「アフリカ大湖地域の危機」 1998年第3号

難民
1998 年第 3 号(通巻 110 号)
アフリカ大湖地域
の危機
悲劇はこうして起こった
UNHCR
国際連合
難民高等弁務官
事務所
編集部から
ジェノサイドとは
1994年の虐殺に対する報復として殺された。
ジェノサイド(民族大量虐殺)――。どんな言語に
おきかえても、
これほど寒気のする言葉はないだろう。
一方、援助機関は、あるフィールド職員の言葉を借
ふつうの人間では考えられない行為を意味するだけ
りれば「山のようなジレンマ」に、日々直面していた。
に、日常的なおしゃべりのなかでも、ビジネスや政治
ジェノサイドの加担者であふれ、場合によっては彼
の場であっても、誰もがこの言葉を口にするのはため
らに支配されているキャンプにも、人道援助機関は食
らうものだ。
糧を与えつづけるべきなのか。
フィールド職員たちは、
1994年、ルワンダの「キリング・フィールド(殺り
自分の命や、何万人もの難民を救う努力を危険にさら
くの原野)
」では、数十万人が虐殺された。しかしそ
してでも、森のなかで起きた新たな大虐殺のことを世
の事実が広く認められるようになったのは、ごく最近
界に伝えるべきなのか。
このような極限状態のなかで、
のことである。先日この地域を訪れたオルブライト米
国務長官は、これまでの公式見解を修正し、
「われわれ
「自発的帰還」の原則は現実的といえるのか、また実施
可能なのか。
国際社会は、1994年にルワンダでおきた残虐非道な行
ジェノサイドは、現在のルワンダ再建の努力にも影
為の初期に、もっと積極的な措置をとり、そこで起き
を落としつづけている。また隣国ブルンジでも、同じ
ているのがジェノサイドであることを認めるべきだっ
ような内乱が原因で、過去4年間に15万人もが命を落
た」と語っている。
としている。このことは、外の世界にほとんど知られ
ていない。
この虐殺事件では、おびただし
い数の犠牲者が出たが、その後も
ルワンダでは対立する両陣営に
似たような事件があいつぎ、アフ
よる殺し合いが続いている。刑務
リカ中部の大湖地域における危機
所は満員状態だし、ほとんどの収
は、他の人道上の緊急事態とは大
監者はおそらく一度も公正な裁判
きく異なるものになっていった。
を受けていない。ルワンダ政府は、
生き残った無実の人々よりも、難
大虐殺の後、ルワンダ人200万人
民流出や混乱のきっかけとなった
以上が国を逃げ出した。その背景
には旧指導者たちによる後押しや
無理強いがあったが、ほとんどの
ルワンダの大虐殺とその後の混乱で犠牲となっ
た子ども
殺りくの当事者たちを国際社会が
優遇しているとして、世界に疑い
人は誰かの後押しなどなくても、自分たちが目撃した
の目を向けている。復興と再建はなかなかすすまず、
事件や報復への恐怖におののき故郷を後にした。
不吉なことに、新たな殺りくが拡大している。
タンザニアやザイール東部におかれた難民キャンプ
オルブライト長官は、
「ルワンダの人権問題には、
は、多くがぞっとするほど劣悪な状況にあり、大部分
あきらかに改善の余地がある。けれども50万人もの国
のルワンダ難民が帰国したがっているのは明らかだっ
民が殺された国にとって、ふたたび結束し和解するの
た。しかしここでも、旧指導者たちが強い影響力をふ
は非常にむずかしいのだということを、私たちが理解
りかざして帰還を阻止しようとした。このため首都キ
するのも大切だろう」と語った。
ガリの新政府が帰還民受け入れの姿勢を示したにもか
結束と和解。それには大変な時間がかかりそうだ。
かわらず、恐怖に脅えた難民たちは、ためらいもなく
国外にとどまる道を選んだのである。
内乱が急拡大するなか、1996年にキブ・キャンプが
2
崩壊したときも、二、三十万人の難民が不安定な未来
これまでに計36人のUNHCRフィールド職員とその
が待つルワンダに帰るより、命を落とす危険をおかし
家族が、殺されたり、殉職したり、行方不明になって
てでもアフリカ中部の密林に逃げこむ道を選んだ。そ
いる。他の人道機関にも同じような犠牲者が出ている。
して、かぞえきれないほどの人々が無差別に、また
本号は彼らの活動と思い出に捧げる(31ページ参照)
。
難民
1998年 第3号
編 集 者 : Ray Wilkinson
寄 稿 者 : Paul Stromberg
Fernando del Mundo
Augustine Mahiga
Craig Sanders
Peter Kessler
Vincent Parker
編集アシスタント : Sylvie Daillot
Marina Ronday-Cao
Virginia Zekrya
写 真 部 : Anneliese Hollmann
Anne Lau-Hansen
デ ザ イ ン : WB Associés-Paris
制 作 : Françoise Peyroux
総 務 : Anne-Marie Le Galliard
配本・発送 : John O'Connor
Frédéric Tissot
日本版
翻 訳 協 力 : 藤原 朝子、今井洋子、
恵谷 由紀子、佐藤 綾子
編集・総務 : 日本・韓国地域事務所 広報室
『難民 Refugees』誌は 、UNHCR
(国連難民高等弁務官事務所)ジュ
ネーブ本部・広報部と東京にある
地域事務所が発行する季刊誌で
す。寄稿記事に表わされた意見は、
かならずしもU N H C Rの見解を示
すものではありません。また図示
された国境の表示は、各領土およ
びその政府当局の法的立場に対す
るUNHCRの見解を表明してはおり
ません。
掲載記事の編集権はU N H C Rに
あります。掲載記事・写真のう
ち、著作権 ©表示のないものの転
載・複写には許可が要りません 。
また ©表示のない写真は、事前に
承諾を求めた出版の目的に限り使
用を認めます。
本誌の日本語版制作協力:(株)
イソラコミュニケーションズ( 東
京) 、英語版および仏語版制作協
力:ATAR sa(スイス)。本誌の発
行部数は、英語、仏語、ドイツ語、イ
タリア語、日本語、スペイン語、
アラビア語、ロシア語、中国語の
各国語版を合わせ20万6000部。
1998年 第 3号(通巻 110 号)
2
編集部から
●
その後の大混乱の引き金となった
4
特集
●
表紙:
写真:
1994年、ゴマに到着するルワンダ難民。
UNHCR / J.STJERNEKLAR
大湖地域は、現代史上もっとも大規模で複雑な
人道危機のひとつだった−レイ・ウィルキンソン
●
アフリカ大湖地域で
は、何万人もの難民が
命を落とした。しかしはる
かに多くの人々が、けわし
いジャングルを何百キロも
歩いて、かろうじて生き延
びた。
4
目撃証言:強烈な悪臭がただよう地獄のような
世界−キリアン・クラインシュミット
●
年表:惨事はいかに進行したか
●
賞賛されることなき英雄たち:援助活動に不可欠
●
目撃証言:最初に惨事をさがしあてた者−ダイ
の現地職員−ピーター・ケスラー
アン・スチュアート
14
タンザニア
●「寛容なタンザニア」の変化
−オーガスティン・マヒガ
16
危機
●
18
地図と写真で見る難民の流出と帰還
ルワンダ
●
帰郷……不安定な未来を覚悟して
−ポール・ストロンバーグ
●
18
ほとんどの難民が
歩いてルワンダに
戻るなか、幸運な者だけが
車に乗れた。
22
子どもたち:幼い者が標的に
オピニオン
●
23
誰もが手詰まりに−デニス・マクナマラ
ブルンジ
●
世界に忘れられた危機−レイ・ウィルキンソン
●
現地NGOのすばらしい活躍
26
環境
●
発行: UNHCR日本・韓国地域事務所
〒107-0052 東京都港区赤坂
8-4-14
TEL 03-3475-1615
FAX 03-3475-1647
郵便振替 口座番号
: 00130-4-59734
加入者名: UNHCR
業務時間: 月曜∼金曜日
9:30 ∼17:30
(昼休み12:30∼13:30)
日本語版発行:1998年6月
1994年にアフリカ大湖地域で起きた大量虐殺が、
豊かな自然はどこに行ってしまったのか?
−クレイグ・サンダース
30
メディア
●
26
大規模な難民流入
で、アフリカ中部に
環境破壊が広がった。
報道はなぜまちがったのか
−ニック・ゴウィング
31
難民
危機の犠牲となったUNHCR職員
1998年 第3号
3
1994年、ブカブへ続くルジジ橋をわたる難民。
|
特 集
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暗黒のなかで
それは現代史上もっとも大規模で、もっとも複雑な人道危機のひとつだった。数百万人を巻き込み、アフリカ中
部の政治地図を永久に変えた事件のなかで、何十万人もの人々が命を落とした。しかし助かった人の数は、はる
かに多い。
レイ・ウィルキンソン
ルワンダの大虐殺はこれまでにない
方八方へと逃げ出した。大部分はルワ
虐行為を世界に伝えるべきか。③自発
規模に達し、おびただしい数の難民が流
ンダ人だったが、なかには混乱に巻き
的帰還という難民保護の大原則を見直
出しているといううわさが広まった。
込まれたブルンジ人やザイール人もい
すべきか(さもなければ、人々はほぼ
そのころ、隣国タンザニアでは、モリー
た。7月にザイールに逃げ込んだ推定5
確実に死ぬという状態だった)
。
ン・コネリーをはじめとする援助職員
万人は、初期の混乱のなかでコレラな
そこには簡単な答えなどなく、過去
たちが、不安のなか、毎日のように国
どの伝染病にかかって死んだ。約3年後
ほぼ4年間にとられてきた決断は、依然
境地帯の見回りに出かけていた。
には、報復的な殺りくと病気が原因で、
としてUNHCR、非政府組織(NGO)な
数万人が密林のなかで命を落としたと
どの人道機関、関係国政府、そして難
みられている。
民たち自身を悩ませてきた。こうした
しかし当初は、不吉なほどの静けさ
につつまれていた。
「なんの動きもなか
ったし、なんの情報も入ってきません
アフリカ中部の政治・軍事地図はす
でした」とコネリー。
「ジェノサイドは
っかり変わってしまった。大虐殺とフ
避難民たちも飲み込んでしまったので
ツ系住民流出の後、ルワンダでは新政
UNHCR幹部で、アフリカ中部におけ
しょうか。そもそも彼らは生きている
府が樹立され、新しい地域・国際同盟
る活動で何か月も中心的な役割を果た
のでしょうか。私たちは真空状態のな
が形成され、アフリカで最も長く権力の
してきたフィリッポ・グランディは、
かで手がかりをさがしました。不気味
座についていたザイール(現コンゴ民主
「毎日がジレンマの連続でした」と語る。
な感じでした。
」
共和国)のモブツ元大統領は、国家元首
「そして誰もが、永久に癒やされること
1994年4月28日、コネリーの小さな偵
の地位から引きずりおろされた。
状況は、今後の危機への対応にも影響
を与えるだろう。
のない傷を心に負いました。
」
察チームは、いつものように国境にか
人道機関は、かぞえきれないほど無実
一連の危機の発端は、1994年4月に大
かるルスモ橋に近づいた。
「そこから見
の人の命を救ったが、そのなかで援助
量の難民がルスモ橋に押し寄せた時で
あげると、ルワンダ領土内の丘が人で
活動員自身が命を落とすこともあった。
はなく、ルワンダの隣国ブルンジ初の
埋めつくされていました。見わたす限
難民を支援するという単純なはずの計
民主選挙で選ばれたヌダダイエ大統領
りのアフリカの大地が人々で覆われ、
画が、第二次大戦後に難民保護・援助体
(フツ出身)が、1993年10月に反政府勢力
波のようにこちらに押し寄せてきたの
制が構築されて以来、最大の混乱をきわ
の兵士に暗殺された時とされる。これ
です。
」
める泥沼にはまりこんで
この越境地点だけでも、24時間でルワ
ンダ人20万人以上がタンザニアに入っ
しまったのである。
援助機関は、次のよう
てきた。それはフィールド職員たちが、
な非常にむずかしいジレ
現代でもっとも急速で規模の大きい難
民流出だったと語る集団避難だった。
後に「アフリカ大湖地域難民危機」
をきっかけに地方部で報
見あげると、
ルワンダ
復的な虐殺がおき、さら
の丘が人で埋めつく
にその報復を恐れたフツ
系住民70万人が、ルワン
ンマに陥った。①殺人犯
されていました。
見わ
ダ、タンザニア、ザイール
を支援することになると
たす限りのアフリカ
に逃げ込んだ。
知りながら、女性と子ど
の大地が人々で覆わ
ブルンジ難民への対応
と呼ばれるようになった事件は、数時
もへの食糧支援を続ける
間のうちに国際的な一大難民問題へと
べきか。②まだ生きてい
れ、
波のようにこちら
きたルワンダ難民への対
