伝承にみる立山と白山 --

伝承にみる立山と白山
| 山岳信仰の諸相 |
中島 信之
1
はじめに
得られても,全体像をとらえようと思っても,資料は
| ないことはないはずだが | 簡単には見つからな
かった。
日本海文化悠学会の恒例見学旅行,今年は「白山信
仰の旅」が,2016 年 6 月 20{21 日にあり,私も参加
これは,ある意味,地方主義(セクショナリズム)
した。
| よくいえば郷土主義 | である。地方主義はいろん
なところで顔を出している | と思う。
私はもともと無信心者で,宗教的なことに関心を全
くもっていなかった。また白山開祖の泰澄も初耳だっ
結局,自分で調べる以外にない。白山の(ある意味
た。無信心,無関心,無知の三無だった。
での)通史をまとめた(試論程度だが)のが [21] で,
全く何もわからないまま,いろんなひとの話を聞い
山岳宗教についても(こちらは総合的な資料に事欠か
ているうちに,白山の開山伝承が立山のそれとずいぶ
なかったが,それでも自分の属する地域からの視点が
ん違うというが,ボンヤリと,分かってきた。
気になった | なんてエラそうに)まとめた [20]。い
| まあ,これを機会に,立山の伝承を,白山やその
他の「霊山」の伝承とくらべてみるのも悪くないか。
ずれも私のホームページでご覧いただける(「中島信
之 3 つの道楽」で入ってください)。
わたしが知りたいのは,歴史上の「事実」ではなく1 ,
本論文に出てくる用語については,最後に(7 ペー
あくまでひとびとが信じ,伝え継いだ伝承である(な
ジ)まとめて載せておいた。
んちゃって)。
開山伝承について知るところはほとんどなかった |
というよりも開山伝承なるものがあること自体知らな
2
かった。立山の開山が猟師(と漠然と思っていた)の
佐伯有頼(あるいは有若)によってなされたのに対し,
概要
開山伝承に先だって,立山と白山の概要を見てお
白山は,最初から一貫して僧の泰澄によってなされた
こう。
という,旅行で得た知識ぐらいなものであった。 |
立山と白山は北陸の名山として並び称されている。
この違いは何か。違いは本質的なのか,はたまた偶々
これに富士山を加えて日本三霊山と呼ばれている。こ
なのか。
れら三山をめぐることを三山禅定といい,江戸時代に
富山駅前に行く機会があり,市立図書館の分館で
盛んにおこなわれた。その根底には,死(立山),再
寄ったところ,由谷裕哉氏の『白山・立山の宗教文化』
生(白山),不死(富士)の信仰があると思われる(宮
[32] なる書に行きあたった。出発点としては当たりだっ
家 [28],p.326)。
た2 。余談だが,由谷氏は金沢市の生まれ,現在小松
立山,白山の両山は,中央の修験道の拠点吉野金峰
短大の教授だから?書名は白山が先,立山が後。だが,
山-大峰連山-熊野三山とくらべ,以下の 3 点で大き
本書の構成は立山が先で白山が後。
く異なる(由谷 [32],pp.322{3)。
①標高が高い。
地方主義 sectionalism
今回いろいろ調べているうちに気がついたことが
②火山。立山・白山は火山で中央の山岳は非火山。
ある。
③立山・白山は麓に宿坊を備えた。
ひとつは白山を全体としてとらえる必要が出てきた
このように見てくれば,立山と白山には似たところ
が,加賀,越前,美濃それぞれから見た断片的知識は
が多い(と,みなされている)。だが,はたしてそうか。
1 もちろん,事実を知りたくないわけはないが,そんな畏れ多い
こと!
