庄野英二文学の原点 - 帝塚山学院大学図書館

人間科学部研究年報 平成
庄野英二文学の原点 23 年
庄野英二文学の原点
−『星の牧場』と『アレン中佐のサイン』に関する考察−
The core of Shono Eiji’s Literary works :
on The Meadow of Stars and The Sign of Lieutenant Colonel Alan
彭 佳紅
Peng Jiahong
Abstract
The Meadow of Stars and The Sign of Lieutenant Colonel Alan are the most important
works of Shono Eiji. The former, a prize-winning children’s story, has been well received, and
presented not only as a play but also as a film. However, assessments of the latter have been
divided. The aim of this paper is to make clear the motives and intents of the author in these
works through an analysis of the themes and the characters.
はじめに
庄野英二(1915 〜 1993)は、日本で児童文学作家としてその名がよく知られている。大正 4 年
(1915)、帝塚山学院初代院長の庄野貞一の次男として生まれた。文学青年の庄野英二は 10 年間、
太平洋戦争に従軍、二度も負傷した。戦後、ようやく大阪に復員。戦時中、俘虜収容所所長に務
めたことから、一時、戦犯容疑で拘束されたこともあった。結局、無実で解放された。その後、
帝塚山学院大学の教授に就任。さらに作家として、また詩人、画家としても幅広く活躍した。多
くの文学賞を受賞し、
『庄野英二全集』11 巻をはじめ数多くの作品を残した。とくに晩年には、中
国文化に関する作品を多く書いた。また、日本作家代表団の一員として訪中し、中国児童文学の
大家陳伯吹や、日中戦争のときには敵味方にわかれていた中国の詩人雁翼とも交流があった。
『星の牧場』は、日本児童文学の受賞作である。のちに『アレン中佐のサイン』とともに『庄野
英二全集』第 1 巻に収録されている。両作品は、日本では「戦争児童文学」に分類される傾向が
ある。
『星の牧場』は、庄野英二の代表作というのが定説である。『アレン中佐のサイン』は、作者庄
野英二が「どうしても書かなければならない」作品である。両作ともブックメディアにとどまら
ず、劇団民芸などによって演劇化もされている。また『星の牧場』は二度も映画化され、映像メ
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ディアによっても表現されている作品である。『星の牧場』の映像は、庄野英二が亡くなったあと
の 2000 年も、「文化の日」の NHK 特別番組として放映されていた。
このように『星の牧場』は、日本児童文学として受賞しただけでなく、日本の社会で広く受け
入れられている。それに対して、作家が心血を注いだ、同じく戦争を背景にした『アレン中佐の
サイン』への日本での評価は賛否両論である。その温度差は、何を意味するのか。本論文は『星
の牧場』と『アレン中佐のサイン』のテーマおよび主人公を解析しながら、両作品の根底にある
庄野英二の創作動機と作家の真意に迫る。
Ⅰ . 両作品を解読するヒント
1.『星の牧場』(理論社、1963 年初版本)のあらすじ
復員して牧場で働く主人公のイシザワ・モミイチは、戦争で受けたショックによって記憶喪失
となり、時々幻聴もあらわれる。しかし、軍隊時代に世話をしていた愛馬のツキスミのことは覚
えていて、彼の耳には時々馬蹄の音が聞こえているという。ある日、山中の花畑でクラリネット
を吹く男のジプシーに出会う。そして、他にも山と音楽を愛してさまよい暮らすジプシーが大勢