急発展し、その間接的な影響は現在もひ
る難民を救う活動を危険
に押し寄せてきたの
応に大きな影響を与えた。
ろがり続けている。
にさらしてでも、1997年
1994年、ルワンダから数十万人が四
に密林のなかでおきた残
難民
です。
1998年 第3号
は、わずか数か月後にお
ルワンダ難民がタンザニ
アに到着する頃には、大
5
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このンガラをはじめとするキャンプで、タンザニアは数十万もの難民を受け入れた。
部分のブルンジ難民は帰還を果たして
虐殺加担者と判明している人物を
降線をたどったが、国境を示すたった
いたが、ブルンジ難民むけに整えられた
UNHCRが追い出そうとしたところ、怒
ひとつの柵を越えて難民の波が押し寄
インフラ(社会基盤)、不測事態対応計
った若者3000人が暴徒化し
(なかには薬
せてきたときは、落ちぶれたなかにも、
画、食糧備蓄が、新たに到着したルワ
物を使っていたり、棒やナタを手にして
まだ魅力と優雅さを残していた。
ンダ難民の援助に役立ったのである。
いる者もいた)
、小人数で丸腰の援助職
員を取り囲んだ。
「タンザニアの警官20
服に子供たちをしがみつかせ、両手い
で、後に緊急事態調整官となったコネ
人がやってきて、威嚇射撃をしてくれた
っぱいに家財道具をかかえていた。老
リーは、「とても運がよかったのです。
おかげで、事態は収まり、外国人の命も
人たちは松葉杖をつき、手押し車に乗
ほとんどの物資が適切な場所にありま
助かったのです」と、
ベナコ・キャンプ
せられていた。そして若い男たちは制
した」という。備蓄にくわえて、
「難民
の責任者ジャック・フランカンは語る。
服や軍服に身をつつみ、あらゆる種類
援助に関しては定評のあるタンザニア
そしてザイールの小さな湖畔の町ゴ
の武器を手にしていた。武器の一部は
政府の協力がありました。現地には多
マに、100万人以上が押し寄せてきた7月
捨てられたが、それ以外はこっそりザ
数の援助機関がいましたし、難民流出
半ば、危機はとうとう現場職員の手に負
イールにもちこまれた。
の規模が大きかったので、すぐに国際的
えなくなった。
な支援も集まりました。
」
ベルギーの植民地時代、ゴマ、ブカブ、
難民たちも、まとまりがよく健康で、 ギセニといった町は田園風のおもむきを
難民キャンプは、武装解除され、
(安
全保障上の理由から)不安定な国境地
1年以内に50万人がタンザニア政府に援
もつ別荘地で、湖畔には白塗りの豪邸と
帯から離れた場所に設置されているの
助を求めた。
ヨーロッパの高級レストランが立ちなら
が望ましい。しかしゴマ地区はすでに満
んでいた。地平線には雄
員状態だったため、ザイールの地元当局
一番ひどい時期に
大な活火山がそびえ、その
は新たに到着した難民たちに対して、ゴ
山腹にはマウンテンゴリ
マを抜けて10キロあまり西にあるムグン
すでに、その後のジレン
は、
わずか1日で7000
ラなどの珍しい動物が生
ガ・キャンプか、北方のいくつかの場所
マと悲劇を予感させる不
人以上が命を落と
息していた。
に行くよう指示した。
このため初期段階は、
この危機にも対応できる
ように思われた。しかし
穏な事件が起きていた。
ベナコ・キャンプでは、
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そこにやってきた難民の母親たちは、
UNHCR不測事態対応計画の責任者
モブツ政権時代の30年
した。
間、この地域の繁栄は下
難民
1998年 第3号
難民たちは主にフツ系だったため、
長くツチ系住民が多数派を占めてきた
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他の場所では歓迎されないだろう、とザ
状況にある人たちにとっては遠かった。
イール人たちは言った。この指摘はほ
下痢やコレラなどの病気が、あらゆ
それは、10年前のエチオピア大飢饉
とんど重要視されなかったが、それが
る人々を襲った。死体は白い布かワラ
のときと同じくらい悲惨な光景だった
真実をついていたことは後の出来事で
のむしろに包まれ、道端に寄せられた。
が、多くの国際的なテレビ局が、恐怖
はっきりした。
その数はあまりに増え、フランス軍や
の全貌を世界に伝えることはなかった。
なくてはならなかった。
いまや難民たちは、いつ死ぬかわか
ザイールのボーイスカウトを中心にす
1994年7月には、わずか1日で7000人以上
らない危険な状況におちいっていた。
すめられた埋葬作業も追いつかないほ
が命を落とした日もあった。
とくに北部に連れていかれた人々は、
どだった。とくに周辺の黒い地盤はゴ
死の瀬戸際に立たされた。水はすぐ近く
ツゴツとした溶岩質で非常に固く、小
の湖にあったが、それでも一番苦しい
さな穴を掘るにもダイナマイトを使わ
世界の反応
「似たようなかたちのものをみると、
そこはまるで映画『インディ・ジョーンズ』の
世界だった。ただしもっと不潔で、強烈な悪臭が
ただよう、まるで地獄だ。
った難民の死体が、大きな穴に投げ込まれ、焼
1997年、恐怖にふるえる数万人の難民が、ザイールの町キサンガニを目ざして
う。森は決して教えてくれない。
かれた。UNHCRのビニールシートは、死体を焼
くのに理想的な役割を果たした。援助物質が、
そんなふうに使われることがあろうとは誰が想
像しただろう。
最終的に森を抜け出せたのは、一体何人だろ
いた。キリアン・クラインシュミットは緊急フィールドチームを率いて、難民たちの
落ち着き先を準備し、死の淵から救った
「恐怖列車」とトラックが、
1日1500∼2000
人を運び出した。あるとき森にいた難民たちは、
これが最後の列車だと教えられた。最終列車!
おびただしい数の人々が列車に殺到した。われ
キサンガニ:われわれは、想像を絶するかたち
死体と瀕死の人々。元気な男たちもいたが、おそ
われはその列車を引き受けるために、スピード
でこの町に飲み込まれ、信念とエネルギーを奪い
らく(ルワンダでは)他の人々を追い立てていた
ボートでコンゴを横断した。すると誰かが私に
取られ、対応力の限界に達していた。まるでアド
連中だ。しかし彼らも、
いまや自分が追い立てら
こう言った。
「列車内で死人が出ているぞ」
ベンチャー映画『インディ・ジョーンズ』のな
れる立場になった。死にそうな人々を前に、尋問
かにいるようだった。ただし現実の世界は、映画
などできるはずがない。
より恐ろしく、強烈な悪臭がただよい、不潔だっ
た。まるで地獄だ。
われわれは、果てしないジャングルに迷い込ん
だ10万人を探しまわった。
ふたつの車両には、死体と瀕死の人々が1メー
トルの高さまで積み上げられていた。他の人々
は、この死体の山の上に立っていた。ある10歳
悪魔の仕業のような雰囲気
カセセ・キャンプ(キサンガニの南)
:8万人が
約束の飛行機での帰還を待っている。しかしまだ
くらいの子供の死体は、汗と尿で100キロほど
にふくれあがっていた。列車の片側が開けられ
ると、死体も生存者も外に転がり落ちた。
いた! そこで植民地時代の古い機関車「ジャ
使用許可は出ない。毎朝200人ちかくが死に、医
保護や援助の基準は忘れられてしまった。一
ングル・トレイン」で、密林のなかをすすんだ。
者や栄養士たちは不可能な任務に直面していた。
人ひとりと面接する時間はなく、飛行機、列車、
列車が数メートルも登れないほど湿度が高いと
彼らは死体を葬り、いくらかの食糧と医薬品を与
トラックは定員オーバーになるまで難民たちが
きは、線路に砂をまき、燃料をくべて、
世界中の
え、ビニールシートと毛布を配ると、安全を求め
詰め込まれた。ジャーナリストも、子どもたちに
人々とマスコミ、そして反政府勢力が注目するな
て町に姿を消して行く。
食糧を与え、死体を運ぶのを手伝った。
か、人間の命の価値が失われつつある場所まで、
なんとか前進した。
1週間がたった。戦闘は反政府軍、村人、難民
キサンガニとザイール東部全域における援助
を巻き込んだ。誰もいない。みな姿を消してしま
は、
「不可能な任務」だった。多くの間違いもあ
とちゅう難民たちは列車を歓迎してくれたが、
った。かつてコレラ患者でいっぱいだったセン
ったが、私は人道援助者として、また人間とし
それは恐怖に転落する前の楽しい瞬間だった。
ターは放棄され、担架はあるが、誰も乗せられて
て、他にどうすべきだったかのか今も分からな
さらに森の奥にすすむと、死臭がしてきた。
いない。何週間にもわたる活動のなかで常に感じ
い。ひとつだけ確かなのは、この任務は、私たち
暗くもやのたちこめた森のなかに、目が大きく
てきた死臭さえも消えた。悪魔にあやつられてい
全員にとって永遠に忘れられないものになった
くぼみ、まったく反応のない生ける屍がみえてき
るような不気味な感じがする。難民たちは追い
ということだ。あの森のあの光景、あの悪臭、
た。3日前に沼に落ちたある女性は、なんとか命
立てられて散り散りになったが、一番の標的に
あの暗さを忘れ得ないだろう。
はある。泣きつづける子どもたち。泥にまみれた
なったのは、女性と子どもたちだ。何層にも重な
難民
1998年 第3号
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かならず震えがきて、死体を思い出し
と、200ちかい援助機関がゴマにやって
ます」とフィリッポ・グランディは言
きた。いずれも援助が最大の目的だっ
う。
「ジュネーブにいても変わりません。
たが、多くの機関は、こうしたマスコ
ゴマでの難民救援活動が始まってか
あの恐ろしいかたまり。何でもないワ
ミの注目する危機がもつ宣伝力と資金
ら2週間で、国際社会は推定20億ドル
ラのむしろにみえますが、あのかたま
調達のチャンスもねらっていた。一方、
を投じた。この地域の長期的な経済的・
りは死体そのものよりも恐怖を呼び起
各国政府は資金、専門技術、軍事力など
社会的開発に同程度の金額が投資され
こすようになりました。
」
の面で支援を行なった。
ていれば、そもそも大惨劇は避けられた
強く認識された。
最初の数週間で、死者の数は5万人に
ボスニアでは、人道活動に軍の助力
はずだ、と救援活動が終わった後になっ
達した。なかにはきわめて不可解な死
を認めるかどうかをめぐり、人道機関
て分析する専門家は多い。しかし現実派
をとげた人もいる。一部の難民たちは、
や関係者の間で大きく意見が割れた。
は、そうしたシナリオは理論的には正し
湖近くにある火山性の深い洞窟に住み
しかしアフリカ中部では、とりわけ手
いかもしれないが、主要拠出国の有権
ついたが、黒い岩から染み出てくるガ
に負えない圧倒的な状況下で短期間に
者は平凡でありふれた長期的プロジェ
スにやられてしまったようだ。
おびただしい数の人々を救うには、十
クトに、それほどの大金を出したがるも
国際社会は、最近のボスニアなみの
分に組織された軍の資材補給能力(と
のではない。胸を締めつけられるよう
大規模な対応をとった。数週間もする
くに空輸)を利用するしかないことが
な危機に対してこそ反応をみせるのだ、
と指摘している。
死者が減ってくると、危機は果てし
大湖地域年表
なく複雑な局面にはいった。それまで
は、問題も比較的わかりやすいと思わ
1993年10月21日
ブルンジ初の民主選挙で選ばれたヌダダイ
エ大統領が、反政府勢力の兵士に殺される。
報復的殺りくが地方部を襲い、それを恐れ
たフツ系住民70万人が、ルワンダ、タンザ
ニア、ザイールへと逃げ込む。
1994年4月6日
ルワンダとブルンジの両大統領の乗った飛
行機が、キガリの空港の近くで謎の墜落。
両大統領は死亡。ルワンダ兵と民兵集団イ
ンテラハムウェは民家をしらみつぶしに捜
索し、50万∼100万人が殺される。
1994年4月28日
24時間でルワンダ人約25万人が、ルスモ
橋をわたってタンザニアのンガラに流出。
この最初のフツ系難民の避難は、現代史で
最も大規模で急速な難民の流出となる。
1994年7月14日
事態はさらに悪化。4日間でルワンダ人
100万人以上がザイール東部の町ゴマへ押
し寄せる。コレラが発生し、劣悪な衛生状
態のキャンプでは数週間で5万人が死亡。
大規模な国際援助がはじまり、最初の2週間
に20億ドルがつぎ込まれる。
1994年8月
UNHCRがゴマからの最初の帰還を組織。
翌日、帰還にむけて待機していた難民を過
激派が襲う。ザイールとタンザニアのキャ
ンプでは、難民を政治的・軍事的に支配し
続けようとするインテラハムウェが日常的
に難民たちを襲い、殺害。
1995年1月
UNHCRは旧ルワンダ兵を純粋な難民から