2 最近あらためて読み直したら,かなり難解で,それほどあたり
であったかどうか。
白山 御前峰(2,702m),大汝(2,684m),および
別山(2,399m)の三山からなり,主神と本地仏は:
1
御前峰
白山妙理大菩薩
十一面観音
らためて論じるが,何となく言いならわされているの
大汝
大己貴(高祖太男知)
阿弥陀
とは異なり,立山は白山より 100 年から 200 年遅れて
別山
小白山別山大行事
聖観音
おり,同列にあつかうのはどうか。
立山 雄山(3,003m),大汝山(3,015m),富士ノ
3
折立(2,999m)の三山からなる。だが,立山の場合,
開山伝承
主神は伊弉冉尊イザナミノミコト(または伊弉諾尊イザナギ
白山の開山が一貫して泰澄であるのに対し,立山は
ノミコト)また剱岳についえは祭神が田力男尊(のちに
無名の猟師,佐伯有若,同有頼,康済と 4 人を数える。
須佐之男尊)である。だが,それらの本地仏について
全国諸霊山の開山伝承を見るとき,どちらが一般的な
はよく分からない。なお,
「立山の場合は,立山の神と
のだろうか。
いうのが元々存在する。これは平安の段階では縁起で
「雄山神」とも呼んでいるものがそれに当たるかもし
修験道関係の伝承では,白山開山(713 年)より 50 年
れないし,あるいは「新川の神」が立山の神かもしれ
遅れて,立山が開山されたという(福沢 [25],p.127)。
ない。いずれにしろ,延喜年間には,朝廷ではすでに
諸山の開山伝承
立山の神の存在を,位階を与えるという形で認めてい
岩鼻は,
「地方霊山の開山縁起は,役小角より遡る
る。」(米原 [33],p.106)。
時期の開山を意図的に操作してものであって,歴史的
事実ではないと解釈されてきた。……。これらは,わ
2.1
ざと中央の霊山より開山を古く見せるための地方霊山
地域性
の権威づけにすぎないとされてきたが,そのような認
このほかにもいろんな違いがある。むしろ対蹠的と
識を改める段階に到達したのかもしれない。」と書き
すらいえる。その 1 つが地域性である。
([7],p.200),考古学を援用しながら論を進めるべき
①どこから見えるか
だと説く。
立山は(旧国名でいうならば)越中と能登の一部か
「霊山の開山伝承には,構想が最初から開くべき山
らしか見えないが,白山は(地元の)越前,加賀,美
を心に定め,不屈の意思で艱難を克服して目的を達成
濃はもちろん,越中,飛騨,近江,尾張,および信濃
する型と,名もなき民が山中で偶然霊異に遭遇して感
(木曽路)からも望める(山岸 [29].p.28)。
動し山を開くに至る型とがある。後者の型でも,狩人
②雄山神社と白山神社
が剃髪して僧となり開山何々上人と称せられたと伝え
立山の神社である雄山神社は越中国内に 2 社あるだ
るものが多いが,……4 」(広瀬 [23],p.415)。
けだが,白山は,北海道と沖縄(当然!),および宮
僧による開山伝承は,
(北から)恐山 | 慈覚大師,
崎を除いて,全国に 2716 社ある3 ([29].p.45)。「雄
日光山(二荒山) | 勝道上人,赤城山 | 僧覚満,相
山」は(純粋に)固有名詞だが,
「白山」は固有名詞で
模大山 | 良弁僧正,伊豆山 | 賢安大徳,戸隠 | 学
あると同時に,雪をかぶった山という意味で普通名詞
門行者,白山 | 泰澄大師,宝満山 | 心蓮,霧島山
でもある。この点を考慮しても,神社数の差は歴然で
| 性空。七面山 | 日蓮の弟子,日朝,箱根 | 聖占
仙人。
ある。
③檀那場・出開帳 (岩峅寺は)越中をはじめ加賀・
役行者に仮託した山 | 浅間山,木曽御嶽,三輪山,
能登など地元に布教すると共に,堂塔修理などに際し
大峯山,石鎚山。空海に仮託した山 | 出羽三山の湯
ては飛騨・美濃・遠州・越前・加賀などで立山権現の
殿山。
で開帳を行った(由谷 [32],p.37)。
このほかに貴種。出羽三山の羽黒山 | 崇峻天皇の
近世に入ると,立山も全国的になった(ようである)。
皇子,能除太子。立山 | 国司佐伯有若,あるいはそ
高瀬 [17] によると,
「安政五年立山禅定人止宿覚帳」に
の子有頼。
記されている国は,26ヶ国 | 江戸,大坂が含まれて
猟師。立山 | 無名の猟師,熊野三山 | 千代定(ま
いるので実際は 24ヶ国(もっと正確にいえば越中は含
たは近兼),伯耆大山 | 依道→金蓮,彦山 | 藤原恒
まれていない | とほぼ全国を網羅している。白山に
雄→忍辱。
ついては未調査。
最後に,特段の開山伝承をもたない山がいくつかあ
る。都(平城京・平安京)に近い山や,古くからひと
このほかにも,文芸(和歌や物語)あるいは軍事面