いることを聞いて、ツキスミを知っている者もいるかもしれないと考えたモミイチは、懸命に美
しい音がする鈴をたくさん作り、それを持って再びジプシーに会いにいく。山の中でヴァイオリ
ン弾きのオカイコ少女、その兄のヴィオラ弾きなど、たくさんのジプシーに出会い楽しく交流す
る。なぜか、モミイチは、出会ったジプシーの一人ひとりに南洋での戦友の面影を必ず見つけ、
いつまでもツキスミのことを思い続ける。ある日、ジプシーたちとの演奏練習の後、モミイチは
幻のツキスミを追いかけてふらふら歩きだし、びしょ濡れになって高熱まで出して牧場に帰り着
く。満月の夜、モミイチは再びジプシーたちに会いたいと思って山へ出掛けようとするが、心配
する牧場のみんなに止められてしまう。数日後、やっと牧場を抜け出すが、かつての場所にジプ
シーたちの姿はなかった。探し疲れたモミイチは、山の花野でトロリとひと眠りしてよい気持ち
になり、ふと空を見上げると、真上の銀河の砂原をツキスミが駆けている。星の花園の中ではジ
プシーたちがオーケストラを演奏している。振り向くとツキスミが天からおりてきて、モミイチ
を背にのせて星の花野をかけていくのだった。
2.『アレン中佐のサイン』(「岩波少年少女の本 18」、岩波書店、1972 年初版本)のあらすじ
第二次大戦中の、南方の孤島にある日本軍の捕虜収容所で日本軍兵士と連合軍捕虜との交流を、
俘虜収容所所長椎崎大尉の視点で描いた作品である。
椎崎は、もともと職業軍人ではなかった。東京の大学の英文科卒で、郷里の宮崎県の女学校の
英語の教師であった。気質のおだやかな椎崎は、二度も召集された。
俘虜収容所長椎崎中尉は、一軍人として陸軍司令部の命令を忠実に従いながら、戦時中の陸軍
司令部と憲兵の無責任や横暴に対して心底からの嫌悪感を現わしている。椎崎は極めて困難な情
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況におかれているが、ベストを尽くそうと苦闘していた。椎崎中尉(後に大尉と昇格)とその部
下の懸命な仕事ぶりを見てアレン中佐をはじめとする連合軍の俘虜たちは、椎崎らを信頼し協力
した。
終幕に日本軍が敗れて第二次大戦が終った。別れ際にアレン中佐は、椎崎所長に握手をもとめ、
感謝の言葉を述べた。そして、椎崎とその部下の身の上を案じて、「サイン」を残した。
「椎崎大尉とその部下たちは、われわれ連合軍俘虜を保護するために、極めて困難な状況の中
にありながら、終始、誠意をもってあらゆる限りの力をつくしたことを証明する。
一九四九年八月三十一日
メエルモウチョ俘虜収容所 俘虜代表 アレン中佐」
(p.234)
3. 両作に隠された解読のヒント
『星の牧場』
①場所設定は、都市部ではなく、日本の山奥の田舎。
②主人公は、戦場から復員した記憶喪失の青年モミイチ、彼がいつも幻覚で戦争から戻れない
愛馬ツキスミの姿を見、その蹄の音を聞く。
③主人公モミイチの病んだこころを救ってくれたのは、村人やインテリなどではなく、戦友(日
本人)の顔に連想されたジプシーたちとクラシックの名曲。
『アレン中佐のサイン』
①場所設定は、日本ではなく、南太平洋インドネシア諸島。
②主人公は、俘虜の将校アレン中佐と日本のジャワ俘虜収容所所長椎崎である。
③主人公である椎崎の人間性を肯定し、戦後の人生に希望を与えたのは同胞ではなく、敵の将
校アレン中佐である。
Ⅱ .『星の牧場』に関する考察
1.「美しい童話を書いてみたい」という作家庄野英二の願望
『星の牧場』の初版は、1963 年に出ている。1946 年に作者庄野英二が帰国復員後 17 年目の作品
になる。『星の牧場』の雛型作といわれたものには、「朝風のはなし」、「子供のデッキ」などの短
篇作がある。作者が長年その構想をあたためていたことは間違いないだろう。
今年(2011)の 8 月 29 日(月曜)夜、大阪の梅田芸術シアター・ドラマシティで行われた、東
日本大震災復興支援チャリティー公演「『星の牧場』朗読劇 朗読と歌とダンス」を観た。二
時間にわたる朗読劇は、庄野英二の原作と高木史朗の宝塚版脚本を基にして作られた萩田浩一氏
の上演台本・演出で、元宝塚歌劇団雪組トップスターの女優朝海ひかる氏の朗読と、同団元花組