引き離そうとするが、国際社会はこの呼び
8
かけを無視。U N H C Rはザイール軍兵士
1500人を雇って、ゴマ、ブカブ、ウビラの
キャンプの治安維持にあたらせる。
1996年7月
国際的な圧力の高まりで中止されるまでに、
ルワンダ難民1万5000人が、ブルンジ北部
のキャンプから強制送還された。7月25日
にブルンジでクーデターが起きると、さら
に6万5000人がUNHCRに帰還を申請し、
ブルンジでの活動は8月に終了。
1996年10月13日
ザイール東部で反乱が起こった結果、難民
キャンプはすべて破壊され、モブツ政権が
倒れる。ウビラの北にあるルニンゴ・キャ
ンプがまず襲撃され、ほかのキャンプも何
度となく襲われた。
1996年11月15日
UNHCRはザイールのゴマから一時退避し
たが、難民がゴマ西方のムグンガ・キャン
プから避難しはじめたため、援助に戻った。
その後数日間でルワンダ難民60万人が本国
へ帰還するが、旧ルワンダ兵とインテラハ
ムウェは西方のザイール奥地へと向かう。1
か月後、タンザニアにいた難民50万人の第
1陣が、タンザニア軍の支援を受けて帰還。
1997年3月17日
人道機関、ザイールの密林に逃げ込んだ難
民を追跡。難民6万2000人の第1陣がティ
ンギ・ティンギ・キャンプから飛行機で帰
還。約18万5000人が同時期に空路と陸路
で帰還するが、何十万人もがアフリカ中部
で依然として行方不明となっている。
れていた。まず難民の流出に対応し、
人命救助活動をして、状況を安定化さ
せたら、大規模な帰還計画を立てはじ
める――。しかし物事はそう簡単に運
ばない。古い共同体や村の構造は国外
でもそのまま維持され、最初のジェノ
サイドの先頭に立った旧政府高官と民
兵組織インテラハムウェが、新しいキ
ャンプの支配権を握ったのだ。
敗走したルワンダ軍の兵士たちも、
依然として結束がかたく、多くの武器を
もっており、民間人キャンプのすぐ外
側にテントをたてた。当時、各キャンプ
の入り口では、サングラスにダークスー
ツ姿で、これみよがしにルワンダのナ
ンバープレートをつけた高級車メルセ
デス・ベンツに乗った大勢の男たちが、
キャンプ内の若い殺し屋たちに現金の
束をわたす光景がよくみられた。
帰還に同意するなどの「ルール違反」
をしたり、旧指導層に反発した難民た
ちは、殴られたり殺されたりした。食糧
の配給は事実上かつての護衛隊が管理
しており、結果的に、
(とくにUNHCR
は)大虐殺の犯人たちに食べ物を与え、
保護し、1996∼97年に起きた事件のおぜ
難民
1998年 第3号
私の任務では支援する義務があるの
です。
」
その後、少なくとも外部の世界か
らは「忘れられた歳月」が訪れた。
テレビカメラは姿を消し、世界は関
心をもたなくなった。しかしアフリ
カ中部に訪れた静けさは、うわべだ
けだった。当時のUNHCRゴマ事務
所のジョエル・ブトルー所長による
と、膠着状態をやぶって難民たちを
故郷に帰還させる努力は徐々に緊
急性を増し、最終的には必死で取り
組まれるようになった。
ブトルー所長によると、おもだっ
た関係者の間では、当初、難民たち
を平和的に帰還させるのがなにより
最高の解決策である、との合意があ
った。しかし、それに続く合意はほ
とんどなかった。まだ傷あと深い国
への早期帰還はなされるべきなの
か。100万人以上の帰還民を受け入れ
る環境がルワンダ国内で整うまで、
帰還は遅らせるべきなのか。帰還さ
せるなら、一斉帰還にすべきなのか、
段階的帰還にすべきなのか。
他の選択肢についても検討が重ね
られた。どうすれば罪のない難民た
ちを殺人犯たちから引きはなし、ど
混乱の中の尊厳:キサンガニの難民。
うすればキャンプを国境からもっと
視員への協力を求めました。けれども
内側の土地に動かせるか。最終的には、
前向きな回答を得られたのは、わずか
ほとんど実現不可能な方法まで議論の
キャンプの暴動では、組織的なギャン
一か国だけでした」。結局UNHCRは、
対象となり、難民の帰還を「奨励する」
グや殺し屋に対して、非武装の援助活
ザイールのエリート部隊をやとい、表面
ために援助を減らしたり、一斉帰還をス
動者たちがいかに無力か思い知らされ
的には秩序を守らせた。理想的とはい
タートさせる試みとして限定的な強制
た。しかしUNHCRのフィールド職員も
えなかったが、活動を続けるために誰
送還をやってみては、との案については
手をこまねいていたわけではなく、記
もが歓迎した。
激論が交わされた。
ん立てをしてしまったことになる。
その一方で、先に紹介したベナコ・
UNHCRはキャンプから撤退してしま
しかしどれも実現にはいたらなかっ
ャンプを仕切っている状況を強く訴え、
えばよかったのに、なぜそうしなかっ
た。
「
(各国政府や機関などの)国際的な
国際的な支援を求めた。
たのか、との質問に対して、緒方高等弁
行動主体間の利害の衝突、関心の低さ、
務官はこう答えている。
「キャンプには
国内の反対などがあいまって、アフリカ
最近のあるインタビューでこう語って
罪のない難民もいました。その半分以上
中部地域への国際社会の対応は情けな
いる。
「私たちは各国政府に繰り返し支
が女性と子供です。
『殺人に関係してい
いものとなった」とブトルーは、当時の
援を求めています。ブトロス・ガリ国連
ましたね。あなたも有罪ですよ』と言う
出来事をまとめた最近の研究で結論づ
事務総長は、40∼50か国に国際休戦監
べきでしょうか。民間団体とちがって、
けている。
者会見や公式報告書で、民兵たちがキ
緒方貞子・国連難民高等弁務官は、
難民
1998年 第3号
9
|
C OV ER
援助活動者たちは段々
|
S T OR Y
と言う。「おそらく私た
を数多く乗り越えてきた。しかし今回
と孤立感を強め、国際社
難民たちが最近経験
ちは、政府に圧力をくわ
は、同大統領の勢いが失われつつあっ
会に見捨てられたような
してきた苦難にくら
えるために、もっと世論
た時期なだけに致命的な打撃となっ
を味方につけるべきだっ
た。反対勢力はまず、ザイール東部の山
たのでしょう。当時の大
腹にクモの巣状に広がっていた難民キ
好な状況にあること
国の間に少しでも合意が
ャンプを標的にした。戦闘は、この地域
がすぐにわかった。
あれば、政治的解決の
の人道活動の連絡拠点となっていたゴ
枠組みだけでもできたか
マの町にも拡大したため、UNHCRをは
気持ちになった。彼らの
活動はボスニアのときと
同じように、軍事的・政
治的行動を起こさないこ
とへの言い訳になってし
べれば、驚くほど良
まったのである。
ブトルーは、UNHCR独自の役割も、
難民の「帰還に関する明確な方針を維
もしれません。実際には
じめとする援助機関は職員を一時的に
そういったものは、まったく生まれませ
退避させた。何十万人もの難民も散り
んでした。
」
散りになった。この地域ではおぞまし
持できなかった」ため損なわれてしま
ったと考えている。
難民問題に関して何らかの進展があ
い事態も日常茶飯事になっていたが、
ったとすれば、政治的・軍事的な状況
さらに背筋の凍るような事件がおきる
条件が整いつつあったのである。
緒方高等弁務官は、様々なジレンマ
の悪化だ。ルワンダへの奇襲攻撃が増
を説明するなかで、UNHCRは当時、も
え、アフリカ中部では不穏な空気が広
っと強硬な態度をとれたはずだと述べ
がりはじめたのである。
ンガ・キャンプ周辺に無理やり連れて
終わりのはじまり
数週間も途絶えてしまった。ふたたび
ている。
「世論は私たちが板ばさみの状
況に陥っていることに、あまり関心を
多くの難民は、ゴマの西にあるムグ
行かれた。しかしその後、彼らの消息は
示しませんでした。一部の援助機関が
1996年10月、当初は地域的なものと思
アフリカ中部に世界の注目が集まると、
撤退するとき、世界が(事態の深刻さに)
われた暴動がザイール東部の南キブ地
西側諸国の政府高官のもとには、無数
気づいてくれることを願っていました
方で起きた。当時政権を握っていたモブ
の死体が大地を覆っているという情報
が、そうした事態も起きませんでした」
ツ大統領は、過去にも同じような抗争
が伝わってきた。さらにイギリスの国
職員が町から避難する準備をしていることがわか
賞賛されることなき英雄たち
った。ツィロンボは苦悩に満ちた瞬間に直面した。
最近、国際組織の現地職員は、こうした場面をよ
現地職員は、新たな危機に真っ先に飛び込んでいき、最後までとどまることが多い。 く経験するようになった──現地の治安が悪化し
なくてはならない存在であり、命を危険にさらすことも頻繁にある。しかし、彼らの
て外国人職員が撤退し、後に残された現地職員は
不安定な将来に放り出される。複雑な心境だった。
活躍ぶりが賞賛されることはほとんどない。
「外国人の撤退準備の通信を聞いていました」とツ
シーザー・ツィロンボは以前にも戦争を体験し
ている。しかし、危険な生活を経験していても、
ィロンボ。
「彼らは特に標的にされていたのですか
ら、撤退は当り前のことだったんですよ。
」
1996年に紛争がザイール東部全体に広がったと
き、十分な心の準備があったわけではなかった。
「もう戦争を2度くぐりぬけていましたから、
恐怖は感じませんでした」とUNHCRの無線技術
危険にさらされる現地職員
現地職員は人道援助活動の支えだ。危険な状況
にあって、彼らは賞賛されることもあまりなく、
者として勤めていたゴマの陥落を思い出しながら、 忘れられてしまうことさえある英雄たちだ。この
ツィロンボは語った。
「でも、子どもたちのことが
仕事にはたしかに魅力もある。給与は現地の水準
心配でした。それから、実際にもっと危険にさら
より高いし、人道援助活動は聞こえもよく、危機
されている人たち、たとえば運転手などが心配で
にある地で得られる唯一の職であることも多い。
した。
」
しかし職員は、しばしば命を落とす危険にさらさ
反政府軍がゴマへ侵攻するなか、現地職員が確
ルイス・ムサフィリ(左)は、帰還難民の援助中
に事故で死亡した。
10
れている。
実に給与の前払いを受けられるように、ツィロン
1996年の内乱中、外国人職員がゴマからケニ
ボは最後の瞬間まで働きつづけた。正午にあわて
アへ向かって東へ逃げたとき、ツィロンボと妻の
て家へ戻ると、すでに町には砲弾が降っていた。
アイメランス、5人の子どもたちは戦いから逃れ
人道機関の無線通信を聞いているうちに、外国人
ようと西へ40キロ進んだ。その途中、ツィロンボ
難民
1998年 第3号
ゴマのムグンガ・キャンプでコレラ患者の手当てをする医師たち。
営放送BBCは、秘密裏に大虐殺が行な
れなかった。1996年11月、反政府勢力が
われたと報じた。
とうとうムグンガを制圧すると、数十
各国政府と援助機関は、当初これらの
かった。
国連加盟国は、難民救援のために多
万人がルワンダに帰ろうと東部に移動
難民のルワンダ帰還にあまり手を貸し
国籍軍を派遣することで原則合意した
した。しかし大規模な死者は出ておら
ておらず、洪水のような勢いの人々の
が、この地域に関する多くの計画がそ
ず、難民たちは最近の苦難にくらべれ
流れを、ただ見つめているだけだった。
うであったように、結局なにも実施さ
ば驚くほど良好な状況にあることがわ
一方、大虐殺に加担した人々の大部
分と、
その家族と支援者を含む数万人は、
大勢とは反対の西に向かい、アフリカの
が目にした暴力は、若い頃に目撃し、自分の家族
で殺されたり、殉職したり、行方不明になった36
ジャングルの奥深くへと逃げ込んでい
には決して経験させたくないと思ったようなもの
人のUNHCR職員の一人だ。他にも多くの人々が
った。数週間にわたり、地球上でもっと
だった。
「サケという町で恐ろしい光景を見まし
負傷したり、暴力を受けたり、脅迫された。
も荒れ果てた場所のひとつで、フツ系住
た 」とツィロンボ。
「ですが、近くのムグンガ(難
ツィロンボは今もUNHCRの仕事を続け、コン
民キャンプ)で見たのは、本当にひどかった」。 ゴ民主共和国(旧ザイールの現在の名称)の首都
何千何万という難民が数週間ムグンガで足止め
キンシャサにあるUNHCR事務所で働いている。
を食い、物理的にひどい状況におかれ、肉体的苦
一方、彼の妻は、何百キロも離れたゴマで暮らし続
痛をこうむった。1996年終わり近くに、難民た
けている。外国人であれ現地人であれ、フィール
ちは四方八方へ散らばっていった。
ド職員の仕事は、いつも危険と隣り合わせだ。憂
その後、ツィロンボや他の現地職員、戻ってき
うべきことだが、この傾向は、近年ますます顕著に
た外国人職員は、アフリカ中部の熱帯雨林を分け
なっている。大湖地域の危機では、こうした傾向が