に知られた山:吉野山,葛城山,富士山など。
で,都人の目にどう映ったか,あと(第 7.2 節)であ
3 越中(富山県)にも
4 薬師岳におけるミザの松は最後まで貧しい職人のままである。
」
とつづく。
106 社あるという。
2
3.1
猟師による開山伝承
あったのは確かである。事実,
「新熊野神社文書」の養
和元(1181)年 12 月 8 日の院庁下文に「越中立山外
猟師による開山伝承は,立山を含めて 4 例ある。久
宮」が新熊野社領としてあげられている(広瀬 [22],
保氏は,
「一国レベルの宗教行事である法会において,
p.201)。
後世に向けた祈願,メッセージを伴って執行された祭
最も古い形の伝承が伝わってきたあと,他の (先進)
事」があって初めて開山といえる,と説く([11],p.2)
地区では,熊野では猟師の名前が加わり,彦山では獲
が,どんなものか。
物の蘇生が加わり,大山では矢を射る前に地蔵菩薩に
4 例とは,
(もちろん)立山が 1 つ。他は和歌山県の
止められる,というように `進歩' したが,立山はそう
熊野三山,鳥取県の(伯耆)大山5 ,福岡・大分県境
した進歩に取り残された,と考えることができよう。
の彦山である。これらをくらべてみる。それぞれの開
以上の(熊野を除く)3 つの霊山が熊野の影響下に
山伝承についてはのちにくわしく述べる。
あった,と思うが,今のところそれを示すことはでき
1) 猟師の名前 立山:伝わっていない。熊野三山:
犬飼の千代定6 ,大山:依道,彦山:藤原恒雄。名無し
ない。
は立山だけである。
3.2
2) 獲物 立山は熊,熊野も熊7 ,大山は金色の狼,彦
山は白鹿。
3) 獲物を射殺したか
立山:佐伯有若・有頼の開山伝承
立山には 3 つ,あるいは正確には 4 つ?,の開山
立山と熊野は深手を負い岩
伝承がある。1 つは,上で述べた,無名の猟師による
屋に逃げこんだが,そこで死んでいた。彦山は射殺し
もの。2 つ目は越中国司佐伯有若によるもの,3 つ目
たが三羽の鷹によって蘇生した。大山はつがえた矢先
は有若の子,有頼によるもの,である。4 つ目は,廣
に地蔵菩薩が現れた(矢を射るところまではいかな
済によるものである。有若,有頼による開山伝承のあ
かった)。
らすじを簡単に記す。なお原文は『立山と白山』[18],
4) 現れたのは 立山は阿弥陀如来,大山は地蔵菩薩
(狼は老尼),熊野は熊野三所権現,一社は証誠大菩薩
pp31{2 にある。
①越中の守(国司)の佐伯有若之宿禰は鷹猟をして
であり,もう二社は両所権現という。彦山は,鹿は逃
いたが鷹は飛び立ってさしまった。これを追って山に
げ去り,3羽の鷹を恒雄は神さまと見た。
5) 最後はどうなったか 立山は終末に関しては黙し
入ったところ熊に出会った。これを矢で射たが,熊は
ている。熊野は,弥陀を大権現(今の証誠殿)として
矢を立てたまま逃げ去った。追っていくと熊は金色の
崇めた。大山の依道は出家して金蓮と名乗り大山の開
阿弥陀如来であった。有若は菩提心を発し,弓を切り
山となった。彦山の恒雄は善正の弟子となり忍辱にんに
髪を切って沙弥となり法号を慈興とした。
※逃げた鷹はどうなったのか?という突っ込みがあっ
くと名乗った。山頂の三岳に阿弥陀,釈迦,観音の垂
た。つぎの②では,それに対する,ある意味での答え
迹をみて上宮三社を建立した。
が含まれている。
考察
②有若には長く子がいなかった。神のお告げがあっ
猟師による開山を,話の古さの順序をつければ,立
て子・有頼が生まれた。有頼 16 歳のとき,父の白鷹を
山→熊野→彦山→大山の順だと思う。立山では無名だっ
無断で持ち出して狩りに出かけたところ,鷹が逃げて
た猟師が熊野では名をもつ。彦山では名だけでなく姓
しまった。これを追って行くと,熊に出会った。血の
ももつ。立山・熊野では獲物を射殺しているが,彦山
跡をたどっていくと,白鷹は空を舞い,熊は地を走っ
では一旦死んだ鹿が蘇生した。さらに大山ではつがえ
て,そろって岩屋に入った。有頼も岩屋に入ると,鷹
た矢の前に地蔵菩薩が顕れた。つまり獲物の死が遠く
は不動明王,熊は阿弥陀如来であった。有頼は出家し
なっている。
て慈興と名乗った(『和漢三才図絵』,江戸時代中期)
ただし,話の内容が古いほど伝承の始原に近い,と
※有頼の名が初めて登場したのは,長年,延宝 3
はいえない(と思う)。内容が古いほど,古い話を保
(1675)年(石原与作氏によって発見された)だと思
存していた,ということであろう。
われていたが([22],p.214),最近,島根県隠岐の島
立山と熊野の関係でいうと,立山は熊野の影響下に
の「高田大明神縁起」
