山岳宗教の諸相

[資料]
修験・修験道 平安時代の初期には,山の修行で得ら
山岳信仰の諸相
中島
れた霊力のことを意味した(鈴木 [9],p.21)が,12 世
紀以降は山岳修行の意味になった。修験道は,13 世紀
信之
後半から顕教・密教と並ぶ第三の勢力として現れる。
顕密仏教の内部で胚胎し,14 世紀から 15 世紀に自立
したものと考えられる(同,p.22)。
はじめに
1
優婆塞うばそく
私度僧
伝承を通じて,立山と白山をくらべよう([14])と,
在俗の男子の仏教信者(広辞苑)。
官許を受けない僧。
いろいろ調べ始めた。だが,白山については,それぞ
れ越前,加賀,美濃から見た断片像は多くあるが,全
2
体像となるとどうもつかみかねる。そこで,白山だけ
日本人と山
を取りだして調べた([15])。しかし,それで充分か
日本には山が多い。日本人の多くは平地で暮らして
というと,そうはいかなかった。というのも,山岳宗
いるが,見わたすかぎり平地で山は見えない,という
教一般の理解が不可欠だとわかったからである。調べ
ところはない。身近なところに山がある。山はひとび
ることとした。これはその報告である。(資料なので,
とに恵みと災厄をもたらした。
いろんな意味で完成度は低い。諒とされよ。)
恵みとは,農民にとっては水,猟師にとっては獲物
いろんな書がある。とくに参考になったのが,名著
である。災厄とは,火山の場合は噴火であり,地震で
出版の『山岳宗教史研究叢書』のシリーズである。手
ある。あるいは洪水である。洪水とは逆の渇水や旱も
当たり次第に必要な(とおもわれる)箇所を拾い読み
ある。
したが,他書や Wikipedia で得た知識以上には(あま
このように生殺与奪 | それも生よりも殺,与より
り)出なかった。同シリーズの和歌森の『山岳宗教の
も奪 | の権をもつ山をひとびとは恐れ崇め,その中
成立と展開』[23] は教えられるところが多かった。最
に神をみた。
近入手した本に,鈴木正嵩著,
『山岳信仰』[9] がある。
宮家:「我国では古来山岳は神聖な場所として崇め
なかなか面白い本だが,情報が詰まりすぎていて,読
られてきた。神が天降る場所,祖霊の住処,水分みくま
むのにはかがいかない。
り神のいる場所,狩猟やお産の守護神の鎮守する所と
して崇められてきたのである。」([19],p.281)
語彙
山と思想
抖そう(「そう」は手偏に數) 梵語の音訳の頭陀づだ
「修験道がこうした在来の山信仰に,神仙の道を体
の漢訳で行脚の意味だが,修験道では山林修行をさす
得するためには所定の方式に従って入山修行すること
が必要であるとする道教の思想,山中に仏菩薩の止住
(鈴木 [9],p.20)。
曼荼羅
する浄土がある故,そこで禅定に入ることが大切であ
マンダラとはサンスクリット語では「真髄」
や「本質」を意味し,悟りの本質を得ることだが,密
るとする仏教,仁山智水を重んじる儒教の思想に加え
教は目に見える形として図像に描き,観想の修行を本
て一つの宗教体系を形造るに至ったものである云々。」
([19],p.281)。
尊とした(鈴木 [9],p.12)。
曼荼羅は,曼荼の語基に接尾語・羅がついたもの。
山の役割
「曼荼」とは真髄,本質の意味,
「羅」は所有の意味。
「基調的には,死霊,祖霊,諸仏諸神が止住するとさ
したがって「曼荼羅」は,本質真髄を有しているもの,
れる他界としての山岳も,諸宗教の影響とともに種々
という意味(宮家 [19],p.282)。
権現
着色されはした。民俗学的な死者の山,道教的な現世
とは「権かりに現れた」という尊称で,本来は
の幸福が永遠無限にあるところ,天台系修験による法
仏であるが日本では仮に神となって出現したとする。
華経の霊山浄土,真言系修験による密厳浄土などはそ
不可視の神が目に見える存在となって現れるという独
れである。」と書き,山により時代によって性格づけ
自の神仏習合の論理である(鈴木 [9],p.163)。
が変わった例として,
「弥勒の浄土としての金峰山,観
9 世紀半ば以降に展開した本地垂迹説に基づき,イ
ンドの仏菩薩が本地で,衆生救済のために形と名を変
音浄土としての熊野の那智,阿弥陀の浄土としての熊
野本宮」をあげる(同,p.286)。
えて日本の神として仮の姿で現れたとした。いわゆる
神仏習合の論理である(鈴木 [9],p.75)。
山岳宗教略史
1
和歌森:「山に対する信仰は,原始時代以来,だれ
破戒し尽くす。とても恐ろしい存在なのである。また,
から導かれるということなく,人びとの心情のうちに
恐ろしいだけでなく,とても理不尽でもある。……。
いだかれてきた。日本に渡ってきた仏教もこの前提を
人々は,ただひたすら折れ屈んで地面に伏せ,でき
無視しては,布教できなかった。清冽な山を浄土と見
るかぎり精一杯の供応接待をして……」と書く([10],
たてたり,焦熱の湯のふきでる火山の中を地獄と見た
てたりすることもあった。険阻な山の道を開いて頂上