入って何万人もの難民を追跡した。彼らは、何か
ますます助長された。外国人は極端に危険が高ま
月ものあいだ、暴力と大勢の人間の苦しみととも
ったら国外に退避できるが、国連の規則には、その
に暮らし続けたのだ。
場に家族がいたり、家があったり、生活の根がある
1996年3月、UNHCRの中心的な職員で人望
現地職員についての規定はほとんどない。
民、撤退するザイール政府軍、反政府勢
力、援助機関が追跡劇を展開した。
大虐殺のはじまり
ムグンガ陥落とともに、大虐殺の傷あ
とがみえてきた。ムグンガに入った援
助職員たちは、古ぼけた小屋のなかで
無数の死体の山をみつけた。それから
数週間、残虐行為の報告数はどんどん
増えていった。
援助職員たちは、苦労して丘を越え、
ジャングルを抜けて進んでいくなかで、
の篤かったルイ・ムサフィリは、車で近くの飛行
アフリカ中部での事件をきっかけに、人道援助
場まで難民の一団を連れていく途中、交通事故に
職員すべての安全確保が、今後の長期的な課題と
自分たちが意図せず残忍な殺人ゲーム
あい、そのときの怪我が原因で命を落とした。
「ル
なるだろう。
の共犯者になってしまっているのに気
づくことも多かった。食糧をくれると
イは仕事を離れても友だちだったし、尊敬してい
ました」とツィロンボは語る。
「ルイには、ある資
いう約束を信じて森を出てきた難民た
ピーター・ケスラー
質がありました。それは、人道機関で働く人々に
ちを、銃をもった男たちが連れ去って、
備わっていると私がいつも感じていたものです。
」
殺してしまうということもあった。
ルイ・ムサフィリは、アフリカ大湖地域の危機
難民
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C OV ER
S T OR Y
|
「私はジュネーブにいる高等弁
務官に直接電話しました。そんな
ことをしたのは10年ぶりでした」
とグランディ。
「難民と援助職員
は恐ろしい状況に置かれていま
す。われわれは撤退すべきでしょ
うか、と私は高等弁務官に尋ねま
した。議論をかさねた結果、私た
ちはとどまることで合意しまし
た。撤退すれば(事態の深刻さを
世界に示す)大きなサインを送れ
たかもしれません。しかし私たち
が撤退すれば、もっと多くの人た
ちを死に追いやることになったで
しょう。
」
UNHCR緊急チームのリーダー、
キリアン・クラインシュミット
は、キサンガニは生き地獄だった
と振り返る。映画『インディ・ジ
ョーンズ』よりもっとひどい状況
で、
虐殺と静けさが交互に訪れる、
妙に現実ばなれした悪夢のようだ
ったという。しかしこの恐怖にも
かかわらず、また、もう難民は残
っていないという複数政府の主張
にもかかわらず、1997年には18万
5000人以上のルワンダ難民がジャ
ングルのなかで発見された。そし
て推定6万2000人が、アフリカで
史上最大規模の空輸作戦によって
故郷に帰った。しかしまだ大勢の
難民がいくつかの国に残っている
し、計算に入れられていない難民
帰還するルワンダ難民。1996年、タンザニアから。
大虐殺は、フィールド職員たちにもっ
たフィリッポ・グランディだ。
「私たち
ザイール東部にはじまりタンザニア
とも苦しいジレンマを突きつけた。見て
は慎重に現実に対応しようとしました。
に飛び火したこの危機を通じて、
きたことをすべて「公表する」か、援助
いま思えば、もう少し声を大にできた
UNHCRは根本的な問題に直面した。ど
職員の安全と現在も生きている難民を
かもしれません。しかし当時は、本当に
のような状況下でルワンダ難民を帰還
救う努力を無にしないために口を閉ざ
どうにもならなかったのです。
」
させればいいのか。帰還は「自発的」
すべきか――。
12
も数万人いるだろう。
キサンガニ周辺から数万人を避難さ
であるのが原則だが、そのためにはあ
「私にとって、あれはまさに最悪のと
せる計画が、UNHCRを中心にすすめら
る程度の法と秩序、そして庇護国の協
きでした」と言うのは、ザイールのキサ
れる一方で、生き残った難民と援助職
力が必要だ。
ンガニ(ゴマにかわって援助活動の新
員のおかれた状況は、かつてのゴマや
これらの要素はどれも、アフリカ中
たな拠点になっていた)で活動してい
ブカブと同じくらい悲惨になっていた。
部では暑さと混乱のなかで忘れ去られ
難民
1998年 第3号
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C OV ER
S T OR Y
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てしまい、ほとんどの難民は究極の選
う言葉を使うことをきらい、より正確
傷を負った。それは「不可能な任務」
択に直面している。ジャングルのなか
な「避難」という言葉を好んで使う。
だったのだが、その援助努力について
でほぼ間違いなく死んでいくか、不安
間違いを犯し、ジレンマと格闘して
キリアン・クラインシュミットは、
「人
定な未来が待っているのは確実だが、
も、十分な解決がなされたことはほと
道援助機関として、人間として、他に
UNHCRなど援助機関の支援を受けてや
んどなかった。数万人が命を落とした
どうすることが出来たのか今でも分か
むなく帰還するか。
が、数十万人が助かった。アフリカ中
りません」と語っている。
多くのフィールド職員は、帰還とい
部の危機にたずさわった人々はみな、
病気と死の悪臭が私たちを包み込んだ
…
でした。
一度、列車から顔を出していた少
年がタケにぶつかり大ケガをしたこ
ダイアン・スチュワートは、難民たちが古い列車に乗って、キサンガニ近くの
とがあります。顔を縫い合せている
熱帯雨林の恐怖から逃れる手伝いをした。
あいだ、彼は、手首と唯一の所持品を
結んでいる細いヒモをずっとひっぱ
っていました。それは、きれいに包ま
めていたのです。
毎日キャンプに車
も、まだ何かを信じられるなんて、
私たちは、その日避難させる人た
私は驚きました。後で彼がトランジ
るのは、死体がつめら
ちを整列させて、すぐに仕事にとり
ット・センターを出ていくのを見ま
れた袋の山でした。赤
かかりました。キサンガニから貨車
した。きちんと包帯で手当てされて
十字の作業班が、前の
が何台くるのか、いつもわかりませ
いましたが、顔は無表情のままでし
晩に死んだ人たちを
んでした。しかし、何台だろうと、
た。
朝早くから集めて、き
人々を列車から離れさせるのには、
ちんと積み上げてい
いつも苦労しました。
と大きさで、一日のム
ビアロの悪臭
れた聖書でした。こんな目にあって
ひしと感じられました。
で行くと、まず目に入
るのです。この山の数
難民の赤ちゃんを避難させるダイアン・スチュアート。
けた難民たちの不幸と絶望が、ひし
みんなおびえていました。密林か
彼は何を思っていたのでしょうね。
よく想像してみるんですよ。
私がキャンプにいるあいだに、お
ら離れたがっていたのです。そして、 よそ1万7000人の難民を列車で移
ードが決まりました。 ほとんど毎日のように、列車がいっ
送しました。とても小さな赤ん坊が
私が担当していたの
ぱいになった後も、誰かがお願いだ
一人死んで、二人誕生しました。最後
は、壊れかけた蒸気機
から最後に自分を乗せてくれと、ひ
のほうには、難民、特に子どもたちに
関で引っ張る家畜用
ざまずいてすがるのです。
歌を歌わせることができたんですが、
貨車「トレイン」です。
難民たちは、やせ細って、皮膚は骨
本当に奇妙な光景でした。不幸の列
錆びたワイヤをよじ
に張られた紙のようにたるみ、足首
車が森を走り抜けるなか、貨車から
って、あちこちをつなぎとめてあり
は森を抜けて逃亡してきたときに負
はとても美しいコーラスが流れてく
ビアロが見えるずっと前から、ま
ました。5月に一度、満員列車の中
った刀傷で血がにじみ出ていたりし
るんですから。ルワンダの状況につ
ず、その悪臭がただよってきました。
で100人以上の難民が窒息死したこ
ました。こんな人たちを目の前にし
いて難民から質問されても、私には
キサンガニからビアロのキャンプ
とがあります。それ以来、毎回
て、どうすればいいのでしょう?
あまり答えられませんでした。でも、
までは3時間かかりました。老朽化し
UNHCRと赤十字の職員が同乗する
たフェリーで川を渡るのに1時間、 ようになりました。乗車する場所は
列車に人々を乗せるのは複雑な手
続きがあり、時間がかかりました。
ほとんどの人が故郷へ帰ることを受
け入れていました。
それから舗装されていないデコボコ
キャンプの端で、そこにたどりつく
大人の男性や女性を私一人で貨車に
避難は終わりました。誰もいなく
道を2時間です。
のも一苦労でした。
乗せることもよくありました。まる
なってしまうと、ビアロは気味の悪
で、羽毛のように軽かったんです。
い場所でした。地元の村人が掃除を
キャンプに向かう最後のカーブを
道路は、周囲の森の中に入り込ん
曲がる前に、何千もの調理用の火か
でいて、絶え間なくトラックが行き
らのぼる煙に混ざって、病気と死の
来するのと雨とで、ほとんどぐしゃ
悪臭が私たちを包みこみました。う
ぐしゃになっていました。そこを通
っそうとした熱帯雨林が、ビアロの
暑さと恐怖のなかに何もかも閉じ込
すると、たちまちもとのジャングル
キサンガニへの旅
が場所を占領し始めました。すぐに、
キサンガニまでの道のりは、たま
墓石も覆われてしまい、この場所で
ると堀っ立て小屋に詰め込まれて、
に、現地住民が石を投げつけるくら
おきた人間の悲しい歴史の跡は、ほ
疲れ切って、傷つき、飢えで死にか
いで、たいてい何事もおこりません
とんど消え去ってしまうでしょう。
難民
1998年 第3号
13
|
タンザニア
TA NZA NI A
|
「寛容なタンザニア」の変化
数十年にわたり、タンザニアはアフリカ全土から難民を暖かく迎えてき
た。しかしアフリカ大湖地域の危機は、タンザニア政府に庇護政策の見
直しを強いることになった。
オーガスティン・マヒガ
1995年、銃をもった正体不明の男たち
解放闘争の戦乱を逃れてきた人々も、
がブルンジ北部の難民キャンプを襲う
政治的連帯への配慮から受け入れてき
と、恐怖に脅えた5万人のルワンダ難民
たのである。
とブルンジの地元住民が、隣国タンザ
ニアに逃げ出した。
アフリカ南部の解放闘争とモザンビ
れない対応を受けた。タンザニア政府
ークの内戦が終結すると、これらの地域
は軍を配備して国境を閉鎖し、難民た
からきていた難民たちは帰還し、タン
ちに事実上の「締め出し」を宣告したの
ザニアは自分たちの寛容な対応が報わ
である。タンザニアにはすでに50万人
れたことを実感した。ところがルワン
以上の難民がおり、難民受け入れはも
ダとブルンジの場合は内戦がなかなか
うたくさんだった。
「庇護疲れ」を起こ
解決せず、新たな難民が次つぎとやっ
していたのだ。
てきた。その危機には終わりがないか
この動きに、人道活動の世界は慌てふ
ためいた。それまでのタンザニアは、経
のようにみえ、タンザニアは段々とい
らだちをつのらせていった。
済的には世界有数の最貧国でも、抑圧
「ウジャマー村」も当初、難民たちに
された人々への寛容さでは世界中の賞
アフリカ古来からの寛容性をみせた。
賛を浴びていた。1983年には当時のニ
タンザニアは難民たちに安全な避難場
エレレ大統領が、タンザニアの素晴らし
所を与えただけでなく、人間としてふ
い功績によりUNHCRのナンセン・メダ
さわしい生活環境を用意した。UNHCR
ルを受賞。授賞式では、半永久的に国
の職員であるイェフィメ・ザルジェフ
外での生活を強いられている難民すべ
スキは、著書『Preserved Future』でウ
てに、タンザニアの市民権と土地を付
ジャマー村のことを次のように書いて
与すると発表した。その恩恵を受けた
いる。
「国の主要な富は、人民にあると
人は、数万人にのぼる。
いう信念が……難民受け入れにつなが
独立後のタンザニアの庇護政策は、
14
寛容といらだち
そこで彼らは、これまでなら考えら
り……国民に対するのと同じ努力を難
南アフリカの黒人解放運動支持、アフ
民にも注ぐようになった」
。この政策は、
リカ大陸の結束、ウジャマー村(ニエレ
ニエレレのナンセン・メダル受賞によ
レ大統領が導入した共同体組織の村)
って頂点をきわめた。
や自助努力といったタンザニア独自の
しかし1990年代に入ると変化がみえ
政策など、国内外の要因に大きく影響
はじめた。複数政党制、市場経済、より
されてきた。こうしてタンザニアは、
自由な報道が、ウジャマーと一党制に
純粋に人道的な理由からブルンジ難民