(南北朝期の 1388 年)に有頼の
名があることがわかった,との立山博物館の加藤基樹
5 依道の挿話は 8 世紀前葉であるが,それより前,7 世紀末に,
役優婆塞が山に入り行をした,との伝がある。
6 代は原文(インターネットでの「熊野権現垂迹縁起」
)では輿。
『三国伝記』[2],p.56 には近兼ちかかぬとある(広瀬 [22],p.201)。
7 『三国伝記』[2] では鹿だと思っていた,とある。
氏による報告がある8 ([10])。この報告が(いろんな
8 私の問い合わせに応えて,氏から『立山と白山』[18] 所載の論
文を送っていただいた。感謝する。
3
意味で)信頼できるならば,有若・有頼による開山伝
り。泰澄数百年を経て死なず,その終を知らず,とあ
承について再検討が必要となろう。
る。まず九頭竜王が現れ、それが千手観音に変ずる,
③上記以外に,庚済律師9 の伝中に,
「越中立山建立」
という記述があるのは興味深い。
という字句がある,とのこと(『大日本史料』収録の
『泰澄和尚伝記』
「師資相承」所載,[17],p.183,p.211)。
現在人口に膾炙されている伝承は『泰澄和尚伝記』
にもとづく。その年譜(浅香 [1] の第 1 表,p.62 がわ
立山開山の時期
3.3
かりやすい)を書くと |
(1) 生誕:泰澄は越前国の麻生津村で生まれた。白
鳳 22(682)年。
石川 [3] は次のように書く:伝承では大宝元(701)
年とされている。だが,康済律師の事績に「立山建立」
(2)11 歳。北陸道修行の道昭によって神童と評された。
とあることから 9 世紀後半,あるいは佐伯有若の名が
(3)14 歳。十一面観音の夢告げで越知山に入峰。
延喜 9(905)年の資料に見えることから 10 世紀初頭
(4)21 歳。鎮護国家の法師となる。能登島の臥行者
とみなしうる。
が弟子になる。
米原寛氏は,仏教的開山 10 世紀と修験道的開山 13
(5)31 歳。臥行者が鉢を飛ばし,官米奪取を図る。浄
定行者が弟子となる。
世紀の二段階開山論を唱える(p.29)。
ところで,立山の地獄説話と開山伝承とでは,前者
(6)35 歳。白山の神の夢告げを受ける。
が先で後者が後だろうと由谷は書く([32],pp.38{42)。
(7)36 歳。白山に踏拝し,一千日の錬行に入る。九
当然のことだと思う。
頭竜王に本地を示せと迫り,十一面観音にまみえたの
はこの年である。
4
(8)41 歳。元正天皇の病気平癒の功により,神融禅
白山開山伝承
師の号を受ける。
(9)44 歳。行基が白山に泰澄を訪ねる。
すでに書いたように,白山の開山は立山のそれと
(10)55 歳。玄昉を訪ね,十一面観音経を特授される。
違って,一貫して泰澄一本槍である。
(11)56 歳。疱瘡流行終熄の功によって大和尚位を授
現在に伝わる泰澄の物語は,直接には『泰澄和尚伝
けられ泰澄和尚と号する。
記』
(10 世紀半ばに成立。現存する最古の写本は 1325
年のもの)によるが,さかのぼれば,
『元亨釈書』
(1330
(12)77 歳。越知山に籠居する。
年代初頭成立)に行きつく。
(13)86 歳。入寂。
11 歳,21 歳,…と ¤1 歳の年,および 44 歳,55
歳,…とゾロ目の年が目立つ(深い意味はないかもし
2 つの断片的先駆
だが,これらの泰澄伝記の `原型' が,平安中期成立
れぬが)。
の『大日本法華(経)験記10 』と同末期成立の『白山
記11 』に見出される。
加賀の開山伝承
『白山記』には,泰澄が白山で修行をした,程度の
記述しかない。『法華験記』,第 81
加賀にも泰澄による開山伝承がある。越前伝承の越
越後国の神融法
知山に相当するものとして医王山が比定されている。
師の (4):泰澄は,賀州の人なり。世に越の小大徳と謂
ふ。神験多端なり。万里の地といへども,一旦にして
三馬場
到り,翼なくして飛びつ。白山に聖跡を顕して,兼ね
『白山之記』によると,天長 9(832)年に白山へ登
てその賦を作れり。…(中略)…。阿蘇の社に詣づる
拝する三方の馬場として,加賀馬場,越前馬場,美濃
に,九頭の竜王ありて,池の上に現じたり。泰澄曰く,
馬場が……禅定道の起点として開かれたとされる(山
あに畜類の身をもて,この霊地を領せむぞ。真実を示
岸 [31],p.69)。
すべしといへり。日漸く晩むとするとき,金色の三尺
の千手観音有して,夕陽の前,池水の上に現じたまへ
9 昌泰
5
2(859)年 2 月 8 日入滅。
10 題名は『大日本法華経験記』とも『日本法花験記』とも([4],
pp.718{9)。昔はいわゆる正式書名というものは必ずしもなかった