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トップスターの女優春野寿美礼氏の歌、そして若手ダンサーの佐藤洋介氏のダンスパフォーマン
スによって構成されている。
当日のパンフレットによると、「喪失の痛みと限りない平和への祈りが根底に流れる本作品は、
このチャリティー企画にふさわしく新しい名作となって甦ることでしょう」
(梅田芸術劇場の社長
小川友次氏の「ごあいさつ」より)というのが、この企画の趣旨である。
庄野英二は宝塚歌劇団と深い縁をもっていた。『星の牧場』が出版されたとき、いち早く高木
史朗に贈った。高木史朗とは、関西学院大学哲学科で共に学んだ同級生で、戦後、フランスのレ
ビューを取り入れた新進の気風で宝塚歌劇団の黄金時代を築きあげた劇作家、演出家である。関
西学院大学を出ると、高木は宝塚歌劇団に入り、庄野は間もなく兵士として戦場に連れてゆかれ
てしまった。高木は戦場にいる庄野のために、生徒諸嬢と千人針を作って庄野に送った。庄野は
そのことについて後に、「弾丸が夜・昼となく飛んでくるざんごうの中で、その千人針を握りしめ
て死の恐怖をしばしば忘れようとしていました」と、「1971 年 4 月宝塚歌劇パンフレット」「「星
の牧場」原作者のことば」の中に述べている。あの戦争の悲惨さを知る親しい間柄である。
庄野英二は『星の牧場』の創作について、上記のパンフレットの中に次のように語っている。
この物語の生まれる何年か前から、私は夏になると浅間山麓の高原で過すことにしていま
した。貧しい引揚者の開拓民だけが火山岩だらけの大地にしがみついていた当時でした。
私は朝早く霧の中の小道を散歩していると、朝風が吹いてきて朝霧をけちらしていきます。
霧の散ってしまった草原には目路の限りにニッコウキスゲの花がゆれていました。
私はニッコウキスゲを見て、これはゆうべの星がそのまま草原に残されているのではない
かなどと空想したりしたものです。
私は生涯に、たった一篇でよいから楽しくて美しい童話を書いてみたいと願っていました。
(中略)
長い戦争の間中も、ずっと私はよい童話を書きたいという思いを忘れたことはありません。
(中略)
今回の宝塚公演では、私は高木君に、
「高木史朗の「星の牧場」を作ってください」と頼み
ました。私は彼がどんな楽しい舞台を作ってくれるか愉しみでなりません。
『星の牧場』は、原作者である庄野英二が長年願ってやまない「楽しくて美しい童話」として書
かれた。これが『星の牧場』の基調になっていると、理解する必要がある。
2. ジプシーの世界は「桃源郷」で終わらない
では、
「生涯に、たった一篇でよいから楽しくて美しい童話」を創るのに、何をテーマとし、
「素
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材」として選択されたのか。作品の内容に従って確認したい。
まずテーマとして、
①戦争から復員できた若者モミイチの精神崩壊から人間回復への過程
②戦争から復員できない軍馬ツキスミへの深い思念
①は、戦争体験者だからこそ書けたことであろう。②は、戦争被害者の立場で書かれているこ
とである。
そして素材として、
記憶喪失の復員兵モミイチ、軍馬のツキスミ、村人、クラシック音楽、自給自足の自由人であ
るジプシーたち、山奥の美しい自然、戦友など、列挙することができる。
換言すれば、復員兵「モミイチ」は主人公で、戦争による人生の「喪失の痛み」を抱えている
人物像として描かれた。軍馬「ツキスミ」は「戦争の犠牲者」あるいは「郷愁」として、「村人」
は戦後直後の日本国内の「空気」として描かれたように思われる。一方、
「ジプシーたち」は「自
由な生き方」のモデルとし、「クラシック音楽」は一種の「豊かな精神性」あるいは「癒し機能」
とし、「山奥の美しい自然」は「桃源郷」として読むことができる。
モミイチはジプシーたちの世界に迷い込んで現地の人々と楽しんだあと、ツキスミの駆ける蹄
の音に導かれてふらふらと村に戻った。その後、再びジプシーの世界に戻ろうとしたが、その世