とってかわった。政治指導者たちと野
やルワンダ難民を受け入れる一方で、
党グループは、タンザニアの開放的な難
難民
1998年 第3号
初期のモザンビーク難民キャンプ。1968年。
|
|
TA NZA NI A
民政策にも批判の矛先
を向けるようになった
のである。地価も高騰
した。
そうしたなかで、1994
年、推定5 0万人のルワ
ルワンダ難民の流入は、 ことが示される一方で、
すでにタンザニアでおき
引き続き人道的な義務を
尊重することも強調され
ていた新しい政治的潮流
てきた。タンザニアは、
と時を同じくして起こり
現在も約33万人の難民を
庇護している。これはア
ンダ難民が大虐殺を逃
…タンザニアの庇護政策
れてタンザニア国境に
全体に変化をもたらした。 け入れ数としては最大だ。
フリカ東部の国の難民受
押し寄せてきたのであ
庇護を支え、難民庇護
る。その数にタンザニ
によるダメージを回復す
アは圧倒された。難民のなかには、犯
る資源が不足しているからといって、
罪者、殺人犯、元ルワンダ兵の疑いのあ
国家の責任が軽くなるわけではない。
る者がまぎれこんでいた。難民キャン
国際社会は難民が生まれる根本的な原
プと周辺地域の法と秩序は、いちじる
因を解決するにあたり、地域諸国にもっ
しく悪化していった。地元住民と難民
と関わっていくべきだろう(それが国
の割合は1対3になった。広大な森の大
内紛争の解決努力を含む場合でも、で
部分、それに川や耕地が破壊されてい
ある)
。
くにしたがい、地元住民の難民をみる
目は厳しくなっていった。
ルワンダ難民の到着と、政治、経済、
難民受け入れによってダメージを受
けた地域や人々に資源を提供するとい
うUNHCRの方針は、新たな難民流入が
社会の変化が、タンザニアの庇護政策全
始まった時点から、あらゆる援助計画の
般を変える引き金となった。1995年の国
重要部分となされるべきであろう。その
境閉鎖は、この方針転換をもっともはっ
ためにタンザニアに費やされた資金は、
きりと示す事件となった。
計700万ドルにのぼった。
UNHCRはまた、
タンザニアのムワンブルクツ内務省
次官は、96年のスピーチで、新たな対応
拡大する人道援助計画のために二国間
援助を奨励している。
策を明らかにした。
「タンザニアのよう
人道原則が、しかるべき国益と一致し
な国にとって、難民の庇護はこれまでに
ているのを示すことは重要である。そ
なく重荷となり、より大きな痛みを伴う
のためには、政府と人道機関が、資源
ようになった。難民の保護と援助は、国
提供という問題を越えて定期的な協議
家安全保障に新たな危険をもたらし、
をもつことも必要となる。
国家間の緊張を高め、環境に多大なダ
メージを与えている……。
」
タンザニアのような国の民主化は、
庇護も含めたあらゆる人権を制度化す
同次官は、難民問題をめぐってタンザ
るチャンスになるはずだ。しかし注意し
ニア・ブルンジ間で緊張が高まってい
なければいけないのは、ムワンブルクツ
るとし、タンザニア政府はザイール東部
次官が示した懸念は、大規模な難民を庇
のように、難民の存在により安全が脅か
護している開発途上国なら、どんな国
されてはならないと主張した。国内で
でもまったく同じ言葉で表明する可能
は、難民が急増したため国民が落ち着
性があったことだろう。それは難民庇
きを失っており、
「怒った地元市民が難
護のルールが変わり、安易な選択肢は
民に敵意をいだき、地元への定着という
残っていないことを示す国際社会への
解決策に反対することもありうる」と語
警告なのである。
った。
こうした政策声明では、タンザニアが
オーガスティン・マヒガ
あきらかに「庇護疲れ」に陥っている
UNHCRジュネーブ本部アフリカ大湖地域室次長
難民
1998年 第3号
15
■ル ワ ン ダ
集団虐殺の後、200万人以上がル
ワンダから周辺諸国へ避難した。
1994年∼97年の危機
■ゴ マ
ゴマ地域で起きた危機に、国際
社会は最初の数週間で20億ドル
以上を使った。
中央アフリカ共和国
UNHCR / H. J. DAVIES
ムグンガ
バンギ
7
インプフォンド
難民はすべて去った。ほんの数日前まで何十
万もの難民が暮らしていたムグンガ・キャン
プ。
6
キサンガニ
ムバンダカ
ボエンデ
ンドジュンドゥ
コンゴ
ルコレーラ
キサンガニ
UNHCR / R. CHALASANI
5
ティンギ・ティンギ
UNHCRはアフ
リカ史で最大規
模の人道空輸作戦を
組織化した。密林か
ら助け出された合計
18万5000人のうち、
6万人以上が飛行機
で帰還した。
6
コンゴ民主共和国
(旧ザイール)
キンドゥー
Kinshasa
キクウィ
ムブジマイ
カナンガ
©S. SALGADO
キサンガニ
UNHCR / M. BÜHRER
カパンガ
熱帯雨林で命を落とした人の数はは
かり知れない。ザイールのキサンガ
ニ地域にたどり着けた者も瀕死の状態だ
った。
5
16
© UNHCR ENVIRONMENTAL DATABASE. ADC WORLDMAP. 21 JULY 97
ゴマ
多くの子どもたち
が、脱出時に親と
はぐれた。ゴマ近郊の
ムグンガ・キャンプで
将来への不安を抱える
保護者のいない子ど
も。
4
■ゴ マ
初期だけで少なくとも5万人以上
がコレラなどの病気で死亡した。
■ザ イ ー ル
1996年11月、何十万人もがまず
ザイールから、次にタンザニアか
らルワンダへ帰還した。
■ザ イ ー ル
多くの人々がアフリカ中部の密林の奥深
くへ向かったが、数え切れない人々が殺
されたり、病気で命を落とした。
■ル ワ ン ダ
約18万5000人が森から助け出さ
れ、その多くが大規模な人道空輸作
戦で帰還した。
スーダン
UNHCR / P. MOUMTZIS
タンザニア
ウガンダ
ニ
アフリカ現代史上最も大規模で急速な脱出。1994
年はじめに、ルワンダ難民の第一陣約50万人がタ
ンザニアに到着した。最終的には、200万人以上が殺り
くを逃れて周辺諸国へ避難した。
1
7
4
3
2
キガリ
ルワンダ
ブカブ
シャブンダ
ウビラ
タンザニア
UNHCR / B. PRESS
ゴマ
1
ブルンジ
ブジュンブラ
フィジ
タンザニア
タンザニアでは、一夜のうちに大規模な
難民キャンプが出現した。ンガラのベナ
コ・キャンプで、食糧倉庫を建てる援助職員。
2
UNHCR / M. BÜHRER
カレミ
凡例
主な町と難民センター
ザイール
数か月後、100万
を超える人々が
ザイールにあふれ、び
っしりとテントが立
ち並ぶ巨大なキャン
プに住み着いた。ザ
イール南部のキブ地
方、
ブカブ近郊にある
典型的なテント村。
3
96∼97年の主な難民の動き
96∼97年の空路によるルワンダ難民の帰還
国境
17
|
ルワンダ
R WA NDA
|
帰郷……不安定な未来を覚悟して
ルワンダ難民の大規模な帰還がはじまると、難民流出のときと同じくらいの混乱がおきた。
難民数十万人が帰還し、ルワンダでは再建に向けた作業が始まる。
|
R WA NDA
|
ポール・ストロンバーグ
1996年11月、補給管理担当のジェフ・
し入れた。すると、
「冗談でしょう」とで
じまると、流出のときと同じくらいの
ワードリーはジュネーブのUNHCR本部
も言いたげな答えがかえってきた。
「本
混乱と精神的な打撃をともなった。
に一本の電話を入れた。そしてザイー
部は電話をかけなおしてきて、
『半分な
ル東部で大がかりな人道活動を実施す
ら送れる』と言うんです。頭がおかし
数々のキャンプを制圧すると、フツ系
る(しかも事実上一晩で)ため400台の
くなったと思われたようです」とワー
の難民たちは少しずつ、やがて洪水の
トラックを調達したいのだが……と申
ドリーは言う。
ようにルワンダに帰還しはじめた。
UNHCRをはじめとする人道機関は、
反政府勢力がザイール東部を一掃し、
1996年11月には、1週間たらずで50万人
この時のために2年以上も前から準備し
以上が、2年前に憎しみのなかで捨てて
ていた。そして1994年に故郷を逃れて
きた自分の家に向かった。人道機関や
きた200万人以上のルワンダ難民が、平
政府の職員は、当初その流れをコント
和的、また願わくば秩序だって、帰還
ロールしようとしたが、すぐに飲み込
できるよう念入りな不測事態対応計画
まれてしまった。ワードリーはやっとト
をたててきた。しかし実際に帰還がは
ラックを調達したが、長いこと練って
きた帰還の青写真はすっかり使いも
のにならなくなっていた。
「まるでノア
の箱船に人を乗せていくようなもので
した。しかも水はすでに肩の高さまで
達していたのです」と、すっかり圧倒さ
れた援助職員は語った。
ルワンダ政府は、大変な勢いで帰っ
てくる難民の流れを妨げそうな中継所
と保健施設を閉鎖。食糧と帰還パッケ
ージを適宜配布した。対応能力の限界
を超えた最前線事務所を応援しようと
したフィールド職員たちも、群衆に押
しもどされた。
傷ついた国への帰還
1か月後、反対側のタンザニアからも
ルワンダ難民数十万人がいっせいに帰
郷した。強硬派のフツ系の指導者たち
は、難民たちをキャンプから近くの丘
につれていき、あくまで自発的帰還を
妨害しようとしたが、現実的な対応を
みせたタンザニア軍が最終的に難民た
ちの越境を実現させた。
大勢で一気に帰還しようとしたため
死者も出たが、規模の大きさと厳しい
道のりを考えると、犠牲者の数は驚く
ほど少なかった。
難民たちは、大虐殺の物理的・精神
的傷痕が残る国に帰ってきた。首都キ
ガリには、フツ系社会とツチ系社会の
19
|
R WA NDA
はむかう子どもたちを
銃で冷酷に処刑した男たち。
|
民族的な傷をいやすという公約をかか
げた新政府が樹立された。国際社会は
惜しまぬ支援を提供したし、人道機関
など多くの組織も支援を約束した。し
かし外部のほとんどの人々は、あのよ
「今日子どもを殺すのは、明日の敵を殺すためと信じて」
、人道援助を必要とする今
うな大惨劇の後に再びルワンダを融和
させることが、どんなに大がかりな仕
日の紛争では、子どもたちが標的になっている。
事であるか過小評価していた。
そのことは、3人のスペイン人医療職
狙われる子どもたち
昨年、フツ系過激派とみられる男たちが、ルワ
ンダの地方の学校を襲った。男たちは、民族別に
ェルは言う。マシェルは、国連総長に提出するた
めに、
『武力紛争の子どもへの影響』という特別
調査の監修に携わった。
分かれろ、と命じたが、子どもたちがこれを拒む
UNHCRなどほとんどの人道援助機関は、中部
と、17人の生徒とその先生のベルギー人の修道女
アフリカの「子ども問題」の重大さを認識してい
一人を冷酷に殺害した。
る。そして、この問題に取り組むため、国連児童
に殺された数週間後にはっきりした。
これを発端に、相ついで国際援助職員
が殺された。国連はルワンダ西部の大部
分の地域への立ち入りを禁止し、援助職
員と人権監査員たちは首都キガリに帰
ってきた。
96年にザイール(当時)全土を巻き込んだ争
基金(UNICEF)や赤十字国際委員会(ICRC)な
いから逃れた難民のあるグループは、シャブンダ
ど従来からこうした問題に携わっている機関を支
という町に近づくと、
「子どもたちを引っぱって、
えようと莫大な資源を投入した。死亡者や犠牲者
橋の上から投げ落としました。兵隊に殺されるの
は数多いが、家族と離ればなれになった子どもの
こうした事件が原因で、1997年前半以
を見るよりは、その前に川に投げ込んだり橋の下
面倒をみたり、5万1000人以上の子どもたちを
降、UNHCRのルワンダにおける最重要
の岩に投げつけたりして、自分で家族を殺すこと
探しだして家族とひきあわせるなど、素晴らしい
任務のひとつである個人帰還のモニタ
を選んだんです」
。これは、当時ニュースで報じ
サクセス・ストーリーもあった。
リングが、多くの県で事実上中止され
困難な任務
ある夫は、5か月前に中部アフリカの熱帯雨林
た。フィールド職員たちはジレンマに
ザイールのルイロでは、銃を持った正体不明の
でおきた虐殺で、妻とまだ赤ん坊の息子が殺され
苦しんだ。ザイールから撤退したのは
男たちが小児病院を襲い、職員に暴行したり発砲
たと信じこんでいた。この家族の再会という、ま
人命救助のためだったが、難民たちが
し、病気で栄養失調の難民の子どもたち28人を
さに「千載一遇のチャンス」にかかわったことは、
いったん帰ってくると、故郷の治安は急
無理やり病院から連れ去った。国際社会の働きか
保護官のアンソフィー・ネドランドにとって忘れ
けにより、4日後に解放されたが、監禁されてい
ることのできない経験だった。10才のジャンピエ
るあいだ、子どもたちはコンテナの中に閉じ込め