ようである。『法華験記』と略記される。
11 もともと無題であったが,長く『白山記』と仮称されていた。
ところがある時期から『白山之記』とも呼ばれるようになった。現
在では両方の名で呼ばれている。
考察
立山と白山の開山伝承を比較すると,大ざっぱには,
白山が普通,立山は普通をはずれる(むしろ特異的と
いうべきか)。
4
①多くの霊山では開山は通常 1 名である(白山も然
木は立山の章で書いているが,どの霊山についてもい
り)が,立山は無名の猟師,佐伯有若,同有頼,およ
えることだと思う。
び康済と 4 名を数える。
「立山信仰と白山信仰の違いを考えると,立山の場
②すでに紹介した(3.1 節)ように,有名または無
合は富山県以外に立山神社とか雄山神社はほとんどな
名の猟師による開山伝承に,熊野,伯耆大山,彦山が
い,ということが挙げられる。ところが白山の場合に
ある。大山と彦山の猟師は出家して,それぞれ金蓮お
は,日本海にそって白山神社が非常にたくさん分布し
よび忍辱にんにくと名乗ったが,立山にいたっては,出
ている。」
(岩鼻 [6],p.122)。実際,山岸 [31] によれば
家したか否かも判然としない。
| 戦前の調査だそうだが | ,全国 44 都道府県12 に,
総計 2,716 社ある(あった)とのことである。
③日本武尊や坂上田村麿による神社寄進が始まりと
「白山は姫神,立山は雄神。前者の本地は観音菩
いうものもある。
薩とされ,後者の本地は阿弥陀とされた(高瀬。[16],
④多くの開山は,有名または無名の僧による。役行
pp.523{24)。
者と行基あるいは空海も知られるが,それ以外のほと
んどは,伝承を通じて有名になったものである(白山
白山と立山の馬場
も然り)。それに対して立山は僧による開山ではない。
白山への登り口としては,3 つの国にまたがった,
⑤僧以外の貴種による開山は国司(あるいはその子)
三方の馬場…越前馬場,加賀馬場,美濃馬場…がよく
によるとする立山のほかに崇峻天皇の皇子能除を開山
知られている。それに対して立山の場合は,登り口は
とする羽黒山がある。しかしこれも皇族であり,
(単な
越中国にしかない(信濃も登り口があったとも)。た
る!)国司を開山とするのは立山だけである。そのほ
だ,2 つのコースがあった。ひとつは、常願寺川をさ
か,日本武尊や坂上田村麿による神社寄進が始まりと
かのぼって岩峅寺から芦峅寺を経,材木坂を通って弥
いうものもある。
陀ヶ原に出るコース。この道は主として天台系の人び
とが登る。これに会いして真言系の人びとは,大岩山
を拠点として,上市川をさかのぼり,折立の雄山社を
山岳信仰
6
6.1
経て馬場島に出,そこから剱岳や大日岳をめざすとい
うコースである。もっとも大岩山から高峰山・大辻山
山岳信仰の諸相
を経て大日岳へのコースもあったともいわれる。しか
(日本全国に)北から南へ実に 350 以上の信仰対象
しいずれにせよ,天台系と真言系の人びとのとるコー
の山々がある(と,高瀬は和歌森太郎を引用する)。
スは,早くからわかれていたもののようである。そし
(それらの信仰内容はさまざまであろう。)すなわちあ
て.あたかも吉野山や熊野山における順峰と逆峰の
るものは,神社信仰の色彩を色濃くおびており,ある
ごとくに,修練と登頂がきそわれてもののようである
ものは仏教信仰の色合いを濃くおびているという風で
(高瀬 [17],pp.186)。
あろう。また多くの地方では,役行者開山説が風靡し
ているが,ある地方たとえば東北や北陸では,役行者
立山の勢力
開山説でないものがめだつという具合であろう。和歌
立山麓の芦峅寺,安楽寺.高禅寺,岩峅寺などの宗
森氏が,信仰対象となった日本の山々に,神社系と仏
教者は,既に中世初期には山岳寺院として寺観を整え
教系の別があるとし,それに地方地方の民間信仰が加
るまでになっており,これらの集団は正平 8(1353)
わって,それぞれに特色あると予想したのも,これが
年に南朝方への「同心合力之軍忠」を条件として年貢
ためである(高瀬 [17],p.181)。
を免除されており,南北朝時代には軍事力を持つまで
になっていたことが知れる(日和,[17],pp.236)。
山を神の顕現や神の居ます処とする考え方は縄文時
代にまで遡ることが,云々(鈴木 [14],p.163)。『万葉
集』の時代は,山は遙拝するもので,登ることは想像
比較
7
もできない時代であった(同,p.162)。
7.1
6.2
立山と白山
都への聞こえ | 文芸に見る
立山と白山が万葉集や古今和歌集で詠まれているこ
立山の山岳宗教に仏教的色彩がくわわったのは平安
とはよく知られている。正確にいうと,万葉集に立山