p.307)。この点については,わたしとしては同意であ
る。さらに「このような神道の儀礼を見ていて,私が
近く登って礼拝祈祷する仏教修行者も現われた。その
いつも思うことであるが,少しでも神のご機嫌を損ね
ような仏徒は奈良時代には,むしろ非正統派として異
ないように,非常に神経質であるとともに,とてもビ
端者のように見なされた。けれども,最澄の天台宗が
クビクしている,ということである。」とつづける。
山間修行を尊重し,空海の真言宗が里塵を避けて山間
そのうえで,
「これほど神経質にビクビクしている日
寺院を設け,ともども密教の真言を誦し,呪法を修す
本人が,神の領域か,あるいは神の化身か,または神
ることで験力を競うようになったところから,山林の
そのものとも信じていた山々のいただきに立つなどと
間に長い間くらして,いわゆる難行苦行につとめた修
いうことは,私には考えられない。……。このような
練の効を,密教験者としての力を現わそうとする風潮
恐ろしくも革命的なことをしたのは,日本列島の外か
が濃くなった。」([25],p.195)
らやってきた人々であろう。
その人々とは,渡来の仏教僧である。」と結論する。
2.1
渡来仏教僧たちは,日本人が恐れ,敬っている神よ
山に登ること
仏教の山
り仏教が優位にあることを示すため,山頂に立つ必要
人々がこの山(恐山)に参るのは山に登
があった(p.309)。
るということ自体に信仰的意味があるのではなく,あ
染川は,
「こうして眺めていると,私には,立山は,
くまでそれはあの世,すなわち恐山にいる死者の霊
まるで神が仏の衣を着せられたような,そんなふうに
に会い,またこれを供養せんがためである(池上 [1],
感ぜられた。頭からすっぽりと仏の衣を着せようとし
p.88)。
たが,神の山はそれを拒否し,頭を覗かせているよう
神社神道の山 (少なくとも今日における状態とし
な印象だ。」
(p.312)と書き,結論で「立山は,何か日
ては)神体山は…仏教の山のごとく,人々がこれに登
本人にとって,とりわけ別格の聖地のように思えた。」
るがごときことは絶対なく,まったくの「不入の地」
と書く(p.315)。
とされ,神社への参拝者は拝殿を通して山を拝むので
ある(同,p.90)。
4
和歌森:
「山を信仰対象としても,その頂にまで達
して祭祀的宗教儀礼を行なうのは,奈良時代より以降
山岳宗教の山々
山岳宗教の対象となるのはどんな山々でいくつぐら
であり,多くは仏教徒の登攀が進んでからである。」
いあるのだろうか。
(日本全国に)北から南へ実に 350
([24],p.18)
以上の信仰対象の山々がある(と,高瀬 [13] は和歌森
宮地:[山霊が泰澄や勝道の如き斯道の高僧によって
太郎を引用する)。また,和歌森の書 [23] の付録に,
顕現せられる形式を取っている場合の多いのはとくに
宮本袈裟雄氏の「山岳宗教分布地図」に載っており,
注目に値する.]([21],p.109)。
そこには 120 の山があげられている(pp.373-83)。
さらには,Wikipedia や萩原(in 安田 [22]),鈴
修験と猟師・山師
木 [9] などにも多くの記載がある。
古代初期には、山岳での修行を旨とする道教や仏
(フィクションとしての模範的な)「山臥やまぶし修
教が伝播し,これら宗教者が,山で生活する猟師や山
行者」がめぐった山々として,藤原明衡(永祚元年・
師などの導きで,山岳に入って修行した(宮家 [19],
989?~治暦 2 年・1066)の著した『新猿楽記』に,
p.26)。
「度々大峯葛木を通り,辺道を踏んで年々,熊野,
金峯,越中立山,伊豆走湯,根本中堂(比叡山),伯
3
耆大山,御山たけ,越前白山,高野,粉河,箕面,葛
日本人の深層
川寺の洞をめぐり,行を競い,験を挑」んだ,とある
染川氏は独特の感性をおもちだと思う。
([24],p.38)。
かれは,日本の神は「恵みをもたらしてくれる母の
ような存在ではなく,ある時,突然荒れ狂い,全てを
さて,三霊山(三大修行場とも)といわれるものに,
2
出羽三山,大峯山,彦山があり,
山 岳は い ろ ん な 角度 か ら 分 類 さ れる( 池 上 [1],
p.86)。
三名山として富士山,立山,白山がある。
・山の形と信仰の結びつき(大場の引用) 火山系,
いろんな書に現れる山岳宗教の山をあげてみると,
コニーデ1 ,神奈備系。
もっとも主要なところで:
出羽三山 立山
・神道史の立場から,神霊と山との相互関係(宮地)
白山 大峯山 伯耆大山 石鎚山
(1) 本質的に山そのものより発生し発達した神霊の
彦山
このほか:岩木山
日光山
三峯(秩父) 相模大
種にするもの。(2) 天より降って一時の足留まりとせ
山おおやま(神奈川)
浅間山
木曽御嶽
られるもの。(3) 長く止住せられるもの。(4) 天降りで
山(山梨)
霧島山
鷲峯山(京都)
三輪山
富士
七面
もなく独自の発生でもなく恰好の登場として撰定せら