ールは、
ジェノサイドが最初におきて、ルワンダ
られ、暴行や拷問を受けた。そして、5才以上の
の兵隊が撤退しはじめると兵隊と一緒に逃亡し
子どもたちは食事を与えられず、水さえもらえな
た。その2年後、かつて軍隊と関連のあった若者
かった。
の援助・社会復帰のための特別計画のもと、彼は
られたある目撃者の証言である。
大湖地域では、第二次大戦以後のいかなる人道
家族と再会することができた。また、9才のジャ
危機よりも多くの難民が、病気、栄養失調、拷問
ン・ウクブキイムフラは、スピーカーから流れる
で死んでいる。最終的な数の正確な把握はできな
ジャンの名前を父親が耳にして、ゴマのキャンプ
いだろうが、何万人にのぼるだろう。被害者の多
で家族と再会した。
速に悪化して、UNHCRは帰還民の暮ら
しを監視することができなくなってし
まったのだ。政府軍の護衛のもと帰還
民を訪問する試みは、兵士たちの存在
に、帰還民やフィールド職員がかえっ
て神経質になり、理想からほど遠い結
果をもたらすことがわかった。しかし
治安は9 7年末にかけて改善に向かい、
保護職員は再び地方部の村落の4分の3
を訪れることができるようになった。
くは子どもだった。この地域に限らず、世界中の
こうした幸せな再会は励みになるが、マシェル
緊急事態で、子どもたちは難民の移動における
の報告書はこう述べている。
「子どもたちはなぐ
「偶然の」被害者ではなく、計画的な標的となりつ
られ、傷つけられ、
そして殺されています。それ
のサポートを受けて、1997年には計55件
なのに、私たちが良心のかしゃくも感じなければ、
のプロジェクトを実施した。いずれも
人間としての尊厳が傷つけられたとも思わないと
破壊しつくされた国内の制度を建てな
すれば、それを許すわけにはいきません。武力紛
おし、帰還民の再定着を促進するため
に計画されたプロジェクトだ。
つある。
「子ども問題」への対応
「今日の紛争で、子どもたちが標的になってい
争の子どもたちへの影響は、すべての人々の関心
るのは疑いありません。たまたま被害者になった
事でなければならないし、
すべての人々の責任な
のではなく、今日子どもを殺すのは明日の敵を殺
のです。
」
UNHCRはパートナーである27の機関
一部の地域では、帰還民の再定着が、
きわめて難しいことが分かった。令状
すためと信じているからです」とグラーサ・マシ
20
員が北西の町ルヘンゲリの自宅で無残
や裁判なしの逮捕者と拘留者の数は、
難民
1998年 第3号
|
R WA NDA
|
熱帯雨林を出て故郷へ:保護者のいない子どもたちを満載した飛行機
1996年10月の約7万5000人から97年に
受けていると不満を表明した。1994年
きわめて残忍な事件がおきた。米国の
は12万人に急増し、そのなかには帰還民
以来、25億ドルもの資金が投じられて
ある政府調査員は、事実上のジェノサ
も含まれている(具体的人数は不明)。
きたという数字にも疑問を投げかけ、
イド時代に逆戻りしている、
と指摘した。
おびただしい数の拘留者に対応するた
国際通貨基金(IMF)による3800万ドル
またルワンダ国内では、すでに何千人も
め、UNHCRなどの機関は、新しい捜査
規模の動員解除計画など、いくつかの
殺されたと報じられている。
官と判事の研修を行なって司法制度の
プロジェクトが拒否された。
再建を支援した。
ルワンダを訪問したオルブライト米
超満員状態の監獄と、帰還した大人
国務長官は、
「非戦闘員に被害を与え
UNHCRは、あらゆる子供たちに十分
や子供が学校に入ったり政府の仕事に
ずに安全保障を実現する重要性」を強調
な場所を確保するため、また社会的な
応募する資格を得る前に「再教育」さ
した。その背景には、主にツチ系の政府
不平等が起きないよう学校の改築・新
れる、いわゆる「連帯キャンプ」の設置
軍とフツ系の反対勢力間で激化してい
築に莫大な資金を投じた。1997年後半
については国際的に懸念されている。
る戦闘に、市民が巻きぞえになるケース
までに、フィールド職員は支給予定の
12万戸分の住宅建設セット(屋根、梁、
扉、窓、クギなど)のうち4万8000戸を、
が増えているという現実がある。同長
再び殺人がはじまる
官は「ルワンダの人権問題には、あきら
ルワンダのインフラがどんなに急い
かに改善の余地がある。けれども50万
戦争中とくに大きな被害を受けた地域
で復旧されたとしても、目先の情勢は
人もの国民が殺された国にとって、ふ
で配布した。
治安問題によって左右されそうだ。こ
たたび結束し和解するのは非常にむず
いずれも好意からしているのに、ル
の数か月で政府軍とフツ系ゲリラ間の
かしいのだと、私たちが理解するのも
ワンダ政府と拠出国の関係はトゲトゲ
治安事件数は急増しており、一部地域
大切だ」と付けくわえた。
しくなることが少なくない。ルワンダ
は事実上の無法地帯と化し、民間人を
「彼らはすでに多くを成しとげてき
政府は、タンザニアとザイールにいる
中心に犠牲者が増えている。1997年末に
ました。けれどもまだまだ先は長いの
難民と殺人犯たちのほうが、ルワンダ
は、ルワンダ北西部の難民キャンプで、
です。
」
に残っている被害者よりも良い待遇を
約300人のツチ系住民が殺されるという
難民
1998年 第3号
21
|
オピニオン
OP I NI ON
|
が、その容疑を裏づける適正な手続きは踏
デニス・マクナマラ
まれていない。ブルンジでは、一部の帰還
誰もが手詰まりに
民が一斉検挙されるという事態もおきた。
コンゴ民主共和国など各国で帰還に抵抗
まっさきに踏みにじられたのは、難民法の大原則と運用だった……
しつづけている人たちもいる。難民として
の資格を審査する試みも、複雑な結果を生
アフリカ大湖地域でおきた危機は、近年
担者たちから引きはなすことができない。
んでいる。審査の結果、一部の難民が強制
ほとんどみられなかったかたちで、難民保
人道に反する罪、もしくは国連またはOAU
追放されたり、ルワンダやコンゴ民主共和
護に対する国際社会の姿勢と力量、そして
の原則に違反する行為を犯した者が難民と
国、タンザニアなど多くの国々は、一部の
国際社会自体を試すことになった。
して取り扱われることのないよう、
庇護希望者を審査もしないで追い返してい
UNHCRは各国と協力している。しかしこ
る。その一方で、虐殺の容疑者たちが、う
の国際的義務は、まず国家によって果たさ
まく送還を逃れるというケースもある。
政府も、国際機関も、非政府組織(NGO)
も、みな手詰まり状態だった。
ザイールとタンザニアに逃げ出したおび
れねばならない。
皮肉にも、虐殺に加担した人々を引き離
ただしい数の人々は、ほとんどがルワンダ
無実の難民と犯罪者たちを引き離せなか
せなかったと批判した人々が、難民の資格
での大虐殺に加担した者や支持者の支配下
ったことについて、UNHCRなど人道援助
審査は不必要だと攻撃し、最終的には審査
におかれていた。こうした状況は、
機関を非難するのは、条約上の義務を曲げ
そのものが機能しなくなる事態を招いた。
UNHCRの歴史でもほとんど例がなかった。
て解釈することにほかならない。またルワ
アフリカ大湖地域での経験から、難民保
アフリカ中部の危機でまっさきに影響を
ンダ国際犯罪法廷には、集団虐殺にたずさ
護について何を学べたか挙げるのは、まだ
受けたのは、難民法の大原則と運用である。
わった数人の首謀者を訴追する以上のこと
むずかしい。しかしそれを考えるのは重要
これらは危機の発生当初から無視され、踏
ができるはずだ、との指摘も非現実的とい
だし、いくつかの教訓はすでに明らかにな
みにじられてきた。
っている。あのような劇的な人口移動がお
誰でもルワンダから自由に脱出できたわ
きたときは、すぐに人命救助にとりかから
けではない。ルワンダの旧指導者たちは、
なければならないが、そのなかでも基本的
新しく設置されたキャンプでも支配権をに
な保護の手続きを守らなければならないこ
ぎり、自国に帰りたがる人々をおどし、殺
と。しかも危機のはじまりから終わりまで、
してしまうことも少なくなかった。ルワン
いずれの手続きも平等に、そして完全に維
ダ軍と民兵の残党であるインテラハムウェ
持されなければならないということだ。
こうした手続きには、難民グループがど
も、女性、子供、老人を中心とする難民た
ちに、横暴な権力をふりかざした。
のような人々で構成され、どのような特徴
数週間前の大虐殺にたずさわったフツ系
があるかなどの早期確認、戦闘員と殺人犯
住民数十万人が暮らすキャンプは、彼らの
の分離・排除、不安定な国境地帯から離れ
指導者たちが破壊したにひとしい母国との
医療援助を待つ人々。キャンプにて。
国境線上にあり、衝突は避けられなかった。
アフリカ統一機構(OAU)難民条約と、
1985年のUNHCR執行委員会による声明は、
22
た場所へのキャンプ移動などが含まれる。
それには主要地域国政府を中心とする支援
えよう。この法廷には、集団虐殺の問題全
般の処理などできないのである。
がなによりも重要だ。
アフリカ大湖地域では、これほど大規模
庇護国に対して、政治的・軍事的に不安定
こうした挫折の結果、現在の難民問題の
な移動が起こると、関係国政府が政治的・
な国境地帯から離れた場所にキャンプをお
解決策はどんどん骨抜きにされている。こ
安全保障上の懸念を強める。そうした懸念
き、軍事的色彩のない、本質的に人道的な
の2年間で、ルワンダ難民とブルンジ難民
はもっともかもしれないが、それらが基本
性格なものとなるよう配慮を求めている。
あわせて推定150万人が帰還したが、一部
的な条約や倫理的義務に優先されるようで
アフリカ中部では、ザイール、そして程度
の人々にとっては望んでいたことだったと
あってはならない。真の安全保障上の懸念
は小さいがタンザニアがこうした条約の義
はいえ、大部分の人々にとっては、ほかに
と人道義務の適切なバランスをとること
務を果たせず、その後の条約違反の前例を
現実的または実現可能な選択肢がなかった
が、アフリカ中部でいまだ達成されていな
作ってしまった。
からにすぎない。
い課題なのである。
キャンプを移動させなければ、紛争とは
ルワンダでは、ジェノサイドの容疑者と
デニス・マクナマラ
無関係の難民たちを、戦闘員や大虐殺の加
して数万人が正当な理由もなく逮捕された
UNHCR国際保護部長
難民
1998年 第3号
|
ブルンジ
BUR UNDI
|
虐殺を生き延びた子ども。国際社会からほとんど注目されなかったブルンジの危機で。
世界に忘れられた危機
国際社会がルワンダに注目しているなか、隣国ブルンジはあいつぐ危機に激しく揺れている。
レイ・ウィルキンソン
その国は、いつも崩壊寸前のように
てベルギーの植民地で、1960年代前半
巻き込まれていくのを防ぐ」ため、
みえる。かつてはその景観の美しさか
に独立をとげて以来、多数派のフツ系
1996年に政権を奪い返した。
ら、アフリカのスイスと呼ばれたが、
住民と少数派のツチ系住民が最高権力
過去わずか4年間で、15万人が民族紛争
をめぐって争い、両国とも繰り返し、
し、9か国が陸地に囲まれたブルンジに
の犠牲となった。さらに数十万人以上
ときには同時に、戦闘によって傷つい
経済制裁を課し、ブヨヤ退陣にむけた
が軍により一斉検挙されて特別キャン
てきた。最近のブルンジの混乱は、
圧力をかけた。しかしブヨヤ大統領は
プに連行され、栄養失調や病気にかか
1993年10月におきた反政府軍によるヌダ
軍の規模を二倍以上に増強し、フツ系
った。検挙をのがれた人々は周辺諸国
ダイエ大統領暗殺をきっかけにしてい
ゲリラ勢力を撲滅する全国的な軍事作
に逃げ出した。
る。ヌダダイエはフツ出身で、同国初
戦をはじめた。
これに対して近隣諸国は不快感を示
しかし世界の注目はルワンダのジェ
の民主選挙により選ばれた大統領だっ
この軍事作戦は、1998年前半までにお
ノサイドに集まっており、隣国ブルン
た。この暗殺を機に、たくさんの村落
おむね当初の目標を達成したが、外交
ジで起きた同じくらい衝撃的な事件は、
と数十万人を巻き込む暴力と戦闘に火
関係者や人道機関の職員たちによると、
たいてい忘れられるか無視されてきた。
がついた。民主選挙実現のそもそもの
現在、地方はきわめて荒廃しており、
ブルンジとルワンダは、地理的にも
立役者であるツチ出身のブヨヤ元大統
向こう数か月間は、あらゆる種類の大
歴史的にも深い結びつきがある。かつ
領は、ブルンジが「一段と混乱の渦に
規模援助が必要となるだろうという。
難民
1998年 第3号
23
|
BUR UNDI
|
また、最近ブルンジを訪問したパウ
南アフリカ事務局を設置し