界はすでに消えてなくなり、戻れそうもない。この流れは、陶淵明の「桃花源記」のストーリー
構成に酷似している。
中国文学者一海知義氏は、
「桃花源記」を語るときに、このユートピア物語の特徴を次の三点に
まとめている(参照 :『陶淵明 虚構の詩人』、岩波書店、1997 年)。
①戦争のない平和な社会
②老人や子ともなどの弱者が大事にされ楽しく働いている環境
③階級のない山村風景のユートピア
これで庄野英二のジプシーたちの世界を考えてみると、仮に庄野英二の描くジプシーのいる不
思議な山奥を「桃源郷」とするならば、善良で音楽の好きなジプシーたちは「桃源郷」の住民に
なる。彼らは四季の摂理に逆らわず、美しい自然に抱かれて各々の能力を生かしながら自給自足
の生活を営んでいる。争いも虐めもなく、
「働くこと」と「楽しむこと」をバランスよくこなして
いる。彼らは生きるために働くが、欲望のためには働かない。精神的自由な民と言えよう。庄野
英二の描きたいのは、まさにこのような精神的自由で素朴な田園風景の「桃源郷」の世界ではな
いだろうか。
さらに、つぎのような仮説(二点)も考えられる。まず、庄野英二は陶淵明の「桃花源記」の
構成からヒントを得た。あるいは『星の牧場』のはなしの流れをわざと「桃源郷」に似せること
で、ジプシーの世界は「ユートピア」であるということを暗示しようとしたのかもしれない。も
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うひとつは、「桃源郷」の住民はもともと戦乱から逃れた民である(「桃花源記」の原文の内容に
よると、このときから五百年以上も前にあった「秦の時の乱」を避け、妻子・村人を率いてここ
に来た。以来この絶境から一歩も出ずという)。このことからも、創作のヒントを得たのではない
だろうかと、筆者が推測する。
ところが、
『星の牧場』は「桃源郷」で終らない。モミイチはあまりの「郷愁」で、結局、少な
くとも彼の「体」は、「桃源郷」から現実の「村」に戻ったのである。そこに作家庄野英二の現
実的な姿勢が見られる。しかし、モミイチの「こころ」は、「体」から放れて永遠に「星空」を
憧憬するところで終幕。この一見相反する「現実」と「虚構」の二面性を、もちろんモミイチの
「病気」で片付けることはできない。「現実」に身を置きながら「虚構」の世界へ自由に往来する
のが、作家庄野英二の本望ではなかろうか。
3. 庄野英二の深い「ためいき」
『星の牧場』の 115 章から 116 章に続いて、次のようなくだりがある。下記の江藤の台詞の部分
に留意しつつ、読んでゆくことにする(下線は筆者)。
オーボエがいそいでものをいおうとしてどもるところは、兵長の江藤にまったくよくにて
いたが、江藤兵長にまるでにていないところもあった。それは、かれのつぎのような話のな
かみである。
「−おれが、そもそもジプシーになったのも、人間のさびしさをまぎらそうとするためで
あった。ひととはなれて山のなかをさまよっていることは、そりゃさびしいさ。しかし、人
間てものは、人間と人間といっしょにくらしていてもさびしいもんだから、しょうがねえな
あ。はやくあきらめてしまって、雲や小鳥や星たちとなかよしになっているほうが、いくら
かましかもしれねえ。おれがオーボエなんてけいこしはじめたのも、いや、おれだけじゃね
え、ジプシーたちがみんなそろって笛をふいたりラッパをふいたりするのは、みんなちから
いっぱいためいきをついているみたいなものなのだ」(115 章)
次の 116 章に、江藤のその話を聞いたモミイチは不思議に思いながらも、何となくわかること
もあるとはなしが続く。まるで江藤の話によってもたらされた緊張感を緩めるかのように、著者
ははなしに「暈し」を施した。115 章あたりまで続いてきた楽しい音楽の話のなかに、突然「さ
びしい」を連発し、ちょっと深刻な「ためいき」の台詞が挿入されたからであろう。これを読ん
だ時、私はハッとさせられた。ジプシーたちは「みんなちからいっぱいためいきをついている」
のだ ! なるほど、作中のジプシーたちは単なる平和な「桃源郷」の幸せな住民ではない。むしろ
前述した「戦乱から逃れた」という含みをもった、ひとりひとりに影法師 「戦友のたましい」
