭裁判における平和憲法の 弁証』日本評論社,1967,『自衛隊裁判』(『法律時報臨時増刊』第45巻10号 [1973. 8 ] ) ,星野安三郎『平和に生きる権利』 (現代の人権双書;1 )法律文 化社,1974,全国憲法研究会編『憲法と平和主義』(『法律時報臨時増刊』第 47巻第12号[1975. 10] ) ,深瀬忠一『長沼裁判における憲法の軍縮平和主義: 転換期の視点に立って』日本評論社,1975,深瀬忠一編『戦争の放棄』(文 献選集日本国憲法;3 )三省堂,1977, 『憲法第九条の課題』 ( 『法律時報臨時 増刊』第51巻 6 号[1979. 5]),23)の文献,杉原泰雄『平和憲法』(岩波新 ― ― 21 戦後日本における国家秘密法制の展開 書[黄版];371)岩波書店,1987,深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』岩 波書店,1987,和田英夫[ほか]編『平和憲法の創造的展開』学陽書房, 1987,後掲59)の文献,古川純『日本国憲法の基本原理』学陽書房,1993, 古川純・山内敏弘『戦争と平和』(岩波市民大学・人間の歴史を考える;13) 岩波書店,1993,浦田一郎『現代の平和主義と立憲主義』日本評論社,1995, 水島朝穂『現代軍事法制の研究:脱軍事化への道程』日本評論社,1995,山 内敏弘・古川純『憲法の現況と展望(新版) 』北樹出版,1996,澤野義一『非 武装中立と平和保障:憲法九条の国際化に向けて』青木書店,1997,水島朝 穂『武力なき平和:日本国憲法の構想力』岩波書店,1997,深瀬忠一[ほか] 編『恒久世界平和のために:日本国憲法からの提言』勁草書房,1998,16) の文献,澤野義一『永世中立と非武装平和憲法:非武装永世中立論研究序説』 大阪経済法科大学出版部,2002,54)の文献等参照。なお,第 9 条(平和主 義)に関する政府の有権解釈については,浅野一郎・杉原泰雄監修;浅野善 治[ほか]編集『憲法答弁集:1947∼1999』信山社,2003,前田哲男・飯島 滋明編著『国会審議から防衛論を読み解く』三省堂,2003等参照。 59)日本国憲法における自衛権(の存否)については,山内敏弘『平和憲法の理 論』日本評論社,1992,pp. 121−243参照。 ― ― 22
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