地方はきわめて荒廃
報告書によると、国際社
ロ・セルジオ・ピンヘイロ国連特別人
た。
しており、
向こう数か
会が、キャンプの状況改
権報告官は、経済制裁の影響でブルン
ジは「危険な孤立状態」に陥っており、
キャンプは不潔で不快
事実上「全農業人口が栄養失調、疫病、
政府軍は対フツ系ゲリラ
物価高騰、種子不足……」などの被害
戦闘で、国内16州の一部を
をこうむっており、
「コーヒーや紅茶の
「安定化」させたとはいえ、
(輸送)ルートが妨害されている」と報
援助職員らによると、それ
告している。
善や避難を続ける農民た
月間は、あらゆる種類
ちの援助方法を考えてい
るうちに、多くのキャン
の大規模な援助が必
要となるだろう。
プは「非常に悪い」∼
「ぞっとするような」状
況に悪化。人口過密のほ
によって非常に大きな人的被害が出た。
か、栄養失調やチフスが蔓延していた。
このような状況下で、おびただしい
一時は80万人もの人々が、いわゆる避
武装警備兵がキャンプをパトロールし
数の国内避難民と近隣諸国にいるブル
難民キャンプなどに移された。政府軍
ているため、村人たちは自分の土地や
ンジ難民を助けようとすれば、1999年
はこの活動を「傑作」計画と呼んだが、
部族に帰ることもできない。この最悪の
にもきわめて複雑な混乱がおきるだろ
地方部の住民から反対勢力に物資と人
状況の中で、いったい何人が死んだか
うと、UNHCRなどの人道機関も予測し
手の支援がわたらないようにするなど、
はわからない。
ている。UNHCRはブルンジ国内で長年
人権面からの批判は逃れられない。
その後、キャンプを出ることが認めら
活動しており、1960年代前半には、ブ
現在は避難民キャンプにいる人の数
れても、次の収穫に間に合うよう作付
ルンジ初の常駐事務所であるサハラ以
も急減している。しかしある独立系の
けができなかったり、戦闘員に破壊さ
現地NGOのすばらしい活躍
養失調患者に食べ物がくばられた。
ん。
」
数週間後、森をさらに250キロほど
奥に入ったところでは、OMNISの現
大湖地域では、国際機関が現地の
が、膝まで泥水につかりながら、難民
NGOとの緊密な協力のもとに援助活
の手当てをしていた。彼らは、国際機
動に取り組んだ。一時はUNHCRの
関が運営する近くの病院にも行けな
ゴマ事務所だけでも、20のアフリカ
いほど疲れはてていたのだ。
の組織と協力したり、財政的な支援
現地の組織とそのアフリカ人職員
現地NGOの看護婦が、ゴマ近郊で身寄りの
ない子どもにビタミンAを投与する。
をしていた。
は、他の人たちが尻ごみするような
「多くの現地NGOは資源不足に悩
プロジェクトを行ない、怖がって足
んでいましたが、実際的な技術のある
を踏み入れたがらないような危険
熱心な職員や優れたアイディア、援
な場所に入っていった。だが、彼ら
助を心から望む気持ちで、足りない
は、大湖地域ではほとんど知られてい
部分を補ってきました」とUNHCRの
ない。
プログラムをとりまとめるクレイ
こうしたアフリカの新しいNGOの典
グ・サンダースは言う。
「いくつかの
型が、エチオピアに本部を置きなが
国際機関よりも頼りがいのあるNGO
アフリカの組織は、資金が不足し組織が未発達なため、近年の人道危
ら、医療センターや簡易避難所など
も多くありました。
」
機に際して、あまり頼りにならないことが多かった。しかし、アフリカ大
のプロジェクトを数か国で運営する
反政府軍の侵攻で、
1 9 9 6年に
非営利団体、
『アフリカ人道援助行動
UNHCRの外国人職員が一時的にゴ
(Africa HumanitarianAction AHA)』
マから撤退したとき、現地職員は死
だ。
体を集めて埋葬した。封鎖された土
湖地域では、地元のNGOが成熟し、UNHCRなどの国際機関にとって貴
重なパートナーである事実が証明された。
「アフリカの危機的状況を緩和する
地を通過するための交渉や、外国人
ネット・ツェフ博士がてきぱきと指
基本的な責任は、アフリカの人々に
立ち入り禁止の場所へ入るときに、現
揮をとる姿を記憶にとどめている。
あります」と A H A代表のダウィッ
地のNGOが活躍した。
りたがる者はいなかった。地元のボ
ツェフ博士は、熱帯雨林の奥深くに
ト・ザウデは言う。
「アフリカはだれ
後になって、こうした機関の多く
ーイスカウトがその任務を買ってで
あるアミシ・キャンプで活動するザ
の責任により、なぜ失敗したかとい
が、誰もいなくなったキャンプの清
現地NGOの成長
1994年のゴマで、死者の埋葬をや
たが、200近くの国際援助機関は、
イールのNGO、
『オムニス (OMNIS)』
う問題は、もう議論しつくされてき
掃やその他の復興・再建活動を組織
もっと華々しいプロジェクトに携わ
の代表だ。博士がアミシ・キャンプ
ました。そして、アフリカの人々に
した。
「こうした作業の大半は、現地
りたがった。
に到着するとすぐ、たき火の上には
恐怖や絶望感、劣等感を育んできま
NGOなしでは実現しなかったでしょ
湯気ののぼる鍋が並び、1000人の栄
した。それを変えなければなりませ
う」とサンダースは語った。
外国の援助団体職員は、アントワ
24
国際機関との協力
地職員と別の民間団体『EUB』の職員
難民
1998年 第3号
|
BUR UNDI
|
れて自分の家や学校、診療所をみつけ
態になく、他の地域にも基本的なイン
ない地域では、たったひとつの家族を
られないこともある。地元当局のなか
フラがない。しかも少数とはいえ、ま
訪ねるのにも武装した軍を護衛に優に1
には、ひどく財政が悪化して、旅行許
だ逃げ出す人々がいる国への帰還を奨
日はかかり、ブルンジにいるUNHCRの
可証をはじめとする文書を発行する紙
励するのは矛盾に思われるからだった。
小規模の保護チームの任務は、きわめ
しかし難民たちが帰還
て複雑で多くの時間を費やすようにな
やペンもない役所もあ
る。
政府は全国的な「村
落化プログラム」をス
タートさせ、最終的に
地方の全住民を幹線道
路沿いの新しい集落に
移す計画だ。このプロ
ジェクトが実現されれ
難民たちが帰還を希望す
る場合、帰還予定地が比
を希望する場合、帰還予
定地が比較的安全で、彼
っている。
UNHCRがとくに注意しているのは、
らの生活が将来きちんと
1000人に満たない小規模グループ(フ
較的安全で、彼らの生活
モニタリングできるな
ランス語で「住所不定者」と呼ばれる)
が将来きちんとモニタリ
ら、帰還の旅を支援すべ
だ。これらの人々は25年も前にブルン
きだともいわれる。さも
ジを逃げ出したが、最近帰還したとき、
なければ、その道のりは
所有権も住む場所もなく、どんな村落
きわめて危険になるから
ともごくわずかなつながりさえないこ
だ。
とがわかった。地元指導者たちは彼ら
ングできるなら、帰還の
旅を支援すべきだ。
ば、理論的には、農民
たちは一か所にまとめられた教育施設
頭の痛い問題はほかにもある。フツ
の受け入れを拒み、ほとんどは首都ブ
や保健施設を使いやすくなるが、中央
出身の帰還民たちは、ブルンジで差別
ジュンブラに近いガツンバ地区にある
による国民のコントロールが簡単にな
を受けていないが、パウロ・セルジ
トランジット・センターでの生活を余
るという側面もある。
オ・ピンヘイロによると、民族性は
儀なくされている。
「ブルンジの政治的・社会的生活の中核
予想されている通りに、もっと多く
に組み込まれ」ており、フツ系住民は
の難民(もっと以前に母国を逃れた
タンザニア、コンゴ、ルワンダにい
教育、保健、雇用機会など日常生活の
人々を含む)がタンザニアから帰還す
るブルンジ難民推定2 6万人の未来は、
なかでツチ系住民と同じ待遇を受けら
れば、今後数か月で問題はさらに拡大
やはり微妙だ。すでに大多数が帰還し
れるかという点で、日々困難に直面し
する危険性がある。そうなればブルン
ており、このなかには「自発的」すな
ているという。
ジと全国民の未来は、非常に不安定な
帰還
わち昨年、監視を受けずにタンザニア
UNHCRの重要な任務である帰還民の
から帰還した5万5000人と、他の2国から
モニタリングは、国内の平和な地域で
の帰還者が含まれる。
は比較的うまくいっているが、そうで
ものになるだろう。
UNHCRは今年、タンザニア
のキゴマ地方とブルンジのル
イギ地方からの自発的帰還を
促進する実験的プロジェクト
を予定している。このプロジ
ェクトが成功したら、他の地
方にも拡大されるだろう。
「とくにアフリカ大湖地域で
は、何事も簡単にはすすみま
せん」と、あるフィールド職
員は言う。
「われわれは、やれ
ば酷評されることが多いし、
やらなければ確実に非難され
るのです。批判は、各方面か
ら次々と出てきます。
」
一部の職員は、新たな方針
に不安をいだいていた。ブル
ンジはまだ軍事的に安全な状
フツ系難民の収容所。ブルンジのギホゴジ地方にて。
難民
1998年 第3号
25
まわりの森林から薪をあつめる難民
花は、木は、
ゴリラたちはどこに行
たのか
大規模な難民移動は、避難先の環境に大きな影響を与えることがある。
専門家はそのダメージを最小限に抑えるため、新たな方法を探している。
26
難民
1998年 第3号
UNHCR / H. TIMMERMANS
ってしまっ
クレイグ・サンダース
ビルンガ国立公園は、アフリカでもっ
万人が洪水のように押し寄せてきたと
とも古い禁猟区であり、もっとも景観の
き、大規模な生態系破壊の危険性が急
美しい場所のひとつだ。まだ熱をもった
に高まった。ゴリラは銃を持った地元
活火山は、果てしなく広いアフリカの空
民や密猟者、難民たちの脅威にさらさ
を威嚇するようにそびえており、数年お
れた。毎日のように人々の長い列がで
きに溶岩を100メートルちかく吹き上げ
きて、調理用に何百トン分もの貴重な
る。山腹は深い緑の密林で覆われ、おび
木が切り倒された。2年もすると、113
ただしい数の野生動物が住んでいる。頂
平方キロ以上の広さがある原生林で数
上付近には世界最後のマウンテンゴリラ
百万本の木が切り倒された。
の生息地があり、小さくなっていく竹や
ぶのなかで暮らしている。
1994年、この地方にルワンダ難民数十
難民
1998年 第3号
タンザニアでも、ルワンダ難民とブル
ンジ難民あわせて60万人が暮らす北西
部のカゲラ地方で同じような光景がみ
27
|
環 境
ENV I R ONMENT
|
ゴマ地方の衛星写真
左:基本地図。ムグンガ、
キブンバ、カタレの難民
キャンプと、周辺の火山
と森林を示す。
右:その後のゴマ地方 。
2年間の森の浸食を示す。
拡大する緑色の部分が破
壊された森林。
UNHCRがゴマ近くの
火山観測所の再建を支
援したことだ。この学
者は、数週間もすれば
近くにあるニイラゴン
ゴ山が噴火し、時速
100キロメートルで飛
び散る溶岩が難民キャ
ンプを直撃するだろう
と予測した。実際には
噴火は起きなかった
が、別の専門家は冗談
られた。難民たちは毎日1200トン以上の
容だった。しかし難民たちが広大な土
半分で、将来避難する場合のふたつの心
たきぎを消費し、570平方キロの広さの
地を占領し、その土地を荒らすように
得を示した。①火山には背中を向けろ、
森が被害を受けた。
なると、地元住民は自分たち自身の社
②死にものぐるいで走れ、
というものだ。
大規模な難民移動は周囲の環境に悪
会的・経済的生活への影響を心配する
UNHCRゴマ事務所は、100台のトラッ
影響をおよぼすものだが、この問題に人
ようになった。そして政府は、政治へ
ク隊をやとってキャンプに市販のたき
道機関が注目するようになったのは、わ
の影響を計算するようになった。
ぎをもちこみ、人々に調理用燃料を供
ずか数年前のことである。アフリカ大湖
UNHCRをはじめとする人道機関は、
アフリカ大湖地域における大量の難民
やすい環境に、おびただしい数の避難民
たちが、数週間以上、自国
が入ってきたことから、国際社会はお
に帰りそうにないことがわ
そらく初めて、難民と生態系の関係に
かると、難民が周辺の自然
1994年、
この地方にル
気がついたのである。
に与える影響を最小限に抑
ワンダ難民数十万人が んだ。タンザニアでも同
えるために一連の環境プロ
政治への影響を懸念
問題は環境にとどまらない。難民の
28
給して、長年の問題だった周辺森林の
地域における危機の場合、とくに壊れ
ジェクトに資金援助をはじ
門家たちは、衛星からの
洪水のように押し寄せ
てきたとき、大規模な
めた。
存在は、社会的、経済的、政治的副産物
なかでも異例なのは、危機
も生み出した。これまでアフリカ諸国
の初期段階、とくにある権威
の政府は、とりわけ難民の受け入れに寛