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がついている。作家庄野英二は渾身の力で「楽しく美しい童話」を書こうとしたが、思わず「人
間ってさびしいもんだ」と、深いため息をついてしまった。しかしそれは社会や歴史への「批評」
ではない、むしろ極力そうならないように努めているのが、
『星の牧場』である。原作を一節、一
節ゆっくりと中国語に翻訳している間に、ようやく気付いたことである。
Ⅲ .『アレン中佐のサイン』に関する考察
1.【問題提起①】メエルモウチョという架空の地名について
「メエルモウチョという架空の地名以外は、アンボン、マカッサル、ケンダリー、ラハ、パロッ
ポ、ワタンボネ等々、作中の主な地名は、何れも地図に存在しています」と、作者庄野英二は、
初版本の「あとがき」に記している。それは、この本の挿絵を描いた深沢省三に「庄野さん、メ
エルモウチョは、一体、ジャワのどこにあるのでしょうか、私はもうこれで三日間も地図を探し
ているのですが見つかりません」とたずねられたので、作者が説明した内容である(p.238)。
では、なぜ作者が「メエルモウチョ」だけを架空な地名にしたのか。
p.17「メエルモウチョ・キャンプ」は、第 3 章のタイトルになっている。
p.18 に「ジャワ島東部メエルモウチョ収容所長に任命された」とある。
メエルモウチョ以外の地名は、いまの読み方と多少の差異があったとしても地図に「実在」す
るものである。それに対して、この小説のメーン舞台である俘虜収容所の所在地であるこのメエ
ルモウチョという地名が、「虚構」のものになっている。それは、また何故か。
庄野英二は、この「歴史的事件」をドキューメンタリーとして書くのではなく、
「小説」にす
るために、最も具体的な部分をフィクションにしなければならなかった。一方、「小説」をリア
リスティックな描写にするために、俘虜収容所の所在地である「メエルモウチョ」以外のすべて
の地名を、地図に実在するものにする必要があった。言ってみれば、p.18「ジャワ島東部メエル
モウチョ俘虜収容所」の「ジャワ島東部」という範囲までが「実」でよいが、「メエルモウチョ」
という在所だけが「虚」でなければならなかった。
換言すれば、ある肝心な部分を「虚構」の世界にすることによって、その特殊性や偶然性から
脱出させ、「事件」に普遍性をもたらすことが可能である。そして、「虚構」の世界を迫真に描い
て見せるために、逆に「実在」の要素をなるべく多く取り入れることで、
「小説」にリアリティー
を持たせることができる。つまり、真に見えて嘘であり、嘘のようで真である。虚実を渾然一体
にさせるのが、
「実」と「虚」の世界を自由に行き来したい作家の望むところであり、腕を見せる
仕掛けであろう。
2.【問題提起②】聖書「ヨブ記」と「詩篇」の引用について
『アレン中佐のサイン』の第 16 章は、「ヨブ記と詩篇」である。これは、連合軍の俘虜たちが
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次々と過酷な環境のなかで命を落としていった、人間としての自制心を保つのに非常に難しく
なった場面のすぐあとに設定された章である。極めてきびしい情況に置かれた主人公アレン中佐
の描写は、次のとおりである。
p.82「灯油の芯のゆれている小さな光りの中で聖書をひらいていた」
p.83「アレン中佐は、アンボン島へきて以来、ヨブ記と詩篇ばかりを読みつづけていた」
p.84「夜毎、うめくような声をあげ、涙を浮かべてヨブ記と詩篇を読んでいた」
この章は、全部で 9 ページ(p.82 〜 p.90)あるが、
「ヨブ記」と「詩篇」の引用はそのうちの 7
ページ(p.84 〜 p.90)を占めている。つまり、章の内容のほとんどが聖書の引用になっている。
作者は、それほどの紙面を費やして何を伝えようとしているのか。そして、引用された「ヨブ記」
と「詩篇」の内容は、主人公アレン中佐の人物作りにおいてどのような含意が持たされているか、
考察する必要がある。
では、聖書の「ヨブ記」と「詩篇」は、どんな書なのか。まず聖書とその解説書を基づいて説