時代である(鈴木 [14],p.162)。平安中期の本地垂迹
を詠んだ歌が長歌とその反歌各 2 首(4000 と 4001 お
による権現思想の考えが生まれた云々(同,p.163)。鈴
12 北海道と沖縄は当然として,宮崎県にもない。
5
よび 4003 と 4004)および短歌 1 首(4024)があり,
き」の掛詞だという。
古今和歌集には白山を詠んだ歌が 6 首 | 383(凡河内
考察
躬恒),391(藤原兼輔),414(凡河内躬恒),979(宗
以上のように見てくると,立山と白山はかなり対蹠
岳大頼むねおかのおおより),980(紀貫之),および 1003
的である。
(これだけ長歌,壬生忠岑) | が載っている。これら
万葉集と古今和歌集の間には 150 年という時間があ
のうち宗岳大頼を除く 4 人は百人一首でもなじみであ
13
る。万葉集は生活を詠み,古今和歌集は言葉遊びとい
歴史な背景を以下の年表(次ページ)で見てみよう。
う要素がある。
る 。
私の印象では,万葉の時代に都人(家持の頃は平城
695 頃
718
741
757
759 以降
794
823
894
905 又は 914
1000 過ぎ
京)立山に強い関心をもったとは思えない。関心をよ
越の国が越前,越中,越後に分立
ぶのは『今昔物語集』
(平安末期,1110{24)などで立
越前より能登が分立
山地獄が取りあげられるようになってからのことだと
能登、越中に併合
思う。一方の白山は,実体はどうあれ,越の白山,雪
能登、越中より分立
の白山として都人(こちらは平安京)にもなじみが
万葉集成立
あった。
平安京に遷都
以上で分かるように,白山が平安中期(10 世紀初
加賀,越前より分立
頭)から都とのつながりが強かったのに対し,立山は
遣唐使の廃止
都とのつながりは平安末期(12 世紀初頭)からである
古今和歌集
(熊野とはつながりがあったようだが…)。伝承や政治
枕草子
面での遅れは当然だといえた(と,思う)。
年表を見れば分かるように,万葉集と古今和歌集と
は 150 年ぐらいの差がある。それだけでなく,万葉集
7.2
は平城京の時代,古今和歌集は平安京の時代という違
中央とのかかわり
[1] 寺社のかかわり
いがある。
白山は早いうちから中央とのつながりが強かった。
万葉集の立山の歌と古今和歌集の白山の歌をくらべ
ると,次のことが分かる。
応徳元(1084)年,越前馬場の白山中宮平泉寺は比
大友家持の立山の歌は,いかにも写実的で,現場で
叡山延暦寺の末寺となった。それより半世紀あまりお
詠まれたことがはっきり分かる。これらの歌を当時の
くれた久安 3(1147)年,加賀馬場の白山本宮白山寺
都人がどう受けとったかは分からない。それに対して
も延暦寺の別院になった(下出 [13],p.76)。
古今和歌集の 6 首は,都人が頭の中でこねくり回した
一方,立山について,岩峅寺ないし芦峅寺が延暦寺
(失礼!)歌のように思える。歌の説明を読むと,
「あ
などの末寺・別院になったということは今のところ見
なたが行く」とか「あなたが居る」とか「私が居た」
つかっていない15 。ただ,
「越中は真言が非常に強い。
というように,何らかの意味で越国 | これらは,三
そうであるのに,立山は天台である,…」(米原 [33],
越分置前の越国だろうか,加賀分立の前の越前だろう
p.104)。
か,加賀分立後の(狭い意味での)越前だろうか |
[2] 軍事のかかわり
とつながっているが,どう見ても作者が現場に立って
『源平盛衰記16 』[26] によりながら,木曽義仲の動
いたとは思えない。
きを追いながら,白山・立山との関連を追ってみよう。
かなり言葉遊びの感がある。例えば,
「越の白山知ら
ねども」…しらやましらね,と「しらね」の枕詞的14 な
治承 4(1180)年,以仁王の平家打倒の令旨を受け
歌(391 と 980 の 2 首),また「越の国なる白山のか
て,義仲は信濃で挙兵。翌年(養和元年)越後の国府
しらは白く」(1000)というのも言葉遊びである。残
に17 に進出。これに応ずるように,平泉寺の長吏・斎
りの 3 首:979 と 414 は,白山に雪を結びついている。
明は,越前・加賀・越後の武士団とはかってこれに味
方した。
「白山の雪見る」(383,凡河内躬恒)は「雪」と「行
13 兼輔,27 番みかのはら。躬恒,29 番こころあてに。忠岑,30
番ありあけの。貫之,32 番ひとはいさ。ついでながら家持は 6 番
かささぎの。
14 百人一首の「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな
燃ゆる思ひを」の「さしもぐさ」は,音では「さしも知らじな」に,
内容では「燃ゆる」」にかかっている。
15 今まで見つかっていないのは,もともとないのか,見つけ方が
悪いのか,分からぬ。
16『平家物語』には「語り本系」と「読み本系」という 2 系統の
諸本があり,
『源平盛衰記』は読み本系の 1 である。
17『源平盛衰記』[26] には,越中の国府にも行ったように書かれ
ているが,本当のところはどうなのか。
6
8 月,平氏は維盛を大将として追討軍を発向させた
(巻 27)。義仲は越後の国府に居ながら,越前に燧ひうち
④立山は万葉集で,白山は古今和歌集で,それぞれ
取りあげられている。この点ではどちらも遜色ないよ
城18 を築き,平家軍に備えた。斎明らもこれに籠もっ
うであるが,万葉集と古今和歌集では 150 年の時代差
たが,平家軍が 10 万余騎,源氏はその 20 分の 1 と
がある。(5 頁)
知って,平家方に寝返った。平家軍は燧城を抜き,斎
⑤越前馬場の白山中宮平泉寺は比叡山延暦寺の末寺
明を先に立て,越前から加賀へと攻め進んだ。
となったが,同様のことは立山については聞かない。
義仲は知らせを聞くや,まず 5000 余騎を越中に派
⑥木曽義仲は戦の勝ちを白山妙理権現と埴生新八幡
遣し19(巻 28),その後自らも越後を発って越中国府
に祈願したが,立山については聞かない。立山が戦と
(六道寺,現六渡寺)に着いた。そこで義仲は,戦に
関係してくるのは南北朝時代になってからである。
勝つには仏神の擁護が必要と考え,北国第一の霊峰・
白山妙理権現20 に願書を捧げた。
付録 | 語彙
9
平氏は 10 万余騎,木曽は 5 万余騎と劣勢なので策
をたて,自らは倶利伽藍合に陣をとったが,たまたま
五十音順
垣生(埴生)新八幡に行き当たり,これにも願書を捧
僧の地位・身分
げた。
優婆塞うばそく
礪並山での戦いにつづいて,
(有名な)倶利伽藍山合
在俗の男子の仏教信者(広辞苑)。
戦に勝利した21 。形勢逆転にともない,斎明は源氏に
和尚
つかまり,成敗された(巻 29)。
真言宗・真宗等ではワジョウとも読む。師僧,高僧,
考察
和上。法眼。
私度僧
義仲が願いを捧げた寺社として,白山と埴生新八幡
特に禅宗でいう。天台宗ではカショウ,律宗・
官許を受けない僧。
沙弥 出家して十戒を受けた少年僧。日本では,少年
の名はあるが,立山は出てない。
に限らず,一般に,出家して未だ具足戒を受けず正式
立山が武将たちから一目置かれるようになったのは
南北朝時代からである。正平 8(1353)年,南朝方の
の僧になっていない男子。
桃井直常・直信兄弟が芦峅寺に対し協力を求めた,と
上人 僧位の名。法橋上人の略。法眼の次に位し,律
いう(高瀬・清水 [24],p.57)。
師に相当する僧位。五位に準ずる。
大師 偉大なる師の意で,仏などの尊称。朝廷から高
徳の僧に賜る号。多くは諡号として賜る。
8
まとめ
開山 開山には 2 つの意味がある。仏教用語としては,
立山と白山は同じ北陸にあって,名山として並び称
寺院を建立すること。転じて寺院を開創した僧のこと,
され,ほとんどの霊山と同様,3 つの山からなってい
をいう。一方神道{山岳用語では,未踏峰が初めて登
る。そしてどちらにも,立山・白山という名の山はな
頂されること,とある。
い。両山が似ているのは(おそらく)このあたりまで
高瀬は,
「地獄から浄土への遥かな登山路を開くもの
で,調べれば調べるほど違いが見えてくる。
が開山である。」([17],p.179)。
①今回調べるきっかけになった開山伝承について。
権現
とは「権かりに現れた」という尊称で,本来は
白山は泰澄一筋だが,立山はあるいは無名の猟師,あ
仏であるが日本では仮に神となって出現したとする。
るいは佐伯有若,有頼,あるいは康済とバラバラであ
不可視の神が目に見える存在となって現れるという独
る(3 頁以下)。
自の神仏習合の論理である(鈴木 [14],p.163)。
②白山はその三山の箇々に神が定まり,本地仏も定
9 世紀半ば以降に展開した本地垂迹説に基づき,イ
まっているが,立山の場合は立山全体に神はあるが,
ンドの仏菩薩が本地で,衆生救済のために形と名を変
本地仏についてはよく分からない(2 頁,ご存じなら
えて日本の神として仮の姿で現れたとした。いわゆる
ばお教えいただきたい)。
神仏習合の論理である(鈴木 [14],p.75)。
③白山は全国にまたがる霊山だが,立山の場合は越
修験・修験道 平安時代の初期には,山の修行で得ら
中に限られた霊山という趣きがある(2 頁)。
れた霊力のことを意味した(鈴木 [14],p.21)が,12