れるもの。
鈴木 [9] は,各論として,出羽三山,大峯山,彦山
・民俗学の立場から,山岳信仰の原初形態として
(英彦山),富士山,立山,恐山,木曽御嶽山,石鎚山
(堀)
を取りあげている。が,どちらかというと,典型的な
(1) 火山系,(2) 水分系,(3) 葬所系。
・宗教学の立場から(岸本英夫) コモリ型,マツ
例をあげており,これに含まれないからといって,重
要でないということではない。
リ型,ノボリ型,オガミ型。
梁塵秘抄に 「四方の霊験所は,伊豆の走り湯,信濃
従因向果と従果向因
の戸隠,駿河の富士の山,伯耆の大山,丹後の成相と
修験道では,たとえば紀州熊野山側から大峰山に入
か。土佐の室生門,讃岐の志度の道場とこそ聞け」と
る修行を「従因向果(因より果に向かう)」といい,
ある(鈴木 [9],p.140)。
逆に吉野の方から大峰を抜けて修行するのを「従果向
因」と説くように……。「従因向果」は最も仏の境位
死者の霊魂が集まるとされる山 恐山,月山,相模大
から遠い地獄道から修行によって仏果を得ようとする
山,白山,立山,高野山,朝熊岳(伊勢),妙法山(那
道と説き,
「従果向因」は仏が現実の地獄道へとおり
智)など(鈴木 [9],p.10)。
て救いに至る過程だ云々と説く(和歌森,
「戸隠の修験
道」,[23],p.214)。
4.1
信仰の中心となる山々
5
宮地 [21] も,
「我国においてもこれ(道教の流れを汲
む神仙思想)を移して大和の葛城・吉野さては富士・
修験道とその崇拝対象
宮家 [19] は,修験道の崇拝対象として,以下をあ
大山・霧島などの山がその道場とせられ,山中に道を
げる:
学び行を経た末は,昇天して仙界に入り神仙に列せら
蔵王権現,神変大菩薩,大日如来,釈迦如来,阿弥
れると信ぜられたが云々」と書く(p.116)。
陀如来,薬師如来,地蔵菩薩,文殊菩薩,普賢菩薩,
池上 [1] は次のように論じる:
観世音菩薩,弥勒菩薩,勢至菩薩,竜樹菩薩,法起大
山岳信仰の中心となっている山といえば大峯山,羽
菩薩,不動明王,火界呪,愛染明王,孔雀明王,金剛
黒山,白山,熊野などのようにその信仰の勢力が日本
童子,降三世明王,三宝荒神,焔魔天,羅刹天,水雨
全体にまでひろがったものを初めとして,云々(佐和,
天,吹風天,毘沙門天,自在天,帝釈天,火光尊,大
[23],p.265)。
梵天,持地天,日天,月天,大黒天,一字金輪,大聖
(それらの信仰内容はさまざまであろう。)すなわ
歓喜天,大弁財天,咤枳たし尼天,慈恵大師,三部総
ちあるものは,神社信仰の色彩を色濃くおびており,
呪,諸天総呪
あるものは仏教信仰の色合いを濃くおびているという
である(p.289)。
風であろう。また多くの地方では,役行者開山説が風
宮家 [19] は,修験道における諸崇拝対象およびそ
靡しているが,ある地方たとえば東北や北陸では,役
れに類するものを整理してみると,大きく三つの類型
行者開山説でないものがめだつという具合であろう。
に分けることができる。第一は,不動明王,大日如来
和歌森氏が,信仰対象となった日本の山々に,神社系
などの密教系の崇拝対象である。なおこの類型には伊
と仏教系の別があるとし,それに地方地方の民間信仰
勢,熊野など特定地域の氏神を越えた全国的な神や日
が加わって,それぞれに特色あると予想したのも,こ
月星も含めることにしよう。宮家はこれを普遍的性格
れがためである(高瀬 [13],p.181)。
をもつ崇拝対象と名づける。第二は,不動の眷属や役
山岳の分類
1 成層火山。円錐形で,富士山,鳥海山など。
3
行者に使役されたと伝えられる前鬼,後鬼、などの鎮
を有する。開創者としては,全国的な分布を示す行基
守,牛王,荒神などの地域神,地主神的な性格の強い
菩薩,弘法大師,伝教大師,空也上人,役行者など,
ものである。これを個別的な崇拝対象とよぶ。第三は,
また東北地方一円にわたる慈覚大師,会津地方の徳一
邪神や生死霊,動物霊などの人間に憑依したり,悪影
菩薩,豊後地方の仁聞菩薩,播磨地方の法道仙人,北
響をおよぼす邪神邪霊である(p.313)。
陸地方の泰澄大師,上野地方の勝道上人,近江地方の
金粛菩薩をはじめ,羽黒を開いた能除太子,摂津の開
三尊 | 過去,現在,未来
成皇子,朝護孫子寺の明錬上人,鳳来寺の利修仙人,
「釈迦が過去,観音が現在,弥勒が未来を支配する
熊野の裸形仙人,彦山の善正大師,さては本朝神仙伝
仏であるという教義…。…(中略)…。羽黒修験では,
を彩る久米仙人,阿曇仙人,大伴仙人などの伝説は,
羽黒の本地仏を現在を支配する観音,月山の本地仏を
山中入定修行と遊行遍歴のいずれか,または複合形態
死後の世界を象徴する阿弥陀,湯殿山の本地仏を未来
に属する(池上 [1],p.79)。
の再生を祈る胎蔵界大日として,この三社の合体を説
いている。」(宮家 [19],p.294)。
寺院の開基年になぜ大同元(806),2 年が多いのか?