明を試みる。
「ヨブ記」は、主人公の名をとって名づけた書である。最初の 2 章と終わりのことばを除けば、
全篇、詩の形で成り立っている。ヨブ記は人間の苦しみという問題を取り上げた書で、庄野の文
中にも「ヨブ記は試練の書」と語っている。
ヨブのストーリーを要約するとこうなる。正しい幸せな生活を送っていたヨブの上に突如とし
て大きな不幸が襲いかかった。ヨブの不幸を慰めに来た三人の友人がいた。
「正義の神がなぜ正し
い人を苦しめられるか」という疑問が、全篇の論争の始まりになっている。この論争ののち、エ
リフという男が登場し、神の行為を弁護して、
「苦しみは人にとって教えであり薬である」と述べ
る。その後、嵐の中から神自身が現れヨブに話す(ヨブ記の第 38 章から 42 章 6 節)。最後にヨブ
はその大きな不幸に耐えた報いを豊かに受けたことが語られる。
この書の提示された問題は、「罪なき者が苦しむ」ことと、「人間の苦しみの価値を知る」こと
にある。
ヨブは、アラビアとエドムの国境の地に住んでいたとされている。「ヨブ記」の作者(名不詳)
は、ヨブを「人間の模範」として示そうとした。
この「人間の模範」であるヨブは、庄野英二に引用された「ヨブ記」第 40 章と第 42 章の中に、
どのように描かれているかを見てみよう。
「ヨブ記」第 40 章
そこで、ヨブは主に答えて言った。
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(4 節)「見よ、わたしはまことに卑しい者です。
なんとあなたに答えましょうか、
ただ手を口に当てるのみです。
(5 節)わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
上記の「ヨブ記」の第 40 章 4 − 5 節に、神に対して、ヨブの態度が変わりはじめていることを
示している。ヨブは自分の卑しさを認め、神に対していかなる苦情も言うまいと誓う。ヨブは謙
虚に神に服従する状態へ近づいている。
「ヨブ記」第 42 章 1 − 6 節
「…わたしはあなたの事を耳できいていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
ヨブは神の神秘を知り、その全能を礼拝する。神がなさったことを人間に神自身が説明する義
務がないこと、神の知恵は苦しみと死という事実にも、人間の考え及ばぬ意味をもたせうること
をヨブは悟った。
一方、庄野英二に引用された「詩篇」第 136 〜 138 章は、神への賛美と感謝の歌である。
「詩篇」の詩は、ダビデの時代(西暦前 10 世紀)からほとんどマカバイ時代(前 2 世紀)まで
の間にうまれたものである。「詩篇」は、神に対する人のとるべき態度を教えているという。その
ために、昔から「祈り」として歌われている。
聖書には、
「ダビデの作と言われている詩篇の大部分は災難、病気、迫害のときなどに、神の助
けを祈る詩である」との解説がある。同じ聖書の解釈によれば、第 136 章は「感謝の連祷」、第
137 章は「囚われ人の歌」(捕虜の歌)、第 138 章「ダビデの詩」は「感謝の歌」となっている。
3. Ⅲのまとめ
若き日からキリスト教の精神に魅かれていた庄野英二は、
「試練の書」である「ヨブ記」と「祈
りと感謝の書」である「詩篇」を通して、俘虜の将校アレン中佐をヨブのように如何なる「試練」
をも乗り越え、神への感謝を忘れず、信仰を守る「人間の理想像」として描こうとした。庄野英
二は次のようなことを後世に伝えようとした。
まず、アレン中佐のような豊かな知性と理性を併せ持った俘虜将校の存在が、戦時中の日本俘
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虜収容所の正常な運営を可能にしたこと。
そして、俘虜収容所長椎崎中尉は、一軍人として陸軍司令部の命令を忠実に従いながらも、戦
時中の日本陸軍司令部と憲兵の無責任や横暴に対して心底からの嫌悪感を現わしていること。
さらに、椎崎は極めて困難な情況におかれているが俘虜の生命を守ることにベストを尽くそう