18 JR
今庄駅のすぐ南。
19 源氏は御服山に陣をとり,般若野に陣をとった平氏を攻めた,
とある。
20 加賀馬場白山本宮,越前馬場平泉寺,美濃馬場長滝寺に宛てた,
とある(この順)。
21 このとき,
「金剣宮」とある神宝がたった,とある。
世紀以降は山岳修行の意味になった。修験道は,13 世
紀後半から顕教・密教と並ぶ第三の勢力として現れる。
顕密仏教の内部で胚胎し,14 世紀から 15 世紀に自立
したものと考えられる(同,p.22)。
7
修験道は,原始的な日本の山岳信仰と,仏教の密教
的要素とを習合させながら,さらには道教の山岳修行
[16] 高瀬重雄編,山岳宗教史研究叢書 10
陸修験道,名著出版,1987
観をも加えて,おおむね平安時代の半ばごろに成立し
[17] 高瀬重雄,立山信仰の成立と展開,[16],178{198
たと考えられている(高瀬 [16],p.11)。
[18] 富山県 [立山博物館],立山と白山 | 北陸霊山の開山
伝承 | ,富山県 [立山博物館],2015
当山派と本山派 当山派とは真言密教の醍醐寺三宝院
白山・立山と北
園城寺末の聖護院に本拠をもつ。これらは室町時代か
[19] 富山県 [立山博物館],立山・富士山・白山みつの山め
ぐり | 霊山巡礼の旅 [三禅定] | ,富山県 [立山博物
館],2016
ら近世にかけて成立したといわれている。
[20] 中島信之,[参考] 山岳宗教の諸相,2016
先達と御師 全国からの参詣者(檀那)を熊野に案内
[21] 中島信之,[参考] 白山伝承,2016
する宗教者と,熊野で彼らを迎えて祈祷や宿泊の世話
[22] 広瀬誠,立山開山の縁起と伝承,[16],199{225,1987
をする宗教者という,二通りの役割が(熊野)三山に
[23] 広瀬誠,薬師岳山の信仰と有峰びと,[16],414{422,
1987
を本拠とする修験道のことで,本山派は,天台密教の
登場した。前者は……先達と呼ばれた。後者は御祈祷
師の略として御師と呼ばれて……(由谷 [32],p.11)。
[24] 広瀬誠,清水巌,山と信仰 立山,佼成出版,1995
抖そう(「そう」は手偏に數) 梵語の音訳の頭陀づだ
[25] 福澤仁之,ミクリガ池年縞堆積物からみた立山信仰の
開始 | なぜ人は立山に登ったのか?,[30],第 7 章,
125{146,2006
の漢訳で行脚の意味だが,修験道では山林修行をさす
(鈴木 [14],p.20)。
曼荼羅
[26] 松尾葦江校注,源平盛衰記 (五)
店,2007
マンダラとはサンスクリット語では「真髄」
巻 25{30,三弥井書
[27] 宮家準,修験道儀礼と宗教的世界観,[34],179{244,
1975
や「本質」を意味し,悟りの本質を得ることだが,密
教は目に見える形として図像に描き,観想の修行を本
[28] 宮家準,修験道 その伝播と定着,法蔵館,2012
尊とした(鈴木 [14],p.12)。
[29] 山岸共,白山信仰と加賀馬場,[16],28{58
曼荼羅は,曼荼の語基に接尾語・羅がついたもの。
[30] 安田喜憲編著,山岳信仰と日本人,NTT 出版,2006
「曼荼」とは真髄,本質の意味,
「羅」は所有の意味。
[31] 山岸共,白山信仰と加賀馬場,[16],28{58,2000
したがって「曼荼羅」は,本質真髄を有しているもの,
[32] 由谷裕哉,白山・立山の宗教文化,岩田書院,2008
という意味(宮家 [27],p.282)。
[33] 米原寛,立山信仰研究の視点,[30],95{124
[34] 和歌森太郎編,山岳宗教史研究叢書 1
立と展開,名著出版,1975
参考文献
山岳宗教の成
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43,1975
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[5] 井野辺茂雄,富士の信仰,[30],127{193
[6] 岩鼻通明,立山信仰の歴史地理学的研究,[30],第 6 章,
109{124,2006
[7] 岩鼻通明,山岳と女人禁制 | 立山と羽黒山の比較か
ら,[30],第 12 章,193{201,2006
[8] 大場磐雄,関東における修験道流布の考古学的一考察,
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[9] 大場磐雄,関東における修験道流布の考古学的一考察,
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8