(木曽御嶽に関して)主尊の王御嶽蔵王権現は現
空海の中国からの帰朝(大同元(806)年)とその
世2 では弥勒菩薩,今生では蔵王権現,来世には釈迦
後の空白の 3 年間に仮託されたことと,坂上田村麻呂
如来と現じて衆生を済度する(宮家 [20],p.109)。
が 3 次にわたる蝦夷征討の後に帰京して,大同元年に
中納言・中衛大将に任じられ有力者となった歴史的事
5.1
実に仮託されたと推定される(鈴木 [9],p.34)。
修験者
役小角 おづぬ(行者)の役割
修験者の派
役小角が修験道の開祖
天台聖護院などの本山派,真言三宝院の当山派,東
に仮託されるのは鎌倉時代以降で,おそらくは修験が
北の羽黒派,九州の彦山派とならんで,戸隠派があっ
「修験道」として山中の儀礼体系を確立し意味づけを
作成していく過程に対応し,その頂点に据えられた可
た(和歌森,
「戸隠の修験道」,[23],p.197)。
能性が高い(鈴木 [9],p.73)。
修験者のあいだの連絡
開山伝承とアリ
「平安末期ころに源義経が吉野から逃れて平泉に
末代上人の俗名有鑑ゆうかんのアリと
行った際に,使者を羽黒山に代参させたといわれてい
は顕れる,鑑は鏡に通じるとすれば,まさしく神霊が
るが,すでにこのころから大峯信仰の修験者と羽黒山
顕現する祭具と同じ意味となり,神霊との合一を意味
の修験者のあいだに連絡のあったことを思わせられる
する。シャーマンを基盤に仏教化して発展した神仏習
のである。」(佐和 [7],p.269)。
合の舞台が山岳であった。各地の山の開山者の名称に
アリが含まれるのは偶然ではない(同,141)
有若と有頼のアリはアレ,つまり顕現を意味し,ヨ
開山伝承
6
リとはヨリツク,憑依を意味し,シャーマン的な人物を
史実に仮託して語った可能性は高い(鈴木 [9],p.171)。
多くの霊山に開山伝承があるが,都(平城京ないし
平安京)の周辺の山 | 吉野山や葛城山 | ,あるい
は,あまりにも有名な山 | 富士山 | には開山伝承
6.1
はない。開山伝承が作られる前に,すでに山林修行地
諸山の開山伝承
堀は,霊山開創が実際にどうであったかは「模糊と
として知られていたからであろう。
して雲霧の中に閉ざされているが」と書き,それらは
飛来する神々
「いくつかの共通せる類型に分類でき」るだろう,と
『大山寺縁起』には,都卒天の巽(東南)の角が飛来
説く。「しかしてそれらはいずれも山中入定修行と遊
して三つに分かれ,熊野,金峰とこの山になった(宮
行遍歴の二つのタイプの複合形態を有する点において
家 [20],p.327)。
共通している。」とつづける。そして,
([18],p.79)
「地方霊山の開山縁起は,役小角より遡る時期の開
霊山開創伝説の分類
山を意図的に操作してものであって,歴史的事実では
およそいくつかの類型に分類できるが,それらは山
ないと解釈されてきた。……。そのような認識を改め
中入定修行と遊行遍歴という 2 つのタイプの複合形態
2 現世と今生が出てくるが,どちらか
る段階に到達したのかもしれない。」
(岩鼻 [5],p.200)
| たぶん,こちら | は
「霊山の開山伝承には,構想が最初から開くべき山
前世?