と苦闘していた。椎崎中尉(後に大尉に昇格)とその部下の懸命な仕事ぶりを見てアレン中佐を
はじめとする連合軍の俘虜たちは、椎崎らに信頼を寄せ協力もしたこと。
終幕に、日本軍が敗れて第二次大戦が終った。別れ際にアレン中佐は、椎崎所長に握手をもと
め、感謝の言葉を述べた。そして椎崎とその部下の身の上を案じて、
「椎崎大尉とその部下たちは、われわれ連合軍俘虜を保護するために、極めて困難な状況の中
にありながら、始終誠意をもってあらゆる限りの力をつくしたことを証明する。
一九四九年八月三十一日
メエルモウチョ俘虜収容所 俘虜代表 アレン中佐」
(p.234)
という「サイン」を残したこと。
慈愛の満ちたアレン中佐の行動(サイン)によって、俘虜収容所長椎崎をはじめその部下の人
間性が肯定され、戦後における彼らの人生にも一条の陽光が見えたこと。
と、庄野英二はたとえ戦時中であっても、敵味方の立場に置かれたとしても、
「善」たる人間性
は失われることなく、それを戦後につなげる「希望」として書きたかったのではないだろうか。
Ⅳ . 学院大学図書館蔵「庄野英二文庫」に見る作者の戦後と初期の創作活動
1. 枡居孝 著『太平洋戦争中の国際人道活動の記録』(日本赤十字社、平成 5 年= 1993 年 3 月)
太平洋戦争中、俘虜を扱う国際条約や、終戦間際の俘虜収容所の問題などの報告、資料、文
書。これは、庄野英二が生きた最後の年の 1993 年 3 月に刊行された書物だが、生前に入手し読
まれたと思われる一冊である。
『アレン中佐のサイン』の描かれた事情とよく似た、当時の俘虜収容所長の事例が掲載されて
いる。(p.163 〜 p.164)
「昭和十八年、山口県下松市の日立製作所笠戸工場にオランダ人捕虜百五十四名が送られ
てきた。この管理に当たったのが、福岡県俘虜収容所第七派遣所長の調正路陸軍中尉であっ
た。彼は国際俘虜取扱規則(注=俘虜条約)に準じ、捕虜の人権を重んじ、病人に十分の配
慮をなし、日常の食物配給に心をくだいた」。
ところが、戦争たけなわで日本人自体が食料に事欠く時代のこと、何かにつけて捕虜を優
遇しすぎる、はては敵に通じているのではないか、など密告者がいたりして、憲兵隊の知る
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庄野英二文学の原点
ところとなった。以下は憲兵隊発行の文書から。
『之等俘虜は極めて怠慢にして常に三十名乃至五十名の休労者ありたるのみならず、その態
度傲慢にして警備員の指示に従わず事毎に反抗的なれば、山口県に於いて内偵したるに中尉
は基督教信者にして其の心中深く抱持せる外国崇拝の観念基き必要以上の厚遇を為したる結
果なること判明』
このような憲兵隊の態度硬化に対して、時の西部軍福岡俘虜収容所長は、一部始終を理解
して釈明の労をとり、捕虜の一軍医は日本に来る以前のジャワ収容所時代すでに栄養悪化の
実情を説明、事なきを得た。
長い戦争は終わり、事態は一変した。俘虜収容所長の処刑がつづいた。その時、かつての
捕虜たちは、調中尉の身の上を案じた。しかし、告発者はなく、大事に至らなかった。
長崎県 豊原敏郎 65 オランダ村の教会牧師
▼調正路さん(73)は、沖縄県石垣市でパプテスト教会の牧師として健在。沖縄本島の那覇
市で二十五年間牧師をした後に石垣島に移り、
七年になる。「人の行かない所に」と自ら希望
したという」
2. 庄野英二 作「ドラマ 奇妙な航海」(放送日未定とある。全 p.74 のガリ版印刷の台本)ネッ
ト検索によると、1978.12.02 ラジオ劇場で放送されたとの情報があった。制作年不詳)
終戦直前、爆弾で沈没した日本の輸送船に乗っていた二人の日本兵椹仁吉と青島武夫は、子ど
もばかりの島に漂流された。その島で二人はしばらく滞在した。島の子どもたちに好かれ、その
島に留まるように望まれたが、二人は島を出た。次に辿り着いた島は若者ばかりの島だった。そ
の島で椹が島の乙女と恋に落ちそうになったが、青島は「日本軍に帰らなきゃ」と、椹が島の娘
と結婚することをやめさせ、二人は島を出た。最後に辿り着いたのは老人ばかりの島だった。結
局、二人は海辺に流されて倒れて気を失った。たまたま通りかかった復員船の日本軍に拾われてギ