ある学者の警告を受け、
難民
破壊を食い止めようとした。同時に専
映像を分析して、進行中
の森林伐採問題に取り組
じような取り組みがなさ
れた。
こうした特別プログラ
生態系破壊の危険が急 ムは、すべてが成功した
に高まった。
1998年 第3号
わけではない。ゴマでは
たきぎ購入・輸送プロジ
|
ENV I R ONMENT
|
ェクトに、UNHCRの予算の4分の1が費
の援助機関は、ユウィマナ夫妻がこれ
今では、たきぎの配給を控えています
やされた。UNHCRのコンサルタント、
まで見たこともないような新しい調理
し、改良かまどにもこだわらなくなり
マシュー・オーウェンによると、タン
用かまどを作ってくれた。最終的に難
ました。食糧と環境の結びつきがわか
ザニアでも1200万ドル
(環境予算の80%)
民の80%が、こうした「改良」調理道
ったのです。
」
が投じられた。
「あのプロジェクトはカ
具を手に入れた。ジュスティンの場合
「
『予防は治療にまさる』ということ
ネがかかるだけでなく、燃料の節約に
は、さらに無料でたきぎを手に入れた。
わざが、ンガラ(タンザニア)の経験
も環境保護にもほとんど効果がないの
そこまでは良かった。ところがその
です。
」
ビルンガ地方では、UNHCRは森林パ
から学んだもっとも重要な教訓です」
後、事態は思わぬ方向に展開する。ユ
とオーウェンは付け加え、環境に関す
ウィマナ夫妻をはじめとする難民たち
る重要な決断(新しいキャンプの設置
トロール隊を再教育し、装備を整え、再
は、結局「新しい」料理用
場所、規模、収容人数
配備して、この地方の希少植物だけでな
かまどを使わなくなってし
く、環境の激変によってさらに数が減っ
まったのである。というの
問題は環境にとどまらな など)は、難民が新し
たマウンテンゴリラの保護にも乗り出
も、かまどは彼らが住む小
い。
難民の存在は、
社会・
した。
屋の「間違った場所」に設
経済・政治的副産物もも した。
置されていたうえに、彼ら
援助の落とし穴
アンジェリーナ・ユウィマナと夫の
が使っていたもっと古くて
い地方に到着する前に
なされるべきだと強調
最後の教訓は、自然の
たらした。
力が教えてくれた。難民
原始的なかまどの火なら、
がンガラを出ていった
ジュスティンは、1994年7月にタンザニ
近くの森で拾った大きなたきぎでも燃
後、2度の雨期を経て、自然の森林は再
アのベナコ・キャンプにたどり着いた
やせたからだ。一方、
「無料の」たきぎ
び勢いよく成長し、ヒヒやバッファロ
典型的なルワンダ難民だ。彼らの経験
は、わざわざ小さく割らなければなら
ーのほか、ムクドリなどの鳥もみな戻
談は、環境問題に対処するにあたって、
なかった。
「無料の」トウモロコシも調
ってきた。
すべきこととすべきでないことを教え
理にひどく長い時間(通常4時間)がか
キブでは、廃棄物が焼却され、便所
てくれる。
かった。このためキャンプ全体の燃料
が封鎖され、水道ポンプや貯水タンク
消費量は、劇的に増えてしまった。
は他のプロジェクトにまわされ、地元
故郷では、アンジェリーナはトウモロ
コシの製粉所を切り盛りし、ジュスティ
環境の専門家たちは、やっと自分た
の村人たちは残された廃棄物からまだ
ンは農夫だった。ルワンダでの生活は
ちの練り上げた計画を見直し、成功と
きれいなものを拾っていった。そして
厳しかったが、意外にもタンザニアで
失敗を分析するようになった。マシュ
かつておびただしい数の難民が暮らし、
は暇な時間がたくさんあった。食糧は
ー・オーウェンによると、アフリカ大
にぎわっていた集落に残された石の壁
毎週無料で配給されるし、故郷の村よ
湖地域の危機は「環境専門家たちにと
や砂利道も、密林にのみ込まれていっ
りはるかに質の高い医療も受けられる。
って、いそいで学習するチャンスにな
たのである。
かつては自分でやっていたことをやっ
りました。と同時に、介入のしかたと
てくれる人たちもいる。あるヨーロッパ
いう意味でも転換点にもなりました。
難民
1998年 第3号
29
メディア
|
MEDI A
|
ニック・ゴウィング
や、かいつまんだインタビューにとどまら
報道はなぜまちがったのか
なくなっている。情報は紛争にかかわる誰
に関するものでもありうるし、彼らの情報
に何が起きているのか、その情報が最終的
現代で最大規模の人道危機のなかで、メディアや人道機関はそこで起きてい
に誰によってどのように利用されるかが重
る「新しい現実」を完全に誤認していたのか。この危機に関するほとんどの
要になっている。
短いニュースサイクルと、速報重視とい
報道は誤りだったのか。
う環境のなかで、ある援助職員にとって当
アフリカ大湖地域の戦闘と虐殺に集まっ
ダブダブの制服を着た世間知らずそうな若
然の人道情報を集める行為が、戦闘中の当
ていた世界の注目は、数か月前に別の場所
年兵が映し出されると、視聴者はその紛争
事者たちの目には機密情報の収集とうつ
に移ってしまった。しかし危機にたずさわ
全体についてそうしたイメージを抱きがち
り、軍事的脅威とみなされる可能性もある
ったメディアと人道機関の間では、恥ずか
だが、アフリカ中部の主だった行動主体は
のだ。
しいという気持ちと反省、罪の意識が残さ
みな、先進国が考え出した情報戦争の新し
れた。
いカラクリを何とか学ぼうとしているのだ。
的な要素とみなし、自分たちの活動の存続に
メディアやNGOは、あまりにも長い間、
かかわる可能性があるにもかかわらず、予備
現場からの速報体制が優先されたため、
知識不足の広報担当者をおいている。
現実と、広がりゆく恐怖の描かれ方のあい
自分たちが報道している戦争はボスニアの
だには深い溝ができ、やっかいな問題を引
ような地域紛争の古典的な枠組みに簡単に
き起こした。
収まるものと思い込み、過小評価していた。
共同運営委員会の報告書で確認された報道
しかし地元アフリカの武装勢力は、そのは
ミスを、事実上ひとつも検討していないし、
るか先を行っているのだ。
ましてや何の対応もしていない。1994年に
非政府組織(NGO)とメディアは、なぜあ
んなにうまくだまされ、誤解し、情報から
隔離されてしまったのか。なぜ国際世論は
メディアと援助職員たちは、巧妙で無情
マスコミも、1994年のルワンダに関する
ルワンダで犯した失敗について、ある程度
責任を認めている経験豊富なア
思い通りに動かされなかったのか。
フリカ通の報道関係者でさえ、
はたして、戦闘をまじえている
当事者たちは、世界最強の軍事大
その正確さとバランスという点
国らが作り上げた情報戦争の新た
では、やはり失敗を繰り返して
なカラクリをうまく利用したのだ
いる。
ろうか。なぜ人道機関とメディア
紛争対策の専門家の間では、
は、情報管理で、これほど大きな失
ある危機で「学んだ教訓」は、
敗を犯してしまったのか。なぜそん
次の危機のときには「忘れられ
なに多くの誤りを犯したのか。
た教訓」になる、という皮肉が
語られることもある。
遅まきながら、彼らは自分たち
の影響力が考えていたよりもはる
かに小さいことに気がついた。ま
しかしアフリカ中部での経験
仕事中のカメラマン。大湖地域にて。
をへた今は違うかもしれない。
①行動を起こすうえで、ある紛
た、衛星通信、軽量ビデオカメラ、
音声技術といった新しい技術の時代で、自
な情報作戦にだしぬかれたのである。この
争情報が十分に信頼に足るのか否か、②
分たちが大がかりな策略や錯覚に弱いこと
作戦は、彼らには歯の立たないきわめて高
NGOやメディアはまだ信頼できるのか否
にも気がついた。
度なレベルで考えられたものだ。NGOはそ
か、そして究極的には、③信頼に足る、バ
新たなリスクもわかった。戦闘をまじえ
の術中にはまることも多く、それは彼らの
ランスのとれた情報にもとづく断固とした
ている当事者たちは、いまや世界に配信さ
思惑や推測によって、①信頼に足る情報の
政治行動によって、潜在的な犠牲者の命は
れる情報をチェックしており、報道内容が
不足と、②信頼できる情報源としての自ら
救われるの否か。こうした多くの要素が、
気に入らなければ(とくに報道が微妙な軍
の信頼低下という深刻な結果を招いた。
きわめて重要になっているのである。
事情報や殺人の証拠を含む場合)
、数時間
以内に報復をほのめかしてくるのだ。
こうした失敗は、紛争において情報管理
がはたす新たな役割への認識不足と、根本
的な理解不足が大きな原因となっている。
30
NGOは依然として情報の取り扱いを二次
アフリカ大湖地域での教訓にもかかわら
ず、人道機関は情報の取り扱い方で失敗を
くりかえし、紛争のなかでリアルタイムの
情報がもつ力を理解できずにいる。
情報の発信源は、もはやプレスリリース
難民
1998年 第3号
ニック・ゴウィング
国際的なテレビ・キャスター、
ジャーナリスト。
専門は紛争対策におけるメディアの役割。
大湖地域で犠牲となったUNHCR職員――殉職者(殺害されたケースを含む)および行方不明者
BENDA, Flavius Cl士ent
BIRITSENE, Musafiri
BUCYEKABILI, Maniragaba F四icien
GASANA, Fran腔is
1996年
...........
1997年
.............
......
GASHAGAZA, Gaspard
GISA, Jean Baptiste
1997 年(および妻と息子)
1994年
..............
1994年
............
1994年
.............
HABYARIMANA, Jean-Pierre . . . . . . . . .
1997年
JUMA, Yahaya
................
1995年
KAMILI, Claver . . . . . . . . . . . . . . . .
1996年
KASIGWA, Laurent A. . . . . . . . . . . . . .
1996年
KEBEDE, Sisay
1997年
................
LOPEZ HERRERA, Jos
1994年
............
LUGANO, Barega Germain . . . . . . . . . . .
1996年
MUKAGASIGWA, Th屍峻e
1997年
...........
MUKAMURENZI, Immacul仔
..........
1997年
MUKIGA, Violet . . . . . . . . . . . . . . . .
1995年
MULETA, Tesfaye
1996年
..............
MUNYAKAZI, Ndahiriwe . . . . . . . . . . . .
1996年
MUTEMBAYIRE, Jacqueline . . . . . . . . . .
1997年
MWIGISHWA, Albert
1994年
.............
NDOLELE, Flora . . . . . . . . . . . . . . . .
1997年
NIKIZA, M師hode
1996年
...............
NIYOMWUNGELI, Isaie . . . . . . . . . . . . .
1994年
NKUNDAKOZERA, Canisius
1994年
NTABARESHYA, Fran腔is
..........
1996年
...........
NTAWUYAMARA, Maurice
..........
1995年
NYAKAGARAGU, Janvier . . . . . . . . . . .
1994年
RUGEMA, Sixte . . . . . . . . . . . . . . . .
1994年
RUTAGENGWA, Th姉phile . . . . . . . . . . .
1994年
RUTAYIGIRWA, Fran腔is
1994年
SENJENJE, Anicet
SINDANO, Bruno
...........
1994年
..............
1996年
...............
TWAGIRAYEZU, Marcel . . . . . . . . . . . .
1994年
行方不明者 :
KAMEYA, Alphonse . . . . . . . . . . . . . .
1994年
MUKASHEFU, Odette
.............
1994年
MUTSINZI, Angelbert
.............
1994年
難民
1998年 第3号
31