4
を心に定め,不屈の意思で艱難を克服して目的を達成
出羽三山(山形県)
する型と,名もなき民が山中で偶然霊異に遭遇して感
羽黒山:正観音菩薩,月山:
阿弥陀如来,湯殿山:大日如来。
動し山を開くに至る型とがある。後者の型でも,狩人
※現在は出羽三山といえば羽黒山,月山,湯殿山を
が剃髪して僧となり開山何々上人と称せられたと伝え
指すとされているが,古来は羽黒山,月山,鳥海山,
3
るものが多いが,…… 」(広瀬 [16],p.415)。
その後は羽黒山,月山,葉山を出羽三山と呼んでいた
「我が国に於ける山林仏教の発達は,伝うるところ
([20],p.269)。
によれば,役小角並びに同志の諸仙を開祖として,奈
能除太子(崇峻天皇4 の皇子)が三本足の烏に導
良時代末頃から活動せられたと考えられる。しかして
かれて羽黒山に分け入ったところ,聖観音が出現し
その最も代表的な中心地は,近畿に於ける吉野と熊野
て羽黒山(414m)を開き,次いで月山(1,984m),
であった。…(中略)…。今その地方流布の状況を見
湯 殿 山(1,500m)と 出 羽 三 山 を 開 い た ,と さ れ る
ると,相当はやくから遠方にまで影響が与えられ,平
(Wikipedia)。
安時代にはほぼ日本全国に及ぼされたと考えられる。
羽黒山
弘俊を,羽黒山を開基した崇峻天皇の御子
その伝播は一様でなく,或は行基といい泰澄と伝え,
能除(法名弘海)の弟子としている。それ故この弘俊
いずれも後世の名僧知識に仮託し,または架空の大聖
が活躍した 14 世紀中頃,能除を開山とする伝承が作
神仙を作っているが,帰するところは抖とソウ(ソウ
られたと考えられる(宮家 [20],p.270)
は手偏に數)の人々によって留錫修法せられてものに
開山の能除太子は崇峻天皇の第三皇子の参拂理大
外ならない(大場 [6],p.188)。
臣ふつりのおとどとされる。正史では崇峻天皇の皇子は蜂
子皇子だけとのこと(蜂子皇子を開山とする別伝もあ
御岳について 大峯山の「金御嶽かねのみたけ」を頂点に,
る)。崇峻天皇は推古天皇の兄弟だから,聖徳太子とは
各国を代表する山が国御嶽くにみたけと呼ばれる。木曽
従兄弟になる。参拂理大臣は大烏に導かれて観音の示
御嶽山は信濃の国の国御嶽で,
「おんたけ」と呼ばれ
現に会う。その後,国司の腰痛を治し,人の苦を能よく
ていて,甲斐の御嶽,武蔵の御嶽,陸前の御嶽などの
除いたので,能除太子とよばれた,とある(鈴木 [9],
「みたけ」とは異なる特別の尊称である。各地で,
「お
p.51 以降)。
んたけ」と「みたけ」の呼称は混在するが,木曽御嶽
この後,役行者が来山,能除太子の寺院建立,行基
山の影響が強い所が「おんたけ」である。元々は王御
の来山,弘法大師の巡錫があった5 。
嶽おうのみたけで,
「御嶽」に転化したといわれる(生駒
湯殿山
より,鈴木 [9],pp.215{6)。
空海による大同 2(807)年の開山である
(鈴木 [9],p.44)。空海は唐からの帰朝後に出羽に来
て,大梵字川に胎蔵界大日真言の種(アビラウンサン)
6.2
が浮上したのを見て,川を遡上して大日如来と出会い,
開山伝承各論
秘儀を受けて開山したとある(鈴木 [9],p.44)。
東北地方
恐山
関東地方
釜伏山(879m)ほか,合計 8 つの山からな
大場 [6] は,考古学的観点から関東の修験の山々を
る。死者の魂の赴く所として知られ,云々(鈴木 [9],
論じている。相州大山(p.182),日光二荒山(男体山,
p.195)。本尊は地蔵(同,p.197)。
p.184),箱根山と伊豆山(p.185),上野三山=赤城
と榛名,妙義(p.187)などが記されている。
伝承では開創は慈覚大師円仁とする。円仁は唐の天
台山で修行中に霊夢を見.それにしたがって,松島の
興味深い記事のは,箱根と伊豆山は姉妹で箱根が姉,
青龍寺(瑞巌寺),山形の立石寺を開いたあとに,恐
伊豆山が妹(p.186),また赤城と榛名も姉妹で,赤城
山にいたり開山したという(『略縁起』,同,p.199)。
が姉,榛名が妹(p.187)とある。
その後一時荒廃したものの大永 2(1522)年に再興
今の日光二荒山神社の祭神は,大己貴命,田心たご
された(同,p.200)。
り姫,味粗あじすき高彦根命の三神だとされる(和歌森,
岩木山(青森県,1,625m)
「日光修験の成立」,[23],p.247)。
宝亀 11(780)年,岩木山の山頂に社殿を造営した
日光山(二荒山)(栃木県,男体山 2,486m,女峰
のが起源とされる。延暦 19(800)年,岩木山大神の
山 2,464m,太郎山 2,368m)
加護によって東北平定をなしえたとして,坂上田村麻
勝 道 上 人(735{817)は 33 歳 か ら 日 光 山 へ の 登
呂が山頂に社殿を再建し,……(Wikipedia,岩木山
頂 を 試 み ,38 歳 の と き 3 度 目 の 試 み で 成 功 し た
神社)。
3 薬師岳におけるミザの松は最後まで貧しい職人のままである。
」
4第
32 代,587{92.