リギリのところで帰国することができた。あと一週間も遅かったら、復員船が引き揚げてしまっ
ていたのだ。しかし、彼らの島々での奇妙な体験は周囲に理解されないばかりか、マラリヤにか
かった二人は、終戦のことも今日は何日かも分からず、精神異常者と疑われてしまったところで
幕が下りる。
3.『帝塚山学院四十年史』
(昭和 31 年 =1956.11.1 発行、帝塚山学院四十年史編集委員会)
・p.146 〜 p.148「芸術祭」:
「劇『最後の授業』(月曜物語より)中高劇部(作 庄野英二 / 演出 河辺真平 / 装置 芝田真
珠郎 / 特別演出 泉田行夫)」
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人間科学部研究年報 平成 23 年
・p.199 〜 p.200
「戦後、学院演劇の復興に、いち早く手をつけたのは、庄野英二教師である。
学院演劇陣はいま素晴らしく充実している。作家として長沖一、庄野英二、演出方面では
河辺真平、高田英子、岡田郁、四方綾の諸教師がおり、協力者として演出の泉田行夫、舞台
装置家芝田真珠郎、照明家岡田猪之介の諸氏がいる。
卒業生でこの方面に活躍している者に、放送関係の石浜裕次郎、庄野至、土井愛子、井口
綾子…などの諸君がいるが、まだ他にもいるのではないかと思う」
・p.202「文学」:
「わが学院には、文学関係者が多い。長沖一、小野十三郎、寿岳文章、田中克己、佐沢波
弦、杉山平一、庄野英二、藤沢桓夫、今東光などの教師または講師を数えることが出来る。
卒業生では、庄野潤三、石浜恒夫両君の活躍は特に目立っている」
まとめ
上述してきたように、
『星の牧場』と『アレン中佐のサイン』は、庄野英二文学における代表作
である。戦後、著者が復員してから 17 年後の 1963 年に出版された『星の牧場』は、戦争体験に
よるこころの痛みがまだ癒され切れず、戦争のショックによる記憶喪失の青年主人公モミイチを
通して、ひとりの人間の持ついつまでも消えない精神的な苦痛と「理想郷」への憧憬を描いてい
る。『星の牧場』はある意味で、戦争で失った友と馬への「鎮魂歌」とも読める。
『星の牧場』が世に出てから 9 年後の 1972 年、『アレン中佐のサイン』は岩波書店によって刊
行された。戦時中、同じく俘虜収容所の所長を勤めた庄野英二は、最晩年まで俘虜に関する事実
を記録した資料を読むのをやめなかった。『アレン中佐のサイン』の創作動機について、「どうし
ても書かなければならない」と語る庄野英二の言葉に、一種の義務感さえ読み取れる。当時の時
代風潮から見て、たとえ世間の無理解や批判などを受けても、「書かなければならない」。すなわ
ち、作家生命をかけてもとの覚悟を持って書かれた作品とも言える。
著者が作家生命をかけても書いておきたいのは、
「人間肯定」であろう。時代や国を超えた善た
る人間性を謳歌するためである。
事実として、著者は復員してから 17 年目に『星の牧場』を、26 年目に『アレン中佐のサイン』
を世に出した。戦後四半世紀を経て、著者は「ためいき」を漏らした「鎮魂歌」から、つよい意
志を込めた「人間礼賛」に変化した。つまり、ひとりの作家として「脱皮」し、更なる成熟の段
階に入ったと言える。
『星の牧場』は「童話」で美しいファンタジーとすれば、『アレン中佐のサイン』は、リアリ
ティックな描写の詰まった「小説」である。両作品の背景に、共通した戦争体験がある。戦後、
庄野英二は教育者でありながら多作の作家であった。私たちはこの二つの代表作から作家・庄野
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庄野英二文学の原点
英二の成熟の軌跡を辿ることができる。庄野英二文学の原点がそのなかに内包されていることも
記憶しておきたい。
(本論文は、2011.5.7 大阪狭山市公民館で行われた帝塚山学院大学・大阪狭山市成人大学講座
「帝塚山学院ゆかりの作家」第 1 回目の内容を基に大幅な加筆修正したものである。)
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