5 オールスターキャストである。
とつづく。
5
(Wikipedia,勝道)。
富士山(静岡県・山梨県,3,776m) 浅間大神,本
地仏:大日如来・浅間神社
赤城山(群馬県,1828m)
9 世紀初期に成る『日本霊異記』によると,役優婆
塞えんのうばそくは,伊豆の島に配流されたが,毎夜富士
(日光山の開山につづいて)比叡山の僧覚満により
開かれたとの伝があり,大沼に千手観音菩薩,小沼に
山で修行し,富士明神の神文によって死をまぬがれた
虚空蔵菩薩を,それぞれ赤城大明神と高野辺大明神の
としている。…(中略)…。正史に残る富士山の最初
本地と説くようになった(大場 [6],p.28)。
の修行者は,12 世紀中頃富士山に数百度登り,山頂に
三峯山(埼玉県秩父)
大日寺を建立した駿河の末代(富士上人)である。
社伝によれば,景行天皇の時,日本武尊が東征中,
井野辺 [4] によれば,どうやら富士には開山伝承は
碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登っ
ないようだが,富士講なるものがあり,その鼻祖は角
て伊弉諾尊・伊弉冉尊の国造りを偲んで創建したとい
行で,室町末期(元亀から天正のころ)のひとである,
う。また。伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修
とされる(大場 [6])。
行をし,空海が観音像を安置したと縁起には伝えられ
(角行は)弟子 2 人を得て,云々(鈴木 [9],p.147)。
る(三峯山)。
御 嶽 山( 長 野 県・岐 阜 県 )
御 嶽 五 峰 … 剣ヶ峰
(3,067m)を主峰に,北から継子岳(2859m),摩利支
御岳山みたけやま(東京都,929m)
天山(2959m),継母岳(2867m),王滝頂上(2936m)、
御嶽は,本来は峻厳な岩山を指す「嶽」に美称の
木曽御嶽の信仰が他の山岳信仰と同じように,原始
「御」を付した普通名詞である([20],p.96,p.127)。
的には山そのものを崇拝するということに出発し,そ
御嶽については木曽御嶽を参照。
の後になって役小角を開祖とする修験者の支配にう
大山おおやま(神奈川県,1,252m)
つったものであることは主神を座王権現としているこ
奈良時代,天平勝宝 4(752)年良弁僧正が登山,生身
とからも容易にうなずけられる云々(生駒 [2],p.138)。
の不動尊を拝して一寺を創立。次いで天平宝字 5(761)
女性に寛容で(といっても,王滝口は六合目の湯権
年,行基菩薩の弟子光増が入山,不動尊像を造立安置
現…(中略)…までで,山頂登拝は明治 5 年まで許さ
した(大場 [6])。
れさかったが)湯の信仰があったことは熊野の影響を
感じさせる,とある([9],p.229)。
中部地方
箱根(神奈川県・静岡県)
立山(富山県,3,015m) 佐伯有若(国司)あるい
箱根神社
5 代孝昭天皇のとき聖占仙人,のち利丈・玄利の二
仙らによって開かれた,とする。奈良時代の末,洛邑
はその子有頼による。雄山:阿弥陀如来,大汝山,富
の僧万巻上人が三所権現の神託を感得し,箱根神社の
※剱岳
基礎をなした(大場 [6])。
た謎か?
士ノ折立
立山に剱岳が含まれていないのはちょっとし
常陸の鹿島神宮に神宮寺を開基した満願(720{818)
古代,立山が開かれたとほぼ同じころ,剱岳が無名
が芦ノ湖畔に箱根権現を創祠した(宮家 [20],p.322)。
の修験者によって登頂されてことは確実である。その
伊豆山(静岡県)
修験者は立山を開いた僧6 と同一人物であった可能性
伊豆山神社
が強い。しかし立山は開かれたが,剱岳は閉ざされた
孝昭天皇のとき,松葉仙人の日金(箱根連山の一)登
(広瀬,[12],p.458)。
山に起こり,承和 3(836)年,賢安大徳が走湯権現を
※立山,白山,富士山の三山をめぐる三山禅定の根
感得し,伊豆山神社を創設,と伝えられる(大場 [6])。
底には,死(立山),再生(白山),不死(富士)の
信仰があると思われる(宮家 [20],p.326)。
七面山(山梨県,1,989m)
日蓮の高弟である日朗が開いたといわれる。
白山(石川県,岐阜県,2,073m) 御前峰,剣ヶ峰,
大汝峰。泰澄上人による。
浅間山(長野県・群馬県,2,568m)
曹洞宗の中世後期以降の教団形成には白山信仰の影
役小角が持統天皇 9(695)年に浅間登山をしたと
響が認められる(宮家 [20],p.298)。
もいわれる。
近畿地方
戸隠
三輪山(奈良県,467m)
『顕光寺流記』によれば,開山の仏徒は「学門行者」
である。
「学門」はあるいは「学問」かもしれない,と
7 世紀に,役小角により開かれたと伝える:
和歌森は書く([25],p.198)。
6 広瀬は「僧」と書くが,わたしはあやしいと思う。
6
鷲峯山(京都府,682m)
大峰(大峯)山系
初的な伝承が,そのまま放り出されている,という印
象である。文献上の初出は『日本霊異記・下』(平安
紀伊半島の中央部,北は吉野か
時代初期)の第 39 話 2 で,
(おおよそ)
「山が険しいの
ら南は熊野に至る大山塊の総称で,修験道の揺籃の地
で浄行の人のみ登れるが,凡夫には登りえない。天平
とされる(鈴木 [9],p.68)。
吉野山(金峰山,金の御嶽とも)(奈良県)
宝字 2(758)年,この山に浄行の禅師がいて修行して
『法
いた。名を寂仙菩薩という。」…寂仙をはたして開山
華験記』[3] には「金峰山」と書いて「みたけ」と振り
といっていいかどうかはわからぬが。『文徳実録』で
仮名をつける。
寂仙にあたるのは灼然の弟子上仙だとする。
大峯山(奈良県,1.719m)
685 年に役小角(神変大菩薩)が開山,引き続き,
役行者が前鬼ぜんき(義覚)
・後鬼(義賢)を従えて
上仙法師(寂仙または石仙とも呼ばれている)が開山
大峯山を開いたとされる(鈴木 [9],p.96)。役行者以
したと伝えられる(石鎚神社)。
前,奈良時代の修行者に,禅師広達,報恩法師,元興
※他山とのつながり
寺の護命らがいた([9],p.72)。役行者入山後,修行
山とのつながりが記されている点であろう。以下は鈴
が途絶えた峰入を,醍醐寺開基の聖宝 (832{909)が再
木 [9],p.256 以降による。
開した(宮家 [20],p.319)。
石鎚山の面白いところは,他
まず,石鎚山にある横峯寺の縁起に,行者は天竺に
ては云々,漢土に生れては云々,本朝に生れては役の優
熊野三山(和歌山県) 本宮大社:阿弥陀如来,速
婆塞と号する者なり。石土(鎚)の峯には石仙菩薩と
玉大社:薬師如来,那智大社:千手観音。
現れ,…以下,大峯には金剛菩薩,三徳山(伯耆)に
熊野の本宮・新宮・那智の三山は別々の聖地であっ
は智積菩薩,金剛山には法喜菩薩,箕面山には不動明
たが,11 世紀後半には三社が他の二社を祀り三所権
王,とそれぞれ現れ給ふ,とある。
現と称し,熊野三山として知られるようになった(鈴
また役行者の前世の好積上人が,日本での仏教流布
木 [9],p.82)。
の霊地を知るべく,中国から 3 本の蓮華を投げたとこ
『熊野権現御垂迹縁起』
:
「唐の天台山の王子信とい
ろ,石辻(鎚)と大和国弥勒長(吉野金峯山か)ある
うものが,八角形の水晶の形で…(中略)…熊野新宮
いは吉野山および伯耆の三徳山に落ちたのでそれぞれ
の南,神蔵山に降臨した。…(中略)…その後,本宮
を開山したという。
大湯原の三本の一位(櫟,の意)の木の梢に,三枚の
また役行者の弟子の系譜は,義学(葛城),義元(吉
月形として天降られた。そのさらに後,熊野の千代定
野大峯),義真(箕面),寿元(彦山),芳元(石鎚),
という犬飼が猪を射てその跡を探して大湯原にゆくと,
助音(譲葉峰),および黒珍(羽黒山)である,カッ
猪は櫟の木の元で死んでいた。千代定は猪の肉を食べ,
コ内はそれぞれに熊野権現を勧請した先である。
櫟の木の所で宿を取った。犬飼は.櫟の木にかかって
※成就社 役行者が石土山に籠り修行していたがなか
いた三枚の月形を発見し,どうして空を離れて木の上
なか神意が得られず下山しようとしたが,なせばなる
にいるのかと問うた。月は答えて,我は熊野三所権現
と再び行を続け石土大神の霊験を得て石鎚山を開山し
である。一社は証誠大菩薩であり,もう二社は両所権
た。これを成就社という。
現,などと仰せになった。」(福澤 [17],pp.145{6)
宝満山(福岡県,829m)
なお,那智山の開山とされる裸形上人を千代定の次
白鳳 2(673)年 ,心 霊の 開 基と さ れ てい る( 宮
男とする伝承がある。
家 [20],p.247)。
中国・四国・九州地方
英彦山ひこさん(福岡県・大分県)
大山だいせん(鳥取県,1,729m)
北岳,中岳,南
岳(1,199m,最高峰)からなる(鈴木 [9],p.102)。
『大山寺縁起』
(鎌倉後半頃成立か)
:猟師依道が金
「ひこさん」は古くは「彦山」と書かれたが,享保
色の狼を追って山中に入り,矢をつがえると矢先に地
14(1729)年,霊元法皇が「英彦山」と書くと決めた
ので,それ以降「英彦山」と書かれるようになった。
蔵菩薩が現れ,狼は老尼となって依道に発心を奨めた。
そこで依道は金蓮と名を変えて僧となり,修行して大
彦山の開山:継体天皇 25(531)年,北魏の僧善正
山の開山となった(福澤 [17],p.41)。
が来日,仏を奉じて彦山に入った。岩窟に籠もって修
石鎚山(愛媛県,1,982m) 弥山みせん,1972m;天
行中(宣化 3(538)年)に,たまたま山中で狩りをし
狗岳,1982m;南尖峰,1982m。金剛蔵王権現および
ていた豊後国(……)の猟師藤原恒雄と遭い,殺生の
子持権現。
罪を説ききかせた。恒雄は善正の戒めも聞かずに猟を
石鎚山の開山伝承はあまり明確でない。いろんな原
続けるうち,一頭の白鹿を射た。そのとき,空中より
7
三羽の鷹が現れ,傷のついた鹿に檜の葉にひたした水
をふくませると,鹿は蘇生して逃げ去った。恒雄はそ
[3] 井上光貞ほか校注,日本思想大系 7,往生伝,法華験
記,1974
れを見て鷹が神の化身であることを悟り(鷹は彦山の
[4] 井野辺茂雄,富士の信仰,[22],127{193
霊鳥とされる),自らの殺生を恥じて弓矢を捨て,家
[5] 岩鼻通明,山岳と女人禁制 | 立山と羽黒山の比較か
ら,[22],第 12 章,193{201,2006
財をなげうって岩窟の傍らに祠をたて,善正の持ち来
たった異国の神像を祀って霊山と名づけた。そして自
[6] 大場磐雄,関東における修験道流布の考古学的一考察,
[23],182{93,1975
らも善正の弟子となり忍辱にんにくと名乗って練行を重
[7] 佐和隆研,山岳信仰美術の特質,[23],265{78,1975
ねるうち,山頂の三岳に阿弥陀,釈迦,観音の垂迹を
[8] 鈴木昭英編,富士・御嶽と中部霊山,名著出版,2000
みて上宮三社を建立した(宮家 [20],p.285,
)。
[9] 鈴木正崇,山岳信仰,中公新書,2015
猟師「恒雄」に関して:宮家は,中野幡能の「この
恒雄は朝鮮の壇君神話にある,人間世界を治めるため
[10] 染川明義,仏の衣を着せられた神の山,[22],第 18 章,
307{325,2006
に大白山に降りた天神恒心の子恒雄因むとし,これを
[11] 大東俊一,日本人の他界観の構造,彩流社,2009
もとに朝鮮の白頭山の大百山信仰が彦山に伝来し,こ
[12] 高瀬重雄編,白山・立山と北陸修験道,名著出版,1987
れが北九州の白山信仰に展開したとしている。」を引
[13] 高瀬重雄,立山信仰の成立と展開,[12],178{198
く(宮家 [20],p.285,鈴木 [9],p.72)。
[14] 中島信之,伝承に見る立山と白山 | 山岳宗教の諸相
| ,2016
その後,菊理姫命が来臨し,山号を白山妙理権現と
[15] 中島信之,[資料] 白山伝承 | まとめ | ,2016
した(白山勧請,[9],p.106)。
他山との結びつき
[16] 広瀬誠,薬師岳山の信仰と有峰びと,[12],414{422,
1987
大宝元(701)年,役行者が老母
を背負い来山,
(深山を経て)宝満山に行き,次いで入
[17] 福澤仁之,ミクリガ池年縞堆積物からみた立山信仰の
開始 | なぜ人は立山に登ったのか?,[22],第 7 章,
125{146,2006
唐した。帰朝後,九州に再来し,福智山,宝賀原,彦
山,宝満山を経て大峯山に至った([9],p.107)。
[18] 堀一郎,日本に於ける山岳信仰の原初形態,[23],p.47{
84,1975
『彦山流記』という書(13 世紀初頭)に,彦山権
現が,彦山に天下り,石鎚山,淡路の楡鶴羽ゆづるは山,
熊野の切部王子,神蔵峯,石淵谷をめぐって,彦山に
[19] 宮家準,修験道儀礼と宗教的世界観,[23],179{244,
1975
戻った,とある([9],p.112)。
[20] 宮家準,修験道 その伝播と定着,法蔵館,2012
中世の彦山は,熊野,白山,羽黒山と並び称されて
[21] 宮地直一,山岳信仰と神社,[23],96{124,1975
いる([9],p.116)。
[22] 安田喜憲編著,山岳信仰と日本人,NTT 出版,2006
[23] 和歌森太郎,山岳宗教の成立と展開,名著出版,1975
霧島山(宮崎県・鹿児島県,韓国岳 1,700m,高千
[24] 和歌森太郎,山岳宗教の起源と歴史的展開,[23],p.13{
43,1975
穂峰 1,574m)
10 世紀中頃に性空しょうくう(|1007)が修行に訪れ,
[25] 和歌森太郎,戸隠の修験道,[23],p.194{240,1975
山中の様々な場所に分散していた信仰を天台修験の体
系としてまとめ,霧島六社権現として整備した。(こ
れでは「開山」伝承といいがたいか。)
7
付録
似た挿話
英彦山六峰のうち,蔵持山に関して,都から来た静
暹せいせんが当山の窟に籠って修行中に食に困ったとき,
護法が聖観音の化身の空鉢を飛ばして,門司の関の筑
紫船から米を奪い云々
参考文献
[1] 池上広正,山岳信仰の諸形態,[24],89{95,1975
[2] 生駒勘七,御嶽信仰の成立と御嶽講,[8],2000
8